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170717
最近の印象に残った作品の感想など。
エドワード・ヤン「台北ストーリー」@ユーロスペース。前半すこし寝てしまったのだけど、それにもかかわらず呆然とするほど素晴らしかった。なにかを得ることによる倦怠感、既になにかを得てしまっていることによる説明のつかない不安、そしてなにかを失っていく恐怖が人間に与える一種の悦楽、そういうものが、80年代の台湾の空気感と日本文化とないまぜになって、すべてあった。その都市には愛が飽和しているのに、誰もが愛を求めている。
真利子哲也「ディストラクション・ベイビー」。イマドキの若者というような薄いテーマではなくいつの時代にも共通する行き場のない暴力衝動とそれに対する社会の反応が、あくまで現代的な要素を用いて表現されているのがよかった。画もいいので何も考えずに観ても楽しい。小松菜奈は最高。
森博嗣『青白く輝く月を見たか?』。今唯一、シリーズを通して読んでいる小説。今回は大きくストーリーが展開するわけではないけれど、静かでよい作品。
王家衛「マイブルーベリーナイツ」。ウォン・カーウェイ作品のなかでは微妙。彼の作品��湿度の高い雑踏と中国語がないとイマイチぱっとしない。
押井守「スカイ・クロラ」。なんど見ても良い。現代の若者の倦怠感、行き場のなさ、あっさりと越えてはならない一線を越えてしまう感覚、そして彼らをそうさせる空気。一切未来的なガジェットが登場しないのにこんなにも未来を感じさせる作品はほかにないのではないだろうか。
新国立美術館「ジャコメッティ展」。どこまでも存在を不確かにして薄く細くマチエールが露わになっていく人間の像は僕たち現代人の感性そのものだ。倫理ギリギリまで痩せたモデルを求めるファッションや0.1mm単位で薄さをアピールするスマートフォン、薄く細く微妙な曲面をつくりだす建築の柱や壁、それらはすべて同じ嗜好に基づいている。なにもないことが、なにもしないことが最良なのだ。しかし僕たちはここに存在して、日々なにかをしている。自分を肯定するためにはなにかをしなければならない。その意思の強さが芸術家を動かしているのだと思う。資本主義の原理によって無限に増殖する物質と欲望に溺れそうになりながら。
自分についてはっきりしたことは、曖昧で、不確かで、弱く、儚いものにしか興味が持てないということだ。より正確には、不確かなものそれ自体ではなく、それが実存と不在の間でみせるゆらぎの運動、それを通してしか見ることのできない世界の仕組みにずっと惹かれている。親しい友人に普通に会社勤めをできている人がほとんどいない理由、堅実な幸せに興味が持てない理由、圧倒的な大きさで確かに存在する建築というものに本心から入り込めなかった理由も、すべてそこにあるのだと今になってわかる。
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170618
僕はこの世界の全てを手に入れたはずなのに握った手を開くと指の間からすべて零れ落ちて砂粒一つ残っていない。
僕は昔から、なにかを得るためにほかのなにかを諦めることがなによりも嫌いだった。 大学生になったばかりの頃、学科の飲み会で先輩にこんなことを言われた。 「建築学科はめちゃくちゃ忙しいから、課題を本気でやるか、サークルをやるか、バイトをするか、恋愛か、そのうちのどれか2つは出来ても3つ以上は無理だよ」 何を言っているんだろうと思った。全く理解できなかった。僕はその全てを手に入れたかった。人生は一度しかないのだから、その一度で欲しいものは全部手に入れなければ納得できないに決まっている。
実際に僕は徹底的なセルフマネジメントと生まれ持った恐ろしいほどの運の強さの結果として子供の頃から今日に至るまで、欲しいものはほとんど全て手に入れてきたはずだった。この東京という街は確かにゴミの山だけれど、その灰色のゴミのようなビルとビルの隙間から、僕は世界一速い音楽と宇宙一かっこいい女性と途方もなく美しいお酒と千年に勝る一瞬をを見つけ出すことができるだけの目を持っていた。
