#すずめのお宿緑地公園
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不滅の継承
2022年、すずめのお宿緑地公園。
朽ちた竹、青々しい緑竹、伸びゆく筍。
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2024.08.14 (Wed)
早起きしてバスに乗りHay Market駅へ。事前にネット予約していたチケットを受け取り、はじめてのスコットレイルに乗車。日本でいう特急列車的な感じでした。前日の晩スーパーで拵えた1ポンドのドーナツとスタバのコーヒーを持って、車窓からどんどん緑が増えていくさまを眺める。

1時間でDunblane駅に到着。バス乗り継ぎまで40分あったので、駅近くの大型テスコへ。 (テスコは大きさ別に4種類あるらしい。街中にあるテスコエクスプレスから、テスコメトロ、テスコスーパーストア、テスコエクストラ。でも今調べたら他にもあった :0) 前日晩にドライヤーを誤って使ったせいで変換プラグを死亡させてたので、ずっと日本プラグに適合するやつがないかを見てた。
40分後、Stage Coachというスコットランドの遠距離走行バスに乗る。チケットは事前に予約済み。QRついてるのに結局スキャンされなかった(夜行バスもそうだったな)あれはなんなんだろう? 目的地はCrieffという街。Dunblaneも小さな駅だったけれど、バスが進むにつれどんどん景色がのどかになっていく。大量の羊や牛が草原でチルしてるのをたくさん見た。そして約1時間後、Crieff到着。ここも閑静でこじんまりとした街。たむろしていると工事のおじさんから「なんでこんなとこまで来た?」と珍しがって話しかけられる。

バス停から更に歩いて30分移動。道中に公園があったので遊具で遊ぶ。赤ちゃんはみんなかわいいけど、ヨーロッパの赤ちゃんってレベチでかわいい��途中迷い込んだ道は等々力みたいな渓谷だった。
そしてはるばる到着したのは、最終目的地であるグレンタレット蒸留所。スコットランドに来た理由の一つは、ウイスキー蒸留所にいきたかったから (恋人がウイスキーにハマってる) 本当はスペイサイドやアイラ島まで行ければよかったのだけど、時間が足りなかったのでここにした。グレンタレットは日本であまりメジャーな銘柄ではないが、スコットランド最古の由緒ある蒸留所らしい。宿泊先から約3時間で到着し、蒸留所ツアースタート。蒸留所内は撮影禁止だったが、どでかいポットスティルを生で見て、木製の樽で熟成させている部屋はお醤油みたいな麹みたいな良い香りがした。そしてグレンタレットには伝説の猫タウザーがいたらしく、ネズミの捕獲数でギネスに載ってるらしい (捕獲後彼自身が食べたらしいけど、尻尾だけ残すので尻尾の数を数えてギネス認定されたらしい :0) 嘘みたいな本当の話。
最後にウイスキーのテイスティング。自分はピートが効いてるほうが好みかな、と思いつつ、普段ストレートでウイスキー飲まないからテイスティングだけで結構なダメージを喰らう… ツアーだけで2種類飲ませてもらったのに、事前に追加のテイスティングも予約していたので(滅多に来れないので予約しよう、となった記憶だが我々以外に誰もいなかった xD) 結局すべて飲みきれず、小瓶に入れて持ち帰るオチ。場違いくらいの素敵なバーで、ウイスキーたくさん出てきて嬉しいはずなのに、2人して「飲めないよね…」って小声で言い合う日本人があまりにもダサすぎて、「私たちアルコール強くないので…」って思わず店員さんに言ってしまった(じゃあ何でオーダーしたのだ?と思われてそうでまた草ですね)


小瓶を携えて蒸留所を出発。ノリで寄り道することになり、スターリングというスコットランドの古都を経由して帰ることに。バスに揺られて1時間で到着。スターリングはエディンバラよりも更にこじんまりとした街だが、とてものどかで美しいところ。到着後smokeysというバーガー屋さんで遅めのお昼。変換プラグを購入し、スーパーで水を買ってたらまさかの日本人の方に遭遇。スターリング大学に留学しているのだとか。ロンドンやパリで会うのとはわけが違うので少し感動(相手も嬉しそうだったのでよかった)

せっかくなのでスターリング城へ。しかし思ったよりも急な坂で険しい道、連日2万歩歩いていた疲労困憊の体を引きずりながら、何度も引き返そうと思いながら頂上に到着。こんなに人いたの?ってくらい人がたくさんいて、何より最高にチルなスポットで気持ちよかった。こういうのって写真で全然伝わらないので載せないが、頑張って登ってよかった。
この時点で19時。すっかり疲れたので帰宅してもよかったけれど、スコットランド最後の夜なのでエディンバラ市内のパブへ行くことに。スターリングからエディンバラのウェーブリー駅まではスコットレイルで1時間。スコティッシュパブでビールとfish&chipsをいただく。




夜のエディンバラはまたまた綺麗で、この度を通して自分はすっかりスコットランドのファンになりました (元々映画で気になってたのもある) エディンバラはとっても美しく歴史のある街、パリやロンドンと比べて華やかさは少ないのかもしれないが、コンパクトだからこそ見渡す限り常に歴史の色香がただようので、本当にずっと浮かれていた。また来れたらいいな。次はグラスゴーにも行ってみたい。1日大移動してよかった :)

