#信憑性や不信感が薄れる
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sbsmarketing · 2 years ago
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≪BtoBマーケティングに必要な情報をご紹介㉘!≫ 『プルースト効果』『スリーパー効果』『ブーメラン効果』『ラベリング効果』について解説しています。ぜひご覧ください。
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nyantria · 8 months ago
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@kei98778182
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ジャニーさんは犯罪者じゃないのは当たり前。日本は法治国家。ファンじゃなくても今の日本の証拠なく噂段階で決め付け排除する私刑が多発している現状に危機感。マスコミ既得権益を壊さないと未来はない。政治家誰も突っ込まないがー #記者クラブ #電波オークション #ジャニーズ潰しはマスコミもグル 
@fuji507
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「冤罪」で消されたジャニーズと岡田有希子。芸能を殺す人々こそ消えてくれ【宝泉薫】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)
 叩く側が時々、錦の御旗みたいに持ち出す裁判の結果にしても、その実態は「週刊文春」の記事をジャニーズ側が名誉毀損だと訴えたもの。セクハラと思われる事実も認定されたが「文春」も損害賠償金を支払わされた。法的な証拠は後にも先にもこれだけなので、現在の叩き方、追い込み方は明らかに行き過ぎだろう。
 にもかかわらず、なぜそこまでキャンセルしようとするのか。岡田有希子のときも感じたことだが、こういうとき、人や事務所、作品を消そうとするのは、芸能を愉しめない人たちだ。芸能を好きではないというか、その作品にもスキャンダルにも人間ならではの業がにじみ出ることを思えば、つまりは人間そのものを好きになれない不幸な人たちである。(略)
 ちなみに、こうした傾向は1980年代半ばの「ロス疑惑」騒動あたりから始まっている。それこそ「週刊文春」が「疑惑の銃弾」と銘打ち、悲劇の夫と見られていた三浦和義が保険金目当てで妻を殺させたのではと告発。三浦のどこか魅力的なキャラクターもあいまって、大きな注目を浴びた騒動だ。
 が、裁判では無罪となった。その後、米国で逮捕され、自殺してしまったものの、法的にはあくまで冤罪である。
 筆者は40年近く前、この騒動が好きになれず、同世代の友人に「マスコミは告発なんてしてはいけないと思う」と言ったら、ひどく驚かれた。おそらく、告発こそがマスコミの仕事のひとつだと考えていたのだろう。その友人はその後、新聞社に就職したはずだ。
 そして今、当時抱いた思いはますます強まっている。正義を気取り、不公平な報道に走りやすいというか、世間の喜びそうな正義のためならどれだけ歪んだ報道も辞さないマスコミなど、芸能あるいは芸術にとって百害あって一利なしだからだ。
 まして最近は、ロス疑惑の頃と違って、大衆が「客」や「野次馬」では満足しなくなっている。今回のジャニーズ騒動では、慰安婦問題、草津町長セクハラ冤罪事件といったものを演出したり、たきつけてきた人たちが旗を振り、一部の大衆が一緒になって叩くという構図がいっそう露わになった。「温泉むすめ」のような萌え絵による盛り上げ企画を妨害する層とも、それは重なっている。
 ジャニーズも萌え絵���、日本が長年かけて築き上げてきた文化であり、それを消そうとすることは、宝物を奪ってゴミ箱に捨てたり、燃やしたりするのと同じことだ。
 たとえば、KinKi Kidsがジャニー喜多川に捧げた「KANZAI BOYA」という曲がある。ジャニー独特のセンスや口癖を愛情をもっていじったもので、じつに味わいの深い内容だ。こういう曲も当分、披露されることはないのだろう。
「死人に口なし」でジャニーズ事務所を豊臣家や大日本帝国、安倍晋三にしてはいけない理由【宝泉薫】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)
 そして今年、英国のテレビ局BBCと「週刊文春」による「ジャニーズ糾弾キャンペーン」のような動きが起きた。ジャニーが生前にやっていたとされる、タレント及びその予備軍たちへのセクハラの責任を問い、償えというものだ。
 しかし、生前も死後も、警察への被害届は出ていないし、被害についての証言もかなり雑。逆に、被害はなかったとする証言は無視された。
 BBCや文春に続いた報道も、NHKなどを含め、かなり雑というか、一方的なものが目立つ。にもかかわらず、事務所はジャニーズに好意的でなかった勢力の報告書に乗せられ「法を超えて」救済するなどと公言してしまった。ジャニーを大悪人に、ジャニーズタレントたちを悪の味方に仕立てて叩きたい空気感に抗うより、負けを認めて出直そうとしたのかもしれない。
 が、そもそも、そういう勢力を信用したことが悪手だったのだ。その勢力は貪欲で、その後もゴールポストを動かしたりしながら、攻撃の手を緩めない。ジャニーズが出直すために作られた新会社には、社長をはじめ、その勢力の人たちが幹部に居座り、まるで乗っ取られたかのような印象だ。
 ちなみに、その勢力には、思想でいえば左寄り、野党的、反日、フェミニストといった傾向の人が多い。それゆえ、SNSでは「#ジャニーズ潰しは慰安婦スキーム」というハッシュタグが生まれ、群馬県草津町の町長がセクハラで濡れ衣を着せられかけた事件と同じだという声も出た。(略)
 その性癖については創業当初から噂され、報道もされてきたが、生前に最大の注目を浴びたのは、1988年、元フォーリーブスの北公次による暴露本「光GENJIへ」が出たときのことだった。
 仕掛け人は、当時、田原俊彦の女性スキャンダルをめぐり、ジャニーズと対立していたAV監督の村西とおる。糾弾するための材料をカネをかけて集めており、そこにうまくハマったのが、カネに困っていた北だった。彼自身、アイドル時代に作詞をしたり、自伝本を書くなど文学志向だったが「光GENJIへ」自体は彼の告白をもとに出版プロデューサーの本橋信宏が執筆。本橋は村西の友人で、その仕事を手伝いながら、反体制運動などのルポを書いたりしていた。
 とまあ、この構図から浮かんでくるのは、この本の信憑性についての疑問だ。ポルノグラフィーとしても恨み節としてもかなりよく出来ているが、逆によく出来すぎている感もある。考えてみれば、村西はもとより、本橋もポルノには通じていたし、北は北で、とにかく面白い話を提供しなくてはならない必要に迫られていた。そんななか、けっこう盛られた内容もあるのではと想像してしまう。
 実際、北に続いて暴露本を書き、かなりの成功を収めた平本淳也について、その出版社の社長が「ちょっと虚言癖があったりする」と評してもいる。また、北はのちに暴露を後悔したり、再び暴露をにおわせたりしながら、死の前日にはジャニーやメリーに感謝を述べるなど、その言動には一貫性がなかった。
 そして、北や平本、さらには今回の証言者たちの回想がすべて事実だとしたら、ジャニーのプロデュースやマネジメントはどこかで破綻していたのではと思わざるを得ない。質的にも量的にも、バレないはずはないし、警察沙汰にならなかったのが不自然なほどなのだ。
 個人的な印象としても、ジャニーの性癖はもうちょっとプラトニックなもので、その傾向は加齢とともに強まっていったのではという気がする。たとえば、ジャニーが元気で可愛い少年を好んだように、薄倖で可憐な少女を愛した川端康成もそうだった。ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」が話題になった際、川端は「あれは汚いから嫌だ」と感想を語ったが、それに似た感覚をジャニーも持っていたのではないか。
 ではなぜ、今回のようなことになったかといえば「光GENJIへ」の影響がおそらく大きい。あの本がよく出来すぎていたため、それを下敷きにしたかのような証言が虚も実もないまぜに拡大再生産され、その勢いに事務所が圧倒されてしまったのではと。人間の精神とは脆いもので、大勢から集中的に糾弾されれば、まともな判断もできなくなる。まして、証言者たちは芸能活動については負け組で、その感情は恨みや嫉みといったネガティブなものにあふれているのだから。
個人的には何故か🇬🇧大英帝国様の📺BBCが出てきた時点でもう充分、陰謀いっぱい、お腹いっぱいゲップップでございました。
浅〜い正義感に踊らされたアホな売国反日国民ばかりだったね、無念。
ちなみに北公次さんは短期間でしたがご近所さんだったことがあり当時奥様とお店もなさっていたのでお会いしたことがあります。合掌。nya
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patsatshit · 2 years ago
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9月の最終営業日、朝から関東在住の保育士ミサさんが「12時頃にタラウマラに行きます」と嬉しい連絡をくれたので、足の踏み場もない店内を少しでも片づけておこうと、開店するなり自転車整備に精を出す。中古自転車は入荷しただけでは商品にならず、一台一台きちんと点検し、メンテナンスをしないことには店頭に並べることもできない。当然、状態の良いものは手間も時間もかからず、それなりの価格をつけることができる。逆に程度の悪いものは手間も時間もめちゃくちゃにかかる。不具合箇所はすべて新品のパーツと交換しなければならないので、その時点で自ずと商品としての原価も上がる。だからと言って高額で売れる訳ではない。経年劣化、そもそもの状態が悪いのだから当然と言えば当然だ。このあたりがレコードや古書との決定的な違いだと思う。古いものに価値がある訳ではない。だから手間と時間とお金を存分に注いだものほどお客様には安価で提供しなければならないという地獄のような矛盾を自分のなかでどのように折り合いをつけていくかというところに、古物自転車商の醍醐味、面白さが潜んでいる。タラウマラの場合は自転車修理に加えて書籍や音源を含む物販の収入を売上のグロスに投入することで、利益を調整している。ただしそれぞれの柱がうまく機能し、循環していなければ焼け石に水となってしまうのだけれど。どれだけ尊敬するアーティストやレーベルからのリリース作品であっても、僕はその時々の状況や予算、実際の懐事情を鑑みて作品を入荷したり、しなかったりする。先様もそのあたりは理解してくれているのでとてもありがたい。出勤前にコーナンで大量に購入した整備用具一式を手に、自転車と向き合う。メラミンスポンジやウエスで清拭してやるとどんどん汚れが落ちて、注油の度に各部の動きもスムーズになってくる。はっきり言って気持ちが良い、が、しかし、ここで満足していたら、単なる金持ちの道楽と同じになってしまう。商売は趣味ではない。きちんとお金に変えていかないと意味がない。僕は人助けのために自営業をやっている訳じゃない。自分や家族がこのクソったれな世の中で何とか生きていくために全力で自衛している。整備を終えて店頭に並べた自転車が瞬く間に売れていく。淡路に引っ越してきたばかりだという男性と、タラウマラオープン当初に購入してくれていた常連さんが新たに買い替えの一台を選んでくれた。商品とお金が交差し、僕もお客さんも笑顔だ。ここは極めて重要、買い物の最終工程を機械に委ねたらあかん、感情だけは奴らに渡すな、マニュアルや利便性を自らの手で破棄してでも残る言葉と顔貌で交渉を成立させよう。このときの快感はなにものにもかえがたい。開店早々からお金も動き、僕も動き続け、修理のお客さんも後をたたない。秋とは思えない気温と首筋に照りつける強烈な日差しに汗びっしょり。あっという間にお昼、ミサさんの来店時間が迫っていた。と、そのとき、年齢も服装もばらばらの数名の男女が慌ただしくやってきて、こちらに対して一方的、矢継ぎ早に要求を伝えてくる。各者の言葉を要約すると、少し離れた場所で女性が自転車の後輪にスカートを巻き込んで身動きが取れない状態、だから助けてあげてほしいとのこと。そうこうしている間にも店頭ではパンク修理の依頼が2件、タイヤからチューブを引っ張り出しながら、いま店を離れることはできない旨を彼らに伝えると、助け隊のひとりが「こういうときに何とかするのがプロでしょ」と宣ったので、キレた。おうよ、そこまで言うなら行ってやる。幸いにもパンク修理のお客さんからも理解を得ることができたので、僕はタイヤを脱着させる際に使用する作業台と工具一式を担いで彼らの案内に従うことにした。店には「すぐに戻ります」の貼り紙。絶対すぐに戻る、どうかミサさん帰らないでね、という想いを込めて。目的の場所にはラグジュアリーな服装の女性が確かにロングドレスの裾を自転車の後輪に巻き込んでうずくまっていた。巻き込んだ際に転倒したようで足や腕、顎のあたりに擦過傷ができていた。可哀想に、せっかくのおめかしが��無しやんか。それ以上に女性を包囲する助け隊一派の存在が鼻についた。僕は女性にこれから行う作業内容を簡潔に伝え、最悪の場合はドレスの裾を切らなければならないかもしれないことを強く念押しする。女性は首を縦に振った。高そうな服やのに、もったいない、気の毒やなぁ、などという助け隊の言葉は徹底的に無視。早速サドルを作業台に引っ掛け、チェーンカバーを外し、後輪のネジを外していく。それにしても見事なまでの巻き込み具合で、薄いレースのような生地がバンドブレーキと車軸との僅かな隙間に幾重にも層になって絡まっている。まるで伊藤潤二の「うずまき」のようだ。ゆっくりと同時に要所で力を込めてタイヤを回転させ、生地を引っ張る。少しずつ隙間から生地がぬらぬらと出てくる。助け隊のおっさんどもはお姉ちゃん頑張れ、水飲んどきや、ケガして可哀想に、美しいお顔がえらいこっちゃ、バンドエイド買うてきたろか、と引き続きうるさい喧しい鬱陶しい。何よりも困惑したのが、僕の作業する位置が女性のドレスの裾を覗き込むような格好になるので、見てはいけないものを見てしまうかもしれないという妄執に取り憑かれて酷く落ち着かない。はっきりと集中力が削がれる。何度かプラスドライバーの先端がネジの駆動部を舐めた。それを察してか女性もくねくねと腰をよじらせたり足の位置を変えようとするので余計に艶かしくなってしまい、むしろ逆効果。僕はええいままよと心を鬼にして、生地を引きちぎらんばかりの勢いで力いっぱいに掴んだ。手応えあり。いける!タイヤが滑らかに回り始めた。すると興奮した助け隊のおっさんどもが我先にとタイヤを回そうとしやがったので、僕の指がスポークに挟まる。痛い痛い痛い。ギョリンと睨みつけると、おっさんは慌てて手を引っ込めた。そこから消耗戦を続けること約15分、ドレスの裾を破くことなく無事にタイヤから引き離すことができた。額からは滝のように汗が流れてくるが、助け隊は女性の身を案じるばかりでこちらには見向きもしない。当の女性は平身低頭、とても申し訳なさそうに謝罪の言葉を何度も述べて、費用をお支払いします、と言った。僕は彼女の申し出をきっぱりと断り、来た時と同じように作業台を肩から下げて颯爽と現場を後にした……なんていう安っぽい美談に落ち着く訳もなく、僕はケガをした女性ではなく助け隊の連中に作業費用を請求した。集まった金はたったの1,000円。非常にしみったれているが、それでも彼らには伝わったと思う、善意には覚悟もリスクも必要だということを。リスクなき善意はただの偽善、それはもう傍観者と何も変わらない。急いでタラウマラに戻って、お預かりした2台の自転車のパンク修理を終らせ、店内でひと息ついたタイミングでミサさんご来店。貼り紙を見て、近くで時間を潰してくれていたみたい。彼女の快活な笑顔を見ると、ようやく僕もまた笑顔になれた。保育士であり、ドラム奏者でもある彼女が学生時代から好きだというMR. BIGの話で大笑いした。
MR. BIGと言えばこちら。イントロから鳴り響く、力強いドラムが印象的。
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実はこの公開日記「Pat Sat Shit」のパーソナリティであるvideo loverもミサさんも、代田橋にあるバックパックブックスの宮里さんの紹介でタラウマラに来てくれた人たちだ。僕とバックパックブックスの出会いについてはまた改めてきちんと書きたいと思っているのだけれど、このおふたりの存在からしてすでに最高で、バックパックブックスはきっと素敵なお店に違いないと確信している。ミサさんは大阪に向かう飛行機のなかで拙書『ほんまのきもち』を読んで涙を流したと言う。だからということでもないんだけど、数ヶ月前に同じことを言ってくれたドラム奏者Hikari Sakashitaのソロ作品『Sounds In Casual Days 2』をプレゼントした。高い交通費を払って遠方から来てくれる方には、条件反射のように何か贈り物をしたいと思ってしまうのは、僕のなかにアメ玉を配り歩く大阪のおばちゃんイズムが備わっているからでしょう。はい、アメちゃん、どうぞ〜。
Hikari君のドラムが冴え渡るこの曲が今日の「気分」。
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sui-ren-a · 23 days ago
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「泰山府君祭」
道満の退屈しのぎに周囲が振り回される話。 晴明も退屈しのぎがしたかったとか言ってて、この二人やっぱり似てるのかなと思ったりもする。でも晴明は自分からは仕掛けないから。
普通に戒律を犯したほうがまだマシじゃないのか徳のある坊さんよ…と何やら儚みたくなるような顛末ではあるが、泰山府君をめぐる晴明と博雅の会話はおもしろい。地獄に泰山府君がいて人の寿命を決めてるとは思えない、という博雅の感覚は好きだしよくわかる。具体的に想像すると信憑性が薄れるものです。晴明の説明はいつもながら明解。博雅は晴明の話がわかってる感じなのに、なぜわかってないと思うのか。「呪」と聞いたとたん反射的に「わからん」てなるのか。
晴明の命をとりにやってきたものが、博雅の目には少し晴明に似た感じに見えた理由はなんだろうと読むたびに思う。博雅にとって、不思議なものの象徴のような存在だからだろうか。おまえにはどう見えたんだと聞かれて晴明が答えなかった理由も気になります。何がどんなふうに見えてるんだろうか、この人の目には。
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sakurafinancialnews · 3 months ago
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収監された秋元つかさ氏 何をしたのか?冤罪の可能性は?2回シリーズ第2回
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アリバイの証明 秋元氏は、贈賄が行われたとされる時刻に、国土交通省での公式な業務に従事していたことを示す証拠を持っていると主張。 具体的には、彼が副大臣としての職務を果たしていたことを証明するスケジュールや記録が存在し、贈賄側の証言が 成立しないことを強調。
スマホアプリによるアリバイの証明 秋元氏は、2017年9月28日に議員会館で300万円の賄賂を受け取ったとされる件について、スマートフォンの記録を基にした アリバイを主張。彼は、その日の午後1時に大手町の中華料理店で支援者との昼食会に参加しており、午後1時15分には店を出たことを主張。この後の約45分間の行動については、検察側と弁護側で意見が対立。秋元氏はその時間に議員会館にいたことはないと 主張。
物的証拠の欠如 秋元氏は、検察が提出した証拠が非常に薄弱であると主張。彼によれば、贈賄の証拠として挙げられた現金の授受に関する証言は、信憑性に欠けるものであり、物的証拠がほとんど存在しないとしている。
証人の証言の信頼性 彼は、贈賄側の証言が検察の圧力によって形成されたものであり、証人たちが自らの利益のために虚偽の証言を行った可能性があると指摘。特に、証人買収の罪に問われた元秘書の証言が、彼に対する有罪判決の根拠となっていることに疑問を呈している
司法制度への批判 秋元氏は、日本の司法制度自体に問題があるとし、冤罪が生まれる背景には、検察の「有罪ありき」の姿勢があると主張。 彼は、裁判所が証拠を適切に評価せず、先入観に基づいて判断を下したと考えている。 これらの主張を通じて、秋元氏は自身の無実を訴え続けている。
ここからは、秋元氏が当日の状況を話した上念司氏のYouTubeチャンネルを参照
贈賄側の主張 2017年9月28日13:30に 議員会館で 羊羹に入れた300万円を秋元さんに渡した
秋元氏の主張 ・12:00に 国会で衆議院本会議で衆議院が解散された ・12:30近くには、 砂防会館で派閥の総会が待ってたから、そこに向かった ・派閥の総会は12:40だが始まらない ・13:30頃に 私の友人が 大手町の中華屋でちょっとした会をやっているので、そこに  ちょっと顔を出そうということを約束していた。 ・大体この12:40 ちょっと過ぎぐらいに砂防会館を飛び出して そして13:00に  大手町の中華屋へ ・そこで多分 数分ですねちょっとセレモニーをやったり握手しながら記念写真撮ったもの  も残ってます ・13:13~20分で砂防会館へ戻ったが、総会が終わっていたので、移動し、永田町の  市町村会館のATMで残高確認後、13:40国土交通省へ入った。
贈賄側の主張する13:30頃はATM~国土交通省へ移動中だった
裁判所側が、秋元氏が13:55に国土交通省に戻った 13:30に賄賂を議員会館に寄って受け取れたと主張。
13:57 秋元氏の部屋で海上保安庁のセレモニーが行われた写真が残っていたから 国土交通省に13:55に戻った根拠とした。
その前のセレモニーの段取りの説明などで時間がかかっているから 13:40には国土交通省に入っている。13:30に議員会館にはいない。
また、裁判所側は、万歩計のようなスマホアプリが13:40~14:20まで作動していない表示になっているのは誤作動だと認定。
秋元氏が国土交通省内でほどんど動かずにセレモニー対応していたことを否定。 なぜ誤作動なのかの根拠は示さなかった。
秋元氏は、日本の司法制度自体に問題があるとし、冤罪が生まれる背景には、検察の 「有罪ありき」の姿勢があると主張
2025年3月現在のIR事業については、岸田、石破内閣を経て 国策として、第二自民党と悪名高い、維新の会が、大阪万博を意地でも やり続け、その敷地跡地でIR事業を継続予定。
シェルドン・アデルソンのラスベガス・サンズの日本撤退は、他のカジノ運営会社にとってはチャンスとなった。 MGMリゾーツなどの競合他社が、大阪万博後のプロジェクトに対してより積極的にアプローチすることになった。
経済的利益の集中 MGMリゾーツとオリックスの共同事業体が「大阪IR株式会社」を設立。運営を担うことにより、巨額の経済的利益が特定の企業に集中する懸念がある。特に、竹中平蔵氏がオリックスの社外取締役を務めていることから、彼の影響力がこのプロジェクトにおいて重要な役割を果たしていると指摘。
安倍、菅、岸田、石破、政権が変わっても、IR推進で進んできたのに 安倍政権の時に、秋元氏への賄賂事件が起こったということが引っかかっている。
ユダヤ金融右派のアメリカ共和党トランプ大統領の後ろ盾だったシェルドン・アデルソン氏が撤退2021年1月死去。 ここからからMGMリゾーツと大阪維新、竹中平蔵の癒着の構造へ変わり、現在のIR事業推進になった。
東京地検特捜部=アメリカCIAが秋元氏の捜査に直接あたったことも見逃せない。
秋元氏が単純に収賄の罪で逮捕された事件で片付けてよいのだろうか?
