shindo-hanamure
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Innocence and Douleur
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shindo-hanamure · 6 months ago
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    冬 شتاء
新宿駅の西口の地下には、コロナ禍で住む場所を追われて、ダンボールの囲いで生活する野宿者の方が、去年よりぐっと多くなっていた。ときどき野宿者の方たちと夜ごはんを一緒に食べた。 貧困になってほうりこまれた精神病院から、ほとんど着の身着のまま逃げ出してきたその人は、ボストンバックいっぱいに詰めこんだビートルズのCDを、ちいさなプレーヤーと、ボロボロになった片方のイヤフォンで聴かせてくれた。
    痛 ألم
お金がなくて、治験のアルバイトをうけに八王子の病院にいった。
翌日、その病院から何度も着信が入っていた。 電話をかけなおすと、看護師さんがたいへんあわてた声で私に告げた。 「血液中の白血球の数が異常ですから、今すぐにおおきな病院へいってください」とのことだった。
紹介された信濃町の大学病院へむかった。 その日の簡単な説明によれば、人の血液中の白血球は、正常であれば、おおよそ六〇〇〇から八〇〇〇個の値だという(一ulあたり)。炎症や免疫が下がっていると、一万をこえることもあり、二万をこえると意識がない場合もあると教わった。 私の白血球の数は、初診の日に、三万をこえていた。 それから、約三週間のあいだに、白血球の数値は、七万……九万二千……一三万とふえていった。私は階段を上がることができなくなった。
突然のことでうまくのみこめなかった。
「白血病」。
病気の正式な診断をうけるには、骨髄穿刺という処置をうけなくてはならない。医療用語で、通称「マルク」と呼ばれている。
インターネットで検索すると、マルク 魂を抜かれる、マルク 魂が壊れる、と多くの人が書かれているのを読むことができる。 骨髄穿刺とは、患者がうつ伏せの状態で、腸骨に太い針で穴を開け、骨髄液を吸引する検査のことである。
強烈な痛みをともなうが、麻酔は効かない。患者は歯を食いしばり、耐えるしかない。骨髄は、麻酔の効かない、皮膚の下の骨の奥にある血の工場だからだ。
骨髄穿刺をうけるまで、「魂とは何か」、私は知らなかった。 体に針が入ってくる痛みは、耐えることができる。それは熱を帯びた、小さな刃で刺されるような電気に似た痛みだ。
けれども、髄液を吸いあげる痛みを、耐えることはできない。
腸骨のある腰が、不快に重たくなって、足の指さき、それから全身が痙攣する。
吐き気に耐えながら、奥歯が割れるまで噛みしめる。脳みそを、素手で触られているような、屈辱的な痛み。それが全身を襲う。
わずかなあいだに信じがたいほどの汗が吹きだす。説明不能のうずき。数秒が、無限に長く感じる。
脊椎の骨の一つ一つが震えて、脳みそが割れてしまいそうになる。なぜか、足先に激痛が走る。 何かを想像する力、生きようとする力を、奪う痛み。
    貧 فقر
  お金もなく、仕事もなく、階段をあがることも、話すこともできなかった。本を読むことも。 もういちど勉強がしたくて、冬のあいだに友人にすすめてもらった放送大学に出願していた。 その友人も、札幌で貧困生活を送りながら、三つの仕事をかけもちして、資格の勉強をしていた。 放送大学を試しにうけてみたとき、最初の科目は、「人間にとって貧困とは何か」という題だった。西澤晃彦さんという方が教科書を書かれていた。
教科書には、経済的にゆとりのある人は、グローバルに「旅行」ができる時代である一方、弱い立場にいる人は、自らがとどまりたい場所にとどまることさえできない、と書かれていた。 貧困状態におかれた人は、自分がここにいたいと切望する場所から追放され、やがて「しゃがみこむ人」になる。 こうした文章を読んで放送大学の受講を決めた。
私は文字通り、「しゃがみこむ人」になっていたから。 マルクをうけたあと、しばらくことばを話せなくなっていた。とりよせてあった放送大学のいくつかのテキストをふたたび眺めてみた。 その中から、「世界文学への招待」という教科書を、なんとなく手にとり、開いてみた。   その瞬間。『魂の破壊に抗して――』という言葉が、心臓にとびこんできた。  パレスチナという国の、ある文学作品の紹介だった。 それが、私とパレスチナとの、出会いだった。
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shindo-hanamure · 7 months ago
