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piacevoleitalia · 2 months ago
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冨永春菜ソプラノリサイタル ゲスト REAL TRAUMメンバー  テノール鳥尾匠海
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beyourselfchulanmaria · 5 months ago
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Today I read that A story (short history) on FB about two Chinese artists ... Qi Baishi 齊白石 & 徐悲鴻 Xu Beihong
好感人啊!俺哭了,淚流不止… 😭 這大過年的,管它吉利不吉利的,總比憋得內傷要好。朱蘭我給妳腦門頂上貼個 🧧 red 🤣,沒事的!Lan~*
《知音》忘年之交 (Two famous Chinese painters their friendship between generations.)
徐悲鴻比齊白石小30歲,年齡的差距,性格的不同,並沒有阻礙兩人友情的發展。徐悲鴻是齊白石的摯友也是恩師。
最憐一口反萬眾 使我衰顏滿汗淋
這是節錄齊白石寫給徐悲鴻的詩。
草廬三顧不容辭, 何況雕蟲老畫師, 深信人間神鬼力, 白皮松外暗風吹。
一朝不見令人思, 重聚陶然未有期。 海上清風明月滿, 杖藜扶夢訪徐熙。 ─ 齊白石
👇 徐悲鴻 Xu Beihong 畫馬
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👆 齊白石、徐悲鴻 芋葉小雞圖 102cm×34.5cm (left)
徐悲鴻 竹下雄雞圖 148cm×54cm (right)
1953年,徐悲鴻因腦溢血病逝,事後三年,徐家每月還是準時給齊白石送錢。 92歲的齊白石得知老友已逝後,急忙趕去徐家,一進門就下跪,任何人勸說,他都不肯起來。 徐悲鴻比齊白石小30歲,年齡的差距,性格的不同,並沒有阻礙兩人友情的發展。 在徐悲鴻內心,齊白石不僅是自己的摯友更是恩師,而齊白石卻說徐悲鴻是他一生的恩人。(👇continue...)
1928年,���法回國的徐悲鴻擔任北平大學藝術學院院長,為了將中國畫發揚光大,徐悲鴻一直在尋找有繪畫藝術天賦之人。 或許是冥冥中自有天意,一次偶然的機會,徐悲鴻在陳散原(歷史學家陳寅恪的父親)先生家見到兩副畫《柳塘游鴨》《枯藤群雀》,他驚嘆不已,一打聽才知道是出自民間木匠齊白石先生之手。 於是第二天便登門拜訪。 當時齊白石正在趕制兩方印,徐悲鴻只能站在旁邊等候,因此也親眼目睹了老先生篆刻的章法和刀法。 “蒼勁有力,好像呼呼風聲,篆法高雅,佈局奇崛古樸。” 徐悲鴻驚訝又興奮。 當看到牆上的一幅公雞時,不由得又贊嘆: “先生您的畫自然古樸,不落古人窠臼,自成一格,您看這只只公雞,在不求似中得似,更顯神韻。” 此時的齊白石每天窩在家裡以賣畫為生,經常遭人白眼,看到如此懂自己欣賞自己作品的人,不由得為之動容,上前抱拳道: “知我者,悲鴻兄也!” 徐悲鴻見狀,立馬錶明自己今天來的目的,是想請先生出山,去北平藝術院給學生授中國畫課。 齊白石先是一驚,隨後立馬拒絕道: “我一個鄉巴佬,去洋學堂講課,恐怕會給您徐院長帶來麻煩。” 而徐悲鴻卻表示: “能請先生出山,乃我校之榮幸,何來麻煩一說。” 但後面不管徐悲鴻說什麼,齊白石都是拒絕的。 這樣來來回回,直到第三次,齊白石仍以我是湖南土音不適合授課為由,拒絕任教。 徐悲鴻卻再三懇求並表示: “只要先生您作畫示範就行,不用授課,道理就在其中,為表誠意,願意每天自駕馬車接送,親自作陪。” 就這樣,農民出身的齊白石當上了北京藝術學院的教授,憑借藝術天賦和繪畫功底得到了許多學生的尊敬。 徐悲鴻不僅履行了當初承諾,更是夏天為齊白石裝風扇,冬天為他生暖爐。兩人經常在一起探討繪畫,交情也是一天比一天深厚。 可好景不長,一些保守派聯名抗議,反對將西方的繪畫改造成中國畫,後面事情越鬧��大,徐悲鴻迫於無奈,辭去了院長一職,離開了北平。 徐悲鴻一走,齊白石也不去上課了,學院多次派人去家裡請他,結果齊白石直接遞上一張紙條,上面寫著: 齊白石已死。 為了表達對徐悲鴻的恩情,齊白石又作詩兩首: 草廬三顧不容辭, 何況雕蟲老畫師, 深信人間神鬼力, 白皮松外暗風吹。 一朝不見令人思, 重聚陶然未有期。 海上清風明月滿, 杖藜扶夢訪徐熙。 並贈一幅“尋舊圖”給徐悲鴻,興起,他自己又再劃一幅留給自己。 後來,兩人一直保持著書信來往,當時齊白石還沒有出版自己的正式畫集,徐悲鴻便親筆給中華書局負責人寫信,推薦齊白石的畫集,親自寫序,讓齊白石在藝術界快速站穩腳跟。 而齊白石對徐悲鴻也特別信任,有人告訴他即將有生命危險,讓趕緊離開,齊白石當時也忐忑不安,糾結要不要走,可徐悲鴻讓他留下來,他想都不想就答應了。 1953年,徐悲鴻去世,徐家兒女考慮到齊白石的年齡,就沒敢告訴他,每當齊白石問起,總是說父親出國了,要麼出差了,並且每月以父親的名義給齊白石送錢。 可不料,紙終究包不住火,一次齊白石遠方的學生來看望他,無意間說漏了嘴,齊白石還是知道了。 據畫家郭味蕖回憶,他曾在徐悲鴻紀念館接待了齊白石: “1956年深秋,齊白石老人得知徐悲鴻先生去世的噩耗,立即趕來,一進門就要跪拜,老人眼裡滿是淚水……許久之後才緩緩說要看徐先生的影像。” 徐悲鴻是齊白石的摯友也是恩師。 最憐一口反萬眾 使我衰顏滿汗淋 這是節錄齊白石寫給徐悲鴻的詩。 高山流水,知音難覓,子期離世,伯牙毅然斷琴,徐悲鴻的離世,讓齊白石如何不傷感呢? 徐悲鴻先生在名冠京華之時,能夠三顧茅廬請出布衣齊白石先生,可謂是慧眼識珠。他們都把對方當成畢生的知己,友情早已超越時空,天長地久。 大千世界,人海茫茫,君子百朋,此生能得一知己,足矣!
