Don't wanna be here? Send us removal request.
Quote
0010/10 世界の中心でアイを叫んだけだもの <「不思議の国のゲイたち」特集 インタビュー・『世界の中心でアイを叫んだけだもの』(オムニバス二本目)監督・ソルボンヌK子>(PG No.34)) -でも、特に後半は面白かったです(注・本策の後半部分は「エヴァンゲリオン」TV版最終回のパロディとなっている)。 「本当のマニアから見れば絶対足りないところはあると思いますけど。私も一話と最後の二話ししか観てないんで、知り合いの意見とかを聞いて脚本を作ったんです。『サムソン』の編集者もエヴァ・ファンで、最近は読者にもアニメファンが多いらしいんですよ。そういう人達は自分の好きなアニメがみんなデブで出来てたら幸せかなって。そういう人の心を汲んで」 まず、引用もとである『P・G』という雑誌から説明しないと読者にわからんと思うが、これは現在日本で唯一の、ピンク映画情報誌である。カラーコピー丸出しの表紙といいワープロ写植の内容といい、同人誌のニオイ紛々であるが、亀有名画座、中野武蔵野ホールはじめとするカルト系映画館で扱っている(タコシェ、模索舎にもあり)ので、ピンク映画に興味のある方は是非、読んでもらいたい。低迷を続ける日本映画界の中で、唯一「作家性」を持った監督たちが自分の作りたい作品に商売抜きで取り組んでいるピンク映画界の現状が、手作り雑誌だけに生々しく伝わってくる。 現在、ピンク映画一本の製作費は平均300万。中には一本(60分平均)150万で撮れ、などという無茶な要求をしてくる会社もある。もちろん、そんな予算で監督費用がまともに出るわけもない。ほとんどがタダ働きの世界である。そんな中で、スクリーンに上映される“本編”作りたさに、映画作家たちは、AVで食い扶持を稼ぎ、さっぱり儲からない映画の撮影に取り組む。この状況って、なにかとパラレルだと思わないか? そう、アニメーターたちのあの状況だ。 彼らは普段はスーパーやコンビニでバイトをし、金を貯め、ある期間喰えるだけの蓄えができると、アニメの世界にまた舞い戻って、そこで一文無しになるまでまた動画を描く。彼らのその情熱の底にあるのは、「アニメの製作現場に、とにかく加わっていたい」 という情熱だ。現代日本における、数少ない、若者が金づくでない、自分の愛する仕事への情熱に命をかけている現場、それがアニメとピンクなのである(そして、それ��利用して彼らに金が渡らない状況を作ってしまったオトナたちがいるということもパラレルだ)。 □業界のアダルト・チャイルドは互いを求めあうか? こういう類似点を持つが故に、ピンク映画界の連中が、あのアニメ、「エヴァンゲリオン」にハマったのも無理ないと言える。あの最終回に至る後半のエピソードは、現場の大変さを知っている者にとっては、ピンクとアニメと業界は違っても、“他人事でない”事実なのだ。また、会社の要求の中で縛りつけられて作品を作っていかねばならぬアニメ界の現状を最も認識しているピンク業界の人々には、その中で演出家があそこまで堂々と「作家性」を標榜したことに、驚きと羨望を禁じ得なかったに違いない。 その証拠に、この「P・G」34号は、まるでエヴァ特集かと思えるほどにあちこちにエヴァに関する話題が散見される。作品そのもののパロディである『映画の中心(まんなか)でアイを叫んだ~』の監督へのインタビューはもちろん、連載エッセイ「天使たちのLSD」(林田義行)、連載作品評「よみ女王様としもべたち」(月岡よみ)がどちらもエヴァネタ、おまけに林田は編集後記でまで綾波レイに対する愛情を切々と訴えている。 「日本映画界を支えようと一生懸命にやっているにも関わらず、社会から受ける愛情の少なさに飢餓状態になっている」 という意味で、アニメとピンクはどちらも業界のアダルト・チルドレンなのかも知れない。そう言えば、月岡よみの発言の中に 「アダルト・チャイルドは同類を見分けるのが総じて巧いのだ」 というセリフがあった。もっとも、一方的に愛情を注いでいるのはピンク業界側ばかりで、アニメ業界はピンクに冷たいような気もするが。 ところで、『映画の~』であるが、監督のソルボンヌK子はエヴァはパロディの元ネタとしか思っていないということにかけては徹底していて、デブさえ描ければ元ネタはエヴァでも銭形平次でもよかった、みたいなことをこのインタビューで言っている。それ故に、この作品はエヴァパロディというだけでの存在価値を越えて、作品として(かろうじて)普遍性を持ち得ている、と思えるのだが。 なんにせよ、エヴァ関連で話題になったことで、この映画、ホモ映画としては一般観客層の入場率の極めて高い作品になった。普通のホモ映画というのは完全に、ソッチの人たちのみのニーズに合わせて作られているので、一般客にはツラいのだが、たぶん、この作品は『映画の~』を含めてオムニバスの三本とも、一般観客の鑑賞に耐えるものとなっている。エヴァファンならぜひ、一度は見ないといけない。 東京・大阪での上映は終わったが、このあと、広島・小倉などで��映される予定であるし、東京では7月に中野武蔵野ホールにおいて、毎年、恒例の『女性のためのゲイ映画祭』で上映が決定している。併映作は、これまたホモ映画としてのニーズを無視して監督の作家性が暴走してしまった感アリの怪作、山本竜二監督『0105は男の番号』。カルト映画オタクなら必見の二本立てだぞ!
http://www.netcity.or.jp/otakuweekly/PRE0.6/topics10.html
http://www.netcity.or.jp/otakuweekly/PRE0.6/topics10-2.html
15 notes
·
View notes
Video
youtube
Katanga’s forgotten children (Japanese miners committed infanticide in the Democratic Republic of Congo)
During the 1970s, an increased demand for copper and cobalt attracted Japanese investments in the mineral-rich southeastern region of Katanga Province. Over a 10-year period, more than 1,000 Japanese miners relocated to the region, confined to a strictly male-only camp. Arriving without family or spouses, the men often sought social interaction outside the confounds of their camps. In search of intimacy with the opposite sex, sometimes resulting in cohabitation, the men openly engaged in interracial dating and relationships, a practice mostly embraced by the local society. As a result, a number of Japanese miners fathered children with native Congolese women. However, most of the mixed race infants resulting from these unions died, soon after birth. Multiple testimonies of local people suggest that the infants were poisoned by a Japanese lead physician and nurse working at the local mining hospital. Subsequently, the circumstances would have brought the miners shame as most of them already had families back in their native Japan. The practice forced many native Katangan mothers to hide their children by not reporting to the hospital to give birth. Today, fifty Afro-Japanese have formed an association of Katanga Infanticide survivors. The organization has hired legal counsel seeking a formal investigation into the killings. The group submitted official inquiry to both the Congolese and Japanese governments, to no avail. Issues specific to this group include having no documentation of their births, since not having been born in the local hospital spared their lives. The total number of survivors is unknown source Till this day justice has not been served and the Japanese government refuse to listen to the mothers and survivors practically branding them as liars.
1K notes
·
View notes
Photo

交通費変形地図(都道府県ver)
東京から各道府県への交通料金を距離に置き換えた地図。全国に交通網が張り巡らされ、移動中でもPCやスマートホンなどで仕事ができるようになった現在では、実際の距離の意味が薄れ、移動コストという「距離」の重要性が増しているのではないかという思いから今回の地図を作成しました。北海道より秋田県や新潟県が遠かったり、沖縄県が九州や四国の各県より近かったりと実際の距離とのギャップを見てとれます。
・各都道府県で最も乗降客数の多い駅から、新宿駅までの料金で算出しています
・飛行機・バス・電車を利用した料金であり、ジョルダン・トラベルコちゃんより算出しています。ジョルダン乗り換え案内(http://www.jorudan.co.jp/)に含まれていない路線(格安バス等)は含まれていません。
・料金については検索時期によって異なります。
・各料金データ(hhttps://docs.google.com/spreadsheets/d/19ZxWHDpL2PVevNw6wJpl8F7fvt_n26LGz0Sqn-gtSa0/edit?usp=sharing)
・これより安い料金があるよという情報もお待ちしています。上記ファイルに追記ください。
※2016/9/5愛媛県の位置と香川県の位置を修正しました。
579 notes
·
View notes
Text
一流研究者への道
ふと思いついたことを書く.
以前,とある老教授から聞いた話を思い出してTumblrへこう投稿した.
二流研究者への道
大学院博士後期課程を出た直後ぐらいの研究者を五流としよう.その後の道は, 五流→四流→二流 という道と, 五流→三流→(壁)→一流 という道がある.
これを図にしてみよう.

学位取得直後ぐらいが五流(柿の種)だ.ここから,莫迦になってオリジナリティを求める渋柿コースと,賢くものまねをする甘柿コースに分かれる.甘柿コースを選ぶと,すぐに四流(未熟な甘柿)にはなれる.一方渋柿コースだとなかなか上のランクである三流(渋柿)には上がれない.
甘柿コースで四流になると,普通はそこから「駄サイクル」を回すことになる.身内だけで褒め合うってやつだ.業界が未熟な場合は身内褒めをしつつ一定数の仲間を増やすことも必要だが,四流しかいない駄サイクルはまず何も生まない.しかも悪いことに,駄サイクルを回しているうちに四流の研究者はしばしば二流(甘柿)になる.自分たちが勘違いしているうちに,世間も勘違いしてしまうという流れだ.もっと悪いことに,二流は世間的には三流よりも上である.
多くの研究者は三流を目指して去っていくし,なれたとしても三流は世間的な評価が低い.こうして二流ばかりが残る. 三流になるため��は莫迦に徹しないといけないし,そこを突き抜けた大莫迦だけが一流(完熟柿)になれるのだから,割りに合う生き方とは到底言えないだろう.
と,ここまではその老教授の話の受け売りだ.件の教授はさらに「だが若者よ,三流で終わることがあっても一流を目指せ」と続けたことは言うまでもない.
最近この話には続きがあることを思いついた.次の図を見てもらいたい.

一流の中には,歴史の中で成熟されるレベルの超一流(干柿)がいる.一方で,世の中には超一流と並んで「超二流」という人々もいる.駄サイクルを超えた超駄サイクルを回すことで,世間的には一流と見分けがつかない完熟柿になる人たちだ.
