#夢現の境界~奇跡の海~
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(Mugen no Kyoukai ~Kiseki no Umi~, PC) [NSFW 18+]
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カルタゴ滅亡をトレースする現代日本
◆カルタゴはなぜ滅んだのか?!
日本と同じような商人国家であったカルタゴが、完膚なきまでに滅ぼされた例を他山の石として日本人は国防を考え直す必要があると切に思うからです。
カルタゴは紀元前250年頃、地中海に覇を唱えていた大国でした。
第2次ポエニ戦争に負けて、戦勝国から武装を解除させられ、戦争を放棄することになったカルタゴは、戦後の復興を貿易一筋で見事に成し遂げ、戦後賠償も全てきれいに払い終えました。しかし、その経済を脅威だと捉えたローマ帝国によって、結局は滅ぼされてしまいました。
滅ぼされる直前、カルタゴの愛国者であるハンニバル将軍は、ローマの考えを悟り、祖国の危機をカルタゴ市民に訴えましたが、平和ぼけした市民は耳を貸そうとしませんでした。
それどころか「ハンニバルは戦争をしようとしている!」と中傷する者さえいました。しかも、最終的にハンニバルはローマに洗脳された者達によってローマに売られ、自殺にまで追い込まれてしまったのです。
平和ぼけした市民は、ローマから無理難題を次々に要求されてからはじめてハンニバルの警告が正しかった��とに気が付きましたが、時すでに遅く、徹底抗戦に踏み切るもカルタゴの陥落を防ぐことはできませんでした。この間、たった3年の出来事でした。
ちなみに、���き残ったカルタゴ市民は約5万人でしたが、その全てが奴隷にされてしまいました。城塞は更地になるまで徹底的に破壊され、再びこの地に人が住み、作物が実らぬように大量の塩が撒かれたと言われています。
これはただの負け方ではありません。まさに地上からの抹殺です。
この悲惨なカルタゴ滅亡の理由は2つあると言われています。
1つは、カルタゴ市民が軍事についてほとんど無関心だったことが挙げられます。もともと自国の防衛はおおむね傭兵に頼っていた上に、国内世論も「平和主義的」な論調が強く、有事に備えて軍事力を蓄えておくといったことはままなりませんでした。
2つめは、国内の思想が分裂状態であったことが挙げられます。そもそも挙国一致して事に当たらなければ有事を乗り切ることはなかなか難しいものですが、カルタゴにはそれがなく、戦時中にハンニバルが外地を転戦している間も市民は素知らぬ顔をしていました。そして、ハンニバルを売り渡したのは、ローマに洗脳されたカルタゴの売国奴達でした。
自らの手で愛国者を切り捨てる・・・かくしてカルタゴは「滅ぶべくして」滅んだわけですが、私は今の日本がこのカルタゴに酷似している様に見えて仕方がありません。
今こそ日本の国防を真剣に考えないと本当に危ないと思います。
【対比】日本と似すぎているカルタゴの運命
カルタゴは、フェニキア人が建国した海洋国家で、現在のアフリカ大陸チュニジアに位置しています。
カルタゴは、世界一の造船技術を持ち、スペイン、シチリア島などの海外領土を支配していました。
紀元前3世紀、地中海貿易により富を蓄え、ローマ帝国と並ぶ強国となります。
BC264年、両者の中間にあるシシリー島で紛争がおこります。そして、これを契機にカルタゴとローマは、世界の覇権を賭けて激突します。この戦いは、23年間の中断をはさんで63年間続きます。(第一次ポエニ戦争、第二次ポエニ戦争)
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1867年、島国日本は、長い眠りから覚め、明治維新により近代国家への道を目指します。西洋文明を積極的に取り入れ、富国強兵に邁進します。日清・日露の戦争に勝ち、朝鮮、台湾、南樺太と領土を拡張します。
強国となった日本は、戦���大和を建造して、世界有数の海軍を持ち、
太平洋をはさみ、超大国アメリカと対峙します。
1941年12月、日本連合艦隊は、ハワイの真珠湾の奇襲に成功します。太平洋戦争が始まります。
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カルタゴの英雄ハンニバルは、象36頭と兵士5万人を率いて、スペインを出発します。象を連れて、アルプス山脈越えに成功、ローマの本拠地イタリア半島を奇襲します。ハンニバルは、イタリアに、なんと15年も踏みとどまり、ローマを一時追い詰めます。
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「マレーの虎」山下奉文中将は、マレー半島を南下、シンガポールに侵攻します。インド兵への離反策が成功し、1942年2月15日シンガポールは陥落、イギリス軍は降伏します。
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カルタゴは、地力に勝るローマに対して次第に劣勢になります。ついに、名将スキピオ率いるローマ軍が、カルタゴの本拠地に進軍します。カルタゴは、イタリアで善戦していたハンニバルを帰国させ、本土決戦に賭けます。BC202年、天下分け目の戦い(ザマの戦い)が行われます。カルタゴの完膚なき負け戦でした。
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アメリカは、生産力、技術力で日本に勝っていました。ミッドウェー海戦を境に、戦局は逆転します。ガダルカナル、硫黄島、沖縄。日本は、敗退を続けます。本土空襲が激しくなり、広島と長崎に原爆が投下されます。日本の完膚なき負け戦でした。
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カルタゴは、ローマに無条件降伏します。
全ての海外領土は、放棄され、軍船、象もローマに引き渡されます。軍隊は、自衛のためのものだけが許されました。そして、自衛のためでも戦争する場合、ローマの許可が要ることになったのです。(この許可の項目が、後に大問題となります)
そして、50年賦で1万タラントの賠償金をローマに支払うことが決まります。
ともかく、カルタゴの町は、無事に残りました。100人会は、貴族の世襲制でしたが、戦後まもなく代議員が選挙で選ばれるようになります。
カルタゴは、民主主義の国家に生まれ変わります。
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「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・」玉音放送が流れ、日本は無条件降伏します。
日本列島以外の領土は、返還されます。アメリカが決めた平和憲法で戦争が放棄されます。(後に自衛隊が誕生します。)国土は焼け野原、アジア諸国には賠償金の支払いが必要でした。ともかく、本土決戦だけは避けられました。
日本は、天皇主権の国家から、主権在民の民主主義国家に生まれ変わります。
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カルタゴ人(フェニキア人)は、ユダヤ人やアラビア商人と同じセム語族で、最も商才があるといわれている種族です。
軍事国家への野心を棄てたカルタゴ人は、ますます貿易や商売に熱中するようになります。ローマ人は、楽しむために働きましたが、カルタゴ人は働くこと自体が人生の目的でした。奇跡の経済復興が実現します。
戦勝国ローマは、休む間もなく、マケドニアやシリアと戦わなければなりません。軍備費の要らないカルタゴは、次第にローマに匹敵する経済大国に、のしあがります。
BC191年ローマは、シリアを打ち破ります。
無敵の軍事大国ローマにとっての脅威は、経済大国カルタゴに移っていくのです。
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日本人には、勤勉さと物作りの才能がありました。
焼け原から立ち上がった日本人は、ひたすら一生懸命働くことで豊かになろうとしました。エコノミックアニマルと日本人は、陰口を叩かれます。奇跡の経済復興が実現します。
アメリカの核の傘に入り、軍事費もいりません。戦勝国アメリカは、ソ連との冷戦を戦わなくてはなりませんでした。
10%を超す高度経済成長が続きます。日本は、世界第二位の経済大国になります。
ソ連が崩壊し、日米の経済摩擦が激化します。
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BC187年、カルタゴは、50年賦と決められた賠償金を一括払いしたいと申し出ます。いくら叩いても不死鳥のように蘇る、カルタゴ人の経済力に、ローマ人は、羨望と恐怖心を抱きます。ポエニ戦争の悪夢がふと蘇ります。
経済大国カルタゴの最大の悩みは、隣国のヌミディアでした。ヌミディアは、騎馬兵団で有名な、戦争に強い国です。自衛力しか持たないカルタゴを侮り、その領土を侵犯します。
カルタゴは、ローマに調停を頼みますが、黒幕のローマはもちろん取り合いません。ついに、カルタゴとヌミディアの間で戦争が起こり、平和の国カルタゴは、敗北します。
ローマの事前許可のない戦争開始は、条約違反でした。
ローマは、カルタゴに対して、突然宣戦布告をします。
驚いたのは、カルタゴです。ローマの許しを得ようと、300人の貴族の子供を人質に差し出します。しかし、8万人の世界最強のローマ兵が、上陸し、カルタゴに進軍します。
カルタゴの使者が、「どうすれば、許していただけるのですか?」とローマの司令官に聞きます。
「全ての武器を差し出せ。」司令官は、答えます。
カルタゴは、20万人分の鎧、投げやり、投げ矢、2000の石弓を司令官に差し出します。
すると、司令官は、最後の要求を使者に言い渡します。
我々は、カルタゴの街を根こそぎ破壊することを決めた。
カルタゴ人には、今の街より10マイル内陸部に
新しい居住地帯を造ることを許可しよう。
使者からローマの意向を聞いた20万人のカルタゴ人は、驚愕して、嘆き悲しみ、最後に激怒します。
「こんなひどい仕打ちがあろうか。街を破壊するだと。
内陸部に引っ込めだと。どうせ死ぬなら戦って死のう!��
カルタゴ人は、丸腰で戦う覚悟を決めます。返事の猶予期間の30日間、密かに戦争準備がすすめられます。
武器職人は、連日徹夜で武器を作ります。
若い女性は、長い髪を元から切って石弓の弦が作られます。
こうして、始まったのが、第三次ポエニ戦争でした。
(戦争というより、ローマによるカルタゴの民族浄化です。)
カルタゴは、ここで奇跡的な粘りを見せます。なんと丸腰で三年間ローマの猛攻を食い止めたのです。
しかし、戦闘と飢えと疫病で、20万人のカルタゴ市民は、10万人に減ります。
そして、ついに、ローマ兵は城壁を破り、街へ進入します。
女、子供までがレンガを投げて抵抗しますが、5万人が虐殺されます。
ビュルサの砦に逃げ込んだ5万人のカルタゴ人は、オリーブの枝を掲げて投降します。
彼らは、一部が処刑され、残りは奴隷として売られます。
カルタゴの街は、十数日燃えつづけ、灰は1メートル積もります。カルタゴの復活を恐れたローマ人は、この地に塩を撒き不毛の土地にします。
700年続いた経済大国カルタゴと世界の富を独占したカルタゴ人は、BC146年こうして滅んだのです。


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【Heartlands】曲解説

Heartland というアルバムタイトルを考えていたのですが、複数形だとしっくり来ました。まあ、全部解説してしまうとつまらないので、理由は各自感じ取っていただければと…(遠藤)
以下、作曲者による曲解説です
2.Tetetete(原)
海外のボーイ・バンドの曲をイメージして作りました。スーパーボールのハーフタイムショーのような会場で、途中からドラムラインが出てくるような壮大な妄想のもと、、笑
自作の中では一番ポップな曲になったような?気がします。
アコーディオンが刻む「てててて」の響きが好きなので、タイトルもそのまま「tetetete」に。
3. 足の裏(遠藤)
斉藤友秋さんのイベントで遠藤里美ソロをやる際に作った曲。この時は、ライブまで時間的(&精神的)な余裕がないため、演奏するのが容易かつ、しっかりした構造にするために「曲の構造から作曲する」というスタイルをとりました。
当時は変なコード進行する曲ばかり作っていたので、世の曲って結構ワンコード…と思い作った曲。
当初はトリオ編成(Sax × 2, Bass)のために作ったので非常にシンプルでしたが、バンド用に少しゴージャスにアレンジしなおしました(FlとObのカウンターメロディーなどを追加)。構造は2管のユニゾンの対決、その後全員ユニゾン、というシンプルな流れになってます。
ベースラインはほとんど同じ音型のまま進行して強固にキープ(そのせいで弦の演奏者は指が異常に疲れる)その上でメロディーがユニゾンするというものです。
単純な構造ではありますが、「ナチュラルではないリズムやメロディーを2人以上で完璧にユニゾンすればなぜかユーモアが生まれる」というプログレ的なねらいもあります。
曲の情景としては、さまざまな地面の形状や景色に対応する、足の裏から見た世界を描いてます。
中尾さんへの演奏指示としては��歩きながらオナラをする感じでお願いします」と言ったところ、一瞬で理解していました。
リスナー側から見た音楽の面白さや快感とはどういうところにあるのだろう?と考えた時、反復や、リスナー側のメモリーと一致した感触なのかなと思うこともあり(初めて曲を聴いた時の喜びはまた別のものでもありますが)反復と、反復への裏切りに関しては、作曲する上で考えるポイントです。
4. abandon obsession(原)
執着を捨てるという意味のこの曲。
日々窮屈さを感じてい��時に、ビオパタにファンクなダンスナンバーを…と何故か思いたち、うまれました。
色々捨て去って、兎にも角にも踊ろうぜ!踊っとけばなんとかなる!という、普段あんまり思わない事を、逆にかたちにしたような曲です。
6. かめめぱやし(古池)
この曲は、単音の楽器が(当時は)6本もいるビオパタのために、
6声で、変拍子で、絡みつくようなフレーズの曲が書いてみたいなぁと思って作った曲です。
曲名は特に考えてなくて、初めて合わせた後にメンバーそれぞれに一文字づつ言ってもらって、それを繋げてタイトルにしました。
自分で演奏しようと思ってもなかなかに厄介な曲を、見事に形にしてくれました。
とても嬉しいし、聴いててとても楽しいです。どうもありがとう。
7. 草原境(遠藤)
実家で飼っていた犬の「ゆきちゃん」が亡くなった時にできた曲。身近な命がなくなると、曲ができてしまいます(以前作曲した「五十嵐川」は祖母が亡くなった時の曲)。犬のゆきちゃんは雑種で自由な女の子でした。動物たちが、周りからの視線を気にすることなく生きている様は、癒やされるということを通り越して元気づけられます。
進んでいるようで進んでいない、同じところをずっと回っていながらも景色は少しずつ変わっていく感じを出したかったので、それほどドラマティックな展開はありませんが、ユニゾンのメロディーは自然に出てきたもので、意外に気に入っています。
曲の全体のイメージとしては、まったく悲壮感のなかった、あっけらかんとした「ゆきちゃん」という存在を表せたのではと思います。
8. 消失(遠藤)
円盤から発行されていた雑誌「Comicミツザワ」のために作曲した曲。
1ページに納めたので短い曲です。また演奏にチャレンジしやすいようにとても単純で美しい曲を作ったつもり。
コード進行重視で作った曲です。シンプルながら楽譜から音が立ち上がった時、不思議な響きになったりギャップがあるのは個人的に嬉しいものです。
(読者が演奏してくれるのを期待しましたが、そういう交流は生まれなかったですね)
9. 雲間(原)
隙間というものが気になるのに、暮らしの中でちょっとした隙間(ドアがちょっと空いてたり、棚が少し開いてたり)を生み出しがちです。
その隙間から何かに見られてるような気がしてつい目がいってしまう。同じ様に、雲の間から見える月にもつい目がいってしまいます。でも、ずっと見てるわけではなくて、チラチラみて、違う事考え出したら忘れてしまう。そういう感覚を曲にしてみました。
10. 村の掟(遠藤)
2020年に、某バンドで演奏するために作曲した曲。
簡単で楽しい曲を作るというミッションのもと、15曲くらい作ったうちの一つをビオパタ用にアレンジしました。後から適当にタイトルをつけたのですがなかなか他と毛色の違う良い曲になった気がします。
自分としては、メロが単純すぎるので無意識に何かのパクリみたいになっていそうなのが気になっています。
一度加藤休ミさんの絵本ライブで「かんなじじおどり」という本にBGMとしてつけたのですが、何だか合っているようでした。
「日本人しか作れない曲」というのは確かにあると思うので、日本人らしさを作曲に活かせれば良いなと思ったりします。
11. 深更、雪(遠藤)
円盤から発行されていた「Comicミツザワ」のために作曲した曲。
少しだけアレンジを付け足し、さらに深夜感を出しました。雪国育ちなので、「夜中に大量に雪が降っていて、朝妙に静かだなーと思ったら雪に埋もれていた」感じを表現しました。雪の降る音を聞くのは難しいですが、人間の見ていない場所に静かに雪が積もっていくイメージです。
「分断されたメロディーを自然に繋げる」が裏テーマ。とにかく1拍三連が昔から好きなのです。ドラクエ3のエンディング「そして伝説へ」で目覚めました。
12. Empty Tango(遠藤)
biobiopatataは2012年の円盤によるタンゴ企画がきっかけで誕生したバンドですが、2017年3月に再度タンゴ企画が企画され、ビオパタも懲りずに招致されました。それに合わせ作曲しました。
初演は会場は入谷なってるハウスで、対バン「LimaTango!!」には当時のなってるハウス店長のリマ哲さんがいました。なってるハウスを退職される直前とのことで、新店長・小林さんと新旧店長アドリブソロ対決をお願いしたく、ビオパタでは珍しくアドリブソロの部分を作りました。(録音では遠藤ソロになっている)
イントロは、管楽器のメロディーだけでタンゴを表現できるか?をテーマとしてバラバラに聞こえるけどお互いが支え合ってグルーヴを作ることを目指しました。タンゴはもともとドラムが入ることが少ないようなのですが、リズム楽器無しでメロディでグルーヴを作ることでタンゴらしさを少しずつ作りだしていきます。
本編はダンスミュージックとしてのタンゴを意識しました。テンポ��微妙に変わったりするのも、もしダンス作品としてストーリーがある振り付けがあったら素敵だな、という妄想のもとです。
曲のイメージは、引っ越しが終わった後、空になった部屋に思い出だけが浮遊しているイメージといいますか。
13. 山2(山本)
楽譜にしたときに音の横の流れが美しいのがいいなと思い、どのパートもなるべくきれいな旋律に感じられるよう心がけました。意図したわけではないのですが、結果的にその旋律が山々の稜線を描くような曲になったように思います。
15. BBK(遠藤)
初めはどういう経緯か忘れましたが、絵本作家の加藤休ミさんの絵本「ぼーるとぼくとくも」にBGMをつけるというミッションのもと作曲した曲。
ぜひ、絵本「ぼーるとぼくとくも」をご購入の上、一緒にお聞きください(休ミさんにはこのアルバムのジャケットも担当していただいています)。
絵本にBGMをつけるというのは初めての体験だったのですが、古い友人である休ミさんのことも自分なりに理解した上で、絵本を読み解いて音をつける作業は全く違和感なくスムーズに行うことができました。
ある年齢までしか見えない幻、トトロ的なものを感じて、楽しさ、奇妙さ、ワクワク感、不安定さなどを表現したつもりです。
主人公の少年の性格が垣間見られる冒頭、まだ別の世界へ飛び立っていない時点からなんとなく不穏な空気を漂わせています。
テンポが移り変わり、浮遊感のある景色が広がります。ひとしきり空で遊んだ後は、余韻のある状態で元の場所に戻ってきます。夢だったのかもしれないけど、それは確かに彼の血肉となって残るのです。私は幼少時、外で独りでいる時に数分気を失った記憶があり、その時の体験を思い出したりしました。あれは何だったんだろうとたまに思います…。
メロディーの上下で浮遊感を表しておりますが、譜面で見ると音型は雲のようにも少年の軌跡のようにも見えて視覚的にも浮遊感があります。
ライブでは加藤休ミさんが絵本の読み聞かせをしているのですが、その時の状況次第で場面の尺が変わるため、要所要所でリピート回数の指示をアイコンタクトで行います。(ちなみに、加藤休ミさんの読み聞かせの入ったバージョンの音源も存在しますが、録音しながらなぜか感動のあまり泣いてしまったという。)
録音自体は2017年に行っており、全員での一発録音となっております(アコーディオンだけオーバーダブだったと思います)。伴瀬朝彦さんにギターを演奏していただいています。
この曲と「足の裏」はベーシックは全員で録音を行なっています。その他の曲は各メンバーが個々に録音したものをミックスしています。
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早一年
2025年4月20日
久しぶりに戻ってきました。
自分が書いたブログを見るとこんな楽しかった思い出が一瞬で暗転するような、ずっと続く悪夢のような出来事が一年前に起こった事が今でも信じられないです。
自分がただただボーっとしてる間に公式からもたらされたアップデートによる外部的な要因だとか��隕石落ちてきて家が無くなったレベル...回避不可避だし予想外すぎる)運営の態度とかそういうものの積み重ねのストレス、更にリアルで不幸が続きまくる悪夢のようなエンドレス
気持ちの整理も兼ねて経緯をつづっていこうと思います。
遡るは一年前、2024年4月14日黄金ベンチマークが配布された時
before

