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Le dire du poème
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past0ute · 5 years ago
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ボードリヤール / 「完全犯罪」
ところで、イメージはもはや現実を想像できない。イメージそのものが現実になったからだ。イメージは現実を夢見ることさえできない。イメージが仮想的な〔=潜在的な〕現実(ヴァーチャル・リアリティ)になったからだ。まるで、世界の事物が自分たちの映っている鏡をのみこんで、鏡に映らないほど透きとおった存在となり、白日のもと、リアル・タイムで、〔イメージ中に〕容赦なく転写されて、すっかりわかりやすくなってしまったかのような事態が生じている。幻想中で自分たちにとってさえ不在となるかわりに、事物は無数のコンピュータ画面上に書きこまれ、それらの画面が構成する地平線の彼方では、現実ばかりかイメージさえもが消減している。現実性が現実から追放されてしまったのだ。ただテクノロジーだけが現実のバラバラの破片をまだ結びつけることができるとはいえ、現実にふくまれていた意味の輝きは、いったいどこへ行ったのだろうか。
残された唯一の期待は、世界がそのあまりにもわずかな現実に打ち倒される前に、どの程度まで非現実化され得るだろうか、逆にいえば、あまりにも過剰な現実の重みにおしつぶされる前に、どの程度までハイパー現実化され得るだろうか、ということだ(つまり、現実以上に現実的になり、真実以上に真実になった世界は、全面的なシミ=レーションの過程に支配されてしまうのである)。(ボードリヤール,塚原1998,13)
ジャン・ボードリヤール,塚原史1998『完全犯罪』紀伊国屋書店.
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past0ute · 5 years ago
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田中冬二 / 立秋小悲
ソーダ水のやうな
月の夜に
小さき金魚ひとつ死したり
あはれ
しらじらと 秋たちぬ
田中冬二2006『青い夜道』日本図書センター.
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past0ute · 5 years ago
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吉田孝 / 宮中のクーデター『大系 日本の歴史3 古代国家の歩み』
仏教はクニ・ムラやウヂを基盤とする原始信仰とは異なり、民族の枠を超えてひろまった世界宗教であったがら朝鮮諸国が古代国家を形成すると��も、それと並行して国王が仏教を保護し、ひろめる政策をとっている。それは、氏族制的な社会を超え、それを包摂するら国家を形成しようとするとき、仏教が氏族制社会を超える普遍的な性格をもっていることに注目したのであろう。(吉田1998,33-34)
吉田孝1998 『大系 日本の歴史3 古代国家の歩み』小学館
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past0ute · 5 years ago
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饗庭孝雄 / フランス文学から文化論への道すじ
私は、他方、よい講義とは知的関心を刺激することであり、体系的な<知>を与えることではない、と思ってきた。知的刺激を受けて、人は自分の<知>をゆたかに、すぐれた判断力をつくってゆくことである。大切なことは知識の量でもなければ体系でもなく、無限に相対性の視野をひろげ、よい判断力をもつことに他ならない。以上がこれまで生きて来た私の一つの理解の道筋である。
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past0ute · 5 years ago
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ラカン / パラノイア性犯罪の動機『二人であることの病い パラノイアと言語』
 運命の晩、さしせまる処罰の不安のなかで、二人の姉妹は女主人たちの心像に彼女たちの禍の幻影をまぜあわせる。彼女たちが残虐なカドリールへと引きずり込むカップルのなかで彼女たちがきらうのは、彼女たちの苦悩である。彼女たちは、まるでバッカス神の祭尼が去勢でもするように、目をえぐりとる。大昔から人間の不安を形づくっている冒瀆的な興味こそが彼女たちを駆り立てるのだが、それは彼女たちが犠牲者を欲する時であり、また彼女たちが、のちにクリスティーヌが裁判官の前で無邪気に《人生の神秘》と名づけることになるものを犠牲者のぽっかり開いた傷口のなかへ追いつめる時である。(ラカン,宮本ほか訳1984,142-143)
