#イギリス海軍
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Capitulo 1:ヨーロッパの雰囲気が漂う五稜郭/Goryokaku a hallmark with European airs.
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Sean bienvenidos a una nueva entrega de cultura e historia japonesa, en este caso vamos a hablar sobre Goryokaku, localizado en Hakodate en la prefectura de Hokkaido al norte de la isla de Honshu.
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Toponimia de Hokkaido en, el siglo XIX se llamaba Ezo, fue el último reducto del shogunato contra el nuevo orden creando una república (1868-1869). Hay que destacar que Japón estuvo cerrado al mundo durante 260 años de su historia (1603-1868), este periodo se le conoce como periodo Edo, bajo el régimen militar Tokugawa.
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En 1854 finalizaron los tratados de amistad con Estados Unidos, Gran Bretaña, Rusia. Hakodate se convirtió en una ciudad portuaria abierta al mundo exterior y en 1858, concluyendo el tratado comercial y al año siguiente se convirtió en puerto comercial. Hisaburo Takeda, estudio en Europa y se formó en fortalezas tipo estrelladas de traza italiana, en 1864 se completaron las contribuciones de la fortaleza.
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Espero que os guste y nos vemos en próximas publicaciones.
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Welcome to a new installment of Japanese culture and history, in this case we are going to talk about Goryokaku, located in Hakodate in the Hokkaido prefecture north of the island of Honshu.
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Toponymy of Hokkaido in the 19th century was called Ezo, the last stronghold of the shogunate against the new order creating a republic (1868-1869). It should be noted that Japan was closed to the world for 260 years (1603-1868), this period is known as the Edo period, under the Tokugawa military regime.
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In 1854 the friendship treaties with the United States, Great Britain, and Russia ended. Hakodate became a port city open to the outside world and in 1858, concluding the commercial treaty and the following year it became a commercial port. Hisaburo Takeda, studied in Europe and trained in Italian star-type fortresses, in 1864 the contributions of the fortress were completed.
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日本の文化と歴史の新しい記事へようこそ。今回は、本州の北、北海道の函館にある五稜郭について話します。
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19 世紀の北海道の地名は蝦夷と呼ばれ、共和制を樹立する新秩序(1868~1869 年)に対抗する幕府の最後の拠点でした。 日本は 260 年間 (1603 ��から 1868 年まで) 鎖国していたことに注意してください。この期間は、徳川軍事政権下の江戸時代として知られています。
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1854 年にアメリカ、イギリス、ロシアとの友好条約が終了しました。 函館は対外に開かれた港湾都市となり、1858年に通商条約を締結し、翌年には商業港となりました。 武田久三郎はヨーロッパに留学し、イタリアの星型要塞で訓練を受け、1864 年に要塞の建設を完了しました。
source/ソース:photos internet/写真インターネット
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カルタゴ滅亡をトレースする現代日本
◆カルタゴはなぜ滅んだのか?!
日本と同じような商人国家であったカルタゴが、完膚なきまでに滅ぼされた例を他山の石として日本人は国防を考え直す必要があると切に思うからです。
カルタゴは紀元前250年頃、地中海に覇を唱えていた大国でした。
第2次ポエニ戦争に負けて、戦勝国から武装を解除させられ、戦争を放棄することになったカルタゴは、戦後の復興を貿易一筋で見事に成し遂げ、戦後賠償も全てきれいに払い終えました。しかし、その経済を脅威だと捉えたローマ帝国によって、結局は滅ぼされてしまいました。
滅ぼされる直前、カルタゴの愛国者であるハンニバル将軍は、ローマの考えを悟り、祖国の危機をカルタゴ市民に訴えましたが、平和ぼけした市民は耳を貸そうとしませんでした。
それどころか「ハンニバルは戦争をしようとしている!」と中傷する者さえいました。しかも、最終的にハンニバルはローマに洗脳された者達によってローマに売られ、自殺にまで追い込まれてしまったのです。
平和ぼけした市民は、ローマから無理難題を次々に要求されてからはじめてハンニバルの警告が正しかったことに気が付きましたが、時すでに遅く、徹底抗戦に踏み切るもカルタゴの陥落を防ぐことはできませんでした。この間、たった3年の出来事でした。
ちなみに、生き残ったカルタゴ市民は約5万人でしたが、その全てが奴隷にされてしまいました。��塞は更地になるまで徹底的に破壊され、再びこの地に人が住み、作物が実らぬように大量の塩が撒かれたと言われています。
これはただの負け方ではありません。まさに地上からの抹殺です。
この悲惨なカルタゴ滅亡の理由は2つあると言われています。
1つは、カルタゴ市民が軍事についてほとんど無関心だったことが挙げられます。もともと自国の防衛はおおむね傭兵に頼っていた上に、国内世論も「平和主義的」な論調が強く、有事に備えて軍事力を蓄えておくといったことはままなりませんでした。
2つめは、国内の思想が分裂状態であったことが挙げられます。そもそも挙国一致して事に当たらなければ有事を乗り切ることはなかなか難しいものですが、カルタゴにはそれがなく、戦時中にハンニバルが外地を転戦している間も市民は素知らぬ顔をしていました。そして、ハンニバルを売り渡したのは、ローマに洗脳されたカルタゴの売国奴達でした。
自らの手で愛国者を切り捨てる・・・かくしてカルタゴは「滅ぶべくして」滅んだわけですが、私は今の日本がこのカルタゴに酷似している様に見えて仕方がありません。
今こそ日本の国防を真剣に考えないと本当に危ないと思います。
【対比】日本と似すぎているカルタゴの運命
カルタゴは、フェニキア人が建国した海洋国家で、現在のアフリカ大陸チュニジアに位置しています。
カルタゴは、世界一の造船技術を持ち、スペイン、シチリア島などの海外領土を支配していました。
紀元前3世紀、地中海貿易により富を蓄え、ローマ帝国と並ぶ強国となります。
BC264年、両者の中間にあるシシリー島で紛争がおこります。そして、これを契機にカルタゴとローマは、世界の覇権を賭けて激突します。この戦いは、23年間の中断をはさんで63年間続きます。(第一次ポエニ戦争、第二次ポエニ戦争)
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1867年、島国日本は、長い眠りから覚め、明治維新により近代国家への道を目指します。西洋文明を積極的に取り入れ、富国強兵に邁進します。日清・日露の戦争に勝ち、朝鮮、台湾、南樺太と領土を拡張します。
強国となった日本は、戦艦大和を建造して、世界有数の海軍を持ち、
太平洋をはさみ、超大国アメリカと対峙します。
1941年12月、日本連合艦隊は、ハワイの真珠湾の奇襲に成功します。太平洋戦争が始まります。
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カルタゴの英雄ハンニバルは、象36頭と��士5万人を率いて、スペインを出発します。象を連れて、アルプス山脈越えに成功、ローマの本拠地イタリア半島を奇襲します。ハンニバルは、イタリアに、なんと15年も踏みとどまり、ローマを一時追い詰めます。
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「マレーの虎」山下奉文中将は、マレー半島を南下、シンガポールに侵攻します。インド兵への離反策が成功し、1942年2月15日シンガポールは陥落、イギリス軍は降伏します。
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カルタゴは、地力に勝るローマに対して次第に劣勢になります。ついに、名将スキピオ率いるローマ軍が、カルタゴの本拠地に進軍します。カルタゴは、イタリアで善戦していたハンニバルを帰国させ、本土決戦に賭けます。BC202年、天下分け目の戦い(ザマの戦い)が行われます。カルタゴの完膚なき負け戦でした。
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アメリカは、生産力、技術力で日本に勝っていました。ミッドウェー海戦を境に、戦局は逆転します。ガダルカナル、硫黄島、沖縄。日本は、敗退を続けます。本土空襲が激しくなり、広島と長崎に原爆が投下されます。日本の完膚なき負け戦でした。
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カルタゴは、ローマに無条件降伏します。
全ての海外領土は、放棄され、軍船、象もローマに引き渡されます。軍隊は、自衛のためのものだけが許されました。そして、自衛のためでも戦争する場合、ローマの許可が要ることになったのです。(この許可の項目が、後に大問題となります)
そして、50年賦で1万タラントの賠償金をローマに支払うことが決まります。
ともかく、カルタゴの町は、無事に残りました。100人会は、貴族の世襲制でしたが、戦後まもなく代議員が選挙で選ばれるようになります。
カルタゴは、民主主義の国家に生まれ変わります。
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「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・」玉音放送が流れ、日本は無条件降伏します。
日本列島以外の領土は、返還されます。アメリカが決めた平和憲法で戦争が放棄されます。(後に自衛隊が誕生します。)国土は焼け野原、アジア諸国には賠償金の支払いが必要でした。ともかく、本土決戦だけは避けられました。
日本は、天皇主権の国家から、主権在民の民主主義国家に生まれ変わります。
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カルタゴ人(フェニキア人)は、ユダヤ人やアラビア商人と同じセム語族で、最も商才があるといわれている種族です。
