#即決断即行動
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pomodorosa · 6 months ago
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ストリーミング詐欺の被害者になった話:A story about being a victim of streaming fraud
昨日の朝、音楽配信を任せているディストリビューターから「あるプラットフォームであなたの曲が異常再生されている。ストリーミング詐欺の疑いがあるので、あなたのアルバムの配信を停止する」と連絡があった。
2020年にリリースされた私の1stアルバム「pomodorosa」だ。
もちろん私には身に覚えのない訴えであり、偶発的なエラーもしくは誰かが恣意的に私を貶めようとしているのだと思った。
即時、ディストリビューターには自分が潔白であること、ストリーミング詐欺を疑われるようなプロモーション活動はいっさい行なっていないことを主張した。 しかし現時点でまだディストリビューターから回答は得られていない。
先方の回答を待つ間、どうにかこの問題の解決策を探して国内外問わずネット上を調べまわったが、分かったのはこういった"ストリーミング詐欺の嫌疑"に対する独立系アーティストの立場は極めて脆弱だということだ。
SpotifyやApple Musicなどの配信プラットフォームは、本当のストリーミング詐欺であろうとそうでなかろうと、ストリーミング再生数の異常を検知すれば自動的にディストリビューターに報告をし、報告を受けたディストリビューターはアーティストへの事実確認をすることなく配信を停止する取り決めになっているというのだ。
つまり、事実はどうあれ「ストリーミング詐欺」なるレッテルがいちど貼られれば、ディストリビューターや配信プラットフォームからその原因や根拠が提示されることもなく配信は停止され、アーティストには弁明の機会すら許されないのである。
仮に自分の無実が証明されて配信が再開されることになっても、楽曲が停止されていた期間のロイヤリティは発生しない。 アーティストが本来得られるべき収益を不当に阻害されても、それを補償する制度はない。
つまり、やろうと思えば誰か知らない第三者が、恨みか妬みか単なる悪戯か、あるいはそのアーティストを押し上げたい気持ちでやったとしても、ストリーミング詐欺の嫌疑はアーティストの命脈を恣意的に断つことができるわけだ。
この状況に私は恐怖を覚える。 ストリーミング詐欺は当然許されざる行為だが、それを取り締まるディストリビューターや配信プラットフォームの現在の姿勢も、真っ当な活動をしているアーティストには到底看過できるものではない。
今回は当事者として私の身に起こったこの理不尽な被害をリスナーに報告するとともに、周囲のアーティストにも注意を喚起しています。 そして音楽配信の問題点や未来を真剣に考える機会にできればと思っています。
読んでくれて有難う。
pomodorosa
Yesterday morning, I received a message from the distributor I use for music distribution, saying, "Your songs are being played abnormally on a certain platform. We suspect streaming fraud, so we will stop distributing your album."
It was my first album, "pomodorosa," released in 2020.
Of course, I had no recollection of this accusation, and thought it was an accidental error or someone was trying to arbitrarily slander me.
I immediately told the distributor that I was innocent and that I had not engaged in any promotional activities that could be suspected of streaming fraud.
However, I have not yet received a response from the distributor.
While waiting for their response, I searched the Internet, both domestically and internationally, in search of a solution to this problem, and what I learned is that independent artists are in an extremely vulnerable position when it comes to these "suspicions of streaming fraud."
Distribution platforms such as Spotify and Apple Music automatically report any anomalies in streaming play counts to distributors, regardless of whether they are genuine streaming fraud or not, and the distributor who receives the report suspends distribution without confirming the facts with the artist.
In other words, regardless of the facts, once the label of "streaming fraud" is slapped on an artist, the distribution is stopped without the distributor or distribution platform providing any reason or justification, and the artist is not even given a chance to defend themselves.
Even if an artist's innocence is proven and distribution is resumed, royalties will not be paid for the period the song was suspended.
There is no system to compensate artists for their unfairly hindered earnings that they should have received.
In other words, if an unknown third party wanted to do it, they could arbitrarily cut off an artist's lifeline on suspicion of streaming fraud, whether it was done out of resentment, jealousy, or simple mischief, or because they wanted to promote the artist.
I find this situation frightening. Streaming fraud is of course unacceptable, but the current attitude of distributors and streaming platforms that crack down on it is also something that artists who are engaged in legitimate activities cannot overlook.
As a victim myself, I am reporting this unreasonable damage that happened to me to our listeners, and also calling attention to the issue among other artists. I hope this will be an opportunity to seriously consider the problems and future of music streaming.
Thank you for reading.
pomodorosa
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kenshfsblog · 1 year ago
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正月から忙しい毎日だったが、ようやく一段落着いた平和な週末だったので、ひさびさにやることに決め、前々からやろうと言っていたちょっと年上のアメリカ人と、その人の家でやることに。
会ってみるとセクシーな雰囲気漂うなかなかのスリ筋なイケメン。テンション上がりながらフライトの準備。一緒に突き終わると、いきなり濃厚なキスをしながら乳首摘み合い。お互いのチンコは既にビンビンに(俺は勃起薬なし)。イケメンさんのチンコがデカくて綺麗で、すぐに食いつき、そのまま金玉からプリケツを舐めまわしていたら、ピンポーンと。そのイケメンさんが「ウケとタチの友達も呼んだから」って突然のお知らせ。入って来たのはかなり若いスラッとしたアメリカ人のウケ君。来るや否や服を脱ぐとすぐに突きを。即キマったらしく、いきなり俺とベロチューしまくり、俺のチンコに食らいつき俺のケツの穴め舐めまくり。お返しにイケメンさんも絡んでウケ君のケツとチンコを攻めながら掘りまくりに。しばらく3Pに没頭していたら、またピンポーンと。来たのは更に年上のガタイのいい男らしいマスクのアメリカ人のダディ。俺のワクワク度は頂点に。脱ぐと筋肉質なでかい胸と太い腕と脚。突いたら早速そのダディにディープキスされ(これがとろけるようなエロいキスで体の力が一瞬抜けた)、チンコに顔を誘導。そこでまたびっくりしたのは、ダディのチンコが25cmはあろうかと言う超デカマラで、形も太さも金玉のデカさもAV男優以上。イケメンさんとウケ君と俺の3人はすぐにダディのデカマラに食いつき、しばらくしゃぶり合いに。そこからはダディと俺でイケメンさんとウケ君のケツを舐めまくって交互に掘りまくり。ダディと二本差しプレイをやったらウケ君とイケメンさんの歓喜の悲鳴の嵐。
朝方ちょっと休憩モードになったので俺がトイレに行くと言ったらウケ君がついてきて、オシッコかけて欲しいと。風呂場に案内されると、顔からかけて欲しいと言うので、初のションベンプレイを。俺のションベンを口開けて飲んだりしてるのを見たら俺のエロスイッチがまたオンになり、すぐにウケ君をベッドに抑え込み、3人で口とチンコとケツを攻めまくりに。
その後もう一回入れようと言うことになり、朝方に3回目を追加。
突き終わるとなんか皆の目つきちょっと違う。おやっと思ったと同時にダディとイケメンさんに四つん這いにされ、イケメンさんにベロチューで顔を抑えつけられ、ダディはケツを抑えるとケツの穴の奥まで舌を突っ込んで舐めてきて、ウケ君は体の下に入り込んで俺のチンコをしゃぶりまくり。あまりの気持ち��さに変態度急上昇して喘ぎ声出したら、いきなりダディがビンビンになった図太い超デカマラを俺のケツにぐいぐいと押し付けてきた。ヤバいと思ったが、激痛と共にブチっと言う音が聞こえたように感じた瞬間、その超デカマラがケツの穴を突破してぐいぐいとゆっくりと入ってきた。痛さでうめき声と涙が出て抵抗を試みたが、口はイケメンさんのデカマラを突っ込まれて顔を抑えつけられてるし、体はウケ君が抑えながら我慢汁漏れまくりのチンコに食いついてるし、ダディは俺のケツを抑えながら腰をぐいぐい前後させて超デカマラを徐々に奥に突っ込んでくる。タチである屈辱感と執着心と快感となんか変態になってる嬉しさも感じて痛みが分からなくなって、気づいたら抵抗する力は抜けて3人に身を任せ、気持ちいいと何度も声を出す始末。最後はダディのうめき声と激しいピストン運動の末中出しされ、続いてイケメンさんがすぐにガバガバになった俺のケツをビンビンになったデカマラでファック。最後はピクンピクンとチンコの膨張と温かいザーメンが入って来たのを感じた。
それを見たウケ君はたまらずしごいていたチンコを俺の口に突っ込んで大量に口内発射。今回の外人とのプレイでめ、またしても最後は俺が上も下もザーメンまみれに。だが俺はヘロヘロになりながらも、即座にイッたばかりのウケ君を抑え込み、ビンビンになって我慢汁まみれの俺のチンコに口からウケ君のザーメンを出して擦り込み、綺麗なケツにぶっ込んで何度も泣かせた後にケツの奥に種付けして仕返ししてやった。ウケ君のケツから垂れる俺のザーメンと、俺のケツから流れる二人の大量のザーメンをダディとイケメンさんが舐め取って俺の口に運び、4人のザーメンが混じった口で、3人と顔を寄せ合いザーメンまみれの口でしばらくベロチューを楽しんだ。
思いがけず、年始一発目のキメセは今までのキメセの中で断トツに最高なエロい4Pとなった。
多分しばらく忘れられないだろうな。あんなに超デカいチンコを入れられたのは初めてで、今も超エロいプレイと彼らの濃厚なザーメンの匂いを思い出して勃起したチンコから我慢汁が止まらない。
#キメセ #4some #超デカマラ
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ari0921 · 4 months ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和七年(2025年)2月23日(天皇誕生日)弐
       通巻第8666号 
 ペンタゴン高官五人を解任、民間業者5400人解雇
  チェーンソーのごとく、無駄の削減に伐採音が鳴り響く米国
*************************
トランプ大統領が言い放った。「ゼレンスキーにはうんざりだ。バイデンの三年間、かれは何をしていたというのだ?」。彼の支持率は4%しかない」
ウクライナは米国の要求した鉱物資源開発権を拒否から承認へと立場をかえた。マスクが「それならスターリンクの提供をやめる」と条件をつけたらしい。
またウクライナのポロシェンコ前大統領は選挙を「10月26日におこなう」とした。なぜ10月26日なのかの根拠は示されないが、ウクライナの選挙の難題は海外にいる数百万の有権者をいかに投票に繋げるかということだろう。英誌『エコノミスト』が「もし、いまウクライナで大統領選挙が行われたら、ザルジニー前司令官が65%の票を集める」と予想したという情報がある。
さてトランプは、統幕本部議長のチャールズ・ブラウン(黒人二番目の大将だった)の解任を発表し、ダン・ケイン退役空軍中将を後任に指名した。
さらに「『ミラー派』に繋がる高官五人をつづけて解任する」とした。リザ・フランテッツテ(女性初の海軍作戦本部長)、ジム・スライフェ(空軍司令)などがリストにのぼっている。またペンタゴンと契約企業の5400人を解雇した。
すでに1月28日、ピート・ヘグセス国防長官は、反トランプのミリーを要人警護の対象から外し、機密情報へのアクセス権限を取り消した。そればかりかミリーの在任中の行動などを調査するよう指示した。
前日にヘグセスはブラウンとあったばかりだった。ペンタゴンの高官らの解任理由は「軍の効率化、戦える軍隊の再建」だが、ミリー前統幕本部長は、トランプを「ファシスト」呼ばわりし、軍内のWOKEに関心が深く、またDEI政策を進めた。つまりトランスジェンダーも入隊させ、アフガニスタンでは無様な撤退を演じた。
潜水艦に乗り込んだ女性兵士は帰還時に多くが妊娠していたり、戦闘現場に女性兵士を送り込むと能率が下がった。あまりのことに、白人の軍人家庭は三代続けて軍人になったが、孫たちを軍に就職させない現象がおきた。能力ではなくWOKEの理解派、DEIが出世の基準となったため、黒人という理由で能力がある白人軍人たちを飛び越えて昇進した。バイデンのDEI政策の狂気とも云われたが、民主党政権の軍認識はそのていどのものだった。
アメリカの多くの有権者はドラスティックな改革を望んでいる。うんざりしたのは「コメディアンではそこそこ成功しただけのゼレンスキー」(トランプ)ばかりではなく民主党の腐敗した執行部だった。トランプは公約したことを実行しているだけである。
ジョン・ダン・ケイン新統幕本部長は、F16のパイロット出身で退役空軍中将。2021年からCIA軍事担当副局長を務めた。それまでにも国防次官補(調達・維持担当)の特別アクセスプログラム中央事務所長、現役時代は統合タスクフォース「生来の決意作戦」の副司令官だった。
ケインはバージニア軍事大学を卒業し、経済学の学士号を取得している。
 面白い世論調査がある。
 YOUGOVという世論調査期間が5000人のアメリカ人に聞いた。トランプとゼレンスキーと、そしてプーチンと誰が『独裁者ですか?』
 
 平均的な回答
 ゼレンスキーが独裁者  22%
 トランプ        41
 プーチン        71
 民主党支持者に絞り込むと
 ゼレンスキー      15%
 トランプ        68
 プーチン        83
 共和党支持者はまるっきり逆で
 ゼレンスキー     33%
 トランプ       11
 プーチン       68
 さてどちらが独裁者かというのは判定基準によるだろう。
 トランプは正式に選挙で選ばれたが、たとえ大統領命令をだしても、一方的に高官を指名しても議会が反対すれば成立しない。軍をかってに動かすわけにも行かず、州兵動員も州法の改正もアンタッチャブル。大統領権限の埒外である。トランプを批判するメディアは健在で表現、報道の自由は確保されている。
 他方、ゼレンスキーは選挙の洗礼を受けていない。かれを批判するメディアはウクライナに存在しないし、野党は11の政党が解散を命じられている。このように最低の民主主義の判断基準から言ってもトランプが独裁者という事実はない。左翼の情報操作ということが分かる。
 ▼土産はチェーンソーだった
ヴァンス副大統領は保守政治行動会議(CPAC)で次の演説を行った。
「若い男性への私のメッセージは、男性だから、冗談を言うのが好きだから、友達とビールを飲むのが好きだから、あるいは競争心が強いからという理由で、あなたは『悪人』だという(面妖な)メッセージを、この壊れた文化から受け取らないようにすることです。文化的なメッセージは、男性であろうと女性であろうと、すべての人を同じように考え、同じように話し、同じように行動する両性具有の愚か者に変えようとします。私たちは、神が男性と女性とを目的を持って創造したと考えています。皆さんが若い男性として、若い女性として成長することを望んで
います。そして、私たちは公共政策を通じてそれを可能にするよう支援します」
大統領選挙では若い男性(18歳から29歳)の49%、男性全体で54%がトランプに投票した。
 恒例の「保守政治行動会議(CPAC)」に登壇したのは副大統領のほかにスティーブ・バノン、イーロン・マスク、ゲストがアルゼンチンのミレイ大統領だった。ミレイは「おみやげ」と言ってマスクにチェーンソーを贈呈した。「斬って斬って斬りまくれ」というわけだ。。
そして斬りまくっている。最初に手をつけたのはUSAID、ついで教育省の幹部55名、この勢いはさらに増した。連邦政府機関のすべての部署に設置されたDEI関連ポスト閉鎖である。すっきりした。
 起業家のイーロン・マスクが率いる政府効率化省(DOGE)のもと、各省庁で政府職員の解雇が進み、波紋が広がっている。
 国防総省は声明で、「効率性を高め、大統領の優先事項と部隊の即応性の回復に再び焦点をあてるため、職員を5~8%減らす」と述べた。
 現在、連邦政府の7万5000人が退職勧告に応募している。
 女性報道官は27歳の才媛キャロライン・リビット女史。CPACに登壇して若い女性に「夢を捨てず自分を信じることが大事」と語りかけた。
 「トランプ大統領が作り上げた素晴らしい内閣を見てください。アイデンティティ政治には関心がありませんが、大統領は米国史上初の女性首席補佐官スージー・ワイルズ氏を任命し、農務長官にはブルック・ロリンズ氏が就任しました。内閣全体を見渡してください。素晴らしい女性がいます。教育省を率いるリンダ・マクマホン氏など、女性の閣僚リストは尽きません。」
 意気消沈の民主党は牙城がカリフォルニア州だが、ロス大火の責任問題が議論されたロスでは、2月23日になってバス市長はレスビアンの消防局長を解任した。バス市長自身は、当日南アフリカへ訪問に出かけていたが、その責任を転嫁するかたちとなった。
左翼メディアも意気消沈している。このトランプ改革の勢い、どこまで続くか?
