#岸田政権の外交が鍵
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ari0921 · 4 years ago
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バイデンの対中政策に異変あり
 櫻井よしこ
米国の対中政策が変化している。「中国とは強い立場」から交渉すると 言ってきたバイデン米大統領が、必ずしもその強さを維持できていない。 日本にとっては切実な問題である。岸田新政権はこの米中関係の変化を見 てとり、全ての面で日本の地力を強める手立てを急がなければならない。
振り返れば、ブリンケン国務長官は上院での指名承認公聴会で、中国によ るウイグル人の扱いを「ジェノサイド」と認めた。その厳しい対中姿勢は 3月18日、アラスカにおける米中会談での楊潔?国務委員との烈しいやり とりにつながった。
ブリンケン氏の中国に対する姿勢の厳しさは、バイデン氏の対中姿勢と一 致しているはずだ。現にアラスカ会談のひと月前、2月10日に行われた米 中首脳電話会談で���、バイデン氏の強気は明らかだった。
米中首脳の初の電話会談は2時間も続いた。双方が発表した情報から、習 近平氏が「両国関係の改善」を熱望し、米中協力の必要性を訴えることに 時間を割いたことが見てとれる。
習氏が特に強調したのが米中対話の枠組み再構築だった。バイデン政権が 人権問題などで強く出てくることは織り込み済みだ。中国は状況が不利な 時は時間稼ぎをする。それがハイレベル対話の再開であろう。意思疎通の 機会を増やすことで、リスクを管理しやすい状況を作る思惑があったと考 えるべきだ。
一方、バイデン氏は、習氏の求める「対話」や「協力」とは距離を置く姿 勢をとり、中国が中国封じ込めの枠組みと見て強く反発している「自由で 開かれたインド太平洋」戦略の維持が政権の優先事項だと明言した。香 港、台湾に対する中国の圧政に関しても、米国の「根本的な懸念」を伝え ている。
中国側は米中関係について、「協力」や「対話」という言葉を両首脳の発 言として強調したが、米側は「関与」というより控え目な表現にとどまっ ており、中国の方が米中関係の維持に前のめりだった。
こうした中、4月14日、バイデン氏が重要演説をした。9月までにアフガニ スタンから撤退、軍事力を中東からアジアに移し、中国の脅威に対処する 方針を明確に語った。そのために、日本を含む同盟諸国の協力拡大を求めた。
2日後の16日に、バイデン氏は就任以来初めての対面首脳会談にわが国の 菅義偉首相(当時)を招いた。米国の要請に応える形で菅氏は、自衛隊を 強化し、日米同盟をさらなる高みに引き上げ、日米間の協力で抑止力を強 化すると語った。国土、文化など主権に関わることについては絶対に譲歩 しないとも語った。これらすべては中国を念頭にした発言で、日本政府は ルビコン河を渡ったと評価されたゆえんである。
だが、バイデン氏のアフガン撤退作戦はこれ以上ない程、拙劣だった。7 月2日、アフガン全土を監視できるバグラム空軍基地を捨てて、米軍は文 字どおり夜陰にまぎれて撤退した。タリバンは勢いづき、一気に全土制圧 に向かった。
負の効果
丁度この頃、米国務副長官のシャーマン氏が中国の天津を訪��、王毅国務 委員兼外相と会談した。王毅氏は高圧的とも言える対応に終始し、中国側 はファーウェイ副会長、孟晩舟氏の釈放を含む対米要求事項の数々を長い リストにして渡した。
米軍のアフガン敗走は、明らかに米国の威信を傷つけ、その負の効果は中 国による米国への侮りとなって外交交渉に影を落としている。9月1日、 ジョン・ケリー大統領特使(気候変動問題担当)が天津を訪れた。相手は ベテランの解振華氏である。ケリー氏はCO2を削減しなければ地球が滅 びるとでも考えているような人物だ。米中関係には多くの懸案事項がある が、それらに関わりなく、「世界2大CO2排出国は純粋に協力しなければ ならないと、中国に懇願した」(9月2日、ウォール・ストリート・ジャー ナル紙)。
CO2のことなどほとんど気にしていないのが中国の本音であろう。彼ら にとってケリー氏のような環境問題が全てだと思い込んでいる人物はカモ である。CO2削減に協力するか否かで条件闘争ができるからだ。予想ど おり、中国側は気候変動問題のみを特別扱いにはできない、中米関係全体 の中で考える、と冷たく言い放った。このとき中国側は米国に提出済みの 「二つのリスト」に回答せよと求めたという。
二つのリストとは、1米国が必ずやめなければならない誤った言行のリス ト、2中国が重大な関心を持つ重点個別案件のリストである。
前者は、中国共産党員およびその家族のビザ制限、中国の指導者・政府高 官・政府部門への制裁、中国人留学生へのビザ制限、中国企業や孔子学院 への圧力などについてだ。先述の孟晩舟氏の引き渡し要求も入っている。 後者は、中国人留学生の訪米ビザ申請の拒絶などを解除すること等だ。
「貿易戦争で米国に勝利した」
国際社会で米国への信頼が揺らぐ中、9月9日、バイデン氏は習近平氏と2 度目の電話会談に臨んだ。中国側は「米国側の求めに応じて」会談したと 報じた。会談に応じてやったと言わんばかりだ。
WSJ紙によると、約90分の会談で、習氏はもっぱら米国批判に終始した が、2大国は共に働けるとの楽観的見通しも示した。同紙はバイデン氏は 特別の目的を定めて会談に臨んだわけではないが、中国からの輸入品に対 する懲罰的関税の削除を交渉してほしいと、米国経済界が圧力をかけてい ると報じた。バイデン氏の国内政治における立場は苦しく、氏は中国が要 求した二つのリストを丸呑みしたと、批判されている。
現に、孟晩舟氏は9月24日に解放された。ファーウェイは中国政府とは無 縁の民間企業だという主張だったが、孟氏は中国共産党のシンボルカラー である真っ赤なドレスで深?の空港に舞い降りた。テレビ局は帰国の模様 を生中継し、人民日報は「中国は貿易戦争で米国に勝利した」と狂喜の社 説を掲げた。
バイデン政権発足10か月目にして、米中関係は変わりつつある。10月4 日、米通商代表部のキャサリン・タイ代表が「米中貿易関係の新戦略」に 触れ、翌5日にはシンクタンクでの講演でこう語っている。
