#中国現代文学選集 9 趙樹理集
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中国現代文学選集 9 趙樹理集 平凡社 装釘=原弘 編集委員=小野忍・竹内好・中野重治・増田渉・松枝茂夫
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2018 演出介紹 Introduction of Performance
2018東京藝術節邀演作品 莎士比亞的妹妹們的劇團 X 第七劇場 台日三年國際共製計畫「交換手札」第三部曲 Notes Exchange vol.3
Shakespeare’s Wild Sisters Group X 第七劇場 日台国際共同プロジェクト Notes Exchange vol.3
舞台『珈琲時光』
電影《珈琲時光》是為紀念日本已故導演小津安二郎,由日本松竹株式會社,邀請台灣導演候孝賢導演創作的作品。電影中充溢著小津安二郎風格的日常感,與候孝賢擅長的長鏡頭風格極為契合。 莎妹劇團與第七劇場合作的《珈琲時光》並非直接引用電影版的劇本、情節和影像內容,而是將電影中的元素、關係設定和質感,轉化創作。 《珈琲時光》是導演王嘉明繼《親愛的人生》之後,再度探索舞台上的散文書寫,也是「劇場大叔」步入中年之後的作品轉向。他引用朱天文的話說:「生活的東西最好寫,也最難寫,不單為技巧問題,是心胸和性情。
映画『珈琲時光』は、日本の故小津安二郎監督を記念し松竹株式会社が、台湾の候孝賢監督を招いて製作された作品。映画は小津を思い起こす日常感があふれ、候孝賢が得意とするロングショットと相性の良さを見せた。Shakespeare’s Wild Sisters Groupが第七劇場と創る舞台『珈琲時光』は映画版の脚本やストーリー、映像コンテンツを直接引用するのではなく、映画の中の要素や設定、質感などを創作に流用した。『珈琲時光』は、演出家の王嘉明が『親愛的人生』同様に、舞台のエッセイを探求し書いたもので、「劇場おじさん」��ら中年を迎え、作品の転換でもある。彼は朱天文の言葉を引用して次のように述べている。「生活を描くのは最も簡単で、また最も難しく、テクニッ��の問題ではなく、心と気質である。」
演出場次
東京藝術節首演 時間:2018年10月24-25日 地點:東京藝術劇場西劇場 場次:2場
台灣演出 時間:2018年12月1-9日 地點:雲門劇場 場次:8場
日本三重演出 時間:2019年2月10-11日 地點:三重縣綜合文化中心小劇場 場次:3場
日本金澤演出 時間:2019年2月16-17日 地點:金澤21世紀美術館 場次:3場
公演日時 東京芸術祭初演:2018年10月24〜25日 場所:東京芸術劇場シアターウエスト 回数:2回
台灣公演:2018年12月1〜9日 場所:雲門劇場 回数:8回
三重県(日本)公演:2019年2月10〜11日 場所:三重県文化会館 小ホール 回数:3回
金沢(日本)公演:2019年2月16〜17日 場所:金沢21世紀美術館 回数:3回
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演出製作團隊 Production
企劃協力:侯孝賢 原始文本:候孝賢/朱天文《珈琲時光》 改編:王嘉明 導演:王嘉明、鳴海康平 演員: 【台灣】Fa(莎妹劇團)、朱安麗(國光劇團) 【日本】佐直由佳子(第七劇場)、小菅紘史(第七劇場)、鈴木真理子(SPAC-静岡縣舞台藝術中心)、西本浩明(演藝列車「東西本線」)
製作人:新田幸生 服裝設計:靳萍萍 舞台概念:鳴海康平 燈光設計:島田雄峰 音響:平岡希樹 、洪伊俊 舞台監督:鄧湘庭 文字視覺統籌:Baboo 執行製作/隨行翻譯:盧琳 劇團經理:趙夏嫻 行政:楊帛翰 翻譯:陳汗青、林佳祥 劇照攝影:Manbo Key 平面攝影:松原豊
