#品軒在地風味小館
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るんぺんパリ【RunPenParis】

自己紹介 2024年11月4日追記 6116文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)��ら 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは少しある
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している それは去年に末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 観光施設って感じ 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 今年は10月18・19・20(金土日) 19(土)は久しぶりに一人で一日中お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件回って、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて上野天神祭へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 夜の19時から同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったガキさんは すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので閉店の1時までカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の20(日)は��野天神祭に参加している同級生のオデに会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く紅梅屋でおみやげを結構買って 桔梗屋で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 俳聖殿のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 上野城のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく上野城をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった この子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 新天地には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 大きな化粧品店は更地になっていた 高校の時の知り合いが「クワトロNo.4」という バーを経営しているが、まだ入った事はない いつか行ってみたい気持ちはある ただダーツバーらしく 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど バーの扉って感じで雰囲気はあった 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で それにしても伊賀は狭いなと感じる
市部という地区だったと思う 近くに市部駅という無人駅がありその近くの 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 召し上げられた 小学校6年卒業までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な��かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 バスケ部の試合で名張の体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら右足のかかとがにヒビが入った その夏にはバスケ部をクビになり陶芸部に入った 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線のそういう女子には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。 高校生の頃はたくさん恋をしたが 自分が不器用だったので自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた 人を好きになることに迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくという感情で奥手に過ごしていった そのせいか、他校の女子からゲイだとウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時は楽しければなんでもよかった
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけでやっていて 週3回ぐらい夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで��� 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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Recommended Books 【京都・Kyoto】
&Premium特別編集 まだまだ知らない京都、街歩きガイド。 (MAGAZINE HOUSE MOOK) 雑誌 – 2024/8/6
マガジンハウス (編集)
雑誌「&Premium」発、人気の京都ガイド第5弾! 混雑する観光地から離れて、暮らす人だからこそ薦めたい15のエリアと8つのテーマ、全316軒を紹介します。 ■大和まこの京都さんぽ部 暮らすように歩く、京の街
【紹介エリア・テーマ】 静かに過ごす時間/七条通/四条南/御所南再訪/自分みやげ/叡電/現地系中華/老舗の味/賀茂川/河原町松原/栗の菓子/鹿ヶ谷通/アペロの時間/二条城南/東大路通/冷泉通/吉田&聖護院/壬生/整える/北野天満宮界隈/栗の菓子2/御所西再訪/京丹後
女人京都 ペーパーバック – 2022/9/28
酒井 順子 (著)
京都に通い続けるエッセイスト・酒井順子による、全く新しい視点から切り取った京都エッセイ&ガイド。 女性の生き方、古典、旅、文学など幅広く執筆活動を行う著者が、小野小町、紫式部、清少納言、日野富子、淀君、大田垣蓮月、上村松園など歴史上の女性たち43人の足跡をたどる旅に出た。
「京都の中でも、京都らしさを最も濃厚に抱いている存在は、名所旧跡でも食べ物でもなく、京都の『人』なのではないかと私は思います。(中略)京都の都会人の中には、今も、平安以来続く都会人らしさのしずくが、滴り続けているのです。」(「はじめに」より)
京都に暮らした女性たちの生き様を知ることは、現代の京都の人々、そして京都の街を知ること。 この本を片手に歩いてみると、平安時代の遺構がそのまま残っているところもあれば、貴族の屋敷が今は児童公園になっていたりすることにも気づく。京都の通りを上ル下ルし、西へ東へと歩き回り、時代を行ったり来たりして、新たな旅の提案を教えてくれる。 この本を読むと京都の歴史や文学がぐっと身近になること間違いなし。
京都散策に便利な地図付きです。
お茶の味 京都寺町 一保堂茶舖 (新潮文庫) 文庫 – 2020/5/28
渡辺 都 (著)
ゆったりと流れる時間、その時々で変化する風味、茶葉が持つ本来の美味しさ──お湯を沸かし、急須で淹れてこそ感じられるお茶の味わいがあります。江戸時代半ばから京都に店を構える老舗茶舗「一保堂」に嫁いで知った、代々が受け継ぎ伝えてきた知恵と経験、家族のこと、お店のいまと未来、出会いと発見に満ちた京都生活。お茶とともにある豊かな暮らしを綴った、心あたたまるエッセイ。
京都、パリ ―この美しくもイケズな街 単行本 – 2018/9/27
鹿島 茂 (著), 井上 章一 (著)
◎26万部『京都ぎらい』の井上章一氏、フランス文学界の重鎮である鹿島茂氏が、知られざる京都とパリの「表と裏の顔」を語り尽くす。たとえば、 ・日本には「怨霊」がいるが、フランスにはいない ・日本のお茶屋��パリの娼館は、管理システムが似ている ・パリの娼館は、スパイの温床だった ・日仏では、女性のどこに魅力を感じるか ・洛中の人にとっての「京都」はどこ? ・パリの人にとっての「パリ」はどこ? ・パリと京都の「汚れ」に対する意識の違い など、知っているようで知らなかった「京都とパリ」の秘密がわかる。
京都のおねだん (講談社現代新書 2419) 新書 – 2017/3/15
大野 裕之 (著)
お地蔵さんの貸出料は3000円、発売第一号の抹茶パフェは1080円、では舞妓さんとのお茶屋遊びは? 京都では値段が前もって知らされないことも多く、往々にして不思議な「おねだん」設定に出くわす。京都を京都たらしめているゆえんともいえる、京都の 「おねだん」。それを知ることは、京都人の思考や人生観を知ることにつながるはず。京都歴二十余年、サントリー学芸賞受賞の気鋭の研究者が解読する、京都の秘密。
なぜこれがこんな高いのか、あんな安いのか、なんで無料なのか、そもそもあんなものになんでおねだんがつくのか―― 大学進学以来、京都住まい二十余年。往々にしてそんな局面に出くわした著者が、そんな「京都のおねだん」の秘密に迫る。 そもそも「おねだん」の表示がされていない料理屋さん、おねだん「上限なし」という貸しビデオ屋、お地蔵さんに生ずる「借用料」。 そして究極の謎、花街遊びにはいくらかかる?
京都人が何にどれだけ支払うのかという価値基準は、もしかしたら京都を京都たらしめているゆえんかもしれない。 京都の「おねだん」を知ることは、京都人の思考や人生観を知ることにつながるはず。 2015年サントリー学芸賞芸術・文学部門を受賞、気鋭のチャップリン研究者にして「京都人見習い」を自称する著者による、初エッセイ。
京都 ものがたりの道 単行本 – 2016/10/28
彬子女王 (著)
「京都という街は、タイムカプセルのようだ」と著者は言う。オフィス街の真ん中に聖徳太子創建と伝えられるお寺があったり、京都きっての繁華街に、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された地の石碑がひっそりと立っていたり。そこには人々の日常があり、みなが変わりない暮らしを続けている。そんな石碑になど目を留めない人もたくさんいるはずだ。 それでも著者は、そんな場所に出会う度に、タイムカプセルを開けたような気持ちになるのだという。幕末の争乱期の京都へ、平安遷都する以前の京都へ、近代化が急速に進んだ明治・大正時代の京都へ……。さまざまな時代の“時"のカケラが、街のそこかしこに埋まっている。この場所で徳川慶喜は何を思ったのだろう。平家全盛のころの六波羅は、どんな景色だったのだろう。安倍晴明はここで何を見たのだろう。その“時"のカケラは、一瞬の時間旅行へと誘ってくれる。 日本美術研究者として活動する著者が、京都の通り界隈にまつわる逸話から、神社仏閣の歴史、地元の人々の季節折々の暮らし、街歩きでの目のつけどころや楽しみどころ、京都人の気質までを生活者の視点から紹介する。さらに、自身のご家族のこと、京都府警と側衛の方たちとのやり取りなどの日常生活の一端を、親しみやすい文体でつづる。6年以上、著者が京都に暮らす中で感じ、経験した京都の魅力が存分に語られており、「京都」という街の奥深さと、「京都」の楽しみ方を知る手がかりとなる。 新聞連載の24作品に、書き下ろし3作品を加えて刊行。京都の街歩きに役立つ「ちょっと寄り道」情報や地図も掲載。
京都はんなり暮し〈新装版〉 (徳間文庫) 文庫 – 2015/9/4
澤田瞳子 (著)
京都の和菓子と一口で言っても、お餅屋・お菓子屋の違い、ご存知ですか? 京都生まれ京都育ち、気鋭の歴史時代作家がこっそり教える京都の姿。『枕草子』『平家物語』などの著名な書や、『鈴鹿家記』『古今名物御前菓子秘伝抄』などの貴重な資料を繙き、過去から現代における京都の奥深さを教えます。誰もが知る名所や祭事の他、地元に馴染む商店に根付く歴史は読んで愉しく、ためになる!
京の花街「輪違屋」物語 (PHP新書 477) 新書 – 2007/8/11
高橋 利樹 (著)
京都・島原といえば、かつて興隆をきわめた、日本でいちばん古い廓(ルビ:くるわ)。幕末の時代、新選組が闊歩したことでも有名である。その地でたった一軒、現在でも営業を続けるお茶屋が、輪違屋(ルビ:わちがいや)である。芸・教養・容姿のすべてにおいて極上の妓女(ルビ:ぎじよ)、太夫(ルビ:たゆう)を抱え、室町の公家文化に始まる三百年の伝統を脈々と受け継いできた。 古色なたたずまいを残す輪違屋の暖簾をくぐれば、古(ルビ:いにしえ)の美しい女たちの息づかいが聞こえてくる。太夫のくりひろげる絢爛な宴は、多くの客人たちを魅了し続けている。 本書では、輪違屋十代目当主が、幼き日々の思い出、太夫の歴史と文化、お座敷の話、跡継ぎとしての日常と想いを、京ことばを交えてつづる。あでやかでみやびな粋と艶の世界----これまでは語られることのなかった古都の姿が、ここにある。
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作品のコンセプト
「碧い苺と茸」(仮題)についてのご説明です。読み方は(あおいいちごとくさびら かだい)です。この作品の原点はある幼少期の体験に基づきます。私が以前住んでいた所は近くに特級河川が流れる河岸段丘に囲まれた中山間地域に暮らしていました。年齢はあまり覚えていませんが未満児か小学校の低学年の頃であったろうと思います。夕方になり、遊び仲間数人で誰かの以前住んでいた古いお家に探検に行ってみようと話になりました。当時は空き家を探検するという遊びが流行っていました。今思えば不法侵入という事なのだろうけど、当時は私はそんな判断ができるはずもなく仲間が以前住んでいた家という事実も手伝って探検気分で伺う事になった。ただ行ってみると想像とは違いなんとも歴史を感じる怖い建物といった印象を子供ながらに感じた。今考えてみると建築様式からして江戸とか明治時代の建物だったような気がする。しかし人の手の入っていない林が生い茂り夕暮れ時といことも手伝ってなんともいえない雰囲気であった。そんな中、友達がひとしきり怪談めいたことを言い軒先にあるあるものを指差した。その当時の話はあまり覚えていないのだが、当時の印象だけは覚えている。画像とかそんなことじゃない雰囲気も含め印象だ。多分「鼻塚」 「耳塚」どちらかだ。子供ながらに理解を超えた怖さとなんともいえぬ雰囲気に仲間と共に足早に帰ったことを記憶している。そう苺と茸はそのときの体験が元になっている。現代��は違いその当時はそれを集めることが仕事であり評価の対象としてそれ相当の理由はあったであろうと大人ながら思うけど当時はかなり重い感じを受けた。ある意味、現代的に考えてみれば残酷なことでも、当時としてみればそれ相当の重要な情報であり義務と報酬のための物的な証拠であったということなのだろうと思う。その当時は伝聞と書簡や物的証拠が情報の全てであり、情報に重要性を持たせるためにはかなり残酷なことでも当時としては正当な理由となったであろうと推測。何かを取って集めることは時に残酷な面を見せることがある。
この作品は子供の頃の原体験と昨今のAIに見る集合知という新しいフェーズに重きを置いています。AIは人がインターネット上に上げた様々なデータを検索してプログラムにより人の要望に合わせて答えを生成します。それが合法かそれとも様々な問題を含むグレーゾーンをも容認する形で推移するのか分かりませんが、今や生活に欠かせないツールになりつつあります。それは戦国時代に論功行賞のために体の一部を集めた事と重なるように私には見えます。
今回は集合知というワードを使い現代の集合知の形がAIとするならば、アナログな集合知は人や文化や書籍だという見立てで進める企画です。人が他の生物より優れている点は人の枠を超えて知識を共有する事だと言われています。それは民間伝承だったり伝聞だったり書物だったり文化として振る舞う場合もあるかもしれません。それは様々な形で人の枠を超えて集積していきます。そんな集積した集合知をペイント作品と今注目を集めている音声SNSでアプローチをしています。
また飯田地方に人知れず脈々と生き続ける歴史や民間学や伝承や文化などが浮かび上がるかも知れません。

「碧い苺と茸」(仮題) 施設内の平��作品
館内のペイントの作品は子供の頃体験した鼻塚耳塚を元に題名とコマンドを生成AIに指示して70回くらい画像を生成しています。その上で作者が再度調整して現在の形にしています。画面内にある苺と茸は人の鼻と耳を表し、また現代の生成AIの検索対象になった人々の営みを表しています。AIには元禄風の若侍二人というコマンドを打ちましたが実際のペイントにそんな影はありません。また若侍二人が持つ雲のような剣?は雲上のクラウドコンピューティングを表しているようでもあります。このペイント作品の言わんとしていることはAIは人の意思で答えを生成しているのでありその先の集合知としての集積は生身の人の生活の営みを非暴力や暴力に関わらず刈り取ってきた成果だということを表しています。

「碧いいちごとくさびら」 インターネット上の企画
インターネット上の音声SNSの企画です。
アナログ的に見た集合知を探っていこうという企画です。題名は館内と少し違い「碧いいちごとくさびら」となっています。人間が他の生物から見て唯一優れていることは人の枠を超えて知識を共有することだと言われています。それが様々な形となって集合知となり得ると考えます。それが個人の場合もあるし書籍の形を取る場合もある。それか複数人で文化を共有するという形をとるかもしれない。そんな中、今回は複数人の方にインタビューや対談をして、人の中にある集合知を音声に載せ抽出しそれを多数の人に聞かせて改めて文化や人に伝わる集積した人の記憶や様々な物事の複層的な記憶(集合知)を呼び覚まそうという企画です。今は多様性の時代と言われています。多数の違いを知ることにより多様な知恵を見出すのか、それとも多数の正義と理解しその正義を守るのか時代の分かれ目に来ていると思います。どうかこの作品に触れることでまだ見ぬ数秒後の自分に会ってください。
宮澤碧

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2024年10月26日

新広島駅ビルが生む活気 広島市の的場町一帯に飲食店やホテル相次ぎ進出(中国新聞 10月26日)
JR広島駅南側にある広島市南区的場町で、飲食店やホテルの進出が相次いでいる。各店は、新しい駅ビルが2025年3月24日に開業するのを見据え、集客の追い風を期待する。戦後に繊維問屋街として栄えたエリアは徐々に姿を変え、新たな活気が生まれつつある。
串焼き、創作おでん、タイ料理と多彩な店が軒を連ねる飲食店街。その一角に8月、料理の持ち帰りや宅配に特化したシェア型施設「ホーミーズキッチン」が開業した。2階建てビルの壁面には「Shared Cloud Kitchen」の大きな文字。複数の飲食店が集まって施設を共有し、料理を提供することを意味する。
ビルには最大7店が入居でき、現在はクレープ店とすし店が入る。近くのオフィスや専門学校のニーズを見込む。施設を運営するホーミー(呉市)の小南慶次郎社長は「横丁みたいな雰囲気のある落ち着いた町。広島駅前の再開発で人が集まるようになる」と駅ビル効果を見��む。
ホーミーズキッチンの近くでは10月9日、広島牛専門の焼肉店「広島牛焼肉青ひげ」がオープンした。店を運営する青ひげ(中区)は、新しい駅ビルの商業施設ミナモアにも弁当や総菜の持ち帰り店を出す。焼肉店では、ミナモアの新店向けの商品も作る。
谷太輔社長は「駅と広島のまちなかの間にある便利な場所。焼き肉や弁当、総菜の調理を集約して効率を良くする」と話す。
的場町一帯は戦後、繊維問屋街で中四国最大の規模を誇った。1878(明治11)年創業で、戦後から的場町で店舗を構える可部寅呉服店の可部典良社長によると、昭和30年代ごろは約200の繊維問屋があったという。「地方の小売業者が仕入れに来て、にぎやかだった。近くの京橋町には業者が泊まる旅館が多かった」と往事を懐かしむ。
しかし、流通大手の成長などで問屋は減少。1984年には多くの店が立ち退き、日本中央競馬会(JRA)の場外馬券売り場「ウインズ広島」ができた。一帯の問屋でつくる広島市問屋街本通会(センイシティひろしま)の加盟店は、今では10店足らずになった。
問屋街としての役割は小さくなったが、駅前の再開発とともに姿を変えつつある。2022年8月に閉館したホテルセンチュリー21広島の跡地には、外資系ホテル「voco(ヴォコ)広島」が27年に開業する。25年度には広島電鉄(中区)の駅前大橋線が開通する。現在の的場町電停は新しい循環ルートに組み込まれる。
長年、的場町を見つめてきた可部社長は「景色はずいぶん変わったけれど、今も家族代々、呉服店を利用してくれる常連客がいる。新しいホテルや店ができ、街全体への波及効果はあるだろう」と思いを巡らせた。
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インド建築縦走旅vol4 チャンディーガル その1
デリー3泊滞在のあと、チャンディーガルへ移動し、いよいよコルビュジェ世界遺産建築の見学へ。

