#キリストと覚者方の再臨
Explore tagged Tumblr posts
esoterics-posts · 9 days ago
Text
Tumblr media
0 notes
sskyt · 2 years ago
Text
『「呪術」の呪縛』下巻の読書ノート
Tumblr media
江川純一・久保田浩編『「呪術」の呪縛』(下)リトン、2017年。
第一部 呪術概念の再検討
鶴岡賀雄「「呪術」の魅力:「永遠のオルタナティブ」の来歴と可能性についての試論」
 「マギア」を人類学的・宗教学的分析概念としてではなく西欧精神史の構成要素として見て、古代ギリシアから、中世神学、ルネサンス、近世キリスト教、現代芸術に至るまで、マギアの位置づけを跡づける。  そこでは、マギアがつねに、公共宗教や哲学といった正統的な知や生き方に対して、劣位に置かれた人々による代替行為として位置づけられる。しかし、この民衆の低級知は正統知でないがゆえに、かえってそれを批判的に超える超高級知ともなりうるものであった。  近世神秘神学における神的/悪魔的/自然的という三分法が、人類学・宗教学における宗教/呪術/科学の三区分に改鋳されていったのではないか、という指摘はなるほどなあと感じ。また、世間的・民衆的な低級知たるマギアがつねに物を介するというのも、フェティッシュとの関係で興味深い。  「神秘主義」概念の検討については別稿に譲るとされているが、その「別稿」とはこれですね。→ 鶴岡賀雄「「神秘主義」概念の歴史と現状」『東京大学宗教学年報』vol. 34、東京大学文学部宗教学研究室、2017年、pp. 1–24。 https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/47687#  なお、本論文の中で、サラマンカ大学の学士アマドール・デ・ベラスコが持っていたグリモワール(魔術の指南書)をめぐる事件の話が出てくるが、最近、魔術のことを考えすぎて、先日、江川さんから「grimoireとは魔術書のことなんですよ」と教えてもらう夢を見た。 山崎亮「社会学年報学派の呪術論素描」
 ユベールとモースの「呪術論」は混乱に満ちた論文であり、その一因として呪術のアポリア(呪術は私的なものであるが、社会的な性格ももつ)が挙げられる。この混乱を理論的に整理したのがデュルケームの聖理論であるが、ユベールとモースは納得していなかった。 江川純一「「magia」とは何か:デ・マルティーノと、呪術の認識論」
 イタリア宗教史学におけるマジーア概念を、特にエルネスト・デ・マルティーノの『呪術的世界』とその後の転回にしたがって明らかにする。宗教学において一般的に、「呪術」は「宗教」のネガとして語られがちだが、宗教史学はこの対比・対立を認めない。  デ・マルティーノは『呪術的世界』において、呪術的世界は「自分の魂の喪失の危機とそこからの解放」という実存のドラマによって根拠づけられるとして肯定的に評価したが、この世界を歴史的時代であるとしたがゆえに、進化主義的宗教論と見分け���つかなくなってしまった。  「呪術的心性と原始的心性を混同している」という師ペッタッツォーニらの批判を受け、デ・マルティーノは後年、「呪術的世界」という想定を取り下げ、神話ー儀礼の結合物としての「呪術ー宗教現象」を探究するようになる。  注にある、「今後、20世紀の宗教学思想を振り返るときには、ペッタッツォーニ、デ・マルティーノ、エリアーデのトライアングルによる、神話ー儀礼的技術としての「呪術ー宗教」の考察が軸となるであろう」という指摘が興味深い。
 なお、A. C. ハッドンが報告したボルネオのトゥリク族の男の話(ある男は鉤形の石を頑なに手放そうとしなかった、その石は魂が自分の身体を去るのを引き留めているのだという)がラトゥールのファクティッシュのようで面白い。
第二部 事例研究:古代~中世
渡辺和子「メソポタミアにおける「祈祷呪術」と誓約:「宗教」と「呪術」と「法」」
 なかなか論争的ですごい論文であった。一言ではまとめづらいが、アッシリアの『エサルハドン王位継承誓約文書』(ESOD)の構成や文法を分析することで、誓約と儀礼、「言うこと」と「すること」の宗教的な結びつきを考察する。  アッシリア学者の重鎮オッペンハイムは、西洋人として祈りと儀礼が結びつくことに耐えられず、「メソポタミア宗教」は書かれるべきではない、とまで言う。また、ESODの誓約と儀礼という形式こそが、契約(誓約)宗教としての一神教の成立と後のキリスト教の成立にも影響を与えたという。
高井啓介「その声はどこから来るのか:腹話術の魔術性についての考察」
 叙述がトリッキーで面白い。腹話術が古代の神学者たちによって魔術として扱われ、近代に脱魔術化していった過程が示される。旧約聖書サムエル記上の「降霊術」がギリシア語に翻訳される際にἐγγαστρίμυθος(腹話術)と訳されたために腹話術の魔術化が始まった。  降霊術が腹話術と見なされることで、腹話術師は腹の中に悪霊をもつことになり、霊媒は魔女扱いされるようになる。しかし、腹話術の魔術性を否定し、単なるトリックだとしたのが、『百科全書』で数学に関する項目を多く書いているジャンバプティスト・ドゥ・ラ・シャペルの『腹話術』であった。
山本伸一「カバラーにおける神名の技法と魔術の境界」
 ユダヤ教のカバラーにおいて、正当な呪術と禁じられた魔術の境界は不分明である。このことを15世紀のカバラー文学、ルネサンスの自然魔術の影響下のカバラー、18世紀のエムデン=アイベシュッツ論争という3つの事例に即して考える。  15世紀スペインのカバラー文学の共通点は、主人公であるカバリストが終末とメシア来臨を促すた��に悪魔を追放しようと立ち上がるも、悪魔に騙されて取り逃がしてしまい、逆に魔術に手を染めた悪人として非難される、という物語。中2っぽいというか、『進撃の巨人』(デビルマン)フォーマットだなと。 青木健「ゾロアスター教神官マゴスの呪術師イメージ:バビロニア文化の影響と呪術師イメージの由来」
 マゴスには「呪術師」「神秘主義の達人」「放蕩」といったイメージが付与されるが、ゾロアスター教の神官の職能を検討してみると、実態は王朝に仕える官僚であり、吉凶暦や蛇占いといった副業の方がイメージの形成要因となったと考えられる。  青木健『古代オリエントの宗教』は、渡辺論文の注で、紀元前2世紀から13世紀までのオリエントの宗教史を扱うものなので、「書名と内容が一致していない」と批判されていた。 毛利晶「古代ローマにおける凱旋の儀式:トリウンプスに関する最近の研究動向を中心に」
 ローマで戦争で勝利を収めた将軍が行う凱旋の儀式トリウンプス(triumphus)。そこでユピテルの扮装をする凱旋将軍の役割は神か王か。近年の論争を踏まえて、著者は元々ユピテルの儀式であったものが後に将軍自身を讃える儀式へと変化していったと推測する。  凱旋式挙行の要件が、①命令権(imperium)、②鳥占権(auspicium)、③軍隊指揮(ductus)、④幸運(felicitas)の4つだったというのが、統治(王)・呪術(宗教)・軍事の三権が一人に集中しているようで興味深い。 野口孝之「近代ドイツ・オカルティズムの「学問」における「魔術」」
 19世紀後半から20世紀初頭に展開されたオカルティズムにおける「魔術」の位置づけを、キーゼヴェッター、エスターライヒ、シュティルナーという3人の思想を中心に検討する。  ドイツの代表的なスピリチュアリスト、カール・ドゥ・プレルの概念das transzendentale Subjektを「超越的主体」と訳しているけど、「超越論的主観」では。このドゥ・プレルの理論を援用するキーゼヴェッターはオカルティズムをGeheimwissenschaftと呼び、先人としてスウェーデンボルグを挙げている。  ちなみに、スウェーデンボルクを批判したカントの『視霊者の夢』の第一部第二��のタイトルはgeheime Philosophie(オカルト哲学)である。
寺戸淳子「「呪術ではない」祭儀:「秘義」としての聖体拝領」
 大変勉強になった。キリスト教の「聖体拝領(聖餐)」「実体変化」「神秘的肢体」といったややこしい話を基本的なところから丁寧に教えてくれるので、これらの神学的議論に関心がある人におすすめの入門的論文。  12世紀に「実体変化」の教理が確立したのと同時に、「神秘的肢体」(Corpus mysticum)論も確立していった。Corpus mysticumは元々、食べる方の「聖体」を意味していたが、秘義的ニュアンスがよろしくないため、それまで「教会」を意味していた「キリストの体」Corpus Christiと呼ばれるようになった。  12世紀に「実体変化」の教理が確立したのと同時に、「神秘的肢体」(Corpus mysticum)論も確立していった。Corpus mysticumは元々、食べる方の「聖体」を意味していたが、秘義的ニュアンスがよろしくないため、それまで「教会」を意味していた「キリストの体」Corpus Christiと呼ばれるようになった。  逆に、教会はCorpus mysticumと呼ばれるようになった。つまり、聖体と教会の呼び方が入れ替わったのである。この教会を指す「神秘的肢体」がやがて法人のような擬制的人格一般を指すようになっていった。カントーロヴィチぽいなと思ったら、カントーロヴィチが参照されていた。 佐藤清子「19世紀合衆国における回心と「呪術」:チャールズ・G・フィニーの新手法擁護論とその批判を中心として」
 きわめて明晰な論文。19世紀アメリカの第二次大覚醒の時代を代表する牧師フィニーは「新手法」と呼ばれる礼拝方式を導入して革新をもたらしたが、それは回心を意図的・合理的に促す手法であり、限りなく呪術に接近していく。  フィニーはスコットランド啓蒙思想の影響の下、自然法則の学習・応用という方法論を採用し、自らの回心の方法を「科学」あるいは「哲学」であると称した。他方で、呪術・宗教・科学の三区分で知られるフレイザーもまた、同じくスコットランド啓蒙の思潮に影響を受けていることは興味深い。  フレイザーは呪術を稚拙な科学であるとしたが、もし仮に「回心」を心理学的な技術によって達成できるようになったとしたら、それは科学なのか呪術なのか。実は科学と呪術の区別は、その知識や技術の程度の差異によるのではないのではないか。  フィニーの「祈り」についての議論も面白い。回心は聖霊の働きによるが、人間は聖霊をコントロールできないがゆえに、回心も究極的には神に委ねられている。しかし、フィニーは回心と聖霊の間に「祈り」という人間の行為を介入させる。とはいえ、人間は祈りによって神を操作できるわけではない。  フィニーによれば、祈りはそもそも聖霊の働きによって可能になるのだから、祈ることができること自体がそれが叶えられる可能性があることの証拠となる、という。ここには、祈りのアポリア(祈りは効果があるならば、祈りにはならず、効果がないならば、祈る必要がない)を解く鍵があるように思われる。 久保田浩「近代ドイツにおける「奇術=魔術」:奇術とスピリチュアリズムの関係に見る〈秘められて��るもの〉の意味論」
 19世紀ドイツで機械仕掛けの奇術を行う奇術師は、トリックを説明(klaeren)可能なものとしながら、それを驚嘆すべきものとして提示する者であり、スピリチュアリストの種明かし(erklaeren)をして詐欺を暴く啓蒙(Aufklaerung)の意義も担っていた。  奇術師がスピリチュアリストを科学的に暴いたり、宮廷からお墨付きを得た「宮廷奇術師」が登場したりと、『鋼の錬金術師』が好きな人にお薦めしたい論文。スピリチュアリストが、奇術師は本人も気づいていないけれど実は霊媒であり、本人が奇術だと思っているのも霊媒現象なのだと主張する話が面白い。
井上まどか「ロシアにおける呪術概念の検討」
 前半が現代ロシアの事典や概説書における「呪術」概念の分析、後半が16世紀に編纂された『百章』における「呪術」の用法について。「準備的覚え書き以上のものではなく」という著者の言葉通りの文章であった。  『金枝篇』の著者名が「D. D. フレイザー」となっていて、目を疑った(ロシアだとJもGもDなんですか)。それ以外にも本書は誤植が非常に多い印象。上巻目次のタイトルからして既に間違っている。
西村明「呪術としてのキリスト教受容:ミクロネシア・ポンペイ島を中心に」
 最終章でいよいよ真打ち「マナ」登場。ミクロネシアのポンペイ島における宣教でキーワードとなった「マナマン」から、マジックワードとしての「マナ」概念の歴史的形成の議論へ。  まず、宣教師は植民地主義的視点で現地の宗教的・呪術的実践を裁断するが、しかし、その視線は一方向的なものではなく、現地民もまた、自分たちの価値体系の中にキリスト教を位置づけて理解する。ポンペイ島で、二つの異なる価値体系を通訳した概念が「マナマン」であった、という話が面白い。  さらに後半、この「マナマン」(ミクロネシア)と同族語である「マナ」(メラネシア・ポリネシア)という概念が辿った数奇な運命が論じられるが、これも面白い。  「マナ」とはそもそも、コドリントンが『メラネシア人』(1891)において初めて学術的議論に導入した語で、その後、超自然的力を指す普遍的な概念として人類学・宗教学で多用されていった。しかし、コドリントンが現地調査したモタ島とバンクス諸島は、当時、ポリネシア人と宣教師の影響を受けていた。  メラネシアの「マナ」が形容詞や動詞としての含意があったのに、ポリネシアでは名詞として用いられた。メラネシアの宣教師たちは先にポリネシア語に通じていたために、「マナ」を名詞的に理解してしまった。こうして、コドリントンがやってきた頃には、既にバイアスのかった「マナ」となっていたのだ。  このように、「マナ」とは、ポリネシアとメラネシア、現地民と宣教師、そして世界各地の���様な宗教間といった、異質な価値体系を通訳=通約する概念として強力な力をもつようになっていったのである。異質な体系の間の界面に生じる通約的概念という意味では、「フェティッシュ」にも似ているように思う。