After🥲

ベンチの最初のドアップ画像に血の気が引きました。
キャラが変わり果てていた...
ドアップで出すという事は公式が見てほしくて自信をもって出したという事です。
申し訳ないですが、気に入らないけどアップデートだから仕方ない受け入れようみたいなそんなベクトルでは無く、こんなものを商品として出す会社になってしまったのかというショックを受けました。
自分以外にもやはりショックを受けた方は沢山おり案の定不満などがSNSやフォーラムで発せられました。
グラアプデを自��してた運営は一転してその事について尻すぼみになっていきPLLなどで誤魔化すようになりました(草ばかり話すようになりました)
草ばかり話すので、火に油というか火に草という燃料が巻かれて更に🔥が上がりました。
今では運営はキャラ関係はほぼ話しをしないです。
運営はベンチの調整を行いましたが、上記のような状態で出された理由を「導入漏れ」と発表しました。
これが最初の運営に対して疑心暗鬼な目で見るようになったきっかけでした。
当時のあれこれはこちらを見ればわかると思います。
調整された黄金ベンチv1.1が2024年6月3日に配布されました。今現在配布されている黄金ベンチもそれにあたります。
このベンチは当初の運営の発表では5月23日週の後半を予定でしたが大幅に遅れて配布されました。
黄金ベンチv1.1を見てみると....
最初より良くなっている!!!!
でもやっぱり違う。まだまだ違和感がある。
FBを送ってほしいとの事だったので自分もFBをフォーラムに投稿しました。これが地獄の幕開けになるとは思いもよらなかった。
同じく違和感が継続しているので炎上も継続しました。
炎上を加速させるかのように運営は誤魔化しのようなSSを提示し続けました。
何故炎上したかを知りたいのならこちらがとてもよくまとめて下さっているので見てください。
炎上の最中、ベンチの中だけだったのが2024年6月28日に実際のゲームにもアップデートが行われ、少しはましになってるはず...と鼓舞してログインしましたがやはり別人がそこに立ってました。
告知が無かったが表情も違う
...ここが結構重要で、表情が違う事でキャラクターの内面が別物に見え、外見も違うので更にストーリーが楽しめない頭に入ってこなかったです🥲
before

After🥲

去年問題としてあげられていたララと同じような感じで、顎に対して歯の全体的な横幅が小さくされてしまい、不自然に見え見栄えも悪く奇形なので口を開けるエモートが出来なくなりました🥲
特にたまに見せるこの表情が一番キツかったです
多分悲しんでる表情なのかな?自分も泣きたい🥲泣きました



自キャラだけじゃなくNPCまでも別人
大好きだったサンクレッドは俳優が変わってしまったぐらい同一人物にも見えなかったです。
目の下に浮き出た隈と黒くなってしまった唇が疲れたように見えてそれも相まって悲しかったです。
before
After🥲

更にFBとして出した不具合報告が「修正済み」になっていました...が「無修正」でした...何故。
こちら何度か修正されてないと問い合わせしたんですが今現在も直らず放置されています。
この前まとめサイトで髭の方が同じことをされて、しつこく運営を問い詰めたらBANされたという話が上がっていましたが、同じことをされたので髭の方の気持ちがわかり可哀そうでした。
※自分はBANとか消されたとかはされてません。髭の方もフォーラムの口調はダメだったと思います。
自分や髭の方と同じような事をされた方々が何人もいます。
全てグラアプデ関連です。上記のまとめは一例でありまだあります。
とても怪しい...疑惑の目で運営を見るようになりました。
色んな方向からボコボコ殴られながらストーリーを進め、そのうち慣れるだろうと思いましたがやはり顔が受け入れられず、髪型を変える事で印象を変え、隈が酷いので目周りのアイメイクを隈を抑えるような感じに変え、顔が見えないように配慮したミラプリにすることで何とか違和感を抑えることにしました。
これなら受け入れられる!
そして....ストーリーも中盤以降に差し掛かりやっと面白そうな所にキター!!!!と思ったら浮いてる草や気晴らしに行ったお気に入りの場所はグラフィックの粗のようなものがあり、それが次々と自分に襲い掛かりました🌱
最初に襲い掛かって来た中央が空中に浮いていた草、フィールド全体の同じ種類の草で発生
(こんな沢山浮いてるという事は事前確認してなかったっぽい?)

気晴らしに見に行ったらそれが不幸の始まりだった。
大好きだったアバラシア雲海の景色や夕日が別モノになっている...
(こんだけ雲テクスチャの境目がむき出しになるという事は調整ミスっぽい?)
同一の場所で撮ったとは思えない信じられない光景でした。
before

After🥲

髪を変える時のムービーがホラーに(不具合)
before

After🥲 画面から出てきて襲い掛かってきそうw

色んな髪型で伸びたり禿げたり浮いたり変な色になったり不具合が出ていました。最新のアーゼマでもありますね。
(大好きな演奏家さんの髪みたらバグで伸びていてショックを受けました🥲)
アプデで綺麗になった植物を眺めようと南部森林にふらっと寄ったら、葉っぱの欠片や花の断片がどこかしらに浮いてたり引っ付いてたり巨大化してたり点線みたいなのが上に浮いてたりと凄い事になっていました。
(運営はキャラ自慢辞めて、途中から草の自慢に切り替えましたがこのありさま...)
新生エリア全域で起きていました。
色が抜けた草(不具合)
影にかかった草だけ更に不自然な縁取りしたような影がかかる草(不具合)

ハウジングにもグラアプデの影響がありました。
ハウジングの室内でシマシマの跡や線が体に浮かび上がる

後ろライトがあるスタジオだと瞼が光ってしまう

こっちはグルポライトで極端に光らせたSS

楽しみの1つだったスタジオ巡りさえもノイズの一部になってしまいました。
アップデート後にバグが多いのはわかるんですがぱっと見でわかるのが多すぎて、顔が別物になってたりその他諸々の不信感が形成されてしまっていたので見つけるたびにモヤモヤが蓄積していきました🌼
更に運営に不信感を抱かざるを得ない事が次々と起こり���PLLとか情報を追ってる人でないとわからないかもしれない)何が起きてるのか状況整理しようと調べていくうちに確信に変わり...
グラフィックが戻る希望は望み薄、14で一番好きだった部分が破壊され手の届かない場所に行ってしまったので本当に虚無でした。
なんというか海外の人がぶっこぬいたであろうデータをまとめ発信した人が少し前にいましたが、運営やはり嘘ついてるなという画像だったのでもうヤバイ。
自分が気になってた所全て、ピースが当てはまるようなものだったので真実でしょう。
今は少し距離を置いて離れたら心が落ち着いてきました🫥

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2025年3月29日 08:17
錆びかけた時が熱を帯びる
ゲーム会社『スクウェア・エニックス』とアイドルを中心とした芸能事務所『ディア・ステージ』によるVチューバープロジェクト『Gems Company(ジェムズ・カンパニー)』が2024年12月7日付けでプロジェクト停止となった。
ジェムズ・カンパニーは『声優になりたい女の子募集』と題し、著名な声優を審査員に迎え、両社共同で開催されたオーディションで選出された経緯があるが、まさかVチューバーとして活動する事になろうとは思ってもいなかった為、このやり口が問題になった。それでも、タレントとしてディア・ステージがバックアップするという事もあり、なんとかプロジェクトが2018年にスタートした様だが、活動体制やらビジュアルやらが視聴者をそこまで獲得するにあたらず、惰性で配信をしている様な状態が長く続いていた。そうした中で内部、外部からも不満が挙がっており、運営の怠慢が原因とされ、プチ炎上の様な事が何度かあった模様。
本来であれば、大手企業がバックアップするので、もっと話題になってもおかしくはないと思われるが、以前より、異常なまでに一般のエンターテインメント企業が関係するVチューバーは全て失敗に終わっており、現時点ではそれが覆った事実は無い。その理由は単純で、現実のエンターテインメントと仮想の��ンターテインメントでは、その性質と客層が違うからだ。特に目立つのが、『ネットだから』と甘く見ている企業が多く、雑な運営体制が問題視される出来事もネットニュースなんかを見ていると割と目にする。ネットは少し一般とは異なった世界が構築されており、その根本的な理解の低さが原因だと感じる。
以下の楽曲はジェムズ・カンパニーのメンバー2人で結成されたユニット『Fulfill(フルフィル)』によるもので、MV内でのパフォーマンスも当人達が行っている。この曲を初めて知った時はかなり心打たれた。この曲はVチューバーシーンにおける初期の頃に想い描かれていたフューチャリスティックな姿を体現した、一つのバーチャルアイドル代表曲だと思っている。凄く洗練されている奇跡の様な曲とMVで、何よりパワーが半端ないし、ここまで真向から勝負した曲はそうはない。相当気合が入ってるし、熱量が凄い。突き抜ける爽快感を大事にしつつ、細かい仕事もしていて、伴奏やメロディー、構成、パフォーマンス等も文句無しの一曲。
おおもとのプロジェクトが停止した今、その内、ユーチューブ上からこのMVが消される日が来るかもしれないが、少しでも多くの人とこの軌跡を共有したい。
●Fulfill / 形而境界のモノローグ
youtube
夢か現 喚び醒ませば遙か 錆びかけた時が熱を帯びる 瞳閉じて理想郷を描けば 映し出す光と陰のカタチ
DIVE 願いの果てまで飛び込んでいけ DIVE 夢想の化身は 理解を超える
宵闇に隠された鼓動を 人知れず疼きだす思いを 身体中駆け巡る全てを 信じたら 願いは手の中に
I wanna fly 僕らは夢を渡り 遙か天へたどり着く たとえ現実に邪魔されても構わない
暗く深い世界の海に消えて 道を閉ざされたとしても 切り拓け 逆波を超えて
夢の淵に 姿見せたリアル 見えたのは虚無か?それか光か? 描き出した理想郷の果てには 幻想の僕が今も眠る
DIVE 世界は一度瞬きをやめ DIVE 無数の闇が 時間を動かす
他でもないこの地球(ほし)に舞い降りて 生きているその意味を、その理由を 退屈に刻まれた日常に 徒に染まるなら意味はない
焼き付けろ これまでの生き様を 見せつけろ これからの行く様を 現実と幻想を重ねて 描き出すシナリオが 積み上げられた運命も変えていく
I wanna fly 僕らは息を潜め 退屈な今を謳歌している たとえ現実に騙されても揺���がない
忙しない世界の機微に触れて 心色褪せたとしても この願いだけ永遠に放て
めくるめくる現実(いま)と幻 流れ来る相剋の交響曲(シンフォニー)
fly 僕らは夢を渡り 遙か天へたどり着く たとえ現実に邪魔されても構わない
暗く深い世界の海に消えて 道を閉ざされたとしても 立ち止まらない この思いは 闇を超えて
夢か現 研ぎ澄ませよパルス 潜むのは軌跡示すシグナル 夢と現 その狭間に見えた道こそが 僕を繋ぐ Destiny Line
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2024/11/18 8:00:26現在のニュース
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34歳と2022年の終わりに
この世の中で、誰かを愛し、そしてその誰かに愛される、そんな奇跡みたいなことが、これからの自分の人生で起こることがあるのだろうか。
さよならが来る度、そう思う。
既にパートナーがいる方は、今夜眠りにつく前に、ベッドの中でそっと目を閉じ、そして両手を胸に、夜空に(天井に)祈りを捧げて欲しい。神様、愛し愛される奇跡を有難う。当たり前のように思えるかもしれないその奇跡にどうぞ感謝のお祈りを。
2022年も、もう終わる。そうしてまた来年もそんな奇跡は訪れるのだろうけれど、今はそんな風には思えない。奇跡って呼ばねばならぬほど、そんなに難しいことだっけ。
とか、そんなことを書いていたら、2023年に突入しておりました。
皆さま、あけましておめでとうございます。
2022年最後の日の朝、私はスピッツを聴いた。この日、私は1年で1番丁寧に朝食を作った。
(日本人の歌手の中で1番好きなのは、スピッツ。そして、宇多田ヒカル。)
スピッツは、読み物である。
スピッツのメロディーとやさしい歌声を耳から、歌詞を目から、自分自身に取り込むと、いちいち言葉にグッと来て、思わず笑みがこぼれ、ふいに涙し、心が満タンになり、あっという間に時間が過ぎる。なんとうつくしい日本語だろうか。言うまでもないですが、スピッツは天才。2022年のフィナーレに相応しい、朝だった。
(スピッツといえば、この冬流行ったあの某ドラマを彷��させますが、ひねくれものの私は全く刺さらなかった側の人間です。あんまり人に言われるから3話まで観ましたが、全くハマらず。ハマらないどころか主人公全員に苛立った。)
2022年の冬、数年ぶりに飛行機に乗った。
普段自分で予約する時は通路側を選ぶ。(もし長時間のフライトが窓側だったとしたら、通路側に座る他��の存在が私の脅迫概念となる。私が席を立ちたいタイミングで、通路側に座る他人が、寝ていたり、食事中あるいは映画鑑賞中、会話中であったりする場合、声を掛けるタイミングを伺うストレスが耐えられない。それを想像するだけでストレスである。)
とかいいながら、飛行機に乗っている間、起きている時間はほとんどない。(13時間のフライト、お手洗いにも行かず機内食の提供にも気付かぬまま、離陸する前から眠りにつき、そのまま目的地に到着することもある。1度もモニターも付けないので、驚かれることが多い。きっと同じ座席列になった窓側の人の脅迫概念に逆に私がなっているのだろう。一生起きる気配のない通路側の私を起こさねばならぬのだから。)
数年ぶりのフライトは、国内窓側席の短時間フライトだった。(仕事でチケットを取っていただいていたので、窓側だった。)
初めてしっかり窓から見る景色に眠ることも忘れ夢中になり、(私は音楽を聴きながら電車の窓から流れる景色を見るのが大好き。新幹線も同様。初めて乗る電車は景色を見ることに必死になり、あっという間に目的地。短時間の電車乗車は窓側でも問題無い。ただラッシュアワーの4人席の窓側はまたストレス。他の3人が寝ていたりして、膝と膝の隙間がほとんど無い時、その僅かな隙間を乗り越えて降りねばならないというプレッシャーに、降りる一つ前の駅から既に気持ちが落ち着かなくなる。)
また話は窓側飛行機に戻るのだけれど、この日は運良くマジックアワーのフライトだった。刻々と変わる空の色とパノラマは、2022年最も印象に残った景色となった。深く、深く、感動した。
広い、広い、空から、永遠に続くように見える大地には無数の生活の光。その数だけ、人々の生活がある。見知らぬ誰かの、それぞれの暮らし。
飛行機は少しずつ、少しずつ、地面に近付き、その度にGoogleマップで見るような地形から(ただそこには地図のように県境の線も隔たりもない)、だんだんと山々が輪郭をおび、車が蟻の行列のように走り、街の形が現れ、ビルや住宅に灯りが灯り、視界はどんどん狭まっていく。
そうやって、私の生きる世界はとても、とても、狭い。
だって、35歳を目前に、飛行機の窓側座席の素晴らしさに気付くのだから。(これまでは、飛行機は通路側の席が正義だと思っていた。この日のフライトのBGMは、宇多田ヒカルさんの「PLAY A LOVE SONG」。)
知らないことばかりだ、自分のことなんて。
「自分らしく」という言葉が苦手だ。
「ありのままで」と言われると、途端に分からなくなる。あなたが思う私の私らしさ、ありのまま、とは。
(アナ雪の主題歌を聞くと、典型的な長女の強がりに聞こえてしまうひねくれ長女は私です。「ありのままの自分になるの」「少しも寒くないわ」というフレーズが、自分自身に言い聞かせているように聞こてえてくる。ありのままより、努力をして自分のことを好きになれる方が私は良い。)
ほんと不思議なもので、私は、めちゃくちゃ根暗だよね、と言われれば、根っからの根明だよね、と言われることもあり、
葵ってほんとミーハーだよな、と言わるその一方でめちゃくちゃオタク気質だもんね、と言われる。
(言われる度、不思議な気持ちになるけれど、どれもきっと間違っていないのだろうなあと思う。そんな長年の不思議が、平野啓一郎氏の著書「私とは何か「個人」から「分人」へ」で腑に落ちた。おすすめ。)
ただ一つ訂正しておきたいのは、私は断じてオタク気質とは言えない。(それはほんと、オタクの皆さんに申し訳が立たない。)
好きなものはいろいろある。ただ私は残念ながら、その対象に絶え間なくそして惜しみなく与える愛情や情熱を一切持ち合わせてはいない。
私は、知ったかぶりが異常に上手いのだ。
仕事柄もあり、ある程度どのジャンルにも対応できる知識や情報を収集し、その人に合わせた、その場に合わせた会話をすることができると思う。(根が人見知りなのが功を成していると思う、会話に詰まりたく無いが故どんな人とでも会話が出来るようにと生きて来た結果。事前に会う人がわかれば、ある程度その方のことを調べて会話のネタをいくつか用意しておいたりする。)
なので、例えば、見たことのないテレビ番組やドラマの話もまあまあ問題無くできてしまう。オタク風に聞こえるように、どのジャンルの話でもちょっとそれっぽいワードを何個か用意しておけば良い。
広く、人よりはちょっとだけ深く、だけどオタクの皆さんの深海には到底及ばない、そんなところをふわふわと漂っているくらげ。(なので、「葵は、アイドルオタクなんですよ」と初めての方に紹介されたりなんてすると、なんとも居た堪れず申し訳ない気持ちになる。)
35歳の目標を聞かれ、「ここ数年なんだかブレているので、ブレないこと。」と答えると、「もはや少しブレた方がいいかもしれない。」と笑われた。
誰にも触れ���れない、全くブレない芯がある、と。そう言われて私も笑った。
ね?ほら、またやっぱり自分で自分がわかってなどいないのだから、自分らしさなんて不確かなものはない。
だから、今日もベッドの中で、そっと目を閉じ、両手を胸に、祈ります。
どうか2023年35歳、また奇跡が訪れ、いつでも自分らしくいられますように。