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企画協力:侯孝賢 原作:候孝賢/朱天文『珈琲時光』 改編:王嘉明 演出:王嘉明、鳴海康平 出演: 【台灣】Fa(Shakespeare’s Wild Sisters Group)、朱安麗(國光劇團) 【日本】佐直由佳子(第七劇場)、小菅紘史(第七劇場)、鈴木真理子(SPAC-静岡県舞台芸術センター)、西本浩明(演芸列車「東西本線」)
プロデューサー:新田幸生 衣裳:靳萍萍 美術:鳴海康平 照明:島田雄峰 音響:平岡希樹 、洪伊俊 舞台監督:鄧湘庭 グラフィックディレクター:Baboo 制作/通訳:盧琳 劇団マネージャー:趙夏嫻 行政:楊帛翰 翻訳:陳汗青、林佳祥 スチール撮影:Manbo Key フライヤービジュアル撮影:松原豊
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演出概念與構想 Performance Concept
鳴海康平 △ 導演筆記
舉例而言,小津安二郎把自己比喻成豆腐店。所以並無法做出好吃的咖哩或炸豬排。我認為這一份小津的堅持,恐怕就像夏目漱石認為自己的作品��非「小說」,而是「文章」加上「語言」一樣。而且,注重鮮明的表情或修飾排列、構圖或配置,讓即使結構改變也可以多次呈現出相似主題與概念的基底,也讓小津與漱石的形象重疊,即使兩人的領域不同,但我認為他們對於為了讓多數人看見寫實而鋪成的虛假,或是以最大公約數來進行的虛構都沒有興趣。試著從劇場這端來眺望這樣的虛假或虛構,也可延伸至布萊希特所提出的戲劇論。相較於「能夠那樣觀看」的真實性,我認為,不如說是「也能是這樣」以事實與根據交錯所展現的真實性的一種態度。戲劇與電視劇相同之處在於,「為了能夠那樣觀看的寫實」被認為是最重要的一件事,實際上雖然這是重要的,但並非所有的戲劇都需要將這個原則至上。換句話說,這是兩件不同的事,也就是把重點放在「也能是這樣的事實與根據交錯所展現的真實性」為主的戲劇也是存在著的。那也就對應了電影裡小津的豆腐,或是文學中漱石所說的文章。這樣一寫,聽起來彷彿就是一個很難理解的話題,似乎會有人說是「關於戲劇的戲劇」,但我並不喜歡這樣定義它。(只是不喜歡而已,但不覺得不可以)。戲劇,並不是只有描寫人類或社會鮮明構造的功能,同時更有著相互確認、了解與對話的功用。在許久以前,觀看戲劇,然後在體驗劇場的同時,也有著一起坐著在同一個會議桌上一樣的意義。
在日本與台灣的島嶼間所創作的這個作品,在兩個島的共同或相異之處,取材自彼此相關的歷史,但相對於在那之中的真實性,不如說是以也能是這樣的事實與根據所交錯的寫實,創作出一張能夠進行對話的桌子。也讓我認為,對於我們台日國際共同製作團隊,這就是接近最重要的「豆腐」與「文章」的一個方式。然後,我也相信這個就是這三年間透過這個計畫的集大成。
鳴海康平 - 演出ノート
たとえば、小津安二郎は自分のことを豆腐屋だと言う。だからカレーやとんかつがうまくつくれるわけがない、と。その小津の「豆腐」へのこだわりは、おそらく、夏目漱石が小説ではなく「文」や「言葉」にこだわったこととよく似ているように思う。それに、あざやかな表情や修飾を排し、構図や配置を大切にし、構造を変えても似たテーマやモチーフを何度も変奏する姿勢において、小津と漱石のふたりの像は重なるし、二人とも、ジャンルは異なるが、多くのひとに対して、リアルに見せるための嘘や、最大公約数を基準とする虚構を描くことは性に合わなかったのだと思った。こういう嘘や虚構からの距離を演劇の側から眺めてみると、ブレヒトの演劇論に敷衍できる姿勢でもある。