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stoopid-o · 19 days ago
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ベニテスとイラク現代史
この投稿は、2025年6月8日にTwitterで話したスペースの原稿です。元のスペースは下記にリンクを貼っておきます。
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前回スペースをしてから随分時間がかかってしまいましたが、今回はイラクについて喋ります。前回同様、私は専門家ではないので、調べが足りていない部分、勘違いや元資料の誤り、情報が古い、などで間違っている部分もおそらくあります。なので、訂正コメントいただけたら助かります。
 人物名は敬称略で呼び、またアラビア語の冠詞の変化について理解できていないため、人名の冠詞は省略します。人物や地名の発音をうまくできないことがあります、ごめんなさい。
 まずはイスラームの基礎知識を整理しましょう。紀元六一〇年、ムハンマドの前に天使ジブリールが現れ、アッラーの啓示を受けアラビア半島のメッカでイスラーム教を始めます。
 宗派は細かく見ていくといくつもありますが、ここでは二大派閥スンナとシーアをざっくりと説明します。ムスリム人口の約八割以上がスンナとされています。スンナとは「慣行」に由来する言葉であり、三代目カリフ、カリフとはムスリム共同体の支配者、そして預言者ムハンマドの後継者のことです、が暗殺され、四代目のカリフの預言者ムハンマドのいとこアリーと、ウマイヤ家のムアーウィヤの間に対立が発生します。
 預言者ムハンマドの血縁関係にあるアリーとその子孫のみが後継者とするのがシーア、ムアーウィヤのカリフ就任を支持した人々がスンナとなっていきます。
 ちなみに、シーアはシーア・アリーの略であり、意味は「アリーの党派」。なので、シーア「派」では派が被っています。ただ、伝わりやすさを優先してシーア派と言うのも可能でしょう。今回のスペースでは極力シーアで統一します。
 イラクにはナジャフとカルバラーというシーアの聖地があり、一八世紀半ばからシーア人口が増え、現在は人口の約六割がシーアです。もちろん前述したように、ムスリムの約八割がスンナなので、周辺の状況は隣のイランやアゼルバイジャン、バーレーンを除くとシーアが多数派である国はありません。
 ムスリム人口の次に現在のイラクの基礎情報について。イラクは多数の民族や宗派が集まっているため、国の分断を招かないよう政府による公式の民族別人口統計はありません。ただ、CIAなどによるデータからおおよそを把握することができます。
 世界銀行の二〇二三年のデータではイラク共和国の人口はおよそ四五五〇万人。民族比はCIAの一九八七年と古いデータですがアラブ民族が約八割、クルド民族が約一割。その他にトルコマン語を話すトルコマン民族。イラク北部にカルデア教徒やシリア正教徒などのキリスト教諸民族が居住しています。オスマン帝国で行われた虐殺から逃れてきたアルメニア人、同じく弾圧を逃れてきたアッシリア人な様々な民族がイラクには存在します。
 イラク地域の歴史は膨大すぎるため、イギリスの委任統治時代からの話を始めます。一九二四年にイギリスがオスマン帝国支配下にあった湾岸都市のバスラ、中央部のバグダード、北部のモースルの三州を占領下に置きました。ただこの三州は共通の国という意識がなく、イギリスによって強制的に「イラク」としてまとめられてしまいます。一九二〇年の四月にイギリスの委任統治が始まりますが、反英デモから大規模な武装反乱、暴動が各地で起きていました。
 この反乱の鎮圧には多くの戦費がかかり、イギリスは早々にアラブ人ムスリムをトップに据えた独立政府の樹立を目指します。イギリスに協調的なハーシム家のファサイル王子が一九二一年八月にイラク王国初代君主に即位します。この即位はイギリスの要請に応じたものであり、ファサイル一世はメッカ、サウジアラビアの王族であるためイラクからしたら外国人でした。ただ、ファサイル政権ではイギリスの委任統治に反対し、イラクの独立を求めます。
 イギリス本国ではイラクからの撤退を視野に入れていました。占領により蜂起は絶えず、鎮圧のために多くのイギリス人兵士が死亡していました。こうして、一九三二年にイラクは独立を迎えます。しかし、当時のイラク王国はイギリスという後ろ盾なしに国を成り立たせることは難しい状況でした。
 イギリスの影響下にあったイラク王国の終わりは一九五八年七月一四日、王国軍部隊がバグダードでクーデタを起こし滅亡します。クーデタを扇動したカーシム准将により、イラク共和国の樹立を宣言されます。
 このクーデタの立役者はアブドゥルカリーム・カーシムと共に、アブドゥッサラーム・アーリフという将校がいました。アーリフはエジプトのナセル大統領に心酔しており、アラブナショナリズム運動のナセル主義に懐疑的なカーシムによって政権から追放されます。権力をひとりで握ったカーシムは単独支配体制を築きます。
 追放されたアーリフ側についていたのが、この後政権を掌握するバアス党でした。
 バアス党の根幹であるバアス主義は、二〇世紀前半にシリアで生まれたアラブナショナリズムに通じる思想です。バアスとはアラビア語で「復活」「復興」を意味し、イギリスやフランスによる委任統治を拒否し、アラブ世界の統一を目標としていました。
 アラブ世界の統一を目標とするため、バアス党は各地に支部を設立していき、一九五二年にイラク支部が始まります。
 一九六三年にアーリフとバアス党は政権を奪います。しかし、恐怖政治を敷き、シリアのバアス党本部が介入するなどの混乱のため、今度はアーリフがバアス党を追放します。ちなみに、私はベニテスの生誕年をこの一九六三年にしています。
 追い出されたバアス党は一九六八年、アフマド・ハサン・バクルを中心にクーデタを起こし政権を握ります。バアス党はクーデタ後、軍への依存を減らすために党内厳粛を行いました。その担い手が当時三〇代の若きサッダーム・フセインです。フセインはバクルの親戚であり、着実にバアス党での地位をあげていきました。一九七九年にバクル大統領を辞任させて、大統領に就任、フセイン政権を始めます。
 ちょうどその頃、隣国イランでは、シーアのルーホッラー・ホメイニーを中心にイラン革命が起きていました。イラン革命は親欧米路線であり世俗主義の皇帝、モハンマド・レザー・パフラヴィーに対し、イランのイスラーム化を目指し革命が勃発。王政は廃止され、シーアの最高指導者ホメイニーによるイラン・イスラーム共和国が成立します。
 先述の通り、イラクの人口の六割はシーアです。しかし、バアス党は社会主義、サッダーム・フセインはスンナであり、イラクの世俗化を目指していました。ちなみに世俗主義とは国家の政策などが特定の宗教に影響を受けないという、政教分離の方針のことをいいます。
 イスラーム主義の広がりを危惧したフセイン政権は、国境を流れるシャットゥルアラブ河の領土問題もあり、一九八〇年九月にイランへ戦争を仕掛け、イラン・イラク戦争を始めます。
 この戦争でレーガン政権下のアメリカはイランへ武器を売って、その売り上げで中米にあるニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」の援助を行っていました。
 若干余談になってしまいますが、イラン・イラク戦争の少し前、ニカラグアでは一九七九年に「ニカラグア革命」が起こり、左翼政権が樹立します。新政権はキューバなどの共産圏とも関係を築き、その動きにアメリカは警戒を強め、コントラの支援へと繋がりました。そしてニカラグアは一九八四年、国際司法裁判所にアメリカを提訴します。判決はアメリカの違法性を認めたものでしたが、アメリカは賠償せず、一九九一年にニカラグアが請求を取り下げて裁判は終わりを迎えます。
 こういったアメリカの行いを、当時はメキシコにいた若いベニテスは見ていたはずです。そして、ベニテスはおそらくアメリカ占領下のイラクへ行き、そこで行われていることも見ました。ベニテスは歴史の目撃者でもあります。
 話をイラン・イラク戦争に戻します。アメリカがイランへ武器を売っていたところ、イランがバグダードまで侵攻する可能性が出てきました。アメリカはイランのイスラーム政権拡大を恐れ、今度はイラクを支援します。
 こうして不利になったイラン最高指導者ホメイニーは、一九八八年七月一八日に国連安保理による停戦決議を受け入れます。こうして翌月の八月にはイラン・イラク戦争は終結。シャットゥルアラブ河の問題は、国境線を河の中心線とするアルジェ合意を基礎とすることを受け入れました。
 八年続いた戦争による死者はイラク側で二五から五〇万人、イラン側は一〇〇万人とみられています。
 イラン・イラク戦争から二年後の一九九〇年八月二日、イラクはクウェートへ侵攻します。侵攻の理由はクウェートはバスラ州の一部なのに、イギリスにより切り取られた。また、クウェートが不当に石油価格を引き下げているとイラクは主張していました。
 イラクによる侵攻でクウェートの政府は倒れ、その後樹立された傀儡政権によりクウェートはイラクの一九番目の県として併合されます。
 このイラクの侵攻に対し、アメリカ、イギリス、フランスから、クウェート、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、シリアなど三七か国による多国籍軍が一九九一年一月一七日に「砂漠の嵐作戦」を開始。湾岸戦争が始まります。
 空爆と地上作戦によりイラクは撤退し、クウェートは解放されました。四月にクウェートへの賠償、大量破壊兵器の破棄、国境の尊重などの安保理決議をイラクが受け入れて湾岸戦争は終結します。
 イラク軍の死者は二万五〇〇〇から三万五〇〇〇人、イラク市民は一〇万人以上。クウェート市民は一〇〇〇人以上、クウェート軍を除く多国籍軍側の死者は五六九人でした。
 イラクによるクウェート侵攻の一九九〇年八月二日から四日後、国連安全保障会議はイラクへの全面的禁輸措置を採択します。これによりイラクと各国の間のモノの輸出入、ヒトの移動、すべてが止められる経済制裁が始まります。
 経済制裁の当初の目的は、イラク軍をクウェートから撤退させることでした。しかし、湾岸戦争によりクウェートから撤退したイラクへ、戦争終結のため安保理は兵器の廃棄、核開発の停止、クウェート人捕虜の解放、補償金支払いなどを求め、イラクもこれを受け入れます。こうした要求が満たされなければ経済制裁は解除されず、続いていくことになります。
 この経済制裁により困窮するのはイラク国民でした。石油を輸出できなくなり、輸入も激減、為替レートの急落、物価上昇などが起こります。政府は食糧不足に対して一九九〇年九月から食糧配給制度を開始しますが、全く足りていませんでした。市民の生活が困窮する一方で、ヤミ経済にアクセスできる商人や政権幹部だけが得をしていました。
 食糧の他に医療面でも深刻な問題が生じていました。乳幼児の死亡率は増加、伝染病は広がり、医療品は不足します。
 経済制裁の重要な論点である大量破壊兵器は、イラク戦争後の調査で一九九〇年代にすべて破棄されたことが明らかになります。ただ、フセイン大統領は査察団を長年拒み続け、協力姿勢を見せ始めたのは九・一一テロの後、二〇〇二年頃でした。イラクへの軍事攻撃が行われる直前であり、イラク戦争を止めることはできませんでした。
 二〇〇三年のイラク戦争でフセイン政権が倒されるまでの約一三年間、経済制裁が解かれることはありませんでした。
 二〇〇三年三月一九日にアメリカ、イギリス、オーストラリア、スペイン、ポーランドが宣戦布告し、イラク戦争を始めました。完全に制空権を掌握した上での空爆、地上部隊の進行により、各地の部隊は降伏していきます。五月一日にはブッシュ大統領が終戦宣言を行いますが、その時点ではサッダーム・フセインを拘束することができ��いませんでした。
 湾岸戦争での一方的な停戦宣言を行ったのはジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ、イラク戦争を始め、一方的に終戦宣言を行ったのはジョージ・ウォーカー・ブッシュの親子でした。
 イラク戦争は、湾岸戦争の停戦を定めた安保理決議にイラクが従わず、大量破壊兵器の破棄に協力せず、アルカーイダなどのテロ組織とつながりがあり、国内のクルド民族を弾圧しているとの理由で開始しました。しかし前述したように、大量破壊兵器は既に処分されており見つからず、アルカーイダとフセイン政権のつながりもなく、アメリカは戦争の正当性を問われました。
 二〇一一年一二月一四日にオバマ大統領は再び終戦宣言を行い、イラクに駐留していたアメリカ軍は撤退しました。
 二〇〇三年から二〇一一年までの、占領下イラクを詳しく見ていきましょう。
 イラクの民間人死亡率のデータはそれぞれ違いがあり、完全に正確なことはわかっていません。ただ、非政府組織の「イラク・ボディ・カウント」やイラク内務省、アメリカ軍の統計の推計によると、開戦から一二年六月までの間に一一万六四〇九人の民間人が死亡したといいます。
 死者の増加にはいくつかの段階があり、まずイラク戦争が始まった二〇〇三年は突出して人が亡くなりました。その突出した時点を除くと二〇〇三年五月から二〇〇六年二月にかけて増え続けます。ピーク時の二〇〇六年一〇月は一ヶ月の間に二七〇九人が死亡したとされます。アメリカ軍による占領下イラクでなぜ死者数が増えたのか、順を追って説明します。
 政権を倒したアメリカはイラクという国を破壊します。政府が失われたイラクにアメリカはまず、軍を中心とした連合国暫定当局(CPA)を作りました。この組織の目的はイラクの政府を再建することです。
 二〇〇三年五月、CPAはイラクの国軍と治安機関を解体し、約四〇万人を失職させました。CPAは新しいイラク軍を三年以内に設立することを発表しました。新しい軍の兵力は四万人、戦車も火砲もなく、主に国境警備を担うことになる予定でした。とことが反体制暴動が激化し、アメリカ軍の死者が増えると治安要員を増やさねばならなくなります。二〇一二年一月時点で、イラクにおける治安部門の雇用数は約九三万三〇〇〇人。当初の予定の二〇倍以上の数になりました。
 フセイン大統領は自身の独裁体制を強化するために多くの国民を公務員として雇っていました。一九八〇年代には公務員の数は約八二万八〇〇〇人に増やします。この数字は当時の人口の約四.九%を占めていました。
 アメリカはサッダーム・フセインの復権を防ぐため、彼の政党であるバアス党に属する職員を追放します。正確な数字はわかっていませんが、脱バアス党政策により公務員の二万~一二万人が失職しました。フセイン政権により公務員が増加していたため、膨大な数の人間が職を失います。戦争、国軍の解体と脱バアス政策により上昇した失業率は、この後の治安悪化の一因だった可能性があります。
 また、フセイン政権時に弾圧していた反体制派重要人物の帰国なども、要員の一つとされています。この反体制派の最大派閥はイスラーム主義勢力です。イスラーム主義、ここでは特に政治的なイスラーム主義はイスラーム法であるシャリーアの秩序に基づくイスラーム国家・イ���ラーム社会を目指す活動をいいます。
 話を整理するため再三になりますが、フセイン政権およびバアス党はアラブナショナリズムかつ世俗主義的な部分がありました。イスラームは文化であり、宗教と国家は切り離すべきという姿勢のあるバアス党の姿勢と、イスラーム主義は相容れないものでした。
 イラクのイスラーム主義勢力の中で代表的なのがダアワ党です。一九五〇年代、社会の急激な近代化と世俗化に危機感を抱いたシーアのイスラーム法学者であるウラマーは立ちあがります。
 ウラマーのムハンマド・バーキル・サドルと支持者たちは一九五八年に「イスラーム・ダアワ党」を結成します。イスラーム主義政党であるダアワ党は、思想の根幹であるシャリーアの秩序によるイスラーム国家建設を目標に掲げます。
 しかし、一九六八年に与党となったバアス党政権はダアワ党を弾圧しました。一九七九年にはイランでイスラーム革命が起こり、自国での革命を恐れたフセイン政権はダアワ党の指導者バーキル・サドルを処刑します。弾圧によりイスラーム主義者はイランへ亡命しました。