2022年、1番丁寧に作った朝ごはん。とか言いながら、失敗している目玉焼き、いただきもののホームメイドサワーブレッドが美味し過ぎて、生ハムとルッコラのサンドイッチとラフランスとハチミツサワークリームにブラックペッパーのサンドイッチ。年末にラフランスを消費したくて、ラフランスだらけ。

2022年、窓側フライト。

非常に嬉しそうですが、人様のお家のわんちゃんです。

またそして金髪。

沖縄家族旅。

ブレてるくらいがちょうどいい。




家、季節の花たち。

念願の購入。

スピッツ。

2022年、1番お気に入りだった服。
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1、"人"が語る、もっとも強い"馬" 武 豊(たけ ゆたか)という騎手が居る。 別業界である羽生善治やイチローと並べられるほどの"天才"と称され、 日本競走馬界で数少ない有名な"人間"であり、数々の歴代最多記録を残している。 そんな偉人がウマ娘プロモーターになって、あんなCMに出るなんて2000m芝不可避なわけだが、話がそれるのでここまでにしよう。 武豊は2018年現在も現役であり、数々の名馬と共にレースを制している。 親子三代で天皇賞制覇し「絶対の強さで人を退屈させた」と言わしめた"メジロマックイーン" 怪物達と共に第二次競馬ブーム期を盛り上げた平成三強の一頭、"スーパークリーク" 武豊としては二度しか乗らなかったものの、騎手としては伝説的ラストランを走り切らせ、 「神は居る」と思わせた、アイドルホースである芦毛の怪物"オグリキャップ" そんな武豊が騎乗した馬達の中でも、一際異様な強さを見せた馬が居る。 "ディープインパクト" 無敗のまま「皐月賞」「東京優駿(日本ダービー)」「菊花賞」を制して三冠馬となり、 「一着至上主義」「奇跡に最も近い馬」と形容されるほど勝ち続け、恐ろしい戦績を残した名馬である。 以下の画像はそのディープインパクトが残した成績である。 世間はこの馬に注目し、社会現象だと言われるまで取材は相次いだ。 馬は喋れないので当然メディアは武豊にマイクを向ける。 様々なインタビューをされていく中、こんな質問が武豊に飛び込んだ。 「もし武豊さんが『武豊&ディープインパクト』と対戦できるとしたら、これまで数多く乗ってきた優駿の中で、打倒ディープとしてどの騎乗馬を選びますか?」 その質問に武豊は一頭の馬の名をあげた。 その馬の名はサイレンススズカ。 日本競馬史上、もっとも人々に夢を見せた馬である。 2、上村洋行とサイレンススズカ サイレンススズカは最初、武豊ではなく上村洋行という騎手が乗っていた。 上村騎手を乗せたサイレンススズカのデビュー戦は堂々の1着でゴール。 だが次の弥生賞ではレース開始前、柔軟な馬体でゲートをくぐってしまう。 ※ゲートをくぐっちゃうサイレンススズカ サイレンススズカは係員に押さえつけられ、なんとか再びゲートに入る。すると今度はスタートで酷い出遅れをしてしまう。 それでも驚異的な脚力で8着にはなったが、当時の関係者達はこれらの気性面をなんとかしたかった。 「走りたいという気持ちが先走り過ぎる」 「スイッチが入ると暴走するぐらい走りたがる」 サイレンススズカは確かに速い。 だがその身に任せたままだとレース終盤スタミナが尽きて、勝つことが難しい。 次のレースで上村はサイレンススズカを必死に抑えつけて走らせようとしたが、我慢しきれないサイレンススズカは先頭を走り続け逃げ切り1着。 東京優駿(日本ダービー)を勝たせたかった関係者たちは不安だった。 2000mならいいだろう��だが勝ちたいレースの距離は2400mなのだ。 ※Sがスタート地点。Gがゴール地点。 ペース配分ができなければ、速さをコントロールしなければ、絶対に勝てない。 もはや上村は「マイル路線(1600m)で行ったほうがいいのでは」とも考えていたという。 しかし次の2200mでなんとサイレンススズカは1着。しかも騎手の上村が上手くサイレンススズカを抑えて、理想的な作戦勝ちだった。 「ダービーもいくらか抑えれば、勝てるだろう」 だが日本ダービーで、サイレンススズカは勝てなかった。なんと9着。 「もう小細工はやめて、逃げて競馬させよう」 関係者達は方針を転換する。 続く神戸新聞杯でサイレンススズカはレースを先行で走��た。 走り続け、断然トップ。これは勝ったと見る者は思った。 サイレンススズカはペースを変えず先頭を走る。あとは、ただ走るだけ。 しかし後方からマチカネフクキタルがグングンとスピードをあげ追い抜こうとしていた。 上村騎手が気づいたころには、サイレンススズカは2着になっていた。 振り返れば、八百長さえ疑われてもおかしくないほどの、酷い抜かれ方であった。 この結果を受け、上村騎手は降板させられてしまう。 上村氏は後悔した。自らの失態を泣き、悔しがった。 そしてサイレンススズカの行く末を心配した。 「恋人以上のものが離れて行ってしまった感覚でした」と本人のインタビューも残っている。 「将来を見据えて、なるべく楽に勝たせてあげたかった」「苦しまずに走らせたかった」「勝ちをちゃんと見据えられてなかった」 当時を振り返ったブログ記事では 「出来ればここを何とか楽に勝たせてあげて、 天皇賞に向けて少しでも身体や精神面にダメージを残さない様にしてあげたい。 そしてより万全の状態で天皇賞に向かわせてあげたい」とも残している。 サイレンススズカに鞍上した上村氏は、誰よりもサイレンススズカを愛し、守りたがったがゆえに、本番レースで勝ち切る「勝負師」になりきれなかった。 競馬は勝負の世界。馬は勝たなければいけない。負けて許される馬など、皆認めなかった。 生涯成績113戦0勝のハルウララがメディアに持ち上げられ、大衆から愛された時も、競馬関係者達の声はあまり暖かくなかった。 武豊もその一人だ。 「強い馬が、強い勝ち方をすることに、競馬の真の面白さがある」 そんな勝つことに拘る騎手、武豊がサイレンススズカと出会うことになる。 3、大逃げの始まり 「サイレンススズカに乗りたい」 そう申し出たのは、なんと武豊からだった。 乗る馬の依頼が来るのを待つのが本来騎手側の立場なのだが、 その慣習を崩した直談判である。 そして香港国際カップでサイレンススズカと武豊騎手は初めてコンビを組む。 ちぐはぐな日程や、馬房内で左回りに旋回する癖を矯正しようとした結果ストレスをため込んでしまうなど悪条件が重なり、レース終盤に他馬に捲られて結果は5着。 「最初から全力で走り過ぎちゃうというか、サラブレッドの本質の塊のような馬だった」 そんな評価をサイレンススズカに下した武豊は大胆な騎乗を思いつく。 「抑えようと思ってもきかない。だったら、前半から好きなように走らせた方がいいと思った。この馬は走っているときがいちばん楽しそうでしたからね。それでも持つんじゃないかな、と」 いかに逃げて力を配分するか。 大逃げという戦法は古くからあるにはあるものの、「勝つための戦術」としては博打感が拭えないシロモノである。 大逃げでの名馬と言えば、どれも個性的で、数は多くない。 破滅的大逃げを幾度となく繰り返し、最後の直線でスタミナを尽かし大失速して馬群へと沈んでいき最下位。そんな滑稽な姿を何度も魅せ、競馬ファン達を楽しませた"ツインターボ" あまりのハイペースでトウカイテイオーらのレース展開を乱し下位に追いやった、大逃げコンビとして有名な"メジロパーマー"と"ダイタクヘリオス" 世界レコードを叩き出したこともある"セイウンスカイ"なども居るに居るが、現在でも常用される戦術とは言い難い。 次走のバレンタインステークスでサイレンススズカはその「大逃げ」をする。 レース序盤の第三コーナー前でサイレンススズカはここまで逃げ離した。 ※左の赤丸にサイレンススズカ。右の赤丸が他の馬達である。 大逃げは最初からハイペースで走るので、最後の直線ではスタミナがあまり残らない。 なので後方馬との差は縮まっていく……はずなのだが、 サイレンススズカは加速する。加速し続け、後方の馬をさらに逃げ離す。 「逃げて差す」 次のレースも大逃げで勝ち、そしてその次のレースも大逃げで勝ち…… 1998年金鯱賞。またもやサイレンススズカ1着。2着との差なんと11馬身。 平地の重賞競走では6例目の大差勝ちであり、これ以降10馬身以上離れての重賞大差勝ちレースは現れていない。 レース後、アメリカから「サイレンススズカを売ってくれ!」とオファーが本当に来てしまうぐらいの圧勝だった。 「あんな体験、普通はできない。(後ろからくる)足音をまったく聞かないままゴールしちゃったんですから!」と武豊は当時の金鯱賞を振り返る。 この金鯱賞のレースは印象に残るどころか、サイレンススズカが伝説と呼ばれるゆえんのレースとなり、そしてその始まりだった。 次の出るのはG1宝塚記念。しかしここで問題が発生した。 サイレンススズカが宝塚記念に出走するのは急遽決まったことであり、 武豊は同レースに出走するエアグルーヴに乗ることを先に決めていたため、鞍上がいなかったのだ。 そこでなんとか南井克巳氏が乗ることが決定し、武豊とサイレンススズカが敵として戦うことになる。 宝塚記念は芝2200m。 南井騎手は少し抑え気味で慎重に前へと走らせる。最後の直線でもギリギリまで引き付けてから鞭を入れ、そのまま加速しサイレンススズカ1着。 武豊鞍上のエアグルーヴは3着だった。 大差ではないものの、サイレンススズカにとって念願のG1レース初制覇でもあった。 4、最速の証明 毎日王冠はG2レースであり、G1より格が下である。 このレースを勝てば、サイレンススズカがもっとも得意なG1レース条件である「芝2000mの左回り」天皇賞(秋)の出場権を得られる。 しかし当初は調教不足などを理由に、サイレンススズカは毎日王冠への出走を見合わせる検討がされていた。 だがこのレースに二頭の馬が、出走を高々に宣言する。 その馬の名は"グラスワンダー" 「怪物」と騒がれ「JRA史上最強の2歳馬」と評された馬が、故障後の復帰戦にこのレースに出走を表明。 そして"エルコンドルパサー" 年度代表馬を得るために、ジャパンカップで勝つために前哨戦としてこのレースを選択。 両馬共に未だに無敗の外国産馬である。 サイレンススズカ陣営も「これで出走を回避したら『あの二頭に負けるのがわかって尻尾を巻いて逃げた』と言われてしまう」と懸念し始め、この対決を受けることを決めた。 競馬ファン達はこの三強馬による夢の決戦を見逃すわけにはいかなかった。 そして当時のルールでは天皇賞(秋)で外国産馬は出走できない。毎日王冠はこの三強馬が勝負できる数少ない機会なのだ。 こうしてG2という格が下のレースにもかかわらず会場には13万人の大観衆が詰めかけた。 レースが始まり、サイレンススズカは逃げ始める。 グラスワンダーはサイレンススズカの隙を付こうと策を弄し、エルコンドルパサーはそのまま真っ向勝負で立ち向かった。 しかし、サイレンススズカは最後の直線で、いつもの通りに再び加速。 差は縮まらない。二馬身差叶わず、サイレンススズカは1着。 不敗神話を一度のレースで二頭まとめて切ったのである。 「影さえも踏めなかった」 エルコンドルパサーに鞍上した蛯名騎手はそうコメントを残している。 サイレンススズカは6連勝。名実ともに当時の最強馬となった。 サイレンススズカ陣営は「天皇賞(秋)を制したらジャパンカップに挑戦し、そのあとはアメリカへ遠征しよう」とウキウキを隠せなかった。 5、天皇賞(秋)の前評判 サイレンススズカが狙うG1レース、天皇賞(秋) 対抗できるのは前年この天皇賞を制したエアグルーヴぐらいだろうと考えられていたが、 鞍上の関係も考えられ、エアグルーヴは別レースを狙い天皇賞を回避することになる。 (※サイコミ掲載の漫画「STARTING GATE! -ウマ娘プリティーダービー 【第15レース-②】特別な1日 ♯01」において、エアグルーヴが「サイレンススズカとは宝塚記念や天皇賞で戦いたい」と言っていたのは、これに由来する) そしてサイレンススズカがもっとも有利なレースにもはや挑む気力がある馬も無く、多くの陣営が競走を回避。 するともはやサイレンススズカに対抗できる馬はいなかった。 宝塚記念でサイレンススズカに11着で負けたもののそれ以外は戦績の良いメジロブライトが二番人気。 同じく宝塚記念で6着で去年の有馬記念を制覇したシルクジャスティスが三番人気。 またまた宝塚記念の出走馬であり、もっともサイレンススズカに近かった2着ではあったが、最後の1着レースがG3でもない「阿寒湖特別」というステイゴールドが四番人気という有様であった。サイレンススズカはもちろん一番人気。オッズは1.2である。 その馬体や体調面は武豊騎手、担当厩務員ともに口をそろえて「一番具合が良い」と言い、 もはやサイレンススズカが負ける要素を探すのは不可能だった。 誰もがサイレンススズカが勝つことを疑わなかった。 だがひとつ、たったひとつだけ不安要素があった。 天皇賞(秋)には都市伝説が、ジンクスが存在したのだ。 1987年にニッポーテイオーが1番人気で勝った後、 天皇賞(秋)にて1番人気の馬は、一度として勝てなかったのである。 3度も1番人気に支持されながら一度も勝てなかった"オグリキャップ" 1着でゴールしたと思いきや進路妨害により18着へと降着し、天国から地獄へ突き落された"メジロマックイーン" 大逃げコンビのメジロパーマーとダイタクヘリオスにレースペースを乱された"トウカイテイオー" 春にメジロマックイーンの三連覇を阻止したものの、スランプに陥りそのまま敗れた"ライスシャワー" パドックで違和感を感じながらもレースに入りし、5着。レース後ケガが発覚し、競走馬を���退した"ビワハヤヒデ" 故障の復帰から立ち直れずにレースに挑み、覇気なく敗れた三冠馬の"ナリタブライアン" スタートを出遅れ、その後の展開もミスしてしまい、鞍上も「最高に下手に乗った」と後悔した"サクラローレル" そのサクラロールを倒して連覇を狙おうとしたが、大逃げ馬(サイレンススズカ)を早めに捕まえようとしてしまい、最後はエアグルーヴにクビ差で競り負けた"バブルガムフェロー" 府中には、魔物が住んでいる。そう言われても仕方がなかった。 1998年。 第118回天皇賞 11月1日1枠1番で、1番人気はサイレンススズカだった。 6、"沈黙の日曜日"~Sunday Silence~ レース開始。サイレンススズカは抜群のスタートで快調に飛ばし、いつもの大逃げ。 サイレントハンターも大逃げ戦法を取るが、サイレンススズカとの差は10馬身差。 最後方ローゼンカバリーとは6秒のタイム差が離れ、 全ての馬を映さなければならない中継カメラはめいっぱいズームアウトし、馬が小さすぎて見えないほどになった。 ※左の赤丸がサイレンススズカ。右の赤丸が最後方の馬。 「息が入り始めて、いいぞ、いいぞ、と。本当にいい感じだった」 と武豊はレースを振り返る。 大欅を通り過ぎ、サイレンススズカは一度ペースダウンする。 ここで一息入れて、再加速しぶっちぎる気だろう。いつものサイレンススズカだ。 しかし、そのまま失速する。 サイレンススズカは左前足を宙に浮かせ、三本脚で立ち止まっていた。 どよめく会場、そして叫ぶ実況。 「サイレンススズカ!! サイレンススズカに故障発生です!!!」 歩く馬足で、コースの大外によれるサイレンススズカ。 それを抜くサイレントハンター、オフサイドトラップ、ステイゴールド、残りの馬たち…… 「なんということだ!4コーナーを迎えることなく、レースを終えた武豊!! 沈黙の日曜日!!」 そのまま泣き叫ぶ会場の歓声を聞きながら、レースを続ける馬達。 サイレンススズカは故障しながらも、鞍上武豊を落馬させず、馬群を避け安全な場所に運んでいった。 この事を武豊は「サイレンススズカが僕を助けてくれた」と語った。 ケガの内容は結果は左前脚の手根骨粉砕骨折。 直ちに予後不良の診断が出され、安楽死処分が下された。 1998年 11月1日 サイレンススズカ 永眠 結局この天皇賞(秋)はステイゴールドとオフサイドトラップが競り合いながら、決着がつく。 1着はオフサイドトラップ。史上初の7歳での天皇賞優勝。 「不治の病」と言われている屈腱炎を3度克服した高齢馬が念願であるG1レースを制覇し、ひとつのドラマを作った。 だがその偉業は、残念ながら無下に扱われてしまう。 1998年の天皇賞(秋)は、サイレンススズカが、最速の馬が止まってしまった悲劇のレースとして刻まれた。 粉砕骨折の詳しい原因は不明である。 武豊は「原因は分からないのではなく、無いんだ」とレース後マスコミに答えた。 レース後の武豊の落ち込みは相当なものだった。 同レースに出ていたテイエムオオアラシの鞍上である福永騎手は 「あんなに落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している。 その夜、武豊は知り合いとワインを飲み明かした。 「泥酔したの、あんときが生まれて初めてだったんじゃないかな。 夢であって欲しいな、って」 サイレンススズカの死、それは夢を見た競馬ファン達にとって、最大のトラウマになった。 サイレンススズカはまさに夢のように走る馬だった。 1600mのスピードで2000mを制せる、最速の中距離馬だった。 競馬に絶対はない。だからファンは"たられば"を夢想する。 もし、サイレンススズカがケガをしていなかったら、どうなっていただろうか。 ジャパンカップの2400mも軽々と走っただろうか。海外に遠征しても、並み居る強敵達を圧倒しただろうか。 種牡馬になったら、どんな子供が生まれただろうか。 そんな夢想をしてしまうのは競馬ファンだけではなかった。 武豊である。 自ら鞍上を名乗り出て、サイレンススズカの未来に期待し、夢を叶えようとした武豊は、 あろうことかその夢が崩れ落ちる瞬間の馬に、跨っていた。 ジョッキーにとって、一番嫌な、最悪の瞬間。 その瞬間のサイレンススズカに武豊は乗っていたのだ。 2007年になるまで武豊はサイレンススズカに深く言及することはなく、 2013年のインタビューでも、事故の話になると途端に拒絶し、笑顔を引っ込めた。 サイレンススズカの事故、その絶望の感触は、武豊の心の中へと確かに刻まれている。 ウマ娘 プリティーダービー第1Rにて終盤、トレーナーは問いかける。 「日本一のウマ娘とは何か?」 それはG1で勝つことだろうか。 日本競馬界の象徴であり最大級の目標である東京優駿、日本ダービーで勝つことだろうか。 ファン投票で出場馬が決まり、1年を締めくくる大レース。数々の名勝負が繰り広げられた有馬記念で勝つことだろうか。 この問いに擬人化されたサイレンススズカはこう答えた。 「夢……見ている人に夢を与えられるような、そんなウマ娘」 このセリフを聞いてしまった競馬ファン達の心境は如何ほどのものだったろうか。 サイレンススズカ。 日本競馬史上、もっとも人々に夢を見せてしまった馬である。 7、それでも馬達は走り続ける。 サイレンススズカと戦い敗れたエルコンドルパサーは1998年のジャパンカップを制し、海外への遠征を決めた。 「国内に敵はいない」とのコメントは事実その通りであった。 そしてその海外遠征でエルコンドルパサーは大活躍する。 ヨーロッパ最大の競走の一つ、凱旋門賞では惜しくも2着だったが、現地メディアからは「チャンピオンは二頭居た」とその健闘を称えられるほどだった。 2018年現在、国際的に競走馬のレーティング指数を決める「インターナショナル・クラシフィケーション(旧称)」や競走馬の能力を数値化する「タイムフォーム・レーティング」など、どちらもエルコンドルパサーは日本調教馬として史上最高の数値を保持している。 引退後に現れたディープインパクト等の名馬達、それらを差し置いての高評価を未だにエルコンドルパサーは維持したままなのだ。 そのエルコンドルパサーを相手に、国内レースにて唯一勝ち星をあげていたサイレンススズカの評価も未だに止まることがない。 翌年、1999年の天皇賞(秋)レース。これを武豊は再び走り見事1着でゴールインを果たす。 しかもレース記録を塗り替えるレコード勝ちだった。 去年のリベンジを果たした武豊はレース後、 「ゴールの瞬間、まるでサイレンススズカが後押しをしてくれたようでした」と語っている。 サイレンススズカが後押し、天皇賞(秋)をレコード記録で1着を取った馬、 その馬の名はスペシャルウィーク アニメ「ウマ娘 プリティーダービー」の主人公である。 さらなる余談ではあるが、天皇賞(秋)にかかった一番人気のジンクス、呪いは 2000年にテイエムオペラオーが払拭する。 その後に登場する名馬達も、天皇賞(秋)において1番人気で1着を取れるようになっていった。 名馬達を襲った忌まわしき呪いは完全に掻き消え、今は日本競馬史の一つとして、ただ記されているのみである。
https://ch.nicovideo.jp/yumemura/blomaga/ar996682
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劇場アニメ、AKIRAをニューエイジ思想と重ねる大胆な考察