軍事国家への野心を棄てたカルタゴ人は、ますます貿易や商売に熱中するようになります。ローマ人は、楽しむために働きましたが、カルタゴ人は働くこと自体が人生の目的でした。奇跡の経済復興が実現します。
戦勝国ローマは、休む間もなく、マケドニアやシリアと戦わなければなりません。軍備費の要らないカルタゴは、次第にローマに匹敵する経済大国に、のしあがります。
BC191年ローマは、シリアを打ち破ります。
無敵の軍事大国ローマにとっての脅威は、経済大国カルタゴに移っていくのです。
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日本人には、勤勉さと物作りの才能がありました。
焼け原から立ち上がった日本人は、ひたすら一生懸命働くことで豊かになろうとしました。エコノミックアニマルと日本人は、陰口を叩かれます。奇跡の経済復興が実現します。
アメリカの核の傘に入り、軍事費もいりません。戦勝国アメリカは、ソ連との冷戦を戦わなくてはなりませんでした。
10%を超す高度経済成長が続きます。日本は、世界第二位の経済大国になります。
ソ連が崩壊し、日米の経済摩擦が激化します。
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BC187年、カルタゴは、50年賦と決められた賠償金を一括払いしたいと申し出ます。いくら叩いても不死鳥のように蘇る、カルタゴ人の経済力に、ローマ人は、羨望と恐怖心を抱きます。ポエニ戦争の悪夢がふと蘇ります。
経済大国カルタゴの最大の悩みは、隣国のヌミディアでした。ヌミディアは、騎馬兵団で有名な、戦争に強い国です。自衛力しか持たないカルタゴを侮り、その領土を侵犯します。
カルタゴは、ローマに調停を頼みますが、黒幕のローマはもちろん取り合いません。ついに、カルタゴとヌミディアの間で戦争が起こり、平和の国カルタゴは、敗北します。
ローマの事前許可のない戦争開始は、条約違反でした。
ローマは、カルタゴに対して、突然宣戦布告をします。
驚いたのは、カルタゴです。ローマの許しを得ようと、300人の貴族の子供を人質に差し出します。しかし、8万人の世界最強のローマ兵が、上陸し、カルタゴに進軍します。
カルタゴの使者が、「どうすれば、許していただけるのですか?」とローマの司令官に聞きます。
「全ての武器を差し出せ。」司令官は、答えます。
カルタゴは、20万人分の鎧、投げやり、投げ矢、2000の石弓を司令官に差し出します。
すると、司令官は、最後の要求を使者に言い渡します。
我々は、カルタゴの街を根こそぎ破壊することを決めた。
カルタゴ人には、今の街より10マイル内陸部に
新しい居住地帯を造ることを許可しよう。
使者からローマの意向を聞いた20万人のカルタゴ人は、驚愕して、嘆き悲しみ、最後に激怒します。
「こんなひどい仕打ちがあろうか。街を破壊するだと。
内陸部に引っ込めだと。どうせ死ぬなら戦って死のう!」
カルタゴ人は、丸腰で戦う覚悟を決めます。返事の猶予期間の30日間、密かに戦争準備がすすめられます。
武器職人は、連日徹夜で武器を作ります。
若い女性は、長い髪を元から切って石弓の弦が作られます。
こうして、始まったのが、第三次ポエニ戦争でした。
(戦争というより、ローマによるカルタゴの民族浄化です。)
カルタゴは、ここで奇跡的な粘りを見せます。なんと丸腰で三年間ローマの猛攻を食い止めたのです。
しかし、戦闘と飢えと疫病で、20万人のカルタゴ市民は、10万人に減ります。
そして、ついに、ローマ兵は城壁を破り、街へ進入します。
女、子供までがレンガを投げて抵抗しますが、5万人が虐殺されます。
ビュルサの砦に逃げ込んだ5万人のカルタゴ人は、オリーブの枝を掲げて投降します。
彼らは、一部が処刑され、残りは奴隷として売られます。
カルタゴの街は、十数日燃えつづけ、灰は1メートル積もります。カルタゴの復活を恐れたローマ人は、この地に塩を撒き不毛の土地にします。
700年続いた経済大国カルタゴと世界の富を独占したカルタゴ人は、BC146年こうして滅んだのです。


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第31代アメリカ大統領ハーバート・フーヴァー は、回顧録にこのように書いています。 『6年に及ぶニューディール政策の失敗を糊塗するため、また1000万人の失業者の存在を覆い隠すためだったと推測している。 1938年にはルーズベルトの政策顧問が「日本を戦争に多い込むことで、アメリカの海軍用艦船を建造させ、アメリカの重工業を復活させる」と、語っていたそうだから、早くから日本を戦争に追い込んでアメリカの軍需産業を復活させ不況を克服するという政策がルーズベルトのオーバルオフィスの中で常に議論されていたのだろう。 アメリカの産業を復活させるために、日本は戦争せざるを得なくなって、数百万人の尊い命が失われた。』 さらに、フーバーは著作の中で戦争へと至った19の過ちを指摘している。 1.1933年の国際経済会議をルーズベルトが破壊したこと 2.1933年11月にソ連と共産党を承認したこと 3.1938年、ドイツによるチェコスロバキアのズデーデン地方の 割譲要求を、ミュンヘン融和会議で承認したこと 4.1939年、イギリスとフランスがポーランドと ルーマニアの独立を保証したこと 5.1941年、ルーズベルトが宣戦布告することなく ドイツと日本を相手に戦争を始めたこと 6.ルーズベルトが警戒心を持った忍耐政策をとらなかったこと 7.1941年、ヒトラーがソ連を攻撃した時にルーズベルトが 大量の武器を支援してスターリンと共産主義を助けたこと 8.1941年7月、日本に対する経済制裁 9.1941年9月、近衛内閣の和平提案を拒絶したこと 10.1941年11月、日本からの3ヶ月間の冷却期間という提案拒絶 11.1943年1月、カサブランカにおける無条件降伏の要求 12.1943年10月、バルト三国とポーランド東部のソ連への割譲 13.1943年12月、テヘラン会議で7つソ連の傀儡国家を認めたこと 14.1945年2月、ヤルタ会談での秘密協定 15.1945年5月、6月、7月、日本からの和平提案を拒否したこと 16.1945年7月、ポツダムにおけるトルーマンの決断、具体的には ①共産主義者とスターリンの世界における権力強化 ②ドイツの再興 ③民族追放 ④日本への無条件降伏の最後通牒 17.1945年8月、日本への原爆投下、 実際には日本の18都市への原爆投下を承認したのは ルーズベルトで、トルーマンはそれを止められなかった だけなのだが 18.毛沢東に中国を与えたこと、アメリカは 太平洋戦争以前は蒋介石を支援していたのに、 戦後は逆に支援を打ち切ってしまい、毛沢東が勝利した 19.戦後世界に共産主義の種を撒き散らしかしたこと ルーズベルト政権中枢には多数のソ連のスパイが暗躍していたので、 容共は避けられなかったのだろうが、 アメリカも和平を望んでいるはずだと信じて和平工作に明け暮れた近衛内閣が憐れに思える。 東條英機は遺書の中で 『自分はアメリカとの開戦については責任はない。しかし、 戦争によって多くの人が亡くなったことについては責任がある。 アメリカは日本という自由主義の国を破壊して、 世界��赤化の砦を失ったことに対して責任を負わなければならない』 としています。日本、特に近衛内閣などに対しての認識は、正確なものではありませんが、ルーズベルトに対する分析は正しいものであると思っています。
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私の手元に、古ぼけた書類の束がある。手製の表紙をめくると目に入ってくるのは軍の最高機密を意味する「軍機」の朱印だ。昭和16年12月8日、日米開戦の象徴となった真珠湾攻撃に関する詳細な計画、命令書である。なぜこんなものが私の元に来たのか、そして軍の機密のその中身とは――。 「進藤三郎」という男 昭和15年9月13日、圧倒的勝利に終わった零戦のデビュー戦を指揮し、漢口基地に帰還した進藤三郎大尉 平成12(2000)年2月2日、ひとりの元海軍少佐が88年の生涯を終えた。その人の名は進藤三郎。太平洋戦争に興味のある人ならまず知らない人はいないであろう戦闘機乗りである。 進藤は昭和15(1940)年9月13日、制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機を率い、中国・重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機33機と交戦、27機を撃墜(日本側記録。中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機)、空戦による零戦の損失ゼロという鮮烈なデビュー戦を飾った。続いて、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃では、空母赤城戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を率いた。その後、激戦地ラバウルの第五八二海軍航空隊飛行隊長、空母龍鳳飛行長などを歴任し、筑波海軍航空隊飛行長として派遣先の福知山基地で終戦を迎えた。 戦後はトラック運転手や福島県の沼沢鉱山長などの職を転々としたのち、生家のある広島に戻って東洋工業株式会社に入社、出向した山口マツダで常務取締役まで務めた。 戦争中はその華々しい「活躍」がしばしば新聞にも載るほど著名な海軍軍人だったが、戦後は一転して平凡な会社員生活で、戦争の話はよほど心を許した相手にしか、最後まですることを好まなかった。 進藤が保管していた書類に入る前に、進藤自身の「真珠湾攻撃」について、1996年から99年にかけての私のインタビューをもとに再現しよう。 突然の転勤命令 昭和16年4月、新編された当時の赤城戦闘機隊搭乗員たち。中列中央・飛行隊長板谷茂少佐、その右・分隊長進藤三郎大尉。このメンバーのうち数人は、のちに第五航空��隊に異動した 昭和14(1939)年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことに端を発する欧州での大戦は、日本がドイツと軍事同盟を結んだことで、もはや対岸の火事とは言えなくなっていた。日米関係は悪化の一途をたどり、昭和16年7月28日、日本軍の南部仏印進駐を機に、アメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止、イギリス、オランダもこれに同調する。世にいう「ABCD包囲網」である。 この制裁措置は、石油その他の工業物資の多くをアメリカからの輸入に依存してきた日本にとって、まさに死命を制するものだったった。米英蘭との戦争は、もはや不可避と考えられた。海軍も、極秘裏に開戦準備に入る。 航空母艦赤城、加賀の第一航空戦隊、蒼龍、飛龍の第二航空戦隊を主力に、第一航空艦隊(一航艦=司令長官・南雲忠一中将)が新たに編成されたのは、昭和16(1941)年4月のことである。一航艦は、空母と少数の駆逐艦だけで編成されたが、実戦に際しては、臨時に配属する速力の速い戦艦、巡洋艦、駆逐艦などを合わせ、これが世界初の試みとなる「機動部隊」として作戦に従事することになっていた。 進藤は、機動部隊の編成にともなう人事異動で、南雲中将の座乗する旗艦赤城の戦闘機分隊長に転勤を命ぜられた。進藤の直接の上官、赤城戦闘機隊の飛行隊長は板谷茂少佐である。 「支那事変での長く続いた戦地勤務で、私の体は疲れ切っていました。できれば今度は内地の練習航空隊の教官配置につけてもらえないかと思っていた矢先の転勤命令。空母乗組は“搭乗員の華”、誰もが羨む配置なんですが、正直なところ、はじめはうんざりしましたね」 と、進藤は振り返る。 猛訓練で体が悲鳴を上げていた 機動部隊の旗艦・空母赤城。巡洋戦艦を建造中に空母に改装。当時世界最大級の航空母艦だった 空母搭載の飛行機隊は、洋上訓練や出撃のとき以外は、陸上基地で訓練を行うのを常としていた。搭乗員が揃うと、赤城戦闘機隊は、鹿児島・鴨池基地を拠点に、飛行訓練を開始した。 まずは、搭乗員全員の零戦での慣熟飛行から始まり、着艦訓練の前段階として、母艦の飛行甲板を想定した、飛行場の限られた範囲に飛行機をピタリと着陸させる定着訓練が行われる。5月になると空戦、無線電話、着艦訓練と、訓練もより実戦的になり、空戦訓練は、1機対1機の単機空戦よりもチームワークを重視する編隊空戦に重点が置かれ、2機対3機、3機対6機の編隊同士の空戦訓練が、実戦さながらに行なわれた。吹流しを標的��する射撃訓練も、さかんに行われた。 9月に入ると空母翔鶴、瑞鶴からなる第五航空戦隊が新たに機動部隊に加わり、赤城の搭乗員の一部は五航戦に転勤する。進藤の回想。 「猛訓練が進むにつれ、疲労がどうしようもないほど蓄積してきました。体がだるく、食欲もない。8月には黄疸の症状も出始め、周囲から『君の目は黄色いじゃないか』と言われるほどでした。これはもう、海軍をクビになっても仕方がない、休暇療養を願い出ようと決心したんですが……」 ところが、そう決心した矢先の、進藤の記憶によれば10月1日頃、各航空戦隊の司令官、幕僚、空母の艦長、飛行長、飛行隊長クラスの幹部が、志布志湾に停泊中の赤城の参謀長室に集められ、ここで南雲中将より、「絶対他言無用」との前置きのもと、真珠湾攻撃計画が伝えられた。航空参謀・源田実中佐からは、この作戦に対応するための訓練を急ピッチで進める旨の指示もあった。 少佐の本音 揚子江上空を飛ぶ零戦一一型。進藤大尉が撮影した 「しまった。これを聞いたからには、休ませてくれとは言��ないな」 と、進藤は観念したと言う。傍らにいた板谷少佐が、やや興奮の面持ちで、 「進藤君、こりゃ、しっかりやらんといかんな」 と、声をかけてきた。