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2024年7月12日
先生「あなたは社交クラブに属しているがそれは「地獄だ。」と表現している。職場にもプライベートで会う人はいない。「ただの職場の人たち。」。ネットのご友人にも長い付き合いの人はいるが、会ったりするわけではない。僕から見るとあなたにはプライベートな友人がいないように思う。いないよね?なんというか、とても狭い。もう削ぎ落としていますよね。すごくシャープです。だとしたらあなたは誰にこころを開くのですか?」
私「そもそも私はネットとリアルを分けてはいません。プライベートで友人っていります?姉がいるので、事足りているのだと思いますが。ただ、ネットのほうが”開いている”ほうだとは思います。馴染んでいるというか。自分の世界があるというか。」
先生「それにしても非常にシャープに削っていますよね。人間関係を。もうバサバサと。なぜです?それは意識的に?」
私「ああ、いえ、なんというか、退屈じゃないですか。」
先生「退屈?」
私「はい。退屈です。世界は退屈なので。」
先生「ネットのご友人は?」
私「今つながっているのは3人です。」
先生「少ないな(笑)しかし、期間は長いですよね。」
私「そうですね。長いと思います。そもそも、”ありのまま”とか”こころを開く”というのが、少し、わかりません。」
先生「あなたの自己がどうなっているのか少しわからないな。」
私「ああ、それは、多分、���単に説明できます。中井久夫は太平洋的だったかオセアニックだったか、そういう自己。そういうアイデンティティ?があると。そういう表現をしていました。確かオセアニックだったと思います。ようは拡散的な自己というか。」
先生「ほお。中井先生が。」
私「確か、『精神医学重要文献シリーズ』という書名で1巻と2巻は中井久夫なのですが、そのどちらかに書かれているはずです。分裂病者の破綻論だったように思いますが、最後のほうにそういう自己があると。…ただ、みすず書房ではなかったような気が…。いや、でも美しい装丁でした。」
先生「みすずだったらぐっとくるなぁ。こういう話しになるとあなたは本当に…さっきの話しは退屈そうだったのにね。(笑)しかも、重要文献シリーズときたか。すごいね(笑)」
私「はい。あれは良いシリーズです。つまり、統合された自我、自己ではないように思うんですよ。私の自己というのは。アイデンティティの拡散というのとは違う。まとまりのない自己というのでしょうかね。」
先生「統合されてないってことだよね。こう、ガチっとね。しかし、その本古くて高そうだなぁ。」
私「いえ、そんなに古くないはずですよ。比較的新しいはずです。あ、それより、ひとつ聞きたいことが。」
先生「なんでしょう。」
私「私は話しは主語がないと指摘されました。少しコンプレックスになってきたのですが、心理テストの結果で言語に関する箇所で問題はありますか?調べてはみたのですが、専門的すぎて…」
先生「早く言ってくれたらよかったのに~。僕はあなたと話していて、感じたことないよ。むしろ、質問に丁寧に建設的に答えてくれる印象があるし、考えて話してるよね。…もしかして、僕にも気遣っている?」
私「はい。もちろん。」
先生「え?じゃあ、僕に解りやすいように?話してくれていたの?」
私「はい。」
先生「ああ、心理テスト。結果持ってるんだね。じゃあ、次回はこれについて話そう。あくまでも僕の解釈なら今少し伝えられるよ。数値見せて。ちなみに主語が抜けているっていうのはどんな時なの?」
私「う~ん、疲れていたり、眠かったり、疲れているのはいつもですけど。」
先生「それって、それがあなたの素なんじゃないの?」
私「そうかもしれません。緩んでいるというか、気を張っていない。なので、脳内だらだらとって感じで…。ああ、確かに素かもしれません。」
(…)
先生「うん。聴覚、視覚の数値は同じ。ただ、長期記憶、短期記憶の数値がずれているね。でも、バランス良くズレている。短期記憶の数値が低いということは、わーっとまくし立てられたり、情報が多いと処理しにくいって僕は解釈してる。ここだけ低い場合はADHDの傾向がある。ここだけね。長期記憶は短期記憶より高い。つまり、あなたは読書したり、静かな環境であれば、情報処理できる。現にできている。IQは平均以下だね。言い方悪いけど。でも、数値の低さは問題ではない。」
私「ようはバランスですよね?主治医は聴覚情報は苦手で、視覚情報は処理できていると仰っていました。」
先生「ああ、うん。それ、こっちのほうから導きだしていると思う。長期と短期ね。」
私「え、そうでしたか。これってつまり…あ、お時間ですね。」
先生「いや、いい。まだ少しいける。10分くらい。」
私「つまり、情報過多だと、例えば…講義のような。わーっと教員が話して、黒板に書いて、それをノートに書き写して。というような。動作が多いような授業は苦手なのでしょうか。アスペルガーの傾向は?」
先生「アスペルガーがいい?(笑)それはこことここ。聴覚と視覚のズレを見て診断材料にしてたんだけど、最近覆されたんだ。どっちも同じ数値でもアスペルガーじゃないかってね。」
私「そうですか。つまり、言語的には問題ないのですか。だけど、小さい頃から少し解ってもらえなかったんですよね。私の話しって。なんというか、なんでだろう。なので、話すこと自体をやめたのです。」
先生「そうかぁ…。いや、問題ないと思うな。これだけでは判断できないけど、傾向を診ることはできる。でも、これがすべてではない。」
私「はい。」
先生「僕も考えます。僕なりの解釈ですが。調べてもでてこなかったでしょ。」
私「はい。ネットで調べた程度では。専門的すぎて。」
先生「だよね。よし。次回は心理テストの結果について話しましょう。あくまでも僕なりの解釈だけれど。」
私「先生によって変わるものなのですか?本当に専門的なものなのですね。」
先生「そうだね。結果だけ診て診断する人もいるけど、僕はそれはどうかなって思うよ。この結果はね、凸凹っていうか、凹って感じ。どん!とね。発達障害と診断されてもおかしくないが、診断されなくてもおかしくはない。でも、あなた社会適応できてると思うから。」
私「そうですね。何とかって感じはしますが。できてますね。」
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ADHDと双極性障害の連関