国際金融資本が、日本のIR事業の主体をシェルドン・アデルソンからMGMリゾーツと大阪維新、竹中平蔵の癒着の構造へ移行するにあたって、秋元氏の収賄事件でIR事業への不信感。安倍政権への不満。そして2022年安倍氏の死。
これを前提にシナリオを作っていたのなら、東京地検特捜部=アメリカCIAが秋元氏を 嵌めるようなことは、たやすいのでないか?
あなたはどう考えますか?
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moko1590m · 5 months ago
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暴動を生んだ「極右」勢力の主張で目立つのは、まず閣僚らの弾劾訴追を乱発して国政の麻痺(まひ)を生んだ野党への反発だ。尹氏を捜査した当局や逮捕状を発付した裁判所への非難も多い。さらに、革新系野党が大勝した昨年4月の総選挙を「不正選挙」として捜査を求める声と並び、なぜか多いのが「中国人は出ていけ」といった中国への憎悪だ。 地裁の暴動でも、尹氏の支持者らが中国人と見なした男性を取り囲んで「身分証を出せ」と脅し、「発音が変だ」と追い込む場面が見られたという。別のデモ現場では群衆に取り囲まれ、「消えうせろ」と罵声を浴びて撤収した中国・香港の取材陣もあった。尹氏弾劾を求めるデモ参加者を支援した人気女性歌手に対しては「もしかして中国人か」「中国へ帰れ」といった書き込みがネット上で相次いだ。 尹氏側は、戒厳時に国会や中央選挙管理委員会に兵力を投入したのは不正選挙疑惑の解明が目的の一つだと説明してきた。憲法裁判所の弾劾審判の弁論では「不正選挙の背後には中国がいる」とし、中国と結託した野党が「韓国を中国の植民地にしようとしている」と主張した。 ネットメディアの一つは「戒厳部隊と米軍が選管の研修施設で中国人スパイ99人を拘束し、在日米軍基地に護送。彼らは選挙介入を自白した」と報じた。在韓米軍が全面否定し、警察が虚偽による業務妨害などの疑いで捜査に着手した。 当初から信憑(しんぴょう)性が薄かったにもかかわらず、尹氏側は弁論で選管研修施設の中国人滞在者の名簿提出を求めた。大統領側が支持者らの中国憎悪をあおっている事実は否定できない。 尹氏は中露朝などの脅威に対し、日米との連携を深める政策を進め、対日関係改善を急いだ。韓国ではもともと若年層を中心に、日本文化との接触から日本に親しみを感じ、強権的な中国を嫌う傾向が高まっていた。尹氏の支持者らが集まるデモ現場では、日本の記者だと分かると、好感を示して「真実を伝えてほしい」などと訴えかけられることもある。 ただ、一部の尹支持者による日本好感は手放しで喜べない。陰謀論が増長した中国憎悪やそれと対をなす日米への好感は、「反日」感情と同じく、政治的につくられた側面が拭えないからだ。日本を国内政争の具にしないとして「脱『反日』利用」を掲げた尹氏だが、根拠なく「反中」をあおるのも「反日」利用と同根であるように思える。
韓国の戒厳令が解き放った「極右」と中国憎悪 尹支持者の日本好感には疑問あり 桜井紀雄 グローバルレビュー - 産経ニュース
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newyorkdiary7th · 7 months ago
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DECEMBER 11th
今朝(12/12)は6時半からmtgがあったので6時に起きたらちょうど、mtgを1時間後ろ倒しにしたい、という連絡が入ったので承諾して��た寝たら一瞬で1時間が経った。ちなみに昨日は朝の4時半からmtgがあったので頑張って起きたらmtg無くなってた。なんやねんとなってやはり寝た。時間がジグザグして師走を感じた。
冬が来て、このところ頻繁に思い出す映画のワンシーンがある。『キャロル』の冒頭でテレーズが起き抜けに暖炉をつけるシーン。あのシーンのなにが素晴らしいかって、そこにテレーズの日常における反復性が本当に見事に示されていること。惚れ惚れしちゃう完成度のシーンだねぇ、とおもいながら、私は自分の反復行為に手を動かす。オーブンのスイッチを入れて、解凍したトーストを入れる。お湯を沸かす。バターを取り出す。冬が来たからなのか、それともこの反復行為によってあのシーンを思い出しているのか、どちらなのか分からなくなってくる頃に、こんがりしたトーストを持ってソファに行く。
昨日(12/11)はNYピザのなんたるかを知った。別にピザなんぞちゃんとしたところで食べたら大概とても美味しい食べ物だし、わざわざNYで食べなくても良いと思っていた。そしたらあの震撼するほど感動した映画コラージュルームでNYといえばピザ!と言っている映画の断片をたくさんみて、一度はスライスピザを食べてみようとかれこれ数週間、いつかやることリストに入れっぱなしだった。
いつかやることリストといえばブロードウェイも美術館も未遂のまま。今日(12/11)は雨の中美術館に行った。自転車が突然いなくなって、いつかいつか言ってちゃいけない、とアクティブになった私。全部行きたいけど全部なんて言ってられないからと悩みに悩んで結局NY美術館のデビューはウィットニーにした。ホッパーを見てみたかったので。ホッパー見れたのはすごく良かった。あと何点かグッと味わえたモダンなペインティングがあった。でも全体的に言うと、やっぱり私は今は美術館モードじゃないみたい。音楽という時間を操るライブイベントに楽しみ方が傾いている昨今、時代を超えて現存してきた作品たちの展示を見て回ることを楽しむには、受信機能のチャンネル切り替えが上手に出来きっていない感じがした。などと実感しながら途轍もなく規模感の大きい美術館に3時間くらいいた。そうこうしている内に、やっぱり全部の美術館に行ってみたい、そう思ってしまった。作品の受信機能は今高まっていないようなのだけれど、その代わり?なぜか箱、美術館そのものに凄く興味が惹きつけられた。空間そのものの在り方に魅了された。巨大なエレベーターに乗っていると『ハードボイルドワンダーランド』の世界に入り込んだ気分がよぎって、外の階段を昇り降りしていると段差や手��り、窓ガラスといった素材そのものの質感が妙に気になって、そして気に入った。これがウィットニー美術館だから、建造物そのものに惹かれているのか、他の美術館もこんな風な楽しみに陥るのか、はたまた慣れ親しんだ西洋画に対してだったら今の自分はどう感じるのか、結局他の美術館も巡ってみたい、と思ってしまった事の次第。
そうこうして最後の階、企画展の階に着いたら、過日赤の他人に強くお勧めされていたダンサーの展覧会だった。繋がった、リタスキーターをそのまま現実界に生み出したみたいなあの女性と出会った晩と、今が。もろリタスキーターのその女性には、クリスマスキャロルの朗読会という友達ニューヨーカーたちは聞いたこともないらしい風変わりなクリスマスのイベントに出かけた時に出会った。ッアンッフォゲタブル!!!とキザなイントネーションでソプラノボイスをなり響かせて感激していたリタスキーターさんが、「Jazzが好きならAlvin Aileyの展示会は絶対に行きなさい!」と言っていたのだった。なんというかピンクのメガネ(そう、身なりもそのままリタスキーターなの!)をキッとかけた赤いコートの彼女と趣味が合いそうな感じはしなかったのか、その時はあまり真に受けなかった。でもその展示会の部屋でMax RichterのOn the nature of daylightがかかっていて、来てよかった、と心底思った。思ったけど、その後30分くらいその部屋にいたのに、その曲は2度とかからなかった。タイミングだなぁ、と思った。その部屋にいる間中、脳内にはリタスキーターさんのブラボーやアンフォゲッタブルといった讃賞のボキャブラリーがチラついた。
結局最初の頃に実感していた受信機能のチャンネリングの不具合は全然気にならなくなって、今はそういう時期、と改めて認識し直しつつ、もっといろんな美術館も惜しまないようにしようと決心して雨が柔らかくなった外に出た。
美術館は規模が大きすぎて受信が大変だったので、チェルシーのギャラリーに行って心を鎮めよう、とハイラインを歩いた。前に来た時は日曜日だったので、人生で2回だけ行った事のあるディズニーランドみたいに混んでいた。でも今日は雨の平日だったから空いていて歩きやすくてすごく楽しかった。友達がNYに来ても何をお勧めすれば良いのか迷った挙句何も教えられないんじゃないかとか思っていたけれど、ハイラインの散歩はお勧めだな~。と思いながら歩いた。チェルシーのギャラリーはやっぱり良かった。規模感が私にはちょうど良い。うん、チェルシーのギャラリー散歩もお勧めするだろうな。
満足したので帰ろうと地図を見て、ピザを食べるのは今なんじゃないかという思考回路に賛成した。30分くらい歩いて9千を超える評価が4.5のJoe`s Pizzaに行ったらすごく並んでいた。雨の中すごく並んだけど笑っちゃうくらい美味しかった。こりゃ並ぶわ、と思った。スパイダー��ンの映画に出てくるらしい。
NYのピザは何がそんなに好かれているのか気になっていたのだけれど、パリッとクリスピーな香ばしさと、ピザのもちっと���がどちらも主張が上手なスライスだった。日本で美味しいピザを食べに行くと割ともちもちしていてそれが美味しいと思っていた(いる)。でもNYの(あぁもうだめ食べたすぎてピザに取り憑かれている。中毒性高すぎる)ピザは、薄くて、薄いところまでは想定内だったんだけど、薄いけど、ピザのもちっと感は消えてはいなくて、ちゃんと名残はあって、でも焼きたてのちょっとクリスピーな食感が、うむむ!うまい!となった。店の前はもう大混雑。長蛇の列もあれば、大量のピザの箱のゴミもあって、みんなひしめきあってスライスを齧っている。そういうごちゃっとした感じも含めて、うまいー!となった。あぁ食べたい。
ピザ焼いてるお兄ちゃんたちはみんなイタリア語喋ってて、すごく楽しそうだった。焼く人、チーズ振る人、生地を伸ばしている人、明確な分業の最中に、豊富なおしゃべりが充満していて、なぜか一人はずっと紙皿を投げていた。ブーメランみたいに投げ飛ばしてはキャッチして、と繰り返して楽しそうにしていた。たまにオーブン開いて温め直したピザを皿に乗せていた。
今日はこれから部屋の内見に2件行く。住むわけでもないのに引っ越しも手伝ったし内見も手伝う(どちらも一人でやる)。もうこれはいつか住める準備万全ですね。ピザを食べる事なく帰宅できるのかは大いに怪しい。
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shinayakani · 10 months ago
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人生どうでも飯田橋の袋小路
 おいおい、春の不穏さに心騒いで云々から、ずいぶん久しぶりじゃないか。すっかり季節は変わっている――人間がものを考えることを一切できなくさせる季節でお馴染みの、夏。四月から七月までの間、日を追うごとに情緒が不安定になっていた。そんな時は、書くことはおろ��読むことさえ一切する気になれない。もちろん私のナチュラルボーン怠惰もすべての原因としてあるが、振り返ってみると自分でも驚くほどの荒みようだった。今月に入ってからも、危機から抜け出す兆しを見つけるには全然至ってないわけなのだが、誤魔化しながらやり過ごしていこうとする正気はいくらか取り戻したのだろう(他人事)、だからこうして書いている。といって、この数ヶ月の自身の退廃っぷりを書き出してしまったら、内面の牢獄へと向かわせる悪循環に再び囚われそうになるので、気が進まない。だから相変わらず私には書くことがない。
(240818)
 ――やっぱり自分はまともな人間じゃないんだよな。
 不意に人に向かってそう呟いてしまった夜があった。よくもまあこう恥ずかしげもなくみっともない言葉が口をついて出てきたものだ。先月はそれだけ不調がピークに達していた。いい迷惑だろうに、その言葉を聞かされた人は一瞬心配そうな顔になりはしたが、すぐ「なに下らないこと言ってるの」とだけ言って笑った。ずっと前から自分でも分かりきっていたはずではないか、改めて言い出しても仕方がない。「当たり前じゃん、私たちマトモだったためしある?」なんて過去の自分や知人たちなら笑い飛ばしていたろう。だが自分がこうして失墜しているときに限って、そう言っていた人たちが皆、よっぽどまともな人間に見えてくる。少なくともこんなことをいちいち言葉にする(ましてや他者に向かって発する)人間は、どうであれ正気ではない。そもそもが具体的に何を指しているのか不明瞭で、粗雑な常套句。しかし世間一般的に見ると、いま私はまともな生き方をしていない。
 ……外部から規定されたにすぎないある種の「マイノリティ」の立場に、自身が置かれていることに改めて気づいたとき、そんなに動揺し慌て出すなんて、いったいきみは今まで何を学んできたというのか?