バイクのテールランプの尾を引く表現が印象的な作品。背景の緻密な描きこみがCGでは出せない存在感を放っている。人物の表情、特に口まわりの影の描きこみにこだわりを感じる。魅力的な近未来の世界観、と同時に昭和的なノスタルジーもある。すごく引き込まれる作品だ。 1988年公開のアニメ映画、33年前のアニメである。「大友克洋全集」発売記念で無料公開されていたので見た。オタクの教養として10年くらい前にも見たことがあるのだが、当時は「よくわからない」という印象を持っただけだったと思う。テツオの痛みに共感するくらいのことはあったが、感想を書いたわけでもないし、人に薦めたこともない。しかし今回見直してみて違う印象を持った。この変化は自分の経験と知識が増えていたからだろう。AKIRAの世界に暮らす人々が何を感じているのか。"AKIRAの力"が何なのか、ぼくはそれをよく知っているように思えた。
作中のネオ東京が辿った歴史、学生運動、渦巻く欲望、繁華街の吹き溜まりに象徴される虚しさ、閉塞感。何かをしなければならないが何をしたらいいのか分からない若者たちの焦燥、超常的な存在によってブレイクスルーがもたらされることを期待する人々。そして実際に社会を変えようとしている人々。
この世界観は完全につじつまが会っているように思える。理由は簡単で、現実の歴史と韻を踏んでいるからだろう。一回目にAKIRAを見た時には、ぼくは60年代安保闘争の話を知らなかった。ヒッピー文化を知らなかった。反戦とドラッグとロックンロールに象徴される60年代カウンターカルチャーと、その思想的バックボーンになっていたニューエイジカルチャーを知らなかった。オウム真理教の事件を知らなかった。
ヘレナ・ブラヴァツキー(1831–1891)に端を発するニューエイジ思想(後のスピリチュアルの思想)はユダヤ=キリスト教的価値観の否定と東洋思想に対する興味からはじまっている。西洋の価値観では自分の中に神はいないが、東洋の考えでは自分の中に神がいる。西洋の宗教では奇跡を起こす者は聖人で、それは例えば天啓を受けたモーセやキリストなのだが、東洋の考え方では人間ならば誰しもが天啓を受ける能力を持つ。例えば苦行により、例えば断食により、座禅により神を体験することができる。インド哲学ではアートマンとブラフマンは一体なのだ。神に祈る信仰ではなく、神を体験する信仰。これを神秘主義という。
なぜこういう思想が出てきたかというと、教会が良いものを決めるという従来の考え方が、自由主義という考え方の広まりつつあった時代に合わなくなっていたからだ。わたしが良いと思うものは良い。教会に何を言われようと人に迷惑をかけなければ良い。おれの中では教会イチオシのルーベンス、「キリスト降架」より北斎の「蛸と海女」の方が良い。それが自由主義だがキリスト教的価値観が失われていく社会に戸惑う者も少なくなかった。
ブラヴァツキーが活躍していたのが1800年代後半。ニーチェは1882年に「神は死んだ」と宣言している。キリスト教の魔法の解けてしまった世界で、人々は生きる目的を探していた。「奇跡も、魔法も、あるんだよ」(美樹さやか)。人々はそんな言葉が欲しかったのだ。生きることはつらいこともあるけど、その試練には意味があるんだよ。そんな言葉が欲しかったのだ。
AKIRAの作中でケイは「AKIRAの力は誰の中にも存在する」と言っている。やはりこれは神秘主義の考え方である。そしてこの台詞のうらを返せば、人は誰でも潜在能力として"AKIRAの力"をもっており、それを使いこなせていないということだろう。この考え方は1960年代から始まり、のちにニューエイジカルチャーと結びついたヒューマンポテンシャル運動(人間性回復運動)を彷彿とさせる。
アメリカ西海岸からはじまったヒューマンポテンシャル運動は、1962年に鈴木俊隆の創設したサンフランシスコ禅センターとビッグサーのエサレン協会が中心となった。彼らは東洋思想と芸術に強い興味を持ち、ヨガや禅、芸術を通して人間の潜在能力を引き出すことを目指した。彼らは心理学者アブラハム・マズローの人間性心理学やトランスパーソナル心理学に強い興味を持ち、それを科学的根拠にしていた。いずれにせよこの時代、"AKIRAの力"を求める若者がたくさんいたのだ。
これはアメリカの話にとどまらない。あまり意識している人はいないかもしれないがオウム真理教や創価学会、幸福の科学など、この時代の日本の新宗教はニューエイジ思想の影響を受けている。あるいは影響を与え合っている。それが証拠にオウム真理教から分離独立した光の輪のホームページに行くと人間性心理学やトランスパーソナル心理学に関する資料を見ることができる。ニューエイジ思想についてもっとも詳細に、体系的に理解してい���組織が光の輪かもしれないとさえ思える。
ニューエイジ思想は言葉からも分かるように終末思想を含む。ひとつの時代が終わるというのだが、伝統的な終末思想に比べるとニューエイジはポジティブだった。エイジ・オブ・アクエリアス。うお座の時代が終わり、これからみずがめ座の時代に入る。みずがめ座の時代に人間は霊的進化(アセンション)を遂げるのだ。「オカルティック・ナイン」を見たアニオタならば「アセンション」と言うワードをさんざん聞いた記憶があると思う。あれがだいたい霊的進化論だ(そうか?)。
作中、大佐らがAKIRAの保管されている地下施設に向かうとき、「彼らの能力は人類の新しい進化の形態で、やがては我々にもコントロールできるのでははないかと…‥‥」という台詞がある。若い科学者の言葉を博士が代弁した台詞だが、アセンション思想を感じる。
近代神智学の流れをくむスピリチュアルの世界観では、人間はかつて精神文明の時代に暮らしていたが、精神的退廃を経験したために精神文明を忘れてしまったのだという考え方をする。ニューエイジ思想に大きな影響を与えた預言者エドガー・ケイシー(1877-1945)は自分の前世はアトランティス人であるとし、精神文明の時代を古代アトランティスと関連付けている。我々は精神文明を思い出す時期に来ている。
バカげた主張のように聞こえるかもしれなが、ニューエイジ世代は第二次世界大戦直後を生きた世代だ。科学の破壊的側面を強烈に記憶にとどめていた世代だ。古代の精神文明一辺倒の時代は終末を迎え、次の科学文明の時代は我々が経験したように第二次大戦で破壊された。両方を経験した人間は精神と科学の「調和ある収斂(ハーモニック・コンバージェンス)」を迎え、水瓶座の時代(エイジ・オブ・アクエリアス)へとアセンション(霊的進化)するのだ。こう考えると希望を感じるし、自分たちの犯した過ち、経験した試練は無駄ではなかったと納得させることができる。
作中で最初にアセンションを果たしたのはテツオである。少なくとも赤いマントを羽織っている間はそうだった。テツオを見て新しい時代が来たと実感している人々がミヤコ教団の信者たちだ(アニメでは教団名は出てこないと思う)。マントを羽織ったテツオがオリンピック建設現場に向かって歩いていくと、その後ろを信者たちがついていく。テツオもテツオで後ろからついてくる彼らにまんざらでもないような顔をしている。テツオは何しろちやほやされたいのだから。直後にそのことを端的に表しているカットが挟まれる。機動隊がテツオに向かって発砲すると、その流れ弾がテツオの後ろを歩く信者に当たってしまう。するとテツオは眉をしかめた。既に何人も殺しているテツオが、後ろからついてくるだけの信者の死に心を動かされているのだ。テツオはちやほやされたいのだ。
前半のシーンに戻るが、病院から抜け出し、カネダに再会したテツオの台詞からはテツオのコンプレックスが読み取れる。
テツオ「うるさい。おれに命令すんな」
カネダ「心配してたんだぞ」
テツオ「どうしていつも助けにくるんだ。おれ一人だって���れたんだ!」
カネダになりたいが自分はカネダになれない。これがテツオのコンプレックスだ。ぼくはこのテツオの心の痛みを知っている。本当は人は何者かになる必要なんてない。人間の長い歴史に於いて、何者かになることを要求される社会が形成されたことはほとんど無かっただろうとおもう。
親の仕事を継がされて、それでも文句を言いながらやるべきことをこなしているというような時代ならば、何者かになることにこんなに悩むことは無かっただろう。理不尽な苦痛を経験することのある時代かもしれないが、理不尽な結果ならば自分の無能を呪わずに済む。インドのカースト制度はきっと多くの人にとって幸せだ。一部の天才と、一番虐げられた少数が不幸なだけだろう。職業選択の自由だなんて言ったって、どこでもいいからと内定を欲しがっている人ばかりだ。もしかすると自由主義は圧倒的多数を占める普通の人からカースト制という言い訳を取り上げてしまったのではないだろうかと思うのだ。
自由主義が幅を利かせるようになると、人々はなぜか閉塞感を感じるのだ。1927年のチャールズ・リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行の成功に沸くアメリカの民衆の心境を、スコット・フィッツジェラルドが代弁している。1929年のアメリカの株価の大暴落に端を発した世界恐慌の2年前である。バブル絶頂のアメリカである。
何か光り輝く異様なものが空をよぎった。 同世代の人々とは何も共通点も持たないかに見えた、一人のミネソタ出身の若者が、英雄的行為を成し遂げた。 しばらくのあいだ人びとは、カントリークラブで、もぐり酒場で、グラスをしたに置き、最良の夢に思いをはせた。 「そうか、空を飛べば抜け出せたのか」 われわれの定まることをしらない血は、果てしない大空にならフロンティアを見つけられたかもしれなかったのだ。
好景気に沸くアメリカ。誰もが共有していたであろう万能感。その裏で人々はなぜか閉塞感を感じていたのだ。この閉塞感から生まれてくるのがAKIRA信仰なのではないだろうか。まだ気づいていない自分の能力を信じて自己啓発セミナーに通う人々。情報商材に興味を持つ人々。言霊信仰、断捨離信仰、自然食信仰に見られるような、ひとつ習慣を変えるだけで人生が劇的に上向くという考え方。自分探しのためのインド。これら全てがAKIRA信仰に象徴されているように思える。
AKIRAの原作者がそれを狙ったかどうかはしらないし、その時代を知る人々がみんなニューエイジ思想に触れたわけではないと思う。それでも同時代の人々はニューエイジをはぐくんだ時代の空気を十分に理解していたのではないだろうか。同時代を生きた人でなくても生きにくさを感じていて心に"AKIRAの力"を期待している人は少なくないのではないだろうか。
そしてAKIRAの力は今はまだ人間にコントロールできないものだと作品は結んでいる。
「でも、いつかはわたしたちにも」
「もう始まっているからね」
「ぼくはテツオ」
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KKV Neighborhood #1 - 2020.05.05
KKV Neighbourhood『Talkin bout MoshPit & DanceFloor & Living』開設にあたって
キリキリヴィラ がスタートして5年が経ちました。「自分たちの納得できる形でレーベル運営をしたい」というアイデアを少しづつ実現しながらリリースを重ね、気がつけば品番が100を超え活動の幅も広がってきました。好きな音楽をフェアなスタイルでリリースしたいという、このわがままで実験的な試みが5年も続いたことについて、まずキリキリヴィラからのリリースを受け入れてくれたバンド、ミュージシャンに感謝したいと思います。それと関わってくれたデザイナー、カメラマン、映像ディレクター、ライター、イベンターの方々、そしてなによりも僕らのリリースを聴き、ライブに足を運んでくれたみなさんに感謝したいと思います、ありがとうございます。 この5年のあいだに音楽を取り巻く状況も大きく変わってきました。音楽を伝える媒体はデジタルの比重が上がり、同時にアナログの大切さも大きくなっています。2015年に考えていた「音楽の話が通じる人たち」による小さなコミュニティーのようなレーベルというイメージは変わらず持っていますが、アーティストとの関わり方もリリースの形態も様々なヴァリエーションが生まれています。同時に僕たちの役割も変化しつつあります。いつか安孫子が言っていた「一緒に飲んで話したい人の音源をリリースしたい」という言葉はそのままに、バンドの成長や変化に応じた役割も担いたいと考えるようになりました。それは僕が90年代にイメージしていたインディー・レーベルのありかたを超えて、エージェントやマネージメントでもあり、PRカンパニーでも版権管理会社でもあるかもしれません。どんなかたちであれ、それが自分たちの気持ちに自然に従うのであればそれでいいと思います。そこで日毎に起きている出来事��新しい感覚を受け止め、僕たちがなにを感じ、なにを考えているのか、その時に浮かんだアイデアをすぐに伝えるための場所を作ることにしました。 実はこの3月からサイトのMAGAZINEのコーナーのリニューアルして、すごい量の情報が飛び交う日々のSNSの短いフレーズや映像ではなく、音楽を中心に漫画や映画を語り、自分が時々に感じたこと、社会で出会った疑問などの文章や記事を掲載できる場所にしたいと考え準備をしていました。基本のマインドは日々の雑感を一歩踏み込んで考えたことであり、友達同士でする音楽の話であり、友人に勧めたい音楽や本の話でいいと考えていました。世の中にミュージック・レビューは多いけれど、結局信頼できるのは友達からの情報だし、仲間には自分の好きな音楽を聴いてもらいたい、そんなシンプルな気持ちでした。が、この一ヶ月の新型コロナ感染症の広がりとそれに対応する日々の社会を目の当たりにして、もう一歩踏み込んで政治や社会のあり方まで、いま自分が感じ、考えていることも反映させたいと思いました。 たぶん後世、この2020年を境に以前、以後として語られる分岐点に僕らはいます。もう以前の状況は戻ってこないでしょう、そして多くの友人知人が政府の無策のせいで苦境に立たされてもいます。安倍政権の7年間のひどい事件の数々、それもなにひとつ糾弾されることなくここに至っての無策、というか強烈な嫌悪感しかない対策と振る舞い。それを日々目にする度、有権者である僕ら自身が招いたことだという痛烈な反省を込め自分の考えを発信しようと思います。いま大きな転換点にいるのであれば、これからをより良い状況にするためにできることと僕たちの視点から見えること、感じ考えたことを記録として残したいと思います。 今世界が置かれている状況に対する正しい答えはだれにもわかりませんが、少なくとも行き過ぎた資本主義、ネオ・リベラリズム、金融資本主義を変えることができる可能性はあります。各国で行われている現金の給付はモダン・マネタリー・セオリーの実践の端緒となるかもしれないし、この危機をきっかけにベーシック・インカムを導入する国が出てくるかもしれない。少なくとも経済最優先という価値観は大きな打撃を受けるでしょう、そこから確信を持って進むためにも、このページでは友達に話すように政治や社会や経済も話題にしていきたいと思います。 KKV Neighbourhood『Talkin bout MoshPit & DanceFloor & Living』は編集に田中亮太氏を迎え、ライブやパーティーのフロアで感じたこと、心が動かされた音、映像、文章、日々の感想などをキリキリヴィラ の友人たちに自由に書いてもらう場所にしたいと思います。レビューやインタビューを中心に、毎週ひとつは何かしらの記事が更新されるようにします。みなさま、よろしくお願いします。 与田太郎
朝5時。今日も2450本のキュウリが植え付けられた2反5畝のビニールハウスを散策すれば、昨日すっかりキレイに採ったはずの実はまるで魔法にかかったみたいに元通りで、いやそれどころか昨日以上に樹には綺麗な緑で長ひょろく逞しい実がこれでもかとぶら下がっていて、枝もまるで遊んでいるかのように空に向かってさらに自由に手足を伸ばしている。 本当に不思議だ。そして一日ってなんて愛しいものなんだろうとしみじみと思う。 生命の計り知れなさを目の当たりにしてみて、やっぱり人間も不思議なものだと改めて感じ入る。一人一人、一つ一つの魂は当然だ。
令和2年。この4月から新規独立営農。以前の勤め先の牛乳屋(MILKイナ君のDELIVERY MANGAで描かれている仕事と一緒!)の同僚2人と共同での3人のキュウリ農園。自分的にはまるでバンドを組んだような気分でワクワクしている。 昨年暮れに突如舞い込んだハウス貸し出し話に食いついた。鉄骨はサビだらけでビニールは殆どがボロボロに朽ち果て、雑草はぼうぼうでまるでジャングルのようなおんぼろのハウスだったが一から自分達で形にしようと決めた。見切り発車は重々承知していて、実際沢山の農業者の人たちにこれじゃ無理だよと散々バカにされたが、それは余計に私達を燃えさせる事でしかなかった。 奇跡が起きたかのように見違え、そのハウスは完成した。
変わっていく日の出の時間、天気や気温、風の向きや強さを受け取りながら日々を経由して行く。風景の変化に敏感になり植物と向き合いながら、それがせわしなさと重なり合いくたびれた身体と共にいつのまにか自分自身というものを忘れていく時間はなんだか心地がいい。
ある日、海無し県の圃場に鳴ったRAMONESの「Rockaway Beach」。 昔から何度も夢中になって聴いた曲なのになぜだかその時はとてもホーリーに響いて強烈に感動し空を見上げて立ち尽くした。本当に音楽もつくづく不思議だ。
未だ収束が見えない新型コロナウイルスで揺れ動く世界。ただただ皆様の健康と安全を願うばかりです。 どこかの誰かの静かな時間に、少しだけでもそっと寄り添えるようなMagazineになれたら幸いです。 そしてまた皆さまと元気にお会いし、思いっきりおしゃべり出来る日を心より楽しみにしております。 それぞれの願いと奮闘に想いを馳せながら。
安孫子真哉 / KiliKiliVilla 、吉里吉里農園
ポップとして語ったときに、こぼれおちてしまうもの。KillKiliVilla Neighborhoodは、音楽と日常の関わりのなかで起きる、ひとりひとりのささいな、それでいてかたくなな心の動きを言葉にしたいと思っています。音楽を聴くことが、きわめて個人的な体験であることを忘れない。そして、湧き出た気持ちや感情を、隣人に話すようなそぶりで伝えたい。わかったような気になるのではなく、理解できないままでともに考えたい。できるだけ正直に、目をつぶらずに。でも、ときに弱くなったって構わない。ライブハウスやクラブがそうであるように、嵐からの避難所でありたい。そうした態度を貫くことに、インディペンデントなメディアの矜持が宿るのではないでしょうか。モッシュピットとダンスフロア、そして日々の生活。KillKiliVilla Neighborhoodは、そこから言葉を発していきます。
田中亮太
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多元宇宙論 (multiverse)
この語は1895年にアメリカの哲学者で心理学者の 「ウィリアム・ジェームズ」によって造られた。
「平行宇宙」と呼ばれることもある。
今まで理解してきたこと
太陽系、銀河、望遠鏡で見えるほかの星や 銀河なども多元宇宙論やパラレルワールドも現実と 考えられる。
実際のところ科学的な線引きをしている可能性として どうなのか今のところ誰にもわかりません。
だからこそ理論と言われているのです。
宇宙は 実に広大です。
宇宙には 大体1千億の銀河があり、 それぞれ1千億の星があるのです。
私たちは銀河の1つ 天の川銀河にいます。
宇宙が堪えず分割していて、その一つ一つがそれぞれ 宇宙になったと信じていました。
それが現在知られている多世界解釈、多次元宇宙の 見解の一つです。
近年まで科学者は人類が知っているもの全てを 含んだ宇宙は一つしかないと確認していました、 だからこそ「ユニバース」単一という名前がついて います。
スティーブンホーキング博士は、 多元宇宙論に ついてかなり壮大な理論を持っています。
「多元宇宙論」や「鏡の理論」というものを 聴いたことも無いという人が多くいます。
この理論を簡単に言うと継続的に分岐し続ける 家系図のようなものです。
何かの決断について思い出してみましょう。
何らかの事柄の2つに一つを迷った挙句、選択した 場合と、もう一方の選択をした場合の両者がある。
つまり、多世界の自分がもう一人居るということ。
それぞれの宇宙に無限の数の自分や他人が 存在します。
これが多世界解釈です。
「ヒュー・エバレット」はこの理論を唱え博士号 を取得しました。(プリンストン大学生時)
当時の科学界に於いては少し過激な理論でした。
科学者達は彼の理論に自分の理論を付け加えて きました。
たとえば宇宙が泡のようだと考える科学者も居ます。
お互いが見えないのは、そのような技術がまだ無い からだといわれています。
また、重なった紙のように宇宙を示すモデルも あります。
一つ一つの決断をするたびに宇宙の紙が積み 重ねられ、その重ねられた紙は小さな泡の中に 浮いている束の一つ、との理論もあります。
ただ言っているだけではなく、物理学者が 実際に調べていて、数学の方程式にきちんと 当てはまっています。
ホーキング博士、最後のセオリー: 彼が多元的宇宙について考えていたこと
宇宙物理学者のスティーヴン・ホーキング博士が、 2018年3月14日に亡くなった。
ホーキング博士は若干21歳のときに筋萎縮性側索 硬化症(ALS)と診断されてから、実に55年を死と 隣り合わせで生きてきた。
ブラックホールや多元的宇宙などに関する多くの 理論を遺している。
ホーキング博士は「最後の論文」を遺し、それを 亡くなる10日前にアップデートしていた。
「無境界仮説」と「多元的宇宙」の関係
「無境界仮説」の要となっているコンセプトは、 原子のように小さな特異点は、粒子のようにも 波のようにも振る舞うことができるという 量子論的な概念だ。
「無境界仮説」は量子重力を基にしたビッグバン・ モデルなのです。
無境界仮説のモデルはひとつの宇宙だけではなく、 無限の宇宙をつくり出してしまうことに気づき はじめました。
それらは並行して存在する宇宙の集合体のことで、 マルチヴァース(多元的宇宙)と呼ばれています。
宇宙の始まりを追求するにおいて、どうして宇宙が ひとつだけしかないと仮定できるだろうか?
パラレルワールド
どんな世界なのでしょう?
私たちが実際にその世界に飛び込む前に、本当に実在 するかどうか知っておく必要が有ります。
その存在を証明または反証する証拠を見つけることは 簡単では有りませんが、科学はそれらを物理化させる ぎりぎりのところまで来ています。
たとえばテネシー州のオークリッジ国立研究所は現在 まるで反射のような鏡の宇宙の存在を証明するための 機器をいくつかまとめているそうです。
どういった計画か?
実験は私たちが粒子のミラーコピーを作れると 言うことを証明するものでうまくいけばそこから 「プロトン」「ニュートロン」「エレクトロン」が 作れるかもしれないということです。
これらは全部、体の細胞の全てを構成するもの なのです。
結果やっぱり私たち自身も他の宇宙でコピーとして 存在している可能性があります。
パラレルワールドは、私達が今まで見たことも無い 要素や物理学を含んでいる可能性があり、それは 医学や他の分野に於いて人類の命を救えるかも しれません。
それにこの世界で何か問題が発生したとき、 たとえば地球温暖化や50億年後に燃え尽きる 太陽、そのようなとき、別の宇宙に移動できる、 可能性もあります。
別の宇宙に行くなんて本当にありえるのでしょうか?
理論物理学に基づくとあらゆる理論があります。
まず、ワームホール・・・時空を一枚の紙として 想像してみてください。
A点からB点にまっすぐ移動するのではなく、 紙を曲げ2点の間にトンネルを作ります。
これは巨大な宇宙の近道のようなもの。 実際に二つの宇宙でもこれが実現できると 言われていますが、まだまだ程遠い技術です。
別の宇宙に行きたい、そう思った時ワームホールを 旅する乗り物に住所を入れれば行ける様なるのか?
そこに使われている技術は何なのか?
これから解明するべき事が沢山有ります。
スティーブンホーキングの多元宇宙論、ホーキング によると、行き来するにはブラックホールに飛び込 むだけでよいそうです。
かれはブラックホールそのものが複数の宇宙を 結びつけるワームホールであると結論付けてい ます。
いまのところただのSFですが、昔はフォログラムも そうでしたね。