パンジャブ地方の北部に位置するチャンディーガルは、1947年のインド独立の際、パンジャブ州がインドとパキスタンに分離し中心地であったラーホールがパキスタン側に位置していたため、新たな州都として、現在のパンジャブ州とハリヤーナ州(1966年に新たな州として設立されたパンジャブの東側の地域)の州都として建設された街。建築家ル・コルビュジェの都市計画が実現された世界で唯一の都市でもあります。
1950年にコルビュジェがこの計画に携わる前の2年間、インド初代ネール首相に依頼されたされたアメリカの建築チーム、アルバート・メイヤーとマシュー・ノヴィッキーがマスタープランを検討していましたが、ノヴィッキーが飛行機事故で亡くなってしまったため、コルビュジェが招聘されました。コルビュジェは、いとこのピエール・ジャンヌレを設計チームに入れることを条件にし、チャンディーガルにはジャンヌレの作品も多く残っています。
コルビュジェの基本計画のコンセプトは「住む、働く、循環 、心と体のケアの、4つの基本機能を満たす」というもの。碁盤の目状に800m×1200mのセクターで区分され、北におかれた国会議事堂エリアを頭部として人間��体になぞらえられている。街の中心部が心臓、労働エリアとしての手足。加えて、グリーンベルトとなる公園とレジャーのエリア、心と体のケアとしてスクナ湖のエリアで構成されている。(チャンディーガル建築博物館の説明文より)

2日目に訪ねたチャンディガル建築美術館に展示されていたメイヤーのマスタープランはカーブを描く道路に応じた街区で構成された木の葉型プラン(右側はネットから拝借)で、中央あたりが国会議事堂エリア。

コルビュジェのマスタープランの特徴は7V ( les Sept Voies ) という道路のシステム。高速道路 から商店街、街区道路、歩行者道と細かく分類する交通分離計画によって、交通量の多い道路はセクター外制限され、生活区域内の環境と安全が���保されるというものです。
空港からの道中、市街地に入ると、交通量は多いものの整然としていて、デリーでは自転車なんて走れないくらいの凄まじさだったけれど、ここでは自転車も多い印象。

各セクターには、学校、商業、コミュニティ施設などがで完結していて、 緑地が各地区の各地区の中心部を貫通し、人々はシヴァクリ山脈のパノラマを拝めるようになっているそう。
チャンディーガルの空港から最初に向かったのはキャピトルコンプレックス。久しぶりにワクワク感で胸が高鳴る。

ツーリストセンターにて10時の回に申し込み、ガイドさんに連れられて敷地内へ。まずは高等裁判所(High Court)へ。
緑、黄色、赤の壁柱と、インドのコルビュジェ建築の特徴ともいえる外壁のブリーズソレイユ(日よけ)が印象的です。でも逆光。

続いてオープンハートモニュメントへ。モニュメントを取り囲むように地下に埋まった広場になっています。

平和の意味を込めた開いた手のモチーフは、平和の象徴である鳩の形にも見えます。構想はできたが資金がなく、コルビュジェは母国フランスからの贈り物となるよう働きかけたが、コルビュジェは存命中にこのモニュメントを見ることはできず、亡くなってから20年後の1985年に完成したそうです。
オープンハンドの下には演説台が。声が響く。翌日訪れたコルビュジェセンターにスケッチがありました。

ツアーは進み、議事堂の前へ。議事堂のてっぺんに見える2つの天井トップライトは、三角形がパンジャブ州、楕円形がハリヤーナ州を表している、とガイドさんの説明。

手前の建物は影の塔、ブリーズソレイユの光と影の様子を検証するために作れらた建物だそう。
議事堂扉絵は、7.7m×7.0mの巨大な画面の上半分に太陽が、下半分に樹木、動物、川が描かれたもの。エナメル板を横に5枚、縦に11枚並べたものだそう。

ガイドさんより「3月頭まで議会開催中で中には入れない」
えーーこれで終わり?
残念と感じることに頭��追いつかぬまま、ツーリストセンターに戻る途中「Not satisfied」という声が聞こえてくる。ツアー客の一人がガイドさんに掛け合っている模様。どこぞの屋上にあがることができる。というようなことを言っているように聞こえる。これは乗らねば!と「me too」とガイドに詰め寄るも「少人数しか無理です」とか言ってる。「We came from japan」「far away」「please」と単語を並べる。と、「午後15時にここに来て」と渋々の表情のガイドさん、とりあえずアポを取り付けた!ので、それまでの時間に見れるところをまわろうと、パンジャブ大学へ向かい、まずは敷地内にある建築学校へ。
ブリーズソレイユとモデュロールのエントランス。

内側からのブリーズソレイユ。光と影の美しさ。

中庭に出てみると、反り上がったようなカーブの屋根が連なる。軒が高いほうが採光窓、低い方が換気窓になっています。

内部。壮大な空間に並ぶ小さな模型たち。

コンクリートの力強さの中に、トップライトの絶妙な光と、ビビッドな差し色が、コルビュジェらしくもありインドらしくもある。

エントランスホールに、生徒たちの研究と思われるチャンディーガルの建築群の詳細なパネルが展示されていた。見たい建築が盛りだくさん。とりあえず、翌日見れ���うなものを物色する。
続いて、ガンディーバワンへ移動。ピエールジャンヌレの設計でハスの花をイメージしたという。折り紙のよう。内部には入れないと思っていたら入れました!

入り口の木製の回転扉が大迫力。中に入ると、、、形、素材、色、多くの要素がバランス良く、印象的な空間を作り上げていました。そして何より光の入り方が美しい。

建物の概要がわかるオリジナル模型と、外部ぐるっと周ってみた写真。水がないのが残念。

後ろの建物もジャンヌレの設計。名建築をバックにトランプ、楽しそうなキャンパスライフ。

こちらもブリーズソレイユ。ジャンヌレの設計(たぶん)

そして、再びキャピトルコンプレックスへ。詳細よくわからぬまま、本日2度目の見学ツアー。光の当たり方が変わり、ぐっとビビッドに見える。

パラソルのような大きな庇が、カラフルな壁柱に支えられています。高い気温をさえぎりつつ風を通す二重屋根。当初案のファサードはブリーズソレイユではなく、大屋根のアーチと関連した小アーチが並んでいたそうです。インドの気候風土に沿っていったということか。

柱の後ろにスロープが見えている。近づけず残念。
朝と同じようにツアーはオープンハンドモニュメントへ。
ん?手の向きが変わってる?!風で動くものだそうなのですが、こんな重そうなものが、強風でもない中で動くと思っていなかったので、驚きひとしお。

本当に朝とは違うものを見られるのか?!と思いつつ、同じコースをたどったあと。。。。。合同庁舎へ行けるとの話!心踊りまくる。関所突破!

パンジャブ州とハリヤーナ州の合同庁舎は254mの大きな箱。ブリーズソレイユの連続が巨大さに拍車をかける。

屋上へ向かう途中、あちこちかっこいい数々。内側から見るブリーズソレイユ、階段、窓、色。

そして屋上。マルセイユのユニテダビダシオンの屋上を彷彿とさせる。

上から見る議事堂と裁判所。

そして帰りのスロープ。参加している皆が興奮状態。

こうして合同庁舎の見学が終了。この日ツアーに参加していたのは、カナダ、スロベニア、シンガポールの建築家たち。文化も言語も違えど、同じ思いを持った人たちと同じ興奮を味わいつつ交流して、建築という共通言語の存在を感じました。(英語力があったらもっと楽しかっただろう)
議事堂の内部を見られなかったのは残念だったけれど、旅ではよくあること、コルビュジェ&ジャンヌレ尽くしで十分に満足。
といいながら、まだ頑張る私たち。どこにあるのか見られるのか定かではないスクナ湖のボートハウス(コルビュジェ設計)を目指す。ボートに乗れば見られるという情報もあるが、クローズ時間に戻ってこられるのか、、、聞けば朝は8時からやっているとのことで、翌日の朝に持ち越し。ここで、同じようにボートハウスを探��にきていたスロベニアの建築家と再び出会う。皆考えること同じ笑。

スワンボートの人気度高し!しっかりライジャケを装着して乗っているのも素晴らしいです。
こうして1日目終了。2日目へ続く。。。。
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485:底名無し沼さん (ワッチョイ b221-1Zux):[sage]:2023/11/07(火) 02:24:52.03 ID:DadrxGed0
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20231106/1000098894.html?fbclid=IwAR15nM7j-zr1TEsII1xpLMTp3am1fnLLa6yrOrSshl9IoVAyT_WJE8ae4Ns
奥多摩町攻めるね
山から降りた後こういうところに一泊してみたい
486:底名無し沼さん (JP 0Hb6-dtHZ):[sage]:2023/11/07(火) 03:22:49.84 ID:L6d7bAxMH
>>485
こんなの補助金ビジネスじゃんか!
広末の不倫相手が長野の田舎に作った謎の鮭の塩焼きの店みたいなもの。
こんなところに金垂れ流す前に石尾根の橋直せって。
487:底名無し沼さん (ワッチョイ b19a-BrPJ):2023/11/07(火) 04:53:17.34 ID:EN9ARSpZ0
奥多摩に欲しいのはレストランじゃなくコンビニ
489:底名無し沼さん (ワッチョイ 62e9-DIH/):[sage]:2023/11/07(火) 07:20:35.94 ID:s9DZ/wzt0
滞在型観光とか無理
観るとこない
山も日帰り
490:底名無し沼さん (ワッチョイ 0980-ubk5):2023/11/07(火) 08:55:52.17 ID:J0HMBqFm0
鳩ノ巣は蕎麦屋、釜めし屋が、まあ成功している
釜めし屋は廃タイムスマートとか周辺数か所の駐車場を借りて営業しているし
微妙に儲かっている感じ、レストランは白丸のアースガーデンが成功している
クライミングでは越沢バットレス、観光では鳩ノ巣渓谷があり、現在古里側の
入川谷の砂防ダムの数億円レベルの改修工事をしているし、林道西川線は
毎年100mくらいづつ伸ばしている、今は廃峰集落の上まで伸びて、まだ
伸ばしているし林道にしては其れなりの強度でマイクロバスでも入れるのか?
という感じで「大根の山の神」方向から川苔山への拠点ができても不思議では
ないな
492:底名無し沼さん (ワッチョイ 4230-DbXa):[sage]:2023/11/07(火) 09:22:56.61 ID:CQXvssRg0
>>490
鳩ノ巣渓谷は集客力あるんだから、あの廃墟をなんとかして欲しいわ
491:底名無し沼さん (スッップ Sd62-9kap):[sage]:2023/11/07(火) 09:14:33.80 ID:rQJZ01jvd
>>485
こういうのは外国人や富裕層の観光客が想定客層だから
登山者なんか端からお呼びじゃない
だってお前ら登って下って軽くメシ食うだけで全然金落とさないじゃん
493:底名無し沼さん (スプッッ Sd62-k1xI):[sage]:2023/11/07(火) 09:24:21.04 ID:fY6XSFisd
そうだよな、登山客なんてほとんど町はあてにしてない
奥多摩小屋やテント場も奥多摩町は再利用に積極的じゃないし結局山岳会が中心になってやる感じだ
494:底名無し沼さん (スッップ Sd62-K6KW):[sage]:2023/11/07(火) 09:26:15.84 ID:ai+SHN6dd
車中泊マニア、登山者、釣り人、滞在時間が長いやつほど金落とさない傾向があるからな。
特に自家用車メインのエリアなんかは限られた駐車スペースを長時間使用するくせにぜんぜん金落とさないって思いが地元の人にはあるんじゃないかな。
歓迎されてないのを肌で感じることがあるわ…
497:底名無し沼さん (ワッチョイ 62b1-su5d):[sage]:2023/11/07(火) 10:30:12.42 ID:Pu6yYA1L0
>>485
こういうドミトリーやホテル、レストラン、古民家や廃校利用で過去にも数軒オープンしてるけど、
流行ったためしがない。発想が安直なんだよな。東京の人がこういうの作りましたよ、はい利用してくださいとやっても思い込みだけで、リサーチをまったくしていない。実際奥多摩に来ている観光客や登山客が
どういう施設を望んでるかを知ろうともせずに、自分たちがやりやすい、安手のやり方で不便な場所に、
高い値段でやるから来るわけない。鳩ノ巣に宿泊の需要なんてないと思う。
おれが前からやったらいいと思うのは、アウトレットショップ。奥多摩なら倉庫代なんて安いのだから、
ちょっと広めの登山用品のアウトレット倉庫店を開き、客寄せとし、そこに軽食やバースタンドを併設する。
登山道では、六ツ石山近辺になにもないから、避難小屋が欲しいかな。
498:底名無し沼さん (ワッチョイ c251-eOmy):[sage]:2023/11/07(火) 10:43:00.71 ID:JGSQFQB60
>>497
鷹ノ巣避難小屋でいいじゃん
508:底名無し沼さん (JP 0Hb6-dtHZ):[sage]:2023/11/07(火) 11:42:52.27 ID:L6d7bAxMH
>>497
だから、補助金ビジネスだよ。マチから金出してもらうからリスク0の美味しい商売。
499:底名無し沼さん (スプッッ Sd62-k1xI):[sage]:2023/11/07(火) 10:54:51.37 ID:fY6XSFisd
鳩ノ巣には山梨側にトンネル抜けた所にはとのす荘っていう人気のホテルみたいな旅館あるよ
週末はいつも駐車場混んでる
500:底名無し沼さん (ワッチョイ 6206-9tg5):[sage]:2023/11/07(火) 10:57:46.77 ID:Kt1zVEKJ0
奥多摩駅に時間制のコインシャワー作ったら利用者多そうだな
501:底名無し沼さん (JP 0He1-AwF5):[sage]:2023/11/07(火) 11:07:35.10 ID:yrU/M6goH
武蔵五日市の駅前駐車場もそろそろ開発(という名目のお友達案件)入りそう
武蔵引田と武蔵増戸の北の調整区域だった開発地区なんかモロに…
504:底名無し沼さん (ワッチョイ 62b1-su5d):[sage]:2023/11/07(火) 11:24:29.92 ID:Pu6yYA1L0
戦前の奥多摩ハイキング地図を見ると、五日市、青梅、高水三山が
主であって、氷川地区(現奥多摩駅周辺)は登山対象になっていない。
ダムができる前はそもそも交通手段がなかったようだ。
505:底名無し沼さん (ワッチョイ 62b1-su5d):[sage]:2023/11/07(火) 11:27:01.39 ID:Pu6yYA1L0
そういえば、雲取山なんかもかつては秘境と呼ばれたようだ。
交通手段がなかったから。山梨側からしか行けなかった。
奥多摩地区の登山の歴史は浅いので、人が離れるのも早いのかもしれない。
506:底名無し沼さん (ワッチョイ b15e-PWRW):[sage]:2023/11/07(火) 11:31:29.59 ID:Y9Lvi0r10
奥多摩工業が所有してる小河内ダムまでの立派な鉄道施設を遊歩道でいいから復活させれば良いのにね
509:底名無し沼さん (ワッチョイ 2e75-ywvm):[sage]:2023/11/07(火) 11:58:56.73 ID:VRCkLlXr0
風張峠から奥多摩湖に下った処にあるビジターセンターにもオサレカフェが併設されてたな
登山者ではなく車でやってくる客用なんだろうけど
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念の為の折り畳み傘、変えられなかった一部の雨予報にそわそわしつつ迎えた今日の約3ヶ月ぶりの逢瀬。直前の日までピリつく瞬間もあれど5分足らずで解決してきた、1年と約2ヶ月の期間の賜物。流石に2度目の待ち合わせ場所となるとどこから現れるかも分かってきて探す間もなく見つけられた。久しぶりの北斗に電車を待ちながらちょっかいをかけつつ、顔を見て話せる幸せをじわじわと感じていた。
一日目の午後、ホテルに荷物を置いて早速集合場所へ向かう。初めて逢うメンツばかり、俺の知り合いばかりで申し訳なさも感じつつそれでも付き合ってくれる北斗と恋人を受け入れてくれるダチに感謝しつつ。微笑ましく見守られながら会話に花を咲かせてたね。
2人きりになって歩けば道に迷い、予定通りに物事を進められずとも北斗は不機嫌になることもなくただただ見つからない予約車に焦って泣きそうになっているところを見て少し笑えたことは内緒、には出来てないな。困ってるところもちょっと可愛いけど可哀想だからすぐ助けてあげようね、俺。ずっと行きたかった好みのカフェ、全力で席を予約してくれた分全力でその雰囲気を楽しんだ。2人でオシャレなドリンクと食事に感動しながら、店内の作品を高いねなんて笑いあって筆談でも遊んだね。何でも楽しみに変わる、俺たちの得意技。夜遅くまで会話も盛り上がって、駅前でみんなで笑いあって、ピースで星作って写真撮るとか学生以来だなって懐かしみつつも青春の続きみたいなその瞬間が最高に楽しかった。大人になってもそういうくだらない話とか好きなことの話を永遠と語る時間は大事だなってしみじみ感じてたよね。
軽食続きで小腹を満たすために買ったコンビニ飯にヤキモチを妬くその膨れた顔も、先にキスしてにっこり笑ってご機嫌そうに風呂に行く顔も愛らしくて、愛おしくて。久しぶりの体温と柔らかさに少し触れただけで、気付けば夜も耽ってた。
予定よりも早く起きる癖、早く起きて御前との時間を少しでも多く過ごしたくてまだ眠たそうな北斗の頬をつついて起こす。寝起きでもほわほわ笑っておはようと返す瞬間も、何もかも自分のものなんだと優越感に浸る朝。早起きするほどのんびり準備するところも俺ららしくて、滑り込みで朝マックするところも俺ららしい。
北斗が通るところから雲が避けて晴れてゆく、曇り空のお台場も2時間も経てば快晴���った。今回もまったく出番のなかった折り畳み傘、本当に流石だな。
初めてのジョイポリス、そもそもどんなとこだろうと思いつつ入場して1時間後には楽しくてはしゃいでた。かっこつけたがりの俺が北斗の前でだけは羽目を外してきゃっきゃと騒げる、それを微笑ましく許してくれる北斗にだから出来ること。1位をとって喜んだり絶叫して楽しんだり、晴れた景色を見てランチをしてまったり過ごしたり。若い頃の穴を埋めるようにプリクラを撮っていくつだよなんて笑いあって、俺の好きなアイスを食べてすっかり夕暮れのお台場を歩いた。
久しぶりに逢えるねと2人でわくわくしながらダチとの合流を待ち望み、さっと買ったスタバを片手に2人でふざけながら夜の秋風を浴びてた。3人でゆっくり話す時間は初めてで、今度は遊びに行きたいねなんて話しながら酒とパスタと会話で腹を満たした。2軒目に迷った挙げ句に帰る選択をした俺らは眠気と闘いながらもホテルに帰った、配信をした記憶すらも曖昧で気付けば2人とも沈むように眠ってたね。
再び早めの起床、今日は渋谷に行くと張り切りながら支度をして連日小麦のものばかり食ってた俺らは米系の朝ご飯を確保しに行った。方向音痴を極めた2人、待ち合わせ場所に辿り着けずダチに迷惑をかける始末。洒落たカフェで甘いケーキを食って、何を買うわけでもなく渋谷と原宿を練り歩いたね。
2人になって向かったのはずっと狙ってた隣町の不純喫茶。レトロな雰囲気を味わいたくて乾いた喉を潤しながら、他愛ない話を2人で交わして時間を過ごした。この後に予約しているディナーは内緒にして、アメ横をくぐりながら今度はここにも行こうかなんていつかの話をした。次にお揃いにしたいものの話でも盛り上がって、どんなデザインのものを買おうか考えるのも楽しいね。お揃いの思い出、お揃いのアクセ、お揃いの服。たくさん2人で共有して何気ない日常でも御前の存在を感じられるように。
目を閉じさせ、案内したレストランはアクアリウムを用いた幻想的な空間。丸い目を何度もくりくりさせて大興奮で写真を撮ってる姿を見て俺まで嬉しくなったんだ、こんなにもリアクションをしてくれるから、色んなことをしてあげたくなる。して良かったと思える。上品な料理に舌鼓を打ち、辛さのあるスパークリングワインに身を震わせて笑いながら食事を終える。運ばれた最後のデザートに描かれたラテアートに感動して、1年記念のケーキを添えられた際に北斗は初めてこのディナーの意味を知る。
何度もありがとうと言葉にするその心が綺麗過ぎて、1年と2ヶ月も隣に居るのが北斗で良かったと改めて感じさせられた一日。そんな日の���めにやってきたのは映画館だった。眠い目を擦りながらレイトショーを観て、いそいそと終電に乗って帰ったね。北斗と居たらレストランでも映画館でもデパートでもコンビニでも、どこでも楽しい話ばかりで笑いあえる。時間はあっという間で、明日のことを考えないようにとばかりに2人で身を寄せあって夜を過ごした。
最後の朝、寝起きで目が合うと御前は無言で抱き着いてまるで磁石かのようにぎゅうっとくっついていた。静かに北斗の目から滲む涙が俺の顔にじわりと濡らしても、何も言わずに微笑みあって少しだけ無言でお互い支度を始めた。
初めて逢う北斗のダチ、長年の付き合いとは知らされていた存在に逢うのは少しドキドキはしたけど友達として恋人として、北斗と関わっている以上は価値観が合わないことなんて無いだろうと確信していたのもあり100%のコミュ力を発揮して挨拶を交わした。そんな緊張も要らないほどに北斗のダチは面白くて、濃厚な1時間半を過ごしたと思う。8割は俺の話ばかりだよと何となく分かっていたけど8割って相当だなと思いつつ、北斗がどれだけ俺に夢中なのかを人を通して実感した瞬間だった。大切なダチの前での北斗は2人きりの時と変わらないくらいリラックスしていて、こういう一面もあるんだなと安心したくらい。素敵なダチがいて良かったね。いつも幸せそうに笑ってくれる北斗は、優しい人たちが見守っていてくれたからこそ居るんだろうなと再確認出来た。
電車の中までは今回はまだ平気そうだったのに、空港に着くとやっぱり御前は無言になって、静かにカフェのドリンクを飲んでいたね。やっぱり泣いちゃう北斗が愛おしくて、茶化すように笑ったら困ったように笑い返す。今はまだ寂しい時間もあるけれど、いつかはまた明日も逢えるからねって笑顔で見送ってくれる日が来ることを目指してる。いつか来る、いや、絶対来るって信じてる。
違う土地で、違う部屋で、違うベッドで寝る夜。眠る間際まで北斗は今回の旅行でも楽しませてくれてありがとうとお礼を語る、たくさんありがとうの言える優しい人。嬉しいと素直に喜べる、寂しいと涙して惜しめる、純粋な人。次の旅行の前は喧嘩しないようにしようねと約束をして、笑い合う。
1年前の秋頃は初めて逢って、少しぎこちない距離感で歩いたり部屋で過ごしたりしていたけど今じゃすっかりホテルでは過ごしたいように過ごして、じゃれ合うようになったね。どんな樹でも良いといつでも何度でも伝えてくれるその広い心と大きな愛情にすっかり甘えてる俺がいる。いつも俺を許してくれてありがとう、どんな俺でも受け入れてくれてありがとう。そんな漠然とした感謝が旅行を重ねる度に大きくなってゆく。少しずつ環境が変わっていったとしても、変わらぬ気持ちでまた逢瀬を繰り返していけたら良いなと思う。
2年目も3年目も、俺らなら余裕で迎えられる。互いが隣に居ることは当然になったとしても同じ気持ちでいられる事は当然ではない、それを忘れずにこれからも過ごしていたい。好みも価値観も育った環境も住んでる場所も全然違うけど、違うところを認めて受け入れようと出来る俺らなら大丈夫だよね。
改めて、1年も一緒に居てくれてありがとう。
そしてこれからも末永くよろしく、北斗。

