Don't wanna be here? Send us removal request.
Text
言葉の受け売り
生配信をしていた時、ふと「ゆるく考える」で読んだ新幹線の件が浮かんだ。その内容は前にも考えたことのあるものだった。21歳の時俺は「苦しい時も好きだ。世界がゆっくり見えるから、これまで見えなかったものが見える」と言っていた。これはつまり上の内容と同じだった。しかし配信でその話を切り出した時、そのことが思い出せず、結局本の本文をそのまま引用した。とてつもなく情けなく感じ配信を閉じた。自分が「言葉の受け売りしかしない雑魚」に思えてしまったからだ。しかし改めて考えると、これはあくまで本をきっかけに過去の考察が蘇ったに過ぎなかったのだが、その時は悔しくて仕方がなく、改めて「言葉の受け売り」について考えた。
言葉の受け売りには実体験が伴わない。そのため経験によって生まれた言葉といくつかの点で異なる。1つ目は臨場感がない。2つめは詳細情報がない。3つ目は感情が伴わない。
この異なりは読んだ内容を自分の経験に置き換えることで埋め合わせられる。その際、より詳細に記憶を呼び起こす必要がある。
今回このような悲しい経験をしたのを記憶の呼び起こしを怠った点にある。読みながら「なんとなく」記憶から引き出し、「あーこんなことあったなー」程度で済ましてしまっていた。
一つ一つの現象がスローに見え、それを事細かに分析し、あらゆる抽象的概念を獲得したことにメタ的に気が付き苦しみの中にいることの数少ないメリットを実感していた事を今更になって思い出す。
1 note
·
View note
Text
集中力が持たないなら集中するべきものを大きくすればいいよ
集中力には段階的集中力と局所的集中力がある。段階的集中力は勉強をする時などのように徐々に集中力が高まっていくものである。逆に局所的集中力は事故に遭いそうになった時に全てがスローに見えるような形の集中力である。
局所的集中力というのは自分を取り巻く環境次第によって発生したり発生しなかったりするのでどちらかというと非選択的である。一方で段階的集中力は選択可能なものである。
心理学では集中力のことを選択的意識と表される。すなわち自分が意識を向けたいと思ったものに意識を向けられるかということだ。
この集中力には2つの見方があると俺は考える。それは一つ目に意識を操作する力、二つ目に対象への意識の強さである。
一般的に集中力と呼ばれるのは2つ目の方だろう。スポーツをしている時に周りのことが気にならなくなるような時の集中力だ。
そして、その方法についても言及される事があまりない
例えば一つ目の集中力に関してはこれまでに様々な方法��提示されており、その一つにマインドフルネスなどがある。
これは身体内の感覚(呼吸や心臓の音など)に意識を集中させ、徐々に外部(足の感覚⇨目の前のものや流れる音楽へ、みたいな感じ)へと意識を移行させていく。
そうする事で意識の操作能力を高めていくのである。
2つ目の集中力はどのように高めるのだろうか。少し考えてみた。
FPSゲームが上手い人は視覚的集中のスタビリティーが高いとされている。
つまり敵が目の前に現れた時、当然その敵を見るわけだが、上手い人は下手な人よりも敵を見ている最中視線がズレづらい。
集中力の強さというのはそれに似ているように思える。
人は何かに集中している時に必ず他の情報が入ってきて意識はブレてしまう。2つ目の集中力が高い人はやはりそのブレが小さいのだ。
この状態に持っていくにはどうしたらいいか、今適当に考えてみて頭に浮かんだ一つの方法は「枠組みを作りその内であれば自由に意識を移行できるようにする」だ。
例えば紙の上に書いた点を見つめるとしよう。
その点が小さければ小さいほどそこに意識を集中させるのは難しく且つ維持するのも難しい(点以外のものの方が刺激が強いため)。
逆にその点が大きければ大きいほど集中しやすく外部の情報への意識の分散も小さくなる。
これは意識を集中させるには刺激の強さが非常に重要であるということが原因にある。
例えば沢山の音の中から際立って大きな音に集中することは非常に簡単である。
だが、逆に沢山の大きな音の中から際立って小さな音に集中することはとても難しい。
これを「その極めて小さな音と、それに関連する音を一まとめにしてそこに集中することでカバーしよう!」というのが僕の即席の案だ。
例えばFPSゲームでヘッドショットを狙いたくて頭だけに視線を集中させると、視線の分散が激しくなり頭の横にズレる形で弾が飛んでしまい、結果として敵を倒すのに時間がかかったりする。
頭だけに集中するのではなく胴体、手、足など、敵の身体全体に視線を配る事で弾が飛び散る場所を敵の身体に収めることができ、頭を狙うよりむしろ早く敵を倒せる。
人間の視線は必ずブレる。それを避けることはできない。しかしそのブレる場所を敵の身体に収まるように工夫することで結果的に頭という小さな対象を狙うよりも遥かに早く敵を倒せるのだ。
これは物事に集中する時も同じだ。英単語帳で記憶するのに集中したいけど集中しきれなくて捗らないというのなら、英単語だけでなくそれに関連する英文が書かれている単語帳を使うことにより、集中すべき対象の範囲を広げ、周りの人の声や出来事によって意識が分散しづらいくなるように工夫する。そうすると単語帳にだけ集中していた時は周りに気を取られて全然記憶できなかったものが、意識が分散したとしても英単語に関連する情報に気が散っただけで済むので結果的に前者よりも捗る。
———————————————————
もし物事に集中するのが困難だと感じたら、それに関連する物事によってターゲットを拡大することをお勧めします。
それはターゲットが大きければ大きいほど集中しやすいからです
We concentration difficult against things of smaller, if we feel that, i recommend to expanding target by associative things.
Because, larger target is, easier that we can concentration it.
