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sanko-k · 6 years ago
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『三代の山―嘉門次小屋100年のあゆみ』と芥川龍之介
芥川龍之介の槍ヶ岳登山に案内人をつとめた「小嘉門治君」こと嘉代吉は、何かメモのようなものを遺していないかと淡い望みを抱いて、『三代の山ー嘉門次小屋100年のあゆみ』(昭和54年10月26日発行)を、都立図書館で県立長野図書館から借り出してもらって通読した。
 案の定というべきか、「芥川龍之介の未刊の『槍ヶ岳紀行』の中に、嘉代吉が顔を出す。(中略)軍隊あがりの嘉代吉は、非常に几帳面な性格で礼儀正しい男であった。このような男が山案内をしたら、必ずメモをとっていたと思われるのだが、失なわれてしまったのだろう。残念なことである」と記述されていて、あっさり望みは絶たれた。
 なお、巻末の年譜にも、1909(明治42)年、  「芥川龍之介ら五名を案内して島々から槍へ。(登頂せずどこまで行ったか不明)」とされている。芥川らが槍ヶ岳山頂に立ったことを確認した登山史研究者・山崎安治の報告「芥川龍之介の槍ヶ岳登山」を収めた『登山史の発掘』は、『三代の山』と同じ昭和54(1979)年の刊行であるから、已む無しということか。
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sanko-k · 6 years ago
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芥川龍之介「河童」と槍ヶ岳登山
芥川龍之介の晩年の作品「河童」は、「ある精神病院の患者」が「だれにでもしゃべる話」を、「僕」が「かなり正確に写したつもり」の「河童の国見聞録」である。あたかも『ガリバー旅行記』のようだ。
 さて、「僕」が「だれにでもしゃべる話」は、「僕」が主語となって始まる。「僕」というのは、書き写した「僕」ではなく、「精神病院の患者」のことであろうが、「僕」という主語によって、二人はまるで同一人物かのようではないか。「人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろうと」して、「僕」が「梓川の谷を案内者もつれずに登って」行くのは、「前��穂高山は勿論、槍ヶ岳にも登っ」た経験があるからである。
 事実、芥川には、「自ら薄鼠色のラシャ紙で装幀し、その表紙には、遠くアルプスの山々の見えるカットを配し」て仕立てた小冊子「槍ヶ岳紀行」(葛巻義敏編『芥川龍之介未定稿集』)がある。年譜によれば明治42(1909)年、中学校在学時に級友たち(中原安太郎、中塚葵巳男・市村友三郎ら)を誘って槍 ヶ岳に登撃した記録である。標高3000メートルを超える剣呑な槍ヶ岳に、17歳にしてよくも挑んだものだ。なにしろ明治35(1902)年に、日本の登山家としては小島烏水が初めて登攀していて、それからわずか7年後である。芥川少年の着眼と行動力に驚嘆するほかない。
 級友たちと新宿駅に集合し、列車に乗って松本まで行く車内の様子や車窓からの景色などを事細かに記録し、翌日は島々村まで梓川沿いに歩いた様子、宿に着いてから、「日本アルプスのオーソリチー、老獵夫嘉門治君」がいなくて、その息子・嘉代吉を案内人に雇う交渉などを書き留めていている。だが、その翌日の日付はあって穂先への登攀についてまったく記述されていないのはなぜだろうか。
 槍ヶ岳登攀の厳しさを描写しているのは、2年後の明治44年に書かれた回想文「槍ヶ岳に登った記」である。かつて手にした近藤信行編『山の旅』(明治・大正篇)に収録されていて、記憶にあった。巻末の「採録文について」に「明治四二年八月の登山記」とある。なお、11年後に「改造」(大正9年7月1日発行)に発表し、随筆集『梅・馬・鶯』におさめた「槍ヶ嶽紀行」は、この時の登攀を単独行にこしらえた山行記である。やはり「今夜宿る無人の岩室に辿り着くべく、懸命に急角度の傾面を登つて」行きながら、雷鳥を見かけるところで終わっている。
 明治の頃の槍ヶ岳に今のように山小屋はあるはずもなく、「槍ヶ岳に登った記」の案内人が「赤沢の小屋ってなアあれですあ」と言うのは、「動物園の象の足と鼻を切って胴だけを三つ四つつみ重ねたらあの位になるかもしれない。その石がぬっと半起きかかった下に焚火をした跡」があり、それが標高2000メートル近くにある。“北アルプス登山の父”と称されるW・ウェストンや登山家・小島烏水も泊まった「赤沢岩小屋」である。芥川たちはここでビバークしたということか。あるいは、「槍ヶ嶽紀行」の記述に従えば、赤沢を過ぎて、やはり無人の「坊主岩小屋」に泊まったのだろうか。