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【祇園祭 後祭】総集編
2023年7月23日(日)・24日(月)
京都駅ビル・宵山・山鉾巡行・花笠巡行・還幸祭・御旅所・京のSAKESORA・八坂神社・壹銭洋食・よしもと祇園花月・祇園囃子奉納
https://youtu.be/thyE-V5ho_0
「祇園祭 in 京都駅ビル」京都美風~祇園祭~
実施期間:2023年7月3日(月)~7月31日(月)
実施場所:京都駅ビルインフォメーション前
実施内容:祇園祭の歴史や魅力を伝えるパネルや授与品を展示、祇園祭の山鉾のミニチュアを並べたものを京都駅ビルインフ ォメーション前に展示。
「宵山・山鉾巡行」2023年7月23日・24日
9:30から橋弁慶山を先頭に11基(鷹山含む)の山鉾が巡行します。巡行中にくじ改め・辻回しが行われます。
巡行経路は、烏丸御池→河原町御池→四条河原町→四条烏丸
https://youtu.be/cQIKjw7TVIE
「花傘巡行」2023年7月24日(月)
「織商鉾(京都・ミスきもの)」「花傘娘」「祇園東」「先斗町」「祇園甲部」「宮川町」
今年は巡行ルートが大幅に変更になっていました。
今年の新しい「花傘巡行ルート」
下京中学校成徳学舎から高辻通東・烏丸通北・四条通東・御旅所(くじ改め)・四条通東・石段下南・神幸道東を通って八坂神社へ。
https://youtu.be/k_Urid8iINo
「還幸祭」八坂神社祇園祭 四条御旅所
2023年7月24日(月) 午後5時
「還幸祭」神幸祭で四条御旅所に運ばれた三基の神輿を神社に戻し、神輿から祭神を神社に戻す神事。
氏子地区を回る約8キロの道のりを勢いよく進み、深夜に東山区の八坂神社に到着。「おかえり」とも呼ばれます。
https://youtu.be/xKVp5kuNRbU
「御旅所」
毎年7月17日の神幸祭に八坂神社からの神輿が渡御し、24日の還幸祭までとどまる場所。
御旅所に祀られているのは三基の神輿。左から西御座、中御座、東御座。
中御座神輿はスサノヲノミコト(牛頭天王)が祀られています。屋根の上に鳳凰をいただく六角形の神輿。
東御座神輿はクシイナダヒメノミコトを祀ります。屋根の上に擬宝珠をいただく四角形の神輿。
西御座神輿はヤハシラノミコガミを祀ります。屋根の上に鳳凰をいただく八角形の神輿です。いずれも重量は2トンから3トンだとか。
https://youtu.be/Xl41WB-JJgY
「京のSAKESORA(キョウノサケソラ)」
京都市中京区堺町通三条下る道祐町135-1
京のSAKESORAさんは京都の路地で彩り豊かで滋味に富むおばんざいランチをはじめとした創作和食と京都の全ブルワリーのクラフトビール、京都の酒蔵が醸す日本酒が楽しめるお店。
イノダコーヒー本店の向かいの細い路地に面した長屋の建物に7つのお店が入居する小さな飲食店街「三条食彩ろおじ 堺町の道」
細い路地に京割烹、鉄板ビストロや鰹節丼専門店など7つの飲食店が連なっていて、入り口側から2軒目が「京のSAKESORA」。
「おだし」「つけもの」「麹・味噌」の“三味”をテーマにした三味彩々(さんみいろいろ)ランチ1890円がおすすめ。
ランチの後は「錦市場」をぶらぶら。
安土桃山の時代から京の市場として存在し、「京の台所」とも呼ばれる、じつに奥の深い商店街。
京野菜や豆腐、魚などの生鮮食品店が軒を連ね、外国人の観光客などで物凄い賑わいを見せています。
https://youtu.be/FZ23Zvymi7Q
「八坂神社」2023年7月23日(日)
後祭の11基の山鉾を巡った後に八坂神社を参拝させていただきました。
八坂神社の主祭神は、素戔嗚尊(すさのを)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ)の三柱で、日本神話でも重要な神様が鎮座されています。
https://youtu.be/B9vMD0clHr4
京都祇園名物「壹銭洋食」お好み焼きの元祖
八坂神社参拝の後に何年ぶりかの壹銭洋食さん
楽しい店内と懐かしさでちょっとおやつ代わりに食べてみましたが、けっこうお腹いっぱいに。
ドリンクはいろいろありますが、メインのメニューは壹銭洋食800円のみ。
久しぶりに来たらけっこう値上げしてますね。
それとお客さんはほとんど外国の観光客ばかり。
https://youtu.be/6pUbNgZoa2o
「よしもと祇園花月」
祇園祭 山鉾巡行の後にあまりの猛暑に疲れ果てたので、よしもと祇園花月さんで祇園吉本新喜劇を観覧しながら14:00までゆっくり休憩。
休憩後に花見小路の十二段家さんと四条大橋西詰の東華菜館さんにランチに行きましたが、残念ながら両方ともタッチの差で昼の営業は終了。
甘蘭牛肉麺「京都四条河原町本店」さんで甘蘭拌麺を食べてから、永楽屋 本店喫茶室さんで宇治金時氷を。
宇治金時氷が凄いボリュームで寒い寒いと震えながらなんとか完食。
https://youtu.be/roMxL8F5nlA
「祇園囃子の奉納」【船鉾】
7/23(日)は船鉾さんが祇園囃子の奉納の当番日。
7月17日夕刻、四条寺町の八坂神社御旅所に神輿が着輿され24日に発輿されるまで、18日から23日までの間、毎晩7時から9時ごろまで祇園囃子が奉納されます。西御殿の前で行われ、囃子のある12の山鉾が受け持ち、2年に1度当番日が回ってきます。
https://youtu.be/MkOkArLUhLg
#祇園祭 in 京都駅ビル #祇園祭 #後祭 #宵山 #祇園囃子 #御旅所 #八坂神社御旅所 #神幸祭 #還幸祭 #中御座神輿 #東御座神輿 #西御座神輿 #橋弁慶山 #南観音山 #浄妙山 #八幡山 #鯉山 #北観音山 #黒主山 #役行者山 #鈴鹿山 #鷹山 #大船鉾 #織商鉾 #京都・ミスきもの #花街の屋台 #祇園東 #先斗町 #祇園甲部 #宮川町 #素戔嗚尊 #櫛稲田姫命 #八柱御子神 #京のSAKESORA #京のサケソラ #三条食彩ろおじ 堺町の道 #三味彩々ランチ #錦市場 #八坂神社 #壹銭洋食 #一銭洋食 #よしもと祇園花月 #祇園吉本新喜劇 #甘蘭牛肉麺 #永楽屋 本店喫茶室 #宇治金時氷 #祇園囃子奉納 #船鉾 #京都
https://youtu.be/thyE-V5ho_0
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小琉球各種好吃耶! 被路邊的大鯛魚吸引, 點了個卡士達吃吃, 麵皮很特別, 像麻糬的口感🐡 . 老北方麵館的牛肉湯好清甜, 醬料蒜頭的很大方, 蔥油餅外酥內軟很讚👍🏻 . 似乎很多燒烤吃到飽, 吃了「五點」、「燒肉王」 居然意外的都很不錯, 尤其是烤蚵😋 . 飛魚卵香腸真的好, 外皮好薄好脆, 入口一顆顆粒粒的口感好妙😻 . 剉冰女王貝殼裝的冰本來以為只是噱頭, 沒想到它的糖真的是黑糖, 食材的用料也很實在🍧 跟旺昌冰舖一樣香濃😆 . 小蝌蚪起司餅真的很誇張, 本來以為是要當早餐吃, 結果10點好不容易電話打進去, 到了晚上9點才能吃變成宵夜哈哈哈哈🤣 . 阿婆手工壓魷魚片是很不錯, 但是那個味道放在包包裡, 真的打開有點可怕😱 . 麗君小吃的火鍋很山路巷弄, 但也是莫名其妙的美味哈哈哈😍 . 品軒在地風味小館很有原則, 堅持用在地的最好品質出餐, 無菜單料理很精緻有特色🌸 . 各種美食讓我驚艷, 除了蜂巢蝦哈哈哈哈🦐 那個蛋絲好油好不知所云唷, 總結小琉球好好吃唷👍🏻💯😋 . #麗君小吃 #小蝌蚪起司餅 #飛魚卵香腸 #旺昌冰舖 #老北方麵館 #五點燒肉 #燒肉王 #蜂巢蝦 #品軒在地風味小館 #剉冰女王手工冰店 #琉球嶼 #網紅景點 #小琉球景點 #ThisAttackComesFromTaiwan #google手機 #Taiwan #芳食記 🇹🇼 #最好的相機是需要時在手上這台 #MobilePhotography #手機修圖 #手機攝影📱 (在 小琉球) https://www.instagram.com/p/CHSVc0_nUH4/?igshid=gioagd5jf4rf
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るんぺんパリ 【RunPenParis】
自己紹介 2024年12月7日(大雪)追記 7642文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 3歳のときに養子として育てられることになり 伊賀市へ突然連れてこられた 5世帯がつながった集合住宅の一番端っこお家で 四畳半と六畳の和室の二部屋 三畳の台所 トイレはくみ取り式 お風呂は深底のホーローでガス釜式 冬は寒くて よくしもやけになった 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 名古屋に近い三重県に住んでいるという話だった気がする 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは今でも少しはある
伊賀市でそこそこ有名なのが 「伊賀流忍者」で「忍者屋敷」は 今も昔も変わらない内容で 営業している それは昨年(2023年)の夏休みに 末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 「上野城」ならぶ観光施設 伊賀牛は「金谷」のすき焼きが有名で 「森辻」が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には「伊藤」の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 「伊賀上野天神祭」の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 2024年は10月18日・19日・20日(金土日)がお祭り 19日(土)は久しぶりに一人で一日中 お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件まわって、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて「伊賀上野天神祭」へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 19日(土)の夜は19時から 同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったオーナーの 「ガキさん」は すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので開店から閉店の1時までの 6時間でカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の日の20(日)は「伊賀上野天神祭」に参加している 同級生の「オデ」に会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く「紅梅屋」でおみやげを結構買って 「桔梗屋」で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 「松尾芭蕉」は俳句が有名で伊賀出身 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされた 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は絶対見ない 「上野公園」に行くと「俳聖殿」という建物はある 「俳聖殿」の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 「俳聖殿」のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 「上野城」のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は「上野城」のまわりで体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも「上野城」が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく「上野城」をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった ��の子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には「銀座通り」とか「丸の内」とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 「上野市」から「伊賀市」名称が変わってから 「上野市駅」が「忍者市駅」になり 「近鉄」の電車だったのが「伊賀鉄道」になり 電車がコスプレになった 駅前には「銀河鉄道999」のメーテルと哲郎の銅像があり 「産業会館」が「ハイトピア伊賀」になった 「産業会館」だった時に「マルキン」のパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 「新天地」もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は自分が高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 「新天地」には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 「伊賀上野天神祭」を見に帰省したときに ドリアを食べたが 素朴ないい感じの仕上がりの味に 古い喫茶店をぐっと感じる事ができた 「新天地」のとなりの大きな化粧品店は 更地になっていた 高校の時の同級生が「クワトロNo.4」という バーを経営している場所もこの「新天地」にある となりにダーツバーもあり 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽には入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど ダーツバーの扉って感じで雰囲気はあった ここ数年は実家で一人暮らしの おかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、「Kマーホ」の名で活動して 出版した「トイレの閃き」が背表紙の色が 抜けた状態で25年以上も 岡森書店の本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で そんなつながりが それにしても伊賀市は狭いなと感じる
幼稚園の頃の事で 「市部(いちべ)」という地区だったと思う 近くに「市部駅」という無人駅があり その近くの依那古第一保育所に 5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 実家近くの小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 自転車は召し上げられ 手押し車ででかけている 小学校6年生の卒業までは 上野市依那具にある 市営の「城ケ丘住宅」で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの 時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森(たれそのもり)でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた「依那古小学校」の 校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと 変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の「市部駅」と 毎日にらめっこしている森 垂園森(たれそのもり) 中学校からは上野市街の「上野城」の 城下町で過ごした 引っ越しをしました 当時はカオスな「市営城ケ丘住宅」から出れる事が 本当にうれしかった 小学校までの友達とも 見飽きてしまっていたので 寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては 新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして引っ越ししたお家は 築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分だけの部屋があり トイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって 本当にうれしかった
そして近くの「崇廣中学校」に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一のときに足のかかとを骨折 バスケ部の試合で となり町の「名張市(なばりし)」の 体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら 右足のかかとの骨にヒビが入った
完治した その夏にはバスケ部をクビになり 陶芸部に入った バスケ部とは違い まろやかな陶芸部の部長は 本当にやさしい部長さんだった 中二で左腕を骨折 中一の右足かかとの骨折 どちらも遊んでいての骨折を二年連続してしまい この二年間の体育の成績は最低だった そして中三の高校受験に突入して この「崇廣中学校」では いい想い出は ひとつも無い
そして高校生となって 高校1年生で やっと自由になれた気がした まずは毎日 カッコつけて髪型をきめて その次は彼女を作りたいと 手当たり次第に告白したら 全滅した その数は20数人はいたと思う そしてあらゆる所で 告白しすぎて 変な奴として顔が広まってしまいそうになってきた 高校1年の後半はおとなしく 過ごしていた
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーバンドで 代表曲の 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」をコピー 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 も歌って一年で6回ぐらいライブをしていた 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時は ただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線で近づいてくる そういう女子には興味がなかったから 冷たい感じの男だったかも 本当にこの高校2年の時期が いままで生きてきた中で一番楽しかった。 高校2年後半の頃は またたくさんの恋をしたが 自分が不器用だったので 自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた それから人を好きになることに 迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくいいか別に という感情で奥手で過ごしていった そのせいか、 他校の女子からゲイだとか ウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時はそんなうわさも 楽しければなんでもよかった
1993年の20歳になるころ 家を勝手に出て 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは お金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万の カツカツでぎりぎりの生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月(23歳)から 2003年7月(30歳)の 7年間は茨城県と千葉県の県境の 利根川の近く取手市に住んでいた この取手駅界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになった 関東平野は景色が無く ここでの生活は なんとなく落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくに「カレー」がめちゃくちゃ美味かった 夕食時はのれんが出される前の時間に 駐車場で待機して開店と同時に 店に入っていたので お店の人には顔を覚えられていた この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の子供で 小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけで運営していて 素朴な店内で 週3回ぐらいは夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年(24歳)から パソコンを近くの「ミドリ電化」 というお店で38万で購入して 作詞やネットに興味を持ちだした 「まどみちお詩集」を読みだし 作詞に近い詩を書き始めた 「Kマーホ」という名で活動を開始し メインの詩を書き始める 創作の目標をまず詩300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになった 週末はいつも家に引きこもり 朝起きて寝るまでの一日中 音楽を聴きながら 38万円のパソコンを買ったのに まだ「ワープロ」で 手書きの詩を清書して プリントしていた
1998年(25歳)から2002年(29歳)まで 「Kマーホ」の名で活動して 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したりと やりたい事にお金も時間も好きなだけ 使ってすごしていた この時期に参加していた詩の団体(万有)には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な詩を書いたり そんな態度の人や いい人も数人はいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集「トイレの閃き」約2000部を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 本棚に置いて欲しいとお手紙をそえた 返送されたり お礼のお手紙を頂いたりと 色々と反応を感じながら 2002年の29歳の時に 詩を創作する活動を休止した これで「Kマーホ(けいまーほ)」での 活動は終わった 理由は2000年(27歳)に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年(30歳)から2019年(46歳)まで 育児に家族を重点を置いて生活をする この時期の16年間は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月(30歳)から 子育てを重視するために 景色のいい静岡県に引っ越し もう20年以上住んでいる
2019年1月(45歳から46歳になる年) 「平成」から「令和」に変わる年に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 創作活動を再開する 1998年(25歳)から2002年(29歳)の 「Kマーホ(けいまーほ)」の頃とは 全然ちがう方向性で詩を書き始める そしてSNSを活用して まずは詩の発信を始める 「るんぺんパリ【RunPenParis】」という名前の由来は フランスはパリの街を ぺんを持って 走りながら創作するというイメージから 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(現在は51歳で2025年は52歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した 「140文字詩」が広く浸透できればと 創作を続けている ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧(2019年~) 【2024年(51歳)】Amazonで販売 2024年11月17日 第17詩集「もんもん もんもんで もんだろ」 【2023年(50歳)】Amazonで販売 2023年12月27日 第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023年12月2日 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023年11月23日 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023年9月16日 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023年9月9日 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023年9月2日 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023年8月26日 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年(49歳)】Amazonで販売 2022年12月6日 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022年11月3日 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022年10月7日 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022年9月3日 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022年8年7日 第1アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022年2年14日 第2アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022年1年1日 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年(48歳)】Amazonで販売 2021年9月8日 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021年8月3日 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021年6月5日 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021年5月31日 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年(47歳)】Amazonで販売 2020年7月27日 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020年3月2日 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年(46歳)】Amazonで販売 2019年7月21日 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999年~2002年) 【2002年(29歳)】 2002年4月30日 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」発行部数不明 2002年4月4日 第5詩集「コールサック」100部発行 【2000年(27歳)】 2000年7月31日 第4詩集「マガサス星人」500部発行 2000年1月31日 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」500部発行 【1999年(26歳)】 1999年8月1日 第2詩集「テレビジョン」100部発行 1999年5月1日 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」2000部発行 【受賞】 2001年(28歳) 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年(27歳) 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年(26歳) 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年(25歳) 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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Recommended Books 【近代建築】
京博 深掘りさんぽ (小学館文庫 く 17-2)
グレゴリ青山著
京博を100倍楽しめるマンガエッセイ!
京都に生まれ育った著者が、京都国立博物館(略して京博) を丸ごと深掘りする、という斬新な一冊。
第1章は、京博の敷地と建物の話。京博は方広寺の大仏殿の旧境内に位置し、そこには奈良の大仏より大きな大仏があったこと、今でも発掘調査が続けられており、地下からは大仏殿の屋根瓦が発掘されているという話。さらに、京博のシンボル煉瓦造りの建物「明治古都館」の装飾技法についてや、東の庭にある謎めいた石仏群の話など、ツウな話題が次から次へと描かれます。非公開の書庫の内部も詳しく描かれ、京博にいかに多くの歴史的書物や資料が保管されているかを教えてくれます。
第2章は、京博で働く人々を深堀り。博物館には「衛士」という職名があり、警備や展示作品の監視をしていること、館内の電気や空調機を監視する環境整備係の日常や、展覧会の企画などを行う学芸部企画室のハードなスケジュールなどが働く人々にスポットを当てます。
第3章では、非公開の文化財保存修理所の仕事に迫ります。日頃知ることができない貴重な内容ばかり。
歩いて、食べる 京都のおいしい名建築さんぽ 単行本(ソフトカバー) – 2022/4/2
甲斐みのり (著), 鍵岡龍門 (写真)
“中に入って、おいしいものを味わえる"
唯一無二の名建築+グルメガイドブック、待望の第2弾!
これは、目と心のビタミン剤。
庶民の視座でアーカイブした京都。
「雅」に誘われ
おいしい散歩に出かけよう!
――(田口トモロヲさん・推薦)
京都では、風情ある街並みの中に、数々の見事なモダン建築がしっくりと溶け込んでいます。
レストラン、ホテル、学校、美術館……。
その用途はさまざまですが、歴史ある美しい建物が、細部まで丁寧に保存・改修されて今もなお、日常の暮らしの中にしっかりと息づいている。
これは、一千年余りの間古いものと共存し続けてきた、京都ならではの光景と言えるのではないでしょうか。
この本では、ドラマ「名建築で昼食を」(池田エライザ、田口トモロヲ主演/テレビ大阪)の原案となった前作『歩いて、食べる 東京のおいしい名建築さんぽ』と同様に、中でおいしい食事・お茶・持ち帰りを味わえる、30軒超の名建築をご紹介しています。
この本と一緒に、名建築やまちあるきを楽しむうちに、さらなる京都の魅力に引き込まれること、間違いなしです!
京都 レトロモダン建物めぐり 単行本(ソフトカバー) – 2021/4/30
片岡 れいこ (著)
★ 明治・大正の文化財から、昭和の老舗喫茶まで。
★ 「古き良き時代」を遺す空間59件をご案内します。
◆◇◆ 本書について ◆◇◆
ふと通りかかった街角。
レトロでモダンな建物や昔ながらの喫茶店を見かけて、どきっとして立ち止まったことはありませんか。
なにか通り過ぎるのがもったいないような気がして…。
本書『京都レトロモダン建物めぐり』には、京都に佇む宝石のような59の建物たちが凝縮されています。
数々の神社仏閣、風情ある町家など、和のイメージが強い古都・京都ですが、実は明治・大正時代からの歴史ある洋館がたくさん残っています。
また意外にも、昔から京都の人はコーヒーが大好き。
長く愛されてきた老舗喫茶店もいっぱいです。
この本は読んで楽しめるのはもちろん、まだ知らない素敵な建物に出会うために、実際に持ち歩ける「使って楽しいガイドブック」を目指しました。
気になる建築家の建物ツアーを組んでみるのもいいですし、観光名所と併せてその近くの文化財やお店に寄るのも楽しいはず。
「あのカフェに行ってみたい! 」という気持ちから、建物そのものへの興味が花開くかもしれません。
あなたの建物めぐりの相棒として、好奇心が羽ばたくきっかけとして、自由に使いこなしていただければ幸いです。
歩いて、食べる 東京のおいしい名建築さんぽ 単行本(ソフトカバー) – 2018/6/20
甲斐 みのり (著), 鍵岡龍門 (写真)
クラシックホテルや美術館から、百貨店、ビヤホール、学食まで。
中に入って、「おいしいものが食べられる」とっておきの名建築ガイド
明治~昭和初期にかけて建てられた近代建築をはじめ、東京には、時代に流されない強さを持った素敵な建築がたくさんあります。
ちょっとした週末のおでかけや、日々の合間にぽっかり空いた時間。
そんな名建築を巡る、おさんぽに出かけてみませんか?
いつも何気なく通っていた百貨店や美術館も、建物にまつわるエピソードを知って、細部に目を留めながら歩き、中のカフェやレストランでゆっくりと時間を過ごしてみれば、新たな魅力が発見できること、間違いなしです。
看板建築・モダンビル・レトロアパート 大型本 – 2014/4/7
伊藤 隆之 (著)
明治末~昭和初期の商店街の街並み、看板建築、昭和の看板建築やレトロビル、同潤会や江戸川アパートなどのレトロアパートなど、愛好家が多数存在する昭和物件を選りすぐり、300件以上厳選、大きなサイズで掲載した写真集。
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湿った幾何学 / 大村高広
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見事に咲き誇っている八重桜の向こう側に、おなじような色をした、薄紅色の外観が見える。敷地のまんなかに多角形のボリュームが置かれ、余裕ができた南北にはささやかな庭がつくられている。塀やフェンスを取り囲むように植物が生えているし、プランターもたくさん置かれているけれど、植物も塀も、一見すると、誰のものかわからない。実際には既存の境界要素、つまりは隣家のものだと思われるが、「武蔵野の戸建」に所属する要素のようにも見える。まだ小さな木を見ながら、両方から水をかけてもらえるといいねと思う。

