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トロリーバスの手摺は冷たい
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メモ、雑記
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mustachekiwi · 2 years ago
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浦沢直樹は崖職人
この世には二種類の人間がいる。風呂で本を読む人間と、読まない人間である。
後者は口を���えて言う。「本がふやけちゃう」「落として濡れたりしたらやだ」
前者は言う。「それめっちゃわかる」
風呂で本を読まなければならない理��は別にない。しいて言うなら、ただ浸かっているだけだと飽きてすぐ上がりたくなっちゃうからかな。 お風呂好きな人は、お風呂に使っている時間そのものを楽しむのだろうが、風呂漫画好きは、風呂に入ってる間なんだか手持ち無沙汰だから漫画を読んでいるのではないだろうか。長風呂も好きだし、漫画も好きだから、両方一緒にやっちゃえ~みたいなタイプもいるかもしれない。
私は風呂漫画派の父の背中、もとい、背表紙を見て育った。 父は漫画がないと風呂に入れない体質だった。(現在は普通に入れるようになったらしい。)
いつも自分のブログには金玉の話とかボタン電池飲んだ話とかあまりにも取り留めのない話ばかり書いてしまうので、たまには人様の役に立つ記事でも書くかと思い立ち、今回は私が独断と偏見で選ぶ「風呂で読むのにいい感じの漫画5選」をご紹介したい。
鎌倉ものがたり(西岸良平)
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最初にご紹介するのは、ハンサムなミステリ作家の一色先生と童顔の妻・アキコの二人が、人間と妖怪(またはそれに類するもの)が共生する鎌倉の町で、毎度なんやかんや事件に巻き込まれる漫画『鎌倉ものがたり』だ。
作者の西岸良平の代表作『夕焼けの詩』は『ALWAYS 三丁目の夕日』として映画化されているし、あの特徴的な輪郭のキャラクターたちを見れば「あ〜この絵、コンビニの分厚い漫画で見たことあるわ〜」という人もいるはずだ。『三丁目の…』の映画のイメージから、なんか昭和のノスタルジー的な漫画を描いている印象が強いかもしれないが、『鎌倉ものがたり』は時代設定が現代で、バリバリ時事ネタも取り入れられている。何より、西岸良平の最大の武器(私調べ)であるオカルト要素が満載であることを強調しておきたい。人間ならざるモノが持つ怖さ・優しさ・不気味さ・可笑しさを絶妙なバランスで物語に入れ込んでくる。さすが西岸良平。よく知らないけど。
ちなみに実家にはなぜか鎌倉物語の4巻と5巻だけがあり、小さい頃から何十回も繰り返しお風呂で読んできたので、風呂漫画といえば真っ先に一色先生の顔が浮かんだ。特に心に残っている話といえば、鎌倉中の有名な僧侶たちを殺しまくる残忍な魔物が出てくる第51話「地上最強の魔物」(第5巻収録)で、小2の私は「煩悩」という言葉の意味をこの漫画から学んだ。ありがとう光輪和尚。ずっと大好きだよ。
西岸良平の絵は一目見ただけでこの作者の作品だとすぐにわかる「クセがすごい」タイプの絵で、不思議な魅力がある。キャラクターのほとんどは長靴みたいに顔の下部がぽっこり左右のどちらかに突き出しているフォルムで、頭身も三頭身くらいのめちゃくちゃデフォルメされたキャラクターデザインなのだが、ハンサムはハンサムに、美女は美女に見えるのがすごいし、キャラクターの描き分けが半端ではない。目・輪郭・髪型には何パターンかあって、アバターのようにそれを組み合わせているのだが、ちゃんとキャラが一人一人立っているのが本当に不思議だ。
何巻から読んでも大丈夫なので、早速コンビニの分厚いやつを買ってみてくれ!(廉価版のほうが濡れたときの精神的ダメージが小さい。)
私のお気に入りエピソードは、第61話「遺産相続人」(第6巻収録)、第300話「ハンプティ・ダンプティ殺人事件」(第6巻収録)、第347話「魔界転生II(猫編)」(第6巻収録)。
リストランテ・パラディーゾ/GENTE(オノナツメ)
この漫画を読んだ私の友人の感想は、大体次の3種類しかない。
「ジジがかわいい」
「テオが性癖」
「ジジがかわいい」
「ルチアーノはもっと押せばいける」
「ジジがかわいい」
そう、この漫画は、つまるところ、ジジがかわいい漫画なのである!
皆さんにとって「ジジ」といえば、「私、魔女のキキです。こっちは黒猫のジジ!」のジジでしょうが、我々の業界でジジといえばソムリエのジジ、つまみ食いのジジ、まかないでめっちゃいいワイン開けちゃう初老のジジです!
でも、レストランの漫画だったら、読んでるとお腹すいちゃうんじゃない?僕は食後にバスタイムってタイプだから食欲をそそるような漫画ちょっと……。
ご安心あれ!! この漫画に出てくる料理は一つも食欲をそそらないし、別に美味しそうに見えない!ジェラートも、なんか四角い。(でも、本格的なイタリアンジェラートって、31みたいに丸く盛り付けないで角ばった感じでよそってくれること結構あるよね。ないか。)
これはオノ・ナツメの画力の問題ではなくて、料理が美味しそうかどうかはあんまり関係ないからである。この漫画で大切なことは何か。老眼鏡をかけた初老の紳士たち(複数形)である。 老眼鏡の初老の紳士が料理したものを、老眼鏡の初老の紳士がサーブする。それだけで、いいッッッ!!!!!!!
先に連載されたのは『リストランテ・パラディーゾ』で、アニメもこのタイトルだったため、本家はリスパラ、『GENTE』は番外編扱いらしい。物語の中の時系列はGENTE→リスパラ→GENTEだけど、読む順番はどっちが先でも大丈夫だよ!
読み終わった方は、どの紳士の虜になったか教えてほしい。
私?愚問!ジジに決まってんだろ!
マリーマリーマリー(勝田文)
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作者の勝田文の作品にはお風呂で読みたいものが多い。線はシンプルなのに画面がにぎやかでかわいく、コミカルな話の展開の中に差し込まれるロマンチックでちょっぴりエモーショナルなモノローグが胸に染みる。夕方や夜のバスタイムにはぴったりだ。一話完結型なのもお風呂向きな点である。
主人公は針の先生リタとギタリストの自由人・森田さんの新婚カップル。松田聖子もビックリのビビビ婚(古っ)で結ばれた二人の、ドタバタのほほんキュートアンドエキサイティングな日常を描いた作品である。
勝田文の漫画は、その緩急がたまらない。わちゃわちゃコメディ展開が続いていると思ったら、急に心にじんわりとクるシーンが差し込まれてきたり、いつも何を考えているのかわからないテキトーな森田さんがその顔面のポテンシャルを最大限に活かしたハンサムムーブで魅せるセクシーな雰囲気にきゅうううううんとさせられたり、とにかく心臓が忙しい。
笑える話、優しい話、切ない話、どんな回でもマリーマリーマリーは読後感がいい。こういうところもお風呂向きな漫画である理由かもしれない。
この作者といえば『あの子にもらった音楽(愛蔵版)』もお風呂漫画としては捨てがたいのだが(通算20回くらいお風呂で読んだ)、コミックスがかなり分厚いので、風呂ではちょっぴり読みにくい。愛蔵版とか完全版とかはたいてい風呂向きではない。文庫版はいいよね。
岸辺露伴は動かない(荒木飛呂彦)
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漫画好きを自称しながら実は読んでこなかったモンスター級冒険漫画『ジョジョの奇妙な冒険』、結局読んでみて、一番好きになったのが第4部に登場する漫画家・岸辺露伴だった。ネットミームと化した有名過ぎる台詞「だが、断る」でお馴染み���人気キャラクターである。ここで紹介する『岸辺露伴は動かない』は『ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフ作品、好奇心旺盛過ぎるが故にやばいことに巻き込まれがちな露伴先生の冒険譚である。
ちなみにジョジョが敬遠されがちな理由の一つに、シリーズが長すぎて最初から読む気がしないというのがあるが、ご安心あれ。このスピンオフはジョジョ本編を読んだことがなくても、楽しめる作品だ。
荒木飛呂彦の漫画は、視覚的に情報量が多すぎるのでお風呂でリラックスして読むような漫画じゃあないよな、とは思うものの、一話で完結してくれるという安心感を支えに読み切ることができる。あと、露伴先生が狼狽えている姿を見るのは、なんか、こう、あれだ、グッとくる。
血がいっぱい吹き出したり、謎の虫がいっぱい蠢いていたり、身体を鍛えすぎて人格が壊れてしまう人が登場したりするので、ショッキングな描写が苦手な人にはお勧めできないが、異常現象とか都市伝説とかそういうものが大好きで、お風呂タイムをゾクゾクとワクワクで満たしたい人にはぴったりな漫画だろう。
このスピンオフ漫画は残念ながら2巻までしか出ていないので、露伴先生のお話がもっと読みたい!と思ったら今年実写映画化もされた『岸辺露伴ルーヴルへ行く』や小説版のスピンオフシリーズも読んでみてくれよな。(実は結構小説版が好き。)
ミワさんなりすます(青木U平)
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入浴時間は人によって違うので、キリの良いところでお風呂から上がれるように、ここまでは基本的に一話完結型の漫画をお勧めしてきたわけだが(リスパラはそうでもないが)、この『ミワさんなりすます』は続きがめっちゃ気になるタイプの漫画だ。
この物語において、「映画」は非常に重要な存在である。そして、この作品そのものが、多くの「魅せゴマ」や文学的なモノローグといった漫画的表現で「映画が持つ魅力」を描こうとしている(気がする)。説���的なセリフは少なく、絶妙なコミカルさと程良いスリルが詰まったストーリーにどんどん引き込まれ、知らないうちに読み終わってしまっている。しかし、印象的な場面(コマ)は、確かにあなたの脳裏に刻まれている。映画館から出た直後の、少し地に足がつかない、あの感じだ。これは、読む漫画じゃなくて、観る漫画だ!だから続き物でもお風呂で安心して読める、はず。
あらすじは書かないから、とりあえず第一話を着衣のまま読んでみて、気になったら続きは裸で読んでくれ。(四話まで読めるよ↓)
ミワさんなりすます — pixivコミック
(知らない間にドラマ化していたらしいけど、俺は見んぞ!)
番外編:お風呂で読んだらしんどい漫画5選+殿堂入り
『銀魂』空知英秋 字が多い。字が小さい。ギャグ回かと思いきやいきなりシリアスな長編バトル展開に入るので油断できない。私は服部全蔵が好きです。
『ジョジョの奇妙な冒険』荒木飛呂彦 スタンド使いのオランウータン(3部)とか水を自由に移動できるスタンド(4部)からの攻撃が怖くて入浴中全然リラックスできない。とにかく長い。
『青野くんに触りたいから死にたい』椎名うみ シャンプーしてる時、後ろが怖くなる。「いーれーて」って言われても入れちゃだめだよ……。
『血の轍』押見修造 この漫画はいつどこで読もうがしんどい。気分が落ち込んでる時には読んだらあかんで。
『ひとりでしにたい』カレー沢薫・ドネリー美咲 めちゃくちゃギャグテイストが強いけれど、孤独死や終活をテーマに社会制度や人との関わり方を冷静に読み手に突きつけてくる漫画なので、とにかく入浴との相性が悪すぎる。 一巻の叔母さんの孤独死の話はトラウマになる。
浦沢直樹全般(殿堂入り) クリフハンガー*がうますぎて、読み終えるタイミングを失う。とにかく物語の続きが気になりすぎて、風呂上りも服を着ずに読み続けてしまうので、湯冷めすること必至。まとめ買いするか漫喫とかで一気読みしたほうが良い。
以上、私の独断と偏見で選んだお風呂漫画5選でした。 最近は防水のKindleペーパーホワイトの導入を検討するなど、風呂漫画もデジタルに移行しようとしております。
みんなもおススメの風呂漫画があれば、教えてくれよな。
*映画やドラマなどにおいて、物語が気になるところでわざと終わらせる手法。日本語の「引き」。(クリフハンガーの原義は解釈を観客に委ねるような結末の見せ方だだそうです。)
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mustachekiwi · 2 years ago
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水色のランドセルでヒョードルの夢を見る
言ってみろ、お前のお空は何色だ!
通っていた保育園の卒園アルバムの表紙には、園児がそれぞれ自分で描いたイラストが使われた。一人一冊、オリジナルのアルバム、なかなかオサレである。
1990年代当時、跳躍力といえばシカゴ・ブルズのデニス・ロッドマンか私か、という時代であった。私は自分が跳び箱を勢いよく飛び越える絵を描き、空を黄緑に、雲を水色に塗っていた。
すると先生が来て「ねえ、青空っていうくらいだから、お空は黄緑じゃなくて青じゃない?」と言った。
その頃、画家である父親が開いていたお絵かき教室に通っていた私は、その言葉に眉をひそめた。父はいつも「手を抜くな、てきとうに描くな、丁寧に描け」と口を酸っぱくして言っていたが、「○○は××色で塗れ」などと言ったことはなかった。だいたい、どうして先生に見えている空の色が、私にも同じように見えていると思っているんだ。空はいつでも青いわけではない。私は黄緑の空を見た。確かに見た。見たんだもん。トトロいたもん。先生がそういう空を見たことがないだけだろ。
当時”悪童”といえば、ロッドマンか私かという時代であった。ロッドマンは「さすがにレインボーの髪はおかしいんじゃない?」と誰かに言われてもそのクレイジーなスタイルを決して崩さなかった���ろう。私も己の信念に従い、空を黄緑色に塗った。6歳の私、グッジョブである。自分で自分の色を選ぶということは、小さな人(子ども)にもできる、数少ない自己表現だ。幸い、家の中では、父も母も、青や水色のような「男の子の色」が大好きだった私に「女の子の色」を押し付けてくることはなかった。
だからこそ、家の外へ一歩出た時、周りの人間が私の選ぶ色について「女のくせに」と言ってくることは、耐え難い屈辱だった。
まともな奴ほどFEEL SO BAD!