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 大量虐殺下で女性であるということ ヌール・アブデル・ラティーフ    女性であるということは、往々にして人生を困難にします、でも、この女性が、占領された国に住んでいたら? 十八年も封鎖された場所に住んでいたら、どうでしょう――たとえば、ガザのように?  私は他の働く母親たちとおなじように、十歳から四歳までの三人のこどもの世話と、何百人もの若い生徒たちにとっての教師の役割のバランスをとりながら、生活してきました。  この仕事の困難さはあまりに圧倒的で、私は毎晩、夢も物思いにふける余裕もなく、完全に疲れ果てて眠りに落ちました。「イスラエル」の占領は、こうした困難をさらに複雑にし、人生の多くの側面に影響しました。たとえば、一日の電力の供給時間がかぎられているため、不安定な電力に合わせて、生活の計画を立てねばなりません。最悪の事態がまだきていなかったので、この不便が遠い夢になるとは思いもしませんでした。    一 ジェノサイドのはじまり  あるありふれた朝、息子のヤメンが幼稚園へいくための荷物をまとめていると、ガザの空に、ロケット弾の集中砲火がありました。一瞬、戦争だと思ったけれど、何が起きたのかは、まだはっきりしませんでした。私たちはテレビに釘づけになり、かつては不可能に思えた映像を目にしました。パレスチナ全土を解放し、長い間奪われていた土地をとりもどす��とを夢みて、泣きました。数時間後、街への空爆がはじまり、私たちが束の間享受した自由の、ほんとうの代償を知りました。    大量虐殺のはじまりの夜のことです。居住区域の全体が、目の前で燃えあがりました。私はこどもたちをしっかり抱いて、恐怖から守ろうとしました、でもどうしたらよかっただろう? 「ママ、これは新しいミサイルよ。落ちるとヘビのような音がするよ!」と、、九才の娘のジュマナがいいました。  
 激しい空爆で、空が五夜にわたって真っ赤になったあと、私たちはアル・カラマ地区の住民が避難するのを見まもり、つぎはじぶんたちの番だ、と悟りました。    六日目、より安全��場所への避難にそなえ、必需品を詰めはじめました。私がこれまでに直面したもっとも困難な課題でした。人生のすべてをひとつのバッグに詰めるには、どうしたらよいのでしょうか?     二 半分の心の女性
 停電に見まわれ、地元のラジオ曲のニュースに完全に頼っていました。その夜、妹の住む地域のそばで、爆撃があったというニュースを聞きました。私の心は震えました。    電話をかけましたが、妹も彼女の夫も出ませんでした。最悪の事態を恐れていました。夕方の六時から、夜の十時まで、不安を抱えながら知らせを待ちました。ようやく、親戚から電話があり、そのあと何が起こったのか、ほとんど覚えていません。私はアル・シファー病院へ駆けつけ、そこで彼女を見つけたいと望みました、でも、回収されたのは、身体の一部だけでした。別れを告げることも、彼女を埋蔵することも、周囲に広がった死の渦のなかで、葬儀を行うことも、できなかった。その夜は、悲しみに打ちひしがれました。  それから私は、半分の心で生きてきました。    三 避難は悲しみへの道  十月十三日。ガザ市の上空はビラで埋めつくされ、イスラエルの占領軍は、市を離れガザ南部のいわゆる「安全地帯」にむかうよう指示しました。  携帯電話にも避難(すなわち追放)の連絡がはいりました。当時、私は、すでに家族が住んでいたアル・シャティ難民キャンプに逃れていました。人びとは路地に立って、ショックを受け、混乱していました。国際機関が、ガザの南部への避難をはじめると発表したとき、私たちのあいだにパニックがひろがりました。  ガザ市の通りは、ゴミ、死臭、そして広がる恐怖でみたされた、ゴーストタウンにかわりました。それは世界から孤絶した純粋な恐怖の夜で、難民キャンプへのシオニストの侵攻の準備がすすめられ、陸から、海から、空からの絶え間ない爆撃がつづいていました。ラジオのニュースを聴き、バプテスト(アル・アハリ)病院の虐殺の報告に、恐怖を感じました。私たちは、死体のあいだで開かれたこどもたちの記者会見を聴きながら、泣きました。私のこどもたちは恐怖のあまり熱を出し、危険な状態でした。家族は家を出ることを拒み、とどまることを選んだため、私はこどもたちを救うため彼らと別れました。    そして、ラファへと逃れました。そこでは友人や愛するひとたちが温かく迎えてくれましたが、ガザ市を離れたという苦しい思いは消えませんでした。ここでも空爆はつづき、最初の数時間で「安全地帯」という概念は消え、ガザ市ではおそろしい出来事がつぎつぎおこりました。アル・シャティ難民キャンプは侵攻され、私の家族は包囲されたまま、通信が途絶え、私を慰めてくれる姉も、抱きしめてくれる母もいなくなってしまいました。私は周囲の人びとから孤立しはじめ、眠ることで逃げ場を探しました、けれどこどもたち��私を必要しており、それが悲しみをのりこえる唯一の動機でした。  私が避難した家では、避難民の数がふえ、およそ三〇世帯がひとつの建物に押しこめられました。包囲は激化し、パン屋は営業を停止し、私たち女性は限られた配給量でパンや食べものを準備しなければなりませんでした。飲料水さえ、配給制でした。停電のせいで、祖母のように、手洗いしなくてはなりません。さらに悪いことに、調理用のガスが止まってしまい、薪をつかってパンを焼いたり、調理する必要がありました。火をおこすのは、多くの困難をともなう奇跡です。冷蔵庫がないため、食べものやあまったパンの保存はほとんど不可能でした。ほかに選択肢がなく、パンのかびをこそぎ落とし、食べなければならなかったのを覚えています。砂糖、イースト、野菜、果物などの物資が減るにつれ、なにもないところから材料を探すしかありませんでした。こどもたちはもっともシンプルで、新鮮な食べものを切望していましたが、私たちが持っていたのは、缶詰だけでした。  避難生活には、プライバシーなどありません。約五世帯で一組のカーテンで仕切られただけの暮らしです。とくに女性にとって、自由にトイレやシャワーをつかうことはひじょうに困難でした。それにタンクの水が不足していて、コンテナに水を満たすために、何時間も長い列に並び、それを運搬し、一日中水の配給をする必要がありました。