東側の前面道路には外壁がせまり、庇が道へと差し出され、ボリュームに切れ目を入れている。南東の敷地端部には袖壁が伸びている。たんに伸びているというよりも、敷地のかどに「食いついている」と表現するほうが適切かもしれない(軒先を延長すると、既存のフェンスの上端にぴったりと接続するように見える)。隣家の既存フェンスと共同してつくられる1,000mmという幾分控えめな幅の隙間は、門扉の慣習的なサイズを想起させ、公私の境界をゆるやかに提示する。通り抜けて敷地のなかに入ると、奥にいくほど幅が広がる空隙のかたちと6尺(=1,820mm)以下に抑えられた軒先の高さが庭に寸法以上の広がりを与えつつ、西側隣家群の緑地帯へと視線を誘導する。

色彩が統一されていることもあり、ほどほどの距離で眺めるとき、この住宅はひとまとまりの連続した単体に見えてくる。が、近づいてみるとむしろ「面」の個性が強く、文字通り面食らってしまう。八重桜とセットで眺めるときと、北側のアイアン・フェンスの背景になっているときと、前面道路との関わりで対面するときと、南側の隣家越しに見るときとで、「武蔵野の戸建」の印象はびゅんびゅん変わってしまう。周囲に点在する複数の個別性への応答が建物の各部分に組み込まれ、相互に自律したさまざまな場面が具体的な環境要素とセットで搭載されているからだろうか。いずれにせよ、距離や位置によって外観のまとまりがほどけていくのは確かだ。

