#ヨーゼフ ボイス
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もしかしたら、これはヨーゼフ・ボイスを超えているのでは?
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2024年の文化活動(一覧)
全部で130件。2024年も美術館を中心に巡ったのだがその中でも、金にものを言わせて地方の県立・市立美術も範疇としたのが大きな変化だった。取っ掛かりは宇都宮美術館。酷暑の真っただ中に行ったカスヤの森現代美術館、佐倉市美術館。念願だった茨城県近代美術館、ひらめきで思い立った郡山市立美術館。母親と行った東京国立博物館、意外に良かった国際こども図書館なども印象深かった。 一方、美術館巡りのサイクルは飽和状態なので新機軸を作りたいところでもある。その一つはクラシック・コンサートか。少しずつ楽しめる場所を増やしていきたい。
私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために@森美術館
即興 ホンマタカシ@東京都写真美術館
見るまえに跳べ 日本の新進作家 vol.20@東京都写真美術館
プリピクテ Human/人間@東京都写真美術館
テオ・ヤンセン展@千葉県立美術館
千葉ポートタワー
坂本龍一トリビュート展 音楽/アート/メディア@NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
ICC アニュアル 2023 ものごとのかたち@NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
第21回東京音楽コンクール 優勝者コンサート@東京文化会館
キュビズム展 美の革命@国立西洋美術館
もうひとつの19世紀 ―ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち@国立西洋美術館
マリー・ローランサン ― 時代をうつす眼@アーティゾン美術館
石橋財団コレクション展@アーティゾン美術館
恵比寿映像祭 2024@東京都写真美術館
中平卓馬 火―氾濫@国立近代美術館
古代エジプト美術館
星野概念氏&いとうせいこう「心のことを話してみる場所」
消防博物館
FACE展2024@SOMPO美術館
広がるコラージュ@目黒区美術館
IIDA 101 飯田善國@目黒区美術館
VOCA展2024@上野の森美術館
ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家@東京オペラシティアートギャラリー
『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本@板橋区立美術館
印象派 モネからアメリカへ@東京都美術館
オラファー・エリアソン展:相互に繋がりあう瞬間が協和する周期@麻布台ヒルズギャラリー
イヴ・ネッツハマー ささめく葉は空気の言問い@宇都宮美術館
マティス 自由なフォルム@国立新美術館
早稲田大学演劇博物館
没後50年 木村伊兵衛 写真に生きる@東京都写真美術館
TOPコレクション 時間旅行@東京都写真美術館
記憶:リメンブランス―現代写真・映像の表現から@東京都写真美術館
ヒロ杉山 個展「Sculpture」@Lurf MUSEUM
ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ@国立西洋美術館
真理はよみがえるだろうか:ゴヤ〈戦争の惨禍〉全場面@国立西洋美術館
ブランクーシ 本質を象(かたど)る@アーティゾン美術館
石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 清水多嘉示@アーティゾン美術館
第8回 横浜トリエンナーレ@横浜美術館
パーフェクト・カモフラージュ展@ワタリウム美術館
マイケル・ケンナ写真展@代官山ヒルサイドフォーラム
Playground Becomes Dark Slowly@日比谷公園
昭和を駆け抜けた超特急 ~燕、そして新幹線へ~@昭和館
北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画@SOMPO美術館
マイ祭2024@自由学園明日館
第75回 東京みなと祭@東京国際クルーズターミナル
デザインフェスタvol.59@東京国際展示場
LOVE LIGHTPIA@お台場シンボルプロムナード公園
SusHi Tech TOKYO 2024@シンボルプロムナード公園
海王祭@東京海洋大学
池口史子展@美術愛住館
特別展「法然と極楽浄土」@東京国立博物館
デ・キリコ展@東京都美術館
都美セレクション グループ展 2024@東京都美術館
上野動物園
三島喜美代―未来への記憶@練馬区立美術館
ホー・ツーニェン エージェントのA@東京都美術館
翻訳できない わたしの言葉@東京都美術館
サエボーグ「I WAS MADE FOR LOVING YOU」/津田道子「Life is Delaying 人生はちょっと遅れてくる」@東京都美術館
MOTコレクション@東京都美術館
日本映画と音楽 1950年代から1960年代の作曲家たち@国立映画アーカイブ
谷川町子のデザイン@長谷川町子記念館
TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション@国立近代美術館
日本のグラフィックデザイン2024@東京ミッドタウン デザインハブ
徳川美術館展 尾張徳川家の至宝@サントリー美術館
海の日プロジェクト@東京国際クルーズターミナル
ヨーゼフ・ボイス ダイアローグ展@GYRE GALLERY
若江漢字《地中海 ― I・始まり》@カスヤの森現代美術館
三笠公園
2024イタリア・ボローニャ国際絵本原画展@板橋区立美術館
2024 JAGDA 亀倉雄策賞・新人賞展@ギンザグラフィックギャラリー
絵本で知る世界の国々―IFLAからのおくりもの@国際こども図書館
シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝@森美術館
フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線@SOMPO美術館