卒園後、私は自ら選んだ水色のランドセルで小学校へ通った。
今でこそランドセルのカラーバリエーションは豊富だが、私が小学生の時は、男児は黒か紺、女児は赤かピンクで、それ以外の色はほとんど見なかった。当然、水色のランドセルは目立った。
「お前、女のくせになんで水色のランドセルなんだ」
同じ登校班の子供たちや、同級生、知らない上級生にまで色々言われてからかわれた。
言われたらとりあえず暴力で応えた。殴る蹴る首を絞める。「力こそが正義!私はこの水色ランドセルに全てを懸ける運命の『殉星(※1)』!」とまではいかなかったが、とにかく、私はまことに暴力的な女児だった。
この腐敗と自由と暴力の真っただ中の小学生時代、自分の好きな色を選ぶ権利を認めさせるために私は”たっぽい”になる必要があった。
”たっぽい”とは、TOM★CATが歌うアニメ『北斗の拳2』の主題歌『TOUGH BOY』に由来する言葉で、「たふぼーい」の「ふ」と「ぼ」が重なって「たっぽい」と空耳することから、この楽曲自体をそう呼ぶ。
つまり、小学生の私は誇り高き水色のランドセルの持ち主として、北斗の拳の世紀末の世界のような小学校時代を生き抜くべく、たっぽい(=タフなボーイ)となることを選んだ。私は誰かにからかわれて泣くような軟弱な人間じゃない、その辺の女子と違って水色のランドセルを選ぶ、たっぽいなのだ、と。もちろん、小学生当時の私は「たっぽい」という言葉は知らなかったが。
思い返せば、この経験が私の「女」としての自意識を歪ませ、「女」として扱われることに対する嫌悪感を抱かせるきっかけとなったのかもしれない。
60億分の1の男ッッ!!
思春期ど真ん中、中学生の私は父の影響で格闘技を見るようになった。 当時はPRIDEやK-1が大人気で、強い選手がばんばん日本に来て試合をしていた。ゴールデンタイムにもしょっちゅう試合があって、なぜ人が殴り合って血を流しているところを見ながら食事をするんだと、母にはけっこう嫌がられていた。
学校で仲のいい女友達にPRIDEやK-1を見ている子はいなかった。代わりに、別に友達でもない隣の席の男の子と時折、格闘技の話をしていた。
中でも私が夢中になったのが、ロシアの格闘家、エメリヤーヤンコ・ヒョードルである。格闘家には二つ名というかキャッチコピーみたいなものがついている。たいてい、出身地や生い立ち、外見、ファイトスタイルから名付けられ、ヒョードルもその氷のように冷たい瞳や、表情一つ変えぬクールなファイトスタイルと圧倒的な強さから「氷の皇帝」とか「ロシアン・ラストエンペラー」などと呼ばれていた。
しかし、彼の最も象徴的な呼び名といえば間違いなく「60億分の1の男」だろう。当時の世界人口およそ60億、その全員が武器を持たずステゴロでやり合った時、誰が一番強いか、その答えがこの男だッ!というニックネームである。
めちゃくちゃかっこよくない?
格闘家は試合前に睨み合ったり、言葉や態度で相手を罵ったりする、リング外でのパフォーマンスを見せることもあるが、ヒョードルはそういう”味付け”なしで、ただリング上での強さのみで観客を虜にする。シンプルな黒のパンツ、うすく脂肪の乗った理想的な体型、無表情な顔に冷たく光る氷の瞳。いざ試合が始まれば、そのクールな表情はそのままに、圧倒的な強さを見せつける。ヒョードルこそ、私のなりたい”たっぽい”の究極形。地球上で最もタフで強い人間。それが、60億分の1の男。
ある時、こんな調子で私がヒョードルについて熱く語っていると、いつも話し相手になっていた隣の席の男の子に「なんで女のくせにそこまでして男みたいになりたいん?」と言われた。
最初は意味が理解できなかった。しかし、どうやら彼の目には私が「必死に男についていきたくて、格闘技の話をしている女」と映っていたらしい。なんてこったい。恥ずかしい、悲しい、悔しい、むかつく……負の感情の詰め合わせが出来上がった。「お心遣いありがとよ。これは私からのほんのお返しだッ!!!」と重い一発を熨斗つけて食らわせてやれればよかったのだが、中坊の私は深く傷つき、そのまま黙り込んでしまった。
心の中では「ほらね、女のせいで、また私が馬鹿にされた」という声が響いた。そうか、「男の趣味」に興味を示すと、こんな風に扱われるのだな。私はまた一つ女が嫌いになった。
女には「本物」がわからない?
隣の席の彼は、まるで格闘技を好きでいることは男の特権のように言う。これは、格闘技だけの話ではない。スポーツ、車、プラモデル、歴史、こういうものは「男の趣味」と見なされて、つい女ごときが興味を持とうものならめちゃくちゃにマウンティングをかまされる。頼んでもないのにレクチャーをされる。挙句、「彼氏の影響?」などという屈辱的な言葉を浴びせられる。
何より、コンテンツを作る側も一緒になって、女はファンとしては二流だというメッセージを発信してくる。
『PSYCHO-PASS』というアニメ作品が結構好きだった。大変な人気作で、映画化もされている。周りにもファンが多い。
2014年にこの映画の舞台挨拶が行われた際、総監督を務めた本広克行は、会場にたくさんの女性鑑賞者が来ているのを見て次のようなコメントをしている。
「こんなはずじゃなかったんです。男が観る物語としてどれだけ骨太の物語のSFを作れるかというのでやってたつもりだったんです。ほとんど女性じゃないですか。『萌え禁止!』とか言いながら作っていたんですけど、残念です(笑)」 出典:https://news.nicovideo.jp/watch/nw1374107
はて。
【骨太】 [名・形動] 1 骨が太いこと。骨格のがっしりしていること。また、そのさま。「骨太な(の)からだ」⇔骨細。 2 基本や根幹がしっかりしていること。構成などが荒削りだが、がっしりとしていること。また、そのさま。「骨太の改革案」「骨太のドラマ」 出典:https://kotobank.jp/word/%E9%AA%A8%E5%A4%AA-631150
【骨太】という語には「ぽこちんが付いた人向けの」とか「社会的に男性として生きる人向けの」とかそういう定義でもあるのかと思わず辞書を引いたが、どこにもジェンダーやセックスに触れる記述はない。「私の辞書には『ぽこちんが付いた人向けの』とありました!」という人がいればぜひ知らせてほしい。
しかし、どうやら本広克行の辞書ではそう定義されているらしい。彼の辞書で【女】を引けば「骨太の作品が理解できない生き物」と書かれているのかもしれない。
これは本広に限ったことではない。女性が「男の趣味」に足を踏み入れると、よくこういう言葉を向けられる。
他にも、大好きなプロ野球OBのYoutubeチャンネルを見ていると、「このチャンネルの視聴者は9割男性だそうです。もう、女性ファンはあきらめましょう。男性のための◯◯チャンネルを今後もよろしく!」みたいなことをなぜか嬉しそうに言っていた。女性ファンが少ないことを自虐っぽく言いつつも、内心は「骨太」のファンに愛されていることを誇りに思っているのが透けて見える。吐き気がするぜ。心底女性ファンなんてどうでもいいと思っているんだな。
「男の趣味」に興味を示すと、女の「好き」は浅いと思われる。イケメンが好きなんでしょ、BLが好きなんでしょ、流行ってればなんでもいいんでしょ、そういう扱いを受け続ける。
女性に人気がある俳優が一生懸命下ネタ言って男性視聴者に”アピール”したり、女性ファンが多い芸人は「ワーキャー人気」と呼ばれて見下されたりするのも、根っこはみんな同じだ。男性から支持されないものは二流だと信じてる人は、みんな必死で自分が誰かのぽこちんを刺激する「骨太」な「ホンモノ」なんだと主張する。そうして、女性ファンをいつだって二流扱い���る。
女嫌いの女を育てる社会
中学を卒業するころには、私はもうすでに「女」という性が、二流で、ダサくて、「ホンモノ」にはなれない性だと信じ込んでいた。女らしくなれば、見下される、強く賢く本物であることを示すには、もっと男に認められなければならないと本気で思っていた。
自分が「その辺の女の子」だと思われたくなくて必死だった。私はあの子たちとは違う。きゃぴきゃぴはしゃぐ、普通の女子じゃない。私は特別なんです、女だけど普通の女の子とは違って、ちゃんと個性を持って生きています。ピンク色なんて女の色、選びません。格闘技だって、本当に好きなんです。男の人が見るような目線で、スポーツを見ているんです。だから、私は、「その辺の女の子」じゃないんです。
こういう感覚をどんどん内面化させていくと、自分の好きなものを言うことが怖くなってくる。それが好きかどうかではなく、男に認められる行動かどうかが基準になってくるのだ。
私は当時のK-1MAXに好きなファイターが3人いた。初代王者のブアカーオ、無冠の帝王と呼ばれた武田幸三、そしてウクライナのアルトゥール・キシェンコである。私はK-1の話をするとき、男友達にはキシェンコのファンであることはなかなか言えなかった。キシェンコは”美しき死神”というキャッチコピーで、いわゆるイケメンファイター的扱いをされていた選手だったからだ。もし、キシェンコファンだと言えば、ミーハー扱いされる、顔ファン扱いされる、という恐怖があった。今考えるとクソしょうもないことだが、当時の私には大きな問題だった。
「男の色」である水色を選んだり、「男の趣味」である格闘技を好きになったりすると、「女のくせに」が目の前に立ちはだかる。男と同じように好きなんだと証明したくて、好きであることではなく男に認められることを求めて、私と私以外の女に線を引く。私以外の女は、弱くて、かっこわるくて、表面的で、「ホンモノ」じゃないと憎む。私は、そうじゃない。
女なんか大嫌いだ。女なんかに生まれたくなかった。女のせいで、私まで馬鹿にされる。15歳の私の心の中で、女性嫌悪はますます大きく膨らみ続けた。
女嫌いの女は、こういう環境に揉まれてすくすく育っていくのである。
「女」は「人間」
私は市外の高校を受験した。「国際○○科」みたいな名前の学科だが、ベースは商業科、簿記や情報系の資格をたくさん取るコースで、普通科に比べて女子の割合が多かった。(ちなみに同じ高校に音楽科もあり、そこは私の在籍した学科以上の女子率だった。)
自分の希望通りの学校に合格できて大喜びしていた反面、女子生徒の割合が高いクラスに入ることにかなり抵抗を感じていた。なんたって、この時の私は徹底的に「女」を見下していたからだ。
しかし、しばらくしてその意識が変わっていくのを感じた。40人中33人が女子というクラスの中で、私は「女子」としての自分より、一人の「人間」として生きている感覚を得られた。女だらけの環境にいると、なぜだか女が強調されることが少ない。クラスメートも私を「女子のクラスメート」ではなく「ただのクラスメート」と扱っている感じがした。
むしろ男子生徒のほうが、男性性を強調される場面が多く(それはそれとして問題なのだけど)、小中学校時代とちがって「女のくせに」と言われることもほとんどなくなった。それがとにかく生きやすかった。
クラスを一歩出て、普通科の仲間たちとごちゃまぜになる部活では、幾度となく「女」が強調される場面があったが、クラスに一度戻ると、自然と「女」という色が消えて、一人のただの高校生として生活の中に溶け込んでいく自分を感じられた。
資格試験や勉強にも熱心な学科だったので、がんばった分だけ先生に認められたし、将来を期待されるような言葉をかけてもらえ、私は家庭以外の場所で、初めて「女」から解放された気がした。
それと同時に、「女」に対する自身の偏見からも少しずつ解放されていった。私が一括りに「その辺の女子」と思っていた同い年の女の子たちは、誰も彼も個性的で、変わっていて、カラフルで、ちょっと可笑しなところがあった。誰一人として、小さな「女」という枠に収まっている人はいなかった。「女の子らしさ」という箱の内側にも外側にも自由に行き来して、楽しそうに、悩みながら、全力で生きていた。私と同じだった。
3年間担任をしてくれたS先生も自立的な女性で、強い言葉でみんなを励ましてくれるタイプの先生だった。「私、『女の腐ったような』って表現大嫌い。女を馬鹿にしすぎだよね。」と言っていたのをよく覚えている。学科長のK先生も女性で、簿記などの専門科目を担当している学科の他の男性3人の先生よりもいつも偉そうで、怖くて、陰で女王と呼ばれるくらいインパクトの強い人だった。「単語帳のページ覚えるでしょ?残ってたら、また見たくなる。だから、どうする?覚えたら食べるねん」などと、とにかくすごいことを言っていた記憶がある。そういう身近な強い大人の女性も、高校生の私にはすごく嬉しい存在だった。
「ヒョードル、かっこいいな!」
2007年の年末、私のアイドル、”60億分の1の男”ヒョードルが”テクノ・ゴリアテ”ことチェ・ホンマンという巨人と対決することになった。チェ・ホンマンの身長218センチに対しヒョードルは183センチと体格差の大きい対戦だった。が、しかし、私はヒョードルの勝ちを確信していた。そして、2学期の終業式の下校中、仲良しの女友達にヒョードルが大好きであることと、その試合が大晦日にあるのでぜひ見てほしいということを伝えた。彼女は「わかった。見てみるね。」と爽やかに答えた。
そして、大晦日の夜、私の期待通り、ヒョードルは大男の腕をあっさりとキメて、華麗な勝利を収めた。やっぱりね、ヒョードルかっこいいね。満足げにテレビを眺めていた私の元に一通のメールが届いた。例の友達からだった。
「試合見てた!ヒョードル、めっちゃかっこいいな!あんな風に強かったら気持ちいいやろうな!」
その時、今まで感じたことのない喜びで胸がいっぱいになった。ああ、「女にヒョードルの良さがわかるまい」と決めつけていたのは、他でもない、自分自身だったんだな。友達からの素直な言葉で、呪いが解けてゆく。
高校時代の女だらけの環境が、私の中のミソジニー(女性嫌悪)を少しずつ溶かしてくれた。自分が「女」ではなく「人間」として扱われたかったように、自分以外の女性も、「人間」として扱われたいと願っている。私が「女」を見下すことで、自分にも自分以外の女性にも、傷を与え、呪いをかけていたのである。もちろん、高校生の私は自分の女性嫌悪に気づくことすらなかった。「あれはミソジニーだったんだ」と認識できるようになったのは、二十歳を過ぎてからのことである。
同じく高校時代、私が周りの友達を「女」ではなく「人間」だと理解し始めたころ、私自身も一人の人間であることを教えてくれた友人がいた。
この友人は私に「君の生き方を見ていると、男や女ではなく、君という性別がこの世にあるって感じがする」と言ってくれた。
「ボーイッシュ」「男っぽい趣味」「意外と乙女チックなんだね」他人が息をするように突き刺す言葉で、私の心は穴だらけだった。その無数の穴を塞いでくれるような大切な言葉だった。