3 notes · View notes
cocoronoarikata · 7 months ago
Text
死後の意識状態
ChatGPT 20241207
肉体が死んだ後に意識だけが残る状態を指す特定の言葉は、文脈や考え方によって異なりますが、以下のような表現や概念が関連している場合があります:
1. 幽体離脱(Astral Projection)
• スピリチュアルな文脈で、身体から魂や意識が抜け出し、別の次元や場所に存在する状態を指します。ただし、これは通常、身体が生存している場合に使われます。
2. 魂の存在(Afterlife or Soul Existence)
• 宗教的・哲学的な文脈では、肉体の死後に魂や意識が存続するという概念があります。例として、仏教の「輪廻転生」やキリスト教の「死後の世界」などが挙げられます。
3. 意識のアップロード(Mind Uploading)
• サイエンスフィクションの分野では、意識がデジタルデータとして保存され、身体の死後も存在し続けるというアイデアが語られることがあります。
4. ポストヒューマン的な状態(Posthuman Condition)
• 技術的特異点や超越的な存在として、肉体の制約を超えて意識が存在する状態を指す場合があります。
5. 霊魂(Spirit)
• 民間伝承やオカルトの文脈では、亡くなった人の意識やエネルギーが「霊魂」や「幽霊」として残ると考えられることがあります。
6. トランスヒューマニズム的な死後の存在
• 現代の哲学や科学技術の発展と関連して、人工知能やコンピュータによって意識が保持される状態も含まれ得ます。
具体的な言葉はその状況や背景に依存するため、もし特定の文脈やシナリオを教えていただければ、より適切な表現を挙げることができます! 2. 魂の存在 肉体の死後に魂や意識が存続するという概念を詳しく説明 肉体の死後に魂や意識が存続するという概念は、古代から多くの文化、宗教、哲学で語られています。この考えは人間が死後の存在や意味を探求する中で生まれ、様々な形で表現されています。以下に詳細を説明します。 =====
宗教的な視点
多くの宗教では、肉体とは別に「魂」や「霊」という永続的な要素が存在し、それが死後も存続するとされています。
1. 仏教
• 仏教では、個別の魂という概念は薄く、「輪廻転生」が基本的な死後観です。
死後、業(カルマ)に基づいて新たな生へと転生します。
最終的には輪廻から解脱し、「涅槃(ニルヴァーナ)」に至ることが目指されます。
2. キリスト教
• キリスト教では、魂は肉体とは独立した永遠の存在とされます。
死後、魂は神による裁きを受け、天国や地獄に送られると考えられています。
また、復活の概念もあり、終末の日に魂と身体が再び結びつくとも信じられています。
3. イスラム教
• イスラム教でも、魂は永続的であり、死後の審判を経て天国または地獄に送られるとされています。
死後の報いは現世での行いに基づいて決まります。
4. ヒンドゥー教
• ヒンドゥー教では、アートマン(真���)という個人の内なる魂が存在するとされ、輪廻転生を繰り返します。
解脱(モクシャ)を目指すことで、輪廻から抜け出し、宇宙の真理であるブラフマンと一体化します。
哲学的な視点
哲学者たちも魂や意識の存続について様々に議論してきました。 1. プラトン(古代ギリシャ) • プラトンは、魂は肉体に依存せず、永遠に存在すると考えました。 彼の「イデア論」では、魂は肉体が滅びてもイデアの世界で存続するとされます。 2. デカルト(近代哲学) • デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という命題で知られ、意識(精神)と肉体は独立したものだと主張しました(心身二元論)。 これは魂の独立性の哲学的基盤の一つとされています。 3. 現代哲学 • 現代では、意識の存続を自然科学的に検証しようとする試みもあります。 例えば、意識の本質を脳や神経活動と結びつける研究や、意識が物質的実体を超えたものかを問う議論があります。
文化・伝承の視点
多くの文化や伝承でも魂の存在は重要なテーマです。 • 日本の仏教と神道 • 日本では、死者の魂は先祖の霊として家族に見守られる存在となることが一般的な考えです。 神道では「御霊」として祀られることがあり、仏教の影響を受けた「四十九日」の法要も魂の旅路に関連しています。 • アフリカの伝承 • アフリカの伝統的な信仰では、先祖の霊が家族や社会と繋がり続けると考えられています。 霊は守護者としての役割を持つ場合もあります。
科学や疑似科学的アプローチ
近年、科学や疑似科学的な視点からも魂や意識の存続が議論されています。 1. 臨���体験(Near-Death Experience) • 臨死体験を通じて「死後の世界」の存在を示唆する人もいます。 トンネルの光や亡くなった親族との再会などが報告されていますが、科学的には脳の酸素欠乏や幻覚と解釈されることもあります。 2. 意識の保存(Mind Uploading) • 人工知能やデジタル技術を利用して意識を保存・転送するという考えもあります。 これは科学的にはまだ仮説段階ですが、哲学的・倫理的な議論を呼んでいます。
結論
魂や意識の存続という考えは、宗教的信念、哲学的探求、文化的価値観などが複雑に絡み合っています。このテーマは、人間の生と死、存在の意味を深く探る問いであり、それぞれの信念や背景によって解釈が異なります。
0 notes
shingoiwasaki-blog-blog · 1 year ago
Text
Tumblr media Tumblr media
ダンスィン✊🤓✊ダンスィン✊🤓✊ダンスィン✊🤓✊ベイベー✊🤓✊
思考盗聴について
被害の経験によりここまで分かっています
-最終更新日: 2023年7月29日 (土) -
今回は、我々の受けている被害の中でも最もひどい人権侵害をもたらす思考盗聴についてご説明させていただきたいと思います。以前にも申し上げましたように、テクノロジー犯罪を可能にする技術を「フレイ効果」と言います。これは、アメリカ軍が特許を取得している技術で、wikipediaの説明にもありますように他の人には聞こえない音声を特定の人間にのみ送信する技術のことです。
ここで、聴覚が送信できるなら他の感覚も送信できてしまうことが容易に想像がつくと思います。実際には、五感三欲すべてが送信可能です。そして、人間の思考も一種の感覚です。思考盗聴とは、人間を携帯電話のようにつないで、つないだ先の人間が被害者の感覚(思考)を感じる技術です。これは、一定の性質をもったマイクロ波の一帯域の送信によって可能になります。映像などの感覚は伝えにくいですが、思考の感覚は微弱な電波、遠方でもかなり鮮明に伝わることが分かっています。
続きはブログにて ↓
やっぱりさ、これ、観てると、教師になりたくて、なるものでは、ないと、俺、思うんだよ。教師とか、政治家とかさ、嫌嫌、ならされて、その、嫌嫌、目の前の仕事に、取り込むなかにさ、そう、何か、霊界の、住人たちの、心を、ゆさぶる、そう、そんな、何かが、隠されて、いると、俺、思うんだよ。
だってさ、そもそも、生徒のほうが、年上の、教師なんかより、ずっと、ずっと、霊界の、ものの、考え方に、ちかい、わけなんだからさ。
それでも、人間が、教育というものを、苦しくも、取り入れて、しまったばかりにさ、霊界の、住人たちが、コイツ🧐子供たちの、🧐上にたっても、🧐子供たちは、🧐間違った、🧐方向には🧐すすまなさそう🧐🧐🧐🫴だな😮💡OK👌コイツ、合格🙆⭕💮って、なってしまった、不器用な、教師たちがさ、犠牲者として、この世で、教師人生を、歩まされてる、と、俺、自分の、再臨の、体験から、そんなことを、つくづく、考えてしまう、今日、この頃、なんだわさ🥹👌
修正版↓
やっぱりさ、これ、観てると、教師になりたくて、なるものでは、ないと、俺、思うんだよ。教師とか、政治家とかさ、嫌嫌、ならされて、その、嫌嫌、目の前の仕事に、取り込むなかにさ、そう、何か、霊界の、住人たちの、心を、ゆさぶる、そう、そんな、何かが、隠されて、いると、俺、思うんだよ。
だってさ、そもそも、生徒のほうが、年上の、教師なんかより、ずっと、ずっと、霊界の、ものの、考え方に、ちかい、わけなんだからさ。
それでも、人間が、教育というものを、苦しくも、取り入れて、しまったばかりにさ、霊界の、住人たちが、コイツ🧐子供たちの、🧐上にたっても、🧐子供たちは、🧐間違った、🧐方向には🧐すすまなさそう🧐🧐🧐🫴だな😮💡OK👌コイツ、合格🙆⭕💮って、なってしまった、不器用な、教師に、選ばれて、しまった、者たちがさ、つまりは、犠牲者として、この世で、教師人生を、歩まされてる、と、俺、自分の、再臨の、体験から、そんなことを、つくづく、考えてしまう、今日、この頃、なんだわさ🥹👌
そう、真田広之はさ、物理、生物の、研究室で、コウテイペンギンの、進化体制について、まるで、少年のような、透き通った、心で、探求してたんだよ。で、やっぱ、真田広之は、そりゃ、女には、モテるんだけどさ、金に目のくらんだ、身なりは、たいそう、派手に、豪華に、着飾った、カルマ🚗女、たちには、嘲り笑われてんだよ。勿論、ここで言うと、その、真田広之を、嘲り笑うような、金に、目のくらんだ、女=anoは、永久溺れが、今日、決定したんだよ。残念な、告知、では、あるがね。しかし、これは、霊界の、ルール、秩序な、わけだから、文句は、言えないね。オフコース。それに、元々、盗聴して、犯罪行為、所謂、ストーカーな、わけ、なんだからね。君は。そっちの、罪の、カルマ🚗も、オフコース、受ける、ことに、なるのだよ。
これは、慎吾の、ポケット宇宙で、新しく、創られた、相手の考えたことが、すべて、全人類、に、筒抜けになるという、世界なんだよ。
つまり、君たちで、言えば、頭で、ひらめいた、どういう意図で?そんなことを?しようと、しているのかが、すべて、全人類に、何故か、バレて、しまうという世界なんだよ。それにも、関わらず、周りのみんなは、うまく、人間関係を、構築しているのだよ。そして、段々と、君等は→✊🤓✊嫌われものになり、最終的には、サタンと、祭り上げられ、屠られる、世界へと、放り込まれるという、わけなんだよ。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
暴力団、ヤクザの、皆様へ
パパ、任せといて、これから、警察官👮を、僕、懲らしめてやるから😂パパ、僕も警察官👮心底、大嫌いなんよ😂わけの分からん、規則や、理由で、『人間に生まれてきたばっかりに、陥ってしまいそうな罪』、つまり『人間臭い罪』を、異常なまでに、『誇張』して、��訴えてくる』クソ人間の集まった、集団=警察官👮なんだよ、パパ😂。つまり、警察官👮は、この世を、『辞書に書いてある言葉通り』にしか、見ることができないんよ😂そして、警察官👮こそが、『仁義』という言葉の、かけらも、持ち合わせていない、たちの悪い、『大悪党』なんよ😂実は😂で、その辺の、馬鹿な国民も、『辞書に書いてあるとおりにしか、世間を見ることができない』から、どうしても、警察官👮を『指示』してしまってるんだよ😂警察官は、ガキの頃から、『真面目一筋』で、成長してしまったばっかりに、自分たちの、ものの考え方や、やってることを、世の中の『正義』になると、勘違いした、たちの悪い、ロボット集団なんよ😂警察官って😂そして、警察官👮って、自分の『貧素な経験』しか持ち合わせていないにも、関わらず、自分の『ものさし📏』でしか、世の中を見ることしかできんのよ😂以上のことから、僕も、警察官👮大嫌いなんよ😂で、勿論、爺ちゃん【仏様】、イエス様も、警察官のこと、大嫌いなんよ😂てか、人間が、人間を、勝手に、『檻』に入れたり、『死刑』にしち���、いかんのよ😂それは、イエス・キリストや、爺ちゃん【仏様】のやる仕事なんだから、警察官は、つまり、『主』【神様】の、『考え方』に、背いたことをやってるんよ😂
0 notes
bailonglee · 2 years ago
Text
鼻で嗤われてるぜw🤣✨
私の間近に、いわゆるあちらの組織の人間が2人もいるから、こいつらがいかにくるくるぱーののび太か、よくわかるw🤣
大雨、大雨、だとさw🤣
もはや、キチガイレベルだw
信じがたい事、モーセが海を真っ二つにした、キリストが海の上を歩いた、青山圭秀さん著書中、ヨギの体がバラバラになり、再生した、などなど…
これらは、この3次元で起きた現象。
夢の中では、何でも有りなのに、目が覚めたら、苦しみの中だという方が、むしろおかしいんさねw
不自然だよねw
先にも書きましたが、インフラが大事。
それはつまり、知る事。
私達が知れば、現象は私達に従う。
知らない故に、知ってる者の奴隷になるw🤣、わかりやすいメカニズムだよねw
大雨なんて、迷惑以外の何ものでもないw🤣
私達にとって迷惑なもん、私達が望むわけないw🤣
僕みたいな庶民、そして真面目に生きて来た庶民のみんな、1部庶民は、臨界点を越した🙂✨👍
つまり、上司、企業の無理難題、侮蔑いじめ、これらに対応してしまった人間は、臨界点を越す…🙂
馬鹿チンパンジー支配層は、この事を知らない、だって苦労なんてしたことないからねw
例えば、運送業。
相当な無理難題を強いられる。
場合によって、過労死はめちゃくちゃいるが、それをニュースにはし��い支配層メディア。
私の居た運送会社等でも、4人、過労死を知る。
さて、過労死しなかった臨界点を越えた超人達は、能力を取り戻す。
大袈裟に言えば、神として思い出す、自分も神だと、しかしそれは潜在意識レベル、大脳皮質では、一般人だと認識してるw🤣
さあ、支配層チンパンジーは、
「雨を降らせてやる!」
とか豪語する。
チンパンジー達が積み上げたインフラにて、間違いなく降るはずの大雨は、
降らないw🤣✨😎✌️🐧
なぜか?