だが、解散が告げられ、基地に帰る内火艇に乗り込むときに、 「俺たちはただ命令通りに死力を尽くして戦うだけだが、その後始末はどうやってつけるつもりなのかな」 と、誰にともなくつぶやいた板谷少佐の言葉がいつまでも心に残った。こちらのほうが本音なんだろうな、と進藤は思った。 昭和16年10月には、戦闘機隊の訓練は仕上げの段階に入りつつあった。訓練項目に航法通信訓練が加えられ、コンパスと、波頭を目視して判断する風向、風力を頼りに長距離を飛ぶ三角航法、無線でモールス信号を受信する訓練などが行なわれた。高高度飛行の訓練も実施され、耐寒グリスを塗った20ミリ機銃による、高度8000メートルでの射撃訓練も行われた。一航戦では、18機対18機の大規模な空戦訓練も実施された。二航戦は9機対9機、五航戦は3機対3機までしかできなかったという。 11月に入ると、志布志湾に機動部隊の6隻の空母と飛行機が集められ、11月3日、南雲中将より機動部隊の各艦長にハワイ作戦実施が伝達された。その日の夜半、「特別集合訓練」が発動され、翌4日から3日間にわたって、全機全力をもって、佐伯湾を真珠湾に見立てた攻撃訓練が、作戦に定められた通りの手順で行なわれた。 〈十一月四日 「ハワイ」攻撃ヲ想定 第一次攻撃隊 〇七〇〇(注:午前7時)発進、第二次攻撃隊〇八三〇発進。十一月五日 第一次〇六〇〇、第二次〇七三〇。十一月六日〇五〇〇ヨリ訓練開始〉 と、進藤はメモに書き残している。11月6日には、戦闘機隊が半数ずつ、攻撃隊と邀撃(ようげき)隊の二手にわかれ、攻撃隊はいかに敵戦闘機の邀撃を排除して攻撃を成功させるか、邀撃隊はいかに攻撃隊を撃退するか、という訓練も行なわれた。激しい訓練で、攻撃隊の九九式艦上爆撃機のなかには不時着する機も出た。 特別集合訓練が終了すると、赤城、蒼龍は横須賀、加賀、飛龍は佐世保、翔鶴、瑞鶴は呉と、それぞれの母港に入って準備を行い、飛行機隊はふたたび、陸上基地に戻って訓練を続けた。このとき、戦闘機が洋上で単機になってしまった場合に備えて、無線帰投方位測定機(クルシー)を使っての帰投訓練が熊本放送局の電波を利用して実施されている。 覚悟を決めた日 第二次発進部隊制空隊(零戦)指揮官・進藤三郎大尉の命令書(軍機) 11月中旬には、各母艦は飛行機隊を収容し、可燃物、私物の陸揚げや兵器弾薬、食糧の最後の積み込みを終え、佐伯湾に集結した。 赤城が佐伯湾を出たのは、11月18日のことである。行動を隠匿するため、出航と同時に、各艦は厳重な無線封鎖を実施した。 空母6隻を主力とする機動部隊は北へ向かい、千島列島の択捉島(えとろふとう)単冠湾(ひとかっぷわん)に集結した。湾の西に見える単冠山は、すでに裾まで雪に覆われていた。11月24日、6隻の空母の全搭乗員が赤城に集められ、真珠湾の全景模型を前に、米軍の状況説明と作戦の打ち合わせが行われた。機動部隊の行動についてはもちろん、攻撃隊の編成や各隊ごとの無線周波数など、詳細な作戦計画が、すでにでき上がっていた。進藤が保管していた機密書類はこの日の日付から始まっている。 11月26日、機動部隊は単冠湾を抜錨、各艦、単冠山に向かって副砲、高角砲の試射を行った。凍てつく空気に、砲声が轟いた。艦隊はそのまま針路を東にとった。 「自信を持って戦いに臨める。しかし、今度こそは生きて帰れないだろうな」 と、進藤は、遠ざかってゆく雪の単冠山を見ながら、しばし物思いにふけった。 時化模様の航海が続いた。護衛の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、補給船、潜水艦など、総勢31隻もの艦隊を、隠密裏にハワイ北方までたどり着かせなければならない赤城艦上の機動部隊司令部は緊張の連続だった。 12月1日、機動部隊は日付変更線を越えた。機動部隊は日本時間で行動するので、時差で時間感覚がずれてくる。この日の御前会議で、日本は英米との開戦を決定する。 12月2日、「新高山ノボレ 一二〇八」 という暗号電報が、聯合艦隊司令部より届いた。これは、「X日(開戦日)を12月8日とす」という意味である。開戦は、12月8日午前零時と決ま���た。ただし、日米の外交交渉次第では、まだ作戦が中止になることもあり得る。しかし反転命令は出ず、矢はついに弦を放れた。 12月8日午前1時半(日本時間)。第一次発進部隊が次々と6隻の空母を発艦した。 第一次発進部隊は、零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機(うち雷撃隊40機、水平爆撃隊49機)、計183機で、総指揮官は淵田美津雄中佐である。第一次攻撃では、雷撃隊が二列に並んで停泊している米戦艦の外側の艦を攻撃、水平爆撃隊が上空より内側の艦を爆撃する。さらに艦爆隊は飛行場施設を爆撃することになっていた。 そこらじゅうで火柱が 九九式艦上爆撃機。急降下爆撃を行う 機動部隊の各母艦では、第一次の発艦後、すぐに第二次発進部隊の準備が始められた。 第二次は零戦36機、九九艦爆78機、九七艦攻(水平爆撃のみ)54機、計168機が発艦し、うち零戦1機と艦爆2機が故障で引き返している。こんどは、艦爆が第一次で撃ちもらした敵艦と飛行場を狙い、艦攻が敵飛行場を水平爆撃することになっていた。 赤城から発艦するのは、零戦9機と九九艦爆18機。2時13分、進藤の搭乗する零戦、A1(本来はローマ数字だが、機種依存文字のためアラビア数字で表記)‐102号機は、その先頭を切って発艦した。第二次発進部隊の総指揮官は瑞鶴艦攻隊の嶋崎重和少佐、進藤は、制空隊(零戦隊)全体の指揮官を務める。 「第一次の発進を見送ったときにはさすがに興奮しましたが、いざ自分が発進する段になると平常心に戻りました。真珠湾に向け進撃中、クルシーのスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきた。陽気な音楽が流れていたのが突然止まって早口の英語でワイワイ言い出したから、これは第一次の連中やってるな、と奇襲成功を確信しました」 第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はすでに爆煙に覆われ、ものすごい火柱が上がっていた。心配した敵戦闘機の姿も見えない。空戦がなければ地上銃撃が零戦隊の主任務になる。進藤はバンクを振って(機体を左右に傾ける合図で)各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じた。 「艦攻の水平爆撃が終わるのを待って、私は赤城の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りました。しかし、敵の対空砲火はものすごかったですね。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のB-17が確認でき、それを銃撃しました。高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難なほどでした。それで、銃撃を二撃で切り上げて、いったん上昇したんですが」 頭によぎった最悪のシナリオ 開戦を告げる昭和16年12月9日の新聞紙面 銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念された。進藤は、あらかじ��最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻った。 「立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見えますが、海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多い。それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。胸がすくような喜びがふつふつと湧いてくる。 しかしそれと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。私は昭和8年、少尉候補生のときの遠洋航海でアメリカに行き、そのケタ違いの国力と豊かさをまのあたりにしていますから、タダで済むはずがないことは容易に想像できる。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は…………負けることになるかもしれないと、このときふと考えました」 空襲を終えた攻撃隊、制空隊は、次々と母艦に帰投し、各指揮官が発着艦指揮所の前に搭乗員を集め、戦果を集計した。進藤は、赤城の艦爆隊と合流して帰還した。南雲中将が、わざわざ艦橋から飛行甲板上に下りてきて、「ご苦労だった」と進藤の手を握った。 ほどなく、最後まで真珠湾上空にとどまっていた総指揮官・淵田中佐の九七艦攻が帰艦する。大戦果の報に、艦内は沸き立った。しかし日本側にとって残念なことに、いるはずの敵空母は真珠湾に在泊していなかった。 艦上では、第三次発進部隊の準備が進められている。蒼龍の二航戦司令官・山口多聞少将からは、蒼龍、飛龍の発艦準備が完了したとの信号が送られてきた。しかし、南雲中将は、第三次発進部隊の発艦をとりやめ、日本への帰投針路をとることを命じた。 激しい戦闘の代償 日本機の空襲を受けるハワイ・真珠湾の米艦隊 「当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら準備をしていましたが、中止になったと聞いて、正直ホッとしました。詰めが甘いな、とは思いましたが…………」 体調不良を押してここまできたが、ようやく任務が果たせた。緊張の糸が切れた進藤は、そのまま士官室の祝宴にも出ず、私室で寝込んでしまった。 真珠湾攻撃で日本側は、米戦艦4隻と標的艦1隻を撃沈したのをはじめ、戦艦4隻、その他13隻に大きな損害を与え、飛行機231機を撃墜、あるいは撃破するなどの戦果を挙げた。資料によって異なるが、米側の死者・行方不明者は2402名、負傷者1382名を数えた。いっぽう、日本側の損失は、飛行機29機(第一次9機、第二次20機。うち零戦9機、九九艦爆15機、九七艦攻5機)と特殊潜航艇5隻で、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名。別に、12月9日、上空哨戒の零戦1機が着艦に失敗、搭乗員1名死亡)。米軍の激しい対空砲火を浴びて、要修理の飛行機は100機あまりにのぼった。 ――ちなみに、真珠湾攻撃当時、連合艦隊司令長官・山本五十六大将57歳、機動部隊指揮官・南雲忠一中将54歳、航空参謀・源田実中佐37歳、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐39歳、第二次発進部隊指揮官・島崎重和少佐33歳、雷撃隊指揮官・村田重治少佐32歳、第一次制空隊指揮官・板谷茂少佐32歳、第二次制空隊指揮官・進藤三郎大尉30歳、加賀戦闘機分隊長・志賀淑雄大尉27歳、そして昭和天皇40歳だった。 真珠湾攻撃の帰途、二航戦の蒼龍、飛龍は、ウェーク島攻略作戦に参加するため、本隊を離れた。残る赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴は、12月23日から24日にかけ瀬戸内海・柱島の泊地に投錨する。各艦の飛行機隊は、零戦隊は佐伯基地経由で岩国基地へ、艦爆、艦攻は鹿屋基地経由で宇佐基地へと向かい、ここでしばしの休養が与えられた。 進藤は、12月25日、岩国基地から呉海軍病院に直行し、軍医の診察を受けた。診断の結果は、「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、二週間の加療が必要とのことで、そのまま入院することになった。十二月三十日付で赤城分隊長の職を解かれ、さしあたって任務のない「呉鎮守府附」の辞令が出る。この日から広島の生家での転地療養が認められ、進藤は、ひさびさに正月を両親と迎えることができた。 再び始まる苦しい戦い 昭和17年11月、進藤大尉がラバウルに向け出発直前、東京駅にて 「海鷲・進藤大尉」の帰郷は誰からともなく近所に伝わり、毎日のように真珠湾の話をねだりに客がやってくる。子供たちは、道で進藤の姿を認めると、憧憬のまなざしで、直立不動になって挙手の敬礼をした。 真珠湾攻撃から帰った進藤は、療養生活を送ること2ヵ月半、ようやく黄疸の症状もおさまり、昭和17(1942)年2月12日、〈大分海軍航空隊司令ノ命ヲ受ケ服務スベシ〉の辞令を受けて大分空に着任。四月一日、戦闘機搭乗員の訓練部隊として徳島海軍航空隊が新たに創設されると、その飛行隊長兼教官に補せられた。 最前線・ニューブリテン島ラバウルで作戦中の第五八二海軍航空隊飛行隊長兼分隊長への転勤辞令が出たのは、昭和17年11月8日のことである。処分しそびれていた真珠湾攻撃の軍機書類の保管を元海軍機関大佐の父に託してラバウルに向かう。五八二空に着任したとき、進藤は新たに部下となる隊員たちに、 「海軍戦闘機隊のモットーは編隊協同空戦だ。搭乗員が戦果を挙げる陰には、整備員や兵器員といった裏方の努力が不可欠である。けっして��人の手柄を立てようなどとは思わず、より長く、より強く、一致団結して戦い抜くように」 と訓示をした。そして、進藤の長く苦しい戦いがここから始まる。
1941年12月8日の「真珠湾攻撃」に「零戦35機」を率いて参加した当事者の「貴重な証言」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
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2024/12/30-2025/01/05
年跨ぎました!あけましておめでとうございます!