article via 慕道生 and Slightly edited by Lillian Don
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moment-japan · 9 months ago
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Le Corbusier
10月6日はモダン建築の巨匠、ル・コルビュジエの生誕日。
1887年10月6日、フランス語圏のスイス、時計産業の町”ラ・ショー=ド=フォン”に生まれる。
家業の時計文字盤制作を学ぶため美術学校に入学しますが、しばらくして視力が弱くなり、精密な技術が必要とされる加工職人は無理だと判断、別の道に進むことを模索する中、通っていた美術学校の校長であり建築家で画家のシャルル・レプラトニエに建築の才能を見出され、建築家のルネ・シャパラと共に最初の建築物である彫刻家ルイ・ファレの自宅、ファレ邸の設計を手掛けました。
このスイスアルプスの麓に建つ建物は、コルビュジエが最初に設計した建築物ということで、現在はスイスの重要文化財に登録されています。
1908年、パリに移住したコルビュジエは鉄筋コンクリート建築の先駆者であるオーギュスト・ペレの事務所に、1910年にはドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所に籍を置いて建築を学び、1911年より半年かけベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアの建築物を巡る東方への旅へ。
その後、ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で教鞭を執り、1914年に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法論である建築好きなら誰もが知っている「ドミノシステム」を発表。
1920年にダダイズムの詩人ポール・デルメとピュリスムの画家のアメデエ・オザンファンと共に雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」を創刊。
1925年のパリ万国博覧会ではアールデコ全盛の中、まったく装飾のない「エスプリ・ヌーヴォー館」を設計し、来場者や関係者を���かせました。
コルビュジエは新約聖書の一節である「新しい酒は新しい酒袋に入れよ」の考えを自らの建築設計の中心的思想に取り入れ、新しい時代の建築にはエスプリ・ヌーボー(新精神)を取り入れるべきことを提唱しました。
生涯にわたってモダニズムや新しいビジョンを示す論客としても活躍した建築家・ル・コルビュジエは「住宅は住むための機械である」の名言を残し、1965年8月27日、南フランスの海岸でその生涯を終えました。
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jujirou · 1 month ago
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おはようございます。
秋田県湯沢市川連は雨降りです。
昨日は休み…でしたが、前日出張のお客様からの依頼品の、事務作業まとめ⁉︎をしようとしていたら、山川海師匠からの一報で、気分転換に少し離れた場所へ行かないか…との事で、午前は山散策に行って来ました。
前に父や様々な方々と行ってた場所ですが、��チコチで木が伐り倒されており、昔の山の面影が無い感じどころか、前に山菜があった箇所には、痩せた山菜しか無い状態に…
又植樹するとは言え、何だか悲しぃなぁ…と、師匠と二人で山菜していたら、コシアブラとゼンマイ、山ウドを少々頂きお昼には帰宅。
お昼過ぎからは採ってきた山菜の処理やら、朝やろうとしていた事務作業やら、夕方からはいつもお世話になっている、整体での身体のメンテナンス⁉︎で、アッと言う間に一日が終了。
そして今日も休み…ですが、今日アレヤコレヤと有りそうですが、一つ一つコツコツ頑張ります。
皆様にとって今日も、良い休日と成ります様に。
https://jujiro.base.ec
#秋田県 #湯沢市 #川連漆器 #川連塗 #川連 #国指定伝統的工芸品 #伝統的工芸品 #秋田工芸 #秋田の物作り #漆 #うるし #ウルシ #髹漆 #寿次郎 #塗り仕上げた器物の管理 #春山菜 #秋田県湯沢市川連の春 #山うど #ゼンマイ #コシアブラ #アザミ #整体 #川連長生館 #kawatsura #japanlaquer #JapanTraditionalCrafts #KawatsuraLacquerwareTraditionalCrafts #jujiro
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holespoles · 2 years ago
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Settai Komura 1916
Binding on the back "Aizen-shu" by Kyoka Izumi, published by Senjokan in 1916. Settai Komura joined the design department of the Japanese cosmetics company Shiseido, and was one of the designers who laid the foundation for the Shiseido style.
小村雪岱 見返し装丁 「愛染集」 泉鏡花著 千章館 大正5年発行 小村雪岱は、日本の化粧品会社「資生堂」 意匠部に入社、資生堂スタイルの基礎を作ったデザイナーの一人です。
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castatratewriter520 · 1 year ago
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入宮-外傳