(240819)
 手癖で引用を、と思いながらも、そういえばほとんど本に触れてさえいなかったので、他者の言葉を手繰り寄せられない。ただ先月の今頃、なぜか夏目漱石の「思い出す事など」だけは読んだ記憶がある。人生イヤイヤ期には漱石の随筆や小品がやけに滲みる。とはいえ人生論的なものに傾く文章(誰が書き手かを問わず)に対して、私には昔から強い忌避感がある。たとえばこの随筆であっても、思想的な意味合いというよりは、漱石の言葉の運びそのものに感銘を受ける。生死の境が不明瞭になるほどの大病からかろうじて生き延びた後、病いを潜り抜けたゆえに得た奇妙に寛いだ��差しで、過去や事物を描写する。その文体の瑞々しさが、捨てばちになっていた私に平静さをもたらしてくれたのかもしれない。
《今の青年は、筆を執っても、口を開いても、身を動かしても、悉く「自我の主張」を根本義にしている。それ程世の中は切り詰められたのである。それ程世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から承れば、小憎しい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」を敢てして憚かる所なきまでに押し詰めたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。「自我の主張」の裏には、首を縊ったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩悶が含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。又孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくの如く叫んだのである。》
 いま文庫本を開いて確認すると、ところがよりによって、付箋が貼られているのはこの段落だけだった。漱石にしては大して面白味のない文章ではないか。彼の言葉にというよりは、何よりもここに印を付けていた先月の私に対して、ずいぶんな甘ったれじゃないの、と苦笑したくなる。声高に「自我の主張」ができるならまだしも、とうに自己の中身は空っぽになっている。それともこの空虚は、内省を突き詰めていった先で、ますますペシミズムにとり憑かれたことによって生じたものなのか。しかし私の現状は、心理的な問題というよりは、もっと実際的な習慣の問題に関係しているにすぎない……経験の貧困。嗚呼、こんなことなら辻潤でも読めば良かった。
 ところで末尾のニーチェについて。そんな単純化されては困ります、と大家である漱石に向かっていくらでも反発を示すこともできよう。だが、いわゆる「人生論」の観点からしたらこんな風に呆気なく語られてしまうものかもな、と妙に納得もする。しかしニーチェが残した著作の意義は、全く別の次元にある。「自我」という枠をあらかじめ想定して生を矮小化する先入観を、彼は何よりも軽蔑するはずだ。
(240821)
 ここまで書いてきたことは、自己と向き合うことの苦痛によって生まれた言葉だろうか。しかし自身と向き合うことは、個人の内面の問題を捉えるというよりも、すでに取り返しのつかないものになってしまった過去という時間全体と対峙することだ。過去のふるまいがどれほど軽薄なものに見えるとしても、その意味合いはひとりで担いきれないほどに重い。時が経つほど重みを増して迫って来る。
 過去とは、すでに取り返しのつかなくなった経験のすべてだ――だがそれでいて、つねに自身へ影響を与え続けるという意味で、決して過ぎ去ろうとしない。
 過去の取り返しのつかなさから、手当たり次第に糺すようにかつての甲斐性のなさを後悔したり、はては自身の行いを否認したりし始めると、これから先の生きていくあてがなくなる。���部をいくら掘り起こしてみたところで、行き着く先には空っぽになった頭だけが残る。置かれている事態が慌ただしくなればなるほど、わが身を、つまりは過去を掘り尽くそうとする悪循環に、なぜ向かってしまうのだろう。過去への悔いだけが必然のように残り、結局いま生きられる場からは逃避することになるのに。
 それにしても、何の気なしに「空っぽ、空虚」という言葉を使っていたが、人間が文字通りの意味でそんな状態にあることはほとんどない。ここには誇張というか嘘くささというか、言葉の詐術がある。そもそも空虚であるならば、こうして言葉を費やそうとすら思えないだろう。
 外部からの刺激に対して身体が受動的になりすぎると、その代わりに精神が騒がしさでいっぱいになって方向が効かなくなる。そしてそのまま疲弊する――状況に対して能動的に振る舞うことができず、身体の受動性が窮まったすえの無気力といったらいいのか、精神的な不安定さの要因は所詮そんなもので、その状態をさし当り「空虚」と名指したまでだ。個人的な問題に対しては、とにかく目の前にあることを片付けて、少しずつ体験を積み上げていくほかない。いつもきっと、そんな凡庸な結論に達する。しかしその当然のことが、私には難しかった。
(240822)
 ふと、いま読んでいる小説からこんなフレーズが眼に入る。ここでは「後悔」という言葉が、謎めいたものとして示されているようなのだ。
《「車に乗って高速で走っていると、ときどきちらっと視野をかすめて消える美を発見しますからね」とジョナス・メカスは映画で語った。「ところで美しさとは何でしょうか?」形式的な挨拶もなく、ウルが尋ねた。「美しさとは後悔することです」と彼が答えた。形式的な挨拶はなかった。彼らは死ぬ日まで一度も会ったことがなく、知り合いでもなかった。偉大なる今日、》  ――ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』
 作品冒頭、女性は目を覚ますと自身の記憶をすべて失っていることに気づく。メカスの訃報が載った新聞から、いまが 2019 年 1 月だというおおよその日付だけは確認できる。しかし、三つに分かれたそれぞれの章では時制や場所、人称が混成していくため、現在時の具体的な日付はあまり重要ではなくなる。不明瞭になった境界で、彼女(たち)は書く。流れ続ける言葉のなかで舞踏する、声とイメージ。
《いつの間にかウルの手はひとりでに文を書きはじめた。自分の手から出てくる文章を、ウルは見知らぬ、驚異的なもののように眺めた。頭の中はほとんど空っぽだが止める方法はほとんどなく、ウルは書きつづけた。(…)その日、ウルが書いた最初の文章は、彼女があるとき受け取ったはがきに書いてあったものだ。美しさとは後悔することです。意見、方向、希望、意志、意図、信念、主義を持たずウルは書きはじめた。(…)おお、私は何になるのか? その日の夜ウルは存在せず、ウルが書く文章だけがあった。(…)その夜ウルは書きはじめ、書きはじめることを永遠に止めなかった。生きるために書くという言葉は事実だ。言葉は生に先立って歩み、そうやって生を発明してゆくのだから。そうでなければもうこの先には空っぽの時間という形式が残るだけだろう。(…)ただ遠くにだけ、ウルはいた。もしもいつかこの文が完成するなら、ウルはこれを遠くで書いたといえるだろう。遠くで、自分自身をも先取りして。》
 言葉は逸脱していく。このまま危うく「自分と向き合う」つまらない文章を書き続けるところだったよ。立たされている情況に対して「空虚」という言葉を粗雑に使うことを許しながら、それを克服するために何を「すべきか」を、何を「してはいけない」のかを、書き出してしまいそうだったよ。言葉は逸脱していく――書くことの次元においては、「〜すべき」という義務や「~するな」という禁止、そしてもしかしたら「〜したい」という願望からも無関係に。
 自身を省みるように書くのではない、さらにまた書くことを単なる経験の代替として行うのでもない。現実に対して強度を持ちながらも軽やかに動く言葉は、そのどちらからも生まれえないはずだ。ある意味では「空っぽ」になれないから、こうして書いている、しかし空っぽにならなければ、書くことはできない。
 どこへ行くか分からない言葉に導かれることの、苦痛と愉しみ。
(240824)
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mninmt · 1 year ago
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ロブ=グリエの映画について
いつだったかヌーヴォー・ロマンについて冊子を作ろうと思っているという話を友人から持ち掛けられて、それならロブ=グリエの映画なら観ているからと紹介文を書いたのだが、残念ながらその件はなくなってしまったらしい。せっかく書いた文章なので載せたい。
『不滅の女』 "L'immortelle"(1963)
異国情緒溢れる音楽と叫び声から始まる、その時点で、なんだかこれからすごい映画が観られそうだ!と思わずにはいられない。メーキャップのはっきりとした、目力の強い女性(フランソワーズ・ブリヨン)が、まるで“死んでいる”かのように横たわっている。窓際でじっと外を眺める主人公(ジャック・ドニオル=ヴァルク)は終始、目に光がない。斜めの線が意識されたような完璧な構図と柱のように立っている人々。またその人々の視線を再現するようにゆっくりと横移動するカメラワーク。何度も同じようなシーンが差し込まれるように思えるが、すこしずつどこかが異なっている。ジャンプカットで物語はどんどん進んでいくが、時系列はめちゃくちゃで、今まで観ていたものはいったいなんだったんだろう…?と思わず頭を抱えてしまう。響く虫の鳴き声と、船のエンジンの連続音が不穏な雰囲気をかもしだす。“夢に見たトルコ”で起こしてしまった事故に憑りつかれ、妄想を続けるうちに、主人公は女性と自分を重ねてしまったようだ。終盤、窓にカメラが近づくシーンで、主人公の視線(主観)がはじめてカメラワークによってあらわされ、映画を観ている私たちも主人公と重なり、もうこの物語から引き返せなくなるのだ。
“夢に見たトルコ”…ボイスオーバー「夢に見たトルコで 異邦人のあなたはさまよう 偽の監獄や要塞に デタラメな物語 もう引き返せない 逃げようとしても偽の船しかない」
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『ヨーロッパ横断特急』 "Trans-Europ-Express"(1966)
題名の通り、ヨーロッパ横断特急に乗り込んだ一行は、同じく乗り込んでいたジャン=ルイ・トランティニャン(本人役)を主人公に、ノワールものの映画製作をしようと、脚本をレコーダーに録音している。あらすじはさておき(!)、こんな格好いい映画を作れるんなら、こういうのずっと作ってよ!と思ってしまうほどには、ロブ=グリエ節が他の作品より薄め(といっても拘束趣味は全開)である。前作の『不滅の女』の東方正教会やモスク、脚本した『去年マリエンバートで』での洋館のように、本作においてもそういった、ある種、荘厳なロケーションでのシーンはお得意であるものの、匿ってくれるギャルソン(ジェラール・パラプラ)の部屋の窓や、パリ東駅というロケーションは、少年らしさ(また少年たちの憧れる格好よさ)を感じられて楽しい。ラストのチャーミングさも必見。
以下余談ーー。
昔は一番つまんないよ~と思っていた作品であったものの今は一番面白いと思えて、当時ロブ=グリエの映画作品の物語の大半を、わけが分からないまま、だけれど映像のアバンギャルドさやエロティックな雰囲気を楽しんでいたものを改めて観て、しつこいくらいに趣味嗜好を提示され、こんなんばっかやな…と思っていた時に、本作はその"ロブ=グリエ節"が抑えられていて、より一層のこと面白く観たのだった。
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『嘘をつく男』 "L'homme qui ment"(1968)
同時期の日本には、勅使河原宏が阿部公房の小説を映画化したものがいくつかある。それらの音楽(ほぼ効果音といってもよい)は現代作曲家の武満徹が担当しており、非常に特徴的なものとなっているが、ロブ=グリエの作品の多くもミシェル・ファノという作曲家が担当していて、その音響効果が非常に絶大なものになっているという点で、勅使河原の作品たちを思い起こされた。また酒場のシーンで、客達がカメ���目線で次々と話す様子は、ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』を彷彿とさせ、常連の集まるただの酒場が裁判所にでもなったかのように、観ているこちらを緊張させる。そして女性をオブジェクトとしてしか扱わない、(ロブ=グリエの)大好きな目隠し遊びのシーンの長いこと長いこと…。
本作品は主人公(ジャン=ルイ・トランティニャン)の語りで映画が進んでいくので、他の作品よりも物語がわかりやすくはあるのだが、タイトル通り“噓をつく男”の語りであるので、わかったところで…という気持ちにはなってしまう。村の英雄ジャン・ロバン(Ivan Mistrík)の親友ボリス・ヴァリサだと彼は名乗るが、誰も信じちゃいないし、映画の途中でボリスの名の書かれた墓が写っていたり、知っているはずの医者に、初めましてと言ったりする始末。噓をつきながら多くを語るこの男が、結局のところ何者なのかはまったく明かされず、最初のシーンへ戻るこの無理矢理な円環構造に驚くだろう。
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『エデン、その後』 "L'Eden et après"(1971)
始まった瞬間から赤青白…とゴダールの『メイド・イン・USA』や、小津の『お早よう』のように、色彩による主張が眩しい。主人公のヴィオレット(カトリーヌ・ジュールダン)のファッションが絶妙で、白シャツに黒のセーター、プリーツのミニスカートは赤を選びたくなりそうなところを青に。それと黒のロングブーツを履きこなしており、非常に可愛く参考にしたいのだが、ペイズリーのサテンワンピースは、それで街歩くの!?とびっくりするくらい短い。下着の赤い色にも、この作品の色のこだわりを感じるほどだ。そして、ギャルソンでさえも迷いそうな、モンドリアンルックで、幾何学的な雰囲気のカフェ、エデン。ヴィオレットたち演劇サークルはここをたまり場にしており、センセーショナルだが、ほぼお遊びのような演技をして暇をつぶしている。もしこんなお洒落な(���笑しな)コンセプトのカフェがあるのなら(襖みたいに壁が稼働したり、鏡張りだったり)、絶対にくつろげる雰囲気ではないので、演劇を試みるにはもってこいの場所だろうから、たまり場になるのもわかる。中盤の巨大工場のシーンも含め、観ているうちに『エデン、その後』“ごっこ”がしたくなっていく(!)。
一体、どこからどこまでが彼らの妄想で、演劇の設定で、“幻覚”なのか“現実”なのか、果たして謎の男Duchemin(ピエール・ジマー)の生死は?作中の「エデンとその客達がそう見せかけているのか」という言葉通り、あれさっきみたような…というシーンやモチーフが回収されていきラストに繋がる、ミステリー/ドラッグ/トリップムービー!
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『快楽の漸進的横滑り』 "Glissements progressifs du plaisir"(1974)
快楽の漸進的横滑り(ぜんしんてきよこすべり)。いちばん口に出して言いたい邦題。当時はこの邦題の意味の分からなさと単語そのものが魅力的で、早く観たくて仕方がなかったものの、年代の古い順に観るくせがあり、わざと後回しに、5作品目でやっと観たとき、初っ端からロブ=グリエの大好きなモチーフたちがたたみかけられ、興奮したのを覚えている。今回改めて観ると、その露骨さには思わず笑ってしまった。“主題は割れた瓶”だという始末。他の作品にも再三使用されている、登場人物たちがカメラ目線で正面を向き、首を横に振ったのち、また正面を向くといったようなカットの他に、本作には手による表現も追加されており、その点は目新しさを感じるし、アーティスティックな画面作りには、よっ!真骨頂!と言いたくなるが、正直なところ、こんなのレズビアンもの好きの変態の妄想じゃん…!とうんざりしてしまうこともしばしば。神父(ジャン・マルタン)が気持ち悪すぎて泣けてくる。ミシェル・ロンズデール(判事)の十八番とも言える呻き声(あるいは叫び声)をあげる長回しや、みんな大好きジャン=ルイ・トランティニャン(刑事)のどんな役でもこなしている様子は見もの。“類似・繰り返し・置き換え・模倣”、とロブ=グリエの手法が抜群にきいた官能アート作品が観たい気分のときにおすすめしたい。
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『危険な戯れ』 "Le Jeu avec le feu"(1975)
美しい娘カロリナ(アニセー・アルヴィナ)との近親相姦的妄想を繰り広げながら語る父や、娼館に来る様々な客の役をこなすフィリップ・ノワレの気持ち悪さたるや…!娘のみた、いくつかの悪夢の中の一つである、太った男に身体を洗われる夢、もはや恐怖である。出演女優たちは惜しげもなく服を脱いでいくのだが、それぞれの身体すべてがマネキン人形のように(腰から脚にかけてのラインや胸の大きさなどが)似通っていて、ロブ=グリエは、フェリーニのそれとはまったく違った美学で女性を見ていることが感じられる。
女たちの名前の書かれた寝室のドアを開けるたびに繰り広げられる、異色なプレイの数々には思わずカロリナもあんぐり。アニセー・アルヴィナのあの口元の緩さ加減はそれとして魅力的である。コメディタッチなシーンも多く楽しいし、広い館のたくさんのドアをすべて開けてみせてくれる、ゲーム脳的思考の持ち主(RPGではアイテム入手のために、部屋という部屋すべてを確認しないと気が済まないたち)には嬉しい映画。
『囚われの美女』 "La Belle Captive"(1983)
ルネ・マグリットの同名作品『囚われの美女』を含む作品群に着想を得つつ、ロブ=グリエの好きなモチーフやテーマがたくさん組み込まれている本作品を観ていると、ロブ=グリエって本当にこういうの好きだね…!と思わざるを得ない。割れたガラスと赤い血(のような液体)や、拘束された女性が横たわる姿は必ずといってい��ほど出てくる、もはやそれらを待ち望んでさえいる。
主人公のヴァルテル(ダニエル・メスギッシュ)が、聴く音楽といえば、シューベルトの『死と乙女』か“とらわれの女”だと言うのだが、劇中に流れている曲は弦楽四重奏曲第15番で、『死と乙女』と呼ばれている曲(弦楽四重奏曲第14番)とは異なるし、“とらわれの女”という曲も実在しない(弦楽四重奏曲第15番が“とらわれの女”と呼ばれているといった話も聞いたことがない)。また『囚われの女』といえばプルーストの『失われた時を求めて』の第5篇だが、これも劇中でプルーストの名前は出されるものの、この文学作品を映画化したというわけでもない。アケルマンにも『囚われの女』という作品(これはプルーストに関連する)があるが、この劇中でも、シューベルトの楽曲が使用される。こうして“囚われる”という言葉になんらかの様々な事柄を想起し、この物語にアプローチしていこうとする自分もロブ=グリエに“囚われ”てしまっていることには間違いない…。
毎度のことながら、ラストに向けて畳み掛けるように、幾重にもかさなった構造が明かされていくのだが、この題名の通り“囚われて”いるのは美女なのだろうか?とまたしても思考が止まらない。ロブ=グリエのフェティシズムに、心霊と夢と退廃的な世界観が足され、繰り返し挟み込まれる象徴的な映像にドキ!とさせられながら楽しめる作品だ。
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tokyomariegold · 3 years ago
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2022/11/19〜
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11月19日 スーパーの半額のお豆腐の賞味期限が、11月20日日で「?」だったけれど、もう11月も19日だったとは!
今日は税関スタンプラリーのために横浜へ行った。横浜へ行く道のりや、横浜の街の位置感覚を少しずつ覚えてきている。新しい街の事を少しずつ知ることができている感覚が、久しぶりで新鮮で楽しい。 横浜は人が多かったけれど、海が広いからか、何かゴミゴミした感じがしなくて、ずっと開放的な気分でお散歩ができた。
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カスタムくんファン(?)が思ったよりも多くて、スタンプラリーに参加してせっせとポイントを巡っている人たちを見て焦ってしまい、あまりスタンプポイントの施設をゆっくり見学することができなかった。また海上保安庁の博物館に行きたい。あと、山下公園の近くのシルク博物館が気になったのと、山下公園入り口のインド取水塔ご工事中だったので、次は見られるといいな。 なるべく芝生を歩いて、犬やシャボン玉をする親子やクラリネットの練習をするおじいさんに混ざって歩いた。 横浜はデートスポットのイメージがあって、1人で出かけることにどこか不相応な気後れがあったけれど、午前の時間だったからか、山下公園ではお婆さんたちがお弁当を食べたり体操をしたりしていた。 赤レンガではお祭りが開催されていて、たぶんその運営スタッフさんが、赤レンガ倉庫の際で海を向いて、たぶん崎陽軒のお弁当を食べていて正解な感じがした。
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イチョウもとても美しく黄色く映えていた。
ふらっと1〜2時間お散歩だけした横浜。 こんな感じでたまに訪ねて、少しずつ街を知っていきたい気持ち。苦手意識が薄れてきている!
