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ドイツとイタリアにおける思想動向について本書でこれから述べる解釈は、海外の論者の見方とも、両国の亡命者の大半が申し立てることとも、大幅にちがう。この解釈が正しければ、いまや大方が社会主義に染まった亡命者や英米の新聞の外国特派員といった人たちにとって、今回の出来事を正しい視点から見ることがまず不可能である理由も説明がつく。国家社会主義は、社会主義の進行に伴って既得権益を脅かされた人々が煽動した反動主義にすぎない��いう見方がある。誤解を招く表面的な見方だが、これを当然のごとく支持したのは、亡命者たちだった。国家社会主義につながる思想運動にかつては積極的に参加したものの、この運動の発展過程のある時点で離脱し、その結果ナチスと対立して祖国を離れざるを得なくなった人たちである。だが、ナチスに対して数のうえで唯一意味のある抵抗ができたのが彼らだけだったという事実は、いまや実質的にドイツ人全員が広い意味で社会主義者となり、従来の意味での自由主義は社会主義に駆逐されたことをまさに意味するのである。これから本書で述べるように、ドイツで見られる国家社会主義の「右派」と「左派」の対立は、社会主義の党派間では必ず起きる類いのものである。この解釈が正しければ、亡命してきた社会主義者はいまなおこの思想を奉じているはずだ。そして善意からとはいえ、自分たちを受け入れてくれた国にドイツと同じ道を歩ませる後押しをしていることになる。 イギリスの友人たちは、まちがいなく誠実な社会主義思想の持ち主であるドイツ人亡命者が、ときにファシズムに近い考えを表明するのを耳にして、衝撃を受けたという。亡命者も所詮ドイツ人だからと友人は片付けているが、ほんとうの理由はそうではない。彼らは社会主義者だから、それもイギリスの社会主義者が達した段階よりはるかに先の段階に到達した社会主義者だから、そう考えるのである。なるほど、ドイツの社会主義者が、プロイセンの伝統というある種固有の特徴を手がかりに国内で支持を伸ばしてきたことは事実である。ちなみにプロイセン主義と社会主義のこの密接な関係をドイツの右派と左派はともに誇りとしているが、この関係もまた、本書の主張にあらたな根拠を与えてくれる。ともあれ、プロイセン主義と密接な関係があるからといって、全体主義を生んだのが社会主義的な要因ではなくドイツ固有の要因だと考えるのは、まちがっている。ドイツとイタリアとロシアに共通してみられるのは社会主義的な思想の席巻であって、プロイセン主義ではない。それに、国家社会主義は大衆の中から台頭したのであって、プロイセンの伝統に染まり、その恩恵を受けてきた階級からではなかった。
フリードリヒ・ハイエク『隷従への道』序論
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個人に対する国家権力の濫用を国際機関が効果的に制限できるなら、それは平和を守るうえできわめて望ましいあり方だと言える。国際的な法の支配は、個人に対する国家の圧政を防ぐとともに、新しい超大国が他国に対して強権的になることも食い止めなければならない。めざすべきは超越的な万能の国家でもなければ、いわゆる「自由主義国」のゆるやかな連合でもなく、自由な人々の国から成る共同体である。国際関係において望ましいふるまいはわかっているが、他国がゲームのルールに従わないからできないのだーー私たちは長いことそう弁明してきた。ならば戦争が終わり平和が到来するときこそ、私たちが誠実であることを示すまたとないチャンスだ。それは言い換えれば、何らかの自由の制限を課すことが共通の利益になると判断したときには、自分たちも同じ制限を受ける用意があると世界に示すことである。 連邦制という制度は、賢く使いさえすれば、世界の困難な問題の一部を解決するすぐれた方法であることを証明できるだろう。だがその実現はきわめて困難であり、連邦制の限界をわきまえずにあまりに野心的な目標を掲げたら、成功は望めまい。戦争終結後には、あらゆる国が参加する新しい国際組織を求める機運が高まることだろう。新国際連盟とも言うべきそうした世界規模の組織が必要であることは、言を俟たない。とはいえ、この国際組織に過度に依存し、国際機関の仕事と考えられるものをどれもこれもこの組織に押し付けたら、すぐさま機能不全に陥りかねない。かつての国際連盟が機能しなかった原因はそこにある、と私は考えている。世界規模に拡大しようとして失敗したことが、結局は国際連盟を弱体化させた。国際連盟がもっと���さくてもっと力を持っていたら、平和維持にもっと貢献できただろう。このことはいまも当てはまると考えられる。たとえばイギリスと西欧諸国、そしてたぶんアメリカとの間には協力関係が成り立つにしても、全世界で、というのはまず不可能だ。「世界連邦」のように比較的緊密な国家連合を、たとえば西欧より広い地域で初めから発足させるのは現実的ではない。限られた地域から徐々に拡大していくことは、あるいは可能かもしれないが。 