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shindo-hanamure · 7 months ago
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 四 教師から、どんなことでもする女性へ  私は徐々に教師から、避難生活に全力をそそぐ母親にかわりました。私の日々は朝にパンを準備し、水を用意し、料理のために火をおこし、皿を洗い、洗濯をし、空爆や悲惨なニュースを聞くたびこどもたちの恐怖をやわらげることでいっぱいでした。その間ずっと、じぶんの街が破壊されたというニュースを追いかけていましたが、家族についてのあたらしい情報は入ってきませんでした。避難した隣人の家のテレビ画面で、ガザ全体が燃えている光景を見ながら、こどもたちが眠るための空想の物語を話しました。  冬がくると、厳しい状況は、さらに悪化しました。冷たい水で洗濯をはじめ、手がひび割れました。シャワーを浴びるために、火でお湯���沸かしました。ちかくで爆撃があり、粉々に砕けて窓ガラスのない部屋に住んでいました。冬の夜は、冷たい床に敷いたマットレスの上で眠り、恐怖の中で、すこしでも暖かさと安心感がえ��れるようにと、こどもたちを抱きしめていました。テントや間にあわせの避難所にいるのではない幸運に感謝しました。  さらに事態を複雑にしたのは、感染症が蔓延しはじめたこと、私も医師や看護師になり、感染しないように、診療所を避けなければならなかったことです。虐殺が長引くにつれて、私はじぶんのこどもや他の避難民のこどもたちに、学校で学べなかったことを教えるという本来の職業にもどることにしました。   五 私に残されたもの  ガザが歴史的建造物を失うと、多くの他の女性たちと同様に、自己という意識を失いました。耐えてきた恐怖が、身体、健康、精神の健全さに、目に見える形で影響をおよぼしました。妹が亡くなった夜、私の黒い髪は、ほぼ一夜にして白髪になり、徐々に抜けはじめました。北部に住む友人たちは、水不足とシラミ対策の、最後の手段として、長い髪を切らねばなりませんでした。     栄養失調と過酷な生活に疲れ果て、避難先のひび割れた鏡で、自分を見る時間はほとんどありませんでした。もう自分の服とは思えない服を着て、慣れない生活を送っていました。自分をケアする贅沢をする時間は、ありませんでした。背中の痛み、生理不順、絶え間ない不眠症、家族と私の死という、あらゆる可能性への恐怖について、言葉で説明するつもりはありません。泣くのは夕方まで待ち、悲しみに暮れるのは自分だけだと思っていたら、近くの避難所からくぐもったすすり泣きが聴こえてきました。私は考えました。一人の妹の殉教にたいする悲しみは、家族全員の死とくらべてどうなのだろう。愛するひとの殉教が、確実な状態で失うほうが辛いでしょうか、それとも、愛するひとが、跡形もなく消えてしまうという不確実性に耐えることのほうが、辛いのでしょうか。  朝、私は涙を拭い、生き残るための厳しい現実にもどりました。  六 小さな地獄  何ヶ月もが経過し、ラファへの侵攻がはじまりました。その瞬間まで、私は占領軍が定義した三角形、つまりテント――刑務所、墓の外――でなんとか生きてきました。  けれど、もう、そこから逃れることはできなくなりました。  私たちはテントを購入することを余儀なくされました。それは無料のはずでしたが、結局七〇〇ドル相当を支払ってしまいました。広告はノルウェー製のテントだと主張していましたが、設営してみると、ノルウェー政府はドイツの援助に頼ってテントを調達していたことがわかりました。それから、テントの上にぶら下がっているドイツ国��は、私が火を灯したり、苛立ちで叫んだり、生活がますます困難になっていくたび、私たちを嘲笑っているかのようでした。  夏の間、テントは小さな地獄で、日中の暑さは堪えがたいものでした。私たちは塩水しかつかえなくなり、そのせいで、すべてが台無しになりました。入浴や洗濯で、剥がれた体の皮膚、塩まみれになった食器や衣服。すべてが塩辛く、きれいな衣服さえ、すり切れたように見えました。   ガスが不足していたため、料理やお湯を沸かすために、火をおこなくてはなりませんでした。夏の午後に海辺で火おしをしたことがあるひとなら、困難な仕事だとわかるでしょう。しかし私たちは、食事のために毎日それをしました。毎日、熱で指が焼け、燃える木の匂いでむせ、煙で目が潤みました。食器は黒いほこりで被われ、あつかいも掃除もたいへんでした。食べものに砂がふきこむのがあたりまえになって、私たちは、毎日の抑圧を飲みこむように、砂を噛んで、飲みこみました。  夜になると、テントは凍えるような地獄になり、こどもたちは、病気になるような冷たい風にさらされ、朝になると太陽が照りつけて、汗びっしょりになりました。    それから……? 毎日が、昨日や明日のようにくりかえされる。つぎはなんだろう? 仮想的な交渉のニュースや、遠い夢の話を聞き、それを完全に信じることも、完全に否定することもない。