#大型二種限定無し免許証
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堀北真希実際にカタピラ限定大型特殊一種/普通二種MT/大型二種限定無し免許証所持しております。健太郎居候無事故・無違反徹底し、譲り合って行動出来ればありがたいです。但し理不尽な行為を失くす努力致します。
2024/04/25

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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程���敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩��誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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TEDにて
ジャック・チョイ:バーチャルな解剖台で手術が可能になる!
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
TED2012のステージで、ジャック・チョイが医学生のための強力なツールのデモンストレーションを披露します。
現実にある解剖台とまったく同じ大きさ、同じスケールの画面にマルチタッチスクリーンによって映される人体と寸分たがわぬ検体を、まるで、オーケストラの指揮をするように開腹し
内部に進行して各臓器に進みバーチャルに解剖していくことで、本物の人体の各部分と仕組みを理解することができるのです。
実際の手術とは異なる断面でスライスする様子は、3D映画のような視覚効果を体験しているようです。
解剖学の歴史は、紀元前3500年頃に古代エジプトでパピルスに書かれています。戦争が当然のごとく行われていた当時としては、人体の弱点を知らないと対戦相手に勝利できないために自然と関心が向けられるのも合点がいきます。
現代では、人体解剖はできません。医師免許。他の倫理的な教養が必要です。そして、アレキサンドリアで人体解剖は禁止され、ルネサンス期である。1500年代に入るまで発展していませんでした。
日本では、明和8年(1771年)に前野良沢、杉田玄白などが解剖を行う。その後、「解体新書」を完成させています。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
なお、ビックデータは教育や医療に限定してなら、多少は有効かもしれません。それ以外は、日本の場合、プライバシーの侵害です。
通信の秘匿性とプライバシーの侵害対策として、匿名化処理の強化と強力な暗号化は絶対必要です!
さらに、オープンデータは、特定のデータが、一切の著作権、特許などの制御メカニズムの制限なしで、全ての人が
望むように再利用・再配布できるような形で、商用・非商用問わず、二次利用の形で入手できるべきであるというもの。
主な種類では、地図、遺伝子、さまざまな化合物、数学の数式や自然科学の数式、医療のデータやバイオテクノロジー
サイエンスや生物などのテキスト以外の素材が考えられます。
こういう新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との
戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!
(個人的なアイデア)
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であ��啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理���功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
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スパイク・リー監督・主演『ドゥ・ザ・ライト・シング』 (その2:事件の背景と本作に込めらたメッセージ) 原題:Do The Right Thing 制作:アメリカ, 1989年. ベッドスタイの夏の日の朝、ラヒームの死を思う者は誰もいなかった。しかし、ラヒームは誰かの手で計画的に殺されたわけではない。かといって、「太陽が眩しかった」から殺されたわけでもない。 ラヒームはなぜ警官の犠牲になり、スパイク・リー監督はこの映画に何を込めたのだろうか。本稿では、(その1)の現場風景を手がかりに、映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』の背景と本作に込められたメッセージを探ってみたい。 なお、以下の記述のうち現場に関連する多くは、(その1:物語の現場はどうなっていたか)に状況を記し、文中に登場する会話は太字で示した。
CONTENTS ・日常の均衡を象徴するラヒーム ・黒人と白人双方の憎しみが黒人の犠牲者を生む ・なぜ、ムーキーはゴミ缶を投げたのか? ・黒人殺害事件の背景:(1) 格差の実態 ・黒人殺害事件の背景:(2) 格差を生む教育システム ・黒人殺害事件の背景:(3) 恐るべき警察の収監システム
日常の均衡を象徴するラヒーム 本作はベッドスタイの街を、愛と憎しみが拮抗する日常風景から描きはじめている。全体として怒りと憎しみの描写が目立つが、愛と寛容も描かれている。 DJダディは愛と尊敬を込めて、60人もの黒人ミュージシャンの名前を読み上げる。酔っ払いの老人ダー・メイヤーは、諍いに出会うたびに仲裁し、18年ものあいだ愚痴を欠かさない未亡人に、なけなしの金をはたいてバラの花束を贈ったりもする。 ときには警官も寛容さを発揮する。街の若者が消火栓で水を撒き散らして遊ぶなか、通りかかった白人のクルマに水を浴びせる場面では、告訴すると怒る白人を警官がとりなし、黒人の若者を無罪放免にしたりする。 反対に、生活の苦しさや家族の軋轢を描いた場面は数多くある。ムーキーには恋人のティナとの間にできた男の子がいる。しかし、ティナと同居している母親との折り合いが悪く、寝泊りするのは妹のジェイドのアパートだ。ティナは子守をしてくれない母親と言い争い、面倒見の悪いムーキーに「くたばればいい」と罵声を浴びせる。だが、その母親が子守をするアパートの別室で、ティナはムーキーと愛し合ったりもする。 ラジオ・ラヒームはこの相反する感情のバランスを体現するかのようだ。彼はいつも手に下げたラジオで大音量の "Fight The Power" を鳴らしている。しかしラヒームは、そのことで「戦い」をしているわけではない。「愛が勝つんだ」と言い、子どもと手をつなぎ楽しげに街を歩く姿も見える。ラヒームにとって "Fight The Power" は、日常を彩るラップ曲に他ならない。だがラヒームは、憎しみを忘れたお調子者ではない。 両手にはめた "LOVE" と "HATE" の指輪は、そうした日常の象徴だ。ラヒームはムーキーに、「憎しみで人は殺しあう、愛が人の魂に触れる。最後は愛が勝つ」と話す。このときムーキーは「じゃ、後でな。平和を」といって別れている。ラヒームもムーキーも、憎しみを抱えながら愛の力で日常をやり過ごしている。 街のあちこちで、愛と憎しみのバランスを取りながら生きる人々の姿が伝わってくる。これが真夏のベッドスタイの日常風景なのだろう。スパイク・リー監督が本作の前半でこうした日常を描いて見せたのは、それがひとつの「正しいこと」だからだろう。だがその正しさは、穏健な牧師の説教のようなものではない。 黒人と白人双方の憎しみが黒人の犠牲者を生む 『ドゥ・ザ・ライト・シング』の前半で描かれる日常風景は、事件への伏線に他ならない。 サルのピザ屋にバギンがやってくる。ひと切れのピザに文���をいい、支払いを渋るバギン。それをサルが、「月賦で支払うか?」とからかったそのひと言で、保たれていたはずの均衡が崩れはじめる。このときバギンは壁の写真に黒人が一人もいないと文句を言い、これが高じて店のボイコットへと発展する。 そして、サルがラヒームのラジオをバットで叩き割ったことで、事件はさらに深刻になる。互いの暴力行為が警察の介入をもたらし、警官の過剰対応がラヒームを死に追いやる。過剰対応を招いた警官の心情はほとんど描かれていないが、街をパトロールする警官が黒人に目線を定め「クソったれ」と漏らす場面が描かれている。 このときパトカーにいた二人の警官が、ラヒームを警棒で締め上げ殺害した当事者だ。しかし、同時にこの警官はサルの店でピザを買い、黒人の水遊びに腹を立て告訴するという白人をなだめ、黒人少年を逃したりもしていた。白人警官の黒人に対する憎しみがわずかしか描かれていないのも本作の特徴だろう。 白人もまた黒人に憎しみの心情を抱きながら、なんとか愛と憎しみのバランスに折り合いをつけながらベッドスタイの日常を過ごしている。しかし、このバランスは黒人にとっても白人にとっても、少しの不注意や不寛容で崩れてしまう脆弱なものだ。その上でスパイク・リー監督はアメリカ系アメリカ人の登場と彼らへの悪口を控えているように見える。これは、白人が黒人を貶めるほどには白人を責めてこなかった、黒人の姿の反映かもしれない。 ラヒームが言うように、愛と憎しみのせめぎ合いのなかで人は殺し合う。だが、この日ベッドスタイでKO勝ちしたのは憎しみの方だった。店のボイコットを切っ掛けにラヒームは自らの憎しみをサルに向け、白人警官の憎しみは黒人のラヒームに向けられた。二重の憎悪が愛と憎しみのバランスを狂わせ、ラヒームがその犠牲になった。 黒人と白人の双方が憎みあい、黒人に多くの死をもたらす構造は、過去に起きた同種の事件に共通している。スパイク・リー監督は本作を「エレノア・バンパーズ銃撃事件」他5名の犠牲者に捧げているが、その6人はすべて黒人だ。直近では今年5月25日にミネアポリスで起きた「黒人男性拘束死事件」でも犠牲者は黒人だった。これだけを見ても、映画に描かれた状況は30年以上も変わっていないことがわかる。 なぜ、ムーキーはゴミ缶を投げたのか? 『ドゥ・ザ・ライト・シング』で最も興味深い場面は、ラヒームが死亡したあとの顛末である。パトカーが動かなくなったラヒームを運び去ったあと、ムーキーが思わぬ行動に出る。大型のゴミ缶をサルの店のウインドウに投げつける場面だ。これがきっかけで街の住人は暴徒化し、店の什器は破壊し尽くされ、現金が盗まれたあげく店に火が放たれる。 なぜ、ムーキーは店を破壊する行動に出たのか? それはムーキーが、サル一家を暴徒から助けようとしたから、というのがわたしの見方だ。本作が描く現場には、そう思わせるさまざまな状況証拠がある。 ムーキーがゴミ缶を投げる前、群衆の怒りがサル親子に向けられる場面がある。ムーキーもサル���の側に立ち、詰め寄る人々の怒りに囲まれる。このときのムーキーの表情が印象的だ。彼はサルの家族に視線を向け、祈るような仕草をする。ムーキーは「このままではマズイことになる」と思ったのだろう。 店で妹と食事を楽しみ、サルから給料をもらい、ピノと話が通じるムーキーの心情が、サルたちへの憎しみ一色だとは思えない。「家に帰れ」という警官にムーキーが「ここが家だ」叫んだように、彼らは日常をともに過ごす「家」の住人なのだ。彼はその生活の絆が徹底的に破壊されるのを避けたかった。だからこそムーキーは、群衆の気を引くように「憎しみだ!」と叫びながらゴミ缶をサルの店に投げてみせた。人々の怒りをサルたちにではなく、店に向けさせるために。 ムーキーの心情に憎しみのカケラもなかったかと言えば、そうでもないだろう。彼は何度も仕事ぶりをサルにけなされている。ピノとの折り合いも悪かった。その鬱憤を���らす気持ちもあったかもしれない。それでもムーキーは、人々を暴動に誘おうとしてゴミ缶を投げたわけではない。彼の行動の本質は、サル一家に決定的な危害が及ぶのを阻止しようとことにある。別な見方はあるかも知れないが、わたしはムーキーの行動をそのように受け止めた。 このことは、群衆の怒りの矛先がコリアン雑貨店に向かう場面と辻褄が合う。サルたちはこのとき、雑貨店が餌食になる様子を息を飲むような表情で見つめていた。そこに、犠牲になりかねなかった自分たちの姿を重ねたからだろう。サルたちは、無関係の彼らが自分たちの身代わりになることを案じたのではなかっただろうか。 他にも証拠がある。翌朝、ムーキーは未払いだった250ドルの給料をもらいに焼け落ちたサルの店に行く。その際のやり取りで、激昂しながらもサルはムーキーがゴミ缶を投げたことを責めていない。普通に考えて、自分の店にゴミ缶を投げつけて壊し放火を招いた相手を目の前に、責めないことがあるだろうか。なぜ、サルはそのことを口にしなかったのだろうか? それはサルがゴミ缶を投げたムーキーの心情を知っていたからだ。また、ムーキーはサルが投げてよこした500ドルのうち、残りの250ドルもポケットに入れている。このやりとりでムーキーはサルに、「借りておく」と言っている。サルとの関係はこれからも続くということだろう。 店への破壊行為、友人の死、さらには店への放火といった暴力行為を描きながら、この作品を通じてスパイク・リーは、愛と憎しみの平衡を何とか取り戻そうとする主人公の姿を演じている。"Fight The Power" が "Black Lives Matter(黒人も大切にしてくれ)" の叫びに聞こえる。これは本作で彼が監督として示した一貫した姿勢だと思う。穏健な改革派のキング牧師と、暴力を否定しなかったマルコムXを同時に登場させたのもその現れだろう。 スパイク・リー監督が『ドゥ・ザ・ライト・シング』で行って見せたのは、時には暴力に訴えることもあるがやり過ぎてはいけない。ともかく黒人も大切にしてほしいという、ごく当たり前の訴えなのだと思う。 黒人殺害事件の背景:(1) 格差の実態 それにしても、本作に描かれた事件と同種の事件が後を���たない。本作は制作年の1989年までに起きた同種の6つの事件に捧げられているが、本稿を書いている現在も先月5月25日にミネアポリスで起きた「黒人男性拘束死事件」の余波は世界的な広がりをみせている。 そして、またあらたな事件が起こった。数日前の6月12日、ドライブスルーで警官に撃たれた黒人男性が死亡した。こうした事件は、アメリカで1964年に公民権法が制定された後も絶えることがない。 ミネアポリスの「黒人男性拘束死事件」は、その後 "Black Lives Matter" として世界的な抗議活動に発展し、1) 現在も収まる気配がない。そうしたなか、この種の事件が起こる背景についてさまざまな報道が行われている。その多くは経済格差とその背後にある政治や司法の問題を指摘し、さらにトランプ大統領の政策が影響しているとする意見も多い。 例えば、6月11日付けの日本経済新聞は「黒人暴行死事件の背景を探る」として、黒人の置かれた状況をデータで示すとともに、人種差別の歴史を振り返る特集記事を掲載している。前者の要点は次のようなものだ。個々の詳細は、元記事2) を参照いただきたい。
白人の世帯年収平均金額の中央値は黒人の1.7倍 黒人の無保険者は白人の1.8倍 コロナによる黒人の死者数は白人の約2.5倍 各人口あたりの警官による殺害は黒人が白人の約2.8倍 マリファナ使用による逮捕者数は黒人が白人の約3.7倍 警察の呼び止めを正当と思う人は黒人より白人が多い 黒人有権者のトランプ氏支持率は9% 黒人はバイデン氏の支持率が圧倒的に高い
一見して白人と黒人の間の格差は大きく、記事がいう国家的な仕組みが関係しているとしか考えられないものだ。そうであれば、その制度を擁護し、声高に「アメリカ・ファースト」を主張し、「白人至上主義者にも良い人はいる」といった発言を繰り返すトランプ氏が黒人から嫌われるのは当然のことだろう。 トランプ氏のトレードマークにもなっている「アメリカ・ファースト」については、その差別的な背景について、2018年公開の『ブラック・クランズマン』のなかでスパイク・リー監督が鋭く切り込んでいる。同作品よれば「アメリカ・ファースト」には、明らかに白人の黒人に対する差別が込められている。 こうした差別や格差に関するデータについては、例えばソキウス101の「アメリカの貧困と格差の凄まじさがわかる30のデータ」などにより詳しく取り上げられている。3) 子どもの貧困、寿命格差、食糧支給、ホームレスなど、より広範な視点で世界中に広がる格差の状況を概観することができる。 黒人殺害事件の背景:(2) 格差を生む教育システム だが、こうした記事やデータを読むだけでは不公平な制度の中身はわからない。このため、日経記事が掲げるような問題、例えば黒人が白人よりも大幅に低所得なのは、彼らが働かないからだと思い勝ちだ。 本作でもムーキーがピザ屋に顔を出して最初の会話は、ピノからの「遅刻だ」の一言だ。通りを掃除しろと言われても、「オレの仕事はピザの出前だ」と聞こうとはしない。さらにムーキーは、配達中に道草をしてサルに叱られ「出前にはビトを(見張りに)付けよう」といわれたりする。そもそも、映画に登場するベッドスタイの住人のほとんどは働いていないように見える。 こうした描写を見ると、アメリカの保守派が口にする自己責任論がもっともらしく思えてくる。保守派にしてみれば保険も自己責任で費用を負担し加入しているのであって、働こうとしない人々に自分らが負担してまで保険制度を適用するのは反対だという考え方になる。これはオバマケアでさんざん議論されたことだ。 しかし、雇用、保険、教育など、人間が生きる上での基本的人権にかかわる制度自体に歪みがあり、黒人の雇用が狭められているとすれば、働かないのは働けない仕組みのせいになる。この点について、本田創造氏の『アメリカ黒人の歴史 新版』に次の記述がある。4)
「黒人問題」は、すでに詳しく述べた公民権運動の数々の輝かしい差別撤廃の成果にもかかわらず、依然として解決されていないということである。(…)しかし、黒人大衆の経済状態は、最近では、むしろ悪化さえしている。それは、かれらの存在そのものが、最高度に発達したアメリカ資本主義の重要な存立基盤のひとつとして、この国の社会経済機構の中に差別されたかたちで構造的に組み込まれているからである。 (Kindle の位置No.2903-2908).
同書は1964年に旧版が出たあと、公民権運動の中心となった黒人解放運動などを書き加え、1991年に新版として出版された。引用にある「最近」は、映画の舞台となったベッドスタイの時代と重なる。そしてその当時から現在まで、白人と黒人の経済格差はいっこうに縮まっていない。本田氏の言う「社会経済構造のなかの差別」は当時からおよそ30年を経過した現在も続いていることになる。 この制度問題に関する記事は必ずしも多くないようだが、ニューヨーク在住のライター堂本かおる氏が制度的人種差別について、「白人警官はなぜ黒人を殺害するのか 日本人が知らない差別の仕組み」のなかで次の指摘をしている。5)
米国の公立学校の財源はほとんどが固定資産税で賄われており、貧困地区と裕福な地区の極端な税収格差が、子供たちが受ける教育格差に直結している。こうした要素が重なり、貧しい黒人の子供たちが学力格差を克服するのはほぼ不可能に近いとさえ言われている。
また、同記事を補足する形で、ショーンKY氏が「アメリカの格差と分断の背景にある自治体内での福祉予算循環」と題する記事のなかで、アメリカに現存する制度的な差別の実態と構造を詳しく論じている。6) 格差社会アメリカの構造を知る上で有用な内容で、わたしは次の一節に至る理由を読んで、アメリカの格差問題は本当に根が深いと思った。
アメリカにおける自治体別の格差は、本質的には所得格差に由来するものである。これがなぜ人種格差と結びつくかと言えば、(…)それが学校・警察を経由した格差の相続装置であり、一度生じた格差を時間が経つごとに拡大させるエンジンになっているからである。
格差の発生源を「時間とともに格差を拡大させるエンジン」と形容したのは秀逸だと思う。この喩えを広げれば、税収は燃料、教育システムはエンジンと燃料で動く内燃機関になるだろう。 エンジンは富裕層が住むゲートの内側と外側にあり、それぞれの燃料(税収)の多寡に応じて働く。燃料が豊かなゲートの内側では教育設備や環境が整い効率的に富の生産が行われる。一方、燃料が乏しいゲートの外では設備の不足や老朽化が進み、教師も満足とは言えず価値の生産が滞りその質も低下する。 さらに言えば、ゲートの内側では学力の向上が高学歴を促し、生徒が社会に出て政治の世界に手が届くと、豊かな教育を受けた本人は自身の育ちを肯定的に捉え、内燃機関(教育システム)を信奉するようになる。反対にゲートの外側では劣悪な教育が犯罪の温床となり、そこでは機能しないエンジンを直そうとする者も育たない。エンジンの例えが秀逸だと思ったのは、ここで説明されている教育システムが、白人中心に営まれるアメリカ社会の原動力をうまく表現していると思ったからだ。 教育制度が抱えるこうした差別的な構造は、黒人の賃金を抑え白人社会に利益を移転する搾取の問題以上に、学習意欲や労働意欲を阻害する点で、人生により根本的で深刻な危害をもたらす。学校の設備は貧相で古いものばかり、そのうえ教師の能力も劣る。家に帰れば、貧しい家計が食事や医療を圧迫する。そうした環境で多くの黒人が育つとすれば、彼らが白人と同等の学ぶ意欲を持つのは容易ではないだろう。白人が同じ環境に置かれれば、同様に意欲を削がれはずだ。意欲なしには十分な知識や給与は得られない。生きる意欲なしに、一体どうすれば生活が良くなるのだろう。格差は拡大する一方だ。 ムーキーらが暮らす1989年のベッドスタイは、ゲートの外にある文字通り"DO-OR-DIE"の世界である。映画のなかで本の話題が二度出るが、どちらも「お前が本を読むか?」とからかうネタにされている。少なくてもムーキーとティナの子ヘクターがゲートの外にいる限り、彼を働き者に育てるのは容易ではないだろう。社会のシステムが、両親が得た以上の教育を受けることを困難にしているからだ。 映画のなかでムーキーは25歳だ。彼はちょうど公民権法が制定された年に生まれたことになる。本田氏の指摘によれば、その後「黒人大衆の経済状態はむしろ悪化」した。ムーキーの労働意欲の欠如と低い収入は、アメリカ社会の制度的な歪みが大きく関係していると思われる。ベッドスタイの人々の多くは、働かない生活を自己責任で選び取ったのではないだろう。黒人のすべてがそうだとは言えないが、その多くは働く意欲を削ぐ社会的な仕組みの犠牲者だというしかない。 黒人殺害事件の背景:(3) 恐るべき警察の収監システム 教育システムとともに、もうひとつ制度上の大きな問題がある。警察の収監システムである。『ドゥ・ザ・ライト・シング』のなかで収監そのものが描かれているわけではないが、これも当時の黒人の生活や、ラヒームが犠牲になった背景に関係している。 先日の「黒人男性拘束死事件」に端を発したデモの映像で、何度か警察予算の削減を訴えるプラカード "DEFUND THE POLICE" を目にした。7) この標語は "BLACK LIVES MATTER" とともに、この種の事件が発生するたびに何度も使われてきたスローガンである。 英語版のWikipediaによれば、"DEFUND THE POLICE" は警察からの資金を分離し、社会サービス、青少年サービス、住宅、教育、その他の地域社会の資源など、公共の安全と地域社会の支援といった非警察的な形態に向けて再配分しようと訴えるものだ。8) さらに解説を読み進むと、こうしたスローガンが生まれた背景に、凶悪犯罪を取り締まるはずの警察が軽犯罪ばかりを取り締まり、人種的偏見にもとづく、貧困層を狙い撃ちにした逮捕が横行する実態があることがわかる。 映画で描かれたラヒームとサルの喧嘩も、殴り合いだけなら軽犯罪で済んだことだろう。顔見知りで同じ街で生活を共にしてきた二人が、もつれあいのなか相手を殺害するとは考えにくい。もし、そうなりそうなら周りが止めただろう。サルはバットでラジオを壊しはしたが、バットでラヒームに殴りかかりはしなかった。また、ラヒームも凶器を持っていない。それが警察の介入で殺害へと変貌するのは、日常的に繰り返される逮捕の多さと、安易に過剰に走る取り締まりに問題の一端があると思わせる。 軽犯罪を理由に大量の人々を逮捕するには、警官の人件費や装備費に多額の予算が必要になる。こうした実状から、弱いものを狩る部隊と化した警察予算を分離し、弱いものを救うためのサービスに予算を振り替えようといのが "DEFUND THE POLICE" の主旨だが、そうなる理由を掘り下げて考えるには、Netflixが独自に制作した動画『13th -憲法修正第13条-』(以下、『13th』と略記)がひとつの手掛かりになる。9) 動画は奴隷解放がいかにして収監システムに姿を変えたかを、歴史を振り返りながら伝えている。奴隷解放宣言(1863年)のあと公民権法が制定(1964年)され黒人への人種差別はなくなったはずだが、奴隷だった黒人の多くは受刑者として、新たな制度に引き継がれたという。 動画の題名になっているアメリカ合衆国憲法修正第13条は、公式に奴隷制を廃止し、奴隷制の禁止を定めたものだが、「犯罪者を除外する」という主旨の例外規定がある。この例外規定が犯罪者を奴隷扱いすることを可能にしたというのが『13th』の本質を成す主張である。動画は概ね次のように述べている。
公民権法が制定されて、400万人の奴隷をどうするかが問題になった。彼らは南部の経済や生産に欠かせない存在だったからだ。では、奴隷だった者をどうするか? 奴隷の恩恵を得て伸びてきた経済をどうするか? この二つの問題解決に修正13条の抜け穴が利用された。
この抜け穴が大量の受刑者を生み出す原点となった。 いうまでもなく受刑者は刑務所に収監され、社会や家族との接触を断たれる。動画によればその数は、2014年の時点で230万6,200人を数える。国別ではアメリカが世界最多、米国内の人種別では黒人が受刑者の40.2%を占めるという。しかも、1980年から2000年までの20年間で、受刑者の数はおよそ3.5倍という増加ぶりだ。下図にアメリカ国内の受刑者数の推移を示す。10)
なぜ、これほどの数の受刑者がいて、しかも急激に増えたのだろうか? 動画はこの背景に、刑事司法制度と産獄共同体が抱える問題があると指摘している。前者の司法制度については、そもそも「容疑者に対する裁判そのものが行われていない」として次のように述べている。
保釈金を払って保釈されようと思えば1万ドルが必要だが、貧しい家庭ではできない。そこで、検事から司法取引が持ちかけられる。「司法取り引きするなら3年、裁判をするなら30年の刑だ。それでも裁判をするか?」貧乏人は裁判をしない。拘留された人のうち97%は裁判を断念し、司法取引に応じている。これは考えうる限り、アメリカにおける最悪の人権問題のひとつだ。
有罪か無罪かの真実ではなく、富が結果を決める現実がある。しかも、司法取引に応じて身に覚えのない罪を認め有罪になれば、その後生涯にわたって社会的な制限を受けることになる。 『13th』によればそうした社会的な罰は、学生ローン、事業免許、食糧配給券、家の賃借、生命保険など全部で「4万にもおよび」、「アラバマ州の黒人男性の約30%が、前歴のせいで投票権を永久に失っていることを誰も知らない。」という。掛けられた嫌疑の真実がどうであろうと、いったん有罪の烙印が押されれば、その印は一生ついてまわる。お金の多寡で罪が決められ、社会の仕組みによって罰が与えられるとは、何という悲惨、何という不幸だろうか。 こうした現実が長きにわたって続いているのは、司法制度と産獄共同体(産獄複合体とも呼ばれる)が一体となり、収監システムとして機能しているからだという。上述のWikipediaによれば複合体は、企業、政治家、メディア、看守組合などの利権集団で構成される。このうち『13th』で具体的に言及されるのは、CCA(Corrections Corporation of America)と呼ばれる民間刑務所会社、ロビー団体の米国立法交流協議会ALEC(American Legislative Exchange Council)とその会員企業である。動画はかなりの時間を、産獄複合体の実態についての説明に充てている。 それによれば、CCAはアメリカ初の民間刑務所会社として1983年に発足した。発足当時は小さな会社だったが、現在では全米60ヵ所以上で施設を運営している。Wikipediaによれば、直近の売り上げは約20億ドル、純利益1.9億ドル、従業員14,075人とある。売上高純利益率からいえば、すばらしい成績の優良企業だ。11) CCAがこれだけの好成績を上げていられるのは、刑務所が常に満杯で、しかも年々収容者数を増やしてきたからだ。『13th』はそれがどのように成し遂げられたかを次のように描いている(主旨)。
CCAは州と契約して投資を行うため、州は刑務所を満杯にする必要があった。CCAの働きかけででALECは、受刑者数を増やすための法案を提出した。クリントン政権の時代、「スリーストライク法」「必要的最低量刑法」「刑期の85%を下限にする」といった法律が次々と制定された。全て彼らが作った自分都合の法律だ。受刑者の安定供給によって生み出された利益は株主の懐に入る。80年代後半から90年台前半にかけて、刑務所運営は成��産業になった。成功が確実に保証された事業モデルだった。こうしてCCAは民間刑務所のトップになり、人を罰することで巨万の富を得ている。
「スリーストライク法」は、重刑を三回犯した者を一生刑務所に閉じ込めることを可能にした。「必要的最低量刑法」は比較的軽微な薬物犯などであっても、強制的に一定期間の拘禁刑を科す法律である。「刑期の85%を下限に」も含め、すべてクリントン政権の時代(1993年1月〜2001年1月)に法制化されたようだ。 収容者を増やすための法律という批判に対し、メリーランド州の上院議員がインタビューに「質問の意味がわからない」と答え、クリントン氏が「受刑者の増加率は減った」と反論する場面もあるが、前掲の図のように1993年から2001年のクリントン政権の時代、収容者は大幅に増えている。一方で、凶悪犯の検挙率が極めて低いことを考えると、収容者を増やすための法律といわれても仕方がないだろう。このような背景のもとで、収監システムは民間の刑務所のビジネスを急拡大させ、社会的な存在感を増していった。 『ドゥ・ザ・ライト・シング』が作られた1989年は、こうした時代の真っ只中にあった。司法と刑務所が収監システムへと姿を変え、貧困層の黒人をまるで利益のための餌のように狩る時代の嵐のなかでこの映画は作られたことになる。『13th』は動画の終盤で次のように訴えている。
理解してほしい、黒人の命だけが大切なのではない、全ての人々の命が大切なのだ。例外は存在しない。刑事司法制度の関係者も、産獄共同体の関係者もそうだ。黒人だけの問題ではない。人間の尊厳について、この国の意識を変える必要がる。
これは、スパイク・リー監督にとっても同じ思いではないだろうか。ムーキーは働かないのではない、働くための途方もなく高い壁を乗り越えられないのだ。その一方で、警官はシステムのなかで働く白人の一人としてラヒームを殺害した。その現場でムーキーはひとりの人間として、イタリア系アメリカ人のサル一家を暴徒から守ろうとゴミ缶を投げたのである。 スパイク・リー監督は本作を制作した29年後の2018年に『ブラック・クランズマン』を作った。その映像に彼は、ラヒームと同様に犠牲になった白人女性ヘザー・ハイヤー氏の、「憎しみのうちには、何人の居場所もない」という言葉を添えている。繰り返すが、ハイヤー氏は黒人女性ではない。生前ラヒームが拳を掲げて言ったように「最後は愛が勝つ」。スパイク・リー氏とともに、わたしもその言葉を信じていたい。