地域ごとに連邦が形成されたとしても、連邦間で戦争が勃発する可能性があることは事実だ。このリスクを減らすためには、より規模の大きいゆるやかな連合が必要になることも認めなければなるまい。だがそうした組織が必要になるとしても、文化や価値観や規範がよく似た国同士で連合を組む妨げになってはならない、ということはぜひ言っておきたい。再び戦争が起きることはぜひとも防がなければならないが、世界中の戦争を完全に抑止できるような恒久的な国際機関を一気に作れると期待すべきではない。そのような試みは失敗に終わるだろうし、より限られた範囲であれば成功したかもしれないチャンスの芽を摘み取ってしまうことになる。巨悪を撲滅する試みがどれもそうであるように、将来の戦争の可能性を根絶やしにするような手段も、戦争そのものより悲惨なことになりかねない。戦争につながりうる摩擦や軋轢のリスクをすこしでも減らすーーおそらくそれが、私たちに望みうる最善のことであろう。
フリードリヒ・ハイエク『隷従への道』第15章「国際秩序の���望」
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自由主義思想の根本にあるのは、個人の尊重である。自由主義では、各自が自分の考えに従ってその能力と機会を最大限に生かす自由を尊重し、このとき、他人が同じことをする自由を阻害しないことだけを条件とする。このことは、ある点では平等を、ある点では不平等を支持することを意味する。人は等しく自由権を持っている。この権利がきわめて重要な基本的権利なのは、人間が一人ひとりみな違うからであり、自分の自由でもって人と違うことをしようとするからだ。そして人と違うことをする過程で、大勢が暮らす社会のあり方に、一層多くの貢献をする可能性がある。 だから自由主義者は、権利の平等・機会の平等と、物質的平等・結果の平等との間に厳然と一線を引く。自由な社会が他の社会より多くの物質的平等をもたらすのはよろこばしいことではあるが、自由主義者にとってはそれはあくまで自由社会の副産物であって、自由主義を正当化するものではない。自由と平等を促進するような政策、たとえば独占を排除して市場機能を強化するような政策こそ、自由主義者にとって好もしい。不運な人々を助けるための慈善活動は、自由の生かし方として自由主義者にとって望ましい。貧困をなくすための政府の事業も、多くの市民にとっての共通目標を達成する効率的な手段として、自由主義者は是認するだろうーーただし、自発的な行動ではなく政府による強制に委ねることを残念に思いながら。 ここまでは、平等主義者も同じであろう。だが、平等主義者はさらに一歩を踏み出そうとする。彼らが「誰かから取り上げて別の誰かにあげる」ことを認めるのは、目標を達成するための効率的な手段だからではなく、「正義」だからなのだ。この点に立ち至ったとき、平等は自由と真っ向から対立する。ここでは平等か自由のどちらかしか選べない。この意味で、平等主義者であると同時に自由主義者であることはできないのである。
ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』第12章「貧困対策」第2節
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自由を守り拡げようとする試みは、今日二つの方向から脅かされている。脅威の一つの所在ははっきりしている。アメリカを葬ろうとするクレムリンの連中だ。しかしもう一つの脅威はとらえどころがない。これは、内からの脅威である。主犯格は、国民によりよい社会をもたらそうというよき意図を持った善意の人々だ。あいにくこの人たちは短気で、説得し手本を示すだけでは理想とする社会改革が遅々として進まないことに我慢できない。目的を達成するために国家権力を使いたがり、その能力が自分たちにはあると自信を持っている。だがその権力を掌中に収めたとしても、目的は達成できまい。そればかりか、必ずや全体主義的あるいは独裁的な国家への一歩を踏み出すことになる。当の善意の人々はこれを忌み嫌うであろうし、自身がその最初の犠牲者になるだろう。善意では、権力の集中を無毒にすることはできないのである。 まことにありがたくないことだが、この二つの脅威は互いに強め合う。核戦争の心配はないとしても、ロシアからの脅威があるとなれば、やはりアメリカは資源の相当程度を国防に向けざるを得ない。政府は国内生産のかなりの割合を買い上げ、相当数の企業や産業に関しては唯一の買い手ですらある。このように政府が重要な役割を果たすようになった結果、すでに政府には危険なまでの経済支配力が集中し、民間企業の事業環境に影響をおよぼし、事業の成功にかかわるような基準や規格を次から次へと定め、他にもさまざまな手段を使って自由市場を脅かしている。この危険な事態は、私たちにはどうすることもできない。しかしいま私たちは、国防とは無関係の分野でも野放図に広がった政府介入の継続を認め、あまつさえ高齢者向け医療から月面着陸に至るまで政府の新規事業を次々に受け入れている。これは、危険を無用に高める行為にほかならない。 かつてアダム・スミスは「国民の中には破滅の原因が数多く存在する」と言った。だが私たちの基本的価値観の枠組みや自由主義の原則に適う制度をもってすれば、数多くの原因にもきっと打ち勝てるにちがいない。軍事計画がいかに大規模であろうと、経済への影響力がすでにどれほど政府に握られていようと、自由を守り自由の範囲を広げることは不可能ではないと私は信じる。だがそのためにはまず、直面する脅威に目覚めなければならない。そして、自由主義に則った制度であれば、国家の強制に比べてたとえ速度は遅くとも、確実に各自の目標を実現できるのだと仲間を説得しなければならない。これが、自由を拡大する唯一の道である。知識層にほのみえる変化の兆しに私は勇気づけられている。
ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』結論
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すでにみてきたように、市場では経済効率が最優先され、それと無関係の要因は切り離される。第一章にも書いたが、パンを買う人は、小麦を栽培したのが白人か黒人か、キリスト教徒かユダヤ教徒かなど気にしない。したがって小麦の生産者は、社会通念などにおかまいなく人種や宗教を無��して労働者を雇えるので、資源を効率的に活用できる。さらに重要なことがある。市場には、個人に備わったさまざまな属性から生産性だけを切り離す働きもあることだ。ある経営者が自分の事業で、生産性とは無縁の個人的な好みにこだわるとしよう。この経営者は、そうでない経営者に比べると不利になる。なぜなら、生産性の低い選択肢を選ぶ可能性があるという余分なコストを引き受けることになるからだ。したがって市場経済においては、このような経営者は脱落する可能性が高い。 同じような現象は広く社会でも見られる。人種や宗教や皮膚の色などを理由に差別する人は、他人を不利に陥れるだけで自分は不利にならないと考えられている。これは、輸入品に高い関税をかける国は他国を不利にするが自国は有利になるという見方と根は同じである。だがどちらもまちがいだ。たとえば、黒人からモノを買ったり黒人と一緒に働くのはいやだという人は、選択の幅を自ら狭めている。この人は高いモノを買う羽目になるかもしれないし、高賃金の職が見つからないかもしれない。逆に皮膚の色や宗教にこだわらなければ、安く買えることになる。 以上から、差別をどう捉えるかには現実的な問題が絡んでくることがおわかりいただけたと思う。差別をする人は、その代償を払わされる。つまり「差別の結果」を「買う」羽目に陥るのである。差別とは、所詮は受け入れ難い他人の「好み」にほかならない。たとえば、ある人が歌手Aの歌を聴くために歌手Bの演奏会より高い料金を払うとしても、それを「差別」とは言わない。少なくとも不当とは思わない。だが、ある人種から受けるサービスに対して、別の人種に払うより高い料金を払ったら、「差別」とみなす。しかし両者の違いはといえば、前者は容認できる好みだが後者は容認できない好みだということだけである。ある家の主人は醜い召使いより美しい召使いを好み、別の家の主人は黒人の召使いより白人の召使いを好むとしよう。両者の間には、前者の好みには同意できるが後者にはできないという以外に何か原理的な違いがあるのだろうか。ここで言いたいのは、どれも好みなのだから容認せよということではない。逆である。皮膚の色や親の宗教といったものは、それだけで人を好きになったり嫌いになったりする理由になるべきではない。人は外面的な特徴で判断されるべきではなく、人格や行動から判断されるべきだと固く信じる。この点で私と好みが一致しない人がいることは承知している。彼らの好みは私に言わせれば偏見や狭量であり、じつに嘆かわしく、軽蔑せざるを得ない。とは言え、言論の自由の上に成り立っている社会で私のとるべき道は、その好みはよろしくない、考えを変え行動を変えてはどうかと説得にこれ努めることである。私の好みを無理矢理押しつけることではない。
ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』第7章「資本主義と差別」
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結局彼らを実質的に救ったのは、市場経済だった。政府から放り出されても、市場で職をみつけることができたからである。とは言え先の例と同じく、市場による保護は万全ではない。民間の雇い主は、致し方ないとも言えるが、「アカ」と目された人を雇いたがらなかったからである。共産主義を堂々と主張する人よりも、共産主義者だと告発されただけの人の方が、はるかに理不尽な犠牲を払わされたと言えよう。だが重要なのは、犠牲が絶望的とまではいかなかったことである。もしも雇用主が政府しかいなかったとしたら、告発された人々は路頭に迷うしかなかっただろう。 このとき、赤狩りに巻き込まれた人の目立って多くが、中小企業、小売業、農業など最も競争の激しい部門で職を得たことに注意してほしい。