集中力とは何か
a-意識を一極集中させ他の一切の情報を遮断できている状態。
その状態は如何なる時に発生するか
a-1,危険を感じた時、2,ある事柄について深く考える時、3,興奮状態の時、
それはどのような原理か。
a-これも今頭に浮かんだ推測だが、1は視覚野や聴覚野などような感覚器に要する脳部位が活発に働く。2は主に前頭前野や海馬等のような記憶や言語そしてそれを統合する部位が活発化する。3は大脳辺縁系にある帯状回と側坐核が活発化し扁桃体の働きが抑制される��このことにより過度な興奮上状態と強い快感、不快感への鈍感さが生まれる。他の集中とは多少違い、物事に集中するというよりは自分の快感等に集中するとも言える。若干趣旨と違うので今後は言及しない。
どのような過程を経て集中に至るか。
a-ギターの弦で例える。1はギターの弦を強く弾いた時に起きる。2はギターの弦を長く弾いた時に起きる。
それはつまりどういったことを表すか
a-集中力には段階的に強くなる集中力と、局所的に一気に集中力が高まる両方がある。つまりある事柄について考えている時は段階的に強化される集中力、ある危険を感じた時は局所的な集中力である。
更に何を表すか
a-上に述べたように局所的集中力は感覚器とそれに関する機関が活発化し、段階的集中力は前頭前野などのような概念を扱う部位が活発する。スポーツでゾーンという言葉があるがこれは上の両方が掛け合わされた時に発生するのではないかと考える。考えてみると危険な状態で概念的に考えるというのは正に極限的だ。スポーツではそういった状態に至りうる状況が多くある。
方法
a-局所的集中が非選択的であるとすれば、段階的集中力は選択的である。選択的な集中力は心理学で選択的意識と言われる。これに代表されるものにカクテルパーティー効果がある。マインドフルネスでは身体内の感覚に集中することから始め、最終的に外部情報へと意識を移行していき、段階的に意識を集中させる事物を選択できるようにしていくことで選択可能性を高めていく方法を取っている。集中というのは意識のスタビリティーである。意識を何かに集中させているつもりでも実際には意識はあらゆる点に移っている。例えば何か一点を見つめようとしても精密に解析すると微妙に凝視する対象から視線はずれ続けている。高い集中力というのはその微笑のズレを極限まで小さくすることである。
————————————————————————————————————
1 note
·
View note
Text
自己心酔とエモい
—————————まとめ---------------------------
エモい人と自己心酔者の決定的違いはネガティブな感情に争うか、どの感情にも争わないかの違いだろう。
エモい人はネガティブな感情を避けるために巧みさと強さを学び「幸せな人生」という作品を作る老師で、自己心酔者は人生の酸いも甘いも十分に実感した充実者。
—————————————————————————
もはや本文ですらない
—————————————————————————
エモいという言葉が使われるようになって大分経つけど俺はいまだにほとんど使った事がない。
おれはどちらかというと自己心酔しやすいタイプなのでエモいという感情になる事があまりない。
自己心酔というのは感情に溺れ世界観が感情によって完全に染色されてしまうが故に強いバイアスの掛かった世界を見てしまう人々で、故に人間関係に問題が生まれたり独善的になったりする。独自性が強いため、同じ経験をした人であっても自分と他者との間にハッキリとした境界を設けてしまい、共感をし合う機会が極端に少なくなる。
一方でエモいという感情は淡い感情に軽く溺れつつも俯瞰しているために、その感情を一般化(みんな同じような経験をしているという具合の理解に)できる。そのため他者に共感されやすく、寧ろ人間関係が促進される。
だが、自己心酔者はエモい人と違って強い結合を望める。エモい人が強い結合を生むためには継続的に共感し合う必要があるが、自己心酔者同士は決定的な一つの共感要素だけで強い結合が生まれる。
しかし、自己心酔者は感情の安定性に欠ける。一つ一つの感情の変動に完全に流されるためにその感情を更に助長してしまう。
エモい人は継続的に多種多様な人々と共感関係を結べるために自己肯定感などのような自分についてのポジティブな理解を維持しやすい。
その他諸々あるけど書くのだるいから中断。
バイトが再開してまた集中力がゴミになった。今日も4時間半しかやれてない。
バイトがあると勉強するとバイト中眠くなるんじゃないかっていう不安になるのよね。
次はResistanceについて書きたい。
人は感情の変動に対してどのように抵抗し安定を図っているのか。
———————————————————————————————
自己心酔とは
a-感情に溺れる事
そうなるとどうなる
a-世界観は感情によって染色され、他者に主観的すぎるという印象を与える
それは悪いことか
a-バイアスの掛かり具合は過剰になる故に誤認知が増える反面、それによって実感は増える。
それは良いことか
a-誤認知等によって人間関係に問題が生まれうるが自分の感情のままに生きられている実感が強いので当事者はあまり気にならない。他者からしたら悪いが当事者からしたら良い。独善的になりやすいし仮に感情がネガティヴだった場合当事者もそれに完全に支配されてしまう。
エモいとは
a-淡い感情に溺れながら、それを俯瞰している状態
自己心酔との決定的違い
a-自己心酔は他者との間に境界ができてしまい世界観の違いから人間関係��問題に発展するが、エモい状態では感情に心酔しきらないので境界が生まれない上に感情表現が安易であるために共感を得やすく他者も安易に関与できるため寧ろ人間関係が向上する。
エモいと関与しやすいのか
a-単純に大多数の人間が心酔しないが故にシンパシーを感じる人間が多いというだけであって、心酔している人間からしたら関与し辛い。
じゃあ心酔している者同士であれば関与しあってるのか
a-独善的であったり独自的すぎるためそれほど関与しあっていないが、部分的にシンパシーを感じ合うと強い心の結合が生まれる
エモさには強い結合が生まれ辛いのか
a-エモさは一つ一つの感情への固着が強くないので、強い結合が生まれるには連続的なシンパシーが必要になる。自己心酔者が怒りの感情一つで結合できるのに対して、エモさは怒りの感情だけでなく喜びや悲しみ等を連続的に共感しなければならない。
それは悪いことなのか
a-強い結合が必ずしも良いとは言えないのと同様に強い結合が生まれない事が必ずしも悪いとは言えない。緩い共感が断絶される事なく永続的に維持されることは心の安定にとって非常に重要だ。
心の安定の人生の激しさどちらが良い