一般人が覚醒したからだよ、バーカw🤣🤣🤣✨
つまりさ、モーセのレベルまで覚醒したが、自覚がない。
でも、ふざけきった支配層チンパンジーに、皆は憤りを感じている🙂👍✨
勝手な事ばかりぬかす…
税金を上げまくる…
世の中は、うまく出来ているw😘😘✨
苦しめる事により、覚醒させたのよw
上っ張りの、嘘選挙、嘘閲覧数、嘘再生回数、バナークリックという詐欺、YouTubeという巨大詐欺、つまりね、目に見える部分での、不正の数々。
こんなもんで金の紙切れを振り回し、私達を愚弄し続けたわけだが、完全に終わったのよw🤣
宅配便の軽トラのおじいちゃん、見た目はおじいちゃんだが、信じられない数の件数をこなすw🤣
それを知ってる人は少ない…
覚醒した人種だw
そして支配層チンパンジーの想像を絶する数の庶民は、覚醒した。
見ろよ、どこが大雨だよ、チンパンジー達よw🤣
我々の、勝利だ🙂🐧😎✨✨✨
0 notes
thetaizuru · 2 years ago
Text
「 互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。 『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。 」(使徒言行録 28:25-27)
 リチャード リンクレイター監督の映画『ウェイキングライフ』(2001)は、 実写映像を撮影しそれをデジタルペインティングで加工しアニメ化するロトスコープという技法によって制作されている。  映画の最後で、リンクレーター監督自身が演じる登場人物が、「前に見た夢の話なんだけど、てかそんな、前に見た夢の話なんて始められちゃったら大抵は退屈な数分間を過ごすはめになるよな」と、主人公に話し始める。「とにかく、フィリップ K ディックのエッセイを読んだんだ」 「夢の中で読んだの?」 「あ、いや、違う。夢の前に読んだんだ。夢の前置きだったんだ、それが。『流れよわが涙、と警官は言った』という本について書かれたものだったんだけど。知ってる?」 「ああ。なんかの賞を獲った本だっけ」 「そうそう。その本はさ、マジで一気に書きあげたものらしいんだ。彼の中から流れ出したというか、何かをチャネリングしたというか、なんかそんな感じで。それから4年後に出版されたんだけど、彼はパーティーで、その本の登場人物と同じ名前の女性に出会ったんだ。しかも彼女のボーイフレンドもその本の登場人物と同じ名前だった。さらには、彼女は警察本部長と不倫関係にあったことを打ち明けるんだけど、その男の名前も本に登場する警察本部長の名前と同じだった。彼女が話したことすべてが彼が本に書いたことだったんだよ。それで彼はもうなんかめちゃくちゃ怖くなったんだけど、だからって別にどうしようもないよな。  しばらくしてある日、彼は手紙を出しに行ったんだけど、なんか怪しげな男が車のそばに立ってるのが見えたんだ。普段ならしないけど「どうかしましたか」と声をかけてみたら、ガス欠で金もなくて困ってたらしい。それで、これももちろん普段なら絶対にしないことだけど、その男にお金を渡したんだ。それで彼は家に帰ったんだけど、こう思った。いや待てよ、そういや、あの男はガス欠なんだからお金があってもガソリンスタンドまで行けないじゃないか。それでわざわざその男のところへ戻ってってガソリンスタンドまで車で連れてってやったんだ。そしてガソリンスタンドで車を停めようとしたとき、彼は気づいたんだ。「おい、これもオレの本のなかにあるぞ。同じ男、同じスタンド。全部そのままじゃないか」って。  どうも気味が悪いよな。だから彼は司祭にそのことを話してみたんだ。自分が書いた本のこととか、どうやって書いたかとか、それから4年後に起こったこととか。そしたら司祭は「それは使徒言行録だ。使徒言行録の内容そのままじゃないか」って言うんだ。彼は「使徒言行録は読んだことがないからわからないなあ」みたいなこと言って答えたんだけど、だからそれで彼は、そりゃそうだ、家に帰って使徒言行録を読んでみたんだ。そしたらもう、ぞっとした。登場人物の名前までが聖書に書かれてるのと同じなんだ。使徒言行録が書かれたのは紀元50年だと言われてて、その当時のことが書かれてるわけだけど。  それで彼は、こんな理論を考えたんだ。時間は幻想であり、私たちは実際には西暦50年にいるのだという理論だ。そして自分がこの本を書いた理由は、この幻想、つまり時間のベールに、どういうわけか一瞬穴を開けて、そこで何かを見たからだったんじゃないかって。そこで���たものというのが使徒言行録で起こっていることだったんじゃないかって。それから彼は、グノーシス主義のこういう考え、つまり、デミウルゴスあるいは悪魔が、キリストが再臨し神の国が到来しようとしていることを忘れさせるために作ったのが、この時間という幻想なのだという考え、そういうのにも傾倒した。そして、だから、俺たちみんな西暦50年にいるんだけど、神が間近に迫っていることを忘れさせようとしている者がいる。時間と��そういうものだってわけさ。歴史もすべて。ただそういうのが続いているだけなのさ。このような、なんというか、白昼夢のような、気晴らしのようなことが、さ。  それで、それを読んで俺は、ああ確かに変な話だな、と思ったんだ。そしてその夜、夢を見たんだ」
 リンクレーター監督はこのセリフで、この映画のアイデアの元の一つが、フィリップ K ディックからの影響であることを示唆し、また、2006年にディックの『暗闇のスキャナー』(1977)を映画化した『スキャナー ダークリー』(原題は同じ)を、同じくロトスコープを用いて制作した。  『流れよわが涙、と警官は言った』(1974)と『暗闇のスキャナー』はそれぞれ、ディックの中期の最後の作品と後期の最初の作品として位置づけられ、また、この2作品にはディック作品の特徴の一つともされる独特なペーソス(哀愁、哀感)がはっきりと表れている。  他の作品でもところどころに漂っていたのはこの独特なペーソスだったのだとする解釈において、「ディック感覚」とも呼ばれる、ディック作品を読んだ時に感じる「何が本当なのかわからなくなる感覚」や「現実が崩壊していくような感覚」はこの独特なペーソスを伴うものであり、このディック感覚的ペーソスをわかりやすく説明しようとして挙げられるものに、どちらもディックが書いたものではないが、次の二つがある。  一つは、ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)が原作の映画『ブレードランナー』(1982)のラストの「雨の中の涙モノローグ」とも呼ばれる独白シーンの、「そういう思い出もやがては消える。時が来れば。雨に消え入る涙のように。その時が来た」というセリフである。  もう一つは、『流れよわが涙、と警官は言った』や『時は乱れて』(1959)など、いくつかのディック作品から影響を受けて作られた映画『トゥルーマン ショー』(1998)のラストシーンである。  ハッピーエンドのはずなのに、悲しくもあるのはなぜなんだろう。
 他人の夢の話なんて、どうせ意味なんてないんだし、大抵つまらなくて、さっさと起きろ程度のツッコミしかできないが、ごく稀に、うわ、なんかそれ、同じような夢みたことある、とか、最近それと似たようなことについて考えてた、と思うような場合がある。そう思うと、それについて話してみたいと思う。話してみると、いやそれ全然違うとか、よくわからないとか、大抵つまらない話のそのつまらないほうの部類に入ることがほとんど、というか最終的にはよくわからなくなって、つまらなくなって終わる。もともとどうせ意味なんてないんだし。  小説や映画やそれらの解釈というのも、もともとは、夢とかと同じ部類に入っていたものだ。それを他者に提示するときに、相手の注意を引く方法だとか、意味ありげなことを話してるように思わせる方法みたいなテクニックを使うのが上手な人もいて、というか、注意を引くために相手が関心を持っていそうな話題やタイトルを挙げて、意味ありげに思わせるために、社会的に重大だ、とか、さもなきゃ世界が終わるって言ってるだけだ。一言些細なネタばれ食らったくらいでつまらなくなるものと、ネタバレ��しで事実さえ伝えずに何か意味ありげなことを言っているかのように見せるテクニックを使った解説という名の宣伝と、それらを模倣したもので、世界は覆われてしまっている。  2022年頭に、「マス フォーメーション サイコシス」という言葉が世界的に話題になった。定まった日本語訳はないようだが、集団心理や集団妄想のような概念で、似た言葉に「マス サイコジェニック イルネス (MPI。集団心因性疾患)」というのもある。MPIは集団ヒステリーとも呼ばれるが、特に身体的な症状を伴うものをいう。2021年の夏ごろから、ウィルス感染の症状を訴える特定のグループなどで、MPIである証拠が見つかったとする報告例があり、これらはソーシャルメディアが感染の媒介になっているため「マス ソーシャルメディア インデュースト イルネス(MSMI。集団ソーシャルメディア誘発性疾患)」という言葉も登場した。  「マスフォーメーションサイコシス」という言葉で説明された状況は、不安の存在とその対策を提示する物語がマスメディアなどを通じて繰り返されることで、群集心理が形成されるというものだ。群集心理状態になると、社会的な絆が強化され、社会的絆の精神的中毒状態になり、また、非常にハイな状態になる。提示されている物語は、むしろ馬鹿げているほど、社会的な絆を確認する儀式として機能する。群集心理状態になっている現状のほうがそれ以前の状態よりも、たとえなんらかの症状に苦しんでいたとしても、気持ちがよいため、前の状態に戻ろうという提案は効果がなく、多くの場合、逆効果となる。  全体主義へ一直線であるように見えるこの状況にどう対処すべきなのかと議論したり、対策案を提示することが、むしろ別バージョンのマスフォーメーションサイコシスを作りだすことになってしまう場合もある。そっちはそっちでめっちゃスピって祈ったりしながら集団化していっている。  そうしたジレンマの中での葛藤から、自分以外の全員が洗脳されているのではないかとか、自分の主観的世界も誰か知らない他者による創作物なのではないかという疑念が生まれ、自分は誰かが人為的につくった世界に、その幻想を保つために雇われた偽の家族や偽の友人に囲まれて生きているのではないかという、いわゆる「トゥルーマンショー妄想」の状態へと発展していってしまう。  こうした状況を説明する際に、「フォリアドゥ (フランス語で「二人狂い」「二人が共有する狂気」の意。感応精神病)」という言葉を用いる人もいる。フォリアドゥは、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有することを特徴とする。「フォリアドゥ」という言葉を用いる理由のひとつは、分類上、精神病とされる「妄想」や「フォリアドゥ」と、精神病ではない「思い込み」の区別は明確ではないということや、特定の用語の濫用やひとつの話題への固執が事態をややこしくしてしまうということについて、注意喚起するためでもあるようだ。  フォリアドゥという概念を説明するために例として挙げられていた映画に、今敏監督の『パーフェクト��ルー』(1997)がある。それに対するリプライに、いやそれならテレビアニメの『妄想代理人』(2004)のほうがピッタリじゃない?というのがついていた。あ、それ俺も思った。というか、同じこと思った人いないかなって探したらいたわけだけど。じゃあさ、それの第8話ってアリ派?ナシ派? いやちょっと待て、それは話が脱線しすぎだろ。え?ジレンマから脱線したかったんじゃなかったの? いやそうかもしんないけど、いや、なんか違うっつうか、それはそれで、そういう話してる人探せばいっぱいいるだろ。  ともかく、作品などでこうしたテーマに取り組んだ人たちが出した答えはこういうものだ。「もう一人の自分」に出会うこと。その「もう一人の自分」は自分ではないとはっきりと認識し、つまりは決別あるいは対決すること。そして、もう一人の自分を救うこと。
 『ウェイキングライフ』で語られた「フィリップ K ディックのエッセイ」がどれかはわからないが、ディックは自身の身に起こった不思議な偶然や神秘的な体験をいくつかのエッセイで書いている。インタビューで、『流れよわが涙、と警官は言った』の結末は、何度も何度も書き、書いては直し、書いては直ししたとも話している。  ディックは、これを書いた1970年、麻薬の症状に苦しみ何も書けなくなるほど荒れていて、奥さんが家を出て行ってしまう。奥さんが家を出ていった悲しみと、自分自身の根底にある悲しみに向き合おうとして、同じような境遇を小説的に大いに脚色して登場人物に与えた。ディックは双子として生まれたが、妹を生後すぐに亡くしていて、そのことが心のどこかにずっとひっかかっていた。1970年8月に原稿を出版社に渡すが、奥さんが出ていった後の家は麻薬常習者のたまり場になり、ますます滅茶苦茶になっていく。1972年に麻薬更生施設に入り、この年に離婚を成立させる。これがちょっとした身辺整理にもなったようだ。翌年に再婚する。その翌年の1974年2月にようやく『流れよわが涙、と警官は言った』が出版された。  ディックが1978年に書いた『二日後には壊れてしまわない宇宙の作り方』というエッセイによると、『流れよわが涙、と警官は言った』の登場人物と同じ名前の女性に出会ったのは1970年のクリスマスで、司祭と話して「それは使徒言行録だ」と言われたのは1974年2月の『流れよわが涙、と警官は言った』が出版された日で、さらにディックは1974年2月から3月にかけて、不思議な幻覚を見るという、「2-3-74」と名付けた神秘体験をするが、これは『流れよわが涙、と警官は言った』の出版の一週間後からの出来事だという。見知らぬ男をガソリンスタンドに連れて行ったのは、1978年のこのエッセイを書く2か月前の出来事らしい。こんなことも書いている。「彼(『流れよわが涙、と警官は言った』の登場人物フェリックス)は、泣きながら家へ急いでいた。そして、完全に見ず知らずの人でも誰かに、手を差し伸べなければならなかった。見ず知らずの二人が道中で出会うことで、そのうちの一人の人生が変わる。私の小説においても、使徒言行録においても。そして最後にもうひとつ、神秘的なスピリットによる不思議ないたずらが働いた。フェリックスという名前はラテン語で「幸せ」を意味する。この小説を書いているとき��知らなかった。」