 翌早朝、芥川は「魚河岸へ鮪がついたように雑然ところがった石の上を……四つん這いになって猿のような形をして上る」ーー小島烏水「槍ヶ嶽探検記」に「大石は鮪の切味をぶちまけたる如くに乱堆し」とあり、「鮪」の比喩からみて、すでに芥川は烏水の探検記を読んでいたと推されるーーのだが、「途中で振り向いて見ると谷底まで黒いものがつづいて……黒いものは谷の底からなお上へのぼって馬の背のように空をかぎる」のである。「その中で頭の上の遠くに、……貝塚から出る黒曜石の鏃のような形をした」「槍の絶巓(ぜってん)」が見えたさまを叙しているが、「絶巓」に立った感想はのこしていない。
 小島烏水「槍ヶ嶽探検記」の描写を借りれば、槍ヶ岳の最高点に立つと眼前にひらける山々の眺望は感動的である。西に「大屏風を截りて立てたるは笠ヶ嶽」、「向背相望んで立てるは、横嶽、高辻山、薬師嶽」、「正東には一万尺余の常念ヶ嶽あり」、「浅間山はこの銀に閃く霧の海より烟を吐ける」、「南の方我と隣りて比肩せる穂高山と、大いに隔たりて仁王立ちたる御嶽とは、乗鞍嶽を両腋に夾みて、三巨人相笑みて、我を招くが如し」であり、以下、甲斐駒ケ岳、鳳凰山、立山、富士山などが目に入る。「この間、欲弁已忘言(弁ぜんと欲して已に言を忘る)」ごとき興奮を綴っている。
 では、芥川は果たして山頂に立ったのだろうか、と気になった。そこで少し調べてみると、槍ヶ岳登山を共にした同級の中塚葵巳男が、一校旅行部樅の会の追悼集『失いし山仲間』(昭和47年3月)に、芥川との槍ヶ岳山行を回想し、山頂では「お山は晴天。雲海眺望三百六十度満点。遠くは富士、浅間の烟。近くは初対面笠ヶ岳」と追憶している。
 しかも、この文を眼にして、登山史研究者の山崎安治は、小島烏水『日本アルプス』の編者でもある近藤信行と同道で、聞き取りのために中塚を訪ね、「暗いうちに岩小屋を出発、快晴に恵まれ、午前中に槍ヶ岳の頂上に立った」ことを確認しているばかりか、すでに「芥川龍之介の槍ヶ岳登山」(『登山史の発掘』)にまとめているではないか。さすがというか、脱帽というほかない。
 芥川は槍ヶ岳の黒い谷底を思い浮かべてだろうか、「僕」は濃霧のなかで河童と遭遇し、追い駆けているうちに、「深い闇の中へまっ逆さまに転げ落ち」たことから、「河童の国」の見聞録が始まるのである。
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sanko-k · 6 years ago
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倉見山から仰ぐ秀麗富士
東桂の登山口で子供づれの家族を見かけたが、ほどなく置いてきぼりにされた。しばらくすると、今度はソロの若い女性にあっさりと追い抜かれた。落ち葉の道を歩くのは気持ちいいけど、老骨に急登はキツい。太腿がつりそうになってしゃがんでいたら、下りてきた人に「もう一息ですよ」と声をかけられた。
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山頂に立つと雄大な富士山が聳えていた。足の疲れも吹っ飛んで、最高のご褒美をもらった感じである。秀麗富士を眺めながら腹ごしらえをしていると、数人のおじさんグループが反対側から上がってきて、突然賑やかになった。見晴台から寿駅へ向かって下る道々、いつまでも富士山が見えているのも嬉しい。「関東富士見百景」の標識がたっていた。
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sanko-k · 6 years ago
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妙義山中間道の奇景に感嘆した
紅葉を楽しみながらのハイキングという心づもりで、妙義山の中間道へ出かけたけど、どうやら勝手な思い込みだった。まず、期待外れだったのは紅葉の見頃はまだだったこと。今のところ、陽当たりのよい高所では色づいている程度だった。
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もう一つ、「中間道」という名称から、ラクチンな中腹歩きをイメージしていたが、いかにもヨミが甘かった。10km余りの道のりは上り下りを繰り返すので、標高差は420m余りなのに、累積標高差は上り1,651m、下り1,644mというハードさである。休憩とランチタイムをふくめておよそ7時間もかかった計算になる。