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埼玉県川口市でクルド人の犯罪が激増して問題になり、その対策が川口市政の中心的課題になっている!というエントリが度々ホッテントリ入りしている。またyoutubeのゆっくり動画等でも「クルド人」「川口」のテロップが入ったサムネの動画が投稿されている。結論から言うとそんな事にはなっておらん。川口市は『広報かわぐち』という広報誌を配布しているが、この10月号で犯罪認知件数が過去最低を記録しているとの広報を打っている。https://www.city.kawaguchi.lg.jp/material/files/group/3/202310-04.pdfこの一年で白昼の強盗事件、沿道商店に突っ込む大事故や死亡ひき逃げ、クルド人による病院での喧嘩騒乱などの事件が報道されて体感治安が低下している故だ。でも実際には治安は過去最高となっている。この問題を喧伝しているのはagora出身の石井孝明というライターで、産経新聞と夕刊フジがそれを元に記事を書くという構造になっている。石井のやり方は、川口、蕨を中心として、肌の浅黒い中央アジア、東南アジア系の人間が事故や事件、不法な業務、反マナー行動をしたものにクルド人を匂わす文言を付けて宣伝するという方法だ。それ故クルド人が毎日事件や不法行為をしているように見える。そんなにクルド人は増えているのか?日本にクルド人は何万人いるのだろうか?だが実際のクルド人の数は2000人程度である。人口60万人の川口市人口の0.3%だ。「あれもこれもクルド人」の安物ネガティブキャンペーンが成功しているのである。 それで今回はちょっとこの問題の背景を説明するよ。「クルド人とは何か、どういう民族か」などは産経以外の大マスコミや大学人が記事を書いてるからそういうのを参考してくれ。 地理「埼玉県川口市」でgooglemaps検索すると川口市の県境が表示される。https://www.google.com/maps/place/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E5%B8%82この一番左側の蕨駅付近が問題の舞台だ。まず、駅の東側にやたら細かい碁盤目で緑の線が入った地域があるのが判るだろうか?ここは芝2丁目と芝4丁目という地域になる。ここは一見整備された住宅地に見えるが、実は都市計画に乗っ取ったインフラ整備が間に合わなかったスプロール地域なのである。この碁盤目は元々は大正時代に田んぼを整地したものだった。緑の線は用水路跡で、今でも暗渠化された水路敷きになっている。この付近は江戸時代に作られた見沼代用水が通り、その分水も充実していた。そこで碁盤目に畔と用水路を整備して土地の権利も整理したものだ。ちょっと脱線するが、こういう整備された元田んぼ住宅地の近くにはL字の道と変形交差点を組み合わせた���うな地区がある事が多い。またそこには寺や神社がある事が多い。その場合、そこら辺は嘗ての村の集落があった場所である。行ってみるとせせこましい建売の中に突然田舎の農家のような大きな庭付きの家、時に藁ぶきだったりゴルビジェのサボア邸のようなやたらハイセンスの家が建っていて驚かされる事があるのでおススメだ。そこは付近の建売の元地主やマンションの大家である。この田んぼが戦後の高度経済成長期に売りに出され宅地化されたのがこの芝2、4丁目地区なのだ。元あぜ道は公道化されているのが多いが、そこから奥に入る道は幅が狭い砂利道のままだ。これは私道だからであり「その道路の権利は細切れになって付近の家の持ち主が持っている。故に権利関係がごちゃごちゃなので金を出し合って舗装工事をするという事が出来ない。更にこの路地は通り抜けが出来ない。真ん中に水路敷がある為だ。水路は元々の地主が権利を持っている筈だ。通り抜けにはそこに橋を掛けなきゃならないが、誰もその費用を負担したくないので碁盤目に見えて行き止まりの路地ばかりという事になっている。 1990年代初頭に建築基準法が改正されるとセットバックの義務と接道義務が定められた。接道義務とは、幅4m以上の道に2m以上接していない土地には建物建築不可という事である。これでこの路地の奥にある家というのは建替えが不可能になった。また、水路敷は舗装されていて道路に見えても道路じゃないのでセットバックの義務が無い。だからいつまで経っても道は広がらないから接道要件を満たす道にならない。散歩する時はこのせいで魅力的なのだが不動産的には不良である。この路地をストビューで見れば判るが、公道に面した家は新しい低層アパートで路地は4m拡幅、その奥の一軒は新しい戸建て(公道側隣家のセットバックで接道要件クリア)、その奥は築30年以上の古い戸建てや古アパート、となっている。奥の方の家は建替え出来ないので古いままなのだ。奥の方の家やアパートを借している場合、家が古くて車も入れない砂利道なので客付けが困難である。蕨駅から徒歩5~10分という好条件なのだがこういう状態なのだ。高度成長期中期の昭和30年代後半からこういうスプロール現���が問題になって規制が強化されたのだが、その前に家が建てこんだ地域なのだ。私有地である用水路の暗渠化は市が行ったが、これは下水道整備が間に合わず、水路に垂れ流しとなった為の代替政策だ。 さて、外国人というのは部屋が借り難い。これは差別の問題もあるが、家主としては万が一の時の連絡の問題、家賃不払いや退出後の内装補償、突如国に帰ってしまうリスク、それと土足の問題などがある。室内に靴を脱いで入るのは日本だけなのだ。最近じゃ米国都市部も日本式になって来てるが。だから土足で生活されて畳床等がダメになるリスクがある。故に外国人が部屋を借りるのはとても大変だ。一方、建替不可で古くて前が砂利道で引っ越しのトラックも入れない、なんていう借家やアパートの大家は客付けが全然できない。この両者の利害が一致して賃貸借契約、とあいなる。お互い「こんなボロ屋なのに高いが…」「外国人でリスクが高いが…」という妥協の産物だ。 このやたら細かい碁盤目地区はもう一か所ある。駅の反対側に線路で分断された川口市の飛び地みたいな三角の土地があるだろう。ここは芝園町と芝富士という地区なのだが、そのうち芝園町は元鉄道車両工場のUR団地(電車から見える屏風みたいな建物)、芝富士は元田んぼの細かい碁盤目地区だ。この芝富士地区は先の芝2・4丁目地区と全く同様の特徴と来歴を持っている。路地のセットバックが進んで4m以上が確保されて建替え可能になっている所が多いなど、スプロール化の程度は2.4丁目よりも改善されているのだが、それでも水路敷による路地分断などはあり、また建替不可家屋が密集する地帯もある。更にここは飛び地状態なので見捨てられた感もあり市政が行き届きにくいという特徴もある。中学校や幼稚園が線路の反対側で遠いのだ。ここも同様の理由で昔から外国人が多かった。 「蕨」なのに「川口市」であるのはこういう事で、駅の左右に川口市の不良宅地地区がありそこのアジア系の住民が住む事が増えたというのが原初としてあったのだ。「川口市は小規模の鋳鉄工場があり外国人工員を必要とした」という説明をしている記事もあるが間違いだ。鋳鉄工場地域は西川口から南側であって、蕨周辺は田んぼから住宅地に転換している。その転換が早すぎてスプロール化してしまったのだ。 始まりはヘイトデモクルド人問題がおかしな奴らの飯のタネになっている問題の根幹は在特会のヘイトデモに遡る。2009年に在特会はオーバステイフィリピン人の子息が通う中学校付近で「叩き出せ」といシュプレヒコールを上げるデモを行うようになった。この中学校や居宅は蕨駅の南側、西川口駅寄りだ。このデモに左翼運動からの転向者が合流すると一気に過激化し、「殺せ」「殺しに来た」というコールになり、警察に掴まらないような巧い仕方の暴力や、近所のヤジに対して「○○人の家だ」「お前日本から出ていけ」「殺せ」と連呼したり、お散歩と称してデモの後に落書きをしたり通行人に因縁を付けたりという行動をするようになった(後に警察官が解散地から駅まで随行するようになった)。転びアカが合流すると大抵こういう事になる。これに呼応して掲げられる旗も日章旗から旭日旗やハーケンクロイツとなっていった。そんな中で在特会は芝園団地付近でクルド人に住民が迷惑しているという情報を掴む。そこでヘイトデモの開催地は蕨駅~西川口駅から蕨駅北方になる。そこで鍵十字の旗が沢山はためき、「悔しかったらクルド野郎出てこい殺してやる」などのデモがされるようになった。但し、彼らは居住地区を知っていたから疑問なので警察がそこから外れるルートを許可していても判らなかったかもしれない。 こういう経緯で中東系や中央アジア系の人間の犯罪、不始末を「クルド」と称する動機が生まれてきた。事件が有る度に「これは在日朝鮮人」という差別デマがずっと流れていたが、それの中央アジア版だ。 もう一つの理由がトルコの少数民族問題で、トルコは親日国で、そこで問題化している少数民族のクルドは敵だ、という単純な世界観によるもの。元々国際問題を親日反日でしか捉えれない人間の頭の中なのでこれ以上はバッファオーバーフローである。そもそも少数民族問題は国家の宿痾であって国際政治学では必ず履修する項目であるのにそれを焚きつけて利益にせんとするあたり、ガソリンスタンドでタバコを吸うバカの如しである。 故にそれよりこの方ずっと「クルド」はやべぇ奴らの間の符丁となり、民族問題を理解するという動機にはならずに、彫りが濃い人間の不祥事は「クルド」とする文脈が生まれたのである。 続く https://anond.hatelabo.jp/20231004185255
蕨と川口とクルド人の問題に関して その1
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Special TY in Bangkok 2023 October
ペンミの話は別スロットに書く(予定は未定)
コロナ後3回目のバンコクへ行って来た。メインはテギョンのファンミーティング。マイレージだったからなんとか予約出来た2日も前の木曜にバンコク入り。超早朝着であっという間にイミグレ出れた。空港で両替屋が開くのを待ち、エリアリンクの始発5時15分位ので市街地へ。車窓に広がるバンコクの街がだんだん目覚めて行く。今回は久しぶりにシーロムに泊まる。シーロムはHouse Partyのプレスコンファレンスが行われた、今は無いDusit Tani ホテルがあった所。ニックンのウギョルの撮影も行われた由緒あるホテルがあった地区。今は建て替え中。
予約したのは繁華街のタニヤ通りから程近いホステル。アーリーチェックインを前もって頼んでおいたら快諾。ところが行ってみたら誰もいなくて、オートロックで入れない。仕方��くホステルの前のベンチで待つこと30分。チェックアウトのタイ人男女グループが出てきたので、その隙にちゃっかり中に入り込んだ私は泥棒か?エアコンが効いたロビーで充電しながら待ってるとようやく従業員がやってきた。今日から宿泊予定で、アーリーチェックインを頼んである、と伝えるが、全く英語はダメらしく、スマホの翻訳機を示された。なんとか交渉し、掃除する彼女を待ち、8時には部屋に入れた。部屋はこんな感じ。清潔だし広さ十分。これで4泊で2万円切る。

到着日のランチはタイのハレスとシーロム近くで約束してたから、それまで部屋でまったり過ごす。
ランチはやっぱりタイ料理。4ヶ月ぶりの現地タイ料理が安くてなんと美味しいこと。そこでテギョンが今夜来ると���報ゲット。一旦彼女と別れ、また夜に空港で落ち合うことにする。
空港では懐かしい面々に再会。お迎えはKhunチームとテギョンチームで何故か左右に分かれる。別に両チーム仲がいいのに(笑)お迎えも見送りもコンバインした動画がこちら。日本人は私しかいなかったかも〜
帰りは明日も遠出に連れてってくれるタイペンチングがホステル近くまで送ってくれる。
金曜はタイは祝日。3��休の週末はバンコクから脱出する人が多いらしく、道が空いているからと(確かに渋滞もなくスイスイ。おまけに祝日は高速料金無料らしい)、郊外のミシュランレストランでランチ。そのお店がこちら。

外装も内装もお味も全て合格のレストラン。過去にミシュラン⭐️を5回も獲得してるだけあり、珍しい美味しい料理を堪能しました。ここは味を守るためか、あまり支店は多くなく、本店はチェンマイのニマンヘミンにあるらしい。ニマンヘミンと言えばKhunJun.K ハネムーンカップルがカフェを訪れた通り。チェンマイにはまたゆっくり行きたい。
ランチ後はここから車で15分ほどの、ニューヨークへ(笑)ニックンがFinding The Rainbow 🌈 を撮影したニューヨークのカフェがバンコク郊外にあったとは😂確かに雰囲気はニューヨークだった🇺🇸クルー総勢でのクランクアップの写真もこの前で撮影したのは間違いなさそう。

https://davincafethailand.com/
翌日土曜日はいよいよテギョンFM。これまたホステルまで、別のKhunペンが迎えに来てくれる。ペンミ会場はリノベ中で店がほとんど空いてないからと、行く道すがら、クイッティオ屋(麺屋)さんで腹ごしらえ。

皆んな最初から2杯ずつオーダーしてたけど、食べきれるのかわからなかった私はとりあえず汁なしを1杯だけ注文。細いの太いの平たいのと麺の種類も選ぶのがタイスタイル。これが美味しいのなんの😋タイチングがテーブルにあったドライ魚を千切って入れてくれたのも美味だった。ペロッと平らげ、結局私も2杯目に。2品目はスコータイ風餃子スープにする。私が注文したら、それKhunママの得意料理よ、と言われた。私には作れないw
途中、私のお気に入りのタイのお菓子屋さんにも立ち寄ってくれた。

会場は結構遠かった。地図見てどっかの駅から歩いて行けるかなと思った私は浅はか。交通の便が悪く、噂通り廃墟のような(←タイ人も言ってるw)ショッピングモール。帰りはまた車で送ってくれたタイチングと打ち上げ。おこわご飯とコーンソムタムを早くもこの旅で2回目食べる私。

日曜はこれまたちょっと郊外の駅で待ち合わせ。ニックンとベクホが撮影したレストランに車で連れてってもらう。ランチタイムは家族連れで大盛況。なんとか窓側席を確保し、ニックンが注文した料理をいくつか注文する。ニックンは注文してないけど、私が大好きな白身魚の丸ごとディープフライปลาย่างราดพริกにもようやくありつけた。これが日本じゃなかなか食べれないんだよな。

