#ロシアを賛美する鈴木宗男
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urusura · 2 years ago
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遅いくらいの処置。もう国籍も剥奪していいわもう。なぜ戦争を始めた方の肩入れをするのか。本当に理解できないし、これまで野放しにしていた維新の会も責任があるわ
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ari0921 · 2 years ago
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我が国の未来を見通す(68)
『強靭な国家』を造る(5)
「世界で最初に飢えるのは日本」なのか(その3)
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
 やはりG7サミットについて私の感想を述べてお
きたいと思います。まず、G7のメンバー以外に、
グローバルサウスの代表や韓国大統領、それに戦時
下のウクライナのゼレンスキー大統領まで遠路はる
ばる飛来して参加したにもかかわらず、何事もなく
無事閉幕した今回のサミット��「これまでにない成
果」と評価されていることにケチをつける気は毛頭
ありません。
一方、被爆地・広島で開催したことから、「核兵器
のない世界」という“人類の理想の世界”実現に向
けた「広島ビジョン」を自画自賛するのは時期尚早
と考えます。と言いますのは、本サミットに対して、
中国は「西側の少数の先進国が他国の内政に理不尽
に干渉し、世界を操る時代は過去のものとなった」
とのいらだちを強めれば、ロシアは、G7を「世界
の安定を揺るがす破壊的な決定のふ卵器だ」と厳し
く批判しつつ、「世界の多極化を受け入れられない
G7は、反露・反中のヒステリーを起こしている」
と主張しました。つまり、中国やロシアに加え、北
朝鮮などが素直に「広島ビジョン」に賛同して受諾
するとは到底思えないからです。
元外交官の佐藤優氏は、先の「対独戦勝記念78周
年」で明らかにしたプーチンの「戦争論理」につい
て、「これまで“戦争”という言葉の使用を避けて
きたをプーチンが、初めて“戦争”言葉を使用し、
『米国を中心とする西側連合がウクライナを使って
“戦争”を仕掛けてきた』、つまり『ロシアがウク
ライナに“戦争”を仕掛けた』とは考えてない」と
解説しています。
また、「第2次世界大戦において、『ロシア人が多
大な犠牲を払ってナチズムから人類を救った』とい
う事実を西側諸国は忘れた」として、「文明は再び
決定的な転換点を迎えた」とも語っています。
中国もほぼ同様の歴史観を有しているでしょうから、
G7サミットは、「世界が再び『分裂の世界』に突
入した」ことを決定づけたともいえるのではないで
しょうか。つまり、考えようによっては、「核廃絶」
という“人類の理想の世界”の実現がますます遠の
いてしまったとの見方も出来るのです。
歴史的にみても、一方の「正義」や「美談」が相対
する側にとっての「憎悪」や「拒否」となって「対
立の原点」となってきましたし、「独自の論理を振
りかざして自らの利益拡大を広げてきたのは西側世
界の方である」という見方は、人類の歴史を子細に
見れば、あながち間違っておらず、実際に、欧米諸
国は反対する勢力を力づくで次々に排���してきまし
た。
ところが、今は互いに核兵器を保有していることか
ら、一方的に排除するのは簡単でないことから、
「排除も共存も遠のく」という結果に陥っているの
ではないでしょうか。
当然ながら、ウクライナを支援する必要性にはつい
ては理解しますが、G7がもたらす未来を冷静にイ
メージアップすると、広島サミットを手放しで称賛
する気にはなれない自分がいることに気がつきます。
私のような見方をする有識者は少ないのかも知れま
せん。立場上、声を上げられないのだと想像してい
ます。もちろん、私だけの“独りよがり”なら、そ
れはそれでよいのですが。
振り返ってみますと、実現は無理だったかもしれま
せんが、習近平をオンラインでも拡大会議に参加さ
せ、「何を発言するか」を聞くべきだったと思いま
す。千載一遇のチャンスを逃しました。
▼日本の農業は過保護か?