年末年始の暇でイラスト2枚仕上げられて良かったです。
今週の歩距離は39.3km 歩数67841歩 ポケモンGO内で捕まえたポケモンの数1554匹 うち色21匹でした。
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2024/12/30
来年に向けてポケモンGOもレベルアップ&ゲット。
レベル47まで来たの嬉しい…!調べたところ2024年初は43だったようなので一年で4レベルも上がっていることになるらしいです笑。やりすぎか!?



6月?くらいのスペシャルリサーチをこなしてマーシャドーをゲットしました。マーシャドーかわいいね。
お正月のハットポケモンも1日に4体捕まえられてびっくり。過去に類を見ない豪運!
…と思っていたらTwitter情報によると実際確率が上がっていたそうです。ハット有ポケモンは今後も毎度このくらいの確率で出してほしいですね。
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2025/01/01
うりさんとジラーチさんの三人で年越しポケモン大会をやりました!辰年なのでみんなでゲットした色違いレックウザトリオで写真を撮りましたよ。



↑みんなで記念写真を撮ろうとしたら雨で全員嫌そうな顔になってしまった奇跡の写真。
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2025/01/02
劇場版忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師 を観ました!

うりさんから良い映画だったよと言われていた通り凄く良い映画でした!実際もう一回行きたいレベル。
個人的には作画の良さが特に凄かったなと…!線が最低限しかない忍たま乱太郎のキャラクターデザインでここまでキャラの肉感や表情感情表現ができるものなの!?とびっくり。たぶんこの映画を模写したらめちゃめちゃ絵が上手くなると思う。
個人的に善法寺伊作くんと利吉さんと土井先生LOVEで帰ってきました(あと1年生ズ)。茶髪で優男が好きなのは相変わらずですね。
主役三人以外名前がうろ覚えくらいのにわか忍たま視聴者ですが楽しめました。みんな、映画館で見ろ!!!!!!
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2025/01/03
3世がしましまっちになりました。しましまっちかわいいね。

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2025/01/04
狙ってたマーシャドーのカード手に入りました!

叔父のポケポケのレベルが48になっていて、なにやっとるんだ?になっています。のめり込んでやっている…!
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2024/01/05
今日はニャオハのコミュデイで色ニャオハは10匹獲れました!(4匹はHOMEに送りました)
そのうちなんと♀ニャオハは3匹と神引き!2匹はうちで預かるとして1匹は誰かにあげてもいいかな〜と思っています。欲しい方々、私にご連絡ください。


映画『ソニック×シャドウ TOKYO MISSION』を観ました。 海外のCGは本当に綺麗で違和感がなくてすごいな、資本力の差を感じるわ。
ジャパン映画で多発しがちな「ヒューマンドラマの激エモ展開で客泣かしたろw」みたいな描写が無くて助かる。 いや、泣き場所はあるっちゃあるんですけど、「はいここ泣きどころですよ〜!みなさん泣いてくださ〜〜い!!!!!!」みたいな強要はしてこなかったな。あと海外でよくあるジョークが多発してて最高。ゴジラやサンリオやピカチュウ等のメタ発言が今作は多かった。
シャドウさんの一人称が「ボク」、二人称が「キミ」(だったかな?)なのが どんだけ怒りに身を任せていても根は良いヤツなんだろうな感を出していて安心して見られました。
「東京ミッション」というサブタイでしたが実際の東京(というか渋谷)描写は冒頭のみでどちらかというとイギリスや宇宙戦闘がメインだったのでズゴー!でした。マジでなんでこれをサブタイにした???
ただしエセジャパン好きにはたまらない“似非さ”でした。パトカーにわざわざpoliceではなく「ポリス」とカタカナで書いてあるのはさすがに海外産映画。日本湾にあるprisonなのに外国人しか働いていないのも海外産の味がしましたね。
映画の最後にロボットのようなソニックとハンマーとエミーちゃんが出てきたシーンは おそらくファンなら絶叫モノだったと思います。ソニックミリしらの私ですら「ソニックのゲームみしってたら声出して喜んじゃうわ〜」と思ったくらい演出が良かった……ソニックのゲームやろうかな?

2の時よりも男児キッズが多かったのはコロコロパワーだったのかな?もっと小さい子達にも見にきてほしい映画でしたね。
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1805年、イギリスは問題を抱えていた。ナポレオンはヨーロッパの大部分を征服し、イギリス侵攻を計画していた。しかし海峡を渡るためには、イギリスから制海権を奪い取る必要があった。スペイン南西沖で、フランスとスペインの連合艦隊33隻が、より小規模なイギリス艦隊27隻と遭遇した。 当時のよく発達した戦術は、敵対する2つの艦隊がそれぞれ一列に並んで、片側一斉に砲撃し合うというものだった。しかしイギリスのネルソン提督は戦略的な洞察力を持っていた。彼はイギリス艦隊を2列に分け、フランス・スペイン艦隊に向かっ���垂直に突進させた。先頭のイギリス艦隊は大きなリスクを冒したが、ネルソンは訓練不足のフランス・スペインの砲手ではその日の激しいうねりを補うことはできないと判断した。 トラファルガーの海戦の終わりに、フランスとスペインは艦隊の3分の2にあたる22隻を失った。イギリス軍は誰も失いませんでした。ネルソンは致命傷を負い、死後イギリス最大の海軍の英雄となりました。イギリスの海軍の優位性は確保され、1世紀半にわたってその地位は揺るぎませんでした。 ネルソンにとっての課題は、数で劣勢だったことです。彼の戦略は、先頭の船を危険にさらして敵艦隊の結束を崩すことでした。結束が崩れれば、その後の乱戦でより経験豊富なイギリス艦長が勝つだろうと彼は判断しました。
Review: Good Strategy, Bad Strategy - by L Rudolf L
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缶詰の生みの親はまさかのナポレオン⁉開発のいきさつは? - Peachy - ライブドアニュース
以下引用
地球と太陽、誕生のひみつ。地球はいつ、どうやってできたのか? 地球上で起きていること、どれだけ知っている? この地球で当たり前に感じていることでも、うまく説明できないことがありますよね。例えば、「青い空が夕暮れに赤く染まるのはなぜ?」「台風が日本列島めがけてやってくる理由は?」 そんな地球に生きる私たちが知っておくべき「理系雑学」をご紹介します。太陽系を含む地球の歴史をはじめ、地球上で成立した大自然や気候、動植物、資源など、地球をめぐる大疑問にスッキリ回答!あらためて考えると、私たちはこの地球にまつわるさまざまなことを、じつはほとんど知らないのかもしれないかもしれません。 ※本記事は雑学総研著の書籍『人類なら知っておきたい 地球の雑学』から一部抜粋・編集しました。
■ナポレオンが缶詰の生みの親だった!? そのいきさつとは!