今日が返却期限の本を返しに図書館へ行き、乗り換え駅で切らしていた化粧品を買って、フィルム現像を出して、早めに帰宅できてえらい。
スタンプラリーを巡ったゴールでカスタムくんキーホルダーをもらったよ! ゴールの税関で職員さんにスタンプラリーカードを渡すと「キーホルダーとカスタムくん、どちらが良いですか?」と訊かれ「カスタムくんキーホルダーが良いです!」と答えてしまった。 昨日からちょっとしたディスコミュニケーションが続いているな…
サンタクロース村は、ステージとモニターが設置されていて、もうすぐクリスマスシーズン開幕のイベントがあるみたいです。
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11月20日 雨が降りそうないい天気で、雨が降ってからはダメダメだった!予定を済ませて、掃除をして、フィル��現像をとりに行く。お花を買う。 少しずつ増える手荷物と折りたたみ傘で、腕も手も塞がるけれど、帰りにスーパーにも寄ってしまう。 焼魚が食べたい日々で、でも電子レンジ調理が限界のところで、レンジ焼き魚を作れる箱をamazonで見つけたので買ってみた。夏休みの自由研究みたい。今朝届いていた事をスーパーで思い出して、生魚を買ってみようとするけれど、もしかして塩とか酒とかも必要?と不安に色々考え始めているうちに、目を付けていた半額の鯖の切り身たちが、目の前でどんどん他人のカゴの中に入ってなくなってしまう。 もう少し余裕のある時に生魚を買おう、と、コンビニの焼き魚を買いに行くと今日に限って欲しいお魚がない。 もう一度スーパーへ戻り、さっき買ったものを片手にレトルトの鯖を持ってレジへ。 今日はこのスーパーで10%引きクーポンの配布だったので、ものすごく姑息な手段で2枚クーポンをゲットしてしまった感じで落ち込んだ。雨の日はダメだ。
これは私が摂食障害だから、スーパーとコンビニを行ったり来たりして、これしか食べたくないものに取り憑かれてこだわってしまうのかしら。みんな、鯖の塩焼きが食べたいけれど、赤魚の煮付けで妥協しているのかしら。
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昨日の税関スタンプラリーを終えて、先の楽しみがすっかり分からなくなってしまった。 インスタグラムをみると、なんと!マンスーンさんも昨日このスタンプラリーに参加して、カスタムくんを手に入れていた!!
お花屋さんで、男性のお客さんが「紫の花で…」と花束のオーダーをしていたので、担当カラーが紫の推しに送るのかな、と思った。
11月21日 気がついたら16時だったし、とても居残りをしてしまい、逆にハイになって疲れがわからない。明日は研修なのに。
でも、その中でも、学生時代に憧れていた友人が目白でオフィスを構えて、そこで不定期でブックカフェを開いている事を知る。 近々目白に行く予定なので、場所を聞いてみようかメッセージをしようと迷い中。 こないだ夢に出てきてから、会いたい訳でもなく、ただいたずらにメッセージを送ったりしたい!と思っていたので、ちょうど良い。
お手洗いで、おしゃれな方から「黒の革のフレアスカート履いたりしない?」と、状態が良ければあげるわ!と言ってもらう。
1期下の方から弘前のお土産をいただく。 貯めたマイルで、ランダムに選ばれた旅行先へ行ってきたとのこと。ちょっと気になるので調べてみよう。
本の電子化の注文をして、配送用の段ボールを注文した!えらい!
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11月22日 東京で研修。やっぱり東京は暖かくて、室内は暖房がよく効いていて、ぼーっとしてしまう。頭を頑張って稼働させて、目と脳が痛い。 懐かしい方々に会えて、とっても笑顔になったり、もう2度と会わないんじゃないか、な、全国津々浦々な方々に会って、名前を伝え合ったりして顔が疲れた。
絞り出す会話を、本当に絞り出しています!満載でやってくる人もいれば、スマートにやり過ごす人もいて、私は何も絞り出せずおどおどしていた気がする。
前の職場の方々にご挨拶をした。 みんな覚えていてくださっていて安心して、自分の苗字が珍しくてよかったね、と思った。 手土産に、と近江屋洋菓子店でマドレーヌを購入。平日の朝だからか、たくさんの種類のパンがあって、目玉焼きの乗ったラピュタみたいなパンがあるな〜と思ってみてみると“フレンチトースト”とプレートが立っていた。
研修の帰り道、とにかく疲れていて、1期下の方と上野公園までお散歩して帰った。とにかく疲れていたのに夜の東京さんぽがとても楽しかった。 東京で働きたい!と改めて思ったり、やっぱりこのままでいいのかも、と思ったり、クリスマス何しよう、と思ったり、でもとにかく疲れていて、自撮りをして適当にSNSを更新したりした。
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11月23日 雨だ〜と、窓を少し開けて二度寝でうとうとしながら、たぶん現実のお隣さんの会話と、自分の夢の間を行ったり来たりした朝。 お隣さんは2単語しりとりをしていて”◯◯の××”みたいに意味の通じるワードでしりとりを続け“◯◯のやかん”と言ったところで「それはなしでしょ〜!」と笑い合っていた。私は、そもそも“ん”がついてるじゃない!と思っていた夢。
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昨日の疲れを引きずって、たくさん薬を併用して外に出る。久しぶりにお友達に会えてとっても嬉しかった!お休みの日に誰かとお茶をするのが、とても久しぶりだった気がする。 嬉しくって、昨日の研修がとっても疲れたことから将来の不安までたくさん話してしまった。 友人は、私のコートとワンピースのボタンを付け直しながら話を聞いてくれた。お茶をしたデパートのクラシカルな喫茶店もとても良くて、注文したシナモンティーのビジュアルが2popだった! ボタンを付け直してもらったお礼に、ナインチェサブレを旦那さんと2人分渡すと、旦那さんはこうゆうキャラクターを模したお菓子を食べることに抵抗がある方だ、と教えてくれた。 それと、彼女たちは昨日が結婚記念日だったことを私が思い出し、よく覚えているな!と言ってくれた。 やっぱり今でも、友人が誰かと結婚して暮らしていることが信じられない時がある。
定期入れに昨日の研修でもらった全国津々浦々の名刺を入れっぱなし。愛知とか新潟とか青森とか。
年末になるとどうしようもなく寂しくなるのは、友人も同じらしく、誰かと暮らしたりすれば解消するのか?と思っていたのは、私のただの他力本願で、結局誰かといても気分が落ち込んでその相手に勝手に絶望するところでした!危ない〜。
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11月24日 2回連続で職場の食事会をドタキャンしようとしている。もう気持ちがダメでちゃんと人と接するモードを保てる自信がなく、もちろん食事もできないし、お部屋の掃除をして寝るのが1番!の気持ち。 こんなにもドタキャンをしまくっても、有効的モードで社会でいられるようになれば、今後もやっていける気がするし、何より自分をダメにしてはいけない!誰か無理しないでいいよ、って言って!という気持ち。
髪を切ったら2週間、ネイルをしたら1週間は自分の体にしっかり馴染むまで時間がかかる傾向。
昨日久しぶりにアボカドを、ちゃんと皮を剥いて包丁で輪切りにして食べたら、それだけで美味しかった。
11月25日 上司がブラックフライデーでダイソンの送風機を買った話をしていて羨ましい。
今日の回はお断りしてお家で掃除と電子書籍化する本の配送準備をした。 いけなくなった事を伝えると「わかりました!理由書いてもいいですか?」と、とっても明るく対応してくれて少しつらかった。 理由はないので、ちょっともうダメで…、と本音を伝えた。 午後になって「予定がないのなら、少しだけ、飲み物一派だけでも行きません?車で送りますし!」と言ってくれる。ちゃんと断って、今、おうちで日記を書きながらお香を眺めている。
なんというか、生まれつき元気がない人と生まれつき元気な人がいるよね〜、と思った日だった。
革のスカートをもらってくれないか、と言ってくれた方から黒のスカートをいただく。 切りっぱなしのフレアスカートでかわいい!ただデニムの上から試着しても腰下まで下がってしまうので「あ〜サイズがだめか〜」となった。でも何かしらの工夫で着たい!と思い、いただいて、帰り道でベルトを買ってみた。それと落としてしまったBluetoothイヤホンも買ってブラックフライデーをした。 「タンスの肥やしなので〜、ありがとう。」と、人に服をあげられる豊かさって良いな。 私も次は服を売ったりする準備をしたい。
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blue-aotan · 3 years ago
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ハロー(´ー∀ー`)2022.8.26
続!!!朝方4時の怪奇音事件!!
カラカラカラカラ音で目が覚めました。
ナイロンの上で羽のある虫が暴れてるような音でした。
ゴキっぽい…でも音の出所がわからない…
しかしこの音はゾッとする…
もう自分では対処できない
お手上げ!!!
ということで助っ人参上←
1時間程、音の出所を探っていましたがわからず。
最終的には私の耳と勘で突き止めました!紙袋の中が怪しかったので指摘して見てもらったら、でかいゴキが中でのたうち回っていたそうです←
ゾッとする話、認定です😱😱😱
いらない物を捨てようと思いましたよね←
(私の紙袋ではなかったんだけども
この前ブラックキャップ置いた気がするんだけどな…また追加しとくしかなさそうです←
最近喉に口内炎ができて唇にもできていて、かなりつらいです。
元々口内炎ができやすい体質で、ビタミン剤を長いこと服用していたけどそれでも発生するし、ここ数年は鉄のサプリを飲むようになってからは殆どできないようになっていたのですが最近サボっていたせいかまたちょくちょくできるようになってしまいました…
鉄サプリを忘れずに飲もうと思います😓
口内環境が悪いと食欲もなくなるしご飯も美味しくないし1日がブルーになりますよね。
6月から歯医者に通っているので、口内環境を整える気持ちが日々高まってきております
( ^ω^ )
最近��メンタルヘルスを保つためになるべくのデジタルデトックスを心がけています…
ゲームもデジタルやん←
ここ何週間かはゲームもしてませんが、完全デジタルデトックスは難しそうですがそれをできたらかなりエネルギーが戻りそうだなと感じております。
ということで動画活動からも遠ざかっております。
突然ですが自分の話し方や声への拒絶反応が今ものすごいのですよね←
本当に突然やって来たこの症状。
今までで一番重症かもしれません。
とにかく落ち着くまではお休みしようと思います。
最近、姉の言い間違いや勘違いが激しく
(前から激しいのですが←
これはブログネタやな!という出来事が立て続けにあったので勝手にご紹介しようと思いますよ〜
誰にも言うなと言われていますが、そんなのかんけーねー!言っちゃうのが私それが私←
3姉妹のグループトークで全部やらかしてるんですよね。かなりの頻度でやりとりしてるんだけども、毎回すごいぶっ込んでくるので私も次女もまたか〜みたいな感じなのです。
そして私や次女が打ち間違いをしようものなら、これ好機‼︎と言わんばかりに嬉しそうに揚げ足を取ってくる(必要以上に)そんなお茶目な長女なのですよ、奥さん。
「暴れるは、喧嘩するは」
と来たときは
「暴れるわ、喧嘩するわ、だろ」
「は」て😂
そしてゲームの話になった時に「そのカセット持ってない」って言ってたのですが
カセットて😂
スーパーファミコンの時代で時間が止まってるよぅ←
「あおっぽくない」
「あおつほままくない」
と送ってきたり。
そんな変な文章になる度にいつも言うのです
落ち着け!!!
と😂😂
そして最近
「ちゅーるちゅーるちゃうちゅーる〜」
と送ってきました←
チャオなんですけど!!!
ちゃうって何やねん!
そしてまさかの姪っ子までも「ちゃうちゅーる」と思っていたようです
🤣🤣🤣
さすが親子なんよ←
そんで姪もかなりやらかして大笑いしたエピソードをご紹介します。
次女と姪っ子ちゃんが帰省したので、皆でお出かけしよう!ってことで太宰府天満宮・遊園地へ行ったのですが、そこで緑のもみじがぶわーーーっと生い茂って綺麗だったのです。
それを見た姪が
「うわーー綺麗なよもぎ!……ん?よもぎ?」
と言ってて私は笑い死にしました🤣
もみじだろ!
とそこはツッコミましたよね←
自分でも言った後に(あれ?よもぎじゃなくね?)ってなってるところがまた面白かったです←
面白いんだよねえ〜色々やらかしてくれるので今後も姉と子供達に目を光らせて←いこうと思いますw
てなことで今月も色々と映画を観たのでそちらの感想を薄く書いていきます!
「ポゼッション」
若かりし頃のジェフリーディーンモーガンさんがお父さん役で出ています。娘がとある箱と出会い、その箱の中に封印されていた悪魔を呼び起こしてしまって取り憑かれるというホラー。
悪魔だからエクソシストに頼らなくちゃってなるけど、そこはマイナーな悪魔祓いの人を頼るみたいな感じで、その悪魔祓いの人の儀式がちょっっと笑える感じだったのよね←
ホラーとしては私はなかなか楽しめました。
「ミスティック・リバー」
これは結構ミステリー作品としては有名な方だと思うのだけど、気になったので鑑賞。
なんかさー、犯人はすぐ分かったしケビンベーコン様が出ててウキウキしたけどストーリー的には微妙だったのよね。
子供時代から始まって、3人組で仲良かった男の子たちの一人が警官と名乗る男性2人に拉致されて監禁された後に解放され年月が経過し大人になり家庭を築いていたのだけれど、ある日その3人組の一人の娘が殺されてしまうのよね。
そこで犯人は誰なのか…ってことになるんだけども、昔拉致されていた子はかなりの心の傷を負ってしまって精神的に不安定な部分があり、その娘が殺された事件と繋がっているのかわからない事件が同時進行しており犯人はいかにもその拉致された男性だというとてもわかりやすいミスリードの中展開されいく物語は少し退屈でもあり←
観終わった時にすごいモヤモヤしてしまいました。3人組の仲はその拉致事件によって既に引き裂かれていたし、その中の警官だったケビンベーコンは最後殺しを黙認したということなのでしょうか。
娘の父親の嫁も、最後何を言いたいのかよくわからん←
人を殺してもあなたは間違っていることはしていないし、この町のボス的なこと言ってたけど意味わからーんで私の感想は終わりましたww
「プラットフォーム」
設定は面白かったと思う。主人公は自ら進んでこの施設?にやってきており、この施設ではたくさんの階層があり上から巨大な台座に乗った食事が運ばれてきます。
その食事は上の階層の人たちから順番に食べることができ、下の階層の人達は残飯を食べることしかできないようになっています。
そもそもその台座はどのように運ばれているのかもよくわからないシステムだし、その施設の人達は何のためにそこにいるのかもよくわかりませんでしたw
各フロアには2名がいて、ルールを破れば焼き殺されるとかそんなシステムだったと思う。
1ヶ月ごとに階層も相棒も入れ替わり、下の階層になると残飯すらも残っておらず空腹や精神崩壊などをきたして極限状態での人間模様みたいなドラマがあったりなかったり←
主人公と信心深い人が台座に乗って下の階層の人たちに自分の分だけしか食べるな!と言って回るのは私としてはとてもいいことだと思いました。
だけど結局人間というものは次の階層で下になったら最悪だから上の階層のうちに食べれるだけ食べておけ、と上の階層の奴らに散々やられたからやり返せ、と必要以上に食べるのですよね。
これは仕方ないことだと思うし、通常の心理だと思います。
こんな極限状態の中でお互いを思いやることなんてできないし、殺人だって起こるし、この施設ではわざとそういう状況を作り出しているのですよね。
何のためにかはわからないけれど、料理を作る側のシーンもあるので鍵はパンナコッタなんだろう←
結末は正直「?」だよねぇーん
「アヒルと鴨のコインロッカー」
こちらは小説を読んで面白かったので観てみました。映像化なんてできるのか?と思ったけれど、うまくつくられていました〜
小説の時はかなりびっくりしてしまいました。文字だからできるからくりというか、全く想像していなかったので「え!?」となりました。
そこを分かった上で観たけどそれでも楽しめましたね。
小説とは違う部分も多々ありましたが…河崎は自殺で死んだのに映画では病死だったのはどうしてでしょうか。
瑛太と松田龍平っていうのがまた良かったよね〜
小説の方が断然深いんだけども、映画も面白かったです。
「テイキングオブデボラローガン」
これは認知症のおばあちゃんがどんどん症状が進行して、めっちゃ怖いのよね。
裸で屋根裏のピアノの椅子に座っていたり←
夜中に庭を掘り起こしたり。
でもそれは実は認知症じゃなかったのよね〜ってホラーです。
終始ドキュメンタリー風なので、私はあまり好きではないホラージャンルではあるんだけども。
女の子を拉致して洞穴に逃げ込んで、岩陰で女の子を頭から丸呑みしていたシーンは笑ってしまいました←
ホラークラッシャーでごめんねごめんね〜←
「友罪」
こちらも瑛太さん。子供の頃に子供を2人殺害してしまっていて、その罪を抱えたまま町工場で働いているんだけども、そこで生田斗真と出会い友情と償いの中で葛藤していく人間ドラマです。
瑛太さんの演技が突出している印象でした。あの最後の表情なんか、何を伝えたいのか全然わからなくて、だけどそこが猟奇的でもあり人間的でもあり泣きたいのか笑いたいのかわからないそんな感情がぐちゃぐちゃな状態で生きているんだろうかと考えてしまいました。
結局見ている側も想像することしかできないんだけども、人殺しの心情などわかるはずもないしわかりたいとも思わないんだけどもかなり重い内容だったなと。
「アンユージュアルネイバー」
ストーカー殺人の話。この男の人が普通にカッコよかったww笑顔も素敵だし、変なことしなければ本当にただモテる男なのに勿体無い。
主人公の女の人と友人が、漫画みたいなキャラ設定すぎた。とてもわかりやすくて良きなんだけども内容はそこまでないホラーでした←
今年も残りあと4ヶ月となってしまいました。秋の匂いもしておりますが、残暑が厳しいので体調には気をつけて過ごしていきたいですね〜
今月は突然また閃輝暗点があり激しい片頭痛で気分が悪くなったこともありましたが、何とか楽しく過ごせてよかったです(´∪`*)
冬��クライシスコアリメイク発売に向けて、引き続き積みゲーを消化していきたいです☺️
(KH3も気持ちは再開したいけれど…!