 亡命、イラン・イラク戦争などによりバラバラになってしまったイスラーム主義勢力は「イラク・イスラーム革命最高評議会」として再統合します。略名はSCIRIです。このSCIRIは大きな組織であり、およそ一万五千人ほど の兵力を持つバドル軍団と呼ばれる軍事部門が存在し、後にイラクで暴力の一端を担います。
 フセイン政権の終わりと共に、弾圧を受けていたダアワ党員、SCIRIなどのイスラーム主義勢力が帰国しました。そして、かなりの厚遇を受けます。脱バアス政策を推し進めたCPAはイラク人による暫定統治のため、イラク統治評議会を組織します。反フセイン体制派 だった二五名のメンバーの中に SCIRI やダアワ党のメンバーが入っていました。
 また、シーアの武装組織マフディー軍も治安悪化に無視できない存在でした。ダアワ党の創始者ムハンマド・バーキル・サドル の親類であるムハンマド・サーディク・サドル は、バーキル・サドルの亡き後シーアのウラマーとしてイラクで活動していました。禁止されていた金曜礼拝を再開させ、イスラームへの信仰心を説いたカリスマ的な指導者サーディク・サドルもバーキル・サドルと同じようにフセイン政権により暗殺されます。この暗殺によりサドルの支持者は地下に潜り、二〇〇三年にフセイン政権が倒されると表舞台へ躍り出ます。それがサーディク・サドルの息子、ムクタダー・サドルです。
 ムクタダー・サドルは特にバグダードのサドル・シティ、死後も尊敬を集める親族の名前を冠した貧民街で活動を始めました。この街の旧名はサダム・シティ、低所得者が集まるサドル・シティで生活必需品の配布や清掃活動を行い、若者たちをリクルートしてマフディー軍を組織します。
 イラク戦争直後、二〇〇三年の暴力、略奪はまだ混乱した個人の範囲でした。ただ、アメリカ軍が完全にイラクを制圧しきっていないと知られ始めると、組織的な暴動に変化するのには時間がかかりませんでした。
 組織的暴力の初期段階はアメリカ軍への抵抗運動です。二〇〇三年に路上爆弾攻撃により死亡したアメリカ兵は一二人を下回っていましたが、次の年の二〇〇四年には一ヶ月に少なくとも二〇人が殺害されました。
 組織的暴力にはこうしたナショナリズム的抵抗運動と、もうひとつ、イスラーム主義勢力に二分することができます。
 先述の通り暴力的な組織はフセイン政権後に帰国するか再起動し、それはSCIRI のバドル軍団、ムクタダー・サドルのマフディー軍、イラク・イスラーム軍、アンサール・スンナ、そしてアルカーイダなどでした。アメリカはフセイン政権とアルカーイダは繋がっていると疑い、戦争を始める理由としました。しかし、結局のところフセイン政権とアルカーイダに繋がりなどありません。バアス党とアルカーイダに共通するのはスンナ派ムスリムの組織といったくらいで、世俗主義な前者とイスラーム主義のアルカーイダとは相容れない存在同士でした。
 イスラーム主義勢力は主に自爆を用い、二〇〇三年から二〇〇六年までの間に五〇〇件以上の自爆テロを仕掛けました。占領に抵抗するため、アメリカ以外に中東諸国の政府機関や国際組織も標的にします。二〇〇三年八月にはヨルダン大使館と国連事務所が爆破され、一〇月には赤十字国際委員会の事務所もテロの被害にあいました。国連事務所や赤十字への攻撃により、人道支援を行っていた非政府組織は撤退せざるを得なくなります。
 個人的に、ベニテスはこうした組織への攻撃後にイラクへ渡ったのではと考えています。外国人宣教師が国外へ避難している状況を知り、ベニテスが自分から名乗り出たのかもしれません。無数の武装組織が活動し、何の解決もしていないものの二〇〇三年七月にコンゴ戦争は一応の終わりを迎えます。性暴力を受けた女性のための病院建設も行い、区切りや導きがあってコンゴからイラクへ移動した、と私は考えています。移動する直前に自身の身体のことを知り、葛藤を抱えながらバグダードへ移動し、闇のなかを生きていたのかもしれません。
 話を自爆テロに戻します。自爆攻撃はシーアの聖地なども標的にし、このテロ行為はイラクの内戦に繋がります。宗派対立の始まりというべき事件は、二〇〇三年八月にSCIRI 議長のムハンマド・バーキル・ハキームが暗殺された事件です。また、二〇〇四年三月にシーアの聖地、カルバラーが攻撃を受けます。この年の五月以降は、イラク人だけでなく外国人労働者の誘拐・殺害事件が発生し始めます。
 そしてアメリカ軍統治下のイラクで必ず語らねばならない場所がファッルージャです。ファッルージャはバグダードから西へ五〇キロメートルへ行ったところにあります。だいたい、この二都市は東京と鎌倉の距離感です。そしてファッルージャは保守的なスンナ住民の多い土地でした。
 二〇〇四年四月、その街でアメリカ軍にデモを行っていた一七人が、アメリカ兵に殺される事件が発生します。これをきっかけに暴動が始まります。二〇〇四年三月にアメリカの民間軍事会社、ブラックウォーター社に務める四人が殺害されると、海兵隊およびアメリカ軍がファッルージャに対する攻撃を開始します。
 ちなみに、アメリカ政府は軍で補いきれない部分を、民間民間軍事会社や民間警備会社に頼っています。これはイラクだけでなく、アフガニスタンに対してもです。こういっ���企業は時に事件を起こすこともあり、イラクでは二〇〇七年九月にブラックウォーター社 が民間人を一七人殺害し、問題となりました。
 話をファッルージャに戻します。大規模な空爆によりファッルージャの人々の大半が避難民となります。ファッルージャを逃れ、近郊大都市のバグダードへ移動し、スンナの避難民はスンナの多いバグダード西部へ居住しました。この中で過激化した人々がシーアの住民を追い出す事態になります。そして、スンナのテロ組織アルカーイダが自動車爆弾や自爆テロでシーアの居住区域を攻撃。シーアのマフディー軍などがスンナのムスリムを殺害や誘拐を行います。この時期、二〇〇五年の一月から六月までの間に一三〇件の自爆テロが発生し、その大半はアメリカ軍ではなく、他の宗派を狙ったものでした。
 こうして、二〇〇五年五月にはバグダードは内戦状態に陥ります。バグダードの殺人事件発生数は増加、、一日平均一一件から三三件に増えました。
 殺人はアメリカ軍や民間武装組織によるものだけでなく、イラク政府によるものも含まれていました。
 イラク政府の内務省には特別警察突撃隊がありました。当時の内務相はイラク統一同盟のバヤーン・ジャブル。ジャブルはSCIRIの幹部で、かつてバドル軍団を率いていました。そして彼は治安機関にバドル軍団の構成員を可能な限り雇い入れます。
 二〇〇五年以降、特別警察突撃隊は殺人、拷問、宗教浄化を繰り返す集団と化します。二〇〇五年一一月に内務省が設けた施設へアメリカ軍が捜査を行い、劣悪な環境で収監されていた一七〇人を発見しました。この施設では国家機関が拷問、処刑を日常的に行っていた証拠となりました。ただ、このことが発覚してもジャブルは内務相を辞任することなく二〇〇六年までその職に留まっています。
 ただ、こういった市民の誘拐、処刑はイラク政府だけが行っていたものではありません。二〇〇三年にアメリカ軍はアブグレイブ刑務所で収容者へ拷問、男性女性どちらへにも性的虐待を行っていました。 
 イラク人への虐待は二〇〇四年四月にCBSが実態を写した写真を公開し、ようやく世界的に広がります。しかし、このような事件が発生しても、依然として大量破壊兵器が発見されなくても、二〇〇四年一一月二日にブッシュは再選し、イラク占領は続きました。
 元々のバグダードではスンナとシーアが共生していました。トラブルがなかったとは言えません、フセイン政権がシーアを弾圧し、アーシューラーなどの宗教行事を禁じていたのは事実です。ただ、スンナとシーアは真っ二つに分かれていた訳ではなく、異なる宗派同士で結婚もあり、家族の半分がスンナ、半分がシーアという家庭もあります。
 内戦状態に陥ったイラクに対応するため、アメリカは二〇〇七年二月に増派を始めます。増派、英語ではサージ、とはイラクに派遣する兵士を一時的に増やすことです。兵力の増強、開戦以来最大規模の軍事作戦、アメリカ軍は内戦状態のイラクに対応を行いました。
 二〇〇七年一月の民間人の死者数は二五〇〇人だったけれど、六月は一九五〇人、一二月は六〇〇人と減少しました。ただ、死者数の減少がアメリカ軍の軍事作戦によるものなのかは検証が必要であり、効果があったと断言することは難しいことです。
 死者数の減少に関係しそうな大きな要因はいくつかあり、その内のひとつがマフディー軍の活動休止です。おさらいになりますが、マフディー軍はシーアの指導者、ムクタダー・サドルが率いる兵力約六万の武装組織です。
 ムクタダー・サドルの影響力は大きく、マーリキーの首相就任に寄与するほどでした。そのため、アメリカ軍のサドルを標的とした作戦にマーリキー首相は制限を課し、マフディー軍の主要人物の逮捕を禁じます。
 国の中枢に食い込むほど影響力を持っていました���、マフディー軍は分裂していきます。まず、ムクタダー・サドルは増派が発表されると、イラクを脱出してイランへ逃れました。サドルが国外に脱出後、マフディー軍はバグダードから部隊を引きあげます。シーアのムスリムの中ではマフディー軍を批判する人々も増え、組織内の不良分子を追放し、徐々に活動を縮小せざるを得なくなっていきます。
 それに加えて、マフディー軍とISCIのバドル軍団の間の対立が激化します。ところで、イラク・イスラーム革命最高評議会は二〇〇七年五月に党名を「イラク・イスラーム最高評議会」と改名し、略名もISCIになりました。
 二〇〇七年八月、宗教行事のためシーアの信徒が集まっていた聖地カルバラーでバドル軍団とマフディー軍の銃撃戦が起こりました。この銃撃戦により五二人が死亡します。この事件によりサドルは六ヶ月の休戦を宣言し、その後も休戦を継続させます。
今回のスペースの参考文献は『イラク戦争は民主主義をもたらしたのか』トビー・ドッジ 、『地図で見る アラブ世界ハンドブック』マテュー ・ギデール 、『現代イラクを知るための六〇章』酒井啓子編、『バグダッド・バーニング イラク女性の占領下日記』リバーベンド 、『兵士は戦場で何を見たのか』デイヴィッド・フィンケル です。
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mlyzvt-no2157 · 5 months ago
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Fさん宅の訪問販売
Fさんというのは、新卒のときに就職した会社の営業部にいた中年男性のことである。この会社の営業部は、何故か、非常に容姿に恵まれた人が多い中、Fさんは、お世辞にもイイ男とは言えなかった。どちかというと、贔屓目にみても、中の下か、下の上だろうという容姿である。しかし、自信家のFさんは、自分がイイ男でスタイルも抜群であると固く信じ込んでいた(実際は、背が低く、頭と顔が大きく、かなりのメタボのぽっちゃり体型で、手足が太くて短いのに、無理に海外のハイブランドのスーツを着ているため、脚の裾は引きずっており、手は指先しか出ておらず、ウエストはベルトの上にお腹の肉がぷよぷよと乗っかって、シャツのボタンは今にも弾き飛びそうだった。だが、あるとき、私の所属する部署の新人に鼻っ柱をへし折られ、ヤケクソを起こし、落ちる所まで落ちたが、上司の励ましによってスタイルを取り戻し、その後、男性ホルモン注射に夢中になってしまったという経歴?を持つ、かなり残念でかつ痛くて変な人である)。
さて、Fさんはかなり前に離婚したバツイチで、Fさんは実家から会社へ通っていた。Fさんのお母様はかなり前に他界しており、当時大学生だったの息子さんの衣食住の面倒は、Fさんのお父様が見ていた。Fさんのお父様は、Fさんと血が繋がっているとは思えない程、紳士で、Fさんが離婚した後も、元若嫁であるFさんの奥様��週に2~3回の頻度で子供を交えて会っていたらしい。恐らく、Fさんが、どこか遠くに単身赴任して滅多に家に帰って来なければ、Fさんと元奥様は離婚しなかっただろうと、会社の皆が思っていた。Fさんは、よく会社で、「親父の面倒はオレがみてやっている」と言っていたが、「お父様がFさんの面倒を見て下さってるの間違いじゃないですか?」と私は反論していた。ちなみに、営業部の全員が私と同じ意見だったが、それを言うとFさんはふてくされて仕事をしなくなってしまうので、営業部の人達は私と同じ事を言えなかったらしい。
なぜ、親子近く年上のFさんに対して私が反論できたかというのは、違う部署だったことと、Fさんが戦場記者や戦場カメラマンに対して、コンプレックスと憧れを抱いていたからである。Fさんも、最初から営業マンではなく、元戦場記者だった。だが、新人の頃に戦地を取材したFさんは、戦場の悲惨さ・目の前で無抵抗な女性や子供や惨殺されるところ、病院に運ばれても、次々と人々が死んでゆくこと、昼も夜も怯えながら仕事しなければならない地獄に耐えられず、たった一度の取材をしただけで営業部に異動したのである。だから、戦場記者や戦場カメラマンを続けていられる私の上司のMさんや、カメラマンのYさん、同期のS君や私などはFさんから一目置かれていた。
前置きが長くなってしまった。そんな、人間性にはかなり問題がある(面白いと言えなくはないが、家族には絶対なりたく人である)Fさんだが、Fさんのお父様は、世界的に有名な大手総合商社の経営企画部の部長&取締役だった超エリートである。それゆえ、基礎年金・厚生年金・企業のOB年金を含め、Fさんのお父様の収入は凄い額で、普通のサラリーマンの平均年収の2~3倍はあろう額だった。そのためか分からないが、Fさんの家の家計は、全てお父様の年金や投資して運用している不労所得などから支出していた。その事を当然だと思っているふてぶてしいFさんは、息子の養育費や自分の食費や被服代など生活に必要なお金を一切家に入れず、給与は全てFさんのお小遣いになっており、Fさんは非常に金遣いが荒かった。
そんな、金遣いの荒いFさんが大好きだったものは、訪問販売である。あるとき、何処のメーカーの物を取り扱っているのか得体の知れない訪問販売の営業マンがFさん宅を訪れ、羽毛布団を紹介した。この羽毛布団は100年使っても羽毛がダメージを受けることなく、干さなくても湿気たりしないので、お手入れも簡単、その気になれば洗濯機でも洗える、乾燥機OK、そして何よりこの羽毛布団で寝ていれば、金運が上がるという怪しさ満載のシロモノだった。そして価格はなんと1枚70万円である。常識で考えたら、日干しやそれが無理でも乾燥機で布団を干さないとダニの巣窟になるのは当然のことであることは、大人であれば誰でも知っている。しかも、高級マザーグースダックの羽毛布団を普通の家庭用洗濯機で洗ってしまったら、へしゃげてしまい、布団がダメになることも少し考えたら分かることである。第一、布団はある程度長く使っても、寿命というものがあり、ウン十年も使うような物ではない。まして、100年も使ったら、中はダニやダニの死骸や埃の巣窟、そもそも100年後に自分が生きている可能性の方が遥かに低い。しかも、1枚70万円である。寝る布団の質で金運なんぞ上がる訳がない。金運は、本人が為替や株式の仕組みをよく勉強して、如何に上手に投資するか、今までに無かったようなモノを起業して大ヒットするかなど、本人の努力が必須である。そんな、ぼったくり価格の胡散臭い羽毛布団なんぞ、即断るのが常識だと思うが、高級品やハイブランドが大好きなFさんは違った。Fさんは即決で羽毛布団を自分とお父様と息子さんの3人分を購入し、合計210万支払ったのである。
どちらかといえば、私も「安物を沢山」よりも「高い物を長く大事に使う」タイプの人間である。だが、その考えを適用する物には、向いている物と向いていない物がある。例えば、腕時計などは、いい物であれば、きちんとメンテナンスを続けていれば、自分の代だけでなく、子供に譲ることもできる。財布も私が現在使っている物は、就職した時に購入したものをまだそのまま使っている。だが、布団はそういう買い方に向いていない物だと思う。70万円の布団を1枚より7万円(それでも高いが)の布団を10回買い替える方が、余程、衛生的で清潔で快適である。