だけど、ビュッフェでお寿司屋フランス料理を食べに行ったからといってそれは決してお寿司を食べたことにもフランス料理を食べたことにもならず、単にビュッフェを食べたということにしかならないように、結局僕は、なにもしていないのと、同じなのではないだろうか? なぜ僕は夜に人に会う前に決まって海外のミステリ小説──だいたいアガサ・クリスティかレイモンド・チャンドラーのどちらか──を読んでいるのだろうか? 僕が全てを手に入れるために犠牲にしてきたものは一体全体なんなのだろうか? そういえば、僕が仕事を辞めてなにもせずに夕方まで寝続けた1週間には、なにもしていなくとも確かな大きさと重さがあったじゃないか。
もうこんなことは考えても仕方がない。2017年6月18日、日曜日の東京は夕方から夜にかけて雨が降った。日記に天気のこと以外を書き残すと碌なことにならない。
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170510
1世紀前の夢みたいだった都市。
2010年代の東京にはTinderで聞き出した最高の映画をなにも知らない年下の友達と次々に消費して途中で飽きてコンビニにアイスを買いにいってしまう女の子たちがいて、若いから当然なにも知らない男の子たちはそんな女の子に負けたくなくて一人で地道に映画館に通い続けていた。僕はそんな都市が大好きだった。一年前の今日の日記を開いたら「僕と僕の好きな人たちがみんな幸せになればいい」と��け書いてあって少し泣いた。だれかを幸せにしたければあなた自身が幸せになって笑っているほかに手段はない。それはときどき難しくて、だけどそれ以外のやり方は全部まやかしだ。もしあなたの近くに、つらいけどあなたのためだから頑張れるんだって言う人がいたらもうあなたは二度とその人と一緒にランチを食べないほうがいい。 ただ美しくて意味のない仕事がしたい。ストライプのストローを刺すためのジュースを買うためにカルディにいきたい。朝が来ないでほしいから目覚まし時計の電池は外しておく。洗濯物は畳まずに床に置く。 あなたの嫌いな人はどうせテキーラのショットを飲みすぎて店からライムがなくなってしまいそれでもまだ頼み続けた深夜2時のことも新宿の喫茶店から灰皿を盗んたデートのことも知らないんだから全部無視すればいい。この文章を読んだあなたは今夜寝る前にいちばん好きな人に「好きだよ」って電話で言ってみればいいし、そんなことをする勇気がなければ三番目に好きな人に「三番目に好きだよ」ってLINEすればいい。「二番目に好きだよ」って嘘ついてもいいんじゃないかと思う。 0時半を過ぎて家に向かうメトロがそれを許してくれる。
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最近みた映画
12/29 角川シネマ新宿でチェット・ベイカーの伝記映画「ブルーに生まれついて」。良質な映画だったけれど、90分間で彼の人生のうちのほんの数年しか描かれていないので物語に奥行きがなく、いささか物足りなさもあり。とはいえ主演イーサン・ホークの演技は時に目を逸らしたくなるほどの迫力がった。
1/3 今年の初映画は「東京ゴッドファーザーズ」。登場人物は主人公の3人をはじめとしてどうしようもないやつばかりだが、嫌味がなくどうにも嫌いになれない。映画らしく次々と都合よすぎるくらい都合よく話が展開するのは流石にやりすぎ感もあるが、まあいいかと思わせてしまうくらい��向きなストーリー。今敏の人柄がよくわかる作品だと思う。
1/8 「猟奇的な彼女」。夜の遊園地に忍び込んで脱走兵に捕まったりとか、色々有り得ないラブストーリーなんだけど、とにかく彼女役のチョン・ジヒョンがかわいいのと、明るいエピソード展開と実はしっかり考えられていたことがわかる終盤のストーリーでついつい引き込まれる。露骨に汚いシーンが躊躇なく出てくるのも韓国映画らしいところ。
1/9 寝る前に「スカーフェイス」を観る。アル・パチーノの演技は狂気から気の緩みまですべてが鬼気迫るものがあって流石としか言いようがない。主人公はとにかく猜疑心が強く、誰も信用しないが故に自分自身も信義を最重要視する。しかし彼は最後、取引相手のソーサからの依頼を、女子供は殺せないと言って失敗してしまう。裏社会で成り上がった主人公だが裏社会の人間にはない優しさは失っておらず、裏社会の人間になりきれなかったということだろう。彼のいかにも成金趣味といったセンスの悪い豪邸と、黒幕ソーサの洗練された邸宅の対比も印象的。それとこの映画はBGMで胡散臭いクラブでクラブミュージックが度々挿入されるんだけど、去年ずっと60年代のロックばかり聴いていたけれどもう少し新しい時代のニューウェーブとかも聴いてみようかという気になった。でもやっぱりこういう音楽は胡散臭いのだけどそれが南米の犯罪組織の胡散臭さと重なって謎の迫力が出てしまうのである。
