#岡村和義
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symptom3000 · 1 year ago
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岡村和義 "I miss your fire" (2024)
director: ウスイヒロシ (Hiroshi Usui)
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masaokimura · 1 year ago
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岡村和義 – 「少年ジャンボリー」MUSIC VIDEO
ディレクション
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dailytmusic · 1 year ago
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2024-05-28 tue
岡村和義「カモンベイビー」
https://okamurakazuyoshi.com/
岡村和義 are 岡村靖幸 斉藤和義
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ferios-favorite-styles · 1 year ago
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春、白濁 / 岡村和義, 岡村靖幸, 斉藤和義
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jpopstreaming · 1 year ago
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🆕🎶 「 I miss your fire 」 new single by 岡村和義, Yasuyuki Okamura, Kazuyoshi Saito is now available worldwide! 🌐 Listen now on our weekly updated playlist and discover new sounds from Japan 🎧 https://spoti.fi/42HdAgd
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ryotarox · 1 year ago
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みんなが好きな「『百年の孤独』みたいな大河小説」ベスト10|秋永真琴
『楡家の人びと』北杜夫
『チボー家の人々』ロジェ・マルタン・デュ・ガール
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン
『大地』パール・バック
『千年の愉楽』中上健次
『べっぴんぢごく』岩井志麻子
『笛吹川』深沢七郎
『ルーツ』アレックス・ヘイリー
『アブサロム、アブサロム!』ウィリアム・フォークナー
『永遠の都』加賀乙彦
『警官の血』佐々木譲
『天���の標』小川一水
『紀ノ川』有吉佐和子
- - - - - - - - - - - - - - - - 「響け!ユーフォニアム」も部活の年代記なのかも。
(順不同)
『ときめきトゥナイト』池野恋
『精霊たちの家』イザベル・アシェンデ
『嵐が丘』エミリー・ブロンテ
『炸裂志』エン・レンカ
『大聖堂』ケン・フォレット
『警察署長』スチュアート・ウッズ
『枯木灘』中上健次
『奇蹟』中上健次
『ワイルド・スワン』ユン・チアン
『邯鄲の島遥かなり』貫井徳郎
『平家物語』古川日出男/訳
『血脈』佐藤愛子
『源氏物語』紫式部
『奏で手のヌフレツン』酉島伝法
『俺の屍を越えてゆけ』桝田省治(ゲームデザイン)
『助左衛門四代記』有吉佐和子
『指輪物語』J・R・R・トールキン
『チグリスとユーフラテス』新井素子
『星へ行く船(他、コバルト文庫のシリーズ)』新井素子
『彼方なる歌に耳を澄ませよ』アリステア・マクラウド
『火星夜想曲』イアン・マクドナルド
『黎明の王 白昼の女王』イアン・マクドナルド
『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ
『ジョイ・ラック・クラブ』エィミ・タン
『ウォーリアーズ』エリン・ハンター
『異形の愛』キャサリン・ダン
『王朝四代記』ククリット・プラモート
『ベルリン三部作(1919・1933・1945)』クラウス・コルドン
『六道ヶ辻シリーズ』栗本薫
『鳥の歌いまは絶え』ケイト・ウィルヘルム
『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド
『征途』佐藤大輔
『あすなろ坂』里中満智子
『ケインとアベル』ジェフリー・アーチャー
『ゲームの達人』シドニィ・シェルダン
『氷と炎の歌』ジョージ・R・R・マーティン
『エデンの東』ジョン・スタインベック
『グリー��ス』ジョン・バートン/ケネス・カヴァンダー(編)
『リーマン・トリロジー』ステファノ・マッシーニ
『雪の練習生』多和田葉子
『鯨』チョン・ミョングァン
『火の山-山猿記』津島佑子
『レオポルトシュタット』トム・ストッパード
『地の果て至上の時』中上健次
『岬』中上健次
『彼女はマリウポリからやってきた』ナターシャ・ヴォーディン
『九時半の玉突き』ハインリヒ・ベル
『土地』パク・キョンニ
『レ・ミゼラブル』ビクトル・ユゴー
『棺のない埋葬』 ファン・ファン
『楊家将演義』作者不明
『デューン砂の惑星』フランク・ハーバート
『ゴッドファーザー』フランシス・フォード・コッポラ監督
『北京から来た男』ヘニング・マンケル
『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』堀井雄二(ゲームデザイン)
『舟を編む』三浦しをん
『櫂』宮尾登美子
『孟夏の太陽』宮城谷昌光
『血族』山口瞳
『華麗なる一族』山崎豊子
『大奥』よしながふみ
『血脈 西武王国・堤兄弟の真実』レズリー・ダウナー
『シンセミア』阿部和重
『流離譚』安岡章太郎
『雲の都』加賀乙彦
『ロマンシングサ・ガ2』河津秋敏(ゲームデザイン)
『サガフロンティア2』河津秋敏(プロデューサー)
『颶風の王』河﨑秋子
『リア家の人々』橋本治
『アラビアの夜の種族』古川日出男
『聖家族』古川日出男
『白夜を旅する人々』三浦哲郎
『導きの星』小川一水
『地図と拳』小川哲
『機動戦士ガンダムAGE(小説版)』小太刀右京
『われ逝くもののごとく』森敦
『本格小説』水村美苗
『始まりの魔法使い』石之宮カント
『夜明け前』島崎藤村
『カムカム・エヴリバディ』藤本有紀(脚本)
『男樹』本宮ひろ志
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drop-the-curtain-123 · 2 years ago
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NAMES OF SIBLINGS: CLASS E
NOTE: doesn’t include Kurahashi and Mimura’s retconned (mentioned in one extra material, then not) brother(s).
Please credit me if you use my name ideas! I'd love to see what content you do with it :)
Hope you like it! I am open to feedback, questions if any, (about the themes™ or something else) and opinions. I'd love to talk more about my work.
Click on "ref." to see what the name is, well, referencing! it's a lot of Wikipedia nods and research from me.
ISOGAI (磯貝) Yuuma (悠馬)
Mother: Yukie (幸栄 "happiness, prosperous")
Younger brother, 6: Yutaka (裕  “affluence”)
Sister, 6 (twins):  Yuko (裕子, latter meaning “abundance”)
OKAJIMA (岡島) Taiga (大河)
Older brother, 16: Takumi (匠海 “sea, craftsman” as Taiga means “river”)
OKANO (岡野) Hinata (ひなた)
Older brother, 17: Sora (そら “blue sky”, as Hinata means "sunny place")
Younger brother, 10: Haruki (はるき “spring, radiance” to keep up the theme)
KATAOKA (片岡) Megu (メグ)
Father: Ken (健 “strength” versatility in both Japanese and English)
Mother: Valérie (ヴァレリ “valuable, strong”) Durack (デュラック ref.)
Older brother, 24ish: Jo (譲 “transfer” as Megu is also a JPN/ENG name)
KANZAKI (神崎) Yukiko (有希子)
Older brother, 19ish: Nobushige “Nobu” (陳重, “Father of japanese civil law” ref.)
(or Nobuyoshi 信義 “faith, justice” ref.)
KIMURA (木村) Masayoshi (正義)
Younger brother, 11: Brave (勇気) (canon name)
SUGAYA (菅谷) “Sosuke” (創介)
Father, 65: Isamu (勇 ref.)
Mother, 60: Setsuko (節子 ref.)
Sister, 30: Fuku (譜矩 “music sheet”, “carpenters square” ref.)
Chosen name: Aya (彩 “coloring”)
SUGINO (杉野) Tomohito (友人)
Younger brother, 10: Ichirou (朗 ref. who is mentioned by Tomohito in this)
TAKEBAYASHI (竹林) Kotarou (孝太郎)
Oldest brother, 25: Kohei (孝平, “filial piety”, like Kotarou, “flat”)
Older brother, 22: Koichi (耕, “cultivate” same “Ko” syllable as his brothers)
CHIBA (千葉) Ryuunosuke (龍之介) name credits from @fumiko-matsubara post!
Older sister, 18: Rena (れな “beautiful”)
Younger sister, 12: Kohaku (琥珀 “amber, jewelled”)
Youngest sister, 7: Yuko (優子 “tender, child”) 
TERASAKA (寺坂) Ryouma (竜馬)
Younger sister, 5ish: Ryoko (竜子 “dragon” (like her brother) “child”)
NAKAMURA (中村) Rio (莉桜)
Older brother, 20: Ren (蓮 “lotus” as Rio means "jasmine" and "cherry blossom")
HARA (原) Sumire (寿美鈴)
Father: Suzuo (鈴雄 “bell” (same kanji as Sumire), “male”)
Mother, from Shimane: Emiko (恵美子 “blessing, beauty (same kanji as Sumire), child”)
Younger brother, 9ish: Toshiki (寿樹 “longevity” (same kanji as Sumire), “trees”)
(or Susumu (進 “advance”))
Youngest brother, 6ish: Kazuma (寿馬 “longevity” (same kanji as Sumire) “horse”)
FUWA (不破) Yuzuki (優月) (from @xx0social-anxiety0xx)
Older brother: Minato (湊, ref.)