無理せず我慢せず、心地の良い���とに集中していきたいと思いますっ
では今回はこれにて解散🎃
最後にエア鳴きの瞬間のアリス姫を載せておきます👸
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emi-sinema · 4 years ago
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すずは何故1人で東京に行ったのか
1)はじめに
 「竜とそばかすの姫」上映開始後からSNSやレビューサイトに投稿されている感想等を見る限り、本作の評価が分かれる最大のポイントは終盤の展開にあると言っても過言ではないだろう。
 批判の論点は個々のレビューによって若干異なるが、おおまかに言えば「なぜ、東京にわざわざすず1人で行ったのか、周囲の大人はなぜ1人で行かせたのか」だ。「まだ高校生であるすずを虐待親のもとへ1人で行かせるのは、大人としての役割を放棄しているのではないか」。
 また、「行政がまったく描かれておらず社会的な視野が欠けている、あたかも公助は助けにならないから自己責任で戦えと言っているようなものではないか」という意見もある。実際は何も問題が解決していないのに、あたかも美談のように描いている、というのである。
 これに対する反論もある。下記リンクの記事https://note.com/shimori/n/n548b50b3c30d(「SNSでの気軽な暴言と連帯表明への痛烈な批判」)はその代表的なものである。
 筆者のこもり氏は、恵の独白(助ける助ける助ける…)から、「恐らくもう何度も竜とクリオネの家庭は行政の介入を受けて」おり、それでも事態が解決しなかった、救われなかったのだろうと推測する。つまり、「一般的な正しいやり方では竜は救われてこなかった」のだと。
「よってすずは行かなければならなかった。自分自身の手で守り抜いて、抱きしめなくてはいけなかった。安全圏から通報をして終わってはいけなかったし、大人に任せてはいけなかったのだ。」「“問題が何も解決しない”ことこそが細田監督の誠意の表れだった。」と述べている。
 わたし自身の解釈は、同記事と全く同じではない(例えばわたしは、父親による暴力行為は描かれていないだけで、実際には行われていたのではないかと考える)が、同記事は本作を考える上で重要な視点を提示していると思う。
 「竜とそばかすの姫」に限らず、細田作品には「行政や福祉(いわゆる公助)に頼らずに自分で全て背負うことを美化している」という批判がたびたび寄せられるが、むしろ「公助からはじかれた人、疎外された人」にスポットライトを当てているのではないだろうか。その背景として、「公助がないがしろにされ、機能不全になった現実の世界」を、その中で生きる人の姿を、ありのままに提示しているのだ。
  一方で、同記事では、すずが合唱団の大人達を置いて、一人で東京に行ったことについては、「やや理由付けが薄いとは思う。せめて東京まで送るとか、手分けして探していたことにしてもいい。」とし「監督が訴えたいことを優先したためにやむを得ず展開が強引になってしまったのだとしても、私はその訴えに共感したのであまり気に留めていない。」と述べている。
 正直に言えば、わたし自身も、初めて本作を観た時には同じように考えていた。つまり「表現したいことを際立たせる(純度を上げると言ってもいい)ために、あえて不自然で強引な展開にしている」のだと。
 しかし、何度か本作を観直すうちに、本作の脚本、会話テキストが行き当たりばったりではなく、全体の構成を踏まえて考えられたものであることを確信するようになった。言葉で語らない、言外の描写で語る要素が多い分、切りつめられたテキストは、なくてはならない、またそのような形でなくてはならないという必然性を持っている。
 そうなると、逆に、ラストだけ訴えたいことを優先してリアリティラインを下げたとは考えられなくなった。作中で描かれてきたものを踏まえて、作品内の論理で説明できるように作られていると考えるようになったのである。
 実際、終盤に何が起こっていたのかを、わたしたちは把握できているのだろうか。たとえば、すずは何をしに東京に行ったのかを理解できているのだろうか。そこに勘違いはないだろうか。
 2)児童相談所の肩代わりをしに行ったわけではない
 すずが学校を発つまでの経緯を追ってみよう。
知と恵の兄弟が父親から虐待されていることに気づいた面々は、それぞれの知恵を出し合って、彼らが東京の大田区と川崎市の間、二つの高層ビルが見える場所であることを突き止める。
 合唱団の吉谷が児童相談所に電話をかけるが、すぐには向かえない、との返事。児相側の台詞は聴き取れないが、吉谷の相槌から考えると、ルールに従って48時間以内に確認するという趣旨なのだろう。「じゃあその間にもしものことがあったら」と、大人達がざわめく中、すずが「行かなきゃ」と飛び出し、合唱団の中井、喜多が追いかける。
 このやりとりを観ると、あたかもすずは、「児童相談所の救出が間に合わないかもしれないから、それよりも先に兄弟を助けに行った」、言いかえると「児童相談所の役目を肩代わりするために東京に行った」のだと捉えたくなる。
 確かに、着いて行った大人達2人、喜多と中井の頭の中にはそうした考えがあっただろう。���が、すずは本当にそう考えていたのだろうか。
むしろわたしは、「児相の代わりに救出に向かった」ことを前提としているために、すずが1人で東京へと発ったことが、不合理な行動に見えてしまっているのではないかと考えている。
 プロである児童相談所も、虐待が疑われる家庭を訪問する場合、基本的に1人では行かない。このことを製作陣が知らないはずはない(過去作の「おおかみ子どもの雨と雪」の序盤で、花の家を訪問する職員も2人である)。だいたい、時間がかかる児童相談所の代わりに早く兄弟を救出するという趣旨であれば、3人で手分けして探した方が良いに決まっている。兄弟の正確な居場所をすずたちはまだつきとめていないのだから。
 駅に向かう道の途上、中井はスマホの検索から飛行機が間に合わないことを告げ、車を運転している喜多は「じゃあこのまま東京?」と返している。この、「このまま東京」とは、この乗用車で東京に向かうことを想定した言い方だろう。すずをただ駅まで送るだけなら大人が2人着いてくる必要はない。少なくとも1人は一緒に東京に行くつもりだったと考えられる。
 その後、駅ですずを見送る際、喜多と中井の2人は「1人で大丈夫かな」「すずが決めたことだから」と会話している。これは、1人で行くことを決めたのはすずの意志であること、あの車内での会話から駅で見送る場面までの間に、どうやって東京に行くのか、誰が着いていくのか(ついて行かないのか)を決めるやり取りがあったことを示している。
 もちろん、すずも高校生だから、複数人で行く方が、兄弟を救出する上で合理的であることは理解しているはずだ(もちろん、いまさら、「大人達を巻き込むのは申し訳ない」といった理由で2人を置いて行ったわけでもないだろう)。
つまり、すずにとっては、そうした合理性よりも優先される動機があり、それは1人でなければ果たせないものだった、ということになる。(※1)
父親に画面を切断されて「ヤバいよ、あの子たち」「行って守ってあげなきゃ」というのは、遠くで虐待されている子どもを発見した大人達の目線であり、おそらくすずの目線とは少しずれている。児童相談所がすぐに迎えに行けないことは、すずが走り出す引き金ではあっても、東京へ向かう「動機」ではない。
思い起こしてみれば、最初に恵たちと通話した時点で、既にすずは「あなたのところに行きたい」と話しかけていた。最初からすずは恵と知の下へ行くつもりだったのである。
3)恵はすずに何をしてほしかったのか
 ここから、すずが東京に何をしに行ったのかを、竜とすず双方の視点から考えてみたい。
 本作へのよくある批判に、「結局、ラストシーンで生身の姿で会いに行くことを称揚するのであれば、ネットの世界を描いてきた意味がない」というものがある。
 しかし、この意見はラストシーンおよび、本作の趣旨を誤解していると思う。
 竜(恵)は、すずを「すず」とは一度も呼んでいない。東京の場面でも、常に「ベル」と呼んでいる。初めて画面越しに顔を合わせ、「私、ベルだよ」と言うすずを、恵は「そんなわけないだろ」と一蹴するが、あくまで「そんなわけない」であり、「そんなことどうでもいい」とは言っていない。竜にとってベルはかけがえのない存在なのである。
 すずがUの中でアンベイルされた状態で歌った後、恵は「本当にベルなのかな?僕はまだ完全に信用したわけじゃない」と言いながらも、すず側との通信を回復させている。この「完全に信用していない」とはどういうことか。「すずがベルのオリジンである」ことは先ほどのライブから明らかであり、そのことに疑いがあるわけではないだろう。だからこそ通信を復活させたのだ。
 完全に信用していない、とは「さっき画面越しに自分に話しかけてきた女」がベルのオリジン、いわゆる「中の人」であるだけでは不十分だということである。なぜ不十分なのかと言えば、往々にしてAsとオリジンには乖離があるからだ。恵自身と「竜」の関係がそうであるし、もっと言えば、彼の父親がインタビューで見せる「立派な父親像」「母親がいなくても仲良く暮らしている家族像」と家の内側での実像との乖離がそうである(本作が、Asとオリジンという概念に、単にネット上のアバターと「中の人」を超えた意味を与えていることがうかがえる)。すずがベルのオリジンだとして、すず自身の内面がベルと同じであるとは限らないのである。
 これは、駅前の場面で、しのぶが「すず、ベルだろ」「ベル、すずなんだろ」と、ひっくり返して2回言ったのとも呼応する。これは「イコール」ではなく、「矢印」の関係で捉えるとわかりやすい。しのぶは、単にベルのオリジンがすずであると言っているのではなく、「ベルがすずであり、すずはベルであるという」双方向の関係について述べているのである。
 すずの姿で歌っただけでは、一方向の関係(ベル→すず)しか恵に示せていなかった。見方を変えれば、恵にとって、ベルをベルたらしめているもの(アイデンティティ)が「歌」ではない、ということである。恵にとってベルはただの「歌姫」ではないのだ。
 しかし、恵は接続を復旧させ、すずに自分たちの居場所を教えようとする。父親に妨害され、通信を切られてしまったが、恵はすずに何を望んでいたのか(もちろん児童相談所への通報ではない)。
 ラストの再開シーンで恵が言う「来てほしかった」とは、正確に言えば「ベルに来てほしかった」である。すずの「わたしはベルだよ」「あなたのところへ行きたい」という言葉に賭けたのだ。
 つまり、すずは、ボディシェアリングも視覚の制御もない、現実の世界で「ベル」として恵の下に現れなければならなかった。
  さて、接続が復旧し、「ベル、見える?」と知が問いかけたにもかかわらず、すずは最初に仲間たちの方を振り返り、しのぶに抱きついていた。初めて本作を観た時、わたしは「喜んでいる暇があったらさっさと知に返事しろよ」とやきもきしたのを覚えている。初めから兄弟から目を離さず、返事をしていれば、居場所を聞き出すのも間に合ったのではないか、と。
 しかし、この失態ともとれる描写は、すずが皆と一緒である限り「皆に見守られているすず」という文脈から逃れられないことを示しているのではないか。友人たちや聖歌隊の大人達が見ているのはすずであり、彼(女)らにとって、恵と知は「見ず知らずの虐待されている兄弟」でしかない。
 駅へと向かう車内で、すずが1人で行く決心を告げた理由のひとつは、ここにあるのではないかと考える。「可哀想な虐待されている兄弟を、児童相談所の代わりに救い出す」という大人たちの文脈の中にいる限り、すずはベルとはなりえないのだ。
 兄弟の居場所をみんなの力で推理する間、すずは一言も発していない。この時すずは、自問していたのではないだろうか。恵が何をしてほしかったのか、自分は何をすべきだったのか、これから何をすべきか。
 児童相談所や大人達が考えている救済が、外的ないしは制度的な救い(またはその代替)であるのに対して、すず(ベル)がそれに優先して恵と知に届けたのは、ひたすらに内的な救いである。なぜそうしたのかと言えば、それが自分にできることであり、自分にしかできないことだからだ。
 恵が、すずをベルと確信したのは、すずに抱きしめられた瞬間である。「心のそばに」の中で、ベルは竜に口づけしようとするが、竜が固く目を閉じたのを見て、竜を抱きしめ、ただ頬を寄せる。侵略的でない愛、自分を尊重して寄り添ってくれる愛。それを体現するものがベルなのである。
 4)この映画の「やり直し」とは何か
 しかしここまで述べたことは、あくまで恵(竜)の望みという観点から導き出された答えであり、いわば、「すずが1人で行った意味」のA面でしかない。
 実際、喜多と中井がこの理由だけで納得したとは思えない。亡き友人の娘、我が子のように見守ってきた少女が、見ず知らずの子どもたちのために危険な道を選ぼうとしている。彼女の母親と同じ道をたどってしまうのではないか…と考えるのが自然ではないだろうか。
 実際、本作の感想を観ても、こうした批判は少なくない。自分がそれによって深く傷つけられ、苦しみ続けてきたはずの、母親の自己犠牲的行動をなぞらせ、それを美化しているのではないか、と。
 だがここに、本作を観た人の少なからぬ割合の人が陥っている勘違い、誤解があるとわたしは考えている。
 それは、すずは母親の行動をただなぞったわけではないということだ。
 たしかに、優しい心を持ち、今自分自身にしかできないことをしようとした、という点では、すずと母親は重なっているだろう。同じように雨が降っていることから、ラストシーンが、母親を亡くしたあの日との対比になっていると考えるのも不自然ではない。
 だが、母親が助けようとした見ず知らずの子どもと、恵と知の兄弟とを重ねて捉えることには、わたしは以前から違和感があった。
 まず、すずにとって恵と知は「見ず知らずの子ども」ではないはずだ。彼らだけの間につながる魂の交流(秘密のバラ)が確かにあったのではなかったか。
 違和感のもう一つの理由は、少しややこしい。冒頭のUを紹介するナレーションでこのように述べられていたのを思い返してみよう。
「現実はやり直せない。でもUならやり直せる」
 ここで重要なのは「Uならやり直せる」であり、「Uでなら」「Uの中なら」ではないことだ。このUは、仮想現実空間としての「U」に限定されないニュアンスがある。もしU=YOU、あなた、と捉えるなら、「Uはもう一つの現実」とは、「あなた自身の中にもう一つの現実がある」ということになる。
 さて、ここで言われている「やり直し」とは何なのか。この映画の中で、何がやり直されているのか。母親の行動をなぞったのであれば、それは単なる「くりかえし」に過ぎない。やり直すからには、前と違わなければいけないはずである。それは何か。
 結論から先に述べるなら、恵と知と重ねるべきなのは、向こうで助けを求めて泣いていた���の子どもではなく、あのとき、助けを求めることができなかった子どもである。世界そのものとのつながりに等しい存在を断ち切られた子ども、見捨てられた子ども、もっともらしい「正論」によってさらに傷を抉られ、うちのめされながら、声を上げることができなかった子ども。つまり、すず自身だ。
 考えてみれば、すずが竜のために作ったラブソングである「心のそばに」からして、すず自身の心が投影されていた。口にできない怒り、恐れ、悲しみを胸の中に隠しているのも、「一人で生きていける」と何度も自分に言い聞かせてきたのも、すず自身である。
 ベルが初めて出会った竜に心惹かれたのも、あの全てを拒絶し、凍りつかせるような竜の戦い方に、自分自身の奥にある感情を揺さぶられたからに他ならない。すず(ベル)と恵(竜)は鏡写しの関係にあるのだ。
 「鏡写し」は本作の裏のテーマである。現実と仮想空間、Asとオリジン、恵の父親とジャスティン、ルカ=太陽とすず=月、ジャスティンたちのアンベールとすず(ベル)が行う(心の)アンベール。ジャスティンが行う竜の住所特定とすずたちが兄弟の住所を突き止める過程。数え上げればきりがない。
 その割に本物の鏡が一度もモチーフとして登場しないように思えるが、まさに「心のそばに」を作曲した水面こそが「鏡」なのだと言える。なお、あの川には実在のモデルがあり、その名も「鏡川」である。
 どれだけ周囲が見守ってくれても、それ自体が直接にはすずの救済とはならなかったように、あの日のすずを救済するには、母親の気持ちを理解した自分自身が、母親の代わりに助けに行かなければいけなかった。そして、それは、他者である「虐待されている子ども」を助けに行くという、大人たちの文脈では達成できなかったのだ。
 すずが雨に濡れながら抱きしめたのは、世界とのつながりを失いひとりぼっちになったあの日のすず自身である。これがすずが一人で東京に行った意味の「B面」である。
恵の魂を救済することはすずの魂の救済であり、すずの救済は恵の救済なのである。
 5)おわりに―鏡写しについて
 こう書くと、自分の傷を他人に投影して、自分を救うために他人を守るというあり方は不健全ではないか、という考えも出てきそうだ。
しかし、本作が提示している「鏡写し」とはそうした利己主義的な意味ではなく、「他者と向き合うことは自分自身と向き合うことそのものである」、別の言い方をするなら「他者と向き合うことでしか、自分自身を見出すことはできない」という命題なのではないか。
 すずの家庭と、恵と知の家庭が鏡写しであると考えるなら、恵と知もおそらく母親を亡くしたのだろう。ふたりの父親は、おそらく自分自身の怒りや恐れ、悲しみに向き合うことも、自分と同じ傷を背負っている、恵や知のありのままの姿を受け入れることもできなかった。だからこそ彼は理想の家族、父親という「As」にすがり、やがてそのAsに自我が飲みこまれてしまっていたのではないだろうか。これは、「正義」というAsに憑りつかれて、他人を従える権威の虜となってしまったジャスティンと重なっているし、もっと言えば自分自身の暴力性を透明化するネットの暴言ともつながる。幼いすずは、母親の死という心的外傷の上に、インターネット上で匿名の相手から、「正論」という体で暴力を受けていたのである。
 ついに現実の世界で恵(竜)と対面したすず(ベル)は、「あなたは私の臆病だった心を解き放ってくれた」と告げる(※2)。すずが何に臆病だったのかといえば、他者と向きあうことであろう。最愛の存在であった母親に置いて行かれた(と感じた)精神的外傷による呪いともいえる。母親との死別以来、すずは竜と出会って初めて、自ら他者を求めることができるようになったのである。
 だから最後の対決は、Asを自らのものにしたすず=ベルによって、父親が「父親」としてのAsをアンベールされ、一人の弱い人間としてのオリジンに立ち返る形で終わったのである。
  これまで述べてきた動機を、すず自身がどれだけ自覚し、言語化できていたかはわからない。だが、すずの決心を聞いた時、喜多と中井はおそらく、「すず自身のためにこそ」それが必要である、と直感したのだと思う。「すずの幸せ」を心の底から願っていた2人だからこそ、そこに疑いがあったら、すずを一人で行かせはしなかったはずである。
 そして、もちろんそれは客観的な「正解」ではない(幸せに正解というものはない、という命題は、すずと聖歌隊の大人達との問答で既に提示されている)。
 この記事で試みたのは、すず自身がたどった道すじに、そうすべき内的な必然性があったということを、オリジンとAsの両面から示すことであった。結果として、それは作品全体をどう読み解くのか、提示されている動機をどう受け取るべきかを問われることとなり、最初に本記事を書こうと決めた時から相当な時間が経ってしまった。それでも、上映期間中に書き終えることができたのは幸いである。
 「竜とそばかすの姫」は多様な読み方を許容し、求めてくる作品である。これからもたくさんの人の読み方、解釈を見たいと思うし、読んでくださった方にとって、本記事が豊かな映画体験を支える助けに少しでもなることを願っている。
 (※1)あくまで動機としての優先順位の話であり、すずが児童相談所の役割などを軽視していたということではない。すずが恵・知と会った後、どうしたのかは具体的に描かれていないが、おそらく、高知で待機していた仲間たちに連絡を取り、大人達の助けも借りながら、児童相談所に繋げるところまではやったのではないかと推測している。
 少なくとも、一度は仲間たちに連絡を取っており、その際にすずはこちらの様子を映像として知らせたと考えられる。なぜなら、駅ですずを迎えた時、誰もすずの顔の傷に言及しないからである。送り出してから初めてすずの顔を見たのなら、顔の傷について触れないのは不自然だ。
また、川沿いを歩きながらしのぶは「あの子たちを守るすずを見て、なかなかやるなって思った」と言っているが、しのぶはすずが父親と対峙する場面を見ていないはずだ。では何を見ての発言なのかと言えば、父親との対決後に連絡をとった時の、すずの様子なのではないだろうか。
あくまで想像だが、喜多と中井は、すずを一人で行かせるかわりに、兄弟と会うことができたらこちらに連絡するように約束したのかもしれない。
(※2)なお、ここで恵が「君の立ち向かう姿を見て、はっとした。僕も立ち向かわなきゃいけないって思った」と言うのは、「一人で父親と闘う」という話ではなく、「僕が耐えさえすれば、それでいい」を止めるという意味である。
これを一種の「自己責任論」の発露として捉えてしまうのは、物語を物語として読めていないと思う。本作は、出てくるモチーフや言葉に出来合いのラベルを貼りつけるような観方をする人が「誤解」しないように、親切に作られてはいない(そういう意味では「良い脚本」ではないかもしれない)。
「立ち向かう」とは、「わたしはAsの暴力に屈しない、わたしのオリジンを否定させない」という意思の表明であり、自分というオリジンが守られるだけの価値がある存在だということを、ベルが身をもって伝えたのである。
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hochagera · 4 years ago
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🐿ごごごごごっ3月のお知らせ!