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妙義山は日本三大奇景の一つに数えられているが、たしかに第一見晴、第二見晴などから見上げる岩峰は凄いし、ひさし状の岩の下を歩きながらの眺望も素晴らしい。何よりも、やっと辿り着いた第四石門を目にして思わず感嘆の声をあげそうだった。どのようにして出来たのか、自然の力の不思議というほかない。つづいて、第二石門はクサリ場のキツい上り下りだから、やはり老骨にこたえる。さらに、少し下ると第一石門が眼下に見えてきた。
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石門群登山道の入口から一度車道に出たあと、七曲りの登山道に入り、金鶏橋から車道に出て道の駅まで余韻を楽しんだ。
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sanko-k · 6 years ago
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月山の「雲の峯」を彩る高山の花々
やはり紅葉には早過ぎ、おまけに曇り日で登山者は少ない。月山の登山口に向かう町営バスでは、熟年の二人連れと出会っただけである。
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月山は、「遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連亙(れんこう)させて、臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を強く平野へと落としている」と、森敦さんは代表作「月山」を書き出している。その月山探訪は何時かかなえたい夢だった。
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月山は「またの名を臥牛山と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所とみられるあたりを湯殿山といい、これを出羽三山と称する」ので、「三山といっても月山ただ一つの山の謂い」である。姥沢からリフトで上がって、姥ヶ岳から臥牛の「背にあたる頂」をめざした。
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雲のなかで展望がないだけに、木道や石畳の登山道わきのあちこちに咲くエゾオヤマリンドウをはじめ、ウメバチソウ、ナンブタカネアザミ、ウサギギクなど高山の花々に見とれながら足を運んだ。牛首を越えると紅葉の始まりを告げる山肌の彩りも、霧の晴れ間にわずかながら目にすることが出来た。
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山頂に近づくと、芭蕉の句碑が立っていた。「雲の峯 いくつ崩て 月の山」とある。芭蕉は「北に向けて垂れた首」の羽黒山のほうから登った。いわゆる今の「月山八合目ルート」である。山頂は風も強く寒い。月山頂上小屋に潜り込んで頂戴したあったかいキノコ汁はうまかった。
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帰途、森敦さんが、折節に「臥した牛さながらの月山」を遠望しながら、祈祷書の和紙で作った「繭」の中でひと冬を過ごしたという注連寺を訪ねたかったが、バスの便も少なくかなわなかった。
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sanko-k · 6 years ago
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蔵王の熊野岳に見た雷鳥のまぼろし
蔵王山麓駅から地蔵山頂駅までロープウェイで、標高差およそ800mを一気に上がると、もう別世界である。天気予報どおり晴れてはいても風は冷たく、山頂は霧につつまれて思いのほか寒い。広場には斎藤茂吉の歌碑が立っていた。斎藤茂吉は何といっても山形の生んだ大歌人である。
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    雪消えしのちに蔵王の太陽が
         はぐくみたりし駒草のはな
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今の季節にコマクサはなく、月山と同じようにエゾオヤマリンドウがあざやかに咲き競っていた。木道はすぐに終わり、ワサ小屋跡辺りから岩礫の道をペンキ印を見ながら進むことになる。「近道」の標にはちょっと惹かれたけど、どうやら難路のようなので敬遠して、石畳の道を進んだ。