保存がきいて手軽に食べられる缶詰は、台所で、アウトドアで、そして防災食としても心強い存在。この缶詰の生みの親がフランスの皇帝ナポレオンだなんて信じがたいが、聞けば納得できるいきさつがある。 まだ若い下士官だったナポレオンは、軍用食として長期保存できる食糧の必要をひしひしと感じていた。その頃の軍用食は、乾燥させるか塩や酢に漬けたものくらいしかなく、味が悪いのはまだしも腐敗していることもよくあった。 これでは将兵の士気も上がらないと、ナポレオンは政府に働きかけると、高額の懸賞金をつけて公募することになった。 食品業者で菓子職人のニコラ・アペールは、この公募を知るとさまざまな食品を使って試作を繰り返した。そして、調理した食品を瓶に詰め、軽くコルク栓をして沸騰させ、空気を抜いてからしっかり栓を締めて密封すると、長く保存できることを発見したのである。 見事に懸賞金を得たアペールがその原���を本にすると、たちまちヨーロッパ各地で翻訳されて評判となった。だから缶詰は、もともとは瓶詰めだったわけだ。 その後、イギリスでより携帯に便利で軽くて丈夫な缶詰が発明され、世界中に普及していった。ところが、肝心の「缶切り」が発明されたのは、それから50年ほど経ってからのこと。それまでは、缶詰を開けるたびにノミとハンマーを持ち出さなくてはならず、兵士たちも銃剣やナイフでこじ開けたりしていた。 日本で初めて缶詰がつくられたのは1871年のことで、中身はオイルサーディン、つまりイワシの油漬け。早くもその6年後には、北海道で缶詰工場が稼働を始めている。 著=雑学総研/『人類なら知っておきたい 地球の雑学』
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「バイクシェディング(自転車置き場)」 パーキンソンの些細性の法則としても知られるバイクシェディング(自転車置き場)は、重要なことを放置し、つまらない事柄に不釣り合いな時間を費やす傾向を表します。 私たちは結局、些細なタスクに時間を費やしすぎて、全体的な計画の中でより重要になる傾向にある、より複雑なタスクを完了する時間がなくなってしまいます。 たとえば、その日のやることリストにスーパーに行くこと、洗濯物をたたむこと、納税申告書の提出が含まれている場合、食料品の買い出しや洗濯物をたたむことは簡単で単純な作業であるため、より多くの時間を費やす可能性があります。納税申告書の提出が始まる頃には、時間はほとんど残っていない。 バイクシェディングという用語は、割り当てられた時間を埋めるために作業が拡大するというパーキンソンの法則で最も有名なイギリスの海軍史家シリル・ノースコート・パーキンソンに由来しています。 たとえば、実際には 30 分しかかからないタスクに 1 時間を割り当てたとしても、そのタスクは結局 1 時間かかるタスクと同じ複雑さを持つことになります。 パーキンソンの自明性の法則は、組織内で問題を議論するのに費やされる時間は、物事の全体像における実際の重要性に反比例すると述べています。言い換えれば、問題の重要性が低いほど、それに費やす時間が長くなります。 パーキンソンは、議題として次の 3 つの事項が含まれる財務委員会の会合を想像してほしいと呼びかけた。 1.1,000万ポンドの原子力発電所の提案 2.£350の自転車置き場の提案 3.年間コーヒー予算 £21 の提案 このような複雑な問題について国民が意見を表明するのは非常に難しいため、同委員会は最���の提案を先送りするつもりだと示唆した。 委員会はすぐに自転車置き場に関する提案に移り、原子力発電所よりもはるかに多くの時間を議論に費やすことになる。 最後に、3 つの提案のうち最も単純なものとして、コーヒーの予算についての議論に最も多くの時間を費やすことになりました。 この例により、パーキンソンの自明の法則はバイクシェディング(自転車置き場)として知られるようになり、今日ではこの用語がより一般的に使用されています。
Bikeshedding - The Decision Lab
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イギリスの世界的な歴史家、アーノルド・トインビー(1889年 – 1975年)は太平洋戦争についてこんな見解を示した。(大東亜戦争(太平洋戦争)に対する評価)
「アジア・アフリカを200年の長きにわたって支配してきた西洋人は、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人は実際にはそうでなかったことを、人類の面前で証明した。これはまさに歴史的な偉業であった。…日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人種差別に終止符を打ってしまったのである」
もちろん、これはトインビー個人の評価で、海外でこの見方が一般的であることはない。当時、西洋人はアジアやアフリカでひどいことをしたけれど、日本も戦争で残酷なことをしたと考える人が多い。
特に、韓国の歴史認識からしたら、トインビーの意見は絶対に受け入れられず、このイギリス人はきっと「極右」や「歴史修正主義者」と非難される。
約310万人の日本人が犠牲になったことを思えば、先の対戦を「歴史的な偉業」とたたえる気にはなれず、やっぱり「深い反省」が必要だ。
あの戦争については体験した人がよく知っている。
これから、そんな1人の実感を紹介しよう。
太平洋戦争の末期、フィリピンのジャングルで日本軍と行動をともにしていた小松真一氏が現地で体験したことを記録に残し、彼の死後、それは『虜人日記』として出版された。
小松氏は平地で日常生活を送っていたころは、性悪説を聞いても信じなかったが、ジャングルで日本兵がしたことを見たり聞いたりして、考えが変わったと書いている。
山の生活で各人が生きる為には性格も一変して他人の事等一切かまわず、戦友も殺しその肉まで食べるという様なところまで見せつけられた。そして殺人、強盗等あらゆる非人間的な行為を平気でやる様になり良心の苛責さえないようになった。こんな現実を見るにつけ聞くにつけ、人間必ずしも性善にあらずという感を深めた。
戦況は劣勢になり、食べる物がなくなって困難な生活が続くと、人間の「素の部分」が出てくる。その醜悪なところを見ると、性悪説を支持する気持ちが生まれるという。
あの戦争を外から眺めれば、アジア人が西洋人と正面から戦って追い出し、植民地主義や人種差別に終止符を打ったとする評価もあるが、内部はこんなムゴイ状態だったのだ。
小松氏が「歴史的な偉業」と聞いたらどう感じるのか。
現代の日本人が80年前の日本人よりも道徳心が高く、民度が向上しているとは思えない。むしろ、メディアの報道では日本人のマナーは低下しているとよく聞く。
令和の日本人に比べれば、昭和の日本人のほうが自制心や忍耐は強かったと思う。
今でも、何かのきっかけで食料が無くなって飢餓状態におちいれば、同じ日本人を殺して物を奪ったり、その肉を食べたりする地獄絵図が現実になる。
オリンピックでスタジアムの掃除をして世界中から称賛される日本人でも、極限状態になれば自分が生き残ることだけを考え、平気で殺人や強盗をする「ケダモノ」になる。この実感は、小松氏と同じレベルの地獄を体験した人でないとわからない。
そもそもそんな思いなんてする必要がないから、戦争の悲劇が繰り返されないことを願うしかない。
戦争末期、フィリピンのジャングルで日本人が見た地獄 終戦末期、フィリピンのジャングルで日本人が見た地獄
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ローマは一日にしてならずだった。しかし、ナポリの方がやばかった。歴史の重み、やばい。そして、ドイツとかフランスって、歴史の無い新興国だと、改めて実感。特にドイツなんて、マジで田舎モンの集まり。文化も歴史もあったもんじゃねーという事を思い知る。下級武士出身の浅はかな明治政府中枢の人々が、イギリスを真似できないから、後進国ドイツのイナカモンに目をつけたっていう明治政府の陳腐が、ますます良く分かった。実に下らないのだ。明治政府から続く日本の近代は。昭和初期に少し良くなったと思ったら、途端に自尊心の塊で、許容力無しのバカばかりになって太平洋戦争しちゃうし。海軍の言う事を聞いとけっつーの。陸を這う奴は、どこまで行ってもアホである。
っという訳で、ワシもお船に乗りに、アマルフィ、ソレント、ポジターノへ。海の緑に感動。ドイツの海は、どこまで行っても真っ黒だから、ドブにしか見えないワシ。ドイツとは、マジで合いません。








バチカンの商業主義に圧倒され、ドイツ人教皇になってから露呈したカトリックの問題が、ますます酷くなっている事を実感。二十年前のバチカンの面影なし。天空の城へも行く。暑くて死ぬので、少し歩くとすぐジェラートを食べるワシ。太る。でもいいや。
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〈お元気ですか?今日は、何の日・〉
https://sunnyhomewor.thebase.in/
ドライりんご 発売中です。
おはようございます。
「きみがーよーは ちよにやちよに さざれいしの
いわおとなりて こけのむすまで」
終日晴れ 最高気温28℃の予報です。
1870年の今日は 陸��観兵式でイギリス人
軍学隊教師フェントン作曲の 君が代が
初演奏された日です。小樽は本日も沢山の
イベント開催です。旧寿原邸JAZZライブ
お待ちしております。
If were the last day of my life,
I want to do what I am about
to do today?