111年目の中原淳一@松濤美術館
台湾好包フェス2024@HANEDA INNOVATION CITY
開館30周年記念 生誕100年記念 深沢幸雄展@佐倉市美術館
空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン@東京ステーションギャラリー
ポール・マッカートニー写真展 Paul McCartney Photographs 1963–64 Eyes of the Storm@東京シティビュー
東京おもちゃショー2024@東京ビッグサイト
作品と空間@アーティゾン美術館
高田賢三 夢をかける@東京オペラシティアートギャラリー
となりの不可思議 収蔵品展080 寺田コレクションより@東京オペラシティアートギャラリー
平田晃久―人間の波打ちぎわ@練馬区美術館
サラダ音楽祭 メインコンサート@東京芸術劇場
TOPコレクション 見ることの重奏@東京都写真美術館
今森光彦 にっぽんの里山@東京都写真美術館
いわいとしお×東京都写真美術館 光と動きの100かいだてのいえ@東京都写真美術館
マインドフルネス(基礎編)
田中一村展 奄美の光 魂の絵画@東京都美術館
大地に耳をすます 気配と手ざわり@東京都美術館
Maker Faire Tokyo@東京ビッグサイト
物、ものを呼ぶ─伴大納言絵巻から若冲へ@出光美術館
日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション@東京都現代美術館
開発好明 ART IS LIVE ―ひとり民主主義へようこそ@東京都現代美術館
MOTコレクション 竹林之七妍 特集展示 野村和弘 Eye to Eye—見ること
ツーリズムEXPO JAPAN@東京ビッグサイ
東京都交響楽団 第1009回定期演奏会Aシリーズ@東京文化会館
レガシー ―美を受け継ぐ モディリアーニ、シャガール、ピカソ、フジタ@松岡美術館
田名網敬一 RETROSPECTIVE@国立新美術館
第70回記念 一陽展@国立新美術館
2024 国際航空宇宙展@東京ビッグサイト
ICC アニュアル 2024 とても近い遠さ@NTTインターコミュニケーション・センター
サイエンスアゴラ2024@テレコムセンタービル
産総研一般公開2024@産総研 臨海副都心センター
国際交流フェスティバル2024@東京国際交流館
「みんなの選んだグッドデザイン」プレゼン大会@東京ミッドタウン デザインハブ
東京都交響楽団 プロムナードコンサート@サントリーホール
コレクション・ストーリー ー諸橋近代美術館のあゆみー@諸橋近代美術館
ART WEEK TOKYOその1:渡辺志桜里 宿/Syuku@資生堂ギャラリー
ART WEEK TOKYOその2:束芋「そのあと」@ギャラリー小柳
ART WEEK TOKYOその3:青山悟展「永遠なんてあるのでしょうか」@ミヅマアートギャラリー
ART WEEK TOKYOその4:オノデラユキ@ウェイティングルーム
ART WEEK TOKYOその5:ヴァジコ・チャッキアーニ@スカイザバスハウス
オルガンコンサート@東京オペラシティ
松谷武判 Takesada Matsutani@東京オペラシティアートギャラリー
北川民次展―メキシコから日本へ@世田谷美術館
ミュージアム コレクションⅡ かわりゆくもの、かわらないもの―TRANSITION@世田谷美術館
デザインフェスタvol.60@東京ビッグサイト
レオ・レオーニと仲間たち@板橋区立美術館
Vintage Market@東京ビッグサイト
没後100年 中村 彝 展―アトリエから世界へ@茨城県近代美術館
SIDE CORE 展|コンクリート・プラネット@ワタリウム美術館
奇想の版画 1500ー1650 帝都プラハを交差するヨーロッパ版画@郡山市立美術館
中村彝アトリエ記念館
佐伯祐三アトリエ記念館
ベル・エポック―美しき時代 パリに集った芸術家たち ワイズマン&マイケル コレクションを中心に@パナソニック汐留美術館
オープニング展@URSHIMA MUSEUM
松本かづち展@江東区森下文化センター
再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル@三菱一号館美術館
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オードリー・タンとの対話#1 創造力こそが私たちの資本
オードリー・タンとの対話#1 創造力こそが私たちの資本
デジタル直接民主主義とユニバーサル・ベーシック・インカム
台湾のデジタル民主主義を牽引するオードリー・タンと、芸術を通じた社会の拡張を試みたアーティスト、ヨーゼフ・ボイス(1921−1986)。ボイスに共鳴し、その活動に伴走したオランダのライターラウリン・ウェイヤースは、コロナ禍でのオードリー・タンの取り組みに、ボイスが提唱した直接民主主義の可能性を見出した。2023年9月、ウェイヤースは、オランダの各界の識者を集め、オードリーとのオンラインインタビュー「デジタル直接民主主義とユニバーサル・ベーシック・インカム」を企画した。その対話の記録を全4回にわたって紹介する。初回は、オードリーの登場を待つ会場の場面から——(全4回のリストはこちら)Contents
「鳥の声」から始めましょう
ソーシャル・テクノロジーとしての民主主義
デジタル直接民主主義
デジタル対話における質問設計の重要性
クアドラティック・ボーティング(二次の投票)
「鳥の声」から始めましょう
ローリー・ピルグリム(アーティスト) 窓の外を見てみてください。どれくらい遠くまで見えるでしょうか。
ラウリン・ウェイヤース(作家/アーティスト) 霧がかかっていますね。
ローリー そうですね、いまはそう遠くまでは見えないかもしれません。
エゴン・ハンフシュテングル(料理家/アーティスト) 雨が降っています。
ラウリン あら、雨ですか。
ローリー 窓の外を見ながら、遠くにある音を想像してみてください。実際には聞こえなくても、想像力を使ってどれくらい遠くの音まで聞くことができるか、耳を澄ませてみましょう。聞こえてくるのは鳥の声かもしれませんし、雨の音かもしれません。あるいは、はるか遠くにある木々の葉っぱの音かもしれません。
ラウリン いいですね。
(オードリー・タンがスクリーンに登場)
ラウリン こちらの声は聞こえていますか?