ADHD は DSM-5 の 「神経発達症群」に位置づけられ、「不注意(特徴 9項目のうち最低6つ、17歳以上では最低5つ)」「多動および衝動性(考 微9項目のうち最低6つ17歳以上で最低5つり」「12歳以前から存在すること」 「2種類以上の状況で認められること」「他の精神疾患で説明されえないこと」 「生活に支障をきたしている」などから診断が下される。 DSM-5 を普段からあまり参照する習慣のない筆者にはかなり厳密な診断基準に見えるが、他の精神疾患と同様、上記基準を完全に満たしていなくても日常生活に大きな支障があっての疾患が除外されれば『他の特定される注意欠如・多動症」あるいは「特定不能の注意欠雄・多動産」としてADHD診断がつく。 主に成人臨床に携わっている筆者のケースで は「不注意」「多動性および衝動性」共に完全に診断基準を満たすことは少ないので 「特定不能のADHD」と診断することが多い。 ADHD と類似した双極性障害症状としては、軽躁病・躁病エピソードの中の「注意散漫 (ADHD の中核症状でもある)」「困った結果につながる可能性が高い活動に熱中すること (ADHDの衝動行為と類似)」「気分 が異常かつ持続的に高揚し、開放的または易怒的となる (ADHDでも易 刺激性や不機嫌は見られる)」 「睡眠欲求の減少 (ADHDでは多動の結果として入眠時間が遅くなる場合がある)」 「多弁 (ADHDでも認められ る)」と抑うつエピソードにおける「思考力や集中力の減退低下(外面上 ADHD の不注意と間違われやすい)」が挙げられる。 DSM-5で別々の章 に位置づけられていながら症候論的にこれほど似ている組み合わせは 「ADHD と双極性障害」 以外にはないだろう。 両者の鑑別が容易ではな く併存が見落とされやすいのも納得がいく。 臨床家の目がADHD などの発達特性に向かいやすい小児では双極性 障害という精神病は一層看過されやすい。 Papolos ら は小児における 双極性障害過小診断に警鐘を鳴らし, 小児では成人の診断基準が通用しないことを強調している。 Papolos らによると小児と成人での最大の相 は周期であり, 小児では「より慢性的な経過をたどり、 2つの病相の 間に良好な状態の期間はほとんどみられません。……病相の交代が極めて頻繁な, 超々急速型と呼ばれるタイプの子どもも少なくありません。 このような子どもは、24時間のうちに気分の高揚と低下を繰り返しま す」と述べ, 小児の双極性障害を見逃さず早期に薬物治療を開始するこ との重要性を説いている。 Papolos らの主張には 「成人では周期に着目すれば ADHD を双極性障 害から鑑別できる」 との前提がある。 超急速交代性ないし超日交代性サ イクルを呈するケースは確かに双極I型やⅡI型障害とは診断されないか ら.気分変動の周期を根拠として、かなりの高確率で成人の双極I型な いしⅡ型障害とADHDとの鑑別や併存診断は可能である。 しかし現代の 成人双極性障害の主流は双極I型ないしⅡI型であろうか。 かつて内海 はモダニズムからポストモダニズムへの移行に伴って 「綺麗なサインカーブを描く以極Ⅰ型障害」にとって代わって「難的成分が神出鬼産に 出現し混合状態化しやすい双極Ⅱ型」が主流となったと論じた。 見解に筆者は全面同意するが、その後10年あまり経過して時代は更に先へと進んだように筆者には思われる。抑うつなら2週間以上、軽躁病なら4日以上持続しないケース、つまり抑うつエピソードや軽闘病エピソード の基準を満たすことなく、常態化した広義の混合状態をベースに「混合性の特徴を伴う抑うつ状態」と「混合性の特徴を伴う軽躁状態」が手籠 則に目まぐるしく交代して出現する症例が増加している。また「午前には制止の強い抑うつ状態 夕方には軽快, 就寝前には軽躁状態」と日 での規則的変化を見せる症例も散見され,これは内因性単極うつ病で観察される日内変動の双極性障害版と見なせる。 広義の混合状態が慢性的 に持続する不規則型であれ, 極端な日内変動を示す規則型であれ, DSM では 「特定不能の双極性障害」としか診断しようのない症例を数多く目の当たりにすると,小児症例と同様にいまや「成人症例でも双極性障害 と ADHD を周期でもって鑑別するのは容易ではなくなっている」と考えざるを得ない。
『発達障害の精神病理Ⅳ -ADHD編-』芝 伸太郎 90p
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アイデンティティ
identityとはそもそも何であろうか。それは経験的に集積された自己自身のデータ庫であるが、同時にそれは世界に対する認識行動のしかたを規定するものである(自己と世界は相関している!)。世界に対して正確な距離測定を行うためには、豊富、自覚的なidentityがあるとつごうがよい。ここに相互的な機能連関が生ずる。(つまりここではidentityという言葉をかなり広く、内容も形���構造もひっくるめたものとして用いる。前節で用いた自我図式ないし『自我仮設』というのと同視してよい。)
『ファントム空間論』安永 浩
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φ
他者→φ
このφが与えるのは、「それはあなたの考えである」という隠れたメッセージである。つまり考えが私に所属していることが認められ、ここではじめて意味が与え返されることになる。そしてさらに、「考えているのはあなたである」というメッセージが与えられる。それによって、私は思考している主体であると承認されることになる。
思考に限らず、あまねくわれわれの経験には、その経験が私に所属し、そして私がその経験の主体であることが、ひそかに含意されていなければならない。しかもそのことは自らが与えることはできない。それは外から、他者から到来する。
このようにして、われわれは先行しているはずの事象を自分の経験として取り戻すのである。しかしまだ、遅れは完全に取り戻せたわけではない。私から思考が発動し、それが私に与え返されるまでの間、ぞっとするような深淵が口を開けている。
『パンセ・スキゾフレニック 統合失調症の精神病理』内海 健
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投影性同一視
投影性同一視という防衛機制は、境界例の患者がよく使う防衛機制です。これはどういう防衛機制かというと、分かりやすい表現で言えば、他人を利用した自己愛や、他人を利用した自己嫌悪ということになります。つまり、他人を鏡のように使うのです。そして、他人という鏡に映った自分に向かって、自己愛的な賞賛を投げかけたり、あるいは逆に鏡に映る自分の醜い姿に向かって、激しい嫌悪感を剥き出しにしたりするのです。表面的には相手を賞賛したり、憎しみを露にしたりしているように見えるのですが、実際には相手の人は患者を映す鏡として利用��れているだけなのです。
なぜこんなことをするのかというと、たとえば自己愛を映し出す場合で言えば、自我が貧弱なために自分で自分を愛することができないからなのです。自分に向き合おうとすると、どうしても見たくもない都合の悪い感情と向き合わざるを得なくなりますので、そういう不愉快な事態を避ける���めに、他人という鏡に自分を映し出して、そこに自己愛を注ぐのです。つまり、極端な言い方をすれば、他人の人格や個性などはどうでも良くて、あくまでも自分の延長としての存在としてしか他人を理解しないのです。