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熊野十字路に立つと、あたりはまるで砂漠が広がっているようで、霧に包まれて、朝日連峰や鳥海山、月山などはまったく見えない。森敦「月山」の表現を借りれば、まるでデカい「繭」の中にいるようである。熊野岳へ向かっていると、雷鳥がいた!と興奮してレンズを向けたのだが、“楽しい幻”を見せてもらったということだろう。
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斎藤茂吉の歌碑が熊野岳山頂にもあった。茂吉が生前に唯一認め、そのために作歌し揮毫した歌碑というから、風雪の歳月を経て碑文はかなり読みづらい。
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    陸奥をふたわけざまに聳えたまふ
         蔵王の山の雲の中に立つ
 当初のプランでは、馬の背を歩いてお釜(五色沼)まで足をのばすつもりだったが、強風と寒さとおまけに視界のないのも心許なくて、蔵王山の最高峰に立てたことをもって良しとした。
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sanko-k · 6 years ago
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月山の「雲の峯」を彩る高山の花々
やはり紅葉には早過ぎ、おまけに曇り日で登山者は少ない。月山の登山口に向かう町営バスでは、熟年の二人連れと出会っただけである。
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月山は、「遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連亙(れんこう)させて、臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を強く平野へと落としている」と、森敦さんは代表作「月山」を書き出している。その月山探訪は何時かかなえたい夢だった。
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月山は「またの名を臥牛山と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所とみられるあたりを湯殿山といい、これを出羽三山と称する」ので、「三山といっても月山ただ一つの山の謂い」である。姥沢からリフトで上がって、姥ヶ岳から臥牛の「背にあたる頂」をめざした。
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雲のなかで展望がないだけに、木道や石畳の登山道わきのあちこちに咲くエゾオヤマリンドウをはじめ、ウメバチソウ、ナンブタカネアザミ、ウサギギクなど高山の花々に見とれながら足を運んだ。牛首を越えると紅葉の始まりを告げる山肌の彩りも、霧の晴れ間にわずかながら目にすることが出来た。
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山頂に近づくと、芭蕉の句碑が立っていた。「雲の峯 いくつ崩て 月の山」とある。芭蕉は「北に向けて垂れた首」の羽黒山のほうから登った。いわゆる今の「月山八合目ルート」である。山頂は風も強く寒い。月山頂上小屋に潜り込んで頂戴したあったかいキノコ汁はうまかった。
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帰途、森敦さんが、折節に「臥した牛さながらの月山」を遠望しながら、祈祷書の和紙で作った「繭」の中でひと冬を過ごしたという注連寺を訪ねたかったが、バスの便も少なくかなわなかった。
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sanko-k · 6 years ago
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ひたすら登りずくめ!男体山の苦行
秋雨前線はどこへ行ったのか前夜の雨も止んで、男体山の朝は晴れだった。中禅寺湖畔から山頂までひたすら登りずくめの標高差1220mを果たして完登できるか。これまでちょっと自信がなくて二の足を踏んでいたのだが、友人に誘われたのをチャンスに思い切って挑んでみることにした。