ずっと、自分のことを中途半端な人間だと思っていた。枠の中にある「女」というものにはまりきれず、かと言って心身ともに男ではない。では、私の性別は一体?他の人が言うように、女を捨てた状態なのか?まだ女になれない半人前の状態なのか。いつになったら、私は誰かに認められる性になれるのか。もがきながら生きてきた人間にとって、その生き方そのものを私の性だと捉え、受け入れてくれた友人の言葉は、心からの救いだった。
ミソジニーとの戦いは続く
私は怒りを向ける矛先が、女性ではなく、女性を「ホンモノ」として認めようとしない社会の在り方だと思うようになった。「普通の女子」とか「その辺の女の子」「量産型女子」、そんなもんはいない。私たち女性には、当たり前だが一人ひとり好きな色があって、好きなものがある。自分の意志も意見もある。そして、個性がないと言って女性を馬鹿にするような誰かの無神経な言葉に傷つけられていい存在ではない。
私が水色のランドセルをからかわれて傷ついたのと同じころ、ピンクのランドセルを選んで「やっぱり女の子だね」と誰かに言われ、自分の選択ではなく、女の子としての選択として、個性を踏みにじられた女の子がそこにはいたはずだ。
ピンクのランドセルを否定しても、私の水色のランドセルは決して報われない。セクハラを笑って受け流して耐える同僚を憎んでも、女性を軽視する奴らは蔓延ったままである。
私たちを苦しめる根っこは、いつも同じだ。女という物差しでしか私たちを計れない人々で、女の限界はいつも男よりも手前にあると信じ込ませる連中で、女は男に愛されないと価値がないという呪いをかけてきたクソったれ共だ。
THE BLUE HEARTSの「青空」には、聞く者の心を撃ち抜く一節がある。
生まれたところや皮膚や目の色で 一体この僕の何がわかると言うのだろう
生まれた身体で、性別で、一体この私の何がわかるというんだ。
私は自分が救われたい一心で、自分以外の女の子を傷つけてきた。たくさん見下してきた。でも、自分という存在が特別だと思��たいからと言って、自分以外の女を馬鹿にする必要などない。だから、もう誰の性も否定したくないし、誰の好きな色も馬鹿にしたくない。心無い言動に傷つきながらも、笑って受け流そうとする人の痛みを過小評価せず、その痛みに寄り添って、一緒に抗っていきたい。
女を苦しめる連中は、自分たちが勝手に作り上げた「女」という枠からはみ出した人間を見ると、「女を捨てたのか」と言って嘲笑う。私も大げさではなく、100回以上言われてきた。セクシスト(性差別主義者)たちは、息をするように他人の性を踏みにじる。ぐちゃぐちゃに傷つけて、自信を奪う。
だけどな、捨てられねえよ、クソッたれ。そんな簡単に。捨てられるものなら、ずっと昔にとっとと捨てたかったわ。そんなに簡単に捨てられるものじゃねえんだよ、バカヤロウ。人の性を軽んじるお前にはわかるまい。「女」という性と共に、自分を生きる苦しさが。
そういう苦しさを抱えきれなくなって、私は自分の中にある「女」を、周りのクソッたれ連中と一緒になって見捨てた。生まれた時から私と共にあった、私の大切な一部だったのに、自分を傷つけてくる人間の価値観に囚われて、自分も、自分の周りの女性のことも馬鹿にした。
だが、もうそれはやめた。私は自分の中にある、他の誰かの中にある、「女」を否定することはやめた。こいつと共に生きていくことを受け入れる。周りからさんざんボコボコに殴られて、好き放題刺されまくって、満身創痍の、私の中にある「女」を、これ以上傷つけさせてたまるか。
女性であることを恥じることも誇ることもせず、ただ受け入れる。それだけのことがこんなに苦しくて難しい。それでも、私はずっとこの性を生きることにした。見捨てずに、大切にすることにした。
そして、他の誰かの女性性と男性性を、その二つの枠組みの外にある性の在り方を、踏みつけていないか、大事にできているか、できるだけ慎重に歩くことにした。
どれだけ心に強く誓っても、私の中のミソジニーは、なべ底の焦げみたいに私の心にこびりついている。重曹でもお酢でも、簡単には落ちないほど、頑固にこびりついている。
それを取り除いて、鍋の底に映った自分の性と素直に向き合いたいと思う。そのためには、まず、このこびりついたミソジニーと向き合わなくてはならない。
私の水色を守る人
大学時代からの友人でかれこれ10年以上の付き合いになるMは、普段は温厚で、滅多に怒りを他人に向けたりしない人である。Mの喋り方は漫画『聖☆おにいさん』のブッダとほとんど同じだ。同漫画を読んだことがない人は、最寄りの仏をイメージしてもらえばいいと思う。
私が結婚の報告をしたときに、素晴らしいプレゼントをくれたのが、このMだった。
結婚式はしなかったのだが、Mは私への結婚祝いを包む祝儀袋を買いに某百貨店へ行った。そこで店員に女友達の結婚祝いのために探していると言うと、ピンク色の祝儀袋を勧められたらしい。
Mは私が青や水色が大好きなのを知っているので、その旨を伝えたうえで水色のものを選ぼうとしたらしい。ところが、店員はなぜか食い下がる。女性なんですよね、ご友人は、ならば普通はこちらの色ですよ。Mは、いや、他の人からどう見られるかは関係ないし、そもそも本人の好きな色を選びたいだけなので……と説明したが、なぜか店員は折れなかったらしい。
あまりにも頭の固い店員に腹を立てたMは「結構です」と言って祝儀袋を買うのをやめて、結局私を連れて買い物に行き「予算内なら好きなものを買ってあげる」と言ってお祝いしてくれた。その節はかわいいパジャマをありがとう。
「水色は女の色にあらず」というクソジェンダーステレオタイプが19年経っても変わってない事実にがっかりした。しかし、それ以上に、Mが水色の祝儀袋のことで店員にこだわりを見せてくれたという話が嬉しかった。水色のランドセルをからかわれ続けた私は、心が救われた気がした。
Mにとっては、店員との些細な小競り合いだったかもしれないが、私にとっては大きな意味がある。Mは私の好きな色を守った。ジェンダーステレオタイプから守り抜いてくれた。「女のくせに水色」を真っ向から否定してくれた。
子どもにとって自分の好きな色を選ぶことが数少ない存在証明の場なら、大人はその選択肢を決して奪ってはならない。大人が自分の声でジェンダーステレオタイプを否定する時、誰かの中の女や男やその枠組みを超えた性を救うことができると思う。
本広克行がしこしこ『PSYCHO-PASS』の映画を作っていた頃、アメリカでは『マッドマックス 怒りのデスロード』という「骨太」な作品が登場した。
同作品はシリーズとして知られているが、2作目の『マッドマックス2』は北斗の拳に影響を与えた(※2)、まさにたっぽいな作品の一つである。そのたっぽいな作品の主人公の一人を演じた俳優トム・ハーディは映画の記者会見で男性ジャーナリストと次のようなやりとりをしている。
カナダのジャーナリストからの「『マッドマックス』は男の世界の物語だと思っていたのだが、女性キャラクターが登場することについて違和感があったか」という質問に対し、ハーディは一言「ノー!」と答え、記者会見場から拍手が起きていた。 出典:https://www.google.com/amp/s/amp.natalie.mu/eiga/news/147372(日本語記事) https://metro.co.uk/2015/05/29/mad-max-fury-road-star-tom-hardy-has-the-best-reaction-when-asked-if-women-are-taking-over-a-mans-movie-5220250/(英語記事) https://youtu.be/tI6k_8tomRE (映像、10:00ごろ)
「これは男のためのものじゃないのか?」という問いに、私たちはハーディのように「ノー」と答えることができる。自信を持ってそう言える。
水色のランドセルを選ぶ少女が誰にもからかわれない社会がいい。格闘技好きの女子中学生が、誰にも笑われずに、ヒョードルに憧れていると言える世界がいい。
自分の好きな物を守るためにたっぽいにならねばと思ってきた私は、30歳を過ぎてからその必要がないことを悟った。弱いまま、臆病なままでも、誰にも好きなものを馬鹿されずに生きていく権利がある。女の私が、「60億分の1」に憧れる自由がある。私たちは、自分が唯一無二のスペシャルな女の子であることを、他人に認めてもらう必要もないし、誰かに証明する必要もないのである。
涙を拭け、6歳の私。拳を握りしめろ、15歳の私。”悲しみは絶望じゃなくて明日のマニフェスト”だぜ。(意味不明だと思った?私もこの歌詞の意味は未だによくわかっていないけど、かっこいいから引用した。)
家族や友人が私の水色を守ってくれたように、私も周りの人が自分の好きなものを誰かの言葉に傷つけられることなく愛せる世界を作りたい。誰かが「男の子だから青がいいよね」と言えば「そんなことはない。色に性別は関係ない」と言い、「女にこの良さはわかんないだろうな」と言えば「わかってねえのは貴様だ。もっと世の中のことよく見ろ。しばきまわすぞ」と言って黙らせたい。
それは偏見だ、あんたの思い込みだ、幻想だ、嘘だ、そう言って、ジェンダーステレオタイプを否定していこう。みんなでつまらないステレオタイプに「ノー」と言おう。
みんな、聞いてくれ。
この世にあるくそしょうもないジェンダーステレオタイプは一つ残らず、必ずぶっこわせる。たっぽいでなくても、普通の、ひとりの、よわっちい人間にも、それに抗う力はちゃんとある。
私は誰かの好きな色と自分の好きな水色を守るために、これからも一人の女として抗い続ける。そういう旅をしている。そして、あなたが一緒にその旅に来てくれるなら、ヒョードルよりも心強いよ。
※1……漫画『北斗の拳』の中で、一子相伝の拳法の使い手(拳士)たちが持つ星の宿命(宿星)の一つ。愛に殉ずる宿星。
※2……「北斗の拳生誕30周年記念特別インタビュー」内での原哲夫(北斗の拳の作画担当)の発言より。http://www.hokuto-no-ken.jp/hokutogatari/interview10-03
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mustachekiwi · 3 years ago
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Wish Donation List 寄付リスト
2023年トルコ・シリア地震救援金
Femme International
ビッグイシューJAPAN
Galapagos Conservation Trust (GCT)
映画『福田村事件』クラウドファンディング・寄付
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mustachekiwi · 4 years ago
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もう日本で生きていくのがしんどい。
別に選んで生まれてきたわけじゃないのに、「運悪く」女に生まれただけでこんな目に遭うんですか。
この事件にお前関係ないだろって言われそうだけど、女の外見してる人は誰でも被害者になり得るってこと、女性ならみんな理解してるよ。それが女に対する憎悪犯罪だろ。フェミサイドだろ。
小さい時から女ってだけでずっと性被害に遭ってきてる。
日本、全然治安良くないよ。
女ってだけで殺されるかもしれない国ですよ。住みたいわけないだろ。
「男がみんなそうじゃない」って言うんなら、この社会に蔓延してるミソジニーと向き合って、正面から批判してくれ。
怒って声を上げる女性をからかったり、宥めたり、笑ったりしてないで、自分たちの問題だと思って死ぬ気で向き合えよ。
私はもう嫌だ。もう本当に嫌だ。
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mustachekiwi · 4 years ago
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先生、キルモンガーくんが半裸です
かつてホームステイしていた家のお母さんは、「錆(さび)恐怖症」だった。家の中で錆びているもの・場所を見つけると気分が悪くなるらしい。
彼女の気持ちを想像するのは難しいが、この世には自分が想像できないような〇〇恐怖症(〇〇フォビア)が溢れていることを22歳の私は学んだ。
日本語版Wikipediaで「恐怖症の一覧」というページを覗いてみると、224もの恐怖症が見つかった。ただし、英語版のページしかないものや、名前だけでページがないものもかなり多い。ちなみに、錆恐怖症はなかった。
よく知られている恐怖症としては、高所恐怖症や閉所恐怖症などがある。最近、(個人的に)認知度が上がってきたと思うのはトライポフォビア、集合体恐怖症である。
穴や斑点がいっぱい集まっている状態や模様が気持ち悪いという話は結構聞く。私はカルピスの川から生まれた妖精なので、白と青のドットが大好きなのだが、トライポフォビアの友人と会う時は念のため、そういう服を着ないようにしている。草間彌生展とかにも誘わないようにしている。
また、2019年の映画「ブラックパンサー」は本当に素晴らしい作品で、周りの人にも薦めまくったが、マイケル・B・ジョーダン演じるキルモンガーの身体にはトライポフォビアの人が気絶しそうな模様があるので、薦める際は必ず「トライポフォビアじゃなければオススメ」という一言を添えるようにした。
こういうメジャーな恐怖症であれば、「私〇〇恐怖症なんだよね」の一言で周りがすんなり納得してくれる。ジェットコースターに乗ろうと誘われても「ごめん、高所恐怖症だから」と言えば、たいていの人は理解を示し、無理やりジェットコースターに乗せたりしないだろう。
(そういえば昔「乗り物があまり好きじゃない」という夫をUSJで強引にスペース・ファンタジー・ザ・ライドに乗せたことがあったが、アトラクションから降りた夫はライムグリーン色の顔で一言も喋らなくなってしまった。本当に申し訳ないことをしたと思う。)
しかし、あまり認知されていない恐怖症に関しては、なかなか信じてもらえないことがあるのではないだろうか。場合によっては冗談だと思われたり、笑われたりすることがあるかもしれない。
Wikipediaの恐怖症一覧の中に「ヘソ恐怖症(Omphalophobia)」というのを見つけた。ヘソとはあのお腹の真ん中にある、あれである。
英語版Wikipediaにも記事はなかったが、healthlineという健康系のウェブメディアにヘソ恐怖症の記事があった。
The phobia might involve touching or seeing your own belly button, other people’s, or both.