 
さて、ここまで農業を追い込んだ、その原因はどこ
にあるのでしょうか。我が国は戦後のドン底から、
「貿易立国」として発展し、GDPが世界第2位に
まで発展してきました。そのため、自動車などの輸
出を伸ばすために貿易自由化、そして規制緩和政策
を幾度となく繰り返してきました。また、時には
「聖域なき構造改革」などの勇ましいキャッチコピ
ーに対して誰も面と向かって反論をしないまま時が
過ぎてしまいました。
一方、そのような政策を推進するために、「農業は
過保護だ」という“刷り込み”を、メディアを総動
員して続けてきた結果、私たちの頭の中には、いつ
の間にか「農業は様々な規制に守られた『既得権益』
を有し、『過保護』な業界だ。その結果、農業の競
争力が低下してしまった」、つまり「日本の農業が
『過保護』だから自給率が下がったり、耕作放棄が
進んだ」とイメージが出来上がってしまいました。
しかし、本当にそうなのでしょうか。また諸外国の
実情はどうなっているのでしょうか。少し解き明か
してみたいと思います。
これまで何度も紹介しました『世界で最初に飢える
のは日本』の中で、著者の鈴木氏は、日本の農業に
は「3つの虚構」があると指摘します。
「虚構」の1つは、「日本の農業は高関税に守られ
た閉鎖的世界だ」というものです。OECDのデー
タによれば、日本の農産物関税率は11.7%です
が、この数字は、主要列国と比較しますと、インド
の124.3%、ノルウエーの123.7%を双璧
に��韓国(83.8%)、スイス(62.2%)、
インドネシア(47.2%)などが続き、ブラジル
(35.3%)。タイ(34.6%)、EU(19.
5%)といずれも日本より高い関税率をかけていま
す。食料輸出国の米国のみが、食糧輸入から自国の
農業を保護する必要がないのか、5%に留まってい
ます。
そして、我が国の場合、実際には、こんにゃくのよ
うに1700%の高い関税率もあるにはありますが、
大半の農産物の関税率は3%程度になっています。
そもそも、食料自給率38%の国の農産物関税が高
いわけがなく、「日本の農業は高関税に守られた閉
鎖的世界だ」というイメージとは、全く正反対の
“現実”があるのです。
 「虚構」の第2は、「日本は世界から遅れた農業
保護国であり、政府が農産物の価格を決めて買い取
っている」です。
これも間違いです。政府が農産物の価格を決めて買
い取ることを「価格支持政策」といい、かつて米に
ついては、「生産者価格」と「消費者価格」の2種
類の価格がありました。政府が「生産者からは高く
買い取って消費者には安く提供する」というもので
した。しかし、米の生産や流通を厳しく規制した
「食糧管理法」は1995年に廃止され、それ以降
は、政府を介さずに流通する「自主流通米」が増加
し、価格も競争原理で決められることから「生産者
米価」と「消費者米価」という制度は廃止されまし
た。
実は、日本は、WTO加盟国の中では唯一、農業の
「価格支持政策」をほぼ廃止した国で、自由貿易を
推進する「優等生」にほかならないのです。他国は、
自由貿易の看板をあげても、農業など自国にとって
必要な産業については、“したたかなまでに死守し
ている”のが現実です。
「価格支持政策」とは異なり、生産者に補助金を支
払うことを「直接払い」と言いますが、「価格支持
から直接払いに転換した」といわれる欧米諸国は、
実際には「価格支持+直接払い」と表現する方が正
確なようです。つまり、価格支持の水準を下げた分
についてはしっかりと「直接払い」によって置き換
えているのです。
「虚構」の第3は、「農家は補助金漬け」というも
のです。これが最大の「虚構」ともいえるでしょう。
鈴木氏が様々なデータを取りまとめて分析したとこ
ろ、日本の農家の「所得」のうち、補助金が占める
割合は3割程度ですが、スイスはほぼ100%、イ
ギリス・フランスは90%以上、ドイツは約70%