(その1:物語の現場はどうなっていたか)
1)BLMの訴え自体は、2013年2月にフロリダ州で黒人少年のトレイボン・マーティンが白人警官のジョージ・ジマーマンに射殺された事件に端を発すると言われている。 Wikipedia「ブラック・ライブズ・マター」 https://bit.ly/2Y5oGfW 2)日本経済新聞「黒人暴行死事件の背景を探る(上)(下)」2020.06.11. https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60150710Z00C20A6I00000/ 3)ソキウス101「アメリカの貧困と格差の凄まじさがわかる30のデータ」2020.4.30. http://socius101.com/poverty-and-inequality-of-the-us/ 4)本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波書店, 1991. 5)堂本かおる「白人警官はなぜ黒人を殺害するのか 日本人が知らない差別の仕組み」文春オンライン, 2020.6.8. https://bunshun.jp/articles/-/38288?page=2 6)ショーンKY「アメリカの格差と分断の背景にある自治体内での福祉予算循環」note, 2020.6.9. https://note.com/kyslog/n/n5b8601ac8905 7)時事ドットコムニュース「「警察に予算回すな」 デモ継続、改革要求強まる―米」2020.6.8. https://www.jiji.com/jc/article?k=2020060800088&g=int 8)Wikipedia “DEFUND THE POLICE” https://en.wikipedia.org/wiki/Defund_the_police 9)Netflix『13th -憲法修正第13条-』2020.4.17. https://youtu.be/krfcq5pF8u8 10)Wikipedia “Incarceration in the United States” https://en.wikipedia.org/wiki/Incarceration_in_the_United_States 11)Wikipedia「コレクションズ・コーポレイション・オブ・アメリカ」 https://bit.ly/2CjUJA5
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かつてなく老いた涙目の短歌のために
「目は口ほどに物を言うからな」の一言で自分の言葉を信じてもらえなかったら憤慨するだろうけれど、同時に、「じゃあしかたない」とも思ってしまうかもしれない。ことわざを本気で使ってくる人を相手取るとき、そのことわざの力強さに対して自分の正直な心の力は、頑張っても引き分けか根比べ競争に持ち込めるかくらいのものかもしれない。そんなことでいいのか。「口」を信用することなく、「目」に権威を求めてしまうのはなぜだろうか。
わたしの視野になにかが欠けていると思いそれは眼球めだまと金魚を買った
/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
「わたし」=「それ」=「作中主体」が「視野になにかが欠けていると思い」、「眼球と金魚を買った」。眼球の有無は「わたしの視野」の信頼にかかわるだろうか。
「わたしの視野」の信用問題。それは「わたしの視覚」の問題には回収されないだろう。「わたしの視野」を再現すること、報告すること。それは、語りの問題でもある。「わたしの語り」あるいは「わたしについての語り」。
「わたしの視野になにかが欠けていると思い」 「それは眼球めだまと金魚を買った」
と語る者がいる。一人称の「わたし」と三人称の「それ」を使い分けながら〈わたし=それ〉について語る者。あたかも三人称の「それ」に言及するように一人称の「わたし」について語ることのできる、「わたし」でも「それ」でもない語り手。
その語り手は眼球を使って〈わたし=それ〉を見たのだろうか。うーん。語り手として、わたしたちは見たことも聞いたこともないことを語ることができるけど。
それはメタ視点の〈わたし〉だろうか。メタ視点の〈わたし〉と思いたがる態度は、なんとしてでも〈わたしの視点〉を死守しようとする心に由来しないだろうか。もしも、〈わたしの視点〉が〈わたし〉の意識の圏内になかったら、どうするのか。〈わたしの盲点〉が無意識の視点として〈わたしの視点〉になりかわるとき、目が口ほどに物を言い始めるチャンスだ。目だけではない。様々な物たちが物を言い始める。指、髪、鼻、表情、性器、身長、体重、性別、世代、口癖、言い間違い、ファッション、スマホの機種、アクセサリー、食生活、インテリア、嗜好品、社会階層、家庭環境、トラウマ。〈わたしの視点〉を死守する心が〈わたしの盲点〉を前にして挫折するどころか〈無意識のわたしの視点〉をそこに見出すとき、〈わたし〉は言っていないことを言っていて、思っていないことを思っている。ヤバすぎる。無意識の解釈は信頼できる人や権威ある人にやってもらいたい。と、わたしは思うだろう。「と、わたしは思うだろう」と回収する〈わたしたち〉の法。
こんなにインクを使ってわたしに空いている穴がわたしの代わりに泣くの
深ければ深いほどいい雀卓がひそかに掘りさげていく穴は
/平岡直子「鏡の国の梅子」(同人誌『外出』2号)
〈わたし〉の個別性は〈わたしたち〉の法に抵抗できるはずだ。という主張は、きっと何度も繰り返されてきた。〈私性〉はしょせん共同体の一員としての制限された〈わたし〉のことだ、と言ってみたところで、かつての「共同体の一員」たちのなかにも、そのような意味での〈私性〉に回収されない〈この・わたし〉たちが次々と発見されるはずだ。それが本来の意味での〈私性〉だ。話は決まっている。その都度、うまく解釈を施せば、法文を変える必要はない。解釈できないものについては、例外事項として扱えばいい。例外的な〈わたし〉たち。動物、魔法使い、「ミューズ」、など。「穴」はどうしようか。
さいころにおじさんが住み着いている 転がすたびに大声がする
はるまきがみんなほどけてゆく夜にわたしは法律を守ります
/笹井宏之『てんとろり』
あるいは、〈わたし〉など言葉の遊戯の一効果にすぎない、と言ってみたとして。それが〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉ではない、と言い切れるだろうか。ヴァーチャル歌人・星野しずるの作者・佐々木あららは次のように語る。
Q.これ、そもそもなんのためにつくったんですか?
僕はもともと、二物衝撃の技法に頼り、雰囲気や気分だけでつくられているかのような短歌に対して批判的です。そういう短歌を読むことは嫌いではないですが、詩的飛躍だけをいたずらに重視するのはおかしいと思っています。かつてなかった比喩が読みたければ、サイコロでも振って言葉を二つ決めてしまえばいい。意外性のある言葉の組み合わせが読みたければ、辞書をぱらぱらめくって、単語を適当に組み合わせてしまえばいい。読み手の解釈力が高ければ、わりとどんな詩的飛躍でも「あるかも」と受けとめられるはずだ……。そう考えていました。その考えが正しいのかどうか、検証したかったのが一番の動機です。
/佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」
読み手の解釈はそんなに万能ではないだろう。「わりとどんな詩的飛躍でも」、〈わたしたち〉に都合よく「あるかも」と解釈できるだろうか。現在、そのようなことは起きているだろうか。「わからない」「好みではない」「つまらない」「興味がない」「時間がない」といったことはないだろうか。それが駄目だという話ではない。〈理想の鑑賞者〉という仮想的な存在を想定した読者論はありうるが、短歌はそれを必要としているだろうか。AI純粋読者。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに泣くの」
「わたし」は泣いていないのだとして。「穴」があるかも。泣いているかも。
誰の声?
「なんでそんなことするんだよ」で笑いたいし、なんでそんなことするんだよ、を言いたい。〈なんでそんなことをするのかが分かる〉に安心するのは、それがもう「自分」だからだ。「自分」のように親しい安心感なんて、いくつあったっていい。 でも〈なんでそんなことをするのかが分かる〉でばかり生を満たしているとどうだろう、人はそのうち、AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか。
/伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』」
やさしくて、人を勇気づけてくれる言葉だ。そう思う。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに」「AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか」
「わたし」の代わりに泣いているのは何だろう。〈わたしたち〉の法はその涙を取り締まれるだろうか。「泣くことになるんじゃないか」は「泣くな」ではない。「じゃないか」の声の震えは何だろう。もしかして、泣いてるんじゃないのか?
ころんだという事実だけ広まって誰にも助けられないだるま
もう顔と名前が一致しないとかではなく僕が一致してない
あたらしいかおがほしいとトーマスが泣き叫びつつ通過しました
/木下龍也『つむじ風、ここにあります』
機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体
/東直子『青卵』
ナレーションのような声によって、かわいそうなものがユーモラスに立ち上がる。ナレーターの「僕」もなんだかかわいそう。「だるまさんが転んだ」という遊びはだるまを助ける遊びではない。そもそも、鬼に自分から近づいていくような酔狂な者たちは、自身がだるまである自覚があるのか。いや、このゲームにだるまは存在するのか? 助けるに値しないだろ。「顔と名前が一致しない」は、通常、自分以外の誰かに向けられる言葉だが、歌を読み進めていくとそれが「僕」に向けられた言葉であることが判明する。読者はそれに驚くだけではない。「顔と名前が一致しない」という言葉に含まれる攻撃性が「僕」自身に向けられることで、途端に空気がやわらぐのを感じて、ホッとする。笑う。あ、よかった、大丈夫だった。「僕が一致していない」と言う「僕」のユーモラスなかわいそうさは、このような言葉のドラマによって作られている。お前、かわいそうだな、でも大丈夫そうだ。〈立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ/木下龍也〉。アンパンマンとトーマスのキメラが泣き叫んでいるらしい。「���めいき」の向こう側で。「ためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」。こちらだって、くるおしい。
「ためいき」の向こう側に、言葉が無数の涙を作れてしまうとして。〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉を超えたところに涙を作れてしまうとして。〈わたし〉の涙は計算不可能な可能性の中で生じた一効果なのだとして。涙に理由はないのだとして。やっぱり、本当に泣いている〈わたし〉もいるでしょう? 泣いている〈わたし〉を助けてあげたい? 「なんで泣いているんだよ」。
止まらない君の嗚咽を受けとめるため玄関に靴は溢れた
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
アガンベンの直感はこうである。すなわち、法にとって「思考不可能」なはずの生〔=既存の法では取り扱えない種類の「生」〕、この「生」は法にとって法の空白をなしてしまうものであるが、しかも仮にそこで留まれば、「生」は単なる法外・無法として放置されるはずであるが、しかしそういうことは決して起こることはなく、法は、「生」が顕現するその状態を例外状態や緊急事態として法的に処理しようとする。ここまでは、よい。その通りである。しかし、アガンベンは続けて、そのように「生」が法に結びつけられると「同時」に、「生」は法によって見捨てられることになると批判したがっている。今度は、「生」は、法的に法外へと見捨てられ、あまつさえ無法な処置を施されると言いたがっている。しかし、その見方は一面的なのだ。主権論的・法学的に過ぎると言ってもよい。というのも、「生」の側から言うなら、今度は、「生」が法外な暴力を発揮して、「生」を結びつけたり見捨てたりする法そのものを無きものとし、ひいては統治者も統治権力も無力化するかもしれないからである。そして、疫病の生とは、そのような自然状態の暴力にあたるのではないのか。
/小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、161-162頁、〔〕内注記は平
実状に合わせて、法文書の中に例外事項をひたすら増やし、複雑にすること。その複雑な法文書を読み解ける専門家機関を作ること。それを適切に運用すること。そういった法の運用では〈わたしたち〉の生を守ることができないような事態に直面したとき、法よりも共通善が優先され、法が一時的に停止される。「例外状態」。法の制約から解放された権力が動き出すだろう。法が停止した世界において、それでも法外の犯罪(という語義矛盾)を統制するため。法の制約から解放されたのは権力だけではない。〈わたし〉たちだって法外に放り出されたのだ。「ホモ・サケル」。そこには、〈わたし〉ならざる者たちが、〈わたしたち〉の法を無力化しながら、跋扈することのできる世界があるだろうか。(穂村弘が「女性」という形象の彼方に夢見た世界はそういうものだったかもしれない。*注1)
法外に流されている暴力的な涙はあるだろうか。理由のない涙の理由のなさをテクストの効果に還元して安心しようとするテクスト法学者を、その涙が無力化するだろうか。涙する���は、見ることと知ることを放棄する。両眼視差と焦点を失いながら、けれどもたんに盲目なのではない涙目の視点。
それは哀願する。まず第一に、この涙はどこから降りてきたのか、誰から目へと到来したのかを知るために。〔…〕。ひとは片目でも見ることができる。目を一つ持っていようと二つ持っていようと、目の一撃によって、一瞥で見ることができる。目を一つ喪失したり刳り抜いたりしても、見ることを止めるわけではない。瞬きにしても片目でできる。〔…〕。だが、泣くときは、「目のすべて」が、目の全体が泣く。二つの目を持つ場合、片目だけで泣くことはできない。あるいは、想像するに、アルゴスのように千の目を持つ場合でも、事情は同じだろう。〔…〕。失明は涙を禁止しない。失明は涙を奪わない。
/ジャック・デリダ『盲者の記憶』、155-156頁
涙目の視点。
振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち
色彩と涙の国で人は死ぬ 僕は震えるほどに間違う
価値観がひとつに固まりゆくときの揺らいだ猫を僕は見ている
ゆっくりと鳥籠に戻されていく鳥の魂ほどのためらい
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
「振り下ろすべき暴力」などないと話は決まっている。合法の力と非合法の暴力とグレーゾーンがあるだけだ。倫理的な響きをもつ「べき」をたずさえた「振り下ろすべき暴力」などない。語義矛盾、アポリア。けれども、「法外の犯罪」などという語義矛盾した罪の名を法的に与えられるその手前、あるいはその彼方での〈わたし〉たちの跋扈を、「振り下ろすべき暴力」という名の向こうに想像してみてもいい。
語義矛盾のような〈わたし〉は語義矛盾のような言葉を聞くことができる。「世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間」(塚本邦雄)。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。文語定型詩は、二十一世紀の現実に極微の効用すらもちあわせていない。一首の作品は今日の現実を変える力をもたぬのと同様に、明日の社会を革める力ももたない。 私は今、その無力さを、逆手にもった武器として立上がろうなどと、ドン・キホーテまがいの勇気を鼓舞しようとは思わない。社会と没交渉に、言葉のユートピアを設営する夢想に耽ろうとももとより考えていない。 短歌は、現実に有効である文明のすべてのメカニズムの、その有効性の終わるところから生れる。おそらくは声すらもたぬ歌であり、それゆえに消すことも、それからのがれることもできぬ、人間の煉獄の歌なのだ。世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間に、影も音もなく密着し、彼を慰謝するもの、それ以上の機能、それ以上の有効性を考え得られようか。 マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、���晩無益と気づくだろう。
/塚本邦雄「反・反歌」『塚本邦雄全集』第八巻、28頁
「現実を変える力」を持たぬ「世界の変革者」は、通常の意味では変革者ではない。有罪と裁かれる日も無罪放免となる日も迎えることはない。ということは、その「変革者」は囚獄の中にも現実の中にも生きる場所を持たない。そんな人間いるのか。もしも批評家がその変革の失敗を裁くことでその人間に生きる場所を与え、歴史に刻むならば、その失敗がそもそも不可能な失敗であったことを見落としてしまうだろう。なんて無意味なこと。けれども、目指されていた変革も失敗の裁きもなしに、まったく別の道が開かれることがある。そういう想像力は必要だ。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。
マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
これらのメッセージを、塚本邦雄がそう言っているのだから、と素朴に真に受けてはならないだろう。マス・メディアに随順するのか、塚本邦雄に随順するのか、そういった態度。
筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育
/平岡直子「水に寝癖」
洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音
/平岡直子「紙吹雪」
「そうなのよ」「そうじゃないのよ」と口調を真似て遊んでいると「砂利を踏む音」にたどり着けない。どんな人にも「わたしが受けなかった教育」があるし、なにかしら「洗脳はされる」。だからなんだよ。今、口ほどに物を言っているのは何。「砂利を踏む音」。くやしい。
リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない
/山中千瀬「蔦と蜂蜜」
気付きから断定、発見から事実確認、心内語的つぶやきから客観的判断へと、フレーズの相が転移するリフレイン。「リリックと離陸の音で遊ぶとき」、その「とき」に拘束されて、ある一人の人が「着陸はない」と気づいた。気づいてそう言った。けれども、二度目の「着陸はない」からは、「とき」や〈気付きの主体〉の制約を受けないような、世界全体を視野におさめているかのような主体による断定の声が聴こえてくる。聴こえてきた。
「着陸はない」世界に気づいた主体が、一瞬にしてその世界を生ききった上で、振り返り、それが真実であったと確かめてしまった。一瞬で老いて、遺言のような言葉を繰り出す。事実と命題の一致としての真理は、その事実を確認できる主体にだけ確かめることができるのだ。〈わたしたち〉にとって肯定も否定もできない遺言。「だってそうだったから」で提示される身も蓋もない真理は「なんで」を受け付けない。
世界の真理がリフレインの効果によって、身も蓋もない仕方で知らされること。説明抜きに、真理を一撃で提示するという暴力からの被害。それは、爆笑する身体をもたらすことがある。自身の爆笑する身体に「なんで爆笑してるんだよ」とツッコミをしようと喉に力を込めながら、その声を捻り出すことはできずに、ひたすら身体を震わせて笑う。「アッ」「ハッ」「ハッ」「ハッ」と声を出しながら息を吸う。呼吸だけは手放してならないのは、息絶えるから。「着陸はない」と二度繰り返して息絶えてしまうのは、歌の主体だけなのだ。
もちろん、「着陸はない⤵︎ 着陸はない⤵︎」のような沈鬱な声、「着陸はない��︎ 着陸はない⤴︎」のような無邪気な声を聞き取ってもいい。「着陸はないヨ」「着陸はないネ」「着陸はないサ」のように終助詞を補って聞くこと。リフレインの滞空時間が終わるやいなや一瞬にして息絶えてしまうような声が〈わたしたち〉に求められていないのだとしたら。
「終」助詞というのは、近代以後の命名だが、話し言葉の日本語の著しい特徴であって、話し相手に向かって呼びかけ、自分の文を投げかける働きの言葉である。だから見方によれば、文の終わりではないので、自分の発言に相手を引き込もうとしている。さらに省略形の切り方では、話し相手にその続きを求めている、と言えよう。このように受け答えされる文は、西洋語文が、主語で始まって、ピリオドで終わって文を完結し、一つ一つの文が独立した意味を担っているのとは大きな違いである。
/柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』、91頁
近代に、西洋の文章を模倣するように、「〜は」(主語)で始まって「た。」(文末)で終わる〈口語文〉が作られた。それ以前には、日本語文には西洋語文に対応するような明確な〈文〉の単位は存在しなかった。句読点にしても、活字の文章を読みやすくするための工夫(石川九楊、小松英雄の指摘を参照)と、ピリオド・カンマの模倣から、近代に作られた。
言文一致体=口語体が生み出されてから100年が経つ。けれども、句読点をそなえた〈口語文〉を離れるやいなや、「着陸はない」が「。」のつく文末なのか終助詞「ヨ・ネ・サ」を隠した言いさしの形なのか、いまだに判然としないのが日本語なのだ。
ところで、近代の句読点や〈文〉以前に、明確な切れ目を持つ日本語表現として定型詩があったと捉えられないだろうか。散文のなかに和歌が混じる効果。散文の切れ目としての歌、歌の切れ目としての散文。
句読点も主語述語も構文も口調や終助詞も関係なく、なんであれ31音で強制的に終わること。終助詞を伴いながらも、一首の終わりに隔てられて、返される言葉を待つことのない平岡直子の歌の声。「着陸はない 着陸はない」のリフレインの間に一気に生ききって、どこかに居なくなってしまう声。
老いについての第一の考え方は、世論においても科学者の世界においても広く共有されている目的論的な考え方で、それによれば、老いとは生命の自然な到達点で、成長のあとに必然的に訪れる衰えである。老いは「老いてゆく」という漸進的な動きから離れて考えることはできないように思える。〔…〕。飛行のメタファー〔上昇と下降〕はまさに、老いをゆっくりと少しずつ進んでゆく過程として性格づけることを可能にする。それは、人生の半ばに始まり、必ずや直線的に混乱なく進むとは限らないとしても、段階を順番に踏んでいくのである。〔…〕。第二の考え方は老いを、漸進的な過程としてだけでなく、同時に、また反対に、ひとつの出来事として定義する。突然の切断、こう言ってよければ、��行中の事故アクシデント。どれほど穏やかなものであったとしても、すべての老化現象の内には常に、思いもよらなかった一面、破局的な次元が存在するだろう。この、思いもよらなかった出来事としての老化という考え方は、第一の図式を複雑なものにする。老化について、老いてゆくというだけではどこか不十分なのだと教えてくれる。それ以上の何か、老化という出来事が必要なのである。突然、予測のつかなかった出来事が、一挙にすべてを動揺させる。老いについてのこの考え方は、徐々に老いてゆくことではなく、物語のなかでしばしば出会う「一夜にして白髪となる」という表現のように、その言葉によって、思いがけぬ、突然の変貌を意味することができるとすれば、瞬時の老化と呼びうるだろう。〔…〕。かくして、その瞬時性において、自然なプロセスと思いもよらぬ出来事の境界が決定不能になるという点で、老いは死と同様の性格をもつだろう。人が老いて、死んでゆくのは、自然になのか、それとも暴力的になのか。死とは、そのどちらかにはっきりと振り分けることができるものだろうか。
/カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』、76-80頁、〔〕内注記は平
徐々に老いてゆくことと瞬時に老いること。それはたんに速度の問題なのではない。同一性を保ちながら徐々に老化することと、他なる者になるかのように突如として老化すること。衰えること、老成すること、年齢に見合うこと、若々しいこと、老けていること、大人びていること、子供っぽいこと。幼年期からの経験や思考の蓄積からスパッと切れて無関心になってしまうこと、来歴のわからない別の性格や習慣を持つこと。長期にわたって抑え込まれていたものの発現や変異、後から付け加えられたものの混入や乗っ取り。
自分の周りで生きている人々が老いてゆく過程に、私たちは本当に気づいているだろうか。私たちはたしかに、ちょっと皺が増えたなとか、少し弱ったなとか、体が不自由になったなと思う。しかし、そうだとしても、私たちは「あの人は今老いつつある」と言うのではなく、ある日、「あの人も老いたな」と気づくのである。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、80-81頁
内山昌太の連作「大観覧車」では、肺癌を診断された「父」の、余命一年未満の宣告をされてから死後までが描かれる。
父のからだのなかの上空あきらかに伸び縮みして余命がわたる
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
父も死に際は老いたる人となり寝室によき果物を置く
壊れたる喉をかろうじて流れゆくぶどうのひとつぶの水分が
/内山昌太「大観覧車」(同人誌『外出』三号)
「父も死に際は老いたる人となり」。あっという間の出来事だったのではないか。おそらく、「父」はもともと老人と言ってもいい年齢だった。けれど、「死に際」に「老いたる人」となったのだ。
定型と技巧を惜しみなく使って肉親の死を描くこと。「死」は定型と技巧かもしれない。「かもしれない」の軽薄さを許してほしい。定型の���義性。自然であり非−自然であるもの。なんであれ31音で強制的に終わることは人間が作り出した約束事に思われるかもしれないが、それは〈わたしたち〉が自由に交わせる約束よりは宿命に近いだろう。約束は破ることが可能でなければ約束ではない。あるいは、破られる可能性。偶然と出来事。宿命に対する技巧とは約束を作ることだろう。そこに他者がいる。あるいは〈わたし〉が他者になる。
〈作品化することは現実を歪めることである〉という考え方がある。事実と表象との対応に着目する立場。もしも〈父のふくらはぎが「一日花のごとくにしぼむ」かのように主体には見えた〉〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉とパラフレーズするならば、作品は現実を歪めていないと言える。「見えた」「書いた」のは本当だからだ。けれど、そんな説明でいいのだろうか。また口よりも目を信用している。「一日花のごとくにしぼむ」を現実として受け入れられないだろうか。作品をそれ自体一つの出来事として。
「しぼむ」という動詞の形。活用形としては終止形だが、テンス(時制)やアスペクト(相:継続、瞬時、反復、完了、未完了など)の観点から、「タ形」(過去・完了)や「テイル」(未完了進行状態・完了結果状態などさまざま)と区別して「ル形」と分類される形である。西洋文法に照らし合わせるなら、「不定形」あるいは「現在形」だ。(日本語では〈明日雨が降る〉のように「ル形」で未来を表現することもある)。
「しぼんだ」(過去・完了)や「しぼんでいる」(現在・進行)と書かれていれば、〈主体の知覚の報告〉として読めるかもしれない。時制についても、相についても、語り手の位置に定位した記述として読める。けれども「しぼむ」はどうだろう。西洋文法において「不定形」とは、時制・法(直接法、仮定法、条件法など)・主語の単複と人称といった条件によって決められた形(=定形)ではない、動詞の基本的な形のことである。
この不定形的な「ル形」を、助動詞や補助動詞を付けずに、剥き出しにして「文末」にすること。そのような「ル形」の文末は、語り手の位置に定位した時制や確認判断を抜きにした、一般的命題、あるいは出来事そのものの直接的なイメージを差し出すことがある。
柳父章によれば、近代以前にも「ル形」の使用はわりあい多いという。けれども、それは標準的な日本語の用法ではなかった。古くは和文脈の日記文でよく使われていた。漢文体や『平家物語』でも一部使われている。そして、「おそらく意識的な定型として使われたのは、戯曲におけるト書きの文体」(97頁)である(*注2)。日記文やト書きは、原則として読者への語りを想定しない書き物であるため、語法が標準的である必要がないのだ。
文末が「ル形」で終わる文体は、脚本とともに生まれたのだろうと思う。脚本では、会話の部分と、ト書きの部分とは、語りかけている相手が違う。会話の部分は、演技者の発言を通じて、結局一般観客に宛てられている。しかし、ト書きの部分は、一般観客は眼中にない。これは演技者だけに宛てられた文である。〔…〕。 文法的に見ると、���書きの文には、文末に助動詞がついてない。〔…〕。 すなわち、ト書きの文末には、近代以前の当時の通常の日本文に当然ついていたはずの、助動詞や終助詞が欠けている。「ル形」で終わっているということは、こういう意味だった。 逆に考えると、まともな伝統的な日本文は、ただ言いたいことだけを言って終わるのではない。読者や聞き手を想定して、文の終わりには、話し手、書き手の主体的な表現を付け加える。国文法で言う「陳述」が加わるのである。「ル形」には、それが欠けているので、まともな日本文としては扱われていなかった、ということである。
/柳父章、前掲書、99−100頁
このような来歴の「ル形」は、その後、西洋語文の「現在形」や「不定形」の翻訳で使われるようになり、より一般化した。それをふまえた上で、読者を想定した日本文の中で「ル形」を積極的に使ったのは夏目漱石だった。歌に戻ろう。
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
「しぼむ」のタイムスパンをどう捉えるか。ある時、ある場所で、「一日」で「しぼむ」のを〈見た〉のだろうか。おそらくそう見えたのだろう。けれども、他方で、この歌は「その時、その場」の拘束から逃れてもいる。「しぼむ」には「文の終わり」の「話し手、書き手の主体的な表現」が欠けているのだ。ト書きを読めば、ある時ある場所に拘束されずに、何度でもそれを上演し体験できる。それに似て、この「しぼむ」は読者に読まれるたびにそこで出来事を起こすだろう。
「しぼむ」について、今度は「話し手、書き手」の位置ではなく、「言葉のドラマ」を参照しよう。
「巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくに」