これはたとえば弱者の救済という形で表現されることもあります。救いを求めている自分自身を、他人という鏡に映し出すのです。そして、そこに映し出された哀れな自分を、必死になって救おうとするのです。表面的には弱者を救済しようとしているように見えるのですが、本当に救おうとしているのは他でもない自分自身なのです。しかし、実際に自分で自分を救おうとすると、「見捨てられた自分」という、苦痛に満ちた心理的現実と向き合わなければならなくなるのです。ですので、このような苦痛を避けるために、他人という鏡に自分を映し出して、そこに映った自分を救おうとするのです。そのために、利用できそうな都合のいい弱者を探し出すのです。そして、自分自身の悲惨な状況を省みることなく、他人を救済することだけに情熱を傾けるのです。第三者の覚めた視点から眺めてみますと、「他人のことはいいから、自分自身のことをなんとかしたら?」と言いたくなるような状況が生まれるのです。
入院治療などで問題となるのは、鏡に「悪い自分」が映し出される場合です。患者は病院のスタッフという鏡を通して、自分の醜い姿を見ることになるのです。そして、スタッフという鏡に向かって敵意を露にし、嫌悪感や憎悪を剥き出しにするのです。こうすることで、自己嫌悪を回避することができるのです。本来の自己嫌悪というのは、自分の中にある醜い部分を見つめることで発生するのですが、この醜い姿を強引に他人に押しつけて、その憎まれ役を割り振った人に対して嫌悪感を向けるのです。つまり、自己嫌悪を、他者嫌悪へとすり替えてしまうのです。こうすれば、悪いのはすべて他人ということになりますので、自分自身は善人のままでいることができますし、自分で自分を嫌悪しなくてすむわけです。
たとえば、スタッフに向かって「お前は、自分勝手で自己中心的だ」という非難を浴びせたとします。患者の人柄をよく知っている人からみれば、「自分勝手で自己中心的なのは、他でもない自分自身のことではないか」ということになるのですが、患者自身はそういう自分のいやな部分を見ようとはせずに、そのいやな部分を他人に押しつけるのです。そして、いやな部分を押しつけた他人に向かって「お前は、自分勝手だ」と言って非難するのです。このように自分のことを棚に上げて、他人を非難することで、自分の中にある嫌悪すべき部分と直面することを避けているのです。つまり、自分自身と向き合う代わりに、他人という鏡と向き合って、他人を攻撃するのです。ですから、患者が、「お前は、×××だ!」と言ったとき、「お前は」という部分を「私は」に置き換えてみれば、言っていることがそっくりそのまま患者自身にぴったりと当てはまることがあるのです。しかし、患者は「私は、自分勝手だ!」とは言いません。その代わりに「お前は、自分勝手だ!」「お前は、自分のことしか考えていないじゃないか!」と言って、周囲の人たちを非難するのです。
このような他人を利用した自己嫌悪は、患者が他人に憎しみを向けるというパターンだけではなくて、逆に他人に患者を憎むように仕向けるという形を取ることもあります。自分で自分を憎むのではなくて、自分を憎んでいる「自分自身」を他人という鏡に映し出すのです。そして鏡の役を割り振った他人から、自分を憎んでもらうことで、他人を利用した自己嫌悪という形を作り出すのです。そして、このような形を取ることで、自分で自分を嫌悪するという苦痛から逃げようとするのです。ですから、わざと相手の人から嫌われるようなことをして、相手の嫌悪感や憎しみを誘発するのです。そして、自分は、他人から嫌われる役を演ずるのです。ですから、表面的には相手の人の怒りをかってしまい、嫌われて除け者にされているように見えますが、実際には相手の人というのは、他でもない鏡に映し出された「私を嫌っている、いやな私自身」ということになるのです。つまり、患者はこのような形で自己嫌悪を完結させようとするのです。そして、相手の人は自分でも気づかないうちに患者自身の自己嫌悪のシステムの中へと組み込まれてしまうのです。そして、いつの間にか患者から割り振られた役、つまり患者を嫌うという役割を演じてしまうことになるのです。
では、なぜこのような防衛機制が発生するのかと言いますと、患者には自分というものがないからなのです。自分というものがないので、葛藤を自分だけで抱えることができないのです。加えて、患者は精神的な「分離-個体化」に失敗しているため、自分と他人とを区別する境界が非常にあいまいです。ですから、本来なら自分の中にとどまっている葛藤が、自他の境界があいまいなために、自分の境界の中にとどまっていることができずに、そのまま周囲の人間関係の中へと流出してしまうのです。そして、患者の心の中の混乱が、そのまま周囲の人たちの混乱として表現されることになるのです。そして、周囲の人たちは、患者から色々な役割を押しつけられて、気づかないうちに患者の葛藤の代役を演じさせられることになるのです。そして、こういう形を取ることで、患者自身は自分の見たくもないいやな部分を全部他人に押しつけることが出来ますので、本人としては「善人」のままでいることができるのです。つまり、自分はあくまでも善人であり、悪いのはすべて悪役を割り振った他人のせいなんだということになるのです。
このような投影性同一視のメカニズムを頭に入れた上で、次に患者への対応の仕方について考えてみましょう。もし患者が自分の自己愛をスタッフに映し出して、スタッフを褒めたたえたり、あるいは恋愛感情を抱いたりするときは、病院のスタッフという役割を逸脱しないように注意したほうがいいでしょう。患者が自分の良い面を他人に映し出していたとしても、後になって悪い面を映し出してきたときには、罵倒されたり、こきおろされたりすることがよくあるからです。
厄介なのは、患者の悪い面が映し出されたときなのです。スタッフが患者から激しい非難を浴びたりしたときには、ついカッとなって、言い返してやりたくなったりします。たとえば、先の例で言えば、「お前は、自分勝手だ」と言われたら、「自分勝手なのは、お前の方じゃないか。自分のことを棚に上げて、なんだ!」と言い返したくなったりします。しかし、このような反論は、火に油を注ぐことになります。「自分勝手なのは、お前の方だ」と言われたとき、患者がこの言葉をどのように解釈するかというと、「この人は、こうやって全部私のせいにして責任逃れをしようとしている。ますますもって許し難い自分勝手なやつだ」ということになるのです。そして、さらなる激しい非難を浴びせて来るのです。そして、お互いに「悪いのはお前の方だ」という非難の応酬となり、醜い口論が展開することになるのです。患者にとっては、あくまでも自分は無実であり、悪いのはすべて他人ということになっていますので、このような言い争いになってしまいますと、勝ち目のない泥沼にはまり込んでしまうことになるのです。そして、このような言い争いの騒乱状態というのは、患者の内面の混乱した状態そのものが表現されているということでもあるのです。つまり、患者から何か言われて、それに対して反論したい誘惑に駆られたとしたら、これこそが患者からの、他人を利用した自己嫌悪への「お誘い」なのです。そして、反論したいという誘惑に負けて、ついついこのお誘いにのってしまいますと、いつの間にか、患者から割り振られた悪役を演じされられることになるのです。しかし、このように患者が感情を剥き出しにしてくる場合は、それでもまだ分かりやすいのですが、患者が感情を抑えているような場合には、投影性同一視による操作になかなか気づかなかったりします。たとえば患者がスタッフに悪役を割り振って、いつもスタッフに接するときに、��言のままに悪人に接するような接し方をして来ますと、スタッフの方もいつの間にか患者に対して不親切になっていって、そのうちに自分から進んで悪人のような行動を取ったりするようになるのです。