「そのように見える」ためのリアリティよりも、「そうである」という事実と根拠の積み重ねから現れてくるリアルに重きをおく態度のように、私には思えた。演劇もテレビドラマと同じように「そのように見えるためのリアリティ」が最重要事項だと思われがちで、実際に重要でもあるけれど、すべての演劇でそれが最重要というわけではない。言い換えれば、それとは別のこと、つまり「そうである事実と根拠の積み重ねから現れてくるリアル」に重きをおく演劇もありえるし、現に存在している。それが映画における小津の豆腐や、文学における漱石の文に、対応できるように思うのだ。こう書くと、なんだか難しい話のようにも聞こえそうですし、どこからか「演劇についての演劇」みたいな言葉も聞こえてきそうですが、私はそれを好みません(好まないだけで、あってはならないとは思いません)。演劇には、人間や社会の仕込みをあざやかに描写する機能だけではなく、それを見極めて話し合う機能もある。演劇を観るということは、そして劇場体験の中には、会議のテーブルにつくような意味合いも、ずいぶん昔からあるわけです。
日本と台湾という島々の間でつくられた今回の作品は、島々の間に共通することや異なること、お互いの歴史に関わる事実などがモチーフとして用いられ、そのように見えるためのリアリティよりも、そうである事実と根拠を積み重ねることで現れるリアルに重きをおいて、対話のテーブルをつくりました。それが今の私たち日台国際共同プロジェクトチームにとって大切な「豆腐」と「文」に近づける方法だと感じたからです。そして、それが3年間にわたるこのプロジェクトのひとつの集大成だと信じています。
王嘉明 △ 導演、編劇筆記
關於小津和侯導(主要是《珈琲時光》和早期)的評論,都會提到日常生活和表演的特殊性,但許多電影不也是拍日常生活嗎?「日常生活」這幾個字寫來容易,但如何表現?或是為了甚麼而表現?大師們的作品像是疑問的黑洞,重點不是標準答案,而是引發了創作團隊對於劇場質感和意義的想像。有幾個方向:看待日常生活的視角、物件和時間的��透性以及狀態劇場。 「日常生活」不是封閉性的辭典字彙,不同人的經歷產生的心智結構會有不同的選擇,小津經歷過的二次大戰,侯導身處台灣如此流��失所的島嶼,都是建立眼前這些作品裡「日常生活」瑣碎人事物背後隱而不顯的視角。不同年代有不同的物件,甚至影響書寫和溝通方式,對於時間的體驗也大不相同,小津電影裡偶有新的電器為推動劇情元素之一,例如《早安》裡的電視機、洗衣機,人,也不是封閉的人,也總是被物穿透,隨時間不自覺地改變,包括小津最愛的食物。 電影和劇場當然大不相同,沒辦法有長鏡頭、低鏡位、的畫面比例,更不用說剪輯速度和場景變換,但劇場好玩的是:任何真實的東西都會有某種奇特的象徵感,包括人。小津和侯導電影激發的是劇場這種很特別的「感知狀態」:如何透過文字、空間、時間結構和表演,表現不寫實但有真實感,時間很清楚但不合理卻能理解,沒幹嘛卻發生了很多事的狀態,眼前不同人卻有相異與相同並存的曖昧,對我而言,這更接近「真實」。 因此雖然劇名來自電影《珈琲時光》,但內容完全重寫:一棟公寓同時有五個不同年代的設定,各自經歷不同的時間感,並以一巨大的母體串聯彼此。資料來自於小津和侯導各自電影中的家庭議題、元素和角色,甚至食物,以及各自的人物史和文化背景歷史,尤其是昭和史、飲食史(燒肉、泡麵、咖哩、咖啡、豬排、啤酒、微波食品)、運動史(相撲、棒球、摔角、奧運)與電器史(電話、電冰箱、電視、洗衣機、電腦),還有一些奇奇怪怪的日常物件史,例如:榻榻米。 當然這不是一齣Discovery,不會說這些物件的「有趣」史,而是為了構成前述的「狀態」,包括看到的與聽到的、視覺與音效的各種和諧與不和諧,或許比較接近有三個樂章的當代音樂吧,
王嘉明 - 演出、脚本ノート