多元宇宙論に付随するもの
シンクロニシティ(synchronicity)
ユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」
シンクロニシティは日本語では「共時性」と訳される。
UFOとの遭遇体験もまた集合的無意識の��影であるとする。
何かのサインや呼び寄せた偶然など所謂“虫の知らせ” に近い用法で使われることもある。
私の体験
独り言を言いながら花を活けているときのこと。
「ここはこーして、でもここはちゃっちゃと、 やっちゃえ」と言っている時、まったく同じ言葉が つけっぱなしのテレビから同時に聞こえてきたのだ。
正しい言葉としては「ここはちゃっちゃとやっては いけません」でした。
何かの料理番組だったと思う。 こんな言葉使うんだなって笑いました。
他にも、友人と別れた後の道で、何気なく見た車が その友人の家の電話番号と同じだったりと 小さいことは数多くあります。

ドッペルゲンガー( Doppelganger)
自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、 「自己像幻視」とも呼ばれる現象である。
同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある) に姿を現す現象を指すこともある。
私の体験
あるとき、数人の友人から、私を見たという連絡が ある。どこで?と尋ねると駅のホームだったり、 車であったりした。
だが私は否定した、私はそのときその時間帯に確実に そこには居なかったからだ。
ある日私は、それらしき人を発見した。
車に乗っていて信号待ちをしているとき 向かいに止まっていたのが、私の乗っている車種と ナンバーが私のと同じなのだ。
微妙に違っていたのがナンバーのひらがなだけ。
運転手は私と似ている感じがしたが良く見えなかった。
車の件はこれで解決したと思った。
2回ほど目撃された駅に立っていた人物は、誰なの かわからないままです。
ある一時期に集中して友人たちに見られていたのが 不思議でたまらなかった。

デジャブ(deja vu)
既視感(きしかん)は、実際は一度も体験したことが ないのに、すでにどこかで体験したことのように 感じる現象である。
私の体験
私が会社を辞め、ラスベガス旅行をしているとき ガイドに付いた女性が同僚と瓜二つで、見た目も 話し振りもほぼ一緒。 早口でオーバアアクションも同じで、姉妹いる? と聞いたくらいだ。
そして、その旅行中、ガイドが手配したタクシーの ドライバーが、元上司とそっくりだった。
会社員時代にパワハラを受けていた酒飲みの上司だ。 なんでここに・・・・と思わずにいられなかった。
帰りの空港でのこと、予約の時間に彼は来ず、 間に合わないと思った私は、他のタクシーを調達した。
なんとかチェックインに間に合った。
空港に追いかけてきた上司そっくりタクシードライバー。 なんと酒の飲みすぎで寝坊したのだという。
ロビーで私の前でいきなり土下座し何度もわびたのだ。
海外でそっくりさんに謝られ、複雑な気持ちでした。
国が違うところで、瓜二つな人物二人に出会い、 キツネに化かされているんじゃないかと思うほど 不可思議な経験でした。

テレポーテーション(teleportation)
瞬間移動は、超能力の一種で、物体を離れた空間に 転送したり、自分自身が離れた場所に瞬間的に移動 したりする現象。
私の体験
車での移動中、いつもの道を走って到着したとき、 どう考えても15分かかるところを10分しか かかっていなかった。
ありえなかったが、そーいうこともあると思った。 時計の見間違いかもと、自分を納得させるている。
そして、全ては神のいたずらとして済ませています。
このような体験も、「多元宇宙論」からならば 納得がいく。
同じ世界に生きながら、時々ひょんなことから違う 宇宙の自分を垣間見てしまう。
あるいは、寝ているときに移動して、そちら側で 活動しているなんて考えてみる。
時間と空間のねじれが生じて、SF映画みたいな スピリチァルを体験することも、もしかしたら 可能であり現実なのではないかと思う。
この世界で見えるものが実は仮想現実で、 「マトリックス」になっているのかもしれない。
つまりなんでも可能だと言うことではないで しょうか。