「米中の経済切り離し(ディカップリング)は非現実的だ。より建設的な リカップリングが必要だ」
8日、タイ氏は劉鶴副首相とリモートで話し、両者は、米中貿易はより強 化されるべきだと合意した。年内に米中首脳会談がリモートで行われるこ とも発表された。
米中の動きを時系列で辿れば、バイデン政権が徐々に後退しているのが明 らかだ。中国の無法やジェノサイドは許さない、という米国の気概が失わ れつつある。日本よ、岸田首相よ、しっかりしなければ国を守れないぞ。
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2ttf · 13 years ago
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chikuri · 6 years ago
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去る4月、中国の温家宝総理が訪日した際に発出された日中共同プレス発表の第三項に、「台湾問題に閲し、日本側は、日中共同声明において表明した立場を堅持する旨表明した」という一文がある。ここでいう「日中共同声明において表明した立場」とは、具体的にどのようなものなのか。英語でInstitutional memoryという言葉がある。特定の組織が、当該組織に属したことがある個人ではなく、組織として継承している過去の記憶のことである。今年は、日中国交正常化35周年に当たる。35年前に国交正常化を合意した日中共同声明の主要な争点の一つであった台湾問題についての日本政府の当時の交渉記憶が正確なものかどうかを、この機会に改めて検証してみる必要があるように思われる。    「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」 右に引用したのが、台湾の地位について合意された日中共同声明第三項である。同項は、1972年9月、北京での国交正常化交渉において最後まで残った争点であり、また、共同声明の中で今日でも実体的意味を持っている唯一の規定なのである。(当時筆者は、条約課長として、田中総理、大平外相に随行し、高島条約局長を補佐して中国側との交渉に参画した。) そもそも、中国との国交正常化を公約に掲げて72年7月に登場した田中内閣が対応を迫られたのが、当時中国政府が国交正常化の前提条件として提示していた対日復交三原則であった。このうちの第一原則、すなわち中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府であると認めることは、戦後わが国が外交関係を維持してきた台湾に存在する中華民国政府との公的関係を、「一国一政府」という国際法の原則に従って終了させることを意味した。これは、日本政府にとって、大きな政治的決断を必要とする問題であったが、中華人民共和国との国交正常化を実現しようとするのであれば、いずれにせよ避けて通ることはできない関門であった。 対日復交三原則の第三原則は、わが国が1952年に中華民国との間に締結した平和条約は、不法、無効であり、廃棄されなくてはならない、とするものであった。この主張は、中華人民共和国 (1949年に樹立宣言) の立場からすれば当然とも言えるが、他方、わが国としても、戦後わが国の国際社会復帰の枠組みの一環であった日華平和条約が不法、無効と認めるわけにはいかないことは明白であった。この双方の立場の違いを克服するには、交渉当事者の現実主義と外交的智恵を要したが、決して不可能なことではなかった。実際にも、この問題は、共同声明発出直後に行われた記者会見において、大平外務大臣が「日華平和条約は、日中国交正常化の結果として、存続の意義を失い、終了したものと認められる」との一方的声明を行う(これに対し、中国政府が意義を唱えない)ことにより解決したのである。 第二原則は、台湾の地位に関し、先に引用した共同声明第三項の前段に述べられている中華人民共和国政府の立場を認めることを求めるものであった。この台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国の立場を受け入れることには、三つの基本的問題が存在した。第一は、1949年に誕生した中華人民共和国は一度も台湾に実効的支配を及ぼしたことはなく、同地域は、中華人民共和国の支配を拒否する国民党政権 (当時) によって継続的に統治されてきている、という政治的現実である。第二は法的な問題である。台湾の法的地位に関しては、サンフランシスコ平和条約がわが国の領有権を含む「すべての権利、権原」の放棄を規定するに止まり、同地域の最終的帰属を定めなかったという経緯がある。これは、1949年以降の中国が、大陸を支配する中華人民共和国と台湾を支配する中華民国の二つに事実上分裂した事態の下で、サンフランシスコ平和条約の当事国である米国その他の連合国の間で、台湾をいずれの中国に帰属させるかについての合意が得られなかったことによるものである。そして第三が、日米安保体制に係わる問題である。 日中国交正常化に先立つ同じ1972年の5月に沖縄の本土復帰が実現したが、沖縄返還交渉において米国との間で最大の争点となったのは、返還後の同島の米軍基地に、安保条約に基づく事前協議制度が変更なしに適用されるのかどうか、という問題であった。これが、いわゆる「本土並み」返還の問題である。 事前協議制度の下では、わが国が攻撃されていない状況において、米軍が戦闘作戦行動を目的として在日基地を使用するためには、事前に日本政府の許諾を得る必要がある。日本政府は、当然この事前協議制度はそのままの形で沖縄の米軍基地にも適用されるべきである、との立場で対米交渉に臨んだ。しかし、韓国、中華民国(台湾)との間に相互防衛条約を結んでいる米国としては、万一朝鮮半島あるいは台湾海峡有事の際に、事前協議に基づく日本政府の許諾が得られず、沖縄の米軍基地の使用が著しく制約されれば、韓国、中華民国に対する防衛義務を効果的に果たせなくなることが懸念され、そのような事態は是非とも避けなくてはならない、という軍事上の要請があった。 