です。アメリカは、日本とほぼ同じで約35%と先
進国では低く抑えられています。
ちなみにここでいう、農家にとっての「所得」とは、
「農業粗収益-支払経費+補助金」ことを示します。
フランスやイギリスの小麦経営は200~300ヘ
クタール規模が一般的ですが、そのような大規模穀
物経営であっても、市場の販売収入では肥料や農薬
代も払えないので補助金で経費をまかないつつ、残
りを「所得」にしているとのことで、「所得」に占
める補助金の割合の100%超えが常態化している
のだそうです。
日本は、野菜や果実の補助金率も5~7%と極めて
低く、酪農は約30%、肉牛は約48%ですが、フ
ランスは、野菜や果実は30~50%、酪農は76
%、肉牛は何と179%にも及んでいます。
一方、農業生産額に対する農業予算比率は、日本は
38%程度ですが、米国が75%と最も高く、英国
(66%)、ドイツ(61%)、フランス(44%)
と続きます。また、上記の価格差には、「国内価格」
と「輸出価格」のようなものもありますが、米国は、
食料を輸出する際の差額補填など、実質的輸出補助
金などへの支出も含まれているようです。つまり、
米国のような食料輸出国であっても農家を保護して
いるのです。
先進国は、農業が“命を守り、環境を守り、地域コ
ミュニティを守り、国土を守っている”ことを知っ
ており、そのような農業を「何よりも優先して国家
を挙げて支える」ことを“当たり前だ”と思ってい
るのです。
農家が離農して農業が崩壊し、食料自給率がますま
す低下してきたことに目をつぶり、農業の保護を
“当たり前ではない”と考えているのは日本だけで、
だから自動車などの輸出を増大させる代償として農
業を“差し出す”こと、そして米の生産に待ったを
かけて自給率の低い小麦を原料とする洋食の拡大に
も躊躇しなかったのであり、長い間、そのような政
策の是非を顧みないままここまで来てしまったので
す。今こそ、“我が国が例外である”ことを思い知
る必要があるのです。
最後に、農業支援がどれほどのお金がかかるかを概
算しておきましょう。米1俵つくるのにかかるコス
トは頑張っても1.2万円ほどですが、実際に買い
取り額は、ブランド米など高額なものもありますが、
約9000円ほどです。その差額を国が全額を補填
した場合、約700万トン全量でも3500億円程
度にしかなりません。
また全酪農家に生乳キログラム当たり10円を補填
した場合の費用は750億円程度と言われます。こ
れらの額は多少の幅はあるとは思いますが、国の予
算の規模からしてさほど大きな額ではないことは間
違いないでしょう。
『世界で最初に飢えるのは日本』と題して、我が国
の食料事情に危機意識を持った鈴木氏の“警鐘”に
納得するのは私だけではないと考えます。正直申し
上げ、日本は、「食料安全保障」に関して、戦後大
��な“戦略的過ち”を犯したと考えざるを得ないの
ですが、いつの時点で、だれの責任でそうなったか
を追及してもこれから未来の対策は案出できないこ
とも間違いないでしょう。「食料安全保障」の必要
性を訴え、根本から農業政策を見直せば、今からで
も農業の救済は可能であると私は考えます。他国を
見習うべきでしょう。
▼総括
最近、日経新聞社がかなり時間をかけて分析したと
いわれる『国費解剖』という書籍に目を通す機会が
ありました。そこには、財政赤字の一方で、膨張を
続ける国家予算を紐解けば、莫大な“ムダ使い”が
あることが随所に指摘されています。読むと本当に
呆れます。
つまり、国防もエネルギーも食料も、やがて人口減
から来る労働力の確保なども、将来を見越した“戦
略眼”を持たないまま、政治家、官僚、専門家とい
われる一部の人たちなどによって、その場しのぎの
政策が案出され、時には国会対策上各党の言い分を
刹那的に取り入れ、その時々の勇ましいキャッチフ
レーズのもと、マスコミなどもこぞってそれを指示