ご飯の後はスーパーでラムヤイやらソムタム用ココナッツ砂糖、カバオソースやら例によって買い込む。ラムヤイはどうしても食べたくて、もっと少ないロットの袋を作ってくれるよう、友達がスーパーの店員さんに頼んでくれたら、店内一周してる間に用意してくれてた。なお今回一番買いたかったのはソムタム用スライサー。帰国してさっそく使ったけど、大根サラダにも使える👍

その後、仏教公園までドライブ。ここはワットではなく、公園。日曜とあり、近所の家族がハンモック張ったり、ピクニックしたり、散歩してたり思い思い楽しんでた。

立派な仏陀像があり、僧侶の会合とか開かれるホールも敷地内にある。広々としてて緑がいっぱいで実に気持ちがいい。タイの国土の広さを実感。あまりの広さにここで運転の練習する人がいるらしく、「ドライブ練習禁止」って看板が出てた(笑)
彼女に駅まで送ってもらいBTSでシーロムに戻り、ネイル屋さんに直行。実は朝も立ち寄ったけど、日曜朝は激混みだった。夕方のこの時間は空いてた。イケメンのお兄さんに、1日歩き回った(ほとんど車内だったとは言え)汚い足を洗ってもらってごめんね🙏マニュキアとセットなら50バーツ追加の550バーツで済むよ、と言われたけど、ペディキュアのみでお願いする。眼下でずっとイケメンのお兄さんが施術してるから、スマホばっか見てた私😅
無事ペディキュアを終え、ホステルでひと休みした後、夜はまたテギョンお見送りに空港へ。4泊5日で3回も空港往復する筋金入りハレスは私です。またも日本人は私だけだったかも。深追いはタイハレスに任せて、私は軽く済ませる(笑)帰りはすっかり深夜。また車で送ってもらう。空港の駐車場に行くと、彼女の車が出れない場所に別の車が停めてある。タイあるある。そこで始まりました。噂には聞いてたけど、実際見るのは初めての車人力押し。私は傍観者で🙏4人で押しのけ、無事車を出せました。5人乗りに6人乗って、途中、ハイウェイで土砂降りの大雨に雷。めちゃスリリングなドライブだった😆
翌月曜日はいよいよ帰国。当初は朝便に乗る予定だったけど、夜便が空いたのを見てすかさず変更。マイレージだから出来る技。今回シーロムに泊まることにしたのは、To Do Listミッションクリアのため。それはニックンが撮影で走ったルンピニー公園ジョギング。ルンピニー自体は行ったことあるけど、一度は走らなきゃ!が、ちょい寝坊し、既に暑くなりかけ。なんとか軽く一周駆け抜けた。軽くなのに汗びっしょり。テギョンタオルが役に立った💚