そもそも安保条約は、日本防衛と同時に、条約上は極東と呼ばれる、わが国を含む東アジアの安全を確保する地域的安全保障システムの中核という性格を併せ持っている。しかし、この地域的システムは、朝鮮半島や台湾地域の平和と安全の重要性について日米両国が共通の認識を持たなくては機能しないことは明らかである。したがって、沖縄の「本土並み」返還を実現するためには、事前協議制度は維持しつつ、別途何らかの方法で、地域的システムとしての安保体制が、いざというときに機能不全に陥ることはないことを示すことによって、米国の懸念を取り除く必要があった。そのために考え出されたのが、1969年11月の佐藤栄作総理(当時)の訪米時に発出された日米共同声明である。(この間の経緯については、東郷文彦「日米外交三十年」に詳述されている。) 同共同声明の第四項において、「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」と同時に、「台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとって極めて重要な要素である」との総理大臣の認識が表明されている。更にこれを受けて第七項は、次のとおり述べている。    「総理大臣と大統領は、施政権返還にあたっては、日米安保条約及びこれに関連する諸取決めが変更なしに沖縄に適用されることに意見の一致をみた。これに関連して、総理大臣は、日本の安全は極東における平和と安全なくしては十分に維持することができないものであり、したがって極東の諸国の安全は日本の重大な関心事であるとの日本政府の認識を明らかにした。総理大臣は、日本政府のかかる認識に照らせば、前記のような態様による沖縄の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負っている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではないとの見解を表明した。大統領は、総理大臣の見解と同意見である旨を述べた。」 すなわち、極東の平和と安全についての日米の認識の共有を確認することにより、日本側は、事前協議に際して「ノー」と言う(戦闘作戦行動のための基地の使用を認めない)権利を留保しつつも、実際にその権利を行使する可能性は極めて小さいという政治的保証を米側に与え、「本土並み」返還への合意を取り付けたのである。なお、訪中の一ケ月前の八月未にハワイでニクソ��大統領と会談した田中総理は、中国との国交正常化は安保条約と関わりない態様で行う旨を述べて、同大統領の了解を得た経緯があるが、これは、右に触れた日米共同声明を念頭に置いてなされたものである。 以上の背景を踏まえながら、わが国として、台湾問題に関しどのような立場をとるべきであろうか。これが、当時の外務省事務当局に与えられた課題であった。 台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国の主張を受け入れた場合は、台湾に対する中国の武力行使は国際法上内戦の一環(正統政府による反乱政権に対する制圧行動)として正当化され、他方、台湾防衛のための米国の軍事行動(中国の国内問題への違法な干渉)をわが国が支援する法的根拠が失われてしまう。これは、まさに地域的安全保障システムとしての安保体制の崩壊を意味する。わが国がこのような立場に立たされることは、中国が武力による台湾「解放」の可能性を排除しないとの立場をとっている以上、どうしても避けなくてはならないことは明らかであった。そこでわが方が中国側に提示した共同声明の台湾問題に関する原案は、まず前段において、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国の立場を引用し、後段で、「日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重する」としたのである。北京の人民大会堂で開催された第一回外相会談において、日本側は共同声明案を提示し、高島条約局長(当時)が大平大臣の指示に基づいて逐条的に案文の説明を行った。台湾については、サンフラン シスコ条約の下で全ての権利、権原を放棄したわが国は、同島の地位について発言する立場にないとの認識を述べた。 日中交渉の七ヶ月前の二月にニクソン大統領が訪中し、米中和解を謳う歴史的な上海コミュニケが発出された。その中で台湾問題について、米側は、「米国は、台湾海峡の両岸のすべての中国人は、中国は一つであり、台湾は中国の一部であると主張していることを認識する(acknowledge)」と述べるに止まった。日本としては、この米国の立場から踏み出すわけにはいかない、というのが共同声明案を起草した外務省(条約局) の考えであった。(ちなみに、わが方の照会に対する米側の非公式の説明は、「アクノレッジ」とは、文字通りアクノレッジという意味であり、それ以上のものではない、とのことであった。すなわち、中国人が主張している事実を認めたのであって、主張そのものを認めたものではない、という意味であると理解されたのである。) さて、「中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重する」とのわが方案に対し、中国側の回答は、「ノー」であった。このような厳しい反応は、台湾に対して強い影響力を有している国は米国に次いで日本との実情を考えれば、予想されないことではなかった。したがって、訪中前に条約局は、中国がわが方案を拒否した場合に備え、ぎりぎりの第二次案を考えておく必要があると判断したのである。そして、そのような案としてわれわれ事務当局がポケットに入れておいたのが、当初案の末尾につなげて「ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」との一文を加えたものであった。 