只能躺著多休息的阿成,看著自己原本有命根子的地方,已經被割的一點也不剩,只剩下一根麥稈插在尿孔,一時還無法接受的阿成,除了難過到流眼淚之外,也沒有辦法再恢復過去的男兒身了,這讓阿成腦中回憶起過去阿傑剛閹割完的那段日子,看著旁邊一直幫我的小太監德盛,我與他開始聊起天來了,記得那時的阿傑還比得盛小兩歲,我們兩個當時都才10歲,哪會知道什麼是男女感情,我跟阿傑本來都想自告奮勇的成為太監,但是我當時抽籤的運氣比較好,讓阿傑在10歲那年就閹割成為太監,說起來如果當年我沒有抽到作著記號的籤,或許今天根本就沒有這些事情發生了,既然我註定躲不過要成為太監,為何當年不讓我抽到沒做上記號的那支籤呢,老天爺可真會捉弄我們兄弟兩,一旁的德盛年紀也才剛滿14歲,也沒交過什麼女朋友,他反而覺得自己很開心能幫助家裡,一點也不覺得委屈,看著天真無邪的德盛,自己被閹割成為太監的我,感覺有稍微釋懷了,我繼續跟德盛說著我跟阿傑的回憶,當年他抽到籤以後,一直到真正被閹割之前,其實阿傑並不知道自己究竟要面對什麼,也不知道變成太監以後,會被人羞辱跟嘲笑,他回到家之後,不僅原本的朝氣活力都不見了,連原本我們家鄉附近的朋友都不願意見面了,整天都關在家裡面,直到有一天,我實在不能容忍他一直躲在家裡面,於是我拖著他一起去城裡看雜耍,沿路上根本沒有人認識阿傑,但是他依然躲在我背後,深怕旁人知道他是個太監,但是他一到了熱鬧的街上看到了好多厲害的人在表演特技,他似乎暫時遺忘了那些讓他痛苦的記憶,也在當時,認識了一個在表演雜耍的人,他也是改變阿傑一生的人,他名叫榮華,當年的他才23歲,但是他已經是團裡最被看好的成員之一,榮華長相英俊,身子筋骨非常柔軟,骨架非常健壯,但是當時他不知為什麼射刀的時候出現失誤,小刀直飛阿傑的眼前,但是就在千鈞一髮之���,我用身體擋住了小刀,所以才導致我現在的背上有一條刀疤,當時所有人都嚇壞了,其中當然包括了榮華,他先是出錢讓我們看大夫,接著又買了很多東西賠罪,我們也就這樣認識了榮華。
自從那之後,榮華在市集表演結束後,偶爾會到我們家裡找我跟阿傑玩,但是我跟阿傑當時並不知道,其實當時他對阿傑有好感,他對太監一直有莫名的好感,他之所以知道阿傑是太監,是因為當天跟我們回家賠罪時,被母親說溜了嘴才知道的,這讓當時的我跟阿傑非常的尷尬,或許是因為阿傑被榮華照顧的無微不至,讓阿傑��心對他也產生了依賴感,就現在看起來榮華是一個喜歡太監小孩的怪人,但是在當時的我們都覺得很開心,榮華會教阿傑些雜耍的本事,也會帶阿傑去城裡買東西吃,對阿傑可說是非常有心,爸媽看著阿傑能走出心裡的陰霾感到高興,而我也覺得很開心阿傑恢復到當時的活潑,有一天,阿傑回家後告訴我,他說榮華告訴他,他很喜歡他,要阿傑可以和他在一起,但是那個時候我們都才10歲將近11歲,他說的在一起到底是什麼意思,我也是長大之後才聽明白,而阿傑當年也是傻傻的說好,這件事在當年也是引起了不少問題,那天阿傑開心的去找榮華,而榮華帶著阿傑一起回到榮華的住處,榮華對阿傑先是摸著阿傑已經被閹割的下體,還脫下阿傑的褲子,此時的阿傑並不知道為什麼榮華要做什麼,只知道這樣很癢,榮華告訴阿傑說,他很喜歡他,看到他閹割的下體,讓他渾身興奮,接著阿傑看到榮華的陰莖變得很大很硬,現在你聽起來就知道,阿傑當年其實是被強姦了,但是傻傻的阿傑並不知道,那天榮華要阿傑撫摸他的陰莖,並用嘴巴吸一下,阿傑也都照做,他當時甚至覺得榮華的陰莖好有趣,最後榮華將他的大陰莖插入了阿傑的屁股,這在當時的阿傑因為疼痛而叫出聲,但是當下被榮華摀住了嘴,所以沒人知道阿傑被榮華給強姦了,結果那天,阿傑因為走路看起來有點問題,我跟爸媽才知道阿傑被榮華做了什麼事,此時的爸媽一氣之下,跑到雜耍團找團主控訴榮華的惡行,結果好在團長是個好人,他不僅替我們出了一口惡氣,還將榮華送到衙門,結果榮華因為犯了誘奸罪,被判處了閹割之刑,之後,我聽說他也被送入宮中,改了名叫阿陸,現在也不知道他在哪了,聽著阿成慢慢訴說著自己的過去,德盛也是聽到得很開心,此時他突然想起,前年有個太監因為跟另一個太監好上了,被純妃也就是現在的純貴妃給活活杖斃,裡面有個人好像就叫阿陸,聽到這結果的阿成只有微微一笑說,沒想到他也死了,阿傑也不知道為什麼死了,明明說好前天就換回來的,為什麼人就這樣死了呢,此時的德盛說,他聽師父說,阿傑似乎是因為一個男人而死的,聽到這消息的阿成,不顧身體的虛弱,怕了起來開始追問,是什麼男人,德盛說,那個男人似乎是一間餐館的伙計,那天據說是因為阿傑看上了那位伙計長得很英俊,結果跑去搭訕他,但是對方一聽到他說話的腔調,就覺得他是個娘們,就找了一票人,給他活活的痛揍了一頓,沒想到阿傑就這樣被他們打死了,結果那幾個人因為犯了殺人罪,目前已經被捕入獄了,正等待審判呢,聽完阿傑是這樣死了的阿成,眼神充滿了殺氣,他發誓,要讓那群人生不如死,於是阿成拜託德盛,要他去尋找賢妃娘娘,要她幫忙,於是當天晚上,德盛跑到賢妃宮裡,將此事一五一十的告訴賢妃娘娘,此時的賢妃娘娘正因為他的阿成被迫成了太監,內心的怒火無處發洩,這讓她逮到了機會,於是她隔天就要了出宮令牌,命令一名太監到衙門,讓這件事交給她來審理,於是這件事就這樣一直等到阿成順利離開敬事房後,到時候再一起出宮去報復那群可惡之徒,阿成現在必須永遠成為阿傑,而蘭兒也已經有了身孕,可不能讓蘭兒為了我而冒險出宮,於是我要蘭兒讓那群人關到順利生產後,等身子調理好了再出宮去,蘭兒很聽我的話,於是綿愉出生後的第二個月,我跟蘭兒才一起出了宮,當那群人看到我出現時,他們一度以為他們見到鬼了,我也不再隱藏自己的身份,直接告訴他們我是阿傑的哥哥阿成,你們害死了我弟,我要你們付出慘痛代價,此時蘭兒已是賢貴妃娘娘,因為他們的衝動,導致阿成被迫閹割了,那就也讓他們嚐嚐被閹割的痛,於是這群人一共四人,都被處以宮刑,而我則是在現場看著他們一個一個被閹割,他們每個人在下刀時的慘叫,讓我覺得內心的仇恨就少了一些,當四個人都被閹割以後,我要刀子匠把他們的寶貝給我處理,我則是當著他們四個人的面前,將他們的寶貝丟進了火坑,全部都燒成了灰燼,看著他們崩潰的眼神,我也解了自己跟阿傑的仇恨,但是阿成再也無法變回男人,阿傑也無法死而復生,沒想到我跟阿傑的命運一樣,最終都要當太監,而最後卻是我要留在宮中,好險有蘭兒跟綿愉的陪伴,不然在這宮裡,我也不想待下去了。
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moko1590m · 9 months ago