小津監督や侯監督(主に『珈琲時光』や初期作品)への評論では日常生活と演技の特殊性がよく言及される。しかし、日常生活を扱った映画は他にもたくさんある。「日常生活」という、たった数文字は簡単に書けるが、それをどのように表現するのか、あるいは何のために表現するのか? 彼らの作品はまるで疑問のブラックホールだが、大事なのは一般的��答えではなく、クリエーションチームが映画の質感や意義への想像を引き出すことにある。それにはいくつかの方向性があり、日常生活の視点や物事と時間の貫通性、及び歴史的、文化的背景を取り扱うことである。 「日常生活」は閉鎖的で辞書的な言葉ではなく、異なる人間の経歴が形成した心の構造によって、その意味の選択も違ってくる。小津監督は第二次世界大戦を経験しており、侯監督は台湾という拠り所のない島に身を置いていた。これらはすべて作品の中に見える、「日常生活」を形成した瑣末な人や物事の裏に隠された視点の根拠である。異なる年代には異なるアイテムがあり、書き方やコミュニケーションの取り方、ひいては時間への体験も大きく異なってくる。小津監督の映画では新しい家電がストーリーを動かす要素に使われることがたまにある。例えば『お早よう』でのテレビや洗濯機がそうであり、人も閉鎖的ではなく、いつも物に貫かれながら時間の流れの中で知らない内に変わっていく。小津のお気に入りの食べ物もそうだ。 もちろん、舞台は映画とは大きく違い、長回しやローカメラーワークはなく、編集を使ったシーンの切り替えも不可能である。だが、舞台の楽しさはあらゆる実在のものが特別な象徵感を持つことにあり、それは人間も同じ。小津監督と侯監督の映画はこのような舞台独有の「感知状態」を引き出している。文字や空間、時間の構造と演出を通じ、リアリティのない真実らしさや、何もしていないのにいろんなことが起きている状態、目の前にいる異なる人間に相違と相同が並存する曖昧さなどを表現している。私にはこれこそがより「真実」に近づいていると思える。 従って、舞台の題名は『珈琲時光』と同じだが、中身は全部書き直してある。とあるアパートに5つの年代設定が同時に存在しており、それぞれ異なる時間感覚を経験しながら、一つの大きな母体によって互いに繋がっている。素材は小津監督と侯監督の映画にあった家庭内の議題や要素・人物・食べ物からきており、それぞれの人物史や文化の背景、歴史も引用されている。特に昭和史、飲食史(焼肉、インスタントラーメン、カレー、コーヒー、とんかつ、ビール、レンジ調理食品)、スポーツ史(相撲、野球、レスリング、オリンピック)、家電史(電話、冷蔵庫、テレビ、洗濯機、パソコン)など、そのほかに畳など特別な日常アイテムも含まれている。 もちろん、これはDiscoveryチャンネルの番組ではなく、アイテムの「面白い」歴史を説くわけでもない。前述の「状態」を構成するためである。見えたものや聞こえたもの、視覚と音声の協和と違和感など。三楽章の現代音楽に近いと言えるかもしれない。
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評論與報導 Comments & Review
關於舞台劇「珈琲時光」的纖細 横山義志(東京藝術節直屬事務總監)
第一次聽到鳴海康平說「明年的作品要做『珈琲時光』」的時候,坦白說我有點不安。因為由台灣著名的電影導演侯孝賢向小津安二郎致敬的這部傑作『珈琲時光』,是一部淡淡的,沒有什麼高潮起伏的一部作品。從標題上來看,也就是「啜飲一杯咖啡的時間」,因此很難想像有什麼戲劇化的發展。可是實際上看過之後,我發現這是一個非常具有說服力的選擇。因為很難可以見到,能夠具有這樣「纖細」的國際共同製作。 以三重作為據點的第七劇場與台北的莎士比亞的妹妹們的劇團所展開的國際共製計劃來到了第三年。第一年以杜斯妥也夫斯基為主題,第二年則是演出改編至喬治・歐威爾小說的作品。我覺得在第三年,終於發展到可以闡述「自己的話語」了。