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思いのほか時間のかかることも考慮して早朝6時に出発した。案の定と言うべきか、ガレ場にも難渋して、コースタイム5時間の上りにおよそ6時間もかかり、山頂に着いたのはお昼だった。山頂直下の赤茶けた砂礫帯からは、雲の切れ間に中禅寺湖の眺望がひらけて幻想的だった。うかうかしていると登山口に帰り着く前に陽が落ちてしまう。ランチは手っ取り早く済ませて、いざ下山。
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上るのも難渋したが、下るのも大変。太腿が攣りそうな気配をみせ、膝がガクガク悲鳴をあげて、まるで踏ん張りがきかない。下りのコースタイムは3時間だが、およそ4時間半かけてようやくたどり着いた。合わせて10時間以上歩いたことになる。1200mをこえる標高差の山は初めてだったが、ナントカの冷や水は即、これを最後にすると決めた。
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ところで、大小の岩がゴロゴロする急登をひたすら上りながら、そこに突然、晩夏に咲く花々を目にすると思わずホッとする。リンドウの蕾は紫があざやかだった。アキノキリンソウにトンボがとまっていて、休憩しながらしばし見惚れてしまった。岩の上にとまった赤とんぼがずっと動かないのは、夏の陽光を惜しんで日向ぼっこをしているのだろうか。
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sanko-k · 6 years ago
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関八州見晴台からの眺めは霞んでいた
山川草木の中を歩いて、鈍った身体に活を入れようと、梅雨の合間をぬって、近場の関八州見晴台へ出かけた。
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足腰が弱っているためか、ゆっくりゆっくり歩く高齢の男性を追い抜いたあと、しっかりした足取りでどんどん上る高齢の婦人には追い越され、数人の仲間たちと見晴台の近くで賑やかに土筆採りに興じる熟年者たちもいた。それに何人かの若い人たちとも行き交ったから、低山歩きを楽しむ人が思いのほか多いのに驚いた。
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路傍にキノコを見つけたが、もしかして毒茸かも。ひらひら翔び交う蝶が道ばたに止まると、止まっている木の枝や枯葉などに紛れて一瞬見失ってしまう。不思議に思って検索してみたが、蝶の名前は判別できなかった。
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見晴台からは、南に蛭ヶ岳、丹沢山、大山、高尾山など、北には日光白根山、笠ヶ岳、赤城山などが眺められるということだが、惜しむらくは霞んでいて見えなかった。
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sanko-k · 6 years ago
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荒山高原からツツジの道を鍋割山へ
赤城の鈴ヶ岳に野宿を楽しんだ志賀直哉の「赤城にて或日」に倣って、岩澤正作著『赤城山』から、「鍋割山」の記述を写しておきたい。
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まずは赤城山の秀逸なる所以である。
〈關東平野の西北、萬嶽聳立(しょうりつ)して、天壁の如き中に峨々として鼎立する者、所謂上毛の三山にして、之を妙義、榛名、赤城となす。共に特趣の景致を極め、各秀麗を競ひ、互に覇を爭ふものゝ如くして、古來其名天下に鳴る。
三山互に特徴を具へ、一朝にして其優劣を定め難しと雖も、堂々たる容姿と、雄大なる景趣とを備へ、放眸(ほうぼう)、遮るものなく、威風悠然として、八州を壓するもの之を赤城山となす。殊に茫漠たる平野に向つて、特趣の裾野を長く曳けるは一層人目を惹きて、上毛名山の月桂冠を得たる所以ならむ。〉
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つづいて、鍋割山の位置づけ。
〈赤城山は遠く之を望めば缺尖圓錐形をなし、山頂數峯に分れ、其の内有名なるもの五峯あり。曰く黑檜山、地藏岳、荒(あら)山、鍋割山、鈴ヶ岳となす。世に是を赤城五峯と云ふ。五峯の外に尚、小黑檜山、駒ヶ岳、長七郎山等世人のよく知る所なりとす。〉