最終日、私にはもう1人会わなきゃいけない10年来の大事なチングがいる。有名大学を休学し、アイドル修行をソウルで頑張ったFちゃん。その夢をタイに帰国して叶えた。今はグループ解散しちゃったけど、たまにYouTubeアップしたり、元メンバーをサポートしたりしてる。透き通る歌声。もったいないから、これからもやめないで活動してね。その彼女、タイ語、韓国語、英語はもちろんのこと、日本語まで話せる。日本語の歌もご覧の通り。
youtube
彼女が探してくれた洒落たタイ料理屋さんで美味しいランチを食べた後、2人でマッサージ屋さんへ向かう。彼女はタイ式、私はオイルマッサージを予約してもらってた。たっぷり2時間。��イルマッサージなのに、なんかガッツリ揉まれた😆SASUGAタイマッサージ!
と、完璧な帰国日のスケジュールを終え、最後は空港まで車で送ってくれた。出会った時は高校生だったのに、すっかり素敵な大人の女性になり、私も感無量。今回はママにお会い出来なかったのが残念でしたが、また会いにタイに来ます!
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街とその不確かな壁/君たちはどう生きるか/ジブリ・春樹・1984
最初のジブリの記憶は『魔女の宅急便』(1989年)だ。母がカセットテープにダビングした『魔女の宅急便』のサントラを幼稚園の先生に貸していたから、幼稚園の頃に見たのだ。
まだ座席指定の無い映画館に家族で並び、私は映画館の座席で親に渡されたベーコン入りのパンを食べていた。4・5歳の頃の記憶だ。
その夜、私は夢の中で魔女の宅急便をもう一度見た。私は親に、夢でもう一度映画を見たと伝えた。
『おもひでぽろぽろ』(1991年)も映画館で見たが、あまりよく分からなかった。『紅の豚』(1992年)も映画館で見た。帰りにポルコ・ロッソのぬいぐるみを買ってもらい、縫い付けられたプラスチックのサングラスの後ろにビーズで縫い付けられた黒い目があることを確認した。
『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)『耳をすませば』(1995年)までは両親と一緒に見たと思う。
父はアニメに近い業界にいたため、エンドロール内に何人かの知人がいたようだった。アニメーターの試験を一度受けたそうだが、他人の絵を描き続けることは気が進まなかったらしい。
家のブラウン管の大きなテレビの台の中にはテレビ放送を録画したVHSテープが並び、ジジやトトロの絵とタイトルを父が書いていた。テレビ放送用にカットされたラピュタやナウシカを私は見ていて、大人になってから初めて見たシーンがいくつかあった。
“家族で映画を見る”という行事はジブリと共にあった。ジブリ映画の評価は今から見て賛否両論いくらでもあればいいと思うが、批評も何も無い子ども時代に、母がとても好きだった魔女の宅急便や、戦争は嫌いだが戦闘機が好きな父と紅の豚を見られたことは幸福な年代だったのだと思う。
評価が何も確定していない映画をぽんと見て、よく分からなかったり面白かったりする。
親は『おもひでぽろぽろ』を気に入り、子どもにはよく分からない。父からは昔の友だちが熱に浮かされたように「パクさんは本当に凄いんだよ」と言い続けていたと聞かされた。
※
大人になった私は『ゲド戦記』(2006年)を見て「面白い映画に必要なものが欠けているこの作品を見ることにより今までに見たジブリ映画のありがたみが分かった」とぐったりし、『崖の上のポニョ』(2008年)を新宿バルト9で見て、全然楽しめず、新宿三丁目のフレッシュネスバーガーで「神は死せり!」と叫んでビールを飲んだ。
2020年には『アーヤと魔女』の予告編に驚愕し、『モンスターズ・インク』(初代、2001
年)からずっと寝てたのか!?と罵倒した(見ていない)。
私が持っていたジブリという会社への尊敬は過去のものになり、多彩な才能を抱えていたにもかかわらず明らかにつまらないものばかり作る血縁にしか後任を託せない状況にも嫌悪感を抱いた。
期待値は限りなく低く、『君たちはどう生きるか』を見ようかどうか迷っている、とこぼしたら「見て文句も言えるからじゃあまあ一緒に行く?」という流れになり、見た。
あまりにも期待値が低かったため、文句を言いたくなるような作品ではなかった。私は2023年、もっともっとつまらない映画を何本も劇場で見ている。つまらない映画を劇場で見ると、もう2度と見なくて良いという利点がある。
『君たちはどう生きるか』の序盤、空襲・火災・戦火で街が焼ける場面、画面が歪で、不安で、安定感がなく、私はホッとしていた。綺麗に取り繕う気のない、表現としての画面だった。
複数の場面に対してセルフ・パロディーであるというテキストを読んでいたが、私にはあれらはオブセッションに見えた。小説家でも芸術家でも脚本家でも、何を見ても何度も同じことを書いているな、という作家に私は好感を持っている。少なくとも、いつも結局テーマが同じであることは減点の理由にはならない。
『君たちはどう生きるか』になっても高畑勲の作品に比べればどうにも女性の人格が表面的で、天才はこんなにもご自身の性別をも超えて何もかもわかり物語に落とし込めるのかと感激した『かぐや姫の物語』(2013年)に比べてしまうと胸の打たれかたが違うのだけれども、でも私は取り憑かれたテーマがある作家のことが、いつも好きだ。
スティーブン・スピルバーグは『フェイブルマンズ』(2022年)でもう大人として若い頃の母親を見つめ直せていたように思うが(フェイブルマンズで取り憑かれていたのは別のものだ)、
宮崎駿は小さい頃に一方的に見つめていた母に取り憑かれ、母の内面には踏み込めないまま、少年・子どものまま母を見つめ続け、自分が老年の大人として若い母親を見つめ直す気は無い。
そして、母親の方を少女にして映画の中に登場させる。しかも「産んでよかった」という台詞を創作する。
貴方は大人なのにずっと子どものままで母親に相対したいのですか、と思いはするものの、子どものままの視線で母を見つめ続けたいのなら、それがあのように強烈ならば、それがオブセッションなら全くかまわないことだと思う。
最初に屋敷に出てきた7人のおばあちゃんがあまりにも妖怪じみているので驚いたが、あれは向こうの世界とこっちの世界の境界にいるかた達という理解で置いておいてあげよう。
それにしてもアオサギが全く可愛くもかっこよくも無いことに最後まで驚いていた。頭から流れる血液も、赤いジャムも気持ちが悪い。途中途中、激烈に気色が悪い。世界や生き物は気持ちが悪く、性能の良い飛行機みたいに美しくは無い。カエル、内臓、粘膜、血液、食物もグロテスクだ。嫌悪ではない、全部生々しい。生々しく、激烈だ。その生々しさを必要としたことに胸をうたれた。
塔の中のインコについて、愚かな大衆だとかジブリはもう人が多すぎてしまったんだとか商業主義的な人間の表現だというテキストも読んだのだけど、私はあのインコたちがとても好きだった。
インコたちは自分達で料理をして、野蛮で、楽しそうだった。終盤、緑豊かな場所にワッセワッセと歩いていくインコさんが、「楽園ですかねぇ」「ご先祖さまがいますねぇ」と言ったようなことを言うシーンが面白く、可愛らしく、インコたちの賑やかな生活(時に他者に攻撃的であっても)を想像した。
私は水辺の近くをよく散歩していて、大きな渡��鳥が飛来してまた消えていくのをじっと見つめている。鳥たちがある日増えて、いなくなる。国を越えて飛んで行き、地球のどこかには居続けているのがいつも不思議だ。
映画の中で、鳥やカエルはあのように生々しく、実体をつかんでアニメーションに残すことができるのに、全てを生々しく捉える気が無い対象が残っている。どうしてもそれを残すことが寄す処なら、それはそのままでかまわない。
※
小説では、村上春樹の『街とその不確かな壁』を読んだ。
私の父は村上春樹と同い年で高校卒業後に東京へ出てきたので、『ノルウェイの森』で書かれている、まだ西新宿が原っぱだった頃を知っている。その話を友人にしたところ、『西新宿が原っぱだったというのは春樹のマジックリアリズムかと思っていた』と言っていた。
私が村上春樹を読み始めたのは及川光博が「僕はダンス・ダンス・ダンスの五反田君を演じられると思うんだけど」と書いていたの読んだのがきっかけだ(曖昧だけれども、1999年くらいか?)。
『風の歌を聴け』は家にあったので、そのまま『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』を読み、その後短編集をあるだけと、『ノルウェイの森』『世界の終わりとハートボイルドワンダーランド』を読み、『ねじまき鳥クロニクル』は途中途中覚えていないが一応読み、『スプートニクの恋人』(1999年)を高校の図書館で読んだがあまり面白くないと感じた。
最近ではイ・チャンドン監督の映画『バーニング』(2018年)が素晴らしかったし、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021年)も面白かった。
『ドライブ・マイ・カー』の原作(短編集『女のいない男たち』収録)は映画を見た後に読んだが���反吐が出るほどつまらなく、気持ちが悪い短編だった。
イ・チャンドン監督も、濱口竜介監督も、「今見たらその女性の描写、気持ち悪いよ」を意識的に使っていたのだろう。『バーニング』は『蛍・納屋を焼く・その他の短編』時期の初期春樹、『ドライブ・マイ・カー』はタイトルこそドライブ・マイ・カーだけれども、ホテルの前の高槻の佇み方はダンス・ダンス・ダンスの五反田君であろう(港区に住む役者である)。
村上春樹のことは定期的にニュースになるのでその度に考えているのだけど、2023年に、フェミニズムのことをある程度分かった上で過去作を読むのはかなり厳しい気もしている。
次から次にセックスをしているし、主人公はガツガツしていない風なのに何故かモテているし、コール・ガールを呼びまくっている。
『ダンス・ダンス・ダンス』に出てくるユキは13歳の女の子で、ユキの外見・体型に関する記述はそこまで気持ち悪くはないのだが、『騎士団長殺し』に出てきた未成年の女性に対する描写はとても気持ちが悪かった(はず。売ってしまったので正確ではないのだが、あまりに気持ちが悪くて両書を比較をした)。
いくら今「この人は世界的巨匠」と扱われていても、作品を読んで気持ち悪いと思えばもう読む価値のない作家であるので、まだ読んだことがない人に読むべきとは全く思わない。
けれども、20年前に読んだ村上春樹は面白かったし、『ダンス・ダンス・ダンス』に書かれる母娘の話に私は救われたのだと思う。
最近友人に会い、「村上春樹は読んだことないんだけど、どうなの?」と聞かれたので、「春樹の物語は色々な本で同じモチーフが多い。主人公がいて、どこかへ行って、帰ってくる。戻ってきた世界は同じようでいて少し変わっている。私たちが現実だと思っている世界は世界の一部分に過ぎず、どこかでみみずくんが暴れているかもしれないし、やみくろが狙っているかもしれないし、誰かが井戸の底に落ちたかもしれない。だけど主人公は行って、戻ってくる。どこかで何かが起こっていても、行って戻ってくる。一部の人は行ったっきり、帰ってこられない。」
「この世では 何でも起こりうる 何でも起こりうるんだわ きっと どんな ひどいことも どんな うつくしいことも」は岡崎京子の『pink』(1989年)のモノローグだけれども、何でも起こりうる、現実はこのまま永遠に続きそうだけれども、ある日小さなズレが生じ、この世では何でも起こりうるんだわ、という小説を次々に読みながら大人になったことを、私は愛している。日常を暮らしていると現実の全てに理由があるかのように錯覚してしまうけれども、「何でも起こりうる」世界には、本当はあまり理由がない。何か理由があると錯覚し過ぎてしまうと、公正世界仮説に囚われて、善悪の判断を間違ってしまう。
「主人公が、行って、帰ってくる」形は数えきれないほどの小説・映画の構造なので特徴とも呼べないところだけれども、『君たちはどう生きるか』もそうだし、『ダンス・ダンス・ダンス』も、『世界の終わりとハー��ボイルドワンダーランド』も、昔読んだ『はてしない物語』だって勿論そうだし、『オズの魔法使い』もそうで、『君の名は。』もそうだったような気がする。
『はてしない物語』の書き方はわかりやすい。
「絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。」コレアンダー氏はいった。「いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージエンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ。」
※
『街とその不確かな壁』は春樹の長編も最後かもしれないしな、と思って読み始めたが、半分を超えるまで全然面白くなく、半分を超えてもちょっと面白いけどどう終わるんだろうこれ、の気持ちだけで何とか読み終わった。
17歳の少年のファーストキスの相手の音信が突然途絶えようと、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の世界の終わり側の話をもう一度読まされようと、どうしてそれを45歳までひっぱり続けるのか、読んでいて全然情熱を感じなかった。
イエロー・サブマリンのパーカを着た少年が何のメタファーなのかは勿論書かれていないが、春樹は昔に還りたいんだろうか?何故か「あちらの世界」から物語がこちらに、鳥に運ばれてきたみたいにするすると現れ世界を覗けたあの頃に?活発な兎が息を吹き返すように?
※
宮崎駿のオブセッションや視線は今も跳ね回っており、村上春樹の滾りは、もう私にはよくわからないものになった。
私は昔『ダンス・ダンス・ダンス』を何ヶ月もずっと読み続け、どのシーンにどんな形の雲がぽつんと浮かんでいるかも記憶していた。欲しいものだけ欲しがればいいし、くだらないものに対してどんなことを友だちと言い合いビールを飲めば良いかを知った。
岡崎京子に「幸福を恐れないこと」を教えてもらったみたいに。
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先日、今年3本目となるバス旅行で国営ひたち海浜公園へネモフィラ畑見学に行ってみる。ほぼ10年ぶりの訪問となる。当時は、みはらしの丘の斜面に咲広がるネモフィラが話題となり始めた頃だった。しかし、人気化による来場者数の増加に対し、食事場所や乗り物といった園内インフラが十分に整っておらず、ネモフィラ以外の部分では相当不便であった。そうした印象の悪さもあり、その後訪れることがなかった。
今回、以前利用したことのある旅行会社から案内が来たことをきっかけに、もう一度出かけてみることにした。
バスは、三郷南ICで外環に合流、三郷JCで常磐道に入った。三郷と言えば、隣接して八潮市がある。八潮市ではこの冬、路面陥没によりトラックが下水道に転落する事故が発生している。インフラの老朽化は、地域の老朽化そのものを表しているようにも感じる。路面陥没の復旧には数年かかるとされ、インフラ整備を怠るとさらに高くつくことを教えてくれた。そんなことを思い出す。

ひたち海浜公園でのネモフィラの開花状況は五分咲き程度。全体としてはまだまだといったところ。まばらにしか咲いていないところも散見される。それでも見学に訪れている人たちは多い。前回は、逆にピークを過ぎた時期だった。黄色の水仙やチューリップなど、さまざまの春の花が咲いているのが見える。それらは軽くみながら、一路、みはらしの丘を目指す。バス旅行なので、見学時間が限られている。しかも、みはらしの丘は出入り口から距離があるので、余裕を持って往復の時間を考慮しておく必要がある。これがバスツアーの宿命か。

みはらしの丘からの眺め。前回とさほどイメージは変わらない。眺めとしては良好だが、ネモフィラの鑑賞にはみはらしの丘の頂上より、登る途中の方がいいだろう。

ネモフィラの開花状況を見ていると、種を蒔いたと思われる部分のほかに、筋場でみるからに等間隔で整列して咲いている場所もある。これは、ポッドで生育し、発芽した苗を植えたと思われる。一面のネモフィラ畑を作り上げるために、さまざまな苦労や工夫をしていることがよくわかる。当然ながら、それほど容易ではないのだろう。
みはらしの丘を降りながらもネモフィラを眺めるが、なぜか見どころは少ない。ネモフィラはあまり植えられていないのかもしれない。見終わったら、とっとと下りてくださいということなのかもしれない。まぁ、そんなことはないと思うので、時期をずらして開花するようにしているかもしれない。

ここまで、割と急足できたので、時間に余裕がある。ネモフィラをバックに、記念写真を撮影してくれるサービスがあった。仕上がりを見ると、人物は小さく、面積比で約1/9の領域に過ぎない。顔による本人の確認は厳しい。周囲のネモフィラだけが強調されてい。想定していた写真とは異なるが、とりあえず、一つの記念としてとっておくか。
今年は、水色のネモフィラに加えて薄緑や白色のネモフィラも植えられていたようだ。だが今回、それらを確認することはできなかった。いずれ、エリアで種類を分けるなどの工夫がされる可能性はある。また、種類によって開花時期がずれているとさらに鑑賞時期が長くなるかもしれない。今後、どのような展開になるか情報はフォローしていきたい。更なる進化を期待したい。
ひたち海浜公園で初めて知ったネモフィラだが、欧州ではベイビー・ブルー・アイズとして親しまれていたようだ。地面に咲く一面のブルーの花。今では、前日深夜や早朝から並び、開園と同時に走ってみはらしの丘を目指し、見学客が入っていないネモフィラを撮影する見学客がいるそうだ。何に対して個人のリソースを消費するかは、まさに個人の価値観そのものである。人のリソースには限りがある。自らの価値観を正しく認識し、行動することが大切だ。
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「ロンドンに移住して悔しい思いを何度もした」布袋寅泰、挫折から立ち上がる人生 #アジア文化最前線
4/26(土) 18:00配信
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Yahoo!ニュース オリジナル 特集