ジャック・ラカン,宮本忠雄ほか訳1984『二人であることの病い パラノイアと言語』朝日出版社
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past0ute · 5 years ago
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ラカン / テュケーとオートマトン『精神分析の四基本概念』
 『反復』というタイトルで書かれた、軽妙さとイロニーによって眩いばかりのあのテクストをもう一度読むことをお勧めします。愛の幻を廃棄するその様式はまさにドン・ジ=アンを描いたモーツァルトのようです。キルケゴールがその有頂天で滑稽なさまを描き出した若者は、実はその愛において記憶の仲介によって自分自身にだけ向っていたのだ、ということが反駁の余地のない鋭さで強調されています。実際そこには、もし人が愛についてその様式と方法とを教え込まれなければ愛を感じる人などいるのだろうか、というラ・ロッシュフーコーの言葉よりも意味深いものがあるのではないでしようか。それはそうですが、しかし誰が愛を始めたのでしようか。すべては愛の魔法が向けられた最初の人に対する欺瞞に始まるのではないでしようか。つまり、この欺瞞が愛の魔法を他者の賛美として通用させ、自ら進んで他者の賛美の、またその息切れの虜になつだのです。この欺瞞が、自我理想に由来するものにせよ、理想的であると自ら思っている自我に由来するものにせよ、もっとも偽りに満ちた要求つまりナルシシズム的満足の要求を他者を使って作り出したのではないでしようか。(ラカン,アラン=ミレール編,小出ほか訳,81)
ジャック・ラカン,ジャック・アラン=ミレール編,小出浩之ほか訳2000『精神分析の四基本概念』岩波書店
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past0ute · 5 years ago
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ラカン / テュケーとオートマトン『精神分析の四基本概念』
こうして見続けられた夢は、言うならば出会い損なわれた現実、いつになっても决して到達されることのない目覚めの中で果てしなく繰り返されるほかない現実へと捧げられたオマージュと言えないでしようか。永遠に動かなくなったこの存在、たとえ炎に包まれようと再び動かぬこの存在との間に、以後いったいどのような出会いかありうると言うのでしよう。それは、あたかも偶然のように炎がその存在へと燃え移ったその瞬間に起きたあの出会い以外にはありません。この出来事のどこに現実かあるのでしよう。それは、結局より運命的ななにものかが、父親が目覚めてそこにやって来たときにすら遺体のそばで番を任されていた人がまだ眠っていたという現実「の助けを借りて」繰り返される以外にはありません。
つねに出会い損なわれるこの出会いは、かくして夢と目覚めの間、 つまりなお眠っていてその夢を我われが知ることのできない人と、目覚めないためにだけ夢を見た人との間で起きたのです。
フロイトが、ここで欲望の理論が確証された、と思ったとしても、そこでハッと気づいたということは、夢はただたんに願望を埋める幻想なのではない、ということです。
なぜなら、それはただたんに、夢の中では息子かまだ生き続けていることになっているということではなく、その亡くなった子か父親の腕をみーー恐ろしい光景ですーー、夢という形でその声を聞かせる彼岸を示しているからです。欲望はそこではもっとも残酷な点にまで映像化された対象の喪失によって表されています。実に特異なこの出会いはまさに夢の中においてのみ起きるのです。ただ儀式だけがーーそれはつねに反復される行為ですが この太古の出会いを記念することができるのです。なぜなら、子供の死とは何であるかということは、父そのものでもないかきりいかなる意識的な存在も語れないからです。なぜでしよう。父の機能を父親殺しに基礎づけるということまでしてフロイト が父なるものを守っているように、無神論の真の定式化はたんに「神は死んだ」ということではなくて、「神は無意識的である」ということだからです。(ラカン,アラン=ミレール編,小出ほか訳,78-79)
ジャック・ラカン,ジャック・アラン=ミレール編,小出浩之ほか訳2000『精神分析の四基本概念』岩波書店
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past0ute · 5 years ago
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蓮實重彥 / 21世紀モラルの鍵は?