この他人を利用した自己嫌悪というのは、他にもいろいろな現われ方をします。患者は言う事とやることが矛盾していて、ちぐはぐだったりするのですが、そういう自分自身の矛盾した面が他人に映し出されたりしますと、これが他人の行動の矛盾点を鋭く見抜いて激しく攻撃するという形で現われたりします。また、患者は頭ごなしに決めつけるような言い方をされたりしますと、特に自己愛型の人などはすぐにキレたりするのですが、しかし、その一方で自分が他人を非難するときには、まさにその頭ごなしに決めつけるような非難の仕方をするのです。切って捨てるようなと言いますか、そういう言い方をするのです。こういった、自分のことを棚に上げて他人を非難するパターンを、他にもいくつか挙げてみましょう。
私の存在を無視するようなことをするな。 → 自分自身が他人を無視するようなことを平気でしている。
お前はマトモじゃない。狂っている。常識というものを知らない。 → 自分自身が狂っていて常識というものを知らない。
お前は卑怯で陰険なやつだ。 → 自分自身が卑怯で陰険なことをしている。
なんで私の言うことが信用できないんだ。 → 自分自身が他人を信用していない。
お前は私を支配しようとしている。 → 自分自身が他人を支配しようとしている。
お前は欠点だらけだ。 → 自分自身が欠点だらけ。
お前のようなやつは、誰からも相手にされないぞ。 → 自分自身が誰からも相手にされない。
お前は態度がでかい。生意気だ。 → 自分自身が生意気で、でかい態度を取っている。
まあ、境界例の人がこれを読むと、読んだだけでカチンと来る人もいるかもしれません。しかし、もし自分自身の見たくもない一面や、自分自身の欠点を、ある程度素直に見つめることができれば、ああ、自分にも思い当たるところがあるな、と言うふうに振り返ってみることもできるのですが、そう言うことができないからこそ、他人に自分のいやな部分を映し出して、他人を罵倒するのです。そして、もしも相手から「お前自身がそうじゃないか」などと言われようものなら、「なにおー」となるのです。そして、お互いに口論となり、「無視するようなことなんかしていない」とか、「いや、お前は明らかに無視するようなことをしたじゃないか」とか、あるいは「お前は自分勝手なことばかりしている」とか、「いやそんなことは絶対にしていない」とか、そういう不毛の論争になったりするのです。たしかに、相手の人にも、多少は患者が非難するような一面があるかもしれませんが、患者は相手のそういう部分に、非常に敏感に反応していくのです。そして、もしもこれが境界例同士だったりするともっと大変です。お互いに自分のことを棚に上げて相手を非難し合いますので、さらに収拾のつかないような激しい言い争いになっていくのです。
しかし、必ずしも相手の方に患者の言うような問題があるとは限りません。たとえば患者自身が自分勝手で自己中心的だったりしますと、ごく普通の言動であっても歪められて理解されてしまうことがよくあるからです。こういうときは、相手の人は言いがかりをつけられたような不愉快な気持ちになります。そして、患者の主張を真っ向から否定しようとして、むきになって反論したりします。そうなると、ここでまた患者との間で、「お前は××だ」「いや、私は××なんかじゃない」というような不毛の口論が展開することになるのです。
このような患者が仕掛けてくる言い争いに巻き込まれないようにするためには、まず投影性同一視というメカニズムを理解しておく必要があります。そして、患者が投影性同一視というお誘いを仕掛けてきたときには、その手に乗らないように注意する必要があります。具体的に言えば、反論したい気持ちになったときに、まず一呼吸おいて、心を落ち着けたほうがいいでしょう。そして、患者の表面的な言葉ではなくて、その背後にあるものは何なのだろうかということに焦点を当ててみるのです。
もしスタッフが、自分がどういう人間であるのかということをよく理解していて、さらに投影性同一視などの��衛機制の知識を持っていれば、患者から言いがかりのようなことを言われたとしても、あわてることはありません。たとえば、「お前は欠点だらけの人間だ」と言われたとしても、自分にはたしかに欠点はあるが、決して欠点だらけではない、これは敢えて反論するまでもなく自明のことである、というふうに自信を持って判断することができますし、患者の激しい非難に対しても余裕を持って接することができます。もし、患者から大声で怒鳴られたとしても、ほう、今日はやけに元気がいいなぁ、くらいに、ワンクッション置いて受け止めておいて、その次に、この患者は欠点だらけの自分を受け入れることができなくて苦しんでいるんだな、それでこうやって私を欠点だらけの人間だと非難することで、自分自身の苦しみをなんとか解消しようとしてもがいているんだな、という具合に共感的な態度で接することができるようになります。そして、なぜ私が欠点だらけの人間に見えるのだろうか、というふうに、患者の苦しみの源に探りを入れていくことも出来るのです。しかし、この苦しみの源は、患者が苦痛のあまりに直視することを避けている問題でもありますので、深追いすることは禁物です。構造的なことを言えば、患者は自分自身に欠点があると、その欠点ゆえに見捨てられてしまうのではないかという恐怖感を持っていたりするのです。ですから、あくまでも自分は欠点のない完璧な人間でなければならないのです。しかし、このような願望は患者の心理的な現実を無視していますので、かなりの無理が発生します。ですから、そういう見たくもない自分の現実に目をつぶるために、相手にも完璧性を求めるのです。そして、完璧性を満たさない相手が、欠点だらけの人間に見えてくるのです。他にも、患者によってはいろいろな解釈が成り立つと思いますが、こういう分析はセラピストの仕事になりますので、スタッフとしては、患者の苦しみに対して共感的に接することに重点を置いた方が良いのではないかと思います。そして、こういう共感的な接し方を何回も繰り返していますと、患者は自分の苦しみを理解してもらえることで、見捨てられることへの恐怖感が和らいでいくのです。そして、知りたくもない自分自身のいやな部分を少しずつ見つめられるようになっていくのです。