1/14 鈴木清順監督の「東京流れ者」。レフン監督が好きな映画1位に挙げていたものだ。原色的な色遣い、絵画的なセット、説明不足なままサスペンスからコント的な表現までメタ的に目まぐるしく変わるストーリー、それらの異様な齟齬が醸し出す不条理感は、まさしくレフン監督の映画の源流だと思われた。
1/15 夜、家で松江哲明監督「トーキョードリフター」を観る。ミュージシャンの前野健太が東日本大震災後の東京をバイクでさすらいながら弾き語りをした一晩を写す、というそれだけの映画。台詞も解説もなにもない。新宿、明大前、渋谷……と、自分にとってもよく知った街が舞台だ。震災後の、なにかしなければという気持ちと、それをしても結局なにもならない、いや、なににもならないけどなんか生きてる、みたいな複雑な気持ちが思い出された。映画は最後、明け方の河川敷で終わる。70分の短い映画だが、まさになににもならないのがわかっていながら朝まで飲み続けて朝居酒屋を出たときに吸う冷たい空気みたいに清々しい気持ちになる。不思議な魅力のある映画だと思う。
1/17 レフン監督の「ネオン・デーモン」を新宿歌舞伎町のTOHOシネマにて。前評判が賛否両論だったのと、代表作「ドライブ」が最初の10分以外正直あまりぐっとこなかったので心配だったのだけど、すごくいい映画だった。確かにストーリーは説明不足でめちゃくちゃだけれど、色覚障害のあるレフン監督独特の原色的な色遣いとクリフ・マルティネスの音楽の素晴らしさがあいまって、他にはない世界を構築している。それでいてただ画の美しいミュージックビデオなんかではなくきちんと映画としての強度があった。ただしレフン監督の撮り方は空間的ではなく、グラフィック・デザイン的だ。空間的にとても魅力的だと思われるロケ地を、シークエンスではなくいくつかの絵画として贅沢に消費している。それがこの映画を紙芝居のお伽噺話のようにしている。
1/28 「エゴン・シーレ 死と乙女」を渋谷のBunkamraル・シネマで。ウィーンを研究していたという立場からは興味深い作品だったけど、映画としては普通。個人的にはヌードではなく風景画を描くシーレが観たかった。あと映画とは関係ないけどBunkamuraは座席が狭すぎる。
2/18 「シティ・オブ・ゴッド」を観る。予想通りの悪趣味なクライム・サスペンスで楽しい。
ほかに最近観たけど日付を忘れたのがアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の「ブンミおじさんの森」青山のシアター・イメージフォーラムにて。早めに整理券をもらっていたからよかったけど、立ち見が出るほどの超満員になってびっくりした。静かな作品のようにみえてじつのところ終始かなりの音量で虫の声から空調の音まで環境音がかかっていてそれが精神をトランスさせる。そしてラストシーンの飲食店で流れるポップスが観る人を正体不明の悦楽に誘う。
「ライブテープ」「トーキョードリフター」の前作にあたる作品。吉祥寺でワンショットの一発撮り。売れない監督と売れないミュージシャンの自意識こじらせ映画といってしまえばそれまでかもしれないけれど、こういうのもあっていいと思う。
「007 カジノ・ロワイヤル」セレブの世界旅行を庶民が追体験する映画。
「シャイニング」なにはともあれ色遣いが素敵。
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ゲッコーパレード「リンドバークたちの飛行」
18日の日曜日はゲッコーパレードの「戯曲の棲む家」シリーズ今年最終回「リンドバークたちの飛行」を観る。観客は1回7名限定、1927年に単独大西洋横断飛行を成功させたリンドバークとともに民家のなかを廻り終いには飛び出すという新しい試み。時には観客も劇に参加しながら。ほんとうにわくわくして楽しいと思える1時間だった。観劇というよりは、子供の頃にしたごっこ遊びを思い出す。むしろこれは、大人が本気でやるごっこ遊びなのだろう。いずれにせよ椅子に身体を拘束されながら観る演劇とは全く異なる体験だった。最初の移動で思い出したのはディズニーシーのタワーオブテラーで搭乗前に偶像に話しかけるシーン。演劇じゃなくてアトラクションを体験するときのワクワク感だった。