これらの部門では、理想に近い自由市場が成り立っている。たとえばパンを買う人は、小麦を栽培したのが共産党員か共和党員か、民主主義者かファシストかなど気にしない。パンに関する限り、黒人か白人かも気に留めないだろう。この事実から、人格を持たない市場は経済活動を政治的意見から切り離すこと、そして経済活動において、政治的意見や皮膚の色など生産性とは無関係な理由による差別を排除することがわかる。 いまの例からわかるように、現在の社会において競争資本主義が維持され強化されたとき最も恩恵を受けるのは、黒人、ユダヤ人、外国人など少数集団である。こうした少数集団は、多数集団から疑惑の目で見られたり憎悪の対象になったりしやすい。にもかかわらず、じつに逆説的な現象だが、自由主義に敵対する社会主義者や共産主義者には、これら少数集団に属する人が目立って多い。彼らは、市場の存在によって多数集団の威圧的傾向から守られていることを認めず、いまなお残る差別は市場のせいだと勘違いしている。
ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』第1章「経済的自由と政治的自由」
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自由主義という言葉に付された意味の変質は、以上のように経済分野の方が顕著である。が、政治の分野でも、意味は変わってきている。たしかに二〇世紀の自由主義者も、一九世紀と同じく、議会制度、代議制、市民権などを支持する。だが一九世紀の自由主義者が疑心暗鬼で、自由を奪われまいと政府や一握りの人間への権力の集中を恐れ、政治権力の分散を強く支持したのに比べると、二〇世紀の自由主義者はだいぶ違う。建前上選挙民が支配する政府の手に権力が握られる限りにおいて、その善意による行使に任せ、信頼し、中央集権的な政府を支持している。そして、権力は誰が持つべきかが問題になったときは、市よりも州、州よりも国、国よりも国際機関が望ましいとする。 自由主義という言葉がこのように変質した結果、かつては自由主義とされていた考え方が、いまでは保守主義と呼ばれている。このすり替えは許し難い。一九世紀の自由主義者は、急進主義者だったのだ。ものごとの根源を追求するという語義からしても、また社会の仕組みの大胆な変更を要求するという政治的意味合いからしても、急進的だった。後継者たる現代の自由主義者も、そうあるべきだ。国家の関与は、自由の拡大促進に与するものであればもちろん望ましいけれども、自由を大幅に妨げるものは許すべきではない。さらに、保守主義という言葉にも注意が必要である。この言葉はひどく広い意味で使われ、相容れない主義とも結びつけられるようになった。いずれ「自由主義的保守主義」だの「貴族主義的保守主義」といった形容矛盾がはびこるのは必定である。 自由を破壊しかねない制度の支持者たちに自由主義の名を引き渡すのは、断固好ましくない。それにまた、���の見解を示すのに自由主義よりふさわしい言葉は見当たらない。自由主義という言葉を巡る問題にここで片をつけるためにも、本書では自由主義をその本来の意味、すなわち自由人が掲げる主義としての意味で使うことにする。
ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』序章
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これらすべてのことは、テクストの単なる調査として捉えられなければならない。これらのテクストは、次の諸点との関連でのみ明らかにされるだろう。つまり、否定と肯定という力能の意志の二つの質の関係、力能の意志そのものと永遠回帰との関係、新たな感覚し思考する仕方としての、またとりわけ新たな存在の仕方(超人)としての価値変質の可能性。ニーチ��の術語法において、諸価値の転倒は、反動的なものに代わる能動的なものを意味する(厳密に言うと、それは転倒の転倒である。何故なら、反動的なものは能動の場所を占領することから始めたからである)。しかし、諸価値の価値変質あるいは価値転換は、否定に代わる肯定を意味し、そのうえ肯定の力能に変形した否定を、つまり至高のディオニュソス的変身を意味する。未だ分析されていないこれらすべての点は、永遠回帰の理説の頂点を形成するものである。 この頂点がどこにあるのか、遠くからではわれわれにほとんど見えない。永遠回帰は生成の存在である。しかし、生成は二重である。つまり、〈能動的‐生成〉と〈反動的‐生成〉、反動的諸力の〈能動的‐生成〉と能動的諸力の〈反動的‐生成〉。ところが、〈能動的‐生成〉だけが存在をもつ。生成の存在が〈反動的‐生成〉について、つまりニヒリズムの生成そのものについて肯定されるのは矛盾であろう。永遠回帰は、もしそれが反動的諸力の回帰であるならば、矛盾になるだろう。永遠回帰は、〈反動的‐生成〉が存在をもたないということをわれわれに伝えるのである。しかも、われわれに〈能動的‐生成〉の実存を伝えるのは永遠回帰である。