来るべき世紀の 〈知〉 が演じるだろう振る舞いをめぐっては, いかなる具体的なイメージもいだくことができない. したがって, その 「モラル」を論じることも不可能なのですが, いま私たちが生きつつある世紀にどんな別れの言葉をつげるべきかについては, まったく考えがないわけではありません. この世紀が, 「20世紀の19世紀化」 ともいうべき反動形態を世界のすみずみにまでゆきわたらせることで,かろうじて安定をはかってきたという事実に対する反省の言葉が,どこかで発せられねばならないと思っているからです.
たとえば,普通選挙による議会��民主主義が基盤とする「代表」的な思考は,決定的に19世紀の産物です.にもかかわらず, 20世紀もおしつまったこの世紀末に,自分が何ものかによって「代表」されるという状況は何の矛盾もなく受け入れられ続けている.それが,不思議でなりません.
国会は日本国民を「代表」することになっていますが,いまでは誰も,そんな事態を信じてはいない. にもかかわらず,それに変わる制度が見当たらないというだけの理由で,議会制民主主義は21世紀まで無傷で生きのびてしまうでしょう.だが,はたして,それでいいのだろうか.
こうした疑問は,民主主義の否定を提起しているかに思われがちですが, もちろん,そんな意図などこれっぽっちもありません.日本の議会制民主主義が,選挙区を小さくするといった手直しで21世紀にふさわしいものとなろうとはとても思えない.誰かが誰かを「代表」するという制度の意味を改めて考え直してみないかぎり,到底,安心して20世紀に別れの言葉を告げることはできそうもないのです.(蓮實1996,小林ほか編1996,142)
蓮實重彥1996「美について 谷崎潤一郎『疎開日記』から」,小林康夫ほか編1996『知のモラル』東京大学出版会
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past0ute · 5 years ago
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レヴィ=ストロース / 『今日のトーテミスム』
 ティコピアでは、《食べるもの》の範疇には魚も含まれている。ところが、氏族と食用に供せられる魚との間の直接の結びつきはなにも指摘されていない。神々を回路の中にいれると間題は複雑になる。 一方では、 四種の植物は、神々を《象徴する》という理由から、神聖なものとされている。−−−−ヤムいもはカフィカの《からだ》であり、 タロいもはトーマコの《からだ》だ。パンの木の実とやしの実はそれぞれファンガレーレとタフアの《あたま》だ。−−−−しかし、他方、神々は魚、中、でもうなぎ《である》。つまり、すでに類似性と隣接性との対立という角度からわれわれの目に見えていたトーテミスムと宗教との区別が、転移され��形で、 ここでふたたび見いだされるのだ。オジブワ族におけるように、ティコピアのトーテミスムは隠喩的関係によって表明される。
 これに反して、宗教的次元においては神と動物との関係は換喩の次元に属する。まず、アツアは動物の体中にはいるとされているが、動物に身を変ずるのではないからであり、つぎには、種全体はけっして問題にならず、規準からはずれた行為のゆえにある神への媒体の役を果すと認められた一匹の動物(したがって、種の一部分)だけが問題になっているからだ。最後に、 この種の例はただ間歇的、 さらには例外的とさえ言えるように生ずるが、植物種と神との間の関係はーもっと遠いものだが 恆久的な性格を示している。この最後の観点に立っと、換喩は出来事の次元に、隠喩は構造の次元に対応すると、言ってもよかろう。(Lévi−Stratss,中沢1970,46−47)
クロード・レヴィ=ストロース,中沢紀雄1970『今日のトーテミスム』みすず書房
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past0ute · 5 years ago
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柄谷行人 / 古井由吉『男たちの円居』
 『雪の下の蟹』では、例外的な大雪にみまわれた金沢の街が孤立し次第にパニック状態に陥り、やがて雪がやんで危機が去るという背景の下に、「私」の流出する自己意識の揺らめきをとらえている。ここでも、戦時の記憶がオーヴァーラップされていることは明らかで、たとえば住民の日課である雪おろしは「防空演習」を、つまりほとんど役にも立たない哀しく滑稽なシジフォスの徒労を、糞尿の捨て場をめぐるいざこざにおいて「非常時の相互精神」が説かれたりするのは「隣組」を暗喩しているといってもいい。その意味では、表題作の『男たちの円居』は、風雨で山小屋に閉じこめられ、飢えにおびやかされるということが、右の作品ほどの暗喩性をもちえていない。・・・(中略)・・・したがって、『男たちの円居』は写実的だがやや密度を欠き、イメージが次のイメージに飛び火しさらに奥底を照らし出していく古井氏独特の文体はあまりみられない。(柄谷1990,361)