MAEHARA (前原) Hiroto (陽斗) (names from @maeiso-trash post, i just picked the kanji) 
Oldest sister, 19: Mizuki (美月 “moon, beautiful” as Hiroto means sun)
Older sister, 17: Kiyoko (喜洋子 “rejoice, ocean child” as her siblings mean sun/moon)
MIMURA (三村) Kouki (航輝)
Mother: Wakana/ (和可女 “harmony, capable, woman”)
or Tomoe (知永 “eternity, wisdom”)
MIYAKE (三宅 “three house”, from Okayama prefecture)
MURAMATSU (村松) Takuya (拓哉) ref.
Younger brother, 12: Sho (翔 ref., keeping the “JOHNNY oshi” theme)
YADA (矢田) Touka (桃花)
Younger brother, 9: Kentaro (健太朗 “healthy/strength, plump, cheerful”)
YOSHIDA (吉田) Taisei (大成) ref.
Mother: Sokhna (ソクナ “woman, wife”) N’Diaye (ンジャイ)
Father: Shigeo (重夫 “ ref.)
Older Sister, 20: Tomoko (とも子 “friend, child” ref.)
RITSU (律)
Older sister/prototype: Første Artillerimodell (F.A.Mo)
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nyantria · 8 months ago
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@kei98778182
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ジャニーさんは犯罪者じゃないのは当たり前。日本は法治国家。ファンじゃなくても今の日本の証拠なく噂段階で決め付け排除する私刑が多発している現状に危機感。マスコミ既得権益を壊さないと未来はない。政治家誰も突っ込まないがー #記者クラブ #電波オークション #ジャニーズ潰しはマスコミもグル 
@fuji507
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「冤罪」で消されたジャニーズと岡田有希子。芸能を殺す人々こそ消えてくれ【宝泉薫】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)
 叩く側が時々、錦の御旗みたいに持ち出す裁判の結果にしても、その実態は「週刊文春」の記事をジャニーズ側が名誉毀損だと訴えたもの。セクハラと思われる事実も認定されたが「文春」も損害賠償金を支払わされた。法的な証拠は後にも先にもこれだけなので、現在の叩き方、追い込み方は明らかに行き過ぎだろう。
 にもかかわらず、なぜそこまでキャンセルしようとするのか。岡田有希子のときも感じたことだが、こういうとき、人や事務所、作品を消そうとするのは、芸能を愉しめない人たちだ。芸能を好きではないというか、その作品にもスキャンダルにも人間ならではの業がにじみ出ることを思えば、つまりは人間そのものを好きになれない不幸な人たちである。(略)
 ちなみに、こうした傾向は1980年代半ばの「ロス疑惑」騒動あたりから始まっている。それこそ「週刊文春」が「疑惑の銃弾」と銘打ち、悲劇の夫と見られていた三浦和義が保険金目当てで妻を殺させたのではと告発。三浦のどこか魅力的なキャラクターもあいまって、大きな注目を浴びた騒動だ。
 が、裁判では無罪となった。その後、米国で逮捕され、自殺してしまったものの、法的にはあくまで冤罪である。
 筆者は40年近く前、この騒動が好きになれず、同世代の友人に「マスコミは告発なんてしてはいけないと思う」と言ったら、ひどく驚かれた。おそらく、告発こそがマスコミの仕事のひとつだと考えていたのだろう。その友人はその後、新聞社に就職したはずだ。
 そして今、当時抱いた思いはますます強まっている。正義を気取り、不公平な報道に走りやすいというか、世間の喜びそうな正義のためならどれだけ歪んだ報道も辞さないマスコミなど、芸能あるいは芸術にとって百害あって一利な��だからだ。
 まして最近は、ロス疑惑の頃と違って、大衆が「客」や「野次馬」では満足しなくなっている。今回のジャニーズ騒動では、慰安婦問題、草津町長セクハラ冤罪事件といったものを演出したり、たきつけてきた人たちが旗を振り、一部の大衆が一緒になって叩くという構図がいっそう露わになった。「温泉むすめ」のような萌え絵による盛り上げ企画を妨害する層とも、それは重なっている。
 ジャニーズも萌え絵も、日本が長年かけて築き上げてきた文化であり、それを消そうとすることは、宝物を奪ってゴミ箱に捨てたり、燃やしたりするのと同じことだ。
 たとえば、KinKi Kidsがジャニー喜多川に捧げた「KANZAI BOYA」という曲がある。ジャニー独特のセンスや口癖を愛情をもっていじったもので、じつに味わいの深い内容だ。こういう曲も当分、披露されることはないのだろう。
「死人に口なし」でジャニーズ事務所を豊臣家や大日本帝国、安倍晋三にしてはいけない理由【宝泉薫】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)
 そして今年、英国のテレビ局BBCと「週刊文春」による「ジャニーズ糾弾キャンペーン」のような動きが起きた。ジャニーが生前にやっていたとされる、タレント及びその予備軍たちへのセクハラの責任を問い、償えというものだ。
 しかし、生前も死後も、警察への被害届は出ていないし、被害についての証言もかなり雑。逆に、被害はなかったとする証言は無視された。
 BBCや文春に続いた報道も、NHKなどを含め、かなり雑というか、一方的なものが目立つ。にもかかわらず、事務所はジャニーズに好意的でなかった勢力の報告書に乗せられ「法を超えて」救済するなどと公言してしまった。ジャニーを大悪人に、ジャニーズタレントたちを悪の味方に仕立てて叩きたい空気感に抗うより、負けを認めて出直そうとしたのかもしれない。
 が、そもそも、そういう勢力を信用したことが悪手だったのだ。その勢力は貪欲で、その後もゴールポストを動かしたりしながら、攻撃の手を緩めない。ジャニーズが出直すために作られた新会社には、社長をはじめ、その勢力の人たちが幹部に居座り、まるで乗っ取られたかのような印象だ。
 ちなみに、その勢力には、思想で��えば左寄り、野党的、反日、フェミニストといった傾向の人が多い。それゆえ、SNSでは「#ジャニーズ潰しは慰安婦スキーム」というハッシュタグが生まれ、群馬県草津町の町長がセクハラで濡れ衣を着せられかけた事件と同じだという声も出た。(略)
 その性癖については創業当初から噂され、報道もされてきたが、生前に最大の注目を浴びたのは、1988年、元フォーリーブスの北公次による暴露本「光GENJIへ」が出たときのことだった。
 仕掛け人は、当時、田原俊彦の女性スキャンダルをめぐり、ジャニーズと対立していたAV監督の村西とおる。糾弾するための材料をカネをかけて集めており、そこにうまくハマったのが、カネに困っていた北だった。彼自身、アイドル時代に作詞をしたり、自伝本を書くなど文学志向だったが「光GENJIへ」自体は彼の告白をもとに出版プロデューサーの本橋信宏が執筆。本橋は村西の友人で、その仕事を手伝いながら、反体制運動などのルポを書いたりしていた。
 とまあ、この構図から浮かんでくるのは、この本の信憑性についての疑問だ。ポルノグラフィーとしても恨み節としてもかなりよく出来ているが、逆によく出来すぎている感もある。考えてみれば、村西はもとより、本橋もポルノには通じていたし、北は北で、とにかく面白い話を提供しなくてはならない必要に迫られていた。そんななか、けっこう盛られた内容もあるのではと想像してしまう。
 実際、北に続いて暴露本を書き、かなりの成功を収めた平本淳也について、その出版社の社長が「ちょっと虚言癖があったりする」と評してもいる。また、北はのちに暴露を後悔したり、再び暴露をにおわせたりしながら、死の前日にはジャニーやメリーに感謝を述べるなど、その言動には一貫性がなかった。
 そして、北や平本、さらには今回の証言者たちの回想がすべて事実だとしたら、ジャニーのプロデュースやマネジメントはどこかで破綻していたのではと思わざるを得ない。質的にも量的にも、バレないはずはないし、警察沙汰にならなかったのが不自然なほどなのだ。
 個人的な印象としても、ジャニーの性癖はもうちょっとプラトニックなもので、その傾向は加齢とともに強まっていったのではという気がする。たとえば、ジャニー��元気で可愛い少年を好んだように、薄倖で可憐な少女を愛した川端康成もそうだった。ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」が話題になった際、川端は「あれは汚いから嫌だ」と感想を語ったが、それに似た感覚をジャニーも持っていたのではないか。
 ではなぜ、今回のようなことになったかといえば「光GENJIへ」の影響がおそらく大きい。あの本がよく出来すぎていたため、それを下敷きにしたかのような証言が虚も実もないまぜに拡大再生産され、その勢いに事務所が圧倒されてしまったのではと。人間の精神とは脆いもので、大勢から集中的に糾弾されれば、まともな判断もできなくなる。まして、証言者たちは芸能活動については負け組で、その感情は恨みや嫉みといったネガティブなものにあふれているのだから。