[拙訳]この恐怖症は、自分や他人のおへそを触ったり見たりすることなどに伴って起こります。
https://www.healthline.com/health/omphalophobia
ヘソ恐怖症の人は、プールや温泉、更衣室でさぞ大変な思いをしていることだろう。しかし、この記事を読んだおかげで、今後もしヘソ恐怖症の人と会っても、驚いたり、疑ったりせずに済む。ヘソ恐怖症をはじめ、あまり知られていない恐怖症への理解が進むといいな。人から「〇〇が苦手・怖い」と言われた時には、疑ったり、笑ったり、軽く考えたりせずに、相手の望むようにしてあげようと思う。
ちなみに、私が持つフォビアもWikipediaの一覧にはなかった。
私は、通常カタカナで表記される「プリンター」「コンツェルト」「カルボナーラ」などの外来語がひらがなで表記されているのを見ると、たまらなく嫌悪感を抱いてしまう「外来語ひらがな表記恐怖症」である。
「ぷりんたあ」「こんつぇると」「かるぼなあら」
どつきまわすぞ。
これに関しては理由が全くわからない。ただ、字が読めるようになった頃から、この表記が死ぬほど嫌いだった。
カタカナの伸ばし棒「ー」を母音に置き換えるのもイラつくし、小さい「ぁ」「ぃ」「ぅ」「ぇ」「ぉ」など反吐が出る。
過激すぎる。本来、やさしいニュアンスを出すために使われることが多いひらがな表記で、こんなにも怒りがこみ上げてくるなんて、自分が怖い。
当然、こんな気持ちは人に理解してもらえないだろうと思って、誰にも話したことはない。
唯一、「ちょっと近いな」と思った話がある。学生時代、隣の席に座っていた友人は両親のうち片方が外国の人で、本人は苗字も名前もカタカナだった。
友人曰く、幼稚園の頃、持ち物に書かれる名前がすべてひらがなだったことがめちゃくちゃ気持ち悪かったらしい。
仮にマリー・ジョーンズという名前だとすると「まりい・じょおんず」と書かれていたというのだ。
すごく、わかるぞ!
私は思わず自分のフォビアについても告白しようとしたが、その人の場合は自分の名前の表記に関することだから、私と事情が違うかも……唯一の希望の光を失いたくなくて、私は口をつぐんだ。
別に他人に理解されなくても、「らあめん」と書かれた看板を睨みつけながらひっそりと生きていけばいいと思っていた。だが、しかし、成人してから困るようになったことが二つある。
一つは、仕事である。私は日本語を非母語話者に教える仕事をしている。初級者であれば、まずひらがなを覚え、その後にカタカナを習う。文字数が多いので、個人差はあるものの、覚えるのには時間がかかる。ひらがな��読めるようになった学習者の練習教材に、未習であるカタカナが登場すると、そこにはひらがなでルビが振られている。
「こんぴゅうたあ」「すうぇえでん」「じいんず」
や、やめろーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!
正直、自分の受け持っている学習者には一刻も早くカタカナを覚えてもらいたい。自作のプリントの中のカタカナにひらがなルビを振るのが何よりも辛いのだ。
二つ目は、寄付である。25歳を過ぎてから、ボランティア団体や支援団体、サポートグループにめちゃくちゃ少額ながら寄付をする機会が増えた。
しかし、こうした団体に頻繁に出てくる単語がある。それは「ハート」である。その名前には被支援者の心に寄り添うというメッセージが込められていて、その理念や活動に共感して寄付をするのだが、優しさ故に(?)「はあと」と表記している団体が割と多い。
内閣府のNPO法人ポータルで検索したところ「はあと」を含む団体は22件、「はぁと」は9件ヒットした。(ちなみにカタカナの「ハート」は320件もあった。)
だからそれで何が困るのかというと、単に、寄付しようと思ってその団体のページを開くと名前を見てちょっと嫌だなって思うだけである。毎度自分に「この嫌悪感は外来語をひらがな表記していることに対して抱いているものであって、この団体の活動には共感しているじゃないか、気をしっかり持て!」と言い聞かせている。
ただ、前述のヘソ恐怖症の記事によると、恐怖症の身体的症状としては、口の渇き・震え・発汗・呼吸困難・胃のむかつき・吐き気・胸の圧迫感・心拍が速くなる、などがあるらしい。
私はカタカナ語のひらがな表記を見て心底嫌な気持ちになりこそすれ、体には何の症状も出ない。そんなものは「恐怖症」とは呼べないと言われるかもしれない。
別に私の気持ちを理解してほしいわけではない。ただ、特別な理由もなくそれが「なんかやだ」と感じる人がいるというだけである。
最後に、〇〇フォビアの 〇〇に、特定のグループの人々を指す言葉が入る場合、私は何の理解も共感も示さない。そこには「外国人」「同性愛」「トランスジェンダー」「イスラム教徒」などが入ることがある。
そのフォビアは本人が向き合い、克服すべき問題である。そのグループに属する人々が、嫌悪を示す連中に対して、理解をしてもらうために努力する義務は一切ない。
この記事はたんぶらあで書きました
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mustachekiwi · 4 years ago
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「エコバッグの良いところは、非常にエコなバッグである点だと思います。」
最初に火葬した人は、かなりの勇気が要ったと思う。
絶対すごい臭いがしたはずだし、どれくらい焼けばOKなのかわからんかっただろうし。
火葬からの一連の「流れ」は今ではお馴染みの弔い方だが、落ち着いて考えてみると結構怖い。死んだ人を焼いて、その骨を集めて、壺に入れて、家に置いてみたり、石の中にそっとしまってみたり。考えれば考えるほど、意味深すぎる。
いや、意味深でいいのか。だって人が死んでるんだもんね。これでもかってくらい、意味を持たせたくなっちゃうよね。
大学を卒業して、なんやかんやあって南米の某国で2年働いた。その間、2つの家族の下でホームステイをしていた。
2つ目の家族は夫婦と大学生の娘と小学生の娘の4人家族だったが、同じ敷地内には夫の方の両親(娘たちにとっては祖父母)と、夫の妹一家も暮らしており、三世帯住宅みたいな感じだった。
ある時、大学生のお姉ちゃんが私に「アブエリート(おじいちゃん)は具合が悪いんだ。お見舞いに行こう」と言ってきた。お見舞いに行くと言っても、階段を下りて母屋に行くだけなのだが。
アブエリートはかなり高齢だった。多分90代だったと思う。
はじめて会った時も、お姉ちゃんが「今うちにホームステイしてる子だよ。日本から来たの!」と紹介してくれたが、アブエリートは私の手をぎゅううううううっと強く握り「はるばる中国からようこそ」と優しく言って微笑んだ。
「そ・い・で・は・ぽ・ん!!(日本からです!)」と大きい声で言ったが、アブエリートは微笑むだけで、何も言わなかった。ただ、手をずっとぎゅううううううっと握られていた。
私は小3の時に行ったディズニーランドで、ミッキーマウスと交わした握手を思い出した。ミッキーの白い柔らかい手は、私の右手をぎゅううううううっと握って、「え、強っ、こわっ」と小3の私を怖がらせた。
アブエリートの手はミッキーみの欠片もなかった。古い木の太い枝みたいに茶色くてしわしわで、自分の亡くなった祖父の手に似ていた。私の祖父は亡くなる数時間前に、突然私を枕元に呼んで、なんでもいいからお前の話を聞かせてくれと言った。私が近況を話してから、しばらく部屋を離れている間に、祖父は死んでしまった。
祖父は私の手を握らなかった。もう、指の一本さえ動かす元気もなかったと思う。
だから、目の前にいるアブエリートの手がぎゅううううううっと私の手を握っているのを見て、あの時、私が祖父の手をこんな風に握ってやればよかったと思った。
私が母屋で寝ているアブエリートのお見舞いに行った時、彼はほとんど話すことができない状態だった。私の顔を認めると、少しだけ微笑んで、やっぱり手を握ってくれた。最初に会った時みたいな強さは全然なかったので、代わりに私がぎゅううううううっと握った。
それから数日後、お姉ちゃんが泣きながら私の部屋へ来た。アブエリートが亡くなったという。お姉ちゃんを慰めながら、私は数日前に握った、古いしわしわの優しい手のことを思った。
それからぼんやりと、この国は土葬の国だよな、と考え始めていた。
外国でお葬式に行ったのは初めてだった。カトリック教徒の多い国なので、葬儀はやはり教会で行われた。
でも、日本とおおまかな「流れ」は同じだった。
お葬式があって、棺を墓地に運ぶ。燃やして壺に入れない分、私にはなんだか火葬よりも自然な弔い方のように思えた。
その時は土葬と言っても、土の中に埋めることはなかった。白いお墓ロッカーみたいなところに棺をにゅーっと押し入れて、入り口をセメントで埋めるのである。不思議な光景だった。きょろきょろしているのは、外国人の私だけだった。
その後は家族みんなでご飯を食べた。全然悲しそうじゃなかった。みんなめちゃくちゃ笑っていた。お葬式で号泣していたホストファザーは、めっちゃビールを飲んで、笑いまくっていた。
私が死んだときも、仲のいい人に、こんな風に笑って食事をしてほしい。変な話だな。死んだら、仲のいい人の楽しそうな姿を見ることなんてできないのに。
死んだら、それまで不安に思っていたことも、楽しみに思っていたこともすべてなくなる。もう何も、心配しなくていいし、苦しまなくていいのだ。
日本語の四字熟語に「四苦八苦」という言葉がある。すごく苦しむ、とか、すごく苦労する、という意味の慣用表現だけど、元は仏教用語である。
しかも、その苦しみの種類にそれぞれちゃんと名前がついている。
大学一年の時にこの事を知って以来、苦しい時に思い出す。これは「どの」苦しみかしら、と。
四苦八苦の「四苦」とは、簡単に言うと、苦しみのスタンダードプランである。月額490円で基本の四つの原因で苦しみ放題なのだ。
具体的には、「生苦(生まれてくる苦しみ)」「老苦(老いる苦しみ)」「病苦(病気になる苦しみ)」「死苦(死が近づく、死を恐れる苦しみ)」の四つである。
その四つにさらに四つの苦しみを加えた八苦、これがプレミアムプランである。月額890円で生きる上での苦しみを全部カバーしてくれるというお得プランだ。
「愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)」「怨憎会苦(嫌な相手や物と出会う苦しみ)」「求不得苦(ほしいものが手に入らない苦しみ)」「五蘊盛苦(肉体や精神が思い通りにならない苦しみ)」の四つが加わる。
残念ながら我々は生まれながらにして、プレミアムプランに強制加入させられている。誰も拒否することはできない。
しかし、苦しみに名前がついているというのはなかなか良いものだと思う。謎の病気は怖いけど、診断名がつくとひとまず安心するし、部屋にいたすごい色の虫が図鑑に載っていれば、地球外生命体じゃないことにホッとするし、ただ自分��ヤバい性格の持ち主だと思っていたら、同じ症例の人がいてそれは〇〇と呼ばれてますよと言われると、なーんだ良かったーという気持ちになる。
名前がついているだけで、謎の安心感が生まれるのだ。(この安心感にもきっと名前がついているはずだ。)
というわけで、私の先週一週間の苦しみを、四苦八苦に分類してみた。
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予想通り、元々カバーしている範囲が広く、圧倒的な曖昧さを孕んでいる「五蘊盛苦」が多くなった。
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グラフを見れば五蘊盛苦独走状態がはっきりとわかるだろう。日本のスマホ市場におけるiPhoneくらいの感じだ。体が思い通りにならない、心が思い通りにならないなんて、日常茶飯事だからね。私たちは息をするように五蘊盛苦っているのである。
あとNHK(の委託の奴)が家に来ることほど「怨憎会苦」という言葉がしっくりくることはない。家にはマジでテレビもワンセグもない。二度と来るな。てめえは俺の怨憎会苦の根源だ。
しかし、このグラフに反映されていないのは苦しみの大きさである。
「ジョギング中に屁が止まらなくなる苦しみ」の苦しみ数値を「1」とするならば、「夜、なかなか眠れない苦しみ」は「7」くらいある。「明日が来るのが怖い苦しみ」なんて計測不能だ。めちゃくちゃ苦しい。
そこで、頻度や数値にこだわらず、もっと細分化して色々な苦しみにオリジナルの名前をつけることにした。
例えば、「夫がトイレのドアを閉めないので小便の音が聞こえる」ことについては「小便音苦(他人のおしっこの音を聞かされる苦しみ)」と名付けた。実家に帰った時は、兄が同じことをするの���、その場合にも使える結構汎用性の高い「苦」である。
「深夜パソコンがずっと光ってウィンウィンいうているのが気になる」のは「窓更新苦(Windowsのアップデートが永遠に終わらない苦しみ)」だ。これは、検疫のルールが緩くなって久々にオフィスに行って仕事しようと思ったらWindowsのアップデートが始まって1時間近く仕事ができなかった、あの日の苦しみにも使える。私の1時間を返してほしい。
また、「 急な買い物の際、手元にエコバッグがない」のは「進次郎苦(小泉進次郎が環境大臣をやっている国に暮らす苦しみ)」がよかろう。この苦しみは国民の努力で取り除けるぞ。立ち上がれ、人々!