写真:石黒淳二
60代に入ってますます精力的に活動を続ける布袋寅泰(63)。ロンドンを拠点に、世界のHOTEIとしてその名を轟かせる。布袋が家族とともにロンドンへ移住したのは今から13年前、50歳のときのこと。そこから世界での活動では多くの挫折を経験した。50代を全力で駆け抜けた今、「守りに入る気持ちに傾くことはある。でも俺は“攻め”でいたい」と語る。ロック界の巨人は、なぜアグレッシブに走り続けるのか――。(取材・文:山野井春絵/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
挫折を通してしか見えない景色がある

写真:山本倫子
グレーヘアの、圧倒的な存在感。その横顔は、「自分の魂を削る作業を続けながら音楽を作ってきた」という言葉通りに、研ぎ澄まされていた。
最新の布袋が最高の布袋――。
布袋寅泰には、年を重ねたというよりも、「進化した」という表現がやっぱり似合う。
近年の国内外における活躍は目覚ましい。昨年はCOMPLEXの復興支援ライブで話題を集め、夏にはイタリアの国民的アーティスト、ズッケロのライブに特別ゲストとして出演。年末は日本武道館で2日間の公演を成功させている。そしてこの春、布袋は、ロンドンと東京を行き来しながら、相変わらず多忙な日々を送っている。
ロンドンでは、布袋も自らマーケットに出向き、季���の食材や花を買い求める。晴れたり曇ったりする気まぐれな空の下、公園の緑や、美しい街並みを眺めながらの散歩が楽しい。自身のインスタグラムでも、ときおりロンドンライフのプライベートショットを披露している。布袋は、「移住という選択は間違いではなかった」とうなずきつつ、これまでの日々にはいくつもの試練があったと振り返る。
「移住してからは、正直、悔しい思いを何度もした。自分の音楽が思うように伝わらなかったり、言葉や文化の壁にぶつかったり……。でも、そういう挫折があったからこそ、自分を見つめ直せたし、鍛えられたと思う。成功とは違う、成長という価値を、ロンドンという街が教えてくれた。言い換えれば、挫折を通してしか見えない景色がある。そんなことを、あの土地で痛感したんだよね」

2014年3月、ザ・ローリング・ストーンズと共演(写真:外山繁)
50歳、人生の折り返し。気力、体力ともに衰えを感じはじめるタイミングで、コンフォートゾーンを飛び出しての挑戦は、よほどの勇気がなければ難しい。しかし、「50代からだって、決して遅くない」と布袋は力強く言う。世界への挑戦を決めて移住してからは、数々の奇跡的な体験をしてきた。なかでも2014年に実現した、ザ・ローリング・ストーンズとの共演は忘れられないという。
「小規模ながら、ヨーロッパツアーを成功させることができたし、現地のミュージシャンや関係者とのつながり��増えてきた。何より、どんな場所でも物おじしない度胸がついたのは大きかったと思ってる。50代でこういう経験ができたことは、自分の人生にとって本当にかけがえのない時間だった。結局、大事なのは“どこで転ぶか”じゃない。“どう立ち上がるか”。そこに、その人の音や人生が宿るんじゃないかな」
BOØWY解散後に感じた重圧はとてつもなかった

1988年10月に行った初のソロライブ
ギターとリズムの融合をテーマに、1988年に発表した『GUITARHYTHM(ギタリズム)』は、布袋のソロ活動のはじまりを象徴するアルバムだ。ロンドンでのレコーディングも行い、すでに世界基準のサウンドを目指していた。
ロックバンドのBOØWY時代とは一線を画したこのアルバムは、当時の日本のロックシーンを騒然とさせ、数多くのミュージシャンに影響を与えた。その制作期間、しばらく表舞台から姿を消していた布袋だったが、その間の心境をこう明かす。
「あのときは、まさにゼロからのスタート。BOØWYという巨大な存在の後、自分一人の名前で音楽を届けることの重圧は、とてつもなかった。でも同時に、これ以上ない自由も感じていた。何をしてもいい、どこへ行ってもいい。だからこそ、ギターにリズムマシンを重ねるという、当時としては斬新な発想にチャレンジできたんだよね。今振り返ると、あの怖さがあったからこそ、ブレークスルーが生まれたんだと思う」
アバンギャルドとポップの間で、布袋寅泰という唯一無二のスタイルを確立した、ソロ1作目。
「BOØWY解散後、『自分は何者なのか?』『どんな音を��らしたいのか?』と自問自答する中で生まれたのが、このプロジェクトだった。あれから35年以上、音楽シーンも環境も大きく変わったけれど、『GUITARHYTHM』シリーズだけは常に今を映し出す鏡であり続けたいと思ってる。あの頃の自分に会えたら、『よくやったな』と言いたいし、今の俺にも『まだ終わってないぞ』と言いたいね」
COMPLEXの再結成ライブが大きなヒントに

写真:山本倫子
37年の歳月をかけたシリーズは、今回で8作目。「8」という数字からインスピレーションを受け、80年代におけるニューウェーブのエッセンスもふんだんに取り入れた。
「ここ数作は、現代社会や未来に対する警鐘や不安を描いた、比較的ダークで内省的な作品が続いていた。でも今回はあえて、頭で難しく考え込むのではなく、もっと直感的に、体で感じて楽しめるような作品を目指した。80年代のサウンドって、攻撃的でありながらも遊び心があって、何より未来を信じていた空気がある。そういうエネルギーを、2020年代の今、もう一度自分の音楽として再解釈したかったんだよね」
80年代とは何だったのか。当時の音楽は、自分に何をもたらしたのか。あの頃から見た「未来」である2020年代に立ち、布袋は原点を見つめ直そうとしている。
「そう思えたのは、昨年のCOMPLEXの復興支援ライブでの10万人の熱狂的な反応も大きかった。あの2日間の東京ドームに鳴り響いた歓声や、拳を突き上げる無数の手を見て、80年代に自分たちが作った音楽が今も、進化した音楽としての力と輝きを放っていることを改めて気づかされたんだ。あれは大きなヒントだった。『GUITARHYTHM Ⅷ』は、懐かしさを呼び起こしつつ、今の自分で更新したサウンドで、聴く人の心と体を揺さぶる、そんな作品にしたかった。これまでの旅路を振り返りながら、今の自分が鳴らすべき音、届けたいメッセージを形にしたつもり。ノスタルジーに寄りかかる気はないけど、むしろ良き日のサウンドやスピリットを土台に、未来へ向けて新しい扉を開くようなアルバムになった」
「今の布袋寅泰は何者?」への挑戦

最新作ではギタリストCharとのコラボが実現(写真:山本倫子)
キャリアを積み上げた今でも、創作には苦しみが伴う。それこそが純度を保ってきた理由だ。「GUITARHYTHM」とは、アルバムであり、旅であり、布袋自身の進化の記録でもある。1作目からずっと、このシリーズは「今の布袋寅泰は何者か?」という問いに対する答えを出すための挑戦だった。
「だから作るたびに、まずは過去の自分と対峙しなきゃいけないし、そのうえで今の自分にしか鳴らせない音を探さなきゃいけない。それが本当に骨の折れる作業なんだ。生みの苦しみっていうのは、毎回ある。どんなに経験を積んでも、簡単になんてならない。それだけ、このシリーズには覚悟がいるし、自分の魂を削るような作業でもあるからね。原動力はやっぱりギター。いつも僕の中で、まだ誰も聴いたことのない音が鳴ってる。それを形にしたい、その一心。そして、待っていてくれるファンの存在。彼らの『次はどんな布袋寅泰なんだ?』っていう期待のまなざしが、俺の背中を押してくれる。だから『もうやり切った』なんて絶対に思えない。むしろ、まだまだこれからって気持ちで、ギターを握っているよ」
今年、アジア版グラミー賞とも呼ばれる国内最大規模の音楽賞「MUSIC AWARDS JAPAN」が本格的にスタート。5月には、京都で授賞式が開催される。布袋はこの音楽賞の創設に、「素晴らしい試みだと思う」と期待を寄せている。
「日本には本当に素晴らしいアーティストや音楽がたくさんある。でも、それがなかなか国際的な評価につながってこなかったのも事実。この『MUSIC AWARDS JAPAN』が、日本の音楽の多様性と奥深さを世界に示す場になってくれたらうれしいし、ジャンルや世代を超えて、音楽が持つ力を祝福するようなイベントになれば。もしいつか自分のギター��その場にふさわしいと感じてもらえるときがきたら、喜んでステージに立ちたい」
死ぬまでギターを弾いていたい