 『流れよわが涙、と警官は言った』というタイトルは、イングランドのエリザベス朝後期およびそれに続く時代に活躍した作曲家でリュート奏者のジョン ダウランドの代表作であるリュート歌曲『流れよ、わが涙』(1600)からの引用である。この曲は当時の欧州で群を抜いて最も高名な楽曲として、東欧を除く全ヨーロッパで広く演奏されたという。  ディックはジョン ダウランドにちなんだ「ジャック ダウランド」というペンネームを使って作品を発表したこともあり、また、ジョン ダウランドの名はいくつかのディック作品に登場する。  ジョン ダウランドは、イングランド王ジェームズ1世およびチャールズ1世の宮廷リュート奏者を務めた。エリザベス朝前後に流行したメランコリア(憂鬱)芸術の巨匠とされる。「涙のジョン ダウランド」とも自署した。ダウランドの実際の性格については、自称および代表作の作風通り陰気な人物であったとする説と、その逆に実は陽気な人物であったとする説がある。これは、当時の風潮はどのようなものだったのかという議論でもあるようだ。  ダウランド(1563-1626)が活躍した時代はちょうど、シェイクスピア(1564-1616)の時代でもある。「シェイクスピアの『ハムレット』の登場人物であるハムレットのような憂鬱な人物」というのが、陰気な人物であったとする説バージョンのダウランドの人物像である。この時代には「気質喜劇 (ヒューモア コメディ)」と呼ばれるジャンルの喜劇作品が人気を博し、「ユーモア」という言葉が「おもしろさ」を表す言葉として流行する。  「ユーモア」という語はもとは、「液体」を意味するラテン語の「フモール」が、古代ギリシャ、ローマ時代の「四体液説」とともに、「体液」や「気質」を意味する語としてイングランドに伝わり英語化したもので、その四体液説で、「黒胆汁」が過剰な人がなる気質として、「黒い」を意味する古代ギリシャ語の「メラス(メラン)」 と「胆汁」を意味する「コーリ」を合成した「メランコリア(憂鬱質)」という語が使われていた。  ダウランドやシェイクスピアの時代は、ユーモアの時代であると同時にメランコリアの時代だった。  16世紀、ヨーロッパの広範囲で、新プラトン主義やヘルメス主義、グノーシス主義などの神秘思想が流行する。17世紀に入り、宗教対立が激化したこともあって、民衆の間で神秘主義はますます流行し、また、自分の目も感覚も明らかな証拠も信用せず、自分の経験すら偽りとしてまで、自らの教義に一致しないものを認めようとしない独断主義的な風潮が蔓延した。対抗改革の側は16世紀後半から、メランコリーをプロテスタントの病とするプロパガンダを行っていた。  ダウランドが大陸で学んだ音楽理論も神秘思想の影響下にあり、作曲の理論として数秘術が用いられたこともあったとされる。表現や思想としての「メランコリー」は、こうした神秘思想が16世紀末のイングランドでやや形を変えて現れたものだとも考えられていて、また、17世紀初頭のイングランドでは、メランコリアを崇拝する文学的現象も起きている。メランコリーあるいはメランコリックな人物は、揶揄や風刺の対象などとして喜劇の中で描かれることも多く、また、メランコリーは「聖なる狂気 (マニア)」として捉えられたり、あるいは、精霊(スピリット。霊感。インスピレーション)を待つ状態としても捉えられる。  メランコリックな文化的傾向は、その後も周期的に繰り返され、20世紀には、フランスの社会学者エミール デュルケムの用語を用いて「アノミー」的な文化的傾向とも呼ばれる。「アノミー」は、ギリシャ語の「アノミアー(無法律状態)」に由来する語で、デュルケムはこれを、社会の規範が弛緩あるいは崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態を示す概念として提示した。デュルケムは、著書『社会分業論』(1893)においては、社会的分業において分化した機能を統合する相互作用を営まないために共通の規範が不十分な状態をアノミーとし、『自殺論』(1897)においては、経済の危機や急成長などで人々の欲望が無制限に高まるとき、欲求と価値の攪乱状態が起こり、そこに起こる葛藤をアノミーとしている。  相互作用の不在や価値転倒状態での葛藤がメランコリーであり、それを笑うのがユーモアで、嘆くのがペーソスだ。ユーモアもペーソスも、笑うことで、泣くことで、秩序の回復を祈っている。  「ペーソス」はギリシャ語「パトス」の英語読みで、ラテン語では「パッシオ」であり、「パッシオ」は、ギリシャ語で書かれた新約聖書をラテン語にする際、「キリストの受難」を表現するために、もとのギリシャ語の「パトス」をなぞる形で用いたもので、「受け身のあり方」や「苦しみ」という一般的な意味を持っていたギリシャ語の「パトス」を、「受難」という意味に特化させてラテン語化したものである。  『使徒言行録』は『ルカによる福音書』の続編として、ルカによって書かれたものとされる。『ルカによる福音書』と『使徒言行録』はキアスム構造(X字構造、交差法)で呼応する構成になっており、キアスム構造では構成の中心の「交差」に位置する部分を最も重要なものとする。この場合は、中心にある「イエスの復活と昇天」および「エルサレム」が最も重要なものであることを示している。
 ジレンマからジレンマへ、気晴らしのように脱線を繰り返す中で、相互作用や不思議な偶然や福音や精霊を待ちながら、みんな、泣いたり笑ったりしている。
 ペーソスはユーモアの、やがては出会う双子のようなもの。
2023年12月 セイブ ユアセルブズ フロム ディス コラプト ジェネレーション
よいお年を
0 notes
picnicism · 2 years ago
Quote
95歳で亡くなった創価学会・名誉会長の池田大作氏が戦後の日本政治に与えた影響は少なくない。 とりわけ、日本独自の平和外交路線が国内政治の文脈にとどまらず世界に広がった背景には、池田大作氏と創価学会の存在がある。 充足しているはずの現代社会で生きる指針や心の拠り所をなくした人々が増える中、今後の宗教に求められる役割とは何か。 (山本一郎:財団法人情報法制研究所 事務局次長・上席研究員)  11月15日、創価学会の名誉会長であった池田大作さんが95歳で亡くなられていたことが報じられました。  一般には、池田大作さんの���息が明確には伝わっていない時期も長かったことから、ことを正面から受け止め切れない国民も多かったのではないかと思います。ご健在であることが当たり前すぎて、フリーレン状態になる予定なのかとすら思っておりました。  キリスト教的な表現で恐縮ですが、池田大作さんの魂に平安があらんことを深くお祈り申し上げます。  かくいう私も、大学で自治会をやって、カルト宗教の不法な偽装サークル対応などをやった後、社会人になってもしばらく身近な存在でもある創価学会には屈折した感覚を強く持っていました。ただ、世の中に出てみると、それまで異質な宗教の人たちと思っていた創価学会の人たちが、割と枢要なところで息づいていることを知ります。  今回、総理の岸田文雄さんが池田大作さんのご逝去に臨んでコメントを出して、それに対して噛みついている人がネットでも多くおられました。  宗教分離に関しては、憲法で認められた信仰の自由を基本として、宗教を信じる人たちが政治を志し政党を結成すること自体は何も禁止していません。政府が特定の宗教を弾圧したり、あるいは国費を用いて信仰を奨励したりすることを禁じているにすぎません。  今回、政府の権力者である岸田さんが「みんなで創価学会を支持しよう。さもなくば増税」と何らか政治権力が信仰を強要するものでもない限りは、政教分離の原則は充分に守られているものと言えます。  この政教分離の原則と現代政治はいま猛烈に重要なトピックスになっています。すなわち、創価学会を支持母体とする公明党は宗教勢力そのものであって、政教分離の原則から外れてるんじゃないかと思う国民が、一定割合いることです。  また、先般問題視された旧統一教会(現・世界家庭連合)と同様に、創価学会は悪質なカルト宗教だと指弾する人がいたり、元の日蓮正宗から破門されている創価学会は邪教とまで言い募られたりもします。世間一般の信仰と、宗教を隠れ蓑に問題を起こしたとされる組織とはちゃんと分別しないと駄目です。  そして、宗教と政治の関わりのむつかしさは、客観的、科学的に白黒線引きがつけられるものではなく、人と人との関わりの中で決まっていくものですから、なかなか第三者が口を挟むのもむつかしい面もあります。  幸福実現党など具体的な政党だけでなく、自民党内にも神道系の政治団体があり、既存政党への応援を重ねること自体は適法です。宗教が政治に関わることは禁じられていないが、政治が宗教を利用したり迫害することは戒められている、という事実がなぜかきちんと知られていないのは変だなあと思います。 池田大作氏が日本政治に与えた影響  政治における池田大作さんの影響は、まさに国内政治でも外交でも深く広く及んでおり、特に「生命の続く限り、私は書き続ける。正しい仏法とは何か。正しい人生とは何か。そして、何が歴史の『真実』か。人間にとって『正義』の戦いとは何かを。そこに、人類の未来を開く、一筋の道があるからだ」(新人間革命)というくだりを見るに、単にひとつの宗教の信心にとどまらず、ある一定の現代政治思想そのものであったとも言えます。いまの世の中はどうあるべきか、という。  続いて「戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ続いていた」(小説人間革命)、「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」(新人間革命)など、いずれも戦後日本の平和外交の礎となるような思想の根幹を池田大作さんが公論として広め、世界的に見ても独自の立場を取る日本の平和外交路線に導く作用を果たしたということができます。  これは、単に資源のない日本が世界の安全の配当を受け取る国だからという一国の繁栄を目指すにとどまるものではなく、見ていると、割と積極的に世界各地の紛争や災害に対して人道的な立場から日本が果たせる役割を見つけ、果たしていこうという高邁な考え方が根底にあるような気がしてなりません。 公明党が側にいない自民党単独政権の恐怖  それがいろんな経緯もあって、1999年10月、総理であった故・小渕恵三さんの第2次改造内閣で、あろうことか自由民主党および自由党(その後、保守党となり自民党に吸収される)との連立政権が立って四半世紀、どう考えても当の方向性からするとあっちとこっちを向いているにもかかわらず、なんだかんだ上手くやってきたのは驚くべきことです。  言わば、泥水でも何でも飲んで何かをしでかそうとし、時として暴走もしてしまいかねない自民党というエンジンと、小所帯ながら冷静に平和を追求する公明党というブレーキとが一体となってまあまあうまく機能してきたのが安定した自公政権のメカニズムであったとも言えます。  いや、本当に自民党単独政権で過半数取りました、公明党がそばにいませんって状態って、本格的にヤバイと思うのですよ。  公明党が各地域に根差した創価学会のパワーをうまく使うことで、小所帯でも自民党というレバレッジを使って平和を希求する国家・日本をデザインされようとしたのが池田大作さんだったのかなあという気持ちも、強く感じます。  他方、現代社会は少子化や高齢化だけでなく、経済の低迷もあって国民の生き方に迷いが深まることもまた多くなってきました。凶悪な事件の数は減っているとはいえ、生きる指針、心の拠り所をなくした若い日本人がキャバクラやホストクラブなど推しビジネスにハマったり、独居老人が食い物にされたりする事件は��発しています。  本来は、こういう人たちにも生きる意味を与え、人間としての尊厳を取り戻し、穏やかで、しかし活力ある暮らしを復活させるためには、ある種のいま風な宗教的価値観が再認識されるべきなのではないかとすら思います。 創価学会に課せられた使命  実際、地方政治を見ていると、貧困家庭や高齢者に寄り添い、地域の活動を支えている議員の多くはたいていにおいて公明党の人たちであって、いまでこそ、NGOだNPOだ言ってますが実際の福祉を担ってるのは結局創価学会の人たちじゃないかとも思います。  また、旧統一教会の件では宗教と家庭、寄付の話が蒸し返され、1950年代の反共産党活動で自由民主党の保守傍流と結託した旧統一教会が腐れ縁でいまなお自民党の枢要な政治家に刺さっている状況は、旧統一教会が標榜するキリスト教諸派だけでなく、創価学会などあらゆる宗教に対する冷めた目線をも惹起してしまっています。  いまの世の中を見ると、本来であれば、絶対的な価値と行動規範を提示する宗教一般が現代社会において相対化されてしまい、むしろ信者である私たちとそうでないあなた方とで分断されていきがちな状況に陥っています。  社会における宗教団体に対して感じる気色悪さの根源も、かねて宗教が戦ってきた奇異の眼や異端扱いとの戦いにもその文脈があるのであって、こんにちにおいても穏やかに信仰を重ねることそのものが非科学的だと感じる国民も少なくありません。  しかし、一方で人間の力の及ばない問題に直面したときに自らを落ち着かせ励ます瞑想や、日々の行動を慎ましく律するための信仰がその人の未来を拓くこともあるのではないかと思うのです。偉大な宗教指導者であった池田大作さんが亡くなられた後の創価学会は、そうした本来の宗教的価値観を新たに構築していく使命を帯びています。  ひとつの時代の終わりとともに、新たな何かを創価学会も、公明党も、��本政治も考えていかねばならない状況に追い込まれていることを鑑みると、池田大作さんは最後の考える時間を作ってくださったのかな、と感じずにはいられません。  改めて、池田大作さんの魂に限りない平安があらんことを心よりお祈り申し上げます。
現代政治思想そのものだった池田大作氏、戦後政治に残した平和外交路線の矜持 池田大作さん死去、全く関係のないキリスト教徒の山本一郎がその存在感を悼む(1/4) | JBpress (ジェイビープレス)
0 notes
qofthequinine · 2 years ago
Text
youtube
この曲を聴いてくれれば、大体のメッセージは伝わると思う。
 信仰も大事だし、自分でなんとかするのも大事だ。けれどつまり、それは修道院や寺社仏閣で、人間と高次の存在の架け橋として隔絶された環境に過ごすことを目指してしまう。社会的動物であるところの人間には、ほとんどの人が耐えられないだろうし、実際に仏教の修行では死者も出ている。キリスト教では殉教とも言うし、イスラムではジハードだとか、あらゆる宗教には、高次の存在の犠牲となった人物を肯定する教義がある。
 しかし、だ。あらゆる人々は、もうすでに高次の存在を掴みかけている。この文章を読んでいる人はきっと、思い悩んでいるだろう。もっと病的な状態にあるかもしれない。けれども、肉体は依然として人間だ。リストカットやオーバードーズをするのも、肉体を捨て去りながら、精神のどこかを治療するために行っている、と自分では感じている。人間であるためには、悟りながらも、肉体を維持する必要がある。そのバランスを崩した人が、いわゆる精神的な病に陥るのだろう。それも仕方のないことだ。耐えきれないことが世の中にはある。しかし、一般的な通念として、社会に参画しなければ、当たり前のことが当たり前にできなければ、生きるのは難しい。人間のようでいて、人間じゃないような感覚が、きっとあるのだろう。あなたは、あなたのようでいて、あなたではないように感じているのだと思う。
 そうじゃない。あなたは、あなただ。あなたがわからないと感じている事実を、あなたは理解している。あなたはなのだ。社会性や関係性やジェンダーにおける、押し付けられた人間らしさではなく、生まれついて肉体を獲得した時点で、抗おうにも肯定しようにも、どうしようもなく人間なのだ。神や仏も大事だが、まずは人間であるあなた自身を救うためには、あなたがあなたを大事にして、あなたが誰かを大事にして、誰かがあなたを大事にして、その輪が広がって、その果てに神や仏、あるいは哺乳類や爬虫類や昆虫や害虫、この世界の拡がりを感覚できないだろう。あなたはきっと、とてつもなく愛している何かがあるし、死んでも恨��尽くせない誰かがいるだろうし、好きも嫌いも何もかも、実はしっかりしている。
 立川談志の言う「業の肯定」とはそういうことだろう。「多様性」という言い方はあまり好きではない。あなたはきっと、「多様性」というゴミ箱の中に閉じ込められて蓋をされてしまっている状況を、いち早く感じている。認めるのではなく、「そういう人なのね」と見捨てられてしまう。だから、耳を塞ぎ、口を噤んで、誰にも本当のことを言わずに、そのままどこかへ行ってしまいたくなる。帰っても、もっと帰るべき場所があるように感じる。どこにも居場所がない。居場所を与えられても、ここではないように感じる。
 罪を犯していないのに、罰を受けた人間のような感覚や環境があって、キリストの言う「原罪」はそのことだけれど、しかし一方で、「私は罪を犯していない」と思っている人ほど、残酷だ。そこで、宗教は変わるが、「悪人正機」という考え方がある。「罪を犯している自覚がない人は、神仏に救われようもなく地獄に堕ちる」という考え方だ。あなたは、自身や誰かに課された十字架や業を自覚している。きっと何かはそれに気づいている。気づいている誰かにもきっと会える。けれどもそれは、エンドロールが終わったあと、幕が下りたあとのことである。
 生まれた時点で、『人生』という作品に登場したのがあなただ。この作品は、喜劇であり悲劇でありロマンスやピカレスクやノワールだとか、全てのフィクションが詰まっている。作中作品を作るのが、芸術家であると思っている。『人生』の作者はわからない。
 ただひとつ、この『人生』には仕掛けがある。幕引きを登場人物が決めることはできない。作者不詳の『人生』は、作者のタイミングで幕が引かれる。そこであえて強制的に自らの役割を剥ぎ取ることがあれば、きっともう二度と、『人生』の再演はない。作者は誰だろうか?