こんな風に苦しんだり、苦しみについて考えたり、苦しみを分類したり、政治に怒ったりできるのは、紛れもなく生きている証である。
せっかく前半にすごく優しい気持ちで自分の祖父やアブエリートのことを思い出しながら文章を書いていたというのに、知らない間にGoogle spreadsheetで謎の分類表とグラフを作っていた。また五蘊盛苦ってしまった。
「私もグラフ作りたいぞ!」という人はどうぞ、コピーして使ってください。https://docs.google.com/spreadsheets/d/1p77vPBZG3h1KNZfAkgxtU9HtP_9DFjayRvy4vmC6luQ/edit?usp=sharin
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mustachekiwi · 4 years ago
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こころふるわすこうがん
子どもの頃、本や誰かが話す言葉の中に、とてつもなく好きな単語やフレーズを見つけると、耳よりももっと体の内側、意識のすごく遠いところで、静かにピーーーーーーンという音がすることに気づいた。
細い弦を優しく弾いたようなその音は、しばらく頭の中に心地よく響き渡って、体中に広がり、次第に心臓のドクドクという音にかき消されていく。
小学4年生のある日、辞書で「琴線に触れる」という言葉を見つけた時の私の喜びがわかるだろうか。ピーーーーーーンという音を聞きながら、この表現考えたやつ、私と一緒!!!!と心の中で大絶叫した。「琴線」という言葉と私の体験が、文字通り共鳴した瞬間だった。
学校から貸し出されている辞書に、皆がこぞって【ペニス】【ヴァキナ】など性器を示す単語に蛍光ペンで線を引く中(私の隣の席のF君は【マンゴー】という単語にも果敢に線を引いていた)、小学生当時から自意識の塊だった私は、この崇高な共鳴体験を記念して【琴線】という単語を黄色くハイライトした。
私はクラスのレベルに合わせるために、【金玉】にも線を引いておいた。同時に私は、金玉の別名が「ふぐり」であり、当時、毎日通学路で愛でていたかわいい青い花の名前が「犬の金玉(Lサイズ)」という意味だと知り、この世界が嫌いになった。このネーミングセンスには一切共鳴しなかった。どんな金玉頭がこんな酷い名前つけたんだ。
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オオイヌノフグリ。漢字で書くと大犬の陰嚢。花に罪はない。
出典:https://freephoto.sakura.ne.jp/ooinunohuguri.html
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mustachekiwi · 5 years ago
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弾切れの朝にキャッチボールを
朝起きて、最初にするのは、地獄のようにうるさい目覚まし時計を止めることだ。この目覚まし時計は去年買った。店で見つけて「こんなにもTHE目覚まし時計って感じの目覚まし時計が売ってるのか、かわいいな」と思って買った。機能も、THE目覚まし時計である。ジリリリリリリリと心臓が止まりそうなほどでかい音が鳴る。
アラーム音のみならず、時を「刻む」という表現にふさわしく、秒針もめちゃくちゃうるさい。カチコチとかそんな生易しい音ではない。ザクザク鳴っているのだ。時を刻むというかレンコンを刻んでいる感覚だ。レム睡眠時には、この秒針が私の髪や皮膚を刻んでいるのではないかと不安になる。それほどすごい音がしている。
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地獄のレンコン刻み時計。擬音がジョジョ文字で聞こえる。文字盤がかわいい。
しかし、そんな時計の音も、慣れてしまえば全くうるさく感じなくなるものだ。アラームを止め、スマホを見て、だいたいもう一回寝てしまう。目覚まし時計の効果なし!
いい加減起きないと遅刻だという時間になって、再びスマホを手に取り、何か目覚まし代わりの音楽をかける。朝目覚めて一番最初に聞きたいのは、レンコンを刻む音よりも、やはり自分の好きな歌だろう。
その日、私はザ・ハイロウズの『即死』をかけた。
ザ・ハイロウズのボーカルは、みんな大好きザ・ブルーハーツの元ボーカル、甲本ヒロトである。現在はザ・クロマニヨンズで歌っている。私のアイドル、岡山の亀甲縛り、みんなの憧れ、スーパースター。
ブルーハーツもクロマニヨンズも大好きだが、私がビンビンのティーンエージャーの時に聞きまくっていたこのザ・ハイロウズには特別な思い入れがある。
ハイロウズは、私が人生で三番目に生で演奏を聞いた歌手だった。それも自意識が爆発しまくりの13歳の時だった。(初めて行ったコンサートは岡林信康、二番目は藤井フミヤだったが、私はれっきとした平成生まれである。)
ちなみに、ヒロトはライブでよくちんちんを出すことで知られていた。これはブルーハーツの頃からである。インタビューでそのことについて質問されると「ああ、あれかあ…。」と恥ずかしそうに答える。
13歳の私は、大阪のなんばHatchというライブハウスに、母と兄と従姉の四人で行った。ヒロトがちんちんを出したらどうしようとずっと考えていた。前日、クラスメートに「明日ヒロトのちんこを見るかもしれない」と話したりもした。ライブ中も、ヒロトがズボンに指をかけるたびに胸がドキドキ(そしてワクワク)した。
結果的にヒロトはちんちんを出さずにライブを終えた。ライブは最高だった。
クロマニヨンズも合わせて、私は生の甲本ヒロトの演奏を何度も見たが、ちんちんを出すところはまだ見たことがない。ヒロトはもう還暦間近の立派なジジイだ。陰毛は白髪だらけかもしれない。かつて「HEY!HEY!HEY!」出演時に、髪を脱色する際、裸になってブリーチ剤を使うため、その液が股間に垂れてちんこが白くなってきたというエピソードを披露していた。だから白くてシワシワのちんちんかもしれない。
閑話休題。ヒロトの白ちんはひとまずベッドサイドへ置いておこう。
この日の一曲、『即死』にはこんな歌詞が出てくる。
ありもしないフツーだとか ありもしないマトモだとか
まぼろしのイメージのなか ラララ…
まったくダセーよ
(ザ・ハイロウズ『即死』作詞・作曲:真島昌利)
「普通」という言葉にアレルギーを持つ人がいる。
「普通こんなことしないでしょ。」
こういうことを言うと、自分が「普通」という常識(っぽい)ものに囚われているつまらない人間のように思われるので、それに抗う。
「普通?なにそれ?誰が決めたの?そんなものないよ」などと、うっとおしいキョトン顔でこういうことを言ってくる。
わかる。私も「普通」って言葉をカッコ悪いと思っている人間だ。UKG(うっとおしいキョトン顔)リストに顔面を連ねる一人である。普通とか、まともとか、そういうのに拘っている自分がダサいので、受け入れたくない。UKGを極め込んで、人前で下半身を露出しながら「ロックンロール以外は大したことじゃない」って歌いたい。「あいつフツーじゃねえ!」「かっこいい!」って思われたい。甲本ヒロトになりたい。
でも、実際は「普通」や「まとも」に雁字搦めである。1年に200回くらい「まともな人間になりたい」と思う。二度寝どころか三度寝とか四度寝を繰り返して夕方ごろに「ああ、今日はまともな一日を過ごしたかったのに」と嘆く。仕事で失敗したら「ああ、いつになったらまともに仕事ができるようになるんだ」と自分を責める。変な奴に好かれると「ああ、たまには普通の人に好かれたい」と思う。
普通に起きて、普通の服を着て、約束通りの時間に決められた場所に行って、まともな会話をして、まともに仕事をして、まともな人間だと思われたい。どれだけヒロトに憧れったって、私は「普通」や「まとも」に縋りつく、ダセーやつなのだ。
『即死』で目覚めてトイレで用を足し、洋服ダンスへ向かい、一番上の、小さい引き出しを開ける。
「ちっ、弾切れか。」
我々の業界、つまり、パンツ洗わない人間界隈では、今日はくためのパンツがない状態のことを「弾切れ」と呼ぶ。
こんばんは。私はパンツを洗えない人間です。バスルームには未洗濯のパンツが堆積している。汚れた下着をこまめに洗い、清潔な状態にして、毎日はきかえる。この「普通」の繰り返しが、私にはできないのだ。
辛い。
せっかく両親が 「パンツに苦労しないように」とパンツにちなんだ名前をくれたというのに、とんだ親不孝者である。
私は弾切れの朝に、普通のことができない自分に心底がっかりする。今、きれいなパンツをはいて、明日のパンツの心配をせずにこれを読んでいるあなたには想像できないことかもしれないが、私はマジで毎朝ドキドキしながらタンスを開けている。
洗濯すればいいのでは。
そう思ったあなたは、おめでとう、ズバリまともでしょう。私だって頭ではわかっているんです。さっさと洗えばいいって。でもさ、明日でもいい、そう思う日が10日も続くとさ、ある夜気が付くんだ、俺たちに明日はない、って。
あーもー今晩パンツ洗わないと明日はくパンツないよー!どーすんの!わかってるよー!って考えているうちに寝ている。そして弾切れの朝が来る。生乾きのパンツをはき、居心地悪そうにしてる。まったくダセーよ。
普通とかまともはカッコ悪い。それからはみ出してるなら、かっこいいじゃん!って思えたらいいのだが、こういう感じの「普通じゃない」は全然かっこよくない。普通でもない、かといってかっこよくもない、そんなダセー自分と向き合うと悲しくなる。
じゃあ、毎日洗濯することがまともなのか?
その答えを知るために、私は夫と出会ったと言っても過言ではない。
私の夫は毎日洗濯する。普段は一人暮らしだが、どれだけ遅く帰宅しても、必ず洗濯機を回し、きちんと干してから寝る。宵越しのワイシャツ汚れは持ち越さねえ。そういう人である。江戸っ子ではない。
二人で旅行した際、宿泊先のホテルにはランドリーサービスがなかった。私はジーンズを3、4回洗わずに繰り返しはくタイプなので、あまり気にしていなかったが、夫は1回でも身に着けたものは絶対にその日のうちに洗いたいのだ。宵越しの汚れは(以下略)。
ランドリーサービスのないホテルのシャワーブースで狂ったようにジーパンを洗う夫の姿を見た時、私は言葉を失った。その形相はまるで鬼神、夫は洗濯鬼神と化し、私の分の石鹸を使いきったのだった。そしてドヤ顔で「俺の分の石鹸、使っていいよ」となぜか誇らしげに言ってきた。その石鹸すら、もう半分しかないではないか。
だから毎日ちゃんと洗濯することは別に「普通」ではないと知った。あの鬼の姿を見ればむしろ、ちゃんと洗濯しようとしているやつのほうがヤベェと思うかもしれない。
何の話をしていたかもう忘れたけど、私は弾切れの朝に絶望しないため、手持ちのパンツと同数のパンツを最近購入した。合計20枚以上のパンツが私の弾薬盒に入っている。つまり、約3週間パンツを洗わなくても、私は絶望の朝を迎えることがないのだ。
普通じゃないカリスマに憧れる。「フツー」は「ダセー」と思っている。そのくせ、普通のことができない「まとも」じゃない自分が情けなくて仕方がない。
だから私はパンツを買った。これで万事解決。悪いか。朝、起きて、普通のことができない自分に絶望しないでいられるのなら、安いものである。
今日も私は二度寝から目覚めた。またハイロウズを聞いている。
タンスから清潔なパンツを一枚取り出し装填する。
寝ぼけたままナチュラルハイで
幸せになるのには別に誰の許可もいらない。
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mustachekiwi · 5 years ago
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お骨上げは2時間後
あなたは今、自宅のリビングにいる。そばには、あなたの配偶者��あなたには2人の子どもがいる。上は9歳、下は6歳、いつもはケンカばかりしているが、今だけはおとなしい。リビングの隣の和室で、仲良く大好きなミステリードラマを見ているからだ。あなたはリビングでのんびり、別の番組を見ている。食後のコーヒーとデザートを楽しみながら。
ふいに、和室の戸が開いた。立っていたのはあなたの下の子だ。子どもは不安げな顔でこちらを見ている。
あなたは配偶者と顔を見合わせて「どうした?」と子どもに尋ねる。
すると、子どもがゆっくりと口を開いてこう言った。
「ボタン電池を飲んだ」
あなたは大慌てで子どもに駆け寄る。
「どうして?いつ飲んだ?今さっき飲んだの?」
あなたが子どもの肩を掴みながら、問いただすと、子どもはこう答えた。
「1年…いや、2年くらい前」
さて、あなたの次の言葉は?