写真:山本倫子
ミュージシャンも栄枯盛衰、音楽は時代の流れに左右されるもの。年齢を重ねるなかで、守りに入りたくなる瞬間はないのだろうか。
「いや、正直言うと、そういう気持ちになることもあるよ。でも、俺はずっと“攻め”でいたい。ギターを手に���ステージの最前線で音を鳴らし続ける。根っこにある情熱だけは失わず永遠に続けたい、という気持ちもありつつ、『GUITARHYTHM X(10)』を一つの区切りにしようかな……なんて、最近はちょっと考えてる。正直、この先タイトル読むのも大変になってきそうだし(笑)、今いくつ目だっけ?って自分でも忘れそうだからさ。だけどできることなら死ぬまでギターを弾いていたい、それが本音。でも、皆さんが思うほど簡単なことじゃない。だからこそ、作品やステージに魂を込めて、今の自分と全力で向き合い続けたい」
そんな布袋寅泰の、これからの夢とは?
「やっぱりシンプルに、音楽でどれだけ多くの人の心を揺さぶることができるか、ってことかな。今回のニューアルバムを引っ提げたツアーも、全力でぶつかっていくつもりだし、世代を超えて、観てくれる人たちに元気と勇気を届けたい。60代になっても、まだまだロックンロールアーティストとしてのエネルギーは衰えてないつもり。むしろ今だからこそ出せる深みってあると思うんですよ。若い世代にも響くような音を届けたいし、同世代には『まだまだやれるぞ』っていうメッセージになればうれしいね。そして、これからもギターと一緒に、進化し続けたい」
布袋寅泰(ほてい・ともやす) 群馬県生まれ。ロンドン在住。1982年にロックバンド「BOØWY」のギタリストとしてデビュー。バンド解散後、1988年からソロ活動���スタート。東京2020パラリンピック開会式でパフォーマンスを披露するなど日本を代表するギタリストとして活躍。4月16日に最新アルバム『GUITARHYTHM Ⅷ』をリリース。4月26日から全国ツアー「HOTEI the LIVE 2025 “GUITARHYTHM Ⅷ TOUR”」を開催する。
「#アジア文化最前線」はYahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。新たな才能が生み出すエンターテインメントや豊かな歴史に根ざした伝統芸能など、最新のトレンドや伝統の再発見をお届けします。日本を含むアジア文化への理解を深め、世界とのつながりを広げることを目指します。
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太古の昔、地球の海は緑色だった。未来の海は紫色になる可能性も 牡丹堂 (著)・パルモ (編集) 公開:2025-04-17・更新:2025-04-17 地球の表面の約7割を覆う青い海。その美しい姿から「青い惑星」と呼ばれてきたが、太古の海は、緑色だったかもしれないという仮説が、日本の名古屋大学をはじめとする共同研究チームによって提唱された。 この研究では、硫黄島周辺で確認される緑がかった海水に着目し、約38億年から18億年前の始生代に存在した海の様子を検証している。 広告の下に記事が続いています 当時の海には鉄が豊富に溶け込んでおり、そこに現れたシアノバクテリア(藍藻)が光合成を行うことで鉄を酸化させ、酸化鉄が広がった結果、海水が緑色に見えていたというのが研究の概要だ。 この酸化反応の積み重ねが、やがて地球の大気中に酸素をもたらす「大酸化イベント」へとつながり、複雑な生命が誕生する大きな一歩となったという。 鉄と光合成がつくり出した「緑の海」仮説 始生代(太古代)の地球は、現在のような酸素に満ちた世界ではなく、大気も海も酸素をほとんど含まない「嫌気的(けんきてき)」な環境だった。この時代に登場したのが、酸素を使わずに光合成を行う原始的な微生物たちだ。 名古屋大学をはじめとする、京都大学、東北大学、東京科学大学、龍谷大学との共同研究チームによれば、当時の海が緑色であったとする仮説の根拠は、東京都小笠原諸島を構成する硫黄島の海に生息する「藍藻(シアノバクテリア)」だという。 一般に光合成を行う生物は、「クロロフィル」という色素をアンテナにして太陽の光を捉えている。ところが、原始的な生命である藍藻はクロロフィルだけでなく、補助的に「フィコビリン」という色素も利用している。 もし彼らの体にフィコビリンを利用する仕組みが備わっているのなら、それは大昔の環境を反映したものなのかもしれない。 この画像を大きなサイズで見る image credit:Pixabay 縞状鉄鉱床が語る海の色の変化 じつは藍藻は、私たち酸素を呼吸する生き物にとって大の恩人だ。 今は酸素が豊富な地球だが、かつ���はほとんどなかったと考えられている。ところがその状況は、24億年前に藍藻が光合成を行い、大量の酸素を吐き出したことで一変する。 これは「大酸化イベント」と呼ばれており、複雑な生命の進化を可能にした重要な転換点とされている。 この酸化の痕跡として、地球各地には「縞状鉄鉱床」という特異な地層が残っている。これは酸素が少ない時代に沈殿した鉄分と、酸素と反応して赤くなった酸化鉄が交互に層を成すことで形成される。 この縞状の模様は、まさに海と大気中の酸素の変化を記録した“地球の記憶”とも言える。 この画像を大きなサイズで見る オーストラリア、カリジニ国立公園に残された縞状鉄鉱床 Photo by:iStock 研究チームのシミュレーションによると、初期の光合成によって海中に酸化鉄の粒子が大量に発生し、表層の海水の色が薄緑色になったとされている。 当時、太古代と呼ばれるまだ酸素がほとんどなかった時代の海には、火山や地上の川から流れ込んだ鉄が蓄積していたが、酸素がほとんどないために「二価の鉄」という液体に溶けやすい状態だった。 ところが、藍藻の光合成によって大酸化が始まると、大量の酸素が海中の鉄に結びつき、「三価の鉄」に変化した。これが意外な影響をもたらしたのである。 三価の鉄は青い光を吸収しやすい。さらに海の水は赤い光までも吸収してしまう。その結果、海の中は緑の光だらけになった。 これで困ったのが、それまでクロロフィルで光合成をしていた藍藻たちだ。 クロロフィルは青や赤の光をキャッチしやすいが、緑の光は苦手だ。 そこで効率が悪くなったクロロフィルの代わりに、緑の光でも光合成ができる道具が必要になった。 その結果、一部の藍藻たちは緑の光を吸収するフィコビリンを進化によって獲得した。したがってフィコビリンの存在は、当時の海が緑色だったことを告げている。これが研究チームの仮説である。 この画像を大きなサイズで見る 硫黄島周辺の海は緑色をしている。太古の海もこれと同じだったかもしれない/Image credit: Phan Lee McCaskill, USN, Public domain, via Wikimedia Commons 緑の海は地球外生命の存在を告げるサイン? 仮説の正しさは、遺伝子操作をした藍藻でも検証されている。フィコビリンを持つ藍藻を太古の緑の海を再現した環境で育ててみると、成長スピードが増したのである。 こうした海の色の変化はゆっくりとしたもので、場合によっては元に戻ることもあったかもしれない。 藍藻はそうした環境の変化にうまく対応するために、2種類の光を利用できるアンテナを体に留めた、こう考えるのなら辻褄が合うだろう。 未来の海は紫色に?色が語る生命の可能性 この研究は、過去だけでなく未来にも示唆を与えている。たとえば、火山活動が激化し、大気中の酸素が減少すれば、硫黄を利用する「紅色硫黄細菌」が優勢になり、海が紫色になる可能性もある。 また、陸地の風化や農業排水に含まれる栄養分が大量に海に流れ込むと、「赤潮」の原因となる藻類が増殖し、海が赤く染まることもある。実際、現代の都市部の沿岸ではこうした現象がしばしば観察されている。 さらには、太陽が老化し明るさを増す未来には、紫外線の影響で海水の蒸発が進み、最終的には地球から海が消えてしまう日が来るとも予測されている。 この画像を大きなサイズで見る image credit:unsplash 緑の海は「生命の兆し」かもしれない もし緑の海仮説が正しければ、地球の海の色の変遷や、生命の進化の歴史を紐解く手がかりになるだけでなく、地球外生命の捜索にも役立つかもしれない。 緑の海が生命を宿した兆候であるというのなら、緑の光を目印に遠く離れた惑星にいるかもしれない生命を探せばいいのだ。 NASAの宇宙生命探査計画「Habitable Worlds Observatory」においても、バイオシグネチャーとしての緑の海に注目しているとのことだ。 この研究は『Nature』(2025年2月18日付)に掲載された。 References: Nature / Theconversation / Nagoya-u.ac.jp 本記事は、海外の情報を基に、日本の読者向けにわかりやすく編集しています。 コメントを見る(10件) 📌 広告の下にスタッフ厳選「あわせて読みたい」を掲載中 あわせて読みたい 地球の生物はどのようにして海から陸に進出したのか?ロボットで進化の歴史を探る試み 岩石から排出される古代の二酸化炭素の量は世界中の火山に匹敵することが判明 インド洋に存在する巨大な「重力の穴」の謎。太古の海の亡霊かもしれない 南極の海で100万年前の古代生物のDNAを発見、これまで確認されたものの中で最古 太古の昔、4本足のクジラが陸と海の両方で暮らしていた。南アジアに続き南米ペルーでも化石を発見。
太古の昔、地球の海は緑色だった。未来の海は紫色になる可能性も | カラパイア