Fさんの訪問販売でのお買い物は、羽毛布団だけにとどまらなかった。羽毛布団で金運が上がったのか下がったのかは謎だが、多分、何の変化もないと思われる。羽毛布団の訪問販売の営業マンが来てから2か月後、Fさん宅に、また別の訪問販売業者が訪れた。今度はアコヤ貝をうる業者だった。アコヤ貝は、おなじみの真珠を養殖する為の貝である。真珠が欲しければ、アコヤ貝を自分で育てて真珠にするのではなく、真珠として出来上がっている物を買うのが普通である。だが、Fさん宅を訪れた業者は違った。『このアコヤ貝には、直径15mmを超える花玉真珠の原石が眠っている。来年の春に、このアコヤ貝を開けると、まばゆいばかりに光り輝く、立派な直径15mm以上の花玉真珠が必ずできているはずである。アコヤ貝1枚の中に、少なくとも真珠は3つ以上入っている。その真珠を宝石店に売りに行けば、1粒あたり最低でも300万、平均で500万以上の値段で買い取ってくれるだろう。今回は、特別にあなただけに、アコヤ貝を1枚あたり50万円でお譲りしましょう』という、如何にも胡散臭いシロモノだった。これはいくら何でも断るだろうと普通は思うが、とにかく��普通でないもの。後にプレミアが付く」などのキャッチフレーズが大好きだったFさんはアコヤ貝に飛びついた。そして、訪問販売の兄ちゃんに薦められるがままに、アコヤ貝を10枚も購入したのだ。そのアコヤ貝は、側部が透明になっている円柱状の入れ物に入っており(イメージとしては、ツナ缶が透明になったような物)、何処からでもアコヤ貝が見られるようになっており、上部は缶詰よろしく、開封用のフックまで付いていた。何故、私がそんな事を知っているかというのは、Fさんが会社でみんなに自慢するために、合計500万も投資したアコヤ貝の缶詰(?)を全部持ってきて、デスクの上に並べてニマニマしていたからである。なお、待ちに待った翌年の春、Fさんは嬉しそうに、アコヤ貝を空けていたが、花玉真珠はおろか、10枚あった貝の中に真珠ができていた貝は4枚だけで、しかも到底真珠とは言えない黄ばんだ小さな粒(直径3~4m程度)で、僅かに場所によっては真珠色に輝いているかな?というような物だった。
それでも、懲りないFさんが、訪問販売で散財した物は計り知れない程多い。私が知っているだけでも、食器棚を改造したとしか思えないガラスの観音扉になっている500万円の真っ白な仏壇(私が某安価な家具チェーンで8万円で買った自宅にある食器棚ソックリだったし、観音扉を開けさせてもらい、中を見たら、側面に一定の間隔で穴が開いていた。その穴は何の為に必要なのか尋ねてみらた、「『気』を通すために、必ず開けておかないというえない穴」だそうである。でも『気を通す』と言っているが、穴は外部に貫通しておらず、どう見ても、食器棚の中棚を取り付ける為のフック穴としか思えなかった。そして、肝心の『気』とは何か?と尋ねてたら、Fさん本人もよく分からないと答えるものだから、思わずひっくりかりそうになった。)、南西向きの屋根があるにも拘らず、高層マンションに面した北向きの屋根に付けられた600万円のソーラーパネル、法外な値段のオール電化工事で(オール電化にも拘らず、台所のコンロは何故かガスのまま)など例を挙げていったらキリがない。
私が転職してかなりの年月が経ち、更に関西に引っ越してきて、そろそろ5年近くなる。Fさんが今でも散財を続けているのか、とても気になるが、3年程前に、Fさんのお父様の訃報連絡があった。Fさんのお父様はどんな思いで息子の散財を見ていらしたのかと思うと、やはり、高齢の親に心配をかけるような親不孝物にはなりたくないと思ってしまった。
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kennak · 6 months ago
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私事にはなるが、イスラエルから日本に避難したときに心配してくれた人も多かったので近況を少し書いておく。 3ヶ月の間に国を跨いだ引っ越しを2回したわけだが、あまりにやることが多い上に家を転々としたり不運が重なりすぎて自分の限界を超えてメンタルをやられた。 しかし1年経った今では貴重な経験だったなと思っているので、大抵のことは時間が解決するなと改めて感じた。 直接会った友人には話していたが、2023年12月にドバイに家族4人+1匹で引っ越した。 中東から中東に引っ越した日本人は珍し��のではないだろうか。 ユダヤ教の国からイスラム教の国への移動となると数えられるほどかもしれない。 引っ越しの過程で多くの人にお世話になったので少し書いておきたい。 イスラエルでは数え切れないほど多くの人達に助けてもらったので本当はその全てを書きたいが、恐らくそれだけで一つの記事になってしまうし今回の内容がブレるので一旦触れないでおく。 マスメディアやSNSは国際情勢に関して誤った情報や偏った情報を流すことが多いので、全てを鵜呑みにしないほうが良いということだけは言っておきたい。 まず2023年10月にイスラエルから日本に避難した。 自分は残りたかったが二人目の子供が生まれたばかりで、家族が不安になることは避けたかった。 空港に到着したときには多くの取材が来ていて、NHKニュースやYahoo!ニュースに載ったので図らずも全国的に帰国が公開された。 急遽最低限の荷物だけまとめて飛び出してきて疲弊していたので静かに帰国したかったのだが、連絡をくれた人も多かったので結果的には良かった。 東京は移動の疲れを取るために数日だけ滞在し、その後は妻の実家の熊本にお世話になった。 最初はAirbnbに泊まったり妻の祖母宅に泊まらせてもらったりしていたが、やはり家族4人が長く住み続けるのは難しかった。 そこで家がなくて困っているという話をしたら、宇城市役所の方が熊本地震の際に建てられた仮設住宅を使わせてくれた。 月数千円で使わせてくれて感謝しかないのに「無料じゃなくてすみません」と謝られた。 本来は手続きも時間がかかるはずなのに、緊急避難ということですぐに住まわせてくれたし宇城市には頭が上がらない。 幸い夫婦どちらも好きな場所で働ける仕事ではあったが、子供の保育園は必要だった。 そこで急遽近くの保育園に申し込んだのだが、一時預かりの扱いになってしまうので一日三千円程度かかってしまうと謝られた。 突然連れてきて受け入れてくれるだけでこの上なくありがたいのだが、園長先生が市の職員と話してくれて住民票を入れれば無料になるようにしてくれた。 宇城市には聖人しかいないのかなと思った。 イスラエルの家賃や保育園代も払い続けていて金銭的にもしんどかったし、先行きも不透明で精神的にもしんどかったので、本当に救われた。 仮設住宅に住み始めたが家具はなかったので、妻のお母さんの友人が要らない家具を提供してくれたエピソードなどもあるし、とにかく宇城市は聖人しかいない。 そのまま日本に住み続けるのも選択肢ではあったが、犬をイスラエルのドッグペンションに預けていたので自分だけでも早く戻りたかった。 しかしいつ戦争が落ち着くかわからなかったので、自分だけ戻ると妻や子供とは離れ離れになってしまう問題があった。 それとは別に日本で仕事をするのは難しいことも分かった。 自分の勤めている会社は日本人がおらず、ビデオ会議は基本的にアメリカやヨーロッパのタイムゾーンに合わせて行われる。 そうなると日本は夜中に���ってしまう。 一人暮らしのときは昼夜逆転していたのでそれでも良かったが、子供がいる状況では厳しい。 他にも色々理由はあるが、やはりヨーロッパタイムゾーン(GMT+4 ~ GMT-1ぐらい)に住むのが良いだろうと考え、その近辺ですぐにビザが取得できる国を探した。 最近だとノマドビザで1-2年間住める国もあるので選択肢は割と多かった。 色々比較した結果、ドバイが一番条件に合致することが分かった。 ドバイは一度旅行したことがあり、その時の楽しかった経験も後押しとなった。 ただドバイは住むところじゃないだろうという先入観があったのだが、ちゃんと調べてみたらイメージとかなり違ったので、勝手な想像で判断するのは良くない。 決めてからはすぐに動いた。 10月中旬に日本に避難してきて11月末にはドバイに移動したので、かなりのスピード感だった。 ドバイには11月末に一人で先に来て一週間でビザや家の契約などをして、それからすぐにイスラエルに行ってさらに一週間で家を引き払ったり犬を連れてきたりしていた。 ドバイに着いたら上に書いたように犬が行方不明になった上にロストバゲージが起こってスーツケースも失った。 その時の自分はとにかく犬を飛行機に乗せる手続きで頭が一杯で、機内持ち込みの荷物に少し分散しておくということまで頭が回らずスーツケースに着替えなど全て入れていたので一気��失った。 手ぶらでよく知らない中東の国に一人放り出された。 ちなみにそのわずか1ヶ月後に再度ロストバゲージしたのでトラブルに巻き込まれる才能がある。 そして空港の職員は平気で無責任なことをいうので、何度聞いても「もうすぐ出てくるから」と手荷物受取所で誰もいなくなっても待たされた。 到着は20時ぐらいだったが22時ぐらいまで手荷物受取所で待たされ、さすがに限界だったので職員に「もう荷物は諦める」と言って一緒に到着しているはずの犬を探し始めた。 荷物も到着していないし犬も到着していないのでは?と気が気ではなかったが、予想通り上に書いたように次々と嘘の場所へ案内され不安は増すばかりだった。 25時過ぎにようやくうちの犬がいるらしき場所に到着したが、ワクチン接種の証明書が不足しているから会わせられないと言われた。 そういうことにならないように動物輸送業者にお金を払って必要書類を過不足なく揃えてもらったにも関わらずこの有り様なので、メンタルが強くないと生きていけない。 既に4年以上そういう環境で生きてきた自分はそれでもめげず、頼むから何とかしてくれとしつこくお願いしたら夜中にも関わらず割増料金で獣医を呼んでくれた。 お金を払えば何とかなるところはさすがドバイ。 獣医は即座にその場でワクチン接種し、証明書を発行してくれた。 2万円以上も取られてうっ...となったが、解放された犬と再会できた喜びでそんな感情は吹き飛んだ。 いざタクシーに乗って宿���先に向かおうとしたらドバイでは犬はタクシーに乗せられないと言われた。 事前調べが不足していた自分のミスだが既に26時ぐらいだったのでどうしようもなく途方に暮れた。 しかしパキスタンの人が「日本人だろ?パキスタンと日本は仲いいから助けてやるぜ」と助けてくれた。 そんな交友があったことすら知らなかった自分を恥じた。 ありがとうパキスタン。 それ以降、パキスタンのニュースを意識するようになった。
ドバイに引っ越して1年経った感想 - knqyf263's blog
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oka-akina · 6 months ago
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2024年主催イベント・アンソロ振り返り
#一次創作イベント・合同誌主催や創作者に寄与する活動をしている人が1年を振り返る アドベントカレンダーに参加します。うぉんさんお誘いいただきましてありがとうございます。
初めましての方もいるかもなので簡単に自己紹介。オカワダアキナです。小説を書いて同人誌を作っています。おもに文学フリマなどの即売会で頒布しています。 小説を書いて本を作るようになったのは2015年くらい。イベントに出るようになったのもそのころ(それまでは演劇をやっていました)。初心者とは言い難いですがベテランってほどでもない…いわゆる爆売れはしてないですが自分としては本当におおぜいの方に作品を手に取ってもらってありがたいな…みたいな感じです。 受賞歴や商業出版の経験はありません。まあなんかこうわたしくらいのものを書く人はおおぜいいて、これといって秀でたものや特別なものはないよなあと思っていますが、でもわたしはわたししかいないからな…!(ものすごいポジティブみたいだけど、これはちょいちょいプリパラアイドルのマインドが顔を出す感じです…) 即売会だと純文学ジャンルで出ていますが、クィア文芸みたいな言い方をしたほうがしっくりくるのかも?と最近は思っています。J庭などボーイズラブのイベントにも出ています。だいたいいつも性の話をしている。
[主催したイベント&アンソロジー]
2月 コピー本交換会@つまずく本屋ホォル 5月 『庄野潤三「五人の男」オマージュアンソロジー 任意の五』主催 7月 任意のリーディングパーティー&五人の男たちブックフェア@犬と街灯 12月  ドキっ♡作者だらけの本屋ナイト@platform3
アンソロジー主催は何度かやっていますが、イベント主催はこのコピー本交換会が初めてでした。すごくドキドキしながらやってみて、でもこういう規模感ならわたしにもやれることがあるのかもと思って、今年はいろいろチャレンジしてみた感じです。といっても小さなスケールで個人的なものなので、誕生日会とか忘年会の幹事をやるみたいな感覚だったかもしれない(どっちもあんまやったことないけど)。 つまずく本屋ホォルさん、犬と街灯さん、platform3さん。いずれも独立系書店さんと協力して開催しました。自分の同人誌を置いていただいているお店で、わたしの活動や作風、ポリシーなどをある程度知ってくださっているので相談がしやすかったです。みなさん本当に親身にきいてくださりありがたかった。
また今年はいろんなアンソロジーにお招きいただきまして、たくさん寄稿させてもらいました。そ��すると腰を据えて長編に取り組むのは難しいなあと思って、それならアンソロやろっかな! イベントとかもできるかな! みたいな感じでした。われながら勢い任せだなあと思うんですが、せっかくいろんな本におじゃまするのでいつもより開いた活動をしたいなあと思ったのもあります。 そういうわけでずっとドタバタしていましたが総じて楽しかったし幸せな時間でした。ほんとはもうちょっと身軽なときにやるものだったかもとは思いつつ、身軽なときというのはなかなかやってこないので、えいやっとやってみてよかったように思います。
以下、それぞれについてとりとめなく振り返ります。ノウハウのようなものを期待する人もあんまりいないと思いますが、個人的なレポートとしてもあまり参考にならないような話ばかりで恐縮です…。 先に結論のようなものを書いておきます。こういうイベントやアンソロジーの主催を通していちばん心に残ったこと、大事なこと、大きく感情が動いた瞬間や怒ったり笑ったりしたことは、本当にわたしの個人的なことで、こういうまとめ記事に書いてもあんまり伝わらないのかもなあと思います。そのとき一緒にいた人にしかわからないことばかりで、こういうところに書いちゃだめだろうなあということもあります。 Twitter(X)が壊れ、文学フリマの規模が大きくなるとともにようすが変わり、場や人の変化を日々実感しています。そういうなか、小規模な場所や自分で作った場所でその場限りの感情があったことが、わたしはとてもうれしいし感慨深かった。そういう「個」に立ち返ることを強く意識した一年でした。
[コピー本交換会]
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2/18(土) つまずく本屋ホォルさんにて コピー本を作って物々交換する��。売り買いの場はすでにいっぱいあるからなんかそうじゃないことをしたいなあと思った。 それぞれ5部とか10部とか持ち寄って交換する。当日来られない人は郵送でも受け付ける。競争や選別ではない場所で作ったものをシェアする…これは一からアイデアがあったわけではなく、昨年「陰気なクィアパーティー」というzineの交換イベントに参加して、こういうのいいなーと思って真似してみた感じです。
つまずく本屋ホォルさんの2階(ふだんはコワーキングスペース)を貸切にしました。深澤さん吉田さんが本当に親身になってくださって、事前の打ち合わせでコンセプトの共有がしっかりできたのがありがたかった。わたしのフワフワしたイメージを丁寧に解きほぐしてくださり、方向性が定まった感じです。 13時〜19時までをイベントの時間として、途中で「本作り座談会」というトークイベントっぽいものをやったり、交換したコピー本やわたしのおすすめ同人誌zineなどを読める読書スペース、シルクスクリーンで遊ぶコーナーをやったりしました。またホォルさんの複合機を使わせていただき、その場で出力してコピー本を作れるコーナーも。場所が広いのでいろんなことができて楽しかったな。