もし時間が無限で宇宙が同じサイクルを繰り返す としたら面白いですね。
私たちが無くなっても、この宇宙は死と再生を 繰り返し遅かれ早かれ原子が再び集まることに なるので、私たちも再びこの世に生まれることと なります。
この仮説は宇宙学に於いて「サイクリック宇宙論」 と呼ばれています。
面白い結論を導き出すことが出来ます。
私たちはすでにこの世界で生を全うしたことがあって その回数は無限回ということになる。
ならば、どんな選択をしても、後悔しなくてよさそう と言えますね。
絶対安心なのですから。
“何度でもやり直すことが出来る”!
(この言葉は以前、京都旅行中、あるカフェで コースターを貰い、そこに書いてあった言葉です。 ここで使うことになろとは・・・)
【君の名は。】公式サイト
http://www.kiminona.com/
新海誠監督の名作『君の名は。』は、夢の中で “入れ替わる”少年と少女の恋と奇跡の物語。
世界の違う二人の隔たりと繋がりから生まれる 「距離」のドラマを圧倒的な映像美とスケールで 描き出す。
2016年8月の公開だが、まさに多元宇宙を感じさせる 奥深い大好きな作品である。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1&v=3KR8_igDs1Y&feature=emb_logo
【君の名は。】あらすじやネタバレから舞台となった 聖地巡礼地、新海誠監督の関連作品まで解説
https://tabichannel.com/article/102/kiminona
youtube
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福島事務局の大塚真理さん、大いに語る。
東北ユースオーケストラ結成のきっかけは、スイスの世界的に高名な音楽祭、ルツェルン・フェスティバルから東日本大震災のための復興イベントを行いたいとの相談を受けたことからはじまります。
大震災直後から被災三県の学校の楽器を点検、修理し、音楽活動を支援してきた「こどもの音楽再生基金」では、発起人である坂本龍一さんから「子供たちによるオーケストラができないか」というアイデアが出ていました。
2013年のルツェルン主催の宮城県松島での音楽イベントに「東北ユースオーケストラ」という混成オーケストラを編成して指揮者グスターボ・ドゥダメルさんや坂本龍一さんと共演する機会があれば、日本のみならず世界に復興途上の現地の子供たちの姿が発信されるのではないか。
この大きな構想を受け止めてくださったのが、当時福島市のテレビ局、福島テレビが運営されているFTVジュニアオーケストラで事務局を担当されていた大塚真理さんでした。大塚さん無しには、「ルツェルン・フェスティバル アーク・ノヴァ 松島2013」で「東北ユースオーケストラ」が生まれることはあり得なかったでしょう。そういう意味でも、大塚真理さんはTYOの母であります。
以来、2015年の団員募集ではチラシを抱えて地元を駆け回ることから、合宿での急病人の対応から、福島市での毎月の合同練習会で団員が出したゴミの後始末から、何から何まで気の効くサポートを受け続けて来ています。時に原発事故の話題になると、国や東電の対応や深刻な影響について声を荒げて話されることがあり、折に触れお話を伺ってきました。しかし、これまで一度もいわゆる「インタビュー」をしたことがなかったと気づきました。そこで、今年も311が近づく2月の1泊2日の合同練習会で二日に渡ってお話を聞いてみたのです。
ー 今日はあらためてお話を伺いたいと思います。まずは福島テレビ(FTV)に入社された頃の話からでいいですか?
FTVに��1977年、昭和52年に入社しました。最初は営業管理部で、スポットデスクに配属されました。
(注:「スポットデスク」とは番組と番組の間に入るスポットCMの管理を行うセクションです)
その後は、制作部でサブディレクターになりました。県庁担当で「市政たより」やお母さんのための幼児教育番組「小さな世界」などの制作をしていました。弁当やお花の手配ばかりしていたので、自分のことを「弁当ディレクター」と言っていました。
鼓笛隊パレードとか、当時はジュニアオケの番組もありました。毎年土曜日午後の1時間半番組でスポンサーもついていたんです。昔は自社制作番組が結構ありました。
ー 今では地方局は東京のキー局の番組ばかりになってますからね。福島テレビは当時からフジテレビのネットワーク局だったんですか?
その頃はフジテレビとTBSの2局のネット局だったんです。最強だったですよ。ドリフターズの「8時だよ、全員集合」も「花王名人劇場」も「ザ・ベストテン」も「夜のヒットスタジオ」も金八先生のドラマも「なるほど!ザ・ワールド」も同じ局で放送していたんですよ。
ー それはすごい!わたしが子供の頃に見ていた番組ばかりです。きっと仕事も面白くてしょうがなかったでしょうね。
はい、楽しかったですから結局結婚まで10年勤めました。当時の福島だと30過ぎると結婚が遅いほうなので周りに心配されました(笑)
ー ということは今や珍しい寿退社ですね。一旦お辞めになってからまた復職されたのですね。
わたしの主人が亡くなった時に戻ってこないかと声をかけてもらいました。15年ほど前、いまとにかく困っているから事務を手伝ってくれと言われたんです。
ー 困った時には大塚さんですね(笑)
平成15年、2003年に福島テレビの事業部一年間、契約社員で働きました。そうしたら翌年の2004年からFTVジュニアオーケストラの事務局をやってくれとなりました。その頃には福島テレビの女性社員はほとんどいなくなってたんです。
ー オーケストラとは昔からつながりがあったんですか?
制作部時代、ジュニアオケの番組収録の時にタイムキーパーとして何度か手手伝ったくらいでした。だから頼むれた時も「え、オーケストラ? 音楽は知りませんよ、でも事務はできますよ、予算管理ならできますよ」と言いました。
社内の人たちはよく知ってるし、社内交渉はできる。それに営業と制作で鍛えられたので、段取りはよくわかっている。人生何事も経験で無駄なことは無いとつくづく思います。若い頃の経験が役立ちました。
ー それは大塚さん、適任ですね。でもオーケストラの運営には専門知識も必要ですよね。どうされたんですか?
そもそもトランペットとトロンボーンの違��もわからないくらいだったんです。だから必死で本を読みました。「音楽の友」など音楽雑誌を毎月読んで、フルトヴェングラー、カラヤン、ウイーンフィルなどについての本を気の向くままに読みました。特にNHK交響楽団のオーボエ奏者茂木大輔さんの本は役立ったと思います。
指導していただく先生方の話もチンプンカンプンだったので、楽譜を読めるようにドイツ語とイタリア語の対照表も自分でつくりました。「やさしいクラシック」のような入門向けのCDも片っ端から聴きましたね。
— オーケストラの運営となると、この世界ならではの業務もありますよね。
まずは一所懸命に楽譜の整理をしました。もうそれはそれは楽譜がバラバラだったんです。東京から指導に来ていただいていたパーカッションの先生、大塚敬子先生に教えていただいて、パートごとの並べ方や番号の方を教わったり、それはとても助かりました。
3年やってようやく慣れたかな。予算のこと、楽器のこと、テクニカルタームもわかるようになってきました。だんだん実務が楽しくなってきて、自分から企画が出せるようになってきたんです。
— 大塚さんにとってジュニアオケでの転機となるようなことはありましたか?
6、7年目かな。福島県文化センターでクリスマスコンサートとして竹内ひとみバレエ団とチャイコフスキーの「くるみ割り人形」の全幕をやりました。この企画を出した時は、子供たちがオーケストラピットに入って演奏するから脇役になると、先生方は反対でした。でも子供たちはやりたいと言うんです。だから押し切った(笑)。前半と後半に分けて負担を減らすようにしてね。
— 一番思い出深いコンサートとなると、どうですか?
ベートーヴェンの第九ですね。わたしがFTVジュニアオーケストラの事務局を辞める年、2013年12月30日でした。会場が福島県文化センターという県の公共施設ですから、年末は通常28日で仕事納めなんです。それを「開けてください」とお願いして、ホールの歴史で初めてのことでした。 この時も大人は反対でした。「忙しいから駄目だへ、無理だべ」とさんざん言われました。でも、子供たちに聞くと「やってみたい」と言うんです。実際やれるんです。子供は「やるよ」と言ったら、やるんです。大人が決めてはいけないんです。
このことは、子どもたちに教えられたことです。子供たちってすごいんですよ。わたしは若い人たちにパワーをもらって生きてきた、助けられて生きてきたんです。大震災から2年経って、福島の復興への想いもありました。
わたしはジュニアオケの仕事も10年で辞めるからと言っていました。わたしの子供も大学を卒業するし、60歳から先は自由に生きるのだと決めていた。だから「歓喜の歌」である、第九をやって締めくくりたいと思ったんです。第九の合唱団も公募で大変だろうと言われたけど、好きなことだから頑張れるんです。そしてサポートしてくれる、先生や周りの人に恵まれていました。
おかげさまで演奏会は大成功となりました。
— いつも団員インタビューで聞いている質問です。311の時、どこで何をしていましたか?
福島テレビの旧館5階の事務局に一人でいました。いつも2時40分が仕事のひと区切りがつく時間だったんです。だからその日もコーヒーを淹れようと立ち上がったら、携帯の地震警報が鳴りました。もう激しく揺れだしてびっくりしました。逃げようと廊下を走ったけど思うように前に進めないんです。すると壁が部分的に崩れてきた。譜面台は一斉にバタバタと音を立てて倒れ、階段を降りることもできず、エレベーターの角の柱につかまっていました。すると、わたしの背後でコピー機が左へ右へと走ったんです。もうびっくりして、あの時はこのまま一人で死ぬんだと思いましたね。
2回目のほうが揺れが大きくて、長く感じました。そうこうしていると、4階の秘書室の部長が上がってきた。バタンバタン大きな音を立てて動いていた防火扉を止めるためにです。
それで揺れもおさまって3階の事業部に戻ったところ、危ないので外に出ろと言われた。外に出たら、こんどは雷と吹雪になりました。 報道と制作が入っていた新館は、それほどの被害は無かったのですが、旧館が酷かった。あらゆるガラス、窓ガラスがほとんど割れたから、そのあとずーっとベニヤ板で覆うような状態が続きました。よく怪我人が一人も出なかった、奇跡に近いと言われましたね。もう壁もひび割れて「メロンハウスだね」と言って笑うしかなかった。
— 外にしばらくいたのですか?
いったん家に帰れと言われました。家族の安否を確認するために連絡を取りました。そしていったん5階の事務局に戻ったら、テレビもファックスも吹っ飛んでいましたね。ようやく鞄と靴を探して、コートを持って車に乗りました。車内のラジオで津波が発生と聞きました。被害が出てると言うけども、よくわからなかったです。車を運転しても、信号が止まっているので、渋滞はしてなかったけど、道路を渡ることすら思うままにできなくて、交差する車同士で「ごめんなさい」と道を譲ってもらったり譲ったりで、踏切の無い道を選んで車を走らせました。 水道管が破裂したところは、もう道路がわからない状態で、運転しながら足が震えました。もう自分の家が無いのではと思いながら、運転するのに必死でした。道路が陥没して軽自動車が落ちてる脇を通って抜けた時の恐怖。あの時のことを思うといまだに怖いです。 おかげさまで家はあったし、屋根も損傷受けずでしたが、電気ガス水道が止まりました。
— ご家族はみなさんご無事だったのですか?
当時23才だった上の娘が勤めていた銀行がたまたま仕事休みで、いつもはぼーっとしてる娘がセブンイレブンに買いに走ったけど、ほとんど何も無かったと報告してくれました。 78才の父は犬が飛び出さないよう抱えて、いったん家を出たそうです。 80才の母は玄関で動けないでいた。あまりにびっくりして、記憶が無いと言っていますね。もう、ぼーっとしてるしか無かったと。 家族と家は大丈夫だと実際に安否確認でき、会社に報告したらしばらく出社しなくていいと言われました。ちょうど金曜日だったので、それからしばらく家にいましたね。
— 津波のことは後から知ったのですか?
ラジオだけの情報でした。だから津波の悲惨な状況を聞いても想像できなかったですね。電気が戻ってから、テレビの映像で津波を見てショックを受けました。まるで映画のワンシーン。こんなことが起きるんだと思いま���たね。家族でみんな生きているに感謝しました。
— 避難所には行かれました?
結局、避難所には一度も行かずでした。2000年問題の時に電気が止まると言われていたので、ストーブがあって、灯油もあったので寒さはしのげました。あと近所の飲めない井戸から水をもらって、ストーブでお湯を沸かして湯たんぽをつくり、その水を利用してトイレも使えました。 近所の井戸水で飲める水があるとの情報を聞きつけ、ガソリンあるうちは車を走らせてもらっていました。 やはり困ったのは水、電気でした。夜は庭の太陽光で発電する照明を家に持ち込んだり、ロウソクの生活が続きました。テレビも見れなかった。 ガスが最初に復帰して、1週間もかからなかったですね。水道は1週間かかりました。そしてうちは電気が一番最後に復旧しました。道路の反対側まで電気が来てるのに、あともう少しなのにとせつない思いになりましたね。街の中は電気ガス水道ともに全然大丈夫だったんですが。
— 原発の事故はいつ知られましたか?
大震災の週明け火曜日に会社に行って、はじめて原発がたいへんなことになっていると知りました。それまで、そんな重大なことと思わなかったです。家に帰って「どこに逃げようか、どっち方向だろう、貴重品を持ち出せるように、いつでも避難できるようにしよう」としましたね。 水をもらうために外で2時間とか平気で並んでました。原発が深刻だと思わなかった。学校行ってないから子供が外で並んでたんですよ。もうちょっと教えてくれたらと今になって思いますね。もっと広報の仕方とか方法が無かったのかと。確かにそれどころでは無かったかもとは思います。誰も経験したことの無いことだったから。福島は災害が無かったから、災害の無い県と思い込んでましたね。それに「原発は安全だ」と思い込んでいました。地震はともかく、津波の恐ろしさ。あの津波さえなければと思いますね。
— 福島市から逃げようとはされなかった?
逃げて行っても、生活の場が無いですしね。できるだけ外には出ない、窓は締める。ガソリンがあるうちは車で移動。必要以外は外に出ないとしました。 それでもしばらく余震が続きました。地震警報におびえる生活が続きました。家の中でも寝る時もジャージで、一階の和室で生活をしすぐに外に出られるようにしていました。 いつから普通の生活に戻ったんだろう。記憶はあいまいになっていくものですね。
— これもいつも団員インタビューで聞いている質問なのですが、311で変わったことは何ですか?
日々何事も無く過ごしている有り難さを感じるようになりましたね。電気ガス水道の有り難さ。そして、なにごとにも感謝です。
平凡が一番、普通が一番。
なにごとにも「ありがとう」感謝の気持ちを持てるようになり、気持ちが穏やかになったと思います。
それから、普段からの災害への備えをするようになりました。それでも、またあったらうろたえるのだろうなとも思いますけど。
— FTVジュニアオーケストラの団員の子供たちに変化はありましたか?
ジュニアの子どもたちのうち、自主避難でいなくなった子が3人いました。逆に浪江町から避難してきた子が一人入団しました。福島テレビの社員でも小さなお子さんのいる方は3人は辞めました。
福島県でも飯館村とか、伊達市とか、思わぬところで放射線の線量が高いです。出て行った若い人は戻らないでしょうね。もう年寄りばかりです。避難した地域は生活ができないですから。店や病院もありません。
— 今の福島についてどのように思われていますか?
福島県に中高一貫校を新設するとか言っていますが、世間の目を欺くためではないかと思ってしまいますね。政府などへの不信感もあります。東京にオリピックを呼ぶために安倍総理がいくら「原発事故はコントロールできている」とプレゼンしても、「嘘つけ!」と思ってしまいました。
除染したと言っても限界があると思います。イノシシ、豚とか、山の中を動き回って、汚染された餌を食べている訳ですから。
— つい最近、除染が来たとおっしゃっていましたね。
ようやく去年の暮れに家の近所の側溝の除染に来ました。いまだに除染土が家の庭にありますよ。大きい袋ですからね、目に入ると気が重いです。なかなか持って行ってくれないんですよ。
(大塚さんご自宅の庭に置かれたままの除染土の写真です)
線量が高いところからはじめて、一年くらい後にうちの家に来て、「今ごろやっても無意味なんじゃない」と、みんなそう言ってますよ。気休めのような気がする。
— 実際のところはどうなんでしょうね。
噂では癌患者が増えてると聞きますが、あまり表には出て来ないですね。最近の国の「不正統計問題」を見ても、情報に対する信頼度が落ちてると思います。都合がいいことだけ発表して、情報統制しているのではと思ってしまいますね。
沖縄の人に「福島の人はおとなしいね」と言われました。沖縄なら毎日デモだよって(笑)
— 政府や国の行政にこれだけはお願いしたいということはありますか?
本当のことをしっかり発表して欲しい。今、現在どうなってるかを知りたい。福島の街にいくら線量計があっても気休めなんだと思うんですね。
それにこれだけの事故を起こしながら、原発を、海外に売ろうとしたでしょ。いったい福島のことをどう思ってるのかと。
国ってなにを考えているのかなと悲しくなります。
ヒロシマ、ナガサキ、唯一の被爆国ですよ。
今の日本が悲しいですね。
— そんな状況の中で東北ユースオーケストラの活動はあります。どのようにお考えですか?
主役は子どもたちのことだから、大人は政治的なことを押し付けはいけないと思いますね。
でも代表・監督の坂本龍一さんは、はっきりものをおっしゃいます。偉い。勇気があると思います。影響力のある人が発信することが大事なんです。
坂本さん、凄いなって、いつも尊敬してます。
— 震災のあともFTVジュニアオーケストラの活動が続いてきたからこそ東北ユースオーケストラが生まれましたね。
震災の後、ジュニアオケは活動をやめたらどうかという話になりました。でも子どもたちはやりたい。しかし、毎週練習に使っていた福島テレビの旧館の社屋は、使えない。2011年の5月の連休明けからしばらくして練習を再開しました。もうあちこち転々と1週間ごとに楽器を運んで練習を続けました。時には関連会社の会議室で練習しました。そして、7月に定期演奏会ができたんです。よくできましたね。子どもたちが絶対やりたいて言うからね。親御さんのサポートもありました。おかげさまで福島市音楽堂が再開してすぐのコンサートを開くことができました。
— 2013年のルツェルン音楽祭の復興イベントから東北ユースオーケストラは始まりました。その立役者が大塚さんだったわけですが。
2013年のルツェルンのイベントは、無我夢中でした。自分でもよくできたと思う。子供たちのために今やらなきゃというエネルギーですね。何かをやっていたほうが、自分も楽な時期でした。止まっちゃうと駄目なんです。