私にとって、夜寝るまえのハエとの停戦より大切な停戦はなく、朝は新鮮な水をタンクに調達することより大切な取引はありません。  ランプのうす暗いひかりの下で、眠っているこどもたちの顔を見つめ、なぜ、世界はいぜんとして、大量虐殺を終わらせるの��ためらっているのか、疑問に思う。ガザのこどもたちの手足や、生きた肉体が引き裂かれるのを目撃したあとで。世界はこの子たちに、なにを求めるのだろう。病になったこどもが、病院に置き去りにされ、飢えと恐怖で死んでゆくのを見たあと。未熟児が、まるでもっとも屈強なものたちであるかのように包囲されるのを見たあと。胎児が容赦なく、母親の子宮のなかでころされたあと。世界は、こどもたちに何を求めるのだろう。    七 つぎは……  一瞬、テントの生活に負けそうになりました。ある日、野菜を買いに市場に行くと、その光景に圧倒されました。すさまじい人混みで、まわりのすベてが陰鬱な、灰いろに感じられました。そのとき、ひとりの女性をみつけたのです。私とおなじように、顔に日焼けした女性で、彼女もテントに避難しているとわかりました。彼女は、ジャスミンの苗を、愛するこどものように抱きかかえ、テントに持ち帰って、入り口に植えました。  希望が私の心を満たし、孤独をおしかえし、突然、私は、テントの厳しさに立ちむかう決心をしました。    毎朝、ハエがいても、清潔で新鮮なパンをこねはじめました。服を洗って太陽の下に干し、清潔さを誇りにしました。心のなかに苦しみを抱えたままでも、愛情をこめて、食事をつくりました。こどもに基本的な生活の技術を教え、すべての質問に答えました。世界中のすべての女性とおなじように、薪でインスタントコーヒーを淹れて、テントの前の海辺で飲みました。もう、気にしませんでした。私は知っています、いつか、いつの日か、このすべてが過ぎ去ると。  ガザは残る。私たちは残る。そして私は残る。
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shindo-hanamure · 2 years ago
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生まれてくること自体の暴力を 乗り超えた 小さなものは まだ見えない目を 固くつむっている。 初孫に 自分の似姿を見て、 近づける 顔の気配に、 小さなものは泣きはじめる…… 老年の 私自身が、 赤ん坊の扮装で 泣き叫んで いるのではないか? この子の生きてゆく 歳月は、 その過酷さにおいて 私の七十年を超えるだろう。 小さなものは、 問いかける言葉こそ持たないが、精巧なミニチュアの指をひろげて、 しきりに手探りする。 四国の森の伝承に、 「自分の木」があった。 谷間で生き死にする者らは、 森に「自分の木」を持つ。 人が死ねば、 魂は 高みに昇り、 「自分の木」の根方に着地する。 時がたつと 魂は 谷間に降りて、 生まれてくる赤んぼうの胸に入る。 「自分の木」の下で、 子供が心から希うと 年をとった自分が 会いに来てくれる(ことがある)。 私が 十歳になるまで、 国をあげての戦争だった。 子供の 私らは歌った、 大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ 大君が 人間の声で、 戦争に敗れたことを告げた日、 ラジオの前に 校長が立って叫んだ。 私らが生き直すことはできない! 晴れた青空に 沈黙がコダマした。 森に入って 杉・檜混成林を抜けると、 闊葉樹が 明るい林をなしている。 そのなかに立ち上るモミの木群集が、 私の家の者みなの「自分の木」。 私は若い一本の下で待っていた。 年をとった 自分に、 尋ねたい と希って…… 私は生き直すことができるだろうか? 夕暮れた森に、 人の足音が起こった時、 私は 恐怖に総毛立って、 ウラジロの斜面に走り込み、 モンドリ打って 滑り落ちた。 傷だらけの 私を裸にし、 自分で集めた薬草の 油を塗ってくれながら、 母親は 嘆いた。 子供たちの聞いておるところで、 私らは生き直すことができない、 と 言うてよいものか? そして 母親は私に 永く謎となる 言葉を続けた。 私は生き直すことができない。しかし 私らは生き直すことができる。 国を奪われた 同胞の、 不確かさの思いを共有して闘い、 白血病とも闘っていた 友人が、 晩年に 研究の主題としたのは、 ある種の芸術家が 死を前に選びとる 表現と 生き方のスタイル。 かれらは穏やかな円熟にいたらない。 伝統を拒み、社会との調和を拒んで、 否定性のただなかに、 ひとり垂直に立つ。そして、 かつてない独創に達する者らがいる…… ニューヨークの病室からの最後のファクス。 老年の内面を引き裂く矛盾を 恐れるな、 困難を見きわめ、その向こうに、 腕を差しのべよ、 不確かな足場から。 気がついてみると、 私はまさに老年の境地にあり、気難しく孤立している。 否定の感情こそが親しい。 自分の世紀がつみあげた、 世界破壊の装置についてなら、 否定して不思議はないが、 その解体への 大方の試みにも 疑いを抱いている。 自分の想像力の仕事など、 なにほどのものだったか、と グラグラする地面にうずくまっている。 あの日、「自分の木」の下に 来るのが遅れた老人は、 いまの私だ。 