a-心の安定の方が一見幸せそうに見えるが、人生の激しさは強い実感を生むのでどちらとも言えない。淡いポジティブな感情だけに満たされていると不幸に対する抵抗力が低くなるので、激しい感情の揺れ動きに対する強い抵抗力を持つ人間の方が人生という荒波でき生きる上では強いかもしれない。
じゃあ前者はよくないのか
a-正確に例えるなら前者は巧みさを極める老師、後者は激しい感情に抗える強さを鍛錬してきたResistance。
後者の説明は自己心酔者に当てはまるか
a-当てはまらない。彼らは感情に抵抗しない。感情をそのままにするか、むしろ強調する。負の感情はさらに負の感情へ突き進む。心酔者は良い意味でも悪い意味でも調子者だ。
Resistance及び老師と自己心酔者の決定的な違いは
a-あらゆる感情変動を平均に近づける者と、あらゆる感情変動の一つ一つをさらに強調させ感情の振れ幅を大きくする。
1 note
·
View note
Text
コーチングで利用される動機付け面接法
以前、認知行動療法の面接にはモチベーションを生み出すフェーズが無いと問題視していたが、その問題の解決策となる面接方を最近知った。
この方法はいくつかの論文でどのように導入されるか説明されている。
以前僕が��えたものと照らし合わせてどの程度相違があるのかも知っておきたいし、どのような理論体系であるのかも知っておきたい。
まず、軽く知るために解説サイトを読む
https://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/h19-2/html/5_1_5.html
「動機づけ面接は,本人が変わりたい方向を見出し,その方向に変わろうとする対象者に力を添えていくようなやり方である。面接者が何か特別にものを知っている専門家で,対象者は専門家の言うとおりにしなさい,といったやり方ではない。」
この文言を読むと、元々はクライアント中心療法と関連して生み出されたのでは無いかと推測できる。同時に、コーチングでの面接と酷似している点から、コーチングで良く用いられるモチベーションを高めるフェーズでは正にこの動機付け面接法が用いられているのでは無いかと推測される。
「人が行動や考え方を変えていくためには,本人が日常生活の中で,変化するための努力を継続していく必要がある。動機づけ面接では,本人が変わる方向に具体的な目標を決めていき,その方向に変わらないといけないという気持ちが強くなるようにする。」
この文言から分かるのは、この手法に用いられる動機付けの原理には“焦燥”が含まれているという事である。「これをしないと私はダメになる」等のような焦燥は確かに行動を変えるのにかなり有効であるが、反面その焦燥によって様々な問題が発生する可能性がある。そういった可能性に細心の注意を払う必要性があるのは言うまでも無い。
「動機づけ面接は,本人から自分が変わるような発言を引き出していくような面接である。このような発言を「自己動機づけ発言」(チェンジトーク)と言い,こういう発言の種類がそれぞれの頭文字をとって「DARN-C」と呼ばれる。」
ここについては恐らく動機付け面接法の 最も重要な肝の一つだろう。後にこの「DARN-C」について
D:Desire変化への欲望
A:Ability変化する能力及び自信があるという楽観的な見通し
R:Reason変化する理由
N:Need変化しないことへの懸念と心配
C:Commitment変化に必要な行動についての現実的で具体的な計画
の略であると説明している
「動機づけ面接には,五つの原則がある。<1>共感,<2>矛盾を広げる,<3>言い争いを避ける,<4>抵抗を手玉に取る,<5>セルフエフィカシー(自己効力感)を支持する,がそれである。」
1. 共感というのはなんとなくわかると思うけども、相手が言った事をちょっと形を変えて聞き返す事で「理解してくれている」という感覚を持たせ、心の繋がりを強める事である。
2. 矛盾を広げるというのはクライアントの今の行動と理想に近づくために必要な行動の間にある解離をハッキリ認識させるという事だ。
3. セルフエフィカシー(自己効力感)を支持するというのは些細な事でも出来るようになった行為は言及してあげて、「自分は自分の力で前に進める」という認知を強めていくという事だ
動機づけ面接の戦略,つまり面接者側の具体的な話し方がOARSである。このOARSは,開かれた質問(Open Ended Question),是認(Affirm),聞き返し(Reflective Listening),要約する(Summarize)の英語の頭文字をつなげたものである。次に,OARSのそれぞれについて説明する。
これはそのまま
とりあえずこのサイトで記載されている重要そうな部分だけ抜粋してきたが、実際に心理臨床の現場ではどのように利用されているのかを見ていこう。
軽く調べた程度なので参考文献は一つだけです
一応他にもあったけど若干ズレるものとかがあったのでとりあえず一つだけ
認知行動療法と動機付け面接法を用いた禁煙指導実習の構築
https://www.jstage.jst.go.jp/article/yakushi/132/3/132_3_369/_pdf/-char/ja
他の論文もそうだったんだけど結構依存症治療に導入しようとしてる段階らしい。
この論文では禁煙したい患者の治療を認知行動療法と動機付け面接法を組み合わせてやったらタバコ依存度が低下して、なおかつ自分が禁煙できるかもしれないという自信も高まったらしい。
精神を病んだ人間が「この先一生不幸だ」といった認知に囚われる事は結構ある。もし仮に「不幸じゃなくなるかもしれない」という期待が高まったとしたらば治療も促進されるし、その分だけ治療効果は現れる。
元々俺が考えてたやつがどんなだったか、完全に忘れたけども、多分被ってる部分もかなりあったと思う。ただ決定的に違ったのは「自分を変える言葉を引き出すDARN:C」だろう。行動を変化させ、それを認識し自己効力感と期待を高めるという基本的な部分は同じだったが、行為った具体的な方法論は以前の僕の考えでは言及できていなかったのでかなり有益な情報だった。
参考になる論文が少なかった(単純に俺がちゃんと探してないから)けど良いこと知った。
浮気を疑われて腹を立てるのは恋人との関係性を維持する上では間違った行動である。「自分が浮気をするわけがないだろう」という認知は環境が整えば誰でも浮気をし得るという事実からして明らかな過信である。
The suffering from cheating and getting angry is a wrong act in maintaining a relationship to a lover. It is overconfidence that you think it: I never cheating. because we will cheat when we completed environment for that we do it.