し、「国の舵取り」を行なってきた“ツケ”がいよ
いよ白日の下にさらされたということなのではない
でしょうか。
このような「国の舵取り」は今に始まったことでは
ありません。余談ですが、東京裁判の起訴状で「共
同謀議」が読み上げられた時、「共同謀議をもっと
うまく実施していたら戦争にはならなかった」とA
級戦犯の被告たちが呆れるシーンが記録されていま
す。戦前においても、国家戦略など無きに等しいま
ま、その場その場で「よかれ」と思って実行してき
た延長で大東亜戦争に突入してしまったのでした。
ようやく少子化対策に本腰を入れるようですが、そ
の対策も“異次元”というにはほど遠い内容からか、
国民が“しらけている”ように見えるのが残念です。
もはや一国でもって、国防のエネルギーも食料も、
そして労働力でさえ確保できない時代が到来してい
ることは時代の流れとしても、これらのうち、一つ
として自力ではまかなうことができない国家、つま
り、あらゆるものが“他力本願”の国家が「独立国」
と言えるのでしょうか。ことの重大性に気づかず、
いや、気がついても知らないふりをして、ノウテン
キを装っているのが、現代を生きる私たち日本人な
のではないでしょうか。
冒頭に述べたように、「分裂の時代」を���近にした
今日、このままで「我が国の未来が安泰である」と
はとても考えられません。現在の日本は、戦前の日
本人を批判する資格など微塵にもないし、将来���日
本人に“合わせる顔”があるだろうか、と考えてし
まいます。
なぜこうなってしまったのでしょうか。根本的原因
はどこにあるのでしょうか。これから先、我が国の
現状や風潮を覆す“特効薬”はあるのでしょうか。
当然ながら、そのための対策は、私などが考え及ぶ
べき領域をはるかに超えていると思いながらも、い
よいよ「『強靭な国家』を造る」と題した第4編の
主テーマについて、皆様と一緒に試行錯誤してみよ
うと思います。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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eggenburgprinzessin · 7 years ago
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[モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』、そしてクレンツィス+ムジカエテルナ ベートーヴェン・チクルスもいよいよスタート!]
今年の音楽祭もいよいよクライマックス。この時期になると一日二本立ての日が続くから、聴き手としての体力と感性のキャパシティも大いに試されることになる。 こちらのカレンダーでは宗教上の祝日の8月15日(聖母昇天の祝日)、まず午後3時から「モーツァルトの家」劇場にてモンテヴェルディのオペラ『ポッペアの戴冠』。指揮はウィリアム・クリスティ、演奏はレザール・フロリザン、演出はヨーロッパでも超左派の革新的演出家、オランダのヤン・ロワース。 モンテヴェルディの『ポッペア』はここ数年、日本にいても鑑賞の機会がとても多かった。モンテヴェルディが昨年が生誕450年の記念イヤーだったこともあるし、古楽オペラの中では比較的演奏時間が短いので、舞台に載せやすい、ということもあるだろう。とりわけ昨年秋、鈴木優人指揮のバッハコレギウム・ジャパンの公演は、長くくっきりと印象に残るような、素晴らしい演奏だった。日本には優れた古楽演奏者がいるので、いい演奏に出会う機会も多くなるが、しかし、この『ポッペア』に関しては、たとえ音楽が素晴らしくても、なかなかそのストーリーを追うのが大変だ。つまり、私たちがモラルとして持っている「善は勝つ」的な価値観が一切通用しない、悪人がハッピーエンドになるプロットなので、それをどう捉えるかに戸惑うわけだ。