わたしとしては、機会があれば子どもたちをどこかに福島の外に連れて行きたかった。そして、世界に眼を向けさせる。いろんな人を知る。ルツェルンの復興イベントは、そんな絶好の機会だと思ったんです。
しかし、FTVジュニアの先生方からも反対されました。子供たちの負担になると言うんです。大人はいつも安全パイを選んでしまう。こんな、世界とつながれる機会はないですよ。行ける子どもだけでもと、FTVジュニア以外にも近隣の高校の吹奏楽部などにも声をかけました。
ドゥダメルや坂本龍一という世界に通じる人と、松島の特別な場所で、いい経験が積めたと思いますね。
子供たちが坂本さんにサインをもらってうれしそうに笑っているのを見て、うれしかったです。
— そのルツェルン音楽祭で好評だったため、東北ユースオーケストラは一般社団法人化しました。
組織がしっかりすることはいいことです。続いていくことは、有難いことだと思ったし、何より親御さんからの信用、社会的信用が生まれます。
最初はゼロから募集をかけて人数を集めるとなった時に、集まるか不安でした。140通を超える応募の数には正直びっくりしました。
— かれこれ組織としては、東北ユースオーケストラは5年が経ちましたね。感慨深いです。
何しろ最初の夏合宿が沖縄県の宮古島だったでしょ。行動力がすごい。いろんなことを1つづつ叶えていく、その実行力には頭が下がります。最初は運営も危なっかしくってね、どうなることかと思いました。ただ夢中で子どもが演奏だけに集中できる環境をつくろうとしていました。もう大丈夫ですよ(笑)
— 最後に、これもいつも団員インタビューで聞いている質問です。今後、東北ユースオーケストラでどんな活動をしたいですか?
卒団した子どもが練習や演奏会にやってくるじゃないですか。そういう場があることが素晴らしいと思いますね。だから長く続けて欲しい。
海外公演も実現して欲しいです。よちよち歩きから始まった東北ユースオーケストラが、ルツェルン音楽祭で凱旋公演できるといいですね。あの2013年の松島のルツェルンのイベントの時のオーケストラがこんなに立派になって、と言われたら最高じゃないですか。
いち早く多額の支援をしてくれた、親日家の多い台湾公演もできたらいいですね。
東京オリンピック・パラリンピックでは何かしないんですか?
このインタビューを行なったのが先月の1泊2日の合同練習会だったもので、土曜日の練習を終え、JA共済さんにご手配いただいた宿泊組の宿へと向かうバスを見送る団員、大塚さん、そして同じく福島事務局で団員の演奏指導もお願いしている竹田学さんです。
あらためて大塚真理さんのお話を伺って考えさせられたのは、強い使命感と子供たちへの無償の愛です。通奏低音として「大人は子供のことを、子供の可能性をわからないのだ」という姿勢があって、だから大塚さんの子供へのまなざしには上から目線が微塵もありません。とてもふらっとです。だから子供たちも大塚さんのスタンスを動物的に嗅ぎ取って自然と寄って来るんだと思うのです。
「大人の都合で子供のことを考えるなよ」は、肝に命じたいフォームです。とと同時に「子供も大人の事情を考えろよな」と言いたくなってしまうのは、大人気ないことなのでしょう。反省反省。
実際にお聞きした内容にはとても刺激的なことも含まれていて、本当はノーカット無編集で「大塚さん大いに語る」を掲載したかったのですが、それはそれで品位に悖るような気がしまして、細かな配慮ができたかどうかは別として編集をいたしました。
311から8年です。大震災は続いています。そのことを知って欲しいと思います。それが東北ユースオーケストラの存在意義の一つであるからです。
引き続き東北ユースオーケストラへのご支援をお願い��たします。
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議長、副大統領、議員の皆さん、ファーストレディー、米国民の皆さん、我々は今夜、限りない可能性の瞬間に立ち会っている。新しい議会の始まりにあたり、私は全ての米国民のため、歴史的な大躍進を達成するため皆さんと協力する気持ちでここにいる。
何百万もの米国民が今、この偉大なる議場に集まった我々を見ており、二つの政党としてではなく、一つの国家として統治することを望んでいる。
私が今夜示す計画は、共和党の計画でも民主党の計画でもない。米国民の計画だ。
我々の多くが中核となる同じ約束のために運動してきた。それは、米国の労働者のために米国の雇用を守り、公平な貿易を要求することだ。国のインフラ(社会基盤)を再建し、再活性化させることだ。保健医療と処方薬の価格を引き下げることだ。適法で近代的で安全な移民制度を作り上げることだ。米国の利益を第一にする外交政策を追求することだ。
米国政治には新たな機会がある。それをつかみとる勇気さえあればいいのだ。勝利とは、自分の政党を勝たせることではない。国民のために勝つことだ。
今年、米国の使命の荘厳さと米国人の誇りの力を確認する二つの大事な記念日を迎える。
6月には、アイゼンハワー将軍が大いなる聖戦と呼んだ、連合国軍による欧州解放作戦の開始から75年を迎える。ノルマンディー上陸作戦の決行日の「Dデー」、つまり1944年6月6日、我々の文明を暴政から救うため1万5000人の米国の青年たちが空から、6万人以上が海から強襲した。
そのときの信じられないほど素晴らしい英雄3人が今夜、我々と共にここにいる。ジョゼフ・レイリー1等兵、アービング・ロッカー2等軍曹、ハーマン・ゼイトチク軍曹だ。敬意を表したい。
2019年に我々はまた、月面に米国旗を立てるため勇敢な若い飛行士たちが宇宙を約25万マイル飛んで以来50年となることを祝う。半世紀後(の今)、旗を立てたアポロ11号の宇宙飛行士の1人が(ここに)参加している。バズ・オルドリン氏だ。今年、米国の宇宙飛行士は米国のロケットで宇宙に戻る。
米国は20世紀、自由を守り、中流階級のありようを一変させた。皆さんが本腰を入れれば、世界の中で米国と競争できるところはない。我々は今、大胆に勇気を持って米国の偉大な冒険の次の章に進まなくてはならない。21世紀にふさわしい新たな生活水準に一新しなければならない。すべての市民が素晴らしい生活の質をもう少しで手に入れられる。
我々はかつてないほど地域を安全にし、家族を強固にし、文化を豊かにし、信仰を深めるとともに、中流階級をより大きく、より豊かにすることができる。
そのために我々は復讐(ふくしゅう)や抵抗、報復の政治を拒絶し、協力と妥協、公益の限りない潜在力を追求するべきだ。
我々は、何十年も続く政治的な行き詰まり状態を共に打開することができる。昔からの分断に橋をかけ、古い傷を癒やし、新しい連立を築き、素晴らしい米国の未来を切り開くことができる。決断は我々にかかっている。
偉大さか停滞か、成果か抵抗か、未来か復讐か、途方もない進歩か無駄な破壊か、選ばなくてはならない。
今夜、皆さんに偉大さを選択するよう求める。
この2年間、私の政権は、何十年にもわたり両党の指導者が放置してきた問題に立ち向かうため、切迫感をもって歴史的なスピードで行動した。大統領選からたった2年余りで、我々は空前の好景気をもたらした。かつてないほどの好景気だ。530万の新規雇用を生み出した。製造業で60万の新規雇用を創ったのは特筆できる。誰もがそんなことはできないと言っていた。事実は、これはまだ始まりということだ。
賃金はこの何十年で最速のペースで増え、私が身を挺(てい)して支援すると約束したブルーカラー労働者で一番伸びている。500万人近い米国人が低所得者向け食料品購入券「フードスタンプ」の支給対象から外れた。米国経済は私が就任した時に比べ、ほぼ2倍の速さで成長している。米国経済は、世界のどこと比べても圧倒的な差をつけて活況だといわれている。
失業率は半世紀で最も低い。アフリカ系米国人、ヒスパニック系米国人、アジア系米国人の失業率も、史上最低水準だ。障害を持つ米国人の失業率も史上最も低い。歴史的に最多の1億5700万人が今、就労している。
我々は就労世帯に大規模な減税を行い、児童扶養控除を倍にした。小規模の企業や牧場、家族経営の農場にかかる不動産税や相続税を実質的に廃止した。
とても不人気だった医療保険制度オバマケアの加入義務違反に対する罰金を廃止した。重病患者が救命治療を受けられるようにした。未承認薬を使えるようにする法案を通過させた。
私の政権はほかのどの政権が任期中に達成したよりも多くの規制撤廃を短期間で実現した。歴史的な減税と規制緩和の結果、多数の企業が米国に戻ってきている。
米国でエネルギー革命を起こした。米国は今、世界一の石油と天然ガスの産出国だ。今や、約65年ぶりにエネルギーの純輸出国となる。
24か月の急速な発展を経て、我々の経済は世界の羨望の的だ。軍は地球上で最強だ。米国は日々、勝利している。議員の皆さん、米国は強力である。我が国は活気にあふれ、経済はかつてないほど繁栄している。
1日には、今年1月だけで雇用が30万4000人増えたとの発表があった。予想のほぼ2倍だった。米国で経済の奇跡が起きている。唯一それを止めるものがあるとしたら、おろかな戦争か政治、あるいは、ばかげた党派的な捜査だろう。
平和と法律があるところには、戦争も捜査もあ��はずがない。そんなことにはならないものだ。
我々は国外の敵を打ち負かすため、国内で団結しなければならない。
この新たな協力の時代は、連邦機関のポストにふさわしい高い能力を有する300人以上の候補者の指名承認で幕を開けられる。手続きは今も上院で止まっており、中には何年も待たされている者がいる。上院は行動を怠っており、これでは候補者だけでなく国に対して不公正だ。
今こそ超党派の行動が求められる。信じるか信じないかわからないが、それが可能であることを我々はすでに証明している。
前の議会で、両党は力を合わせ、鎮痛剤オピオイド乱用問題に対処するため前例のない法案を通過させた。包括的な新農業法案、退役軍人省の改革を通した。さらに40年否決され続けた、退役軍人省の説明責任法案を可決した。これにより、素晴らしい退役軍人に対するひどい扱いをようやくな��せる。
そしてほんの数週間前、両党は画期的な刑事司法改革に向けて団結した。昨年、私は友人からアリス・ジョンソンの話を聞いた。私は深く心を動かされた。
1997年、アリスは麻薬を巡る違法行為で終身刑を言い渡された。初犯で暴力に手を染めたわけでもなかったのにだ。
その後20年以上、彼女は刑務所の牧師となり、他の受刑者により良い道を選ぶよう励ましてきた。刑務所の受刑者に大きな影響を与えた。影響はそこだけにとどまらなかった。
アリスのケースは、判決の不平等や不公平を明確に示している。この不公正を是正する必要がある。彼女はほぼ22年間受刑し、残りの人生を刑務所で過ごすことになっていた。
私は6月、アリスを減刑した。彼女は今夜ここにいる。アリス、ありがとう。我々にはいつだって自身の運命を決める力があることを思い出させてくれた。
アリスのすてきな家族が刑務所の門で彼女を迎え、抱きしめ、キスを交わし、泣き、笑うのを見たとき、私は正しいことをしたと実感した。
アリスのような話をきっかけに、私の政権はファースト・ステップ法の成立に向けて、両党の議員と緊密に連携した。この法は、アフリカ系米国人の権利を誤ったやり方で過剰に損なってきた刑法を改革するものだ。
ファースト・ステップ法は、暴力を伴わない犯罪者が生産的で法を順守する市民として社会復帰する機会を与える。今、国中の州が続こうとしている。米国は罪が償えることを信じる国だ。
今夜、ここにテネシー州からマシュー・チャールズも来ている。1996年、マシューは30歳のとき、違法薬物販売などの罪で35年の刑を言い渡された。その後20年にわたり、30以上の聖書の講義を修了し、法務書記となり、受刑者たちの良き助言者となった。彼は今、ファースト・ステップ法のもとで出所した最初の元受刑者となった。ありがとう、マシュー。
今、共和党と民主党は、差し迫った国家の危機に立ち向かうために再び力を合わせなければならない。
国土を守り、南部国境を厳重に警備する予算案を通すために、議会には10日の期間が残っている。
今こそ、米国が不法移民をなくし、密入国を手引きする冷酷な一味や組織、麻薬密売人や人身売買組織を壊滅するために取り組んでいることを、議会は世界に示すときだ。
今こう話している最中も、中米からの移民集団の大規模な隊列が米国を目指している。メキシコの複数の市当局が、不法移民を地域から排除するために、バスやトラックに彼らを乗せ、我が国の国境警備が手薄な場所に送り込んでいるそうだ。このとんでもない猛襲に対処するため、南部国境に3750人の部隊派遣を命じたところだ。
これは倫理問題だ。南部国境の無法状態は、すべての米国民の安全、治安、金銭的安定に対する脅威だ。我々は、国民の暮らしと雇用を守る入国管理体制を作り出す義務がある。
これには、規則を守り、法令を順守している、今ここに暮らす何百万人もの移民に対する我々の責任も含まれる。合法な移民は、様々な形で我が国を豊かにし、社会を強くする。私は我々の国に、かつてないほど多くの人々に来てほしい。しかし、それは合法的でなければならない。
不法移民ほど我が国の政治的、階級的な分断を明示する問題はない。豊かな政治家や献金者は、壁と門と警備に守られながら、国境の開放を求めている。一方で、米国の労働者たちは、雇用の減少、低賃金、教育の負担、社会保障の衰退といった大規模な不法移民の代償を払っている。
不法移民への寛容は思いやりではない。現実は非常にひどいものだ。(米国を目指し)北上する女性の3人に1人が性的暴行を受けている。密売人たちは、我々の法律を悪用し、我々の国に入国するために移民の子供を人質として利用する。
人身売買業者たちは、何千人もの少女や成人女性を米国に密入国させ、彼女らを売春に従事させるため、我々の通関施設間の広い地域をたくみに利用している。
何万人もの善良な人々が、我々の暮らす街に国境を越えて流入した覚醒剤、ヘロイン、コカインなどの危険な薬物によって死んでいる。
悪質なギャング組織「MS―13」が少なくとも20州で活動している。彼らのほとんどは南部国境を越えて入ってくる。ちょうど昨日、メンバーの一人がニューヨークの地下鉄ホームでの射殺容疑で拘束された。我々はこのようなギャングのメンバーを排除しているが、国境の安全が保証されるまで、彼らは逆流し続ける。
年を追うごとに、犯罪的な不法外国人によって殺害される米国人は数え切れない。
私は多くの素晴らしい「天使の母たち、父たち、家族ら」を知るようになった。誰も、彼らが耐えなければならなかったようなひどい心痛に苦しむべきではない。
今夜ここに、デボラ・ビッセルが来ている。3週間前、デボラの両親ジェラルドとシャロンはネバダ州リノの自宅で強盗に入った不法な外国人に撃たれて亡くなった。2人は80歳代で、4人の子供と11人の孫、20人のひ孫がいた。ここには、その孫娘のヘザーとひ孫のマディソンも来ている。
ほとんどの人はあなたたちの痛みを理解できない。ありがとう、ここにいてくれてありがとう。本当にありがとう。私は決して忘れないし、ジェラルドとシャロンのために、このようなことが二度と起こらないように闘う。
危険な国境の管理を怠り、もうこれ以上、米国人の生命が奪われることがあってはならない。
米移民・関税執行局(ICE)は、この2年間で、26万6000人の不法な外国人を拘束した。この中には、性犯罪にかかわった3万人や、殺人事件に関与した4000人が含まれる。
こうした法執行の英雄の一人がここに来ている。ICE特別捜査官のエルビン・ヘルナンデスだ。エルビンと彼の家族はドミニカ共和国から合法的に米国に移住してきた。8歳の時、エルビンは父親に捜査官になりたいと言った。彼は今、国際的な性的人身売買を取り締まる捜査を指揮している。エルビンは言う。「もしこれらの若い少女たちが確実に正義を得られるならば、私は本当に自分の仕事をしたことになる」。彼と彼の同僚のおかげで、昨年、300人以上の女性らが恐怖から救われ、1500人以上の残虐な人身売買業者らが投獄された。
我々はいつも、法執行に関わる勇敢な男女を支持する。私は今夜、ICEの英雄を滅ぼすことはないと誓おう。ありがとう。
我が政権は、南部国境の危機を終わらせるため、良識ある提案を議会にしてきた。それは、人道支援や更なる法執行、入国時の薬物探知、子供の人身売買を可能にする抜け穴を封じること、国境の物理的な壁を含む。過去には、ここにいるほとんどの人が壁に賛成票を投じたが、壁は適切に建設されていない。私はそれを建設する。
これはスマートで戦略的で向こうが見通せる鋼鉄の障壁であり、ただのコンクリート壁ではない。これは、国境警備隊によって必要性があると確認された場所に設置されるだろう。壁がつくられたところでは不法入国は激減すると国境警備隊は言うはずだ。
サンディエゴ(カリフォルニア州)は、米国で最も多くの不法入国があった。サンディエゴ住民や政治指導者の要求に応じて、頑丈な壁が導入された。この頑丈な壁は不法入国をほぼ完全に収束させた。
メキシコとの国境都市であるテキサス州エルパソは、かつて、米国内で凶悪犯罪率が最も高い都市の一つで、最も危険な都市の一つと考えられていた。今は強力な壁のおかげで、エルパソは最も安全な都市の一つになっている。端的に言えば、壁は機能し、壁は人命を救う。
だから、協力し、歩み寄り、真に米国を安全にする取引を成立させよう。
我々は国民の安全を守るために働いている。経済の回復を速いペースで進めなければならない。
昨年に創出された新規雇用の58%を占めた女性たちほど、私たちの発展する経済から恩恵を受けた人々はいない。すべての国民は、これまで以上に多くの女性が働けることを誇りに思うだろう。女性に参政権を与える憲法修正が議会で可決されてからちょうど1世紀、これまでで最も多くの女性が議会で活躍している。素晴らしい。おめでとう。
あらゆる場面で女性の活躍する機会を改善する取り組みの一環として、我々は途上国の女性の経済的自立に焦点を絞った政府初の事業も始める。
驚異的な経済の成功を築くためには、最優先事項として、数十年にわたる悲惨な貿易政策を転換させることだ。
我々は中国に対し、長年にわたって米国の産業を狙い、知的財産を盗んできた今、雇用と富を盗み取るのはもう終わりだと明確にしておきたい。
我が国は最近、約2500億ドル(約27兆4000億円)の中国製品に関税を課した。財務省は今、中国から何十億ドルも受け取っている。しかし、我々を利用したと、中国を非難するつもりはない。私は、この茶番を許した我が国の過去の指導者と議員たちを非難する。私は習シー(近平ジンピン)国家主席をとても尊敬している。
我々は今、中国との新しい貿易協定に取り組んでいる。しかしその新たな協定には、不公正な貿易慣行を終わらせ、慢性的な貿易赤字を減らし、米国の雇用を守るために、実質的で構造的な改革が含まれなければならない。
もう一つの歴史的な貿易の大失敗は、北米自由貿易協定(NAFTA)として知られる大惨事だ。
私はNAFTAによって夢を砕かれたミシガンやオハイオ、ペンシルベニア、インディアナ、ニューハンプシャー、さらに多くの州で男女に会った。何年もの間、政治家はより良い協定を交渉すると公約してきた。しかし、今まで誰も実行を試みなかった。