少年に答える言葉は見つからぬまま…… 誕生から一年たった 孫に、私がかいま見たはずの 老年の似姿は、ミジンもない。 張りつめた皮膚に光をたたえて 私を見かえす。 その脇にうずくまる、私の 老年の窮境。 それは打ち砕くことも 乗り超えることもできないが、 深めることはできる。 友人は、未完の本にそう書いていた。 私も、老年の 否定の感情を深めてゆくならば、 不確かな地面から 高みに手を伸ばす手は、 何ものかにさわる ことが あるのではないか? 否定性の確立とは、 なまなかの希望に対してはもとより、 いかなる絶望にも 同調せぬことだ…… ここにいる一歳の 無垢なるものは、 すべてにおいて 新しく 盛んに 手探りしている。 私のなかで 母親の言葉が、 はじめて 謎でなくなる。 小さなものらに、老人は答えたい。 私は生き直すことができない、しかし 私らは生き直すことができる。
大江健三郎「晩年様式集」
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shindo-hanamure · 2 years ago
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〈生と詩〉石原吉郎
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河 そこが河口 そこが河の終り そこからが海となる そのひとところを たしかめてから 河はあふれて それをこえた のりこえ���  さらに ゆたかな河床を生んだ 海はついに まぎれえない ふたすじの意思で 岸をかぎり 海よりもさらにとおく 海よりもさらにゆるやかに 河は 海を流れつづけた  霧 まちがいのような 道のりの果てで 霧はひとに出会った ひとに会ったと 霧は言った (ひとに会うには  道のりが要る) 会わなければ もう 霧ではなかったろう 霧は不意にやさしくなり 寄りそってしずかな 柱となった 忘れていくだけの 道のりの果てで 霧は ひとに 道のりをゆずったが おのれのうしろ姿が 見えない悲しみに 背中ばかりの そのひとを 泣きながら打ちつづけた  レストランの片隅で つらい食事もしたし うっとりと食事も終えた 同じ片隅で ひっそりと今日も 食事をとる 生き死にのその 証しのような もう生きなくても すむような  自転車にのるクラリモンド 自転車に乗るクラリモンドよ 目をつぶれ 自転車に乗るクラリモンドの 肩にのる白い記憶よ 目をつぶれ クラリモンドの肩のうえの 記憶のなかのクラリモンドよ 目をつぶれ  目をつぶれ  シャワーのような  記憶のなかの  赤とみどりの  とんぼがえり  顔には耳が  手には指が  町には記憶が  ママレードには愛が そうして目をつぶった ものがたりがはじまった 自転車にのるクラリモンド 幸福のなかのクラリモンド そうして目をつぶった ものがたりがはじまった 町には空が 空にはリボンが リボンの下には クラリモンドが  風と結婚式  ぼくらは 高原から  ぼくらの夏へ帰って来たが  死は こののちにも  ぼくらをおもい  つづけるだろう  ぼくらは風に  自由だったが  儀式はこののちにも  ぼくらにまとい  つづけるだろう  忘れてはいけないのだ  どこかで ぼくらが  厳粛だったことを  明るい儀式の窓では  樹々が 風に  もだえており  街路で そのとき犬が  打たれていた  古い巨きな  時計台のま下でも  風は 未来へ  聞くものだ!  ぼくらは にぎやかに  街路をまがり  黒い未来へ  唐突に匂って行く  痛み  痛みはその生に固有なものである。死がその生に固有のものであるように。固有であることが。痛みにおいて謙虚をしいられる理由である。なんびとも他者の痛みを痛むことはできない。それがたましいの所業であるとき 痛みはさらに固有であるだろう。そしてこの固有であることが 人が痛みにおいて ついに孤独であることの さいごの理由である。痛みはなんらかの結果として起る。ひとはその意味で 痛みの理由を 自己以外のすべてに求めることができる。それは許されている。だが 痛みそのものを引き受けるのは彼である。そして 「痛みやすい」という事実が 窮極の理由としてのこる。ひとはその痛みの 最後の主人である。  最後に痛みは ついに癒されなければならぬ。治癒は方法ではない。痛みの目的である。痛む。それが痛みの主張である。痛みにおいて孤独であったように 治癒においてもまた孤独でなければならない。  以上が 痛みが固有であることの説明である。実はこの説明の過程で 痛みの主体はすでに脱落している。癒されることへの拒否は そのときから進行していたのだ。痛みの自己主張。この世界の主人は 痛みそのものだという 最後の立場がその最後にのこる。  *    理解しあい、手をにぎりあうことだけが連帯なのではない。にくみあい、ころしあうこともまた連帯である。決定的なかかわりあいであることにおいて、私はそのあいだに、そのような相違も見いだすことはできない。  * 死臭と体臭の同在。  *  もし私が何ごとかに賭けなければならないのであれば、私は人間の〈やさしさ〉にこそ賭ける。  * 
 まず連帯とは、〈すでに失われたもの〉であるという認識から出発しなければならない。そして、失われたものの回復は、一人の人間からはじまり、一人の人間で終る。