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私(斜め)、ご機嫌麗しゅうございます。3月です。先月はここでのちゅみ(息子)通信を忘れていました。ちゅみ、相変わらず元気でございます。食べるの大好き。自分だけ先に食べたのに、その後親が食べていると「ぅおい!(貰ってないぞ!)」と申して満面の笑みで1日5食くらい食べています。食いしん坊。そんなちゅみ、なんと今月1歳の誕生日を迎えます。大きな怪我や病気もなく毎日すくすく育ってくれて本当にありがたい。日々「カワイイ」を更新し続けておりますので人間の可能性は無限大なのだと思い知らされます。たぶん今一番カワイイなーと思った次の日にそれを超えてくる連続。先日生まれて初めてちょこっと髪を切りました。生まれてくる時から生えていた毛ですから、それが身体と切り離されて独立して風呂場に置かれる、不思議な感覚。飲食店に行って隣でひとりで座ってられるようになったのでまさしく家族の一員感が増し増しですが、ちゅみにより人一人分のスペースが埋まる、これもまた不思議な感覚。存在するってオモシロイ。最近子ども送迎用の自転車を購入しまして、早速ふたり乗りして買い物とかへ出かけるんですが、思い起こせばわたくし3年程前に自転車で札幌から越してきたんですね。その時は想像もしていなかったひぃひぃ言いながらたどり着いた松本の街で今は子どもとふたり乗りしてチャリに乗っている。これも不思議な感覚です。
よく笑いよく食べる子で来月からは幼稚園デビューも果たします。生まれて初めてのクラスはなんとりす組!🐿りす!最高だなぁちゅん坊!りすみたいにすばしっこくって、ちっこくって、たらふく食べて元気に育っておくれよ、3がっつのお知ら、せ! ※ブログ、先々月はてなに移動しましたが都合上やはりTumblrに戻させてください。ごめんなさい。金輪際Tumblrでいきます。 |https://hochagera.tumblr.com/|
目次 1.無事、P新人賞&観客賞も受賞致しました! 2.音響照明充実した 3.marsmooにて
1.無事、P新人賞&観客賞も受賞致しました!
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 先月お知らせしていた、愛知県は名古屋市で行われたパペット&パフォーマンスにおける舞台作品のクオリティを競うコンテストにおいて我々劇団野らぼうの作品が、新人賞&観客賞をW受賞させていただくことができました!ありがとうございます!これもひとえに日頃から我々の活動を見守り支えてくださっている皆様のおかげ。私たちの劇団員は3名。ですが、その周りで手伝ってくれたり応援してくださる方々がいらっしゃるからこの活動は成り立っております。まだまだ至らないところばかりですが至らないくらいがちょうどいいと、一緒に面白がっていただけると幸いです。  非常に充実した楽しい名古屋遠征でございました。緊急事態宣言下でありましたので飲食店等はあまりやっておらず余計な外出はできませんでしたが、ちゅみもいたことですし出発前はどうなることやらと心配していた旅程でしたが万事スムーズに進行し、初めてのホテルでもちゅみご満悦。天気も気候も良かったし、何しろ主催の愛知人形劇センター、ひまわりホールの方々が気さくであったかく、大変居心地のよい催しでした。このひまわりホールってのは名古屋市のド真ん中のオフィス街?ビル群の中に立地する19階建てのビルの19階にあつらえられた人形劇向けの劇場なんですが、これまた行く前はどんな空間なんだ、どんな環境なんだと(若干)心配してもいたんですが行ってみたらびっくり、かなり整ったホールではないですか。キャパはそんなには多くはないですが(70~80人くらい?)私どもにとってはちょうどいいサイズの空間でした。  今回は室内での公演で、しかもビル、ホールでの公演だったので野外でやるのとはわけが違う。特に違ったのはやはり声の反響の部分でしょうか。外でやるのもそこそこコツが必要なんですが、この屋内でやるにもコツが必要で戸惑いました。今後はこの声作りってところが劇団として取り組んで行きたい課題でもあります。そのほかにも今回の作品を作るにあたりたくさんの学べることがございました。何しろ2020年6月の公演を経てからその形を変えての再演でございましたし、制作期間も含めたら丸一年間はこの作品と向き合ってきたことになります。なるほど、だからか。私自身が「しげる」に取り憑かれていた日々でした。こんなに長い期間同じ題材で創作をしたことはありませんし、再演も初めて。どうしても過去やった作品をそのままの形でやるのでは、気持ちの部分でのってこないので今回は今回なりに視点を変えて創作をしてみました。日々トライ&エラーの繰り返し。コンプリートの日はついに訪れないことは知った上で、それでもまたやってみたいのであります。
◉今回の創作の総括をまとめましたのでご興味ある方チェックチェック🍑 長いぞ&細かいところまとめてないので割とざっくり印象重視?
あの日から彼は私のことをしげると呼ぶようになった総括 https://hochagera.tumblr.com/post/644775234792210432/%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%8B%E3%82%89%E5%BD%BC%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%92%E3%82%8B%E3%81%A8%E5%91%BC%E3%81%B6%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%B7%8F%E6%8B%AC
2.音響照明充実した  今回の公演では私(前田斜め)が音響照明を担当させていただきました。これもとっても充実でした。もともと私たちの劇団では全員役者志望ですので舞台に出てしまったらオペ(音響照明操作)ができない。でも出ないとなると役者減って総力ダウンする。となると舞台に出ながらオペするしかない。となってしまうので、舞台上のどこかでオペをして、集中が散漫して役者的にも音響照明的にも双方クオリティをダウンさせることになるのでこれとってもよろしくないのです。基本的にオペってのは今目の前でやっている舞台を生で見ながら、そして音を聞きながら操作するってもんですから、舞台上にいる自分たちでオペをやっているんじゃこれができない。それがイヤで今回は私が芝居に出ずに専属音響照明、役者は役者の仕事のみに専念してもらったんですが、フォーメーション的にはこれ完璧でしたね。演出も私でしたし。稽古からとってもスムーズに取り組むことができました。今後もこうしたいなー、とは言っても現状抱えている問題は変わらず、今後も我々3人しか役者はいないし、オペ要員もいない、そして次回作は3人出る予定で構想中、となるとやっぱり人が足りていない!てなわけで急遽チラシをこしらえた。
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●劇団員募集● ご興味ある方いらっしゃりましたらぜひ〜。
 で、上の新人賞の賞金がこの度20万円、ありがたくいただくことができました!そして余すことなく全て音響照明の機材へと変幻し我ら稽古場へと運び込まれました!いやーありがたい。私としては色々と夢が叶いました。中でも脚立。テント建て込みや照明仕事で必ずや使うこの脚立を今回新品で一脚買うことができました。脚立って地味に高いんだわよ。今持っているやつはもらったやつだわよ。この地球上は脚立であふれていますから、いつぞやどこかの誰かからもらえるかわからない。ややもすれば道路脇で拾うかもしれない。そんな妄想をしながら日頃道を歩いているとなかなか自分から買えずに二の足を踏んでいたんですが、今回ええい!と購入。以前もらっていた脚立に加えて晴れて3つ体制となったのでした。あと一脚くらい欲しいなー。それから機材運搬用ハードケース!これも垂涎ものに欲しかった代物。泣ける。これもなかなか買えない&ハードケースのメインは中身ですから!中身が入ってなきゃハードケースなんて買っても意味ない!そして中身の購入なんてもっともっと遠く、夢のまた夢の中の雲の上に咲く高嶺の華の存在だったわけなんですが、ついに!私も!my機材をmyハードケースに入れることができましたわよ。感涙。もはや芝居ではなくハードケースに機材を入れる活動がしたかったのではないかと自己を錯覚してしまうほど、霊験あらたかに心清まる意義深い行為でございました。ありがとう存じます。しかし勢い余って20万を優に超える買い物をしてしまったのでこりゃマイッタモンダ。色々と物色し始めたらキリがなく、あれも欲しいこれも欲しいとなって、劇団のテクニカル面は大いにグレードアップを果たすこととなったのでした。大丈夫大丈夫嬉しい嬉しい🍑🍑今後はこれらの機材を駆使して作品作りに邁進して行く所存でございます。  そういえば、今回の賞金で天幕を買う!というのも一つ目標でしたがそれは叶いませんでした。次回公演のお代で次こそは天幕を!と考えておりますので皆さんもどうぞそのおつもりでご算段ください〜。
3.marsmooにて
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 最後に最近薄れかかっている感慨をうっすら書いておく。  私たちの劇団は長野県松本市のちょこっとはずれの、しかし十分に街への徒歩・チャリアクセス圏内にある、とある倉庫に稽古場を構えています。そしてその倉庫に、私(斜め)と水野とちゅみの3人は家族として生活もしています。倉庫とはいえ一角に住居スペースが拵えてあり、そもそもそこに私がまず間借りを始め、そのころは劇団も稽古場も無かったんですが時を経て時間の経過とは恐ろしいもので今となっては家族、劇団、そして稽古場を有することとなったのです。このmarsmooという場所に関しては私たちの口から紹介するのでは手に余るもっともっと大きなポテンシャルを抱えた場所で、ざっというとスタジオ、カフェ、デザイン事務所、古物商、水道屋、便利屋、住居等々の設備を有し、この場所を構成するメンバーそれぞれのああしたいこうしたいを詰め込んだ夢ではないむしろ濃厚現実な場所となっています。週一でヨーガ教室も開催中。今も尚その細胞は増殖中でもある。この場所の内容ではなく、その存在について。  私が松本市に越してきたのはオンリー”創作活動のため”であって、鹿児島と札幌に住んだことはあっても本州に住んだことがない、あれやこれやいい場所あるけどピンポイントで考えていた条件として”渋滞しない”それから”新幹線が通っていない”だった。他にも細々条件はあったが実際渋滞しないで車でどこそこ動けるってのはかなり重要ポイントである。そのためには人口はやはり20万人以下が最良。松本市はその条件に当てはまった気がした。(実際は渋滞が頻発する。そのため土日は買い出しに出かけない。)新幹線に関しては私調べの統計的に通っていない街が好きだった。(新幹線、通っていても、いい街はある。上田とかいいわよね。)というか端っこが好きだったというのがある。教室でも家でも基本的に端っこにスペースをあつらえてそこに体すっぽり収まっていられる角っちょが落ち着く。角っちょがなければ自分で作ってでもそこに収まりたい。その理論で拠点選びの候補に上がっていたのは四国・高知と九州・長崎。これどちらも本当に好きな街で、そのサイズ感も人との距離も心地よくって居心地がいい。市場はあるし商店もあるし歩いていて楽しい。どちらも行こうと思わないと行けない土地で、四国の最果て、九州の最果てと呼ばれるような場所。やっぱり”通り道”ではなく、”そこに行こうとしないとたどり着けない”ってところがいい。角っちょだ。そしてその土地とともに候補に上がったのが陸の孤島、松本市だったのでした。ここは立地的にはど真ん中ですが、これも行こうと思わないとなかなか行けないし(登山好きはよく行くようだ。)何しろ標高が高い。海抜から遥か上空見上げたところに街があるっていうんだからこの街全体で山小屋みたいなもんだ。ここにいる人たち実はみんな山賊なんじゃないかと時々ふと不安になる。冬は寒いし日光は強い。しかしそもそも本州がいいと思っていたので移住地はほぼ松本市に決定。  そして何より松本は若年層の文化界隈が大変元気な印象を受けた。街の規模に対しては表現者が多い?音楽界隈が特に目立つがもともと芝居畑も盛んで劇団数は全国屈指を誇っていたのだそう。だからもれなく自分も活動できるような気がした。(住んでみて現状、映像界隈がものすんごく手薄なんじゃないかと危惧している。もっと映像作家とか自主制作映画作ってます!みたいなキャラクターや層があってもいいはずなのに!あるのか?あってほしい。)そして何よりもここmarsmooという存在があったからこそ私はこの地へ移り住んだ。  やっと本題。marsmooという場所は私が来る前からもちろんここにあってそこの登場人物と稀有な場所で知り合うことになったのはまた折りにふれて述べるとして、昨今よく聞かれるようになった”場の創出”について。寺子屋とか縁側とか路地とかフリースクールとかアジールとか、さまざま居場所を失ったはぐれ者たちがその漏れた感情を携えて集い居座れる場所(機能)が街にはかつてあったはずである。近年みる街作り(という破壊行為)や区画整備やスマートだかなんだかわけわからん都市計画によって行き場を失い排除され押し込められた個人、それからその感情が無かったものとされて扱われている。ちょっとしたガス抜きや親じゃない大人や薄暗い闇が排除されて久しく、そこに住んでいた人間やその感情はどうなるっていうんでしょう。引きこもって閉じこもってより一層偏屈になっていく生きづらさがここそこに充満しているように感じられる。そんな感慨があってから、私はここんところ約10年間ずっと共同生活をしている。ひとりでは住まない。今いるmarsmooの環境もシェアハウスではないものの出入りする人間が常にいてその人と顔を合わせるし言葉をかわす。人数がそう多いわけじゃないけれど自分以外の人間がいるだけで十分で、それ��今生きている小さい社会。電波に乗って広がるような大きな社会としての問題や動きを知る必要はもちろんあって取り組む必要もあって支援したり想いを寄せる必要はある。でもそれと同等に、場合によってはそれ以上に自分の肌感覚としてとても大切なものが自分の目の前の小さな社会にもあって、問題が起こったら自分たちで解決しないといけない、かなり実感しやすい社会がここにある。それが故に困ったこともあるしめんどくさいこともあるが、総じて、目に見える手の届く範囲のことに関してヤキモキしていられるんならそっちの方がよっぽどいい。何事もでかい単位で括って統治して、差を均一にして物事を動かそうとしたって目に見えないし実感も湧かん。そんな違和感を誰彼が感じているから”場の創出”なんてことが叫ばれるのではないでしょうか。(となると場とは既にあるんではなく、自分から獲得しなければならないということか。)  私は長野県松本市に住んでいる。特段長野を田舎だと思っていなかったし、松本を地方都市だと思っていなかった。ただ、とある一定の条件(渋滞、新幹線)からこの街を選んだだけで結果的に地方と言われる場所だった。ただ、先日仕事で名古屋方面に行った時に愛知の人間が「長野村」と言っているのを聞いて、「なるほどそういう感覚か」と腑に落ちた。確かに大きい視野で街のこと、社会のことを眺めた時に松本はよっぽど田舎で名古屋は遥かに都会だろう。先日名古屋へ行った時も松本とのあまりの違いに舌を巻いた。だがしかしその視野で街を見てこなかったので、むしろ我が町我が村を”愛知県”とか”名古屋市”とか言えてしまうことに驚いた。その大きな視野を手に入れる一方で”場の創出”という身を寄せる場所が必要とされる現状って逆行している。”自分が所属している社会”を大きく括る一方で、細かい立ち場や弱い立場を失って自分で自分を苦しめるシステムって不毛だ。何故だろう。  思うのは、私たち人間が生活する範囲で、それぞれが所属している小さな社会のサイズで物事を考えたら、都会も地方もその大きさや深度には大差はないんじゃないだろうか、ということ。日々生きるのに重大なことって、その目の前にある関係が円滑にいっているかってことや、問題はなくクリアーか、そしてその活動そのものが環境や条件にフィットしているのかってことではないだろうか。フィットしてなきゃ場所なり自分なりを変える必要がある。つまり、環境や条件に合わせた小さな社会を形成し、その集合体が街を構成しているはずである。初めから大きな社会の一員としてまとめられて、そこから小さな社会を創出しているわけではない。大きな括りのよすがにすがるあまりに、妙な安心感と引き換えに貴重な機微を見逃しちゃいないか。これって都市の問題でもあり地方の問題でもある。そもそも意識の問題か。そんな取り組み方では実際の感覚としてのあと先が見えない。場として、小さな社会として呼吸をするために私たちはmarsmooにいて、都市とかはどうでもいい、小さいけれどそれだけでいいと思える場所が今後とも必要だと思うのです。
おしまい 🍖🗻🍑🐿
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sekitoh · 4 years ago
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無題
2/12 19:07