1 note
·
View note
Text
英作文、自分の理解を懐疑すると色んな理解の仕方を 獲得できるよね
Doublt to the think of myself deepen understand against events and people.
Because it can multifaceted understand to events and humans by doubt of doubt.
For example, If we doubt the intuitive understand, we can get the new understand. If more doubt it, we can get more the new understand. The more repeat it, the more can get it.
自分自身の考えを疑うと人々や物事の理解を深められるよね。
だって疑う事を疑えると多角的な理解ができるようになるから。
例えばもし直感的理解を疑ったとしたら僕たちは新たな理解を得る事ができる。
もしそれを更に疑ったらまた更にもう一つの理解を得られる。
そういった行為を繰り返せば繰り返すほど僕達は新たな理解を得られる。
0 notes
Text
依存症の心理的介入まとめ
現段階で知ってる限り書く。
まずはhttp://www.ohishi-clinic.or.jp/izon_treatment.htmlを参考に軽く纏める。
依存症の治療をする上でまずは患者の依存レベルを知ってそれに合わせた治療をするらしい。
段階は「無関心期」・「関心期」・「準備期」・「実行期」・「維持期」らしい。
そんでもって、米国精神医療学会治療ガイドラインに載ってる効果的心理療法は
・認知行動療法
・精神力動的/対人関係療法
・短期介入法
・夫婦療法および家族療法
・集団療法
・自助グループ
だそう。
当然ながら依存対象(例えばゲーム依存なのか薬物依存なのか等)によって有効度合いは変わってくる。
いくつか紹介する。
認知行動療法的治療
例えば、お酒を飲んで布団に入ると眠れるといって毎晩呑んでいたとする。そうしているうちに「お酒がなければ眠れない」という誤った固定観念が生まれる。更には「お酒があればストレスが解消される」だとか「お酒を飲めば上手くいく」という風に色んな物事にお酒が効果的だという風に思うようになっていくのだが、これは逆説的に「お酒がなければストレスが解消されないし、お酒がなければ何もかもうまくいかない」といった誤った固定観念を生みうるということでもある。
このように認知行動療法では依存症を
「有効であったはずの行為を不適切な形で一般化した結果、凡ゆる場面においてその行為が有効であり、寧ろ「それがなければ解決されないかもしれない」という誤った認知が依存の原因の一つだと説明している。
そして認知行動療法的介入は
例えば「お酒がなければ眠れない」という考えが浮かんだ時に「いやそうとは限らない」という考えで訂正できるようにするというものである。
これを自動思考への介入というのだが、最近の認知行動療法では自動思考へ直接介入するよりも、「自動思考が起きてるな〜」と認識し放っておくスキルを重要視していたりもする。
他にもお酒を飲まないで実際に眠ったりしてみて「あ、お酒なくても眠れるんだ」ということも何度も経験する事で、こういった誤った認知を薄れさせていったりする。
認知行動療法というのは沢山ある治療法をまとめた総称なので、その一つ一つの治療法によって介入方法は随分と違ってくる。
力動的(精神分析)心理療法/対人関係療法
・力動的心理療法
今クライアントに何が起きていて、何を考えたり感じているかを過去の出来事を利用して理解する治療法
・対人関係療法
あらゆる人間関係の中でも特に大切な人間関係(親友や彼女)との関係性を改善する事で問題解決の一助にするというもの。家族や親友との関係性が改善されれば依存症治療の助けにもなりうる。そもそも家族や親友との関係性の悪化は依存症と無関係ではないというもの。
大麻を使用した清原の家族関係が改善され援助を受けているというのは正にこれによるものではないかと予測している。
集団療法
同じ問題を抱えてるもの同士が互いに自分の問題について語り、どういった状況で、どういった対処をしているかを共有し合う事で、他者を合わせ鏡にしあって共に改善していこうというもの。
自分1人では自分がどう見えるかを知ることは難しい。自分を正確に知るためには鏡が必要だ。それと同じように自分の症状や症状との向き合い方、症状への取り組み方を顧みるには同様の問題を抱えた他者が必要だろう。自分について語り、他者の話を聞く事で自分の行動や認識が最適かを何度も評価する事ができる。
0 notes
Text
疑う力って人をも救うよね。
小学生の頃、中程度の知的障害を持った友達がいて、彼とは幼馴染みだったんだが、小学校に入ってから彼があらゆる問題行動を起こしていて、いつも敵意の対象になっていた。かなり酷いイジメも受けていたし、授業中に教室から飛び出したり学校から逃亡したり、自己表現として暴れたりってのは6年間の日常だった。
自分の認識では彼に敵意を向けたりはあまりしてこなかったけど、一回だけ教室を飛び出した彼を捕まえてクラスメートや担任教師に褒められた事があった。
その事について今日思い出して「本当にあれは正しかったんだろうか」と思った。
仮にあれが間違った行動だったとしても、状況的にあれ以外の選択なんてできなかったから正しいかどうか考える土俵ですらないけどもw
当時は確か小学4年生だった。
自分に対して一切の疑いが無くて、幼馴染みを利用して褒められようという欲望を疑って制御できるような成熟した動物ではなかった。そりゃ小学生男児だしねw
考えてみると僕が小学校の同級生等の間で形成されていたヒエラルキーを嫌って他の小学校の児童館へ行って遊んでたのも自分への疑念があったらしていなかったかもしれない。
例えば「あの子はヒエラルキーのトップだ。羨ましい。いや、だけどもしかしたらトップにいる事は楽ばかりじゃないかもしれない。」
「あの子はいつもトップの子に追従してばかりで自分がないし、トップの子以外の意見は受け付けない。いやだけどもしかしたら彼はそうせざるを得なかったのかもしれない」
そんな風に自分を疑い、そんな疑った自分を更に疑えたりしていたら随分未来は違っていただろう。
”疑念“というものは自分自身や他者が正しいかどうかを単に謀るだけのツールではなく、その疑念が本当に正しいかどうかを更に疑って、結果的に多角的視点を獲得するために重要なツールだと思う。
あの頃の俺は単に”集団対自分“という視点でしか見えなくて、集団が個の繋がりによって形成されて、更にその個人にも色々あるなんてことはわからんかった。
まぁ、そんなのは当然の話で、小学4年生の男児がそんな事をできたら即座にGiftedなわけだがw