因為「自己的話語」並無法透過西方來述說,這也類似於原作『珈琲時光』的故事。 侯孝賢的『珈琲時光』,主要描寫在現代日本與台灣之間所誕生的個人層面的關係,卻也可以說出在日本殖民時代台灣出生的作曲家江文也與在中國出生的妻子的故事。在兩人交往期間,一起前往咖啡店,在一杯咖啡中放入許多的砂糖,交談了無數的時間與話語等等。江文也為了學習電器工程與西洋音樂,移往中國活動,並在那裡與別的女性展開新的生活。可以說近代西方文化,成為「台灣人」與「日本人」(這個說法在當時並不正確,但以回顧當時的立場選用這個說法)之間中立的角色,調解兩人相處的關係。 所以在此,透過戰爭或奧運等,反映出當時被稱做「國家」這個不可思議框架的不安。在『珈琲時光』劇中可以聽見「軍艦行進曲」,以及為此敬禮的「日本人」與「台灣人」。「我們」經由了同樣的戰爭,一起為了同一個「國家」而戰鬥,卻不使用「戰爭」這個的詞彙。透過身體,纖細且綿密的告訴你,那些不知道該如何訴說,甚至是語言所無法表達的事物。我想這是王嘉明與鳴海康平,以及劇團成員與工作成員們透過長久建立的關係才能夠完成的作品。無論舞台、燈光、音樂、服裝,甚至是工作人員所呈現的資料,都在在顯示這個作品是透過如此長久時間的醞釀與叮嚀,才終於脫穎而出。 受到侯孝賢作品啟發的這個舞台劇『珈琲時光』,有著類似江文也、類似小津安二郎的人,還有活在東京奧運時代的人、現在的人,甚至幾十年後的人一起住在同一個公寓裡。他們的對話總是透過話筒、或是來自回憶,幾乎沒有跟實際上遇見的人們說幾句話。也顯現出在台灣新電影浪潮中,所經常呈現的那種重複無盡的孤獨,這或許也是日本與台灣此刻的現況。「即使再遠也能聯繫」,或者是變成「明明很近卻無法連結」的現代社會。這個是工業革命與殖民主義所帶來的「全球化」影響下,整個世界所該面對的問題的縮影。 這次演出的舞台劇『珈琲時光』,有來自三重、金澤、靜岡與台北的演員所共同參與。因為不是只經由「首都」,不是基於「國與國」的立場上才能建立出如此的關係。有時在我們啜飲一杯咖啡時,不需要任何語言的交會,也可以感受到我們身處在同一個空間,或是同一個身體裡。在此所醞釀出來的這一份親密又纖細的關係,也讓我認為,這或許正是此刻表演藝術在世界上必須發揮的那一份責任。
舞台『珈琲時光』の繊細さについて 横山義志(東京芸術祭直轄事業ディレクター)
はじめ鳴海康平さんから「来年の作品は『珈���時光』」と聞いたときには、正直不安だった。台湾を代表する映画監督侯孝賢(ホウ・シャオシェン)が小津安二郎へのオマージュとして撮った『珈琲時光』は淡々としていて、なかなか盛り上げようのない作品だったからだ。そもそもタイトルからして、要は「コーヒーを飲む時間」のことだと思うと、ドラマティックな展開がなかなか想像しにくい。でも実際に見てみると、すごく納得のいく選択に感じた。これほどに「繊細」な国際共同の劇作品は、あまり見ていない。 三重を拠点にする第七劇場と台北を拠点にするShakespeare's Wild Sisters Groupの協働作業はこれで三年目になる。一年目にはドストエフスキー、二年目にはジョージ・オーウェルの作品を上演していた。三年目にして、ようやく「自分たちの話」ができるようになった、ということなのだろう。西洋を経由してしか「自分たちの話」ができない、というのは、ちょっと『珈琲時光』の物語にも似ている。 現代の日本と台湾のあいだで生まれる個人レベルでの関係を描く侯孝賢監督の『珈琲時光』では、日本植民地時代の台湾出身の作曲家江文也と内地出身の妻の話が語られる。恋人同士だった頃、二人で喫茶店に行き、一杯の珈琲にたくさんの砂糖を入れて、何時間もおしゃべりをした話、等々。江文也は中国で電気工学と西洋音楽を学んだために、中国を活動の拠点として、中国の女性と生活をともにすることになる。