先日のゲンロンカフェにて、菊地成孔が「軽やかに生きる為の処世術は?」という質問に対し、
「SNSをしないこととカラダを動かすこと」
と答えたらしい。
直近の某騒動以前より氏のSNS嫌いは有名で、さもありなんといったところだ。
さて、この話を書こうと思ったのは、彼と町山氏の一連の騒動に関してここで深く言及したい訳ではなくて、SNSの使用について、広く自分自身の思うところを一度文章化しておきたいと思ったからである(あとはここ最近寝てばかりの休日に少しでも生産性を見出したいというある種の切迫も絡んでいる)。
というのも、昨今のSNSで日夜巻き起こる炎上案件や、バズ、その他SNS上で発生する凡ゆるヴァーチャルなコミュニケーションにかなり疲弊していることから、自分自身がある種のオーヴァードーズ状態に陥っていると感じるため、まずは自分自身のSNSに関しての所感をまとめ、然るべき対応を考え出したいのだ。限界が来る前に予防線を張っておきたい。そして何よりこうして文章を紡いでいる間は精神が安定する。
まず、SNSをすべきか否か?という点に関してだが、これは「用法容量」を守れば問題ないと思っている。ただ、この「用法容量」というのが非常に厄介で、というか、SNSにまつわる問題のほとんど全てがこの「用法容量」というワードに集約されてしまうような気がしている。
まず分かりやすい「容量」の問題だが、気づけば何十分も、下手をすると何時間も、ただただTwitterのタイムラインを眺めてしまっていた、instagramの検索タブをただただ下へスクロールしてしまっていた、ということがざらにある。今日も同じことをやらかして嫌悪感に苛まれていた。
SNSの連続性ー止めどなく誰かが何かを発信しており、それを無制限に享受できてしまうというシステムーは俺からSNSの「やめ時」を奪い去る。
身体や精神の疲労が「やめ時」というよりも「限界」を感じ始めて、ようやくSNSから離脱するというのが常だが、そんな時には既に、眼精疲労、肩こり、そして「時間を浪費してしまった」という自己嫌悪に陥っており、心身ともに不健全な状態となってしまっている。
だが、「そんなに心身をやつすのであれば、SNSなどキッパリやめてしまえばいいではないか」という意見は極論すぎる。「用法」の問題が絡んでくるからだ。既に現代においてSNS上でのコミュニケーションは社会関係の構築の上で重要なファクターとなっているし、SNSに接続することで得られる恩恵というものも決して少なくない。
多感な時期にSNSが身近にあった世代ならよく分かると思うのだが、SNSに接続する術を持ち合わせていない時の交友関係の構築のことを考えてみてほしい。
学生時代の交友関係の構築が分かりやすいかもしれない。友人たちが盛んにメールアドレスやLINEを交換しあい、学校内外でのコミュニケーション機会を獲得する中、何もできないというもどかしさを想像してほしい。
学校というクローズドな世界においてコミュニケーションの機会の喪失がどれだけ焦燥感を煽るかは、想像に難くないだろう。
バーチャルなコミュニケーションとフィジカルなコミュニケーションというのは択一のものではなくなっている。どちらも必要不可欠なものだ。
また、SNSの即時性と拡散性は、世の中で起こっている情報を素早く、かつ広範囲から引き寄せることができるし、それによって社会の動きを曲がりなりにも知覚することができる(接続先によってこの社会の動きの知覚の仕方はいくらでも歪んでしまうので、かなりの注意が必要ではある)。
��こからは少し視点を変えて、SNSにおける承認欲求の話にも触れておきたい。承認欲求の充足に関しても「用法」を間違えると悲惨な目に遭う。
手軽に世界に向けて自分自身の表現を発信できるSNSは、承認欲求を満たすのにあまりにもお誂え向けなサービスである(Twitterで一時期流行った「質問箱」というサービスはその最たるものだと思う。あの存在を知った時は、ここまでSNS使用者の快楽中枢にダイレクトに働きかけるものをよく作ったものだと感心した)。
手軽に多くの人に向けて表現を発信できる分、適切な人たちに適切な量の表現を渡していく、ということが非常に難しくなるのが問題で、自分自身の趣味嗜好と近しい人たちに自分の表現を発信することは何ら問題ないが、全く趣味嗜好が合わない人にとっては、その表現は不快なノイズでしかなかったりする。
そうしてその表現を不快だと感じた人達から攻撃を受けたりしてしまう。拡散性が仇となり、結果満たそうとした承認欲求が不能に陥ってしまうのだ。
そのようなことはフィジカルな表現においても発生することではあるが、ヴァーチャルな世界での攻撃性は現実とは比べ物にならないほど高い。匿名性が人を凶暴にすることは言うまでもない。
SNS上で承認欲求を満たそうとすることは非常に危険な行為である。この「用法」に取り憑かれるとロクなことにならない。
最後に、これは俺の観測範囲内で全て当てはまる恐ろしい観測結果なのだが、SNSから距離を取り過ぎてしまった人々は、大方何かしらのズレを抱えた状態で、結局SNSに舞い戻ってくる(このズレというのは、世の中との思想的なズレであったり、単純な情勢に関する知識量のズレであったりさまざまである)。
恐らくヴァーチャルな社会関係から逸脱することで、思想や慣習的な面において世の中とずれが生じるようになるのではないかと思っている。宇宙に飛び立った飛行士が戻ってきた際に地球との時差を抱えて帰ってくるような、そんな状態になってSNSから離れた人々はSNSに戻ってくる。
容量をゼロにするとそういった事象が起きてしまう。俺はそれが怖くてなかなかSNSを完全に遮断することができずにいる。
ではどうすればいいのか?過去に友人の一人がSNSを使う時間を自分自身で制限していると言っていた。それも一つ面白い解答だと思った。
俺は、自分自身が何のためにSNSを使用しているのかを、もっと明確に意識することで適正な用法容量が分かるのでは?と思っている。
まずTwitterに焦点を絞って考えてみる。
まずは何よりも、音楽に関する情報収集が最たるものだ。新譜のリリース情報、音楽批評、そのほか音楽にまつわるあらゆる情報の収集は職業柄マストだし、何より自分自身のライフワークでもある。「よい音楽をできるだけ沢山聴いて死にたい」というのが俺の人生の命題の一つである以上、その達成に於いてTwitterほどうってつけのツールはない。
次いで、友人知人との交流が大きな理由として挙がってくる。俺はただでさえ筆無精であるにも関わらず、さらに「便りがないのは良い便り」を都合の良いように解釈して生きているので、油断していると交友関係がどんどん希薄になっていってしまう。SNS上にいるだけでも途切れない関係というものはある。恐らくSNSから身を引けば今の交友関係はざっくり7割近く縮小してしまう気がしている。それは流石に困る。
最後に、猫だ。世界でネコチャンと暮らしている人たちがその生活の様子をSNSに上げてくれている。SNS上に日夜アップされているネコチャンの様子は間違いなく世界を平和にしている。これは見過ごすことができない要素だ。
Instagramについても考えてみる。
これに関しては、友人の近況報告の受け取りと、洋服に関する情報のキャッチでほぼ終わりだ。わざわざ検索窓を開いて、素人に毛すら生えていないようなダンスや、扇情的な身なりをした承認欲求で形成された男女の肖像や、なんの足しにもならないクソみたいな「あるある◯選」や、内容が0.0001μmもないような搾りカス漫画にぶつかりにいっては都度ヘイトを蓄積する必要など微塵もない。今後検索窓を開きそうになった時はすぐにアプリを上へスワイプしよう。
そしてこのTumblrは使用当初から最も首尾一貫した目的のもとで運用している。Twitterよりも長い文章を書きたい時に使う。以上だ。Tumblrでのリブログやスキの収集はほとんど行っていない。
ここまで使用目的を書き上げてみたものの、適正な用法容量、分からないな……。どれもどこまででも服用することができる気がする……。
ただ、少なくとも、上記に書いたような事柄以外でSNSを使おうとした時には一度立ち止まってみることで、無用な使用を避けることが出来るかもしれない。
最後に、Twitterの持つドラッグ性に関して、他でもないTwitter上で菊地氏が発言した内容をまとめておきたい。氏のSNS、とりわけTwitterに対する視点には訓戒がある。以下のサマリーは菊地成孔氏が2021年2月いっぱいで閉鎖することを前提とした上で開設したアカウントでの発言に基づく。このサマリーは町山氏の炎上に関する案件と、ドナルド・トランプへの発言からTwitterに関する氏の発言を抽出し、俺が編み直したものであるため、いささか歪になってしまっていることに注意した上で読んでいただきたい。また、Twitterに関する発言の中で、炎上に関する町山氏の行動の分析に関しては俺の手に余るため、深く言及しない。
加えて、氏の発言に問題があるとする意見も多く、実際俺自身も氏の発言の全てを受容はできていない。支持も不支持もしかねた宙ぶらりんの困り顔でこの文章を打っていることも付け足しておく。申し訳ないが、今の俺には氏を糾弾できるほどのバイタリティはない。
Twitterにはドラッグとしての属性があるというのが以下の主旨である(斜体はツイートより引用部)。
彼は「ドラッグも、あまつさえ、それに対する依存も、人間が正気を保つのには必要不可欠である」と前置きした上で、「合法、非合法を問わず、ドラッグにはユーザーレベル、ハードユーザーレベル、アディクション・ペイシェントレベル、ジャンキーレベルと、階層がある」と述べる。Twitterの利用に関しても、用法容量によって階層が発生してくるのだ。
Twitterにある情報というのは無制限であるかの様に見えて、実際のところ、自分自身が得たい情報を恣意的に摂取しているに過ぎない(古くはどのアカウントをフォローし、どのようなタイムラインを構築するのか、といったところから情報の取捨選択は始まっている。最近だと導入されたトピックのフォロー、検索窓のジャンル検索なども取捨選択をよりスムーズに行えるようにする「改良」のひとつだ)。
菊地氏はTwitterの<今を知ろう>というスローガンには悪弊があり、膨大な情報の塊である<今>の瀑布に飲み込まれると、視野は不可避的に狭窄になる、と警鐘を鳴らしている。つまり、自分の得たい情報だけを浴びることにより、自分の見ている世界が全てだと錯覚してしまうのだ(もしくは氏は、過去ー未来という視点を失ってしまうことも危惧しているのかもしれない)。この点に関しては昨今の陰謀論などの動きを見るとよく分かる点だろう。
そしてジャンキーレベルに至ると、Twitterにおける晒し上げによる炎上を企図したり(これには上記に述べた町山氏の行動の分析が関わってくるため、深追いしない)、ドナルド・トランプのような過激なツイートといった症状が発生してくる。自らの見ている世界の正義に支配され、それ以外の正義を駆逐しようというわけだ。
また、氏は飲酒、ギャンブルなどと同様、Twitterも「嗜む程度であれば大いに結構ですが、中毒を経てジャンキーに至ると、取り返しがつきません」と言う。上記の症状が発症した状態のことだ。この補足として、下記の発言が分かりやすい。
「ツイッターは利用者に勝利の快感を与えません。「見たものに関して、何かを言いたい」という排泄(排泄を汚物として悪し様に言っているのではありません。排泄は重要な生理的欲求です)にも似た快感を与える代わりに、敗北感と不全感を常時与え続ける麻薬で、ギャンブルの構造に似ています」
実質、炎上という現象は一過性で、言いたいことを言って焚き火に薪をくべた者たちは一定期間ののちに全く何事もなかったかのように日常の呟きの中に戻っていく。その様は一見一過性のものではある。しかしそれは内に中毒性を宿している。自分の巣に戻っている鳥は再び何かが燃える火花がないか、目をぎらつかせている。
そして、「Twitterには、Twitter外部に存在する、ルール、筋、倫理といったものを瓦解させる力がある」と述べる。
Twitter上で巻き上がった火の粉はTwitter内では完結せず、実際の社会にも飛び火するということだ。
氏がTwitterに乗り込んだのも、町山氏による炎上の一件が看過できないほどに現実の菊地氏にも影響があったというほどではないにしろ、少なくとも「何でこんなことが起こったのだろうか?」という疑念を発生させ、町山氏との公開討論を要求する程度には影響を与えている(氏はアカウントでTwitterのユーザーを鳥に見立て、ヒッチコックの『鳥』におけるティッピ・ヒドレンのような目に遭った(これはティッピ・ヒドレン演じるメラニー・ダニエルズが、兎にも角にも鳥から襲撃を受け続ける様に擬えている)と発言している)ということである。
自らのSNSへの依存度に関して自覚的でなければ、いずれ敗北感と不全感に端を発する、快楽に飲まれた鳥の一羽となってしまうことは避けられない。戒めとしたい。
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borisdronevil · 5 years ago
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Interview For "Black Shapes of Doom" Part One.
2004年に発売されたファンジン「Black Shapes of Doom」向けに行ったインタビューを掲載します。 『feedbacker』リリース後に行われた貴重なインタビューです。 前半はBoris概論、ここまでの音源や大文字BORISと小文字borisについて詳細に語られています。
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ロックの中心から外側へと発散していくヘヴィアンビエントスタイルの"boris"と、ロックの外側から中心へと収束していくヘヴィロックスタイルの"BORIS"の二つの表現言語を持つBoris。昨年12月にそのキャリアを通じて最高傑作の呼び声も高いboris名義のアルバム「boris at last -feedbacker-」と、BORIS名義の初の映像作品「見殺し塔からずっと」をダブルリリースした。今回はBorisの結成時からその活動を見守り続け、全ての映像作品をバンドと共同でディレクションしているRYUTA(foodunited.)を交え、新作の話を中心にインタビューを行った。今回も勿論Boris節全開!!!!
- 先ずはborisの「boris at last -feedbacker-」(以下"feedbacker")からお話を聞いて行きたいと思います。発売から3ヶ月が経ちましたけど、反応とかはどうですか? ATSUO(以下A):海外は勿論良いね。 TAKESHI(以下T):もちろん国内でも良いって言ってくれる人はたくさんいるよ。 A:海外の連中とかは「flood」とか一番好きって人が多いから、でも「それ越えた」って感じで結構楽しんでくれてるな。sunn0)))のStephen O'Malleyとかもずいぶん気に入ってくれてるね。
- 最近のBorisの持つ音の感じが凄く変ってきましたよね。今までは、音の壁がバーンって感じで凄く凝縮された感じの音だったけれども、「あくまのうた」以降は凄く隙間が増えてきて、その隙間にこちらが何かを想像したりとか、向こう側から得体の知れないものが飛び出してきそうな感じとか、そういう感じが凄い出てきたかな、って感じがしますが。 A:録りの時点で凄い意識しているね。とにかく詰め込んで凄いギッチリにすると何の驚きもないっていうか…。
- 「Heavy Rocks」辺りまでは、そういう感じが強いですよね。 A:それを経過したから解ったこと、かな。まあ、あとPeace Musicでの録音というのが凄い良くてね。事故が起こる感じっていうか、出来事が起こる感じっていうか。録り方からミックスまで、そういうスリルがずーっと最後まで保てるスタジオなんだよね。エンジニアの中村宗一郎さんが「そうじゃなければロックじゃあない」って思っているし。
- "feedbacker"も聴いていて、アレはもう凄い完成された形なんだけど、まだ何か変なモノが聴こえて来そうな余地ってのが凄くありますよね。不穏な響きとか、本当に凄く良い作品だと思います。 A:自分らが作ったっていう、自分らのモノっていう感覚が全然ないね。いまだに。「あくまのうた」と"feedbacker"っていうのは。今でも自分で聴いても新鮮さがあったりとかして。ほんと最終的なところまでね、出来事が起こる状態で作られているモノなので。聴き直しても拡がりがあるね。 T:隙間があるっていうかね。隙間ってその、スカスカって事じゃなくて、聴き手の思いが入る余地がある。
- 聴く側にも、演る側にもそういう余地がまだまだあるという…。 A:そういうものだよね、ロックってのは。相互関係が生み出すもの。 T:まあ、全然話が違うけどね、モー娘だったりとかさ。アタシでも入れるんじゃないかっていう隙間感が(爆笑)あると思うんだ(笑)ガチガチに固めちゃったらさ(笑) A:1000人とかね、ステージにいるんだ、モー娘(笑) T:そうそう(爆笑)夢は膨らむばかりでさ(笑)鉄壁の2人とか3人だったら入る余地無いじゃん。SPEEDとかさ、5人になってもしょうがないしさ。こう、アタシでも入れそうかな、って余地がね。そっちの方がワクワクするじゃない?