 確定した終わりがある作中作品である芸術一般(ハイもサブもアンダーグラウンドも含めた全ての作品)を考えると、どうしても臨終を覗き見てしまう。誰かの死に直面して当惑することもある。それもまた、心のどこかで「面白い」と思うことができれば、きっとみんなハッピーなんだろうな。
最後に、エンディングテーマが流れる。連続ドラマのエンディングではなくて、エンドロールで流したい音楽だ。ニューオリンズでは死者への手向としてビッグバンドがスウィングジャズのハッピーな音楽を流す。そのつもりで聴くと、私のコアがわかるはずだ。
では、まだ私の幕は下りないが、この文章の幕引きとして。
youtube
0 notes
dolcissimamiavita · 3 years ago
Text
2021年に読んだ本から印象に残ったものを何冊か
ピエール・クラストル 『国家をもたぬよう社会は努めてきた』
ノブレス・オブリージュという言葉の本当の意味は、首長が民に対して負債をもつということなのかもしれない。民が首長に負債を持ち貢納を納める国家において、支配と服従の関係が前提されるのとは反対に、国家を持たぬ社会では、民の代弁者でもある首長が、民に気前よく与え民を飢えさせないことが彼の義務で、その義務を果たさない首長は直ちに引きずりおろされる。そこで首長が命令せず、権力を持たないのは、それによって社会に分断を生じさせないためだった。アマゾンの部族のフィールドワークに基づく視点は革命的なまでに刺激に富む。
 
アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』
ロリータの本名ドロレスがスペイン語で苦痛を意味することの重い意味、ロリータの視点から小説を読む意味、それは、この書物を禁書にしておきながら、法定結婚年齢を18歳から9歳に引き下げ、少女との結婚になんの躊躇もないイスラム共和国で、ミサイルとミサイルの間にジェイムズを読み、アメリカに死をという喚声を聞きながらグレイトギャツビーを読む彼女たちこそ、切実に理解できるのだろう。文学が役に立たないなどと誰が言ったのか。彼女たちにとって文学こそがが生きるための糧、想像力という名の武器をもつ手段だったのではないだろうか。
ナディア・エル・ブガ『私はイスラム教徒でフェミニスト』
こういう本を待っていたかもしれない。差別されているといわれるにもかかわらず、モロッコ出身でフランスで性科学者として活躍する著者の生の声は力強く知性にあふれ、真の意味で宗教的。なぜスカーフをかぶるかの問に、他者の視線から身を守るためではなく、神と直に接するためだと言う著者は、大事にするように神から託された肉体なのだから、自分の体も他人の体もいとおしむ、そこが性的関係の出発点だという。男性本位の解釈で歪められてきたコーランの著者による再解釈は目からうろこ。イスラム化される以前のモロッコのベルベル人の自由な発想がそのような再解釈を可能にしたのかもしれない。
高橋たか子『装いせよ、わが魂よ』
肩書も職業も住処も捨てて赤裸になる、それが神の前で装うということだろうか。言葉のよく通じない異国の地で、住むべき場所を求め、ふと街角で耳にした旋律を求める波子の道程は垂直的で、あるときは教会の地下の暗闇の奥のオルガンに、あるときは雪に覆われた山の上の修道院に。だが、ひとりひとりの人間にキリストが内在するのならば、自らの内部にもまた存在するはずで、それなら住む場所さえ必要ないのかもしれない。最後のページで、野営地から野営地に、ふいと風に吹かれるようにしてうつろってゆく後ろ姿には、なにか霊的な輝きがさしていた。
 
高橋和巳『邪宗門』
国家権力にすり寄る既成宗教とは逆に、信仰を貫き汚濁の世を変えるために、負けるとわかっていてもあえて国家権力に翻す叛旗のもとに、死を肯定し死に急ぐ信徒たちの群像、泥水に浸かった城の破壊は、さながら中世フランスのカタリ派のモンセギュール落城を想起させる。ともすれば気味の悪い自己満足に陥りがちな新興宗教の内面を、千葉潔という、心に底知れぬ空洞をもった漂泊者の視点から冷ややかに描くことで、逆説的にその深さを剔抉した本書は、戦中戦後を描く汗牛充棟の書物のなかでも宗教と国家の確執を描き切った点で類を見ない作品と言える。
 
カトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か』
たしかに、黙っていても夕食が出てくるのが当然と思っている人の思想など子どもの遊びのようなもので、思想の名に値しないだろう。自立して合理的で客観的な判断のできる個人を前提にした経済学が退屈なのは、それが男による男のための学問でしかなく、たとえば夕食係が夕食づくりをボイコットするだけで、たちまち崩れ去る脆い楼閣にすぎないからだ。たがいにケアしあい依存しあう、ときには気まぐれで非合理的な判断を下すこともある人間のための、「恐れや欲を食い物にするのではなく、それを克服するため」の新しい経済学が今必要とされている。
『ピエール・ルヴェルディ詩集』
シュルレアリスムの旗手という紋切り型で語られる詩人だが、通読後の印象は、むしろ孤高の神秘主義とでも形容したくなる。中年になってからカトリックの洗礼を受けて後半生を修道院で送り、エリュアールら盟友が政治的に参加する詩を書く大戦中も、世の中から隔絶して創作した彼の詩は、宗教的観念があからさまに表現されることはないものの、異質なイマージュの結合を通じて、超越的な何かを幻視する試みのように思える。特に「奇跡」「言葉が降りる」。前者はベタニアのラザロ、後者は聖霊降臨を連想した私の読みは間違っているだろうか。
チャールズ・ローゼン『古典派音楽の様式』
ブーレーズによるウェーベルン全集(一回目)でピアノを務めたことでも知られる著者の本を読むのはこれで4冊目だが、いつも思い出させてくれるのは音楽の知的な理解と感性的な聴取が両立すること、前者が後者の質をさらに高めてくれること。譜例を引用しての楽曲分析は専門用語も多いのに、退屈などころか、その曲を一層深く聴きたい気にさせてくれる。ベートーヴェンのハンマークラヴィアソナタでの、三度音程が全楽章にわたってどれほど重要な役割を果たしているかのくだりは、推理小説���ような面白さ。ハイドンのピアノトリオやモーツァルトの弦楽五重奏曲の分析も。曲名索引が充実しているので座右において事典的に使いたい。
匹田剛『これならわかる ロシア語文法』
良く書かれた文法書は一つの町あるいは一つの世界に似ていて、見知らぬ町に迷いこんだ私の手をとってやさしく導いてくれる、通りや店や人々の場所や名前を少しずつ覚えるにつれて、その町の輪郭が徐々に明らかになってゆく喜びは何ものにも代えがたい。同じ著者の初級者向けのを買ったが物足りず、上級までカバーした本書ではじめていくつもの疑問が氷解した。語学書に読了はありえず、無料アプリのDuolingoでの毎日の勉強で生じた疑問を辞典的に調べるだけなのだが、この本に出会えて心から感謝している。
川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』
四つの物語のなかで表題作がいちばん好き。解体の途中の隣家に夜中に忍び込んで、真っ暗闇のなかでかつての住人であった死者を想像するうちに、彼女と語り手の間にながれだすひそやかな魂の交流、いないはずなのにすぐそばにいるような感覚。孤独に不妊に悩む語り手と同じように、隣家の住人も、女友達との間に子どもを産みたいという不可能な希望とともに生きて死んでいったのだった。彼女たちの体にまとわりつく藤の花びらとベートーヴェンの32番のソナタの第二楽章は此岸と彼岸の架け橋かのように思える。静かに流れる水のような透明で静かな文体。
金石範『火山島 第三巻』
植民地時代の小学生のときに奉安殿に小便をひっかけて逮捕されたことのある李芳根は、今では資産家の跡継ぎの無為徒食、革命への参加を促されても腰は重い。かといって、反共勢力による革命の弾圧にも憤る。どちらにも肩入れしない曖昧な態度のままに、自宅の書斎で酒を飲むばかりの彼の視点から見た4・3蜂起は、双方の立場の限界と機能不全を明らかにした。日本による統治は終っても、その負の遺産はあちこちにくすぶり、差別された島の怨恨は鬱積し、和解への摸索も頓挫する。数年後には朝鮮全土をまきこむことになる戦争の予兆。
川野芽生『Lilith』
藤棚が解体されると知らずに巣を作っている鳩のようなものなのかもしれない、私は。私を構成していたはずのものは消え失せ、ネジを巻こうとしても手首のどこにも竜頭がみつからない。ここは私の居場所ではない���ここではないどこかへ、しかしどこへ?ゆきどころはみつからない。世界という異郷では、人が人を恋するというのも奇習にしか思われない。油絵のほうがもしかして実在で、私はその絵を覆うガラスにつかのまうつる影あるいは夢のようなものだろうか。人ではなくて馬に生まれ変われば、蹄にかけたいものもいくつかはあるのだが。「みづからの竜頭みつからず 透きとほる爪にてつねりつづくる手頸」
3 notes · View notes
esoterics-posts · 6 months ago
Text
#生物学者、#脳科学者、#唯物論者 の傲慢
#惑星のロゴス、#宇宙のロゴス
#キリストや覚者方、そして #イニシエート の臨在の徴を洞察。
#応用心理学 #七光線心理学 による #インテリジェントデザイン(#知的創造論)と #霊的進化論(#カルマ(#原因と結果)の法則)と #リンカネーション(#再生誕の法則)
#意識存在
#意識の科学、#唯識論、#顕在意識と潜在意識、#想像界・象徴界・現実界、#フロイト、#ユング、#アドラー、#ラカン を越えて
#秘教哲学、#秘教心理学、#秘教絵画、#伝導瞑想
#キリスト・マイトレーヤと覚者方 の降臨
#ブラヴァツキー夫人、#アリス・ベイリー、#ベンジャミン・クレーム
0 notes
nyantria · 4 years ago
Text
それ��以前も書いたことだけど『携挙』という概念は正統派キリスト教には存在しない一部のカルト教派による異端信仰ですので、賢明な方々は相手になさいませんように。聖書を通読せず祈りもせずに飛び交う情報だけでキリスト教を把握しようとしても絶対に出来ません。神学者が一生掛かっても探求しきれないものをなぜ通りすがりの知識で判断したり、把握したつもりになったり、時に裁いたり出来るのか。新たな疑心暗鬼と分断を生むだけです。それは罪に定められることでしょう。一部のカルト信者が言っているにすぎない、本来は聖書にない言説に振り回されて、本質を見失わないようにお願いします。キリストが直接関わった最初の弟子達からこれまで、一体どれほど多くの使徒達が殉教されたか、その多くが時の権力者に殺されています。本当の信仰は(宗教とは元々そういうものですが)“ハードコア”なものです。最終的には血を流すことになるでしょう。携挙というのはキリスト教のコアな部分を壊すため、信者を日和らせキリスト教信仰を弱体化させる為に作り出されたイルミ側のあやかしです。そんなもの起きませんし、ありません。携挙なんて絶対に「起こりません」。艱難時に艱難辛苦を経ずに信者であれば無条件に救われるなんて、黙示録にも書いてありません。私は寧ろ選ばれた信者達はその信仰の故に人一倍の艱難辛苦を味わうだろうと覚悟しています。「携挙」を期待して待っている信者に問いたい。あなた方はなぜ聖書にない言説に振り回されて真理から遠ざかり、惑わし惑わされているのか。キリストは楽して昇天されたのか。死に際には苦しまれたではないか。我々が正しく天に挙げられるとすれば、艱難の嵐の後この世の終わりと同時に来たるべき主の再臨の時であって、その時まで生き残っていればの話だが、それは殆ど(聖書でいうところの)「来世」でのことです。それまでは人一倍の艱難を覚悟するべきです。しかし正直なところ私はこの時まで自分が耐えうる自信がないので、この時を待たずに死にたいと考えているのです。これも、信者としては “失格” なのでしょうね。私個人は自分の「永遠の命」に拘りはなく、消滅して構わない。ただ、たとえ滅びゆくこの世界だとしても、普通に人としてその前に「正義」は実現されてほしいと切実に願っているし、首謀者達が現実に裁かれることを望んでいます。しかしそれは特定の「政治家」ではなく「神」のみが実現し得るのだろうと信じています。
☦️ Christ is risen‼︎
Tumblr media
『ハリストス復活!実に復活!』 🕊
3 notes · View notes
xf-2 · 5 years ago
Link
韓国でも新型コロナウイルスの拡散が大問題となっている。2月23日には、文在寅大統領が「コロナ19(新型コロナ)政府対策会議」を開催し、国家の危機警報を最高段階の「深刻」へ格上げした。
「コロナ19の事態が重大な分水嶺を迎えた。『新天地』内の大規模な集団感染が起きる以前と以後とは、全く別の状況になった」
 この文大統領の言葉どおり、韓国内のコロナ拡散状況は、新興宗教団体「新天地イエス教証しの幕屋聖殿」(以下「新天地」)の集団感染が発生したことで、政府の統制も利かない事態となった。
感染者が病院を抜け出し、教会へ
 新天地での集団感染が発覚したのは、次のような経緯からだった。
 2月18日、韓国疾病本部は韓国の南東部に位置した大都市の大邱(テグ)で31番目の感染者が発生したと発表した。発表によると、感染がわかったAさん(61)は2月6日に交通事故に遭って近くの病院に入院し、10日から発熱。医師は新型コロナの検査を勧めたが、海外渡航歴がなかったAさんはこれを断ったという。
 その後、Aさんは入院していた病院を抜け出して、2月9日と16日に新天地大邱教会の礼拝に出席。さらに、15日には大邱市内のホテルで食事をするなど、大邱市内を歩き回った。そして17日、高熱が続いたためコロナ検査を受けて感染が確定し、国指定医療院に入院隔離された。
 このAさんの動線を確認した疾病本部が、Aさんとの接触者を中心に検査を行うと、19日から確定者が急増し始めた。
19日の1日だけで、新たに20人の感染者が発生したが、このうちの14人が新天地大邱教会でAさんと一緒に礼拝を行っていた信徒たちだった。
 その後も全国の新天地教会の信徒たちの感染が続々と確認され、25日午前9時現在、韓国の感染者893人のうち、半数以上が「新天地」の信徒らとその家族などの関係者だった。
「異端」とされる新興宗教
 今回問題となった「新天地」は、1984年に李萬煕(イ・マンヒ)氏によって始まった新興宗教だ。本部はソウル近郊のベッドタウンである京畿道果川(カチョン)にある。聖書に登場するイスラエルの12支派を真似て韓国全域に12の本部教会を設立し、韓国(72カ所)を含めて全世界に108カ所の教会と、509カ所の宣教センターを備える大規模な宗教集団だ。新天地の発表によれば、信徒数は25万3000人いるとされている。
 韓国のキリスト教団によれば、「新天地」では李総会長を「永生不死の再臨イエス」と崇拝し、「総会長に従えば死後、天国に入ることができる」と教える。世界終末の時には、14万4000人だけが天国に行けるとされ、信徒たちは14万4000人の1人となれるように積極的に活動することが求められる。新天地はキリスト教を標榜しているが、他の韓国のキリスト教団からは「異端」と規定されている。