「ふくらはぎ」と「花」は決して似ていない。「花」と言われると、人は通常〈咲いている花〉を思い浮かべるだろう。「一日花」は一日の間に咲いてしぼむ花のことだが、だからこそ、咲いているタイミングが貴重に切り取られるのではないか。「ふくらはぎ」と〈咲いている花〉は形状がまったくちがう。にもかかわらず、〈ふくらはぎ・一日・花の〉のように、「が」や「は」といった助詞を抜きに、似ていないイメージ・語彙が直接に連鎖させられている。意味的にもイメージ的にも、この段階では心許ない。結句にいたっても、「ごとくに」に四音が割かれており、一首全体が無事に着陸する望みは薄いだろう。〈ふくらはぎ・一日花の・ごとくに〉と言われても、「ふくらはぎ」はまったく「花のごとく」ではないのだから。
最後の最後で、「しぼむ」の突如の出現が一首に着陸をもたらす。「突如」として「着陸」が訪れる。「花のごとく」なのは「ふくらはぎ」ではなくて、それが「しぼむ」ありさまであったことが、最後に分かる。
うまく着陸したからといって、〈ふくらはぎ・一日花の〉における語と語の衝突の記憶がすぐに消えてなくなることはない。でなければ、「しぼむ」がこのように訪れてくれることはない。衝突事故をしても着陸すること。「ふくらはぎ」にまったく似たところのない、異質なものとしての「花」が、助詞抜きで直接的に連鎖させられることによって生じる読者の戸惑い。その戸惑いが、結句未満の最後の三音で解消されるという出来事。
「話し手、書き手」から遊離した「言葉のドラマ」の中の「しぼむ」は、もちろん書き手の感性の前に現れた「しぼむ」でもあっただろう。〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉は間違いではない。「父」と〈わたし〉のドラマを「言葉のドラマ」へと還元して、蒸発させてしまってはいけない。それは単純化だ。「社会と没交渉」になってたったの二歩で「言葉のユートピアを設営」してしまうよう��、一般論として振りかざされる「作者の死」は心が狭い。
靴を脱ぎたったの二歩で北限にいたる心の狭さときたら
/平岡直子「視聴率」(同人誌『率』9号)
内山の作品には、「老い」について「ル形」を使いながら〈語り手=書き手の声〉を聞かせる作品が他にもある。
読点の打ちかたがよくわからないまま四十代、中盤に入る
/内山晶太「蝿がつく」(同人誌『外出』二号)
「ル形」の効果だろうか。歌の語り手はあきらかに書き手だが、仮に書き手である内山昌太が嘘をついていたとしてもこの歌は成り立つだろう。歌のなかでの語り手=書き手=〈わたし〉は「内山昌太」から遊離している。だからといって架空のキャラクターを立てる必要もない。〈書き手の声〉が〈書くこと〉について語っているという出来事が確認されれば、ひとまずはいい。
結局のところ、「読点」は適切に打たれたのかわからない。「三十代」「四十代」という十年のサイクルは規則的に進むが、内山はそこに不規則性、あるいは規則の曖昧さを差し込もうとしている。不規則はどこから生まれるのか。規則が明文化されているかどうか、規則がカッチリしているかどうか、ではない。規則を使うとき、従うときに、不規則が生まれる。「使う」「従う」といった行為。そこには、うっかりミスや取り違え、愚かさや適当さがある。
内山自身による先行歌がある。
ペイズリー柄のネクタイひとつもなく三十代は中盤に入る
/内山晶太『窓、その他』
「四十代、中盤」や「三十代は中盤」というふうに、「◯十代」と「中盤」の間に何かを差し込もうとする手がある。
十年のサイクルについて、あらかじめ目標を立てるのであれ、後から反省するのであれ、「◯十代」という表記はその十年の全体を一挙に指示する。自動的で、明快で、有無を言わせない〈十年の単位〉に対して、「中盤」という曖昧な幅を当ててみること。
「三十代中盤」や「四十代中盤」という表記であったなら、「中盤」は〈十年〉の中の一部として回収されてしまうかもしれない。けれど、「三十代は中盤に入る」、「四十代、中盤に入る」という表記によって、徐々に進行しながら曖昧にその意味や価値を変質させていく、一様ならざる時間の幅へと〈十年〉が取り込まれていくかのようだ。「中盤」っていつからいつまでなんだ。きっと、サイクルごとに「中盤」の幅は伸び縮みするだろう。3年、5年? 8年くらい中盤で生きる人もいるのかな。
眠ること、忘れることを知らないで、昼的な覚醒を模範とする精神には、決して捕捉されることのない曖昧な時間。その時間のうちに〈十年の単位〉を巻き込んで、一身上の都合から伸び縮みするリズムの個人的な生を主張する視点。〈君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている/大森静佳〉と好対照だ。というのは、「リズムの個人的な生」の主張は、それを意識すればその都度タイムリミットのように減っている〈十年〉への不安とペアなのだから。
「中盤に入る」は淡々とした地の文の語りのようでもありながら、規則的に進行する〈十年〉のテンポに従うことのない「中盤」の速度を確保しようとする〈わたし〉の主体的な決意の言葉のようでもある。歌から聞こえてくる声が、三人称視点的な叙述なのか一人称的な心内語やセリフなのかの微妙な決定不可能性は、〈十年の単位〉について社会に語らされている主体と「中盤」を能動的に語っている主体のせめぎ合いに似る。
十年のサイクルは自然的な所与なのか、社会的な構築物なのか。絶対に無くなる時間の宿命を約束と取り違えること。それから、その約束を破ってしまうこと。二重のうっかりだ。だから、うっかりと変な歳のとり方をする。年齢相応じゃない。うっかりはポエジーだろう。
二つのタイプの老化、漸進的な老化と瞬時の老化は、常に強く絡み合っており、互いに錯綜し、巻き込み合っている。だから、常になにがしかの同一性が、毀損した形であっても存続し、人格構造の一部分が変化を超えて持続するのだと言う人もいるだろう。そうだとしても、どれだけ多くの人が、死んでいなくなってしまう以前に、私たちの前からいなくなり、自らを置き去りにしていくことだろう。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、93−94頁
〈わたし〉という語り手はうっかりと〈わたし〉から離脱してしまうことがある。深い意味もなく。身も蓋もないものの神秘を生み出しながら。その神秘を新たに〈わたし〉の神秘へと統合できるのか、そうではないのか。
君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている
/大森静佳『てのひらを燃やす』
「ねこじゃらし見ゆ」を受ける視点。それは「君」でも「われ」でもなく、「君の死後、われの死後」に、「まだ揺れている」と言うことのできる語り手の視点だ。語り手の案内を受けて導かれた読者の視点だ。読者の〈わたし〉はいったいどこに案内されたのだろうか。「まだ揺れている」と語る「われ」ならざる〈わたし〉はどの〈わたし〉で、「それ」はどこにいるのか。
この歌の視点について、ひとつ現実的に想像してみよう。
現実に、ある時ある場所で、「君」と「われ」が青々としたねこじゃらしを見ている。会話はなく、ねこじゃらしが揺れるのをぼうっと見ている。注意して観察しているのではなく、なんとなく、その青々とした緑色の揺れるのが目に入るがままだ。受動的で反復的な視覚体験によって、体験の主体は動くモノの側に移っていく。ねこじゃらしが揺れれば〈揺れ〉を感じ、こすれれば〈こすれ〉を感じるような体験のあり方。その時、ねこじゃらしの「青々」や「揺れ」は、「君」や「われ」が見ていようが見ていなかろうが、それとは独立に持続する運動のように現象するだろう。
持続するそれは「われ」の主観から独立してイデアルに永続するナニカというよりは、「われ」が〈意識的に見る主体=見ていることを意識する主体〉ではない限りにおいて成立するかりそめの現象だ。その現象に身を任せている間、「われ」は変性意識的な状態かもしれない。意識の持続は、見ていることの自覚ではなく、「ねこじゃらし」の「揺れ」の運動と一致する。「われ」の肉体も〈君とわれ〉の関係もそっちのけで、ねこじゃらしが揺れる。
魂がそのように「われ」から遊離していきながら、やっぱり振り返る。「われ」から遊離した、ほとんど死後的な魂の視点は振り返る。きっと、そうでなくちゃ困るのだ。振り返る視線によって、「君」と「われ」が「視野」に入る。「視野」に入れるという肯定の仕方だ。というのは、ねこじゃらしを見ている限り、「君」と「われ」は互いに「視野」に入らないはずなのだ。
〈君とわれ〉というペアの存在が、「君」も「われ」もいつか死ぬという身も蓋もない事実を絆帯として、常軌を逸した肯定をされてしまった。
「君とわれの死後にも」ではなく「君の死後、われの死後にも」と書き分けられている。「君」と「われ」のどちらが早��死ぬか、死ぬまでにどのような関係性の変化があるか、どのような経験の共有があるのか。そういったことに関心を持つ生者の視点はない。その視点があるならば、たとえば次の歌のように二者の断絶が描かれてもいい。
その海を死後見に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに
/大森静佳『カミーユ』
断絶の構図を作らずに、〈、〉で並列させられる形で肯定される関係は何だろう。生前から死後までを貫くような、〈君、われ〉の関係の直観。〈君とわれ〉の「君の死後、われの死後」への変形。その変形による肯定は、〈君とわれ〉の圏内においてはナンセンスだ。〈「君」が死んでも、「われ」が死んでも、ねこじゃらしは変わらず揺れているだろうね〉ならば、それは〈君とわれ〉の相対化だ。それで心身は軽くなるかもしれない。その軽さに促されるように〈生〉のドラマは展開するかもしれない。けれども、生前から死後までを貫く二者の並列関係の肯定にはなりえない。
〈生前から死後までを貫く二者の並列関係〉はナンセンスなフレーズだ。だからこそ、その肯定は常軌を逸している。ナンセンスな肯定が、常軌を逸した視点から、すなわち、「われ」の魂が遊離して別の生の形をとっている間にだけ持続するかりそめの語り手の視点からなされた。
語り手の視点を「死後の視点」と一息に言ってはならない。そう言ってしまうなら、語り手の位置の融通無碍な変化を見落とすことになる。「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」から「まだ揺れている」の間には、語り手の視点にジャンプがある。山中千瀬の「着陸はない 着陸はない」のリフレインと似た効果がこの歌の一字あけにおいても生じているのだ。
「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」という言い切りの裏には、〈見えるだろう〉という直観が働いている。〈直観の時〉があり、〈時〉に拘束された「言い切り」がある。
直観された真実がそのままで場を持つことは、しばしば難しい。けれどもこの歌において、その直観は、一字あけのジャンプを経て、「まだ揺れている」を言うことのできる死後的な主体によって確認されることで場を持つことになる。「まだ〜ている」においては、「ル形」とは異なり、明らかに主体による確認判断が働いているだろう。直観を事実として確かめることのできるような不可能な主体へのジャンプ。
歌が立ち上げる〈不可能な声〉がある。
直観した時点から、それを確認する時点へのジャンプ。そこには、他なる主体の声になるかのような突如の変化と、同じ一つの〈歌の声〉の持続の、二つの運動の絡み合いがあるだろう。一首は一つの声を聞かせる。言葉を強引に一つの声へと押し込めることによって、通常では不可能なことを言うことができる。通常では、ナンセンス、支離滅裂、分裂した声、破綻した言葉のように聞かれてしまうかもしれないものたちが、一つの歌となるときに、〈不可能な声〉を聞かせてくれる。どうして〈不可能な声〉を使ってまで〈君とわれ〉を視野に収めたのだろうか、という問いから先は読者に任せた。
わたしたちに不可能な声が聞こえてくるとき。
「それは眼球めだまと金魚を買った」 「穴がわたしの代わりに泣くの」 「はるまきがみんなほどけてゆく夜」 「僕が一致してない」 「機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」 「振り下ろすべき暴力」 「着陸はない 着陸はない」 「ふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ」 「まだ揺れている」
どんな声でも「あるかも」と思えるように解釈することができるのだとして、わたしたちはどんな声でも、なんであれ聞いてきたのではない。いくつかの不可能な声を聞いてきた。
「不可能な短歌の運命」を予告しつつ、あらかじめそれを過去のものにするために。不可能なものの失敗がそれを過去へと葬ったあとで、そのナンセンスな想起が不可能なものを橋やベランダとして利用できるようにするために。
/平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
2年前に僕はこんなことを書いていた。短歌を書くことも、文章を書くことも、僕にはほとんど不可能なことだった。なにが不可能だったのか。
分母にいれるわたしたちの発達、 くまがどれだけ昼寝しても許されるようなわたしたちの発達、 しかも寄道していてシャンデリア。 青空はわけあたえられたばかりの真新しくてあたたかな船。 卵にゆでたまご以外の運命が許されなくなって以来わたしたちは発達。 教科書ばかり読んでいたのでちっとも気のきいたことを言えなくてごめんなさい。 まったく世界中でわたしたちを愛してくれるのはあなただけね。 ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのにさ。 〔…〕
/瀬戸夏子「すべてが可能なわたしの家で」(連作5首目より、一部抜粋)
ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのに、ベランダから生きてもどろうとしていた。それが僕の抱えていた不可能なことだった。
*注1 穂村弘「〔…〕。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。僕は体質的には、本当は自分が八回転くらいできることを夢見る、跳べるってことに憧れが強いタイプでね、だから東直子を絶賛するし、大滝和子もそうだし、つばさを持った人たちへの憧れがとくに強い。だからある時期まで女性のその、現に跳べる、そしてなぜ跳べたのか本人はわからない、いまわたし何回跳びました? みたいな(笑)、「数えろよ、なんで僕が数えてそのすごさを説明しなきゃいけないんだよ」みたいな、そういうのがあった。」 座談会「境界線上の現代短歌──次世代からの反撃」(荻原裕幸、穂村弘、ひぐらしひなつ、佐藤りえ)、『短歌ヴァーサス』第11号、112頁
*注2 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』では、ト書きの比較的初期の用例として1753年に上演された並木正三『幼稚子敵討』の脚本から引用している。参考までに、以下に孫引きしておく。 大橋「そんなら皆様みなさん、行ゆくぞへ。」 伝兵「サア、おじゃいのふ。」 ト大橋、伝兵衛、廓の者皆々這入る。 …… …… 宮蔵「お身は傾城けいせいを、ヱヽ、詮���せんぎさっしゃれ。」 新左「ヱヽ、詮議せんぎ致して見せう。」 宮蔵「せいよ。」 新左「して見せう。」 ト詰合つめあふ。向ふ。ぱたぱた と太刀音たちおとして、お初抜刀ぬきがたなにて出る。 『日本古典文学体系53』岩波書店、1960年、112頁 本文で言及できなかったが、ト書き文体と口語短歌について考えるなら、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座、2019年)を参照されたい。
【主要参考文献】 ・短歌 内山昌太『窓、その他』(六花書林、2012年) 大森静佳『てのひらを燃やす』(角川書店、2013年) 大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年) 木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年) 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年) 斉藤斎藤『渡辺のわたし 新装版』(港の人、2016年/booknets、2004年) 笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年) 瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(私家版歌集、2012年) 塚本邦雄「反・反歌」(『塚本邦雄全集』第八巻、ゆまに書房、1999年)(初出は『短歌』昭和42年9月号、『定型幻視論』に所収) 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年) 東直子『青卵』(ちくま文庫、2019年/本阿弥書店、2001年) 平岡直子 連作「水に寝癖」(『歌壇』2018年11月号) 平岡直子 連作「紙吹雪」(『短歌研究』2020年1月号) 山中千瀬『蔦と蜂蜜』(2019年) 同人誌『率』9号(2015年11月23日) 同人誌『外出』二号(2019年11月23日) 同人誌『外出』三号(2020年5月5日) 『短歌ヴァーサス』第11号(風媒社、2007年)
・その他書籍 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫、2015年) 沖森卓也『日本語全史』(ちくま新書、2017年) カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020年) 小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」(『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、河出書房新社、2020年) 小松英雄『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』(笠間書院、2006年) ジャック・デリダ『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』(鵜飼哲訳、みすず書房、1998年) 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』(法政大学出版局、2004年)
・ネット記事 伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』 」 佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」 平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
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人間小観察①~「227大団結」について
まず始めに、このアカウントを作ろうとしたのは、日ごろ読んだBL小説やBLマンガなどの書評と感想をポストするつもりだった。まぁ日本語の練習もその目的の一つなのだが、しかしまさか最初の一編となるものは、書評も感想でもなく、中国の同人圏の一大事件についての雑文だとは、思いもしなかったものだ。
ここに書いたのはただ個人の記録と感想なので、事件の全貌や真相などではない。間違いがあればお許しください。
さて、誰でも否定できない事実から始めよう。2020年2月29日に、AO3が中国のGFWにブロックされ、中国大陸のインターネットユーザーがAO3に直接的にアクセスできないようになった。この事件の火元は政府側ではなく、「肖戦」というアイドルのファンによる告発だったそうだ。どうして肖戦のファンが政府にAO3を告発したのだろうか。そこには妙な原因がある。
1.「陳情令」とファンの構成
近年中国では、IP(Intellectual Property)の開発の好景気に伴い、オリジナルBL小説に基づくドラマも多くなってきた。「陳情令」もその中の一つで、BL小説「魔道祖師」を翻案したドラマなのだ。そして「陳情令」の主役として、肖戦は「魏無羨」つまり受けを演じた。ちなみに攻めの「藍忘機」を演じたのは、王一博というアイドルだ。
このドラマはSNSで話題になり、人気を博した。もちろん主役の二人も多くのファンを集客した。ただし、「陳情令」はBL小説に基づいてのものなので、そのファンの中にはBLの好きなファンも多い。更に、BLファンの中に、キャラクターではなく役者の二人の関係を恋愛関係だと想像しながら、二人をも応援している、通称「CP(カップリング)ファン」という人も少なくない。彼女たちはBLの力を発揮し、肖戦と王一博の仮想の恋愛関係を語り合ったり同人を書いたりしているようだ。
一方、アイドルのファンには一人のアイドルしか好かないファンもいるに違いない(いや、むしろそのようなファンこそ一般的なファンだろう)。中国では彼らは「唯ファン」と呼ばれている。「唯ファン」とは、「そのアイドル=唯一」という意味だ。その言葉はそもそもアイドルグループの場合に、メンバーズの中で一人しか好みではないファンに対しての呼び名だが、今は広義的に使われるようになったそうだ。
まあ細かいところには気にしなくてもいいのだが、とにかく、肖戦の「唯ファン」たちは彼らのアイドルを他の人とカップリングさせることを嫌がっている、というのは否定できないことだ。
2.同人小説と告発
2020年2月24日、あるCPファンが、『落下(中国語:下坠)』というRPS(Real Person Slash、実在する人間に基づいてのBL同人小説)をAO3とLofter(たくさんの中国同人作者が活躍しているブログ)で発表した。もちろんそれは王一博と肖戦を主人公にした同人小説だ。小説では、「王一博」というキャラクターは未成年の高校生で、「肖戦」は女装している男である上、売春もやっている性同一性障害患者なのだ。一見危うい題材だが、読んだら意外にいい作品だと思う。官能的な描写もあるが、二人の主人公の切ない感情が繊細に描かれているところもあり、さらに主人公の身近の人たち、そのどん底に生きている人間の絶望と虚しさも、ゆっくりとしたタッチで語られている。私は普段オリジナルBL作品しか読んでおらず、同人作はあまり読んだことがなかったから、その文学性に驚いた。
しかしその小説の反響があり、発表した後すぐSNSで広がっていき、CPファンだけではなく、唯ファンたちにも読まれだ。その結果、「肖戦」のキャラクターの設定に大変な物議を醸した。「唯ファン」は彼らの統領をはじめ、「未成年・売春・色情の内容が未成年たちに害する恐れがある」ことと、「アイドルを娼婦として描写することはアイドルのイメージに対しての損害」といった理由をもって、小説・小説作者・小説の発表されたサイト(AO3とLofter)三者を政府機関に告発することを仕掛けた。もちろんその行為を反対したり批判したりする人もいないわけではないが、告発を止めることはできなかった。こうして、ある見えない「戦争」の火種を灯した。そして数日後AO3がブロックされたことを機に、火種は燎原の火になった。
3.戦場の拡大
この戦争は肖戦のファンの内部分裂で引き起こされたのだが、その影響は拡散したため、今はもうサイバースペースでの社会事件と言ってよいだろう。どうして今回の事件はこんなに大規模になったかについては、私の浅はかな考え方からすると、恐らくこの事件にはいくつかの問題が重なっており、それぞれの問題に対して、異なる人の回答と行動を要請し、結局思いもよらぬところまで波及していったのではないか。
まずは同人圏からの反対と「227大団結」の誕生。
もう慣例になってしまうが、中国のサイトが告発されたら、(不適切だとみなされた)内容への清掃は必ず付いてくる。この環境の下で、同人、特に性描写のある同人を創作する作者はいつも不安なままなのだ。だから告発の始まった後、Lofterでは大量の同人作品が読めなくなり、多くの作者も保身のため自分の作品を削除し、Lofterから遁走した。影響された作者とその作品は、肖戦の同人圏だけではなく、Lofterでほとんどすべての同人圏にも及んだ。それを見かねて、同人の支持者が集まって、肖戦のファンの行為に反対の声を上げはじめた。肖戦の熱狂的なファンの向こうに立っているのは、世界中の数え切れない作品とその同人、「ハリーポッター」から「文豪ストレイドッグス」まで、それぞれの愛好者たちによる戦線なので、その日(2月27日)は「227大団結」と名付けられたそうだ。
次は論争の焦点、「告発の権利」と「表現の自由」だ。
同人圏の反対に対して、肖戦のファンは「わいせつな物を告発するのは市民の権利だ。私たちには間違いなどない。そのような物を作った人こそ間違っている。」と主張した。それによって、告発の権利と表現の自由との関係も激しく討論された。
中国では近年文芸上の制限が増え、書いてはいけない題材・表現が多くなる一方だ。また「告発」は制限の仕組みの一環となっている。読者が「不適切な」ものを発見→政府機関に告発→作品の封鎖/サイトに処罰を与える、という連鎖なのだ。この制限は同人圏より恐らく商業化されたオリジナル創作圏の人に嫌われているのだろう。いずれにせよ自分の作品が「不適切だ」と判断されると、作家自身の名にも酷く影響を与えることになるからだ。従って、今回の論争にはオリジナル作家も(もちろん彼らの読者も)「大団結」の側に立ち、同人圏の人を応援したのだ。大団結の支持者は徐々に増えてきている。
最後は「ファン圏」とインターネットユーザーとの間の衝突。
「饭(ファンの発音の当て字)圈」という言葉は今中国のSNSでよく見られる。元々「ファンダム」という意味だった。今は「ファン圏」と聞いたら忌まわしい印象があるので「ファンダム」とそのまま翻訳したらそのニュアンスがなくなることから、「ファン圏」というちょっと変わった言葉を使ってみることにした。
アイドルがいればファンもいる、というのは言うまでもないことだが、中国の「ファン圏」という言葉が指したのは一般的なファンの集まりではなく、高度組織化されたファンの団体のようなものだ。
普通のファンは好きなアイドルの歌を聞いたり、番組を見たり、ライブなどあれば行ったりする。しかし「ファン圏」の一員になったら、すべきことが多くなる。あらゆるランキングに投票する。アイドルのポストしたことをリツイートする。アイドルがある商品のイメージキャラクターになれば、その商品を買う。SNSで誰かがアイドルの悪口を言うと、「アイドルの風評被害を防ぐ」ために、そこに赴いて反論する等々。
上述のことは、普通のファンもしたりするが、ファン圏であれば、そのようなことは割り当てられた任務になった。それをしなければファン圏の一員失格なので、他のメンバーズに見下されるようだ。さらに、ファン圏の者は頭領の指示に従い行動を一体化させるところもあるため、その影響力が拡大し、ファン圏以外の人物に多大な影響を及ぼすことが屡々ある。
ファン圏による群体的行動にはだいたい二つの目的がある。アイドルの人気や商業上の価値を上げることと、アイドルのイメージ・風評を守ることなのだ。ネット上では、普通のユーザーがファン圏に嫌悪感を抱いているのは後者による行動だろう。
ファン圏の人はアイドルに対するあらゆるツッコミ・不満・批評を、アイドルのイメージの損害と認識しているようだ。そのようなコメントが発見されるたびに、ファン圏は迅速に対応する。反論は基本中の基本だが、他の手段もある。例えば、アイドルに対する積極的なコメントを多く発表しネガティブな批評はコメント欄で閲覧できなくなる。さらに、それを不適切な発言があったと報告する。評論者の個人メッセージに「そのコメントを削除してください」などとお願いする。下手をするとお願いではなく過激な言論や悪口なども送ったりするのだ。Weibo(中国版のツイッターって言ってよいのかな)では検索機能がある。たとえ「○○(アイドルの名前)の演技下手過ぎて受けるわ~」というツッコミをしても、ファンに見つけられ囲まれいろいろ言われる恐れがあるから、今Weiboでは「ファン圏」という兵器を持っているアイドルに、他の人は彼らの頭文字だけ用いて語るようになった。つまり新垣結衣を「ay」と書く、という感じなのかな。
もちろん異なるアイドルのファン圏の間でもよく「戦いあう」がそこまで言ったら収まらないだろう。とにかく、ファン圏の活動の拡大に伴い、一般的なユーザーは活動空間が侵食されつつあり、苦情も不満も溜まっている一方だ。今回の事件を契機として、AO3やLofterなどをよく知らない人もファン圏の過激なやり方を批判したりこれまでの苦情をこぼしたりして、大団結の戦線の一部となった。
要するに、事件の直接的な被害者である者、表現の自由の擁護者である者、ファン圏のやり方の反対者である者、この三つの群体が、肖戦のファン圏と直接的に対峙している。まるで波紋が四方に広がっていくかのような状況なのだ。
4.AO3の陥落と攻防戦の開始
政府機関に告発したのは26日だった。そして29日の夜、中国からAO3にアクセスすることができなくなった。同人圏に、「精神上の家が失われた」と嘆きながら涙を流した者��少なくなかっただろう。とはいえ、たとえどう願ってもAO3は戻ってこないのだということをつくづく感じ、彼らはすぐに自身の悲痛と憤りを肖戦のファン圏への恨みに変え、敵討ちしはじめた。
肖戦の膨大なファン圏に反撃するため、「肖戦」を狙わなければいけない。肖戦を倒すのは反撃の一番重要な目標���なった。ここでの「肖戦」は人間としての肖戦ではなく、アイドルとしての肖戦だ。資本に操られ、ファンに崇拝され、信仰を金銭に両替する一番重要な中枢というものなのだ。また、その目標には、「肖戦が芸能界から追い払われたら、肖戦のファン圏も自分の大好きなものが失われる苦味を味わわされるのだろう」という、肖戦の反対者の気持ちさえも含まれていた。
反撃の計画は速やかに立てられた。肖戦の商業上の価値を消すのは計画の核心となった。肖戦が出演した作品のレビュー欄で反対の声を出し、これはドラマ・番組の制作会社に警告し、今後肖戦を役者として起用しないという手段だ。同時に、肖戦をイメージキャラクターに起用している商品をボイコットし、会社にイメージキャラクターの変更を訴える。それらの会社の中に、肖戦を支持する会社はいくつかある。そのような会社に対して、反撃者たちは「発票」というものを持って大手企業と対抗する。
私は文系なので経理のことにはちっとも分からないが、ようするに「発票」とはレシートみたいなものだが、実は税務局の課税の対象になるそうだ。買い物した後、レシートをもらえるのは言うまでもないことだが、中国ではお店に「発票」を出してもらうことができる。発票を発行することでその部分の売り上げは税務局に知られ、そして税金は増えるようだ。発票による税金は会社が納める税金の全部ではないが、発票を多く出せば出すほど、納める税金は多くなるのだ。そこで消費者が発票を請求しなければ、普通の店舗は発票を出さない。
しかし、取引が発生したら、消費者がその記録を保存し、将来いつでも販売店に発票を請求することができる。なので反撃者たちは消費者の権利を行使し、何年も前の消費記録を探し出し、肖戦を支持する会社に発票を出してもらうことにした。短時間に大量の発票を出すと、会社の経理部に大きな圧力を与えることができ、その会社は税務局に何か不審な行動があるのではないかとも疑われるそうだ。