両親は、子どもがなぜ 今になって 2年も前に飲んだボタン電池の話をしだしたのか、さっぱりわからなかった。当時6歳の子どもは、その理由を説明する術を持たず、ただ「2年前にボタン電池を飲んだ」という事実を伝えることしかできなかった。
おかげで両親はその後十数年、このミステリーが胸に突き刺さったまま生きていくこととなる。
もちろん、私の両親の話である。
これは、私(a.k.aミステリーの元凶)が6歳の時に実際に起こした事件である。しかし、この謎について語るためには、時を更に2年遡る必要がある。
4歳の私は保育園の園庭で地べたに三角座りをしている。目の前には両膝。右膝を見ると、昨日できた擦り傷がかさぶたになりかかっていた。どこかで耳にした「傷は舐めてりゃ治る」という話を「舐めれば舐めるほど早く治る」と曲解した私は、目の前の傷をぺろりと舐めてみた。
む、おいしいな。
傷口がこんなにもおしいとは思わなかった。先生がやめるように言うまで、私は右膝を舐め続けた。 それから数日後、私は家の窓際にボタン電池を見つけた。傷口をためらいなく舐める少女に、恐れるものなど何もない。私はボタン電池を口に放り込んだ。
む、同じ味がするな。
傷口を舐めた時の、あの味と同じではないか。私は夢中になって飴玉を舐めるように口の中でボタン電池を転がした。歯に当たってカチャカチャとなる感覚も心地よい。ほほほ、これは良いものを見つけたぞ。そこから数日、隙を見つけては同じ場所でボタン電池を味わった。調子がいい時は二ついっぺんに口に入れたりした。 ボタン電池を口に入れたことがない人のために解説すると、ボタン電池は裏側がおいしい。味がとてもよくしみ込んでいるので、塩やソースなどつけずに、そのままいってみてほしい。(絶対にマネしないでください)
ある日、いつものようにボタン電池を口の中でコロコロと転がしていると、何かの拍子に思わず飲み込んでしまった。一瞬、あ!と思ったが、まあ、よしとしよう。全然気にしなかった。
ところが数日後、今までガムを吐き出さずに飲み込み続けていたことについて、母親にかなり強めに注意される。母の説明によると、どうやら身体の中で「うんこ化」できないものがあるらしい。当時の私は食べたものはすべて須らくうんこへとトランスフォーム(=うんこ化)して体の外に出るものだと信じていた。口に入れることを前提にしているガムですら吐き出す必要があるのだ。機械の裏側にはめ込むはずのボタン電池など、絶対にトランスフォームしないじゃないか。うんこ化できないとわかってはじめて、犯した罪を知る。もちろん不安にもなる。うんこ化されないボタン電池は、私の体内でどうなるのだろうか。めちゃくちゃ怖い。
しかし、ガムでこれだけ注意されているのだ。ボタン電池、しかも結構時間が経っているとなれば、これはとてつもなく怒られるに違いないと思い、母親にボタン電池の一件を告げることはできなかった。 かくして、私は4歳にして「飲み込んでしまったボタン電池の行方」という「悲しい謎」を胸に秘めて生きていくことになってしまった。
それから2年後の事件当夜、6歳の私は和室で兄と二人、堂本剛主演の『金田一少年の事件簿(2nd season)』を観ていた。このドラマの主題歌、作詞・松本隆/作曲・山下達郎の『Kissから始まるミステリー』にはこんな一節がある。
”恋はミステリー 人は胸に 悲しい謎をかくして生きている”
私は突然、この言葉に囚われてしまった。額から汗が流れてきた。そう、私は4歳のころから「悲しい謎」をかくして生きてきたのだ。 さらに歌はこう続く。
”恋はミステリー 誰かぼくの 胸のナイフを静かに抜いてくれ”
抜いてほしい!私もこの胸に刺さったナイフを、抜いてほしいなあ!
「私はこの先、一生、ボタン電池の件を両親に隠したまま生きていくのか。この胸に刺さったナイフ、もとい、腹に残ったボタン電池はずっとこのままなのか。」という気持ちになったのである。
この言葉にすっかり囚われた私は、ついに耐え切れなくなり、自分の中のミステリーに終止符を打つことにする。6歳の少女を突き動かす力、松本隆×山下達郎、侮れん。
私はおもむろに和室の戸を開け、隣のリビングにいた両親に向かって、「ボタン電池飲んだ」とだけ言った。 当然。両親は驚いて私のところへすっ飛んできた。 父は「どれくらいの大きさや?いつ飲んでん?」と矢継ぎ早に質問し、母はボタン電池のパッケージの裏に書かれているお客様相談室に電話をかけたが、時間外で繋がらず、救急に電話をかけていた。 「いつ飲んだ?今さっきか?」 父の眉間のしわがめちゃくちゃ深くなっていくのを私は見ていた。私の肩を掴む手の力もとても強い。
「いや、1年、ううん、たぶん2年くらい前」
リビングが静まりかえった。 「…2時間前か?」父はかなり混乱していた。 「ううん、たぶん2年くらい前」私はキリっとした表情で答えた。 救急と電話を繋げていた母は電話口で同じ質問を受けていたようだ。 「あ、え、あの、えっと、子どもは、なんか2年前に飲んだって言って…、ええ、2年前です、2年前に飲んだって言ってるんですけど…。」 電話を切った母は、「たぶん、それだけ時間が経ってたら自然と便と一緒に出てると思うって言われた。」と脱力しながら言った。 父はうつろな目で「なんで今言うねん…。」とうわ言のように繰り返していた。母も「ほんまや…なんでいきなり…。」としか言わなくなった。
こうして、私は自分の「悲しい謎」を解決することができたと同時に、両親にとてつもない「悲しい謎」を与えることとなってしまった。
大人から見れば全く不可解な行動であっても、子どもには一つ一つ自分なりの理由があるのだ。だが、6歳の私は、それを説明する能力がなかったのである。まあ、説明できるようになった今でも、これを聞いて納得してくれる人がいるとは思っていない。
両親曰く、私は昔から珍行動の多い子どもだったらしいが、両親の心に大きなミステリーボタン電池を埋め込んだ一件として、三十歳になった現在でも数年に一回は父親にこの事件について掘り返されている。
ちなみに自分の観測の範囲ではボタン電池が便と共に出てきた記憶がないので、もしかしたらまだ私の体内に残っているかもしれない。
私が死んだ時は、ぜひ火葬場で確認してみてほしい。
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mustachekiwi · 5 years ago
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中年の文鳥を飼う方法
私はめちゃくちゃ心が狭い。体感的には二畳半くらいだ。一応これでも広くなった方だ。二十歳のころは、多分今の半分以下だったと思う。
部屋と一緒で、心が狭いと本当に生活しづらい。周りの何もかもに憤りを感じて、すべて自分の部屋に収まるサイズに削り取ってしまおうとする。とんでもねえことだ。
ああ、もっと広い心に住みたいな。使いづらいオシャレなローテーブルとか置きたい。洗濯機で洗えない、デリケートなアルパカのラグとか敷きたい。
部屋が広いのは目で見ればわかるけれど、じゃあ、心の広さはどうやったらわかるのか。シャーディーの千年錠があれば簡単だけど、持ってないしな。
仮に、心の広さを「ゆるせること」で捉えてみたらどうか。ひらがなで書いてるのは「許す」「赦す」のどちらの意味も含むような気がしているので。
H先生の『想像メソッド』
「ゆるすこと」について考えているといつも思い出すのは、大学時代の恩師、H先生のことである。
ある日、H先生の研究室で、先生を慕う学生数人と先生と仲の良いM先生と一緒に、放課後のほほんと、おしゃべりvery timeを過ごしていた。すると突如M先生が大学関係者に関する愚痴をぶちまけ、だんだん怒りのこもったトーンになってきた。なんでああいうことをするんだ。何もわかってないんじゃないか。自分のことばっかりじゃないか。
我々学生はハラハラしながら曖昧な表情であいづちをうつしかなかった。
するとH先生が、「ねえ、もしかしたら何かこちらには見えていない事情があるのかもよ。想像してあげないと。いい風に捉えてあげるのよ。」と穏やかな口調で言った。
「想像してあげる」これは大事なキーワードかもしれない。誰かに対して、「なんでやねん」という気持ちになった時、その人の事情や気持ちを慮れば、その人の振る舞いが理解できるようになるかもしれない。しかもそれは事実である必要はない。極端なことを言えば、自分を納得させるために、話をでっちあげたっていいわけだ。
H先生の話を聞いてから、大学生の私はこの想像してゆるす方法を勝手に『想像メソッド』と名付け日常生活に取り入れるようにした。
想像メソッドの実践
翌日、5階の講義室に行こうと思ってエレベーターに乗ったら、一緒に乗ってきた人が2階のボタンを押した。私は瞬時に「階段使え!」と思ったが、「いや、もしかしたら体調が悪いのかも」と想像することで、その人を自分の中で「ゆるす」ことができた。
え、いや、そんなことで怒ってるの?そもそもこれは「ゆるす・ゆるさない」の話ではないのでは?と、すでにドン引きの方がいるのは想像に難くないが、当時の私の心の狭さは一畳くらいだったのです。こんなものなのです。自分の周りのありとあらゆるものに反射的にキレているのです。ついてきてください。
別の日、パン屋のレジで店員さんに「レシートはご利用ですか?」というトリッキーな質問をされ、いつもなら「ご利用じゃなくて『ご入用』な!!!」とシャウトしそうになっているところだったが、「もしかしてこの店員さんの地元の方言には英語の『サイレントE』みたいに、書かれているけど発音しない文字のルールがあるのではないか。語中の「い」は発音しない、その名も『サイレントい』的なルールが……」と想像して、「ありがとう。ノーご利用です。」と言って店を出た。自分が日本語を喋っているからと言って、日本語をすべて理解しているわけではない。むしろ知らない日本語の言葉やルールのほうが多いのだ。私はパン屋さんで「サイレントい」という新しい日本語の一面に出会ったのだ。もちろん、検証はしていない。想像メソッドだからだ。
また、別の日、電車を降りようとした時、同じタイミングで降りようとしたスーツの中年男性とぶつかった。私が「すみません」と言う前に、男性は「チッ」と舌打ちをした。今までの私なら、すぐに男性を線路内にドーーーン!案件だが、想像メソッドを取り入れた私は、もちろんそんなことはしない。
この男性、人間に見えるが、実はほんの一週間前までは文鳥だったのである。文鳥の「文彦(ふみひこ)」は一人暮らしの会社員の岩本(40)に飼われていた。岩本は不器用な男で、友達や恋人もおらず、話し相手は文彦だけだった。文彦には、人語がわからぬ。文彦は、ペットの文鳥である。 岩本が落ち込んでいる時は、主人を励まそうと「チュピチュピ」と鳴いて慰める、心優しい文鳥だった。 でも、もしも人語が喋れたら、いや、もしも自分が人間だったなら、岩本の親友になって、話し相手になってやれるのに。そう思うようになった。そう願い続けていたら、ある朝、なんと文彦は人間になっていた。それも岩本と同世代の中年男性になっていた。岩本は朝起きたら知らないおっさんが裸で鳥かごの前をうろついていたので、とりあえず気絶した。気絶から覚めても尚パニック状態の岩本に、文彦はなんとか自分が文鳥であることを全裸で説明した。人間になっていたので人語は使えるようになっていたが、時折「チュピ」とか「チュン」とうい小鳥っぽい音を発してしまう。だが、そのおかげで岩本は文彦が文鳥であることに、半信半疑ながらも、納得してくれた。そしてとりあえずズボンをはくように言った。岩本は文彦に一人では外に出ないように言いつけていた。文彦は外の世界のことなど全く知らないからだ。最初の6日間はおとなしく家でテレビを見ていた文彦だったが、7日目の朝、岩本が忘れていったスマホが鳴った。文彦が苦労して電話に出ると、慌てた岩本が「鞄を移し替えたせいで、大事な書類を忘れた。届けてくれないか。」と言った。文彦は岩本のためなら、と会社までの行き方を鳥頭で覚え、戸惑いながらもなんとか電車に乗ることができた。しかし、電車内は想像以上に息苦しく、何度もチュピチュピ鳴きながら耐えていた。ようやく目的の駅に着いた。やっと降りられる!そう思って扉から飛び出そうとした瞬間、隣の人間にぶつかった。文彦は驚いて思わず「チュッンッ!!」と鳴いた。
これが『side story F~小さな文彦の大冒険~』である。初めての外出、人込み、岩本に託されたミッション、文彦は小さな文鳥には抱えきれないほどのプレッシャーだらけの中、懸命に電車を降りようとしていただけである。驚いて、思わずさえずった。それだけのことだ。そんな幼気なおっさん文鳥を、誰が責められるというのだろう。
その後、乗り換えた電車内で私ははたと気が付いた。文彦、ネクタイしてた。すごいぞ、文彦。めちゃくちゃすごいぞ。人間でも手こずるのに、文鳥の文彦が岩本のためにネクタイまで…。そうだよな、会社の人に見られるかもしれないもんな。ちゃんとした服装で行かなきゃって思ったよな。そう考えると、涙が止まらなくなった。私は泣いているところを他の人に見られないように、そっと顔を窓の方に向けた。文彦は無事に岩本に会えただろうか。西宮の閑静な住宅街が窓外に流れていった……。
この一連の話を、後日H先生にしたところ「ちょっと色々と考えすぎとちがう?」と言われ、なぜかお坊さんが書いた、前向きに生きるヒント的な本を貸してくれた。すごく心配された。その前の週に、私が期末レポートの資料用にブックオフで買った鶴見済の『完全自殺マニュアル』が鞄に入っているのを見られたことも関係しているかもしれない。
いずれにせよ、私は先生のメソッドを取り入れたつもりだったが、なんかたぶん色々と間違っていたっぽい。
当時の私を振り返る
そもそも、自分が常に「ゆるす・ゆるさない」のジャッジを下す側にいると思っていることが間違いであった。(ここでやっと皆さんに追いつきました。お待たせしました。)それが私に向けられた言動ならいざ知らず、他人の行動にいちいち目くじらを立てている方がおかしいのだ。謂わば、自分の部屋の前を通り過ぎている人に向かって「私の部屋に入れてやらねーからな!」と叫んでいるようなものだったのだ。ただの変質者である。
「ひっこし!ひっこし!さっさとひっこし!しばくぞ!」
かつてリズミカルにこんなことを叫んでいてニュースになった(そして騒音傷害という罪で捕まった)人がいたが、私のメンタリティも似たようなもんだったかもしれない。
私が想像メソッドを実践した上の三つのケースを例に考えてみる。
まず一つ目のエレベーターについては、エレベーターが各階に止まるように設計されていて、施設の利用者ならば誰でも使っていいはずなので、2階のボタンを押した人には全く非はなく、この人は自分が持つ施設利用者としての権利をルールの範囲内で行使したに過ぎない。したがって、私が「ゆるす・ゆるさない」のジャッジの対象にするべき問題ではないのだ。むしろ、私は自分がなぜそんなことでイライラしたのか、と自分自身の苛立ちについて考えるべきではないだろうか。
これは私の中にいつの間にか「エレベーターを使うのは4階以上の時だけ」という自分ルールが作られており、それを他人にも当てはめようとしていたことが原因だと考えられる。自分ルールは自分だけに適用すればよい。でも、他の人にはそのルールを守る義務も義理もないのだ。エレベーターも、自分が2階に行く時は階段を使えばいいだけ。もっと言えば、そういう人を見てイライラするならどの階に行く時も階段使えばイライラしなくて済むよ、大学生の私。 
「あいつだけずるい!」みたいな気持ちになった時は、自分が作ったルールを社会規範のように思い込んでいないか考えてみる必要がある。というわけで、このケースは想像メソッドを使うまでもなく、私が他人に自分ルールの順守を求めることをやめれば済む話であった。そういうところだぞ、大学生の私!