いわば西洋近代の文化が、「台湾人」と「日本人」(という表現は当時においては正確ではないが、 回顧的にはこのように語られることになる)のあいだの中立な場として、二人のあいだを媒介することになる。 だがそこには、戦争やオリンピックを通じて、つねに「国」という不思議な枠組が影を落としている。舞台『珈琲時光』で「軍艦マーチ」が聞こえるなか、敬礼する「日本人」と「台湾人」。この「私たち」が、ともに同じ戦争を、一つの「国」として戦ったということが、「戦争」という言葉を全く使わずに語られる。どう語るべきなのか分からないこと、語るべき言葉が見つからないことを、身体を通じて、繊細に、重層的に語ること。王嘉明と鳴海康平、そして劇団員やスタッフたちが長い時間をかけて関係を築いていったからこそできた作品だろう。舞台美術、照明、音響、衣裳、そして資料づくりなどのスタッフワークも、繊細さが際立つ作業になっていて、時間をかけて丹念にこの作品に取り組んできたことがうかがわれる。 侯孝賢作品にインスピレーションを受けた今回の舞台『珈琲時光』では、江文也らしき人や小津安二郎らしき人、そして東京オリンピックの時代の人、現代の人、数十年後の人が同じアパートに住んでいる。彼らが対話を交わすのは、受話器から聞こえる声や、記憶のなかの人ばかりで、実際に出会う人とはほとんど口を交わすことがない。台湾ニューシネマで繰り返し描かれてきた孤独というテーマがかなり極端な形で提示されているが、これは今の日本と台湾が抱えている現実でもある。「遠くにいてもつながれる」ようになることで、「近くにいてもつながれない」ようにもなってしまった社会。これは産業革命と植民地主義を通じて「グローバル化」された今日の世界全体が抱えている問題の縮図に他ならない。 今回上演された舞台『珈琲時光』には三重、金沢、静岡、台北を拠点とする俳優たちが参加している。「首都」を経由しないからこそ、「国と国」の関係でないからこそ築くことができる関係。ともに珈琲を飲むこと。時には言葉も交わさずに、同じ空間で、同じ身体をもつことを感じながら。そこで醸成された親密で繊細な関係は、今日の世界において舞台芸術が果たすべき本質的な役割を実感させてくれるものでもあった。
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單鏡頭與長鏡頭 × 複數《珈琲時光》 演出:莎士比亞的妹妹們的劇團 × 第七劇場 時間:2018/12/02 15:00 地點:淡水雲門劇場 文 羅倩(專案評論人) 2018/12/11 表演藝術評論台
如果用鏡頭的語言來理解《珈琲時光》,我想是「單鏡頭與長鏡頭 × 複數」。想像單鏡頭加上時間等於長鏡頭,多個長鏡頭相加等於《珈琲時光》。而白色的立面與平面架起潔白到發亮的舞台空間,僅有簡單的家居:茶水間、方桌、榻榻米、長型沙發。加上整場維持同一切換樓層的方式,難免感覺到單調與重複,或稱為「平淡的滋味」。也許是為了透過劇場契合電影的鏡頭吧,從單鏡頭角度解讀的話,眾多的獨白與寂靜並存,似乎也能理解維持換場時一致調性的理由。 王嘉明與鳴海康平的《珈琲時光》(Café Lumière,2018)以侯孝賢向小津安二郎致敬電影《咖啡時光》(Café Lumière,2004)為文本基礎,角色除了原本電影的井上陽子(一青窈飾)、竹內肇(淺野忠信飾)、日治時期台灣音樂家江文也,還有小津安二郎與演員原節子。劇場裡的一樓成為江文也J的家,二樓成為小津O的家、三樓成為在日本的朝鮮人A的家,四樓未知住誰,五樓是原本體育老師的郵差S,頂樓加蓋是陽子與台灣人生的孩子W的家,不知其地點的則是陽子與植物人肇的同居空間。若熟悉小津與侯孝賢電影的觀眾,應該不難辨認出舞台上的角色與關係圖。若不熟悉其文本,可能會對人物關係感覺到一頭霧水吧。 