劇中では、家具や本や雑貨で溢れる台所が荒れ狂う大西洋になったり、おもむろにリンドバークがMacBookを取り出して飛ぶ飛行機を動画を見たりといった大胆過ぎる演出が次々と飛び出す。だけどそれが、自分でも驚くほどごく自然に受け入れられてしまうのだ。そうやって、身の回りのものを全然違うなにかに見立てていく作業それ自体にワクワクしている自分がいた。リンドバークは180cmを超える大男だったらしいけれど、そういう意味では主演の河原舞がかなり小柄だったというのも効果的だったのではないかと思う。 何回かこの民家で劇をみて気付いたのは、実は民家という場所は壮大さとか崇高さといったものとの相性がとてもいい。思い返せば「戸惑いの午后の惨事」の開演前に流れていたFleet Foxesや、「ハムレット」の狂気も、そういう性質のものだ。民家には生活のすべてがある。ゲッコーパレードの演劇は、雑多な家具や家電、雑貨をひとつひとつ、生活とは正反対の崇高さを演出するために利用する。それは、通常の劇場でなにもない空間に崇高さをつくりだすよりもずっと人間の想像力を引き立ててくれるということだろうか。いやむしろ、考えてみれば、民家というのは、どんな場所よりも人間の歴史と繋がっている場所ではないだろうか。日本の民家は何百年前からたいして変わっていないし、ほんの少し思いを馳せれば、民家は竪穴住居を経由して洞穴で暮らしていた時代まで僕たちの想像力をかんたんに連れ出してくれる。そんな民家のポテンシャルを、最初はきっと図らずして、そして段々と気付きながらつくりあげていったのがこのゲッコーパレードの「戯曲の棲む家」シリーズなのではないかと思う。
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161202
つらい現実を忘れたくて小説の世界に落ちていく。それは奈落の谷なんかではなく、笑ってしまうほど浅い穴だ。電車が駅に着けば1秒で出ていかなければならない。文学はなにも救わず、本を閉じたあとの世界はひとつも変わっていないどころか、より悪くなっている。文学のそういうところが好きなんだ。
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161120

(前略)そう、休みの日はこうやって、自分が何がしたいのかを自分自身と真剣に向き合って何をして過ごすか決めるべきなのだ。平日と休日になるはずだった週末にほんとうはずっと寝ていたいのに座れもしない電車に乗って会社に行ってやりたいはずのことをやりたくないと思いながらしなければならない僕たちはせめて休日くらいは自分自身の心を理解しようと勤めなければ、自分自身が気がついたらほんとうにどこかに行ってなくなってしまっていて気付いた頃にはその3年前にはもうとっくに手遅れなのだ。
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161106
国立近代美術館でトーマス・ルフ展。でかくて質が高くて細部や展示方法まで細心の配慮がなされているということはわかるのだが、残念ながら、それ以上の、身に迫る感動が得られなかった。
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日テレでやっているドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」面白い。原作も少し読んだけど、ドラマのほうがクオリティが高い。キャラ設定がはっきりして心理描写が丁寧だし、パロディネタや記憶に残る台詞回しを絶え間なく入れてきてどこを切り取っても笑える要素があり、いかにもスマホとSNSの今の時代のスピード感に合わせた作品。そういえば「輪るピングドラム」も、もう5年も前の作品だけど、そういうアニメだったなと思う。個性的すぎるキャラと口癖、深刻なストーリーの背景で遊ぶペンギンたち。 そもそもどちらもプロットが同じで、何かに選ばれなかった人たちが性愛によってそれぞれの人生を獲得する群像��。様々な境遇の視聴者から共感を得るために群像劇でなければならない。彼らを救うのは仕事でもお金でも家族愛でもなく、性愛でなければならない、というのも、現代の神話は、性愛に基づく恋愛と結婚を基礎にする文化社会で育ちそれに反感を憶えつつ唾棄することも出来ず八方塞がりの僕たちに救済を与えるものでなければならないからだ。