永遠回帰は、生成を再生産することによって必然的に〈能動的‐生成〉を生産するのである。それゆえ、肯定は〈二〉で進んでいく。〈能動的‐生成〉の実存を肯定することなしに、生成の存在を十分に肯定することはできない。したがって、永遠回帰は二重の側面をもつ。永遠回帰は生成の普遍的存在であるが、しかし生成の普遍的存在は唯一の生成について言われる。〈能動的‐生成〉だけが存在をもち、それはまったくの生成の存在である。回帰することは全体であるが、しかし全体は唯一の契機について肯定される。永遠回帰が生成の普遍的存在として肯定される限り、さらに〈能動的‐生成〉が普遍的な永遠回帰の徴候と産物として肯定される限り、肯定はニュアンスを変え、また次第に深くなる。自然学的理説としての永遠回帰は生成の存在を肯定する。しかし、選択的存在論として、永遠回帰はこの生成の存在を〈能動的‐生成〉について「肯定されるもの」として肯定するのだ。ツァラトゥストラと彼の動物たちとを結ぶ示し合いの只中でも、誤解が生じていることがわかる。それは、動物たちが理解も認識もしない問題であるが、しかしツァラトゥストラ自身の嫌悪と治癒に関する問題である。「おお、お前たち、おどけ者たちよ、おお、くどくど繰り返す者たちよ! とツァラトゥストラは微笑みながら答えた。…お前たちは、もうそれを決まり文句にしてしまったのか」。決まり文句、それは循環と全体であり、普遍的存在である。しかし、肯定の完全な定型表現は、全体、然りoui 、普遍的存在、然りoui である。しかし、普遍的存在は唯一の生成について言われ、全体は唯一の契機について言われるのである。
ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』第二章「能動的と反動的」
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神言給ひけるは地は生物を其類に從て出し家畜と昆蟲と地の獸を其類に從て出すべしと即ち斯なりぬ。神地の獸を其類に從て造り家畜を其類に從て造り地の諸の昆蟲を其類に從て造り給へり神之を善と觀給へり。神言給けるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸の昆蟲を治めんと。神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり。神彼等を祝し神彼等に言たまひけるは生よ繁殖よ地に滿盈よ之を服從せよ又海の魚と天空の鳥と地に動く所の諸の生物を治めよ。神言たまひけるは視よ我全地の面にある實蓏のなる諸の草蔬と核ある木果の結る諸の樹とを汝等に與ふこれは汝らの糧となるべし。又地の諸の獸と天空の諸の鳥および地に匍ふ諸の物等凡そ生命ある者には我食物として諸の靑き草を與ふと即ち斯なりぬ。神其造りたる諸の物を視たまひけるに甚だ善りき夕あり朝ありき是六日なり
創世記第1章
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われわれは芸術の本質を問うている。われわれはなぜそのように問うのか。われわれが問うのは、次のような問いをいっそう本来的に問えるようになるためである。すなわち、芸術はわれわれの歴史的な現存在の根源であるのか、否か。芸術はそのようにありうるのか、そうあらねばならないのか、もしそうならどのような条件のもとでなのか。 そのような省察は、芸術とその生成とを強制することはできない。しかし、この省察による知は、芸術の生成にとって先駆的にして、それゆえ不可避的な準備なのである。ただそのような知のみが、作品に空間を、創作者に道を、見守る者に立場を用意するのである。 ゆっくりとしか成長しえないそのような知において、次のようなことどもが決定される。すなわち、芸術は根源〔原‐跳躍〕でありうるか、そしてそれは先んじての跳躍〔Vorsprung〕でなければならないか、さもなければ、芸術は単なる添え物のようなものにとどまるべきなのか、そしてそれは単にありふれた文化の一現象として他の現象と同等に扱われうるものなのか。 われわれは自分自身の現存在において根源の近くに歴史的に存在するか。われわれは根源の本質を知るか、すなわちそれを尊重するか。さもなければ、われわれは芸術に対する自分自身の態度として��ぎ去ったものについての教養的な知識をわずかにもち出すだけなのか。 この〈……か。さもなければ……〉という二者択一とそれの決定とのために、まぎれもない一つの徴がある。その作品を耐忍することがいまもなおドイツ人たちにとって緊急の課題であるような詩人、ヘルダーリンはそれをこう言うことによって名づけている。「根源の近くに住むものは、/その場所を去りがたい。」(「漂白」Die Wanderung第四巻)
マルティン・ハイデガー『芸術作品の根源』「真理と芸術」