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内部に関しても同様の指摘ができる。一階南側の室は庭のコンクリート平板がそのまま内部に引き込まれた土間になっている。敷地の奥行きいっぱいに展開するサッシュに余分なディテールが一切見えないことや、敷地南西部に設けられた庭のふくらみとシンクが向かい合っていることなどが相まって、地面と連続した場であることを強く感じさせる。軒の低さと深さのおかげだろう、明るすぎない。平板に当たった光が低く抑えられた天井へとはねかえり、内部をぼんやり照明している。道や庭といった、外のもっと明るい場所を眺めるのに適した、木陰のような場所だ。
一段上がった北東部の室もまた、吹き抜けとルーバー状の床を介して間接光で満たされている。南側の部屋と北側の部屋で、光量の違いを強く感じない。一部が艶のあるグレーで塗装されたラワン合板を主調とした未仕上げ的なインテリアも、方位によるギャップのキャンセルに貢献している。局所的な合理性に基づいて、素材と寸法は相互にばらばらに設定されているようにも見える。とはいえ用いられている素材の数は限定されているから、全体としてはやはり一体感がある。テーブル・棚・ソファ・階段といった設えが──間柱や合板といった架構の構成要素と連続するような──共通の言語で設計されていることも大きい。差異はそこら中にひしめいているが、首尾一貫もしている、という独特な状況は、外観と内観でまったく共通している。
この傾向は二階に上がるとより明確になる。南側は地面から解放された明るく大きな空間で、半外部空間にいるような浮遊感と開放感をもった場所だ。対して北側では、部屋よりは小さく家具よりは大きなひろがり(の限定)が隙間だらけのひしめきあいをみせ、四方八方から飛び込んでくる眺めや音が空間を満たしている。各々にふさわしい居場所を与えられた種々雑多な物品らが、建築を構成する材料と優劣なく目に飛び込んでくる。微妙な角度の違いと傾斜をともなった軸組、ブレース、合板の無塗装の面とグレーに塗装された面、現しになった根太と合板の断面、テーブルと同じようなつくりの階段、太めの手すり、天井と壁を一定のリズムで分割する間柱と垂木、小ぶりの障子、たまたま��こに止まったかのような照明……。建築の構成材は、生活を支える器や家電、梱包箱、衣服といった物品らと同等のレベルまで存在感が分解・調整されているように見える。そして、そうして生まれる空間のニュートラルさ(架構と事物の優劣のなさ)こそが、内部の各領域に固有の性格をもたらす決定的な要因としての、窓の外の風景の個別性を際立てている。
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プラトンの『メノン』のなかで、いつものように問答を繰り返すソクラテスが、召使の少年を呼び出して、この正方形の倍の正方形を描いてごらん、と問いかける有名な一節があるが、このとき彼が地面にせっせと図形を描いていたこと──線を描くという行為が実演されていたこと──はあまり注目されない。この幾何学の例題は、簡単なようで実は難しい。ある正方形の一辺の長さと、その倍のおおきさの正方形の一辺の長さは、整数比をもたない。つまりこの例題は、通約不可能な(共通の自然数によって測ることのできない)ふたつの長さを正確に描画せよ、と言い換えることができる。ソクラテスは再び地面をひっかいて少年にヒントをだす。田の字型に分割されたおおきな正方形の辺の中心同士を結ぶと、45度回転した新たな正方形が現れる。
少年は地面に残されたかたちを観察し、回転した正方形の面積が、ちいさな正方形のちょうど倍になることを発見する。彼は基礎的な数学の知識すら持ち合わせていないのだが、最終的には消されてしまう2×2のマトリクスの跡を通して、1:√2という(自然数では表現不可能な)比例関係を直感的に理解し、実際にそれを描画できるようになる。ここでの知識の獲得や形態やサイズの発展は、少年が創造したものでもなければ、ソクラテスが一方的に教授したものでもない。むしろ、仮設された幾何学図形の物性によって“引き出された”ものだ。後に壊されることが宿命づけられた「仮止めの秩序」の力能である。
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幾何学を用いた形態の構想とそこでの寸法の調整は、言うまでもなく、建築の設計において重要な課題だ。建築物は柱や梁といった架構部材を組み合わせて構築された立体物であり、要求される様々な機能に対応するため、内部では異なる用途とサイズをもった室が組織化される。建築の設計においては、機能的・構造的にバランスのとれた形態を計画・実体化するため、幾何学的な図形や比例が抽象的な道具として用いられ、計画の対象となる諸現象を整理し、それらを秩序立てる構成形式として役割を果たす。でも、「武蔵野の戸建」の設計の過程で運用され、のみならず、実際に現実的な空間が現象していく過程に一定の枠組みを与えている幾何学は、そうした伝統的な形式=幾何学のありようとは異っているように思う。
ばらばらかと思いきや、ばらばらではない。場当たり的だが、一貫している。「武蔵野の戸建」の形容しがたい建ち方を理解する鍵は、過程においてのみ現れる幾何学にあると思われる(『メノン』で登場する仮設のマトリクスはそのもっとも古い記録だ)。手がかりは平面に残された3×3の痕跡にある。ナイン・スクエア・グリッドとも呼ばれる分割パタンをもつ三間四方の正方形平面(いわゆる九間)は、日本の民家の最も基本的な構成形式のひとつであり、構造的にも、心地よい寸法という意味でも、木造住宅の持っている自然な存在様態といえるものだ。おそらくだが、検討の初期段階においてはひとまず歪みのない九間が敷地に設置されたのではないか、と想像される(もちろんこれは筆者の仮説なので留保が必要だが、とはいえ、初期段階からこの複雑な立体構成が構想されていたとも考えにくい)。暫定的な形態として敷地に投げこまれたこの幾何学は、周囲の環境と局所的な関係を取り結びながら、ほぐれ、もつれ、ゴムのように伸縮する。「武蔵野の戸建」におけるナイン・スクエア・グリッドは、もはや内側からの発展がない──それゆえに構築物の丈夫さと安定性を求める建築家からすると最良な──不活性な幾何学ではなく、あくまで仮止めの秩序であり、この建築が構想される段階において終始一貫活動的なものであった、と予想される。人間的な情緒や観念に由来する曖昧な部分など持ちあわせていない乾いた幾何学は、個別的な状況との部分的な必然性によって、事後的に湿り気を帯びる。
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湿った幾何学は、際限のない断片化に抵抗する拠点として、多数の人間的/非人間的作用が絡まり合う結び目となり、周囲の環境と建築との局所的な関係性を探索・検討・制作するための足場として、その役割を果たす。
たとえばある形式を、風景のなかにそっと置いてみる。構成形式としての幾何学と、周囲の環境に布置された複数の個別性。両者が衝突し、徐々に安定的な状態をつくっていく持続のなかで、素材としての形式=幾何学は本来の姿とはかけ離れたものへと生成変化していく。 建築は、というか生命一般は、そういう仕方で暫定的に安定的な状態をつくりだすことでこの世界で成立しているのではないか。であれば建築家はただ、形式のほぐれ・もつれ・ほつれを肯定し、その変化の過程に最後まで随伴すればいい。
こうした形式および風景への態度なしに、「武蔵野の戸建」は成立しなかったのではないだろうか。規模は違えど、小坂と森中が乾久美子建築設計事務所時代に担当した「唐丹小学校/唐丹中学校/唐丹児童館」(2018)でも同様の指摘ができるはずだ。どちらのプロジェクトにおいても、初期段階で仮設されたであろう形式=幾何学は恣意的なものではなく、むしろ徹底して受動的な仕方で、現実の諸条件に応答した結果として浮上したものだろう。形式の選択は無数にありえるが、偶有的なものではない。それは、建築家が自身の生を賭けて引き受け、覚悟をもって対峙すべき現実そのものだ。
最後に、なぜこの住宅はこの色でなければならなかったのか、ということについて。
まず端的に、この外壁の薄紅色は、八重桜の色彩にたんに「合わせる」ためだけのものではないと思われる。一年のうち、桜が咲くのはほんの僅かな季節なのだから。この色彩の外壁への全面的な採用が意味しているのは、だから、「桜は咲くかもしれないし、咲かないかもしれない」という曖昧な身振りではけっしてない。そうではなく、「桜は絶対に咲く」。来年も、再来年も、10年後も、あるいは100年後も、桜が咲くということを信じる、という宣言なのだ。この色彩は、桜が咲いているときに桜が散る可能性を、桜が咲いていないときに桜が咲く可能性を示すためにこそある。形式=幾何学の風景との対峙が「ここ」を遠くはなれたところへと開くための技術だとすれば、この色彩に関する決断は、「いま」に潜在している未来への可能性(への信)を世界に残そうとする態度にほかならない。現在という瞬間を超えた場所・時間を掴みとることを目指した葛藤の痕跡と、この場所で生きていくことの希望=可能性が、この建築には刻まれている。

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大村高広さんによる「武蔵野の戸建」についてのテキストと写真。
山岸剛さんの撮影と同じタイミングで実際に住宅を見て頂いて、書いて頂いたものです。
山岸さんの写真と同様に、この住宅での経験をとても丁寧に言語化して頂くとともに、自分たちにとっての「設計」というものを思いもよらない拡がりに向けて読み解いてくださいました。
ぜひ多くの方に読んで頂けたら嬉しいです。


all text / photo / image ©Takahiro Ohmura
全てのテキスト/写真/イメージは大村高広さんの著作物です。無断転載等はご遠慮ください。
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大村高広さんCV
https://www.ohmura-takahiro.com/CV_Japanese
前職で担当した学校や書籍についての大村さんのテキストを読んで、いつかぜひ自分たちの建築も批評して頂けたら...と思っており、今回初対面でしたがご快諾してくださいました。ぜひこちらのテキストも合わせてご覧ください。
前職で担当した唐丹小中学校についてのテキストと写真
https://www.ohmura-takahiro.com/entry/20181206/1544087937
前職で担当した『Inui Architects ─乾久美子建築設計事務所の仕事』の書評
「なぜそこにプーさんがいるのか」
https://www.10plus1.jp/monthly/2019/08/issue-03.php
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2020.11.1sun_tokyo
朝の8時半ぐらいに目が覚めて、そのままシャワーを浴びる。髪が長いのもあるが、トリートメントを多めに使ってしまいがちになり、どうも髪からそれがうまく流れ落ちていないような気になってしまう。そのため、シャワーの締めは年中関係なく、冷水で終わらすので修行のようなことになっている。ただ、冷水のほうが明らかにトリートメントも全部流れていって、髪がキュキュとする。あと、冷水を浴びると嫌でも目が覚める。そもそも目覚めはいいので、シャワーも歯磨きもしなくていいのなら、起きてから5分以内には家を出れるが、この特技はあまり活かされない。 ドライヤーは使わないタオルドライ派なので、一気にタオルでクシャクシャにして水分をできるだけ取って、着替えて歯を磨いて家を出る。9時35分から宮下公園(現:MIYASHITA PARK)の前にあるヒューマントラスト渋谷で上映される『博士と狂人』のチケットを取っていた。映画は世界最大の英語辞典「オックスフォード英語辞典」誕生に関わった一人の博士と一人の狂人についての実話を元にしたものだった。毎月1日は「映画の日」なので、なにか観ようと考えていたら、ちょうどこの映画を見つけた。家の最寄駅は三軒茶屋駅だが、渋谷��では大抵の場合は歩いていく。
緑道沿いに進んでいく池尻大橋の目黒川が見える場所、国道246に出る。そこからは道玄坂を目指して進むと渋谷の道玄坂に出れる。たいてい30分から40分の間ぐらいかかる。ただ、ヒューマントラスト渋谷は宮下公園のほうなので、プラス10分程度はかかる。シャワーと歯磨きをして家を出たのが、8時55分だった。なぜか映画開始を9時45分だと勘違いしており、旧山手通のファミマの赤信号で待っている時にその時差の10分に気づいた。45分開始なら着いても5分以上は余裕があるはずだった。でも、このままだと上映開始ちょうどに着く計算だ。 ああ、余裕がないのは嫌だ。 予告編が始まる前には座っていたいのに。それに「映画の日」だし、いつもより安く観れるからアイスコーヒーも劇場で買おうと思っていたのに、これだとなにもかもギリギリだ。青信号、とりあえず、早足で進む。道玄坂のラブホとライブハウスのほうに降って東急方面に向かっていくとハロウィーンの残り香をラブホのスタッフらしき人たちが清掃をしていた。そのまま東急百貨店からH&Mに向かって、H&Mの横をまっすぐに新生渋谷パルコ方面に向かっていく。日曜日朝だが、ハロウィーン帰りの人はあまりいない感じだった。空き缶や空き瓶もなく、吐瀉物も見かけなかった。良くも悪くもコロナ に奪われた熱狂や欲望はどこに回収されるんだろうか。
渋谷パルコとかつての単館系映画館を雄とされていたシネマライズ、現:渋谷WWW&WWW Xのスペイン坂をのぼっていくと渋谷パルコの一階というかオープン前にかかわらず家族連れやカップルやたくさんの人たちが並んでいた。たぶん、任天堂ショップのポケモンとかそういうなにかをGETするために並んでいるんだろう。僕はアプリゲームもハードを使うゲームしないからよくわからないが、そんなものをしなくても東京は歩くのたのしいのになと思うけど、説得力はないのはわかっている。こちらは時代遅れだ。そんな人たちを横目に見ながらやっぱりパルコ前の信号で捕まって待っていた。昔はこの交差点もマリカーコスプレした集団のカートたちが我が物顔で走っていた。彼らももういない。 信号はすぐに青になったので、そのままタワレコ方面に下っていく。渋谷はその名前の通り、谷であり、坂がたくさんあって、起伏が激しい街だ。歩いていると知らない間に小さな山を登り下りしているようなものだ。東京の23区内、山手線の内側に入るとさらにそれを感じられるようになる。
タワレコ横を通り過ぎると「MIYASHITA PARK」が現れる。ここに居たホームレスの人たちはどうしたのだろう、死んだのだろうか、いや、その場合は行政と商業が殺したに等しいと思う。毎回JRの高架下を通る度にわずかに残っているホームレスの人たちがいるとホッとする。 失礼だがこうはなりたくないとは思う自分もいるが、どこでなにが崩れ落ちてしまうかは誰にはわからない。セーフティネットはなくて、自助でなんとかしろという政府に文句も言わないで彼らを支持する人たちは、なぜ自分がホームレスになってしまう可能性を考えていないのかいつも不思議だ。それはきっと僕が38歳の現在まできちんと就職をしたことがないというのもあるんだろう。 たまたま生き延びている、と��つも思っている。 同時になにかあれば、誰にも告げずに世界から消えようと決めている。基本的に人に相談するタイプではない、勝手に決めて事後報告することはあるけど。人が人に相談するのは話を聞いて欲しいから、悩みについての考えを肯定してもらいたいから、あるいは相談者が決めたり、悩みの回答への流れを決めてくれると、もしなにかあっても相手のせいにできるから、言い訳を作りたいという要素はゼロではないと思う。甘えたいんだと思う。そういう冷たいことを平気で思っていると案外、逆に相談される側になるのはけっこう不思議だ。だから、話は聞くけど相手が求めることは言わないようにしている。それもあってか、自分から人に相談しようと思うことがない。 えっと、何の話だっけ? 商業施設に成り果てた「MIYASHITA PARK」を通り過ぎるとヒューマントラスト渋谷が入っているビルが見える。時間は9時30分を過ぎている。ちょうど間に合う。信号を渡ってエスカレーターで3階まで登るが、ここから映画館がある階までエレベーターは使わないで、各階をエスカレーターをガシガシと歩いて、上へ上へ上っていく。7階にはドリンクを売っているエリアがあるので、すぐさまメールのQRコードでチケットを発見し、アイスコーヒーを注文する。初回を観る人は料金が割引で半額になるから160円だった。なんか申し訳ない気持ちになりつつ、上の8階に上がってチケットを出して劇場に入った。
いやあ、やっぱりショーン・ペンは素晴らしいな、壊れていく人の魂についての表現というか、それでも残る知性みたいなものを体現していた。映画の内容は辞書を作る話だけど、メル・ギブソン演じる博士とのやりとりとかにおける友情や知的な会話など好奇心が揺さぶられるものだった。こういう地味ながら良質な作品を観れるのはうれしい。
終わってから、来た道を戻っていくと坂を今度は上っていく感じになる。途中で東急百貨店の「ジュンク堂書店渋谷店」を覗く。そして、いやらしさや仄暗さも吐瀉物もない道玄坂のラブホ街を上っていく。なにかがとても健全な日曜日。そのまま家路に帰ろうかと思ったが、まだ12時過ぎだったので旧山手通りのファミマが見える交差点をそのまま三茶方面には進まずに左折して鉢山町方面に進んでいく。日差しはわりとあってパーカーだと汗ばむ、帰ったら溜まっている洗濯物と一緒に洗おうと思った。
通りの途中に教会がふたつある。ひとつはカトリックでもうひとつはバプテスト。毎回、バプテストってなに?と思ってスマホで検索する度に納得して忘れる。バプテストというのはイングランド国教会の分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派とある。難しい、とりあえず、プロテスタントという理解でOK? 神父はカトリックで、牧師はプロテスタント。我が家の曾祖父母の墓石には聖書の文言が刻まれていて、昔祖母にその理由を聞いたら、父が幼い頃までは家の近所に教会があったので通っていたらしい。我が家はかつてキリスト教だった。そんな父は「牧師」さんたちがいなくなったので、教会は潰れたと言っていたので、近所いあったのはプロテスタントの教会だったはずだ。 牧師がいなくなった後、祖父母はいとも簡単に真言宗に鞍替えをして、山の上にあったお寺に毎週日曜日に参るようになっていて、僕と兄も幼い頃はそれに付き合わされた。とにかく、早く帰ってアニメの「ビックリマン」が見たかったので年々上り下りは早くなっていった。もしかすると僕が歩くのが好きなのは、幼少期にお参りがてら山を上り下りしていたことが原風景にあるのかもしれない。
代官山蔦屋に着いて、入り口で手を消毒する。店内で先日読んだ『玉電松原物語』が遺作となった坪内祐三さんのデビュー作『ストリーズワイズ』の講談社文庫を探したがやはりなかった。ジュンク堂書店渋谷店にもなかった。 Uターンするように旧山手通りと246が交差する場所まで戻っていく。この日ずっと聴いていたのは銀杏BOYZの新譜『ねえみんな大好きだよ』だった。新譜が出る期間はだいぶ空いているが、ずっと長く続けている人はほんとうに凄いなと思う。生き延びるのは大変だ、表現し続けるのは過酷だ、でも、続けている人がいるからその轍からあたらしい人たちがやってくる。そんな風景をこの10年、20年、東京に上京してから見ている。生き延びている人は後世になにかのバトンやプレゼントを手渡すことができる人だとも思う。
交差点を左折して246沿いを三軒茶屋方面に下っていく。246の上には首都高が走っている。『玉電松原物語』は世田谷区の赤堤で生まれ育った坪内さんのエッセイだが、近くの経堂だけではなく三軒茶屋や世田谷線となった玉電沿いの駅の町並みが描写されている。 1964年の東京オリンピックの前には赤堤にも牧場があって、普通に牛がいたらしい。やがて、五輪に合わせて環七ができて、首都高ができていったという。僕が今見て歩いている風景はたかだが半世紀前にできたものだった。そう考えるとかつてこれらがなかった時代と現在の層、レイヤーが重なると時間の層ができる。 例えば、月島とか埋立地を歩いていると、ここは江戸時代にはなかった土地だと思うと、海の上を歩いているような気がする。歩いているとそういう想像ができる。それは読書にすごく似ていて、読むことと歩くことは似ている、と思う。 読みながら歩いて、歩きながら読む、ことができる。僕はいろんな時代や空間を歩いてみたいし、読んでみたい。これは日記なのかわからないけど、歩いている時は脳内で連想ゲームが始まっていて、今回書いたようなことが脳内でいつも展開している。
-プロフィール-
碇本学 38歳 東京 ライター、「monokaki」編集スタッフ @manaview https://note.com/manaview
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あるいは永遠の未来都市(東雲キャナルコートCODAN生活記)
都市について語るのは難しい。同様に、自宅や仕事場について語るのも難しい。それを語ることができるのは、おそらく、その中にいながら常にはじき出されている人間か、実際にそこから出てしまった人間だけだろう。わたしにはできるだろうか? まず、自宅から徒歩三秒のアトリエに移動しよう。北側のカーテンを開けて、掃き出し窓と鉄格子の向こうに団地とタワーマンション、彼方の青空に聳える東京スカイツリーの姿を認める。次に東側の白い引き戸を一枚、二枚とスライドしていき、団地とタワーマンションの窓が反射した陽光がテラスとアトリエを優しく温めるのをじっくりと待つ。その間、テラスに置かれた黒竹がかすかに揺れているのを眺める。外から共用廊下に向かって、つまり左から右へさらさらと葉が靡く。一枚の枯れた葉が宙に舞う。お前、とわたしは念じる。お前、お隣さんには行くんじゃないぞ。このテラスは、腰よりも低いフェンスによってお隣さんのテラスと接しているのだ。それだけでなく、共用廊下とも接している。エレベーターへと急ぐ人の背中が見える。枯れ葉はテラスと共用廊下との境目に設置されたベンチの上に落ちた。わたしは今日の風の強さを知る。アトリエはまだ温まらない。 徒歩三秒の自宅に戻ろう。リビング・ダイニングのカーテンを開けると、北に向いた壁の一面に「田」の形をしたアルミ製のフレームが現れる。窓はわたしの背より高く、広げた両手より大きかった。真下にはウッドデッキを設えた人工地盤の中庭があって、それを取り囲むように高層の住棟が建ち並び、さらにその外周にタワーマンションが林立している。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。そのちょうど境目に、まるで空に落書きをしようとする鉛筆のように東京スカイツリーが伸びている。 ここから望む風景の中にわたしは何かしらを発見する。たとえば、斜め向かいの部屋の窓に無数の小さな写真が踊っている。その下の鉄格子つきのベランダに男が出てきて、パジャマ姿のままたばこを吸い始める。最上階の渡り廊下では若い男が三脚を据えて西側の風景を撮影している。今日は富士山とレインボーブリッジが綺麗に見えるに違いない。その二つ下の渡り廊下を右から左に、つまり一二号棟から一一号棟に向かって黒いコートの男が横切り、さらに一つ下の渡り廊下を、今度は左から右に向かって若い母親と黄色い帽子の息子が横切っていく。タワーマンションの間を抜けてきた陽光が数百の窓に当たって輝く。たばこを吸っていた男がいつの間にか部屋に戻ってワイシャツにネクタイ姿になっている。六階部分にある共用のテラスでは赤いダウンジャケットの男が外を眺めながら電話をかけている。地上ではフォーマルな洋服に身を包んだ人々が左から右に向かって流れていて、ウッドデッキの上では老婦が杖をついて……いくらでも観察と発見は可能だ。けれども、それを書き留めることはしない。ただ新しい出来事が無数に生成していることを確認するだけだ。世界は死んでいないし、今日の都市は昨日の都市とは異なる何ものかに変化しつつあると認識する。こうして仕事をする準備が整う。