オードリー ええ、しっかり聞こえています。
ローリー では、そろそろはじめましょうか。ちょうど私たちの視野が広がったところで、とても遠いところ、はるばる台湾から声が聞こえてきましたね��
ラウリン お会いできてとても嬉しいです。
オードリー こちらこそ、お目にかかれて嬉しく思います。音声も含めて問題がなければ、コーヒーを淹れて数分後に戻ってきますので、それからはじめましょうか。
ラウリン それがいいですね。
(オードリーが戻ってくる)
ローリー みなさんとテクノロジーについて考えるにあたって、短い音声を流そうと思いまして。本日の議題は直接民主主義についてです。この部屋もさっきからざわざわしているように、たくさんの声が存在しています。まさにそういうことなのかもしれません。今朝起きたとき、「デジタル技術について考えるときにどんな音を聞くのがいいだろうか」と考えていました。そして、人類が初めて録音した音はなんだろうと思ったのです。
私たちがテクノロジーを使う目的は何でしょうか。テクノロジーは私たちをどう助けてくれるのでしょうか。私たちの記憶を助けるためなのか、記録を残すためなのか、あるいは何かを継続したり接続したりするための道具としてなのか。私は、世界で初めて録音された音声を見つけました。当時8歳だったドイツの少年、ルートヴィヒ・コッホ[★01]が、鳥のさえずりを録音したものです。そう、彼は8歳のときに録音をしたのです。何らかの経緯があって録音装置を使うことができたのでしょう。1889年に録音された音です。わずか10秒の音ですが、私たちとテクノロジーの関係について考えるうえで示唆に富むものだと思いますし、なぜ私たちはテクノロジーを利用するのか、時空間をつなぐ架け橋としてテクノロジーをどのように活用しているのか、という点について考える良いきっかけになると思います。
みなさん、目を閉じていても開けたままでも構いません。史上初めて録音された鳥の声を、10秒間流したいと思います。
エゴン みんなで一緒に聞きましょう。
Ludwig Koch and the Music of Nature
ラウリン 今日のこの時間をはじめるのにぴったりの歌声ですね。
ソーシャル・テクノロジーとしての民主主義
オードリー 本当にそうですね。民主主義とテクノロジーを実践する人々がこのように出会うのは素晴らしいと思います。私にとって民主主義とは、ある種のテクノロジー、それもソーシャル・テクノロジーです。私たちが民主主義を実践すればするほど帯域幅が広がり、すなわち人と人との間で伝達できる情報量が増え、より良い状況になるでしょう。言うなればこの録音は、空間だけでなく時間を超えたコミュニケーションの可能性を思い出させてくれるものだと思います。異なるタイムゾーンにいる人々が適切な意思決定をするためには、時間を超えたコミュニケーションが不可欠です。そういった意味で、非常に象徴的な音です。素敵なオープニングをありがとうございます。
ラウリン 素晴らしいですね。本日のテーマは、デジタル直接民主主義とユニバーサル・ベーシック・インカムです。オードリー・タンさんは台湾のデジタル担当大臣〔2023年9月当時〕であり、ソーシャル・イノベーションを担当されています。私はこのソーシャル・イノベーションに取り組まれていることが最も重要だと考えていて、しかもオードリーさんは大変熱心です。本日の副題は「創造力こそが私たちの真の資本」です。これはドイツのアーティストであるヨーゼフ・ボイスのスローガンで、私は彼と18年間一緒に仕事をしました。彼は、国民投票による直接民主主義とユニバーサル・ベーシック・インカムを連動させたいと考えていました。そうすれば、世界中の人々が再び自らの創造力を取り戻すことができるはずだと。
ボイスが「創造力こそがわれわれの真の資本である」と言ったとき、資本とお金は全く関係がないと警告していました。「お金は法的手段にすぎない」と彼は説明しました。40年、50年前の発言です。オードリーさん、あなたは私たちにデジタル直接民主主義をもたらし、そのおかげで、あっという間に直接民主主義がとてもリアルに感じられるようになりました。デジタルだからこそでしょう。私たち市民は、未来の社会のためのアイデアを世に示すことができるようになりました。こういったことが今後どのように機能していくのか、何か展望はありますか?
オードリー 台湾華語の「數位」という言葉は、私が担当する省と私の役職を指しており、「デジタル」と「複数の」という意味があります。台湾ではこの二つは同じ言葉なのです。ですから、デジタル担当大臣とは複数性を担う大臣でもあります。「複数」とは一つ以上のものを指します。ハンナ・アーレントが『人間の条件』で見事に論じたように、人間の条件を理解するにあたっては、人々を単なる個人や個人の集合体としてではなく、「複数性」[★02]という概念を通じて捉えるべきです。複数性とは、多様な個人が共通の知識やアイデンティティを共有し、協力しあいながら連帯する状態を指します。お金という道具は大抵の場合、個人の経済状態を示す手段でしかありません。だから「プライベート(民間)セクター」と言われるわけですよね?