- ロックってそういう感じですよね。でも、最近ロックて何なのかな、ってよく考えるんですよ。聴けば聴くほど訳が解らなくなってきてて。 A:解らないから取り憑かれるんだよね。「でも確かにあったんだよな、あの感覚が!」って。 T:それでまたアルバムを買っちゃったりとかさ。ムズムズ感がさ。一応溜飲は下げるんだけど「何かちょっと違うわ」とか言って、俺のじゃないって。安心できないっていうか、イライラ感が…。
- 今回の"feedbacker"ってのは自信作だという雰囲気が凄く伝わってきますよね。凄い興奮感というのが伝わってきますよ。 A:「いやー凄いの出来ちゃったなー」って。自画自賛している?(笑) T:いや、自画自賛しないと駄目だよ。やっぱり。 A:いや、でも自分を褒めているってより、あのスタジオでのね、もっと言えば世界とバンドの相互関係によって出来上がったあの「作品」を褒めたいというか…。自分を褒めているっていうのではなくて…。あの作品に関わった世界全体を褒めてるというか。そういう感じかな。 T:俺、関わってたのか?っていうぐらいのね(笑) A:「まー、弾いたけど…」って。(笑)「自分達が作った」という所有する感覚がすごく希薄だね。最近の作品は。
- ある意味、それこそ事故的な?偶然と偶然が重なって出てきた作品という感じですか? A:ギリギリのバランス感で。「作品」っていう形にしていくスリル感が…。作っているような、壊しているような。 T:俺はね、単純に俺の好きな物が出来たな、と。自分で聴くものとして良いのが出来たな、と。自分の作品の中で、一番好きなのが「flood」だったりするから。勿論「Heavy Rocks」とか「あくまのうた」とかも自分でたまに聴いたりもするけど、俺の根源的な音像、根っこに持っているものが結構出てきちゃってるものが、やっぱり「flood」だったり"feedbacker"だったりする。自分のこう、根っこに一番ずーっとあるようなものに近いかな。ホントそういうのが出来たなぁって"feedbacker"はね。
- その根っこっていうのは? T:あんな感じ…(笑)口では言えないけど。
- 音に全てが出ている、と? T:そうそう、具体的なアーティスト名とか出しても繋がらないと思うんだよね。何となく解るところがあるかも知れないんだけど、それが全部ではないから。「あんな感じ」としか言えない。 A:鏡みたいな作品かな。自分の姿が映るんだけど、誰が見ても「俺、あーこんな感じ」っていうかさ。
- 作品的には「flood」を越えたなって思いますね。ただ、個人的な思い入れとしては「flood」の方がまだ強いですけどね。 T:「flood」も偶然の産物っていえば偶然の産物だからね、本当に。 A:アレは逆に全然時間の無い中でガーッと勢いで録ったから、思ってた以上の事、逆に出来事が起こったというか。 T:再現不可能みたいな(笑) A:そういう意味では、同じ様な結果が出ているかもな。出来事が起こってしまっているような感じっていうのは。ま、でも録り方で印象はかなり違ってくるね。録音もその時々で一番良い方向性を選んでいくべきだしね。 T:そうだね。毎回全然違うし。「完成」といえるところに到達するその意識の持って行き方も違うから。
- 曲の作り方ってBORISとborisは違うんですか? T:基本的には同じだね。 A:同じだね。
- 作り込み方とかも? T:そうだね。最初はグダグダから始まって…。でもやっぱり作り込んでいかないと、ただJamってそれで終わりではなく。Jamったなら、Jamったその「グダグダ感とはなにか?」と分析していく。分析して構築していく、っていう感じで…。 A:メロディとかアンサンブルっていう作曲の要素のひとつとして、そういう「感覚」も重要だね、うちは。グダグダ感とか、ヒリヒリした感覚というか。そういう事の方が重要だったりするよね。
- 曲自体ってかなり作り込んでありますよね。 T:そうせざるをえないって所もあるんだよね。 A:作り込むと同時に何かが起こりうる余地も同時に残すというか、作るというか。最近はそういった部分も全面に出てきているから、余計複雑に聴こえるかもね。"feedbacker"とか特にね。
- 作り込み感が「Heavy Rocks」以前と以降では全然違うように感じられるんですが? A:全然違うね。パズルみたいな感じだよね。以前は。 T:そうだね、完全に。今回は割とパズルというか、パズルゲームの「ような」感じ(笑)絵柄はない、っていう。でもどの方向にも全部組めるし、どんな形にも出来るような…。ただし、その一個一個の形は凄い「作ってあるぜ」っていう。そういう感じがする、俺の中で。聴き手の前にボンと投げ出されたときには何だかわかんないし、組み立ててみたら凄い隙間があるかもしれないけど、でもそれぞれは全部一個に繋がっているようなね…。 A:ただJamるだけのね、ただの混沌ではつまらないし。かといって、カチッとした隙間の無いパズルでもつまらないし。曲作りもそういう「混沌と論理」という相反するものが同時にないとね「何かが起こる」その相反するものの「間」がやっぱ重要なんだな。…こういう事言ってるとまた訳がわかんないって(笑)
- 論理的に組み立てつつも、馬鹿さが入り込める余地を残しつつ… A:まあ、元々馬鹿だからね(笑) T:馬鹿同士が討論している感じ?(笑)たとえばフリージャズだったり、そういう人達がセッションとかライブ盤出してたりするじゃない。凄いハイテンションなヤツとかあって、これは良く解らないけど凄いな、ってヤツがあるじゃない?アレは多分ディベートだと思うんだよね。俺が良く知らない言葉で対話している。馬鹿同士が何かぶつけ合っている、っていうのも観ていて面白いっていうか「コイツ等メチャクチャだけど何か伝わるわ」っていう。 A:馬鹿兄弟みたいな(笑)「適当」になってきてるよね、最近(笑)
- それが音にも現れてきているんですか? A:適当にやったほうが、体に蓄積されてきたものが凄い出やすい、っていうか。自意識ばっかりでカチカチに詰め込んで、計算してやってもそれだけでしかなくなってしまう。その体の中の入ってたものとか、無意識が出てしまう余地というかね。意識と無意識の出会いとかが音の印象に深みを付け加えたりもするし。「論理性と馬鹿さ」「意識と無意識」っていうようなね、凄いどちら側も重要だなってのは最近凄く思うね。
- 「flood」の発表前ぐらいの時期にATSUOさんが「もうアンダーグラウンドはうんざり」みたいな事言ってたじゃないですか。僕は最近結構良い流れになってきているような気はするんですけど、その辺はどう感じてますか? A:アンダーグラウンドだけでは嫌だし、幅広く、広くってだけでも嫌だし。どっちもかな? T:狭いところだけではね、どうしても変なしがらみがあったりとか、凄いつまんない。それはもうマイナスな事だから色んなところに出って行って色んなと人に聴いてもらってとか。だけどあんまり拡げようとしちゃって、ただ記号的な表現に向かうのは嫌だから。バランスだよね。 A:多分その伝えることばっか考えて広い層に向かってやっていけば、記号化されたものにだけなっていく。解り易いだけになっていく。マニア向けになっていけば自分たちの好き勝手やればね…オリジナリティーがあるような気になってね、それで良いと思ってしまう。そのどちらもないと自分たちがやっている中に葛藤というか、何か出来事が起こるポイントが無くなるというか。その両方のぶつかり合いがあって面白いものが生まれると思うから。じゃないと表現がその力を無くすというかね。どっちもだね。だから今はBORISもborisもどっちにもスピードが上がるような感じで。
- BORISとborisの作品の出し方のバランスとかも考えているんですか? A:うん。 T:でもまあ、気分だからね(笑)borisの反動でBORISになったり、BORISの反動でborisになったりとか。次はもっと遅くてだるーい適当なヤツ演るかー、って演る時もあるし。そういうの飽きちゃうと体が求めているというかね。ぐわーっと。 A:基本が音楽好きだから、色んな音楽好きだから。ひとつのバンドだからひとつのスタイルだけじゃないと駄目、っていう事はないよね? T:まあ、そのスタイルの変らない良さとかとかもね凄くあるし。職人的な、そういうのもあるんだけど…。やっぱ俺らはそうはできないっていうか。アレもしたいし、コレもしたいし、演りたい事よりも出来ない事の方が一杯あるから。それをもう、とにかく「演らないと!」っていう。次から次へと。 A:表記を変えてちょっと気分が楽になったっていう所はあるよね。 T:そうだね。表札が一個だと、どうしてもこうね…。ひとつの間口で仕切りを作ってここからと、もうちょっと下からっていうと入り口がキュウキュウになっちゃうっていうのがあって…。こちらの人はこちら、こちらの人はこちらって。でもまあ、中に入ったら一緒だから…。そういうので凄く気が楽になったのかな。
- もともとそういうのがあって2つに分けたんですか? A:たまたま「flood」出して、後から気が付いたら小文字になっているっていう(笑)
- 当時は全然気にしていなかったんですね。そう言えばBUDGIE風のデザインロゴもBORISでしたしね。 T:Helveticaの小文字が綺麗で使いたかっただけ(笑) A:その頃はもう、解り易さとか人に伝えようという、そういう部分は凄く少なかったから。「AMPLIFIER WARSHIP」出して「flood」出して、それと同時に「Heavy Rocks」に入ってる曲とかライブでは演っていたから…「flood」出した後が2つの方向性が、ね。ライブで演るときにヤリ辛いなっていうのがあって…。
- BORISとborisの曲を一緒に演るっていうのが? A:今の言い方をするとそうなんだけど、メロウな感じとロックな感じをひとつの、ね。ま、対バンとかあるから。ひとバンド3~40分の中で長い曲を演るっていうのは、1曲で終わったりとか。やっぱそれを見た人というのはね。そのたまたま見たライブの印象に非常に左右されるという…。あるツアーでドラムレスのライブを演ったんだよ。3人とも弦楽器っていうヤツを。それも表現の形式が拡散していうくポイントというか。「AMPLIFIER WARSHIP」出した頃からドローン、パワーアンビエントな感じの意識が凄い出てきて…。で、ドラム邪魔だなって思って俺もギターもってライブを演った事があって。
- それはどんな感じの音だったんですか?完全にドローン(持続音の意)? A:そうだね。 T:もっと混沌としてたね A:"HUGE"と"VOMITSELF"と"MOSQUITE"のドラムレス、の3曲でライブをやったのかな。 T:アンプオバケ時期っていう(笑)後ろ全部アンプで。
- 今でいうとsunn0)))みたいな感じですか? T:そうそう。 A:ホントsunn0)))との繋がりは、お互いにEarthフリークっていう。そのライブは「flood」出す前かな。 T:「flood」自体も出す前から演ってたっけ。 T:短いセットの中に組み込んでたりとかしてたね。("flood"はアルバムでは70分1曲の構成) A:ボーカルパートの所からって感じかな。そのぐらいの時期に、バンドを運営するにあたって表記を変えたほうが伝わりやすいんじゃないかって。「演りたい」ことは演りたいんで。 T:そうそう。そういうリリースの仕方でさ、作っている曲だからフルレングスで演らないと意味がないんだよね、本当は。フルレングスで演れるような場所で演るって。その時々のイベントのカラーに対して「あえて」演るんじゃなくて、ちゃんと前もって決めて、適切な機会を持って演るっていうのが一番理想的な形だから。 A:まあ、その国内に関してはborisでライブを1セット演れるっていう環境が全く整っていないから、音源中心の活動になってしまうけど。環境が整っているロックサイドっていうのは演り易いね、バンドの活動として。 T:今日もスタジオ入ってたんだけど、今日演ってたのは長い、ドローンっていうかもうちょっと重なり方が結構多い感じでロックなんだけど。でもそういうのも本当はライブできちっと演奏したいし。 A:「AMPLIFIER WARSHIP」、「flood」の混沌とした時期、そして表記が2つに別れて…またどっかでひとつに合わせなきゃならない時期が来るなー、とは思ってるんだけど…。今はまだ、どっちもそれぞれの方向で突き詰めるものが、まだ色々見えていから。 T:でも、混ざりつつあるとは思うけどね。
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- そうですよね。"feedbacker"なんて割と両方が混ざった形に近いと思うんですよ。聴いたときに「flood」はもっと音響とかアンビエント寄りの音だけど、"feedbacker"はもうちょいヘヴィロック寄りの音になってきていて。自分で表記を分けてたのにその壁を壊し始めたかな、という感じを受けました。 A:そうだね。まあ、結局は根本的な意識は同じだから。 T:そうなっちゃうんだよね。 A:ロックから外側に行くのか、中心に向かうのかっていう話だから。 T:分けたからコレとコレとは絶対に違うんだ、っていう事はありえない。もう重なってきちゃう部分は絶対にあるから。Sだけ大文字にするとかね。Bだけ大文字にするとかね。大文字で挟んでみたりとかさ。別にそういうのでも良いとかいう話になるし…まあ、ぶっちゃけ本人たちにとってはどうでもいい(笑) A:Merzbowのリミックス集は変な表記になってたね(笑)
- bORISになってましたね(笑)でも、確かに普通のリスナーからすると別れていたほうが聴きやすいのかな、っていうのはありますよね。 A:買っちゃって「アレ?この間買ったやつと全然違うじゃん!」って(笑)でも実はそれが奥でひとつに繋がってる、っていう事を聴いた後に感じて貰えれば凄く嬉しい。そうするとリスナーが気に入ってくれている曲の「音の奥行き」とかも変ってくるような気がするんだよね。そういう意味でもロックの深さってのを伝えていくには、どっちのスタイルも必要。解り易さの中に潜む、俺らの音の探求がそこに要約されているっていうことが感じて貰えればどっちサイドも聴けると思うんだけどね。ホントにそれがひとつの曲の中でどっちも出来るのがベストだと思うんだけど、まだまだ追求している最中って感じだよね。
- 今の状態は通過点だ、と。 T:たとえば、どうしても「borisの方が上級者向けだ」みたいな、誤解を恐れずに言うと多分そういうのがあるからね。小難しいとか、長くてボーボー言ってるだけとかね(笑)あると思うんだけど。結局、そういう難しい音楽とかではないから。気持ちの良い音楽というか、音だったりっていうのがあるから。
- 多分そう思われるのって、逆にインタビューとかでちゃんと言葉で説明できてるからのような気がしますね。 T:説明出来てるのかどうかは別として、変な伝わりかたしてるんだろうね(笑)
- インタビューに難しいことが書いてあって「あー、小難しいバンド!」みたいな捉えられ方をすると、きっと音を聴いてもそういうふうに思われちゃうのかなって気はします。でもパーツパーツを見ると、単純にガーンて出した音が気持ち良い!っていう音の集まりっていう感じがしますよね。だから僕は、borisも難しく捉えられるような音楽ではないと思うんですけどね。 T:そうなんだよ。ガーン!って出して「このままハウらせようぜ!」って言ってオー!!!!ってなっているのと、ガーン!って演ったときに「Yeahhhhh!」って入って行くかのどっちかだから、ただそれだけの違いだから、気持ち良いのには変わりないんだよね。なんか(博士風に)「この辺の周波数を上げると良いかもしれませんね」みたいな作りかたはしないから。
- そういうパーツパーツを、Borisの中で巧く組み立ててデザインしているっていう感じがしますね。 T:まあ、その辺は作り込まないと、っていうのが俺らの中にはあるから。衝動だけではそれはね。 A:インタビューとか文字になると難しく感じられてしまうのは、今の一般のロックの文脈のインタビューと比べるとやっぱり違うとは思うね。やっぱり、70年代以降ってロックってドンドン馬鹿になって行ってると思うのね。ただアツイだけの馬鹿なロックが、熱さもなくしてただ馬鹿なだけなロックになっていっているんだと思うんだけど。その馬鹿さってのは凄い重要だと思うんだけど、でも逆に論理性っていうのもないと。やっぱコミュニケーションするときに、ただ何か見えない漠然としたエネルギーだけがそこにあるんだ、って言っても伝わらないと思うし。論理性と、そのただアツイだけのエネルギー、どちらも兼ね備えていくべきかなってのは凄く思う。
- やっぱりアート的な表現の部分がBorisには凄く大きいのかなって思いますね。 T:いや、メンバーにキース・ムーンみたいなキ○ガイや天才がいないだけだから(笑) A:小難しい現代美術みたいに、ただ論理だけじゃつまらないしね。見ただけで「うわー!」って思う感じと、そこにある論理とどっちもあれば…。まあ、説明しなくても伝わればそれだけで良いけど。そうもいかないんでね。 T:理論武装だけみたいなのは絶対に嫌だしね。伝わらない相手に対して「お前の頭が悪いんだ!」みたいな。そういうのは絶対に、俺は許せないからね。 A:答えられる範囲内では聞かれたら答えられるようにはね…。
- 音だけじゃ伝わらない部分もあるだろうし、言葉だけで解るようなものではないし。両方で上手く伝えていきたい、と。 A:実際にリスナーは音を出してないからね。俺らが音を出して感じた実感とかが、言葉にして話さないと何もこう、聴き方というか、どういう視点(聴点)で聴くべきかという、聴くべきかって言い方はおかしいか…。言葉にしておかないと「こういう聴き方もあるよ」っていうもののキッカケの提示も出来ないから。 T:やっぱ音源聴いて、先ずそれありきじゃない。その人達はそのアルバムを作るにあたってどういうアレとか、まあそういうことは別に知ったこっちゃないじゃない。苦労したとかさ、何回間違えた、何回録り直したとかさ。これが良いんだとか。そういうのは知ったこっちゃない。出されたものがそこにゴロンとあるだけで、それを聴かれるだけでしかない訳だから、リスナーの眼前の音源は。ただインタビューとかで補足する意味だったりとか、そういうのでもうちょっと伝わっていけば良いだけであって。まあ結局言っちゃうと別に音源だけで判断して貰って、それで凄く良いって言って貰えればいいけど、もっと説明書ではないけど補足的な意味で、文字なり何なりでイメージを膨らませて貰うっていう意味では凄く大事な事だよね。それでバランスを取りつつ…インタビューとかも表現の内だね。
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>後編はこちらからどうぞ。
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crydayz · 5 years ago
Text
200513 STRETCH
コロナ禍によるこの閉塞感が、人間の上下関係を一時的ではあるが奪ってくれている。
つまり、誰しも平等に不自由。平時なら自由を謳歌できる立場の者ほど、むしろ我慢を強いられる。
ウイルスを使えば新しい宗教が作れる事が立証されたな。ああ、ファンタジー的な話だが、いいプランだと思うよ。
宗教とは、視えない脅威を誇張、捏造する事で人々の恐怖心を煽り、このマニュアルに従えばほぼほぼ安全です と宣(のたま)い人々を統率する為のシステム。
危機的状況であればあるほど、有効なアプローチ。平和な時には信憑性が薄い。だからこそ自ら戦争を起こすのだ、革命を足がかりに支配者になろうと目論む教主たちは。
コロナ禍は中国発だが、中国がわざとそれをやるメリットは何もない。だが、この状況を喜び、漁夫の利を得ようとしている人々は沢山いる。
マスク買い占め的な低次元の話じゃあなく…
「コロナウイルスに感染、適合した人々が巨大化、コロナ獣と化し、街を襲っています! 住民は政府と自衛隊の指示に従って下さい!」的な。
それ含め誰かが書いたシナリオ通りで。
何故そんな事をするかと言えば、世界人口を減らし食料 / エネルギーコストを下げる事と、富裕層から力を奪うのが目的で。
意図としては「人類の平和のため」。
ところが、切り札として用意していたコロナデストロイヤーに耐性を持つコロナ獣が現れ計画は破綻。地球はコロナ獣が支配する終末世界と化す。
だーから言ったじゃん、全然しらねー宇宙生命の遺伝子と恐竜の遺伝子混ぜたやつで新生物作っちゃダメだって
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