東雲キャナルコートCODAN一一号棟に越してきたのは今から四年前だった。内陸部より体感温度が二度ほど低いな、というのが東雲に来て初めに思ったことだ。この土地は海と運河と高速道路に囲まれていて、物流倉庫とバスの車庫とオートバックスがひしめく都市のバックヤードだった。東雲キャナルコートと呼ばれるエリアはその名のとおり運河沿いにある。ただし、東雲運河に沿っているのではなく、辰巳運河に沿っているのだった。かつては三菱製鋼の工場だったと聞いたが、今ではその名残はない。東雲キャナルコートが擁するのは、三千戸の賃貸住宅と三千戸の分譲住宅、大型のイオン、児童・高齢者施設、警察庁などが入る合同庁舎、辰巳運河沿いの区立公園で、エリアの中央部分に都市基盤整備公団(現・都市再生機構/UR)が計画した高層板状の集合住宅群が並ぶ。中央部分は六街区に分けられ、それぞれ著名な建築家が設計者として割り当てられた。そのうち、もっとも南側に位置する一街区は山本理顕による設計で、L字型に連なる一一号棟と一二号棟が中庭を囲むようにして建ち、やや小ぶりの一三号棟が島のように浮かんでいる。この一街区は二〇〇三年七月に竣工した。それから一三年後の二〇一六年五月一四日、わたしと妻は二人で一一号棟の一三階に越してきた。四年の歳月が流れてその部屋を出ることになったとき、わたしはあの限りない循環について思い出していた。

アトリエに戻るとそこは既に温まっている。さあ、仕事を始めよう。ものを書くのがわたしの仕事だった。だからまずMacを立ち上げ、テキストエディタかワードを開く。さっきリビング・ダイニングで行った準備運動によって既に意識は覚醒している。ただし、その日の頭とからだのコンディションによってはすぐに書き始められないこともある。そういった場合はアトリエの東側に面したテラスに一時的に避難してもよい。 掃き出し窓を開けてサンダルを履く。黒竹の鉢に水を入れてやる。近くの部屋の原状回復工事に来たと思しき作業服姿の男がこんちは、と挨拶をしてくる。挨拶を返す。お隣さんのテラスにはベビーカーとキックボード、それに傘が四本置かれている。テラスに面した三枚の引き戸はぴったりと閉められている。緑色のボーダー柄があしらわれた、目隠しと防犯を兼ねた白い戸。この戸が開かれることはほとんどなかった。わたしのアトリエや共用廊下から部屋の中が丸見えになってしまうからだ。こちらも条件は同じだが、わたしはアトリエとして使っているので開けているわけだ。とはいえ、お隣さんが戸を開けたときにあまり中を見てしまうと気まずいので、二年前に豊洲のホームセンターで見つけた黒竹を置いた。共用廊下から外側に向かって風が吹いていて、葉が光を食らうように靡いている。この住棟にはところどころに大穴が空いているのでこういうことが起きる。つまり、風向きが反転するのだった。 通風と採光のために設けられた空洞、それがこのテラスだった。ここから東雲キャナルコートCODANのほぼ全体が見渡せる。だが、もう特に集中して観察したりしない。隈研吾が設計した三街区の住棟に陽光が当たっていて、ベランダで父子が日光浴をしていようが、島のような一三号棟の屋上に設置されたソーラーパネルが紺碧に輝いていて、その傍の芝生に二羽の鳩が舞い降りてこようが、伊東豊雄が設計した二街区の住棟で影がゆらめいて、テラスに出てきた老爺が異様にうまいフラフープを披露しようが、気に留めない。アトリエに戻ってどういうふうに書くか、それだけを考える。だから、目の前のすべてはバックグラウンド・スケープと化す。ただし、ここに広がるのは上質なそれだった。たとえば、ここにはさまざまな匂いが漂ってきた。雨が降った次の日には海の匂いがした。東京湾の匂いだが、それはいつも微妙に違っていた。同じ匂いはない。生成される現実に呼応して新しい文字の組み合わせが発生する。アトリエに戻ろう。

わたしはここで、広島の中心部に建つ巨大な公営住宅、横川という街に形成された魅力的な高架下商店街、シンガポールのベイサイドに屹立するリトル・タイランド、ソウルの中心部を一キロメートルにわたって貫く線状の建築物などについて書いてきた。既に世に出たものもあるし、今から出るものもあるし、たぶん永遠にMacの中に封じ込められると思われるものもある。いずれにせよ、考えてきたことのコアはひとつで、なぜ人は集まって生きるのか、ということだった。 人間の高密度な集合体、つまり都市は、なぜ人類にとって必要なのか? そしてこの先、都市と人類はいかなる進化を遂げるのか? あるいは都市は既に死んだ? 人類はかつて都市だった廃墟の上をさまよい続ける? このアトリエはそういうことを考えるのに最適だった。この一街区そのものが新しい都市をつくるように設計されていたからだ。 実際、ここに来てから、思考のプロセスが根本的に変わった。ここに来るまでの朝の日課といえば、とにかく怒りの炎を燃やすことだった。閉じられた小さなワンルームの中で、自分が外側から遮断され、都市の中にいるにもかかわらず隔離状態にあることに怒り、その怒りを炎上させることで思考を開いた。穴蔵から出ようともがくように。息苦しくて、ひとりで部屋の中で暴れたし、壁や床に穴を開けようと試みることもあった。客観的に見るとかなりやばい奴だったに違いない。けれども、こうした循環は一生続くのだと、当時のわたしは信じて疑わなかった。都市はそもそも息苦しい場所なのだと、そう信じていたのだ。だが、ここに来てからは息苦しさを感じることはなくなった。怒りの炎を燃やす朝の日課は、カーテンを開け、その向こうを観察するあの循環へと置き換えられた。では、怒りは消滅したのか?

白く光沢のあるアトリエの床タイルに青空が輝いている。ここにはこの街の上半分がリアルタイムで描き出される。床の隅にはプロジェクトごとに振り分けられた資料の箱が積まれていて、剥き出しの灰色の柱に沿って山積みの本と額に入ったいくつかの写真や絵が並んでいる。デスクは東向きの掃き出し窓の傍に置かれていて、ここからテラスの半分と共用廊下、それに斜向かいの部屋の玄関が見える。このアトリエは空中につくられた庭と道に面しているのだった。斜向かいの玄関ドアには透明のガラスが使用されていて、中の様子が透けて見える。靴を履く住人の姿がガラス越しに浮かんでいる。視線をアトリエ内に戻そう。このアトリエは専用の玄関を有していた。玄関ドアは斜向かいの部屋のそれと異なり、全面が白く塗装された鉄扉だった。玄関の脇にある木製のドアを開けると、そこは既に徒歩三秒の自宅だ。まずキッチンがあって、奥にリビング・ダイニングがあり、その先に自宅用の玄関ドアがあった。だから、このアトリエは自宅と繋がってもいるが、独立してもいた。 午後になると仕事仲間や友人がこのアトリエを訪ねてくることがある。アトリエの玄関から入ってもらってもいいし、共用廊下からテラス経由でアトリエに招き入れてもよい。いずれにせよ、共用廊下からすぐに仕事場に入ることができるので効率的だ。打ち合わせをする場合にはテーブルと椅子をセッティングする。ここでの打ち合わせはいつも妙に捗った。自宅と都市の両方に隣接し、同時に独立してもいるこのアトリエの雰囲気は、最小のものと最大のものとを同時に掴み取るための刺激に満ちている。いくつかの重要なアイデアがここで産み落とされた。議論が白熱し、日が暮れると、徒歩三秒の自宅で妻が用意してくれた料理を囲んだり、東雲の鉄鋼団地に出かけて闇の中にぼうっと浮かぶ屋台で打ち上げを敢行したりした。 こうしてあの循環は完成したかに見えた。わたしはこうして都市への怒りを反転させ都市とともに歩み始めた、と結論づけられそうだった。お前はついに穴蔵から出たのだ、と。本当にそうだろうか? 都市の穴蔵とはそんなに浅いものだったのか?

いやぁ、 未来都市ですね、
ある編集者がこのアトリエでそう言ったことを思い出す。それは決して消えない残響のようにアトリエの中にこだまする。ある濃密な打ち合わせが一段落したあと、おそらくはほとんど無意識に発された言葉だった。 未来都市? だってこんなの、見たことないですよ。 ああ、そうかもね、とわたしが返して、その会話は流れた。だが、わたしはどこか引っかかっていた。若く鋭い編集者が発した言葉だったから、余計に。未来都市? ここは現在なのに? ちょうどそのころ、続けて示唆的な出来事があった。地上に降り、一三号棟の脇の通路を歩いていたときのことだ。団地内の案内図を兼ねたスツールの上に、ピーテル・ブリューゲルの画集が広げられていたのだった。なぜブリューゲルとわかったかといえば、開かれていたページが「バベルの塔」だったからだ。ウィーンの美術史美術館所蔵のものではなく、ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館所蔵の作品で、天に昇る茶褐色の塔がアクリル製のスツールの上で異様なオーラを放っていた。その画集はしばらくそこにあって、ある日ふいになくなったかと思うと、数日後にまた同じように置かれていた。まるで「もっとよく見ろ」と言わんばかりに。
おい、お前。このあいだは軽くスルーしただろう。もっとよく見ろ。
わたしは近寄ってその絵を見た。新しい地面を積み重ねるようにして伸びていく塔。その上には無数の人々の蠢きがあった。塔の建設に従事する労働者たちだった。既に雲の高さに届いた塔はさらに先へと工事が進んでいて、先端部分は焼きたての新しい煉瓦で真っ赤に染まっている。未来都市だな、これは、と思う。それは天地が創造され、原初の人類が文明を築きつつある時代のことだった。その地では人々はひとつの民で、同じ言葉を話していた。だが、人々が天に届くほどの塔をつくろうとしていたそのとき、神は全地の言葉を乱し、人を全地に散らされたのだった。ただし、塔は破壊されたわけではなかった。少なくとも『創世記』にはそのような記述はない。だから、バベルの塔は今なお未来都市であり続けている。決して完成することがないから未来都市なのだ。世界は変わったが、バベルは永遠の未来都市として存在し続ける。

ようやく気づいたか。 ああ。 それで? おれは永遠の未来都市をさまよう亡霊だと? どうかな、 本当は都市なんか存在しないのか? どうかな、 すべては幻想だった? そうだな、 どっちなんだ。 まあ結論を急ぐなよ。 おれはさっさと結論を出して原稿を書かなきゃならないんだよ。 知ってる、だから急ぐなと言ったんだ。 あんたは誰なんだ。 まあ息抜きに歩いてこいよ。 息抜き? いつもやっているだろう。あの循環だよ。 ああ、わかった……。いや、ちょっと待ってくれ。先に腹ごしらえだ。
もう昼を過ぎて久しいんだな、と鉄格子越しの風景を一瞥して気づく。陽光は人工地盤上の芝生と一本木を通過して一三号棟の廊下を照らし始めていた。タワーマンションをかすめて赤色のヘリコプターが東へと飛んでいき、青空に白線を引きながら飛行機が西へと進む。もちろん、時間を忘れて書くのは悪いことではない。だが、無理をしすぎるとあとになって深刻な不調に見舞われることになる。だから徒歩三秒の自宅に移動しよう。 キッチンの明かりをつける。ここには陽光が入ってこない。窓側に風呂場とトイレがあるからだ。キッチンの背後に洗面所へと続くドアがある。それを開けると陽光が降り注ぐ。風呂場に入った光が透明なドアを通過して洗面所へと至るのだった。洗面台で手を洗い、鏡に目を向けると、風呂場と窓のサッシと鉄格子と団地とスカイツリーが万華鏡のように複雑な模様を見せる。手を拭いたら、キッチンに戻って冷蔵庫を開け、中を眺める。食材は豊富だった。そのうちの九五パーセントはここから徒歩五分のイオンで仕入れた。で、遅めの昼食はどうする? 豚バラとキャベツで回鍋肉にしてもいいが、飯を炊くのに時間がかかる。そうだな……、カルボナーラでいこう。鍋に湯を沸かして塩を入れ、パスタを茹でる。ベーコンと玉葱、にんにくを刻んでオリーブオイルで炒める。それをボウルに入れ、パルメザンチーズと生卵も加え、茹で上がったパスタを投入する。オリーブオイルとたっぷりの黒胡椒とともにすべてを混ぜ合わせれば、カルボナーラは完成する。もっとも手順の少ない料理のひとつだった。文字の世界に没頭しているときは簡単な料理のほうがいい。逆に、どうにも集中できない日は、複雑な料理に取り組んで思考回路を開くとよい。まあ、何をやっても駄目な日もあるのだが。 リビング・ダイニングの窓際に置かれたテーブルでカルボナーラを食べながら、散歩の計画を練る。籠もって原稿を書く日はできるだけ歩く時間を取るようにしていた。あまり動かないと頭���指先も鈍るからだ。走ってもいいのだが、そこそこ気合いを入れなければならないし、何よりも風景がよく見えない。だから、平均して一時間、長いときで二時間程度の散歩をするのが午後の日課になっていた。たとえば、辰巳運河沿いを南下しながら首都高の高架と森と物流倉庫群を眺めてもいいし、辰巳運河を越えて辰巳団地の中を通り、辰巳の森海浜公園まで行ってもよい。あるいは有明から東雲運河を越えて豊洲市場あたりに出てもいいし、そこからさらに晴海運河を越えて晴海第一公園まで足を伸ばし、日本住宅公団が手がけた最初の高層アパートの跡地に巡礼する手もある。だが、わたしにとってもっとも重要なのは、この東雲キャナルコートCODAN一街区をめぐるルートだった。つまり、空中に張りめぐらされた道を歩いて、東京湾岸のタブラ・ラサに立ち上がった新都市を内側から体感するのだ。 と、このように書くと、何か劇的な旅が想像されるかもしれない。アトリエや事務所、さらにはギャラリーのようなものが住棟内に点在していて、まさに都市を立体化したような人々の躍動が見られると思うかもしれない。生活と仕事が混在した活動が積み重なり、文化と言えるようなものすら発生しつつあるかもしれないと、期待を抱くかもしれない。少なくともわたしはそうだった。実際にここに来るまでは。さて、靴を履いてアトリエの玄関ドアを開けよう。