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横綱(よこづな)は、大相撲の力士の地位の一つで、最高位のものである。大関の上。幕内に属する。 呼称・由来 元は、時の力士の内の実力者(原則、大関)の中から、特に優れたものに対して、白麻(はくま)製の注連縄(しめなわ)の綱を腰に締めて土俵入りを行うことが許可されたことを指す。この綱を「横綱」と読んだことから転じて、綱を締めることを許可された力士のことを「横綱」という称号で呼ぶようになった(詳細は後述)。その後、横綱免許を得た力士については番付上も「横綱」と記載するようになり、称号ではなく地位としての横綱が確立することとなった。 特徴 待遇 全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされている。したがって、横綱になる力士はその地位に���さわしい品格と抜群の力量を要求され、それが果たせなくなった時は、(他の地位の力士と違い)力量相応の地位に降ろされるのではなく、現役を引退することとなる。 横綱の品格基準として、は日本相撲協会は以下のように明記している。 一、相撲に精進する気迫 二、地位に対する責任感 三、社会に対する責任感 四、常識ある生活態度 五、その他横綱として求められる事項 月給は300万円であり[1]、大関(250万円)よりも増える。 横綱に昇進すると、名誉賞として100万円が授与される。 土俵入りは、その称号の由来である「横綱」を締めて、単独で実施する。 詳細は「横綱土俵入り」を参照 付け人は通常、10 - 15人程度つく。綱を締めるために人手を必要とする事情もあって、大関以下の関取に比してその数は非常に多い。 明荷(あけに 締込や化粧廻しなど力士が様々な道具を入れるための葛籠(つづら)。 関取が本場所および巡業で各地をまわるときに使用する。 )は支度部屋に3つまで持ちこむことが認められている(三ツ揃いの化粧廻しと綱を持参する必要があるため。大関以下は1つしか持てない)。 巡業等、公式の移動においては、大関と同様、鉄道はグリーン席、飛行機はファーストクラスを利用することができる。また東京での本場所の際に両国国技館の地下駐車場に直接自家用車を乗り入れ、駐車することもできる(ただし、現役力士の自家用車の運転は協会の内規で禁止されていて、これは横綱であっても例外ではない。したがって別に運転手を確保する必要がある)。 年寄名跡(みょうせき)を持たなくても現役引退後5年間は現役時の四股名のままで年寄(委員待遇)として協会に残ることができる。また、師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる。 現役中は力士弁当をプロデュースすることができる(大関も同様)。 日本相撲協会が財団法人であった時代は、日本国籍を有する横綱は評議員として役員選挙の投票権をもっていたが、協会が公益法人となったときに廃止された。 取組 幕内力士として、本場所では15日間毎日取組が組まれる。取組は終盤に組まれ、結びの一番をつとめる(複数人出場している場合は輪番で担当)。 定員 定められておらず、現役力士中にその地位にふさわしい力士がいるか否かによって増減する。同時在籍人数の最多は4名で、横綱不在になったこともある。
横綱 - Wikipedia
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kyoto4 · 11 months ago
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『 貨物列車で行こう!』長田 昭二 緒 (文藝春秋)
わたしも乗りたい。
第一章 ついに貨物列車に乗る! 貨物線を歩く/乗れないから乗りたい――そこにロマンがある/人知れず日本の物流を支える駅/極限までのスリム化/「拳一つ分」の隙間/動力車の拠点「機関区」/ついに貨物列車に乗る!/突然の鉄道無線/いよいよ「貨物専用線」に進入/東京で貨物列車を見ない理由 第二章 ルポ・東京貨物ターミナル 鉄道貨物の全容を見るべく「東京タ」へ/貨物列車に乗って貨物駅に向かう/「新鶴見信号場」とは/梯子段を上る「垂直乗車」/「ブレーキ、ゆるめーゆるめー!」/心躍る〝短絡線〟/「いよいよ来たか……」貨物列車は地下へ/羽田空港の下を通る点線=東京港トンネルへの憧れ/昭和で見た夢が令和に実現/添乗区間が延長した!/「東京タ」の構内をほぼ二往復/輸送量は毎年約一〇三%の伸び/高まる大型コンテナのニーズ/変わりゆく物流の仕組み/日本最大の貨物駅にある「中央研修センター」に潜入/異常生時の対応を学ぶシミュレーター/ここに座った以上は定時運行遂行の義務がある/「輸送指令」は〝二度呼び〟が基本/懐中電灯一つで長大な列車を点検 第三章 経営再建と未来の貨物輸送――JR貨物トップインタビュー 「変えるをよし」の企業風土が自信をもたらした/さらなる被害が予想される南海トラフ地震への対策/経営が厳しいJR旅客会社が増えた現状/貨物輸送の新提案・新幹線による鉄道輸送は?/総合的な輸送体系「モーダルコンビネーション」という概念/「安全」のための人材確保と労働環境の整備が不可欠/あらゆる物流の集積地点「東京レールゲートWEST」/銀行員、ハウステンボス……様々な経験から生まれた経営軸/「企業として安全はすべての基盤である」/原風景は「貨物列車のある情景」/「ベテランから若手へ」鉄道を支える、技術を受け継ぐ仕組み/運転士によるリレー方式――確立された輸送体系が強み/鉄道貨物が抱える問題をテクノロジーで解決できるか/従来の設備を有効活用「積替ステーション」/「空荷」を解消した「ビール列車」 第四章 広島車両所探訪記 重要拠点・広島/迂回運転を実現した「匠の技」/歴史を刻む広島車両所/「日本一」の車両所/全般検査と重要部検査奈々枝歴史ゆえの「使いにくさ」/「走って磨かれて輝く」車輪/時に親子、時に兄弟/機関車にはトイレがない/憧れの〝車掌車〟の現実/ベテランから若手へ「技の伝承」/車両所は「大きな家族」 第五章 「セノハチ」貨物列車添乗ルポ――広島貨物ターミナル駅‐西条駅 フィーダー輸送の拠点/数字に出てこない忙しさ/日本一のフォークリフトドライバー/営業面の司令塔/もし列車が遅れたら……信号扱い所の修羅場/〝途中下車〟できない貨物は……/鉄道マンにとっての〝難所〟はマニアにとっての〝名所〟/九州と首都圏を結ぶ物流の大動脈/居住性に優れた運転室/無線の通信に沸き上がる感動/普段乗れない貨物線を走行/本格的な上り坂へ――補機本来の業務開始/上り線には架線が二本/「ノッチオフお願いします。