わが国が降伏に際して受諾したポツダム宣言 (日本の降伏条件を規定した宣言として、1945年7月26日付で米・英・中華民国三国首脳により発出)は、その第八項 (領土条項)において、「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルべク」と規定している。そして、同じ三国の首脳が1947年11月に発出したカイロ宣言は、台湾、膨湖諸島は中華民国(当時)に返還することが対日戦争の目的の一つであると述べている。「一つの中国」という立場から、中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の正統政府と認めるのであれば、カイロ宣言にいう「中華民国」とは、中華人民共和国が継承した中国である。したがって、カイロ宣言の履行を謳っているポツダム宣言第八項に基づく立場とは、中国すなわち中華人民共和国への台湾の返還を認めるとする立場を意味するのである。 姫鵬飛外相を通じてわが方の第二次案を受け取った周恩来総理は、これを受け入れる決断をした。中国側の同意を知らされたわれわれは、筆者を含め、これで正常化交渉はまとまったと感じた。ポツダム宣言第八項に基づき、台湾の中国への返還を認めるとの立場は、次の二つのことを意味している。第一に、台湾の最終的地位は未解決であるとの認識である。これは、台湾が中華人民共和国の領土の一部になっているとする中国の立場とは異なるものである。しかし、中国にとってより重要な第二の意味は、台湾が中華人民共和国政府によって代表される中国に返還されるのをわが国が認めることであるから、「二つの中国」あるいは「一つの中国、一つの台湾」は認めない(すなわち、台湾独立は支持しない)、ということである。周総理は、この日本の第二次案を正確に理解し、台湾の地位に関する法律論よりも、日本が台湾の中国への返還にコミットしたことが持つ長期的かつ政治的意味を重視したものと思われる(すくなくとも筆者はそのように考えている)。また同総理は、結局台湾問題の鍵を握っているのは米国であり、その米国が譲れない線を越えて日本が譲歩することはあり得ない、と判断したのであろう。 このようにして合意された日中共同声明第三項については、時の経過と共にinstitutional memoryが薄れ、不正確な理解の侭に議論が行われる傾向がある。 誤りの第一は、同項の日本国政府の立場表明の重点は、後段のポツダム宣言への言及部分ではなく、前段の「中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し」の部分にあり、かつ、その趣旨は、中華人民共和国政府の立場を受け入れたものとする解釈である。この解釈が正しくないことは、すでに述べたとおり、当該部分がまさに中国が拒否したわが方の第一次案であったという交渉経緯に照らせば明白である。中国は、「十分理解し、尊重し」の表現は不満足と考えたからこそ、受け入れなかったのである。 第二の誤りは、同項全体が中国の立場を認めたものであるから、台湾の地位をめぐる問題は中国の国内問題と認識されるべきであり、したがって、台湾は安保条約の対象外(同条約で言う「極東」 の範囲から除かれる) とする議論である。この点については、政府統一見解として行われた、次のような大平外務大臣の国会答弁(1973年衆議院予算委貞会議録第五号) があることに留意する必要がある。    「中華人民共和国政府と台湾との間の対立の問題は、基本的には (傍点筆者) 中国の国内問題であると考えます。わが国としてはこの問題が当事者間で平和的に解決されることを希望するものであり、かつこの問題が武力紛争に発展する可能性はないと考えております。なお安保条約の運用につきましては、わが国としては、今後の日中両国間の友好関係をも念頭において慎重に配慮する所存でございます。」 右の統一見解は当時慎重に準備されたものであり、これをより平易な表現に書き直すと次のようになる。    「台湾問題は、台湾海峡の両岸の当事者間の話し合いによって平和的に解決されるというのがわが国の希望であり、その結果、台湾が中華人民共和国に統一されるのであれば、わが国は当然これを受け入れる(それが共同声明第三項の意味である)のであって、当事者間の平和的話し合いが行われている限り、台湾問題は第三者が介入すべきではない中国の国内問題と認識される。    「基本的には」とは、そのような意味である。こうした認識を踏まえれば、武力紛争の可能性がないと考えられる現状では、台湾をめぐり安保条約の運用上の問題が生じることはない。しかし、将来万一中国が武力を用いて台湾を統一しようとして武力紛争が発生した場合には、事情が根本的に異なるので、わが国の対応については、立場を留保せざるを得ない。」 多少説明が長くなったが、以上が日中国交正常化に際して政府がとった立場であり、日中共同声明第三項の意味である。その後35年の間に二つの変化が生じた。一つは、米中国交正常化が実現し、米国の条約上の台湾防衛義務は消滅したことである。しかし、米国の行政府は、国内法(台湾関係法) によって、有事に際しては適切な対応を義務づけられているから、米台関係の問題の本質は変わっていない。二つ目の、そしてより重要な変化は、台湾における民主主義の定着である。その結果、台湾住民の圧倒的多数は政治体制に関する基本的価値観が異なる本土との統一を望まない、という現実を無視することの不条理が一層明らかになってきている。このような状況の下で東アジアの平和と安定を確保していくためにわが国がとるべき道は、一方において、本稿冒頭で言及した4月の日中共同プレス発表のとおり、日中共同声明に表明されている立場を今後とも堅持する(必要に応じ、わが国は台湾独立を支持しない旨を台湾当局に明確に伝えることを含む)ことであり、他方中国に対しては、台湾問題の平和的解決が日中両国が目指す「戦略的互恵関係」に欠かせない要素であることを訴え続けることであろう。 国際関係においては、時にはいかに努力しても解決できない問題が存在する。そのような場合の唯一の策は、無理に現状を変えようとせずに、辛抱強く時が経つのを待つことである。時間が現状を変え、当初は見えなかった解決策が浮かんでくることが期待できるようになる。台湾問題は、そのようなケースのように思われる。 (編集者注. この論文は『霞関会会報』2007年10月号に掲載されたもので、同会報および執筆者の了承を得て転載しました。)