柄谷行人1990『畏怖する人間』講談社
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ラカン / 『テレヴィジオン』
 私は常に真理を言います。しかし、すべての真理ではありません。なぜなら、真理をすべて言うことはできないからです。真理をすべて言うこと、それは物理的に不可能です。言葉が足りないのです。まさにこの不可能なものによってこそ、真理は現実界に繋がります。  ですから白状しますと、私はこのコメディーに応えようとしたのですが、それはくずかごに行くべきなのです。  だから失敗しているわけですが、それでこそ間違い e r r e u r  という観点からは成功なのです。いや むしろさまよう e r r e m e n t ことという観点からは成功だと言った方がよいでしょう。  このさまようことは、たまたま出てきた問題であって、あまり重要ではありま せん。しかしまず、どのようなさまよいなのでしょうか。 さまようこととは、愚かな者に私を理解させるために語るのだというあの考えからできあがっています。  この考えは当然ほとんど私の関心を惹かなかったので、それは私に暗に示唆されるだけでした。それも友情から。それが危険なのです。  なぜなら、テレビと、私が長い間語りかけてきた聴衆、セミネールと呼ばれているもののあいだには違いはないからです どちらの場合にもひとつのまなざしがあり、どちらの場合にも私は、そのまなざしに向かってではなく、まなざしの名のもとで語るのです。
ジャック・ラカン
『テレヴィジオン』
東京精神分析サークルによる訳
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past0ute · 5 years ago
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草野心平 / 『月の出と蛙』
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past0ute · 5 years ago
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鷲田清一 / 『メルロ=ポンティ 可逆性』
この交換はしかし、われわれと世界とのあいだで同時に、感覚のあいだでも発生している。もろもろの感官はたがいに深く「交流」しあっているのであって、それはしばしば心理学者によってシネステジー(共感覚)という概念で示されてきた。(・・・途中略・・・)
あるいはまた、音が色の残像を変えることもあるという。これらはけっして特殊な事例なのではない。音を聴くと色が見えるというふうに、一つの感覚が他の領域の感覚を引き起こすという現象にみられるような諸感覚の相互的な越境・交差・浸透・翻訳の関係こそ、世界の経験にとって基礎的なものである。こうした共感覚(synesthésie)とよばれる現象については、メルロ=ポンティはつぎのようにのびやかに描きだしている。
諸感官は、物の構造にみずからを開くことによって、たがいに交流しあう。われわれはガラスの硬さともろさを見るのであり、それが透明な音とともに割れるときには、この音も目に見えるガラスによって担われるのだ。われわれには、はがねの弾性や灼熱したはがねの可延性、鉋の刃の堅さ、鉋くずの柔らかさが見えるのである。さらに、対象の形はその幾何学的輪郭ではない。つまり、形は対象の固有の本性とある関係をもち、視覚だけでなくわれわれのすべての感官に語りかける。亜麻や綿の織物のひだの形はわれわれに繊維のしなやかさや乾燥のぐあい、織物の冷たさなりなまあたたかさなりを眼に見せる。最後に、可視的対象の動きは、視野のなかでその対象に相当する色の反転がたんに位置を変えるということではない。鳥が飛び立ったばかりの枝の動きのなかに、われわれはそのしなやかさや弾性を読みとるし、またこのようにしてりんごの木の枝と白樺の枝葉は即座に区別される。われわれには砂地に打ち込まれる一塊の鋳鉄の重み、水の流動性、シロップの粘着性が見える。同様に、わたしの耳には、車の騒音のなかで舗石の堅さや凹凸が聞こえるし、また〈やわらかい〉音とか、〈つやのない〉音とか、〈かわいた〉音といった言い方にも理由がある。聴覚がわれわれにほんとうの〈物〉をあたえるかどうか疑うひとがあるとしても、聴覚が〈音をたてる〉なにかを空間のなかで音のむこうに呈示し、またそれをとおして他の感官と交流するということはすくなくともたしかである。最後に、もしわたしが、眼を閉じて、はがねの棒と菩提樹の枝をたわめれば、わたしは両手のなかで金属と樹木のもっとも内奥の組織を知覚する。したがって、比類のない性質とみなされる〈異なる感官の与件〉はおなじ数だけの別々の世界に属するとしても、それぞれが、その特殊な本質において、事物を転調する一つの仕方である以上、それらはすべてその意味の核によってたがいに交流するのである。(鷲田1997,127–129)