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shindo-hanamure · 3 years ago
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雪は、うえから一面に降るのではなくて、ひとつひとつの樹や、家や、ひとに、コテでどっさり盛るみたいに、のっかかっておりました。みんな、肘をまげて、内股になって、踊りの途中みたいに、雪の重みに耐えてミシミシいっています。
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shindo-hanamure · 4 years ago
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〈乳幼児・児童の心理臨床〉被虐待児のプレイセラピー 児童養護施設からのコラム5
被虐待児プレイセラピーでは、虐待を受けたことに起因する様ざまな影響が反映されやすい。そもそも子どもとは、オモチャを用いるなどの遊びを通して、自分の生活での大切な人や出来事についてどのように感じてきたのかを言葉を用いる以上に適切に表現する。以下にある事例を個人が特定されないよう配慮した上で紹介する。  ケース:Aちゃん(4歳)  分類:ネグレクト  生育歴:違法薬物依存の経歴をもつ両親によって育てられる。Aは乳幼児から夜間/早朝に屋外へ度々出されており、周辺住民が何度か虐待通告をしていた。本児3歳のときに両親が逮捕されたことに伴い、児童養護施設へ入所となる。それまで両親は警察の手を逃れるために住所を転々とし、Aへの衣食住の提供もままならなかった。そのせいかAは常に刺激に対して敏感に反応し、低身長および低体重の��養不良状態にあった。  経過:セラピー室にある哺乳瓶やおもちゃの注射器、絆創膏に興味を示す、おもむろに哺乳瓶を持つと乳首部分をくいちぎるようにして中身を飲み干す。注射器と絆創膏を「これ。Aの(もの)」「おままごとしよう」。母親役のAはポケットに注射器と絆創膏を突っ込み、フラフラ歩き回ったかと思うと唐突に「もうねる」。子ども役の筆者が〈お母さん、お腹すいた〉といっても、「がまんしなさい!」と日々の食事は与えられない。たまに与えられると、それは腐った食材で、〈えー、これ食べられるの?〉「うるさい!だまれ!もんくいうならベランダいけ!」と怒鳴りつけられる。  考察:衣食住の提供が満足になされず、乳幼児から身体発育はもちろん、アタッチメントにおいて深刻な問題を抱えるケースである。ネグレクトという環境に育ったAが哺乳瓶の中身を貪るように取り込む様子は非常に印象的で、薬物依存状態にあった両親から、たまの食事しか与えられなかった生活を思わせる。このように虐待環境の再現/再演ははプレセラピーにおいてよくおこり、注射器を片手にウロウロするAの様子は特筆すべき点で、これもAへの注意を向けられず、薬物の摂取に没頭していた両親をAが無意識に再演した可能性が高い。薬物依存症の場合、薬物摂取後に当人が我に返る頃には一気に時間が経過しているということが少なくない。そのため、出される食材が腐ったものであることもそれに通底するのかもしれない。さらに腐っているのを指摘されると暴言を浴びせるあたりも、Aが遊びに乗せて自身に起きた過去を表現したように感じられる。
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shindo-hanamure · 4 years ago
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 ホロコーストからガザへ   パレスチナの政治経済学 サラ・ロイ著   (編訳:岡真里+小田切拓+早尾貴紀)
 第二部「イスラエルによる占領と反開発」   (・・・)ロイはパレスチナにおける「開発(development)」の問題に関して、いわゆる「低開発(underdevelopment)」と、開発を根本的に阻害する「反開発(de-development)」とを理論的に明確に区別する。「反開発とは、強大な力でもって、意図的かつ計画的に既存の経済を破壊することであり、それは、低開発が歪んだかたちであれ一定の経済発展を許容しているのとは対照的であり、質的に異なる」。(GS,p.4)   従来の代表的な理論である近代化論および従属理論が扱えるのは、せいぜい低開発問題までであり、第三世界の後進性や先進国による搾取が主たる分析となる。  だがそれでは、イスラエルによるパレスチナ占領を分析するには不適切であるとロイは言う。第一にそれは、先述のように、シオニズムによる入植政策が、一般的な植民地主義とは質的に異なることに起因する。すなわちパレスチナの被占領地は、近代化論と従属理論に特徴的な「中心-周縁」関係における「周縁」としての第三世界でもないのだ。一般の第三世界に対する植民地主義的搾取論では、その地における住民の潜在的な生産力を活用して利潤を発生させることを目的としているが、それに対してシオニズムが目指すのは純粋なユダヤ人国家であり、パレスチナの土地は欲し��ともパレスチナ人は消滅してほしいと願っている。(GS,pp.123-128)