台湾問題についての日本の立場-日中共同声明第三項の意味-栗山尚一(元駐米大使)JIIA -日本国際問題研究所-コラム/レポート
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xf-2 · 6 years ago
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【安倍総理冒頭発言】  まず冒頭、マクロン大統領と、フランスの皆さまの心温まる歓迎に、感謝したいと思います。  G7の国々は、ここビアリッツが面する大西洋から、インド洋を経て、アジア、太平洋へと一つの海で繋がっています。そして、自由、民主主義、法の支配、人権。共通の価値観で結ばれています。  だからこそ、本音で、率直な意見交換を行うことができる。世界経済から、自由貿易、そして地球的規模の課題、さらには、地域情勢に至るまで、世界の様々な課題について、今回も本音の議論をぶつけ合いました。  特に、安全保障と世界情勢をめぐっては、G7の首脳だけで、じっくりと話し合うことができました。  北朝鮮については、米朝プロセスを支持し、朝鮮半島の非核化に向けて取り組んでいくことで一致しました。そして我が国にとって最も重要な拉致問題についても、すべての首脳たちから理解と支持を得ました。  核、ミサイル、そして何よりも重要な拉致問題の解決に向けて、私自身、条件をつけずに、金正恩(キム・ジ��ンウン)委員長と直接向き合っていく。冷静な分析の上に、あらゆるチャンスを逃すことなく、果敢に行動してまいります。  緊迫する中東情勢については、長い時間をかけて議論しました。  6月の私のイラン訪問の際、ハメネイ最高指導者は、核兵器の製造も、保有も、使用もする考えはないと明確に述べました。ローハニ大統領からも、戦争は望んでいないとの言葉があり、対話による平和に向けた姿勢が示されたところです。  中東地域の平和と安定は、原油の8割以上をこの地域に依存する我が国の国益に直結します。  緊張緩和に向け、イランが対話に乗ってこれる状況をつくるため、そのための外交努力が重要だとの認識をG7として共有できたことは、大きな成果であったと思います。  そうした中、日本はこれからも、粘り強く取り組み、出来る限りの役割を果たしていく考えです。  目下の香港の状況についても議論しました。一連のデモによって、多くの負傷者が出ていることを、G7としても、憂慮しています。  一国二制度の下、高度の自治、法の支配及び司法の独立が保証され、香港の自由・民主・安定が維持されることが重要であり、これからも事態の進展を注視してまいります。  世界的に、貿易と地政をめぐる緊張が増大する中、不透明さを増している世界経済への対応も、大きなテーマとなりました。  下振れリスクに対しては、G7が協調して世界経済を支えていくため、機動的かつ万全の政策対応を行っていく必要性についても、認識を一致させることができました。  10月に期限を迎えるイギリスのEU離脱については、ジョンソン首相との会談において、私から、EUとの合意に基づく秩序ある離脱が実現することを強く期待している旨、直接申し上げました。  持続的な経済成長の鍵は、人々のイノベーションを活発化し、自由貿易を一層発展させていくことです。  先般のG20大阪サミットでは、自由、公正、無差別、開かれた市場、公平な競争条件といった基本原則を確認することができました。更に、デジタル化が急速に進む中で、経済発展にとって最も重要な要素であるデジタルデータについて、新しい時代のルールづくりを進めていく大阪トラックもスタートしました。  こうした取組を加速していく重要性を、G7のリーダーたちと、今回、改めて、確認いたしました。日本は、これからも、自由貿易の旗手として、自由で、公正な経済圏を、世界へと広げていく役割を果たしてまいります。  日米首脳会談では、トランプ大統領と、貿易交渉の進展を確認しました。茂木大臣とライトハイザー通商代表の間で、昨年9月の日米共同声明に沿って、主要項目について意見の一致を見たことを歓迎し、9月末までの協定の署名を目指して、残された作業を加速することで一致しました。  海洋プラスチックごみ対策など地球規模課題について���、G20大阪サミットの成果の上に、対応を進めていくことをG7として合意しました。  世界の様々な課題について、大きな責任を有する国々のリーダーたちが、徹底的に話し合い、解決策を見出していく。これが、G7サミットです。  そのためには、ロシアの建設的な関与が欠かせません。私自身、来週、ウラジオストクで、プーチン大統領と首脳会談を行う予定でありますが、G7とロシアとの対話の再開に向けて他の首脳たちと、これからも議論を重ねたいと考えています。  日本に戻れば、翌日から横浜で、アフリカ開発会議TICADを開催します。  30年近くにわたり、日本は、民間の協力も仰ぎながら、アフリカと共に、このTICADプロセスをリードし、アフリカの大地で、人材の育成や技術支援に取り組んできました。  今回のG7サミットでも、サヘル地域をはじめアフリカの開発が議論となりましたが、この分野でも、日本は、できる限りの貢献をしていく考えです。  我が国は、これからも、地球儀を俯瞰(ふかん)する視点で、日本ならではの積極的な外交を展開してまいります。  私からは、以上です。
【質疑応答】 (産経新聞 小川記者)  日韓関係について伺います。韓国は日本との軍事情報包括保護協定、いわゆるGSOMIAの破棄を決めて、東アジアにおける日米韓3か国の防衛協力に亀裂が入るかたちとなりました。GSOMIA破棄直後の24日にも北朝鮮が飛翔体を発射するなど、ミサイル発射を繰り返す北朝鮮の脅威は増していますが、G7サミットに合わせて開かれた今回の日米首脳会談では、GSOMIAの破棄やいわゆる元徴用工訴訟など現在の日韓関係について両首脳から言及はあったでしょうか。また、慰安婦問題や輸出管理のあり方も含めて、韓国側の不誠実な対応は今もなお改善されないままですが、安倍首相は、日韓関係が好転するためには、今何が必要と考えていますでしょうか。また、日韓関係の悪化は、朝鮮半島の非核化や、北朝鮮による日本人拉致問題の解決に対してどのような影響があるかも併せてお聞かせください。