でも結局の所俺は恵まれていると感じる。
引き篭ったり、通信制に行ったり、教会に行ったり、大学に行ったりして様々な人に出会い、様々な学問や知識と出会って、自分を疑う機会もそれを更に疑う機会も人一倍恵まれていたように感じる。
”疑念“は様々な人の心や状況を想定して考え、人を傷つけないように配慮していく上で大事な機能である訳だが、単に想像するだけでは補えない、経験によってのみ形成できる“配慮”というものもあったりする。
人を殺そうと思ったこと、万引きをしたこと、家族の金を盗んだこと、引き篭ったこと、首を吊ったこと、病んだ事、無能さを受け入れた事、人を傷つけた事、その他多勢の経験は色んな人を許したり愛せたりする今自分が出来上がる上で本当に大切な経験だったなぁと思う。
————-問答履歴————-
あれは正しかったか
A-正しかったか否か以前にあの選択が生物学的限界だった-
なぜ
A-「利用して褒められよう」という考えを否定できるほど発達していなかった
どうしたらその考えを否定できた
A-簡易的疑念が形成され即座に生まれる考えを遮る機会が生まれるようになったら-
簡易的疑念はどのように生まれる
A-自分が必ずしも正しいわけではない事を学習た上で他者やメディアから即座に頭に浮かぶほど簡単な言葉で自分を疑う単語を譲り受ける-
その単語はどのように利用される
A-疑念の単語は増えるたびに疑念を生むので疑った自分をさらに疑えるようになったりする-
それが何を生むのか
A-多様な観点,多様な答え-
それはつまり
A-一つの観点から導き出された答えを盲信せずに様々な指標を基に答えを出せる-
それが何の役に���つ
A-様々な人の観点、様々な人の環境等そ想定して様々な答えを出せるようになる-
それが何の役に立つ
A-如何なる立場の人に対しても配慮された言葉を生み出せるようになる-
それが何の役に立つ
A-人を傷つけないで済む。利他的な発言が可能になる-
英文書けるようになりたい人の英作文
I had feel a bad image of being selfish-desires. But I was rethinking about it, As a result I noticed that it’s not bad all of it. In other words, I don’t think that all selfish-desires are bad. Instead, I was notice that bad what get fulfill desire by trouble to other people.
1 note
·
View note
Text
利己的欲求は哀れなのか
2個前の記事で冒頭に「人間の行為の意味は僕等がこれまでの経験で知っている道徳や倫理からすると哀れすぎる。」と書いた。
実際には後にそれが単なる僕個人の意見であるにも関わらず勝手に一般化した意見であると気がついて「人間の行為の意味は僕的に言うと哀れすぎる。」という風に訂正した。
しかしながらこの事は「そもそもなんで哀れだと思うの?」という疑問を駆り立てさせた。
ここで述べる哀れさは、例えば人を助けようとしてもその根本には承認欲求とかその他諸々の利己的な欲求を指してる。
一般的にこういった利己的な欲求が哀れだと思われてるのかはわからないけど、これまで知り合ってきた人達や、もしくはネットではそういう風潮があったように感じる。今時はもしかしたら「良いじゃんそういうのも」みたいな論調があるのかもしれないけど、最近ネットあんまりやってないから知らん。
とりあえず考えた事を纏めると、利己的欲求ってのは食欲とかも含まれる訳だから
それそのものが哀れというわけではなく、満たす上で他者の介入が必要な欲求を誤った方法を用いて満たそうとしてしまって、その結果人に迷惑を掛けてしまった場合に於いてのみ“哀れな利己的欲求”と呼べるんじゃないかと思う。
浮気性の子が付き合っては浮気して人を傷つけまくるなんて事はよくあるけど、これも哀れな利己的欲求の代表例で、もし仮に浮気性のこの子が哀れで無い形で恋愛における利己的欲求を満たしたいのであれば
1,特定の人間と付き合きあわない
2,浮気性である事を公表しそれを承諾した上で付き合ってくれる人と付き合う
等あると思う。
けれども今も尚浮気性である事はそれ自体が“哀れ”だと評価されてしまう時代なのであって、どの選択をしようとも非難の対象となってしまう。
俺は浮気性である事を公表し最適な相手を見つけられる可能性を高める事が最も有効な選択肢だと思っているのだが、今はまだ社会がそれを許していない。
浮気性の人間が浮気性である自分を責めないで済み、尚且つ周りの人間も浮気性というだけで尊厳を無視しない社会を社会全体が作っていく必要性がある。
これは同性愛者、ロリコン、その他諸々に言える。
俺自身ロリコンや同性愛者を否定する社会の中で育ってきたので反射的に「キモい」と感じてしまう事もある。だがしかし、実際にはそれそのものは単なる性的指向なのであって何の問題は無いはずなのだ。
子供のような可愛いものを性的に愛してしまう事は誰にだって可能性としてあるし、同性の人間を愛してしまう事も、多数の人間を愛してしまう事も同様に誰にでもありうる。問題なのはその欲求を満たす上での実施方法なのにも関わらず、そういった特性を持った人間そのものを批判する事が目的かしてしまっている事は人間という動物の業を無駄に深めている。
—————問答履歴—————-
利己的欲求は哀れか
A-そうである場合もあるよね-
どのような場合か
A-人を貶めたり、人に迷惑をかけながら獲得しようとする利己的欲求-
その他の利己的欲求は哀れじゃないのか
A-食欲とか睡眠欲って哀れじゃないよね-
哀れでない利己的欲求の解消はどのように実現可能か
A-方法選べば良くね。間違ったら直せば良くね。治せないなら公言してそれに合った生き方すれば良くね-
————————————昨日の文章の英文化—————————————
応援や寄付などのような“支援”は代表性ヒューリスティックや基本的な帰属の誤り、感染呪術によって説明できます。
これらは人を認知の誤りに陥らせる事で人の人格を過大評価し、評判を向上することを可能にします。
例えば、私達からは普通に見えるが実際には虐待や詐欺を働く人が貧しい子供たちをサポートしていた場合、私たちを彼を親切な人だと判断します。
もちろん私は彼は親切だと思いますが、この基本的な事実を利用して人の心を欺く人が存在している事を私は知っている。
The supports, as well as the donations, cheering, etc, can discribe by Representatiive heuristic, Fundamental attribution error, contagious magic.