個人的には何故か🇬🇧大英帝国様の📺BBCが出てきた時点でもう充分、陰謀いっぱい、お腹いっぱいゲップップでございました。
浅〜い正義感に踊らされたアホな売国反日国民ばかりだったね、無念。
ちなみに北公次さんは短期間でしたがご近所さんだったことがあり当時奥様とお店もなさっていたのでお会いしたことがあります。合掌。nya
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moko1590m · 6 months ago
Quote
職業としての売春は、古くから存在する。職業とは、ヒトのみが行う社会的かつ文化的営為であり、富・付加価値の交換により形作られる経済活動の手段としては、売春は人類最古の職業の一つでもある。 現代の売春とは取引契約に基づくものであり、売春の歴史とは売春仲介の歴史でもある[5]。また、売春という職業が成り立つ為には、貨幣経済の浸透と、家父長制や嫁取り婚が成立していないといけない[要出典]。ヨーロッパでは古代ギリシャ以降になる。 古代 →「公娼」を参照 史上初めて管理売春すなわち売春を国家の登録制度のもとに管理し、公認したのはギリシャのソロンといわれ、国家によって女性の奴隷を「購入」し、「ディクテリオン」という売春施設へといれた[6]。ローマ帝国でも売春仲介業者は法的な認可をうけ、届出をするだけでなることができたため、売春は広く行われていた。しかしローマがキリスト教徒の迫害をやめ、それを国教としたことをうけて、売春を禁ずる法が登場する。ユスティニアヌス法典は、売春仲介業者の責任を問い、売春婦たちを「不幸な運命から救いだす」ことをうたう画期的なものであった[7]。 キリスト教が普及するにつれて、売春を含めた性の問題はすべて宗教の領域で扱われるようになる。キリスト教は売春はおろか婚姻生活以外での性交渉を禁止した。一方で国家は売春の禁止と公認を繰り返してきた。公序良俗を保つためであり、税収を確保するためであった。中世に入ってキリスト教の影響はさらに強まり、例えば、シャルルマーニュの勅令は売春の完全な禁止を謳っている。こちらは業者へは少量の罰金刑を課し、売春婦を「みだらな女」として広場で鞭打ちに処すなど重い罰を規定している。 近代 このように近代まで、国家は売春を両義的なものとして扱っていた。登録制度という公認であっても女性を監視し縛り付けるものだとする「廃娼論」が出現するのは20世紀以降のことである[8]。そして「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女賣買取締二關スル國際協定」が1904年に採択され、「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女賣買禁止二關スル國際條約」が1910年に制定され、1921年に国際連盟によって「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」、1933年に「成年婦女子ノ売買ノ禁止ニ関スル国際条約」がそれぞれ採択された。さらにそれらの協定や条約を統合する形で「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が1949年に国際連合によって採択され、1951年に発効した。 現在、フランスの社会史学派、アナール学派の研究によれば、売春は逆にキリスト教によって誕生したと論じている。本来、男女は対等であったが、キリスト教の「弱者である女性は、保護を行う男性の支配を受けなければならない」という教義から家父長制が強力になり、支配される性としての女性が誕生した、という考えである。[要出典] 日本 →詳細は「遊女」を参照 阿部定が最後に勤めた遊廓大正楼(兵庫県丹波篠山市) 万葉集に掲載されている歌の解釈から、この時代から日本でも売春は行われていたと考えられる。ただし、古代の記録に見られる売春は、都周辺に限られており、地方における実態は不明である。日本において職業としての売春が成立するのは、中世後期の室町期以降である。平安時代に至っても、さらには鎌倉期においても、妻問婚がメインであり、貨幣経済と男性優位の家父長制や嫁取婚はいまだ浸透していなかった。平安時代と同じく母方の父が優位という執権政治の形態が続いていたことからも明らかである。座や町衆などによる市の支配の確立と、惣領制や嫁取婚が成立するまでは、職業としての売春は広がりを見せなかった。 売春は神道において、巫女によって行われたこともあった[9]。鎌倉時代には巫女を養っていた多くの神社や寺院が破綻し、生活の糧を求めて旅に出る巫女が現れ「歩き巫女」と呼ばれるようになった。巫女は主に宗教的なサービスを提供していたが、売春とも広く関係していた[9]。 安土桃山時代に豊臣秀吉が大坂道頓堀において、遊女を一箇所に集めた遊廓を作って以後、江戸時代でもこうした遊廓を設置した。特に吉原遊廓、島原遊廓、新町遊廓は三大遊廓と呼ばれるほどの隆盛を誇った。ただし、遊廓などではいまだ女性の「神」性視が行われ[独自研究?]、遊廓は非日常の空間であり、世俗の法律が通用しなかった。吉原の監督官としての武士も、武家出身者ではなく忍者出身者が行い、公儀とは距離を置いた[要出典]。江戸幕府は、江戸および関東八州については、公的に売春を認めつつ[注釈 3]、散在する遊女屋を特定地域に集合させ、1617年(元和3年)、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、吉原遊廓とし、この他の地での売春を禁じた。この禁を破って売春がなされる場所を岡場所といい、その遊女らは、後任の吉原におけるものと異なり、私娼であって取り締まりの対象とされた。私娼は発覚・奉行所などに捕縛されると、新吉原で女郎として3ヵ年の年季奉公が科せられ(公事方御定書[11])、そのような女郎は「奴女郎」と呼ばれ最下級の扱いを受��た。このように、建前上は、吉原以外での売春は禁じられていたが、岡場所は江戸時代を通してところを変えながら存続し続けたし、特に、近郊の品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿など、近郊の宿場町の宿屋では、泊り客に飯盛女と称した私娼の斡旋を行っていた。 1958年(昭和33年)4月1日に売春防止法が施行され、赤線も廃止されソープランドとして残る(神戸福原) 明治維新以後もこのような遊廓は存在していたが、転換点となったのは1872年(明治5年)である。この年、マリア・ルーズ号事件が発生し、大日本帝国政府はペルー船籍の汽船船内における中国人(清国人)苦力に対する扱いを「虐待私刑事件」として日本の外務省管下で裁判を行ったが、この裁判において被告側より「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」との主張が為された。 この主張に対して、特命裁判長を務めた神奈川県権令大江卓は「日本政府は近々公娼解放の準備中である」と公娼廃止��声明を発し、1872年10月2日、芸娼妓解放令が出された[12]。これにより、女衒による遊女の人身売買は規制されることになったが、娼婦が自由意思で営業しているという建前になっただけで、前借金に縛られた境遇という実態は変わらなかった。 また、この時期に数多くの女性が女衒の斡旋により、日本の農山漁村から東アジア・東南アジアに渡航し、遊廓で働いた。こうした海外渡航した女性たちは「からゆきさん」と呼ばれた。このように世界への渡航を手配した、女衒として有名な人物に村岡伊平治がいる。 第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、日本の統治を担当していたGHQは公娼廃止指令を出し、女給による売春を行う赤線を除いて遊廓は廃止されることになった[注釈 4]。 また、1955年(昭和32年)最高裁判所は、売春を前提とした前借金について『公序良俗に反するものであるとして無効』とする判例を確定させた[13]。さらに、上記「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」を批准するための国内法である売春防止法が1956年(昭和31年)5月に公布、1958年(昭和33年)4月1日に施行され、これによって赤線も廃止されることになった。 これら赤線地帯にあった店は、その後も小料理屋やトルコ風呂(現:ソープランド)などと名称を変え、管理売春や勧誘・斡旋などの売春助長行為ではなく、個人の自由意志での性行為の場所を提供する、という法令に抵触しない範囲で営業を行っている。なお、トルコ風呂の名称については、トルコ人留学生・ヌスレット・サンジャクリが厚生省(現:厚生労働省)に名称変更の訴えを起こし、名称がソープランドに変わった経緯がある[注釈 5]。 →詳細は「ソープランド § 改名問題」を参照 各国の概況
売春 - Wikipedia
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tamanine · 5 months ago
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2025.2.5
8:25
色々あって1週間ほど5時半起きだったため、今朝は5時半に自動で目が覚める。
10時以降まで眠ると魂が回復するし、早起き信仰は軍国主義の名残りだ等とずっと思っている私でも慣れれば自動で目が覚めることがあるのか…と思う。
朝はコーヒーが入るまで何も動けない。とにかくまずお湯を沸かす。冷蔵庫に入れっぱなしのブリタの水はそのまま飲むには冷たすぎるからまずお湯にしてしまい、飲料水にはお湯を混ぜてあたためる。
6:13頃の朝焼けは紺色からオレンジ色のグラデーションが美しい。早起きは大嫌いだけど許してやらないこともない、と毎回少しだけ思う。