超駄サイクルとは何か.メディアや業界団体が世間を巻き込んで,二流の人物をヒーローに祭り上げる駄サイクルだ.超二流の例は枚挙にいとまがない.そして,超駄サイクルは,我が国では東京にしかない.超駄サイクルを回すには,それなりの経済規模と文化規模(注:深度ではない)が必要なのだ.
ひとりのエンジニアとして一流を目指すのは当然のことだが,また同時にTEDxキュレータとして,一流と超二流を見分ける目を持っていたいと,僕は思う.
513 notes
·
View notes
Quote
(3)特記事項 機構(貴学)におけるパワーハラスメント、アカデミックハラスメント等の一連のハラスメントについて、これまで異議申立人が把握した実態は次のとおり。 ①■■■■工学科長・■■■■教授が、教職員・学生に対してパワーハラスメント・アカデミックハラスメントをはたらいていること。2014 年4 月に学科長に就任してから、特に多くの学生・教職員が被害に遭っていること ②同教授の(授業中の暴言等も含む)ハラスメント行為について、2014 年4 月より少なくとも6 回、校長に申し立て・抗議がなされたにも関わらず、校長は十分な調査をせず同教授に厳重注意を行ったのみであり、事実関係の解明および被害者の救済がなされていないこと。特に重篤な被害は次のa)~d)の4 件であり(学年等は当時のもの)、とくに3 人目の学生への行為は刑事犯罪に該当しかねない酷いものであること。 a)■■■■工学科5 年の男子学生が、編入学試験での苦戦およびそれに伴う卒業研究の不調を1 時間半にわたり密室で詰問・叱責され、精神を失調したこと。そのショックで編入学試験に合格していた大学を辞退してし、不登校ぎみになってしまったこと。(注: 高等専門学校は、5 年の課程を卒業後、就職するほかに大学の3 年次に編入学できる) b)■■■■工学科5 年の女子学生が、編入学試験後のストレスで卒業研究になかなか取り組めない状況にあったとき(通院療養中であった)、呼び出して1 時間半にわたり密室で詰問・叱責し、そのショックで快復しかけていた状態を悪化させ、不登校ぎみにさせてしまったこと。(注:高等専門学校では、大学の卒業論文に準じた「卒業研究」が課される。大学生と同様に、就職活動や編入学試験で苦戦すると、卒業研究への取り組みが遅くなってしまうことがあるという c)卒業研究指導下にあった■■■■工学科5 年の女子学生に対し、暴言、恫喝、名誉の毀損、プライバシーの侵害等を繰り返したこと。主なものとして、次の事項が挙げられる。 ● その学生が無能であることを学科じゅうに吹聴したこと ● 1,600 通以上の電子メールを(ほぼ一方的に)送ったこと ● 住所を(無断で)調べ年賀状を送った(そして返礼がないことを詰問した)こと ● その学生が「指導」に耐えかねたことを申し出たところ、同輩の前で侮辱され恫喝されたこと また、その学生の保護者に執拗に電話をかけ、精神的に疲弊させ、2015 年4 月の時点では、その学生は精神を失調したままであり、通院中であったという。 d)■■■■工学科教員に過剰な職務を命じ、精神的に追い詰める発言を繰り返し、心身を失調させたこと。うち1 名の教員が、今後もこの状況が続くことに恐怖と憂慮し、2015 年3 月末をもって辞職したこと。
アカハラ問題の情報不開示に係る異議申立てで内閣府審査会に意見書と資料を提出 群馬高専アカハラ問題
0 notes
Quote
写真のようにオリーブが咲きました。オリーブの花は1本の雌しべと2本の雄しべからなります。モクセイ科の常緑高木で、種子の油は、オリーブ核油といい、オリーブ油よりも品質が劣るようです。多くが自家不和合で、自家受粉できないため、オリーブは異なる2種類以上の樹を混植した方が良いです。 紀元前700年頃から古代ギリシアはオリーブの栽培によって国力を蓄え、繁栄を迎えました。ギリシアが地中海各地に植民地を建設するとともに、オリーブの樹も移植されました。紀元前370年頃イタリア半島に移植され、やがてオリーブの主要生産地の一つとなりました。日本での栽培は香川県小豆島で、1910年頃初めて成功しました。現在は香川県、岡山県、兵庫県、九州などで栽培されています。 オリーブの木材は硬く(爪の先で押してもほとんど傷つかない)、重く緻密で、油分が多く耐久性があり、装飾品や道具類、特にまな板、すり鉢、すりこぎ、スプーン、調理用へらなどの台所用品を作るのによく用いられます。日本では印鑑の材料にされる���ともあり、辺材は黄白色、心材は黄褐色で、褐色の墨流しのような不規則なしま模様があります。 オリーブは「平和の象徴」とされていますが、これは旧約聖書に由来します。神が起こした大洪水の後、方舟で航海していたノアが外の様子を知るために放ったハトがオリーブの枝をくわえて戻り、ノアは地上に平和が戻ったことを知ったというくだりあります。ここからオリーブの枝は、ハトと共に平和の象徴とされたのです。またギリシア神話では、オリーブの木は知恵の女神アテネによって作られたとされています。古代オリンピックの勝者に与えられる冠がオリーブで作られているのも、この女神アテネにまつわる神話から来ています。 このように神話にも登場するほど古くから人々の生活に活かされてきたオリーブですが、果実は生食できません。ものすごく苦いです。その原因物質はオリュロペイン(オレウロペイン)と呼ばれるポリフェノールです。ポリフェノールはタンパク質を凝固させる働きがあるため、多量に摂取すると消化不良の原因となります。植物が昆虫や動物に食べられないために作り出している物質なので、普通は食べようという考えが出てこないはずですが、昔の人は飢餓から逃れるために、何とか無毒化しようとして方法を考えました。乾燥地帯の地中海沿岸にはオリーブぐらいしかなかったから食べようとしたのだと思います。もし他に豊富に食べられる木の実があったのなら、果たしてオリーブの果実を食べただろうかと思います。 オリュロペインはオリーブの害虫であるオリーブアナアキゾウムシの摂食を刺激するそうです。オリーブアナアキゾウムシは日本固有の昆虫で、オリーブと同じモクセイ科のネズミモチという木などに細々と寄生していたのが、オリーブで凶暴性を発揮してしまったという変わった経緯を持っています。ヨーロッパではこのようなゾウムシの被害はありません。オリュロペインは抗酸化力が大変高く、コレステロールが体内で酸化することを防ぎます。その他にも、抗菌・抗ウイルス作用があり、体を病原菌から守ったり、体内の免疫機能を活発にする働きがあります。肌のシミなどのもととなるメラニン色素の生成を抑えてくれるといわれています。
0 notes
Quote
(もういちど流行歌)「喝采」ちあきなおみ 大逆転劇を招いた「歌の力」 2016年6月25日03時30分 写真・図版 1969年に21歳でデビュー、「四つのお願い」や「X+Y=LOVE」をヒットさせた。代表曲「喝采」に出合う前のちあきなおみさん=72年3月2日 写真・図版 日本列島改造論をひっさげ角栄旋風が巻き起こった1972年。「ドラマチック歌謡」と銘打たれる名曲「喝采」が生まれました。 ♪ ♪ それはまるで、1本の映画か1編の小説の物語が、余すところなく17行の詞に凝縮したような歌だった。 ステージで恋の歌をうたう女のもとに、黒いふちどりのある知らせログイン前の続きが届く。かつて愛しあったが、ふり切るように別れた男の悲報。 ちあきなおみさん(68)は、あえて感情の高ぶりを抑えて歌う。それが逆に、あふれでる女の情念を、聴く者の胸底へ伝えた。 アンケートの回答者も感動を忘れていない。 「歌謡曲に興味がなかった私の心に歌の方から飛びこんできた。胸がジンジンするほどの迫力に打ちのめされた」(東京、74歳女性)、「歌っている姿は、舞台に立つ女優のようだった」(愛知、56歳女性)。 作曲した中村泰士(たいじ)さん(77)は当時、歌手から作曲家に転身して4年目だった。ちあきさんのために作曲したいと熱望し、みずからレコード会社にかけあったという。「彼女は、声がチャーミングなばかりか、どんなリズムにも乗れる才能を持ち合わせていた。僕はそのころ、『泰士節』を生み出すのに試行錯誤していて、最高の『楽器』に巡りあえたと思いました」 「喝采」は曲が先にできあがった。中村さんは譜面に、歌詞の2番冒頭に残る「蔦(つた)がからまる(教会の)白い壁」というフレーズを書き添え、作詞家の吉田旺(おう)さん(75)に渡した。 なぜ教会だったのか。 「両親が敬虔(けいけん)なクリスチャンだったので、僕も幼いころから教会に通い、賛美歌の旋律に慣れ親しんでいた。いま思えば、この曲を僕なりの教会音楽にしたかったのかも知れません」 ちあきさんは、レコーディング中はかならず、スタジオを仕切る暗幕を引き、その陰に潜んで歌った。その奇行は、歌詞から練りあげたドラマに没入するための儀式に思えたという。 ちあきさんをデビュー直前から知る音楽評論家の安倍寧(やすし)さん(83)は、70年にラジオの音楽番組で対談したときのやりとりを、いまなお克明に記憶している。 「彼女の歌は、舶来のポップスの香りがするから、『歌い方が意外にバタ臭いね』と聞くと、『私、進駐軍のキャンプを回ってましたから』と言うんだよ。テンガロンハットをかぶり、カントリー&ウェスタンを歌っていたんだと」 ちあきさんが米軍キャンプ巡りを始めたのは、4歳のころからだ。13歳からドサ回りの前座歌手になり、辛酸をなめ尽くしている。 「喝采」は72年の日本レコード大賞に輝いたが、大逆転劇といわれた。前評判は、すでに日本歌謡大賞を受賞していた、小柳ルミ子さんの「瀬戸の花嫁」で確定と思われていたのだ。 そのとき、レコード大賞の審査委員だった安倍さんは「ひっくり返ったのは、新しい時代の到来の予兆を感じさせたからでしょう。曲も彼女の歌唱も、日本の伝統的な感傷主義に背を向けていた」と回想する。 妻のマネジャーに徹し、一心同体だった元俳優の夫、郷えい治(えいじ)さん(享年55)と92年に死別してから、ちあきさんは沈黙している。 いつものように幕が開き――。恋の歌をうたう歌姫が再び降臨する奇跡を、誰もが待ち望んでいる。 ■いやらしいほどコッテリ アンケートでは5位だった「女のみち」は、72年10月末から73年2月中旬まで、週間チャートを無敵の勢いで独走した。 「声を絞りだすような独特の歌いかたは、誰にもまねできなかった。横浜のドヤ街で聞きほれていた時代がなつかしい」(神奈川、69歳男性)、「いやらしいほどのコッテリ感がある、ディープな演歌。あの錆声(さびごえ)が耳に入りこむと、虐げられて、寂しげにうつむく女の姿が目に浮かんだ」(北海道、75歳男性)。 歌っていた「ぴんからトリオ」はもともと、63年に大阪で結成されたコミックバンドだった。だが、人気は出ずじまい。アルバイトで食いつなぎながら最後の望みをかけ、この曲のレコードを300枚、自主制作した。それが有線放送でリクエストされ、ネオン街で火がついた。 レコード売上枚数は300万枚を超え、2年連続で年間チャート1位という不滅の記録を打ち立てた。 (保科龍朗)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12423205.html
0 notes
Quote