その一方で、私たちが考える民主主義、つまりデジタルで多元的な民主主義は、人々がその差異を超えて共に行動を起こすことを可能にしたいという考えから始まっています。Facebookが採用している「教師あり学習」といった人工知能(AI)の応用例を見ると、人々をますます分極化させる効果があることがわかります。人々の孤独感を最大限に引き出して、できるだけ依存させようとしているからです。人は孤独を深く感じるほど、タッチスクリーンに強く依存します。依存性の高いコンテンツに人々を閉じ込めることで孤立感を増幅させ、孤立主義的な考え方を助長しているのです。
他方では、Polis[★03]やAll Our Ideas[★04]、Talk to the City[★05]といったシステムなど、正反対のアプローチを取るデジタル民主主義ツールも多くあります。これらもAIですが、権威主義的ではありません。支援的な性質のものです。人々が自然に集まることを促します。
最初はまったく異なるイデオロギーを持っていた人々が、デジタル空間での対話に参加することで共通の価値観を発見することができる。これが私の考えるデジタル民主主義の展望です。デジタル民主主義とは、協働可能な多様性、すなわち複数性に基づく民主主義です。
デジタル直接民主主義
ラウリン 素晴らしいですね。デジタル直接民主主義は、国民投票による直接民主主義よりもずっと民主的だと思いませんか? もちろん現在の状況では……すでに少しお話しいただきましたが、多くの人はデジタルの形式を理解するのが難しいのかもしれません。
オードリー そうですね。X.com(旧Twitter)で誰かが、たとえばイーロン・マスクが何かを投稿すると、「イーロンが言っていることは真実ではない」といった注意書きがつくことがあります。これは単に投稿内容を否定するものではありません。「コミュニティノート[★06]」と呼ばれるもので、市民議会や陪審員のような形でユーザーが互いのツイートを確認し、そのツイートに欠けていると思われる文脈を提案する仕組みです。この文脈共有、共通認識のための投稿は、正反対のイデオロギーを持つ人々両方から受け入れられて共感を得られる内容であれば、上位に浮かび上がるようにできています。
そして左派も右派も適切な文脈だと判断した場合、その情報は該当のツイートに添えられ、削除することができなくなります。つまり、その投稿をリポストしてもコミュニティノートは表示され続けるのです。もし、多元的なテクノロジーがどういうものかあまり想像ができないという人がいれば、実際に陪審員として登録してみることをおすすめします。あなたが住んでいる地域に陪審制度がある場合はそれに参加することもできますし、コミュニティノートのようにオンラインで参加することもできます。そうすると、突然ランダムに選ばれて小規模な集会への参加が求められ、私たちが今行っているような討議に立ち会うことになるかもしれません。そしてその結果は、誰もが閲覧できる「コモンズ(共有の財産)」として残るのです。
これはお互いの意見を聞くために時間をかけるという、熟議的な要素を持った直接民主主義の形態です。
デジタル対話における質問設計の重要性
ラウリン 市民がデジタル上で「Yes/No」で回答する質問を作成する際には、どのように質問を設計するかが非常に重要だと注意を呼びかけていましたね。その点について詳しく教えていただけますか?
オードリー もちろんです。2015年にPolisと呼ばれる多元的なテクノロジーを初めて導入した際、私たち台湾政府はシェアリング・エコノミー(共有経済)やギグ・エコノミーにどう対処するかについて議論しました。プロとして必要な運転免許を持たない人が、道端で見ず知らずの人を乗せて料金を請求することを可能にする、Uberという新しいアルゴリズムが登場していたのです。いまでも多くの国々で、労働法やタクシーの規制が状況の変化に追いついていないため、このイノベーションに対応するのに苦労しています。
しかし台湾では、Polisを使ってUberの運転手やタクシー運転手、サービスの利用者などと対話を始めました。「Uberを利用したことはありますか」「あなたはタクシー運転手ですか」といったシンプルな質問をしました。とても簡単な「Yes/No」で答えられる質問です。重要なのは、アンケートや議題設定を一般に開放し、誰でも簡単な質問を投稿できるようにしたことです。そうすると、「賠償責任保険は非常に重要だと思う」といった内容を投稿する人が出てきます。それに対して、最初はまったく異なる考え方を持っていた人たちでも、同じ投稿を支持するようになるのです。
もし私たちが「Uberは共有経済ではなく収奪的経済だと思うか」といった抽象的な質問から始めていたら、どうなっていたでしょうか。学術的にみれば見事な問いかもしれませんが、収奪的経済やギグ・エコノミーといった言葉を見た時に感じることは人それぞれなので、建設的な対話につながることはないでしょう。一方で、Uberの賠償責任保険の話や、既存のメーター料金を下回らない料金設定にすることなどについては、誰もが直接的で個人的な感情を持っているので、語り合うことができます。つまり、市民が自分たちの物語を語り、ナラティブが展開するように促すような質問が、優れた「Yes/No」質問なのです。個人的な経験と結びつけることができない、あまりにも抽象的な質問は、議論を始める際には最適ではないでしょう。
ラウリン なるほど。そうですね。
ミヒール・ゾンネフェルト(作家/ジャーナリスト) Uberは、台湾とここでは異なる方法で運営されているのでしょうか。
オードリー 台湾では現在、UberはQ Taxiというパートナー企業が運営しています。公式にタクシー業者として登録されていて、料金は既存のタクシー業者のメーター料金を下回ることはありません。そして同時に法律を改正し、タクシーは黄色い車体である必要がなくなりましたし、需要の変動に応じて料金を変動させるサージ・プライシングも導入できるようになりました。特に重要な点は、この法改正により、地方で高齢者への長期的な医療ケアを提供している人たち——その多くが移民労働者です——が、タクシーの協同組合を組織できるようになったことです。彼らはUberと同様に法律を活用し、アプリを通じた配車サービスを提供して臨時収入を得ることができます。観光客を乗せたり、高齢の家族を病院に連れて行く際に同じ村に住む他の高齢者も一緒に乗せたりして料金をまとめて請求するなど、さまざまな活動が可能になりました。以前は地域のタクシー協同組合も、Uberと同じ理由で違法とされていました。
こういった対話を進めるなかで、私たちはPolisを活用しました。Polisでは、単に異なる意見がいくつあるかという数を数えるのではなく、意見の複数性に焦点を当てています。つまり、いかに多角的な視点を含む意見なのかが重要なのです。たとえば、Uberが5000人を動員してまったく同じ意見を投稿したとしても、数の多さではなく提案された意見の多様性が重視されます。ですから連帯経済や協同組合、そして協同組合の形態に進化した労働組合などの意見は、人数は少ないものの、より幅広く多元的なアイデアを含んでいるため、特定のイデオロギーに捕らわれにくく、連立や橋渡しをすることができます。
超党派的に幅広い支持を受けたコミュニティノートが上位に浮かび上がる仕組みと同様に、PolisでもUberに関するそうした意見が上位に表示されました。そして、それらの意見が次の議題となり、利害関係者たちを交えた議論を経て、最終的には法制化に至りました。確かにUberもこの新法の恩恵を受けましたが、地域の協同組合や、協同組合の形態に変更した労働組合のほうが大きな恩恵を受けたと言えるでしょう。 ご質問への答えになっているといいのですが。
ミヒール ええ、よく理解できました。
クアドラティック・ボーティング(二次の投票)
ラウリン ユニバーサル・ベーシック・インカムを導入すれば、デジタル直接民主主義は、より簡単に、より公平に広がると思いますか?