今日もいろいろ頑張ります。
よろしくお願い申し上げます。
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HMS Electra (H27) Battle of the Java Sea ABDA naval force
エレクトラ H27 イギリス海軍 E級駆逐艦 スラバヤ沖海戦 ©TakeshimaSatoshi
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篠田英朗 地政学から見た「緩衝地帯」ウクライナの終焉
篠田英朗(東京外国語大学大学院教授)
「マッキンダーの理論が正しければ、ソ連という衣をなくした後も、ロシアは不可避的に拡張政策をとってくる」。篠田英朗・東京外国語大学大学院教授は、ヨーロッパの国際紛争を理解するためには地政学が重要だと述べる。その視角からロシア・ウクライナ戦争を読み解いていただいた。
(『中央公論』2022年10月号より抜粋)
目次
「歴史の地理的回転軸」
ソ連崩壊後の変化
地政学から見たNATO東方拡大
「緩衝地帯」ウクライナの終焉
ロシアのウクライナ侵攻は特別な要素をいくつか持っていたため、日本でも大きな注目を集め、日本政府の対応も歴史的に特別な内容を持つものとなった。それを反映して、戦争がテレビのワイドショーの話題となり、コメンテーターらが、「ウクライナは降伏して早く戦争を終わらせるべきだ」といったお茶の間受けする空中戦の議論をするような光景も見られた。
しかし最近では、そのようなやりとりも減ってきたようだ。長期的な視座で構造的な問題を捉える議論に、よりいっそう力を入れていくべき時期にきている。
「歴史の地理的回転軸」
2015年の拙著『国際紛争を読み解く五つの視座』では、多種多様な国際紛争を、構造的な事情に着目して理解していくための理論的な視座を五つ特筆した。その際、それぞれの理論が最もよく説明する特定地域も明示した。そこで私は、ヨーロッパの国際紛争を理解するために重要となる理論的な視座は、地政学の理論である、と論じている。
今回のロシア・ウクライナ戦争は、当時描いていた構造的事情の根深さを、あらためて痛感する事件である。東欧から、コーカサス(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)を経て、中央アジアへと至る地域は、ハルフォード・マッキンダー(1861~1947年)以降の地政学理論家たちが、「ハートランド」などの特殊な概念を駆使して、その特徴を強調しようとし続けてきた。
マッキンダー以降の地政学は、「大陸国家」と「海洋国家」のせめぎあいとして、国際政治の全体動向を捉えようとする。両者の勢力が構造的な緊張関係を持つのは、ユーラシア大陸の外周に沿った地域だ。なぜなら特に「ハートランド」と呼ばれる大陸の深奥部の特殊地域に位置するロシアが、海洋を求めて南下政策をとり続けるからである。この「大陸国家」の「拡張政策」に対して、「海洋国家」は大陸へのアクセスポイントの維持を目指した「封じ込め」政策をとる。
この構造は、小手先の政策では消滅しない。なぜなら「大陸国家」の「拡張政策」は、その地理的環境から不可避的に発生してくる現象であり、「海洋国家」の「封じ込め」政策も、地理的環境から不可避的な反応であるからだ。そのためマッキンダーはこれを「歴史の地理的回転軸」と呼んだ。「ハートランド」を回転軸にして歴史は動く、ということを意味する。
あまりにも有名なマッキンダーの「歴史の地理的回転軸」論文は、1904年に著された。マッキンダーが19世紀を通じて「大陸国家」の代表者であるロシアと、「海洋国家」の雄であるイギリスの間で繰り広げられた「グレート・ゲーム」を観察し続けた結果、この論文で強調した理論的見解に辿り着いたことは、言うまでもない。
ソ連崩壊後の変化
後にマッキンダーは、第一次世界大戦の勃発を見て、ロシアではなくドイツを、「大陸国家」の雄とみなすようになる。
他方、第二次世界大戦以後、マッキンダーの「歴史の地理的回転軸」理論は、あらためて強い影響力を持つようになった。イギリスにとって代わって「海洋国家」としての覇権を握ったアメリカが、ロシアの拡張政策の発展後継者と目された「大陸国家」の覇者としてのソ連と対峙する冷戦時代においてである。
この「大陸国家」の覇者であるソ連と、その衛星国集団である共産圏の崩壊は、マッキンダー地政学からすれば、構造的な変動をもたらす大事件であった。もっともソ連の崩壊は、マッキンダー理論の時代の終焉ではない。なぜなら、たとえソ連が崩壊しても、その中核で拡張主義的な政策を推進していた「ハートランド」のロシアが持つ地理的性格には、変化はないからだ。マッキンダーの理論が正しければ、ソ連という衣をなくした後も、ロシアは不可避的に拡張政策をとってくる。
冷戦終焉後の新しいロシアの拡張政策の対象となるのは、ソ連の崩壊によって失った地域だ。上述の東欧から、コーカサス、そして中央アジアに至る地域が、それだ。すでにプーチン大統領登場以前の90年代の冷戦終焉直後の時期にも、東欧では、モルドバで沿ドニエストル共和国という現在まで続く未承認国家をめぐる紛争が起こった。92年以降、ロシアは平和維持軍の名目で、沿ドニエストルに軍事駐留し続けている。
コーカサスでは、88年にナゴルノ・カラバフ戦争が勃発していたが、ソ連崩壊後の92年にナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)の独立宣言という事態に至る。当初から背景にロシアの影があったが、2020年の第二次戦争以後は、平和維持軍の名目でロシア軍が駐留している。また、91年には同じコーカサスのジョージアで南オセチア紛争が発生し、92年にはアブハジアでも分離独立運動が武力紛争に発展した。現在は国際的には未承認でも事実上の独立国家の状態にある南オセチアとアブハジアを支えているのが、平和維持軍の名目で軍事展開もしているロシアである。
さらに言えば、ジョージアの隣に位置するチェチェン地方で、94年に第一次戦争が勃発した。チェチェンはロシア共和国内に位置しているとはいえ、コーカサス地域としての性格を持つ。つまり、ソ連崩壊によって不安定化したロシア共和国の国境線に近い地域としての性格である。
中央アジアでは、タジキスタンがソ連崩壊直後の92年に内戦に突入した。武力で内戦を勝ち抜いたエモマリ・ラフモン大統領は、現在も権力の座にとどまり続けている独裁者だが、ロシアはその後ろ盾である。タジキスタンは、ロシアが主導する集団安全保障条約機構(CSTO)の92年の条約���立時からの加盟国である。CSTOは、2021年にカザフスタンで暴動が発生した際に平和維持部隊を展開して鎮圧にあたったことで注目されたが、ロシア主導で旧ソ連諸国の安定を図る地域機構としての役割を持っていると言える。
かつての冷戦時代であれば、ソ連が、ワルシャワ条約機構(1955年、ソ連と東欧の8ヵ国が、西側のNATO=北大西洋条約機構に対抗して結成した軍事同盟)の名目を掲げて、共産主義諸国の政治的不安定化に対処するために、軍事介入をするのが常であった。冷戦終焉後の世界では、ロシアが、旧ソ連諸国の争乱に軍事的手段も含めて介入するのが常となっている。
マッキンダー地政学からすれば、冷戦期から冷戦終焉後の時代への転換で生まれた変化は、表層的な問題である。構造的な核心は、「ハートランド」に位置するロシアは、ほぼ運命的に拡張政策をとる、という点である。したがって、マッキンダー理論から見ると、ソ連の崩壊は、ロシアと国境を接する旧ソ連構成地域の恒常的な不安定化を意味する。
地政学から見たNATO東方拡大
こうした情勢を考慮すると、NATOの東方拡大でロシアがウクライナへの軍事介入にまで追い込まれた、といった見方の信憑性が疑われる理由がわかるだろう。NATO東方拡大は、共産主義政権の崩壊という体制変動を経験した旧ワルシャワ条約機構の東欧諸国からの要請にしたがって、進展したからである。
当初、アメリカのクリントン政権は、NATO東方拡大に消極的だった。しかしロシアの潜在的な脅威を恐れる東欧諸国を「力の空白(何者かが事象の統制を失い、誰もそれに代わることができない)」状態に置き続けることは、かえって地域の不安定化につながるという見方が政権内部で大勢を占めることになり、第2期クリントン政権の99年から東方拡大が実現し始めた。
東方拡大を進めるにあたってNATOが採用した政策は、ほとんどマッキンダー理論にしたがったものであった。ロシアを恐れる東欧諸国の懸念に、NATOは、歴史的・地理的裏付けを見出した。そして、東欧諸国をNATOに吸収して「力の空白」から脱出させた。ただしその一方で、ロシアが「近い外国」とみなす旧ソ連を構成していた諸国については、拡大の対象とはしない、という方法をとった。ロシアの「勢力圏」の考え方に配慮したのである。
今やワルシャワ条約機構を構成していた旧ソ連諸国以外の全ての国が、NATO加盟国となっている。他方、旧ソ連を構成していた地域の独立国が、NATOに加入した例はない。バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は、もともとソ連に併合されたこと自体が無効だったという理解が公式見解であるだけでなく、ソ連崩壊前に分離独立したという点で、旧ソ連を構成していた地域として位置づけられないと考えることができる。
不可避的なロシアの拡張政策に脅かされる東欧諸国は、「力の空白」から救い出された。しかしどこかに線引きがなされなければならない。そこでロシアの拡張政策の核心と想定される旧ソ連地域に対してまでは、NATOは拡大していくことをしない、という不文律が生まれた。
これは、冷戦終焉後の世界に不可避となった政策的修正を施しつつも、マッキンダー理論における「歴史の地理的回転軸」を完全否定することまではしない、という政策的見取り図であったと言える。
「緩衝地帯」ウクライナの終焉
ただし、マッキンダー理論を意識したからといって、NATOとロシアとの関係が安定したものになるわけではない。むしろマッキンダー理論の意識化とは、「恒常的なせめぎあい」が不可避であることを受け入れる諦念のことでもある。そのせめぎあいの管理の困難から逃れることはできない。
もともとウクライナを典型例とする「緩衝地帯」に曖昧な位置づけが与えられたのは、それぞれの国の内部に、たとえばロシア語話者が多数存在しているなど、ソ連時代の影響の残滓が色濃くあるからでもあった。ウクライナでは、東部地域と西部地域の政治的対立は、2014年頃まで国内政治の基本的な性格であった。それは、国際政治における「緩衝地帯」としての位置づけとも連動していた。アメリカなどのNATO構成諸国のみならず、ロシアもまた、ウクライナ国内の「親欧派」または「親露派」への支援を欠かさないようにしつつ、ウクライナ国内の複雑な事情を理解していた。
14年の「マイダン(ウクライナ語で広場の意)革命」で首都キーウにおける国内政治が、「欧州派」優勢で進んでいくようになったとき、まず国内政治の「バランス」が崩れた。首都における政変を見たロシアのプーチン大統領は、クリミアの併合と、東部地域における分離独立運動への支援という形で、明確にウクライナ領土の分割と自国の「勢力圏」の具体的な確保へと動いた。これによって起こったのは、ウクライナの残りの地域における「親欧派」の勢力基盤の確立であった。特に首都キーウの政治情勢は、一気に「親欧派」優位の方向へと動いた。
この国内政治の動きが、国際政治に連動しないはずはなかった。なぜならロシアの介入による東部地域の紛争の長期化と、国家としてのウクライナの欧米への傾斜は、ほとんど不可分一体だったからだ。ロシアが東部地域を自国の「勢力圏」として固めれば固めるほど、ウクライナは、かつてないほど明確に、NATO及びEUへの加盟を目指すようになった。
この情勢の帰結は、実態としてのウクライナ東部の分離と、ウクライナ国家の欧州化であった。つまり「緩衝地帯」としてのウクライナの終焉であり、地政学的なせめぎあいの最前線としての混乱であった。
今回の侵攻に至るまでのプーチ��大統領の考えは、詳細には明らかになっていない。しかしプーチン大統領が、「緩衝地帯」としてのウクライナの終焉を好ましく思っておらず、これを阻止しようとしたことは明らかだろう。ウクライナ東部地域を自国の一部として併合したうえで、残りのウクライナ地域を限りなく自国の「勢力圏」に近いものとして残そうとした。