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創作はここではいつも作品との関連で思索される。作品がその本質を発揮するには真理の生起が不可欠である。あらかじめわれわれは、創作の本質を、存在するものの不伏蔵性としての真理の本質との連関から規定する。創作されていることが作品に帰属するということは、ただ真理の本質のよりいっそう根源的な解明に基づいて明らかにされうるのである。真理とその本質とへの問いが繰り返される。 〈作品においては真理が活動している〉という命題が単なる主張にとどまってはならないとすれば、われわれはもう一度その問いを問わなければならない。 われわれはいまやはじめていっそう本質的に問わなければならない。真理の本質において作品のようなものへの動向はどのようになっているのか、と。真理が作品の内に据えられうるとすると、あるいはそれどころか、一定の諸条件のもとでは真理として存在するために作品の内に据えられなければならないとすると、そういう真理はどのような本質をもつのだろうか。だが、われわれは、〈真理を作品の‐内へと‐据えること〉を芸術の本質と規定した。したがって、最終的に立てられる問いはこうなる。 真理が芸術として生起できるとすると、あるいはそれどころか生起しなければならないとすると、そのような真理とは何であるのか。芸術はどのように存在する〔es gibt〕のか。
マルティン・ハイデガー『芸術作品の根源』「作品と真理」
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作品についてのわれわれの問題設定は、われわれが作品ではなく、なかば物について、なかば道具について問うたために、ぐらついている。しかし、それはわれわれが最初に展開した問題設定ではなかった。それは美学の問題設定である。美学が芸術作品をまず最初に考察する仕方は、存在するもの一切についての伝統的解釈の支配下にある。だが、この通例の問題設定のぐらつきは本質的なことではない。存在するものの存在を思索するとき、われわれははじめて作品の作品的なもの、道具の道具的なもの、物の物的なものに精通する。肝要なことは、このことに対してまず第一に見る眼を開くことである。そのために必要なのは、前もって自明なものの障壁が倒壊し、さまざまな通俗的疑似概念が片づけられることである。だから、われわれは回り道をしなければならなかった。しかしその回り道が同時に、作品における物的なものの規定へと達しうる道を、われわれに教えるのである。作品における物的なものは否認されてはならない。しかし、この物的なものは、それがすでに作品の作品存在に属しているかぎり、作品的なものから思索されねばならない。事柄がそのようになっているとすれば、作品の物的な現実性の規定へと至る道は、物を経由して作品へと通じるのではなく、作品を経由して物へと通じるのである。 芸術作品は、そのものなりの仕方で、存在するものの存在を開示する。作品においてはこの開示が、すなわち存在するものの露開〔Entbergen〕が、すなわち存在するものの真理が生起する。芸術作品においては存在するものの真理がそれ自体を作品の内へと据える。芸術とは真理がそれ自体を‐作品の‐内へと‐据えること〔das Sich-ins-Werk-Setzen der Wahrheit〕である。それ自体をあるとき芸術として生じさせる〔sich ereignen〕真理そのものとは何なのか。この〈それ自体を‐作品の‐内へと‐据えること〉とは何なのか。
マルティン・ハイデガー『芸術作品の根源』「物と作品」
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また一般に、なにゆえ感覚的なものと中間的なものとのほかにさらに別のものをまでも、すなわち我々〔プラトン学徒〕の措定するところのエイドスをまでも、探求しなくてはならないのかという難問(一五)が提起されよう。というのは、(A)もしそれがつぎのような理由によるとすれば、すなわち、数学的なもの〔数学的諸対象〕は、或る他の点ではこの世の事物〔感覚的なもの〕と異なっているが、同種のものが数多く存するという点ではすこしも異なっておらず、したがって数学的なものどもの諸原理もその数においては限られたものではないとすれば、――あたかもこの世のすべての言語を構成する原理〔字母が〕が、種においては限られていても、数においては限られていないように、(もっともこの特定の語節とかこの特定の有節音とかの場合は別である、この場合にはそれぞれの原理すなわち字母は数においても限られているが、)そのように中間のものの場合においても同様である、すなわちここでも同種のものが無限に多くあり、したがって、もしもこれらの感覚的なものと数学的なものとより以外には或る人々の説いているエイドスのようななにものも存在していないとすれば、ただ種において一つである実体がるだけで数において一つきりの実体は存在しないということになり、また存在する諸事物の原理も、数においては幾つとも定まらないで、ただ種においてのみということになるであろうから、――そこで、もしこのようなことになるのが必然的であるとすれば、この理由によって必然的にエイドスは〔それぞれ数においても一つであるところの原理として〕存在するものと措定されねばならない。