ネローネ(ネロ)帝は部下オットーネの妻ポッペアに恋し、ポッベアも女帝の地位が欲しいこともありネローネに執心している。哲学者セネカにそのアンモラルをつかれると、ネローネは直ちに自ら命を絶つように命じ、妃オッターヴィアは流刑にし、ポッペアを殺めようと図ったオットーネも国外追放し、邪魔者をすべて追い払ったのちに、ふたりの愛のアリアの中にポッペアが戴冠するのである。 これはヘンデルの縺れまくるあらすじのレベルをはるかに超えて、とても現代人には理解しがたい世界なので、よくある演奏会形式で淡々と歌っていくのが無難な落とし所と言えるだろう。 私自身も、『ポッペア』を観るときはあまりいろいろ考えないようにしていたのだが、たまたま昨秋、バッハコレギウムの演奏を聴く直前に、ボッカッチォの『デカメロン』をつれづれに読んでいた。ペスト流行時のフィレンツェで、疫病を避けて田舎にこもった男女10人がそれぞれ1日に1話ずつ10日間小話を語るという一種の箱物語で、その話の内容は、言ってみれば中世風与太話なのだが、この物語集には、それこそ『ポッペア』風のストーリーがザクザク埋まっている。年寄りのもとに嫁いだ若く美しい妻が、うまく夫を追い払って若い恋人とハッピーエンドなどはワンパターンか?と思うほど繰り返し出てきて、そして、この類の話を聞いている美しい淑女たちが大喜びで、「それはそれは歯が抜けるほどお笑いになりました」とあるのである。これを読んでいると、なんというか、近世以前のヨーロッパには、現代とは違った笑いのツボがあるのではないか、と思えてきた。ボッカッチォとモンテヴェルディの間には200年の時代差があるにせよ、『デカメロン』の物語のパラダイムは、何度聴いても謎だった『ポッペア』のストーリーに接近するヒントを与えてくれるような気がしたのだ。 もしかしたら、ギリシャの人々が、都市の円形劇場で、とんでもない悲惨な内容の神話劇を見てはカタルシスを得ていたように、中世やルネサンスの人々もまた、受け入れがたいほどぶっ飛んでいるオペラや音楽劇の「逆さまの世界」に「歯が抜けるほど」爆笑しながら憂さ晴らしをしていたのでは?…そう思うと、ポッペアの歌詞やレシタティーヴォの言葉のひとつひとつが改めて味わい深く思えてきた。 こういう視点もまた、もしかしたら「無理やりこじつけ」のひとつのパターンなのかもしれないが、古い物語を無理に現代風に解釈しようとせず、これはこれで昔の人のお楽しみ、という風に向き合うおうとすると、意外と毒々しくなく綺麗に収まってくるのがこの作品ではないかと思う。 さて、今日の『ポッペア』���は、この類の繊細な切り口ははなから期待できそうもなかった。作品のプロモーションフィルムでは、演出のロワースが攻撃的な口調で「この作品にはセクシュアリティとエロティシズムを読み取るしかない」みたいなことを言っていて、なんだかひどい「ポッペア」になりそうだ、などとも思っていた。 ネローネは、かの有名なネロ帝で、興味本位の歴史秘話が古くから多く語られ、猟奇的なエピソードが一人歩きしがちな皇帝である。歴史の業界では、いまは、どのような人物、事件に関しても、従来語られたイメージを覆す慎重な分析が常識になってはいるが、演出家の世界ではまあそういうのは通用しないのだろう。舞台イメージをちらっと見たら、もうそこは、1960年代のハリウッドが作った古代ローマの空想世界のように、ズバリ酒池肉林であった。 もうとにかく舞台がうるさい。全曲を通して、ロワースが率いるダンス集団、ニードカンパニーのダンサーたちが踊りまくっている。中央にお立ち台があって、そこに、磁石で動く自動人形のように、結局終幕まで、ダンサーが交代で終わりのないピルエットの回転を続けていた。そしてそのダンスたるや、犯したり傷つけたり、ダンサーも最後は血まみれで、なんだか見ていてげんなりした。セネカが死のうという時に、歌手の足元に若い男性がひとりゴロゴロ音を立てて転がってきたのは、もうもはや謎である。 