衆議院議員・稲田朋美氏と生長の家創始者・谷口雅春氏の思想 [はてなブックマークで表示] 【問題】 (1)「私は、谷口雅春先生の教えをずっと自分の生き方の根本において参りました」という稲田朋美・衆議院議員の発言がなされた下記【資料1】、および、生長の家創始者・谷口雅春氏の教えに関する下記【資料2】をもとに、稲田朋美・衆議院議員がどのような国家観および政治思想を持った政治家か、考察しなさい。 (2) (1)を前提に稲田朋美・衆議院議員を自民政調会長として重用する安倍総理の国家観および政治思想についても考察しなさい。 (1) 国家は吾々の最高理念である。数字に先立って『数』が存在するがごとく、理念はすべての形あるものに先行して存在する最高の存在であり、生命(いのち)の生命である。国家はその理念のうちの最高なるものである。個生命はこの最高理念のために、『生命の生命』のために、一切をなげうって奉仕しなければならぬ。否、奉仕することそのことが喜び��あり、それが個生命なる小さな理念的存在が最高の理念にまで包摂せられ向上し行く最後唯一の道である。銃後の親戚知友に送られて征途に旅立つ軍人の歓呼こそは、見送る人も、見送られる人も、それは個生命が最高の理念に包摂し向上する刹那の生命の凱歌であり、鬨(とき)の声である。 (谷口雅春『明窓浄机』草創篇284-285頁「昭和12年 天皇は中心理念に在す」) (2)戦争の倫理的意義 谷口雅春 私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在の生活』を百パーセント完全に生きることが、生長の家の生き方であるといった。この意味において『戦争』というものが吾々に課せられた場合には(現に課せられているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければならないのである。今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働くのであるから、戦争というものは魂の修養にならないというような価値判断がは��らいて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれがあるが、生長の家では出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を練るところの公案となるのである。多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応なしに左右をいわずに、ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事なのである。しかも同時に、肉体の『無』を理屈でなしに実証するところの行事である。かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したところの『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じことである。『爆弾を抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、その命令者が教祖という個人である。しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。 (『谷口雅春選集』谷口雅春著 潮文閣、1941年、302-303頁) (3)常住戦死の心 谷口雅春 宇宙には唯一つ、大御心のみがある。 天皇の大御心である。『忠』とは、大御心に無我帰一する心である。すなはち天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)の心に『中』(ちゅう)する心である『中』とは的に中(あた)るであり、生命の本質に貫き徹するのである。宇宙の実相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に従ふのである。吾らが大御心を行ずるのは、それによって幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。さふ云う第二次第三次の事物よりも、尚尚すぐれて無常価値なるものが大御心である。その大御心を実現することは無常価値であるが故に、そのやうな第二次、第三次のお蔭などは心に微塵も止めないで、大御心を行ずるのが『忠』である。そしてそれがまた生長の家家族の心である。大御心を行ずる為に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。戦場に於(おい)て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。これを『死』と云ふ不��な連想を伴ひ易き言葉を用ひず、『肉体なし、物質なし』と吾らは云ふ。その死に切った心だけでは消極的否定の心である。そこに『大御心のみあり』の大肯定がなければならぬ。生長の家ではこれを『神一元』と云ふ。天皇独在とも云ふのである。 (谷口雅春「常住戦死の心」『谷口雅春選集』潮文閣、1941年、2頁) (4)ああ天地万物を見るたびに、吾々は、天皇陛下があがめられます。 天皇の下に生まれ 天皇の大みいのちに還りて死し死して永遠のいのちを得る。 天皇万歳である。…・万歳は久遠の象徴(しるし)である。…・・この際、この時、この生長の家の思想を広めて吾ら死なん。死なんかな。死なんかな。来りてともに死に給へ。死は大なる生につながる。 (谷口雅春『明窓浄机』飛躍篇106頁 昭和16年 「天皇はすべてのすべてにまします」) (5)「草でも一時刈ったり、牛にでも食われたりいたしますと、表面は一時なくなるけれども、それが適当に行なわれることによって次にその草はいっそう大きく生(の)びてくるのであります。…(省略)…樹木でも毎年剪定といって枝葉を適当に切らなければよいぐあいに元気よく育つことはできない。樹木はこれを切ってくれる人があるのでいっそう大きく元気に育ってゆくことができるのです。みんな生かし合いの世界なのです。……具体的にいえば、個体はなく、民族があり、国家がある――これは近頃ドイツで称えられる哲学ですが、これは生長の家の「本来肉体なし」の哲学によって初めてよくわかるのであります。個体というものが本来ないということがわかれば、一個の野菜も個体としては存在しないから、その個体が殺されて食べられるということもない。野菜は理念的存在であって、永遠不滅の野菜の理念が、常に殺されず滅せず、かえって生かされて明年はいっそう大きな優秀な顕われ方をする――すなわちいっそう大きく生かされることになるのであります。」 (谷口雅春著『生命の実相』39巻42-43頁) (6)大東亜戦争は東洋民族を解放する聖戦であった・谷口雅春 谷口雅春は、昭和二十七年の『生長する青年』(現『生長の家青年会』機関誌)十月号に「霊の選士としての青年の使命」と題する御文章に、大東亜戦争の意義について次のように書いている。 「日本は大東亜民族の解放の旗幟(きし)をかかげて戦ったのである。そして日本は侵略国として色々の汚辱を蒙ったけれども、それは恰もキリストが十字架に釘(はりつけ)けられたのと同じことである。「人を救いてみずからを救い得ざる者よ」と当時のユダヤ人は十字架上のキリストを嘲笑したけれども、この汚辱ある刑罰の中に彼は全人類を解放したのである。それと同じく、日本は「侵略国」と云う汚名の下に侮辱され、戦争犯罪人と称して裁判にかけられ、上衣を奪われて十字架上��のぼったキリストのように領土の十分の四を奪われたけれども、その犠牲によって、東洋民族は自己の内部に、西欧民族と同様に尊ぶべき人権が、尊ぶべき「神性」が宿っていることを自覚することを得たのである。それまでは多くの東洋民族はみずからの無自覚によって自縄自縛していたために白色民族の支配下に土地はその植民地となり、人間は奴隷の如き生活を送っていたのである。日本の蹶起(けっき)のために多くの東洋民族は目覚めた。西洋民族と同じように彼らも神が平等に造った神の子であり、「何でも出来るぞ」という自覚を得たのだ。かくて東洋民族は続々として白色民族の桎梏から解放されて独立したのである。」 (7)天皇信仰 谷口雅春 (全文) (以下は『生長の家五十年史』324頁~325頁 「天皇信仰」からの引用です。) 谷口雅春先生は昭和十五年の『生命の教育』九月号の巻頭言に「天皇信仰」といふ生長の家の教義の根本である文章を発表された。これは宗教結社として届出された「教義の大要」を敷衍したものであった。なお、以下の文章を短く圧縮した文章が『天皇陛下を讃える』(日本教文社昭和52年刊)にも再掲されている。 《天皇への帰一の道すなはち忠なり。忠は、天皇より出でて天皇に帰るなり。天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの、天皇より流れ出て、天皇に帰るなり。わが『忠』、わたくしの『忠』、我輩の『忠』などと言ひて、『我』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。私なきが『忠』なり。 天皇は、天照大御神と一体なり。天照大御神は、天之御中主神と一体なり。斯くして、天皇はすべての渾てにまします。『忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より発して再び天之御中主神に復帰するなり。天皇を仰ぎ、天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。わが『忠』と誇るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我』となるなり。 全ての宗教は、天皇に帰一するための前提として存在の意義があるなり。すべての宗教が、『我』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、『無所有』を説くは、『この世は何も無いものだから諦めよ』と云ふ意味に非ず。すべてのものは、天皇の一元より発現することを教へたるなり。すべての森羅万象、天皇の大御いのちの顕現ならざるはなきなり。天皇を説かず、仰がず、『無』のみを説く宗教は準備時代の宗教に過ぎず。 わたくしの『生命』を愛護すること勿れ。『生命』が尊きは、天皇の大御いのちの流れであり、岐れであるが故に尊きなり。寸時も、『天皇のみたまのふゆ』なることを忘るべからず。『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は悪逆無道の迷妄の徒となるなり。 愈々日本も政治新体制の曙は近づけり。一切の政党は解党せり。新たに党を結ばんがための解党にては意味を成さず、この事肝に銘ずべきなり。挙国一党なりとも、党のある限りは、『無我』に非ざるなり。大みごころあるのみなり。大みごころへの無我随順あるのみなり。若し新党を樹つるとも、新政体を建つるとも一点の『我』ありて、大みごころを晦ますとき、天皇の御徳を遮して、自分の都合をはかる無道の徒となり了るなり。 無道とは、道の無きことなり。道は宇宙にミチてあれども、『我』のあるところには、道は遮られてあらはれぬなり。大海原に海水は満ちたれども岩石の固まりたるところには海水は満ちをること能はざるが如きなり。『我』がなくなりて、はじめて『道』は生きるなり。私の『善』、私の『道』、私の『宗教』などと言ふものあるべからざることなり。 すべて宗教は、天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。 各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる徒なり。すべてのもの、太陽にて生くるが如く、すべてのもの、天皇の大御いのちにて生くるなり。 生長の家が、一宗一派を樹てざるは、宗派と言ひて党を樹て、閥に籠りて、相争ふことが『忠』に非ることを知る故なり。特に『一宗一派に非ず』と言ふことを教義の『七つの光明宣言』に記入して、宗教であることを許されしは、文部当局の賢明なる処置なり。文部当局が一宗一派にあらざる宗教をみとめたるなり。宗教が正しくなりたるなり。すべての宗教は私のものにあらざるなり。すべてを、天皇に帰一し、天皇に奉還し奉る宗教なり。 宗はオホモトなり。天皇なり。すべての教も則も範も矩も規も法も、悉くスメラミコトより発するなり。宗教は宗派と言ふものに立ち籠りて、宗祖と言ふ一人の国民に過ぎざる人間を尊崇するは邪道なり。されば我は夙に喇叭に過ぎずと言ひたるなり。すべての宗祖は喇叭に過ぎざるなり。宇宙の大教祖は、天皇にてあらせられるなり。ミチとノリとは悉く、スメラミコトより出づればなり。 釈迦在世のとき、金波羅華を拈じて衆に示すに、迦葉のみ微笑す。金波羅華は『空』の象徴に非ず、宇宙がコスモスであり、中心���一である象徴なり。日本国体の象徴也。迦葉のみ微笑す、とは悲しいかな。他の大弟子皆解せざる也。今の仏教者はいかほど金波羅華の秘密を解せりや。仏教を以て『空』を説くとなす者、百尺竿頭に坐する底の者なり。百尺竿頭に達せざる者よりは優れり。されど『空』の百尺竿頭より進一歩して、中心帰一世界を見ざるものは、外道の仏教にして、日本仏教にあらざるなり。 東大寺の大仏は中心帰一の蓮華蔵世界を彫刻にあらはせるなり。中心座にましますは、光明遍照者(ヴェーローシャナ)にましまして、それを守護し奉るために、千葉(せんよう)の蓮華その御足の下にありて、各々の蓮華に、悉く釈迦牟尼仏ゐまして、光明遍照者(ヴェーローシャナ)の御徳を讚ふるなり。ヴェーローシャナと言ふ梵語をば、大日如来などと、仏教が如来の如く訳したるは誤謬にはあらざれども、人をして外国の仏様の如く誤解せしめたるや久し。 ヴェーローシャナとは、単に『光明遍照』の意なり。宇宙の中心座に在す『光明遍照』なり。畏くも天照大御神にましますなり。天皇は天照大御神と一身にまします��故に、釈迦は、天皇信仰を教へたるなり。それを知らずして、迦葉のみ微笑す。善い哉。迦葉微笑せり。今は日本人悉くが微笑せざるべからざる時なり。天皇信仰を知らざるべからざる時なり。今はすべての宗教が天照大御神を礼拝すべき時なり。そのほかに宗教ある筈はなきなり。》
http://sei4ch1ou.seesaa.net/article/421281552.html
0 notes
Text
音楽を聴こう!(いったいなにを?)