それは二つの世界をめぐる旅だ。一方にここに埋め込まれたはずの思想があり、他方には生成する現実があった。二つの世界は常に並行して存在する。だが、実際に見えているのは現実のほうだけだし、歴史は二つの世界の存在を許さない。とはいえ、わたしが最初に遭遇したのは見えない世界のほうだった。その世界では、実際に都市がひとつの建築として立ち上がっていた。ただ家が集積されただけでなく、その中に住みながら働いたり、ショールームやギャラリーを開設したりすることができて、さまざまな形で人と人とが接続されていた。全体の半数近くを占める透明な玄関ドアの向こうに談笑する人の姿が見え、共用廊下に向かって開かれたテラスで人々は語り合っていた。テラスに向かって設けられた大きな掃き出し窓には、子どもたちが遊ぶ姿や、趣味のコレクション、打ち合わせをする人と人、アトリエと作品群などが浮かんでいた。それはもはや集合住宅ではなかった。都市で発生する多様で複雑な活動をそのまま受け入れる文化保全地区だった。ゾーニングによって分断された都市の攪拌装置であり、過剰な接続の果てに衰退期を迎えた人類の新・進化論でもあった。 なあ、そうだろう? 応答はない。静かな空中の散歩道だけがある。わたしのアトリエに隣接するテラスとお隣さんのテラスを通り過ぎると、やや薄暗い内廊下のゾーンに入る。日が暮れるまでは照明が半分しか点灯しないので光がいくらか不足するのだった。透明な玄関ドアがあり、その傍の壁に廣村正彰によってデザインされたボーダー柄と部屋番号の表示がある。ボーダー柄は階ごとに色が異なっていて、この一三階は緑だった。少し歩くと右側にエレベーターホールが現れる。外との境界線上にはめ込まれたパンチングメタルから風が吹き込んできて、ぴゅうぴゅうと騒ぐ。普段はここでエレベーターに乗り込むのだが、今日は通り過ぎよう。廊下の両側に玄関と緑色のボーダー柄が点々と続いている。左右に四つの透明な玄関ドアが連なったあと、二つの白く塗装された鉄扉がある。透明な玄関ドアの向こうは見えない。カーテンやブラインドや黒いフィルムによって塞がれているからだ。でも陰鬱な気分になる必要はない。間もなく左右に光が満ちてくる。 コモンテラスと名づけられた空洞のひとつに出た。二階分の大穴が南側と北側に空いていて、共用廊下とテラスとを仕切るフェンスはなく、住民に開放されていた。コモンテラスは住棟内にいくつか存在するが、ここはその中でも最大だ。一四階の高さが通常の一・五倍ほどあるので、一三階と合わせて計二・五階分の空洞になっているのだ。それはさながら、天空の劇場だった。南側には巨大な長方形によって縁取られた東京湾の風景がある。左右と真ん中に計三棟のタワーマンションが陣取り、そのあいだで辰巳運河の水が東京湾に注ぎ、東京ゲートブリッジの橋脚と出会って、「海の森」と名づけられた人工島の縁でしぶきを上げる様が見える。天気のいい日には対岸に広がる千葉の工業地帯とその先の山々まで望むことができた。海から来た風がこのコモンテラスを通過し、東京の内側へと抜けていく。北側にその風景が広がる。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。タワーマンションの陰に隠れて東京スカイツリーは確認できないが、豊洲のビル群が団地の上から頭を覗かせている。眼下にはこの団地を南北に貫くS字アベニューが伸び、一街区と二街区の人工地盤を繋ぐブリッジが横切っていて、長谷川浩己率いるオンサイト計画設計事務所によるランドスケープ・デザインの骨格が見て取れる。 さあ、公演が始まる。コモンテラスの中心に灰色の巨大な柱が伸びている。一三階の共用廊下の上に一四階の共用廊下が浮かんでいる。ガラス製のパネルには「CODAN Shinonome」の文字が刻まれている。この空間の両側に、六つの部屋が立体的に配置されている。半分は一三階に属し、残りの半分は一四階に属しているのだった。したがって、壁にあしらわれたボーダー柄は緑から青へと遷移する。その色は、掃き出し窓の向こうに設えられた目隠しと防犯を兼ねた引き戸にも連続している。そう、六つの部屋はこのコモンテラスに向かって大きく開くことができた。少なくとも設計上は。引き戸を全開にすれば、六つの部屋の中身がすべて露わになる。それらの部屋の住人たちは観客なのではない。この劇場で物語を紡ぎ出す主役たちなのだった。両サイドに見える美しい風景もここではただの背景にすぎない。近田玲子によって計画された照明がこの空間そのものを照らすように上向きに取り付けられている。ただし、今はまだ点灯していない。わたしはたったひとりで幕が上がるのを待っている。だが、動きはない。戸は厳重に閉じられるか、採光のために数センチだけ開いているかだ。ひとつだけ開かれている戸があるが、レースカーテンで視界が完全に遮られ、窓際にはいくつかの段ボールと紙袋が無造作に積まれていた。風がこのコモンテラスを素通りしていく。

ほら、 幕は上がらないだろう、 お前はわかっていたはずだ、ここでは人と出会うことがないと。横浜のことを思い出して���ろ。お前はかつて横浜の湾岸に住んでいた。住宅と事務所と店舗が街の中に混在し、近所の雑居ビルやカフェスペースで毎日のように文化的なイベントが催されていて、お前はよくそういうところにふらっと行っていた。で、いくつかの重要な出会いを経験した。つけ加えるなら、そのあたりは山本理顕設計工場の所在地でもあった。だから、東雲に移るとき、お前はそういうものが垂直に立ち上がる様を思い描いていただろう。だが、どうだ? あのアトリエと自宅は東京の空中にぽつんと浮かんでいるのではないか? それも悪くない、とお前は言うかもしれない。物書きには都市の孤独な拠点が必要だったのだ、と。多くの人に会って濃密な取材をこなしたあと、ふと自分自身に戻ることができるアトリエを欲していたのだ、と。所詮自分は穴蔵の住人だし、たまに訪ねてくる仕事仲間や友人もいなくはない、と。実際、お前はここではマイノリティだった。ここの住民の大半は幼い子どもを連れた核家族だったし、大人たちのほとんどはこの住棟の外に職場があった。もちろん、二階のウッドデッキ沿いを中心にいくつかの仕事場は存在��た。不動産屋、建築家や写真家のアトリエ、ネットショップのオフィス、アメリカのコンサルティング会社の連絡事務所、いくつかの謎の会社、秘かに行われている英会話教室や料理教室、かつては違法民泊らしきものもあった。だが、それもかすかな蠢きにすぎなかった。ほとんどの住民の仕事はどこか別の場所で行われていて、この一街区には活動が積み重ねられず、したがって文化は育たなかったのだ。周囲の住人は頻繁に入れ替わって、コミュニケーションも生まれなかった。お前のアトリエと自宅のまわりにある五軒のうち四軒の住人が、この四年間で入れ替わったのだった。隣人が去ったことにしばらく気づかないことすらあった。何週間か経って新しい住人が入り、透明な玄関ドアが黒い布で塞がれ、テラスに向いた戸が閉じられていくのを、お前は満足して見ていたか? 胸を抉られるような気持ちだったはずだ。 そうした状況にもかかわらず、お前はこの一街区を愛した。家というものにこれほどの帰属意識を持ったことはこれまでになかったはずだ。遠くの街から戻り、暗闇に浮かぶ格子状の光を見たとき、心底ほっとしたし、帰ってきたんだな、と感じただろう。なぜお前はこの一街区を愛したのか? もちろん、第一には妻との生活が充実したものだったことが挙げられる。そもそも、ここに住むことを提案したのは妻のほうだった。四年前の春だ。「家で仕事をするんだったらここがいいんじゃない?」とお前の妻はあの奇妙な間取りが載った図面を示した。だから、お前が恵まれた環境にいたことは指摘されなければならない。だが、第二に挙げるべきはお前の本性だ。つまり、お前は現実のみに生きているのではない。お前の頭の中には常に想像の世界がある。そのレイヤーを現実に重ねることでようやく生きている。だから、お前はあのアトリエから見える現実に落胆しながら、この都市のような構造体の可能性を想像し続けた。簡単に言えば、この一街区はお前の想像力を搔き立てたのだ。 では、お前は想像の世界に満足したか? そうではなかった。想像すればするほどに現実との溝は大きく深くなっていった。しばらく想像の世界にいたお前は、どこまでが現実だったのか見失いつつあるだろう。それはとても危険なことだ。だから確認しよう。お前が住む東雲キャナルコートCODAN一街区には四二〇戸の住宅があるが、それはかつて日本住宅公団であり、住宅・都市整備公団であり、都市基盤整備公団であって、今の独立行政法人都市再生機構、つまりURが供給してきた一五〇万戸以上の住宅の中でも特異なものだった。お前が言うようにそれは都市を構築することが目指された。ところが、そこには公団の亡霊としか言い表しようのない矛盾が内包されていた。たとえば、当時の都市基盤整備公団は四二〇戸のうちの三七八戸を一般の住宅にしようとした。だが、設計者の山本理顕は表面上はそれに応じながら、実際には大半の住戸にアトリエや事務所やギャラリーを実装できる仕掛けを忍ばせたのだ。玄関や壁は透明で、仕事場にできる開放的なスペースが用意された。間取りはありとあらゆる活動を受け入れるべく多種多様で、メゾネットやアネックスつきの部屋も存在した。で、実際にそれは東雲の地に建った。それは現実のものとなったのだった。だが、実はここで世界が分岐した。公団およびのちのURは、例の三七八戸を結局、一般の住宅として貸し出した。したがって大半の住戸では、アトリエはまだしも、事務所やギャラリーは現実的に不可だった。ほかに「在宅ワーク型住宅」と呼ばれる部屋が三二戸あるが、不特定多数が出入りしたり、従業員を雇って行ったりする業務は不可とされたし、そもそも、家で仕事をしない人が普通に借りることもできた。残るは「SOHO住宅」だ。これは確かに事務所やギャラリーとして使うことができる部屋だが、ウッドデッキ沿いの一〇戸にすぎなかった。 結果、この一街区は集合住宅へと回帰した。これがお前の立っている現実だ。都市として運営されていないのだから、都市にならないのは当然の帰結だ。もちろん、ゲリラ的に別の使い方をすることは可能だろう。ここにはそういう人間たちも確かにいる。お前も含めて。だが、お前はもうすぐここから去るのだろう? こうしてまたひとり、都市を望む者が消えていく。二つの世界はさらに乖離する。まあ、ここではよくあることだ。ブリューゲルの「バベルの塔」、あの絵の中にお前の姿を認めることはできなくなる。 とはいえ、心配は無用だ。誰もそのことに気づかないから。おれだけがそれを知っている。おれは別の場所からそれを見ている。ここでは、永遠の未来都市は循環を脱して都市へと移行した。いずれにせよ、お前が立つ現実とは別世界の話だがな。

実際、人には出会わなかった。一四階から二階へ、階段を使ってすべてのフロアを歩いたが、誰とも顔を合わせることはなかった。その間、ずっとあの声が頭の中に響いていた。うるさいな、せっかくひとりで静かに散歩しているのに、と文句を言おうかとも考えたが、やめた。あの声の正体はわからない。どのようにして聞こえているのかもはっきりしない。ただ、ふと何かを諦めようとしたとき、周波数が突然合うような感じで、周囲の雑音が消え、かわりにあの声が聞こえてくる。こちらが応答すれば会話ができるが、黙っていると勝手に喋って、勝手に切り上げてしまう。あまり考えたくなかったことを矢継ぎ早に投げかけてくるので、面倒なときもあるが、重要なヒントをくれもするのだ。 あの声が聞こえていることを除くと、いつもの散歩道だった。まず一三階のコモンテラスの脇にある階段で一四階に上り、一一号棟の共用廊下を東から西へ一直線に歩き、右折して一〇メートルほどの渡り廊下を辿り、一二号棟に到達する。南から北へ一二号棟を踏破すると、エレベーターホールの脇にある階段で一三階に下り、あらためて一三階の共用廊下を歩く。以下同様に、二階まで辿っていく。その間、各階の壁にあしらわれたボーダー柄は青、緑、黄緑、黄、橙、赤、紫、青、緑、黄緑、黄、橙、赤と遷移する。二階に到達したら、人工地盤上のウッドデッキをめぐりながら島のように浮かぶ一三号棟へと移動する。その際、人工地盤に空いた長方形の穴から、地上レベルの駐車場や学童クラブ、子ども写真館の様子が目に入る。一三号棟は一〇階建てで共用廊下も短いので踏破するのにそれほど時間はかからない。二階には集会所があり、住宅は三階から始まる。橙、黄、黄緑、緑、青、紫、赤、橙。 この旅では風景がさまざまに変化する。フロアごとにあしらわれた色については既に述べた。ほかにも、二〇〇もの透明な玄関ドアが住人の個性を露わにする。たとえば、入ってすぐのところに大きなテーブルが置かれた部屋。子どもがつくったと思しき切り絵と人気ユーチューバーのステッカーが浮かぶ部屋。玄関に置かれた飾り棚に仏像や陶器が並べられた部屋。家の一部が透けて見える。とはいえ、透明な玄関ドアの四割近くは完全に閉じられている。ただし、そのやり方にも個性は現れる。たとえば、白い紙で雑に塞がれた玄関ドア。一面が英字新聞で覆われた玄関ドア。鏡面シートが一分の隙もなく貼りつけられた玄関ドア。そうした玄関ドアが共用廊下の両側に現れては消えていく。ときどき、外に向かって開かれた空洞に出会う。この一街区には東西南北に合わせて三六の空洞がある。そのうち、隣接する住戸が占有する空洞はプライベートテラスと呼ばれる。わたしのアトリエに面したテラスがそれだ。部屋からテラスに向かって戸を開くことができるが、ほとんどの戸は閉じられたうえ、テラスは物置になっている。たとえば、山のような箱。不要になった椅子やテーブル。何かを覆う青いビニールシート。その先に広がるこの団地の風景はどこか殺伐としている。一方、共用廊下の両側に広がる空洞、つまりコモンテラスには物が置かれることはないが、テラスに面したほとんどの戸はやはり、閉じられている。ただし、閉じられたボーダー柄の戸とガラスとの間に、その部屋の個性を示すものが置かれることがある。たとえば、黄緑色のボーダー柄を背景としたいくつかの油絵。黄色のボーダー柄の海を漂う古代の船の模型。橙色のボーダー柄と調和する黄色いサーフボードと高波を警告する看板のレプリカ。何かが始まりそうな予感はある。今にも幕が上がりそうな。だが、コモンテラスはいつも無言だった。ある柱の側面にこう書かれている。「コモンテラスで騒ぐこと禁止」と。なるほど、無言でいなければならないわけか。都市として運営されていない、とあの声は言った。 長いあいだ、わたしはこの一街区をさまよっていた。街区の外には出なかった。そろそろアトリエに戻らないとな、と思いながら歩き続けた。その距離と時間は日課の域をとうに超えていて、あの循環を逸脱しつつあった。���トリエに戻ったら、わたしはこのことについて書くだろう。今や、すべての風景は書き留められる。見過ごされてきたものの言語化が行われる。そうしたものが、気の遠くなるほど長いあいだ、連綿と積み重ねられなければ、文化は発生しない。ほら、見えるだろう? 一一号棟と一二号棟とを繋ぐ渡り廊下の上から、東京都心の風景が確認できる。東雲運河の向こうに豊洲市場とレインボーブリッジがあり、遥か遠くに真っ赤に染まった富士山があって、そのあいだの土地に超高層ビルがびっしりと生えている。都市は、瀕死だった。炎は上がっていないが、息も絶え絶えだった。密集すればするほど人々は分断されるのだ。

まあいい。そろそろ帰ろう。陽光は地平線の彼方へと姿を消し、かわりに闇が、濃紺から黒へと変化を遂げながらこの街に降りた。もうじき妻が都心の職場から戻るだろう。今日は有楽町のもつ鍋屋で持ち帰りのセットを買ってきてくれるはずだ。有楽町線の有楽町駅から辰巳駅まで地下鉄で移動し、辰巳桜橋を渡ってここまでたどり着く。それまでに締めに投入する飯を炊いておきたい。 わたしは一二号棟一二階のコモンテラスにいる。ここから右斜め先に一一号棟の北側の面が見える。コンクリートで縁取られた四角形が規則正しく並び、ところどころに色とりどりの空洞が光を放っている。緑と青に光る空洞がわたしのアトリエの左隣にあり、黄と黄緑に光る空洞がわたしの自宅のリビング・ダイニングおよびベッドルームの真下にある。家々の窓がひとつ、ひとつと、琥珀色に輝き始めた。そのときだ。わたしのアトリエの明かりが点灯した。妻ではなかった。まだ妻が戻る時間ではないし、そもそも妻は自宅用の玄関ドアから戻る。闇の中に、机とそこに座る人の姿が浮かんでいる。鉄格子とガラス越しだからはっきりしないが、たぶん……男だ。男は机に向かって何かを書いているらしい。テラスから身を乗り出してそれを見る。それは、わたしだった。いつものアトリエで文章を書くわたしだ。だが、何かが違っている。男の手元にはMacがなかった。机の上にあるのは原稿用紙だった。男はそこに万年筆で文字を書き入れ、原稿の束が次々と積み上げられていく。それでわたしは悟った。
あんたは、もうひとつの世界にいるんだな。 どうかな、 で、さまざまに見逃されてきたものを書き連ねてきたんだろう? そうだな。
もうひとりのわたしは立ち上がって、掃き出し窓の近くに寄り、コモンテラスの縁にいるこのわたしに向かって右手を振ってみせた。こっちへ来いよ、と言っているのか、もう行けよ、と言っているのか、どちらとも取れるような、妙に間の抜けた仕草で。