鷲田清一1997『メルロ=ポンティ 可逆性』(講談社)
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past0ute · 5 years ago
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勝鬘師子吼一乘大方便方廣經
我聞佛音聲 世所未曾有    
所言眞實者 應當修供養    
仰惟佛世尊 普爲世間出    
亦應垂哀愍 必令我得見    
即生此念時 佛於空中現
普放淨光明 顯示無比身
勝鬘及眷屬 頭面接足禮    
咸以清淨心 歎佛實功徳    
如來妙色身 世間無與等    
無比不思議 是故今敬禮    
如來色無盡 智慧亦復然    
一切法常住 是故我歸依    
降伏心過惡 及與身四種    
已到難伏地 是故禮法王    
T知一切爾焔 智慧身自在
攝持一切法 是故今敬禮    
敬禮過稱量 敬禮無譬類    
敬禮無邊法 敬禮難思議    
哀愍覆護我 令法種増長    
此世及後生 願佛常攝受    
我久安立汝 前世已開覺    
今復攝受汝 未來生亦然    
我已作功徳 現在及餘世    
如是衆善本 唯願見攝受
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past0ute · 5 years ago
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プラトン / 『饗宴』
独力でもしくは他の誘導によって愛の奥義に到る正しい道とは次のようなものであるからです.それはすなわち地上の個々の美しきものから出発して、かの最高美を目指して絶えずいよいよ高く昇り行くこと、ちょうど梯子の階段を昇るようにし、一つの美しき肉体から二つのへ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しき職業活動から美しき学問へと進み、さらにそれらの学問から出発してついにはかの美そのものの学問に外ならぬ学問に到達して、結局美の本質を認識するまでになることを意味する。(プラトン / 久保,2008,134)
プラトン / 久保勉2008年『饗宴』
岩波文庫 岩波書店
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past0ute · 5 years ago
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ドゥルーズ&ガタリ / 『千のプラトー』
暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。
G. ドゥルーズ / F.ガタリ / 宇野邦一ほか1994『千のプラトー 資本主義と分裂症』(河出書房)
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past0ute · 5 years ago
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浅田彰 / 『トランプから/トランプへ(2)リンドバーグとトランプ』
ボブ・ウッドワードがホワイトハウスの内情に迫った『恐怖』(Bob Woodward, “Fear”, Simon & Schuster : 『FEAR 恐怖の男』として12月18日に発売予定)によると、トランプは在韓米軍の家族の国外退去を命ずるむねツイッターで発信しようとし、そうなると開戦の最終準備に入ったというシグナルを送って敵を刺激することになるから本当に戦争になりかねないと慌てた政権幹部らが止める一幕があったらしい。(なんと、トランプのツイートはあれでも部分的に「検閲」されたものだったのか!)そうやって緊張を煽ったあげく、今年は一転して和解に動き、それを外交成果として自賛するのだから、「共演相手」の金正恩も含め、いい気なものだと言うほかはない。
浅田彰
トランプから/トランプへ(2)リンドバーグとトランプ
(2018年)
http://realkyoto.jp/blog/asada_akira_181013/
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