#テイルズオブエクシリア2
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やってなくて一番気になってるテイルズはエクシリア2なんですよね
エクシリアは1も2も浜崎あゆみの主題歌とOP映像がやたらカッコイイので遊んでみたいんだけど流石に今からPS3入手するのはなかなかハードルが高い
PS2と違って中古でもとんでもない値段するし……
なのでこれもリマスターして遊びやすくしてほしいところ
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エクシリア2、9周年おめでとうございます!!いつまでも大好きな作品です!!
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i took too much time on this but my head is empty thinking on victor of tales of xillia 2
#fan art#fanart#tales of#tales of xillia 2#xillia 2#tox2#victor#victor will kresnik#テイルズオブエクシリア2#ヴィクトル#my art#digital art
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「本物の○○」とは何か―テイルズオブジアビス、エクシリア2を題材に
〔目次〕
Ⅰ. 序論
Ⅱ. テイルズオブジアビス
Ⅲ. テイルズオブエクシリア2
Ⅳ. 両作品間及び「エル」「ミラ」間に於ける相違点及びその演出効果についての検討
Ⅴ. 結びにかえて
Ⅰ. 序論
「本物の○○」とは何だろうか。この問は、何もこの○○を答えさせたいために提示するものではない。○○とは何でも良いのである。ただ、我々にとって「本物」とは何であろうか。そのような疑問の題材として、本稿ではバンダイナムコゲームス発売の「テイルズオブジアビス」と「テイルズオブエクシリア2」を挙げる。以下、まずは発売時系列にそってテイルズオブジアビスについて述べたい。
Ⅱ. テイルズオブジアビス
テイルズオブジアビスの魅力は様々あるが、特にアッシュ戦の終盤に於いて「"色々あった"けどここまで来た」という、RPGの魅力の一つを最大限おさえてることについては筆舌し難い。
その前提として、以下のようなことがある。主人公•ルークは冒険の中でそれこそ様々な失敗(多くの場合、ルーク自身は反省していない)を繰り返した。特に決定的な出来事として、彼の行いによってアクゼリュスという街が崩落した際、なおも自らの責を省みることのないルークに対して仲間までもが失望し、彼は一旦見放された。しかし、そんなルークが挫けるでもなおやさぐれるでもなく、再び仲間が戻ってくるほどまでに自らを省みて前に進み、最後には一人の成年として、その仲間達にとってかけがえのない「仲間」の一員となった。
この上で、ストーリー進行とともに彼はゲーム開始以前の時間軸に於いて本当のルークではなかったという事実もアッシュ戦に於ける魅力に寄与する。前叙アクゼリュス崩落時、アッシュは自身こそが本物のルークであり、主人公のルークはアッシュを基に7年前に造られたレプリカであるに過ぎないと明かす。それを聞いたルークは、その上で葛藤しながらも、前叙の如く「ルーク」として成長して之くのである。
そして、ここで述べるアッシュ戦、彼との戦いに於いて主人公•ルークは確かに本物のルークではないが、前叙のように旅の中で仲間たちと築いてきた出来事はまさに彼のものであるし、プレイヤーが直接見てきた/追ってきた人物もこの「ルーク」なのである。だからこそ、プレイヤーにとって本物の「ルーク」はこのルークに他ならない一方で、物語の登場人物、特に幼馴染のナタリアにとってはアッシュこそが本物の「ルーク」で��る事実には変わりない。当然本人、アッシュにとっても自身こそがルークであるのである。だからこそ、以前であれば「オリジナルの自身が優れている」と一蹴した筈のアッシュがルークの「優れている方(アッシュ)が行くべきだ」という発言に「どっちが優れているかなんてわからねぇだろ!」と怒りを見せたのである。一方、戦いの前に於いて「奪われるだけの過去もない。それでも俺はここにいる。」と決心を固め、述べたルークに対して「よく言った'劣化レプリカ'」(強調は本稿筆者による)と言い放つのである。或いは、これというのはそのような本心に対して、「(お前がルークであって、そこにいたとしても)それでも俺はルークだ」という主張の表れなのやもしれない。その上で、二人の「ルーク」は戦うのである。