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では、鍋割山はどのような特徴をもつ山なのか。
〈赤城山中最も南に位し、山頂は稍平坦にし���、東北より西南に走り、略一樣の高度を有し、其最高點は海拔一千四百八十二米あり。前面開豁(かいかつ)にして頗る展望に富あり。
 鍋割山は外輪山の外に峙ち、一見寄生火山の如き觀を呈すれども、實は荒山熔岩の玆に屈起したるものなりと云ふ。而して其南方傾斜緩慢なる裾野の上に終らむとするや、二段の急傾斜をなし、其西面は一樣に綠叢を以て蔽はれ、一段階をなして、白川谷に臨めども東面は山腹處々に岩石稜々として露れ、時に或は明に熔岩の流れたる状を認むる所あり。〉
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その「岩石稜々」とした鍋割山登山口ではなく、箕輪の登山口から荒山高原をめざしたのだが、それでも「溶岩の流れた」あとのような大小の岩石ゴロゴロの箇所にも出くわした。荒山高原からはなだらかな稜線が南西にのび、尾根にはヤマツツジだろうか、鍬柄山や鈴ヶ岳などを背景に咲き競っていた。ツツジの花を求めて蝶が翔び交う鍋割山の山頂からは、蓼科山など八ヶ岳連峰や甲斐駒ケ岳などが一望でき、富士山が見えることもあるらしいが、それは叶わなかった。
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sanko-k · 6 years ago
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赤城の鈴ヶ岳とツツジと志賀直哉
赤城のツツジを楽しむには早過ぎたようだ。時たま蕾を見かけたが、今年は開花が遅れているのだろうか。志賀直哉「赤城にて或日」の書きだしは、赤城に咲く3種のツツジからである。まず「最初に咲くのがよく赤城躑躅と云つて東京の縁日などで堅い蕾のまま枝を賣つて居る、あの躑躅」であり、「それから其次に咲くのが此邊にある躑躅に近いもので、色も種々(いろいろ)で随分美しい」、「それから最後に咲くのが殆ど山一杯、何處にもある小さい灌木の躑躅」である。
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その二番目の「躑躅の盛りの時」に、山頂の岩穴で野宿する計画を立て、新婚まもない志賀夫妻は宿の主人らと鈴ヶ岳へ登った。3年前の秋だったか、黒檜山の山頂から火口湖の対岸に眺めた鈴ヶ岳を思い出し、ツツジの季節に「赤城にて或日」のあとを辿ってみようと思い立った。
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志賀は、岩澤正作著の案内記(『赤城山』赤城書房、大正5年11月28日発行)から、鈴ヶ岳の記述を写している。
 「鈴ヶ岳。地蔵岳の西方、鍬柄峠の西北にあり。海抜千六百六十米、山形圓錐形をなし、外輪山外に聳ゆる様、頗る秀麗の観を呈す。是亦、寄生火山の如く思はるれど、事實は其周圍に存在せし軟弱なる集塊岩は雨水の浸蝕作用を受けて洗滌し去られ、其内部に埋存せる堅硬なる熔岩の彫り出されしものの嶄然(ざんぜん)として屹立せるものたるに過ぎず。されば巉巖(ざんがん)峨々(がが)として攀登(はんとう)甚だ嶮岨(けんそ)を極め、鐵鎖によりて纔(わずか)に攀登し得る所あり」
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たしかに鍬柄山から目にする鈴ヶ岳は円やかだが、登山路には伊豆の爪木崎で見た「柱状節理」のような岩壁を綱につかまって這い登る箇所もある。まさに「嶮岨」をきわめ、体力に自信のあるはずの志賀も「矢張り却々つらかつたやうに覚えて居る」ともらすほどである。山頂の傍には突き出た平たい岩を庇にしたような岩穴がいくつか並んでいるが、志賀たちはここで野宿したのだろうか。
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山頂からは、「其位置外輪山外に屹立するを以て、近くは小野子、子持、榛名、浅間、妙義、荒船等、西毛の諸山を初めとして、遠く信甲駿武相諸州の峰巒(ほうらん)、沃野を隔てて波濤の如く起伏するを望み、脚下又、利根、烏の二川、銀蛇の如く蜿蜒として走るを見る」と叙述されるが、今の山頂は樹木に覆われて眺望はあまり望めない。
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野宿明けの志賀たちは、「寝不足の疲れた身體を陽の當る岩の上に延して居ると何とも云へずポカポカと長閑ないい気持がした」という。その平らな大岩に胡坐をかいて、陽光を浴びながら握り飯を頬張るのもまた気分爽快であった。山中のツツジは「矢張り美しかつた。庭の躑躅では見られない、いい色のものがあつた」ことは、時たま岩壁周辺に見かける蕾からも想像に難くない。