オードリー:とてもいい質問ですね。台湾ではすでに、クアドラティック・ボーティング(二次の投票)[★07]とクアドラティック・ファンディング(二次の資金調達)を実施しており、最近になって「複数投票制」と「複数資金調達制」と名称を変更しました。ただし、これらはユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)とは似て非なる概念です。説明しますと、例えば総統主催のハッカソンを開催する際には、市民参加型予算の仕組みを取り入れ、気候変動対策やデジタルグリーン化などに関する優れたアイデアを公募します。
そして、100件程度のアイデアが集まると、参加を希望するすべての市民に99のトークンが配られます。これは、お金ではありません。購入や取引はできませんが、投票に参加したい人なら誰にでも平等に発行されるものです。あるプロジェクトに対して支持を示すには、1票を投じるのに1トークンが必要です。しかし、2票を投じる場合は合計で4トークン、3票では9トークン、4票では16トークンというように、投じる票数が増えるにつれて必要なトークン数が二次関数的に増加します。つまり、配布された99トークンでは、1つのプロジェクトに最大で9票(81トークンを使用)まで投票できますが、それでも18トークンが残ります。トークンはお金ではないものの、誰もそれを無駄にしたくはありませんよね。
そのため、別のプロジェクトを探してさらに投票します。16トークンを使って4票投じた後に、残った2トークンをさらに別のプロジェクトに使うかもしれません。しかし、大半の人はこの時点で、さまざまなプロジェクト間に相乗効果があることに気づきます。最初のプロジェクトに投じた9票を取り下げ、複数のプロジェクトに7票ずつ、3票ずつ、4票ずつといった具合に票を分散させるかもしれません。お金の問題は、その流れがあまりにも直線的なこと、誰かが独占しやすい点にあると思います。お金があれば、人々から幅広い支持を得ていないプロジェクトでも、政府のマッチング・グラント(調達した資金に応じて政府が一定比率で助成金を提供する仕組み)の大部分を占有できてしまいます。政府がマッチング・グラントを採用している場合、始めからお金さえあれば、マッチング・グラントのほとんどを容易に——「強奪」とは言いませんが——手に入れることができるのです。 しかし、クアドラティック・ボーティングやクアドラティック・ファンディングの仕組みでは、できるだけ多くの人に参加してもらう必要があります。自分の資金だけでは平方根の価値しかなく、決して多くはないからです。そうした結果、プロジェクト間が積極的に協力し合い、相乗効果を生み出したり連携したりするようになり、マッチング・グラントのようなゼロサムゲームが、クラウドソーシング型の協力関係へと変化するに至りました。 ですから私は、毎年あるいは毎月でも、クレジットやトークンなどを配布するアイデアはとても良いと思っています。ただしそれは、直線外挿的にこれまでのやり方を参照するのではなく、コミュニティの資金として工夫して管理されるべきです。そうでなければ、このシステムがUBIだとしても、お金の直接的な支配力がすぐに介入してしまうからです。
ブリジッタ・スヘープスマ(メンタル・ケアテイカー/Basic Income Think Tank理事) いいですね。興味深いです。
ラウリン 素晴らしいですね。
オズ・ヴェストロフ(Pakhuis De Zwijger(アムステルダム)ソーシャル・イノベーション&クリエーション部門臨時ディレクター) もう少し踏み込んでお話を聞けたらと思います。そのような複数の機能にある「創造と社会イノベーションのためのプラットフォーム」を持つトークンを作るには、どんな工夫が必要なのでしょうか? すでにそういった例はありますか?
オードリー ええ、すでに存在しています。「Gitcoin[★08]」で検索してみてください。Gitcoinでは毎月、または数ヶ月おきにクラウドファンディングが行われていますが、このクラウドファンディングでは、金額に対して影響力が直線的に大きくなるのではなく、その関係は二次関数的です。そのため、お互いに相乗効果があると見込めば、参加者はできる限り多くのプロジェクトを支援したくなる仕組みになっています。 つまりここには、一人の資本家がマッチング・グラントの決定権を握る力学はありません。ソースコードは公開されており、フリーソフトウェアとして提供されています。また台湾では、イーサリアムや仮想空間だけでなく、クラウドファンディングや、政府が支援するマッチング・グラントにも同じクアドラティック・ファンディングが採用されています。それにより一般からの支持率を把握し、政府がどれくらい資金提供すべきかを判断するのに役立っています。
詳細を知りたい方は、Gitcoinについてネットで調べてみてください。台湾政府の政策については、100.adi.gov.twをご覧ください。
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森美術館で開催中の『ワールド・クラスルーム』展の展示写真を撮りました。
森美術館20周年を記念する展覧会ということで、これまでの森美術館の展示で見たことのある作品がいくつも展示されており、かなり見ごたえのある展示でした。 森美の展示は企画展が主で、所蔵している作品を並べた常設展はやっていないのだけど、今回は展示の半分くらいが森美のコレクションということで、どういった作品を購入しているのか知ることができる点も面白かった。
出展作品が全部で約150点もあったので撮影は大変だったけれど、米田知子や森村泰昌、畠山直哉、アイ・ウェイウェイ、李禹煥、宮島達男、奈良美智、杉本博司、ヨーゼフ・ボイスなどの作品を一度に撮れる機会はそうそう無いだろうから貴重な経験だった。
もうすぐ会期の終わってしまう『ヘザウィック・スタジオ』展と合わせて、ぜひどうぞ。ヘザウィックは6月4日(日)までです。
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捉えどころがない、という声については「自分の方法論を確立したら、それを洗練させる美術家が多いと思うけど、そこで作家性が閉じる感じがある。僕の場合は、何かをメインに据えることがなく、尋常じゃない数を作るので、追いにくいのかもしれない」