ボイコットと「発票」の策は効いている。肖戦のイメージキャラクターはだんだん他の者に取り替えられていった。しかし勝利にはまだほど遠いのだろう。肖戦を世論とトラブルから救い出したいのはファン圏だけではない。肖戦の所属する芸能事務所と、「肖戦」というブランドに投資した資本もこのブランドの価値を保つため動いている。時々肖戦を群体迷惑行為の被害者として、「227大団結」を加害者として描いた文章がWeiboで流布される。「227大団結」の参加者を香港の独立の擁護者、暴動者と同じように見なす評論も見られる。ちなみに「227大団結」というタグの閲覧数は一億を越えたが話題ランキングには全然見られない。このようなことは肖戦の後ろ盾である資本による仕業だとみなされている。更に、肖戦とは全く関係のない政府の公式アカウントが肖戦への同情の言論を発表したり、肖戦のスタジオの声明をリツイートしたりすることもある。この現象は「227」の立場からみると、まさに資本が政府の機構を蝕み、共謀している証拠なのだ。ゆえに肖戦側には「公権を私的に利用する」という罪名が加えられた。
振り返ってみると、いつの間にか「表現の自由」というスローガンはこの攻防戦が始まったとたんに捨てられた。私にとっては残念なことだが、それはしょうがないことだと納得が付かないこともない。成人向けのレイティングのない中国では、あらゆる性描写のある内容がわいせつ物と視されがちだ。もちろん芸術的価値のある作品であれば性描写があってもわいせつ物の範囲には入らないが、どのような基準に則って芸術的価値の有無を裁定するかは、法律には書いていない。こういう状況である以上、「表現の自由」についての討論はこの戦争に役立たず、逆に話をややこしくし、敵に隙を付け込まれる恐れもあるのだ。従って「227」の人たちは本当の目的を明かさず、肖戦を倒すのにもっと役に立つ罪名を探し出した。「公権を私的に利用する」のはその一つだ。肖戦の昔のWeiboでの発言を探り、女性を見下すような品のないコメントを取り上げ、「女性を侮辱する」という罪名をつけた。また、ファン圏の行為を放任したせいで、ファンが狂気になりファン圏自体も邪教団体と化す可能性があるため、「ファン圏の邪教化」という罪名も加えられた。事件が起こった直後に、肖戦のファンがツイッターで自分の無実を訴えたりした。AO3がブロックされたのは中国政府のしたことで、肖戦に、彼らには関係ない、と。しかしそれらの弁解はそれぞれ微妙に差があり、元々偏っている話をさらに誤魔化し、結局傍観者に「中国政府がlgbtを迫害している」や「肖戦は新型コロナで死去した」といった印象を残してしまったようだ。もちろんそのような言論も227の人にピックアップされ、Weiboで暴かれ、もっと厳しい罪名がつけられた。国家の形象を損害することつまり「売国」という罪名なのだ。こういうふうに、227の人は肖戦と彼のファンを、国家と対立する立場に押し付け、社会の平穏を脅かす存在として語っている。
5.政府筋の意見?
227の人と肖戦のファンとの戦いが白熱化し、いよいよ政府が注意を喚起した。
3月11日、中国の最高人民検察院に所属する機関紙『検察日報』が今回の事件について文章五編を登載した。文章の作者には検察日報の職員や、検察官や、法学の博士もいる。機関紙に出る文章は公的立場からの意見とされているので、この五編の文章も政府側の今回の事件に対しての見方だと見なされている。
それらの文章をかいつまんで言うと、両方にも意見が表れていることが分かる。
一つは同人側に対する意見。
1.中国では、同人作品はオッケー。ただし、商業利用の目的であったら法律違反になりかねない(著作権侵害など)。また、同人にわいせつ的内容があったら法律違反だ。中国では「わいせつ物伝播罪」という罪名がある。わいせつ物をもってお金を稼ぐことはもちろんダメだが、ただわいせつ物を広げることだけで犯罪視される、ということだ。
2.『落下』の小説について言えば、現実人物の肖戦と王一博の氏名権を犯す可能性はあるが、告訴の主体は肖戦と王一博に限る。
3.中国ではレイティング制度はないので、AO3での一部の作品は中国の法律を犯したのかもしれない。外国のサイトであるAO3に対して中国は法律を執行できないなので、法律に従い措置をし伝播ルートを阻止するのもおかしくないのだ。
次はアイドルとファン圏に対する意見。
1.ファン圏の活動が一般人のインターネットの利用ないし生活にも影響を与えたということは否定できない。
2.アイドルとファンの絡みが日に日に強くなる今日には、ファンの暴走に見て見ぬふりをするのもアイドルの失格だ。
3.法律違反の行為や現象などを見たら政府に告発する権利を市民は持っているが、それを持って意見の不一致である反対者を排除することは認められていない。
私に言わせれば、これは政府の本音に一番近い意見かもしれない。
同人は大丈夫だけど色情はダメ。色情内容を削除できないとしたら排除する。アイドルが自分のファンを手先のように馴らしてもいいが、調子乗りすぎると締めてやる。まるで公正無私の父上が喧嘩し合っている兄弟を止める時の言い方のようだ。その文章を一通りに読んだら、今回の事件は価値観の対立している二つのコミュニティーの間の争いに見えるかもしれないが、事件の起こる要因の一つとしてのGFWは巧みに隠された。隠喩的に「法律に従い措置をし伝播ルートを阻止する」という言葉のみにとどめられている。さすが公正無私のお父様にも大人の事情があるのだ。
6.一か月後の今
これを書いたのは、「227」の一か月後、3月28日の深夜だ。
いまだに「227」と肖戦のファン圏との戦いは続いている。いつ終わるかは、私にはさっぱり分からない。毎日SNSで関連情報をざっと目を通すことすら私は疲れてきた。現時点ではSNSで「227」の人の憤慨と悲痛の気持ちは多少治まったが、ボイコットの範囲は拡大しつつあり、「発票」を請求する対象となる商社も増えている。なぜなら、肖戦のファン圏を倒すためにまず肖戦を処罰しなければならず、またそのために、肖戦の後ろ盾としての資本・大手企業と戦わなければならない、という見方で彼らが一致したのだ。涙は御免で、大切なことが失われたその切ない気持ちを相手に味わわさせるこそ一番大事なことなのだ。
面白いことに、事件が起こった頃から今まで、肖戦はネットでも現実でも全く姿を現さず、お詫びも申し開きもせず、まるでAO3と一緒にGFWにブロックされたかのようだ。ファンの保護の下に凌いでいる度胸のないやつだと言われることもあれば、しばらく鳴りを潜め復帰できる時を待っている企みだけだという推測もある。しかし私は、犠牲になったAO3が「227」の闘争の旗となったことと同じように、肖戦側も何かを抽象的に彼らの意志を託す象徴物を作らなければならないと思う。そうでないと戦争は始まらない。そこで肖戦は彼らの味方に選ばれ、軍旗の上の印にされたのだ。この戦争が終わらないうちは、肖戦は外に出られないのだろう。まるで保護対象が生贄になったようだ。まあそれはそれで一種の罰なのかもしれない。とはいえ、逆に言えば、肖戦自身が皆の前に現れるというのは、このもどかしいシーソーゲームの勝負がつくということだ。��かしながら、その時には、どちらが勝者どちらが敗者なのか、それを突き止める意味はまだあるのだろうか。「227」のほうが勝ったとしてもAO3は私たちの許へ戻れなくなったことに変わりはない。
(この雑文は私の日本語先生に添削していただきました。サクラ先生、どうもありがとうございました!)
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藤井賢二(島根県竹島問題研究顧問)
戦後の日本漁船拿捕
戦後、多くの日本漁船が周辺諸国によって拿捕され、乗組員が抑留された。その数は、昭和20年から40年の20年間で、中国によるもの187隻(2233人)、南朝鮮・韓国327隻(3911人)、台湾51隻(680人)、ソ連1164隻(9808人)に上った(『海上保安庁三十年史』昭和54年など)。
図①
は韓国に拿捕された漁船の位置を示したものである(昭和29年末まで)。韓国の拿捕は対馬北方から東シナ海北部そして黄海南部にかけての広い海域で行われ、とりわけ済州島周辺に集中している。
東シナ海から黄海にかけては中国による拿捕も多発したが、西日本の漁業者にとって両国の拿捕・抑留の印象は異なる。どちらも漁船が銃撃を受けることがあり、韓国の拿捕では8人が死亡した(森田芳夫『日韓関係』48年。後の日本政府による補償認定では、昭和30年2月14日に五島沖で韓国艦艇に追突されて沈没した第6あけぼの丸の死者21人も加えられた)。
一方、中国の場合は拿捕時に16人もの死者が出た(『日韓漁業対策運動史』昭和43年)にもかかわらず、「日中漁業問題には日韓漁業問題のような陰鬱さがない」と関係者は記す(『日本遠洋底曳網漁業協会二拾年史』43年)。
日韓漁業問題の「陰鬱さ」の理由は三つある。まず、韓国の待遇の劣悪さ、とりわけ貧弱な食料事情と最長3年半を越す抑留期間の長さ。次に、中国による拿捕が昭和30年の日中民間漁業協定で実質的に終結したのに対して、韓国の場合はその10年後の40年に日韓漁業協定が結ばれるまで、漁業者は拿捕の危険性に怯えねばならなかったこと。そして、抑留者を利用した韓国の「人質外交」(日韓会談代表で後に韓国の外相を務めた金東祚が1986年刊『回想三十年 韓日会談』で使用した言葉)に日本が振り回されたことで
ある。
この「陰鬱さ」から日韓関係を考えるのが小文の目的である。
ただし、中国による拿捕・抑留には思わぬ弊害があったことは触れておかねばならない。日本人漁船員に対する思想教育である。
昭和28年9月18日に博多に帰還した漁船員たちは「中共支給のレーニン帽と工人服に身を包んだまま…略…押し寄せた家族の喜びの呼びかけにも、一切物いわず、ただただ、腕を上下に振り、身を左右にゆすって、中国解放の歌や労働歌を、つぎからつぎから歌いまくるやら、中共礼賛の演説をぶつばかり」という光景があった(アサヒグラフ28年10月7日号)。
26年に約4カ月間中国に抑留された元漁船員は、中国の待遇はよかったと回想し「思想教育など受けた覚えはないが、それでも最近まで中国を良い国だと思っていた」と私に語った。漁業者たちの「異文化体験」は、戦後日本が置かれた状況を考えるた���の貴重な資料である。 マッカーサーラインへの便乗
「韓国人はたたく」。元漁業者への取材中、一人の言葉に周囲もうなずいた。日本人漁船員すべてが受けたのではないにせよ、韓国による拿捕時の暴行の記憶は元漁業者たちに共有されている。
日本を占領支配していた連合国軍総司令部(GHQ)の文書の一つ「Korean seizures-Petitions」に5件8隻の拿捕事件の報告がある。うち3件で取り調べ時の暴行の証言がある。次は瑞穂丸船長報告の一部である。瑞穂丸は23年5月14日に拿捕され済州島に連行された。
「私は警備船に呼ばれ、東経一二六度一二分、北緯三二度四八分に同意し捺印を求められたが、其の位置が事実と全く相違しているので、其の訂正を乞ふた処、警備船士官二名は顔面を十回位殴打し、口中よりは血を出し其の上堅木にて全身を乱打意識不明となる。
余りにも無謀なる処置に唖然としました。此の状態では到底我々の意を解する事は絶対になく、意見を主張すればする程却って激昂し身に危険を感ずる計りと考へまして、不本意ながら右警備船の位置に同意しました。警備隊員は無線機、航海用具、船員私物等悉く持去りました(略)。
十六日西帰浦より済州に回航当時本船に(士官一名下士官兵七名)計八名が懲戒の為乗組んだのであります。八名の三食を本船にて給与せねばならないので配給で限度のある為一食にはトウモロコシを入れたので其れに憤慨して我々に雑穀を入れて出した。馬鹿にしている。船長が命令したのであろうと云って、堅木にて十四、五回までは意識あるも後は意識不明となる」
瑞穂丸の船長は、報告書の最後を、日本人乗組員が暴行を受けた理由について「外に此れという理由もありません。朝鮮人は日本人に如何に虐待を受けて来たかにあるようであります」と結んだ。35年間の日本の朝鮮統治に対する〝報復〟が東シナ海の海上で行われていた。
韓国(当時は南朝鮮過渡政府)が拿捕位置の確認を強要したのは、瑞穂丸のマッカーサーライン違反を認めさせようとしたからである。
マッカーサーラインは昭和20年に総司令部が日本漁船の操業の限界線として設定したもので、韓国とは本来無関係なものであった。25年1月19日に総司令部は「公海における日本の漁労活動は総司令部の命令によってのみ管理される」と日本漁船拿捕停止を韓国に求めた。マッカーサーラインを日韓の国境のように誤解し、連合国(=戦勝国)ではない韓国が連合国のようにふるまうことは日韓関係に悪影響を与えると、総司令部は危惧していた。
しかし、同6月に始まる朝鮮戦争で国連軍(米軍)がまきかえすと、同12月に韓国は日本漁船拿捕を再開した。日本の漁業者は、米国の「防共の第一線に立つ韓国への甘やかし」が韓国の横暴を招いたと憤った(『日韓漁業対策運動史』)。
李承晩ライン宣言
昭和27年1月18日に韓国は李承晩ラインを宣言、広大な水域からの日本漁船排除をめざした。彼らが既得権益と考えたマッカーサーラインが、韓国の度重なる米国への要請にもかかわらず、同4月28日の日本の主権回復により消滅確実となったための措置であった。
李承晩ライン宣言とは、外交交渉で得られなかったものを一方的な宣言によって獲得しようとした極めて非常識なものであった。そして韓国は、宣言の1カ月後の日韓会談(日韓国交正常化交渉)で、李承晩ラインを「既成事実」として日本に突き付けて認めさせようとした。
日本は資源保護のため一部漁業の禁漁区域と禁漁期間を設けることを提案したが韓国はこれを受け入れず、すべての日本漁船の操業禁止区域設定を求めたのである。
韓国の強引さの背景には水産業の重要性があった。水産物輸出は朝鮮戦争前には韓国の総輸出総額の7割を占め、外貨獲得の柱として期待されていた(大韓民国公報處『週報』八 1949年)。遠洋漁業振興のため、東シナ海から黄海にかけての好漁場に日本漁船が操業できない区域を作り、その漁業資源を独占することは、韓国の悲願だった。
すでに1948(昭和23)年の建国前から「遠洋漁業には済州島西南東シナ海のトロール漁場の開拓と南氷洋捕鯨漁業の進出の二つがある」とし、このトロール漁場に「我が戦士を進出させ、日本漁夫の侵略企図を防止せねばならない」と韓国の水産行政担当者は主張していた(同1月11日付東亜日報)。
このトロール漁業とは底曳網漁業の一種で効率のよい漁業であった反面、資源を枯渇させるため沿岸漁業者との紛争を明治以来おこしてきた。朝鮮総督府は沿岸漁業保護のため、トロール漁業禁止区域
=図②=
を定め、また朝鮮への導入を許さなかった。しかし、韓国政府は建国後すぐにトロール漁船を購入して遠洋漁業振興の姿勢を示した。
李承晩ライン原案の「漁業管轄水域案」
=図③=
は、日本の批判を弱めるため朝鮮総督府のトロール漁業禁止区域を基礎とした。そして東シナ海北部から済州島南部までの底曳網漁業の好漁場をそれに加えて突出させ、好漁場の独占をめざした。
朝鮮戦争で国土が荒廃した韓国にとって、資源に恵まれた水産業にかける期待は大きかった。「韓国の水産業は正常に生産活動を行っているおそらく唯一の産業」という総司令部の当時の評価が残されている。
抑留者の辛苦
拿捕が最も多発したのは昭和28~30年の3年間で、1年に500人前後の日本人が抑留された。この時期、日本の朝鮮統治にもよい面があったと述べた28年の「久保田発言」を理由に韓国は日韓会談を決裂させていた。30年に韓国は対日貿易全面禁止や日本漁船に対する砲撃声明を打ち出すなど日韓関係は最悪の状態に陥った。
29年からは、韓国は拿捕の法的根拠としていた漁業資源保護法で定めた刑期が終了したにもかかわらず、漁船員を釜山の外国人収容所に抑留する措置をとった。そのため抑留漁船員の数は900人を越えた。
この時期に拿捕された漁船員の回想・記録の一部を紹介する。
「韓国警備艇というのは無茶苦茶でしたね。拿捕された時は、本当に情けなくなりましたね。海賊船以上ですわね。だって国を守り正義を尽くさねばならない警備艇がですよ、僕らの船にパッと横付けして、目を覚ませば、僕らの草履はないわ、もう茶碗、食器類、全部ないんですからね。ただ寝具が残っていただけですからね。あれには、僕は往生しました」=金毘羅丸乗組員。30年11月25日に対馬南方で拿捕(『山口県史資料編現代二』平成12年)。
「刑務所での厳しい生活は、体が覚えている。『六畳の板の間に三十人がいて、夏は暑く、冬は寒くて大変。禁固刑だから一日中部屋にいなければならず、つらかった』。しかも、当時の韓国は食糧が乏しく、食事は粗 末。三十人がおけ一杯の水で、一日を過ごさなければならないのもこたえた。刑を終えても、幾度となく思い浮かべた家族の待つ故郷には帰れず、釜山の外国人収容所に移送。刑務所に比べ、制約は穏やかだったが、衛生状態や食糧事情は悪く、結核になる人もいた。
見えない行く末が不安を増幅させた。そんな中、心のよりどころとなったのが、家族からの手紙や物資。浜田の缶詰工場で、魚と紙幣を入れて密封した缶詰を送ってもらい、食料などを買って、疲れた心身を癒した。(略)『収容されていた三年余りは、本当に無駄な時間を費やした』」=第三平安丸乗組員。29年12月21日に対馬西方で拿捕(『フォトしまね』一六一平成18年)。
収容所を管理する韓国人警察官の腐敗についての証言は多い。抑留者の命綱だった差し入れ品も荷抜きや没収されることがあった。
30年には「月に三度の家族宛の便りが殆ど不着に終っていたが(当時竹島切手を強制的に貼らされた事もある)、不着の原因が年末に至り、(韓国人警察官が)貼付した切手をはがし再び我々に売りつけていた事実が判明」し、これに日本人が抗議したこともあった(『韓国抑留生活実態報告書』33年)。
「外部との接触を厳重に禁止されている吾々は、彼等にとっては、絶好の鴨であったのである。公務員を通じて、物一つ購入するにも手数料を取られ、差入れ品や慰問小包品を安く買い取られる等、間接に吾々抑留者が警察官や刑務官の生活を支えていた」(『日韓漁業対策運動史』)。
31年には「九月五日に抑留漁船員二人が強制送還によって大阪港に帰国した。二人とも結核におかされ、精神に異常をきたしていた。十月二日に抑留漁船員の妻が、悲嘆のあまり自殺した。さらに、罹病し病勢悪化が家族あての音信によって判明したので、外務省を通じて韓国政府に特別送還を申し入れてあった抑留漁船員が、十二月七日に遂に死亡した」(『日韓漁業対策運動史』)。
当時、韓国は李承晩ラインを、日韓間に公平な境界線を引いて紛争を防止する「平和線」と呼んだが、日本にとりこの名称は皮肉そのものであった。28年に設立されていた日韓漁業対策本部は30年12月に李ライン排撃行動大会を挙行した。翌年6月には抑留船員留守家族が上京して陳情し、国際赤十字社への働きかけも行った。事態打開を求める日本政府への声は切実だった。
韓国の「人質外交」
韓国の「人質外交」 が最も「成果」を上げたのが「三十二年十二月三十一日の合意」だった。当時、刑罰法令違反による退去強制者や送還される不法入国者の受け取りを韓国が拒否したため大村入国者収容所が「超満員」で、日本は韓国のもう一つの「人質外交」に困っていた。
32年末の合意によって、不法入国者(1002人)と漁船員(922人)の相互送還が行われ、日本は大村収容所にいた本来は国外退去になるはずの在日韓国人刑罰法令違反者(刑余者)474人を仮放免し、彼らに対して在留特別許可を与えた。また、日本が「久保田発言」を撤回し、さらに日本人が韓国に残した財産に対する請求権を撤回することで、日韓会談を再開することも約束された。
当時駐日韓国代表部代表だった柳泰夏は「請求権、平和線など、この時我々の要求がほとんど九〇%程度受け入れられた」「(この合意で)韓日会談は始まったと言っても過言ではない」(『現代史の主役たちが語る政治証言』1986年 ただし李承晩ラインを日本は認めてはいない)と回想した。この駐日代表部は昭和24年に戦勝国であるかのように総司令部に対して派遣されたもので、日本が独立しても退去しなかった。
交渉カードとしての李承晩ラインがこのような破壊力を持つことに、宣言前から韓国が気づいていたかは、わからない。ただ、「政治というものがこうしたブラッフ(はったり)とバーゲン(駆け引き)の連鎖であるとするならば、彼は当代一流の政治家であることはまちがいない」(宍戸寛『評伝 李承晩』中央公論昭和31年2月号)と、当時の日本人が評した李承晩大統領は、日本にとって容易ならざる相手ではあった。
韓国の「人質外交」の犠牲となった日本人漁船員は帰還後も苦しんだ。35年5月3日付西日本新聞には「抑留されていると、ひどい栄養失調におちいる。主食といえばダイズ、ムギの混合食、ミソ汁といえばなかみがほとんどないナイロン汁―これを長い間食べていたのではどんな丈夫なものでもたまらない」という証言を紹介し、32年末の合意で帰国して2年以上たっても、100人近くが病気と失業にあえいでいるとある。同記事はまた、韓国に漁船を没収された自営の船主が先の見通しが立たずに途方に暮れている様子や、経営の安定している会社に勤めていても、抑留されていた3年間の操業技術の進歩に戸惑い仕事に不安を漏らす船長の声を伝えている。
日韓漁業交渉の難航
李承晩政権が1960(昭和35)年に倒れて国交正常化に積極的な朴正熙政権が登場したが、依然として日本漁船拿捕は続き、37年に請求権問題に目途がついた後も漁業交渉は難航した。それは、「日韓会談とは実は日韓漁業会談だ」とある歴史研究者が喝破したほどだ。
東シナ海・黄海の好漁場を独占しようとする韓国の要求は、「領海三海里、公海自由」が一般的であった1950年代の国際社会で認められるはずはなかった。
韓国は漁業資源保護のためと主張したが、李承晩ライン宣言は隣接公海での漁業資源保護のための規制は関係国と協議して行うという国際常識を無視した一方的なもので、世界各地で漁船が操業していた日本はとうてい容認できなかった。
結局、昭和40年の日韓漁業協定で、日本は朝鮮半島近海に距岸12海里までの漁業専管水域を認め、さらにその外側に距岸40海里までの共同規制水域を設けた(「戦後韓国はどうやって竹島を奪ったか」地図B)。日本が12海里漁業専管水域を認めたのはこれが初めてであった。1960年代に世界各国が結んだ漁業条約では漁業専管水域設定が一般的になったことが、この背景にあった。
平たく言えば、日韓漁業協定で日本は最大で距岸200海里もある李承晩ラインを12海里まで押し込んだのだが、そのためには韓国漁業振興のための日本の漁業協力(援助)が必要だった。韓国の要求の根底にあるのは、日韓間の漁業の絶望的ともいえる格差だったからである。
日韓漁業協定締結に合わせ、日本は韓国に9000万㌦の民間資金による漁業協力、漁船の輸出禁止の解除、そして水産物輸入を拡大することになった。昭和37年の「金・大平合意」で決定した3億㌦の無償「請求権資金」のうち9・1%が水産業へ投入された。その6割が「漁船導入および建造および改良」に充てられ、1966(昭和41)~75年に建造された3299隻の漁船のうちトン数で49・2%が「請求権資金」によるものであった。
こうして「小型漁船で沿岸漁業に従事するにすぎなかった」韓国漁業が、「我が国漁業の遠洋漁業への進出は請求権資金による大型漁船導入によりさらに活発に展開され、近海漁業においても先進漁業国の日本と相互牽制」できるようになった(『請求権資金白書』1976年)。
1950(昭和25)年に李承晩が「マッカーサーラインのあちら側では日本人漁船が海を覆って魚を獲っているのに、こちら側では船一隻見ることができない」(『大統領李承晩博士談話集』1953年)と嘆いた状況は過去のものになった。それどころか昭和50年代後半から、北海道や西日本の沿岸漁業者は韓国漁船の操業に悩まされることになる。
漁業交渉が難航したもう一つの理由は、韓国の世論が李承晩ラインを国境線と誤解して日韓会談妥結に反対したことだった。「平和線の譲歩は領土の縮小を意味する」という主張に対し、韓国の与党は、そのような主張は「大韓民国を国際的に嘲笑の種にして孤立化させる仕打ちとしか見ることができない」と強くたしなめねばならなかった(「韓日国交正常化問題-韓日会談に関する宣伝資料 補完版一」1964年)。
昭和27年の李承晩ライン宣言(正式名称・隣接海洋に対する主権に関する宣言)後、韓国は米国はじめ諸外国の抗議を受けて主権の主張を撤回し、「主権」とは「漁業管轄権」のことだと、苦しい言い逃れをした(漁業管轄権も当時は国際的に認められておらず、日韓会談で韓国は日本に論破された)。しかし、日本に対する「元気のよい意見」(日韓会談の兪鎮午・韓国代表の言葉)に押されて公海に主権を宣言するという失態を犯した事実は消えなかった。李承晩政権の対日政策を支えた「元気のよい意見」の後始末に朴正煕政権は苦慮することになったのである。
韓国への「苦い視線」
漁業者団体は、拿捕による被害額を、昭和39年当時の評価基準で総額約90億円と算定した。内訳は、漁船の被害(未帰還船185隻の船体・付帯設備、帰還船142隻の修理費)24億円、積載物8億円、事件に伴う出費2億円、抑留中の賃金25億円、休業補償25億円、死亡障害補償5億円であった。この直接的被害に、「漁場への迂回、漁場の喪失、精神的負担など」間接的被害を加えると被害総額は約250億円を上回るとされる(『漁業で結ぶ日本と韓国』昭和40年)。
被害を補償したのは加害者韓国ではなく日本政府だった。約90億円のうち拿捕保険などで処置済みのものを差し引いた被害額を、特別交付金40億円に加え、低利長期融資10億円という形で、被害者に補償したのである(『日韓漁業対策運動史』)。
40年に結ばれた日韓条約中の請求権および経済協力協定では「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、(略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とある。そして同協定の合意議事録には、この「問題」には「この協定の署名の日までに大韓民国による日本漁船のだ捕から生じたすべての請求権が含まれており、したがって、それらすべての請求権は、大韓民国政府に対して主張しえない」とされていたからであった。
一方で、この合意議事録では、この「問題」には「日韓会談において韓国側から提出された『韓国の対日請求要綱』(いわゆる八項目)の範囲に属するすべての請求が含まれており、したがって、同対日請求権に関しては、いかなる主張もなしえない」とされていた。「韓国の対日請求要綱」の中には「被徴用韓人の未収金」や「戦争による被徴用者の被害に対する補償」があった。
2012(平成24)年以降、韓国の裁判所は戦時中に徴用された韓国人労働者が日本企業に損害賠償などを求めた訴訟で、日本企業に対する元韓国人労働者の訴えを認める判断を盛り込んだ判決を言い渡している。日韓条約を遵守して漁船拿捕による被害の補償を韓国に求めない日本との違いは、あまりに大きい。
昭和28年、李承晩大統領は渡韓した日本の水産業界代表に対して、「日本は四十年にわたって漁業を占有していたことに韓国人として不満がある」「四十年遅れたので、それを取り戻さねばならない」と日本漁船排除の正当性を強調した(「日韓漁業対策運動史」)。しかし、日本統治期の朝鮮漁業は「漁獲量世界第二位の水産大国」と後に韓国人が誇るほど発展したのであり、李承晩の非難は物事の一面にすぎない。
そして、戦前を朝鮮で過ごしたある人物が、韓国の対日姿勢「にがり切りながら、歴史や民族のふしぎを考えています」と私への葉書で記したように、李承晩ライン問題によって、日本人の韓国に対する「苦い視線」=否定的評価は確実に増したのだった。
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リンネル表紙キャラクターを務める人物ならば、何と云っても堀北真希です。市川って男性と結婚し子孫3人居る為、健太郎居候半世紀甘ったれていた事実を深く反省しなければなりません。以前の父親亡くなって3年ですから、健太郎居候無事故無違反徹底し毎年4月26日または8月21日におなじみセーフティードライバーズカードを申請し、警察署にて簡素な運転免許証更新出来る体制整えて結婚に辿り着かせればありがたいです。2025年度秋を以ち健太郎居候『50歳』所謂『ハーフセンチュリー』となるのを念頭に置きます。
2025/02/06
#堀北真希#カタピラ大特免許証#普通二種MT免許証#大型二種限定無し免許証#市川麻里奈#無事故・無違反#警察署にて簡素な免許証更新徹底#黃金免許証#リンネル#2025年度『半世紀』#大場麻未#三倉未来#山下未来#甘ったれてゃ居られない
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TEDにて
ジャック・チョイ:バーチャルな解剖台で手術が可能になる!
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
TED2012のステージで、ジャック・チョイが医学生のための強力なツールのデモンストレーションを披露します。
現実にある解剖台とまったく同じ大きさ、同じスケールの画面にマルチタッチスクリーンによって映される人体と寸分たがわぬ検体を、まるで、オーケストラの指揮をするように開腹し
内部に進行して各臓器に進みバーチャルに解剖していくことで、本物の人体の各部分と仕組みを理解することができるのです。
実際の手術とは異なる断面でスライスする様子は、3D映画のような視覚効果を体験しているようです。
解剖学の歴史は、紀元前3500年頃に古代エジプトでパピルスに書かれています。戦争が当然のごとく行われていた当時としては、人体の弱点を知らないと対戦相手に勝利できないために自然と関心が向けられるのも合点がいきます。
現代では、人体解剖はできません。医師免許。他の倫理的な教養が必要です。そして、アレキサンドリアで人体解剖は禁止され、ルネサンス期である。1500年代に入るまで発展していませんでした。
日本では、明和8年(1771年)に前野良沢、杉田玄白などが解剖を行う。その後、「解体新書」を完成させています。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
なお、ビックデータは教育や医療に限定してなら、多少は有効かもしれません。それ以外は、日本の場合、プライバシーの侵害です。
通信の秘匿性とプライバシーの侵害対策として、匿名化処理の強化と強力な暗号化は絶対必要です!
さらに、オープンデータは、特定のデータが、一切の著作権、特許などの制御メカニズムの制限なしで、全ての人が
望むように再利用・再配布できるような形で、商用・非商用問わず、二次利用の形で入手できるべきであるというもの。
主な種類では、地図、遺伝子、さまざまな化合物、数学の数式や自然科学の数式、医療のデータやバイオテクノロジー
サイエンスや生物などのテキスト以外の素材が考えられます。
こういう新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との
戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!
<個人的なアイデア>
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
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【報告】5.9 五輪とても無理です。即刻ヤメロ!新国立競技場GURUGURUデモ