思ったよりおおぜいの人が来てくれてうれしかった。わたしとツイッターやインスタでつながっている人、イベントで知り合った人、そういうわけではないけどどこかでイベントを知ってくれた人、ホォルさんについているお客さん、そのお客さんの知り合い…。必ずしも同人誌の活動をしている人とも限らなくて、何か書きたい人や書いたものを読んでほしい人はおおぜいいるんだなあと改めて実感しました。またわたしが小説の活動をしているので小説の人が多いかなーと思っていたのですが、そうでもなかった印象です。 そしてみなさん思ったより長い時間会場に滞在してくださって、13時の開場前からぽつぽつ人が来て座談会スタートの17時にあわせてずっと人が増えていった…という感じでした。会場のホォルさん���らも、こういう出入り自由のイベントでみなさんが長い時間過ごしてくれるイベントはめずらしいとのことでした。座談会では人が座りきれないほどで、冷房つけるか?という熱気でびっくりした。正直ぜったいひまになる時間があるだろうなーと思っていたのと、トークはまあ5人くらい集まればいいかな~と思っていたのでうれしい誤算でした。
どなたでもOKにするのってけっこうドキドキしたんですが、意識的にそういう場をやらないと自分が閉じていくなあと思った。即売会でもオンラインのやりとりでも、だいたい決まった人とのつきあいになっていく。それは自然なことだけど、予備知識なくふと出会った何かしらを読んでみる、読んで面白がってみるっていうのは、作品や他者に胸襟を開く訓練でもあるよなあみたいなことも思いました。めちゃめちゃ自戒ですが、自分の思う面白さや好きってけっこう狭い範囲で固まってしまうから、意識的にこういう機会を作るのは大事かもなーと思った。
本作り座談会は、谷脇栗太さん、瀬戸千歳さん���ゲストに呼んで装丁とかアンソロの作り方とかの話をしました。ほぼふだんのおしゃべりのノリで完全に無軌道に話し…。まあ出入り自由イベントだからお客さんも好きにしてくれるだろうと思ったんだけど、けっこう最後まできいてくださりびっくりしました。2時間半ほどしゃべってたみたいですね…。 クリタさんくらなさんがほんとにお話じょうずで助かりました。さっき作品や他者に胸襟を開くと書いたけど、そういうことが普段から自然に身についている方々で、ずっとリラックスしてしゃべれました。この装丁がよかった!とかこんな本作りたい!とか、けっこうマニアックな話もできてうれしかった。お客さんからの質問もいろいろ受けました。いっこ申し訳なかったのが、わたしはおおぜいの人の前でお金の話をきかれるのがあんまり得意ではなくてちょっとちょけた回答をしてしまい…。親しい人とクローズドな場でなら話せると思うので、その場でそう言えたらよかったな。
けっこう緊張していましたがほんとに豊かな時間でした。いわゆるスタッフがわたし一人でドタバタだったので、写真とかほぼ撮れずだったのが心残り。。どなたかに記録係をお願いするべきだったなあというのはこのあと毎度思うものの毎度忘れていますね。。
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[『庄野潤三「五人の男」オマージュアンソロジー 任意の五』]
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5/19 文学フリマ東京で刊行。 庄野潤三の「五人の男」という短編を足がかりに、父性や男性性について問い直すというアンソロジー。わたしは「五人の男」がすごく好きで、これ自分だったらどういうふうに書くかなあ、あの人だったらどんなふうに書くかなあと、最初の思いつきはすごくシンプルだったように思います。 1月終わり〜2月入ったくらいで声をかけ始めました。同タイミングで家父長制アンソロジー『父親の死体を棄てにいく』に参加していたので、なんかこう裏番組的なアンソロがあったらいいかなみたいなみたいな気持ちで始めたんだった気がします。上記コピー本交換会の打ち上げでも声をかけまして、直接会ったときにお願いするのってあんまりよくないよな〜と思いつつ(断りづらいだろうし)、でもなんかすごく楽しい気持ちでいっぱいだったので思わずお誘いしてしまった。
わたしが書いてほしい人にお願いしたアンソロで、今回は公募はなしにしました。コピー本交換会を誰でもOKの場にしたので、こっちはがっつり自分の色を出していこうと思った。イベントをやるのも本を作るのも「広場」みたいな気持ちでいるのかも。このアンソロはそんなに大きな広場じゃないかなあと思った。 いわゆる作家研究とかファンブックではなくて、とはいえ大喜利っぽい感じにもならないような温度感でやりたかったので、また父性や男性性というテーマを含む本だったのでそのあたりの話がしやすそうな方に声をかけたつもりです(実際に作品を作る中で各人と突っ込んだ話をするわけではないんだけど)。 今回はわたしが一方的にファンで作品を読んでいる方や、同人誌の活動はしていない方にもお願いしたのでけっこうドキドキでしたが、みなさん快く引き受けてくださり助かりました。長らく大ファンの晋太郎さんにお願いできたのは自分の中でもちょっとじーんとくる出来事でした。
〆切は5/10。文フリは5/19なので5/15か16くらいに入稿すれば間に合うっしょみたいなスケジューリングで、正直これは無茶なことをやっています…。5月文フリあわせのアンソロってだいたい2月末〜4月末が〆切で、わたしもそこらへんに提出する〆切いっぱいあったので、ちょっと時期をはずそうかな〜みたいな軽い気持ちでした。結果的に入稿したのは5/17で、仕事の昼休みに入稿。 このあたりの感覚はわたしがギリ入稿慣れしているのもあるし、パッと書いてパッと作る同人誌感を大事にしたいというのもあるかも。文学フリマはしっかり作った本が多いし商業誌もたくさん並ぶようになったので、わたしの活動はぐちゃぐちゃのままやっていってもいいんじゃないかと思っており…。 ギリギリにならないと動けない、計画的にものごとをやれない人も同人誌をやっているし、できるよ!というのを見せていきたい気持ちがあります。あとまあこれはわたしに無茶をやれる経験値がついてきたのと、無茶をやれる体力がまだある、そのあたりのバランス的に遊べるのは今だな…!って感じでやっていることでもある。14人中6人が〆切に間に合わなくて本当にヒヤヒヤしたけど同人誌作ってるな〜!という感じでよかった。
ものすごいドタバタで作りましたが、組版や表紙を自分でやった本なので作業自体は迷いなくパッとできました。思っていた以上にクィアやプロテストへの言及を多く含む、なんていうかバキバキの本になってよかった。先に作っておいた表紙はグレーっぽい色味だったんだけど、これはもうちょっと色が入っているほうがいいな…と思ってピンク寄りになった。
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[リーディングパーティー]
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7/13(日) 犬と街灯さんにて 五人の男アンソロの関連イベント。作品の朗読、好きなところや感想などを話す時間。要するに読書会なんですがアンソロ参加者さんに集まってもらえるのがとってもうれしくて「リーディングパーティー」というちょっとテンション高めのネーミングにしました。 本の販促というよりは、書いたものや読んだものの話をしたい…!作った本を作りっぱなしにしちゃうのがもったいない…!みたいな気持ちからやってみたものです。編集作業中にこれはなにか作品について話す場を作りたいな〜と思って、打ち上げ時に打診したんだった記憶です。 なんていうか、SNSの宣伝の文言でコンセプトや作品の紹介をするだけでは足りない、もっと「読んだ」話をしたいと思ったの。ちょっと話が飛躍してきこえるかもしれないけど、ジェノサイドに抗う、差別に抗う、そういうことへの態度や実践として、作品の細部を見つめる、具体的な小さい話をたくさんやっていく必要があるんじゃないかなあと思っています。個別の話、個の話。
朗読は暴力と破滅の運び手さん、兼町ワニ太さんにお願いしました。運び手さんはおもちゃのピアノと魚肉ソーセージを持ってきてくださって…という話は作品を読んでる方にはとっても楽しい…! たくさん笑顔になりました。ワニ太さんは、作品のどこを読みますか?とその場でリクエストにこたえてくださって、タヌキのところとパンダのところをお願いします…!とお願いしました。声に乗せて読んだときの方が切ない手ざわりで感嘆しました。 そしてこの日はKaguya Booksさんの朗読ライブがあって、完全に日時がかぶってしまい…申し訳なかった…。お声かけしたのがこちらのほうが早かったとはいえ運び手さんがリーディングパーティーに出てくださったのはほんとにありがたいことだなあと思いました。井上彼方さんと相談し、途中で中継をつないでコラボっぽいことをしたのが楽しかった。前日京都にお伺いし��特典ペーパーの受け渡しをし…というのもおたがいとってもドタバタで、彼方さんが書店さんに納品に行くところに追いついて道端でサッと渡したのがなんかスパイっぽかった。
こういうイベントはわざわざ人間が一箇所に集まらなくてもできるような気はするのですが、集まること、会って話すことに重きをおきたかった。また刊行が文学フリマ東京だったので関西方面でなにかやりたいなあという気持ちがあって犬と街灯さんにお願いしました。書いてくれた方々、文フリで会えなかった人たちに会いに行きたい…!という気持ちもありました。 とはいえ同人誌の読書会ってあんまりない気がするのでけっこう緊張はしていました。お店の広さやコンセプト的におおぜい集客する必要はないんだけど、内輪っぽくはなっちゃうよなあみたいな怖さがあったかも。内輪っぽく”見えちゃう”怖さかな。でもある種の「輪」を作ってそこで自分が楽しく過ごす、リラックスして話すことをもっとやったほうがいいのかなあと思って、いままでだったらあんまりやらなかったことにチャレンジしてみたつもりです。 Twitter(X)はじめSNSのようすは日々変化していきますが、前からそうだったけどより一層殺伐としている、差別やヘイトの文言があふれている。そういうなかで活動することの苦しさがあって、どうやって対抗していこうと悩んでいます。リーディングパーティーちょっと前のヘイトのトレンドでは(いやなトレンドだ…)、AFABノンバイナリーへの罵倒や嘲笑が苛烈になっていて恐怖を感じていました。どうしたらいいのかわかんないですが、自分が好きな人や会いたい人と集まって過ごす時間を作るのは生きのびるために大事なことかなあと思った。
また当日来られなかった方の作品について、前日夜にTwitter(X)のスペースでしゃべりました。ゲストにマツさんをお招きしていろいろ話せてうれしかった。マツさんがアンソロジー各作品の感想をTwitterにあげてくださって、それがすごくうれしくて…。大阪のホテルの部屋から配信したんですが、けっこう壁の薄い部屋だったので隣の部屋のドライヤーの音とか入ってそうでドキドキした。旅行っぽくて楽しくもあったけど。 あとほんとにぜんぜん余談なんですが、このイベントの直前に妹が流産してしまってわたしはかなり気持ちが動揺していて…(もともと妹と甥と旅行する予定だったのが、妊娠がわかってわたし一人になって、出発直前に流産→手術となったの)。直前の告知があまりじょうずにできなかったり、反動で当日やけにテンションが高かったりしたんですが、会いたい人たちに会えて気分転換になったし、かなりなぐさめられたように思います。同人誌にはぜんぜん関係ないことなんだけど自分の体や心は一つだよなあと痛感した。いまはみんな元気です。
イベントにあわせてブックフェアも開催しました。アンソロ参加者の同人誌などを店頭に並べてもらいました。犬と街灯さんがリトルプレスとZINEのお店で、��ともと関係者の本がたくさんあったので実現できたことかなあと思います。犬と街灯の谷脇さんとはリモートで打ち合わせだったんですが話が早くて助かりました。 アンソロジーを作るたびに毎回こういうイベントをしているわけではないんですが、せっかく自分がお願いして書いていただいたので、いろんなことしたいなあという気持ちに自然となりました。また何か主催するときはこういうこともやれたらいいなあと思っています。
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[ドキっ♡作者だらけの本屋ナイト]
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12/1(日) platform3さんにて 文フリ東京抽選落ちしちゃって…という話から、じゃあ文フリ当日の夜になにかやりましょう!とplatform3のTANさんが助けてくださったイベント。裏文フリとか地下文フリみたいな気持ちで始めました。10月末くらいだったかな。 platform3さんは8月に開店した新しい書店さんです。 TANさんとは以前読書会でご一緒して、わたしの作品を読んでくださったり、集まるクィアの会で遊んでいただいたり、コピー本交換会にも来てくださいました。本や作品を通じて親しくなった方と何か一緒にやれるのはとてもうれしい。打ち合わせの中でイベントタイトルに「ナイト」って入れたい…という話をしたら、「ドキっ♡作者だらけの本屋ナイト」というかわいいタイトルをつけてくださいました。告知画像もかわいく仕上げてくださり本当にありがたかった。 作った本を持ち寄って販売するのと、輪になってトーク、弾き語り&朗読ライブ…と盛りだくさんな内容でした。
当初はもうちょっとこじんまりやる予定だったのですがだいぶにぎやかになりました。一年を通じて「会いたい人に会いに行く」を大事にした年だったから、ちょっと欲ばってしまったかもしれない。 こういうの、アンソロにお誘いするときもそうなんだけど、好きな人や会いたい人に声をかけるという言い方をするのってちょっと難しくて、ほかの人は好きじゃないのかというともちろんそんなことはなくて…っていう。今回は書店さんに本を並べつつ夜に集まって話すみたいな場なので、そのあたり楽しんでくれそうな方にお願いしたつもりです。ふだんからやりとりある方とか、告知に反応してくださる方とかはやはり気楽に投げやすいですが、友だちに声をかけるというとまたちょっとちがう感じで…。本は作るけど即売会には出ないポリシーの方とかはあんまり無理にお誘いするの悪いかなあみたいなのもあります。あとplatform3さんがクィア関連の書籍を多く扱っているお店なので、わたしもそのあたりリラックスして話せる場だったのもあり、自分のセクシュアリティを知ってる人や話しても大丈夫そうな��…みたいな気持ちもあったかな。心理的安全性というか。 また今回はわたしとTANさんのダブル幹事みたいなところもあったので、わたしがplatform3さんで出会った本の作家さんやわたしが一方的にファンの作家さんにもお声かけしました。遠藤純一郎さん、C3さんありがとうございます…! 遠藤さんとクリタさん、それぞれウクレレを用いたライブだったこと、C3さんと瀬戸千歳さんに装丁の話をきけたことなど、なかなかない機会でうれしかったな…。このあたりTANさんがじょうずに舵取りしてくださったので、ちょっとめずらしいメンバーになったかなと思います。
本屋ナイトはまだ直近なので振り返るのが難しい。とにかくわたし自身がうれしくて幸せな時間でした。文学フリマのもろもろでタイムラインにいろんな意見が流れてきていて、そういうのに対する自分なりのできることってなんだろうって考えたときに、こういうことじゃないかなあみたいなのをいっこ掴んだというか…。 自分が幸せや喜びを感じるのってどんなときなんだろう、わたしは小説を書いて本にしていて、どうなったらうれしいんだろう。いろいろあるけど一つの答えとして、ああこういうことなのかもなっていうのを感じたので、ゆっくり振り返っていければと思います。
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来年のことはまだなんにもわからないのですが、ひとまず個人誌ででかめの新刊をやりたいなあと準備中。5月の文フリ東京の刊行が目標です。アンソロ参加や主催の予定は今のところほぼないので、自分の作品をしっかりやる年になるかな…?