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sanko-k · 6 years ago
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新緑の「美の山」を彩るツツジと和銅遺跡
秩父路の吉野山とも言われる蓑山(美の山)の桜は、およそ8000本を数えるそうだが、GWを過ぎてなお、ヒグラシ、ケンロクエンキクザクラ、キナシチゴザクラなどの花吹雪が舞っていた。さすがに桜の名所である。
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なんと言っても鮮やかな新緑につつまれて山路を歩くのは心地よい。折々にヤマツツジが彩りを添えてくれ、ときに足もとに群生するシャガを目にするのも嬉しい。
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山頂展望台からは、案内図によると雲取山や甲武信ヶ岳など、東展望台からは赤城山、男体山など、入口の展望台からは武甲山はもとより天目山、二子山などを一望できるらしいが、山頂に立ったことがあるのは武甲山と赤城山だけというのはちょっと不甲斐ない気分である。
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下山途中、和銅採掘遺跡へ寄った。日本最初の通貨とされる「和同開珎」の発行を刻んだ、デカいモニュメントが建てられている。その前の橋を渡り、急斜面の蛇行する道を登ると、岩の上に「和銅開寳之古跡」(大正十一年十月建之)の碑があり、その奥に往時の面影をとどめる「和銅露天掘り跡」を見ることができる。一気に「続日本紀」の時代に引き込まれるようだ。
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sanko-k · 6 years ago
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鳴虫山のアカヤシオは満開だった!
この日、泣き虫の山も泣くことはなく、期せずして快晴だった。
神主(こうのす)山を越えるとアカヤシオの群生地になる。はじめのうちは蕾が多かったが、少し登るとまさに満開だった。ふと足元に目をやると、カタクリの花がポツリとひそやかに咲いていた。花に気を取られ、木の根っこの段々に阻まれ、遅々として進まない。
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やっと山頂に立つと、アカヤシオの花の向こうに雄大な男体山や女峰山が聳えている。
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復路は含満ヶ淵へ向けて下ったが、合峰、独標と上り下りを繰り返し、かなりの急勾配があり、おまけに道が抉られて段差が大きく、足が悲鳴をあげそうだった。
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sanko-k · 6 years ago
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積雪と強風の入笠山
友人の呼びかけで入笠山へ出かけた。参加者には古稀の記念にモンブランへ登ったなどというツワモノもいて多士済々の5人である。ゴンドラで上がってから、一面積雪に覆われた入笠湿原を抜け、200メートルほどの標高差を登る賑やかで和やかな山旅だった。
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軽アイゼンを装着するのは初めての経験だが、なるほど雪の上を歩くのも気分爽快だった。数年前の夏に訪れて、高山植物の咲き乱れる湿原に感動したけど、雪におおわれた真っ白い湿原を眺めるのもイキなものである。
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山頂は思いのほか風が強かった。フードをかぶってカラダの冷えを防ぎ、八ヶ岳連峰などを遠望しながら、ゆっくりランチとコーヒーを楽しんだ。
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sanko-k · 6 years ago
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梅林と幕山と南郷山