(A photo by @mkimpo_kid: Check here for more photos.)
新型コロナ変異種ウイルスが猛威を奮い、3度目の緊急事態宣言が発出される中、都内各地ではオリンピック・テストイベントが目白押し。都立明治公園をつぶし、都営霞ヶ丘アパートをつぶし、野宿する人々を追い出して建てられた新国立競技場でも、5月9日、陸上競技のテストイベントが開催された。
私たちは、人々の命と暮しを踏みにじるオリンピックを今すぐ中止しろ!奪ったものを返せ!と声をあげるべく「五輪とても無理です。即刻中止!新国立競技場GURUGURUデモ」を開催した。
(photo by @galbraithian; Check here for more photos)
テストイベントはTBSが生中継する力の入れよう。それに加えてオリンピック中止を求める声の高まりを受けてか、デモへの注目度も高く、開催前からスポーツ新聞を中心に「不穏な動き」などと抗議行動を予告する報道が行われ、集合場所には国内外のメディアが集結していた。
デモ前の集会では様々な人がオリンピック反対の思いを訴えた。
まずは、98年長野オリンピック反対運動を取り組み、長野市での「聖火」リレーでも「オリンピック反対!」の声をあげた「オリンピックいらない人たちネットワーク」からの連帯アピール文が読み上げられ、続いて5月11日に福岡で「聖火」リレー抗議行動を呼びかけていた「オリンピック不要団」がリモートでアピール。
続いて、入管での面会支援を行っている学生の方が、オリンピックがいかに移民・難民の人々の人権を踏みにじっているか、実態を交えて強く訴え、「オリンピック追い出しヤメロ明治公園国賠」原告団の仲間からも新国立競技場建設における野宿者排除とオリンピック利権を糾弾するアピールが行われた。おことわりんくからは、5月1~2日の沖縄での「聖火」リレーとその抗議の様子を報告。新国立競技場建設に際し取り壊された都営霞ヶ丘アパートの元住民の方も駆けつけてくれ、生の思いを語って下さった。医療従事者の方からは「五輪をやめて医療や貧しいたちにお金を回すべき」と声が上がった。
(それぞれのアピールは記事後半に要旨を記載)
デモは新国立競技場を2周!競技場の中からは時折、イベントを盛り上げるアナウンスや音楽が漏れてくる。
3月の2度のデモでは、警察官が車線よりはるか内側にデモを圧縮し、「早く歩け」「前につめろ」と至近距離から大声で叫ぶというデモ妨害が続いていた。同じことを繰り返さないよう、事前に抗議申し入れを行っていたにも関わらず、警察はこれを完全に反故にしたため、デモ隊は密状態を強いられながら進むことを余儀なくされた。
それでも、目の前に公園を奪い、団地を奪い、人権を踏みにじった新国立競技場がそびえ建っている、その中でオリンピック関係者たちがのうのうとテストイベントを行っている、それだけで抗議の熱気は高まり「オリンピック今すぐやめろ!」の声は力強く轟いた。
オリンピック再開発やめろ!
オリンピックで貧乏人を追い出すな!
明治公園を返せ!
霞ヶ丘アパートを返せ!
新国立競技場は呪われたスタジアムだ!
今すぐ解体しろ!
デモ前日には、水泳の池江選手がオリンピックに反対する人々から「辞退しろ」という声を受けて苦しい、とTwitterで発信し、メディアではアスリートに怒りの矛先を向けるのは間違っているという論調が相次いだが、私たちは以下のようにコールした。
オリンピックは政治だ
アスリートは極めて政治的だ
アスリートは政府の道具になるな
批判の声を封じるな
後の報道を見ると、抗議の声はテストイベント開催中の新国立競技場の中まで届いていたという。
デモが終わるころにはすっかり暗くなっていた。最後に、反五輪の会のメンバーが、オリンピック・パラリンピック翼賛教育が続く学校現場からのアピール、パラリンピックについて批判するアピールをおこない、解散となった。参加者は110名。
終了直後から、地上波テレビ番組を含む国内外の多くのメディアにオリンピック反対デモが報じられ、SNS等には賛同するコメントが無数に並んだ。いまやオリンピック・パラリンピックの中止を求める世論の高まりが、無視できないほどに大きくなってきていることの表われだ。
オリンピック今すぐやめろ!オリンピックより命を守れ!
<各社の報道>
国立競技場で陸上東京五輪テスト大会 周辺では五輪反対デモ予定 緊迫感漂う中開幕(デイリー)
【東京五輪】「中止デモ」の予告で厳戒態勢…陸上のテスト大会がスタート(東スポ)
東京五輪中止求めるデモ行進が決行「今すぐ止めろ!」陸上テストイベント中の国立競技場周辺で(スポニチ)
【東京五輪】国立競技場周辺で大規模の反五輪デモ「中止しろ!」「誰のためにやるのか!」「貧乏人を殺す」(東スポ)
反五輪デモで国立競技場周辺は騒然…公安警察の〝抗議運動潰し〟も発覚(東スポ)
国立競技場前で五輪反対デモ「人殺しの五輪」「ぼったくり」陸上テスト大会中に抗議の声(デイリー)
国立で五輪リハ、温度差くっきり…緊急事態宣言下で“厳戒”陸上テスト大会(サンスポ)
国立競技場周辺で五輪反対デモ「医者もナースも限界だ」(共同通信)
国立周辺で開催反対デモ 東京五輪(朝日新聞)
「五輪いらない」デモの中、無観客で本番向けテスト大会(朝日新聞)
国立競技場前で東京五輪反対デモ 海外メディアも取材(毎日新聞)
東京五輪開催に抗議、国立競技場周辺でデモ(AFP)
「オリンピックより命を守れ」…東京都心で「オリンピック中止」デモ(WowKorea)
Two Tokyo Olympics: Inside and outside the National Stadium(AP)
[출처: 중앙일보] 일본 하루 확진 7000명 육박, 국민 59% “올림픽 취소해야”(中央日報)
Japan: Dozens march around Tokyo Olympic Stadium to protest against 2020 Games(Ruptly)
Protesters call for Tokyo Olympics to be canceled(Japantimes)
Tokyo Olympics: From a dream in 2020 to a risk in 2021(Times of India)
Protest against Tokyo Olympics(ABS CBN)
‘Olympics kill the poor’: Furious Japanese public protest Tokyo 2020 Olympics as calls to cancel Games continue
youtube
当日映像 :ken23quさんより
<集会アピール要旨>
1,「オリンピックいらほない人たちネットワーク」長野
皆さん、市民の力でオリンピック開催止めよう!ね。オリンピックより命が大切!あたり まえだよ! 4月1日、長野でも聖火リレー反対!東京オリンピック反対!の抗議行動をやりました。 「東京五輪開催反対!オリンピックいらない!聖火リレー反対!」を叫びました。バナーには「Fukusima Not Tokyo Olympics! (オリンピックなんかより福島だろ)」「NO Olympics Any Where!(世界のどこにもオリンピックいらない!)」「Breads Not Circuses!(サーカスよりパンを)」「オリンピックよりコロナ対策を」など。夜の7時、まるで葬式の参列者のような静かな観客の中を、スポンサー企業のデコバスと警察車両がぞろぞろ、スポンサーのための聖火リレー・オリンピックでしかないことが明らかだ。聖火 ランナーも集った観衆も IOCやオリンピックのダシにされたんだ。
そして、まさにこの時、NHKはライブ中継していた音声を30秒間「消音」した。公共放送を自称するNHKが、意図して「オリンピックいらない!」の声をなかったことにしたんだ。NHKがやったことは、私たちの声を消音しただけではなく、私たちの「思想・ 信条の自由」「表現の自由」を侵害したんだ。あったことをなかったことして、歴史を3 0秒消したんだ。
4月16日、NHK に「オリンピック・聖火リレー賛美の御用報道をやめろ!」「消音」を指示した過程などの調査公開を求める抗議文を提出。オリンピックは平和の祭典という大ウソ・五輪開催による国民意識(ママ)の統合が、憲法改正へつながる。消音は自ら報道の自由を侵害し、ジャーナリズムの自死に他ならないなどを理由にあげました。
皆さんの中にも、テレビで聖火リレーハイライトを見た人いるとおもうけど、気持ち悪い。感動の押し売りと涙。まるで戦時中の「肉弾三勇士 」、若い人は知らナイネ。
私たちは東京の皆さんへ連帯の意味も込めて 5月16日(長野)、22日 (松本)で「オリンピックいらない!コロナ下の五輪強行開催やめろ!」の連続集会をやります。
私たちは、「戦争をしない!させない!」ための練習として、オリンピックいらない!の声 を上げてきました。 私たち市民の力のリレーで、ホッケを食べてオリンピック・ファシズムをぶっとばし、貧困と格差・コロナまで拡げ、命まで奪うオリンピック止めましょう。
2021.5,8 オリンピックいらない人たちネット ワーク
Masao Ezawa
2,「オリンピック不要団」福岡
何年も前からオリンピック反対行動をやられてきた皆さんをリスペクトします。
僕は絵をかいてメッセージを伝える職業なので、表現の自由といったテーマを中心に活動することがあります。2011年に警察からデモ行進を妨害され、国賠訴訟で争い、本人訴訟で2015年に高等裁判所で勝訴確定しました。警察相手の国賠訴訟で市民が勝つ割合は6%とすごく低いと言われているのに勝ったのが自慢です。
オリンピック反対行動をやらなければと思いつつ、福岡から地理的にも離れているので、今までなかなか腰があがらなかったのですが、聖火リレーが福岡にも来てしまうということでおしりに火がついてやっといま行動しています。
普段、福岡で脱原発、反戦、G8先進国首脳会議反対などのデモをやったり、Twitterに投稿したりすると、時々ネトウヨなどに絡まれるのですが、今、オリンピック反対と投稿してもそういうことが一切ありません。大多数の人たちが、この時期にコロナの中でオリンピックを無理やり進めようとするのはおかしいんじゃない?と感じている。マジョリティ側になって行動するのは初めてなのではないか、すごく珍しい機会だと思います。これを一緒に大きい声で福岡でも言っていきたいと思います。
福岡では、公道での「聖火」リレーは中止になりましたが、5月11日火曜日に平和台陸上競技場で聖火リレーの点灯式だけ行われます。この点灯式に夕方4時から競技場前で抗議行動をやろうと思っています。(5月11日当日の様子)
東京の皆さんと連帯して行動でき心強いです。
3,品川にある東京入管に被収容者の面会支援に行っているという学生の方
シュプレヒコール
オリンピック反対 税金使うな
オリンピック反対 コロナが優先
オリンピック反対 医療が優先
オリンピック反対 生活守れ
オリンピック反対 命を守れ
前提として、オリンピックというのは差別と暴力の祭典。それはあらゆる形で社会に現れているがその一つが入管だ。オリンピック招致が決まってから3年後の2016年の内部通達では「東京オリンピック・パラリンピックの年までに安全・安心な社会の実現を図るため、不法滞在者ら社会に不安を与える外国人を大幅に縮減することは喫緊の課題である」と述べられている。ここでいう「不法滞在者」というのは正規の在留資格を何等かの形で失った人。ただビザがない、紙切れ1枚がない、それだけのことだ。実際に2016年から収容はどんどん長期化し続け、5年以上も収容されている人もいる。
収容所内の状態は、まともな医療も食事も環境も一切提供されていない。医者に行きたいと訴えても実際に診察されるまでに一週間もタイムラグがある。検査もまったくしてくれず、嫌なら帰れと言われるらしい。死亡事故も毎年のように出ている。いかに入管の医療が医療として機能していないかわかる。
最近、仮放免されたネパール人女性は入管に2年1カ月収容されていて、子宮筋腫が悪化していた。外部の医者が検査結果を見て驚くほどの、いつ倒れてもおかしくない、手術をしなければならない状態だったにもかかわらず、仮放免されたのはそれから半年後。彼女は入管から、「病気が治ったらまた収容する」と言われたらしい。仮放免者は無保険で高額な医療費がかかること、就労できないためにお金がないことなど、入管はわかっていながら「出してやるから自費で治して帰ってこい」「治ったらまた収容するからな」と脅しをかける。こんな状態だ。
食事も品川入管では冷え切っていて、虫や髪の毛が入っていることもざらにある。そんなもの食べたくない。衰弱して食欲もない。しかし、食べないとハンストと思われて懲罰房に連れていかれる。だから無理に食べている。
懲罰房は、入管が問題行動を起こした人だと判断した人を連れて行く部屋。窓がなく、トイレも頼まないと流してもらえない。狭くて不潔なところ。
昨年の秋に仮放免されたフィリピン人トランス女性は、ハンストや抗議行動に一切参加していなかったにも拘わらず、懲罰房に6カ月も入れられた。これはやはり自分がトランスジェンダーだからだと彼女は語っている。
一方、オリンピックは何をやってるか。オリパラ公認プログラムとして、セクシャルマイノリティの情報発信や安全な居場所づくりを行うプライドハウスTOKYOレガシーなる事業がある。トランスジェンダーの移民をトランスジェンダーだからという理由で6カ月も懲罰房に閉じ込めておきながら、日本人のトランスジェンダーやマイノリティにはエールを送る。在留資格をもたない移民・難民を入管の中で虐待し、時には殺しておきながら、一部のスポーツができる難民は難民選手団として組み入れる。こういうレイシズム、排外主義、能力主義、様々な差別による命の選別こそがオリンピックの本質だ。だから、COVID19の感染拡大に合わせて選手やオリンピック関係者を医療面で優遇しろという話になったのも当然と言えば当然、オリンピックの論理はそういうものだ。いまはCOVID19が拡大したことで、この社会でデフォルトとされているような人にも命の選別が及んだから抗議の声が広がったが、これまでもずっと社会の中で弱い立場に置かれてきた人たちはオリンピックのために殺されてきた。それを忘れてはいけない。オリンピックが続く限り犠牲者は増え続ける。オリンピックは、様々な差別を軸にしてそれを押し広げることによって成り立っているから。
今やっているトーチリレーも、あの火の燃料はレイシズム、セクシズム、能力主義、資本主義、新自由主義、ファシズム、優生思想、その他ありとやらゆる差別と暴力だ。それ���よってあの「聖火」は燃えている。だから「聖火」は消さなければいけないし、オリンピックは今ここで完全に廃止しなければいけない。オリンピックをやっている限り誰もが安心していきいきと暮らせる社会なんてものは絶対に実現しない。名古屋の入管で亡くなったウィシュマさんの問題がいま話題になっていて、「彼女が生きていけた社会を目指して」というスローガンがあるが、彼女が生きられた社会はオリンピックをやってる限り絶対に実現しない。だからオリンピックは世界のどこにもいらない。オリンピックを、いまこの場で終わらせたい。
4,オリンピック追い出しをヤメロ明治公園国賠原告団
皆さんが今いる新国立競技場は都立明治公園という公園だった。野宿者で、長い人は30年近く暮らして来た。新国立競技場を建設するため、2014年から16年にかけて、警察、裁判所、JSC、東京都が総力をあげて5名の野宿している住人を蹴散らすという国家権力むき出しの暴力が振るわれた。オリンピックという国策事業のためなら、貧民を暴力的に蹴散らして突き進む、そういったことは許してはならないということで、2年前から国賠訴訟という形で争っている。
最初は長年住んでいた仲間と追い出しをやめろ、話し合いで解決しろと交渉を重ねてきたた。それに対して2016年4月16日、強制執行という暴力で叩き出された。それから緊急避難として明治公園の一部であったこの「こもれびテラス」に半年間テントを張って暮らしてきたが、この場所も廃止された。そのあとに建ったのがこんなどでかいJOCビルだ。
もともとJOC、日体協は老朽化した岸記念体育館に本部があった。そこを建て替えても高層化できないということで困った森喜朗が東京都に相談したところ、都立公園であったこの土地が優先的に払い下げられた。立ち退き料として古い老朽化したビルは東京都に買い上げられ、その建設費も丸儲け。オリンピックだから、スポーツ団体だから、まるで私物化したように税金がじゃぶじゃぶ使われ、その一方で貧しい者、野宿している者にはむき出しの暴力がふるわれるということを、5年前、私たちはまざまざと見せつけられた。
これは日本に限ったことではなく、どこの国のオリンピックでも、もれなく巨額のお金が動くオリンピックのために貧民の暮しが蹴散らされてきた。私たちは東京で、こんなことは止めるんだということで闘ってきた。やれることはすべてやるつもりで、今現在も裁判で対抗している。
今年、こんな状況下でもオリンピックをやるとオリンピック推進事業者は言い続けている。その際には、いま皆さんの立っている新国立競技場地域一帯を封鎖する計画があるという。ラーメン屋もマンションも全部、地域一帯を囲って、そこら辺にゲートを作って、顔認証で関係者しか入れない。これを警視庁はセーフゾーンと言っている。
私たちは今年の開会式に合わせて既にデモ行進の申請をしている。警視庁からは、この辺りはセーフゾーンになるからデモができないかもしれないと言われた。この一帯にはまだ野宿する仲間、明治公園から追い出された仲間が暮らしている。その仲間のところにもいま東京都から「出て行け」「フェンスで囲うからな」「工事の邪魔だ」という圧力が徐々にかかっている。今、日本全国こんな状況下で「聖火」リレーが行われているが、東京で「聖火」リレーがやられるとき、また国や東京都が追い出しをかけてくるのではないかと皆心配している。皆で知恵絞って対抗していこう。
その一環として国賠訴訟に取り組んでいる。次回は6月22日15:30東京地裁706法廷。ご注目いただきたい。今回、東京地裁が証人として憲法学者の内藤先生を採用し証人尋問が予定されている。学者は通常書面のみで済まされることが多いので異例だ。
明治公園で起きた出来事は5年前だが、国家による暴力、オリンピックによる暴力について、一つ一つ洗いざらい蒸し返し、こんなことは二度とさせないと闘っている。皆さんも、コロナで国がこんな状況下でも暴走を続けるオリンピックに違和感を覚えているはず。ともに食い止めていきましょう。
5,おことわりんく
5月1日と2日に沖縄でもトーチリレーが行われた。沖縄ではまん延防止措置が取られているので、沖縄本島では公道を走るということはなく、人を制限した中で無観客のリレーが行われた。
私たちが行くことについて躊躇があったが、パンデミックの中でも辺野古の工事はずっと継続し、オリンピックも中止されない、「聖火」リレーもやられている、運動の側だけが止まってしまっていいのかという声におされて行くことにした。
沖縄本島の「聖火」リレーは無観客ということだったが、5月1日、名護市市民会館の駐車場を白いシートで囲った中で、100人のランナーが1日かけて走るということが行われた。上から見ると、囲った中を、さらにゴーカートのコースのように区切って、そこをランナーと警察官が走る。漫画のような光景だ。その市民会館の前で抗議のアピールをし、セレブレーションの間中私たちの声が響きまくっているという状況だった。途中、反基地運動をやっている医療従事者の方も飛び入りで参加してくれた。
翌日は沖縄戦の激戦地だった糸満の平和の礎で、人が入れないような形にしてトーチリレーが開催された。その日は那覇の県庁前でスタンディングをし、国際通りで「道じゅねー」という練り歩きを行った。沖縄ではいま、辺野古の埋め立て工事に南部戦線の激戦地の遺骨が残っている土砂が使われようとしており、人々は非常に怒り、県庁前でハンストをされている。その横でスタンディングをした。
その日は離島でもトーチリレーが行われることになっていたが、宮古島では基地反対の市民運動の人たちとともに中止するべきだという申し入れを行った。島ぐるみ共闘の中で生まれた、自衛隊基地に反対する市長は、宮古島では一切リレーをやらないという非常にすばらしい決断をした。同じ離島の石垣島では公道を使ったリレーが行われたが、日本会議系の市長で、首長の立場性が現れたのではないか。八重山諸島は9月にも史上最大の自衛隊演習が行われることになっていて、今回のトーチリレーもそれに対するセレブレーションのような意味合いを持つという風に沖縄の人々は感じているようだ。
1964年のオリンピックのときには沖縄から聖火リレーが始まった。復帰前で禁止されていた日の丸を振ることがそのときは認められて、一時期には復帰運動のシンボルにもなったが、復帰後の現状、日本として沖縄が一つに束ねられることに対しても非常に強い違和感をもち反対の行動をとっている。そういう意味でも、今回福島からリレーが始まるということも含め、トーチリレーのおかしさ、政治性を皆口にしていた。
目取真俊さんのブログの中に「5月1日に名護市では、市民会館周辺を使いオリンピックの聖火リレーが行われた。西海岸では巨額の放映権料を当て込んだオリンピック利権。東海岸では増額される工事費・警備費を当て込んだ辺野古利権。さらに選挙がらみの権力亡者たちが、新型コロナウイルスで市民に不要不急の外出自粛を呼びかけながら、自分たちは世論を無視したイベントや工事を強行している。」と書かれている。まさにこういうことが沖縄では行われている。沖縄と福島、東京五輪の問題はつながっているし、東京に住んでいる私たちの責任もすごくあると思っている。命を蔑ろにされいる人たち、暴力に抗って闘っている世界中の人たちと一緒にオリパラを中止させていきたい。
6、霞ヶ丘アパートを考える会&霞ヶ丘アパート元住民の方
<霞ヶ丘アパートを考える会>
このJOCの庭となっている「こもれびテラス」の向こうのエリアには230世帯10棟もの都営アパートがありました。ここで暮らしている人たちに対して、国立競技場ができるから、当初はラグビーW杯のため、そのあとは東京五輪のため、国策だと言って、事前の相談もほとんどないままに追い出しが行われました。2016年1月くらいまでに出て行けというのが東京都都市整備局の言い方でした。最終的に3世帯が残り、その1年後くらいまで、工事の中で、回りの棟が壊されていくひどい騒音と振動の中で暮らすという、過酷な状況に追い込まれました。今日は元住民の方が来て下さったので、ぜひ思うことを聞かせてください。
オリンピックのためにこれだけ弱い人たちが思いやりもなく追いだされたということは非常に悲しいです。日本だけじゃなく各国で弱い人たちがいじめられて強制的に排除されていると思う。その点はオリンピックに反していると思う。皆で頑張ってオリンピックより福祉に力をということでやっていきたいと思います。
<霞ヶ丘アパート元住民の方>
みなさん、こんにちは。私はこの辺、飯場があるあたりに住んでいました。国立競技場を建設するので出て行けと急に言われて、僕は重度の身体障がい者なので、そんなに簡単に出て行けないと言ったのですが、なんだかんだといろいろ言われて出ていくことになりました。出て行くにあたって、皆に一律17万円ずつ渡し、3カ所の場所を指定するからそこへ行ってくれと言われた。私は福祉関係や病院の都合で簡単に指定されたところに行けないと言ったが、ダメだと言われた。僕はすごく怒っているのです。この辺でずっと長い間住むつもりでいたのですが、強制的にオリンピックのために追い出されました。僕はいまどう��ていいかわからないような状態でおります。
7,医療従事者の方から
医療関係者の一人として、なかなかこういう場で叫ぶことができない仲間に代わって声をあげたい。
日頃、ドヤ街で働いている。貧しい人、外国人労働者の人、非正規労働者でクビになった人、そういう貧しい人たちがかかるプライマリーケアの一人として従事している。日常のプライマリーケアにおいても、誰がコロナウイルスに感染しているかわからない深刻な状況だ。
いま経産省をはじめとして民間の医療機関をバッシングしている。公立病院に比べて民間病院はコロナ対策をしっかりしない、入院もさせない、そういう言われ方をしているが、いま、誰もがコロナウイルスをもっているかもしれないという懸念・危惧の中で、みんな緊張感を持って働いている。特にコロナ専用病棟の人たちは本当に大変な状況に置かれている。立川相互病院の窓ガラスに「もうカンベン オリンピック無理」という声があげられている。あれが医療関係者の声だと思う。いま医療が崩壊しようという状況、東京も今日も1000人を超えるような新規感染者数だ。緊急事態宣言が延長されようが、コロナウイルスの収束は見込めない。ここに五輪が呼べますか?五輪をここで呼んだらどうなってしまうでしょうか?(聴衆から「殺される!」の声)東京が、世界中に感染を拡大させる一大クラスターになってしまう。日本の責任、東京の責任として絶対に東京五輪はストップさせないといけない。
東京五輪、もともと6000億円と言われていた費用が、1兆6000億円、それも嘘で実際には3兆円、どんどんお金が膨らんでいる。そのお金を即刻医療に回してほしい。いま誰もが安心できる生活をするために、無料のPCR検査をしっかりとすること。そしてお金は貧しい人にこそまわしてほしい。経済対策、経済対策と言って、大企業にばかりお金を回してどうなるのか。非正規労働者の人たちが、消費に回すお金もなく、野宿に追いつめられ、自殺にまで追いつめられている。それを助けるためにしっかりとお金をあてること、それがお金の本来の使い方ではないか。
いまこれだけ全国でコロナが感染拡大したのは、まぎれもなく、菅首相と二階幹事長のGoToキャンペーンのせいだ。その責任をしっかりとってほしい。
五輪をやめて、人々のためにお金をつかってほしい。
6,東京の学校現場から
私は都立学校の労働者です。水泳の池江璃花子選手はSNSで、東京五輪出場を辞退してほしいという声に対して、「決まったことは受け入れ、頑張るだけ」と答えたことが大きな話題となっています。どこかで聞いたようなことのあるこの言葉、学校で職場で、何かにつけ「もう決まったんだから」と物言う口を塞ぐおなじみの言葉ではないでしょうか。
学校の同僚に、東南アジア出身の在日外国人生徒を何人か受け持ったことのあるというベテランの方がいます。外国人の在留資格には詳しいと自信満々ですが、話を聞いていると、例えば「そんなことをしていると強制送還される」等々、えっと思うようなことを口にすることがあります。その方は体育科で、入管法をスポーツのルールと同じように受け止めているーまさに池江選手の言葉と相通じる、「ルールとして決まっているのだから、決まったことは受け入れ、頑張るだけ」という発想なのです。それが、在留資格を認められない在日外国人一人一人の人権をいかに奪っているのか、まさに自分の目の前に在日外国人の生徒がいても、そこに思い至ることが全くないわけなのです。
話は変わりますが、4月末、赤旗が「学校連携観戦」―これは、オリパラ組織委員会が準備したチケットを都や県などの自治体が公費で購入し、それを各学校単位で子どもたちの観戦に当てるというものですが、この「学校連携観戦」についてのスクープを行いました。多くの保護者が我が子の学校の年間予定表をSNSにupして、感染症が蔓延し、修学旅行など学校行事が次々と中止になる状況の中で、オリパラ観戦だけは強行されるのか、と不安の声を上げています。幸い、私の勤務する学校は、リモート観戦にすることになり、現地での観戦はなくなりました。赤旗の報道があるまで、まさか、今の状況で生徒を競技場に連れて行くなんてありえないよね、どこの学校も同じだよね、と思い込んでいました。
学校のホームページを見ると、都立の障害児学校だけで、20校以上が今年の年間予定に「学校連携観戦」を入れていることがわかりました。基礎疾患のある生徒の多い肢体不自由校も4校が予定に入れています。
コロナが流行しなくても、猛暑の季節でなくても、チケットを一方的に公費で購入して、学校単位で観戦をさせるというのは、学校の裁量権を逸脱するものではないでしょうか。学校単位ということは、個々の生徒の立場からすれば、事実上の強制参加です。
すでに、学校連携観戦に向けて、引率担当教員による競技場の実地踏査が始まっています。多くの学校から教員が授業を抜け、子どもたちのそばを離れて競技場に赴くことを余儀なくされています。池江選手の言葉ではありませんが、多くの教員が「決まったことは受け入れ、頑張るだけ」と子どもたちと自分自身を大きなリスクにさらそうとしています。そして、それに対して責任を負う主体は全く見えてきません。
東京都教育委員会のサイトを見ると、学校連携観戦は2016年から進めてきた「オリンピック・パラリンピック教育」の「集大成」として「学校単位で直接観戦する機会を提供する」としていることが分かります。オリパラ教育で子どもたちの心と体をオリパラ成功のために絡めとり、学校連携観戦で観客席を埋める駒として利用する、それは「教育」ではなく「洗脳」に他なりません。
学校連携観戦は、神奈川や千葉など、東京都以外の学校でも、また私立学校でも多くの学校で予定されています。学校に通うお子さんのいる方、どうか、お子さんの学校の予定表を確かめてみて下さい。学校連携観戦の予定が入っていて不安を感じられたら、お子さんと話をしてみてください。担任の先生には、連絡帳などで不安な気持ちを伝えて下さい。そして、校長に「学校連携観戦をやめてほしい」と電話してください。
かけがえのない子どもの体、心、命を守るため、声を上げましょう。
まだ間に合います。
子どもにオリパラ教育、オリパラ観戦を押し付けるな!
オリンピックはいらない、世界のどこにも!パラリンピックはいらない、地球のどこにも!
7,反五輪の会から
パラリンピックにも「聖火」というものがあって、「やまゆり園」で採火するということが相模原市長から突然発表があった。障がい者も、「やまゆり園」の被害者遺族も、聞いてない!と抗議の声をあげ、抗議の結果、採火は「やまゆり園」ではしないということになったというが、このいきさつはオリンピック・パラリンピックの本質を象徴していると思う。
当事者ぬきで、権力を持っている人の思い描く「共生社会」を当事者に押し付けるてくる。私たちが全然共に生きているというリアリティを感じないような、パラリンピックの採火というもので「共生社会」を目指す決意を示す。これこそオリンピック・パラリンピックの本性を雄弁に物語っていると思う。
平和の祭典といっても、どこが平和なのか。宣戦布告をして戦争をしていないからといって、私たちまったく平和だとは感じていない。「共生社会」も同じで、当事者、障がい者やマイノリティの人たちが共生というものを感じていないのに、権力の側がこれが共生だとかこれが平和だとか押し付けてくる、それがオリンピック的だと感じる。
私たちが障害者運動から学んだことは、たぶん、それぞれの能力をのばすとか、欠点を克服するとかいうことではなく、それぞれのできること・できないことを、コミュニティが補いあい、共有する、そういう社会のありようだ思う。私たちは、競争しなくても、努力して無理しなくても、十分コンビビアルに楽しく幸せに暮らせるにも関わらず、オリンピックなどをやって、無駄に競争させられている。奴隷たちが争って支配者に気に入られるようにやっているのを、支配者が眺めて得をしている。そういうのがオリンピックだと思う。やめてほしい。
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放送業界