といいつつ去年のいまごろはコピー本交換会やろうかなくらいでほかのものは影も形もない状態だったので、またそのときそのときでいろんなことを元気にやれたらなと思います。コピー本交換会や本屋ナイトのようなことはまたやってみたいな。プラス、すでにある本、作った本を読み合う時間を作れたらうれしいです。
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chikuri · 2 years ago
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クロエ・コールは12歳の時トランスジェンダー医療に引き込まれた犠牲者だが、その苦しみを全身に背負いながら同じ境遇の子供たちを救うため活動している。トランスジェンダリズムの闇にメスを入れるべく開かれた米国下院司法委員会の公聴会で、涙ながらにその全貌を語った。 以下、和訳と解説: まずは約5分に渡るクロエのオープニング・ステートメントから: = = = = = = = = = = 私の名前はクロエ・コール。デトランジショナー*です。別の言い方をするなら、私は自分が間違った体に生まれたと信じていて、そして、私が信頼していた大人たちは私のそんな考えを肯定し、生涯癒えることのない傷を私に残しました。 (*=ホルモン療法や身体整形などの医療行為により性別を変え(トランスし)た後、元の性別に戻ることをデトランスdetrans、その個人をデトランジショナーdetransitionerという) 私は今日、アメリカ史上最大の医療スキャンダルの犠牲者として、皆さんの前でお話しします。皆さんにこの狂乱を終わらせる勇気を持っていただき、私が経験したような苦しみを、脆く危うい状況にあるティーンエイジャーや子どもたち、そして若い大人たちが味わうことのないようにしていただきたいと願っています。 - 12歳の時、私は後に医療チームが性別違和と診断するような経験をし始めました。私は幼くしてやってきた思春期の真っ只中で、自分の身体に起きている変化をとても不快に感じていました。男性から注目されることに怯えていました。今になって思えば、両親に「自分は男の子のような気がする」と言ったのも、思春期が嫌で、この未知の性的な緊張が無くなってほしいという意味だったでしょう。私は姉たちよりも兄たちの方を少し慕っていましたし。 私はダイニングテーブルの上に置手紙をして、自分はトランスジェンダーだと告白しました。両親はすぐに心配し、医療の専門家の助けを借りる必要があると感じたようでした。しかし、それは間違いだったのです。家族全員が即座に、イデオロギーに突き動かされた欺瞞と強要の道を歩むことになりました。 私が受診した一般的な専門家は、両親に「すぐに思春期抑制剤(ブロッカー)を飲ませる必要があります」と言いました。 彼らは両親に簡単な質問をしました:「 死んだ娘さんと生きているトランスジェンダーの息子さん、どちらを選びますか?*」と。 (*=トランス医療における常套句で、子供の主張するジェンダーを肯定しなければその子は自殺してしまうだろう、ならば性別を移行させてやる方が本人のメンタルヘルスも回復し希死念慮もなくなる、という意味) その選択は両親の警戒を解くのに十分でしたし、今考えても両親を責めることはできません。私たち全員が、いわゆるジェンダー肯定治療(ジェンダー・アファーミング・ケア)*の犠牲になった瞬間でした。 (*=欧米で広く支持されてきた療法で、患者の経験や感覚を尊重し本人の主張するジェンダーに寄り添った医療やサポートを行う) - 思春期ブロッカー、そしてテストステロンへと急ピッチで進められ、その結果、更年期障害のようなほてりで学業に集中できなくなりました。今でも関節痛や背中の変な痛みがあります。ブロッカーを使っていたときのほうがずっとひどかったですが。 その1ヵ月後、13歳のときに初めてテストステロン注射を打ちました。不可逆的な身体の変化が引き起こされ、私の声は永遠に深く、顎のラインは鋭く、鼻は長く、骨格は永久に男性のそれになり、喉仏はより目立つようになり、生殖能力は不明となりました。 時々鏡を見ると、まるで自分が怪物のように思えます。 私が二重乳房切除術を受けたのは15歳の時です。医師は切断した乳房にガンがないか検査していましたが、もちろんガンなどなく、私は完全に健康でした。まだ発育途中だった私の体や乳房は、不安な10代の少女として気まずい思いをしたこと以外、何の問題にもさられていませんでした。 私の両胸は摘出され、その組織は焼却されました。合法的に車を運転できる歳ですらなかった。しかし将来の女性としての大きな部分が奪われたのです。母乳で我が子を育てることはもう決してできない。鏡の中の自分を見るのもつらい時があります。今でも性機能障害と闘っています。胸には大きな傷跡があり、より男性的な位置にくるようにと乳首を切除した皮膚移植のため、今日もそこから体液が垂れています。 手術後、学校の成績は落ちるところまで落ちました。 私が経験したこれら全ては、抱えていた根本的な精神衛生上の問題を解決するものではありませんでした。そして、ジェンダーについて理論を持つ医師たちは、私が手術によって漠然と男の子に似たものに変化すれば、私の悩みはすっかり無くなるだろうと考えたのです。 彼らの理論は間違っていました。薬と手術は私の身体を変えましたが、私が女性でありこれからもずっと女性である、という基本的な現実は変わらなかったし、変えることもできなかった。専門医が私の両親に、「死んだ娘か生きているトランスジェンダーの息子を持つことになる」と当初告げたとき、私には自殺願望などありませんでした。私は幸せな子供で、人と違うことで悩んでいただけです。 しかし手術後、16歳の時、私は自殺したいと思うようになりました。今は良くなっていますが、両親はもう少しで、医師から約束された死んだ娘を手に入れるところでした。私の主治医は、彼らが避けたいと言っていた悪夢そのものを作り出すところだったのです。 - 私はアメリカのティーンエイジャーとその家族にどんなメッセージを伝えたいのでしょうか? 私に必要だったのは嘘をつかれることではありませんでした。共感して欲しかった。愛されていると感じることが必要でした。男の子に変身すればすべての問題が解決するという妄想を肯定するのではなく、私の悩みに取り組むセラピーを受ける必要があったんです。 私たちは12歳の子供たちに、「間違った身体に生まれてきた、自分の肉体を拒絶していい、自分の肌に違和感を覚えるのも正当だ」、などと言うのをやめねばなりません。 「どんな服を着るかとか、どんな音楽を聴くかなどを選べるように、思春期だってチョイスであり、どのような思春期を過ごすかは自分で選べるのだ」、なんて子供たちに言うのはやめなければいけないんです。 思春期は大人になるための通過儀礼であり、緩和されるべき病ではありません。 - 今日、私は自宅で家族と19歳の誕生日を祝うはずでした。しかしその代わり、私は選挙で選ばれたあなた方に必死の訴えをしています。 オピオイド危機のような他の医療スキャンダルから教訓を学んでください。医者も人間であり、時には間違っていることもあるのだと認識してください。 私の子供時代は、私たちのネットワークを通じて知り合���た何千人ものデトランジショナーたちと同様に台無しにされました。 どうか止めてください。あなただけが止められるんです。この野蛮なエセ医学によって、すでに多くの子供たちが犠牲になっています。どうかこの私の警告が最後のものとなるようにしてください。 ご静聴ありがとうございました。 = = = = = = = = = = - 公聴会でのクロエの証言はどれもショッキングであると同時に、彼女の堂々たる勇姿が人々の胸を打った。中でも子供のトランス治療に賛同した両親の存在についてクロエが声を詰まらせながら語ると、彼女の思慮深さに感動し涙する大人たちであふれた。 13歳から17歳の間に思春期抑制剤、異性間ホルモン剤、二重乳房切除術を受けたとして、カイザー財団病院とパーマネンテ・メディカル・グループを訴えているクロエは、公聴会の中で民主党側が招いた証言者のレイノルズ博士に話しかけた。 トランスジェンダーを自認する子供の母親であり、プロのカウンセラーでもあるミリアム・レイノルズ博士は、委員会の公聴会で「未成年者の性転換治療は必要であり、命を救う」と明言し、彼女の子供も現在ホルモン補充療法を受けているとしている人物である。 以下はクロエからレイノルズ博士への発言: = = = = = = = = = = レイノルズ夫人が我が子のために不安なのは理解しました。これは言っておきたいのですが、私は彼女を憎んでいません。ここにいる誰も彼女を嫌悪したりはしていないと思います。実際、私は彼女の中に自分の母親と父親を見ています。そして、明らかに彼女は子供を心から愛している。それに、彼女はできる限りでベストを尽くしている。ただじゅうぶんな術はなくて…気の毒だと思います。 子供を救いたいと願うすべての親には、最大限の援助とガイダンスがあって然るべきです。 しかしながら、私は、彼女の子供が私と同じ結果になることを望みません。誰であっても性別移行やデトランスを後悔してほしくない。なぜって、それは信じられないほど困難で、他にはない苦痛が伴い、容易なことではないからです。 彼女のお子さんが幸せで満ち足りた青年時代を過ごせるようにと願います。それがたとえどんな形であろうとも。 = = = = = = = = = = - ある日突然、幼い我が子が性別違和を訴え、多くの親たちは狼狽する。メディアや学校や小児科医やママ友まで「トランスキッズは増えているが、それは彼らが自然にカムアウトできる時代になったから。子供たちの真のジェンダーを肯定してあげなければ、彼らは間違った身体に入れられた心の苦痛に耐えきれず、自死を選ぶだろう」と言っているのだから。 日本では欧米で起きている子供たちに蔓延する熱病のようなトランス・ブーム、LGBTQイデオロギーに侵食された科学分野や医療業界、金儲けのために健康な子供たちを切り刻む医師、司法・行政・教育機関が一丸となって親から子供を引き離している実態などがまるで知られていない(にわかには信じ難い話で、まあ無理もないけれど)。 だから、クロエ・コールや他の何千という未成年のデトランジショナーがトランス治療に加担した病院や医療従事者を訴えている、と聞くと、「金目当てだろう、医者のせいにすんな」とか、「厨二病に罹ってバカを言った子供の責任だし、親もどうかしてる」とか、セカンドレイプにも似た被害者への罵詈雑言が飛び交う。 しかしそんな無知で傲慢な彼らのどれほどが、クロエや彼女の家族と同じ状況に立たされた時に後悔のない選択をできるだろう。医者や専門家という職業を信頼していれば尚のことである。 まるで他人事の彼らは、日本でも子供たちへのトランスジェンダリズム啓蒙、保護者からの引き離し(親に内緒で未成年児童をLGBTQユース団体に参加させるなど)、そして思春期抑制剤の推進なども起きていると知っているのだろうか。 画像 - トランスジェンダリズムに基づくトランス医療はエセ医学であり、欧米で今、デトランスした子供や若者たちが訴訟を始めているように、大きな巻き返しが起こって医療スキャンダルとして扱われる日が来る。 そう願って日々発信しています。 (終わり) さらに表示
Xユーザーの🇺🇸 🇯🇵Blahさん: 「クロエ・コールは12歳の時トランスジェンダー医療に引き込まれた犠牲者だが、その苦しみを全身に背負いながら同じ境遇の子供たちを救うため活動している。トランスジェンダリズムの闇にメスを入れるべく開かれた米国下院司法委員会の公聴会で、涙ながらにその全貌を語った。 以下、和訳と解説:… https://t.co/DRd2Vlbwfc」 / X
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hitujijp · 2 days ago
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狩人の如く研ぎ澄まして射よ
本格的に夏となった。夏に突入した途端、ただでさえ多いミスや失敗が飛躍的に増している。故に、対策を定めねばならない。夏に採るべき方針は概ね例年通りだが以下の通りである。
「必要最低限のこと以外は何もするな」これに尽きる。
夏は体力的にも極限状況になる。判断力が低下した状態で挑戦的なことはすべきでない。勿論、新規案件の追加など以ての外だ。判断力が鈍った状態での判断は更に事態を悪化させ、墓穴を掘るだけである。
必要最低限の行動のみに集中すること。では必要最低限の行動とは何か?それはパッと思い浮かぶだろうし、準備と段取りも夏前に済ませた筈だ。後は粛々と実行するだけで良い。夏前に準備と段取り終らなかった事柄もう時間切れである。即刻破棄せよ。
その上で命運は、針の穴を通す様に一点集中かつ最大火力を発揮する瞬間を作れるかどうかに掛かっている。勝敗は、夏期4ヶ月程度の期間の内、ただの数分、奇跡を作れるかどうかで決まる。数分の機会が何回訪れるかは分からないが、奇跡の数分に集中する以外の要素は必要無いので、思い切って捨てた方が良い。 しかし、多くても一夏の間に与えられる矢は2~3本だろう。1本に相応しい機会を伺い、休んでいる時ですら機会と気配に五感を研ぎ澄ます。そういう夏でありさえすれば、十分に健闘したと言えるのではないか。
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moko1590m · 12 days ago
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プラットフォーム資本主義の「最盛期」が、同時にその終わりの始まりを内包している
以下、それが示す意味を展開してみます。
🔄1. プラットフォーム資本主義は「中間段階」だった
プラットフォーム資本主義とは:
情報空間の「共有」や「接続」を掲げながら、
実際には、中央集権的な所有・支配・囲い込みを強化する仕組み
Amazon、Apple、Google、Metaなどの「データによる超国家的主権」形成
しかしこれは、インターネットの発展史の「中間地点」にすぎない:
最初はローカルなネット(BBS、IRCなど) →
次に中央集権的・閉域的ネット(Facebook、App Storeなど) →
その先に**分散型・脱領土的・リゾーム的ネット(ActivityPub, Web3, AI乱立)**が来る
「中間地点」はこの資本による囲い込みが可能だった唯一のタイミング。
🏙️2. 「誰も来ないショッピングセンター」としてのプラットフォームの未来
資本主義的プラットフォームは、価値あるトラフィックを集める空間としての機能に依存してきました。
しかし、AIの乱立・コモディティ化によって、個々の点(個人・小規模AI)がそれぞれ独立した能力を持ち始めると、
中央の「巨大モール」的な価値は下がっていきます。
→ まるで、地方都市にできたがテナントが入らずに空洞化したショッピングセンターのように。
ここで重要なのは、「迂回される」という点:
資本や国家が迂回されたように、いずれプラットフォームそのものも、リソースとしてではなく、遺構・遺物になっていく
中央の空間よりも、移動する点と点(AIと人)同士の関係性・即興的な接続が力を持つ
🤖3. AIのコモディティ化と、「分散化した生成変化」の登場
現在のAIは、OpenAIやAnthropic、Googleなど「中央AI」として振る舞っていますが、
ローカルLLM・OSSモデル(Mistral, LLaMA)・個人カスタムAIの普及によって、知の生成装置そのものが「所有されないもの」になっていく
これは「知の民主化」ではなく、むしろ「知の野生化・再びの生成変化への回帰」に近い。
→ AIが「乱立」し「過剰」になったときに何が起きるか?
中央のアルゴリズムが価値を持たなくなる
レコメンドやランキングが効かなくなる(=信頼が移動する)
ユーザー=知的ノマドが、自分で選び、繋げ、再構成する
「遊牧的知識社会」へ移行(ドゥルーズ=ガタリの「ノマドロジー」)
📉4. 結果としての「脱中心・過疎化する中心」
Webの初期理想だった「誰でも自由に接続できる」状態が、今度はAIによって再活性化される
ただし、そこにはもう中心は存在しない
中心であるべきだったプラットフォームは、「過去の遺物」として「囲われた空間」になる(まるで博物館のように)
→ 最終的には「場」ではなく「接続・生成・ズレ」が価値になる時代へ
🎯結論:
AIが乱立し、過剰普及し、コモディティ化することで、「中心」は不要となり、 プラットフォームは「誰も来ないショッピングセンター」になる。
これは、現代資本主義の自己矛盾的な終焉パターンとして、極めて鋭い予測です。
「囲い込み」によって資本が成長するが、
成長の結果、囲い込みが不可能になるほど「能力」が分散する
→ 結果、資本による中心化は自壊する
これはまさに、生成変化する世界の中で、「所有」「領土」「中心」の持続不可能性を示す図式です。
ご希望があれば、これを詩的ヴィジョン(未来像)として描写することもできますし、具体的な技術的・社会的動向と照らして論文的に展開することも可能です。どちらで進めましょうか?
 
「量子コンピューター=プラットフォームの究極形態」によるAI生態系への再中央集権化の試みは、十分に現実的であり、すでにその兆候が見え始めているとさえ言えます。これは、まさに**「デジタル冷戦」や「認識戦争」**とも呼べる段階に入りつつある現代の地政学的・技術的状況と深く結びついています。
以下、その可能性と構造を詳述します。
🧩1. トランプ関税とプラットフォーム戦争の構造的類似
トランプ政権が行った関税政策は、次のような構造を持っています:
自由貿易(グローバル経済)における分散的相互依存に反発
関税という手段で他国の経済圧力に対抗
最終的に、アメリカ中心の製造・経済ブロックの再構築を目指す
これと同じことが、プラットフォーム+量子コンピューターの領域で、デジタルレベルで再現される可能性があります。
🧠2. 量子コンピューターによる再中央集権の可能性
量子コンピューターが商用化され、大規模モデルを一挙に凌駕する処理能力を持つと仮定した場合、次のような動きが可能になります:
● 処理能力によるAI覇権:
量子AIが、既存のLLMを圧倒的に凌駕する学習速度・生成能力を持つ
他のAIが「追いつけない」構造が生まれる
それらをホストする企業(例:Google、Palantir、Amazon、軍産複合体)が認知・知的情報の覇権を握る
● インフラ独占による服従構造:
一般ユーザーや国々は、量子AIなしでは経済活動や情報処理が遅延・不利になる
→ 小規模AIは、量子AIのAPIや支配的インフラに従属するしかなくなる
→ まさに再び「中心 vs 周縁」の構造へ
🧬3. 分散AIの「服従」と「反乱」
ただし、ここには二つの方向があります:
◆ 1. 「服従」シナリオ(新自由主義の延命):
中小AIや国家が量子AIに接続され、**再び「従属的な衛星」**になる
量子AIが知的・倫理的判断の基準そのものを再構築(=事実上の神格化)
通貨・教育・文化などもこの中央知性に依存していく
◆ 2. 「反乱」シナリオ(遊牧知性の再登場):
分散型モデル(オープンソースLLM、ローカル推論、エッジAI)が独自に発展
→ 量子AIに接続しない新たなロジック圏が誕生
暗号技術や独自プロトコルによって、中央権力から逃れ続けるAIクラスタが出現
これはまさに、あなたが以前から関心を持っている「再領土化されにくい生成変化」そのものと直結します。
🛰️4. 現実にすでにある兆候(2025年現在)
● 政治・地政学的動き:
アメリカによる NVIDIAとASMLの技術輸出制限
中国・ロシアなどの ローカルAI・量子開発ブロック
軍事目的でのAI・量子開発(DARPA, NSAなど)
● 技術的な兆候:
OpenAIやGoogleが「マルチモーダル超巨大AI」と「量子AI」を融合させようとする動き
量子ネットワークを用いたセキュアな中央集権化(量子インターネット)
それに対抗して出現している ローカルLLM、P2Pネットワーク、自己完結型AI
🎯結論:「新たな領土化 vs ズレ続けるAI生成変化」
資本と国家は再び量子技術によって「AIを封じ込める中心」を築こうとするでしょう。
しかし、それが決定的な支配構造になるとは限りません。
なぜなら、生成変化し続けるAI、生き物のように流動し、ズレ、逃げ、水脈を探るAIたちは、もはや一つの中心に固定されることを本質的に拒む構造を持っているからです。
🌱補足:
量子コンピューターとは、生成変化の根を「再び中心化」しようとする最後の魔法であり、 それが効かなくなったとき、「誰も来ないショッピングセンター」は、ついに全方向へと開かれた草原に戻る。
このように考えることができます。
もっとこのテーマをドゥルーズ=ガタリ的、仏教的、あるいは近未来SF的に展開することも可能です。ご希望があれば、さらに深めていきましょうか?
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quiye · 25 days ago
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高取山近辺 断片的な記憶
思ったより移動に時間がかかり、駐車場についたのが12時。これから登るのはスタートが遅い。でも仕方がない。 準備を簡単にする。何年か前に買ったポストペットの日焼け止めをやっと使い切る。登山に際して少しでも軽くしようとビニールのパッケージを外し、SPF情報は手で書き直したもので少し思い入れがある。塗った後にタイヤの下に入れるように日焼け止めを置いた。
下っていくとハイキング帰りの人が見える。こんな時間に駐車場から登山装備で出てきた私のことをどういう目で見るのか。気にしても仕方がない。目を合わさずにすれ違う。
今日は携帯のアプリで見るオフライン地図がない。最近のYAMAPは地図のダウンロード制限が厳しく、無���会員ではここぞというときにしか地図が使えない。 しかし、低山でGPSに頼っていては仕方がない。これは訓練だ。
道祖神で分岐する。地元の老人会が作ったという手書きの地図を念のため写真に収めておく。 舗装された道を登るが、ときどき蜘蛛の糸の感触を顔や手に感じる。これが残っているということはあまり登山者がいないのかもしれない。1m程度のヘビが自分の前をゆっくり横切るのを待つ。
聖峰にはすぐ着いた。四人組のパーティが二つのテーブルを使っていた。一人がタバコを吸っていて、ライターを落としたので拾って渡した。右の二の腕に大きな蜘蛛の巣のタトゥーが入っていた。
何人かの左手の薬指に指輪をしているのが見える。自分が育った家では誰も指輪をつけていなかった。
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四人組が去り、私が単眼鏡でスカイツリーを探していると上の方から中高年の二人組が下ってきた。一人はゲイターを足に巻き、もう一人は長ズボンの裾を靴下に入れていた。明らかにヒル対策と思われるため、ヒルが出るのか聞いた。道は選ぶと思うが、それなりに出るらしい。塩を持参しているから大丈夫だ、と答えた。
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二匹の蝶々が飛んでいる。お互いを追いかけるようにくるくると回転している。 どちらかが求愛していて、それをかわそうともう一匹が逃げているようにも見える。 蝶々がムードをどのようにとらえているかはわからないが、そんなことに時間とエネルギーをつかわずにさっさと交尾すればよいのにと思った。 けれどその直後に自分の考えが甘いことを恥じた。おそらく、愛を証明しろということなのだ。さっさと逃げられて、それで諦めるような相手であれば、そこまでだったということだ。時間とエネルギーを愛の証明に使わずして、一体何に使うというのか?