(安倍総理)  日米首脳会談において、日韓関係については、やり取りはありませんでした。いずれにせよ、韓国側からはですね、日韓請求権協定への違反が放置をされ、そしてGSOMIAの終了通告がなされるなど、国と国との信頼関係が残念ながら損なわれる、信頼関係を損なうような状況、対応が続いています。まずは、国と国との約束を守るように求めていきたいと思っております。  北朝鮮問題については、拉致、核・ミサイルといった諸懸案の解決に向け、トランプ大統領とは今後とも、これまで同様、常に緊密に連携をしていくことを確認しました。  北朝鮮による短距離弾道ミサイルの発射は安保理決議違反であり、極めて遺憾であります。我が国としては、米朝プロセスを全面的に支持しており、引き続き後押しをしていく考えです。  拉致問題については、私から、トランプ大統領の一貫した支持、そして解決にむけた働きかけに謝意を表し、私自身が条件を付けずに金委員長と向き合う決意を改めて述べました。冷静な分析の上に、あらゆるチャンスを逃すことなく、果断に行動していく考えであります。
(ロイター通信 マリナ・デペトリス記者)  米中の貿易摩擦の悪化は日本経済にどのような影響を与えるとお考えでしょうか。また、10月の消費税増税を見直す必要はあるとお考えでしょうか。
(安倍総理)  まず、今回のサミットにおいては、貿易の問題を始め、世界経済が抱える下振れリスクについての議論を行いました。下振れリスクに対しては、G7が協調して、機動的かつ万全の政策対応を行っていく必要性について、この必要性については私からも強く訴えたところでありますが、G7において、認識を一致させることができました。  米国と中国は、世界の経済GDPにおいては第1位と第2位の経済大国であり、安定的な経済関係が構築されることは、両国のみならず、世界経済にとって極めて重要と言ってもいいと思います。そして、日本、世界全体の持続的な経済成長に直結しています。  米中間での協議が建設的に進展することを期待しているわけでありますが、現在、米中においては断続的に協議がなされ、近々、また高いレベルでの交渉が行われるというふうに報道もされておりますし、トランプ大統領もそのように述べていますが、良い成果が出ることを期待したい。いわば、世界経済が安定する方向で、良い成果がでてくることを期待したいと思います。引き続き、日本経済への影響について十分目配りをして、経済運営には万全を期していく考えです。  そして、消費税についても質問がございましたが、消費税の引上げについては、全世代型の社会保障制度を作っていく、社会保障を全世代型に転換していく上において、必要な財源であります。そして、国の信頼を守るためにも必要と考えています。  10月の引上げに当たっては、教育の無償化に加えまして、思い切ったポイント還元、プレミアム商品券の発行、そして自動車や住宅に対する大胆な減税など、十二分な対策を講じることで、国内の消費をしっかりと下支えをしていきたいと、こう思っています。今回の対策については、前回、3パーセント引き上げた時の消費の減退等も十分に踏まえた上で、今回は十二分の対策をとっているということであります。
(共同通信 大塚記者)  内閣改造・自民党役員人事についてお聞きします。総理は8月6日の広島での記者会見で、少子高齢化などの課題に力強く対応するための態勢づくりをこの夏、じっくり考えたいとの意向を示さ���ました。残り2年の総裁任期を見据えた重要な人事になると思われますが、改造の実施時期や規模は決まりましたでしょうか。また、麻生副総理兼財務相と菅官房長官は留任との見方が出ているほか、二階幹事長と岸田政調会長の処遇や、小泉進次郎厚生労働部会長の初入閣の可能性にも関心が集まっています。現時点での人事の方針をお聞かせください。
(安倍総理)  先の参議院選挙においては、国民の皆様から、力強い御支持、信任をいただきました。この国民の皆様の負託にしっかり応えていくことが、私の、そして連立与党の責任であろうと思っています。お約束した政策を、一つ一つ、実行していくということであります。  このサミット期間中は、今回サミットの中身も相当議論が白��しましたし、また、多くのバイの会談もありましたし、日米の首脳会談もありましたので、そこに集中しておりましたので、今質問をいただくまでは、しばらく人事のことは頭の中になかったのですが、しかし、今申し上げましたような意味において、負託に応えて政策一つ一つを実行していく上では大変、重要な人事であると思っています。  そのためにも、来月、内閣改造、そして党役員人事を行いたいと考えています。これまでの政治の継続性、そして安定性も重視してやらなければならないと思っています。これまで7年近く、安定的な政治運営を行ってまいりました。先の参議院選挙において、安定した、政治の安定に対する評価もあったのだろうと思いますので、この安定性も重視していく。  同時に、少子高齢化を始め困難な課題に、気持ちも新たに、果敢に挑戦していくことも大切です。新たな人材に突破力を発揮してもらう。新たな人材、自民党というのは人材の宝庫でございますから、そういう方々が、新たに内閣の一員となって、その力を発揮していただくことも、様々な課題に挑戦していく上では、大切なこと、必要なことだと思っています。正にこの安定と挑戦の、強力な布陣をひいていきたいと思っています。  我が党には、老・壮・青、たくさんの人材がございます。先ほど具体的な名前も挙げていただきましたが、それ以外の方々も、マスコミの皆さんが光を当てていない方々もたくさんいらっしゃいます。そういう方々のこともしっかり頭の中で、どのように活躍していただけるか、ということを考えながら、光を当てながら、考えていきたい。具体的には、今後、TICAD、東方経済フォーラムなどの外交日程の合間にでも、じっくりと練り上げていきたいと思います。たくさん人材がおりますから、それぞれの人材の特性、能力、専門分野等々も考えながら、経験もそうです、考えていきたいと思います。