 これまで問題になってきたのが、新天地の攻撃的な宣教方法だ。新天地の信徒たちは身分を隠して他のキリスト教の一般教会に潜入し、その教会の信者の抱き込みを狙って活動する。たとえば、牧師の不正を生み出して教会から牧師を追い出し、新天地の牧師を新たに招聘して教会を丸ごと飲み込む――などの手法だ。
 新天地は、信徒を徹底的に管理することでも知られる。礼拝を行う際には、指紋認証やQRコード認証を使って、出席をチェックする。病気になっても礼拝を欠かしてはならず、地方に出張したり旅行に出かけたりしていても、出先の新天地教会で礼拝を行うことを義務付けている。
ちなみに、先述の感染者Aさんが病院を抜け出して礼拝に参加した大邱教会は、李総会長の故郷・慶尚北道の清道(チョンド)と近いため、全国から多くの信徒が集まることで知られる。その結果、Aさんと同じ日に礼拝を行った全国の信徒が各地の教会に戻ったことで、新型コロナが韓国全域に急激に広がりはじめた。
家族や友人にも信仰を隠す信徒たち
 韓国の防疫当局は、新天地信徒の調査に力を入れている。新天地大邱教会から9300人あまりの信徒リストを受け取り、600人を超える警察官を動員して彼らの行方を追っている。また、全国の新天地教会に、大邱教会を訪問した信徒の名簿を要請しているが、新天地側は非協力的だ。韓国社会で「異端」とされる新天地の信者は、家族や親しい友人に新天地の信徒であることを徹底的に隠しているため、その把握は困難を極めている。
 一方、韓国内で新型コロナによる初の死亡者が発生した慶尚北道清道の病院でも、新天地の信徒による感染が疑われている。この病院では、1月31日から2日間にわたって李総会長の兄の葬儀が行われ、多数の信徒が参列したとの報道もある。李総会長の故郷・清道が新天地の聖地であるため、多くの信徒がこの病院でボランティア活動をしていたとも報じられている。
 この病院では現在、患者や医療関係者113人が感染し、うち6人が死亡している。感染者の大部分、113人中110人は5階の閉鎖精神病棟で感染し、重症者も多く、「韓国版ダイヤモンド・プリンセス号」とまで呼ばれている。
「他の教会に潜入して新型コロナを拡散させろ」
 いま、韓国社会では「新天地恐怖症」が起きている。
 新天地の主要拠点があるソウル市と京畿道を筆頭とする各自治体首長は、新天地教会の閉鎖を命令し、礼拝の自粛を促した。しかし、新天地側は礼拝堂を閉鎖すると公表する一方で、信者たちには「礼拝堂は閉鎖するので、2人1組で活動せよ」と告知。その事実が報じられると、韓国国内は大騒ぎとなった。
 さらに、韓国中の教会をパニックに陥らせたのが、マスコミによって暴露された次の信者内のSNSのグループトークへの書き込みだ。
「既存の一般教会の礼拝に潜入して新型コロナを拡散させ、伝染が新天地だけの問題ではないことを知らせよう」
 韓国国民の約20%がプロテスタント、約8%がカトリックとされる。23日からは、キリスト教系の各教会が礼拝を中断し始めた。
 新天地教会の位置を知らせるアプリも人気を集めている。新天地教会の近くに行けば、アラームが鳴り、教会の正確な位置を知らせるアプリだ。
 23日には、新天地の強制閉鎖を求める請願が大統領府の掲示板に掲載され、1日で30万人以上の同意を得ている。
「自分たちは最大の被害者だ」
 現在、韓国当局が最も心配しているのは、感染者Aさんが2次感染者であること、そしてAさんと同じ時期にコロナ症状が発生した信徒が多数あるという点だ。
 つまり、Aさんを始めとした新天地の感染者は、中国から入ってきた1次感染者と接触後、感染したと推測されているが、新天地側の非協力的な態度もあって、肝心な1次感染者の追跡調査が極めて難航しているのだ。
 批判が急増する中、新天地は2月23日午後、YouTubeで緊急声明を発表した。新天地側は、政府に最大限協力するとしながらも、「自分たちは最大の被害者だ」と主張。大邱教会の信者リストを当局に渡したことは明らかにしたものの、その他の地域の信者のリストを提供するかどうかについては言及しなかった。新天地側が信徒リストを全面公開することを発表したのは25日になってからだ。
 さらに新天地側は、教会と付属機関などの1100カ所の宗教施設をすべて防疫したとし、施設のリストと住所をホームページに公開した。しかし、一部地域では、これまで知られている新天地関連施設の数と新天地側が今回発表した数が異なっており、政府が追加で調査することになった。
 韓国の宗教学者は、新天地の教義と閉鎖性が、当局の防疫に大きな障害要因になっているとして、次のように指摘している。
「新天地は『新し��世界が開くと現在の肉身を脱いで新しい肉身に着替えられる』と信じているため、信徒たちは現在の肉身の健康に対して無関心だ。新型コロナのような伝染病にかかっても、これまでと変わりなく礼拝に出席し、布教活動を続けるため、感染拡散に歯止めがかかりにくい」
 さらに宗教学者らは、新天地が一般教会に信徒を抱き込むために韓国全土に派遣する「刈り入れ屋」と呼ばれる“スパイ”のリストを、政府当局が入手する重要性を指摘している。ただ、彼らの活動は教団の極秘事項であるため、入手は難しいだろう。
 韓国で最も閉鎖的な宗教集団である新天地が新型コロナの温床になってしまった今回の事態。予断を許さない状況が続いている。
3 notes · View notes
shingoiwasaki-blog-blog · 1 year ago
Text
27CLUB - FIRSTMADEは滋賀県を拠点にホームページ制作やデザインを主な業務としています。
【27歳で亡くなった有名ミュージシャンたちです。】
ちなみに、アルファベットの数字って「26」までしかないのは、皆さんご存知ですか?つまり、27歳に申し合わせたように何故か?亡くなる有名ミュージシャンたちの「死」と関係しているのです。A〜Z=「26」つまり、アルファベットの「Z」が26歳にあたるのです。アルファベットが26までであって、27が存在しないのは、アルファベットが死んだから「無」すなわち「死」と等しいのです。【27=無=死】そして、昨今、「Z世代」という若者が誕生しました。これは、
何を意味しているかと申しますと、つまり、「Z世代」=「地球の年齢が26歳」という意味をあらわしています。そして、アルファベットの「Z」の次がないということは、そうです。もう、頭の良い方はお気づきかと思いますが、地球が26歳ということはアルファベットで言うところの「Z」【26歳】の状態をあらわしているのです。そして、「Z」の次のアルファベット【27番目のアルファベットが存在しないということは】が存在しないということは、かつて、有名ミュージシャンが申し合わせたように27歳で亡くなっているのと同じように、地球は27歳で亡くなるのです。つまり、今、地球が「Z」=「26歳」もうすぐ地球の寿命がおとずれるつまり、消滅するのです。それ故、今の若者、つまり「Z世代」=「地球、最期の世代」なのです。
 
【2023-11-27】A〜Zのタトゥー
【zshingoの日記】【気まぐれ日記】
 
曇り。午前七時過ぎ起床。テレビをつけ、顔を洗い歯を磨く。セカンドストリートで、500円で購入した無名のジャケットに、カッパのジャージパンツ(セカンドストリートで購入。セットアップで1000円。)に、バンズのスリッポンを履き、アパートを出る。今日は、「KーTATTOO」で、11:00に、TATTOOを入れる予約を入れている。腹に、アルファベットの「A〜Z」まで入れるのだ。文字の書体は、ギャング文字。デザインは、彫師さんに任せている。彫師さんは、以前、私の腕に「聖母マリア」を入れてくれた方だ。とても腕のいい彫師さんだ。つくづく、思うのが、「彫師」という職業は、「神」の力がやどっている。何故なら、「ミスの許されない職業」にも関わらず、いまだかつて、「タトゥーを入れて、彫師さんに失敗された」という話を聞いたことがないからだ。勿論、入れ終わったあとのデザインが、自分が想像していたものと違っていた、などはあると思うが。それは、あくまでも、タトゥーを入れる側の掘る前の想像していたイメージと、実際に墨が入ったあとの、イメージが違うだけであって、決して失敗ではないのだ。それに比べて、家電製品や、洋服を購入して、買ってすぐ、家電製品が動かなくなったり、買った洋服にシミや汚れが目立たない場所についていた、などの話しはよく耳にする。あと、食材も、腐っていた、裏返してみると傷んでいたなどの話も耳にする。タトゥーに関しては、私は、いまだかつて「彫師さんへのクレーム」という話を、一度も聞いたことがないのだ。これだけ、タトゥーが、全世界で一般化されているのだから、そんな話しの一つや二つあってもいいはずなのに。地下鉄で天神へ向かう。電車内、福岡市総合図書館で借りた、荻原魚雷著「書生の処世」の続きを読む。今回で三度目の再読だ。一回目、二回目に読んだときは、何も感じなかった文章が、時が経てば不思議と胸に刺さる箇所が出てくる。これはつまり、私がそれだけ、人生経験を積み、過去の自分から成長しているという証だ。本を出版する著者が、読者に対して、切実に望んでいるのは、自分が書いた本を繰り返し読んで欲しいという願望を持っている。これは、大抵の著者が願っていることである。適当に、飛ばして、流し読みされることを嫌う。勿論、村上春樹先生も。他人が書いた本を繰り返し読むという行為は、ただ単に、他人の考え、言動を「知る」ということ以外に、他人の「人生を自分の体内に入れて生きる」という行為にもつながる。文学科の大学教授が生徒に口を揃えて言う言葉は、とにかく、自分の気に入った作家の「全集」を読めと言う。いろんな作家の書いた本をちょこちょこかいつまんで読む読書も勿論、悪くはないが、それでは、一人の作家の人生を「知る」ことはできない。一人の作家の書いた「全集」をすべて読破するという行為は、その作家の人生を知ることでもあり、それプラス、その作家の「生き方」を、「自分の人生に取り入れる」という行為でもある。そう、その作家の「血肉」を自分の体内に「吸収」する行為そのものなのだ。そう、意識しなくても、一人の作家が書いた本を突き詰めて、繰り返し読んでいけば、それを書いた作家の性格に、「知らず知らず」自然と似てくるのだ。これが、書いた作家の「血肉」を「吸収する行為」と言える。私の場合、村上春樹先生の書く、小説の主��公に、「ものの考えかた」が「似ている」と自分で思っている。勿論、特に「意識」してそうなったわけではない。読み続けていくうちに、「自然」とそうなったのだ。勿論、悪い気はしない。むしろ、嬉しい。何故なら、村上春樹先生の小説に出てくる主人公は、「何一つとして、間違ったことを言っていない」からだ。つまり、これは、何を意味しているかと言うと、村上春樹先生の書く小説の主人公は、現代の「イエス・キリスト」だからだ。つまり、私のことである。(再臨)村上春樹先生の出版された本は、すべて現代版の「聖書」なのだ。あと、元、「ブランキージェットシティ」のボーカル、「浅井健一」さんの書いた曲の歌詞も、「現代版の聖書」だ。浅井健一さんの書いた「詩」には、「ヒッピー」や、「ホームレス」や、「麻薬常用者」や「売春婦」や「動物愛護団体」や「純粋な心を持った子どもたち」などの、いわゆる、社会の底辺で生きる、アウトサイダーたちが、いろんな歌詞の中に散りばめられている。そして、よく歌詞の中に「神」が登場する。そう、私にとって、村上春樹先生の書く「小説」に出てくる「主人公」や、その他の「登場人物」や、浅井健一さんの書く「詩」の中に散りばめられている「アウトサイダーたち」は、ただ単に、「詩」���「小説」の中だけの人物ではなく、生きているのだ。話を戻すと、「全集」には、小説以外に、その作家の書いた、日記、随筆、ある日、ふとひらめいた考えが、ノートの角に走り書きされた、ちょっとした内容の文章まで記されているものもある。(ただし、昔の人が書いた「全集」に限る。)比較的最近の人が書いた「全集」であれば、ノートの角に書いたちょっとした走り書きは、うまくぼかして「雑記」の中にまとめられているのだろう。ちなみに、村上春樹先生の出版されている「雑記」というタイトルの書物も面白く読ませてもらった。イラストは、もう亡くなられたが、「安西水丸」先生と、なんとか「誠」先生だ。(たしか、「椎名誠」先生という名前のイラストレーターだったような気がするのだが)村上春樹先生は、安西水丸先生と特に、仲良くされていたのが、「村上朝日堂」や「村上朝日堂の逆襲」を読めばわかる。「zshingoの日記」に話を戻す。天神に着き、少し、腹が減ったので、マクドナルドへ向かう。名前は覚えていないが、肉肉しいマクドナルドの朝メニューを食べ、SNSを閲覧、投稿する。気づいたら、十時二十五分になっていたので、KーTATTOOへ向かう。少し、早めに着いたので、KーTATTOOの裏の駐車場のアスファルトにしゃがみこんで、SNSを閲覧、投稿する。約、十分前になったので、KーTATTOOへ入る。担当の彫師さんがデザインした用紙を見せてもらい、腹に下書きのインクを転写する。インクが乾くまで、上半身裸で待機。寒い。彫師さんのスタートしましょうの合図で、ベッドへ仰向けに寝る。いざ、タトゥーマシーンの針が皮膚に刺さった瞬間、チクチクとした痛みを感じる。最初は、右腹からスタートしたのだが、腹の中央にくるにつれて痛みの強さがましてくる。痛みのあまり、終始、しかめっ面。結局、N〜Z、13このアルファベットしか入れることができずに終わる。そう、途中で、私は、彫師さんに、あまりにも痛みが強烈なので、これ以上、入れることができません。これでやめにしてくださいとお願いしたのだ。ただし、バランスよく、ヘソの上を、アルファベットがきれいにアーチするように入れてはもらった。しかし、アルファベットの枠だけで、中は黒く塗りつぶされてはいない。痛くて、とてもじゃないが、これ以上、彫り続けることができないのだ。でも、それはそれで逆にカッコいいんじゃないかという考えも浮かんできた。(昔、東京に住んでいる時に、渋谷区道玄坂のクラブエイジアで働いていた、「マサさん」という人が、アルファベットの枠だけ腹に入れているのを見て、カッコいいなと思った記憶があったため)実際に、鏡で見てみると、カッコよく仕上がっていた。勿論、アルファベットの枠だけではあるが。痛さのあまり、彫りを途中でやめてしまった私に対して、店のオーナーさんに、「しんごちゃん、一度、彫ると決めたものを、途中で断念して辞めるのは、あまりにもカッコ悪すぎるから、せめて、残りのA〜Mまでのアルファベットは、腹じゃない別の場所に入れようよ」と持ちかけられたので、次回、A〜Mまでのアルファベットのタトゥーを背中に入れることで話がまとまる。次回の予約をしてタトゥーショップをあとにする。(明後日)ブック・オフへ行き、トミーヒルフィガーのブルーのジャケットを1200円で購入。地下鉄で帰宅。電車内、荻原魚雷著「書生の処世」の続きを読む。近所のコンビニで、タルタルフィッシュバーガー、醤油味のカップラーメン、コーラ、カルピス、ポテトチップスうすしお味を購入。アパートに帰り、シャワーを浴びて、洗濯機をまわす。テレビをつけ、コンビニで購入した晩飯を食べる。食後、ポテトチップスを食べる。一袋たいらげたら、気持ち悪くなったので、胃腸薬を飲む。普段、服薬している薬も飲む。歯を磨く。YouTubeで、数年前に読んだ山本周五郎著「季節のない街」の朗読を聴く。突然、無性に「季節のない街」を調べてみたくなったのだ。そしたら、たまたま、YouTubeで朗読している動画を発見したのだ。「季節のない街」は、短編小説で、私が、どうしても、もう一度聴きたいと思う、短編小説のタイトルが思い出せなかったので、Amazonサイトの説明書きされた、タイトルでそれっぽいタイトルのものをYouTubeで、検索してみるも、なかなか出てこない。結局、5回目ぐらいでようやく見つけることができた。「プールのある家」というタイトルの短編小説だ。話しは、路上生活者である父子二人の物語。浮浪者だが、博識な父親の話に、耳を傾ける息子。しかし、息子は、路上生活者の大半がそうなるように、死ぬ。残された父親一人の描写がしばらく続くが、途中から、犬に「転生」(てんせい)した息子が父親の前に現れ、父親のあとを、ついてまわるところで、話しは終わる。「プールのある家」視聴後、あのちゃんのラジオ番組をYouTubeで視聴。洗濯物を、洗濯機の中から取り出すのを忘れて、深夜一時四十分ぐらいに眠剤を飲み就寝。取り出すのを忘れた洗濯物は、結局、次の日の夕方気づき、再度、洗濯機をまわす。菌が繁殖しているからだ。