普段なら1日5便ほどしかないが、ちょうど梅祭り期間中なので、湯河原駅から幕山公園へ直行の臨時バスが出ていたのは有り難かった。予定より早く着いたので、登山道沿いに咲き香る白梅や紅梅をゆっくり眺めながら登った。幕山の岩壁にはロッククライマーたちの逞しい姿もあった。
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つづら折りの坂道を登って幕山の山頂に立つと、真鶴岬が浮いているように見えた。山頂の広場では、ぽかぽかと春の陽を浴びながら、三々五々に輪をつくって、みんな食べたり飲んだり喋ったりと楽しそうだ。まだ昼メシには早いので、南郷山をめざした。
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南郷山へは森の中をなだらかな道がのびていて快適である。笹のトンネルもあった。途中に「史跡 自鑑水(自害水・自鏡水)」の石碑が建っていて、「年中枯れることなく清水を湛えたこの窪地は、昔から自鑑水と呼ばれている……石橋山の合戦に破れた源頼朝主従は地元郷土の英雄土肥実平一族の庇護のもと、平家の追手から逃れ、この地に辿りつき、喉を潤し、水鏡で乱れた髪を結い直すと、平家を破り天下を納める自らの姿が映り、自害を思い留まり、気を強く持ち直したという、頼朝再興の礎として伝えられている」(土肥会八十周年記念事業建之)と刻まれていた。
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南郷山の山頂でおにぎりランチと食後のコーヒーを楽しんだあと、白銀林道への急坂を下って、そのあと大石ヶ平を回って幕山公園に帰り着いた。幕山を背景に紅梅や白梅が輝き、亀の甲羅干しも心地よさげな一日であった。
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sanko-k · 7 years ago
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矢倉岳から富士を眺め万葉ハイキングコースをあるく
今月初旬に出かけたときは積雪に阻まれ、山頂を目前にしながら断念した。今回はルートを変えて、矢倉沢から矢倉岳山頂をめざした。ただひたすら登り続ける登山路はシンドい。およそ2時間ほどで山頂に立つと、目の前に富士山がどっしりとそびえていた。
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富士の雄姿を眺めながらのランチは、コンビニの昆布と梅干しのおにぎりとインスタントコーヒーであっても、気分は贅沢である。そのまま真っ直ぐ地蔵堂バス停に向けて下れば、1時間あまりの行程だが、前回通った道でもあるし、ちょっと時間も短くて呆気ない。
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折角だからもう少しゆっくり山の気を吸いたくて、万葉ハイキングコースを回ってのんびり下った。地蔵堂バス停前のうどん屋さんの手打ちうどんは美味かった。
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sanko-k · 7 years ago
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ぶらり仙元山から森戸川源流へ
ぶらりぶらり仙元山をあるいた。山頂の見晴台から眺める相模湾は輝いていた。富士山は残念ながら見えなかった。行き交うのは健康のために歩く近在の人たちだろうか。道標にカンノン塚とある方へ尾根を登っていくと、やがて樹林に囲まれた189mのピークが見えてきた。階段道を鞍部まで下ると、そこから長い長い階段道の登り返しで、かなりキツかったが、189mピークからの眺めも爽快である。
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ここから長柄方向へ下り、前回は歩けなかった森戸川源流に向かうことにした。黄金橋を渡ってゲートをくぐると、森戸川沿いに林道が続く。一人歩きの高齢者や保母さんに引率された園児たちなどともすれ違う。楽しそうだ。45分ほどで林道の終点に着いた。
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この辺が森戸川源流だろうか。さらに進むのは川を数回徒渉するなどかなりシンドそうだし、少し陽も傾きかけてきたので、あっさり引き返すことにした。
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