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shibaracu · 5 years ago
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●柳田國男の世界
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●柳田國男の世界 この人の本はあまり読んだことがない。 何故か少し恐怖があった。 何ともコトバにしようがないほどの感じである。 民俗学的には良いものを出しているようだ。 でも批判もタダ有るようだ。 下の方の論文などは一度読む価値があるように思える。 折口という人と比較されたり並べていろんな話もあるようだ。 どれが良いのかハッキリしない。 人それぞれの取り方もある。 私は読んでも味方も敵にも成れない。 もともと、柳田が資料に頼らない歴史を民俗学としたから、 そういう学問になっている このコメントが引っかかる。     ◆柳田國男 - Wikipedia http://bit.ly/yTENHp 柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は日本の民俗学者。 現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、晩年に名誉町民第1号となった。正三位勲一等。 日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、著書『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。 日本における民俗学の開拓者であった。   ◆柳田國男の世界 | 福崎町 http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/category/3-2-0-0-0.html
   故郷 七十年 [2016年5月17日]    國男 年表 [2014年2月3日]    國男ゆかりの地 [2014年2月3日]    福崎の人々 [2014年2月3日]    柳田國男の世界 [2014年2月3日]    福崎という土地 [2014年2月3日]    其の一 [2014年2月3日]    其の二 [2014年2月3日]    其の三 [2014年2月3日]    其の四 [2016年5月17日]    其の五 [2016年5月17日]    其の六 [2016年5月17日]    其の七 [2016年5月17日]    其の八 [2016年5月17日]    其の九 [2016年5月17日]
森鴎外と出会い、松浦萩坪に師事し、自然主義の文学青年と交流。「文学界」に新体詩を発表、斬新な詩作で仲間を刺激した。 が、「なぜに農民は貧なりや」という言葉に示されるように、社会構造に対する鋭い疑問から、文学への傾倒を絶ち、農政学を志した。
◆福崎町立柳田國男・松岡家記念館 http://bit.ly/zeFzJs 本館は,『後狩詞記』や『遠野物語』などの多くの著作をあらわし,「日本民俗学の父」と 呼ばれる柳田國男(文化勲章受章,福崎町名誉町民第1号)と,医学・国学・言語学・ 美術などの分野で活躍した松岡家の顕彰を目的に,昭和50年に設立された記念館です 。   ◆1144夜『海上の道』柳田国男|松岡正剛の千夜千冊 https://1000ya.isis.ne.jp/1144.html 2006/05/23 今夜は柳田国男の『海上の道』をもって、いったん「千夜千冊」を擱筆するつもりでとりあげようと思っているのだが、その前に少し書いておきたいことがある。何にも煩わされることなく柳田や折口を読んでいたころがひたすら懐かしいということだ。   ◆成城大学 | 民俗学研究所 柳田國男について http://bit.ly/zD7Dft 「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家でもあった柳田國男(1875~1962) 成城大学民俗学研究所は、日本民俗学の創始者で近代日本を代表する思想家の一人でもある、柳田國男の寄贈書を納めた「柳田文庫・民俗学研究室」を基盤とし、設立されました。我国における民俗文化の研究センタ—としての役割を担うべく、日本の民俗文化及びこれに関連する研究、調査並びに資料の蒐集を行っています。   ◆柳田國男について  https://www.seijo.ac.jp/research/folklore/kunio-yanagida/intro/ 名もなき庶民(常民)の歴史や文化を明らかにしたいと考え、 「常民文化の探求」と「郷土研究」の必要性を説く 「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家でもあった柳田國男(1875~1962)は、明治8年7月31日に兵庫県神東郡田原村辻川という農村の医者・国学者であった父松岡操の六男として生まれる。幼少期に体験した飢饉、故郷を離れて見聞きした庶民の暮らしや間引き慣習の悲惨さを思い、「経世済民の学」を志向、東京帝國大学法科大学(現東京大学)で農政学を学ぶ。  「日本民俗学の祖」柳田國男の旧居は、小田急線の「成城学園前」下車3分、駅前の道を北進して2つ目の四つ角を左に折れると、木立の中に洋館があり、現在は、建て直されてご子孫が住まわれている。 柳田國男存命中の大きな書���を持つ建物は、昭和63年に解体され、柳田家先祖ゆかりの信州飯田にある「飯田市美術博物館」の中に移築され、今は当時の面影はない。   ◆柳田國男館 - 飯田市美術博物館 http://bit.ly/AoL6VZ 「民俗の宝庫」―伊那谷の「生きた学び舎」としての活用をねがうものです。   ◆柳田國男記念公苑 [茨城県利根町公式ホームページ] http://www.town.tone.ibaraki.jp/page/page003532.html 2019/12/04 柳田國男記念公苑は、國男が少年時代を過ごした旧小川家の母屋、土蔵(資料館)で構成されており、著作物や文書等を展示しています。