クリスティとレザールフロリザンはさすがに見事な演奏だった。写真のように、舞台の前にオーケストラピットがあって、中央にそれを渡る通路があり、客席側に張り出した前舞台へと繋がっている。通路でオケピが分断される形だが、こうして形成された二つの空間に、チェンバロを一台ずつとリュート、テオルベ、チェロによる通奏低音を置き、そして、旋律を導く楽器として、右側にはオーボエ二本、左側にはバイオリン二本という配置をしていた。いわば、ほぼ同じ編成のアンサンブルが左右に二つ、相似をなして向き合っているのだ。クリスティは左側のチェンバロで弾き振り、そして、右側のピットではベノワ・ハルトワンがもう一台をジャカジャカ鳴らして華やかだった。奏者もさすがうまくて、ひとつひとつの楽器が、輝き出るような音色で鳴っていて、本当に良かった。 オペラ全体としては、原色ケバケバの、泥沼の悪人物語として仕上げているから、ソニア・ヨンチェヴァのポッペアは、夫を捨て邪魔者を容赦なく追い払う、ごく分かりやすい烈女である。ヨンチェヴァの声と歌唱は以前から古楽向けではないと思っていたけれど、今回のような大きな劇場で、しかもダンサーの入り乱れる中でこの役を歌うには、危なげなところがなくてなかなか良かった。元々の女王様キャラなので、「烈女」というイメージにもピッタリ合っていた。 ネローネ役のケイト・リンゼイは、ちょっとイッちゃってる雰囲気の、ドラッグ中毒の両性具有的ロックスターみたいな独特のキャラクターを作っていた。ネローネとポッペアはソプラノ同士の「女の子カップル」になるから、お色気烈女のヨンチェヴァと、この危ない中性的なネローネが、危ういけれどチャーミングなカップルとしてそれなりにうまく釣り合っていたと思う。リンゼイの声が個性的。どちらかといえば声帯を開いて大きな声を出すヨンチェヴァとは対照的に、細く伸びのいい独特の声で、喉を回して歌う箇所などは思わず聴き惚れた。 セネカのレナート・ドルチーニとアモーレのレア・デザンデレがなかなか聴かせる歌唱をみせ、そして、ポッペアの乳母、アルナルタのコントラルト、ドミニク・ヴィスがコミカルな演技と歌いで客席を惹きつけた。 音楽は極上、歌手も悪くはないのだが、全体に、歌として聞かせるというよりは、物語を語って聞かせるような演奏になっていて、極力歌手に「歌わせないように」指示しているかに思える場面も多かった。『ポッペア』は何度も観ているので、演出が多少ひどくてもさらっと聴いて楽しめるかもという気持ちでいたが、休憩含めて三時間半あまり、じっくり聴いて、ただただしんどい『ポッペア』であった。                                                          ***
『ポッペアの戴冠』終演後、一時間半で頭を切り替える。 20時開演で、お隣の「岩場の馬場」劇場では、今年最大の期待のコンサートシリーズ、テオドール・クレンツィス率いるムジカエテルナによるベートーヴェン交響曲全曲演奏チクルスが、いよいよ今日から開幕した。 クレンツィスとムジカエテルナは、ザルツブルクでは昨年、おなじ会場でモーツァルトの『皇帝ティートの慈悲』のピットに入り、即座に話題を独占した。ロシアのペルミから積極的にヨーロッパ中で客演して、時とともにどんどん人気が高まっているから、今年は、まだ出演歴の浅いオケとしては異例の四回連続演奏会が決まったところ、スケジュール発表になるやチケットの引きが殺到し、たちまち完売してしまったようだ。聞くところによると、今年の最難関チケットは、ドミンゴでもネトレプコでもなく、クレンツィスだったということだ。 とはいえ、チクルスの会場は今日だけがやや規模の大きい岩場の劇場で、あとの三回は少し小さいモーツァルテウムなので、祝祭大劇場での公演に比べると出回ったチケットそのものが少ないということもあるのだと思う。