これらを踏まえ、テイルズオブジアビスを振り返り、或いは歌詞を再度読むと、思うところがかなりある筈である。また、最後の決戦後帰還した「ルーク」はルークなのか、アッシュなのか。最後に帰還した「ルーク」の剣は左利き向きに刺さっているところ、アッシュは右利きであり、ルークは左利きである。すると、彼はルークなのだろうか。しかしながら���アッシュは少年時代に於いて右利きに矯正されたにすぎず、本来左利きである。そうであれば、彼がルークであると断定はできない。一方で髪の色は、ルークが薄い赤色なのに対してアッシュは濃い赤色であるところ、勿論このような相違は表現上のものやもしれないが、そうであれ作者は最後に帰還したルークは濃い赤色の髪として描いている。従って、彼はアッシュである蓋然性が高い。他方で「ホド」(街の名前)や「約束したから」とルークらしき発言をするため、ルークである蓋然性も高い。それではこのルークは何者なのだろうか。即ち、彼は「ルーク」そのものであって、ルークでも、或いはアッシュでもないのである。ただ、プレイヤーから見れば彼はルークであるし、恐らくナタリアからすれば彼はアッシュなのである。その意味で彼はルークでありアッシュなのである。だからこそ、この物語は「ルーク」によって閉幕されるのである。
Ⅲ. テイルズオブエクシリア2
このような魅力はテイルズオブエクシリア2の「ミラ」や「エル」にも引き継がれる。エクシリア1を体験したプレイヤーからすれば、本作のミラ、即ち分史世界で出会ったミラはジアビスでの真実を知ったナタリアから見たルークのように、このミラを「レプリカ」のように思えるだろう。しかし、本作の主人公、ルドガーやエルにとってはジアビス初プレイ時のプレイヤーのようにこのミラこそが本物の「ミラ」なのである。或いは帰還した正史世界のミラは、前作主人公らにとっては本物のミラだが、ルドガー、そして特にエルにとっては「ミラ」ではないのやもしれない。
同様に、物語後半でエルも少し先の分史世界(主人公らからみて並行世界)の人間、それもルドガーの娘であることが判明する。このような前提の上で、「審判」に於いてルドガーか、エルの一方どちらかを選ぶことになる。エルを救う場合、ルドガーは自身を犠牲にエルを救うが、若しルドガーにとって、将来の娘が「エル」なのであれば、彼はここでエルを救わなくとも、近い将来また会えるのである。しかし、彼はそうはせず、自らの消滅を選び、分史世界のエル、即ちエルを救ったのである。そして、ルドガーにとっては将来の娘であるエルよりも、この世界で出会い、苦楽を共にしたエルこそが「エル」であるとして救ったのである。そうして、エルは少し成長してこの物語は幕を閉じる。
Ⅳ. 両作品間及び「エル」「ミラ」間に於ける相違点及びその演出効果についての検討
以上の2つの物語の相違点として、ジアビスでは「ルーク」として、どちらの「ルーク」も居なくならなかったが、エクシリア2では分史世界のミラは居なくなり、将来のエルが生まれる可能性も潰えた。このようなことは、エクシリア2では「選択」がテーマにあるため、それでもどちらが本物かを選ばざるをえない残酷さを主人公の選択を通してプレイヤーに生きた感覚で実感させる効果を持つ。その意味で、前作を一切プレイせず、分史世界のミラを犠牲にすることに一瞬でも迷いを感じたのであれば、それはルドガーやエルの視点に居ることに他ならない。
また、「ミラ」と「エル」という2つの人物それぞれの「選択」についての相違点として、「ミラ」は前作から登場しており、今作では分史世界のミラが登場し、前作のミラは分史世界のミラのために正史世界からは姿を消していたという特徴があるのに対して、エルは今作初登場の人物である。従って、「ミラ」については前作のプレイヤーからすると違和感を覚え「レプリカ」のように見えるところ、エルはこのエル以外に「エル」はいないのだという風に見える。即ち、分史のミラを犠牲にするときに迷い��なかったプレイヤーも、エルを犠牲にすることは迷う可能性を否定できないわけである。それこそが作者の狙いなのだろう。このエルを救うか、将来の娘であるエルを救うのかという選択の段階でプレイヤーが分史世界のミラが、ルドガーやエルにとってどのような存在であったか「気付く」ことを追体験することを促す効果がある。
以上のように、ジアビスに於ける「ルーク」、エクシリア2に於ける「ミラ」「エル」は同様のテーマの上で、しかしそれぞれ別の描きかたによって、プレイヤーに対して本物の「○○」とは誰なのか、事実として「オリジナル」と「レプリカ」はあるが、自分にとっては本物の「○○」とはどちらかと言われた場合、選び難いということを示したのである。
Ⅴ. 結びにかえて