我々の新しい「米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)」は、NAFTAに取って代わり、米国の労働者のために役割を果たすだろう。それによって、米国の製造業に雇用を取り戻し、米国の農業を拡大させ、知的財産を保護し、より多くの車に「メイド・イン・ザ・USA」の美しい四つの単語を誇らしげに刻印することを保証できる。
私は今夜、相互貿易法を議会で通過させることを求めたい。他国が不当な関税を米国の製品に課したら、我々も彼らが売りたい同様の製品に全く同じ関税を課せるようにするためだ。
両党は、米国のボロボロのインフラ再建という偉大な仕事のため団結できるはずだ。
私は、議会がインフラ整備法案を通すことに意欲を持っているのを知っている。私は、未来の最先端産業のための投資を含めた、新しくて重要なインフラ投資を実行するための法整備で、あなたたちと一緒に働きたくてたまらない。これは選択の問題ではない。必要不可欠なものだ。
私だけでなく、私たち全員にとって次の大きな優先事項は、医療と処方薬の費用を減らし、既往症のある患者を守ることだ。
私の政権の努力の結果として、既に薬の価格は2018年に、46年間で最大の下げ幅を経験した。
しかし、我々はもっとやらなければならない。米国人が、たいてい全く同じ場所で作られている全く同じ薬のために、他国の人より非常に高い金額を支払わされるのを受け入れることはできない。こんなことは間違っており不公平だ。力を合わせ速やかにやめさせたい。
私は、医薬品開発費の負担が世界的に不公正になっている問題にようやく取り組み、米国の患者にとって公平性と価格の透明性を提供する法律を通すことを求めている。製薬会社や保険会社、病院に対し、競争を促し、価格を下げるために実際の価格を開示することも要求すべきだ。
歴史上、米国の自由ほどの力を持って、人々の境遇を進歩させたものはほかにない。ここ数年で我々は、HIV(エイズウイルス)との闘いで目を見張る進展を遂げた。科学の飛躍的進歩は、遠い夢を手の届く距離に引き寄せた。私は、10年以内に米国でHIVの流行を確実になくすために必要な予算を民主党と共和党に求めたい。一緒に米国のエイズに打ち勝とう。
今夜、私は全ての米国人が支持できる別の闘いに参加することも求めている。それは小児がんとの闘いだ。
観客の中で今晩メラニアと一緒にいるのは、とても勇敢な10歳の女の子、グレイス・イラインだ。やあグレイス。彼女は4歳の時から誕生日のたびに、セントジュード小児研究病院への寄付を友人に呼びかけていた。彼女��自身が、患者になる日が来るとは思わなかった。それが起こった。昨年、グレイスは脳のがんと診断された。すぐに彼女は放射線治療を始めた。同時に地域に呼びかけ、がんとの闘いのために4万ドル以上を集めた。彼女が昨秋、治療を終えた際、「化学療法の最終日」というポスターを掲げると、彼女の医師や看護師が目に涙をためて喜んだ。ありがとうグレイス、あなたはこの部屋にいる全員の励みだ。
多くの小児がんは新しい治療法が見つかっていない。私は、命を救う重要な研究のため5億ドルの予算を議会に求めている。
共働きの親を助けるため、米国の子供たちのための公立学校選択制を通す時が来た。私は、有給の家族休暇を全国的に導入する計画を予算案に含める最初の大統領となることを誇りに思う。親がみな、生まれたばかりの子供と親密な絆を結べるようにするためだ。
母親が幼児を抱く美しい映像と比べ、我々の国で最近流れた身も凍るような映像ほど、大きなコントラストを示すものはない。
ニューヨークの議員は、生まれる寸前の赤ちゃんを中絶できるようにする法案の通過を喜んだ。こうした赤ちゃんは、生きていて感覚を備える美しい存在なのに、この世の愛も夢も決して触れられない。バージニア州の知事に至っては、その発言で、出産後に赤ちゃんを処刑する意図まで示した。
全ての人の尊厳を守るため、私は、母親の胎内で子供が痛みを感じることができる妊娠後期の中絶を禁止する法案を通過させるよう求めている。
無垢(むく)の生命を大事にする文化を共に築こう。根本の真実を再確認しよう。生まれた子もこれから生まれる子も、神の神聖な御姿をかたどったものだ。
私の計画の最後は米国の安全保障についてだ。
ここ2年以上、昨年は7000億ドル、今年は7160億ドルをかけて、我々は米軍を全面的に立て直すことに着手してきた。我々は他の国々に対して公平な分担をさせている。やっとだ。長年の間、米国は、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国である友好国から非常に不公平に扱われてきた。しかし、この2、3年でNATOの同盟国による1000億ドルを超える防衛支出の増額を確保した。彼らができないと言っていたものだ。
軍増強の一環として、米国は最新式のミサイル防衛システムを開発している。
私の政権下では、米国の利益を促進したことを巡って我々が謝ることは決してない。
例えば、数十年前、米国はロシアとミサイル能力を制限し、縮小する条約を締結した。我々が合意とルールを誠実に守る一方、ロシアは長年、繰り返し取り決めを破ってきた。それが、私が中距離核戦力(INF)全廃条約から正式に離脱することを発表した理由だ。それ以外に選択肢がない。
おそらく我々は中国やその他を加えて異なる合意を交渉できる。もしできなければ、我々は、ほかのどの国もはるかにしのぐ費用をかけて技術革新を行い優位に立つ。
大胆で新しい外交の一環として、我々は朝鮮半島での平和のために歴史的な努力を続けている。我々の人質は帰国した。核実験は止まった。ミサイル発射は15か月間、行われてこなかった。私が米国の大統領に選ばれていなかったら、私の考えでは、今まさに、北朝鮮と大規模戦争になっていただろう。多くの仕事が残っているが、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長と私の関係はよいものだ。金委員長と私は2月27、28日にベトナムで再び会う。
2週間前、米国は正統なベネズエラ政府および新しい大統領、フアン・グアイド氏を正式に承認した。ベネズエラの人々の高貴な自由の追求を支持する。マドゥロ政権の残忍性を非難する。彼らの社会主義政策は、南米で最も裕福だった国を、みじめな貧困と絶望の国に転落させたた。
ここ米国で、我々の国に社会主義を採用しようという新たな要求を警戒している。米国は、政府の強制でも支配でも統制でもなく、自由と独立の上に築かれた。我々は生まれながらに自由で、自由であり続ける。今夜、米国が決して社会主義国にならないという決意を再確認する。
我々が長年にわたって直面する試練の中でもとりわけ複雑なものの一つは、中東にある。
我々の取り組みは、原則にのっとる現実主義に基づいている。何十年も進展がなかった信用できない理論ではない。だからこそ我々の政権は、イスラエルの真の首都を認め、誇りを持ってエルサレムに大使館を開いた。
我々の勇敢な兵士は今、ほぼ19年間にわたって中東で戦ってきた。アフガニスタンとイラクでは7000人近い米国人の英雄が命をささげた。5万2000人以上の米国人が重傷を負った。我々は7兆ドル以上を中東での戦闘で費やしてきた。
大統領候補として、私は新しい取り組みを声高に約束した。偉大な国は、終わりなき戦争はしない。
私が就任した時、イスラム過激派組織「イスラム国」はイラクとシリアの2万平方マイル以上を支配していた。今日、血に飢えた怪物の支配から、我々は実質的に全領土を解放した。
「イスラム国」の残党を壊滅するため、同盟国と連携して取り組んでいる今、我々のシリアにいる勇敢な戦士に温かい「お帰りなさい」を贈る時だ。
私はまた、アフガニスタンで政治的解決を、可能なら実現させるための交渉を加速させてきた。敵対勢力もまた、交渉が行われていることをとてもうれしく思っている。我々の軍は比類なき勇猛さで戦ってきた。そして、彼らの勇気のおかげで、我々は今、この長く血を見るような紛争の政治的解決となりうることに取り組むことができる。
アフガニスタンで私の政権は、(旧支配勢力)タリバンを含む数多くの勢力と建設的な対話を行っている。これらの交渉が進展すれば、我々の軍の駐留部隊を減らし、テロ対策に集中することができるだろう。我々は実際にテロ対策に集中する。(和平)合意を実現できるかどうかはわからない。しかし、20年に及ぶ戦争を経て、少なくとも和平達成に向けて努力する時が来たことを我々はわかっている。相手も同じことをしたいと思っている。その時だ。
敵味方の区別なく何より重要なのは、国民を守ろうとするこの国の力と意思を疑ってはならないことだ。18年前、テロリストたちは米駆逐艦「コール」を襲撃した。そして先月、米軍はこの襲撃の首謀者の一人を殺害した。
我々は今夜、トム・ウィバリーが参加してくれたことを光栄に思う。彼の息子で海軍上等兵のクレイグ・ウィバリーは、我々が悲劇的に失った17人の乗組員の1人だった。トム、我々はいつでも、駆逐艦コールの英雄たちを記憶にとどめると誓う。ありがとう、トム。
私の政権は、世界で有数のテロ支援国家であるイランの急進的な政権に立ち向かうため、断固とした態度で行動してきた。急進的な政権だ。彼らは本当に悪いことをする。
この邪悪な独裁政権が核兵器を決して保有しないことを確実にするため、私は破滅的なイラン核合意から米国を撤退させた。そして我々は昨年秋、米国が一国に科すものとしては最も厳しい制裁を発動させた。
我々は、米国に対して死を唱え、ユダヤの人々に対して集団虐殺を行うと脅す政権から目をそらさない。反ユダヤ主義という卑劣な害毒、その悪意に満ちた信念を広める人々を、決して無視してはならない。我々は一致団結し、こうした憎しみがいかなる場所で生じたとしても、立ち向かわなければならない。
わずか数か月前のことだが、(東部)ピッツバーグのシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)「生命の木」で、ユダヤ系米国人11人が反ユダヤ主義の襲撃によって残忍な形で殺害された。SWAT(警察特殊部隊)のティモシー・マットソン隊員は銃撃のさなかに突入し、7回撃たれながらも犯人を追跡した。そして非常に成功した。ティモシーは12回目の手術を受けたばかりで、さらに多くの手術を受ける。しかし、今夜、我々と共にここにいるために駆けつけた。マットソン隊員、ありがとう。我々は、永遠に感謝する。本当にありがとう。
今夜、ピッツバーグの事件の生存者ジュダ・サメットも参加している。彼は、虐殺が始まった時にシナゴーグに到着した。しかし、彼は昨秋、死を免れただけではない。70年以上前、ナチスの強制収容所でも辛うじて生き残ったのだ。今日はジュダの81歳の誕生日だ(拍手。誕生日を祝う歌が歌われる)。彼らは私のためにそうしてくれないよ、ジュダ。ジュダは、約75年前、強制収容所で10か月間過ごした後、家族と列車に乗せられ、別の収容所に行くと言われたまさにその時を、今でも思い出すことができると言う。突然、列車がキーッと音を立てて止まった。1人の兵士が現れた。ジュダの家族は最悪の事態を覚悟した。そのとき、彼の父親は大きな喜びの声を上げた。「米国人だ、米国人だ」と。
今夜ここにいる、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を生き抜いた2人目の人物のジョシュア・カウフマンは、ダッハウ強制収容所の捕虜だった。彼は、家畜運搬車の壁の穴をのぞき、米兵が戦車で続々とやって来るのを見たことを覚えている。ジョシュアは「私にとって、米兵は神が存在するという証しであり、彼らは空から下りてきた。彼らは天国から下りてきた」と回想する。
今晩、私はまず、第2次世界大戦中の「Dデー」(ノルマンディー上陸作戦の決行日)に戦った兵士3人を称賛することから始めた。そのうちの1人がハーマン・ゼイトチクだった。
だが、ハーマンの物語はもっとある。ハーマンはノルマンディー海岸を急襲した1年後、ダッハウ(強制収容所)の解放を手助けした米兵の1人だった。彼は、この世の地獄からジョシュアの救出を支援した米国人の1人だった。75年近くがたち、ハーマンとジョシュアは今夜、ギャラリーの中に共にいる。米国の自由発祥の地であるこの場に、隣り合って座っている。ハーマンとジョシュア。あなたたちが今晩ここにいることにとても感謝している。
1944年、Dデーの早い時間帯、英仏海峡の暗い空の下で米兵が作戦に着手した時、彼らは18、19歳のただの若者だった。不安定な上陸用舟艇で、戦争の歴史の中で最も重要な戦闘へと突き進んでいったのだ。
彼らは、その時を生き残れるのかわからなかった。年を重ねられるのかもわからなかった。しかし彼らは、米国が優勢でなければならないことはわかっていた。この国家、そして、まだ生まれていない世代(のために戦うこと)が彼らの大義だった。
なぜ彼らはそうしたのか。米国のため、私たちのためにそうしたのだ。
共産主義への勝利、科学と発見の大いなる飛躍、他の追随を許さない平等と正義への前進――。全てが、先人の血と涙と勇気、先見の明のおかげなのだ。
この議事堂に思いをはせよう。あなたたちより前に(ここにいた)議員たちが、奴隷制に終止符を打ち、鉄道や高速道路を建設し、ファシズムを打ち倒し、公民権を獲得し、悪の帝国を屈服させるために投票を行った、まさにこの議場に思いをはせよう。
今夜ここには、この壮大な共和国の各地から来た議員たちがいる。メーン州の岩石の多い海岸やハワイ州の火山の峰々から。ウィスコンシン州の雪深い森やアリゾナ州の赤い砂漠から。ケンタッキー州の青々とした農地やカリフォルニア州の黄金の砂浜から。我々は共に、歴史上最も類いまれな国家の議員を務めている。
我々はこの瞬間、何をしようとしているのだろうか。我々はどのように記憶に残るのだろうか。私はこの議会の男女に求める。目の前にある機会を見よ! 最も感動させる偉業が、まだこの先にある。最も刺激的な旅が、まだこの先に待ち受けている。我々の最大の勝利はまだ先のことだ。我々の夢はまだ始まっていない。
我々は、不一致によって規定されてしまうのか、勇気を持って違いを乗り越えていくのか、選ばなくてはならない。
我々は、受け継いできたものを無駄遣いするつもりなのか、あるいは、米国人だと誇らしげに宣言するつもりなのかを選ばなければならない。我々は信じられないようなことをする。我々は不可能なことに挑む。我々は未知なるものに打ち勝つ。
今こそ米国の想像力を再び燃え上がらせる時だ。最も高い頂を目指し、何よりも輝く星を目指して目標を設定する時だ。我々を市民として、隣人として、愛国者として結びつける愛と忠誠、そして記憶の絆をよみがえらせる時だ。
これが我々の未来であり、運命であり、選ぶ道だ。私はあなたたちに偉大さを選ぶよう求めている。
どんな困難に直面しようと、どんな難問が降りかかってこようと、我々は共に前進しなければならない。
我々は、心の中に「米国第一」を掲げなければならない。魂の中に自由を息づかせなければならない。そして、神のみもとにある一つの国として世界各国の希望であり、期待であり、光であり、名誉であるべきだ――という米国の運命にいつでも信念を持ち続けなければならない。
ありがとう。みなさんに、そして米国に神のご加護がありますように。そして、おやすみなさい。
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2023/04/06
BGM: Motoharu Sano - 約束の橋
昼休み、自分の英語力について考えた。やはりTOEICや英検を受けるべきなのか……車を運転できないという理由でそうしたテストは敬遠してきたのだけれど、やはり「英語で日記を書いています」と訴えても他人は相手にしない。目に見える実績がないといけない。ならやはり受けるべきなのだろうな、と思い始めたのだった。それにテストを受けることは自分の実力の見極めにもつながる。自分に何が足りないか謙虚に捉え直す機会を作ってくれる。あるいは、最近参加させてもらったようなミーティングにもっと足繁く参加することも大事だなと思うようになった。「井の中の蛙大海を知らず」とも言う……恥ずかしいが、これまで心のどこかでは「自分には語学の才能がある」と信じていた。だがもちろんそれは形を変えればビッグマウスになっていたとも言えるわけで、虚心に現実に向き合い研鑽する必要を感じ始めたのだった。47歳にしてそんなことを考えるのだからいやはや、私も相当なノンキ坊主なのだった。
会社で自分の英語力が仕事として活きる機会はほとんどない。だから上司も多分私の英語についてただの変わった趣味としてしか認めていないと思う。日曜大工や釣りのような……私も、過去に自分の語学力について「こんなことしか取り柄がないのは困ったものだ」としか思っていなかった。だが、ジョブコーチの方との出会いがありその方々が英語力を積極的に評価して下さり、何とか英語力を仕事で活かせないか知恵を絞って下さっていると聞き「この取り柄を活かせないか」と悪あがきすることを試みるようになった。英語のメモを書き始めるようになり、日記も英語で書くようになり……鶴見済も言うように「デカい一発」ですべてをひっくり返すなんてことを考えてはならない。日々、着実に少しずつ環境を変えることが大きな変化につながるのだと思う。ならばまったく焦る必要なんてないわけだ。少しずつスローリーに英語力を活かせる環境を作っていきたい。
ロシアの女性から「なぜ英語で書くのですか」と質問された。さまざまな視点からこの質問には答えることができる。私は「変わった子だ」「ひねくれ者だ」と言われ続けていじめられた時期があるので、それで「自分をわかって欲しい」と思う気持ちが芽生えたのだと思う。幸いなことに今では世界中に友だちを作ることができている。MeWeやDiscordなどで、私に親身に接してくれる人がたくさんいる。ならば彼らのその友情に応えられないかと思って、小説を書くのは飽きっぽい性分もあって続かないので日記で彼らを楽しませたいと思い始めたのだった。そして2年ほどその日記が続いて今に至る。これからも日記は書き続けていきたい。つまり、上にも書いたが何ら「デカい一発」(つまり有名なブロガーになりたいとか)を夢見ているわけではないのである。もちろん読者はもっと増えたらありがたいと思っているにせよ、数字で一喜一憂するのもバカバカしい。寄せられるコメントに対して誠実に対応したいと思う。
夜、オンラインミーティングに参加する。実を言うと夕食を摂った後、うとうとしてしまいすっかり開始時刻に遅れて大恥をかいてしまった。だがその席で自分の日記について話題にしてもらえた。親身になって読んで下さる方がいる……ありがたいことだ。世の中には星の数ほどのブログが存在するが、その中から私の日記を好んで読んで下さる方がいるということは端的に奇跡のようなことだとも思う。ああ、過去にそのことがわからずアクセス数や読者数に翻弄された時期があった……炎上を狙ったことさえあったっけ。Discordの私のサーバの登録者数も100人くらいに達した。何もデーハーなこと、「ウケる」ことをしたわけでもなくただ虚心に自分の日々の記録を書いていたらこうなった。少なくとも私はこの結果/現実をそう受け取っている。つまり日々自分の流儀として努めて誠実に、眼前の現実に愚直に対応して生きることが大事なのかもしれないな、と思う。心意気としては常に「凡事徹底」……。
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