スタンレーの保温マグはパターソンのアダムドライバーの水筒の影響で買ったものだけど、たっぷりのコーヒーが温かいままなのはとても嬉しい。手放せない。
新聞を読み、トランプとイーロンの訳のわからない妄言で右往左往する世界と、郵便局とヤマトの揉め事を読んで、かしこげな大人でもこんなに訳のわからない契約をして大騒ぎになるのだから我々の日々がわちゃわちゃになるのも���方ないものだ、と思う。
アメリカのことは本当に胸が痛むが、手も足も出ないので日々の移り変わりを細かく追うのをやめる。私はLGBTQ+、あらゆる差別に反対しています、その表明と自分の思想と優しさとは何かについて、大切に保全し生き延びたいと思う。みんなが生き延びられるように。私たちはあいつらより長く生きて、あいつらの滅びを見るんだよ。
クソ寒い中、白く美しい富士山を見る。知り合いはスキーが大好きで、今年の雪の話をするときに賢い犬のように笑った。
モーニングを運んで来たロボットが3つくらい先のテーブルで「お取りくださいにゃん」と言っている。目に入るテーブルには私しかいないので私の注文品であり、ロボットからテーブルまで運ぶ。
デヴィッド・リンチが撮ったダイナーのシーンを最近何回も見ているので、アメリカンスタイルのレストランへの愛着が少し増している。
ロボットもまだそこまで動き出していなくて、暖房器具だけが頑張って稼働している。
リンチ先生、あなたのいない世界でロボットがモーニングを運んで来ます。でも昨日見たロボットはハンバーグをぶちまけ、店員さんが掃除をしていました。
2019年の表参道で、デヴィッド・リンチの絵とアニメと写真を見た。展示室の真ん中の黒い小屋と恐ろしいアニメ。私たちの美しい悪夢。
昨日電車の隣の人が、ストロー口までタプンタプンのタピオカティーを飲もうとしていて、ストローをさしたら少しこぼれたらしく、とても小さな綺麗な黒いバッグについたぬいぐるみにかかってしまったような動きをしており、反射的に自分のティッシュを探し始めてしまったが、そこまでの量のこぼれ方ではなさそうだったので思い留まる。ぬいぐるみさんは無事でしたでしょうか。
まだガラガラのレストランにいる。繁華街ではないのでとてものんびりとしている。ロボットもまだあまり動いていない。
ワシントン・ポーとティリーのミステリーシリーズを2冊半読んだところで、荒地をバギーで駆け抜けるティリーの夢をマッドマックスオマージュのような雰囲気で見たため、1日に7時間とか読むと夢に見るんだなと思い、最近読んでいなかった吉本ばななの未読書を読んだ。
父が吉本ばなな&その父著作を読んだり読んでわかったふりをしたりしていた世代のため、小さい頃からずっと読んでおり、アムリタあたりのスピリチュアル濃度までは私の人生観に強い影響を及ぼしていると思う。
「体は全部知っている」と「デッドエンドの思い出」は何回も読んでいるし、私の部屋にあるドラえもんのフィギュアはデッドエンドへのオマージュだ。
吉本ばななさんが育児期に書いていたエッセイを読み倒していたのでその影響もかなりありそうだ。
優しさの体系は吉本ばなな小説から吸収しているし、何割に及ぶのかわからない。
私という人間は、吉本ばななと村上春樹の2005年くらいまでの著作を積み、その上に山田太一のドラマと小説と脚本集を積み、シネマライズの2000年からの上映作を乗せ、その上に岡崎京子の漫画を全部、小西康陽と菊地成孔と石野卓球の音と、2001年以降の東京開催の美術展の図録を何冊か乗せて、スケッチブックとコピー用紙と色鉛筆とアクリルガッシュ、Macintoshと Adobeをぐるっと布で包んでボンと混ぜたら概ね私っぽい何かに仕上がると思う。朝は10:00まで寝かせてあげてください、テキストツールはSimpleTextで大丈夫です。
私のコンプレックスと、私の欠如。私が悲しんでいたことと、そのせいで他者に託しすぎてしまう部分。
私の憧れと、手に入らなかったものたち。
私は私の人生を、もっと好きになれるかな。
仲良くなれなかった人のことを思い出してなんと意味がないことを思い出しているのか、と思いながら、今話ができる素敵な人のことを思えば良いのにな、とテキストを打っている間だけは瞬間的に考えられる。
文字を打っている私は頭の中だけでもやもやする私よりずっと前向きだ。ぼんやりと上げた視線の先に外の光があれば尚のことだ。
窓の外のどうでもいいビル、遠くをたまに通り過ぎる電車、今の外気は1度から3度に上がったけれど、まだ店内は全然あたたまらない。だけどテキストを打ちながら視線を上げると薄青い空が明るい。窓際の席は寒いと学習したので窓から離れた席であたたかい黒豆茶をガバガバ飲む。カフェインは最初の日で懲りた。電車に太陽が反射している。
ある図書館へ行くときに開館時間のチェックと合わせて口コミを少し読んでみたら、青い服を着た常連の方の動きを書いてあるコメントがいくつかあり、図書館に行ってみたら書いてある通りのことを行ってらっしゃったのでコメントの通りだ…と思った。あのテキストは現実を反映していたのか。こんなにも。
その図書館の横の道で昔、小さな女の子が立ちすくんでいて、声をかけたらカラスが怖いというので一緒に木々が途切れるまで歩いたことがある。あの子ももう大人になってるはずだ。
私の記憶の中にいる40歳や50歳の優しい人たち、記憶の中だと40歳だったけれど、今はもうもっと歳を重ねているはずだ。記憶の中では20年30年をスイと越えて40歳のあの人の笑顔しか覚えておらず、吉井和哉さんが好きだったあの人はどうしているのかなとたまに思い出す。あの人たちの優しさ。一緒に仕事をしたけど、ただ優しくされた覚えしかない。
私が叶えられなかったこと。
それは子どもの頃の家の経済状況の関連でもあり、私という人間の努力の不足もある。でも最近も「この人本当に酷いな」と思った母親からの悪い影響でブレていた精神の問題でもあると思う。
私に叶えられなかったこと、叶わなかった憧れ。
手に入らなかったもののことの方ばかり思考に上がるのはどういうことなんだろう?
私のそばに今いてくれる人、私の確かな楽しみ、面白い本、アーティゾンに行けば会える絵画、家にある��たち、私の愛。
バレンタインやあの人の誕生日に贈りたい小さなプラン。小さなカードに添える絵。
好きな人に渡せる小さな絵、雲が浮かぶ大きな夕焼け。
心が削れるコミュニケーションと、それの検証から得られたこと、愛を得たいなら、愛情の交換をしたいなら、言ってはいけないことが確かにあり、死ぬほど気をつけて自戒しないことには避けられないこと、私が持ってる残酷さ、私が嫌いな親から引き継いだ残酷さ、それの検証から得た自戒。
あの人とあの人はスルスルと世間話が続いて羨ましいな、と思う時があるけれど、もう持って生まれた相性としか言いようがない。
モーニングメニューが終了し、キビキビとした店員さんがテーブルごとのモーニングメニューを回収していった。ロボットはまだあまり動いていないが、先ほどすごい音を立てて引きずられていった。
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kennak · 5 months ago
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元日の1面記事は新聞各社が力を入れるのが恒例だ。この数十年で見たとき、とりわけ大きな衝撃を与えた元日報道が30年前、1995年の読売新聞だ。大見出しは<サリン残留物を検出 山梨の山ろく「松本事件」直後 関連解明急ぐ>。地下鉄サリン事件前のこの一報は、その後のオウム真理教への本格的な捜査や報道につながる第一歩となった。また、この記事が出たことで、数十万人の被害を防いだ可能性もある。あの報道はどのように出されたのか。取材していた元読売新聞記者、三沢明彦さんに話を聞いた。(文・写真:ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部) 松本サリン事件に結びつく“異臭騒ぎ” 「1994年夏、(警察庁刑事局)捜査一課の人たちにあたると、第一通報者である河野義行さんが怪しいとみんな言う。ただ、具体的に河野さんのどこが怪しいのかというと、たいした根拠がない。彼の家の庭に農薬が複数あったとか、息子に『警察に話すなよ』と言ったとか、その程度。一方、その有毒ガスの中身は青酸カリの数百倍の毒性をもつ化学兵器のサリンだった。そんなもの河野さんがつくれるんだろうかと……。とは思うものの、当初は報道も警察もみんな、河野さん以外に疑いをもつことができなかったのです」 三沢明彦さん(68)はそう振り返る。当時、三沢さんは読売新聞東京本社社会部の所属。警察庁の担当で記者クラブではキャップ(担当記者のまとめ役)を務めていた。このとき、警察庁で高い関心が置かれていたのが「松本サリン事件」だった。 1994年6月27日、長野県松本市の住宅街で起きた松本サリン事件(写真:毎日新聞社/アフロ) 事件は1994年6月27日夜、松本城(長野県松本市)に近い住宅地で起きた。有毒ガス発生という通報で警察がかけつけると、現場では池のザリガニが浮き、ハトが地面で羽を広げて死んでいた。7人が死亡(のちに8人)、重軽症者は600人以上に及んだ。当初は有毒ガスの実体が何か、誰が撒いたのかもわからなかった。被疑者不詳のまま、第一通報者の河野義行さんが重要参考人として疑われた。 有毒ガスの正体がサリンと発表されたのは6日後の7月3日。ナチス・ドイツがつくった有機リン系神経毒物質の化学兵器だった。そんな高度な化学兵器がなぜ住宅街で使われたのか。捜査も報道も混迷するなか、時間だけが過ぎた。 事態が膠着していた同年10月、三沢さんは警察庁関係者から意外な情報を相次いで耳にした。一つは松本サリン事件に新興宗教のオウム真理教が関係しているという話。もう一つは、山梨県上九一色村(現・甲府市、富士河口湖町)にあるオウムの施設周辺の土砂を警察庁の科学警察研究所が鑑定しているという情報。どちらも信じがたいものだったと三沢さんは言う。 「取材を進めると、当時、長野県警がひそかに捜査を進めていたのがわかった。7月、上九一色村で異臭騒ぎがあった。