テレビ放送
テレビ放送には、主に地上波・衛星放送(BS放送やCS放送など) ・有線放送(ケーブルテレビ)の3つがあります。
テレビ放送スタート
1939(昭和14)年5月、NHKが日本初のテレビ公開実験を実施した。
戦争による中断を経て1948(昭和23)年に戦後初の公開実験を行い、 1953年2月1日、本放送を開始した。
同年、8月には民放の日本テレビ放送網も本放送を開始した。
盛り場や駅、公園などには街頭テレビを設置、群衆がプロレスや ボクシングなどに熱狂した。
通信衛星リレー1号による日米衛星実験が始まる
大平洋をまたいでアメリカから中継された第1回の実験放送は、 ケネディ大統領暗殺という衝撃なニュースだった。 (NHK放送史より抜粋)

本格的に世帯に普及したのは、1964年の初の東京オリンピック 開催ではなかったでしょうか。
そのときの視聴率は95%だったといいます。

視聴率
昨今テレビを見なくなった、という話が多くなり、視聴率が だいぶ下がっているようですね。
視聴率とは、テレビ番組やCMが「どれくらいの人にみられて いるのか」を示す指標のこと。
テレビ番組そのものの価値や、番組の質を直接的に評価する ものではありません。
調査する意義は、大きく分けて3つある。
1.各種番組の視聴率から、国民の関心の高さを探る。
2.視聴率の移り変わりから社会の動きを知る。
3.テレビの媒体力や広告効果のひとつの指標として 提示することで、利用スポンサーに対して広告料をもらう 根拠とする。
最新の週間高世帯視聴率番組10が人目でわかるサイト
「Screens」
https://www.screens-lab.jp/rating/

インターネットテレビ
好きな場所でいつでも視聴できる?!
視聴率の低迷の要因となっているものにインターネット テレビがあります。
インターネットテレビの視聴は、スマホやパソコンで可能
インターネットテレビには、過去に放送されたテレビ番組・ 映画・ネット配信専用番組・投稿動画などがある。
インターネットテレビには、いつでもどこでも何度でも見る ことができる配信もあり便利。
ガラケイで視聴可能なワンセグもある。
インターネットテレビ型のサービスには、 ヤフーと 株式会社GYAOが運営する無料動画配信サイト(一部有料 コンテンツあり)の 「GYAO!」、楽天グループの有料 動画配信サイト「ShowTime」などがあります。
テレビ放送局からの配信
テレビ放送・ケーブルテレビ局・衛星放送などの事業者が、 過去にテレビ放送した番組をインターネットで再配信する 「見逃し配信」や、「ライブラリ」「アーカイブ (過去番組の配信)」などがあります。
そして2020年3月から、NHKが「NHKプラス」というインターネット 配信を開始しました。
「NHKプラス」では、NHKテレビ放送の「総合」と「Eテレ」が ネットでも同時配信されます。
私も10月にわがやのテレビが壊れた時に、利用してました。
民放でも2020年の秋以降に、テレビ放送をインターネットでも 同時に流す同時配信が計画されているようです。

現在TVerという見逃し配信もあります。
TVerとは
民法テレビ局(日本テレビ、テレビ朝日、TBSテレビ、テレビ 東京、フジテレビ)が連携した公式テレビポータルサイトで スマホやPCで300番組が無料で視聴できます。
ただし、広告が付いてきます。
使い方はアプリを入れます。
詳細は検索するとたくさん出てきます。

課金型オンデマンド
月額制の有料配信で無制限に好きなだけ見ることができる 課金方式や、利用したコンテンツのみに課金される都度課金 方式、無料コンテンツのみの無料型、複数の方法を使い分け られる複合型などがあります。
例えば株式会社USENの動画配信サービス「U-NEXT」では 最新ドラマや映画が充実しており、NHK運営の「NHKオン デマンド」では過去のNHK番組を見ることができます。
民放でもフジテレビの「フジテレビ FOD」やTBS (東京放送)の「TBSオンデマンド」などでドラマや バラエティを楽しめます。
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「Fire TV stick」
今話題の魅力的な機能満載の音声認識対応リモコン です。
大きなテレビでYouTubeを楽しみたい。 そんな方におすすめのガジェットになっています。
対応している動画サービス
Amazonプライムビデオをはじめ、Hulu、NetFlix、dTV、 DAZN、AbemaTV、YouTube、TVerなど、主要な動画 サービスが楽しめるようになります。
どうやってテレビやディスプレイに接続する? 必要な環境は?
Fire TV StickにはWi-Fiが必要です。
Fire TV Stickをテレビに接続するときに必要なものは、 Fire TV Stick本体、HDMI対応のテレビやディスプレイ、 ネット環境、電源です。
Fire TV Stickは本体自体がHDMI端子を搭載しているため、 テレビに直接接続して使用します。
押さえておきたい放送法
放送法(昭和25年1950年公布)は、戦前の無線電信法に 代わるものとして日本放送協会・放送・放送事業者に ついて定めた日本の法律。 所管官庁は、総務省である。
放送法および電波法に違反した場合には電波法第76条を根拠 とした無線局の運用停止や免許の停止・取り消しなどを行う ことができると規定されている。
日本では偏向報道など、問題のある放送も多いが、まだ適用 されたことは無い。

先月台湾において、蔡 英文総統の英断で親中派ニュース チャンネルが放映を許可されなかった。
対象は「中天新聞台」と呼ばれる、有名なニュース チャンネルの一つで今後、放送に必要な免許を更新 しないとした。
中国寄りの偏向報道が目立ったと見て、処分を決めた ものとみられる。
台湾は、国家安全保障の為に香港の二の舞にならないよう こうした判断は歓迎です。
「電波オークション」がノーベル経済学賞を受賞
日本では“潰された”過去がある。
受賞したのは、米スタンフォード大学のポール・ミルグロム 教授とロバート・ウィルソン名誉教授です。
オークション理論の発展への貢献が評価されてのこと。
今年の受賞者、両氏は、(電波の)高周波のように伝統的な 方法では売ることが難しかったモノやサービスのオークション の新しい形式を考案し、売り手、買い手、納税者に恩恵を 与えた。
日本の電波制度は、5G時代の需要急増を踏まえ、これまでに ない一大変革の必要性を迫られているが、日本のテレビ局で 公然と議論される日は、はたして来るのだろうか?
日本の場合、テレビ局と新聞社が互いに資本関係にある、 いわゆるクロスオーナーシップで運営されています。 そんなのは日本だけです。

電波利用料
NHKが年間24億9650万円、TBS、フジ、日テレ、テレ朝、 テレ東の在京キー局はそれぞれ6億円台で続いています。
そんな安価な電波利用料の割りに利益がとてつもないのです。
高市早苗前総務大臣がNHK改革について持論を述べた。 2019年度の「受信料収入」は7115億円のうち「営業経費」 は759億円でした。
受信料のうち、10・6%を、受信料徴収するために使って しまった計算になります。

「営業経費(徴収費用)」の比率は、イギリスで2・7%、 フランスで1・0%、ドイツで2・2%ですから、10%を超える 日本は特に高額です。営業経費、高すぎますよね。と言って いる。(21日関西テレビ)
携帯電話会社もまたしかりです。

日本にもネットオークションが必要であり、携帯電話料金の 値下げも必要でしょう。
武田良太総務相は27日にあった閣議後の記者会見で、 KDDI(au)の高橋誠社長がメディアのインタビューに対し、 メインブランドでの値下げを静観する趣旨の発言をした ことについて、「非常にがっかりした」と述べた。
高橋社長はインタビューで、「国に携帯料金を決める権利 はない」とも話した。
これに対し、武田総務相は「国が料金を決める、決められ ないとか、そういうレベルではなく、公共性の高い事業 として、国民に対してどういうサービスを提供しなきゃ いけないかということぐらい、常識で考えてわかると思う」 と不満を爆発させた。 (11月27日朝日DIGITALより抜粋)
また、NHKの受信料も申し訳程度に数十円下げましたが、 今月半ば、NHKが総務省で行われた有識者会議で、 テレビ設置の届け出を義務化する要望を出しました。
一方、テレビを保有しているのに受信契約締結に応じない 不当な支払い逃れに割増金を課す制度を法制化する。
これを受けてネットは当然のごとく荒れ、NHKを支持する 声はほぼ皆無です。
今のうちに取りっぱぐれないシステムを作っておこう、と考えた 上での提案でしょう。
「世界各国の公共放送でNHKのように受信料だけで運営している ところは少ない。
そもそもNHKの番組には公共的なものと商業的なコンテンツが 交じっているし、BSの4K放送、8K放送も公共放送でやるべき ことかという疑問がある。」 (高橋洋一・嘉悦大学教授)
EチャンネルやBS・CSの売却などを実施(周波数帯の開放)をすれば、 受信料は月300円で十分経営できるそうです。
国民の財産である電波を5つも独占してしているNHKは 解体か、スクランブル化が本筋でしょう。
NHK改革を課題に挙げている菅義偉首相のブレーンである 高橋洋一先生に期待します。
テレビを見ない、見てもニュースと天気だけ、そんな方に お勧めする、Youtubeから情報を得られるサイトをご紹介 します。
LIVEストリームニュースとしてYoutubeにあがっているもの
FNNプライムオンライン
フジテレビ系列のニュース番組を朝、昼、夜に配信。 https://www.youtube.com/channel/UCoQBJMzcwmXrRSHBFAlTsIw?pbjreload=102

ANNnewsCH
テレビ朝日系列でTV放送したものを24時間配信。
https://www.youtube.com/channel/UCGCZAYq5Xxojl_tSXcVJhiQ?pbjreload=102

ウェザーニュース
最新の気象情報をLIVEで配信している。
https://www.youtube.com/channel/UCNsidkYpIAQ4QaufptQBPHQ?pbjreload=102

大紀元 エポックタイムズ・ジャパン
中国系メディアだがニューヨークに本部を置き、35ヶ国語 で配信。 政治系に強味、取材力に定評、日本言語のキャスターで日本語 字幕も付いている。1日の配信数が多い。
https://www.youtube.com/channel/UC6d_ptgRNDMHgZocGC6G9lA?pbjreload=102

NTDTVJP
新唐人TVとして浸透している。中国系だが日本語と日本語字幕 で配信。日本のニュースでは報じないコアな情報も多い。
https://www.youtube.com/c/NTDTVJP?pbjreload=102
英語で聞きたい人にはCNN、NBC、MCNBCのBIGTECが最新ニュース を配信しています。
テレビ東京のテレ東NEWSも一般の話題のほかに、「理系通信」 とうい配信で最新テクノロジーの解説をしています。
たとえば11月25日配信では、「世界初、東芝の燃えにくい 次世代電池」というものです。短かくて解りやすいです。 https://www.youtube.com/watch?v=0X1TZaFracc
Youtubeで見られるニュースは、サムネから自分の知りたい 内容だけ選択して視聴できるのがいいですね。
これから迎えるお正月休みは巣篭りするという方に お役立ていただければと思います。