関連するテーマを扱う他社の作品としては、「るいは智を呼ぶ」というゲームのファンディスク終盤ルートに於ける主人公の葛藤が挙げられよう。同作品の主人公は本編に於いて自身の身体にかけられた「呪い」の代価が「未来を引き寄せる力」である(一方で、その力は或る理由により、本編時は使えなかった)ことが判明する。そのため、自らが「引き寄せなかった」未来、例えば或るヒロインと結ばれ子を育む未来ではなく、他のヒロインと結ばれ子を育む未来を選んだ場合に於いて、主人公はその或るヒロインとの間に育むはずであった子が生まれる可能性を消滅させることに他ならないのではないか、という事実に気づき、それは未来の子を「殺す」ことに他ならないのではないかと葛藤する。このような葛藤は、確かに「テイルズオブ」シリーズで描かれた、どちらが「本物」か、という議論とは一見異なるが、本質的には同様である。換言すると、特に先程の「エル」の議論に関連して、主人公はエルを選んだが、将来の娘の可能性を消した、即ち「るいは智を呼ぶ」でいうところの、「未来の子」を殺したことに他ならないのである。その意味で、本稿では「エクシリア2」の「エル」の向こう側を検討するテーマとして、「るいは智を呼ぶ」を取り上げた。
何れにせよ、我々にとって「本物の○○」はなにか、ということは何もゲームの中だけの出来事ではない。例えば、ゲームのリメイクについて。例えばSFC版のファイナルファンタジー4は「オリジナル」のファイナルファンタジー4やもしれないが、私が初めてプレイしたのはDS版であって、私にとっては「ファイナルファンタジー4」ではないのだが、SFC版をプレイした人にとってはSFC版こそ「ファイナルファンタジー4」である。このどちらが「本物」であるか、というのは少なくともどちらも同じスクウェアエニックスが公式に発売しているものであるからして断定できない。
また、公式に出しているからといってそれがその人の「本物」であるとは限らない。例えば牛丼の「オリジナル」は吉野家であるというように「本来」の牛丼はあるやもしれないが、すき家或いは松屋などといった他店や自作の牛丼を食べて「そう、牛丼はこうでなくては」と思うときがあるだろう。或いは、そもそも吉野家の牛丼も発売当初と全く同じものではないだろう。仮にレシピや材料に一切の変更はなくとも、その時々で若干の要素は変わりうる。従って「本来」ではないことには変わりないが、一方でその人にとって今食べているそれこそが「本物」であることに変わりはない。
即ち、そこに「オリジナル」があってもその「オリジナル」が「本物」か、「リメイク」などが「本物」かというのは極めて属人��、相対的な感覚である。このようなことから、我々にとっての「ルーク」、「ミラ」そして「エル」というのは日常に潜んでいるものといえる。そして、我々はエクシリア2が描くよう、或いは「るいは智を呼ぶ」が描くように「選択」の連続の最中にいるのやもしれない。何れにせよ、ルークが述べたように「それでも俺はここにいる」という言葉が、存外的を射ているのやもしれない。「それでもそれは、そこにある」のである。
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TOX2 ルドガー エオリエーネ 2013.06.30
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Tipo, Lulu and Repede plush family update~ (*^ω^*). Please click on the link under the picture to see the other two photos on my Insta~.
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「リプもらった番号の色で絵を描く」(ついったの方でやってます)
6番桜吹雪をエルで!
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RT @Laika_Kud2525: 投稿しました。ゲーム「テイルズオブエクシリア2」のOP曲のカバーです。 #東北ずん子 #東北きりたん #東北イタコ 【NEUTRINO】song 4 uを歌ってもらった【東北三姉妹】 https://t.co/FcuUmyvuJe #sm39934014 #ニコニコ動画 (via Twitter https://twitter.com/t_zunko/status/1484998998184185857)
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