二つ目のパン屋の「ご利用/ご入用」問題についてはどうか。
店員さんは「レシート要りますか」と聞きたかったのだから、やはり正しくは「ご入用ですか」と聞くべきだったと思うのだが、例え「ご利用ですか」と言われた(というか聞こえた)ところで一体何が問題だったのだろうか。文脈から「レシートが要��かどうか」の質問であることは明白で、その数秒のコミュニケーションに何ら支障をきたすような間違いではない。
私の中の日本語憲兵みたいなのが「乱れた日本語おおおおおお許すまじいいいいいい」みたいなことを言って暴れていただけのような気がする。言葉は知らない間に変わっていく。誤用が浸透すれば辞書に載るし、正しい意味が忘れられれば消えていく。そういうものではないか。誰も死語のために墓を建てたり弔ったりしない。言葉は静かに少しずつ変わっていくのだ。(私はひそかに「ナウい」「ヤング」を死守するために戦っているが。)
それよりもむしろ、正しさを笠に着て相手より優位に立ってやりたいという、そのマウンティング根性を何とかしたほうがいい。非常にあさましい。あさましいぞ!大学生の私よ。
さて、問題は三つ目の電車降車時の舌打ち事件である。
文彦(仮名)は明らかに私に対して敵意を向けていた。しかも私はただ電車を降りようとしただけなのに、見ようによっては向こうからぶつかってきたともとれるのに、そして私は謝ろうとしていたのに、舌打ちをかまされ、唖然として謝ることもできなかった。
これはまさに「ゆるす・ゆるさない」の俎上にのせるべき問題だと思う。そして、私は見事に想像メソッドを活用して、暴力に訴えることなく、平和的に「ゆるす」ことができた(神戸線の車内でネクタイのことに気づいて号泣したことはさておき)。三つの中で最も適切に想像メソッドを活用できたケースだと言える。
想像メソッドの有効な活用法とは
しかし、一方で別の想いもある。文彦は、私が小沢仁志みたいなルックスだったら、同じことをしただろうか。私が室伏広治のような見た目でも舌打ちをしただろうか。絶対にしていない。春の野原でこっそりとかくれんぼをしている、たんぽぽの妖精のような可憐で愛くるしい見た目の私だから、文彦は反撃されないと思って舌打ちをしたのだろう。
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小沢仁志・主演『制覇17』
文彦はあれ以降も、弱そうな相手には同じように攻撃的な態度を見せているかもしれない。私がやつをゆるしたばかりに、罪を重ねている可能性がある。やはり「なにが『チッ』じゃ、おのれが気を付けんかい、このドぐされスーツじじい!」くらい言っても良かったのではないか、そんな気もしている。
ゆるすことで何となく心は穏やかでいられるが、スッキリはしない。想像メソッドはその瞬間の衝突を回避するには向いているが、カタルシスを得るには十分ではないし、根本的な解決にはつながらない。
これらのことから、想像メソッドは、①相手が自分と対等な関係で②相手の言動が明らかに自分に向けられていて③その言動によって自分が傷つけられたと感じた時には有効である。例えば友人や家族の言葉や態度に傷ついた時、怒りや悲しみを相手にぶつける前に、想像メソッドを使ってみる。そうすれば、一旦、負の感情の爆発は抑えられる。その状態であらためて自分が傷ついたことを、相手に伝えてみる。
こういう活用方法が一番よさげだ、という結論に至った。10年かかった。長かった。はやくにんげんになりたい!!
H先生がゆるさなかったこと
最後に、私が実践した3つのケースに含まれていない例についても書いておきたい。このメソッドの開発者(私が勝手に呼んでるだけ)であるH先生がぶちぎれた時のことである。
ある学生が、授業中に担当教員から容姿や仕草について、侮辱的な言葉(当時はやっていた○○系男子/女子)で呼ばれ、他の学生の前で揶揄われた。その学生はその場では笑って過ごしたが、授業中に教員に皆の前で自分の容姿や態度を馬鹿にされたことがとてもショックだったという。
学生はH先生と仲が良かったので、先生にこの話をしたらしい。
H先生はこの件に関して、それはそれは怒っていた。「それは間違いなくセクハラ。絶対にゆるされない。」と言った。
教員と学生の立場は決して対等ではない。こと日本の大学において、教員は学生よりも常に強い立場である。強い者が弱い者に言葉の暴力を向けたのだ。しかも、それは学生の性を揶揄するものだった。教員はセクハラ加害者で、学生はセクハラの被害者である。
被害者が加害者の気持ちや事情を想像する必要はまったくない。
でも、なぜか、セクハラを訴えると、必ず加害者側の事情を察したり、慮るようなことを言う人が少なくない。
「ほめ言葉のつもりで言ったんじゃない?」「あなたが笑ってたから問題ないと思われたんでしょ」「そんな見た目だからそういうこと言いたくなるよ」
私もかつて自分が性暴力の被害を受けたときに、励ましや慰めの言葉に交じって、このような加害者擁護の言葉を投げつけられたことがある。
だが、H先生は自分の同僚のセクハラ発言に毅然と「ゆるされないことである」という意思を表明した。1ミリもセクハラ教員の気持ちを想像することはしなかった。セクハラ加害者ではなく、被害学生の気持ちを、その痛みを想像した。
私は正直その「○○系男子/女子」という言葉自体にそこまで暴力性を感じなかった。自分が言われても多分、イラっとはするけど傷つきはしないと思った。でも、想像力は、自分が平気だから相手も平気だろうと考えることではなくて、傷ついた人はどんな風にその言葉を受け止めたかと考えるためのものだと思い知らされた。
これこそが、私がすっかり見落としていた想像メソッドの最も大事なポイントだったのではないかと思う。
最後に
10年経った今、岩本は文彦を電車ではなくタクシーに文彦を乗せればよかったのではないかと気づいた。
でも、それはまた、べつのおはなし……。(声:森本レオ)
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mustachekiwi · 5 years ago
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股から血が出てんだぞ、赤飯なんか炊くな
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「生理」って口に出しても殺されないから安心しろ
生理のこと「あの日」とか呼ぶなよ。ヴォルデモートじゃあるまいし。禁句でも放送禁止用語でもないだろ。隠すから怖いものだと思うんだ。汚いものだと思うんだ。エロいものだと思われるんだ。なんでドラッグストアやコンビニで謎の茶色い紙袋や黒いビニール袋に入れて隠されるんだ。何の裏取引なんだ。何もやましいことなんかない。
いいよ、ステッカー貼ってくれよ。
「このお客様は生理用ナプキンを購入されました!」
っていうステッカー、好きなだけ私の買い物袋に貼ってくれ。
「生理がある人」=「女性」ではない理由
「名前を呼んではいけないあの人」ことヴォルデモートが登場する『ハリーポッター』シリーズの生みの親、J.K.ローリングは今年6月、”Creating a more equal post-COVID-19 world for people who menstruate(生理がある人のためのより平等なコロナ後の世界を作る)”という記事に対してあるツイートをした。
‘People who menstruate.’ I’m sure there used to be a word for those people. Someone help me out. Wumben? Wimpund? Woomud?
— J.K. Rowling (@jk_rowling) June 6, 2020
(拙訳)「生理がある人」確かかつてはそういう人たちを表す言葉があったと思うんだけど。誰か教えて。ウンベン?ウインプンド?ウーマドだっけ?
要は、ローリングはこの記事が「女性」ではなく「生理がある人」という表現を使っていることを皮肉っているのである。しかし、記事がわざわざこのような書き方をしたのには理由がある。月経があるのは女性だけではないからだ。
「え?月経のある男性なんているの?」と思われるかもしれないが、トランスジェンダーの男性の中には生理がある人もいる。また、自分を男性とも女性とも自認していない人の中にも、月経がある人がいる。したがって「生理がある人」=「女性」とすることの危うさとは、月経に関する大事な情報共有や議論の場において、「生理がある女性」以外の「生理がある人」が、蚊帳の外に置かれてしまうことである。
アメリカに月経用ショーツを作っているTHINXという会社がある。この製品の売りは、ナプキンやタンポンなどの生理用品なしでショーツだけで生理期間を過ごせるよ!というものである。販売が始まったころ、私はTwitterでTHINXの存在を知り、そこでこの製品が生まれるきっかけとなった、トランス男性の悩みについて読んだ。2016年頃のことだったと思うが、当該のページが見つけられなかったので、同社の2018年のブログ記事の一部を抜粋する。基本的にトランスジェンダーの人々に対する、企業のスタンスは変わっていない。
Many people have less than positive feelings about their period, but imagine how these feelings may intensify if you don’t identify as a woman. For trans people with periods, menstruating can exacerbate dysphoria, as well as incite a number of complicated emotions. In a world where periods and menstruation are still almost exclusively tied to women’s health, it can be difficult to find the resources you need, or even feel comfortable enough to discuss what you’re going through. 
― Thinx Piece, Aug 23, 2018
(拙訳)多くの人が自分の生理を決してポジティブには捉えていませんが、自身を女性だと認識していない人にとっては、その感覚はより強いものになるでしょう。生理のあるトランスジェンダーの人々にとって、月経は不快感を強くもたらすだけでなく、たくさんの複雑な感情を呼び起こすものです。未だに月経が女性の健康とのみ関連付けられる世界において、(生理のあるトランスの人々が)必要なリソースを見つけたり、自身の経験について心おきなく語ったりすることは容易ではないでしょう。
普段は男性として生活していても、月経が来れば自分の体が女性であることを突き付けられるように感じ人がいる。男性トイレを使っているので使用済みの生理用品を捨てるゴミ箱がなく不便な思いをしている人がいる。言われてみれば当然のことなのだが、私はTHINXの話を読むまで、そんな人がいることを想像すらしていなかった。当時のは私は「生理がある人」=「女性」に何の疑いもなかった。多分、その時の私がローリングの発言を見ても、なんの疑問も抱かなかっただろう。
THINXはサイト内で徹底して「生理がある人」という言葉を使っている。それは、女性ではない「生理がある人」を絶対に排除しないというメッセージだ。
無知や無関心は、知らない間に誰かに不便を強いたり、誰かの権利を踏みつけたりしている。自分が知らないのが恥ずかしいからと言って、無視することはできない。人のこと踏みたくなければ、もっと学ばなければ。もっと考えなければ。もっと想像しなければ。
(2016年にTHINXがトランス男性モデルを使った広告を出した時のモデルへのインタビューもとても印象的なのでぜひ見てほしい。英語。)
「生理は個性」「生理中もハッピーに!」ぶっころす
生理用品は日々進化してる。前述のTHINXもそうだし、月経カップや月経ディスクという、ナプキンやタンポン以外のものが徐々に増えてきた。また、低用量ピルやIUSのように、避妊効果に加えて月経困難症の改善や経血量の軽減につながるものも少しずつ認知されるようになってきた。
生理は、経血量、期間、PMSの症状など、すべてに個人差がある。同じ人でも環境や年齢、生活習慣が変われば変化する。だから、選択肢は多い方がいい。自分が使いやすいもの、自分のライフスタイルに合ってるものを選ぶことは、生理と付き合っていくうえで大事なことである。
しかし、ロリエ(花王)が「生理を”個性”ととらえれば 私たちはもっと生きやすくなる」というコピーを引っ提げて「kosei-fulプロジェクト」を打ち出した時は、案の定炎上した。私も 腸が煮えくり返りそうになった。生理が個性だと?