月掛け800円でオリジナルコンテンツが充実していると 評判のNetflix(ネットフリックス)ですが 自分たちの映画も製作したようです。
映画の紹介
『NETFLIX 世界征服の野望』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=sJigLBeKJhI
動画配信サービスNETFLIXのドキュメンタリー。
DVDレンタル・販売サイトとして始動した同社が、驚異的な 有料契約者を抱える動画配信サービスになるまでの道のりを、 関係者たちの証言を通してたどっていく。
監督はショーン・コーセン。
NETFLIXの元CEOマーク・ランドルフや創業メンバーの一人 であるミッチ・ロウ、映画プロデューサーのビル・メカニック、 広告評論家のフランク・スミス3世らが出演する。
劇場公開:2020年12月11日
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memo
Boris Groys Art, Technology, and Humanism http://www.e-flux.com/journal/82/127763/art-technology-and-humanism/ <抜粋と適当な翻訳のメモ>
ハイデガーはこれを明確に述べていないが、 技術は彼にとって第一に時間の流れの中断であり、時間が未来への流れを停止する貯水池の生産なのである。よって過去の瞬間への回帰が可能になるのである。
ハイデガーによると、技術の目的は人間をまさに変化に対して免疫化することであり、「フュシス」、運命、予期せぬ事故への依存から人間を解放することである。 なぜそれが危険なのか、ハイデガーは以下の様に説明する。 すべてが保存され利用可能な資源になると、人間も資源と見なされる… 安定性と安全性の探求のなかで、人間は自分自身を物に変える。
ハイデガーは芸術だけがこの誹謗から人間を救うと信じている。 なぜならハイデガーは「芸術作品の根源」のなかでこのように説明するからだ。芸術は我々の物の使い方の暴露以外の何者でもなく、あるいは望むなら、私たちが物事による使われ方の暴露であると ここで重要なのは、ハイデガーの場合、アートワークは単なる物ではなく、アーティストを存在の開示(clearing of Being)へと開くヴィジョンである、とうことである。
芸術作品が特定のある「物」としてアートシステムに入った瞬間、芸術作品は販売、購入、輸送、展示などのために利用できる「作品」というオブジェクトに固着する。ここで存在への開かれ(clearing of Being)は閉じてしまう。 言い換えれば、ハイデガーは芸術的なヴィジョンの「物」への変形を好まない。 したがって、彼は人間の「物」への変化も好んでいない。 ハイデガーの人間を物へと変形させることに対する嫌悪感の理由は明らかだ。ハイデガーは「技術に関する問い」「芸術作品の根源」のなかで、我々の世界では、物は道具として存在すると主張している。 ハイデガーにとって、オブジェクト化や商品化その他は、使用されることを意味している。 しかし、物とツールとの間のこのような方程式は実際に有効であるだろうか?
私はアートワークの場合、そうではないと主張するだろう。 もちろん、アートワークは商品や道具として機能することは事実だ。 しかし、商品としては、作品は他の種類の商品とは異なる。基本的な違いは、原則として、我々は商品を消費するとき、消費の行為を通じて商品を破壊する。パンが消費されるとき、すなわち食べられれば消滅し、存在しなくなる。水も同じく飲むと無くなる。(消費は破壊である ー「家は炎によって『消費』される。」)衣類や車な��は消耗され最終的には使用中に破壊される。 しかし、作品はこのようにして消費されることはない。それらは使用されず破壊もされない、単に展示されたり、見られたりするだけである。そして作品は良好な状態に保たれ、修復される。したがって、美術作品に対する私たちのふるまいは、通常の消費/破壊の行為とは異なる。芸術作品の消費は、それらへの観想(contemplation)である。観想(contemplation)は、芸術作品を破損から遠ざける …
古典的な観想的態度(contemplative attitude)は、論理の法則(プラトン、アリストテレス)または神(中世の神学)の法則のような不滅の永遠の物体に向けられた。 すべてが変化のなかで一時的で、有限であり、死する物質世界は「観照的生活」の場ではなく、「活動的生活」の場として理解された。 したがって、芸術の観想(contemplation)は、真理や神への観想(contemplation)と同じように、存在論的に正当化されていない。 むしろ、芸術の観想(contemplation)は、保存と保管の技術によって可能になっている。この意味で、ハイデガーによれば、美術館は、人をオブジェクトに変えることによって危険にさらす技術の単なる一例にすぎない。
『人間に対して限定的にある種の有機的な性質を停止するよう、 美 術 館 は 要 請 し 、そ れ を 基 本 的 な 前 提 条 件 と し て い る と い う こ と が 言 え る で し ょ う 。つ ま り こ こ で 、美 術 館 は 仮 設 的 に も 立 ち 上 げ る「 美 」に よ り 、あ る 種 の 有 機 性 を コ ン ト ロ ー ル し 、そ の 意 味 で鑑賞者も作品も無 機 的 に し て し ま う 事 と 無 関 係 で は あ り ま せ ん 。』
(サルトルによると) 他者の眼差しは、新しい、予期せぬ行動を含んだ、私たちの可能である未来の行為を除外する。それは私たちをすでに完結したオブジェクトと見なす。 『地獄とは他人のことだ』 I try to objectify the other and the other tries to objectify me. 芸術の目的は、この眼差しを非活性化し、それを観想的で受動的な眼差しに変換するために、他者の眼差しを引きつけるのではなく、むしろ逃れることになる。
ー マレヴィッチやマリネッティなどのイタリヤやロシアの未来派は博物館や歴史的建造物の破壊を求めた。彼らの要点は「活動的生活」の名目のもと、芸術のシステムそのものに反対するのではなく、観想的な態度(contemplative attitude)を拒否することであった。 古典的アバンギャルドは、世界を変えるという目標と共に、過去と現状の美的保護を打ち破りたかった。 過去に対するこの闘争は、芸術的前衛によって芸術に対する闘争とも理解された。しかし、芸術はそもそも、その始まりから過去への闘争という形式をとっていた。美化とは消滅の一形態をとるのだ
フランス革命による転換 キュレーションの起源
教会や貴族によって使用されていたものを芸術作品、すなわち美術館(元々はルーヴル美術館)に展示されるオブジェクトに転換した—objects only to be looked at. フランス革命の世俗主義は最高の目的としての神(contemplation of God )を廃止し、それを物質的対象の「美」への観想(the contemplation of “beautiful” )へと置き換えた。 言い換えれば、芸術そのものは、革命的な暴力によって生まれたものであり、当初からイコノクラスムの現代的な一形態であった。実際、近現代以前の歴史においては、宗教や政治制度を含む文化的レジームや慣習の変化は、以前の文化的形態や信条に関連する物の物理的破壊という過激なイコノクラスムにつながる。しかし、フランス革命は過去の貴重な物に対処する新しい方法を提案した。破壊される代わりに、これらのものは機能を停止させられ(defunctionalized )、芸術として提示された。
フランス革命は新しいタイプの物を導入した。つまり「機能不全の道具」(defunctionalized tools)である。 したがって、人間にとって、物になることはもはや道具になる事を意味しない。それどころか、物になることは今や、芸術作品になることを意味する。 そして、人間にとって、芸術作品になることは正に、奴隷制からの脱却と暴力に対して免疫化されることを意味している。
確かに、芸術作品の保護は、人体の社会政治的な保護と比較可能である。 すなわちフランス革命によって導入された人権によって与えられた保護と比較することができる。 芸術とヒューマニズムの間には密接な関係がる。ヒューマニズムの原則によれば、人間は、積極的に利用されたり、殺されたり、暴力を振るわれたり、奴隷化されたりすることなく、ただ観想される(contemplated)のみである。カントは彼の有名な主張のなかで、人道主義のプログラムを、啓蒙された世俗的な社会では、人は手段としてではなく結果として扱われなければならないと基礎付けた。これは我々が奴隷制を野蛮な行為であると見なす理由である。 しかし、私たちが他の物や商品を使うのと同じ方法で芸術作品を使うことは、同じく、野蛮なやり方で行為することを意味する。 ここで最も重要なことは、世俗的な眼差しが人間を、特定の形態をもつオブジェクトと定義することである。すなわち人間の形態をもつオブジェクトとして。 人間の眼差しは人間の魂を見ない。それは神の特権である。人間の視線は人体だけを見る。したがって、我々の権利(ヒューマンライツ)は、私たちが他者の眼差しに提供するイメージに関連している。これが私たちがこのイメージに興味がある理由である。 そして、それが私たちが芸術と芸術による保護に関心がある理由でもある。人類は最も偉大な芸術家によって作られた芸術作品として他人に知覚される限り、保護されている。 もちろん、人類は自身の作品としての地位を十分に認識しており、この地位を改善し、安定させようとする。人類は伝統的に、特に貴重な芸術作品であるように、望まれるものでありたいし、尊敬されたいのである。
アレクサンドル・コジェーヴは、望まれたいという望みが、社会的に認められ、賞賛されることへの野心が、私たちを人間にしてくれるものであり、動物から私たちを区別していると信じていた。
… しかし、同時に他者の欲求への欲求は対象をオブジェクトへ、究極的には死体へと変換するものである。コジェーヴは次のように書いている「純粋な威信(pure prestige)のためのこのような死との戦いがなければ、地球上に人類は存在し得なかった。」 欲求への欲求の主体は「自然」ではない。なぜなら、それらの自然な必要性も、認識上の抽象的概念における「自然な」存在さえも全て犠牲にする準備ができているからでる。
ここで人間は、社会的に保護され、少なくとも公に法的に保護されている芸術である限り、潜在的に不滅な身体といえる第2の身体を創造する。 私たちはここで、芸術によって、技術的に生み出された不滅への人体の拡張について話すことができる。 実際、重要なアーティストの死後、彼らの作品は収集され、展示されているので、博物館に行くときは、「レンブラントとセザンヌの作品を見てみよう」というより、「レンブラントとセザンヌを見観に行こう」と言う。 このような意味で、芸術の保護は芸術家の生命を拡張し、芸術作品に変身させる。自己美化の過程で、彼らは自身の新しい人工的な身体を、決して使用されず、ただ観想される(contemplated)ことのみを許容する、貴重で価値のあるオブジェクトとして作り上げる。
もちろん、コジェーヴは、思想家、革命家、芸術家といった偉大な人物たちだけが、次世代の人々の認知と賞賛の対象になると信じていた。しかし、今日、ほとんどすべての人が自己美化、自己デザインを実践している。
コンテンポラリーアーティストはインターネットを使用して活動する。 これは、現代の美術の経験を明らかに変えることになる。 グーグルでアーティストの名前を調べればその作品を見る事ができる。かれらは、私にバイオグラフィー、他の作品、政治的活動、批評、私的な側面をみせてくる。 ここで私は、架空の、作者の懇意的な主題と、解釈学的に解読させられることで明らかになる意味が含まれている疑いがある作品について指摘するのではない。このような作者の主題はすでに解体され、何度も死んだと宣言されている。 そうではなく、私はインターネットのデータが指しているオフラインの現実に存在する実際の人物のことを意味している。この作家は、アートを制作するだけでなく、チケットを購入したり、レストランの予約をしたり、ビジネスを行うなど、インターネットを利用している。これらの活動はすべてインターネットの同じ統合された空間で行われ、すべてが他のインターネットユーザーに潜在的にアクセス可能である。
アートは特定の活動(オフラインの現実世界で実際に行われる作業のプロセスのドキュメンテーション)としてインターネット上に提示される。 グーグルが示す様に、インターネットには壁がないので、インターネット上の芸術は軍事計画、環境事業、資本中通などと同じ空間にオペレートされている。 インターネットユーザーは普段の使用のなかで、無関心な観想(contemplation)へと切り替えたりしないので、アートを世界のその他全ての普通の情報とおなじように使用する。 ここで、ついに、芸術の活動は「普通の」現実における活動(そのほかの有用な、あるいは有用でない活動と同じく)になる。芸術はすでに人生の一部となっているため、有名なスローガ��「芸術を人生の中へ」は失われる。なぜなら、すでに芸術は他の実質的な活動の合間にある人生の一部であるからである。 ある意味で、芸術はその起源に戻った。アーティストが「単なる普通の人(手芸作業者もしくはエンターテーナー)」であった時代に。同時に、インターネット上では全ての普通の人がアーティストになり、自画像やそのほかの画像、文章を作成し、送り合う。今日、自己美化の実践には何億人もの人が関わっている。
人間自身だけでなく、生活空間もますます審美的に保護されている。 博物館、モニュメント、都市の広い地域であっても、所与の文化遺産に属するものとして美化されているため、変化から保護される。 これは、都市や社会に多くの変化の余地を残してはいない。確かに、アートは変化を望んでいない。芸術は保存と保護に関するものである。これが芸術が深く保守的である理由である。 …
いずれにしても、現代の経済と技術の発展(「ターボ資本主義」または「新自由主義」と呼ぶ)は審美的に動機付けられた保護の政治に反する。ここでは、芸術がより(具体的には政治的に)活発になる。 ここで私たちは抵抗の政治について語る事ができる。つまり、芸術的保護が抵抗の政治へと変化するということについて。抵抗の政治は抗議の政治である。 ここで、芸術は観想(contemplation)から行動(action)へと移行する。 しかし、この意味での抵抗は、観想(contemplation)の名の下にある行動であり、観想(contemplation)を不可能にする政治的、経済的変化の流れに対する反応である。
この抵抗の意味は何だろう? 私はすでにユートピアが到来していることを照明しているというだろう。 これはつまり、ユートピアが将来的に我々が想像する必要があるものではないということを既に指し示している。むしろ、ユートピアは既にここに存在しており、守られるべきものであるのだ。では、ユートピアとは何なのだ? それは審美的な停滞であり、むしろ全体的な審美の結果としての停滞である。 確かに、ユートピアの時代は変化の必要のない時代である。変化は常に暴力と破壊によって引き起こされる。したがって、ユートピアの変化が可能ならば、ユートピアではないだろう。何者かがユートピアについて語るとき、それは変化についてである事が多い、しかし、その変化は最終的な、究極的な変化である。その変化は変化から無変化(no change)への変化である。 ユートピアは、搾取、暴力、破壊が不可能になる芸術作品の総体である。この意味で、ユートピアは既にここにあり、永久に成長している。ユートピアは技術開発の最終段階であるといえる。この段階で、技術は自己反映型になる。
… ハイデガーは他の多くの著者と同様、このような自己反映の機転の見通しがある事に驚愕した、なぜなら、それは人間存在の全面的な歯車化(インストゥルメンタリゼーション)を意味すると信じていたからだ。 しかし、私が示したかったように、自己客観化(self-objectivation)は必ずしも自己功利主義につながるわけではない。それはまた、それ自体の外に目標のない自己審美化につながる可能性があり、したがって歯車化(インストゥルメンタリゼーション)の反対である。このようにして、世俗的なユートピアは真に勝利している。つまり、これは、技術の究極の閉鎖であり、人生はその不滅と同時に始まり、時間の流れは、その静寂と同時に始まる。
しかし、技術動向( technological dynamic)のユートピア的な逆転回は、その存在論的保証の欠如のため不確実なままである。確かに、20世紀の最も興味深い芸術は世界の完全破壊の終末論的可能性に向けられていたと言えるだろう。初期のアヴァンギャルドの芸術は、親近なる世界の爆発と破壊を何度も現前化させようとするものであった。だから、それはしばしば世界の週末を楽しんで祝うと非難された。代表的なものとしてベンヤミンの「複製技術時代の芸術」がある。ベンヤミンはファシズムを審美主義の最高点、究極の暴力と死の審美的な楽しさと定義している。ベンヤミンは、マリネッティによって実践された様な、世界の終演の祝福をファシストであると信じていた。確かに、我々はマリネッティによる、身近な世界の破壊を審美と祝福するテキストをたくさん見つけることができる。そしてまた、マリネッティはイタリアのファシズムに接近していた。 しかし、世界の終末と死の審美的な楽しさは、カントの崇高についての理論ですでに議論されていた。そこでカントは、死の危機の瞬間と自己破壊の視点を美的に楽しむことがいかに可能かを問う。 カントは多かれ少なかれ次のように述べている。 この楽しむ主体はこの主体が合理的に、無限で不滅の理性はたとえどのような終末を迎えて人体が滅びようとも生き残ると知っている。まさにこの内的確実性(如何なる個別の死も克服するという理由)が死の危機と来るべき終末を美化する能力をこの主体に与える。
ポストスピリチュアルな現代人はもはや理性や魂の不滅を信じていない。しかし、コンテンポラリーアートは物質世界の不滅を信じるため、終末を美化するする傾向が依然としてある。言い換えれば、たとえ太陽が爆発したとしても、素粒子、原子、分子が伝統的な宇宙秩序への帰順から解放され、それによって世界の物質性が明らかになることを意味すると考えている。 ここで終末論は、世界の終わりは単に宇宙のプロセスの中断ではなく、真に自然の性質の開示であるという風に理解されているという意味で依然として黙示録的である。
中略
リオタール「身体なしで思考することは可能か」(『非人間的なもの──時間についての講話』(1988)) リオタールは、太陽は45億年後に爆発する科学的な予測を参照して、このエッセイを始めている。
the sole serious question to face humanity today. In comparison everything else seems insignificant. Wars, conflicts, political tensions, shifts in opinion, philosophical debates, even passions—everything’s dead already if this infinite reserve from which you now draw your energy … dies out with the sun.
人類の滅亡の視点はいまだ遠くにあると思われるが、しかし、それはしでに我々を害しており、そして我々の努力は無意味なものとなる。つまり、リオタールによれば、真の問題は人間の身体に取って代わることのできる新たなるハードウェアを作り出す事であり、これは人間のソフトウェア、すなわち新しい支持体に思考を上書きすることができることである。このような移植がもたらす事実は、「テクノロジーは人間によって発明されてはいなかった」ということである。技術の発展は人間が物語として含まれる唯一の宇宙的なプロセスである。このようにして、リオタールは、ソフトウェア(態度、意見、イデオロギー)からハードウェア(生物、機械、それらの組み合わせ、宇宙プロセス、そして出来事)に焦点を移すような方法で、ポストヒューマンまたはトランスヒューマンを考える方法を開いた。
リオタールは人類は、完璧な動物(超人the Nietzschean Übermenschen)になるのではなく、しかし思考と、無機的な、否人間(つまり動物ではない)の記録可能な支持体との間の新しい結合へと超越する必要があると述べている。 human animalの自然な再生は、その機械的再生によって置き換えられるべきである。ここで、伝統的なヒューマニストのアウラの喪失を嘆く事は可能である。しかし、ウォルター・ベンジャミンはすでに、世界の全面的な破壊のアウラ的瞬間の代わりに、アウラそのものの破壊を受け入れていた。
古典的アヴァンギャルドの芸術的実践や対話は、現代のメディアワールドに、私たち自身の第二の自己生成される人工的な身体が存在する条件を事前に前提としたものだった。これらの身体の要素 - 芸術作品、本、映画、写真 - は、世界中に分散した形式で流通する。この分散は、インターネットの場合に顕著である。もし、インターネットで一つの特定の名前を検索すれば、如何なる照合も認める事のできない何千もの参照項を見つける事ができるだろう。したがって、この第二の、自己設計された、人工的な身体はすでに、まるでミケランジェロ・アントニオーニの砂丘のラストシーンのような、爆発のスローモーションの状態にあるという感覚にいたる。あるいは、それらは恒久的な分解の状態にあるのかもしれない。 ニーチェによる、ApolloとDionysusの間の永遠の闘争は、ここでは奇妙な結果につながる。 自己設計された身体は、分解され、分散し、偏心し、さらには爆発する。しかし、依然として仮想的な結合を保存する。が、この仮想的な結合は人間の眼差しにたいしてアクセス不可能な状態(not accessible )である。グーグルのような監視、検索プログラムたちのみがインターネットをその全体として分析可能であり、ゆえに死者を含む第二の身体を識別する事ができる。ここでマシンはマシンによって認識され、アルゴリズムは別のアルゴリズムによって認識される。おそらく、これはリオタールの警告に対応する、人類が太陽の爆発の後も存続する予兆の状態であるだろう。
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Lekker met Nederland! vol.4 (元Dr.コトーの蘭学手記)
Lekker met Nederland! vol.4 (元Dr.コトーの蘭学手記)
皆さん、こんにちは! 前回のブログでは次回は「ポジティブヘルス」についてお話しする予定でしたが、その前に今回はCOVID-19(新型コロナウイルス )感染症について少しオランダ国内の状況についてお話ししたいと思います。 (2020/5/31現在) ※ I did not make English version this time because of too many contents about corona virus. I’m sorry for this inconvenience but I will for the next blog!
<目次> ・時系列 ・社会情勢 ・医療体制 ・社会保障
【時系列:2020/1/31-5/31】
2020/1/31: WHOが非常事態宣言(国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態 (PHEIC))発動
その頃オランダ国内ではまだ感染例は一例もなし。
RIVM(オランダ政府の厚生労働省)の発表ではオランダでは大規模なパニックは起こらない。仮にOutbreakが生じてもコントロール可能と話していた。
https://www.nu.nl/weekend/6027173/dit-gebeurt-er-in-nederland-als-het-coronavirus-zou-worden-aangetroffen.html
2020/2/2: 中国武漢から帰国したオランダ人15名が全員到着後14日間自宅隔離となったがこの際は特に他に感染は広がらなかった。 オランダの国際空港はアムステルダム近郊にあるスキポールSchiphol空港が最大だが、武漢とオランダとの直行便はなく、中国からの乗客についても特に空港到着時に体温測定などは行わなかった。
2020/2/27:オランダ南部のブラバント州(Brabant)にて国内初となるCOVID-19陽性の感染者が発生(56歳男性)。この男性は2月21日出張先のイタリアから帰国。 ちょうどその際ブラバント州ではカーニバルイベントが行われていた。 元々カトリック教徒の多い州でカーニバルはこの地方では盛んに行われており、���の男性も参加していた。オランダ最初のクラスター発生事例。 また、遡ること2月15日に同州の病院を受診した49歳女性がウイルス検査で、後に陽性であったことが判明。 政府は後に2月15日にはオランダ国内にウイルスが持ち込まれたと発表している。 その後ブランバント州の病院などで複数の医療関係者の感染の報告があった。 感染した医療者の大半は患者に直接接していない一方で、最初の患者がいたカーニバルに居合わせていた人も何名かいた。
2020/2/28:オランダで国内二例目の感染者が発生。 首都アムステルダムの隣町ディーメン(Diemen)に住む女性が2月23日に北イタリアロンバルディア州のスキー旅行から戻った後に体調不良となりアムステルダム市内の病院を受診して発覚。すぐに自宅隔離となった。
2020/3/1: アムステルダム市内の病院で10日に入院歴のある患者が外来受診し、ウイルス陽性反応。しかし明らかな感染経路は不明。その後もSchiphol空港や周辺都市のホーフトドロープHoofddorpなどで計10名の感染者が発覚。
2020/3/6: ロッテルダムRotterdamで国内初のウイルスによる死者が発生。86歳男性であった。
2020/3/8: オランダ政府がコロナウイルスの正���な感染者を発表。 その時点で感染者72名、うち14名が入院、2名が死亡
2020/3/9: ルッテRutte首相が記者会見を行い、衛生政策について発表。 「咳エチケット」、「手洗い」、「握手」の自粛をお願いする内容だった。 また感染の広がるブラバント州では自宅勤務が推奨された。 同時期に南オランダ州のフーレー・オーバーフラッキ島と呼ばれる小さな島の教会で礼拝後に次々と住民が体調不良となり、ウイルス感染と判明。最終的に19人もの住民が亡くなった。 オランダ国内初、離島でのクラスター発生。そこの教会の牧師はその前の週にレバノンに旅行しており、その際に持ち込まれた可能性も指摘されるも感染経路は明らかではない。
2020/3/11 オランダ国内の感染者は500名を超えて503名、62名の入院、5名の死亡となり。
この頃オーストリアやアイスランドのスキー旅行から戻ったオランダ人旅行者が国内各地に散らばりそれぞれの場所でウイルス陽性となる(感染者の分散)。
同時期にオランダ北部のフリースランドFrieslandやフローニンゲンGroningenなどでも感染者が発生。これでオランダ国内全域に感染者が発生したこととなった。
3月11日を境にオランダではパンデミックになったと認識されております。
2月15日〜3月11日までの動向をまとめると、 ① はじめのウイルスの持ち込みは北イタリアロンバルディア州を旅行した人から発生。 カーニバルや宗教行事を通してブラバント州を中心にオランダ南部で感染が拡大。 ② 3月初めには首都アムステルダムで患者が発生。感染経路は不明。 ③ 3月からオーストリアやアイスランドなど周辺ヨーロッパへスキー旅行へ行った人が感染。 その後オランダ国内全土へと広がる。
その後の経過 2020/3/12: 政府より社会的接触の禁止処置の発表。 内容は100人以上の会合の中止 博物館、コンサートホール、劇場、スポーツクラブ、大会などのイベント中止。 また自宅勤務をオランダ全国に推奨、また海外旅行の自粛要請などが施行。 2020/3/15: オランダ国内でトイレットペーパーやパスタ類などの物品・食材の買い占めが続出。 またオランダ国内で死者が1000名を超えた。 18時にロックダウンの発表(飲食・スポーツ・理容・学校・風俗)全ての営業の停止 人との間を1.5m以上間隔を空けて行動。 一部の外食店はテイクアウト許可。合法麻薬販売店も不正取引防止のために一部許可 2020/3/16: 首相の緊急演説。感染拡大は止められず、集団免疫戦略を講じると説明。 全ての病院は入院患者への面会を中止 38度以上の発熱や風邪様症状のある人は自宅待機を命じられる。 呼吸困難など重篤な症状が現れた際にGP(Huisarts)に連絡する構図となった。 2020/3/17: 事業主が従業員に支払う賃金を補償する「自営業者のための臨時架け橋制度de Tijdelijke Overbruggingsregeling Zelfstandige Ondernemers (Tozo)」が創設。
2020/3/20: 老人ホームや小希望高齢者向け住宅は介護を必要としない利用者を対象に閉鎖。 オランダ国王が国民に向けてスピーチ「警戒心、連帯感、暖かさAlertheid, solidariteit en warmte」を強調
2020/3/23: 感染防御措置としてより厳粛な閣議決定が首相より発表。 公共空間では家族を除く3人以上の集団行動を禁止。1.5m以上の距離を保つ キャンプ場、公園、ビーチなどは禁止措置が保たれない場合は閉鎖の方針。 また違反者には€390の罰金が科せられる様になった。
2020/4/6: コロナウイルス感染症の重症化リスクが高い患者に対して検査が義務化。 開業医、介護福祉士、障害者介護福祉士、在宅介護福祉士などの医療従事者が対象。
2020/4/7: COVID-19を受けた人が近くにいたかどうかを示すアプリが登場。 アプリはGPとの連絡もできる様な仕様だが追跡調査アプリで義務化には至らず
2020/4/10: オランダ国内での死者数が2500人を超える。
2020/4/21: 全国の児童保育・小学校を5月11日から再開することを閣議決定。 一方で9月1日まで全ての国内��イベントがキャンセルとなる。 入院登録患者は1万人超え、累計死者は4000人を超えた。
2020/4/26: オランダの毛皮農場でミンクからCOVID-19が検出される
2020/5/6: 5月11日から美容院や理容室などの「接触型の職種」の営業の再開を決定 6月1日よりバーの日中営業の再開を決定。
2020/5/19: 政府より6月1日(月)以降のロックダウン措置の緩和について発表
2020/5/30: 5月30日現在のオランダの累計感染者数は46,257名 累計入院者数11,727名、累計死者数5,951名
【オランダ国内の社会情勢】
(1)グループ 〇1.5m間隔を空ければ人々は屋外で集まることができる。(人数制限は撤廃された。) 〇一般の人々が入ることのできる全ての建物で、職員を含めず30人を上限として人々が集まることができる。その場合、1.5m間隔を空ける。(注:最大人数の100名、あるいは100名以上への拡大の可能性については、現時点では確定せず、6月中は最大30名まで可能というルールに基づき、実施してみて、その結果を踏まえて、拡大の是非を決定するとのこと。特に、教会での集会について、希望は多いが、教会の構造上、座席が1.5mの距離を維持しにくいこと、参加者が合唱等を行うことが想定されていること、容易にハグあるいは接触する雰囲気が醸成されることが想定されること、等を理由に、否定的な見解が示された。) 〇各家庭では、屋内、庭及びバルコニーで、来訪者と1.5mの間隔を空けることが強く要請される。
(2)飲食業は12時以降で営業 〇レストラン及びカフェは以下の条件の下に開業できる。 ・客数は最大30人まで(職員を除く)。 ・予約制とする。 ・同一世帯の者以外は、皆1.5m間隔を空ける。 ・店員と客は事前に来店によるリスクの有無について話し合う。 〇テラスの客数に上限は設けないが、客はみな着席し、(同一世帯の者以外は)1.5mの間隔を空けなければならない。
(3)教育 〇中・高等学校は6月2日(火)から再開する。学校は1.5m間隔を空けるための措置をとる。これは全ての生徒が同時に登校できないことを意味する。 〇小学校は、現在実施中の調査の結果により望ましくないとの判断が下されないかぎり、6月8日(月)から100%再開する。 〇校外託児所も同様に6月8日(月)から再開する。子供達は再び契約で決められた日に受け入れられることとなる。
(4)文化施設は12時以降で営業 〇映画館、劇場、コンサートホールは、以下の条件の下に再開できる。 ・観客は最大30人。 ・予約制とする。 ・事前に来場によるリスクの有無について話し合う。 ・皆が1.5mの間隔を空ける。 〇博物館及び文化遺産施設は、来訪者が事前にチケットを購入し、リスクの有無について事前の話し合いを行うのであれば、再開できる。来訪者数の上限は建物次第。1.5mの間隔を空ける。 〇音楽学校及び美術センターは、建物毎に30人を上限とし、1.5mの間隔を空けるのであれば、再開できる。 〇フェスティバルは、観客数の上限を30人とし、1.5m間隔を空けるのであれば、開催することができる。(注:大型のコンサート、イベント、スポーツ大会については、9月1日(火)以降の解禁には否定的な見解が示され、年内は難しいのではないか、とのコメントがあった。)
(5)公共交通機関 〇公共交通機関は必要な場合にのみ利用すること。 〇市電、(水上)バス、地下鉄及び電車では、6月1日(月)から、13歳以上の乗客に、非医療用マスクの着用を義務づける。駅構内及び停留所での着用は義務づけないが、1.5m間隔を空けること。 〇6月1日(月)以降、マスクを着用していない乗客には、95ユーロの罰金が科される。
(6)老人ホーム 現在、保健所(GGD)の管轄地域毎に一か所の老人ホームで、限定的かつ厳しい条件の下、来訪が許可されている。5月25日(月)からは、その措置をより多くの老人ホームに拡大する。6月15日(月)からは全ての老人ホームについてこの訪問規則が適用される見込みである。
【医療体制の現状】
(1) 医療機関へのアクセス
有症状の場合は原則自宅待機。70歳以上、体調不良の進行や呼吸困難、高熱(38℃以上)など医療ケアの必要性がある場合は家庭医(Huisarts)へまず電話連絡する。原則クリニックの来院は禁止。
医療機関への入院は原則家庭医からの紹介もしくは112通報による救急搬送を経て行う。
(2) COVID-19の検査状況 以前は家庭医の判断で症状発症から24時間以降経過した人を対象に家庭医クリニックもしくは保健所で検査が行われていた。 また、感染リスクの高い医療従事者や介護職員などは保健所で原則検査する方針とした。 6月1日よりCOVID-19の症状が一つ以上当てはまる人は誰でも保健所で検査が受けられる方針。 現在一日17,500件のペースでPCR検査が可能な状況とされている。
(3) 感染予防策について 市民への推奨予防策としては ① 石鹸と流水によるこまめな手洗い ② 咳やくしゃみは肘の内側で隠して飛沫を防止する ③ 紙のハンカチを使用する ④ 握手やハグの禁止 ⑤ 人混みを避けて人との間隔を1.5m以上保つ
また、オランダ政府はマスクの着用は科学的根拠の不足から原則推奨していない。 例外は密閉空間である電車やトラム、バスなどを利用する公共交通機関のみマスクの着用を義務化した。
(4) 感染者への対応 ① 医療機関・介護施設内の患者および医療従事者の場合: 症状寛解後24時間以上経過した後かつ、最低14日以上経つまでは隔離を行う。 ② 自宅内の患者の場合: 症状寛解後24時間以上経過した後かつ、最低7日以上経つまでは隔離を行う。
(5)感染者の死亡時への対応 家庭医の許可の下でマスク着用など一定の措置を経れば自宅内でのお別れ・付き添いも可能。
【社会保障制度について】
オランダには日本のような国民向けの一律型給付金制度はないが、様々な政策により企業や国民に対して経済保障を行なっている。
① Noodmaatregel Overbrugging Werkgelegenheid (NOW)
(雇用主向けの臨時架け橋対策)
雇用主が従業員に継続して給与を支払うことができるようにするため、3ヶ月分の賃金費用を補償する制度。4月6日(月)に発効。最大90%の賃金費用を償還することが可能。
雇い主は申請後3ヶ月間は従業員向けの手当を貰うことが可能。
② Tijdelijke Overbruggingsregeling Zelfstandige Ondernemers (Tozo) (個人雇用主・独立起業家向けの臨時架け橋対策)
コロナ危機で収入が社会的な最低限度を下回った場合、生活費を補填する制度。 収入と世帯に応じて最大で月額約1,500ユーロ(純額)までの給付型の所得支援。 更に企業向けの最大€10,157までの運転資金のための融資も開始。 返済期限の延長が可能な他、通常よりも低い金利での融資が可能。
③ Garantie Ondernemersfinanciering (GO-C) (起業家向け融資保証スキーム)
国の保証により銀行から会社・企業家へ融資を促す制度。 1社あたり1.5~1.5億ユーロの間で最長6年間の融資で国が80%(大企業)、90%(中小企業)の金額を保証する。
その他にも外食産業向けの保障、農林水産業従事者への保障、所得税の一時的な税率引き下げや法人税の引き下げなど保障内容は多岐に渡る。
【オランダに在住して思うこと】
1月31日のWHO宣言から瞬く間に4ヶ月が過ぎましたが、感染予防策について他のヨーロッパ同様に国全体のロックダウンや罰金付きの外出制限やソーシャルディスタンスを設ける中でも、不要なマスク着用は頑なに拒否している点や、元々病院にすぐにかかる国民性ではないため家庭医の指示の下、病院への殺到を起こさず自宅待機を続ける点、状況に応じた様々な社会保障を早急に行う点など、COVID-19に対するオランダ国民や政府の反応から、一重にオランダの合理主義的な国民性を感じました。
個人的に面白かったのは、オランダ国内で合法となっているマリファナを取り扱うお店(通称「coffee shop」)がロックダウン発令時に数日だけ営業を延長許可されていた点です。 それによりマリファナを切らすまいとする人々が殺到してお店に長い行列ができました。これはロックダウンに伴うマリファナ販売禁止により、マリファナの不正取引の蔓延を防ぐための処置とされています。
また、オランダの首相が3月の記者会見で握手の禁止を発表した直後に司会者と握手してしまい笑いながら謝罪している様子や、オランダ国内でスーパーなどでのトイレットペーパーや食料品の買い占めがあった時は、買い占めをする人々を「ハムスター」と例えて(ハムスターが口に食料をありったけ頬張る様子から)自国民を皮肉る様子が、大らかで冗談好きのオランダの国民性を反映している気がしました。
オランダは6月より本格的な規制緩和に入ります。 既に外ではランニングや運河でボートを楽しむ人、公園で日光浴や道端のテラスで飲食を楽しむ人などいつもの日常が戻りつつあります。 日本でもいち早く緊急事態宣言が解除されていますが、早速クラスターが発生している地域もあります。 こちらも今後どのような状況になるかまだ不透明ですが、また変化や思うことがあればUpdateしていきたいと思います。
今回もお読みいただきありがとうございました。
【参考URL】 1. https://www.ad.nl/binnenland/het-coronavirus-was-al-veel-langer-in-nederland~af840f5b/?referrer=https://www.google.com/ 2. file:///Users/takuyamada/Downloads/COVID-19_WebSite_rapport_dagelijks20200530_1021.pdf 3. https://www.rivm.nl/coronavirus-covid-19 4. https://www.rijksoverheid.nl/onderwerpen/coronavirus-financiele-regelingen
5. https://www.nl.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html
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佐藤大樹(EXILE/FANTASTICS from EXILE TRIBE)さん写真集お渡し会 1st写真集 『STEP BY STEP』(幻冬舎)発売記念
日々報道されております「新型コロナウイルス感染症」による被害を鑑み、協議を重ねました結果、お客様と出演者様の健康と安全を最優先に考慮し、やむを得ずイベントの開催を延期とさせていただくことになりました。楽しみにしてくださっている皆様には大変申し訳ございません。何卒、ご理解のほどよろしくお願いいたします。 振替イベントの開催時期については、感染症に関する最新の情勢を鑑みながら安全に開催出来る時期を検討し、紀伊國屋書店グランフロント大阪店、幻冬舎特設ページ、『STEP BY STEP』公式ツイッターの各サイトにてご案内申し上げます。次回発表までは、チケットぴあで発券した参加券を大切に保管してください。 ご希望の方への払い戻しほか延期に伴う対応についても詳細が決まり次第このページに発表させていただきます。お客様にはご迷惑をおかけし大変申し訳ございません。いましばらくお待ちくださいませ。
——————— 日 時| 2020年2月27日(木) 第1部13:00~ / 第2部17:00~
会 場| 紀伊國屋書店グランフロント大阪店 店内特設イベント会場
券 種| 参加券 2,530円 (税込)
特 典| [通常版]写真集1冊お渡し+ステッカー
・所定の方法で、ご応募、当選のうえ、期間内に対象書籍の代金をご入金いただいたお客様がイベントにご参加いただけます。 ・イベント当日は会場にて[イベント参加券]と引き換えに、佐藤大樹さんのイベントにご参加いただけます。[通常版]佐藤大樹1st写真集 『STEP BY STEP』(幻冬舎/税込¥2,530)はイベント当日会場でご本人からお受け取りいただけます。
※対象商品にサインは入りません。 ※DVD付特別限定版はイベント対象外です。 ※ステッカーは1種類のみ、全会場共通絵柄です。ステッカーはスタッフからお渡しします。 ※イベント当日以外は対象商品をお渡しできません。
※オークション等の転売はおやめ下さい。券面にはチケットぴあで登録されたお名前を印刷し、イベント当日はご本人確認を実施する可能性があります。名前が印字された公的身分証を忘れずにお持ちください(運転免許証、学生証など)。 ※急な変更やお知らせなどは、随時このページにアップいたします。ウェブサイトの更新にはタイムラグがありますので、ご了承くださいませ。 ※所轄警察署の指導により、イベント当日はセキュリティチェックや手荷物預かりを実施する場合がございます。タレントの安全を確保するため、あしからずご了承、ご協力のほどお願い申しあげます。 ※イベント当日は[イベント参加券]を忘れずにお持ちください。 ※プレゼントやお手紙は、会場にてスタッフがお預かりさせていただきます。タレントへの手渡しはご遠慮ください。
★参加券販売について★ ①チケットぴあにて[イベント参加券]をお買い求めください。 チケットぴあのみでの販売となりますので、紀伊國屋書店の店頭やお電話などでのご予約は承ることができません。 下記の期間中にご応募いただいた中から抽選し後日当落選メールをお送りします。当選された方は所定の方法で[イベント参加券]のお代金をお支払いただき、[イベント参加券]をお受け取りください。 イベントは2部制です。時間をよくご確認のうえ、お申し込みください。お申込み間違いなどによる時間変更はできませんのでご了承ください。
一次抽選受付の当選者による未入金が発生したため若干数ですが二次抽選受付を行います
応募方法| チケットぴあWEBサイトのみ 応募期間| 11/29(金)10:00~12/2(月)23:59 当落発表| 12/6(金)14:00以降
[二次受付]応募方法| チケットぴあWEBサイトのみ [二次受付]応募期間| 12/13(金)10:30~12/15(日)23:59 [二次受付]当落発表| 12/19(木)14:00以降
②1/16(木)10時以降にこのページで集合場所と集合時間を必ずご確認ください。 受付NO毎に集合時間が異なりますので、必ずご確認の上ご来店ください。集合時間まではお待ちいただけるスペースがございません。必ず集合時間にお越しくださいませ。なお、集合時間の指定・変更はできません。また時間割発表以前に集合時間についてお問い合わせいただいてもお答えいたしかねますのでご了承くださいませ。 本イベントは長時間の運営となり、集合時間が遅くなる可能性があります。ご了承くださいませ。
※[イベント参加券]の発券には手数料がかかります。詳しくはチケットぴあのHPをご確認ください。 ※転売目的での購入はかたくお断りいたします。 ※[イベント参加券]のお申込にはチケットぴあの会員登録(アカウント)が必要です(お子様の場合も参加券が必要であれば同様です)。[イベント参加券]には会員登録時(アカウント)の名前が印字されます。家族や友人など他の人のアカウントから入ってご応募・ご購入されても、券面に印字された名前の変更はできません。また[イベント参加券]購入手続きの途中で名前を入力(変更)することはできません。必ず参加される方のアカウントから入ってご応募・ご購入ください。 1回で複数枚の応募が可能ですが[イベント参加券]にはすべて同じ名前が印字されます。ご家族やご友人分を混ぜてご応募・ご購入することはできません。 ※二次受付については、お1人様各部1回ずつ合計2回まで応募できます。一次受付にご応募された方も再度ご応募いただけます。ただし、複数当選した場合、すべて当選したご本人にご参加いただきます。家族、友人など他人に権利を譲ることはできません。 ※イベント当日は、本人確認をする可能性があります。[イベント参加券]に印字された名前と一致する公的身分証(運転免許証、健康保険証、学生証など)を忘れずにお持ちください。 ※いかなる理由でもご入金後のキャンセル・返金は承れませんので、あしからずご了承くださいませ。 ※[イベント参加券]の販売枚数や状況について、お電話やtwitterなどでのお問い合わせはご遠慮ください。
販売サイト(チケットぴあ) | こちらから。
お問い合わせ| 紀伊國屋書店グランフロント大阪店 06-7730-8451(10:00~21:00)
[イベント参加券]に関する注意事項| ※[イベント参加券]は、記載されたイベントのみ有効です。[イベント参加券]1枚につき1回ご参加いただけます。 ※イベントへのご参加は[お客様控]や[表紙]でなく[イベント参加券]が必要です。[お客様控]や[表紙]ではご参加いただけませんのでご注意ください。 ※[イベント参加券]の転売行為は一切禁止とさせていただきます。 ※[イベント参加券]はすべてイベント会場にて回収いたします。 ※[イベント参加券]の枚数には限りがございます。 ※[イベント参加券]がなければ、いかなる理由でもイベントには参加できませんので、イベント当日は[イベント参加券]を必ずお持ちください。 ※集合時間は1/16にこのページにアップします。当日までに必ずHPで集合場所とご自身の集合時間をご確認ください。集合時間は機械的に割りあてます。ご希望の時間帯を承ることはできませんので、あしからずご了承くださいませ。 ※HPに記載された集合時間にイベント会場までお集まりください。指定の集合時間内に来られない場合は、列の最後尾に並んでいただく、またはイベントに参加できない可能性がございます。なお、[イベント参加券]に記載されている管理番号は、集合時間の目安を示すものであり、イベント参加の順番を保証するものではございません。イベント参加の順番はイベント当日、スタッフの指示、誘導にしたがってくださいますようお願いいたします。 ※運営が長時間になり、集合時間が遅くなる可能性があります。ご了承くださいませ。 ※イベントに来られなかった場合、[イベント参加券]は無効となり、ご返金はいたしかねますのでご注意ください。ただし、不参加のお客様で当日中にご連絡をいただいた場合は、対象商品をお取り置きのうえ、後日お渡しいたします。対象商品は参加券がなければお渡しできません。イベント不参加の場合も参加券を紛失しないようご注意くださいませ。 ※転売、複製、偽造行為は一切禁止とさせていただきます。それらの行為が発覚したイベント参加券に関しては無効とさせていただき、入場をお断りいたします。また、それらの禁止行為により発生したトラブル等には一切関与いたしません。 ※[イベント参加券]の発券後は、返金、再発行はいたしませんのでご了承ください。 ※小学生以上のご参加には[イベント参加券]が必要です。 ※未就学児は[イベント参加券]をお持ちの大人1人につき1人まで同伴いただけます。 ※[イベント参加券]をお持ちのお子様がご参加の場合、保護者様といっしょに列にお並びいただけますが、イベント会場内にお入りいただけるのは、イベント参加券1枚につき1名かぎりとさせていただきます。保護者様は会場出口でお待ちください。 ※[イベント参加券]の発券には手数料がかかります。詳しくはチケットぴあのHPをご確認ください。
イベント当日に関する注意事項| ※会場内外では、係員の指示および注意事項に従ってください。従っていただけない場合、イベントを中止もしくは退場していただく場合があります。 ※対象商品はイベント会場にてお渡しいたします。 ※お手紙やプレゼントは事前にスタッフがお預かりいたします。直接ご本人への手渡しはご遠慮いただいております。 ※お客様のお荷物は事前にスタッフがお預かりさせていただく場合がございます。イベント会場には必要最小限の手荷物でお越し下さいますようご協力お願いします。 ※イベント実施にあたって不適切とスタッフが判断したものを身にまとったり、持ち込むことは禁止とさせていただきます。 ※会場の撮影および録音・録画行為は禁止させていただきます。 ※スムーズなイベント運営のため、イベントの際に係員がお客様の肩や腕などに触れて誘導する場合がありますが、ご了承ください。 ※ご来場者の安全確保のため、災害や天候、会場の混雑状況等により、やむを得ずイベントが変更、中止になる場合がございます。 ※会場内外で発生した事故・盗難等は、主催者・会場・出演者は一切責任を負いません。貴重品等は各自で管理してください。 ※イベント当日、取材カメラが入る可能性がございます。お客様が映り込む可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