They are possible to improve their reputation because trap people to congnitive error what Overstimation to their personality. For example, the case that we view to normal human but actually was abuser or cheater, if he supports for poor child, we judge that he is very kinder.
Of course, i think that he is very kind, but I know that there exist someone that used this fundamental truth and deceive to other minds.
1 note
·
View note
Text
ホームラン王山川穂高、首里城再建に500万寄付
このニュース、普通に「偉すぎるやろ〜!本塁打王になって更に寄付ってどんだけ得積むん?!」みたいな感じで普通に褒めればいい話なんだけど、ちょっと考えてみる。
「支持」というもの
ここでは寄付、応援、手伝い、その他諸々人の助けになろうとする事を纏めて支持と呼ぶ。支持の原理の一つには「虎の意を借りる」が含まれてると思っている。これは感染呪術の概念と、それから心理学的には代表性ヒューリスティックと根本的な帰属の誤りという概念で説明できる。支持する対象との関わりを生むことで将来その対象が大成した時、その対象がうけるポジティブな印象を感染呪術的に受けられる可能性を得られる。
同時に代表性ヒューリスティックにより“支持”という行為に付随する代表的なポジティブイメージを受け、根本的な帰属の誤りによって「これを支持してるってことは良い人だ!」という実際とは無関係な認識で評判を上げられる。
これをこの山川選手に当てはめると「山川選手は寄���することで良い人っぽく振る舞ってる上に、首里城が再建して首里城が憩いの場になったら“憩いの人”になれると思ってやってる」という超うがった見方になってしまうw
もちろん、この件については「力になりたい」と思ってやってるんだろうけど、例えば僕らがスポーツ選手を応援したり、ある政党を支持したりする時、本当に他の目的なしにしてるかね。多分そんなわけないよ。支持する選手が活躍したら自分のことのように自慢するでしょ。自分のことのように嬉しいでしょ。「この選手を応援してる自分は凄い」って。これってつまり虎の意を借りて幸福になろうとしてる。
それは悪いことではない。なんだか虚しい気がするし哀れに思えるけど、良いじゃないか。
軽い用語の説明。
感染呪術:呪術らしい。かつて関係を持った者同士が仮に関わりを失っても、片一方に起きた影響がもう片一方にも起きるというもの。量子もつれの説明で一度衝突した量子同士は互いに離れ離れになったとしても片一方が凹むともう片一方も凹む的な話が偶に出るんだけど、それに似たようなこと。これを応用させると、一度関係性を持った人や者同士は同様の影響を受け合う。例えばヤクザと一度関わった人間は例え関わらなくなったとしても「怖い」「危ない」等のようなヤクザが受ける偏見を同様に受ける。
代表性ヒューリスティック:物事の代表的なイメージを過大評価してしまう事。例えば「寄付するってことは良い人だ」とかみたいな。実際には、寄付する=良い人��いうわけではないのに、そういったイメージが代表的なのでそうである確率が高いと勘違いしてしまうということ。
根本的な帰属の誤り:行為の環境的要因を過小評価し、人格的要因を過大評価すること。「寄付したのはこの人が良い人だからだ!」というのが結構一般的な認識だろうけど、実際には親にお願いされたとか圧力があったとか、色んな要因があるはず。だけども人々はそういった環境的要因を過小評価し人格的要因を過大評価してしまう。
1 note
·
View note
Text
幸せに生きるか格好良く生きるか。
人間の行為の意味は僕的に言うと哀れすぎる。
とっても利己的。人を助けるのも自分のためだし、人を応援するのも自分のため。他にも哀れな根拠を持つ行為は無数にある。
そんな哀れな僕らの“良き生命”ってなんだろう。
良い生き方って何なんだろう。
考えた事を簡潔にまとめると、一般人にはできない崇高な理念に則った生き方で、具体的には「人間ってのは超利己的だよね」ってのを念頭に置きながら、自分の哀れさを顧みつつ人のために生きたり正しく生きたりしようとすること。
ただ、結局はその崇高な生き方にも“自分は崇高に生きてる”という哀れさが含まれていて、結局は哀れだったりする。しかもそういう風に得られた幸せを「自分は哀れだ」という認識によって帳消しにしちゃって、何の意味があるのって疑念がある。
この答えを出す上で大事になってくるのは「あなたは何のために生きてるか」だと思う。格好良く生きたいのか、それとも幸せいっぱいに生きたいのか。どちらを選んでも多分大した差はないんだと思うんだけど人生の歩みは随分違ってくる。
どっちが良いかな?
今までどっちもやったけど、どっちが良かったかな?
そもそも俺に決定権なんてあるのかな?
どちらを選ぼうとしても色んな人生のイベントが強制的に選択させてくる。
格好良くいきたいと思っていたのに、幸せいっぱいに生きようと思わされたし、幸せいっぱいにいきたいと思ったのに、格好良くいきたいと思わされたし、そもそも俺に決定権なんてあるのかしらとすら思う。
恐らくないんだと思う。刺激に反応して、その反応を記憶して更なる刺激に反応する。その繰り返し。僕に出来ることはやっぱり森羅万象を強く深く実感することくらいなのだろう。
自分の意思で決定していなくても「自分が選んだ」と思えること。楽しいと思えなくても「楽しい」と思えること、つまらないと思っていなくても「つまらない」と思えること。環境によって自分の感性と相反する実感を求めらることは無数にあるが、そうであったとしてもそれが自分の気持ちだと思えること。それが大事なのかなぁ。
——————問答履歴—————
良いとは?
a-崇高-
崇高とは?
a- 一般人にはできない特別な理想-
特別な理想とは?
a-原理の内包された理想-
原理の内包された理想とは?