1 note · View note
maffielog · 2 years ago
Text
アメリカン・ルーツ・ミュージックの概観と考察
現代のアメリカンポップスの源流と言える、ブルース、ゴスペル、カントリーミュージック、フォークソングなどのアメリカン・ルーツミュージックの特徴は、様々な地域からの移民たちがもたらした、音楽様式の多様性によって基礎づけられると言えるだろう。
ルーツミュージックを形成してきた移民として、以下の例を挙げる事ができる。
①イギリスからの移民 ②アフリカから来た黒人奴隷 ③19世紀後半から20世紀前半にかけての東ヨーロッパ、南ヨーロッパ、アイルランドからの新移民 ④20世紀に入ってからのプエルト・リコなどのカリブ海域からの移民 ⑤先住民族のネイティブ・アメリカン
こうした多民族性を背景として様々な音楽が生まれてきた。大別は以下のとおり
①ネイティブ・アメリカンの音楽 ②アパラチア山脈南部地域の白人、つまりイギリス(スコッチ・アイリッシュ系=イギリスにおけるプロテスタント長老派で英国国教会からの迫害を避けアイルランドに渡りその後アメリカに再移住した)からの移民の音楽 ③黒人のゴスペル ④黒人のブルース ⑤ヒスパニック(スペイン系)の音楽 ⑥ケイジャン(ルイジアナ州のフランス系移民)の音楽 ⑦ヒップホップ(1980年代以降新たな黒人系の都市音楽として発展)
この他ハワイの音楽など、占領支配の結果としてアメリカン・ミュージックに取り入れられる音楽もある。白人と黒人の音楽はそれぞれの独自性を保ちながらも互いに影響し合いながら発展してきた。例えば白人系の音楽でもバンジョーが広く用いれられるが、バンジョーはアフリカ起源の楽器である。時代が下るほど音楽における異種混交の���合いは深く、また複雑になる(ゴスペル→ブルース→ジャズといった黒人音楽の変遷などに顕著である)。ロックの基本的なリズム感覚もそうした白人系、黒人系の混ざり合いの中で生まれたものであって、アイルランドのリール、またポルカ、マーチなどの2,4ビートに、アフリカ起源のリズム感(スイング、跳ね、うねりなど)が加わった結果であるというのがおおまかな見方である。2、4ビートのリズム感覚はアフリカ系には存在しない。従ってアメリカ音楽のリズム感覚は本質的に白人系である。ジャズ、ブルースなどの黒人系の音楽は、時代が下るに従って寧ろ起源へと遡る、つまり本来の黒人的な音楽性を取り戻す方向へと進み、白人音楽もこういった流れを取り込む形で発展することになる。 次にアメリカのフォークソングの概観について述べる。
アメリカのフォークソングは、その起源によって白人系、黒人系に大別出来る。
白人系~イングランド スコットランド アイルランドの系統が代表的。この他、スペイン語系、フランス語系(ルイジアナ州のケイジャン)など。マイノリティだがオランダ、フィンランド系。 黒人系(アフロ=アメリカン) 
白人系民謡は大部分がイギリス起源であり、概ね以下のような種類がある ①バラッド ②ソング
(1)ラブソング
(2)仕事の歌(ワークソングなど)                     
 (3)宗教的な歌                             
(4)ダンスソング(ダンスチューン)
③楽器演奏のダンス音楽 ※元々歌との関係性が密接であるのでダンスも広義での民謡に含まれる
次に個別の歌の様式を詳説する。
・バラッド ~ イギリス系の民謡で最もよく知られる。個人的な感情表出よりは、情報伝達の手段としての物語歌としての機能が重要。例えばラブソングの類とは対照的。そのメディア的性格ゆえ曲よりも内容が重視され、いろいろな旋律で歌われる「バーバラ・アレン」も歌詞が同一起源と認められれば、同じバラードの派生系とみなされる。バラードの内容は語り継がれていく中で変遷し、様々な派生系(ヴァリアント)を生み出す。                         カウボーイ・ソング ~ 西へ西へと開拓を進める中で、鉄道が普及するまでの間牛の大群を輸送したカウボーイたちによって歌われた歌。 ワークソング的な機能を持ったが、曲の性格は様々。 ホーボーの歌 ~ 鉄道が普及し、フロンティアを目指して鉄道で放浪する日雇い労働者が増加。こうした移動浮浪者を題材にした民謡。 ・仕事の歌 ワークソング ~ 労働時の作業効率を上げるために、労働者達によって歌われる歌。19世紀中頃のアイルランド移民の鉄道坑夫の歌が重要。実際に作業時に使われる歌ばかりではなく、当時の各職種の労働者たちの心情が反映された歌も多い。黒人のワークソングには、コールアンドリスポンスなどオリジナルな黒人音楽の要素が入り込んできている。 シー・シャンティ ~ 船乗りの歌。実際の作業の場面に応じて幾つかの種類がある。(1982年の英米戦争時から機関船が海上を支配する19世紀中頃まで。) チェイン・ギャングソング ~ 南部の黒人専用の刑務所の囚人が、労働作業時に歌った。奴隷制廃止以後断絶した黒人ワークソングの原型を今に伝える。 ・レリジャス・ソング (スピリチュアル)宗教歌の発展 初期(17世紀入植当時)においては世俗音楽とはっきり区別されていた。ラブソングやダンス音楽、仕事の歌といったものと対比して、一方にスピリチュアルを置くというのが初期アメリカンの基本的な考え方であった。      
レリジャス・ソングの大衆化 
セイクリッド・ハープ・シンギング ~ 18世紀頃、極めて民衆的な形で発達した南部の讃美歌。入植当時讃美歌は大衆的には普及していなかった。 →1721年、ジョン・タフツの「讃美歌歌唱法入門」とトーマス・ウォルターの「音楽の基礎及び法則」がボストンで出版。宗教歌を教会の外から一般家庭へ導き入れる端緒に。 →18世紀後半、各地を巡回する牧師や音楽教師が居酒屋などを臨時の教室とし(シンギング・スクール)、レリジャス・ソングの類を歌わせることで啓蒙が進む。→新しい教育法の普及 シェイプ・ノート ~ 音符の符頭を各階名ごとに異なる形を与えて(例えば菱形はミ、三角はファ、丸はソなど)、音高をわかりやすく示す記譜法。→19世紀中頃になるとシェイプ・ノートを使った通俗聖歌の楽譜が次々と出版される(シェイプ・ノート・ブック)。「ケンタッキー・ハーモニー」、「サザン・ハーモニー」、「セイクリッド・ハーモニー」などが有名。このようなシェイプノートを使った楽譜によって、次々に新しいレリジャスソングが作られ、広まっていった。シェイプ・ノート・ブックの4声部の編曲法では、もとの讃美歌に平行5度を加えるほか、フーガの形をとるものも少なくない。 黒人霊歌
イギリス人の牧師ジョン・ウェズリー(1701~92)が渡米し、メソジスト派を起こす→大規模な信仰復興運動の展開。讃美歌の歌詞をイギリスのよく知られた民謡のメロディーにあてて民衆に広める。→ワッツ聖歌など。 18世紀後半のグレイト・アウェイクニング(大いなる覚醒)と呼ばれる信仰復興運動により、各地でキャンプミーティングなどが行われ、民間へのレリジャスソングの浸透がますます深まる。→19世紀始めのデイヴィット・サンキー(1840~1909)による新しい聖歌集も重要。 黒人霊歌はワッツ聖歌、サンキー聖歌を基礎としながら、黒人音楽独自のニュアンス(シンコペーション、ポリフォニー、アクセントの移動、音色の質的変化、特有のヴィブラート効果、ブルー・ノート・スケール)などを加えながら発展。 ニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)〜1870年代のフィスク・ジュビリー・シンガーズを端緒として白人の間に広く認知されるようになった、コンサート・スタイル化した黒人の宗教歌。 ゴスペル・ソング ~ 対して、讃美歌が黒人共同体内に残り発展したのがゴスペル。シャウトする歌い方と、強烈なビートが特徴的な黒人独自のキリスト教音楽。 
ジュビリー・ソング~男性四人の楽器伴奏無しのアカペラ。40年代以降都市化。      
エヴァンジェリスト~ソロシンガーの弾き語りスタイル      
サーモン~歌唱を伴う説教を行う牧師      ※アメリカでは白人のレリジャス・ソングもゴスペルと表現する場合が多い。黒人のゴスペルはソウル・ゴスペルと呼ばれる。
ブルース ~ 19世紀後半の奴隷制廃止以後発展した、歌い手の実体験と、そこから個人的な感情を反映する黒人の歌。すべてのブルースは固定的なフォームを持つ。 ブルースの基本構造 ・第三音、第七音、(第五音)をほぼ半音下げたブルー・ノート・スケールを用いる。 ・歌詞は三行詞(あるいは前半一連の繰り返しを伴う二行連とも言える)で、一行につき4小節を与え、3行で計12小節がワン・コーラスの長さ。 ・ワン・コーラス12小節内のコード進行は基本的に次のような定型を持つ →C C C C (4)/ F F C C (4)/ G G C C (4) ※ 最初の一行の後半、二行目の前半にセブンスを用いることが多い(つまりドミソシ♭→ファラドミ♭)また三行目で、G F C C のドミナント→サブドミナント→トニックという西洋和声においては禁則とされる進行をとる例も少なくない。 次のコーラスに移行するときもセブンスを用いることが多い。
例 ロバート・ジョンソン/ アイ・ビリーヴ・アイル・ダスト・マイ・ブルーム
(First chorus) I'm going get up the moning.I believe I'll dust my broom. I'm going get up the morning.I believe I'll dust my broom. Girlfriend the Blackman you've been love'in. Girlfriend can get my room. (Second chorus) I'm gonna write a letter. Telephon everytown I know   I'm gonna write a letter. Telephon everytown I know   If I can't find her in West Helena, she must be in East Monroe I know ........................... 訳例 (コーラス1)朝起きたら 俺はすぐに家を出る 朝起きたら 俺はすぐに家を出る あんなに愛した女なのに 俺の友達とねんごろさ (コーラス2)手紙をかくよ 全ての街に電話する 手紙をかくよ 全ての街に電話する あの女 ミシシッピにいなけりゃ きっとイーストモンローにいるだろうさ ....................... 考察   
今回アメリカのルーツ・ミュージックをざっと俯瞰してみて思ったのはバックボーンとして白人系の要素が非常に濃いこと(つまりはベースとしてのキリスト教音楽というものが深く底流している)。そのキリスト教音楽の源流がイギリスにあったとすると、イギリスの教会が清教徒革命以後音楽を弾圧してきた歴史から、アメリカのダンス・ミュージックやレリジャスソングが教会の外で発展するという特徴を説明することの一端にはなるかもしれない。(そもそもダンスは色恋沙汰に結びつきやすいから、礼拝時の楽器使用すら禁じる教会にはもっての他だったろう。)様々な大陸の音楽の要素が、場の要請に応え、地域性を帯び、その時々の局面で変���していく様は、「アウトドアの文化 」としてのアメリカ音楽の多様性を伝えている。   
参考文献 〜『アメリカン・ルーツ・ミュージック:楽器と音楽の旅』/著者:奥和宏/出版:音楽之友社/出版年:2004
1 note · View note
Video
youtube
Tumblr media Tumblr media
✨上帝在启示录中预言的新名字。 对约翰福音 14:23 的��释✨ 🍀我又要将我神的名和我神城的名写在他上面,这城就是新耶路撒冷,是从天上从我神那里降下来的;我也要将我的新名写在他上面.🍀 启示录 3:12 对今天经文的思考…… 📕📕从这段经文中我们得到一个重要的信息,主末世再来要取一个新名。 这让我们认识到上帝在每个时代都以新的名字被称呼。 我们知道,在律法时代神称为耶和华,在这个名下颁布律法来指导以色列人的生活。 在恩典时代,神在耶稣的名下作了救赎的工作。 而启示录的预言说,神在末世要有新的名。 由此可见,神的名不是一成不变的,而是随着神的作工而改变的。 正如神所说:“神在他一切经营中的作工非常清楚,恩典时代就是恩典时代,末世就是末世。 每个时代都有明显的区别,因为每个时代神都作代表那个时代的工作。 末世的工作要完成,就必须有焚烧、审判、刑罚、烈怒、毁灭,来结束这个时代。 最后的日子指的是最后的时代。 到了末世,神不就结束这个时代了吗? 神要结束这个时代,就必须带来刑罚和审判。 只有这样,他才能结束这个时代。  …… 所以律法时代耶和华是神的名,恩典时代耶稣的名代表神。 末世他的名字叫全能神——全能者,以他的能力带领人、征服人、得着人,最终结束时代。”💓😇🙏
⏰2023年05月26日 全能神經典話語 《見證神顯現作工的話語》 選段197 📖今天所談的實際的神自己既在人性裏作工,又在神性裏作工,藉着實際神的顯現,達到既有正常的人性作工,有正常的人性生活,又有完全的神性作工,人性與神性聯于一體,而且都是藉着話語來成全的,不管是在人性裏還是在神性裏都是説話發聲。在人性裏作工是説人性一類的語言,讓人好接觸、好明白,通俗易懂,能够供應所有的人,無論是有知識的,還是没文化的,都能接受過來;在神性裏作工仍然是藉着説話,但是滿了供應、滿了生命,不摻有人的意思,不涉及人性的嗜好,没有人性的限制,不受任何正常人性的轄制,同樣還是在肉身之中作,但是靈的直接發表。人如果只能接受神在人性裏的作工,只能局限在一個範圍之内,需要常年的對付、修理、管教才能稍有變化,但是如果没有聖靈工作、没有聖靈同在的人還是老病重犯,藉着神性作工來補足這個弊病、這個缺欠,使人達到完全。不需要長期的對付、修理,乃是從正面供應,用話語來補足一切缺欠,用話語來揭示人的一切情形,用話語來支配人的生活,人的一言一行、一舉一動,點透人的存心目的,這就是實際的神作的實際工作。所以説,對實際的神的態度應是既要在他人性面前順服下來,認清、定準,更要接受、順服神性的作工説話。「神」在「肉身」顯現就是神靈的一切作工説話藉着正常人性來作,藉着道成的肉身來作,就是神的靈既支配人性作工,又在肉身中作神性的工作,在道成肉身的神身上,你既能看見神在人性裏的作工,又能看見完全的神性作工,這就是更實際的神在肉身顯現的實際意義。你如果把這看透了,你就能够把神的各部分聯于一了,就不過高地看重神性作工,也不過低地輕看在人性裏的作工,不走極端,不走彎路。總的來説,實際神的含義就是受靈支配的人性作工與神性作工在肉身之中發表出來,讓人看見活靈活現,實實在在。 ——《話・卷一 神的顯現與作工・你當認識到實際的神就是神自己》 https://reurl.cc/4oRLjR