投影性同一視による攻撃は、このように直接本人に向けられるだけではなくて、そこにいない第三者の悪口を言うという形でも現われてきます。たとえば看護婦のAさんをつかまえて、看護婦のBさんがいかにひどい人間であるかを訴えたりするのです。患者は自分の抱いている憎しみを理解してもらいたくて、事実関係を歪めたり、あるいは誇張して大げさに表現したりします。そして、自分の抱いている憎しみに共感してくれるようにと迫ってくるのです。看護婦さんたちも人間ですし、病院という職場での人間関係にも、いろいろなことがありますので、たしかに患者が指摘するような欠点がBさんにあって、患者の言うことに多少は共感を覚えることがあるかもしれません。だからといって、ここで「そうよね。あのに人もそういうところがあって、私たちも困ってるのよね」などと言おうものなら、これが後で大変なことになるのです。つまり、次に患者がBさんを攻撃するときに、「Aさんもこう言っていたよ。あんたも気をつけたほうがいいんじゃないの。そんな態度だと誰からも相手にされなくなるよ」と言う具合に、自分の言った言葉が患者に利用されてしまうのです。さらに話に尾ひれがついて、あることないことを言い触らされたりするのです。そうすると、今度は、この話を聞いたBさんの方が頭に来て、Aさんを批判するようなことを言ったりするのです。すると、これがまた患者によって誇張されて、Aさんの耳に入ることになるのです。このようなことが繰り返されていきますと、やがてスタッフ同士が互いに根深い不信感を抱くようになります。そして、病院内の人間関係が非常に混乱したものになっていくのです。このような混乱した状態というのは、他でもない、患者自身の混乱した内面そのものが周囲の人間関係の中に映し出されたことによるものなのです。しかし、患者は意図的にこのようなことをやっているのではなくて、やむにやまれぬ思いでAさんやBさんのひどい行動を訴えているだけなのです。そして、このような患者の無意識的な行動によって、スタッフたちが患者の葛藤の代役を演じさせられることになるのです。そして、このことによって病院の治療態勢が崩壊の危機にさらされたりするのです。
このような事態にならないようにするためには、患者の感情に共感的に接したときであっても、絶対に患者の前で同僚の悪口を言ったりしないことです。そして、スタッフ同士が互いに信頼関係を維持できるような、チームワークの取れた態勢を作る必要があります。また、投影性同一視によって、スタッフは自分でも気づかないうちに、患者から割り振られた悪役を演じさせられてしまうことがありますので、ときどき自分自身の言動もチェックする必要があります。たとえば、特定の患者に何か悪い感情を抱くようになっていないかとか、あるいはいつの間にかある患者を避けるようになっていだろうかとか、そういう事について自分自身を振り返ってみるのです。そして、これはもしかしたら投影性同一視による操作ではないだろうかとか、患者からそう行動するように仕向けられているからではないだろうか、というふうに考えてみるのです。このような自己点検をしてみても、時には自分自身でも気づかないことがあったりしますので、同僚同士でお互いの問題点を、気兼ねなく指摘しあえるような雰囲気を作ることも大切です。このように、境界例患者と接するということは、常に自分自身と向き合うということであり、自分自身を知るということにもつながっていくのです。
次回は、境界例患者と接するときに重要な意味を持つ、自分と他人との間の境界設定について書いてみたいと思います。
【参考文献】 「羨望と感謝 無意識の源泉について」 メラニー・クライン みすず書房 1975.1.15 \1200 「 Stop Walking on Eggshells : Taking Your Life Back When Someone You Care About Has Borderline Personality Disorder 」 Paul T.Mason, M.S. Randi Kreger 1998 New Harbinger Publications,Inc. $14.95
こりゃ大変だ。
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分裂病と人類
私は一方では、分裂病になる可能性は全人類が持っているであろうと仮定し、他方では、その重い失調状態ならば軽うつ状態をはじめ、心気症などいろいろありうると思う。
分裂病親和性を、木村敏が人間学的に「ante festum(祭りの前=先取り)的な構えの卓越」と包括的に捉えたことは私の立場からしてもプレグナントな捉え方である、別に私は「兆候空間優位性」と「統合指向性」を抽出し、「もっともと遠くもっともかすかな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその自体が現前するごとく恐怖し憧憬する」と述べた(兆候が局所にとどまらず、一つの全体的な自体を表象するのが「統合指向性」である)。
『分裂病と人類』中井久夫
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パラディグマティック・シンタグマティック
「人間はいつまたどこにおいても、たえず決断し《選択》しつつ生きてゆかねばならない存在である。外的空間における決断は《行動》として現われ、内的空間における選択は《経験》となって結果する。これらの決断や選択はその主たる相においてパラディグマティックかシンタグマティックかのいずれかである。つまり、一般に選択はある観点からみて何らかの点において相似であるものから相互排除的に一つを選ぶ(一般には収斂的、あるいは〝分析的〟な指向性のもとに選択する)パラディグマティックな選択か、複数の相補的因子を相依相待的に選択し一つの全体とする(一般には拡大的あるいは〝総合的〟な指向性のもとに選択する)シンタグマティックな選択か、のいずれかとなる。 むろん一つの事態は必ずしも一つの型の選択形式を予想しない。身近な例をあげれば、職業や配偶者の選択において、可能性のリストの中から一つをえらぶならば、それはすぐれてパラディグマティックな選択である。極端なものは写真だけで配偶者をえらぶ場合であろう。これに反して、自分の性格、能力、資力、志向などを考え合わせて選ぶならば、その選択はすぐれてシンタグマティックというべきであろう。 ��間の生活史を選択と決断(と猶予)の連鎖とするならば、『自己』と『非自己』、『内面』と『外面』、『いい自分』と『わるい自分』、『表』と『裏』(土居)などの分割を生活のはじまりにおいてみられるところの、おそらくすぐれてシンタグマティックな選択とみることもできよう。 選択に際していずれの方式が優位となるかはある程度気質に規定される。これはきわめて基本的な世界認識、すなわち行動と経験のもっとも包括的な枠組や、個々の行動と経験において世界を切りとる、世界の『截断』の方式に至るものである。おそらく、分裂気質圏の人がすぐれてシンタグマティックな相のもとに、すなわち共可能的なcompossibleものの総体として世界をみ、そのように截断するのに対して循環気質圏の人はすぐれてパラディグマティックな相のもとに、すなわち何からの意味で競合する位置をめぐる相互排除性を前提とする相似的なものの総体として、世界の截断を行なうものである。