チクルス初回は、楽聖最後の交響曲、第9番「合唱つき」からスタート。コーラスも、この若きマエストロのもとで歌っているペルミオペラ付きの合唱団をつれてきている。会場に入ってみると、開演前から皆すごい熱気で待ち受けている。そして、楽屋がないこの劇場、脇の通路から登壇したムジカエテルナ、皆頬を上気させ、初々しい。少しだけ遅れて舞台に上ったクレンツィスは相変わらずのオーラ感。脚にぴったりとしたレギンスのようなパンツ、そしてジャケットではなく、ふわりとタックをとったチャイナシャツの黒づくめである。 とにかくクレンツィスのタクトに目が釘付けだった。音楽の中に深く入り込み、まるで作曲家の精神が憑依してしまったかのようなエキセントリックさだが、見ていると、何をどうしたいのかが比較的よく分かる指揮ではある。オペラの時もそうだったが、棒は持たない主義らしい。そして、ムジカエテルナは全員が立ったままの演奏(最後の写真、譜面台の高さに注目していただきたい)。そこに生み出される独特のスヒード感があると言われるが、確かにかなりハイテンポで先へ先へと前のめりに進行するベートーヴェンだった。テンポも完全にクレンツィス独自のペースだが、各所にかなり個性的な作り込みをほどこしている。特に印象深かったのは、四楽章の「歓喜」のテーマを、チェロから奏ではじめて総奏に持っていくところ。チェロの導入を、極端に弱音にさせている。これは、蠢めく音のカオスの中から希望のメロディが流れ出すところなので、静かに旋律が響き始めるアイデアはいいのだが、ただ、この超弱音を、ふっと時々ゆるめて大きくさせたりしている。歓喜のテーマを奏でる音が、フーッと弱くなっては、またウワン、と妙に大きくなる。この眩暈のような作り込みがあまり好きになれず、また随所にこういうことを仕掛けているから、出来上がったベートーヴェンがあまりにクレンツィス色に染まりきっている。これは絶賛して受け入れるか、首をかしげるか、二つに一つのところだと思う。 クライマックスの合唱部分は、オケもコーラスもすきなくまとめてさすがに迫力だったけれど、クレンツィスの"Alle Menschen werden Brüder"は、人類の歓喜の歌ではなく、まさに、帝王のファンファーレとして響きわたった。両手を広げて”Freude”を導き出すクレンツィスは、まさに自らの勝利の響きを引き出しているようにしか見えなかったのだ。あまりにもユニーク。この演奏者については、もう、それしかないだろう。 「岩場の劇場」は音響がよくないので、まだ決めつけはできないが、ムジカエテルナもまだまだ若いオケだ。その響きには青臭く未熟な部分が多い。今日の第9番では、バイオリンは力強く美しかったけれど、低弦部は若干弱く、ホルン、トランペットはだいぶんバラバラしている。そして、全体に雑味を含む音色で、でもこの点は、クレンツィスのキャラクターと理想に合っているのかもしれない。 これはこれでこのオケの特質にもなってくるだろうが、ただ、いまのようにいろいろな形で情報が拡散されてしまう時代、クレンツィスとムジカエテルナのような、物質的な無駄を排除し、自己を研ぎ澄まして音楽と向き合うような芸術家が、安易に情報ソースに乗せられてどんどん拡大し、新しい時代の立役者にまつりあげられる過程が、なんだか空恐ろしかった。何も考えず、終曲を待って即座にブラヴォーを叫ぶ人たちは、本当のベートーヴェンがどんな作曲家で、どんな演奏がオーセンティックで、クレンツィスがそこから離れて何をしようとしているのか、そんなことには微塵の興味もないだろう。音楽が商売道具に利用される切なさを、クレンツィスとムジカエテルナのスターダムへの道のりに、感じざるをえないのである。 このチクルスを四回全て聴けるのは、特権ともいえるほどの幸運だが、会場がモーツァルテウムに変わったら、少しはじっくり聴けるかもしれない。明後日が楽しみだ。
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