 出自/ジェダイズムについて    母の家族で戦争を生き延びたのは、母とその妹のフラニアだけでした。一九三六年にパレスチナへ移住していたショシャナおばさんを除いて、ほかの者は全員、非業の死を遂げました。母とフラニアおばさんは、パバニスとロッズのゲットーで七年を過ごしたのち、アウシュヴィッツ、そしてハルプシュタットの強制収容所へ移送されました。そのあいだ二人は、戦争が終わるまでなんとか離れ離れにならないようにしていました−−ある一度を除いては。  それはアウシュヴィッツでのことでした。二人が選別の列に並んでいたときのことです。そこには大勢のユダヤ人が並んでいました。彼らの運命はナチの医師ヨーゼフ・メンゲレに握られていました。ひとり彼だけが生きる者と死ぬ者を決定するのです。おばがメンゲレの前に立ちました。メンゲレはおばに右側、つまり労働用の列を示しました。それは束の間の死刑執行延期を意味します。母の番になったとき、メンゲレが示したのは左側、つまりガス室で殺されるグループでした。でも、母は奇跡的に選別ラインにもう一度もぐりこむと、再度メンゲレの前に立ちました。彼は母を労働の列に加えたのでした。二人は本当に仲がよかったにもかかわらず、戦争が終結を迎えると、母はおばと別れるというつらい決断をしました。フラニアおばさんはパレスチナ/イスラエルに渡ってショシャナおばさんのところに行くことに決めました。ユダヤ人にとって安全な場所は唯一そこにしかないです。母はいっしょに行くことを拒みました。私が生きるうえで母が幾度となく語ってくれたことですが、イスラエルでは暮らさないという母の決断は、戦時中の体験から母が学びとった強い信念に基づいていました。それは、人間が自分と同類の者たちのあいだでしか生きないならば、��容と共感と正義は決して実践されることもなければ、広がりを見せることもないという信念です。母は言いました。「ユダヤ人しかいない世界でユダヤ人として生きることなど、私にはできませんでした。そんなことは不可能でしたし、そもそも望んでも今せんでした。私は、多元的な社会でユダヤ人として生きたかった。ユダヤ人も自分にとって大切だけれども、ほかの人たちも自分にとって大切である、そのような社会で生きたかったのです。」    傷と倫理    イェヒエル・デ=ヌールという名前の男性についての話です。彼はトラックから降ろされると、逃走し始めるや振り返り、驚くナチス親衛隊に向かって、「私は人間だ!  悪魔ではない! 人間として生きたいんだ!」と叫んだのです。デーヌールはそうして雪に覆われた森へと逃げていきました。ガザで殺された無実の人たちは、きっと同じことを叫んでいたことでしょう。「私は人間だ! 悪魔��んかではない!」、と。    ホロコースト以降の復興における本質的な問題ですが、私たちは平常でいられるでしょうか。他の人びとを周縁に追いやることで自らの避難場所を求め、他の人びとの剥奪と破壊において自らの救済を求めているときに、普通でいることなどありうるでしょうか。家屋の破壊、障壁(隔離壁や検問所やロードブロックなど)の設置、生活維持の阻害、無実の人びとの破滅のうえで、耐え難い安楽を黙認しているときに、どうやって創造的なことができるでしょうか。ローズの言葉を借りれば、「歴史上の苦痛に対する万能の回答」を探し求めながら、どうして〔他者に〕同情を寄せることができるでしょうか。    老人とロバのはなし    友人たちと通りに立っているときに目撃した現場です。向こうから年輩のパレスチナ人がロバを引いてやってきました。老人の孫なのでしょう、三つか四つくらいの小さな男の子もいっしょでした。傍らに立っていたイスラエル兵たちが唐突に老人に歩み寄り、彼の行く手を制しました。兵士のひとりがロバに近づき、その口をこじあけて言いました。「おい、お前。ロバの歯が黄ばんでるぞ。なんで白くないんだ。ちゃんと歯を磨いてやってるのか!?」。    老人は愚弄され、幼い少年は目に見えてうろたえていました。兵士はもう一度、質問を繰り返しました。今度は大声で老人を怒鳴りつけながら。他の兵士たちはそのようすを面白がって眺めていました。子どもは泣き始め、老人はじっと黙ったまま、そこに立ちすくんでいました。辱められながら。同じ場面が何度も繰り返し演じられるうちに、群集が集まり始めました。すると兵士は老人に、ロバの後ろに立つよう命じました。そして、ロバの尻にキスしろと言ったのです。最初、老人は拒みました。けれども、兵士が老人をどやしつけ、孫がヒステリックに泣き叫ぶと、老人は身をかがめ、言われたとおりにしたのでした。兵士たちは大笑いしながら去って行きました。    私たちはおし黙り、そこに立ったままでした。恥に打たれ、互いを見合うこともできませんでした。ただ、少年がやみくもにすすりなく声だけが耳に響きました。老人は貶められ、打ち砕かれて、しばらく身動きしませんでした。��れは、ずいぶん長い時間であったように思われました。私もまたその場に立ちすくんでいました。信じられない思いにただ茫然として。私がそのときただちに思い出したのは、両親が私に話してくれた逸話の数々です。一九三〇年代、ユダヤ人がまだゲットーや収容所に入れられる前、ナチスによっていかに扱われていたか。歯ブラシで歩道を磨くよう強制されたこと、公衆の面前であごひげを剃り落とされたことなど。あの老人の身に起きたことは、その原理、意図、衝撃において、それらとまったく等しいものでした。人を辱め、その人間性を剥奪すること。一九八五年の夏のあいだずっと、同じような出来事を私は繰り返し目撃し��した。