a- 理想的行為に含まれてしまう人間の動物的欲求が把握された上での理想-
原理の内包された理想は実際にはどのようなものか
a- 理想的行為が生む高揚感や幸福感を哀れさ等の認知による罪悪感などが中和する-
それが何を生むか
a- 正しい生-
正しい生とは何か
a- 人を見下したり、見下しているのにも関わらずそうでないかのように振る舞うような偽りの謙虚さが取り払われた、正と偽が同等に並存する生-
それに何の意味があるのか
a- 何の意味もない。「自分は崇高だ」という独善的な選民思想に浸り、結果的に人を見下し、そうでないかのように振る舞う偽りの謙虚さを生む可能性もある。-
じゃあ良い生命なんて不可能なのか
a- 「自分は崇高だ」という認識を抑える何かがあれば可能かもしれないが、果たしてそれで幸福なのか-
良い生命=幸福というわけではないのか
a- せやな。
そもそも良い生命の目的は?
a-かっこいい生き方。-
ってことはそもそも幸福云々は目的にない?
a- せやな-
俺は幸福に生きることとカッコよく生きること、どっちが大事?
a- わからぬ-
1 note
·
View note
Text
権威って権力を助長するよね
人間というのは恩恵を受ける、もしくはその可能性がある人との関係性を維持し、尚も深めようとする。
権威ある存在から多くの恩恵を受けた時強い忠誠心を持ち、そしてその権威が如何なるものであっても忠誠を失わない。忠誠を破り、その権威に逆らう事は恩恵を失い権威による不利益を受ける庶民と同様の環境に置かれる可能性がある故に難しい。
しかし、その可能性を無視し、権威に逆らおうとするものは少数であるが存在している。彼らは強い共感力を持ち、不利益を受ける者が目の前にいると自分自身もストレスを感じてしまう人々である。「多くの国民が苦しんでいるのならば例え良い待遇を受け幸福的状況にあろうとも私は不幸である。」という具合だ。
権威からの恩恵を受けながらも不幸な国民に目が行き苦痛を感じた時、人には2つの選択肢がある。一つ目は権威に逆らい国民側に行くこと。二つ目はそれから目を逸らすことに注力し物質的幸福を保ちつつ同時に心理的幸福も保とうとする。
どちらの選択も大して変わらない。
目が行った時に不幸になる-共感してくれる人��いない-協力してくれる人も居ない-孤独-共感する人とは繋がれない(反乱分子になってしまうため)-他者を攻撃せずにはいられない(国民から恩恵を受ける可能性はないので促進される)-哀れ
目が行かないように慣れた-権威同士で幸せ-権威を失えない恐怖-いつ庶民になるかわからない
前者は常に庶民になる可能性への懸念と幸福の中にある。
権威に逆らう-多数派に所属できる-連帯感によって心理的幸福に-物質的には不幸であるが”権威に逆らい反逆が実現すれば得られる”という考えによってむしろモチベーショナライズされる。
少数派って事は唯一のメリットが失われる
しかしながら、現代日本は権威の方が多数派にあり、権威に逆らう者は寧ろ少数派である。物質的幸福にないのにも関わらず”自分等は権威側にある”という信仰心によって心理的充足を保とうとする人々が多数を占め、権威に逆らう少数派の庶民と闘っている。
そして更に言えば、権威に逆らうことによって得られる筈の“多数派に所属することによる心理的充足感”は失われ、多数派となった権威に従属する貧民の方が寧ろ心理的幸福に満たされているということにもなる。
多くの人々がSNSを利用し、隣人の隣人のそのまた更に隣人まで味方だと勘違いできる今のこの世界では、その現象は更に促進される。世論調査や選挙等で権威側が優位であると示されるほど、 貧民による権威へ忠誠は強まる。
権威は更なる権威を助長するということである。
これは恐らくこれまでの歴史の中でも同様に起こってきたのだろう。
資本主義に於いて金持ちが更に金持ちになるように、
若しくは、天才が天才と結婚することにより更なる有能者が生まれ有能な家系が更なる有能へと邁進していくように。
もはや人類は優れた者だけの世界に限定化されることを望んでいるかのようだ。
最近、人工知能で人の意識を残そうとする意味が分かった。
単に、有能者を懐に置きたいのだ。「あの人にもう一度会いたい」とかいう 情緒的な理由では無い。有能な人を永遠に残し、人類の発達を促進させようとしているのだ。
世界を有能者に限定化し、無能の力を利用して人類を発達させようとする。
そんな可能性もなきにしもあらずだよね。
次は権威と権威の闘争について書きたい
今の日本は自民党という権威に対抗しうる権威が存在していないのでバランスが崩壊しているが、過去にはアメリカとソ連のような権威と権威の闘争があった。
いつ日本に左翼やリベラルの権威が樹立されるかわからない。
予め見ておきたい。
-英文-
権威の下に恩恵を受けたいと願う人々と、恩恵を受けているという幻想に囚われたい人々が従属する事で権威は更に権威を得る事ができる。その場合権威に抵抗する人々が少数派となることで集団に属す事で得られる充足感も権威側の方が優位になる。
そのため権威側に従属する貧民は更に抵抗側に移る事に抵抗感じる。
その結果権威は更に権威を拡大することに成功する。
-The Power can more stronger by Authority’s-
People who want get the benefits and wanted captured illusions what had getting benefits gather in the Authority’s. As a result, The Authority side get the possible to become majority. If that will become majority, it may will become more majority. Becouse, Minority is the Attack target for majority, it is fewer the fullfillments and allies rather than Majority, and people who belong majority would afraid to become minority.
As a result, The Powers can more stronger by Authority’s.