このことは、それぞれの気質圏の人が陥る《〝選択困難embarras de choix〟の状況的構造》を想起すれば、直ちにあきらかであろう。《分裂気質圏の人においては、シンタグマティック》な世界がすべてそうであるように、《ただ一つの新しいものの侵入も世界全体を震撼させ、彼は世界全体を一連のシンタグマティックな選択をとおして再統合する努力を時を移さずしてみずからに課さなければならない》。これに反して《循環気質圏の人の選択困難》は、ほとんどいつも《世界の一部分をめぐっての相互排除に関する葛藤、すなわち共存困難なものの競合》である。 より正しくは、選択の指向性が気質によって規定されるのではなく、逆に生活史における選択と決断の連鎖、あるいはその結果としての行動と経験の連鎖における、多少とも定常的に優位な指向性によって気質を定義すべきなのであろう。 おそらく健康者は『生の戦略』にもとづいて、この双対(つい)的な選択指向性を巧みに使いわけて時空の中を生きているのである。個々の心理的空間に現れる歪みや障害はそれ自身の中に起源をもつものでなく、それら個々の心理的空間を統合するもの──おそらくは過去と未来を現在の相において統合する『歴史的意識』といわれるものと深い関連があるであろうところの《あるもの》──の自由な活動がそこなわれている結果とみることが正鵠を得ているのかもしれない。 分裂気質圏の人にあっては、投影という、すぐれてパラディグマティックな過程も、すぐれてシンタグマティックな過程である構成とおなじく、この気質圏を規定する、〝統合指向性syntagmatotropism〟ともいうべき、より包括的な『生の戦略』の影響下にあり、それが分裂病圏の人の投影的心理空間に特有の陰翳を与えているのであろう」
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解離性障害
普段は離人的に何事もないかのように生活していても、しばしば突発的に劇場が噴出するパターンを繰り返す。このパターンは、どのような解離症状をもつ症例にでも、その経過において多かれ少なかれ認められる。
ヴァンデアハートらは、この二つの側面を「あたかも正常に見える人格部分」と「情動的な人格部分」と呼び直し、この二面性を心的外傷によって生じた解離性障害の基本形と考えたのである。
『解離する生命』
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アンダースザイン
一、はじめに
アンダースザインの意識は周知の通り、ブランケンブルクの症例アンネに範例的に見られるものでもあり、この意識や内容の特有のニュアンスについてはもはや多くの説明を要しないであろう。しかし、日本の少なくとも筆者の経験した患者にみられるこの意識とアンネのそれとを比べてみると、ブランケンブルクの記載からみる限り若干のニュアンスの違いに気付く。例えばアンネでは「私には…がない」「足りない」「欠けている」という言い方が頻繁にみられる一方、われわれの患者では「他の人と違う」、「普通と違う」という言い方が目につく。アンネでは「欠如」の意識が、日本の患者では「差異」の意識が前傾にたっているように思われるのである。
二、患者の側でのアンダースザインの意識
「人と違う」とか「普通の人と違う」、「他の人と違う」などというごく短い言葉で訴えられるアンダースザインの意識は、もっぱら人との「差異」のみが強調され、いかなる点が違うのかという差異の内容についてはさしあたっては限定を与えられない。「どこか違うのか」と尋ねると患者は一様に口ごもる。このことからすると、この差異は単に一人一人の他者の属性と自己のそれとの比較から生じるような、ごく普通の、内容を備えた差異とは質的に異なるものであることが察せられる。患者のいう「人」「普通の人」「他の人」というのは、つまり特定の個人を指すわけでもなければ、個人の総和でもなく、さらにまた類型化された「平均人」の意味でもない。この「人」は、身体性と歴史性をもった「この人」(個別)ではなく、かといって種や類としての「人間」(普遍ないし特殊)でもなく、むしろハイデッカーのいう「誰でもないもの」(das Neutrum)としてのdas Manに近い。「人と違う」という患者の言表は、さしあたっては個々の他者と自分とをさまざまな点で比較した結果、患者が導き出した経験的・反省的判断ではなく、個々の他者との出会いに先だってそのつどすでに生じている持続的な意識の様態である。
*だとすると、「人と違う」というアンダースザインの意識は、「日常的現存在」の「存在態制」としてのdas Manへと自己を明け渡しえないこと、つまり「頽落しえないこと」を言い表しているに他ならないことになる。
長井真里『内省の構造 精神病理学的考察』岩波オンデマンドブックス
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影響を受けた本と論文
中井久夫『新版 分裂病と人類 』 東京大学出版会
飯田真・中井久夫『天才の精神病理 科学的創造の秘密』岩波書店
中井久夫『統合失調症 1』精神医学重要文献シリーズHeritage みすず書房
中井久夫『統合失調症 2』 精神医学重要文献シリーズHeritage みすず書房
中井久夫『 徴候・記憶・外傷 』 みすず書房 (とくに���界における索引と徴候)
ハリー・スタック・サリヴァン『 精神医学は対人関係論である』みすず書房
マイケル・バリント『 治療論からみた退行 基底欠損の精神分析 』
内海健 『自閉症スペクトラムの精神病理 星をつぐ人たちのために』 医学書院
内海健 『 双極II型障害という病 改訂版うつ病新時代』 勉誠出版
内海健『「うつ」の舞台 』 弘文堂
内海健『うつ病の心理 失われた悲しみの場に』 誠信書房
内海健 『スキゾフレニア論考 病理と回復へのまなざし』 星和書店
柴山雅俊『解離の構造 私の変容と〈むすび〉の治療論』岩崎学術出版社
柴山雅俊『解離の舞台 症状構造と治療 』岩崎学術出版社
安永浩 『方法論と臨床概念 』 中心気質という概念について
安永浩 『ファントム空間論 分裂病の論理学的精神病理 』 金剛出版
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急性統合失調症状態
(1) 存在は完全に「世界」対「自己」に二分される。しかも同時に両者は総絵相対的に一つの「統合」(シンタグマ)を構成しないという背理性。
(2) 「世界」は 「意味するもの signifiant」の総体となる。
(3) これに対して「自己」は「意味されるもの signifié」となる。
かくて、ひとは”まなざされ””語りかけられ”るだけではなく、また、世界によって「読まれる」のである。世界または世界を代表するなにものかによって「読まれる」という基本的事象性がなければいかなる荒唐無稽な着想も、「統合失調症的妄想」ということはできないであろう。