どうぞ」/登りきって連結を外す/「ポウッ!」遠ざかる本務機/待ち時間も切らさない集中力/「発車!」「進行!」一人ぽっちで走り始める/視界も広く、軽快に走る/帰りのほうが忙しい/シカ、��ノシシ……夜に遭遇する動物たち/登りと同じ十三分で「瀬野八」を下り終える/列車は貨物専用線へ。時速八十キロで快走/廃車を待つ〝もみじ色〟の機関車/物流を支えるプロの技と知恵 第六章 「文藝春秋」を北に追え!――青函トンネル貨物列車添乗ルポ 大きなミッションを持って貨物列車に乗り込む/「文藝春秋」十月号の積み込みを見学/貨物の積み下ろしや旅客の乗降は行わない「青森信号所」へ/貨物列車でなければ通れない区間に感じるロマン/中村さんが席を譲ってくれた理由が判明/トンボが乱舞する田園地帯を疾走/青函トンネル五十三キロを貨物列車はひた走る/世界第四位、長大トンネルの入口/しばらくすると飽きてくる……運転士の眠気対策は/地上に出たと思ったら次々とトンネルが……/津軽海峡と函館山を望む〝絶景路線〟/急に無数の線路と並走するようになり……/三〇五九列車は定刻より二分遅れで到着/「北斗9号」で三〇五九列車を追跡/コンテナ貨物取扱量全国二位の「札幌タ」/十七時間五十分の鉄路の旅/「盛りだくさん」にもほどがある一日の終わり/一日半ぶりの対面/「イクラ丼」か「混載丼」か/「あとがき」に代えて
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takaki2 · 5 months ago
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コンプティーク元編集者 吉田隆インタビュー
――:日本でファンタジーが根付いた時代をぜひお聞きしたいのですが。
ファンタジーといっても色んなジャンルがあるんですよ。ナルニア国物語はハイファンタジー、スターウォーズはSFファンタジー、ハリーポッターは魔法のファンタジー。SAO(ソードアート・オンライン)くらいになってくるとちょっとファンタジーではくくりにくい世界ですね。私がずっとやってきたのは「剣と魔法のファンタジー」ジャンルなので今回はそこに限定してお答えします。
――:コンプティークの動きと連動するように、安田均さん(京都大学SF研究会に属し、6年務めた丸紅を退職したのちに専業翻訳家)が当時立命館大学の学生だった水野良さんと出会って、『D&D』を翻訳しているうちに、日本オリジナルの『ロードス島戦記』をつくったと聞いています。
1977年に米国で『Traveller』というゲームが出て、それが最初のSFロールプレイの始まりといわれますね。1974年の『D&D(ダンジョン&ドラゴンズ)』がいわゆるTRPG(テーブルトーク・ロールプレイング)の最初ですけど、日本だとSFのほうが通りがよかったので、安田さんがこの『Traveller』も『D&D』と一緒に紹介していったんです。ただ日本だと、この世界観の普及に大きく貢献したのがAppleで1983年に出た『ウィザードリイ』のほうですね。まだ皆が辞書を片手��一生懸命“翻訳"していた時代です。
私の定義だと、1984年に出た「火吹山の魔法使い」のゲームブックが日本で最初に「剣と魔法のファンタジー」を日本語で展開された最初の年だったんじゃないかと思います。85年には『D&D』の日本語版ボードゲームが新和から出て10万個売れる大人気商品になりました(『トラベラー』はホビージャパンによって84年にリリース、3万個が売れた)。
――:なるほど、米国から5~10年遅れで安田さんや水野さんが“翻訳者"の位置づけで遊びを輸入し、ただ米国とはちょっと違う形で浸透するのが1982~85年の時期なんですね。まさに『エンタの巨匠』でエニックスのゲーム賞をとった堀井ゆうじさん達と集英社の鳥嶋さんが『ウィザードリイ』の着想から『ドラゴンクエスト』を開発していった経緯をインタビューしました。
日本ではSFファンタジーが先行してたんですよ。それでSF小説が広がって、ボードゲームになって、それがゲームブックにもなっていく。そうしてファンタジー自体の土壌ができあがった上で、『ウルティマ』『ウィザードリイ』で剣と魔法のファンタジーに影響受けたのが『ドラゴンクエスト』の開発者である堀井さんであり、「コンプティーク」側では我々だったわけです。
ファミコンがマスに広がるきっかけがあったわけで、その先に86年に水野良くんが『ロードス島』を流行らせていったのは時代の必然もあったわけです。
※)安田均氏と水野良氏がD&Dの紹介をやっていたところ、85年12月に角川専務の角川歴彦から連絡があり、最初は『ドラゴンランス戦記』というゲームブックの翻訳依頼だったが、意気投合した上で「コンプティーク」でTRPGのリプレイを連載しようという話になった
――:こう考えると、驚くほど時代が重なってますよね。1986年5月がドラクエ1の発売、ロードス島の連載が「コンプティーク」9月号から。ボードゲームと小説と雑誌、そこにファミコンゲームが重なりながら、この1986年に日本のファンタジー史が作られ始めたんだなと改めて思います。
TRPGの最初は『ログイン』(1983~2008、アスキー。本雑誌から『ファミ通』も生まれた)が4ページのリプレイをのせたんですよね。また、それ以前にウオーシミュレーション雑誌の『タクテクス]でもトラベラーのリプレイを掲載したんです。それらをみて角川の『コンプティーク』でもTRPGのリプレイをやってみようとなったんです。白羽の矢がたったのが水野くんで、彼のゲームマスターとしてTRPGをプレイした経験をそのまま実況のようなかたちで台本のようにしてもらおうと、リプレイの連載���始めます。
――:これって最初は『D&D』をプレイしている中でいつのまにか『ロードス島』になっていくんですか?