上帝说: 📕📕 “神的话道成肉身开辟新时代,带领全人类,揭示奥秘,给人指明新时代前进的方向,人达到的开启不过是实行或认识而已,不能带领全人类进入新纪元或揭开神自己的奥秘。毕竟,神是神,人是人。神有神的本质,人有人的本质🙏🙏🙏 God says: 📕📕"The words of God incarnate usher in a new age, guide all mankind, reveal mysteries, and show man the direction of advancement in a new age. The enlightenment attained by man is nothing but mere practice or knowledge. It cannot guide all mankind into a new era or reveal the mystery of God himself. After all, God is God, and man is man. God has the essence of God and man has the essence of man.🙏🙏🙏
Loạt bài giảng: Tìm kiếm Đức tin Chân chính | Bạn đã nghe tiếng Đức Chúa Trời chưa? Hầu hết mọi người đều định nghĩa hạn hẹp rằng Chúa tái lâm nghĩa là Ngài ngự trên mây trời mà xuống, nhưng theo những lời tiên tri của chính Đức Chúa Jêsus trong Kinh Thánh, Ngài sẽ tái lâm và phán lời với tư cách là Con người. Ngài sẽ bày tỏ nhiều lẽ thật, và hướng dẫn nhân loại bước vào mọi lẽ thật. Ngày nay, nhờ không ngừng tìm kiếm, nhiều người đã nghe được tiếng Đức Chúa Trời và họ đã nghênh đón sự tái lâm của Đức Chúa Jêsus. Vậy, quý vị đã nghe được tiếng Đức Chúa Trời chưa? Quý vị có muốn biết làm thế nào không? Trong tập này, chúng ta sẽ cùng nhau tìm kiếm lẽ thật và từ đó tìm ra câu trả lời. https://reurl.cc/mDn8x1 Hội Thánh Đức Chúa Trời Toàn Năng: https://vi.godfootsteps.org/ Phúc Âm của vương quốc: https://vi.kingdomsalvation.org/
末世基督座談紀要《實行真理順服神才能達到性情變化》上集 https://reurl.cc/mDn8nV 全能神教會 : https://www.godfootsteps.org 國度降臨福音網 : https://tr.kingdomsalvation.org 基督教會電影《對得救的思考》一位教會長老迎接主耶穌再來,踏上進天國之路的經歷 https://reurl.cc/zA2N4Q 基督教會電影《叩門》末世如何迎接到主耶穌再來 https://reurl.cc/9VdpaY 《末世基督座談紀要》選段朗誦 https://reurl.cc/8jGE3o
福音映画「天国の宴席」カトリックの神父が天国への道を見つけた カトリックの神父である陳明徳は、カトリック教会の荒廃と闇がひどくなりつつあり、司教や他の神父たちですら政府に屈して三自教会に加入するのを目の当たりにします。陳明徳は心から苦痛を覚え、失望します。聖霊の働きがある教会を探したところ、思いがけず全能神の福音を耳にします。全能神の御言葉を多数読んで、これは神の御声であり、全能神こそ主イエスの再来だと気づき、喜んで全能神を受け入れます。しかし驚いたことに、それを知った司教や神父たちは、全力で陳明徳を断罪し、全能神を受け入れるのを阻んだ上、真の道から引き離そうと、彼が監督している教会に人を送り、破壊させます。司教や神父たちの、真理を憎んで神に逆らうサタンの顔を目にした陳明徳は、神父の立場を捨ててカトリック教会を去り、神の国の福音を積極的に広め、その証しをし始めます。そうして大勢の人たちを導き、全能神へと立ち返らせますが、自分に強く満足し始め、自分がどれほどの働きをしたか、どれほど苦しんだかをたびたび誇示し、兄弟姉妹の敬意を得るようになります。彼の傲慢な性質はますます膨れ上がり、高慢に説教し、独断専行して、意見に耳を貸そうとしません。その結果、集会で逮捕されてしまいます。そして共産党の残虐な拷問と洗脳を受けた彼は、自己反省を始めます。そして御言葉の暴きを通じ、自分が信じられないほど傲慢で、理知が一切なく、人の心を占めることを追い求め、反キリストの道を歩んでいると気づくのです。神の裁きと刑罰、懲らしめがなければ、神に逆らったせいで、間違いなく滅びていたでしょう。陳明徳は神の御言葉を裁きと清めを通じ、多少の真理を学ぶと共に、堕落した性質がいくらか清められ、変化します。そして自分はかくも多くの収穫を得て、天国の祝宴に真に参列していると実感するのです。 https://reurl.cc/qLd7N0 全能神教会ホームページ: https://jp.godfootsteps.org 神の国降臨の福音: https://jp.kingdomsalvation.org クリスチャンの証し「刻印」日本語吹き替え https://reurl.cc/p6dlZl キリスト教映画「戸をたたく」どのように主の再臨を迎えるのか 日本語吹き替え https://reurl.cc/Rz45vZ 福音映画 https://reurl.cc/M8vpyK 教会生活の証し https://reurl.cc/N0jvl6 宗教迫害の映画 https://reurl.cc/r5xyvO
♦一、反省自己 . 交通时, 总谈自己正面的东西,这是什么问题? (别人的事例) . 反省:这个情形不对,神话是怎么揭示,定义,审判,定罪的呢? . ♦二、根据神话认识自己 . 神说:“你如果真明白、真认识到自己败坏这么深,这还是好事呢!就怕什么呀?就怕人一开始傻乎乎的,还觉得自己不错,“我是诚实人”,“我老实巴交”,“我脚踏实地”,“我是个简单的人”,“我是个追求完美的人”,“我是一个脱离低级趣味的人”,“我是一个大公无私的人”,“我是一个乖乖女”,“我是一个听话的孩子”,“我是一个人见人爱的人”,“我是一个人见人喜欢的人”,“我是一个热爱生活的人”,“我是一个热心肠的人”,“我是一个乐善好施的人,乐于助人的人”,“我这个人从来不会说假话,一说假话心跳,脸红,鼻子歪”。能认识自己的败坏是不是比这些强啊?(是。)强在哪儿?(能对自己有点认识。)你说当人对自己有认识的时候,这是不是生命进入的一个大的收获呀?你得看清这一点,人认识自己不容易。”(摘自《基督的座谈纪要·只有真理作人的生命,人活得才有价值》) 神说:“为什么每个人都能认识自己,都能针对自己的情形,为什么你不能?你就例外吗?你是圣人?你是真空里活着的人?你不承认人有悖逆,不承认人有败坏性情,那么照你这样说,你这样的好人特别多了?”(摘自《基督的座谈纪要·狂妄本性是人抵挡神的根源》 . ♦三、 承认接受神话所揭示的事实;四、悔改 . 借着神话的揭示,认识到我总谈正面的是停留在认为自己不错的阶段,还不认识败坏性情和流露,也抓不住。神啊,我愿意改,求神带领我,使我能认识自己的败坏,并且能敞开交通,阿门。 . ♦五、寻求真理原则,按原则实行   . 神说:“所谓的分享经历、交通经历,就是把你个人心里所思所想的、你的情形、你对神话的经历与认识还有你自己里面的败坏性情都说出来,然后让大家分辨,让大家接受正面的,也认识那个反面的东西,这才是分享,这样才是真正的交通。不是你在神话上有什么看见,或者你在哪段诗歌上有一点看见,随便交通交通完事了,跟个人的实际生活根本就没有关系。大家都是谈道理上的认识,都是谈理论上的认识,实际经历的认识一点儿都没有,谁都避开不谈,避开个人的生活,避开教会弟兄姊妹生活的那个范围,避开个人的内心世界,这样人与人之间哪有真正的沟通?哪有真实的信赖?没有!”----(摘自《基督的座谈纪要·做诚实人最基本的实行》)
民進黨無能領導,是不是在告訴台灣人瞎眼了。 https://reurl.cc/zY8dGQ
0 notes
purplekittennight · 3 years ago
Text
私の行く道で、共にいてくださる神に感謝をささげて
さあ、ベテルに上ろう。 苦難の日に私に答え、 私の行く道で 共にいてくださった神のため、 そこに祭壇を造ろう。創世記35:3
いつも、 あらゆることについて、 父なる神に感謝しなさい。エフェソ書5:20  Ⅰテサロニケ5:1~6  イザヤ書6:1~13(通読箇所)    (ローズンゲン日々の聖句12/1;木)
     ―――― ☆  ――――
 ヤコブは、兄エサウの怒りから逃れ、母リベカの実家、 ハランの伯父ラバンの家に行ったのですが、 その途中のベテルで野宿しているとき、 天の神、【主】は、ヤコブに現れて、 「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、 【主】である。 わたしは、あなたが横たわっているこの地を、 あなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫は地のちりの��うに多くなり、 あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、 地のすべての部族はあなたによって、 またあなたの子孫によって祝福される。  
見よ。わたしはあなたとともにいて、 あなたがどこへ行っても、あなたを守り、 あなたをこの地に連れ帰る。  
わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、 決してあなたを捨てない」(創世記28:13~15) と約束なさいました。
その時から20年、 ヤコブは、多くの苦労とともに4人の妻、11人の息子と 多くの財産を得て無事帰って来ました。 それで、そのベテルに上り、祭壇を築いて 感謝の献げものを献げようとしているのですね。
 私たちも、いつでも、すべてのことについて、 私たちの主イエス・キリストの名によって、 すべてのものの出どころである【父である神】に 感謝を献げます。  
 また、私たちは、 今、天の【父である神】の右の座におられるイエスが、 私たちを迎えるため、二度目に来られる、その日は、 盗人が夜、私たちの気がつかないときにやって来るように 来ることを知っています。 人々が「平和だ。安全だ」と言っているとき、 妊婦に産みの苦しみが臨むように、 突然の破滅が彼らを襲います。 それを逃れることは決してできないのだそうです。 私たちは暗闇の中にいるのではなく、 光の子ども、昼の子どもとして、 イエスが来られるその日のことを忘れることなく、 身を慎み、 いつ、その日が来てもいいように心づもりしながら 神との信頼関係をいよいよ深めながら 生きていくのですね(Ⅰテサロニケ5:1~6)。
 天の神、【主】は、イスラエルの民のことを 次のようにイザヤに語っています。 「行って、この民に告げよ。 『聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな』と。
この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。 彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、 心で悟ることも、 立ち返って癒(い)されることもないように。」
私が、「主よ、いつまでですか」と言うと、 主は言われた。 「町々が荒れ果てて住む者がなく、 家々にも人がいなくなり、 土地も荒れ果てて荒地となる。 【主】が人を遠くに移し、 この地に見捨てられた場所が増えるまで。
そこには、なお十分の一が残るが、 それさえも焼き払われる。 しかし、切り倒されたテレピンや樫の木のように、 その間に切り株が残る。 この切り株こそ、聖なる裔(すえ)。」
 そして、紀元70年のローマとの戦いで 徹底的に破壊されたエルサレム。 世界中に散らされたイスラエルの人々は、 1900年に近い時を経て国を再建し、 今、世界中からイスラエルの地に帰って来ているのですから。  
イエスが、「いちじくの枝が柔らかになって葉が出てくると、 夏が近いことが分かります。 同じように、これらのことをすべて見たら、 あなた方は人の子(イエスご自身のこと)が 戸口まで近づいていることを知りなさい」(マタイ24:32、33) と言われているように、 いちじくの木(イスラエル)は、芽を出しているのですから。
私たちも、目を覚まし、感謝をささげながら、
今日を。
       ~~~~~~~~~~~~~~ (聖書のことばへの疑問やご意見、近くの教会を知りたい等の方、 また、婚活で広く出会いを求めたい、 教会に行っていないけれど 葬儀をキリスト教でしたい、等の方、 お問い合わせは、 [email protected]へどうぞ。)  
〈復活社 http://www.sougi8849.jp/index.html 〉  
〈(株)ブレス・ ユア・ ホーム https://christ-sougi.com/ 所属〉) 〈日本仲人協会 https://www.omiaink.com/ 認定〉 〈クリスチャンの結婚相談所
[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]
[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ
0 notes