犬が泡を吹いて死に、草木が薬品で焼かれていたという。松本サリン事件と似ている。そこで長野県警はそこに捜査員を派遣、捜査員が山菜採りの格好に変装して、教団施設の土砂を採取したんです。すると、そこからサリン生成時にできる有機リン系の残留物、つまり松本サリン事件と同じものが検出された。また、130人体制の薬品捜査班もつくり、サリンの合成に使う原材料の化学薬品をどこが入手したのかも調べていた。その結果、東京などで4つの怪しい会社が浮かび上がった。そこで長野県警の警部らはその会社に向かったのです」 東京・世田谷区にあるその「会社」は古いアパートの一室だった。警部が階段で2階に上ってみると、玄関ののぞき窓から見張られていることに気づいた。異様な雰囲気に驚き、その場を離れた。ところが別の場所でも、カメラをもった若い男が警部らを尾行し、撮影していた。長野に戻ってから警部らが警視庁��問い合わせた結果、その「会社」は「オウム真理教の信者が集団生活している」という拠点だとわかった──。そうした捜査状況を取材で得るなか、三沢さんは報じる側も注意が必要だと気を引き締めたという。 「その数年前、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の問題を報じたことがありました。そうしたら、統一教会の関係者が会社に押しかけてきて、大変なことになった。もともと宗教を扱うのはなかなか難しい。と同時に、オウムについて言えば、1989年に起きた坂本弁護士一家失踪事件(のちに殺害事件)でも、オウムのバッジが現場に落とされていて、一家の失踪は教団の関与が疑われていた。これは大変だな……というのは、取材を始めながら考えていたことでした」 サティアンのヘッドギア姿の若者たち 1994年当時、オウム真理教は異様な宗教団体という理解は世間にあったものの、犯罪組織と捉えられていたわけではなかった。同教団は教祖・麻原彰晃のもと、前身団体を経て1987年に設立。ヒンドゥー教やチベット仏教的な要素をにおわせながら、空中浮揚ができる、悟りを開くなど超常能力や神秘体験を謳い、若者を勧誘していった。テレビや雑誌などにも積極的に登場し、宗教学者や著名タレントなどと語り、信用を得ていった。 そうした裏で、教団は異常な活動に及んでいた。強制的な信者勧誘、薬物による修行、異常なルールでの集団生活。こうした活動のなか、坂本堤弁護士によって「オウム真理教被害者の会」が1989年に発足。同年、「サンデー毎日」によるオウム問題の連載報道が始まり、坂本弁護士も登場した。すると、麻原は坂本弁護士を敵と認識。麻原の指示によって、坂本家の3人(坂本弁護士、妻、子)は殺害された。だが、事件当時、坂本家の3人は「失踪」とみなされ、教団の捜査までは至らなかった。 教団はその後、ハルマゲドン(世界の終末)などを掲げ、日本の国家中枢を破壊することを計画。ロシアから軍用ヘリコプターを購入し、サリンやVXガスといった化学兵器などの開発に乗り出した。1994年にそれらの試作品がつくられだし、ジャーナリストの江川紹子氏や弁護士の滝本太郎氏などが殺害対象として化学兵器で襲われた。松本サリン事件は当時教団による土地売買で訴訟が行われていた長野地裁松本支部の官舎を狙ったものだったが、大量殺害計画の最初の試みだった。 ただ、そうしたことが明らかになったのは、すべての事件が終わった後のことだった。 11月11日、科学警察研究所の鑑定の結果で、上九一色村で採取された土壌からメチルホスホン酸が検出された(正式な鑑定書は16日)。それはサリンを合成する際にできる副生成物だった。 12月初旬、三沢さんは上九一色村の現地まで車で出向��た。粉雪が舞う寒い日。牧草地の向こうに異様な建物群が現れた。その日のことは、後年、自著でこう記している。 <教団のサティアンは広い敷地に点在していた。そして、その周辺には不気味なヘッドギア姿の若者たちが突っ立っている。見張りなのだろうか。途中ですれ違う白い修行服姿の女性の顔は青白く、表情がない。ダクトやパイプが複雑に交錯する目の前の白い建物が、サリン工場の第七サティアンとはその時、わかるはずもなかった>(『捜査一課秘録』) 1995年、山梨県上九一色村(当時)にあった化学プラント・第7サティアン(写真:ロイター/アフロ) まもなく教団の関連会社が大量のサリン原料物質を購入していることも判明。オウムを扱っていた長野県警、神奈川県警、山梨県警、宮崎県警、静岡県警などの県警が警察庁に集められた。静岡県警は教団がロシアから購入したヘリのプロペラを回している様子を上空から撮影していた。サリンを空から撒く可能性があるのではないか──。そんな指摘がされ、いよいよ緊張が増してきた。 だが、この段階でもまだ警察庁はどう教団と対峙するかを考えあぐねていたと三沢さんは言う。 「いくつか理由がありました。一つは、どの県警も一斉捜索のための人員が十分ではなかった。その体制で踏み込んで中途半端な結果となると、『宗教弾圧』と批判されかねない。そして、もう一つ恐れていたのは教団側の暴発です」 1993年、米国であるカルト集団がFBIと銃撃戦を行い、1994年秋は別のカルト団体がスイスやカナダで集団焼身自殺をしていた。そんなケースが頭にあり、もし下手に踏み込んで教団側がサリンを撒き散らしたらどうなるか。信者や警察官はもちろん、住民にも被害が出たら……。警察も恐れていた。そして、そんなリスクに対する恐れは、記者である三沢さんにもあったという。 「特ダネです。でも、書くのか書かないのかといえば、私もまた迷っていました。彼らがもっていた薬品の量から、数十トンという大量のサリンがつくれることが推察された。もし記事を出したことで、反発してサリンを撒かれたら……? 一方で、出さないことで、国民が事実を知らないままでいいのか。そのせめぎ合いの中にいました」 記事を出すときは「ガサ(家宅捜索)に入るときだろう」とぼんやり考えていたが、出すタイミングは思わぬときにやってきた。 オウムとは書かなかった元日報道 12月20日過ぎ、会社にいると社会部の先輩デスクに声をかけられた。アレの件、正月どうだ? 「そうか、正月報道という手があるかと。じゃあ、どこまで書くか。オウム真理教であることはほぼ間違いないが、この時点でどの程度関わっているかがわからず、名指しまではできない。でも、上九一色村の施設で異臭騒ぎはあり、検出された物質が松本サリン事件と同じくサリンの副生成物であることも確定している。それも同事件の直後だったと。だから、オウムの名前を出さず、その事実だけでいこうと決まったわけです」 この��、脱会した信者から内部資料も入手していた。そこには「小銃製造、生物・化学兵器、細菌兵器、神経ガス、レーザー開発」といった教団の計画が4枚のレポートに記されていた。国家を破壊するテロ計画。三塩化リンなどサリンの原材料が4つの会社からトン単位で大量に購入されていたのもそのせいだった。だが、この時点ではまだその大量購入を非難できない悩ましさもあった。それら大量の化学薬品の購入自体は違法ではなかったためだ。それでも、三沢さんが最終的に記事を出すと決めたのには別の理由があった。 1995年3月20日、地下鉄車内でサリンが撒かれ、現場に向かう化学防護服を着た東京消防庁化学機動中隊の隊員(写真:毎日新聞社/アフロ) 「それまで松本サリン事件といえば、河野さんが犯人という見方が強かった。でも、この記事が出れば、みんな河野さんへの認識を変えるだろう。それだけで意味はあると思いましたね」 原稿を書きあげたあとの大みそか、三沢さんは警察幹部の自宅を訪ねた。翌日の朝刊で発表することを通告するためだった。怒られることも覚悟したが、幹部は意外な言葉を返してきた。 「わかった。一緒に戦おう」 そして1995年の元日、新聞が配られた。 元日、メディア関係者には衝撃が走った。少なからぬ報道関係者がすぐに集められ、正月休みを返上してオウム取材に動かされることになった。当の読売でも三沢さんのもとに十数人の記者が集められ、本格的な取材が始められることになった。 ただ、順調には進まなかった。1月17日、阪神・淡路大震災が発生。多くの記者が震災報道にとられた。同様に、各県の県警によるオウム捜査もはかばかしく進んだわけでもなかった。 そうした状況を見透かしたかのように、オウム側は大胆な行動に出た。 2月28日、東京・品川区で目黒公証役場の事務長、仮谷清志氏を拉致して殺害。そして3月20日には地下鉄サリン事件を引き起こした。朝の丸ノ内線、日比谷線、千代田線でサリンの袋に穴を開け、中から気体が拡散。14人が死亡、6300人以上が負傷した。化学兵器による無差別テロだった。 警視庁は機敏に動いた。事件2日後の3月22日、目黒公証役場事務長拉致事件の逮捕監禁容疑で3都県の25カ所に一斉に家宅捜索に入った。上九一色村には、機動隊を含む捜査員2500人という大所帯で乗り込んだ。ガスマスクを装着し、カナリアのカゴをもってサティアンに入っていく中継映像は日本に衝撃を与えた。 この事態に三沢さんも驚きつつ、ついに本格的な捜査に入ったことにホッとしたという。その後、三沢さんは1年近くありとあらゆるオウムの取材に関わっていった。 最初に報じた元日の一報に大きな意味があったことがわかったのは半年ほどしてからだった。 1日2トン、計70トン製造のサリン計画を防いだ 1995年10月から始まった各種オウム裁判で、さまざまなことが明らかになった。たとえば、読売の元日報道直前の1994年12月下旬、上九一色村��はサリンの5つめの工程(最終工程)のプラントが完成目前だったと公判で明かされた。 「サリン合成には5つの製造工程があるのですが、化学工場である第7サティアンでは第4工程まで進んでいた。その最後となる第5工程を麻原は『マホウプラント』と呼んでいた。それができれば、1日に2トンという大量のサリンがつくれる。それだけの量があれば、100万人単位で“ポア(殺害)”できる。そんな状況だったんです」 ところが、1995年1月1日、読売新聞が上九一色村の施設でサリン残留物が検出されたと報じた。 