ルールは『D&D』でゲームマスター水野良がシナリオを作り、それをもとにプレイし、お話が膨らんでくるんですが、掲載を含め出版においては『D&D』をもっている米国TSR社��の著作権問題になるんですよ。「ロードス島はD&Dの一部としては認めない」とか。それではルールもオリジナルで作ってしまっていいかと聞いたら、それは勝手にやれとなりまして。ですから当初はD&Dのルールを使いながら『ロードス島』というオリジナルストーリーでキャラが展開され、途中から独自のゲームルールで話はというかゲームプレイは継続していくんです。
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jaunepastel · 11 months ago
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百老匯的貓
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此刻,我坐在空蕩蕩的台北家中,距離出發只剩下倒數二十八天。
車子收走最後一箱回收,三十坪的的老房,頓時像剪掉多年長髮的少婦,輪廓活靈活現,展露最原始的模樣。回憶如老照片被翻出,熱戀的歡愉,熟稔的默契,爭執的苦語,新生的喜悅,呱呱墜地的女兒溫溫,際遇如候鳥過境,隨著即將而來的遷徙,沾了邊又得離去。
「喵喵,你也要離開我了嗎?」肥肥的肚腩,在我大腿間形成一顆抱枕,接著掙脫,跳了下去。
大概是低估了紐約租房市場的險惡,以及租客間的競爭火熱。這幾個月,每天早上醒來,我就像緊咬股市開盤的投機客,杵在電腦前,看好目標,下好離手。剪下貼上剪下貼上,有時一口氣連發十幾封郵件和私訊,不小心把開頭的房東人名給貼錯,也是常有的事。
例行公事,我打開收件夾,畫面好似當機:
Inquiry about rental in New York
Inquiry about rental in New York
Inquiry about rental in New York
每封信標題內容都大同小異,不外乎身家背景介���,幾歲哪裡人什麼職業,不煙不酒品行良好,搞得跟相親一樣,最後的最後才會提到我有一個可愛又文靜的一歲半女兒,會跟著我們一起前行。心想說篇幅這麼少,房東應該不會介意吧。事實證明是我想太多。
一個人找房,深諳室友之道,想離曼哈頓近一點不是難事;兩個人找房,下點功夫還是能找到合租公寓,當起二房東的大有人在;三個人找房,已讀不回是常態,歉聲連連說房子太小不適合,建議我們自己租個1B1B好區套房,人生就此飛黃騰達。偏偏,我沒那個錢,也不求飛黃到哪,只想尋個短暫停留的家,得在兩個人找房的預算間,找出三個人的各種可能。
一天一天過去,那些可能,隨著我的Inquiry們,一同消失在茫茫網海裡。
『沒有室友就是爽!三四月曼哈頓套房短租。』
我被這則發文的豪邁給吸引住。 「······我們找房好一段時間了······衷心希望有機會入住您的套房。」
雖然依舊是剪下貼上,但文字背後的焦慮無助,或多或少成功傳遞到銀幕外的另一個空間去了。同一時間,我正糾結於三四個物件當中,短租的日期該如何兜湊,才能無縫接軌這半年;森林小丘上課要通勤一個小時,曼哈頓一樓要擔心老鼠和醉漢入侵,威廉斯堡房租要六個月全付會不會是詐騙,我像童話故事裡撿石頭不能往回走的女孩,再挑下去可是一顆石頭都沒有了。距離出發還有兩個多禮拜。 「小孩我是沒問題,只是我家在四樓沒有電梯,你們會不會不方便?」 莎拉簡短的答應,讓我想起她發文時的爽朗用字。「住很重要!我會幫你們打點好,請好好享受我的公寓。」這麼一句話,彷彿給我吞了顆定心丸,安撫行前騷動的思緒。搭機前一晚,包袱所剩不多,不安盡拋腦後,心情輕鬆的不可思議。我看著逐漸縮小的地表樓房,龐雜的台北城,我的故鄉,想著哪天我會不會愛上這輕飄飄的感覺。 於是,我們擁有了第一個結尾是New York的地址,位於曼哈頓百老匯區。
「早知道不要租四樓了!」西恩氣喘吁吁,將最後一個三十公斤���的行李箱拖上樓,一進房門就癱坐在地。「下次搬家可不可以找一樓的。」「我盡量囉。」想到三個禮拜後又要再將所有家當搬下樓,我不禁打了個冷顫。一回生二回熟,我一邊安慰西恩,順手從行李箱拿出一小包烏龍茶,轉頭尋找廚房裡的熱水壺。
十二點十分,東部標準時間。與台北相隔十二個小時的曼哈頓午夜。從甘迺迪機場搭上華人計程車,行駛在平板無憂的快速道路上,兩旁盡是皇后區黝黑大遠景,此時還感覺不到紐約的形貌。空氣粒子旋轉收縮,直到出了中城隧道,我們隨著車流,一舉穿進曼哈頓的心臟。高樓百窗,霓虹街燈鼓譟,打亮了巨大看板上的秀顏,女明星眼眸深邃,企圖引人犯罪。三十七街經過第五大道,塞車的步調,讓我用慢動作欣賞了帝國大廈,那棟建築是你一看到就會認得,不需贅述的經典,這不是夢,卻像夢遊迷幻沈醉,我正在電影場景裡。 夜深,暖氣徐徐放送,驅散我體內的累積疲倦,遠方傳來救護車的高頻呼喊與零星槍響。我閉上雙眼,腦海不由地響起《計程車司機》中憂鬱的薩克斯風,寂寞都顯得立體。喝完母奶的溫溫被西恩抱在懷裡,早在柔軟大床上睡去,只留我與這城,遲遲捨不得入眠。 ♦
初春的光,灑進十坪米的套房,我吸進一口冰涼,清醒地環視四周。對我來說,到一個落腳處,第一件事就是確認廚房。烤箱冰箱洗碗機,醬油麻油中西調味料,麻雀雖小五臟俱全,滿意極了。房子中央擺著一張小巧的鵝黃色木桌,波浪弧形的斑駁桌腳,想必是古董老件吧,突然想起莎拉是學藝術的,牆上掛滿湖水藍綠的動物畫像,獨角獸的尖角孤傲揚起,擠得扁扁的壓克力顏料罐則充滿了生活的氣息。紐約的氣息。
溫溫的雙手扶在起霧的窗上,留下不完整的掌痕,熊熊圖案的米白睡袍還穿在身上,模樣甚是可愛,繼續在窗上拍了幾個小手印,看來她很喜歡這裡,一切如此新鮮有趣。
簡單梳��,我們輕裝上街。地底白煙卷卷升起,南北向的道,費里尼電影般的靜止車陣,幾何玻璃帷幕,抬頭讚歎資本主義的雄偉;東西往的街,消防梯鏽得煙灰,鷹架層層堆疊,衰敗與生長同時交織成紐約的血肉。小販高聲兜售自由女神,芭蕾女伶頂著包頭,黑衣曲線魚貫沒入窄門,三件式西裝的俊俏男子,用力咬了手上的貝果,一步作兩步橫越馬路。 售票亭外熱熱鬧鬧,我和巷口的《貓》四目交接,黑底黃目如紐約客犀利,這貓名氣響亮,而我竟然一次也沒走進去過;徘徊中城一圈,在Wholefoods超市採購生鮮、酒足飯飽後,金黃燈光齊下,十字路口變成大型伸展台,時髦男女自信耀眼,提著大包小包的我們硬生生穿過《芝加哥》滿溢的開演人潮,美腿包圍爵士樂,上一秒還沈浸在感官享受,下個轉身就被《西方壞女巫》的綠臉紅唇給嚇個正著,衛生紙差點從紙袋裡滾了出來。