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暮らしに余白と安心をくれる、街のようなマンション。「クレストプライムレジデンス」って知ってる?
川崎市幸区にある「クレストプライムレジデンス」。 この名前、マンションの名前としてはちょっと長めだけど、実際に見てみると、その“スケールの大きさ”にしっくりくるんです。
ここは、ただの集合住宅じゃありません。 整った街並み、ゆったりとした敷地、美しく手入れされた緑。 まるでひとつの街がそのままマンションになったかのような場所です。
戸数は1000を超える超大規模マンション。 でも、意外にも“ごちゃごちゃ感”がないのが不思議。 空や緑、風の通りまでちゃんと考えられた設計で、住む人にストレスを感じさせません。
もっと詳しく知りたい方はこちらからチェックできます。 → https://kizuna.senseproject.jp/?p=8860
ファミリーにうれしい仕掛けがいっぱい
マンション内にはキッズルーム、パーティールーム、ゲストルームなどが揃っていて、「子育てしやすい」を地で行く充実度。 敷地内に遊歩道や中庭もあり、ちょっとした公園気分を味わえます。 お子さんが走り回っても安心できるって、けっこう大事なポイントですよね。
さらに、小学校や保育施設も徒歩圏。 スーパーや病院、公園も近くにあって、忙しい共働き家庭でも安心の環境です。
通勤も生活も、「ちょうどいい距離感」
最寄り駅はJR南武線「矢向」駅。 徒歩10分前後でアクセス可能というのは、毎日の通勤を考えるとありがたい距離。 しかも、横須賀線・湘南新宿ラインが通る「新川崎」駅も利用できるので、都心方面へのアクセスもラクラク。
“ちょうどいい”って、住まいを選ぶうえで実はすごく大事な基準です。 クレストプライムレジデンスは、まさにその「ちょうどよさ」が詰まった立地なんです。
管理の手が行き届いた美しい街区 この物件の特徴のひとつが、街区ごとに異なる設計と設備。 でもどの街区も共通して、「きちんと整っている」印象があります。
清掃や修繕など、日常のメンテナンスが行き届いていて、共用部も気持ちよく保たれています。 特に大規模マンションでは、この「管理の質」が住みやすさに直結します。
住むうちに「ここにしてよかった」と実感できるのは、こうした見えない配慮があるからかもしれません。
中古市場でも人気が高い理由 実は、クレストプライムレジデンスは中古でも評価が高いんです。 価格帯も比較的安定していて、立地や築浅街区の人気ぶりは継続中。 とくに南向きや高層階、角住戸など条件の良い部屋は、すぐに買い手がつくことも。
再開発が進む川崎駅エリアとの相乗効果もあり、将来的な資産価値を見ても安心できるポイントが多いのも魅力のひとつです。
少しでも「気になる」と思ったら、情報を見てみて クレストプライムレジデンスのように、立地・環境・管理・将来性のバランスが取れた物件って、なかなか出会えません。 「なんとなく気になるな」と思ったタイミングこそ、動きどき。
物件情報はこちらから見られます。 → https://kizuna.senseproject.jp/?p=8860
写真だけでも、かなりイメージが膨らむと思いますよ。
暮らしの選び方を変える、ひとつのきっかけに 大切なのは、「どんな空気の中で暮らしたいか」。 仕事だけじゃなく、家に帰ってからの時間をどう過ごすか。 クレストプライムレジデンスには、その選択肢がちゃんと用意されています。
設備や便利さだけじゃない、「安心して暮らせるかどうか」を大切にしたい人にこそ、一度見てほしい物件です。
気になったら、まずはページを見てみてくださいね。 → https://kizuna.senseproject.jp/?p=8860
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明治公園コクバイ控訴審、ついに判決! 夜・報告集会やります。大結集を!

野宿生活者に対する強制執行仮処分という史上最悪の暴挙独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)・国・東京都を相手取りコクバイ提訴 2020東京五輪メイン会場=新国立競技場建設による野宿者への仮処分強制執行の不当性を問う
明治公園オリンピック追い出しを許さない国家賠償請求訴訟 控訴審 判決日
2025年 2月27日(木)東京高裁 14:00 東京地裁・高裁前(霞ヶ関駅) 集合 メシ・街頭情宣 15:00 開廷 東京地裁 717号法廷 ※約50席

控訴審 報告集会 18:00 開場 文京シビックセンター4階ホール JR水道橋駅 東口 徒歩10分 / 地下鉄「春���駅」・「後楽園駅」駅直結 / 都バス「春日駅」(都02・都02乙・上69・上60)
コロナ禍で強行された東京オリンピックの主会場・新国立競技場は、緑豊かな都立明治公園を潰して建設されました。その準備工事の過程で明治公園とその周辺から野宿者が次々と排除されました。事業主である日本スポーツ振興センター(JSC)は最終的に、東京都が指定したわずかな区画に暮らしていた野宿者3名に対し「土地明渡しの仮処分」を東京地裁に申し立てました。JSCと東京都は話し合いを求める野宿者たちに一切応えず、東京地裁は「オリンピック開催が危うくなる」と詭弁を弄すJSCの主張をうのみにし仮処分を決定。2016年4月16日早朝、あってはならない「断行の仮処分」が強行されました。東京地裁所属の執行官全員と警察・警備員が大勢押しかけ暴力的に排除、野宿者の小屋を壊し、生活物資のすべてをトラックで運び去りました。現場責任者の執行官はJSCに渡された嘘の図面を元に執行範囲外の区画からも荷物を強制撤去、公園外での荷物返却にも一切応じませんでした。 この不当なオリンピック追い出しに対し裁判闘争を開始して足掛け8年、一審での不当判決に抗い闘ってきた控訴審の判決日を迎えるにあたり、同日夜、「明治公園コクバイ控訴審報告集会」を開催します。原告団の明治公園元野宿住人と4団体、ともにコクバイを闘った弁護団が発言します。大結集ヨロシクお願いします!
※参加費無料 ※取材要申込み(撮影制限あり)連絡先090-4432-6753 明治公園コクバイ原告団
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スリランカで古代のアーユルヴェーダの技を発見
スリランカのコロンボで飛行機から降り立ったとき、私は興奮と緊張を感じずにはいられませんでした。スリランカで何千年も実践されてきた伝統的な医学体系である古代のアーユルヴェーダの技を探求する一人旅に出発しようとしていたのです。私はずっとホリスティックヒーリングの概念に魅了され、それについてもっと知りたいと思っていました。スリランカツアー を専門とする評判の高いツアーオペレーター、コンクツアーズが私のためにカスタマイズされた旅程を作成し、自己発見と健康の旅へと連れて行ってくれると約束してくれました。
最初の目的地はネゴンボの町で、豊かな緑に囲まれた美しいアーユルヴェーダリゾートにチェックインしました。部屋に入ると、アーユルヴェーダの医師が温かい笑顔で迎えてくれ、アーユルヴェーダの原理と滞在中の施術方法を説明してくれました。私は、ヴァータ、ピッタ、カパという 3 つのドーシャの概念と、それが私たちの心身の健康を左右する仕組みに魅了されました。その後数日間、マッサージ、ハーブ風呂、瞑想セッションなど、ドーシャのバランスを整え、全体的な健康を促進するための一連のトリートメントを受けました。
滞在中のハイライトの 1 つは、古代のアーユルヴェーダ料理の技術を学ぶ機会を得たことです。午前中はリゾートのシェフと一緒にキッチンで過ごし、伝統的なアーユルヴェーダ料理に使われるさまざまなハーブやスパイスについて学びました。リゾートの庭で採れた新鮮な食材を使って、一緒においしい食事を作りました。味の複雑さと、各料理の準備に込められた細部へのこだわりに驚きました。アーユルヴェーダ医学では食べ物が重要な役割を果たしていることは明らかで、私はこれらの原則を自分の料理に取り入れたいと思いました。
スリランカ中を旅していると、多くのアーユルヴェーダの施術者に出会い、彼らの知識と専門知識を教えていただきました。ハーブ園を訪れ、さまざまな植物やハーブの薬効について学びました。熟練した職人が何世代にもわたって受け継がれてきた技法を使って伝統的なアーユルヴェーダ薬を調合する様子を、私は畏敬の念を抱きながら見ていました。どこへ行っても、この古代の伝統を守ることに尽力する人々の情熱と献身に感銘を受けました。
もちろん、スリランカの豊かな文化遺産を探索しなければ、スリランカへの旅は完結しません。私は古代都市アヌラーダプラを 1 日かけて探索し、真鍮の宮殿の遺跡と神聖な菩提樹に驚嘆しました。キャンディの象徴的な仏歯寺を訪れ、信者が日々の儀式を行う様子を畏敬の念を抱きながら見ました。どこへ行っても、この素晴らしい国の鮮やかな色彩、音、匂いに心を打たれました。
旅の間中、コンク ツアーズは素晴らしいサポートとガイドを提供してくれました。私の運転手であるランガさんは知識が豊富で、私たちが訪れた場所についての物語や洞察を共有してくれました。彼は地元の人々を紹介してくれました。彼らは私を家に招き入れ、伝統を教えてくれてくれました。私は旅程の柔軟性に感謝しました。そのおかげで、途中で思いがけず立ち寄ったり、隠れた名所を探索したりできました。
スリランカ アーユルヴェーダ ツアーを振り返ってみると、それが私の人生に与えた大きな影響に驚かされます。私はリフレッシュし、元気を取り戻し、インスピレーションを得て帰国しました。アーユルヴェーダの古代の芸術と現代生活への関連性について、より深く理解することができました。スリランカの美しさと多様性に対する新たな認識が生まれ、旅の途中で出会った人々と有意義なつながりを築くことができました。
スリランカへの一人旅を考えているなら、アーユルヴェーダの世界を探索することを強くお勧めします。この素晴らしい国の中心部へとあなたを導く旅で、豊かな文化遺産、見事な自然の美しさ、そして深い幸福感を発見することができます。コンク ツアーは、スリランカに関する専門知識と情熱を持ち、この旅を案内するのに最適なパートナーです。さあ、あなた自身の自己発見と健康の冒険に乗り出してみませんか? 今すぐスリランカ アーユルヴェーダ ツアーを予約して、この古代の伝統の変革力をご自身で体験してください。
実用情報
スリランカを訪れるのに最適な時期: 12 月から 4 月
推奨滞在期間: 7 ~ 10 日間
宿泊施設: アーユルヴェーダ リゾート、ブティック ホテル、ゲストハウス
交通手段: 専用車とドライバー、公共交通機関、徒歩
アクティビティ: アーユルヴェーダ トリートメント、料理教室、ハーブ園訪問、文化ツアー、ハイキングやサーフィンなどのアウトドア アクティビティ
言語: 英語、シンハラ語、タミル語
通貨: スリランカ ルピー (LKR)
結論
スリランカのアーユルヴェーダ ツアーは、私にとって一生忘れられない人生を変える体験でした。自己発見、健康、文化に浸る旅でした。アーユルヴェーダという古代の芸術に対する新たな認識とともに、リフレッシュし、新たな気持ちで、刺激を受けて帰国しました。ユニークで変革をもたらすような旅行体験をお探しなら、スリランカでアーユルヴェーダの世界を探索することを強くお勧めします。今すぐ Conch Tours でツアーを予約して、忘れられない発見と健康の冒険に乗り出しましょう。
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わかはる っちゅんちゃーぬ くゎい HIGA Summit 2023 Part 4♪若者のための会「HIGA Summit 2023」Part 4♩
うちなーぐちぐゆみ6月21日(うらんだぐゆみ2023年8月7日)Part 1❤️
Part 2❤️
Part 3❤️