裁判での検察側の冒頭陳述によると、麻原はこの報道に驚き、強制捜査を恐れたという。そして「証拠を消せ」と早川紀代秀(オウム内の建設省大臣)や村井秀夫(オウム内の科学技術省大臣)に命じた。のちの捜査で、第7サティアンでは1月3日付で除染用シャワー室に「使用禁止」という通達が貼られたこともわかった。 麻原の命令のもと、廃棄を担当したのは土谷正実や中川智正だった。その際、中川は第4工程でできた中間生成物のメチルホスホン酸ジフロライド1.4キロは捨てずに隠したという。この廃棄されなかった物質が、後に地下鉄サリン事件に使われることになったと三沢さんは言う。 「あそこで使われたのは純度の低いものだった。もし純度が高ければ、もっと多くの人の命が奪われていたでしょう」 だが、元日の読売報道が出ていなかったら、サリンは1日2トン、計70トンが製造される体制にあった。もし第5工程が実施されていれば、おびただしい数の人たちが犠牲になった可能性があった。読売報道から事態が変わったことは、裁判での検察側の冒頭陳述でも読み上げられていた。 あれから30年、三沢さんは特ダネばかり追ってきただけと照れるが、元日報道ができたことはよかったと振り返る。 「地下鉄サリン事件から半年くらいして、ある検事が『読売報道がなければ、100万人死んでいた可能性がある』と発言していました。地下鉄サリン事件は起きてしまったので、すべて防げたわけではありません。でも、100万人、少なくとも数十万人という無差別テロを止めることはできたのではないか。それに貢献できたことはよかったと思いますね」 三沢明彦 1956年生まれ。1979年読売新聞社入社、横浜支局を経て、東京本社社会部で警視庁、警察庁キャップ、宮内庁を担当。編集局次長など歴任し、福岡放送、静岡第一テレビ常務取締役など。著書に『捜査一課秘録』『刑事眼』など。 森健(もり・けん) ジャーナリスト、専修大学非常勤講師。1968年、東京都生まれ。『「つなみ」の子どもたち』で2012年に第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『小倉昌男 祈りと経営』で2015年に第22回小学館ノンフィクション大賞、2017年に第48回大宅壮一ノンフィクション賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。2023年、「安倍元首相暗殺と統一教会」で第84回文藝春秋読者賞受賞。
「数十万人の被害を防げた」1995年元日報道「サリン」一報を出すまでの記者の葛藤 #災害に備える(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
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tomonao-h · 7 months ago
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JAZZ EMP@Tokyo Financial Street 2024
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12/1(日) 日本橋兜町 KABUTO ONE 4F Hall & Conference “JAZZ EMP@Tokyo Financial Street 2024”
Start12:00 (18:30閉会予定) 入場無料(*会場観覧チケットは売り切れとなりました。オンライン視聴チケットをお求めください。)
出演:平手裕紀カルテット(Patrick Bartley、宮地遼、小田桐和寛)/ YOSHIHIRO KANEKO (金子義浩)Electric Jazz Band(岡勇希、豊秀彩華、関根豊明)/ 市川空CONCEPT BAND(塙正貴、高橋将、中村海斗)/中村海斗クインテット(佐瀬悠輔、馬場孝喜、布施音人、高橋陸)/ 池田篤カルテット with 原朋直(熊谷ヤスマサ、池尻洋史、濱田省吾)
チケット(観覧&オンライン視聴)申込サイト:https://teket.jp/8457/37182
STOCKVOICE YouTube channel(アーカイブ視聴): 
公式サイト:https://kabuto-live.com/jazzemp
公式Twitter:https://twitter.com/jazzEMP
公式Facebookページ:https://www.facebook.com/JazzEMP/
お問合せ先:一般社団法人日本橋兜らいぶ推進協議会(Jazz EMP実行委員会)TEL03-3666-0323
お問合せメール:[email protected]
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lupinnewseason · 2 years ago
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【新作歌舞伎 『流白浪燦星』取材会】 ルパン三世役・ 片岡愛之助さん登壇&口上イラストも初公開
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新作歌舞伎 『流白浪燦星』(ルパン三世)のルパン三世役・片岡愛之助さん、脚本・演出の戸部和久さんが登壇する取材会が11月7日(火)に都内で行われました。
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自身も「ルパン三世」を楽しんできて、もしルパン三世以外の役を演じるとしたら?との問いに<マモー>と答えた愛之助さん。
本作に取り組むにあたっても “歌舞伎の安土桃山時代の中にルパン一味がいたとしたら” という考えにいたるまで話し合い、そこから衣装・カツラなどさらに相談を重ね、新作歌舞伎『流白浪燦星』のルパン三世役に全力で挑んでいると��気込みを語りました。
「ルパン三世」に欠かせない音楽は愛之助さん自身もワクワクする仕上がりと自信を見せ、物語や台詞を三味線の伴奏で語る「義太夫(ぎだゆう)」や、「だんまり」「本水」といった歌舞伎ならではの演出を盛り込んだ“歌舞伎版”ルパンの世界をぜひ体験して楽しんでほしいと話しました。
取材会では、口上をイメージしたルパン、次元、五ェ門、不二子、銭形の描き下ろしイラストも初公開されました。 =================== 【公演概要】 ■演目 新作歌舞伎 『流白浪燦星』(ルパン三世) 
■公演期間 12月5日(火)初日~12月25日(月)千穐楽
■チケット取り扱い WEB:チケットweb松竹 電 話:チケットホン松竹
■劇場 新橋演舞場
■配役 ルパン三世:片岡 愛之助 石川五ェ門:尾上 松也 次元大介:市川 笑三郎 峰不二子:市川 笑也 銭形警部:市川 中車
傾城糸星/伊都之大王:尾上 右近 長須登美衛門:中村 鷹之資 牢名主九十三郎:市川 寿猿 唐句麗屋銀座衛門:市川 猿弥 真柴久吉:坂東 彌十郎
■スタッフ モンキー・パンチ:原作「ルパン三世」より 戸部和久:脚本・演出 大野雄二:作曲(オリジナルテーマ) 藤間勘十郎:振付 山中隆成:美術 多賀正記:照明 苫舟:編曲監修 鶴澤慎治:竹本作曲 杵屋栄十郎:附師 田中傳次郎:作調 湯浅典幸:音響 富永美夏:衣裳 下柳田龍太郎:舞台監督 ▼開演時間など、詳細はこちらをご覧ください。
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ferios-favorite-styles · 1 year ago
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I miss your fire / 岡村和義, 岡村靖幸, 斉藤和義
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honyakusho · 1 year ago
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2024年5月20日に発売予定の翻訳書
5月20日(月)には22点の翻訳書が発売予定です。
ウェルギリウスの死 上
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ヘルマン・ブロッホ/著 川村二郎/訳
あいんしゅりっと
ウェルギリウスの死 下
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ヘルマン・ブロッホ/著 川村二郎/訳
あいんしゅりっと
失われた創造力へ
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多木陽介/編訳著
どく社
南光
朱和之/著 中村加代子/翻訳
春秋社
ナチス逃亡者たち : 世界に潜伏、暗躍したスパイ・武器商人
ダニ・オルバフ/著 山岡由美/翻訳
朝日新聞出版
ロールズ 哲学史講義 上 新装版
ジョン・ロールズ/著 バーバラ・ハーマン/編集 坂部恵/監修・翻訳 久保田顕二/翻訳 下野正俊/翻訳 山根雄一郎/翻訳
みすず書房
ロールズ 哲学史講義 下 新装版
ジョン・ロールズ/著 バーバラ・ハーマン/編集 坂部恵/監修・翻訳 久保田顕二/翻訳 下野正俊/翻訳 山根雄一郎/翻訳
みすず書房
ルドン 私自身に 新装版
オディロン・ルドン/著 池辺一郎/翻訳
みすず書房
バレンボイム/サイード 音楽と社会 新装版
ダニエル・バレンボイム/著 エドワード・W・サイード/著 アラ・グゼリミアン/編集 中野真紀子/翻訳
みすず書房
ヒトラーを支持したドイツ国民 新装版
ロバート・ジェラテリー/著 根岸隆夫/翻訳
みすず書房
きょうりゅうレントゲンびょういん
キョン・ヘウォン/著 真鍋真/監修 こまつようこ/翻訳
パイ インターナショナル
日本短歌行 : 〈小倉百人一首〉中文全訳
安四洋/翻訳
星雲社
しずかなところはどこにある?