開學在即,除了扮演觀光客,還有正事要辦。郵件傳來,通知我去中國城的廚藝用品店,領取已經繡好名字的制服,還得試穿廚師鞋。
「你好了嗎?」西恩熟稔地將溫溫裝在背巾裡,露出兩隻小腿晃呀晃。
「都好了,我查一下。等等可以在附近找個中菜館。」我穿上鞋,低頭盯著手機推開房門。
「打不開!」我大力扭轉把手,門還是一動也不動。
「怎麼可能,你的鑰匙咧?」西恩接手開門,我摸摸外套牛仔褲口袋,脫了鞋在地上裡翻找包包。
「看來我們被反鎖了,你打給房東吧。」西恩將溫溫放下,開冰箱裝了杯柳橙汁。
我打給莎拉求救,太過緊張以致於忘了她在地球的另一端,好在莎拉接了起來,給了我Super的電話號碼,說是管理員會幫忙,要我別擔心。許久沒說英文的我,要打給陌生人,還真有點語言障礙。不管了。電話接通,我的心跳也跟著嘟嘟響。
「我是莎拉的房客,曼哈頓八大道,我們房門被鎖起來,你能來開門嗎?」第一句話順暢說完,我���鬆許多,等待對方回應。
「我在長島······放假······再見。」這個Super大概是拉丁裔,捲舌音吃掉了話中好多字,我只聽到幾個令人崩潰的重點,接著是一陣沈默。莫名其妙被掛電話後,我也不好再打擾莎拉,決定打給附近的鎖匠碰碰運氣。殊不知,鎖匠在電話那頭嘰哩咕嚕一長串,我一個字也沒聽懂,濃郁口音令人費解。西恩和溫溫坐在餐桌喝果汁吃餅乾,彷彿看我在演哪一齣鬧劇。
我用力敲了房門幾下,宣洩怨氣,金色門把都快被我轉鬆��此時,我聽見開門聲從隔壁傳來,像是轉開保險箱的勝利喀噠聲。
「哈囉,請幫我開門,嘿嘿!」我一邊拍門,試圖將聲音穿透金屬門板傳送到外。所幸,鄰居老先生正要外出,把插在大門上的鑰匙取下,解救了我們。一出家門,熟悉的《貓》埋伏街角,琥珀雙眼大膽直視初來乍到又莽撞的我,這回連貓都在取笑,笑問我準備好了沒有,迎接紐約這場大戲。
走著走著,在百老匯,我們的新家,歌詞的最後一句悠揚地唱著。 
A new day has begun. 明天又有什麼等著我呢? 寫在2017年.春
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ryotarox · 5 months ago
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谷口吉生氏は丹下健三氏が広島復興の基本とした「平和の軸:原爆ドーム、原爆慰霊碑、平和記念資料館を同一線上に並べた都市軸」の軸線上に広島環境局中工場が位置していることに気づき、その軸線を断ち切らないように、吉島通りを延長して海へ通り抜ける空間をつくることを提案した。
(広島市環境局中工場の魅力を探る|美術館の巨匠建築家谷口吉生から)
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ah-xun · 6 months ago
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原作:神北克 •《穿越效應》
如果看不懂漫畫原文,請將圖片下載下來用谷歌翻譯來進行逐張翻譯。
改編:陳郁勳
⚠️以下故事是發生在楊聚強與清軍在歐洲的意外相遇至法國投降之間的故事,前情提要詳情請看該連結: https://www.facebook.com/share/p/1QXTGP4TVL/
被「採樣」楊聚強此時已被押入地牢之中,手捂著屁股直喊疼。
突然,衛兵打開來牢門,釋放了楊聚強,並將他帶到一處通往地下室的門口。楊聚強問道:「這下面該不會還有更多的護士與爪子吧!?」
士兵回答道:「沒有陛下的旨意,任何人都是無法進去的,所以我也不知道有什麼東西在裡面。」
接著,楊聚強走了進去,同時感嘆道:「這裡面還真是深呀…」突然臀部的餘痛傳來,使他難以忍受,他捂著屁股直喊疼。走到樓梯盡頭後,來到一個銜接空間,空間盡頭就是一扇大門,而大清帝國已經坐在一旁的板凳上等候多時,大清帝國打開大門,領著楊聚強走入內,此時大清帝國反問楊聚強:「你想知道…為何我為何知道你是誰,又為何我至今沒能垮台、被革命推翻、科技領先世界的原因嗎…?」經過一段地道後,兩人來到了一扇大石門前,而這扇門只有大清帝國才能夠打開(指紋辨識?),但這道們大清帝國早已忘記是誰設計的了…
打開門後,映入眼簾的是一座宏偉的圖書館,大清帝國繼續領著楊聚強繼續往前,隨後來到一處書櫃前,告訴楊聚強:「裡面有你所有問題的最終答案。」接著便推動了隱藏在書櫃中的書本狀機關,接著再走了一小段樓梯(樓梯是指我加的,原作沒有,目的是增加懸疑感),最終來到了一處密室。
密室深處有著一個木桌台,上面的架子上放著的正式楊聚強在康熙時代被大清帝國調包的平板,楊聚強見狀,推開大清帝國,往前直奔喊道:「這不是我的平板嗎!?怎麼會出現在這裡!」
大清帝國緊追在後:「放肆,不准亂碰武聖密訓!快給我向其跪下!」
楊聚強頓時停下了動作,接著跪下並說道:「皇上…我真的很尊敬您和這個奇妙的世界…不過我為何要隊自己的平板電腦下跪啊!」
大清帝國看了看楊聚強再扭頭看了平板,心裡想著:看來是這傢伙沒錯了…」
接著便向楊聚強說道:「那塊板子若真是你的,那你就開機證明吧…」
隨後楊聚強啟動了平板,接著查看了其概要內容,發現其運作的時間高達97090天之多,楊聚強一臉震驚,楊聚強疑問道:「這平板確實是我帶來的沒錯…但不是被坦克碾壞了嗎?如果平板在這裡,那麼被碾壞的那個…是什麼?」此時楊聚強腦海浮現一個人物:「等等…你就是那位公子!?是你調包了我的平板!?」大清帝國笑呵呵的答覆:「你現在才認出朕來呀,楊聚強。」
楊聚強驚嘆:「太厲害了…居然…居然能以假亂真到讓我毫無察覺,那個時代的工藝居然如此之高…了不起…」
「別小看我大清朝的工匠,小事一樁而已。」大清帝國說,「原本想將你留下為朕助一臂之力,沒想到你當時居然就這樣悄無聲息的離開了…居然讓朕等人找了260年…」
接著楊聚強問這到底如何保存,照理來說浙是會自動分解才是。
大清帝國反問楊聚強不覺得這裡很冷嗎?