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先日読んだノンフィクションがとてつもなくよい本だった。スティーヴン・ウィット『誰が音楽をタダにした?』。mp3の違法配信で音楽産業を壊したのは世界中の大衆だと思われているけれど、実は違法配信を組織的に行っていたごく少数のグループがあり、それは「シーン」と呼ばれていた。誰よりも速く走りたがる暴走族のように、彼らは誰よりも速く(それは時に公式発売日の1ヶ月前だったりする)高音質のmp3データをupすることに命をかけていた。特にその中の一人(彼は田舎町のCD製造工場の労働者だった)が、違法音源のほとんどの情報源だったというのが大筋だ。それに並行してmp3を開発した技術者と、世界一の音楽プロデューサーの話が展開する。内容も素晴らしいけれど、まるでトマス・ピンチョンのような固有名詞とスラングが氾濫する文体が最高に今っぽくて翻訳も装丁も文句なしに巧い。自分もいつかこんな本をつくれたらと思わずにはいられない。
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161103
人はいやなことをすぐ忘れようとする。自分を守るために。現状を受け入れようとする。だから日記は重要だ。定期的に日記を読み返し、過去の自分がどれだけ傷つけられて理不尽な思いをしてきたのか思い出す努力を惜しんではならない。この世界を決して赦してはならない。
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160915(この夏の日記より当たり障りのない断片)
最近ずっと聴いているのが、サニーデイ・サービスの新譜「DANCE TO YOU」。これはインタビューやブログ等で指摘されているように、狂気のアルバムだ。自分の言葉を引用するならば「醒めない白昼夢の鋭利な結晶」そのもの。現実はなにも解決していないのに精神世界のなかで自身の理解を超えたパラダイムシフトが起こり、オールオッケーになってしまう感覚。最高にポップで爽やかな夏モノAORなのに血の味がする。現実をなにも変えられない焦燥感に常に晒されている僕は月の石のように不可思議な魔力をもったこのアルバムに惹きつけられてしまう。現実は、変えることができる。だけどそれは数秒後であり数日後であり数年後の話だ。時間軸に縛られる僕たちは一瞬先を変える能力を持ち合わせない。それこそがこの現実の理不尽さであり、このアルバムはそんな僕たちに救いをもたらそうとする。
それからもう一つ、繰り返し聴いているアルバムがあって、それがハーパース・ビザールのファーストアルバム「Feelin’ Groovy」、そのなかでも特に「I can hear the darkness」という曲が素晴らしく、サニーデイ・サービスのそれとは正反対の柔らかさと優しさに溢れている。たった2分しかないのだが、なぜこんなにも優しい曲が存在しうるのか、理解できないほどの優しさで、何十回と繰り返し聴いても全く飽きることがない。
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最近ライブはいくつかみる機会があったけれど、どういうわけか特に心に残ったのが9月10日の土曜日、Lomboy / SaToAのライブ、下北沢440、13時から。小さなカフェバーのようなハコで座って観る落ち着いたライブ。SaToAは女の子のスリーピースバンド。はじめて観たけれど、一見よくあるインディーロックのようだけどベースが凝っていて音楽としての純粋さが眩しく感じるようで、不思議に惹きつけるものがあった。この時代に普通の女の子が3人集まってこういう曲をつくってインターネットで公開したりライブをやったりするという行為自体がとても不思議で、圧倒的な音楽的純粋さをもって自分たちの活動を自己満足に陥らせず時代と接続させてしまうのが彼女たちの強みなのだと思う。
Lomboyのほうはインターネットに公開されている音源を聴いていた通りの自由な音楽だった。心地よい音のなかでついつい眠くなってしまったけれど、彼女のつくる音は今度リリースするファーストアルバム「SOUTH PACIFIC」のタイトルそのもののようなドリーム・ポップだから夢のなかで聴くのも悪くなかった。