1 note
·
View note
Text
良い社会になると人は大変だよね。
良い社会になればなるほど、悪い出来事への対応能力を磨く機会が失われる。どんなに社会を良くしても人間の持つ攻撃性や欺きは矛先は誰かに向かっているので、誰もがその対象になりうる。避け得ない出来事への対処法を知らないのは結構色々と問題がある。
1 note
·
View note
Text
3.11は戦争の擬似体験でもあったのかもしれない
震災について特に考えてこなかったがもう8年くらい経ったし、今振り返ったら見え方も変わってるのかなぁと思ってた。んで今日思った事があったので書いていく
東日本大震災で感じた恐怖感というのは本当に特殊だった。
恐怖や不安は人を支配するツールにもなる。
僕の人生で言えば鬱になったことや引きこもりになったことは人の話を引き出すための大切なツールになってる。
他にも、失恋した女の子を男が口説くように、ある人の不幸はその人をコントロールするための有効なツールになったりする。
けど東日本大震災の時はそんな事できなかった。
人をコントロールするツールだったはずの恐怖が自分も他者も不幸と恐怖によって
完全に支配され切っちゃっていて、自然によって支配(コントロール)されているような状況だった。
第二次世界大戦の時もそうだったのだろうか。
個人の力を遥かに凌駕する国家(アメリカ)というものによって完全に支配されてしまっていたので個人では恐怖や不安をツール化できないような状況だったのだから否定はできない。
もしもその通りなら東日本大震災はWW2の擬似体験だったとも言えなくはないだろう。
1 note
·
View note
Text
本気でお話しするのっていいよね。
昨日久しぶりに哲学カフェというものを主催した。
すごく頭の良い人が沢山集まってくれて「帰属について」というテーマで色々お話しした。
話を理解したり深く考えたりするのに必要な沢山の技術を失ってしまってたから最初20分くらい結構大変だった。
時間が経つに連れて「あ〜、お話を聞くときは抽象的に要約して把握するんだなぁ」とか「あ〜、一度具体化してそれを再度抽象化することで情報をパッキングするんだなぁ」とか少しづつ昔の思考の仕方を思い出していって、最終的にはちゃんとお話しできてとても面白い時間だった。
予定では2時間くらいだったんだけど結果的に3時間くらいになって疲れた反面とても楽しかった。
こうやって本気で話せる場って自分にとってとても大切なんだなぁと思った。
普段関わる人たちは絶対に昨日みたいな抽象的な話は通じないので、話す人に合わせて会話のレベルとか使う言葉とかを合わせてる。
特にここ数年は頭のいい人と関わる機会が無かったのでそれが顕著だった。
今回再確認したのは、やっぱり抽象的な話ができるとスッゴク話が早い。
そして楽。そして有意義。
これはもうほんと間違いない。
だからといって関わる人や生活環境を変えるわけではないけど、思い出せてよかった。
どうせまた忘れてまた思い出すんだけどね。
1 note
·
View note
Text
現在の日本の状況
すっごい上級国民がどうのこうの言われてますが、包括的に語ってみる。
一言で言えるかな?
言ってみよう。
日本人の中で自分は不幸だと感じている人間はかなり一部だが実際に不幸な状況にある人間はかなりの数がいる。正確な数字は存在しないがもし仮に7割の人間が幸せだと思っているのであれば実際には3割しか幸せな状況にある人間はいないだろう。幸せだと答えた残りの4割は認知によって幸福を得ている。
日本人の一般的感覚から言って700万以上の年収がある人は金持ちで、300万以上の人間は中流、そしてそれ以下は底辺という認識が主だろう。
だがそれはそれは残念ながら間違いで700万〜2000万が年収の人々は中流階級でそれ以下は底辺、年収3000万〜1億が準上流階級、それ以上が上流階級。だがこれはあくまで仮の上流階級であり、本当の上流階級は何十年も10億以上の金を年間で稼いでいて莫大な資産が毎日億単位の金を稼いでくれるような連中だ。
でもそんなことはどうでもいい。問題なのはそんなことも知りもせずに大概の人間が数千万円を稼ぐ人間が上流階級だと思ってることだ。
このギャップはとてつもない問題を孕んでいる。この、事実(?)と異なった認識は自分たちを普通の生活が出来てるだとか、金持ちで幸せな人間だとか思わせる事に役立っている。お陰で皆んな日本という国が正常で素晴らしい国だという明らかにおかしな幻想の中に生きられてる。
日本という国は旧財閥企業と上級国民の天下り先企業(国有の一般企業)に直接仕事を流し上級国民同士でガッチリ税金を共有する構造が完全に形成されている。
他にも潜在的貧困や絶対的貧困、増える自殺率と精神病患者、破綻した年金制度と貯蓄0世帯7割という現実、アメリカの犬であることや中国の力が増大する恐怖、少子高齢化、消費税増税と実質賃金の低下、他にも上げ出したらきりがない。
でもこれだけ問題があっても"自分たちは幸せな状況だ"という幻想がそれを否定し「美しく幸福な国、日本に住んでいる」という誤った認知を疑いもなく信じている。
「何がいけないんだ、みんなが幸せだと感じているなら、それで良いだろ。」と思うかもしれない。
だが、現実に起こるあらゆる問題から目を背け、作り出した幻想とも言えるような"幸福"はいつか僕らを蟻地獄に誘うかもしれない。
それは放射能の溶け込む海の魚を食うようなもの(福島が云々って話じゃないよ)。
「どこで食う魚も最高に美味い。放射能が溶け込む魚だって美味いんだ。最高じゃないか。食おうぜ。」と食い続ければいつか必ずそのツケは耐えうる上限を超えた重みとなって、決して対処し得ない問題として僕らの上にのしかかる。
このギャップを受け入れ、幸せになろうと生きることは利口で正しい。ただ、いつか必ず取り返しのつかないツケが回ってきて、二度と幸せの幻想を見ることさえ許されない絶望を面前で伺わされることになる。
そんなことになる前に国民がそのことを知り政治を変えなければ!
なんて思ってない。
もうしゃあない。そんなもんよ。
2 notes
·
View notes
Text
俺の今のポジション
俺はポジションも定まってなくて意見もないように見えるが結構ハッキリしてるらしい。
まず政治参加はしない。
二つ目に決して有名にはなりたく無い
三つ目、お金はもうちょっと欲しい
四、ゲームはしたい
五、ちょっとは褒められたい
六、彼女にはいて欲しい
七、自分の事を頭が良いと思っていたい
八、合理的な理想論は実現したい
九、人を傷つけるのは避けたい
十、理由は無いが臨床心理師にはなりたい
他にもあるかな
細かいところで言うと
一、英語できるようになりたい
ニ、臨床心理学について考え直したい
三、確率操作を使って自分の問題を解消していきたい。
1 note
·
View note