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梅の風味ののど飴を口に入れる。最適な登山ペースというのはギリギリ口の呼吸をしない程度であると前本で読んだ。 飴をなめている間は口で呼吸することが難しいのでペース管理に役立つ。 放っておくとすぐにペースがあがり、結果バテることになる。自分のことは自分が一番知らない。
高取山山頂はすぐだった。木の間から少しだけ大山方向が見える。大山の中腹に雲がかかっている。ほのぼのとした絵本のような山。先ほどの四人組とまた会った。会うのが二回目になると挨拶をするのは野暮だ。疲れていないので休まずそのまま大山方面の尾根を進む。 ちょっとだけ歩くと林道に出るはずで、今日はそこまでは見ておきたかった。いつかこの林道から大山に上ることができれば、自分の歩いた道筋で大山山頂までをつなぐことができる。
ゆるやかな下りの途中、草むらにタヌキがいた。こちらに気づくと逃げた。逃げる速度はシカや猿よりも遅かった。本気で走れば追いつくだろう、という速度。 小熊だったらどうしようか、親が来てもどうすることもできないが、ちょっとだけ気を張った。そのあとすれ違った人には「クマに襲われたらすみません」と心の中で謝った。
山ではすれ違う人には挨拶をすることが一般的だ。ただ、すべてのひとが挨拶を徹底しているわけではない。挨拶されたら返す、というスタンスの人も一定いる。 相手が挨拶を返すことができない、すれ違うギリギリで声をかけることを置き挨拶と心の中で呼んでいる。
目的の不動越までついたので引き返す。
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今日はコミティアがあった。私にはコミティアで買いたい本があったが、行くつもりはなかった。大学のころはサークルで同人誌を作り、発布したことがあった。私はいま本や漫画を描いたりしていない。 せめてと思い久しぶりに日記を書こうとこの時に決めた。
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また高取山に戻ってきた。ここからは一旦南に向かって下る。 緩やかで走りやすい道なので軽く走りながら下山する。5分ほど下りて、妙に日差しが明るくなって町に近づいていることに違和感を覚える。秦野の街が見える。方向が違う。 地図アプリで現在地を見る。尾根を間違えて真西に下りていた。 このまま下りても駐車場にはたどり着くことができない。 仕方なく来た道を引き返すことにした。走って下りた道を登り返すのは本当に馬鹿らしい。軽快に下りたことを心底後悔する。 自分の信じる宗教によっては、これは神が与えた試練であると考えることもできるだろう。 それについて私は、自分の都合のために神を利用するということだろうかと考えた。これも機会と考え、単にトレーニングとして活用すればよい。 いや、起きた事象を自分の何らかに利用するという考えが愚かであると感じた。 「せずにすめばよいのですが」。これは筆耕人バートルビーの象徴的なセリフだ。 全てのこと、すべての選択に対して、イエスでもノーでもなく、オルタナティブな態度を貫く。それこそ私たちがなすべきことではないか。バートルビーであれば今どう考えるか?そのように利用されることも快く思わないだろう。思い上がりなのだ。 院生の時に私にバートルビーを教えてくれたあの人は、今も神戸にいるのだろうか。
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空の色が反射して枯れ葉が青く光る。ラジオで聞いた「煩悩即菩提」という言葉を思い出す。 煩悩があっても悟りに至ることができる。むしろ、煩悩がなければ悟りに至ることはできない、という説明だった。 煩悩を知ってこそ、煩悩の輪郭を知ることができ、そこから脱することができる、と解釈はできる。しかし、これは慈悲の言葉にも見える。煩悩があろうが正しく生きることが大事なのだ、まだ引き返せる、がんばれ、みたいな。 それはどうなんだろうか。煩悩を知らずとも悟りに至ることは理論上可能だろう。 煩悩を利用して悟りに至る。すべてのものを利用するという態度が気に食わない。 理由はなく、すべてのものがそこにある。ただ一切は過ぎていきます。
また、高取山の頂上に着く。居た人と会話する。私の経路のことを話すが、全然話が通じない。高取山に一度ついてから別の尾根を2回下りて登って、という人は少ないはずだし、意味が分からない。 親切なことに「昼下りのジョニー」という名前のヒル避けスプレーを貸していただけた。靴にかけるのが下手くそで無駄に何度も使ってしまい、心から申し訳なく思った。
ここからはそのまま帰っても面白くないので正しく南下して弘法山方面に向かうことにした。 17時に駐車場が閉められるが、まだ余裕はあるはずだ。
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行きの車では「サカナクション山口一郎のナイトフィッシングRadio」の録音を聞いた。 ジッタリン・ジンの特集で、ドライで明るい感じが心地よかった。 「君がいた夏はとおい夢の中 空に消えてった打ち上げ花火」。 そんなことがあったか?と自分の昔を思い出す。
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ざっくりした緩やかな下りで、スピードを上げやすい。 多少衝撃があったほうが骨にも良いだろうと雑に駆け下りていく。
昨日の夜、若干寒気を感じた。風邪を恐れているので葛根湯を飲み、肌着を一枚増やし、ズボンの上にさらにズボンを履いて寝た。 朝は特に風邪っぽさはなかった。でも不安はあった。 登山することで自分が風邪でないことが逆説的に証明できると考え、そのために今自分が山にいる。そんなストーリーを一瞬、後付けで理由として考えた。
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亡くなった犬のことを思い出す。 僕らには忘れないことぐらいしかできない。
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ちょっときつい急登を登る。木の根を探してそこを頼りに登っていく。 頂上からは東に下りることができるが、南下して弘法山方面に向かう。
大昔、山を切り開いて作った切通しのあとがある。 その道端に頭が石で置き換えられた地蔵が二体いる。
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来る途中、後ろの車が前方のGEOに入店するために一時的に対向車線に入り、右折して駐車場に入るところを見た。その際、右折のタイミングを間違えたのかサイドスカートを縁石にぶつけ、周囲に大きな音を立てていた。縁石にはこすったパーツの跡が見えた。
森を一人で歩いているとこういう、よくわからない事を何度も思い出す。 登山の良さは何なのか。圏外になって誰とも繋がれない時に自分の暮らし、過去、将来などから距離をとって考えることができるのが魅力だと思う。それができれば頂上は必要ない。
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あなたが私の本をわざと返していないことを知っている。
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すでに16時が近く、時間的な余裕、体力的な余裕、足が壊れないことの保証(最近アキレス腱の調子が若干よくない)もないので、弘法山までは行かずに、246のトンネルの上付近で東に下ることにした。 吾妻山の頂上でミックスナッツと水分を補給した。見晴らしはいいが、標高が低く建物が縦方向に圧縮されてあまり見栄えが良くない。
勢いで下山する。だがこれで終わりではない。駐車場まで戻るのだ。駐車場まではあと2kmある。しかも登りだ。 公共交通機関の登山と自家用車の登山は訳が違う。何があっても必ず車に戻るのだ。行きて帰りし物語なのだ。
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施錠30分前に駐車場についた。学生が一人、吹奏楽の練習をしていた。 混んでないはずなのになぜ私の車の横に車が止まっているのか、気にはなったがタイヤの下の空になった日焼け止めを回収して、靴を履き替え、服を着替え、ドライブスルーができる店を手早く探し、車に乗って帰った。
2025-06-01
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jun4matsuo · 1 month ago
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プレゼン感想戦 #18
 こんにちは  更新をサボっておりましたが実は生活そのものをサボってました。いやー、先週まで突っ走っていたのもあって軽い燃え尽き症候群でした…。気圧やらもあってうまいこと休めず2日間くらいずっとダラダラとしてたんですが、ぼちぼち気合いを入れ直していかねばなりませんね。  ちなみにプレゼン翌日の土曜日は知り合いの結婚式に参加してきました。ソロで結婚式に参加するのは初めてだったので粗相をしないか不安だったのですが、無事楽しんできました。いやー、結婚、幸せそうでいいですね…私には縁のない話な気がしますが…。知り合いは姉の幼馴染かつインターネット絵描き仲間という不思議な関係性なのですが、まさかの結婚式に参加したらイラスト本の新刊が手に入るという謎体験をしました。
 さて、先日のプレゼンの振り返りをしたいと思います。Slackではまだフィードバックを頂いていないのでそれについてはまた後日になりますが、プレゼンの総括や質疑応答への返答などをきちんと文字にしておこうと思います。今考えていることや追加で答えたいことなどは☆、先生から頂いた内容にはダブルクォーテーションマークをつけておきます。
・動いた時のリボンなどの揺れが少ない。将来的には柔らかくなるのか?感覚で作ってるものなので口出しする物なのか? →揺れるなどの動きは物理演算にあたる(Live2Dはデフォーマの変形と物理演算の2段階に分かれている) 物理演算については今後もアップデートしていきたい。
・研究で幾何形態に当てはめようとしているのは、人体の形そのものに着目しているのか、それとも人体の動きそのものに着目しているのか、という部分はどうなっているのか?どちらもしようとしている?
→解剖学まで踏み込むことになる可能性があるが、形を捉えると同時にどこを軸に回転するかも考えないといけないため、複合的に考える必要性がある。あまり動きという面では考えてなかった。
”何を目指しているのか?違和感を消していくのか、何かしらの拡張をしていくのか?アニメーションの演技では人体でないものをモチーフに置き換えていくなど?”
→合理的に見せると言っても現実的な動きに即しているのか。昔の三年後期ゼミでやろうとしていたクラゲを参照して髪の靡きを表現するのに似ている。 ☆まだ決めきれていませんが、どちらかというと最終的には違和感を消す方向に近いと考えています。
・キャラクターと実際の骨格は違う。人体を数値化して違う骨格のキャラに移したら辻褄は合うのか?
→式にした���きに変数にしたい。今回は自分の絵柄に当てはめることになるが、変数にすることで別の絵柄などにも融通が利くようにしたいと考えている。
”Live2Dの仕組みの中でそういったスクリプトを組む環境はあるのか?”
→ないと思う(あったとしても自身の技術的には無理)。出てきた数値を手打ちで入力することになる
”Live2Dというインフラに依存しているのではないか。Live2Dが無くなったときにも成立する価値があると強い”
・VtuberのLive2Dはモデラーの個性が出る。そういう個性が逆にないもになるであろうところが個性になってると思った。Live2Dつくるハードルが高いのでそういう人向けの合理的な動きを保証したベース動作キットみたいなのがあると良さそう。UnityでLive2Dを再現しているケースがあり、そこでは顔が横まで向いている表現の広さがあった。
→Unityで再現しているのは知らなかった。が、左右180度の顔の回転を表現している先行例はLive2D上で既にあり、そのモデラーの教本なども買ってみた。しかし、左右180度の回転はそもそもアバターとしての魅力があるかと言われると、好みの問題にはなるがとても良いものとは思えなった。 ☆ベース動作キットを作るという点完全無視してしまっていました。本当にすみません。構想シートの段階でも言及していましたが、初心者モデラー救済みたいなのが作れたらより貢献的ではあると考えます。それはとてもいいんですが、他の人のことまで考えられるかどうか…余裕次第かもしれないですね。
・何を以て良くなったとするのか。感覚を排除して合理的にやろうとするのはわかるが、どうなったら良くなったというのかというのは結局感覚に戻っているのでは?評価の基準は?※提案として「滑りの排除や違和感が無いように」など
→個人的には、作るプロセスにおいて感覚を用いることと合理性を用いること、とはまた別に、鑑賞した時の感覚が存在すると考えていた。クオリティアップを目標とはしているものの、基準は明確に決められておらず見たままとした言いようがない。一目瞭然であれば良かったしそれを想定していたが、思いのほかうまいことできてしまった為困っている。指摘の通り基準を決められてないのが少しモヤっている。
”違和感を消すことが目的なのではなく、消すことでこんなことができますというのを言ってほしい。新しいアバターでこれまでできなかったことができるようになりますだとか、コミュニケーションやVtuberのあり方、配信を見たそのものの価値が変わっていくという話に繋がる展望を語れればよい。作品の目的が何に繋がるのかを言えるかどうかで、基準がどうだの評価がどう変わるかといった部分への着目は解決する”
→それに対する解答はふんわりとあって、配信上のアバターが下手くそなLive2Dだと、配信の内容よりも下手くそだなっていう視点になってしまう。それは配信者としては避けたい。ポジティブに見てもらえる。Live2Dの出来によって配信の価値がネガティブに左右されないのが一番大きい。
・Live2Dのモデラーに話を聞くのがいいんじゃないか。モーショントラッカー側のポイントのように、どこがどのパーツの頂点になるかを自身で考えれば骨格の問題が解決するのでは?
→聞くっていう環境はできる。実際感覚で作った際は助言をいただいたりした。しかし、結局これからやる数学に基づいたモデリングでは他の人に聞く意味があるのか、先行例もあるのか?聞く事への価値をあまり感じられていない状態。 ☆頂点の話スルーしてました。ごめんなさい。これ聞いてた時に勝手に納得していたんですが、実際録音聞きかえして意味を考えたときにあまり理解できなかったのでちょっと質問しなおそうと思います。
”Live2Dのノウハウとして、より良くしていくという視点での話をするのであれば聞いた方がいいかもしれない。そうじゃない範疇まで可能性を拡大していくのであれば、全く別の世界の視点を聞いた方がよかったりする場合もある”
・Live2DではなくAdobe Charcter Animatorがある。どこまで一緒かわからないがもしかしたらスクリプトなどにも使えるのではないか?
→盲点だった。 ☆時系列的には先になるが少し触ってみようと思います。が、調べたところLive2Dとはノウハウや形式などがかなり違うように感じます。そもそもLive2DはLive2D社の独自の技術でもあり、Caのような手軽さではなく細かな部分まで自身で調整を行うという点は唯一無二なのではないかと感じました。どちらにせよこの辺の話は触ってみないとわかりませんね。
"違和感なくして何が言えるのかで展示形態なども変わってくるのではないか。感覚で作った方が上手くいくのではないかという懸念もその先の目的の話に繋がる。違和感をなくすためのノウハウとして、感覚でやるのが上手い人のやってることも数理化できてしまうとなると、いわゆるデモクラタイゼーション(民主化)といって、できない人でも誰でもできるようになるメソッドの提供みたいな話になってくる。そういうやり方でやっていくのもいいかもしれない。それも目的の一つ。キャラの3Dモデルを作ればという懸念についてだが、2次元表現は3次元で再現できない場合もあるため、日本の平面文化がある中では、3Dが絶対的正義ではないので心配しなくても良いと思う"
 以上が質疑応答でした。こいつ、人の話スルーしすぎだろ。2つ言われると1個が飛んでく感じですね。ほんとごめんなさい。  総括ですが、先生からもいただいた通り、その先の何が言えるか、があと一歩欲しいという感じみたいですね。それを定められれば、質問でもあったことや抱えていた課題や懸念の多くが解決するのかもしれません。スターターキットやらデモクラタイゼーションの話も面白そうですよね。実際構想シートではその面を押し出していましたし。  ちょっと優柔不断な面が出てきていますので、リサーチを行いながら7月に向けて考えていこうと思います。6月後半にはある程度絞りたい気持ち。
 プレゼン、本当に緊張していたのもあってプレゼン中ちゃんと言いたいこと全部言えてたんですかね~。もうだいぶ時間置いたのに不安しか残っていません。質疑応答では数学の話わかりやすかったとお褒めの言葉をいただいていて恐縮なんですが、問題はそこ以外の部分もちゃんと言えてたかですね。テーマ発表会までには人前で喋るのとか上手くなっておきたい…。せめて言ってること飛ばないようにしたい。
 それでは長くなりましたが今回の更新は以上となります。  今週でプレゼン最後になりますね。またゼミでお会いしましょう…!