パレスチナ人の青年たちがイスラエル兵たちによって無理やり四つん這いにさせられ、犬のように吠えさせられたり、通りで踊らされたりする姿を。      救済について   最後に作家イレーナ・クレプフィスの言葉を引用して、この話を終えたいと思います。彼女の父親は、彼女とその母親をワルシャワ・ゲットーからこっそりと逃がすことに成功し、その後、彼自身はゲットー蜂起で亡くなりました。    私がたどり着いた答え、それは、闘い、抵抗し、そして亡くなった、私たちの愛するこれらの者たちを哀悼する一つのやり方とは、彼らの同胞の日常生活が破壊されたときに、それを眼前にした彼らの見方や彼らの怒りを私たちが決して手放さないということだった。私たちが日常生活のなかでつつがなく生き続けることを可能にするために必要なのは、この怒りなのだ。その怒りを、ユダヤ人の情況であれユダヤ人以外の者たちの情況であれ当てはめることなのだ。公共生活が崩壊する、そのどんな兆しでも目にしたならば私たちの行動と洞察を活性化するために私たちが呼びおこすべきはこの怒りなのだ。    射殺された十代の者者の死を夏く母親の狂乱。滅茶苦茶にされた家、あるいはされた家の前で茫然と立らすくむ家族。分断され追放された家族の姿。恋意的で不当な法律が商店の開閉時刻や学校の始業終業時刻を命じること。文化が自分たちとは異質であることを劣等性の証拠とみなしてその人びとを辱めること。市民権もなく、路上に放り出された人びと。軍の統制下で生きる人びと。これらの悪が平和の障碍であることを私たちは身をもって知っている。こうした情況を認めたならば、そのときこそ私たちは過去を想起し、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちを鼓舞したあの怒りと同じものを抱き、その怒りが現在の闘いへと私たちを導くようにするのだ。    したがって、私たちは亡くなった人びとを想起しなければならないのですが、その死をたんに記憶しておくためではありません。そうではなく、パレスチナ人とユダヤ人両方の日常生活を肯定することによって、彼らの生を讃えるためでもあるのです。それゆえこれが、エドワードが言ったように別の夢を見る可能性を生み出す、私なりのオルターナティヴなヴィジョンなのであり、そこでは、最後にまたT・S・エリオットを引用すると、「火と薔薇とは一つ」なのです。    サラ・ロイ Sara Roy  一九五五年アメリカ生まれ。政治経済学。ハーバード大学中東研究所上級研究員。パレスチナ、とくにイスラエルによるガザ地区の占領問題の政治経済学的研究で世界的に知られる。ホロコーストの生き残りのユダヤ人を両親にもつ。主な著書に  The Gaza Strip: The Political Economy of De-Development, Institute for Palestine Studies, 1995
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shindo-hanamure · 4 years ago
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『死に魅入られた人びと』 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ
 思想というものは痛みを感じません。痛ましいのは人間です。 しかし、私たちは自分たちの神話とがんじがらめとなり、ひとつとなっていました。ひきはがせないほど一体化して。  もし、神話がなにかをおそれるとしても、それが時のながれではないのは確かです。時のながれは、水がセメントに作用するように神話に作用し、ある種の歴史的芳香すらつけたして、最もおそろしい神話でさも魅力的なものに変えてしまいます。神話がおそれるものはたったひとつ、まだ生きている人間の声です。証言です。最もおどおどした証言さえも、おそれます。(…)  家族のたわいないアルバムになぜこうもわくわくさせられるのか、不思議に思ったことはありませんか。それはアルバムが罪のない平凡な、滅びないものだからです。こんなことを言ってはならないのでしょうが、あえて言いましょう。芸術が私に思いださせ物語ってくれるのは神のことですが、家族のアルバムが語ってくれるのは終わりのない人間の小さな生命のことなのです。(…) 平凡なことが偉大なことにかわる、生きている時が。  耳を傾けて記録すればするほど、私は、芸術が人間の内面の多くのことに気づきもしていないことを強く確信するのです。ことばがすべてを語れるかというと、そうではなく、絵の具がすべてを描けるかというと、そうではなく、音にすべてが与えられているかというと、そうではなく、祈りにすべてが秘められているかというと、そうではないのです。  スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチ Святла́на Алякса́ндраўна Алексіе́віч 1948年生。2015年ノーベル文学賞受賞。著書に 「チェルノブイリの祈り」 「戦争は女の顔をしていない」 「ボタン穴から見た戦争」 等。
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