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一家一館
老闆就是最佳的說書人
來老街,先到第一站的湖口老街旅遊服務中心拿張導覽地圖,按著圖參觀老街上有特色的一家一館,有吃有玩有可以逛的店家,如老街客家美食的傳統米食,餐廳則有百年歲月、及位在天主堂側的瑪納風味餐廳等,瑪納除客家菜外還有曾獲新竹縣十大伴手禮的辣椒醬<希望醬作>,與餐廳相連的瑪納庭園茶館,則有擂茶DIY的體驗。三元宮前的老街藝品柑仔店, 店內有各式各樣的藝品及兒時零嘴,相鄰幾間的木醋達人由一群年輕創業,展售萃取自樹木的天然清潔用品,甚至陸續新開開的創意小店,時間充裕都很值得入內參觀。而出了老街過了高速公路涵洞不遠處的八角紅樓,是間近百年的兩樓巴洛克式磚造洋樓,再繼續往湖新路就是牛車驛站、漢卿步道與金獅步道,腳程好喜歡踏青的朋友,別錯過老街的歷史人文、有特色的故事館、自然步道與茶園景觀。
老湖口天主堂文化館
西方宗教建築是老街上最好的起點,沿著階梯拾級而上是典雅高聳入天的建築,站在木門前會有種寧靜之感,教堂的二樓紀錄了天主教在客庄大窩口的歷史軌跡,文化館的鎮館之寶,則是滿思謙神父編纂全世界第一部的英客字典,絕無僅有,祭台右側則懸掛著大約是在1965年前後的布製中文聖祭經文,以工整的書法字抄寫彌撒過程重要的祈禱文。
國揚琉璃藝術坊
李國揚館長是現任玻璃協會的理事長,來自台南白河,十幾歲時就對玻璃的吹製感興趣而來到新竹,剛開始他先從學徒做起,學會掌握矽砂在高溫下與不同金屬產生色澤變化的特性、吹拉鑄造等不同技法,後來嘗試不同造型主題,逐漸走出一條玻璃工藝的路。現在館內陳列各式的玻璃藝品,欣賞晶瑩剔透的作品,耐得住高溫的朋友,可以在現場觀摩作品由無到有的過程,親眼見一只長��玻璃棒,在李國揚手上很奇妙地變身為一隻栩栩如生的馬、鬱金香花束等。
木石花園
保有紅磚門樓的木石花園,有個非常熱情的館長鄭榮次,他是老湖口人,曾在新北市板橋當過三屆里長,即使頭髮花白,只要走到門邊就可以感受到他邀請入館的好客,不難想見他過去熱心助人的佳評,後方一草一木的栽培更顯見他對此地的熱愛;館內展示了他畢生的收藏品,包括許多世界各地的朋友交流餽贈,以致於館內的收藏品超過三萬件,在眾多的物件裡,最讓鄭榮次驕傲的是從事藝術創作的兒子打造的台北101大樓之牆面門神彩繪作品。
花語烘培工坊
精於義大利麵的劉宇軒,原來在竹北有家餐館,受金融風暴影響最終選擇結束生意,以精緻的西式糕點重新出發,不加水、香料等人工添加物的起司條口味獨到,與平實價位的提拉米蘇是店內的招牌餐點,有興趣來到這裡,記得選購之餘,也聽老闆分享他對於甜點無師自通的勤實努力。
香草花園
老街上最美的翠綠的草坪,就在香草花園,經營花園超過十二年的羅志堯,是道地的湖口老街人,離開原來室內設計工程,整理老家之後就以太太拿手的幾樣料理開門做生意,有了基礎後以供應西式套餐、飲品等服務;除了開店,羅志堯也利用閒暇空檔與在地文史工作進行訪談調查,旁邊的白色小木屋,是他不眠不休耗時一個月打造,屋內陳列著一張張斑駁歲月痕跡的老照片,是關於老街的前世今生,對大窩口歷史與老建築有興趣的朋友,不妨來這,聽羅志堯聊聊他兒時趣事。
台富行芋香餅
店內最道地的點心是芋頭餅,揀選在地新鮮芋頭削皮製成內餡,顏色看似不鮮豔?是因為糕點師傅黃偉鴻堅持不加香料、色素,他與糕點的淵源自小就開始,黃偉鴻成長在老字號的關西糖果工廠,為了製作薑糖,他打從國中開始就跟著阿婆在深夜起床,用杵臼來搗碎老薑;然而,黃偉鴻剛結婚時並不是做糕點,而是載著一卡車的園藝樹苗到處販售,直到一回種樹過程受傷,為了謀生他才回到最熟悉的老本行「傳統糕點與糖果」,也才有了店內招牌商品「月光餅和芋香餅」的誕生,至於薑母糖、麥芝果、花生糖、芋香酥片及客家仙草,也都是黃偉鴻與妻子親手製作。
豆之味豆腐坊
黃學緯因為本身多年推廣有機農業及認證工作,在他的觀察中發現,黃豆的耕種是一種善待自然、環境永續的勞動實踐方式,所以他毅然決然投入豆製品的生產,摸索期間除了到日本琉球去觀摩之外,也參加台灣的「合樸農學市集」販售豆類製品,並在市集裡開設教學課程,一步步建立消費者對「豆之味」的認識與信任。現在只要到湖口老街,就能品嘗到黃學緯為大家準備的天然豆類製品。
小駐百貨
老街上的小駐百貨,大門門楣上有個老堂號「天祿堂」,店內的香粉香皂、陶瓷食器、玻璃容器、古早味玩具及糖果…應有盡有,每個懷舊小物,都像是很久以前就在架上、完好如初的陳設在老櫥櫃;經營小駐百貨的范振州來自新埔,他分享著家鄉的老街況味,聊著他在湖口老街找到相近的古老氛圍,於是,他辭去原來在科技廠的工作,選擇老街來實現夢想,這家復古懷舊百貨行就是他回歸家鄉的第一步。店內的食器、古早味的香粉香水及可循環使用的自然素材用具,是范店長推薦伴手禮的首選。
嶢品藝術
騎樓紅磚門柱旁復古味十足腳踏車,販賣的是芋泥、芋頭冰,一旁是店家嚴選的老街文創商品,門樓維持著老街建築式樣,每到假日人潮總是擠得滿滿,人手一盒的享用芋頭點心;「嶢品」是由黃騰嶢夫婦協力用心經營,一人負責空間與藝術創造,一人在美食發揮專長,他們在湖口老街一路從餐飲到生活美學藝術等不同型態的經營,累積十年經驗最後成功轉型為藝文空間,空間裡的藝術品與老物件在在呈現著生活的品味,即使不買館內陳列的藝術品或物品,也是個值得沉浸放空的好地方。
湖口風情
湖口風情原址的「復興戲院」是日治時期的郵便所,後來在1954年改建,主要是開放給當時的國軍裝甲部隊,連盛極一時的牛車順戲團、客家採茶戲班或雜耍賣藝都曾在此演出,後因部隊裡建了基地、捷豹兩間戲院分食客源,加上1960年的一場強颱將屋頂掀翻而歇業走入歷史;2008年起轉由「湖口風情」經營客家傳統美食,背後重要的推手是文物協會理事長的盧廷城與擔任大廚的太太,他從航空公司退休,協助太太共同經營,店內每道菜都是挑選新鮮食材料理,「客家獅子頭」還曾經在客家創意料理比賽得獎,開張至今,甚至有來自台北的客人每周按時來餐廳報到,六年如一日,是忠實的好主顧。歡迎來到老街上的「湖口風情」用餐,絕對可以品嘗到廚師用心的客家原味菜餚。
往新豐
湖口再往南是新豐,從竹塹地區的歷史發展來看新豐的紅毛港過去居舉足輕重的地位,舊名是紅毛鄉的新豐,因為紅毛港而得名,它曾經是荷蘭、清末福建廣東移民的登陸點,現在成了觀察學習紅樹林生態重要據點之一,鳳坑村的姜屋聚落是北埔姜家渡海到台灣的落腳處,對於墾拓歷史、客家傳統件建築有興趣的訪客,來到新豐除了自然生態、鳳崎晚霞外,還可走訪香火鼎盛的池府王爺宮及中崙村的三元宮。
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文在寅がトーンダウンした「あっけない理由」
韓国の文在寅大統領は8月15日、日本の植民地支配からの解放を記念する「光復節」の式典で演説、一転して批判を抑制して「対話と協力の道に出てくるならば、わたしたちは喜んで手を握る」と日本に対話を呼び掛けた。演説そのものは、日韓関係が悪化したそもそもの発端である徴用工問題を巡る日韓請求権協定違反について言及しておらず、日本から見れば評価に値しない。
とはいえ、なぜ、文大統領が突然、あのヒステリックな強硬姿勢を一転させたのか。その解説はあまり目にしないし、あったとしても、仲介役として頼みの綱にしていた米国の動きが鈍いとか、関係改善を悲願とする北朝鮮に相手にされていないといった国際政治の力学から分析するものだ。こうした分析は早くから指摘されており、ここへきての決定的要因とは思えない。
そこでひとつ、経済ジャーナリストとして提起したいポイントがある。実は、8月に入ってから韓国経済にはっきりと黄色信号が灯っているのだ。韓国関税庁の公式統計がその黄色信号で、輸出の落ち込みが明らかになり、一段の景気減速が避け難い情勢なのである。
一定の批判はあるものの、2017年5月の就任以来、文在寅大統領は根強い人気を誇っており、今なお40%台の高い支持率を維持している。その政権基盤が文政権の対日強硬姿勢を支えたきた。経済の急減速の見通しは、その基盤を覆しかねない深刻な問題だ。
わが国としては、この情勢を踏まえ、焦ることなく、じっくり対韓外交にあたることが肝要ではないだろうか。
日本と韓国の「8月15日」
8月15日の持つ意味は日本と韓国で大きく異なる。
日本は、昭和天皇が玉音放送を行い、ポツダム宣言を受諾する方針を国民に伝えたことから、8月15日を「終戦の日」としている。
今年も正午前から、恒例の政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で開かれ、第2次世界大戦で命を落とした旧日本軍軍人・軍属230万人と、空襲や原子爆弾投下などで亡くなった一般市民80万人の合計310万人を宗教的に中立の立場で追悼した。生憎の台風10号の襲来で欠席が多数出たものの、それでも安倍晋三総理をはじめ三権の長や全国から招かれた遺族ら約6200人が参列したという。
天皇陛下が即位後初めて全国戦没者追悼式に出席され、令和最初の「お言葉」を述べられたのも、この日のことだ。お言葉の特色は、上皇さまが毎年繰り返し述べて来られた表現の大半を踏襲された点にあり、「再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と締めくくられた。戦後生まれの象徴天皇が令和の時代も引き続き、平和と発展を希求していくと話されたことに、多くの日本国民も共感したものと考える。
そういった意味では、安倍総理が式辞で「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを決して忘れない」としたうえで、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この誓いは昭和、平成、そして令和の時代でも決して変わることはない」と強調したことに筆者はちょっとホッとした。
われわれ日本人がそんな平和への思いに浸っていた時に飛び込んで来たのが、「光復節」の式典で行われた文在寅大統領の演説のニュースだ。
文在寅大統領の「的外れな演説」
約30分間の演説では、これまでの日本を挑発するかのような発言を控えて「日本が対話と協力の道を選ぶなら、私たちは喜んで手を取り合うだろう」と述べたという。中には、元徴用工や慰安婦の問題については直接言及せず、融和を呼びかける内容だったと解説する報道もあった。
確かに、トーンダウンはしたのだろう。振り返れば、文在寅大統領は、日本が輸出管理を簡略化する優遇対象国から韓国を除外する閣議決定をした8月2日に、「加害者の日本が居直るばかりか、大口をたたく状況は決して座視しない」などと、感情むき出しで日本を批判した。
12日になると、「日本の経済報復への対応は感情的になってはいけない」とややトーンダウンの兆しをみせた。
そして、8月15日。「わたしたちは過去にとらわれないで、日本と安保・経済協力を持続してきた。日本が対話と協力の道に出てくるならば、わたしたちは喜んで手を握る。公正に貿易を行い、協調する東アジアを一緒につくっていく」などと語り、明らかに批判を抑えた格好となったのだ。
しかし、貿易管理は文大統領が主張してきたような徴用工問題への報復措置ではない。これはテロや戦争に民生品が転用されるのを防ぐための措置なのだ。自由貿易と相容れないものではないし、むしろ国際社会の要請である。そのことは、本コラム(7月9日付「輸出規制で大ピンチ、韓国・文政権がいよいよ『自爆』しかねないワケ」)で指摘した通りである。
日韓関係の悪化の発端になったのが徴用工問題である事実を無視することはできない。文政権は、昨年10月末の大法院(韓国の最高裁)判決を金科玉条とし、日本政府の度重なる要請を無視して、日韓請求権協定違反の状態を放置してきた。このことが、日本国民の感情を逆撫でして、両国の関係を冷え込ませた。
それゆえ、光復説の演説で、文大統領が元徴用工や慰安婦の問題に関する日本の責任を追及する発言を控えたというだけでは、関係改善のきっかけとして不十分だ。まず、元徴用工問題で、日韓請求権条約に基づいて韓国政府が果たすべき役割にのっとって、問題を解決する姿勢を明確にすることが、関係修復への出発点のはずである。そうした点について何も発言していない以上、文大統領の演説は評価に値しない。
貿易収支黒字がついにストップ
とはいえ、文在寅大統領の突然のトーンダウンの背景に何があったのか、この点の分析を怠ることはできない。
一部の新聞が取り沙汰しているのは、安全保障面で米国を含む同盟関係が揺るぎかねない状況に危機感を持ったのではないかとの見方だ。米国が韓国の言い分に耳を傾けず、日本の主張に理解を示しているとされることが背景だというのである。
加えて、北朝鮮が、米国との軍事演習を進める文政権を非難してミサイルの発射を繰り返し、韓国との話���合いの席に戻るつもりはないとしている問題もある。
思惑が外れた文政権が、遅ればせながら現実を直視し始めたのではないかという見立てと言ってよいだろう。頷ける面もあるが、この2点はいずれも当初からの予見の範囲内と言うべきだろう。
筆者が注目するのは、8月12日に、韓国関税庁が公表した8月上旬(1-10日間)の貿易統計だ。それによると、韓国の輸出は前年同期比22.1%減の115億ドルにとどまった。相手国別でみると、中国向けが同28.3%減、米国向けが19.5%減、そして日本向けが32.2%減で、主要相手国向けが軒並み大幅な減少となっている。明らかに、米中貿易戦争激化と世界的な半導体価格の下落が響いているのだ。
品目別では、主力輸出品の半導体が同34.2%減だったことから、世界的な半導体市況の低迷の影響が引き続き韓国経済の足を引っ張っていることも改めて裏付けられた。
ちなみに、同じ期間の輸入は、13.2%減の142億ドルで、輸入の減少を上回るペースで輸出が減ったことも明らかになった。この結果、貿易収支は7月の24億4000万ドルの黒字から一転、8月1日からの10日は26億4900万ドルの赤字に転落した。韓国が90ヵ月連続で維持してきた貿易収支の黒字に、はっきりと黄色信号が灯った格好なのである。
韓国経済の底割れは間近
韓国経済は、もともと国内市場が小さいため、消費や投資の寄与度が低い。GDPの4割を輸出に依存する特異な構造である。
昨年の実質成長率は、米中貿易戦争の激化と半導体の市場低迷が響いて、前年を0.4ポイントも下回る2. 7%に急減速した。
さらに、IMF(国際通貨基金)は今年5月、今年の実質経済成長率の見通しを年2.6%に引き下げた。引き下げたと言っても、IMF予測は楽観的な方で、民間予測ははるかに悲観的だ。野村証券と英キャピタルエコノミクスが1.8%、ゴールドマンサックスが1.9%と軒並み2.0%を下回っているのである。
こうした中で、8月上旬のように、これまでの予測を上回るペースで輸出が落ち込めば、韓国経済が底割れしても不思議はない。
盤石だった文在寅大統領の政権基盤である、世論の高い支持率が揺るぎかねない事態が、水面下で静かに進行しつつあるわけだ。
遠からず、韓国経済の減速は顕在化するだろう。放っておけば、国民の不満が爆発することを恐れて、文政権は強硬な姿勢を改めざるを得なくなる可能性が大きい。ここは粘り強さこそ、安倍政権の外交に求められるポイントである。
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