ともあれ、エイドスを説く人々はこの点を明確には述べていないが、しかしこれがかれらの言わんと欲するところであり、なおまた当然かれらはそのエイドスの各々がそれぞれ一つの実体であって決して付帯的〔属性的〕なものではないと説くべきであった。 しかしながら、(B)もし我々が、エイドスは存在するものであり、原理はそれぞれその種においてではなしに数において一つであるとするならば、さきに我々の述べた通り、そこからも必然的に不可能な結論が出てくる。 さて、これと密接に関連しておこる難問は(一三)果して事物の元素〔原理〕は可能的に存在するのかあるいは或る他の仕方でか、というにある。すなわち、(A)もしそれが或る他の仕方で〔すなわち現実的に〕存在するとすれば、原理より先になにか或る他のものが存在することになろう。なぜなら、この仕方で存在する原因〔現実的原因〕よりもその可能態の方が先であり、また必ずしも可能的な存在がことごとくこのように〔現実的に〕存在するに至るわけではないからである。しかし、(B)もし事物の元素が可能的に存在するものであるなら、存在するいかなる事物もそのように存在しないでいることができよう。というのは、いまだなお存在していないものでさえ存在することの可能なもの〔すなわち可能的存在〕ではあるからである。なぜなら、存在していないものは存在するものに成るが、存在することの不可能なものは決して存在するものにはならないから。 さて、原理に関してこれらの難問を提起するとともに我々はまた、(一二)果して原理は普遍的なものであるかあるいは我々の言わゆる個別的なもの〔個物〕であるかをも問題とせねばならない。そこで、(A)もし原理が普遍的なものであるなら、実体は存在しないことになろう。なぜなら、共通的なものはいずれもこれと指示される個物をでなくてこのようなと言われる類を指し示すが、実体はまさにこれなる個物であるから。もし共通的の述語たるものをもこれなる個々の単一体であると仮定すれば、これなるこのソクラテスが多くの動物であることになろう、すなわちこれがその「ソクラテス自ら」であるとともに「人間」でもあり「動物」でもあるということになろう、もしも〔仮定により〕これらの各々がそれぞれこれなる個々の単一体を指し示すとすれば。さて、原理を普遍的なものであるとすると、このような結果になるが、しかしまた、(B)もし原理が普遍的ではなくて、なんらか個別的なものであるとすれば、原理は認識されないものであるということになろう。けだし、いかなるものについてもその認識は普遍的だからである。したがって、いやしくも原理についてなんらかの認識〔または学〕があってほしいとならば、これらの原理より先に他の原理が、これらを普遍的に述語し説明する原理として、存在しなくてはならない。
アリストテレス『形而上学』第三巻
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さてそれゆえに、誰もみな、自然についての著述のなかで述べられた諸種の原因を探求しようとしたもののようであり、またそれら以外にはいかなる種類の原因をも我々はあげえないということも、上述からして明らかである。しかし上述の人々はその探求が漠然としていて、或る意味ではすでに早くもこれらすべての原因が述べられたと言えるが、或る意味ではどれ一つも述べられなかったとも言える。思うにあの最初の知恵の愛求〔哲学〕は、若くもあり初めてのことでもあったので、なにを語るにも舌回りがよくない。たとえばエンペドクレスでも、骨は比λόγοςによって存すると言っている。これは、実は、物事のなにであるかτò τί ἦν εἶναι〔本質〕の意、すなわちその意味での実体の意なのである。ところで、同じく必然的に、肉やそのほか肉体組織の各部分は、それぞれその構成要素の比〔諸元素の混合の割合〕なのであって、これら諸元素の一つ一つは比なのではない。だから、肉や骨やその他がそれぞれそのように存するのはその比によってであって、それらの質料によってではないのである、――それをエンペドクレスは、火と土と水と空気とだと言っているが。――しかし、もし誰かがかれにこの点を明らかに告げたなら、かれもこれに同意したであろうが、かれ自らはまだそこまで明白には言わなかった。 さて、これらのことについてはすでにさきにも明らかにされた、しかしふたたび同じこれらのことに立ちかえり、そこに提起されうる多くの難問を数えあげよう。そうすればおそらくこれらから、のちに我々の問題を解決するのに役立つなにものかがえられようから。
アリストテレス『形而上学』第一巻
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体得された自由の印は何か?――もはや自分自身に恥じないこと。
フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』第三書