はい!めーなち にっかまでぃ ぬーがら あいびーしが、ちゅーん ひてぃみてぃから ちばいびーんどー😆
くとぅばとぅ ジェンダーに ちーてぃ、大学ぬ しんしーが 発表し くぃみそーちゃん。
マジョリティぬ くとぅば びかー はなし ないるっちょー、くとぅばー コミニケーションツールり いやびーんり。
やいびーしが、くんねーる かんげーびかー あいびらん。くんねーる かんげーよー けーらんでー ないびらんり。
くとぅばー イデオロギーやんり。コミュニケーションツールびかー あらん。コミュニティとぅか うぬしま(社会)ちゅくいし やいびーんり。
ゆぬ くとぅば やてぃん、ゐなぐが ちかいる くとぅば、 ゐきがが ちかいる くとぅばに ゆてぃ かわいん。ジェンダーとぅ かかわいぬ あんり。
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はい!毎日遅くまでイベントがあるのですが、今日も朝早くから頑張りますよー😆
言語とジェンダーについて、大学教授が発表してくださいました。
マジョリティ言語を話す人は、言語はコミュニケーションツールだ、と言うそうです。
ですが、言語というのはこれだけではありません。このような考えを変えなければならないそうです。
言語はイデオロギーである。コミュニケーションツールだけではない。コミュニティや社会を形成するものである。
同じ言語を使用する者同士でも、女性が使う言語、男性が使う言語によって変わる。ジェンダーと関わりがある。

参加者ぬなーかぬ LGBTQIA+ぬ 言語活動家ぬ っちゅんちゃーが 発表 しみそーちゃん。
どぅーぬ しまとぅか くにとーてぃ、ちゃぬ くとぅば継承 活動 ひちょーが とぅか、なまぬ どぅーぬ しまぬ 状況や ちゃー なとーがとぅか、ありくり あたがい はなし ひちょーたん。
いっぺー ひらとーる どぅしん ぅんじとーたくとぅ、いっぺー びんちょー ないびたん。
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参加者のなかで、LGBTQIA+の言語活動家が発表くださいました。
自国やコミュニティで、どんな継承活動をしているか、現状はどうなっているかなど、経験を話してくれました。

あんさーに、ちげー、どぅーさーに どぅーぬ むんがたい かきゆーするぐとぅ ヱクササイズ さびたん。
かびんけー かち、HIGAぬ っちゅんけー ��題とぅさーに 提出さんでーないびらんたん💦
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次は、自分の言語にまつわるストーリーが書けるようになるエクササイズをしました。
書き起こして、HIGAに提出しないといけないという宿題でした💦

🍗あさばん さびたん。 くまとーてぃん、 んなさーに かみーがなーち、ありくり くとぅばにちーてぃ ゆんたく さびたん。
くま あさばのー 学校給食ふーじーやーり うむとーびーたん。
あんしーねー、学校給食すがとーる くゎいしゃから こーとーんるる くとぅ やいびーたん😆 あんすか まーさいぎさはーねーびらんしが、あじぇー まぁ まーはいびーたん。。。
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🍗ランチタイムです。皆で食べながら、言語についてあれこれおしゃべりしました。
ここのランチは、学校給食みたいだなーと思っていました、、、
ら、学校給食を作っている会社から購入していることがわかりました😆あまり美味しくみえないですが、味は良かったです。。。

🪿🌳しぜん こうゑぬんけー バスから いちゃびたん。
バスコー エコとぅか 自然まむいる たみなかい ありくり ちばとーびーんり。やくとぅる、バスクぬ いろー 緑 やいびーんり。
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🪿🌳自然公園にバスに乗って行きましたよー。
バスク地方は、自然保護のためにエコを頑張っているそうです。だから、バスクカラーは緑だそうな。

💃バスクぬ フォークダンスぬ ちーく さびたん。
うれー うちなーとーてー もーあしび やいびーがやー😍
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💃バスクのフォークダンスレッスンがありました。
歌って踊って、沖縄では「もーあしび」になりますかね😍
🍺🍺🍺🍺🍺🍺
あきさみよー! ひっちー ぬでぃ、きむ やまさんがやー。。。
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あきさみよー!ずっと飲んでばっかりで、肝臓壊さないかな。。。
#うちなーぐち#うちなーぐちHIGA Summit 2023!#HIGA Summit 2023!#Okinawan language#Basque Country#endangered language#うちなーんちゅ#琉球諸語#バスク地方
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筍のシルエット
2011年、すずめのお宿緑地公園。
皐月の日差しを受けて伸びゆく筍。
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コンクリ、木の枝…相次いだ落下物直撃事故 落ちてこない仕組みを 2024/12/27 20:44 堀川 玲
「誰かー」。太陽がぎらぎら照り付けていた9月2日午前9時半ごろ、東京都港区芝大門のオフィス街に助けを求める声が響いた。ビルの解体工事現場横の路上で、上から落下してきたコンクリート片が下にいた警備員の横山雅則さん=当時(67)=の頭に直撃し、出血。病院に搬送されたが死亡した。安全管理の技術が進んだはずの現代でも、落下してきた人や物による事故は後を絶たない。
割れたヘルメット 警視庁愛宕署によると防犯カメラの映像では、事故発生時、横山さんはもう1人の警備員と掃き掃除をしており、しゃがんだ状態だったという。突如として15メートルほどの高さから大きなコンクリート片が落下し、横山さんの脳天に直撃。頭蓋骨が割れた。
事故直後の現場には、横山さんが着用していたヘルメットとコンクリート片が複数散乱。ヘルメットは形を保ってはいたが、真っ二つに割れていた。
ビルは防音パネルで全体を覆われていたものの、コンクリート片が飛び出してきた箇所はその衝撃でパネルが外れかかり、今にも落下しそうな状態だった。
現場近くで電気工事をしていたという男性は、「(横山さんは)頭を道路に向けて倒れていた。5分ほどの心臓マッサージの後、搬送されていった」と話し、心配そうな表情を見せた。
現場はオフィス街で、正午が近づくと多くの人がビルの付近を通行。誰もが「コンクリート片は自分に当たっていたかもしれない」とおびえたことだろう。
飛び降り自殺でも この事故の2日前には横浜市で、JR横浜駅につながる商業施設から女子高校生が飛び降り、下を歩いていた女性を巻き込んで2人が死亡した。
生徒は11月25日、重過失致死の疑いで容疑者死亡のまま書類送検された。神奈川県警が、生徒は他人を巻き添えにする可能性を予測でき、その上で自ら転落したと判断したためだった。
同様の飛び降り自殺による巻き込み事故は他にも複数起こっている。都内では、豊島区南池袋の百���店で平成19年に、新宿区歌舞伎町のビルで30年に発生。巻き込まれた歩行者はそれぞれ死亡、右腕を骨折する重傷を負った。
9月には日野市が管理する緑地でイチョウの枝が折れて落下し、下敷きとなった30代男性が死亡した。この事故を受けて、国土交通省は11月、都市公園などで起きた倒木事故を把握するための初の全国調査を実施している。
上空から人やコンクリート片、人が亡くなるほど大きな木の枝が落ちてくる状況など、どうやって予期すればよいというのか。ほんの少しタイミングや場所がずれていれば、被害はより大規模になっていた可能性もある。
責任はどこに 愛宕署は、横山さんの死亡事故についてはいまだ捜査の途中で、直接の死因も、工事を行っていた会社の過失も未確定としている。
横浜駅や南池袋の事故のように、飛び降り自殺により他者を巻き添えにした場合に容疑者死亡のまま書類送検されれば、必然的に不起訴となる。被害者本人およびその遺族らの無念さは察するに余りある。
街を歩くときに、自分の周囲だけではなく、頭上にも気を配らなければならないのだろうか。危険だと分かっていても、歩行中にもスマートフォン(スマホ)を見てしまう忙しい現代人にとって、頭上の危険を察知するのは簡単ではない。
場所や状況は違えど高所から人や物が落下し被害者が出ている以上、おのおのの会社や施設、行政では安全対策の見直しが必要だろう。これ以上罪のない犠牲者を出さないためにも、「落ちてこない」仕組みづくりを再考してほしい。(堀川玲)
(コンクリ、木の枝…相次いだ落下物直撃事故 落ちてこない仕組みを 年の瀬記者ノート - 産経ニュースから)
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#すずめのお宿緑地公園 #すずめのお宿公園 #目黒区古民家 居酒屋じゃないよ笑 竹林にタケノコが出てきてるよ #paparunのpapawalk #papawalk 2021/05/04 #ウォーキング #ウォーキングダイエット #朝ウォーク #ゆるウォーク #ファンウォーク #朝ウォーキング #散歩 #朝散歩 #GARMIN #ガーミン #forathlete45 #forathlete (すずめのお宿緑地公園) https://www.instagram.com/p/COfS8U0Av6P/?igshid=1ihva3w7gooqg
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