同一棟公寓中出場的人物用爆裂的雜訊因與暗燈彼此區隔,時間像是由一幕幕單鏡頭堆疊而成,唯有兩次同棟公寓住戶相遇的時刻:倒垃圾與頂樓陽台的曬衣場,才有人共同生活在一塊的感受。公寓因有人住而是活性的,但大多數的時間,人物卻都是孤單的。 演出前單看劇照和紙本文宣,想像作品應該是侯孝賢的《珈琲時光》,加上拉斯.馮.提爾的《厄夜變奏曲》(Dogville,2003)在舞台上畫出白色格線,以重點功能性的擺設來區別建築物與內部,整體呈現一個小鎮。我想像著如何在劇場的空間呈現這一棟五樓公寓的樣貌,以及生活在其中的角色。最大的亮點,應該是王嘉明與鳴海康平維持一貫舞台的空無與潔白到最後,透過內在的聲音與多個在白色舞臺之外如複語的旁白,來豐富角色的內在、環境與背景。交疊使用台語、日語、英語、國語作為口述與字幕。如果說《厄夜變奏曲》是透過攝影機水平移動、俯視與特寫鏡頭交叉剪解,在攝影棚內串聯整個小鎮的方圓視野。侯孝賢的《珈琲時光》則是在城市的街頭、大眾交通運輸工具與屋內取景,以長鏡頭與剪接塑造出在日本國家的內部空間場域的整體。劇場的《珈琲時光》更像是融合前述特色所打造的舞台,本質是無調性的、可以任意自由詮釋的空間,也可以說是模稜兩可的灰色地帶,在垂直式的想像空間任意放大與壓縮,就像前一段是一樓發生的事情,雜訊暗燈過場後,變成三樓發生的事情了。 從小津時代,東京(城市)與非東京(���村)的距離,變成封閉公寓與城市之間的距離,在劇場的《珈琲時光》,則更限縮到一棟公寓間樓層與樓層的距離。觀眾的視野從小津電影開闊的城鄉差距與侯孝賢眼下的台日視差,到王嘉明與鳴海康平合作下的混合空間,一座模糊時間與間距,混合過去歷史與未來想像的公寓。所有相關的角色與人物共同匯聚一起,劇場的《珈琲時光》像是對於兩位電影導演電影的召喚,保留了與電影相同的法語名稱Café Lumière。Lumière既是指向發明電影的盧米埃兄弟,也是法文的光源、光亮的意思。 就像濃縮萃取自電影的《咖啡時光》,既是平淡亦是深層濃郁的單色咖啡。如改編自吉本芭娜娜睡眠三部曲的同名小說電影《白河夜船》(2015),影片在角色彷彿深不見底的昏嗜睡中,那些潛伏於白晝與深夜之間的時光,導致影片的白晝太亮太刺眼,夜晚又太黑太深淵。就像劇場的《珈琲時光》,那些彷彿碎片式散落一地的意象之光。
シングルレンズとロングショット×マルチ『珈琲時光』 公演:莎士比亞的妹妹們的劇團×第七劇場 時間:2018/12/02 15:00 場所:淡水雲門劇場 文:羅倩(評論家) 2018/12/11表演藝術評論台
『珈琲時光』をカット言語で理解するなら、「シングルレンズとロングショト×マルチ」だと思う。シングルレンズに時間を加えるとロングショットになるが、複数のロングショットが合わさったのが『珈琲時光』である。白い壁と地面で真っ白にし、舞台空間を明るくした。簡単な家具しかなく、あるのは茶の間、四角いテーブル、畳、長いソファーだけである。しかも、二階や三階などの各階の情景が全てが同じフラットな舞台上で演じられ、どうしても単調さと重複を感じる。あるいは「平坦な味」とも言える。もしかしたら映画のシーンに合わせているのかもしれない。シングルレンズの角度から解読すると、多くの独白と静寂が共存し、場面を変える時の整合性を維持するためと理解できる。王嘉明と鳴海康平の『珈琲時光』 (CaféLumière, 2018)は、侯孝賢監督の小津安二郎へのオマージュ映画『珈琲時光』 (CaféLumière, 2004)のテキストをベースとしており、キャラクターは映画の井上陽子(一青飾り)、竹内肇(浅野忠信装)、日治時代の台湾音楽家の江文に加え、小津安二郎と役者の原節子である。一階は江文也Jの家、二階は小津Oの家、三階は在日朝鮮人Aの家となっていて、四階は誰の家かわからなく、五階は体育教師の郵便屋S、屋上は陽子と台湾人の子供Wの家、場所がわからないのは陽子と植物状態の肇との同棲空間だ。