西洋美術館の新藤淳・主任研究員は、「美術史を参照し、自分の身体を投じて生き直すプロジェクト」とみなし、「制度批判から出発しつつ、制度の外でも活動を続けて単なる批判に終わらず、美術の可能性を提示している」と話す。多作についても「論争的な姿勢と関わる作品を、独自の造形言語でその都度生み出している」と評価する。
福元さんは、コランに基づく絵画の点描が光学的分析に基づくものではなく、「身体や空間を浮き上がらせるためにバラバラに存在し、統括的視点が感じられないことが「かえって面白い」。現代美術の伝説的巨人ヨーゼフ・ボイス(独)をひき、「造形と言説がずれながら併存し、作ることと生きることが重なる点が、どこかボイスに通じる」と指摘するのだ。
そして、梅津さんの「希少性」。和多利さんは「今の現代美術は、社会的な問題を扱うか、メディア操作に向かうか、という面が強いが、彼は美術の可能性を信じ、大上段に美術とは何かを問うている」と話す。
2024/07/23 朝日新聞(編集委員・大西若人)
art 彩る
美術家 梅津庸一さん
美術館に愛される彼 なぜ 大規模個展や企画展次々
絵画・陶芸・版画・・・多作と捉えどころのなさ
アート市場・社会派 どちらにも属さぬ存在
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コンセプチュアルアートとは、
コンセプチュアルアートとは、1960年代にアメリカで始まり、1970年代にかけて世界的に行われた前衛芸術運動。別名「概念芸術」とも呼ばれ、芸術作品の形式や美的価値よりも、アイデアや思想を重視し発展。1961年にヘンリー・フリント(※1)が初めて「コンセプトアート」という名称を使用した。制作するうえでの技術的なテクニックよりも、作品に込められた発想や観念を重んじるコンセプチュアルアートの代表的な芸術家には、マルセル・デュシャン、ジョセフ・コスース、ヨーゼフ・ボイス、ピエロ・マンゾーニ、マルセル・ブロータースなどがいる。日本には概念芸術や観念芸術と紹介され、高松次郎、松澤宥、柏原えつとむらが「日本概念派」(※2)といわれた。
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ヨーゼフ・ボイス対話集会
1984年6月2日、東京藝術大学の体育館で催されたヨーゼフ・ボイスとの対話集会。
西武美術館での個展にあわせて来日したボイスが、同大学の学生を中心とした観客1000人あまりと3時間にわたって討議した。
当時熱狂的な人気を誇っていたボイスとの直接的な対話は、多くの観客に多大な影響を与えたイヴェントとして語り継がれている。
この集会の実行委員会には、当時同大学の学生だった宮島達男や長谷川祐子、タナカノリユキらが名を連ね、当日も通訳をドイツ文学者の三島憲一が、撮影を畠山直哉らが担い、さらに会場には美術評論家の針生一郎や美術史研究者の若桑みどりなど、錚々たる面々が集っていた。
ただし、その議論は必ずしもかみ合ってはいなかったようだ。というのも、学生からの質問は、西武という大資本との関係をボイスに詰問するものが多かったからだ。
「社会彫刻」というヴィジョンについて意見を交えたかったボイスは、そのことに失望と苛立ちを隠さないまま、学生たちが「古い芸術にとらわれている」として挑発し、新しい芸術、すなわち「拡大された芸術概念」への飛躍を粘り強くアピールした。
ボイスのメッセージは、その場で学生たちの心をつかむことはなかったようだが、影響力はその後時間をおいて現われた。
ボイスの熱を帯びた佇まいから、宮島達男は社会的な役割を自覚したアーティストとしての態度を、長谷川祐子は世界を変えていくというヴィジョンを、それぞれ学んだと証言している。
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美術手帖 1992年4月号 美術出版社 表紙=「ボイスとの出会い」1974 [特集]ヨーゼフ・ボイス「カオスと創造」彼は、生前からすでに神話だった
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Joseph Beuys Galerie Kammer, Hamburg, 1987 ポスター
ヨーゼフ・ボイスの1987年にドイツのギャラリーで開催された展覧会ポスター イギリスのテート美術館とスコットランド国立美術館にも所蔵されている。 クラフト紙にシルクスクリーン印刷 84 x 60 cm
Joseph Beuys: Galerie Kammer, Hamburg, 1981 ポスター
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Joseph Beuys, ‘We Won’t Do It without the Rose, Because We Can No Longer Think’(1972) Cf.) http://www.watarium.co.jp/exhibition/1505kokon100/caption/1921_Joseph%20Beuys.pdf
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先日のお休みは、まずボイス+パレルモ展@国立国際美術館へ。 ヨーゼフ・ボイスはコヨーテのイメージが強かったので、今回いろんなタイプの作品が見られて面白かった。彼がフェルトという素材を好んだ理由も知って、作品の存在感と重みがいっそう増して見えました。 #art #museum #josefbeuys #pallermo #osaka https://www.instagram.com/p/CW2mWwalbgd/?utm_medium=tumblr
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Beuys + Palermo 国立国際美術館
Osaka / Italia / or... ?