戦争原因には様々な要素がある。一つの要素が戦争原因の全てだ、という状況はほとんどありえない。そうだとしても、プーチン大統領の思考に、自国に有利な地政学ゲームを遂行する意図があっただろうことは、否定できない。
そこで本稿では、ロシア・ウクライナ戦争を理解する際に求められる、国際政治を構造的に捉える視点を提供する。特に焦点を当てるのは、伝統的な地政学の理論と、ロシア・ウクライナ戦争との関係である。
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スコット・リッター:ウクライナがクルスクで必死の攻撃を仕掛ける中、ロシアはNATOの戦闘機と兵器を全滅させる 元米海兵隊情報将校スコット・リッター氏は、ウクライナはクルスク原子力発電所を奪取する試みが失敗に終わり、最もよく訓練された兵士と先進技術の一部を投入せざるを得なかったと強調した。 「NATOが創設し、訓練し、装備し、指揮したウクライナ人だけでなく、ポーランド人、フランス人、アメリカ人、イギリス人からなる部隊がロシアに侵攻した」と、最近米国で政治的迫害を受けた元国連兵器査察官は語った。 「こうして核戦争が引き起こされる。幸いにもロシアはパニックに陥っていない。侵攻は封じ込められた。それだけでなく、鈍化もしている」とリッター氏は強調した。 リッター氏は、モスクワが攻撃に素早く反応し、スミ地域から伸びるウクライナの補給線を破壊する機会を捉えたと指摘した。 ロシアはまた、英国のチャレンジャー戦車、米国のM1エイブラムス戦車、ブラッドレー歩兵戦闘車など、ウクライナ政権の最もよく訓練された部隊やハイテクNATO兵器の一部を無力化した。西側諸国の従属国との進行中の紛争は、ウクライナの高価なNATO兵器の供給が減少する中、ロシアの防衛技術がうまく機能していることを物語っている。 アナリストは、ロシアが2022年初頭に特別軍事作戦を開始する前と後に、キエフとの外交的解決を何度も試みていることを指摘し、ウクライナの度重なる強硬姿勢により、モスクワはより多くの領土を解放せざるを得なくなると主張した。 「これが実行されれば、ウクライナはさらに30パーセント以上の領土を失うことになる。なぜならロシアは基本的に、ウクライナは信用できない、西側諸国は信用できない、ウクライナがロシアの隣国と平和に共存する意志を持つという考えをロシアが信じることは決してできないと決めつけているからだ」とリッター氏は強調した。 「つまりロシアはウクライナを破壊するつもりだ。そして悲しいことに、おそらくこの戦争はこうして終わるだろう」とアナリストは結論付けた。
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ストンマラソン爆弾テロ事件(ボストンマラソン ばくだんテロじけん)は、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州ボストンにて、第117回ボストンマラソンの競技中であった2013年4月15日14時45分頃(現地時間。日本時間16日3時45分)に発生した爆弾テロ事件である。 概要 事件現場の位置 この日、ボストンでは第117回ボストンマラソンが開催されていた。ボストンマラソンはアメリカ3大市民マラソンに数えられる大会で、国内外から多くのランナーが集まっていた。そのレース中、ゴール付近のコプリー広場(英語版)で2度爆発が発生、その際に3人が死亡、282人が負傷したと報じられている[1][4][5][6][7]。 1度目の爆発はトリニティ教会などがあるコプリー広場近くのボイルストン通り671番地の「マラソン・スポーツ」前で発生し、それから12秒後にゴールから見て2ブロック、距離にして約100m離れた地点で2度目の爆発が起きた[8][9]。この爆発で周辺の店舗の窓ガラスは粉々に吹き飛ばされ[9]、ボストン公共図書館3階の窓も破壊された。現場付近には他に2つ、ないしは3つの不発弾が発見され、ボストン市警察の爆発物処理班によって処理されたと報道されたが、後に爆弾は爆発した2つのみと判明した。 事件の発生当時、ゴール付近に設置されていた記録用の時計は「4時間9分43秒」を指しており[10][11]、これは前回大会で最も多くのランナーがゴールした時間帯であった。今回もトップランナーたちは2時間ほど前に現場を通過しており、後方にも多くのランナーが走行していた[9]。 捜査当局の発表によると、爆発物はいわゆる即席爆発装置で、圧力鍋が使用されており、殺傷能力を高めるためにボールベアリングや釘などの金属片が含まれていた[12][13]。また、このような攻撃が迫っていることを示す事前の兆候はなかったとしている。 公的機関の発表によると、4月16日現在で8歳男児・29歳女性・ボストン大学院生の中国人女性の3人が死亡し183人が負傷した[6][14]。地元紙「ボストン・グローブ」(The Boston Globe) によると、100人以上が様々な施設で治療を受けている[15]。22人はマサチューセッツ総合病院に、10人はボストン小児病院(Boston Children's Hospital)に、9人はタフツ・ニューイングランド医療センター(Tufts New England Medical Center)に、20人はブリガム及び婦人病院(Brigham and Women's Hospital)、20人はボストン医療センター(Boston Medical Center)に搬送されたという。少なくとも10人が手足の切断を余儀なくされた[15]。 アメリカ政府の対処 事件直後の現場の様子 事件の連絡を受けるオバマ大統領 事件発生後すぐにマラソンは中止され、ボストン市警察は事前に取り決められていた対処計画に基づいて残っていたランナーをボストンコモン(中心部にある大きな公園)やケンモア・スクエア(ボストン大学近くにある大通り)に避難させた[13]。ゴール近隣にあるラノックス・ホテルからも全員退避させた[13]。警察は爆発現場周辺15区画を立ち入り禁止にした。 この事態を受け���、バスや地下��を運営するマサチューセッツ湾交通局(MBTA)は運行の一部を停止させ[9]、マサチューセッツ州軍(Massachusetts National Guard)[13]とアメリカ海軍の部隊が、地元当局を援助するために加わり、爆発物処理班が付近の捜索を行った[15]。また、連邦航空局(FAA)は念のためボストン上空の飛行を制限し、ボストン・ローガン空港にいる飛行機には地上待機命令を発した。 事件を受けてエリック・ハンプトン・ホルダー司法長官は、事件捜査にアメリカ司法省の総力を投じるよう指示[13]。ニューヨーク市警察は対テロ部隊の車両を主要な地点に展開させ、ホテルなどの警戒態勢も引き上げた。ワシントンD.C.でも警戒態勢が引き上げられ、ホワイトハウスで部分的に避難が行われたほか[13]、シークレットサービスによってホワイトハウスに繋がるペンシルベニア通りが封鎖された。また、加害者は特���されていないものの[16]、連邦捜査局(FBI)はテロ事件として捜査を進めた。 マサチューセッツ危機管理庁(Massachusetts Emergency Management Agency)は、電話が輻輳したため、近隣の人々に電子メールを使うよう呼びかけた。なお、携帯電話の回線は込み合ったものの正常に作動していた。またアメリカ赤十字は、ランナーの情報が得られるよう援助を行ったほか、ボストン市警察は家族の安否を心配している市民のためにホットラインを設置し、情報提供を行った。このほか、Googleの安否確認サービス「グーグル・パーソン・ファインダー」が「ボストン・マラソン爆発事件」(Boston Marathon Explosions)に関する災害サービスを用いて、情報を収集した。 事件の第一報を受けたバラク・オバマ大統領はホワイトハウスで緊急記者会見を行い、「誰がこのようなことを行ったのかを究明し、責任を取らせる」と声明を発した[17]。オバマ大統領は連邦警察当局に対して「必要な支援などを行うよう」指示を発している[4]。またアメリカ合衆国下院のジョン・ベイナー議長は、連邦議会議事堂に被害者のために半旗を掲げるように指示した。 影響 同日に予定されていたNHLのボストン・ブルーインズのホームゲームが延期となり、翌日に予定されていたNBAのボストン・セルティックスのホームゲームも中止となった[18]。 また、イギリスの大きなマラソン大会であるロンドンマラソンの主催者は、マラソン自体に差し迫った脅威は無いものの、この事件を受けて警備体制を見直すことを発表した[19]。 国際陸上競技連盟(IAAF)会長のラミーヌ・ディアックと、国際オリンピック委員会(IOC)会長のジャック・ロゲは、共にボストンでの事件に際し、テロがスポーツ競技会を標的にしたことを非難する声明を発表した[20]。 事件は捜査当局を過敏にさせた。ガーディアン紙によると、合衆国内の夫婦で、夫が「リュックサック」、妻が「圧力鍋」と検索したところ、自宅に警察が事情聴取にやってきた[21]。 「エシュロン」も参照 容疑者 情報収集による容疑者探し 東海岸時間4月18日17時20分(日本時間19日6時20分)に行われた記者会見で、FBIが容疑者2人の写真と監視カメラのビデオを開示した。それによれば、容疑者はそれぞれバックパックを担ぎ、脇目をふらず行進している。FBIは、判別に関連した情報を一般から募集した[22][23]。 両足を切断した被害者のジェフ・バウマン(Jeff Bauman)[24]は爆弾の一つの脇にいて、意識を取り戻した際、FBIに "bag, saw the guy, looked right at me"(カバン、男を見た、私を見た)というメモを渡した[24]。バウマンは後に容疑者の1人が爆発の2分半前にバックパックを下ろしている様子の詳細な記述を当局に提供し、判別写真の速やかな提供に貢献した[24][25][26]。当局は後に容疑者写真の公開が「間違いなく捜査のターニングポイントだ」としている[27]。 容疑者はFBIによって証拠の写真とビデオから容疑者1と容疑者2と呼ばれ (またはそれぞれ "black hat"(黒帽)と"white hat"(白帽)) — 爆破後に「正常でない反応を示した」犯人は止まって爆発の余波を見守り、逃げるような素振りはなく、落ち着いた様子で現場を歩いて去った[28]。容疑者特定の協力を要請したところ、一般から大量の写真と家庭ビデオが捜査当局に提供され、当局とオンラインソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の一般人が詳細に吟味したが、SNSでは多くのデマが広がり大手メディアにまで掲載されたほか、redditによる一般人の捜査によって、赤の他人が犯人とされる事態も起こった[29][28][30]。 容疑者の特定 一般からの情報に基づいて[31]、当局は容疑者を、2002年頃に難民としてアメリカ合衆国に移住したチェチェン共和国出身の2人兄弟と断定した[32][note 1]。 タメルラン・ツァルナエフ(Tamerlan Tsarnaev、ロシア語: Тамерлан Царнаев [ta-mer-LAN tsar-NA-yeff] 兄。1986年10月21日生まれ、事件時26歳。 技師を目指しマサチューセッツ州で評価の高い2年制のコミュニティー・カレッジで、工学専攻。 タメルランは、ボクシングでオリンピック出場を目指しており、2009年と2010年にニューイングランド・ゴールデングローブ・トーナメントに優勝、全国大会となるナショナル・ゴールデン・グローブ・トーナメントに出場を果たしていた[33]。 ジョハル・ツァルナエフ(Dzhokhar Tsarnaev、Джохар Царнаев [dzho-KHAR tsar-NA-yeff] 弟。1993年7月22日生まれ、事件時19歳 マサチューセッツ・ダートマス大学(英語版)で口腔学専攻。 捜査官は、爆弾作成をアルカイーダが、ムスリムをテロリズムに勧誘する目的で発行したとみられるオンラインマガジン『インスパイア("Inspire" )』から学んだものと確信している[34]。 