(4) バルトの示すように、直示と伴示との関係は、次元の数はまちまちであるが、ヒエラルキー的な構成的関係にある。この階層秩序が崩壊し、この崩壊を前提として、マトゥセクがゲシュタルト心理学の用語を援用していうところの「本質特徴の優位」、すなわち記号学的にいえば「伴示の直示に対する優先」が起こる。ここで留意すべきは、 直示-伴示の階層秩序の崩壊をともなわない、単なる伴示の前景突出は「投影的心理空間」の優劣化ではあっても、統合失調症のこの段階を特徴づけるものではないという点である。健康者は内的(表象)空間においても、直示-伴示の階層秩序をある程度意志的に昇降する自由をもっている。
以上は急性統合失調症状態の知覚-認識的特徴の記号学的表示である。急性統合失調症状態がこのように、知覚-認識的構造として包括的に記述しやすいのは、安永浩のいうように、統合失調気質者においてはおそらく、もともと、その世界のよってたつ基底が、距離をおいた認識、しかも知覚親近的な認識にとっては、世界を把握し、実例を枚挙するために走査的に世界の中を”歩きまわら”なければならず、それゆえ実際に世界の中において行動しなければならない。
統合失調気質者における、この知覚-認識的な世界基盤は多少とも生育史的に成立したものである可能性がある。すなわち、かつて私がラッセルについてみたように、生育史の初期における彼らの、世界に対する無条件の信頼性(いわゆる”Basic trust”)の欠如を世界の可解性と整合性を措定して代償しようとする試みと関係があるかもしれない。
中井久夫『精神医学重要文献シリーズ 統合失調症2』みすず書房
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トラウマについての断想
記憶はそもそも五官ではなしえない「眼の前にないものに対する警告」として誕生した可能性がある。外傷性の記憶は特にそうである。その鮮明な静止的イメージは端的な警告札である。一般にイメージは言語より衡迫(しょうはく)が強く、一瞥してすべてを同時的に代表象representしうる。人間においてもっとも早く知られたフラッシュバックは覚醒剤使用者のそれである。そもそも幼時記憶も同じ性格を帯びており、基本的な生存のための智慧はそれによって与えられる。外傷性記憶が鮮明であるのに言語的な表現が困難であるのは、外傷という深く生命に根ざした記憶という面があってのことと思われる。「回避」はもっとも後まで残る症状とされるが、これは動物が主にそれによって行動するような言語以前の直観によるものであると私は思う。私がなぜ回避するかは、理屈はつけられるだろうが、実状は「いやーな感じ(あるいは恐怖のようなもの)がしてどうしても足が向かない」のが回避である。したがって心的外傷は、言語によって訴えても甲斐がない。犯罪被害者の遺族たちと会った時、異口同音に「私たちも被害に遭うまでは人ごとと思っていました」と語るのを聴かされた。
被害者は「有徴者the marked」である。疎外されがちである。この疎外はおそらく非有徴者たちの生存に有利なのであろう。
中井久夫『日時計の影』みすず書房
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暴力雑記
仮に躁うつ病の代りに多重人格を置いて分裂病と対比しますと、分裂病には自分が唯一無二の単一人格でありつづけようとする悲壮なまでの努力がありありと認められます。何に措いても責任だけはわが身に引き受けようとする努力です。あるいは、人格のユニティ(単一・統一性)の維持を優先するか、コンクリフト(葛藤)の解消を優先させるかによって、ひろく精神障害を二つの系列に分けることができるかもしれません。
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ、排除です。フロイトが「外へ放り投げる」という意味のVerwerfungという言葉で言わんとするものです。サリヴァンは「人間は意識と両立しないものを絶えずエネルギーを注いで排除しているが、排除するエネルギーがなくなると排除していたものがいっせいに意識の中に入ってくるのが急性統合失調症状態だ」と言っています。自我の統一を保つために排除している状態が彼の言う解離であり、これは生体の機能です。この生体の機能は免疫学における自己と非自己維持システムに非常に似ていて、一九九〇年代に免疫学が見つけたことを先取りしています。解離されているものとは免疫学の非自己に相当します。これを��除して人格の単一性(ユニティ)を守ろうとするのです。統合失調症は解体の危機をかけてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力です。統合失調症はあくまで一つの人格であろうとします。
最終講義 分裂病私見
戦争こそ、明確な言語化やイメージ化をせずに行動化される最たるものである。
近代の開戦理由を枚挙してみても、それが必要充分な理由であったことはかつてないのではないか。「なぜ、それが戦争になるのか」という反問に耐ええないものばかりであると私は思う。
不確実で、より小さな不利益の可能性のために、確実でより大きな損害を招く行為である。これは多くの犯罪と軌を一にしている。
戦争への引き返し不能点は具体的に感覚できるものである。太平洋戦争の始まる直前の重苦しさを私はまざまざと記憶しており、「もういっそ始まってほしい。今の状態には耐えられない。蛇の生殺しである」という感覚を私の周囲の人が持っていた。辰野隆のような仏文学者が開戦直後に「一言でいえばざまあみろということであります」と言ったのは、この感覚からの解放である。
イデアから行動への直結
行動化自体もまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因��関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感、を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。
行動化の効用
例えば自分の手首を切るとか、中二階から飛び降りるとか、あるいは行きずりの人を殴るということがありますが、殴るという行為の瞬間は心身が人まとまりになるのです。乱暴する瞬間はいわば皮質下的な統一があるのですね。
自傷他害行為の背景ー自己感覚の薄さ
中井 うーん、それはまあ、宗教的にみんな聞いたとか、キリストの復活を何人もが見たとかね、昇天するのを。またファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというのも受肉するんですねぇ。
鷲田 受肉するっていうのは、憑くっていうか、残るってことですか。
中井 まあそれほどではなくてもね。マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。
「身体の多重性」をめぐる考察
中井久夫『最終講義 分裂病私見』みすず書房 93p
中井久夫『徴候・記憶・外傷 』みすず書房 141p
同上 309p
同上 311p
同上 363p
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境界的人間