結構前から、近所のタイ料理の店に入ってみたいと思っています。思っているだけです。中々実際に入るまではいきません。知らない店に入るというのは、ちょっとしたことなんですが勇気がいります。それに入ったとして、なにを頼めばいいのかわかりません。タイ料理は匂いが強かったり酸っぱかったり辛かったりで、料理によっては人を選びそうです。私の中の勝手なイメージで、実際タイ料理がそうなのかはわかりませんが、口に合わなかったときのことを思うと、結局はある程度味の想像できるものを選んでしまいます。
前置きはこの程度にして本題の音楽の話に移ると、これと同じようなことを音楽に対して感じている人がいます。
知らない音楽に興味があるけど、なにを聴いたらいいのかわからないし、聞きなれないものには抵抗がある。だから知っている音楽の中で好きなものを選んで聴く。そういう人たちです。
別に悪いことではありません。私がタイ料理を食べたことがないことが悪いことではないように。ただ私は音楽が好きで、素朴な感情として自分の好きなものを少しでも広めたいと思っているので、そういう人たちが知らない音楽を聴くきっかけになればなと思い、この文章を書いています。
Q:なにを聴けばいいのか?
知りません。私にはわかりません。おすすめもできません。なぜなら私はこれを読んでいる人のことをなにも知らないからです。
もしあなたが何年、何十年も前の古い映画を、小説を、漫画を、あるいはアニメを好む人であれば話は早いです。それは意識的にアーカイブを掘り起こす行為です。その経験を通じて、過去の創作物の中にすばらしいものがあると知っているはずです。あなたがそうして得た感動を音楽にも求めることは当然可能です。多少の情熱と根気をもって接すれば、読まない人は人生を損していると思える小説に出会うように、聴かない人は人生を損していると思える音楽に出会うことは必ずできます。
とっかかりとしては好きな映画やアニメの主題歌を歌っている歌手の「他の曲」を聴いてみる、というのは一つの手です。ボーカルさえ好みなら、根本的に合わな��ということはないはずです。小説や漫画の作中に登場した音楽を辿って聴くというのも定番です。柴田よしきの少女達がいた街でディープ・パープルを知る。グレッグ・ベアのブラッド・ミュージックを読んでビートルズのミッシェルを聴く。ジョジョから入って洋楽。あるいは逆に小説や映画を元ネタにした音楽を聴くという手もあります。J・G・バラード読者にジョイ・ディヴィジョンを。中原中也ファンにはっぴいえんどを。
しかしそうでない人は?映画も小説も漫画もアニメも目に入りやすいメディアの提示した選択肢の中から選んで、自分で探すということをしてこなかった人たちはどうすればいいんでしょうか?
音楽を求めているのに自分から探そうとしない理由の一つは、好きな音楽を得るための効率のいい手段がわからないので、モチベーションが上がらないからだと思います。ですが実のところ、効率の良い手段はいくらでもあります。多くの場合、目に入っていないか、目に入っていても試そうとしないだけで。
今あなたに好きな曲が一曲でもあるなら、YouTubeの関連動画を辿っていけば、好きな曲はそれなりのペースで増えます。もちろん必ずうまくいくとは限りません。例えば星野源のSUNが好きな人が関連動画からKANA-BOONとサカナクションとSEKAI NO OWARIを聞いてみたもののどれもピンとこない、ということはあると思います。そういうときは「星野源 影響」と検索してみれば、すぐに星野源が影響を受けた音楽、星野源が好きな人が におすすめしたい音楽、なんてものが出てきます。もしあなたの周囲に音楽が好きな方がいるなら「星野源が好きなんだけど、似たような感じの曲でおすすめない?」とでも聞けば、答えられる人なら答えてくれます。人によってはファンクだソウルだといった、影響を受けたジャンルのことまで細かく教えてくれるでしょう。面倒くさいと思うかありがたいと思うかは人それぞれですが、効率よく好きな音楽を探したい場合、ジャンル分けはとても便利です。歴史や成り立ちはどうでもいいので、代表的なアーティストの曲を2、3曲だけでも知っておくのは、自分がどんな音楽が好きなのかを理解するための近道になります。
以上、音楽を探すのはそんなに手間じゃないよ、という話だったと思います。手軽な娯楽である音楽をもっと楽しんでください。能動的に聴くことで楽しみは増します。最後に私のおすすめの曲を紹介して終わるつもりだったのですが、やめることにしました。下手をすれば、見ず知らずの人間の口にパクチーをねじ込むがごとき暴挙になると心得た次第です。
1 note
·
View note
Quote
蓮實重彦さんとのインタビューの一問一��は以下の通り。 「不機嫌会見」から1カ月… 蓮實重彦さん、本音を語る ――三島賞の受賞会見には驚かされました。 どうしてみなさん同じような質問しかしないのかと苛立(いらだ)ちました。 ――ただ、ああいったお約束の質問が出ることはある程度予測されていたのではないでしょうか。 最初の1、2問はそうかもしれないとは思っていましたが、これほど同じような質問ばかりになるとは思っていませんでした。 ――しかし、あの会見があったことで、結果的にはこれまでの三島賞の何倍も世間の注目を集めることになりました。 会見の前に、新潮社の方に聞いたんです。「この会見は本の売れ行きに関係するんですか」と。そうしたら「関係いたします!」とお答えになったので、「それではそのようにやりましょう」ということになりました。会見の後、その方に「お見事!」なんて言われちゃいましたけれど、これもどうなんでしょうかねえ。ちょっとやりすぎちゃったんじゃないかという気がします、新潮社のためにはね。 ――こういう盛り上げ方があったのか、と、私などは感嘆いたしました。 いや、実は家内がいま入院しておりましてね、ぎっくり腰のひどいもので、急に動けなくってしまって、救急車で病院に運ばれたんです。そこである程度治りまして、リハビリセンターに移ることになりました。三島賞選考会の翌日、午前9時までにセンターに入らなければならなかったのです。だからわたくしは前日、病院の近くのホテルに宿泊することにしました。転院の準備がありますので、三島賞のことなど完全に忘れてしまい、翌朝のことばかりを考えてチェックインして部屋に上がったところで、電話が鳴りまして「新潮社でございます」と。「(会見に)おいでになれますでしょうか」と聞かれましてね。わたくしは妻のことを第一に考えようと思っていましたから、自宅にいたら会見には行かないつもりでした。しかし、ホテルからだと会見場まで10分で行けちゃうんです。「じゃあまいります」と申し上げました。だから、心ここに��らずで行ったのは確かなんです。 ――司会の方が最初に「ご心境は?」というお決まりの質問をされた時に「ご心境という言葉はわたくしの中には存在しておりません。ですからお答えしません」と話されましたね。 ええ。「わたくしの辞書には」と言おうかと思ったのですが、やめました(笑)。 ――冒頭のやりとりで会見の空気が決まったかと思います。これは司会者と打ち合わせされていたのですか。 いいえ、全然違います。そもそもですね、わたくしの感じでは、いしいしんじさんが取ってくださればいいなと思っていました。まあ、2人くらいはわたくしを推すかもしれないけれど、3人はないだろうと確信していたんですね。そうしたら、最後に3票になっちゃったらしい。それがなければ静かに過ごせたわけですけれども。 ログイン前の続き――三島賞の候補作に決まった時に、新潮社の担当者に「恥をかく覚悟でお受けします」とおっしゃったと側聞いたしましたが。 正確に何と言ったかは忘れましたが、候補になったことは「新潮」の矢野優編集長から聞いたんですけれども、私は「矢野さん、やめてよ」と申し上げましたね。まあ、矢野さんの手の内で踊らされたという感じはありますね。 ――会見でも記者から質問が出て、そのときは、蓮實さんはお答えにはなりませんでしたが、候補になること自体を断るという選択肢もあったと思いますが。 そうですね。途中でやっぱりお断りしようと思い、書籍を担当してくださっている編集者の方と何度かメールのやりとりをいたしました。「もう引っ込めるぞ」といったメールが残っていると思います。 ――新潮社の方からは「引っ込めないでくれ」と懇願されたわけですね。 わたくしがあんまり怒っているので、メールが途絶えてしまいました。今回の小説は、こちらとしては好きなことをやっただけなので、それでわたくしに責任を取らせるのはあまりにひどいじゃないか、ということですね。でも、受賞することはないと思っておりました。 ――人気モデルの押切もえさんの小説が候補に入るなど、新潮社は話題作りのことも考えていたと思います。蓮實さんもその一環ではないでしょうか。 ただ、わたくしが話題作りの一環になるとは、新潮社もおそらく考えていなかったと思いますよ。最初は亀山郁夫さんとの学長対総長対決みたいことを言われていたでしょう。しかしそれもすぐにピタッと消えちゃいました。 ――記者の間から、蓮實さんを不機嫌にさせる質問が次々に飛びだして、本当に「お見事な」会見になりましたね。 記者の中からどなたかがまともな質問をして、わたくしを救ってくださるものだと思っておりましたのですが。みんな通り一遍以前の感じでしたね。何を聞きたいのかさえ、よく分からない質問をする方もいらした。 ――パフォーマンスではなく、本心からお怒りだったわけですね。 今回は会見の前にも不愉快なことがありました。選考会の前に、各社の記者との会見に出てくれと言われたのです。「そんなもの、絶対やりません」と答えましたが、受賞するかどうか分からないうちに、記者と会見をしてくれという話を聞いて、わたくしはもう怒り狂ったわけです。 ――これは新潮社だけではなく、文芸春秋の芥川賞・直木賞でも行われています。 作家のみなさんはよくお答えになりますよね。��かしこの会見を断ったために、記者の方たちのほとんどが、受賞会見で初めてわたくしと会うということになりました。