此時的楊聚強才反應過來,大清帝國繼續說道:「這是我���意命人建造的冰窖,目的就是為了保存它,在冷藏系統技術發達以前,是用來自黑龍江的冰塊放在地窖上方之地面進行冷藏的。」
此時的楊聚強已經點開平板,發現平板中無數的科學技術資料,簡直是手把手的大國崛起資源包,令其直呼不可能。
突然大清帝國蹲了下來,從楊聚強手中抽走了平板。
「楊聚強,朕回答了你的問題了,該輪到你回答朕的問題了…」大清帝國對其說道,「自取得平板至今,我已經將內部的許多資料看過了無數遍,但是…有這麼一個特別的資料夾遭到了加密、鎖定,我至今為止一直都無法解鎖,朕猜想你應該能開啟它。」
楊聚強接過平板後發現這個資料夾需要指紋驗證,隨後又看了看自己的手,愣住了…
大清帝國見狀,向楊聚強說道:「關於時間技術,裡面的資料都多次提及『魔王血』,你知道此為何物嗎?」
「魔王血很有名呀,我們在未來都知道…」楊聚強答,「不過你們可能沒聽過吧…」
「畢竟這個時代還沒發生,我想也不會發生吧…」
接著就向大清帝國講述了關於魔王血的來龍去脈…
接著,楊聚強意外成功解鎖了這個加密的資料夾,是關於魔王血來源以及上海之戰的一切真相,接著楊聚強便向大清帝國給出了答覆:「有了這項技術,我們在這個時代也能控制時間,發展時空旅行!」
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ashitatsu · 1 year ago
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大泉洋「私はね、こう見えて忙しいんです」 キャプテンの第一声がボヤキ。 我々の期待通りのコメントを頂き、数百人の観客からは割れんばかりの拍手ですよ。 その後も 「武道館リサイタルもある、ドラマもある、その他の仕事もある。『本当に3日間も船に乗らなければならないのか』と何度も事務所に確認した」 すごい。 これから乗船する数百人を前に、当の船長が船に乗りたくねぇとゴネている。 すでに出発式はトークショーと化し、壇上にいるのはキャプテンというより綾小路きみまろ師匠。
大泉洋と行く豪華客船クルーズ YOソロー! レポート2(出発式~船へ移動) | ろじっくぱらだいす(Logic Paradise)
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miragemby · 2 months ago
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같은 하늘 아래 있는 지금은 무서울 게 없습니다.
03.4月の前半はさなはハチャメチャにやられてしまい考え込みすぎ闇堕ちみなとざきやったのでたくさん迷惑をかけてしまいました。一人やったら間違いなくブラジルに行ったきり戻ってこられへんくらいの、自分じゃどうにもできへん起き上がられへんお手上げ状態でした。「助けて」と言うのが苦手で、そんな自分が嫌すぎて、こんなんやったら今までとなにも変わらんやんって思っとったんやけど、「助けてと言いたいと思��る」君がいてくれたから、乗り越えることができました。ありがとう。もんもんとしたものを(もやもやの助長はもんもん)、一個一個のかけらを集めるように、ひとつひとつ答え合わせしていくようにゆっくりと。考えを放出して、これはこうかなとか、いろいろ考えた結果がこれなんだけど合ってる?ってことも全部聞きたいから。伝えないことに後悔するよりも相手に伝わるようにする努力をお互いにしているから、より受け入れるし受け入れてくれているのかなと思います。たくさんの言葉を交わしながら、最後には「こんなに深く話せる関係っていいね」となりました。
「같은 하늘 아래 있는 지금은 무서울 게 없습니다./ 同じ空の下にいる今は、怖いものなんてありません。」
一人ではなく二人。お互いがいればなにも怖くない。もしも怖いなと思ったら、これからも匠海の言葉に甘えようと思う。いただいたラブレター、水族館の半券チケット、ウエスタンランドシューティングギャラリーのスコアカード。大切なものをぎゅっと抱き締めてあのときのことを思い出すよ。匠海がいるから大丈夫って勇気付けてもらえる。小さなことかもしれないけれど、さなにとってはとても大事なものを見過ごしそうになっていたから反省。一番近くにいてくれてありがとう。さなも、匠海が結構です!ってなるまで一番近くにいたいと思います。そんな日来させません。墓場まで着いてきます。さすがに激重すぎる?そういう日が来たとしても、私たちなりにしっかりと話し合って答えを出していきたいなと思います!
P.S.俳優さんのときも、バラエティしているときも、どんな様子も大好きなんやけど、歌ってギターを弾いている姿が一番好きです。でも結局、全部好きです。
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tatsumine · 7 months ago
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上野駅へ
#はにわ
#東京国立博物館
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#LUMIXJAPAN #LUMIXS9 #LUMIXphotography
#AstrHori 50mm F2 #銘匠工学
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runpenparis · 8 months ago
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るんぺんパリ【RunPenParis】
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自己紹介 2024年11月4日追記 6116文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは少しある
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している それは去年に末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 観光施設って感じ 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 今年は10月18・19・20(金土日) 19(土)は久しぶりに一人で一日中お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件回って、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて上野天神祭へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 夜の19時から同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったガキさんは すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので閉店の1時までカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の20(日)は上野天神祭に参加している同級生のオデに会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く紅梅屋でおみやげを結構買って 桔梗屋で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 俳聖殿のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 上野城のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく上野城をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった この子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 新天地には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 大きな化粧品店は更地になっていた 高校の時の知り合いが「クワトロNo.4」という バーを経営しているが、まだ入った事はない いつか行ってみたい気持ちはある ただダーツバーらしく 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど バーの扉って感じで雰囲気はあった 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で それにしても伊賀は狭いなと感じる
市部という地区だったと思う 近くに市部駅という無人駅がありその近くの 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 召し上げられた 小学校6年卒業までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 バスケ部の試合で名張の体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら右足のかかとがにヒビが入った その夏にはバスケ部をクビになり陶芸部に入った 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線のそういう女子には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。 高校生の頃はたくさん恋をしたが 自分が不器用だったので自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた 人を好きになることに迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくという感情で奥手に過ごしていった そのせいか、他校の女子からゲイだとウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時は楽しければなんでもよかった
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけでやっていて 週3回ぐらい夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して ���の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に��点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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