「境界的人間...とは、2つの社会を、2つの、単に異なっているだけではなく敵対しあう文化を、生きるべく運命づけられた存在であり...彼の精神は、2つの異なる、容易には溶解しない文化が、溶解し、全体的あるいは部分的に融合する、るつぼとなるのである。」(Robert E. Park, 1937)
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いじめの政治学
その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる、このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。
差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。
もっとも、いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけたたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、相互性があればよく、なければいじめである。
鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなくなるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。
子どもの社会は権力社会であるという側面を持つ。子どもは家族や社会の中で権力を持てないだけ、いっそう権力に飢えている。子どもが家族の中で権利を制限され、権力を振るわれていることが大きければ大きいほど、子どもの飢えは増大する。
いじめる側の子どもにかんする研究は少ない。彼らが研究に登場するのは、家族の中で暴力を振るわれている場合である。あるいは発言したくても発言権がなくて、無力感にさいなまれている場合である。たとえば、どれだけ多くの子どもが家庭にあって、父母あるいは嫁姑の確執に対して一言いいたくて、しかしいえなくて身悶えする思いでいることか。
そういう子どもが皆いじめ側になるわけではない。いじめられる側にまわるほうが多く、その結果、神経症になるほうが多いだろう。
中井久夫『アリアドネからの糸』いじめの政治学
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「女」の覚書
女は性的なだけで、しかも完全に性的である。その性現象は肉体の全体に広がり、中には物理的な言い方をすれば、他の部分に比べて性現象の密度が非常に濃いところがいくつかある。女は性的な影響を受け、すべてのものに貫かれるー常に、そして肉体のすべての表面において。交接と通常呼ばれるものは、単に最も激しい特別な場合を指しているだけだ。
オットー・ヴァイニンガー『性と性格』
「受動的で刻印を受ける主体」
要するに女にとって、すべてのものが「父親」なのだ。女は母なる受容体そのものとして、あらゆるものに貫通されつつ子を孕むことができるというのだ。ヴァイニンガーは、女には実質的な存在論的一貫性といったものがないと主張する。女とは、男が自らの性現象を受け入れて失墜した結果として、形成された存在なのだ。その意味で女は「男の罪」であり、ラカン風に言い換えるならば「男の症状」なのである。ここでヴァイニンガーが述べていることは、「女は存在しない」というラカンのテーゼに驚くほど一致している。
ラカン派哲学者であるスラヴォイジジェクは、際どいところでヴァイニンガーの解釈に意義をつきつける。(「オットー・ヴァイニンガーもしくは『女は存在しない』」『快楽の転移』青土社、1996年)。なるほど、たしかにラカンもヴァイニンガーと同様に「女は存在しない」と断定するだろう。ここまでは同じだ。
しかし、ヴァイニンガーは、「存在しない女性」をそのまま対象化しようとした。言い換えるなら、女性という存在を、単に否定しただけに留まった。いっぽうラカンは「存在しない」ことこそが、唯一の主体の条件であるとしたのである。
まるで「なにもない」があるんだ、といった詭弁に聞こえるだろうか。しかし精神分析とは、そもそも、「ただ『ない』こと」と、「『ない』こと『ある』」ことを区別しなければはじまらない。
ラカンによれば、男と女は、相互に補完し合って全体を形成するようなふたつの種ではない。それぞれが<全体>であろうとして失敗した、ふたつの存在形式なのだ。そこには実質的な違いはほとんどない。「本来の性的快感の領域においては、男性経済は優れた快感たるファルスの器官を中心とする『目的論的』な方向に走り、女性経済は目的論的な中心原理の周りに形成される快感ではなく、散らばった網の目のような組織をした快感をもつ」(ジジェク)のだ。それゆえヴァイニンガーの諸説は逆さに読まなければならない。
斉藤 環 『関係する女 所有する男』 講談社現代新書
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嗜癖
また、境界例には、おおかれすくなかれ、一種の嗜癖性が成立する。というか、そうでないものは、多分、境界例として認知されないのだろう。嗜癖とは何であろうか。それは、
(一)満足と不満足との落差が大であること。だから、淡々としている時とノイジーな時との差が大きい。また急変する。だから希望的観測をする治療者は一喜一憂して振り回される。
(ニ)その落差が痛いほど意識されること。差異が問題であって絶対値が問題なのではない。
(三)嗜癖物質による代償性満足を求める。これは、自己の意識状態を変えるという解決で、統合失調症のなしえない点である。この自由が統合失調症にはない。いや、自己の意識状態を安直に変える道を求めうるのが嗜癖で、これらは定義のようなものだが、「安直に」という点が一つのみそで、統合失調症の人ならば、自分がどのように変えられるかわからない恐ろしい道に足をなかなかふみださないはずだ。統合失調症の人に安心して薬が出せるのは、嗜癖の成立を心配しなくてよいからで、これは統合失調症患者側からの知られざる協力である。いかなるものでも嗜癖の対象になるのだから、薬がまずいからというのは理由になるまい。意識変容による解決への真剣性は、嗜癖者が、しばしば安直ならざる意識変容的解決(正確には自己変容というべきか)を求めて、ヨガや断食やなにやかやに走ることからも傍証されよう。これも境界例にみられるものである。
(四)嗜癖の道に入る最初は人生の重大な問題である(ディーター・ヤンツ)。最初の飲酒は失恋の際に起こりやすく、最初のマリワナ吸引はインスピレーションが行き詰まってしかも期限が刻々迫っている芸術家に起こりやすい。一見好奇心と見えるものも、必ずしもそうではない。私の若い時のシガレット嗜癖は、親友が、私の彼に対するイメージとそぐわない喫煙者であることを知った時に始まっている。
中井久夫 『世に棲む患者』 説き語り「境界例」
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