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芸術に対するわれわれの究極の感謝。――もしもわれわれがもろもろの芸術を是認することをせず、また、非真実に対するこの種の礼拝を案出しなかったとしたならば、今日科学によってわれわれに与えられる普遍的な非真実や虚偽の洞察――認識し感覚する現存在の条件である妄想や錯覚に対する洞察――は、全くやりきれないものであるだろう。誠実は結果として嘔吐と自殺をもたらすであろう。だが今やわれわれの誠実は、そうした帰結からわれわれが免れるのを助けてくれる一つの反対力を、すなわち、仮象への良き意志である芸術を、有っている。われわれは、円味をつけて仕上げるのや、詩的虚構でけりをつけるのを、われとわが眼に見えぬよう拒んでばかりはいられない。そうなれば、もはや、生成の河を渡ってわれわれが担い運ぶのは永遠の不完全性ではない――そのときにはわれわれは、ひとりの女神を運んでいると思い、この職務遂行に誇らかさを感じ、嬉々として子供のごとくになる。美的現象としてなら現存在も、いまなおわれわれに耐えられる。そして、われわれ自身をそのような現象と化すことのできる眼と手、とりわけ晴れやかな良心は、芸術を通してわれわれに与えられるのだ。自分自身を眺めやったり見下ろしたりすることによって、また、芸術上の距離をとってわが身の上を嘲笑ったり歎き泣いたりすることによって、しばしのあいだわれわれはおのれ自身からのがれて休息せねばならない。われわれの認識の情熱の内に潜んでいる主人公をもまた道化者をも、われわれは発見しなければならぬ。われわれの知恵をながく悦ぶことができるためには、時としてわれわれの痴愚をもわれわれは悦ばねばならぬ! われわれが究極のところ重苦しい生真面目な人間であり、人間であるというよりむしろ重量であるがゆえにこそ、何ものも道化師の鈴つき帽子ほどにわれわれのためになるものはない。われわれは、自分自身に対して身をまもるためにそれを必要とする――われわれの理想がわれわれに要求するあの事物に超然たる自由を喪わないために、われわれは、あらゆる傲然たる・軽やかな・踊るような・嘲るような・子供のような・祝福に充ちた芸術を必要とするのだ。ほかならぬわれわれの神経質な誠実さのゆえにすっかり道徳のなかに陥落したり、また、われわれが道徳的に自分に課する峻厳すぎる要求のため、おまけのはてに自分自身が有徳な怪物や案山子と化してしまったりするのは、われわれにとって、病気の再発というものであろう。われわれは道徳を超えて上に立つことができるのでなくてはならぬ。しか���、いまにも足滑らして転ぶのではないかと怖れるような者のびくついた硬張りをもって立つだけでなく、さらに道徳の上を飄々と漂い、遊び戯れることができなくてはならぬ! そのためにこそわれわれは、道化を不可欠とすると同様に芸術を欠くべからざるものとするのではないか? ――諸君がいまだなんらか自分自身を恥じているかぎりは、君たちはまだわれわれの同志ではない!
フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』第二書
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苦悩を求める欲望。――みながみな退屈に耐えられず自分自身に我慢できなくなっている幾百万という若いヨーロッパ人を、たえずくすぐったり刺戟したりするところの、何かをしたいというあの欲望のことに考えおよぶとき、――自分たちの苦悩から行動や行為のためのもっともらしい理由を取って来ようとして、何かに悩もうとする欲望が、彼らの内にあるに相違ないと、私は思う。困窮が必要なのだ! だから政治家たちはわめき立てるし、だからまた多数の偽った架空の誇張された、ありとあらゆる階級の「困窮状態」といったものと、それを喜んで信じようとする盲目的な気構えとが、つくりだされるのだ。こうした若者たちは、外から――幸福なんかではなく――むしろ不幸が訪れるか出現するようにと、熱望する。そして、彼らの空想力は、そこから一個の怪物をつくりだす――後ほど怪物と闘うことができるためにとて――ことに、前まえから精を出している。こうした困窮渇望者たちが、自分の心の中に、内奥から自分自身を悦ばし、自分自身に何かを与えてくれる力を感ずるならば、そのときには彼らはまた、内奥から独特の、自己独自の困窮を創造するすべをも会得するであろう。そのときには、彼らの創作物は一そう精妙なものとなりうるだろうし、彼らの満足は素晴らしい音楽のようなひびきを立てることもできるだろう。それなのに、彼らは世界を彼らの困窮の叫びで一杯にし、したがってあまりにもしばしばただもう困窮感情で一杯にしてしまう! 彼らは自分が何をしているのか皆目わからない――そこで彼らは他人の不幸を壁にえがく。彼らはいつも他人を必要とする! そしてくりかえしまたぞろ別の他人をだ! ――容赦ねがいたい、わが友よ、あえて私が自分の幸福を壁にえがいたことを。
フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』第一書
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