仮に事前の取材で予行演習のようなものが出来ていれば、ああはならなかったかもしれない、とは思います。それを断ったので、ちょっと喧嘩(けんか)じみたことになってしまいました。 ――私はてっきり蓮實さんには完璧なシナリオが用意されていて、記者たちが蓮實さんの手のひらに乗って進められたのではないかと思っていました。 いやいや、そんなことはありません。 ――「伯爵夫人」にも登場する往年の大監督エーリッヒ・フォン・シュトロハイムのように、監督・脚本・主演が蓮實重彦という作品を見ているような気がしたのです。 いえ、とにかく準備をする時間など全くなかったのです。 ――授賞式は出席されるのですか。 これはもうごく普通に出席いたします(笑)。 ――会見の話はそれくらいにしまして、「伯爵夫人」のことをおうかがいします。私はものすごく前のめりで読み進みました。どうしてこんなにぐいぐい読めるのかと考えると、この小説がほとんどアクションの連鎖のみで書かれているからではないかと思い至りました。これは蓮實さんの意図でもあるのですか。 ええ、そうですね。今回はセリフでアクションを描こうと考えました。あまり普通の小説にはない展開になったのではないかという気がしています。 ――その描き方は、会見でおっしゃっていた「向こうからやってきた」のでしょうか。 そこは難しいところですが、わたくしは今までに二つの小説を書いております。その小説の時はむしろそうしたアクションをそぎ落としておりました。今度は、それらとは違った形で、アクションをメインに入れようという気はありました。 ――心理描写や風景描写が最小限に抑えられています。 そうですね。それと、きっぷのいい女性のしゃべり方、戦前の日本のしゃべり方ということなのですが、これを少し目に見える形で定着したいなという気持ちはありました。ですから、伯爵夫人がいきなり二流芸者になったりする。それは彼女の口ぶりがそうさせているのであって、内的な必然がそうさせているのではない。 ――心地よいリズムを刻んでいますね。 アクションと言えば、蓬子のセリフの方が実はアクションなんです。 ――と言いますと? 例えば彼女が二朗に、メロンを口移しにしてさしあげますわ、と言い、それに対する反応が広がっていく。こうしたことがアクションだと思うんです。 ――主人公の二朗や伯爵夫人をはじめ、どの登場人物についても、どういう顔立ちをしている、といった描写がありません。 ええ。全体として、彼らの後ろ姿が見えてくればいいなと思っておりました。 ――「新潮」最新号に掲載された受賞インタビューでは、過去の2作の時には「文体へのこだわりがあった」と語っています。現在は「文体」についてどうお考えですか。 今回は、文体へのこだわりというよりも、テクストがテクストを動かしていく感じが強かった。文体というのは、自分の頭の中にあるものをどのように視覚化していくかということだと思います。そうではなくて、ひとつのテクストが次のテクストを引き寄せるようになってくれれば、と考えていました。文体という���のがある方が、作者の意図というものが見えてきます。今回は作者の意図というようなものはなくして、言葉が言葉を生み出していくという部分に賭けてみようという気持ちでした。 ――ところで、蓮實さんは、新聞に寄稿いただく際には、読者がどのくらいの映画的知識を持っているのかといったことを考慮して書いてくださっているように思います。誰に向けて書くのかということはどの程度考慮されているのでしょうか。 新聞の時は考慮しているかもしれません。しかし今度の小説に限っては、それはなかった。自分が好きなことだけを好きなように書こうと思っていました。もう他人さまのためには働かない、というか(笑)。読者は無視して好きなことをやる。それだけでした。ただし、その好きというのは、自分がもともと好きだと信じていたものとは違うんです。言葉がどんどんどんどん、わたくしをそちらへと突き動かしていったということです。 ――テクストがテクストを動かしていくということですね。 そうです。言葉がもしそっちに行きたいのなら、次にどんな文章が出来ても、それはわたくしの責任ではありません、というような感覚ですね。「陥没地帯」の時には、すべての言葉に関して、わたくしが責任を取るつもりでおりました。それが今回はもっと無責任に、言葉が言葉を生み出してくれるなら、それに従ってみようと考えていました。 ――これは会見でおっしゃっていましたが、直前に「『ボヴァリー夫人』論」を書き上げたことが大きい、ということなのですか。 「『ボヴァリー夫人』論」を仕上げて、さて今度はジョン・フォード論だなと思ったわけです。ところが、準備のためにジョン・フォードの映画を見始めたのですが、なぜかしっくりこない。何かを間に挟まないと、ジョン・フォード論が退屈なものになりそうだなという気がしたんです。その時、だいぶ前に矢野さんに言われていた「蓮實さん、自伝はどうですか」という言葉を思い出しました。「自伝? 自伝ならフィクションがいいな」と思ったんです。ですから、ここにはわたくしの自伝的要素がいくつか入っています。ただしそれは記者会見で尋ねられたような「わたくしと同じような映画好きの青年」とかそういうものではありません。二朗は青年としてあの戦前を体験しています。わたくしは当時、幼児でした。つまりわたくしが幼児として見ていた戦前を、青年だった人間はどう見ていたのかなという方向へと、フィクション的な飛躍があったということです。 ――若々しさという言葉が会見でも出ていましたが、80歳になられた蓮實さんが自我の肥大した童貞青年のことを書かれたのが面白かったですね。なぜ自我も魔羅も肥大させた青年が主人公だったのでしょうか。 わたくしは、このフィクションにはどこかに落差がなければいけないと思っておりました。ですから、自分の体験をそのまま書くことだけはすまいと。何らかの形で自分の体験がフィクション化されていることはあるけれど、自分がこう思ったというような視点を、この小説の中には導入すまいと考えたわけです。 ――回転扉の「ばふりばふり」という擬音については、多くの読者の脳裏に焼き付いたことと思います。この小説では、読者に音というものをどう伝えるかに関して、なにか設計図のようなものがあったのですか。 それは特にありません。かつて読んだものの記憶であるとか、わたくしの中にあったものがたまたま出てきてしまったということです。感極まった時に「ぷへー」と表現してしまうわけですが、男と女が同じ反応をするわけはないのですけれど、「ぷ」と「へ」が会えば面白いなという、言葉から発想していったんです。 ――���は蓮實さんのおっしゃったマンガを読んでいたわけではありませんが、「ばふりばふり」という回転扉の音の形容は、昔から慣れ親しんだ表現のように思えてならないのです。 そう思っていただければ、ありがたいですけれども、実はそうじゃなくて、全くの創作であるわけです。6歳か7歳の時に「ああ、おもしろいな」と感じた言いまわしが、今になってなぜか突然出てきた。いつかこの表現を使ってやろうだなんて、全く思っていませんでした。 ――突然やってきたわけですね。 そうです。言葉の方からやってきてしまったのです。 ――音の設計について質問したのは、この「ばふりばふり」という音と、伯爵夫人が声なき声でつぶやく「戦争、戦争」という音とが、繰り返しの音(音でない音)としてシンク���して聞こえてきたからなんです。この二つの記述はセットとして仕掛けられていたのではないですか。 それは、わたくしの仕掛けというよりは、わたくしを突き動かしていた言葉の力によるものだというふうに思いますね。 ――「戦争、戦争」という言葉は、書かねばならないと思われていたのですか。 伯爵夫人ではないのですが、赤毛のキャサリンという女性には、わたくしは実際に出会っております。その女性がどこかで戦争を関わっているはずだというのが、ほとんど直感に近いわたくしの妄想だったのです。 ――「戦争、戦争」というフレーズの奥には「世界の均衡が崩れかけている」というフレーズが控えているように思いました。新聞記者の立場から言えば、これは、現代の日本が直面している国際情勢や政治状況と結びついていると解釈したくなります。蓮實さんご自身にこうした思いはあったのでしょうか。 いや、それは全然ありませんでした。なにかその現代日本と関係があると考える人はいるかと思ったんですけれども、しかし、この小説の中では戦前の日本のことしか考えていません。今の日本というのは、わたくしの中には全くなかったです。でも、そのように解釈される方はいらっしゃると見えて、朝日新聞で片山杜秀さんが書かれた文芸時評もそうでしたね。 ――解釈は読者のものでしょうか。 はい。読者がそう思われた時に、わたくしにそれを禁ずる権利はない、ということです。ただし、そうじゃないつもりです、という気はありますけれど。 ――受賞インタビューの最後に、「伯爵夫人」の戦後から1960年代までを描く続編も考えていたと語っています。でも書かれることはないだろうと。しかし、そんな構想があったことを知ってしまったら、続きが読みたくて我慢がなりません。 続編はもはや「伯爵夫人」という題名ではくくりえません。だから、やはり書かれることはないと思います。実はね、蓬子の遺児というのがいるのです。蓬子もすでに亡くなっていて、蓬子の生んだ娘が1960年代末に25~26歳になっている。その娘が、伯爵夫人が高麗という男と一緒に米国で暮らしているということを突き止めるわけです。一方で大学紛争というものが起こっている。「おじちゃまの大学が大変なことになっているわね」というセリフがあったんです。しかし、この続編は絶対に書かれることはないと思います。 ――ますます読みたい気分を抑えられなくなりました(笑)。受賞インタビューでは、ポール・ヴァレリーのことも語っています。「散文のフィクションはこのように凡庸な言葉からなっている」という文章が、「伯爵夫人」を書く契機の一つだということですが、ヴァレリーへの反論として書かれたということでしょうか。 反論と言いますか、あの「侯爵夫人は5時に家を出た」という1行を収めるべき場所はちゃんとある��、と言いたかったのです。