レーッタ・ニエメラ/著 島塚絵里/翻訳
岩波書店
マンガで読む 資本とイデオロギー
クレール・アレ/著 バンジャマン・アダム/著 トマ・ピケティ/企画・原案 広野和美/翻訳
みすず書房
ネイションという神話 : ヨーロッパ諸国家の中世的起源
パトリック・J・ギアリ/著 鈴木道也/翻訳 小川知幸/翻訳 長谷川宜之/翻訳
白水社
パンセ
ブレーズ・パスカル/著 由木康/翻訳
白水社
ワインレッドの追跡者 : ロンドン謎解き結婚相談所
アリスン・モントクレア/著 山田久美子/翻訳
東京創元社
伝説とカフェラテ : 傭兵、珈琲店を開く
トラヴィス・バルドリー/著 原島文世/翻訳
東京創元社
ふつうのことばたち : わたしたちの心をつなぐ
キム・イナ/著 たなともこ/翻訳
イースト・プレス
流浪の英雄たち シャフタール・ドネツクはサッカーをやめない
アンディ・ブラッセル/著 高野鉄平/翻訳
カンゼン
カルロ・スカルパの日本
J.K.マウロ・ピエルコンティ/著 三浦敦子/翻訳
鹿島出版会
建築という芸術 評伝フランク・ゲ-リー
ポール・ゴールドバーガー/著 坂本和子/翻訳
鹿島出版会
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shihlun · 2 months ago
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風景的螢幕實踐 第2回 中平卓馬與西澤諭志的權力=風景論【後篇】
風景的螢幕實踐|佐佐木友輔
第2回 中平卓馬與西澤諭志的權力=風景論【後篇】
西澤諭志——對短暫性權力的發現
大阪・關西萬博──濾鏡文化的建築,以及數位自然的建構
2022年4月18日,大阪・關西萬博的主題項目「生命的閃耀計畫」發表了基本規劃。在由媒體藝術家、研究者與創業家落合陽一擔任總策劃的代表性展館「null²」中,其概念之一,是「透過變形結構建築所創造出的全新風景之鏡」。該展館的外觀由一種名為「鏡面膜」的新材料所包覆,這種材料是由金屬與樹脂混合製成的。展館內部裝設了機械手臂,能夠從內側推動、拉動或扭轉這層膜。因此,投映在鏡面膜上的周圍景物會呈現出如軟體般扭曲變形的效果,使人們能夠即時欣賞不斷變化的未知風景。
50多年前,中平卓馬持續透過攝影,試圖將「風景」這層面紗具體化,並將其撕裂。但如今的做法則是試圖發明、實用化一種新的面紗,進而創造出一層覆蓋現實、再造風景的新形式。「null²」的鏡面膜,明顯可被視Instagram、TikTok等社群媒體中濾鏡文化的延伸。一旦萬博開幕,勢必會有大量照片與影片在這座建築物周圍被拍攝,並上傳至各種社群平台。而在這些平台上,套用濾鏡的行為並不會被視為逃避現實、或試圖遮掩權力不想被看見的面貌,反而會被理解為是一種對平庸現實加以修飾,並創造出更具吸引力現實的正面手段。因為捕捉「原原��本的現實」本身就是不可能的事——換句話說,這樣的提問本來就是錯的——想要分辨「什麼是真實,什麼是虛構」,從根本上就是徒勞的嘗試。既然如此,與其過度恐懼人為的詮釋、操作與演出所帶來的風險,倒不如思考:我們該如何善用、巧妙運用當前可用的技術,這樣反而更具建設性。落合陽一曾提出「魔法的世紀」與「數位自然」等概念,並多次強調未來將是虛實界線模糊的時代,實體與虛擬、類比與數位、自然物與人工物之間的界線將逐漸變得模糊、難以區分。隨著數位技術的發展,我們獲得了一種幾乎能「直接觸碰資訊」的感知,逐步進入一個使用者不再意識到媒介存在的環境——也就是所謂「非媒體意識」狀態。這正是一種「新自然」,幾乎成為每個人都無法避免、理所當然的存在條件。當人與媒體的關係不再是對立,而是協作與共生時,中平式的風景批判與媒體批判——那種認為「權力遮蔽了原本的現實」的疏離論批判——就會在這樣的情境下失去作用,變得不再有效。
被甲烷氣體撕裂的風景
截至2024年8月,位於大阪灣的夢洲地區,正加緊進行即將於翌年舉辦的大阪・關西萬博會場建設工程。夢洲是一座人工島,於1970年代後半開始進行填海與土地開發,目的是作為廢棄物的最終處理場。這座島嶼原本是為了承擔日本社會發展與維持日常生活所排放的大量垃圾而存在,而今則被鋪上瀝青與混凝土等「面紗」,試圖改造為反映國家與地方政府所描繪之理想未來景象的風景。
然而,將這些新風景的面紗撕裂的,既不是如永山則夫那樣的殺人犯或恐怖分子所發出的子彈,也不是如中平卓馬那樣的藝術家或新聞攝影師所拍攝的照片,而是從地底垃圾中釋出的甲烷氣體。2024年3月28日,會場西側工區正在建設中的一棟廁所建築發生爆炸事故,起因是焊接作業所產生的火花點燃了積聚在管道坑中的氣體。根據日本國際博覽會協會的說法,事故雖未造成人員傷亡,但在事發現場之外的多處地點也檢測到甲烷氣體,引發社會對於萬博期間潛在事故風險的強烈關注。
從日本國際博覽會協會所公開的事故現場照片來看,可以看到混凝土地面嚴重損毀,嵌入其中的鋼筋裸露出來,混凝土碎片散落四周,雖然爆炸規模不大,卻足以揭示其破壞力已將堅硬地表撕裂,現場狀況令人震撼。
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我之所以被這張照片深深吸引,是因為它正象徵了當下的風景。在這張照片中,一方面,它記錄了風景的殘骸。源自這塊地被強行填埋、作為最終處理場之歷史的甲烷氣體,將試圖覆蓋其上的風景面紗撕開,赤裸地暴露出原本權力欲加隱蔽的事物——例如建設過程中的內部結構,以及事故風險等真實面貌。但另一方面,這張照片也帶有一種宛如廢墟攝影般的靜謐感。與其說它帶來了看到「不該見之物」的衝擊與醜聞式感受,不如說更強烈的是一種似曾相識的既視感——一種「我曾在其他地方也看過這種場景」的熟悉感。像是那些鄉間荒廢的公路,或是災後遲遲無法復原的受災地街景,在財政短缺、基礎設施難以維持的情況下,被半公開地遺棄的地區,這些景象與這次事故現場照片重疊在一起,顯得毫無違和。
簡言之,今日由權力所構築的風景,原本就並非意圖完全「隱藏」某些事物。權力早已放棄遮蔽不利內容的努力,而僅僅將資源投注於打造它想讓人們看到的部分。到了2025年的萬博會場,極有可能會同時並存著兩種極端風景:一種是由最新技術所建構的未來感十足、華麗耀眼的風景;另一種則是令人體會到日本衰退實況的貧窮、破敗且難堪的風景。觀眾將無言地被詢問——你想持續觀看哪一種風景?你希望活在哪一種「現實」之中?並被迫做出選擇。
西澤諭志的風景論
身為一個長期生活於數位技術已滲透至日常生活每個角落的現代人,我無論有意或無意,都在享受其所帶來的便利。因此,我並不認為有必要現在才去撕裂所有的「面紗」,回到那種未經數位技術與媒體介入的「原始自然」或「純粹現實」這種虛構的起點。可是,將這種「新自然」的維護與管理全盤委託給少數技術者或權力者,自己只顧著沉浸在無媒介意識的生活中,我也無法認同。即便如落合陽一所說,我們選擇與數位技術及媒體共生的道路,那也並不表示我們必須永遠順從。在這樣的環境裡,我們依然可以選擇偏離既定路徑、走出曲線行走的方式,甚至為原本被規定好用途的物品開創新的使用方式。換句話說,在這片「新自然」中,我們也可以透過竊取或偷獵其恩惠,試著「設法活下去」。這也是一種對抗壓迫體制與權力,同時又不放棄從中獲得可取之物的「共生技術」。