美術展に一度足を踏み入れると2時間か3時間は出てこられないので、まずは腹ごしらえと近くのカフェに立ち寄った。急な階段を上がると、昼ご飯時には少し早かったからか、感染者数が再び増え始めたからか、それともオフィス街の日曜日だからか、随分と空いていた。迷わず、土佐堀川に面した席に腰掛ける。ラジオだろうか、イタリア語でDJが何やら喋っているなと思ったら、スティーヴ・ミラー・バンドのThe Jokerがかかった。川向こうの炉端焼きの店の、それこそ猫���額ほどの裏庭を白い猫が歩いているのや、筑前橋の下をつがいの鴨が通るのを眺めながら、懐かしい曲に耳を傾けながら、日本生まれの洋食のドリアを食べた。土佐堀川と、イタリア語と、70年代のアメリカン・ロックと、日本発祥のイタリア料理(?)と。一体自分がいつ、どこにいるのか、わからなくなってくる。
でも、ひょっとすると、イタリアのラジオでアメリカの「懐メロ」がかかるというのは、実はこの組み合わせの中では一番authenticなのかもしれない。これでイタリアの楽曲がかかると、それはそれでより一層「創り物」めいてくるような気もする。
Beuys
そんな、現実と創作の境目で腹を満たしてから、道をわたって国立国際美術館へ向かった。ヨーゼフ・ボイスは、もう15年以上前になるが、ロンドンのTate Modernで大きな回顧展があって、途中で胸が詰まって息ができなくなるような、見終わった後、館内のカフェでドイツの親友に長々と手紙を書かずにおられないよう���経験をしたことがある。今回は二人展だし、会場も規模も何もかも違いがあるので、ボイスよりは未だ見ぬブリンキー・パレルモの作品が目当てだった。しかし世界がパンデミックに突入してからほぼ2年、皆が外出を控え、外の世界へ触れる機会が減少し、人との対話や関わりが「オンライン」で「リモート」なものへと置き換わり続ける中、圧倒的な質量と存在感で個と「世界」のあり方を問うボイスの作品に手を伸ばせば届く距離で向き合えることの意味は、その場に立って初めて、腹の底に重く感じた。
たとえ、展示の規模は小さく、集められた作品群もややunderwhelmingなものも含まれていたとはいえ、Tateの回顧展をあとにした時と同じく、ああ、行ってよかったと、ため息をついた。芸術作品の意味は、鑑賞者と作品の間にその都度うまれるからだと思う。作品と、いつ何処で対峙し対話するか、その時私が作品に対して差し出す問いは何であるかが、私にとってのその作品の意味になるんだと思う。
だから「〜はもう見たからいいや」というのは当てはまらないのかもしれない。
ボイスが脂とフェルトの中に見出した「生」「生きること」は、その熱量は、やはりあの重さや密度が感じられる距離にあって初めて伝わるのではないかと思う。フェルトがみっちりと厚く積まれた小作品の中に、私も、私の生もまた挟まっているかのような気持ちになる。いつも、そっと鼻を近づけてみては、脂もフェルトも全く匂わないことを残念だなと思うのだけれど。どこかに虫食いの痕はないかと、探してもみるのだけれど。
だから、映像に残されたボイスの「アクション」作品は、私にはきっと理解できないのだろうとも思う。その場にいて、その場に生きて、その社会にあって初めて、ボイスがアクション(あるいはパフォーマンス?)で持って削り出そうとした「現実」が、引き剥がそうとした「表層」が、頭ではなく心で理解できるのだろうと思う。何度「映像」に残された「記録」を見ても、その場にいられなかったことの、肌で触れることのできないもどかしさだけが積もってゆく。
+ Palermo
それとは反対に、パレルモ作品の中では、サイト・スペシフィックなため写真とスケッチを通しての(ドキュメンテーションとしての)展示であった「壁画」作品が印象的だった。壁や出入り口にごくシンプルに惹かれた線がその空間の質を見事なまでに変化させる。自分が居る/在るその空間がまるごと「どこであるか」「何であるか」と問われるような体験は、どれほどパワフルであったかと、想像するしかないのが残念だった。それでも「もどかしさ」を感じないのは、ひょっとしたら私が空間を平面で表現し、平面から空間を組み立てていくことを生業としてきた(建築屋だ)からかもしれない。

Beuys + Palermo
もし、パンデミック下でなければ、土佐堀川を眺めつつイタリア語で紹介されたThe Jokerを聴きながらドリアを食べた後でなければ、ボイスもパレルモも、違って見えた、違って感じられた可能性は十分にある。
ボイスにもパレルモにも、あなたが見ている/と思っている世界は、あなたが「現実」だと信じて疑わないものは、本当に見えたままの現実なのか?と問われ続けたように思う。私たちが見逃している/私たちの目には見えない、世界の在り方を、まるでマジックのように、目の前に差し出してくれる。「オンライン」の世界の人々の背景の書き割りの、その向こうにあるものを見せてくれるような感じで。そうやって適宜取捨選択され、あるいは創られた書き割りを背負った人々が「リモート」に集う世界を(ヴァーチャルだ、メタヴァースだと)受け入れざるを得ない日々の中だからこそ、彼らの問いはより一層の力を持って、会場に鳴り響いていた。
そんなことを考えながら近くの駅まで歩いていると、たった今あとにしたばかりのボイス+パレルモ展の展示ガイドが落ちていた。大阪の真ん中の人気の消えたオフィス街の歩道に、ボイスとパレルモの名が。世界に、私が世界だと思う空間に、ぽつんと開いた扉のようだと思った。駅に着くと、真上にあるホテルは閉鎖中で、空港検疫後の隔離施設として利用されていますとの張り紙があった。ホテル/隔離施設/or…? 警備員らしき制服姿の男性がチラリとこちらを見た。
第二次世界大戦で瀕死の重傷を負い、そこから(脂とフェルトの助けを借りて)再起したボイスには、再生後の世界は以前とは異なった意味を持っていた。パンデミックが去った後、私が、私たちが見る/生きる世界もやはり2年前とは異なっているだろう。そこで、私たちは新しい世界に何を見出すのか、変わってしまった現実とどう向き合い、理解し、いかに語るのか。
もしボイスが存命ならば、彼はどんな作品を作るだろう。

ボイス+パレルモ
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若江漢字《地中海 ― I・始まり》@カスヤの森現代美術館へ。
京急線に揺られ、汐入からバスで20分、バス停から更に10分ほど坂を登ると突然、現れる私設美術館。
先週、表参道でヨーゼフ・ボイスの展覧会を見た際にこの場所を知って遥々やって来たであった。分かってたけど遠いな!