ただし、それはモリヤックの書いたような冒頭ではないはずであると。いつかどこか分からないところで登場する。わたくしの小説の中では、名前も覚えられていない女中がふと口にします。それでいいんじゃないかと思うのです。 ――これがヴァレリーに対する蓮實さんの答えなのですね。 まあ、一種の答えですね。 ――運動神経のない人に文章は書けない、という下りには大いにうなずかされました。 自分ではそれをはっきりとは言えないのですが、どこかで運動神経が言葉を引き寄せ、同時にその言葉によって、わたくしが別の方向に進んでいくことがあるような気がします。ところが三島の場合は言葉を引き寄せるのが言葉ではなくて、彼の意志なんです。ですから、言葉が言葉を引き寄せるということが三島にはついに起こらなかった。意志の力がどの程度、言葉を手なずけていくのかという方が強く表れている。もちろん誰もが意志を持ってはいるのですが、三島の場合、意志が言葉によって裏切られていくことがないのですね。 ――「伯爵夫人」の場合は意志を裏切っていったわけですね。 おやおや、こんなことが書かれていくけれど大丈夫かな、しかしまあ、それにちょっと付き合ってみようかなという感じでしたね。 ――文章の間合いやタイミングの良さは、運動神経に密接に関連しているなと感じます。 ただ、まあ、それについては自分でそう信じているだけであって、本当にそうであるかどうかは分かりませんけれども。 ――カツオ節屋の兄弟が最高でした。クライマックスで主人公のピンチに登場するタイミングなど、映画館だったら拍手喝采の場面です。 この小説では、実は結構、前に出てきたものを律義に拾っているのです。しかし、それを律義と思わせないにしたいと考えていました。あ!こんなところに出てきたのかと思ってもらえればいいなあという感じでした。 ――映画だったら誰が演じていただろうな、などと想像しておりました(笑)。 伊勢忠という魚屋が出てきますが、そこの御用聞きがいつも酔っ払っているというのは、実際にわたくしが子供の頃によく聞いていた話です。それがああいう形で出てくることになるとは、想像もしていませんでしたが。御用聞きという仕事はもはやほとんど存在しなくなってしまいました。経木に品書きを書いて各戸を回るという商行為が現実にあったということは皆さんに知っておいていただきたいという思いと、その一方で、それが現実だとしたら逆に現実らしく書くまいという思いがありました。そこで、酔っ払いと皇族が一緒になった話に発展していったわけですね。 ――現実を現実のまま書かないというのが小説の面白さですね。 まあ、わたくしはそうだと思うんですけれど。 ――ところで、今回の記者会見をはじめとする一連の出来事から、私には、文学賞って一体なんだろうと改めて考えるきっかけになりました。蓮實さんは文学賞とは何だとお考えですか。 これは、もう偶発事ですね。あらゆる文学賞は偶発事であって、なんらそれを正当化する理屈はありません。ですから、正当化しようがしまいが、もらえるものはもらってしまうし、もらいたくなければ断ってしまえばいい。それだけの話だと思います。正しい賞なんてありえないわけじゃないですか。ですからその偶発事が、なにかを決定づけることはありません。偶発事を偶発事として受け止めるしかないわけで、それが嫌だと言う人は断ればよい���けです。わたくしの場合は、編集者とのつながりにおいて断らなかったというだけです。断りたいのはやまやまでしたけれど。今までわたくしのことを多少なりとも信じてきてくださった編集者が、一番重要であって、その背後にあるナントカ文芸協会などというものとはいつでも喧嘩をすることが出来ると。ただし、その喧嘩がわたくしと編集者の間を劣悪なものにするならば、その劣悪なものだけは避けようということです。 ――文学賞の存在意義というものはあるのでしょうか。 いやあ、ないと思いますね。 ――ないですか。私は、本が売れるという一点において存在意義はあるかなと思いますが。 うん、でも今回の小説が売れるかどうかは分からないし、あらゆる文学賞受賞作が売れるわけでもないでしょう。このところノーベル文学賞を受けた作家の本がどれだけ売れたかを考えてみればわかりますよね。ほとんど売れていません。とすれば、ノーベル賞などもらっていない作家の作品にもっと面白いものがあるということに、気づいてもらいたいという思いはありますけれどね。ノーベル賞はあのパトリック・モディアノがもらった賞です。いくらなんでもモディアノは三流作家でしょう。彼がもらってしまったわけですから、もう誰がもらったっておかしくない。モディアノは恐らく最近の中で最も劣悪な受賞だと思います。ルクレジオくらいまではまだ良かった。ルクレジオにしても、例外的に優れた作家である、とは思いませんが、でも恥ずかしくはない。モディアノはもはや恥ずかしい。しかも、そのモディアノがノーベル賞作家だなんて、多くの人は知らないでしょう。だから、もし村上春樹さんがおもらいになるならば、わたくしはもう大賛成です。しかし、そこにはもはや権威なんてものはないよ、ということです。 ――そもそも賞というものがお好きじゃないのですね。 だいたい選考委員が数人いると、結局妥協の産物になりますからね。今年のカンヌと同じですよ(笑)。劣悪な受賞結果だと聞いています。でもね、黒沢清さんがカンヌで賞を受ければ、それはうれしいですよ。それとこれとは話が別です(笑)。 ――三島賞は、(大学時代の教え子の)青山真治さんが先に受賞されていますね。 そうですね。中原昌也さんも同時に受賞されていますし、やっと仲間に入れてもらいました。 ――蓮實さんと関係の深い方の受賞が多いですよね。 そうなんです。高橋源一郎さんがそもそも第1回の受賞者でしょ。 ――松浦寿輝さんも受賞されています。 彼は批評の方で受けていますね。批評での受賞が最近ないですね。 ――そうですね。注目すべき批評が少ないということでしょうか。 いい批評がないのだと思います。 ――本日は貴重なお話をありがとうございました。(聞き手・石飛徳樹)
「会見前から怒り狂った」 蓮實重彦さん一問一答
聞き手・石飛徳樹
2016年6月20日19時42分
0 notes
Quote
ソニーはいかにして凋落したのか?日本企業の「タコツボ化」の考察[橘玲の日々刻々] ダイヤモンド・ザイ 4月27日(水)11時20分配信 ベトナムを訪れるようになったのは2000年代のはじめだが、当時でも外国人旅行者が泊まる高級ホテルには液晶テレビが据えつけられていた。メーカーはLGかサムスンで、日本製のテレビはホーチミンでもハノイでもいちども見たことがなかった。 携帯電話はベトナムではまだ貴重品で、知り合いの日本人は、ホーチミン市内を携帯片手に歩いていたらいきなりひったくられたといっていた(いまでは考えられない)。だが空港や街なかではサムスンの大きな広告があちこちで展開されており、その一方で日本の携帯メーカーの広告はどこにもなかった。 帰国後、たまたま大手家電メーカーのひとと会う機会があったので、この話をした。 液晶テレビの話を聞いたメーカーの幹部は、「LGとサムスンですか」と興味なさそうにいった。携帯の話をした別のメーカーの課長は、「ベトナムですか」と見下したように笑った。 その後、「ベトナムですか」のメーカーは解体されて、事業の一部は中国の家電大手に売却された。「LGとサムスンですか」の会社は、つい最近台湾の電子機器メーカーに買収されることになった。 私がこの話を思い出したのは、ジリアン・テットの『サイロ・エフェクト』(文藝春秋)を読んだからだ。 先進国にも多々ある「奇妙な風習」 ジリアン・テットは英フィナンシャル・タイムズ(FT)の東京支局長時代に90年代後半の金融危機に遭遇し、長期信用銀行の破綻から投資ファンド「リップルウッド」による買収に至る内幕を、ティモシー・コリンズCEOや八城政基・新生銀行社長(いずれも肩書は当時)などへの取材をもとに『セイビング・ザ・サン』で描いた。その後FTアメリカ版の編集に��わると、こんどはサブプライムバブルの崩壊とリーマンショックに遭遇し、そのときの精力的な取材は『愚者の黄金』(日本経済新聞出版)にまとめられた。『サイロ・エフェクト』は彼女の最新刊だ。 サイロは日本ではあまりなじみがないが、家畜の飼料などを保管しておく円塔のことだ。副題の「高度専門化社会の罠」が示すように、テットはここで、官僚化した組織の各部門がサイロのように分断され、それがさまざまなトラブルを招き寄せるのだと述べる。サイロ・エフェクトは、日本語では「タコツボ効果」のことだ。 このタコツボを観察するにあたって、テットは文化人類学の手法が役に立つという。テット自身が学生時代はケンブリッジ大学で文化人類学を学び、博士論文を書くために旧ソ連時代のタジキスタンの小さな村で2年間暮らした経験があるからだ。 金融ジャーナリストになってからはこの風変わりな経歴を隠してきたが、2008年の世界金融危機を取材しているときに、ウォール街の金融マンや政府の役人たちの行動は経済合理性では理解できず、伝統的社会(未開社会)を文化人類学者がフィールドワークするように観察・研究すべだと気づいたのだという。 かつての文化人類学はアフリカやアメリカ大陸、南太平洋など「自分たちとはちがう」社会の習俗を研究する学問だったが、フランスの社会学者・人類学者ピエール・ブルデューの登場以来、先進国の社会も同じ手法で分析できるようになった。それをテット自身の体験や取材にあてはめようというのだが、その際のキーワードが「ハビトゥス」だ。 この概念をブルデューは、アルジェリアの山奥でカビル族と呼ばれるベルベル人の一種族とともに暮らしたときに発見した。 カビル族の住居は長方形で、低い壁によってふたつのスペースに分けられている。一方の部屋は壁が少し高く、面積も広く明るい。男たちはここで眠り、客人をもてなし食事をふるまう。もう一方のスペースは狭く暗く低い。女と子どもたちが眠るのも、家畜を飼うのもここだ。日々の暮らしに使うもの、濡れたもの、緑色のもの、湿り気のあるものはすべてこちら側に蓄えられている。 