月経によって起こる症状を「個性」などと呼ぶべきではない。生理の症状が重ければ、日常生活に支障が出る「問題」であるし、それは病気の兆候という可能性もある。「個性」とはその人物を他者と区別し、その人が何者であるかを語るものである。うんこやおしっこが誰かの「個性」になり得ないように、生理の症状も「個性」などではない。
また、女性向けメディアには「生理中をハッピーに過ごす方法」「ブルーデーをハッピーデーに!」「生理中も彼とハッピーに過ごそう」みたいなメッセージが溢れている。どれだけ生理用品が便利になって、今より快適なものが見つかろうと、生理中が「ハッピー」になることはない。絶対にない。生理中はファッキンアンハッピーでくそったれだからだ。(私は生理前も生理中もめちゃくちゃ下痢になるのでリアルにくそったれ状態になる。)
そんなクソみたいな期間、多少ナプキンの吸収力が上がろうが、肌に優しくなろうが、コンパクトになろうが、着脱が簡単になろうが、決してハッピーになることはない。マシになるってだけだ。
「いくらブタ箱の臭いまずい飯がうまくなったところで それで自由になったのかい」by岡林信康
ってことだ。
だから「生理をハッピーに」「ポジティブに」みたいなメッセージは全部焼き払いたいくらいむかつく。うるせーよ。さっさと正露丸買ってこいよ。こちとらトイレから出られねえんだよ。くっそたれ。くそったれは私か。やかましいわ。
教育は「生理」にしょうもないメッセージを託すな
小学校の保健の先生は「女の子の体は、大人になると毎月赤ちゃんのためのベッドをお腹に作ります。赤ちゃんができなかったときはそのベッドが要らなくなるので体の外に流れ出ます。それが生理です」と説明した。
小5の私は「なんで毎月ベッド捨てるんだ。」と思った。シーツ取り替えたら済むだろ。というか、なんで予約も入ってないのにベッドの準備してるんだ。子宮ホテルの支配人をクビにしろよ。あほの客室係は支配人の命令で今月もせっせと使われなかったベッドを捨てている。(確認したら、生理用品「エリス」のウェブサイトでも「赤ちゃんのベッド」という表現を使っていた。)
中学の保健体育の先生は「生理って辛いよね。でも、生理が毎月来るのはみんなが健康だって証だから。体がちゃんと機能しているよって印なの!」と言った。
違うがな。その「健康の証」が来るたびに腰が爆発したり、頭痛で起きられへんかったり、眠気がやばくて勉強できひんかったり、お腹痛すぎて白目向きながら授業受けてる人間がおるんやがな。学業に支障が出とるんや。「健康の証」が、健康を害しに来とるんや。当然だが、生理が毎月来てても普通に病気の可能性はある。生理は生理が来ていることの証にしかならない。
高校の保健体育の先生は「女性は将来赤ちゃんを産むために生理がある。みんなもいずれは母親になる。月経はそのために必要なことで、すごく大切なものなんだ」と言った。
月経は妊娠と関係がある。だが、しかし、私が日常生活で生理に関してめんどくさい・しんどいと思うことと、将来出産するかどうかは全く別の問題である。「うーん…😢なぜか月に数日、下腹部が内側から針で刺されるような痛みに襲われるけど、これも将来赤ちゃんを産むために必要なことなんだよね😊がまん、がまん!😊」とはならない。高校生の私がこのタイプの下腹部痛に襲われている時に思っていたことは「女の身体設計したやつほんまに死ね」である。
また、私は教育者が「みんなもいずれは母親になる」などと言う暴言を吐いたことが未だに信じられない。将来、母親にならない人も、なれない人も、閉経するまで月経と付き合っていくのに。あまりに無神経で差別的な言葉だ。将来母親になるかどうか、そんなのはお前がどうこう言うことじゃない。そのジャージ燃やすぞ。
私の身体に月経は起こる。もう、それは変えられない。だからこそ、私が学校で先生から聞きたかったのは、赤ちゃんのベッドがどうとか、将来ママになる準備がどうとか、そういうフワフワくそ煮込みファンタジーの話ではなく、その月経と、この後の人生どう付き合っていけばいいかという現実的な話だった。
月経前症候群、月経困難症、子宮がん・子宮頸がんの検診、低用量ピル、基礎体温のつけ方、もっといっぱい伝えるべき情報があっただろうに。気になったら気軽に婦人科に行って相談せよ、薬でなんとかなることも多いぞ、などとは誰も教えてくれなかった。教えてほしかった。
ちなみに私は大学生になるまでPMSについての知識がほぼなく、16歳くらいからの4年間、「死にたい。我に生きる価値なし。死にたい」という夜が毎月1週間ほど続く地獄デイズを送っていた。大学の先輩にその話をしたら「それはおそらくPMSでは?」という助言をくれた。それから婦人科に通うようになり、自分でも生理に関する情報を集めるようになった。まじで、学校が教えろや。ほんまに死んだらどうする。
最後に
生理は本当にろくなもんじゃない。私は「生理があってよかった」と思ったことは一度もない。これからも絶対にない。
言うまでもないが、今まで書いたことはすべて私個人の見解である。「生理中も工夫してハッピーに過ごすぞ」と思っている人を否定するつもりはない。症状が軽く、私の言っていることが全然理解できない人もいるだろうと思う。反対に私以上に「ファッキン生理」と思っている人もいるだろうし、様々な事情で自分に生理がない・来ないことに思い悩んでいる人もいると思う。
「生理がない人」が周りの「生理がある人」から話を聞いたとき、それが生理の全てだと思ってしまうことがある。すでに述べたが、生理には個人差がある。100人いれば100通りのファッキン生理エピソードがある。
だからこそ、教育やメディアや企業は、生理にまつわるエトセトラを、無神経に扱うな、と強く思う。不必要にポジティブなメッセージを託すな。クソなものにこれ以上クソをトッピングしてくれるな。
というわけで、初潮迎えたからって赤飯炊くのやめろ。気持ち悪いから。男は精通したら炒飯でも作るんか?あほか。赤飯は好きな時に食べさせろ。栗が入ってるやつがうまい。
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mustachekiwi · 5 years ago
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その人が座っていた場所を覚えておくと
祖母のお別れ会には行けなかった。去年の9月は外国にいたからだ。その日も変な時間に母親からの着信があった。脈絡のない着信は嫌な合図だ。私は電話を取る前から、何の用かわかっていた。母がいきなり私に電話をかけることはない。いつもテキストメッセージだし、私からの連絡に急いで応える必要がある時だけしか電話をしない。同じ年の1月に、同じような着信があったばかりだった。その時は大好きな伯母の訃報だった。
よく、お葬式のような別れの儀式は故人のためでなく、残された人たちのためだという。私は無神論者だから、死んだら死んでいるだけだと思っている。天国とか極楽とか地獄とか閻魔様の裁きとか魂とか生まれ変わりとか、そういうものを信じていない。でも、亡くなった人のお別れ会があればできるだけ行きたい。その人のことだけを考えられる場所と時間はすごく大切だ。日常生活の中で亡くなった人のことを思い出して泣いたり、思い出を語ったりできる場面は少ない。私は大好きな人がいなくなったら、本当は1週間でも1か月でもそういう時間が欲しい。でも、それはできない。いつまでも死んだ人のことばかり考えていたら、誰かに励まされてしまう。慰められてしまう。
涙はおまけだ。勝手に出てくる。ポカリをがぶ飲みしたらトイレにすぐ行きたくなるのと同じで、好きな人にもう会えないと思ったら自動的に目から水が溢れてくるだけなのだ。もしも私が今の職場で突然涙を流したら、同僚はハンカチや温かい飲み物を差し出すかもしれないし、上司は「今日はもう帰りなさい」と言うと思う。その日の夜か次の日の朝、「気分はどう?無理しないでね」というメッセージをくれるかもしれない。でも、私は平気だ。ただ死んだ祖母を、伯母を、もっと前に亡くなった伯父や祖父を思い出したら、勝手に涙が出てきただけだ。心は通常通り元気に運行しております。大人がいきなり泣いたりするのはこれほどまでに大事件として取り扱われるので、大人が泣いてもいい理由をくれるお別れ会は、私にとっては有難いものなのだ。
ご想像の通り、私はこのnoteを書きながら号泣している。誤字脱字があったら、たぶん涙のせいだから許してほしい。
祖母のお別れ会で泣けなかった私は、部屋で一人で泣いた。母が送ってくれた古い写真を見返して、目と鼻と口が一つのプールになるまで泣いた。お別れ会の様子はわからないが、きっとそこに来てくれた誰よりも泣いた。今年の夏、ようやっと実家に帰って、骨になった祖母に会った。写真に手を合わせながら「ただいま」と言うと、祖母が憎たらしく「けっ」と悪態をついた気がした。
来月で、祖母が亡くなって1年になる。実は祖母が死んだことがまだよく理解できていない。今でも地元の特養に行けば、車椅子の祖母に会えるような気がしている。同じ棟に住んでいる愛想の良い男性利用者が私たちに挨拶しながら通り過ぎると、まあまあ大きな声で「喋ったらあかん。あの人キチガイやで」と暴言を吐く祖母が、そこにいるような気がしている。
伯母が亡くなった時、従姉妹が同じようなことを言っていた。「あのリビングに行けば、おばちゃんが笑って出迎えてくれるような気がしてる。」私もそう思う。スツールに腰かけて、裸足をブラブラさせている伯母がそこにいるような気がする。同じリビングにはストーブの前で胡坐をかいている伯父もいるような気がする。実家の前の通りの縁石に腰かけて煙草を吸っている祖父も、そこで私の帰りを待っていてくれる気がする。
もう会えなくなった誰かに会いたくなった時、その人よりも先に、その人が座っていた場所を思い出す。すると、その人が勝手にやってきて、知らない間にそこに座っている。死んだ人は何も言わない。でも、そこに座っていてくれるだけで十分だ。その場所に実際に行って、思い出してもいいけど、やっぱり涙が出てきて、もしもそれが外だったら、近所の人が心配したりするかもしれないので、部屋でゆっくり、一人でその場所を思い出しながら泣いたらいいと思う。頭の中にある場所は、工事や模様替えがあっても変わらないから、心おきなく死んだ人に会える。死んだ人は、私がいくら顔をぐちゃぐちゃにして泣いていても、心配の言葉をかけたりしないから気が楽だ。
昨日、友達に死んだ伯父の話をしたせいで、寝る前に伯父に会いたくなった。私の頭の中のリビングで、伯父は寝転がって、涅槃のポーズでタイガースの試合を観ていた。座っていなかったけど、まあそこにいてくれるなら、別にいい。
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mustachekiwi · 5 years ago
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13年前のゲボ
時差ボケやら何やらで疲れていた。腰も痛いし、頭も痛い。たぶん天気のせい。晩ご飯も食べずに寝ていた。起きたら日付が変わる少し前だった。 慌てて選挙速報を確認したら、小池百合子の圧勝。ガッカリしてもう一回寝た。 月曜の昼頃、都知事選のニュースや分析記事などをざらざらと読む。頭が痛い。吐き気もする。天気のせいじゃない。「朝鮮人を殺せ」などと言う男が、18万票近くも獲得したからだ。とんでもない所に住んでいるんだな、と改めて思った。
17歳の時、高校の卒業論集に載せるレポートみたいなのを書いていた。テーマは在日コリアンのアイデンティティ。ネットで「在日」を検索していると「在日特権を許さない市民の会」というページに行きついた。そこには今まで聞いたこともない「ザイニチ」の「特権」の数々が書かれていた。わけがわからなくて、パニクって、一番身近な在日に聞いてみた。その人は件の団体について知っていた。あまりにデタラメだらけでわけがわからない、と。でも、それを根拠にその団体の連中が在日コリアンに憎しみを抱いていることが恐ろしいと言っていた。私もそう思った。嘘を信じて、会ったこともない人を憎むなんて、どうかしている。レポートの指導教員にその話をすると「イカれた連中だ。気分が悪いが無視するのが一番。誰も相手になんかしないだろう」と言われた。
20歳の時、留学先の寮でネットを見ていると「在日コリアンの永住権剥奪!全員強制帰国!直ちに兵役へ!」という見出しを見つけた。2ちゃんねる系のまとめ記事だったが、無知だった私はパニクった。情報ソースとして示されていたリンクの先にはハングルで書かれたニュース記事っぽいものがあったが、私には読めなかった。韓国人のルームメイトに読んでもらうと、全く関係ないニュースの記事だったことがわかった。頭がグラグラした。やっぱりわけがわからない。なんでこんな嘘を書くんだろう。ちなみに在日コリアンは「永住権」を持っていない。あるのは「永住許可」である。権利ではないのだ。ただ、許可されているというだけの、頼りないステータスしか持てずに、在日コリアンは日本に暮らしている。
22歳の時、大学の帰りに、枚方市駅前で在特会が拡声器を持って叫んでいた。「朝鮮人・中国人は出ていけー!日本から追い出せー!」4人くらいが一緒に叫んでいた。誰も立ち止まる人はいなかった。私だけがそれを見ていた。私と同い年くらいの男性が拡声器を渡され、涙声で語りだす。「私は今まで在日朝鮮人たちが特権を持っているとは知りませんでした。日本人の私たちより優遇されているのはおかしい!在特会のお蔭で真実にたどり着いたのです。こんなことは許されない。朝鮮人は出ていけー!」私は枚方市駅のトイレでゲボを吐いた。その後もしばらく過呼吸で動けなくなった。トイレから30分くらい出られなかった。「こんなことは許されない」?こっちの台詞だ。こんなことは許されない。デマを振り撒いて、何もしていない人間に憎しみをぶつけて、許されるわけないだろ。いい加減にしろよ。枚方市駅に行くと、今でもあの青年の姿とゲボの味を思い出す。差別は、ゲボの味がする。
在特会の話題になると、決まった反応がある。「あんな連中ほうっておけ。誰も相手にしない。あんな話信じるのは馬鹿だけだ。」そんな反応をするのは、勉強ができて、大学や大学院で学び、政治や社会の動きに敏感で、自分の意見を持つ、「頭の良い人たち」である。
30歳の私はリトアニアにいた。日本に帰る直前、仲のいいリトアニア人の同僚たちと晩ご飯を食べていた。「帰ったら都知事選の投票に行くんでしょ?誰に入れるんだ?」そんな話題になったとき、仲間の一人が「俺ならサクライに入れる」と言って笑った。その人は日本のナショナリズムを専門に研究している人物で、在特会のことは私よりも詳しく知っていた。だからその一言が冗談なのはわかる。でも、許せなかった。「それは冗談にならない」私が怒った顔で言うと、「なんで?サクライ自体がジョークみたいなもんだ」と言った。
私の周りの「頭の良い人たち」はみんな在特会を嘲笑していた。おもしろがって、馬鹿にして、ジョークだと言った。でも、それは連中に憎しみを向けられていない人間の特権だと思う。 自分が、ただ生まれて、ただ生きているだけで、見ず知らずの、それも大勢の人間に「日本から出ていけ」「死ね」「殺す」などの憎悪を向けられることが、いかに恐ろしいことか、少しでも想像したか?朝鮮学校に通っているだけで、韓国語を使っているだけで、チマチョゴリを着ているだけで、暴力にさらされる恐怖を想像したか?通名で生活すれば「嘘つき」、本名で生活すれば「国へ帰れ」と攻撃される息苦しさを想像したか? 差別にむきになって怒る人間を窘める前に、差別を前にしても真剣に怒れない自分を恥じろよ。レイシストを茶化すばかりで強い態度で差別主義者たちに立ち向かえない自分の弱さを恥じろよ。
指導教員に「イカれた連中だ。気分が悪いが無視するのが一番。誰も相手になんかしないだろう」と言われてから、13年経った。イカれた連中に共感して、桜井誠に投票した奴が東京には18万人いる。先生、私たちが野放しにしたレイシズムがこんなに大きく育ちました。 差別主義者じゃないと言うなら、怒りを持って、態度と言葉で差別主義者を批判しろよ。在日コリアンに「特権」などない。日本国籍の人間と同じように、普通の日常を、普通に過ごしている、ただの人間だ。誰もその普通の日常を脅かす権利なんかない。 差別を笑うな。許すな。怒れ。頼むから、強い言葉で差別を非難してくれ。頼むから、茶化さずに一緒に怒って���れ。
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