そんなに大きい施設では無いのだけれど、私設だって考えるとかなり立派。コレクションはゴリゴリの現代美術でヨーゼフ・ボイス、ナムジュン・パイク、李禹煥、宮脇愛子など筋金入りである。
エントランス入って右に第一展示室、左に第二展示室、離れの展示室が3つ、中央にティーラウンジ。もちろん客はほぼいなくて静かで居心地はとても良く、作品と向き合う時間をゆっくりと楽しめる。贅沢な空間であった。
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戦略会議 #08 トーマス・ルフ研究 / 『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』鑑賞
先日、時間を作って映画『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』を鑑賞してきた。 ヨーゼフ・ボイスに関しては大学院での研究経過報告の時にトーマス・ルフ研究を進める中でデュッセルドルフ・アートアカデミーを調べる中で触れることとなった。 ドクメンタ7(1982)での7000本の樫の木を植える『Stadtverwaldung』(都市緑化、7,000本の樫の木プロジェクト)はよく知られる彼の作品のひとつだ。 1947年から51年の間、デュッセルドルフ・アートアカデミーで彫刻を学び、61年に同アカデミーの教授とな���。のちに彼のやり方と大学側が衝突、72年に大学を解雇されている。緑の党の立ち上げに関わり社会活動へ向かう。 映画は展示やパフォーマンス、アカデミーでの講義の様子やアメリカでの個展、グッゲンハイム美術館での回顧展も含め、60年代から80年代の彼へのインタビューや出演したテレビ、討論会などの活動記録を編集する形で構成されている。 「社会彫刻」という言葉はヨーゼフ・ボイスが残した言葉で一番有名な言葉であろうかと思う。 素材から最終的なフォルムを削り出すのが彫刻であるとするならば、社会というものを形づくる活動そのものも彫刻であり、人々はそれに関与する創造力を有しているのだから皆芸術家であり、またそうあるべきだということを意味する。映画の中ではこの言葉がどんな文脈で出てきたのかにも触れられる。 あなたは芸術家か?といったような内容の質問に対し、「社会彫刻」を引き合いに出し皆が芸術家であるならば私も芸術家かだと言ったのだった。これは従来の意味での芸術家ということを明確に否定している。 彼の言う「社会彫刻」は彫刻の概念を拡張したとよく言われるが、そうではないような気もした。そもそもに彼はもはや彫刻家の領域にはいないのだろうと思う��彫刻も芸術も彼にとっては手段であって「資本主義」という近代以降に作り上げられてしまった「社会彫刻」であるシステムを彫刻のように考え、再構築すべきだと訴えたのだ。同じことを言っているがベクトルの向きが逆だと思う。このことが思考のシフトだ。 資本主義における競争は20世紀に入り、2度の世界大戦により彼の母国であるドイツという国を破壊し尽くした。同然にドイツ側にも問題はあろうかと思うが、実際に空軍のパイロットとして戦争に関わり母国も自身も傷つくという経験を経たボイスだからこそ、その原因を資本主義というシステムそのものの問題として捉えたのだとしてもおかしくはない。芸術家というよりもドイツの批判哲学者のようでもある。 いずれにせよ、彼は常に社会に対しての強烈なメッセージを発し続けた。 それは彼の芸術行為や言葉に揺さぶる力があったようにも芸術とはそうあるべきだと言うことのようにも感じられる。 その姿勢により表層の「表現」が「芸術」から引き剥がされ、その後の「芸術」そのもののあり方や、芸術の社会との関わり方すらも決定づけたように思える。
youtube
『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』 https://www.uplink.co.jp/beuys/
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2020年6月13日
【新入荷・新本】
Die Kassettenkataloge des Städtischen Museums Mönchengladbach 1967 -1978, Walther König, 2020
Hardcover. 392 pages. 222 x 282 mm. Color.
価格:8,800円(税込)
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ドイツ、メンヒェングラートバッハ(Mönchengladbach)のアプタイベルク美術館で制作された35冊のボックスカタログをまとめた作品集。1967年から同美術館のディレクターを務めたヨハネス・クラダース(Johannes Cladders)が、就任した年にドイツ人アーティストのヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)と共にボックス型のカタログを考案。その後、1978年まで同美術館で展示をするアーティスト陣と綿密に企画し、都度制作し続け、従来の展覧会図録や美術館による刊行物のフォーマットを根本的に変えることになった。当時の「参加型アプローチ」を体現し、民主的な作品のビジョンを示す象徴となり、このカタログを手にする者もまたこの芸術的かつ制度的な試みに対して知的・身体的に関わることができる。数々の芸術家が生んだ作品を非常に美しい形で具現化した本書は、1960年代、1970年代の芸術の世界へ我々を導くと共に、添えられた書誌情報等や書影は、資料としても優れた役割を果たす。当時の参加アーティストはヨーゼフ・ボイスのほか、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)、ジョージ・ブレヒト(George Brecht)、カール・アンドレ(Carl Andre)、ベルント&ヒラ・ベッヒャー(Bernd and Hilla Becher)、マルセル・ブロータス(Marcel Broodthaers)、パナマレンコ(Panamarenko)、ジェームス・リー・バイヤース(James Lee Byars)、ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)など錚々たる顔ぶれが並ぶ。著者である美術史家のスザンヌ・レナート(Susanne Rennert)と美術館の現ディレクターであるズザンネ・ティッツ(Susanne Titz)がテキストを寄稿。
(twelvebooksによる本書紹介文)
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多くの作家は今もなお、ボイスの世界をホロコーストのある種のカタルシスだと表現しようとしていますが、それは間違っている。ボイスはホロコーストと真摯に向き合うつもりなど全くなかったのです。
戦後を代表するドイツ人芸術家ヨーゼフ・ボイス 偽りだらけの過去 - SWI swissinfo.ch
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