ブルデューが「なぜ家をこのように配置するのか」と訊くと、カビル族は怪訝な顔をするもののこたえることができない。彼らには、これ以外の家の配置はあり得ないのだ。しかしアウトサーダーであるブルデューは、世界にはそれ以外にも多くの部屋の配置の仕方があることを知っている。 テットは同様に、私たちが暮らす現代社会にも「ハビトゥス」があふれているという。それは要するに、アウトサイダーから「なぜこのようなことをするのか」と訊かれて、こたえられない暗���のルールのことだ。――自分の所属する組織を考えれば、片手では足りないくらい即座に思いつくだろう。 テットは世界金融機関のときに、超エリートが集まるウォール街の投資銀行も不合理な「ハビトゥス」に支配されていることを発見した(映画『マネーショート』がウォール街の「奇妙な風習」を描いて俊逸だ)。 「ハビトゥス」が生まれる背景 「ハビトゥス」はなぜ生まれるのか。テットはブルデューの人類学の特徴を次の5つにまとめている。 (1) 人間社会はある種の思考パターンや分類システムを生み出す。社会の住人はそれを吸収し、場所、モノ、アイデアを整理する。ひとびとが暮らす物理的・社会的環境が「ハビトゥス」で、そのパターンはわたしたちの頭のなかのメンタルマップや分類システムを反映すると同時に、それを強化する。 (2) こうしたハビトゥスのパターンはエリート層の地位の再生産を助長する。エリート層にとっては現状維持が利益となるため、既存の文化的地図や規範、分類法を強化しようとする。エリート層が権力の座を占めつづけるのは「経済的資本(カネ)」を握っているからだけではなく、「文化的資本(権力とかかわりの深いシグナル)」をも掌握しているからだ。 (3) ハビトゥスはエリート層が意図的につくりだすものではなく、半意識的な本能から生まれ、「意識的思考と無意識的思考の境界上で」機能し、社会的パターンを反映するだけでなく、それを深く浸透させ、自然で必然的なものに思わせる。 (4) 社会のメンタルマップでほんとうに重要なのは、公にかつ明白に語られていることだけでなく、「語られていないこと」である。社会的沈黙は何かを隠蔽しようとする意識的企てによって生じるのではなく、退屈、タブー、自明、あるいは非礼であるため無視するのが当然と見なされるのだ。「イデオロギーによる影響の最も強力なかたちは、一切言葉を必要としない、共謀的沈黙によるものだ」とブルデューはいう。 (5) とはいえ、ひとは必ずしも自らが受け継いだメンタルマップにとらわれる必要はない。ひとは盲目的に特定の行動をとるようにプログラムされたロボットではなく、自らが用いるパターンについて、いくらかは選ぶことができる。「社会的地図は強力だが、絶対的ではない。われわれは地理的および社会的影響の産物であるが、盲目的な産物とは限らない。ときには世界を体系化する別の方法を思いつくこともある」のだ。 こうした「ハビトゥス」の定義はどれも興味深いが、それが実際にどのように機能しているのかがわからないと意味がない。そこでテットは、「ハビトゥスによる支配」のひとつの典型としてソニーを取り上げる。 「ソニーのたこつぼ」 『サイロ・エフェクト』第1部でテットは、世界金融危機での大手銀行や中央銀行の行動を「ハビトゥス」として説明するのだが、この本が日本で話題になったのはなんといっても「ソニーのたこつぼ」と題された章だろう。ここでは出井伸行社長時代のソニーが、インターネットバブルでの絶頂から急速に失速していく過程が「タコツボ化」の視点で描かれる。 テットによ��ば、出井はスイスの食品大手ネスレの社外取締役としての経験から組織をサイロに分割することが正しい経営だと信じた。90年代の最先端の経営学や組織論では、巨大企業は単一の事業体ではなく、独立採算制の個別事業の集合体として経営すべきだとされていたからだ。 「独立した事業ユニットは透明性や効率性を高め、責任の明確化が図れる」との発想から、ネスレは90年代に組織改変を実施し、各部門(チューインガム、チョコレートなど)を独立採算の個別事業として運営するようにした。各部門の経営陣は利益額、利益率、売上高目標の達成のほか、投資活動の責任を負い、部門別の貸借対照表によってその成否ははっきり示されることになった。これはトレーダーやブローカーへの成果報酬を徹底するウォール街やシティの大手金融機関の方法を製造業に持ち込むものでもあった。 1994年、ソニーはカンパニー制を導入し、19の事業本部を独立した8つのカンパニーに再編するとともに、ゲーム、音楽、映画、保険事業を子会社化した。 当初の改革はうまくいったように見えた。93年から97年にかけてソニーの負債は25%減少し、利益は153億円から2020億円へと13倍に拡大した。株価も1994年の2500円から5000円以上に高騰した。 98年には8つのカンパニーが10に再編され、99年にはさらに3つの主カンパニーの傘下に25のサブカンパニーが再編され、2001年と03年にも事業の再編が行なわれた。 こうした「改革」は当時、事業の効率化を進めるものとして投資家から歓迎されたが、内部は深刻な病に蝕まれていた。その象徴的な出来事としてテットは、1999年11月に出井が世界最大のコンピュータ見本市「コムデックス」で行なったプレゼンテーションをあげる。 このとき出井は満員の観客に向けて、「われわれは今も、そして将来もブロードバンド・エンターテインメント・カンパニーです」と宣言し、コンシューマー・エレクトロニクス部門が開発したまったく新しいデジタル音楽プレイヤー「メモリースティック・ウォークマン」を紹介した。会場にいた誰もが、ソニーが満を持して送り出す「インターネット時代に適したデジタル版ウォークマン」の成功を疑わなかった。 ところがここで奇妙なことが起こる。出井は熱狂する観客に向けて2つめの新製品を披露したのだ。それはVAIOコンピューティング・グループが開発したボールペンほどの大きさのデジタル・オーディオ・プレイヤー「VAIOミュージック・クリップ」で、音楽端末としての機能は「メモリースティック・ウォークマン」とほとんど変わらなかった。 さらにソニーは、3つめのデジタル音楽プレイヤー「ネットワーク・ウォークマン」を発表することになる。じつはソニーでは、タコツボ(サイロ)と化したカンパニーが、アイデアを交換することも、共通の戦略を見出すこともなく、互換性のないデジタル音楽プレイヤーを開発していたのだ。 さらに問題なのは、膨大な音楽コンテンツを保有するソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)が、デジタル音楽の台頭を恐れるあまり他の事業部門との協力を拒絶していたことだ。こうしてソニーは、デジタル音楽コンテンツの分野においてスティーブ・ジョブス率いるアップルに決定的な敗北を喫することになる。 ソニーの株価は2000年に1万6300円の最高値をつけたものの、2001年にインターネットバブルがはじけると5000円近くまで落ち込んだ。その間、アップルの株価は5倍になり、さらに屈辱的なことにサムスンの株価は50%上昇した。04年、出井が退任を決めると新たなCEOに選ばれたのは、社内の誰もが予想しなかったハワード・ストリンガーだった。 35個のソニー製品に35個の充電器 ストリンガーはイギリス、ウェールズで空軍パイロットの息子として生まれ、アメリカに渡ってCBSラジオで脚本家としてキャリアをスタートするが、アメリカ国籍を取得したため徴兵されてベトナムで兵役につき、ふたたびCBSに戻ったあとはテレビプロデューサー兼ジャーナリストとして働いた。下っ端から20年かけてCBSグループのトップの座についたストリンガーは、1997年からソニー・アメリカのメディア事業を率いていた。 ソニーの取締役会がストリンガーに白羽の矢を立てたのは、旧態依然とした日本型組織の典型だった日産をよみがえらせたカルロス・ゴーンを見て、「日本人には日本の組織は改革できない」と考えたからだ。日本語を話せず、在職期間も短く、製造業のことはなにひとつ知らないストリンガーを選んだのは、日本人の誰がトップになっても他のカンパニーが納得しなかったからでもある。 テットの本の最大の特徴は、これまで沈黙を守ってきたストリンガーにソニー時代の経験を語らせたことだろう。 社長に就任すると、ストリンガーは「サイロ(タコツボ)」を壊すために、18万人の社員のほぼ1割を減らすと同時に、ビジネスモデルの20%削減を発表した。目指すのは、「2つか3つの製品だけで強靭な財務力を持つアップルのような会社」だというから、10年もたたないうちに、出井が理想とした「独立採算制の個別事業の集合体」からまったく逆の組織につくり変えようとしたのだ。 この改革も、当初はうまくいっているように見えた。だが2007年には早くも赤字に転落し、翌年の世界金融危機と11年の東日本大震災で大きな打撃を受け、巨額の損失を計上することになる。だがこれは、たんなる不運ではなかった。 ストリンガーは次のように述懐する。 「私が何か言えば、みな『わかりました』と答えるが、実際には何も起きない。クリントン元大統領のジョークみたいなものだ。リーダーとして1000人以上の上に立ってはいるが、みな死んだように静かで、誰も口ごたえしない」 指示を出しても、あとになってそれがまったく無視されていたことが発覚すると���う状況が幾度もくり返された。ストリンガーの挫折の象徴がプレイステーション部門の統合で、本社に移ってほしいという要望が完全に無視されたあと、取締役会の決議によって強引に東京品川の本社に移転させたものの、そのとたんに「機密を守るのに必要」との理由で周囲がガラスの壁で囲われたという。このようにして、「うちには35個のソニー製品があるが、充電器も35個ある。それがすべてを物語っている」と幹部が自嘲する状況に陥った。 ストリンガーはCEOに就任してまもなく、読書用の電子端末が起爆剤になると考えた。だがストリンガーが電子端末の開発を促すほど、各部門のマネージャーは他分門や出版社との協力に後ろ向きになった。 「アマゾンが独自の電子書籍端末を発売する2年以上前に、私も同じアイデアを持っていた。