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新型コロナ「世界的危機」が、日本人の想像以上に深刻である理由
「科学コミュニケーション」の欠落
新型コロナウィルス(COVID-19)の猛威が世界中で吹き荒れる中、この問題の総括を行うことが時期尚早であることは言うまでもない。今後、最悪事態が出現する可能性もある。
その中で、3月19日に新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が、日本の現状に対する見解を説明し、今後の政策提言を行った。
この分析と提言は、日本が直面している現状に対する誠実な評価であったといえる。報告書の説明と質疑応答を行った脇田隆字座長および尾身茂副座長をはじめとする、感染症の専門家たちの言葉は、誠実かつ詳細であり、納得し、安心できるものであった。
しかし、主張自体は不明確との印象を持った人は多かったようである。

実は専門家が誠実に説明しながら、その内容が十分に理解されないという現象は、COVID-19が最初ではない。
2011年の福島第一原子力発電所の事故後も、数多くの「専門家」が、テレビを含む、様々な媒体で解説を行った。しかし、視聴者からは、その解説は専門的過ぎて、実際に事故がどの程度の放射能被害なのか、放出された放射能が人間にどのような影響を与えるか、よく理解できないという声も多かったのである。
後になって一部の科学技術者より、科学技術の知見を社会に必要な情報等に転換して発信する、「科学コミュニケーション」の欠落があったという反省の弁を聞いた。そして、COVID-19でも、同じ問題が生じているように感じる。
おそらく、問題が生じる理由の一つは、科学技術者は科学的な意味で必要十分性を重視するの��対し、社会はリスクに対して社会的十分性を求める、というギャップが存在するためである。
科学者は科学的に証明可能な事実に基づいた対応が必要と考えるが、社会にとっての事実は、リスクの程度によって変化する。これを科学的知見と社会の関係において、科学的「絶対性」と社会的「相対性」の差と表現することも可能であろう。
それを踏まえて、新型コロナ問題の終結について考えてみよう。
未知のウィルスとの戦い
COVID-19の問題は、人類の歴史の中で繰り返されていた、未知のウィルスとの戦いの一つである。
ウィルスとの戦いでは、ウィルスの根絶が困難であることを前提に、人間がウィルスと物理的に距離を置くか、人間の体内に抗体を「作り」、ウィルスを無力化することで、その影響を排除することになる。
抗体を作る上で、人工的にワクチンを製造して人間に接種して抗体を作るか、感染症に感染して抗体を持つようになった人間が社会集団内で多数を形成することによって得られる「集団免疫」により、ウィルスの影響を封じ込める方法がある。
つまり、COVID-19との戦いにおいても、この三つが終結点(ゴール)になる。ただし、この三つの終結点の実態上の「定義」と、到達するための方法に、多様な政策上の工夫が出てくる。各国がそれぞれ異なる終結点を目指し、政策手段の調整を行わない場合、時間の要素が重要になる。
感染症では、その出発点から様々な経路を経て感染が拡大する中で、地域ごとに時間差が生じる。時間差が生み出すものの実体は、感染症に対する社会のパニックの連鎖である。そこに国際調整がない限り、各国政府は相対利得に基づいて終結点と政策手段を考案する。特に民主主義国では、国民の感情を無視することはできない。
逆に言うと、COVID-19の問題でも終結点や手段において国際協調をとることができれば、感染症問題への対応は及第点を与えることができる。
世界保健機関(WHO)が調整役を務めると共に、各国の保健衛生関係者間での情報共有と対話があれば、国際協調は難しくない。
特に未知のウィルスという人類共通の敵に対応する上で、国際社会が一致結束して対応に当たることが全体の利益となるため(いわゆる絶対利得)、合理的に考えれば、協力しない理由がない。
バラバラな世界の動き
残念ながら、COVID-19問題が顕在化し始めた2019年11月以降、国際協調が有効に機能したようには見えない。
トランプ大統領が演説でCOVID-19を「中国ウィルス」とわざわざ言い換えたように、感染問題が発生した直後、中国が情報隠ぺいを行ったとの批判は根強い。
さらに、横浜に寄港したダイヤモンド・プリンセス号への対処では、日本の感染症対策に対して批判は寄せられたが、各国・各方面から建設的な協力があったかどうかは疑問である。

そして、2020年3月中旬になり、欧州にCOVID-19が拡大する中で、各国は国境封鎖と国民の移動制限に乗り出した。
これは基本的には隔離による、感染拡大防止のための緊急措置(緩和措置)であるが、欧州諸国内でも実施時期にばらつきがみられるなど、国際協調の下で実施されたものではない。
大きな落とし穴
ウィルス対策の終結点は明確であるので、それに向けたタイムテーブルと政策手段の策定が必要なのだが、そこには大きな落とし穴がある。
単純に言うと、過去の経験から、人間をウィルスから物理的に隔離することは不可能であり、もしそれを人為的に行うとすれば、優生保護措置として、差別あるいは感染者の「抹殺」を正当化しなければならない。現代社会において、これは不適当である。
このため、ワクチンの製造を急ぐ必要があるが、そこには技術的制約に加えて、ワクチン利権の思惑が渦巻く。
ダン・ブラウンの『インフェルノ』には、WHOの関係者が人口抑制を目的にしたウィルスに対するワクチンで金儲けしようとする様子が描かれており、ウィルス開発の現場が生々しいのも事実である。
集団免疫については、自然状態で社会全体が免疫で守られるようになるには、数十年単位の時間が必要であることが指摘されている。
しかし、たとえ利権が渦巻くにせよ、COVID-19のワクチン製造は急ぐ必要があり、国際社会の「基幹部分」で社会生活と経済活動が円滑に実施される程度の集団免疫の形成が待たれるのである。そしてこれは、我々にとって時間が何よりも貴重であることを意味している。
医療関係者にとっての「時間」とは
おそらく医療関係者にとって、この時間とは、感染拡大の封じ込めを意味するだろう。そして、その時間の存在の前提には、定義は不明確であるが「医療崩壊」を防止しつつ、という条件が付く。
「医療崩壊」は、感染拡大のペースと医療体制の相関の中で発生するため、それまでの国家の保健衛生に対する投資の程度で決まる。つまり、政治的な条件に左右される。国際的にみて、日本のPCR検査などのCOVID-19の検査数の少なさが話題に上ることがある。
このことから、日本の一部のメディアでは、日本政府が東京五輪の開催延期を避けるために意図的に検査数を制限している(東京五輪は延期されたので、その疑問は妥当でなくなった)、韓国で検査数が多いのに嫉妬して、それとは違う方法を採用しようとしている、などのコメントが出された。
検査数を増加すれば、感染拡大の現状が把握できるため、感染症対策で重要な手段である「隔離」を実施しやすい。しかしその反面、COVID-19の特性から、感染者(重症者や無症状感染者)が短期間に急増するため、物理的に隔離及び治療のキャパシティを超えてしまう。
社会生活を破滅させかねない方策
医療関係者は、専門的立場から、感染拡大防止策に対する明確なアイディアを持っている。爆発的な感染拡大を阻止するためには、その原因となる社会活動を規制する必要がある。
しかしそれは、都市封鎖(ロックダウン)にせよ、外出禁止にせよ、さらには感染国からの人の出入り禁止にせよ、社会生活を破滅させかねない方策である。

さらにそれは、一時的な措置以上の意味はない。もしワクチンの開発が遅れるのであれば、外出禁止措置等が解かれた段階で、感染が拡大することになる。
つまり、感染者を完全に隔離することは、理論的には正しいが、実際には極めて大きなコストを伴うのである。
また、検査は実態を把握するための一つの手段にすぎず、検査を受けて陰性と判定されれば、そこでCOVID-19問題から完全に開放されたということを意味するものではない。検査終了後に、感染者と接触すれば、ゲームは振出しに戻る可能性がある。
東京五輪延期をめぐって
では、感染拡大を物理的に封じ込めることが困難であるのであれば、社会や経済生活に対する負の影響を最小限にして、どのように時間を稼ぐことが可能なのか。
日本をはじめ、国際社会が直面している課題は、実はこの点に集約される。さらに、世界各地域に感染症の影響が時間差をおいて拡大していく中で(パニックが発生し終息するサイクルが、地域ごとに異なるタイミングで発生する)、国際的に調和された方策をとることが可能か、という問題も考慮する必要がある。
後者の問題は、2020年東京五輪の開催延期をめぐる議論に典型的に表れた。極めて楽観的な見方をすれば、日本国内では2020年8月までには事態は終息している可能性が高い。このため、日本だけで見ると、五輪の開催は問題なく可能と判断しても不思議ではない。
しかし、欧米諸国では、選手選考を含め、五輪のための準備作業が必要な段階で感染爆発が発生しているため、現時点で開催を検討すること自体が不見識であり、また8月の段階で事態が終息している可能性は低いと考えるのである。
ハードランディングとソフトランディング
社会や経済体制への負の影響を最小限にして、ワクチンの開発や集団免疫の構築に期待する方策として、ハードランディングとソフトランディングのアプローチが考えられる。
ハードランディングは、医療体制を含めた感染症対策の政策手段を大規模投入して、短期的なコストの増大に耐える方策である。
現状の各国の対応を見ていると、中国や欧米諸国はこちらの方策を採用しているように見える。この方策は、短期的��はパニックが生じるが、それを政治的に封じ込めることが可能な場合、事態が早期に終息する可能性も否定できない。
ソフトランディングのアプローチは、日本の厚生労働省が打ち出している方策で、感染症問題は長期にわたって燻り続けるが、投入すべき資源は限定的で、制約は大きいものの、通常の社会経済生活を継続することができる。
しかしこの方策では、国民を長期にわたって一種の逼塞状況にさらし、不安と不満の下で過ごすのを強いることになる。ただし、突発的に生じるパニックを抑えることができるのであれば、ソフトランディングの方が安全であることは言うまでもない。
トランプ大統領が中国に怒る理由
ここで問題となるのが、感染の連鎖の時間差である。すでに述べたように、国際社会における感染症の深刻度には、国家及び地域的に差が生まれる。
したがって、この二つのアプローチを採用する国が、それぞれ別個に対策を進めるのであれば、COVID-19から立ち直るタイミングも異なってくる。
COVID-19の発症地である中国において、感染拡大が食い止められつつあるように見える中で、既に通常の社会経済生活への復帰が進められている。
そうなると、国際社会の経済的中心の一つである中国は、日本や欧米諸国に比べて相対的に有利な立場を獲得することが可能になる。
米国の国際関係論の学者の中から、COVID-19は国際社会のパワーバランスを中国有利に変更するきっかけになると懸念が表明されているのは、実はこの点に対する問題意識を反映したものである。
トランプ大統領が、繰り返し中国に対する怒りを表明するのも、その背景に国際秩序の変動に対する懸念があると理解することができる。つ��り、国際社会における相対利得の問題は、日本で考えられている以上に深刻なのかもしれない。

したがって、日本を含めた欧米諸国は、COVID-19の問題において、それぞれの社会における社会的「十分性」を検討し、たとえ感染症対策単体としては不十分かつ不適切である可能性はあるが、国民に強いている制約をどこかの時点で緩和する必要がある。
ただし、この緩和策は、大きな政治的対立を生み出すだろう。なぜなら、緩和すること自体を「国民をCOVID-19の脅威にさらすもの」として、政治的攻撃の材料にすることは容易なためである。
願わくば、そのような政治的思惑を排除して、政治指導者には見識をもって行動して欲しいのだが、それが困難であることも、過去の事例から十分予想できるものである。
しかし、このような世界的な危機の中で、再び希望を持つことが許されるべきではないかと、改めて期待を持たざるを得ない。
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