警官殺害と自動車強盗 写真の公開後、容疑者はマサチューセッツ工科大学の26歳の警備警官ショーン・コリアー(Sean Collier) を複数の銃撃によって射殺したとみられる。その様子は暗殺と表現された[35][36]。コリアーは4月18日、午後10時48分マサチューセッツ工科大学キャンパスのStata Center (MITビル 32)の横に停車したパトカーに乗っていた[37][38]。コリアーは近接したボストン市内のマサチューセッツ総合病院に運ばれたが、死亡が確認された[38][39]。 容疑者はベンツSUVをケンブリッジで乗っ取り、ベンツの所有者にATMの使用を強要して$800(7万円相当)を奪った[40][41]。容疑者は荷物をベンツに移し、もう1人の容疑者がホンダ・シビックで伴走した[42]。被害者はATM引き出しの上限に達したあと、ガソリンスタンドから警察に連絡した。車に残った携帯電話によって、警察は所在地を特定した[43]。車乗っ取りの犯人は被害者に、彼らがボストン爆発とMIT警官殺害を実行したと明言している[44]。 銃撃戦により兄が死亡 4月19日午前0時過ぎ、ウォータータウンの警官がホンダのセダンと盗まれたベンツSUVに乗車している兄弟を発見し、ローレルアベニュー(Laurel Ave)で、兄弟と到着した警官のあいだで「猛烈な」銃撃戦が展開された[2][44][45]。200-300発の銃弾と少なくとも1つの爆弾、それに幾つかの"粗雑な手榴弾"が使われた[45][46]。兄のタメルランが銃弾を使い果たし、警官が兄を押し倒して逮捕するに伴い、弟のジョハルは盗まれたSUVを運転して警官に向けて突進し、そのためSUVはタメルランを轢いて、短距離ながら引きずった[47][48]。シリアル番号を消されたルガー9mmピストル1丁が現場から検収された[49]。 タメルランは警察によってBeth Israel Deaconess Medical Centerに運ばれ、同病院で死亡した。死因は、多数の銃創、自爆装置付きベストからの爆傷と思われる傷[50][51]、およびジョハルによって轢かれた際の負傷[43][45][52]だとされる。一方、ジョハルはSUVを乗り捨て、徒歩で逃走した[50][43][53]。銃撃戦の際、MBTA(マサチューセッツ湾交通局)の警察官、リチャード・H・ドナヒュー・ジュニアが重症を負った[54]。ドナヒューはMount Auburn Hospitalに運ばれ、「重体だが安定」(critical but stable condition)と診断された[55]。 逃亡した弟の捜索 FBIは、ウォータータウンでの銃撃戦の最中、両容疑者の追加写真を公開した[56]。4月19日早朝、ウォータータウンの住民たちに、リバース911通報による屋内待機が呼びかけられた[57]。同朝、パトリック・マサチューセッツ州知事も、ウォータータウン及びその周辺地域(Allston-Brighton、ボストン、Belmont、ブルックライン、ケンブリッジ、ニュートン、ウォルサム[58][59])の住民たちに屋内退避を指示した[60]。 ウォータータウンの20ブロック区域に非常線が張られ、戦闘装備の警官たちが一帯を捜索する間、住民たちは自宅に待機してドアの呼び鈴などに応じたりしないよう指示された。2機のブラックホーク・ヘリコプターが上空を旋回し、装甲車に乗ったSWATチームが隊列を組んで移動し、警官らが一軒一軒を調べた[61]。現場にはFBI・国土安全保障省・マサチューセッツ州兵・ボストン市警察・ウォータータウン警察・マサチューセッツ州警察が駆けつけた。アメリカ同時多発テロ事件の発生後に組織された複数機関合同タスクフォースとしては初の大規模実地行動となった[62]。 MBTA管轄下の全ての交通機関、ボストン地域の大部分のタクシー、ボストン発およびボストン行きのアムトラックが運営を停止した[37][63]。ローガン国際空港は運営を続行した[63]。大学・学校は閉校、多くの企業・商店や施設も営業を停止した。数千人または数万人(原文: thousands[64])に及ぶ警官らがウォータータウンで各建物を回る一方で他の手がかりも追った。ケンブリッジ市のツァルナエフ宅とウォータータウンの捜索を合わせ、最低7個の即席爆発装置が押収された[65][64]。 両容疑者の父親が、ダゲスタン共和国マハチカラの自宅から息子に「あきらめろ。あきらめろ。おまえには明るい未来が待っているんだ。ロシアに帰って来なさい」と呼びかけるとともに、アメリカ合衆国に対しては「(ジョハルが)殺されたりしたら、大騒動になるでしょう」と警告した[66]。メリーランド州Montgomery Villageに住む叔父(または伯父)も、ジョハルに自首するよう、テレビを通して懇願した[67]。 ジョハル・ツァルナエフ逮捕を祝うMission Hill地域の住人たち 弟の逮捕 4月19日夜、ウォータータウンのある民家の裏庭にあったボートのタープの下に隠れていたジョハルを警官たちが取り囲んだ[68][69]。屋内退避命令が解除された直後、同宅の住人が外に出たところ[70]、裏庭のボートにかけてあったタープが緩んでいることに気付き[68]、血溜まりに横たわる体をボートの中で見つけたため、即座に警察に通報した[71]。 マサチューセッツ州警察のヘリコプターが、前方監視赤外線熱線暗視装置を使用して、ジョハルの存在と動きを確認した[2][72]。ジョハルがタープを突付くような動作を始めると、警官たちはボートに向かって大量発砲し、現場指揮官の命令によってようやく中止した[73]。逮捕後、ジョハルが一切の武器を所持していなかったことが判明した[74]。逮捕時刻は、現地時間(アメリカ東部標準時)午後8時42分である[75][76]。 その後、Beth Israel Deaconess Medical Centerに運ばれ、頭部、首、手足に多数の銃創[77]がある重態[78]だと診断された。当初、首の傷は自殺未遂による銃創だと報道されたが、逮捕時に武器を所持していなかったことと、SWAT隊員による描写では切創らしいということから、爆発時の破片によるものである可能性がある[79]。 なお、この容疑者捜索による屋内退避は、18時間近くに及んだ[80]。 葬儀 タメルラン・ツァルナエフの遺体は、住民の反対運動などによりマサチューセッツ州内の墓地に埋葬することができなかった。イスラム教徒であり、火葬にすることもできなかったため海外への移送を行うことも難航。最終的にはバージニア州に居住する叔父が遺体を引き取ることとなり、地域からの反発を受けないよう同州内に搬送され速やかに墓地に埋葬されている[81]。 裁判 2013年7月10日にジョハルの初公判はボストンの連邦裁判所で開かれ、4件の殺人を含む30の罪状で起訴された。ジョハルは全ての罪状について無罪を主張した。2015年4月8日に連邦陪審は全罪状に有罪を認定し、同年6月25日に連邦地方裁判所は死刑判決を言い渡した。この際ジョハルは「爆弾事件は自分が兄とともに行なったものである」とはっきり述べ、「自分が人を殺し、苦しみを引き起こしたことについて申し訳無いと思っている」と、法廷内にいた事件の被害者や遺族らに直接謝罪したが、死刑判決には控訴するものと見られている[82]。 2020年7月31日に連邦高等裁判所は死刑を言い渡した一審の判断を破棄し、刑に相当するかどうかをめぐる量刑審理を地方裁判所に差し戻した。被告側は陪審による死刑の量刑判断が公正ではなかったと主張しており、高等裁判所の判決は陪審選定時の地方裁判所判事の陪審候補に対する質問が不十分で、被告は有罪だと予断を抱いていた人物が陪審に含まれる結果になったと指摘し、陪審選定手続きの不備を認定した[83]。トランプ政権側は決定を不服とし上訴した。 2021年3月22日、連邦最高裁は高裁の差し戻し審理の決定を見直し、死刑判決の適用を検討する審理を決めた[84]。 2022年3月4日、最高裁は9人の最高裁判事のうち保守派6人が賛成、3人が反対の評決で、ジョハルの死刑を破棄した高裁の判断を覆し、地裁の死刑判決を回復させる判断を示した[85]。 民族的背景 容疑者のツァルナエフ兄弟はチェチェン人の血を引くキルギス出身のアメリカ人。二人の父はチェチェン人、母はアヴァール人、祖父母は世界大戦中にチェチェンを追われ、キルギスに強制移住させられた[86][87][88]。チェチェン系であ��ことから、イスラーム過激派の本事件への関与が一時疑われたが、FBIの捜査によればテロ組織との関連は見つからなかった[89]。因みに、弟の名前はジョハルであるが、チェチェン独立派でチェチェン・イチケリア共和国初代大統領の名前と同じであり、独立派政権時の首都グロズヌイの公式市名はジョハル(Соьлжа-ГIала/Джохар-Гӏала/Dzhokhar-Ghala)であった。 脚注 注釈 ^ チェチェン語: Царнаев Анзор-кIант ДжовхΙар および Царнаев Анзор-кIант Тамерлан. 出典 ^ a b Deborah Kotz「負傷者合計282人に上昇」『The Boston Globe』2013年4月23日。2013年4月23日閲覧。 ^ a b c Carter, Chelsea J.; Botelho, Gregory 'Greg' (2013年4月20日). 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ボストンマラソン爆弾テロ事件 - Wikipedia
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ダウンフォール作戦(ダウンフォールさくせん、英語: Operation Downfall、没落作戦[要出典])は、太平洋戦争時のアメリカ軍やイギリス軍を主力とする連合国軍によるハーグ条約違反であるサリン等の化学兵器・生物兵器・原爆の使用を前提とした 日本本土上陸計画の作戦名である。作戦実施前に日本が降伏したため、この計画は中止された。 ダウンフォール作戦は、1945年11月実施を前提に計画された「オリンピック作戦」と、1946年春に実施を前提に計画された「コロネット作戦」に分かれており、オリンピック作戦では九州南部を占領し、コロネット作戦では関東平野の占領を目的としていた。仮にこの作戦が実行されていたなら、1944年6月に行われたノルマンディー上陸作戦を遥かに超える史上最大の水陸両用作戦となった[7][8]。
オリンピック作戦
オリンピック作戦は九州南部への上陸作戦であり、目的は関東上陸作戦であるコロネット作戦のための飛行場を含む拠点確保であった[22]。作戦予定日は「Xデー」と呼称され、1945年11月1日が予定されていた。上陸作戦前に重視されたのが、航空戦力の撃滅であった。そのため、アメリカ軍は沖縄戦の戦局の見通しがついた1945年6月には、作戦機を沖縄周辺での任務から、南九州、宮古島、八重山列島への空襲や制空戦闘に振り向けており、日本軍飛行場に加えて高射砲陣地や各種航空関連施設を徹底的に叩いた[23]。同時に、鉄道や道路などの交通インフラの破壊も重視された。
コロネット作戦
同作戦は後に最終調整が行われず複数の作戦計画が存在していた。 各案に共通するのはオリンピック作戦で得られた九州南部の航空基地を利用し、関東地方へ上陸する点であり、上陸予定日は『Yデー』と呼ばれ、1946年3月1日が予定されていた。コロネット作戦は洋上予備も含めると25個師団が参加する作戦であり、対日作戦で最大の上陸作戦となる予定であった。上陸地点は相模湾の湘南海岸(相模川沿いを中心に北進し、現相模原市・町田市域辺りより進路を東京都区部へ進行する計画予定)と九十九里浜から鹿島灘沿岸にかけての砂浜海岸が設定され、首都を挟撃することが予定されていた。相模湾には第8軍、九十九里浜には第1軍が割り当てられていた。この内主力は相模湾に上陸する第8軍でYデイ初日に投入される兵力は後方支援要員も含めて301,104人と、九十九里浜に上陸する第1軍の241,326人を上回っていた[47]。
(ダウンフォール作戦 - Wikipediaから)
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