社員にやってくれと指示したが、遅れに遅れてなにも起こらなかった。それをアマゾンにやられてしまったんだ」とストリンガーは悔しがる。 ストリンガーの時代、ソニーの株式時価総額は123位から477位に転落し、それに対して「ライバル」のサムスンは62位から12位に上昇して背中すら見えなくなった。ストリンガーはことあるごとに「サイロを崩せ! 」と叫んでいたが、いまでは「あれはうまくいかなかったな」と冗談交じりに回顧している。 「タコツボ化」した日本企業は他にもある ソニーの設立趣意書で井深大は「自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」を目指すと述べたが、成功と巨大化がもたらしたのは専門性の高いサイロ(タコツボ)の増殖で、各カンパニーは他の部門と斬新なアイデアを共有しなくなり、優秀な社員の他部門への異動を避け、実験的なブレーンストーミングや、すぐに利益を生まない長期投資を手控え、誰もがリスクを取ることに後ろ向きになったとテットは評する。 もちろん「タコツボ化」するのは日本企業だけではない。「僕らは非ソニー、非マイクロソフト的でありたい。彼らを見て、自分たちはこうはなりたくないというのを確認するんだ」というフェイスブック幹部の言葉をテットは引いているが、創業者がトップにいる会社と歴史のある企業の比較はあまり意味がないだろう。日本でもソフトバンクやユニクロ(ファーストリテイリング)のような創業経営者の会社はタコツボ化せずに事業を拡大させているし、創業期のソニーはいまのグーグルやフェイスブックよりも活気にあふれていたかもしれない。 しかしそれでも、日本のイノベイティヴなものづくり企業の代表であるソニーの「タコツボ」を見せつけられると、かつての輝きを取り戻すことができるのか一抹の不安を感じるのもたしかだ。「ベトナムですか」や「LGとサムスンですか」のメーカーも同じタコツボのハビトゥスによってあっというまに沈んでいったのだ。 ソニーのニューヨーク拠点の幹部(明示されていないがおそらくは外国人)はこう語っている。 「ソニーの文化は徹底した階層主義で、誰もが分をわきまえ、言われたことに従うように教育される。こうした文化で���社員は特定の役割を任され、その役になりきる。そうして本当に薄っぺらになるんだ」 ソニーがこれでは、他の日本企業は推して知るべしだと思うのは杞憂だろうか。大手電機メーカーの会計不祥事につづいて、大手自動車メーカーが燃費を実際よりよく見せる不正を行なっていたことが発覚した。 橘 玲(たちばな あきら)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160427-00090079-dzai-bus_all&p=1
0 notes
Quote
マツコ・デラックスがまだ女装を始める前、髪の毛も短髪だったときのこと。 ソッチ系の人が集まるサウナに行って、その中でウトウトとしたそうだ。 ハッと目が覚めると、何だか右腕の感覚が無い。 まるで「片腕が無くなってしまったかのうような感覚」だったそうだ。 次第に頭がハッキリとしてくると、自分の右腕の先に、なんと見知らぬ男性のオシリ。 どうやら、マツコの腕が、その彼のオシリに突き刺さっていたようだ。 『急に声を掛けて糾弾すると、粘膜を傷つけてしまう可能性もある』と考えたマツコは、「ちょっと…」と声を掛けたそうだ。 その声で我に返った彼は、ゆっくりとマツコの腕を引き抜いたそうだ。 そしてそれから、二人は膝をつき合わせて話し合った。 「私を選んでくれたのは嬉しいけれど、勝手に私の腕をオシリに突っ込んで良いわけではない」と、何とも当たり前のことを説教したそうだ。
マツコDXってガチホモなの?ファッションホモなの?
0 notes
Quote
さすが秋元康。「これが俺たちの歌だ!」という感じだ。TVドラマはどんなによく出来ててもお伽噺。物事にはもう1つの面がある。このプロデューサーのいう「マイノリティが自己利益を叶えた」真の姿が乙武エロだるま 世間が大バッシングするまで乙武が「俺が出馬すれば参議院など楽勝」と信じこんでたのはまさか自分が反省すべきことしてるだなんて夢にも思ってなかったから。むしろ乙武とその周辺はカルト特有の多幸感に包まれてた その理屈(騙しのテク)は正にこのプロデューサーが訴えた正論そのもの。乙武に群がった女たちは「乙武さまのチンポをくわえると多様性社会が実現する!(美女のアタシほど醜いカタワに性奉仕せねばならない」と信じてた あれは特に羞恥心がない訳ではなく乙武も周りにいた連中も「なんて私たちは正しいことをしてるんでしょう!」と幸せいっぱい夢いっぱいだったからあんな素っ裸な事後2ショット写メを堂々と公開してたのである 人間というものは己の醜さにはなかなか思い至らない。逆にいうと乙武が街中でチンポをもろ���しただけで女たちが我先にと舌技を競い始めるくらいこの世間で女性は不自由な生き方を強いられてるともいえる だがマイノリティが欲望を実現できる社会が訪れたとしてもこの世の専制が終わる訳ではない(別の専制に変わるだけ)だし「キミみたいな美女こそカタワに尽くすべき」と口説かれた女がそれほどでもないのも皆が知ってる だからこそ乙武自身がいみじくも「世間の期待する乙武(自己)像を演じてしまった部分もある」と言ってのけてるのであってそれは「いい子ちゃんに猫かぶってた」でなく逆「俺の精子を飲むと社会は多様化する!」のほう 乙武の何たるかを知ってしまった我々日本人が飲みほさねばならないのはこんな出羽の守のウソ800ではなく秋元康が告げる苦い真実のほうである。ディアナアグロンの幸せも乙武のチンポをくわえた性奴隷の幸せも同じ 秋元康「アインシュタインよりディアナアグロン」はラスフォントリア「ダンサーインザダーク」に匹敵する傑作。我々の「ボーンインザUSA」。歌われたディアナアグロンが果たして本当に頭がパーだったかは問題ではない 逆説的ながらこの歌が最も輝くのはHKTでなく(頭もよく美人な)ディアナアグロン本人が仮にドラマ『glee』本編中で「私はディアナアグロン。頭が空っぽな女」と唄いあげてたとしたら訪れるであろう崇高と悲劇の瞬間だから この歌はディアナアグロンにあてがきされる形で作られたものをHKTが唄ってみせる(そして「他人の歌を唄ってみる」という形でドラマ『glee』を再現してる)という紋中紋構造を有してる。こういうことが解らない奴はバカ
http://b.hatena.ne.jp/Midas/20160416
0 notes
Photo





Better late than never! The finale of Lucky Martian Month is here!
This week’s entry: “Watery History of Mars”
https://www.theguardian.com/science/2015/mar/05/nasa-finds-evidence-of-a-vast-ancient-ocean-on-mars
3K notes
·
View notes
Quote
ロシア人のディナーラさん(28)は辞書を手にして「イジョウ」と言った。 彼女がそう訴えるのにはわけがある。 ロシアから日本の茨城県に着いたその日に招待された家は、建設費7000万円、土地代2000万円という豪邸。だが、台所だけが異様に汚く、テーブルの上には食事をするスペースもない。排水口には水垢がこびりついていて、開封された調味料が所狭しと並べられている。冷凍庫から出されたアイスクリームはカチンコチンで霜が張っている状態だ。一向に溶ける気配のない「スーパーカップ」が、この異常な状況に拍車をかける。耐え切れなくなった彼女が隣室に行き、カメラに訴えた唯一の日本語が「イジョウ」だったのだ。 だがこの家の主、小野恒人さんにも、この行動に理由があった。もし嫁に来るつもりなら、外国人であろうとも台所はキレイにしてくれるはずだ、と。だが日本語の話せないディナーラさんと、あいさつ程度の英語しか話せない小野さんに意思の疎通は難しい。小野さんは、購入時の袋に入れたままの布団セットをディナーラさんに渡し「この敷き布団にカバーをのせて」と指示を出すが、彼女は呆然と立ち尽くすだけ。小野さんの「なんだってわかんない人だなぁ」と発した声にいらつきを感じたのだろう、日本語を理解しないロシア人は布団の区別も分からないまま広げるが、小野さんは「This それを敷��!広げる!」と知ってる限りの英語と命令口調の日本語で布団の敷き方を教える。 4月20日に放送された『ザ・ノンフィクション ロシア娘へ愛を込めて~国際結婚に走る男たち~』(フジテレビ)は、久々に「撮れてしまった」感のあるドキュメンタリー番組だった。僕は幸いにも日曜の夜に録画で見ることができたが、これをオンタイムで見ていたら大きな脱力感に襲われたことだろう。
『ザ・ノンフィクション』にネット騒然!結婚斡旋所からきたロシア娘に対する資産家の歪んだ結婚観
0 notes
Quote
マザーは長くイエズス会の司祭に指導を受けてきたのだが、イエズス会の大きな黙想方法として「霊燥」というものがある。30日間の黙想の祈りだが、その30日間は、実はわたしたちの人生という長いスパンを凝縮したものだ。 そのなかで、必ず「慰め」と「すさみ」の体験をすると言われている。マザーが晩年抱えていた心の闇がこの「すさみ」にあてはまるかどうかは、マザーと指導司祭しかわからない。だが、こういった会を立ち上げるほどのカリスマを持った人は、周りに理解されない。それどころか、神に慰めを求めてもまるで剣のように鋭いものとなって返ってくることすらある。アシジの聖フランシスコにいたっては、自分が作った会が自分の霊性からどんどん離れていくのを見ていて、総長職を退き、ついには自分の会から追い出された聖人だ。心の闇の一つや二つ抱えていない方がおかしい。
http://ameblo.jp/marco-s/entry-11495553063.html ( 「マザー・テレサ」について書いているのを読んで呆れた話 )
0 notes