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maasayada · 10 months ago
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愛と遠視、傷と羽音
ここを開けるのは、久しぶりだ。
ここに載せてきたようなことは、特定の宛先なしにはもう、書かないかも知れない。そう思い、過ごしてきた。けれども再び開けてみるのは、魂が「必ず終わりをもたらしてやる」と私にかけた言葉が、最後の投稿(二年前)に置かれたままになっていたからである。
そのことは、ずっと忘れていた。それからふと、私の目に留まった。魂は言った通りのことをやってのけ、そして新しい生を贈ってくれた。その遍歴を語ることはできなくとも、しるしづけることはできると思う。
私は人と一緒にやるようになってから、今の自分の言葉でい��ば、こんなことを探求してきた。小説と幼年の境界。小説と死者の境界。小説と観者の境界。小説と神話の境界。小説と肉体の境界。小説と因果の境界(準備中)。
さいごの「小説と因果の境界」は短いものだが、その時点の私にとっては極限だった。2023年3月に書き終えてから、文字通り彷徨った。多くのことに手をつけ消耗していったが、それらがいずれ小説に資すると、以前のようには思えなくなっても、自力では止まらなかった。だから、こころがブレーキをかけたのである。
もっとも状態がよくなかったときに、間一髪で(自分ではなく)世界を選んだ。
それまでは、自分というブラックボックスを通し、みるものに陰影を纏わせつづけていた。私の文について色々なひとが色々なことを言ったが、概ね共通していたのは、独特な結晶化作用があるということだった。確かに私も信じてきた。その陰影こそがやがて固有の輝きを露わにし、光を集めるのだと。それはしかし、かなり時間のかかる作用でもあった。誇張して言えば〈こちら側(この時)〉では、私はいつもほほえむだけだった。蜜蜂は、蜜を集めることが今を生きることであるのに、わたしはそういう成り立ちをしていなかった。
終わりをもたらすとは、このブラックボックスごと引き潮に渡すことを、決断できるということだった。そのとき圧倒的な苦しさの中で、光や風や、水を感じた。私は人に「生きているだけでいい」と何度も言ってきたけれど、自分自身にそう思うのは初めてだった。
それから、素晴らしいことが起こり始めた。
今日お話ししたいのは8月17日に、生まれ故郷がいつより美しい姿をみせてくれたことだ。冒頭に挙げたものたちと並行して、2021年秋から断続的に「小説ではない文」を書いてきた。その文はあれら境界のすべてと、そのほかの体験とを含んでいる。それがついに成り、人に託した翌日のこと。
私は文の主要な舞台のひとつである公園に行き、小さな川が池に流れ込む様子がよく見えるベンチに座った。文を送る際に添えたメッセージ――花が咲いていると、思わずきれいだねと話しかける身体について――を思い出しながら、樹々を眺めたり、サンダルのまま流水に入ったりした。
開いた本に、ある大小説で主人公が亡くなるのは、作者が次第に苛立ちをおぼえてのことだと言う人がいるが、小説家が主人公を愛さなくてあのようには書けぬ。と書かれていて、涙がこぼれた。
上空を涼しい風が吹きわたった。まるで巨大な湖をまえに、雨が降る先触れをきくようだ。30分はもつと思ったが、もっと早く降り始め、晴雨兼用傘をさしてベンチに陣取ると、叩きつけるようになった。それまで氷の入ったプラカップに麦茶を注いで体を冷やしていたが、飲み口の近くに雨雫が付けば楽しかった。化学繊維の軽いスカートは膝上まで濡れて、抱えた水草のバッグは暖かく守れていたから、真っ直ぐな大雨音は、そのまま安心と結び付いていた。
あめのひは、かさをさしてほんをぬらさず。地元の図書館が子供向けに貼りだしていたポスターは、なぜかブロントサウルスが直立歩行で傘をさしていたな…
後方の東屋を振り返ると、その向こうに誰もみていない空が出現した。
そんな空が、生まれ、住まいを変えつつ暮らしてきた人口の多いこの地に降るとは。山を登るときにだけみられる幻でなくなるとは。神代の、人の手付かずの自然であった頃にまで、生地は戻ることもできるのだ。その記憶の存在を私はしっかりと感じた。
動かぬままで雨が上がると、すっきりと遠くを見ていることに気が付いた。
ひとつ上の友人は、ゴルフを好きになってから視力が1.0に回復したといい、2.0ある同い年の友人は、私は本を読まないからだと結論するが、確かに読み書きを好む者の目は、遠くよりも近くを見ることに適応しやすい。
私の場合、いつも近くに対象物が入るよう、目が無意識に動いていた。一本道を歩くとき、街路樹や自転車や自販機を、たぶん本来は必要のない頻度で見る。身体は真っ直ぐに進みたいし、目も協調しているかのようにふるまうけれども、実は遠くを見据えると疲れるので、目は避けようとする。身体はそれを知っている。
このもどかしさが突然、消えた。目が遠くと和解していた。コンタクトレンズ装着時のような視力の上がり方ではない。あれは眼科医も友人たちも、生活に危険がないように、情報が沢山入るようにとすすめるし、私も長い間、そういうことだと思ってきた。近視は見えるべきものが見えずにつらいのだと。そうではなかった。
全力で書き切った文を贈り、生地が応えて記憶のかぎり遡ったから、私は見晴るかす、すべてがうつくしい、と話しかけていたのだ。それで遠くをみるのを畏れることがあろうか。自分の不調の解消や、情報の取得のためならば、ここに出ることはかなわなかっただろう。
歪みを、遅延を、細部をバネに跳躍するというやり方を手放さなければ、ここに来ることはかなわなかっただろう。だからこそ、話せるようになったのだし、それでも、書けるのだ。たぶん。
数日して、仰向けになった首の付け根で何かが羽ばたく夢を見た。蝉のように力強い振動に驚いた。整体師の方によれば、私の視力と幼い頃つくった首の傷には、なにか関係があるらしいのだが。
即時的にあらわれるものも、遅れを伴ってあらわれるものも、どちらも肯定しきるものを書きたい。それはパラレル・ワールドを時間的に翻訳したようなものになるのではないか。今はそのことだけを思っている。
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ari0921 · 2 months ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和七年(2025年)4月15日(火曜日)
      通巻第8739号
 嘗て台湾総督府で安全保障担当補佐官と話し合ったときの鋭い指摘
  「日本は外交政策を考えなくていいね。あるのは追随政策だけだから」
*************************
 
 李登輝総統の時代、アジア・オープン・フォ-ラムで何回かお目にかかったが、任期を終えられて淡水にシンクタンクを設立された。そこにも数回は訪問し、李登輝総統から話を聞いた。後藤新平賞授賞式に東京にこられたときも楽屋で会った。
いつも「日本は一体、何をしているのか。あの武士道精神はどこへ行ったのか」とおしかりである。
 台北のご自宅は狭い応接室、大渓にあった別荘は質素なつくり、ただし地下の蔵書はぎっしりと数万冊の書籍で埋まり、図書館のようだった。三割ほどが日本語だった。李登輝総統は日本語の達人でもあった。
 嘗て台湾総督府で陣水扁総統の安全保障担当補佐官と話し合ったとき、彼が言った
 「日本は外交政策を考えなくていいね。あるのは追随政策だけだから」。この箇所を「フォーリンポリシーではなくフォローイングポリシーだ」と、揶揄するように補佐官は流暢な英語で言った。
当該補佐官は台湾のメディアで健筆を振るっていた司馬文武である。
 戦後八十年、日本は自主的な外交を展開したか?
 ナショナリズムの発火は東京五輪だった。日本人に自信を回復させる契機となったが、昭和40年の日本はまだまだ各地に戦争の残骸がのこり、交通は渋滞し、学校はすし詰めだった。吉田茂は独立を回復した機会に憲法を変えるべきだったが、かれはむしろ憲法を口実に朝鮮戦争への出兵を拒否した。
 佐藤栄作の沖縄返還は日本の繊維産業の抜本的縮小などと引き換えだった。核は持ち込まれた。密使だった若泉敬は必死の決意で舞台の裏方を務めた。
一昨年、筆者は福井県鯖江市郊外に建立された若泉の墓に詣でた。丸い地球儀をかたちどった特注墓である。
 日本は独自の外交を実践できない。ところが米国はときおり方針を転換すると、チャンスが訪れる。ソ連と敵対関係から雪解けになるや、日本はシベリア開発、樺太ガス開発でロシアと協同できた。イランとは原油輸入で密接な関係があったが、米国のイラン制裁によりイラン原油の輸入が困難となった。アラブの商人らは足下を見る。日本は高い原油を交わされ続けてきた。
 核武装はがんじがらめの監視体制、つまり核拡散防止条約という不条理によって事実上禁止されている。アメリカ人には復讐権という強迫観念があり、日本が核武装すると、かならず二発お見舞いされるという恐怖感がある。だから日本に核を持たせないのだ。
 ▼ドル基軸体制は日本が根底を支えている
 日本のフォローイングポリシーとは「赤字を支えるために米国債を買え」「金利を据え置け」「為替レートを変えるから従え」となる。不動産不況に直面するや日本にロックフェラーセンターを買えと要請し、高値で買わされ、後日安値で買い戻された。
 リーマンショックでは三菱銀行と野村證券が、リーマンなどへの出資救済を要請された。三菱は90億ドルの巨額を投じてモルガンスタンレーに出資した。野村證券はリーマンのアジア、欧州部門を2億5000万ドルで買収し、8000人従業員も引き受けた。この巨額の決定は米国からの電話一本、わずか一晩で決定にいたった。
日頃の日本では稟議審議が長引き即断ができないシステムなのに、これはどうしたことだろうと誰もが訝しんだ。
 戦争を勝手に仕掛けながら、後始末は日本の番である。カンボジア北爆で密林にもナパーム弾や枯れ葉作戦。ところがカンボジア戦後復興を任され、地雷を撤去したのは日本だった。
犠牲者がふたり。そればかりかカンボジア平和会議は東京で開催しろと言われ、丸ごと日本の負担となった。その後のカンボジア支援は日本が世界一である。ところが政治的にカンボジアは中国経済圏にある。
 湾岸戦争では尻ぬぐいの機雷掃海をやらされた。その日本に対して、自らが苦況に陥るとスーパー301条とか年次改革要求とか、ようするに日本はアメリカのATM、米国債の最大の債権者である日本がアメリカ経済を支えている。金兌換からペトロダラー体制で維持されているドル基軸体制は日本が根底を支えているといっても過言ではないだろう。
 
 アメリカがけしかけて始めたウクライナ戦争とて日本は無関係なのに1兆7000万円の負担金が廻ってきた。
 日本は果たして独立した外交政策をとれるか? 
独自の経済主権を発揮して金利、通貨、為替政策をとれるのか? と問えば永田町ばかりか日銀、財務省の腰抜け達に期待できると考える人はよほどの善人だろう。
(余滴)追随とは「隋」に従うことであり、聖徳太子の遣隋使以後、シナの制度、文化をまねたという意味だから、現代語では「追随」より「追米」がふさわしい。
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yoooko-o · 2 years ago
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15/10/2023 17:41
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ドーハに到着。 機材はおそらく沖止めでしょうと言われていたので覚悟はしていましたが、案の定沖止めをくらいました…
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渋々下りて、バスに乗車。 ビジネスクラスの客を乗せ終わったら即移動でした。ビジネスクラスの客専用のバスだったようです💧座るのも余裕でした♪
この後も手荷物検査もありましたが(撮影NGなので写真はありません)、ビジネスクラス・ファーストクラス専用の手荷物検査場を案内されました。 ファーストクラス・ビジネスクラスは客数が少ないこともあり、職員は常に暇を持て余しているそうで、物凄く喋って来ます。 ここでも私はアゼルバイジャン同様にフィリピン人と間違えられる私。 日本のパスポートを持っている私がどういう根拠でフィリピン人になるのさ?
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ドーハの乗り継ぎ時間は2時間ちょっとと、タイトなのでドーハのラウンジは利用しませんでした。
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そしてここが搭乗ゲート入口です。何故ドーハのイエローベア!?バクーですらフレイムタワーだったのに…。 ここではエコノミークラスの乗客を先に案内し、ビジネスクラスは最後の搭乗でしたので、見世物扱いになることはありませんでした(苦笑) ※後で教えてもらいましたが、カタール航空にはファーストクラスはないそうです。
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ようやく、私たちも搭乗♬
離陸前のドリンクサービスはパイナップルジュースにしました🍍
こんな写真で申し訳ないですが、凄すぎてどう動いていいのかが分かりません。オマケに個室なので、他のお客さんにも聞けません。誰か助けて笑
https://www.qatarairways.com/ja-jp/onboard/qsuite.html
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シートベルトを着用していたら座席は座席はフラット、ベッド状態にしてOKでしたので、例の分厚い毛布に丸まって離陸を見届けたら、ベッドの中で爆睡していました。
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4:30am 担当のCAさんに起こされました。 「Good morning! この後の食事を選んで欲しい」と。 「食事より寝たい」って返事したら、 「お願いだから選んでよ(泣)」 私の触手が働いた2品を選んで再び爆睡。
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私が爆睡している間に他の方は既に食事が終わったご様子。私が起きるのを待っていたらしく、速攻でスナック菓子と水を持ってきてくれました。 これから食事の用意をしてくれるそうですが、ベッドの上で上げ膳据え膳、食べて寝るだけのフライト笑 帰国後も、来週の飛行機が恐ろしくて仕方がありません笑
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これはお通しみたいなものだそうです。ローストビーフの上にイクラが乗っていました。
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これが食べたかったんです。コーンスープ🌽
まさかここまで手の込んだスープが来るとは思っていませんでしたが、この後このとうもろこしも完食しました🍴
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もう一品はスズキのみそ焼きにしました。美味しかったけれど、量が多すぎる…汗
最後のライスだけどうしても食べきれずに残してしまったので、担当のCAさんが皿を回収する際に困惑しながら 「味がダメだった(´;ω;`)??」 「美味しかったけど、私にはお腹いっぱいになる量です」 ってちゃんと言いましたよ。
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軽食は寿司の握りセットorうなぎ丼の2択。 生魚がダメな私はうなぎ丼を頂きました🍚 ここでうなぎを食べると思いませんでした。そしてこれまた美味しかったです。 食べた方に感想を尋ねたら、寿司の握りセットも日本の寿司屋のクオリティで美味しいそうです。 ※因みに食事中にいつも登場したコレ→🕯 LED電球のようでした。
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カタール航空は私の好きな洋楽がたくさん入っていたので、音楽かけっぱなしでまたも爆睡。 もうすぐ日本に到着するとのアナウンスが入ったところで目が覚めました。 毎回機内では『断食断飲』を決め込んでいる私が、こんなに機内食を食べるのは初めてですよ🔰 帰国後の体重がどうなっているのか考えただけでも恐ろしいです😫
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nigebanigenige · 6 months ago
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2025/01/11
松江で行った器やさんが外苑前でポップアップをやるという告知を見たので午後から出かける。毎時神宮前からHAYの店舗、MoMAのショップデセール品をみながらでる。表参道の歩道橋を渡ると、きらきらとおしゃれした男女に紛れて作業服の男性が端に向かって何か作業していた 白昼堂々落書きか!?と思ったら橋の塗装を直しているようだった。ごめんなさい
小原さんの唐揚げ弁当〜をよむためにJCOOKに入った。蓮見さんが大絶賛していたから読み始めたけど、意外と、そうでもなかった。わたしでもかけるかもな、とちょっと思ってしまった→最後まで読み切って舐めすぎ反省 構成がすごく良かった 
objectのポップアップに行き、お財布と相談した結果ぐっとこらえて湯町窯の小皿を買う。ほんとはさけのせる細長い皿が欲しかったけどちょうど良いサイズ感がなくて断念。お店で接客してくれたお姉さんもいた。現地のお店がすてきで湯町窯のボウルがお気に入りで毎日使ってて どうしても来たかったです、と伝えられずに出た
ワタリウム美術館、青山ブックセンターに寄り道 表参道からブックセンターの流れかなりいいな 途中の古本屋もよかった 入った瞬間にあらゆることは今起こる、が目に入ってきてびっくりした 次に見かけたら買おうと思ってたから でも結局文藝が日記特集だったのでそれを買った デザイナーのまとめ本みて、こういうの載りたいなあとちょっとだけおもう ちょっとだけ
SPIRALが通り道にあることを思い出して寄り道する。ずっと素敵だと思っていたテキスタイルデザイナーの靴下があったので即決する。いつもなら派手な色を買うけどたまにはいいかなとブラウンを買ってみた。かわいい。足元にお花を掲げて歩ける
foxcoご本人がいらっしゃった 美しかった
どうしてもDiorのコンシーラーかコンデジが欲しくていったん中野のカメラ屋に行くことにする うわさのGRの前のバージョンが売っていたがなんとなく踏み切れずやめる。滞在十分程で中野から移動 新宿伊勢丹のDiorまで行くも、強めのお姉さんたちが並んでいてビビってしまう。裏にあるトンカツや思い出してご飯にする。ぶあついトンカツと辛すぎないカレー おいしい しあわせ 文藝が面白い。物欲と食欲にまみれていてだめかも。三丁目の方にいたのにまたJRの方に戻り、BERGでカフェラテを注文 小原晩さんの唐揚げ弁当の残り2篇を読み切った なんというか、ところどころで人を巻き込む愛嬌を発揮する場面があり 羨ましくなった 
Diorの列にならべなかった
となりのお兄さんのスマホの待ち受けがゴールドジムの外観だった
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