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ふとした瞬間に、自分はほんとうになにひとつ持ち合わせていないのだという気持ちになる。幸せとは将来の約束のことであって、仮初の幸せはすぐに悲しさに変わってしまうのだ。将来が約束されないことの不安と悲しみは、年をとるごとに──期待すべき将来が目減りするに比例して──薄れていくのだろうか。そうだとしたら、この耐え難いほどに芳醇に香る不安と悲しみは、この不可思議な時代に20代後半に差し掛かる若者にだけ許された特別なメランコリィなのかも知れない。
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夏のあいだずっと枕元にあって読めないでいた開高健『夏の闇』が秋になってようやく読み進められるようになったのはどういう心境の変化なのだろうか。吉田健一が、雪の絵が寒さを感じさせるならそれは二流の絵だというようなことを言っていたけど、本物に暑くて鬱陶しい本物の夏は小説には余計ということなのだろうか。
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160904(悲しみのなかで食べるお刺身はマダイ)
夏が過ぎ去った夜、住宅街を散歩すると夜の匂いとしかいいようのない芳香が漂い、歩けば適度に汗の滲む涼しさで、窓を通過する部屋の明かりは温かく、街全体から美しさが溢れだしていた。 美しさとは、かようにして、思いもよらず溢れだすものなのだ。そう思うと、美を直接に生み出して自己満足と名声と金に換えようとする芸術家のなんと卑しいことか。画家、小説家、音楽家、建築家……。いや、僕はただ、美しさをみたときに、美しさそれ自体を奪い去ろうとするのではなく、美しさを生み出しているその時の現象の正体を突き止めるべく、もしくは正体なんて突き止められなくてもいいから、こうして言葉で書き留めようとしているだけだ。そんな弁明は自戒にもなりきれずただ虚しいだけだろうか。そうだとしても、なにも持たない僕は書くことをやめれば死ぬだけである。 人間は一方向に決まった速度で流れる時間のなかを生きるほかない。だけど、この夜のように時折ノスタルジアと明るい未来への希望、もしくは取り返しのつかない過去と暗澹たる未来への絶望が入り混じる光景がふいに立ち上がることがある。我々の生きる世界は、まさにその時間という機構の柔軟さによって、崩壊を免れている。美しさとはそんな柔らかさのことであり、それは強さのことでもあるのだ。
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160828(夏の終わり)
博多より東京に戻ると、誰もが情報の混濁したスープのなかで溺れないように必死に足を動かしている。スープに浸ったこの街で生きる人たちの服はどれもこれも薄く頼りない放射線防護服のようで、ここでは服を着ることが即ち身を守ることを意味してしまうので全てが野暮ったくなる。軽々しく鮮やかに無防備に他人を刺すようなファッションは存在しない。東京という街は一流の人間が「俺は一流なんだ」と大声で繰り返し叫ばないと誰の目にも留まらないような場所だ。だけどその光を通さない濁ったスープのなかを、ひとり遙々と泳ぐ、巨大な古代魚のイメージが僕の頭をよぎる。しかし一体全体誰がそんな魚になどなりたいと思うだろうか。
どれだけ楽しいことがあってもそれ以上に理不尽なことが起きる。幸せとは悲しみの甘さを引き立てるためだけのコショウにすぎないのだろうか。それはそうなのだ。しかしその事実に納得することは死ぬまでできようもない。
夏は終わりが近づいており、朝夕には涼しさが窓から部屋に入り込むようになった。しかし夏の終わりは何も意味しない。ただ夏という季節が短い眠りにつくというだけ。
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160804
駅前でジャズバンドが路上ライブをやっていた。あいにく先を急ぐ僕はほんの少し歩調を緩めて耳を傾けることしかできない。なんとなく街を歩いていたらたまたまかっこいい路上ライブに遭遇してそれで立ち止まって数曲聴いてみるような体験はこの国では最も得難い贅沢品なのである。 そのバンドを聴いているのはたった一人だった。10mほども距離をとって、駅前の空き地にしゃがみこんでバンドを眺めるワンピースの女性。その距離と姿勢が絶妙で、途方もなく羨ましかった。あんなに孤独で幸せな時間はこの世に存在しないのではないかと思う。
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