小津と侯孝賢の映画を熟知している観客ならば、舞台の登場人物とその関係を知ることができるだろう。もし内容を熟知してなければ、人物関係を理解するのは難しいだろう。同じマンションの登場人物が爆裂なノイズで暗くなり、人物と人物を隔て、時間はまるで一つ一つのシーンが積み重なっていくようだ。ゴミ捨ての時と屋上の物干し場にいた時の二回だけマンションの住人と出会い、初めて誰かと共同生活をしていると実感する。マンションに人が住んでいるからこそ活性化しているが、ほとんどの時間は、皆孤独だ。公演前パンフレットを見て、侯孝賢の『珈琲時光』にラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』(Dogville,2003)の舞台上に白い線を引き、建物やその内部を区切ることで一つの村を表現した手法が足された作品だと思った。私は舞台の空間に五階建ての建物とその中の生活を想像してみた。最も注目すべき点は、王嘉明と鳴海康平が一貫して簡素で真っ白な舞台を最後まで維持したことだろう。内在する音と真っ白な舞台以外で複数言語のナレーションを通じて、役柄、環境と背景を豊かにした。ナレーションと字幕は台湾語、日本語、英語、中国語を使った。『ドッグヴィル』はカメラの水平移動や、俯瞰とクローズアップのクロスカットを通して、スタジオ内で町全体のパノラマの視野にした。侯孝賢の『珈琲時光』は、都市の街頭、大衆の交通手段や屋内をロケし、ロングショットと編集で日本国内の空間全体を形作った。舞台『珈琲時光』は前述の特色を融合し、作られたように思う。本質は明確な境界がなく、自由に解釈できる空間。つまり、曖昧な灰色の地帯。縦の想像空間は好きに拡大したり縮めたりできる。先ほど述べた一階の出来事のようにノイズで暗くなった後、三階で起こったことに変わる。小津時代の、東京(都市)と非東京(田舎)の距離を、閉ざされたマンションと都市の間の距離に変え、舞台『珈琲時光』では、マンション一棟の各階との距離に縮めた。観客の視野には小津映画での都市と農村の大きい格差と侯孝賢が見た台湾の視差から、王嘉明と鳴海康平の協力の下で混じり合った空間までが、曖昧な時間と空間、過去の歴史と未来の想像を交ぜたマンションだ。関係するすべてのキャラクターと登場人物とともに、舞台『珈琲時光』は二人の映画監督に召喚された。そして映画と同じフランス語の名前Café Lumièreも残している。Lumièreは映画の発明者リュミエール兄弟を指していると同時に、フランス語で光源、光の意味もある。まるで映画『珈琲時光』から抽出されたような、平坦でありながら濃く深みのある単色のコーヒーである。吉本ばななの眠り三部作を原作とする映画『白河夜船』(2015)は、底が見えないくらい深い昏睡状態の中,昼と夜の間に潜んでいる時間のせいで、映画の中の昼間はとても明るく眩しい、夜はとても暗くとても深い。まるで舞台『珈琲時光』はそれらの断片が散らばっている時間の光だ。
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表演藝術評論台|單鏡頭與長鏡頭 × 複數《珈琲時光》 https://pareviews.ncafroc.org.tw/?p=32692
表演藝術評論台|劇場中的日常生活《珈琲時光》 https://pareviews.ncafroc.org.tw/?p=32783
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網站連結 Website
回顧短片 https://vimeo.com/364036223
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