如果如此,那麼中平卓馬與松田政男所發展出的風景論——其試圖揭露無意識間滲透進日常生活的權力樣貌——至今依然具有當代的意義。因���,唯有了解我們的生命是被什麼樣的權力與技術所制約,我們才有可能進行抵抗或逃逸。不過,如前所述,當代所需的風景論,必須擺脫「現實/虛構」「自然/人工」「個人/國家」等二元對立的思維框架,並以符合當下時代的方式加以更新。而在面對這項課題並進行實踐的藝術家之中,西澤諭志無疑是一位值得關注的攝影師。
西澤諭志1983年生於長野縣,就讀於東北藝術工科大學資訊設計學科的影像課程,至今持續透過攝影展覽與影像作品的方式進行創作活動。其早期作品多半聚焦於學校校園、自宅房間或個人物品等自身生活周遭的事物,透過攝影凝視並重新思考這些熟悉對象,同時結合多種方法——如收集、排列、文字書寫、施力等手法——深入分析這些物件。而在2018年時,他舉辦了睽違七年的個展《[普通]交流・復興・振興》(TAP藝廊),攝影���圍也延伸至日本全國各地。此展之後的延伸發展,則為2022年於水戶藝術館當代美術畫廊第九展間舉辦的個展《CRITERIUM 98 西澤諭志》(策展人為該館當代美術中心策展人後藤櫻子)。
在該次展覽中,四面牆上共展示了14件裝框的攝影作品,其中有些作品是在一張紙上排印多張照片。其拍攝對象主要可分為兩大類,一類是與戰爭災難、人為災難或自然災難相關的紀念性設施(追悼空間),如長崎原爆資料館、水俁生態公園(Eco Park Minamata)、東日本大震災與核災傳承館、雲仙岳災害紀念館;另一類則是國家政策性活動或宗教儀式所用之設施,如東京奧運與帕運選手村、建於皇居前廣場的令和大嘗宮。不過也有些作品難以歸入這兩類之中。例如福島縣雙葉郡富岡町的災害廢棄物處理設施,該設施於2014年至2019年間運作,主要用於東日本大震災後的災害廢棄物與除污物處理,它雖與災害有關,但性質上並非紀念性空間。又如東京23區內的某座公園中設置的告示板(張貼著由兒童繪製的洗手與漱口宣導海報)以及樹木間所圍起的警示封鎖線,也很難說是紀念物或國家設施,但透過「防災」與「健康」這類關鍵詞,與其他照片之間產生了某種鬆散的關聯。
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正如上述,西澤在其展覽中展示的照片群,彼此之間構築起了錯綜複雜的連結,形成了一張意味的網絡,進而促使觀者去解讀每張照片之間的共通點、差異與關聯。尤其值得注意的是,作品中反覆出現一種「包覆」「纏繞」「遮掩」的意象,例如廢棄物處理設施與大嘗宮那種臨時性的、仿如搭建而成的外觀、公園內搭設的小型帳篷、穿著日本國家足球代表隊球衣的坂本龍馬雕像、展示於雲仙岳災害紀念館中的防護衣,甚至還有北方領土宣傳吉祥物「愛莉卡醬(エリカちゃん)」的立體看板人像。這些元素都共同構成了一種「遮蔽」的形象。
對此,後藤櫻子在該展覽的說明手冊中撰文指出,一般而言,紀念性建築的功能之一,就是用所謂的「無害化」方式來掩蓋戰爭與災難的慘痛經歷,藉此讓現場的實況、個別當事人的經驗與情感變得不可見。這種對紀念性建築雙重功能的問題意識——既可呈現新的風景,又同時具備隱蔽現實經驗的能力——與中平卓馬與松田政男的風景論互相呼應。中平與松田的觀點指出,權力所製造的風景面紗會遮蔽「原本應該被看見的現實」,而西澤則透過攝影與剪接的方式,試圖揭示「圍繞我們生命的權力機制」。
短暫性權力=風景──從「美麗的日本」到「加油吧日本」
不過,值得注意的是,西澤並不是試圖撕開風景的面紗,以可視化其背後應該存在的某種真實。正如前述,那種基於「現實/虛構」二元對立所展開的疏離論式風景批判,在面對「既然無法掌握所謂『原原本本的現實』,那不如透過人工操作創造更好現實」這種務實主義立場時,很容易失效。為了從這種思維困境中掙脫,西澤選擇嘗試對象化(即「風景化」)的,不是被面紗遮蔽的現實,而是那片「面紗」本身,以及「面紗」實際被應用於現實後所產生的新的樣貌。他透過攝影的拍攝與展覽的排列,詳細分析紀念性建築、政策設施與祭祀設施等在設計上的目的、象徵意圖與實際功能,並進一步揭示這些設施到底遮蔽了什麼,又強調了什麼。
事實上,若僅是要探究個別面紗所遮蔽之物的真實樣貌,那並不是一件困難的事。在《CRITERIUM 98 西澤諭志》展場中,有提供一份展出作品的清單,簡明列出每張照片所對應的設施、其功能與背景,作為「資料」供參考(編寫者為後藤櫻子)。清單右下附有QR碼,觀者掃描後即可連結至展覽資料所參考的網站等出處。換言之,西澤與後藤所選擇的方式,並非以揭發或衝擊性的手法暴露被遮蔽之物,而是以任何人都能自行查找的公開資訊,靜靜地將其呈現出來——彷彿是在說:「這並非藝術的任務」。
對一場攝影展而言,更為重要的,是這些各自的照片/風景經過並置與關聯之後,所共同浮現出的那個關於「權力機制」的整體樣貌。
重新觀看此次展覽中所展示的照片,不難察覺那些基於不同目的而設置的「面紗」,其共通點在於皆擁有一種短暫性(ephemeral)的物質性。無論是廢棄物處理設施、大嘗宮,抑或是穿著球衣的坂本龍馬像所呈現的臨時性裝飾,這些設施本質上都並非為了長期設置而建構,而是在某個特定期間過後,必定會被剝除、拆卸,命運終將歸於撤除。至於像是皇居前廣場上的交通錐、或是貼在公園樹木上的封鎖膠帶,它們同樣不具任何防止外敵入侵的實質堅固性,僅能作為「此處請勿越界」的象徵性警示而已。
而最具象徵性的,莫過於那些由孩童繪製的宣導海報與吉祥物(例如愛莉卡醬)所展現的姿態。這些「面紗」自我定位為脆弱的(vulnerable)存在——脆弱、易傷,甚至可能激起他人攻擊慾望的存在——並以這種姿態行動。換句話說,它們所進行的遮蔽,不是出於惡意或愧疚,而是基於善意與謙遜。
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西澤所記錄並蒐集的這些風景面紗,透過針對兒童、復興補強、宗教禁忌等領域所鋪展出的無數互文性意義網絡,使得這些風景無法輕易地被一刀切開,而展現出一種柔韌卻頑強的強度。這些風景並非以壯麗宏偉的姿態高舉自我、彰顯權威,而是以短暫而脆弱的外觀毫無保留地呈現於眾人面前,進而激起人們的同情與憐憫,讓原本銳利的權力批判語調變得柔和,甚至轉而成為「讓我們一起���過這場困境吧」、「讓我們攜手合作吧」、「讓我們共生吧」這類溫和的呼喚。
如此一來,也就不難理解,為何西澤會在過去的展覽中選擇「普通」「交流」「復興」「振興」等關鍵字作為命題與串聯的核心。現今包圍著我們的風景,已不再是1970年代「探索日本(Discover Japan)」觀光宣傳所召喚出的「美麗的日本」風景,而是源自於二戰期間國威宣傳的語彙、延續至東日本大震災等重大災害復興話語所構成的語脈傳統,也就是那個「加油吧日本」的風景。
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