また、会議、講座、宿泊施設として利用できます。   ◆柳田国男 家系図研究にも影響を与えている http://bit.ly/zhfiMj 家系図の分野で有名な丹羽基二氏の大学での恩師にあたるそうです。(「日本人の苗字」にありました。) 神隠しの体験について語っていたりする神秘家としての柳田国男がいるわけですが、遡れば陰陽道の中心地播磨という関連もあるかも知れません。 宮本武蔵とは、赤松 つながりでもあるのですが、養子の宮本伊織の神隠し体験ともなんらかのつながりが あるかも ...   ◆第866回談話会要旨(2012年12月2日=いくつかの「先祖の話」:京都で読む柳田祖霊神学)  2013年5月6日 · http://www.fsjnet.jp/regular_meeting/abstract/866.html 主な登場人物2 ―京大文化史学派の『先祖の話』受容― 京都大学・菊地暁
 今回のシンポジウム「いくつかの『先祖の話』 ―京都で読む柳田祖霊神学―」(日本民俗学会第866回談話会、京都民俗学会第31回年次研究大会シンポジウムを兼ねる)はシンポジウム「京都で読む柳田国男」(2005年、柳田國男の会、国立歴史民俗博物館共同研究「日本における民俗研究の形成と発展に関する基礎研究」、京都大学人文科学研究所共同研究「近代京都研究」共催)の第2ラウンドともいうべき企画である。「京都で読む柳田国男」は、民俗学史をとりまくいくつかの「中心史観」への挑戦だった。柳田中心史観、純粋民俗学中心史観、東京教育大中心史観、そういった一連の偏向をともなう学史叙述は、結果的に、地方や隣接分野における実践の脱落につながった。そこでその偏向を転倒させるため、「京都」という視点の挿入を試みた。すなわち、粗野に対する洗練、野外に対する文献、在野に対する官学といった、「野の学問」の正反対を抱え込む「京都」をあえて前景化させることによって、民俗学という運動の射程と多様性を可視化させようとしたわけである。   ◆ぶく速 柳田国男と折口信夫って どっちのほうが強いの?http://bit.ly/x6R8bG 2011/12/23 ▽英雄の条件  「大人物出でよというのはかつて政界の常套語であったが、これは今いる連中がみな凡庸だという意味の反語であったかもしれぬ」 「丸太棒であれ鸛(コウノトリ)であれ、何か自分たちを統御してくれるものを恋しがっていた者は多いのである。 しかしその適任者が仲間の内に、今まで埋もれていたということはあまり喜ばなかった。英雄はもう少し毛色の変わった馬に乗って、雲の彼方より出現してこなければならなかった」  これは、民俗学の泰斗である柳田国男が1930年に書いた「明治大正史世相篇」の「英雄待望」の章の文章だ。この本には文明時評的なところがあるが、この部分も皮肉で面白い。 柳田とか折口とかの著作って学術書と言えるの?文学とかエッセイ、随筆の類だろ もともと、柳田が資料に頼らない歴史を民俗学としたから、そういう学問になっている   ◆遠野物語の柳田国男、農政の先駆者としての顔: オーライ!ニッポン https://blog.canpan.info/ohrai/archive/82 2019/02/03 遠野市を訪問したことから、遠野物語の柳田国男、民俗学の祖である柳田国男のもう一つの顔、農政��先駆者としての姿を知った。柳田が考える農政とはどのようなものだったのであろうか。 並松信久氏(京都産業大学 大学院 経済学研究科教授)は、論文「柳田国男の農政学の展開」の中で、柳田国男の農業政策の目的は生産量の増加ではなく、それを通して国民総体の幸福を実現することにあり、これは柳田がJ.S.ミル(JohnStuartMill,1806_1873)のイギリス功利主義の影響を受けていることを物語っている。 論文「柳田国男の農政学の展開」(PDF) https://ksu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1516&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21
◆水木しげるが漫画化した柳田國男『遠野物語』の“お色気シーン” http://bit.ly/z8x7Oi 作家の嵐山光三郎氏は過去に『水木しげるの遠野物語』(小学館刊)を書評しているが、この原稿で衝撃の事実が明らかになっている。以下、嵐山氏の書評だ。(『週刊ポスト』2010年4月9日号より)
◆柳田國男「ネブタ流し」を読む http://bit.ly/Aqfjb8 柳田國男の「毛坊主考」は、多面的な作品である。表題のとおり、地方の集落で半俗半僧侶生活を送る念仏の徒についての話もあれば、シュクや茶筅などの被差別的な扱いを受けていた人々の生態とその信仰について、また、各地に残る由来のわからなくなった塚や山という異界の周辺にたむろしている者(童子)たちについての話もあった。 この多様性は、「毛坊主考」が「郷土研究」誌上に連載されたものであるということに由来する。 柳田は、地域の口碑や伝承、他の地域の攘却行事を参考にして、ねぶたを“御霊祭”の一種として捉えていこうとしているのだ。   ◆遠野物語 - Wikipedia http://bit.ly/y0ckcQ 『遠野物語』( とおのものがたり)は、柳田國男が1910年(明治43年)に発表した説話集。日本民俗学 の黎明を告げた名著である。   ◆柳田国男 海上の道 - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54331_53583.html +一二. +一三. +一四. +一五. +一六. +一七. +一八. +一九. +二〇. +二一. +二二. +二三. +海神宮考. +緒言. +一 昔話の島嶼型 ... それからこの方の記録だけによって海上の交通史を説くのは間違いのもとであろう。 昭和三十六年六月. 柳田国男. [#改丁] ... 日本の海端に、ココ椰子の実が流れ着くということは、決して千年ばかりの新らしい歴史ではなかったはずであるが、書物で海外の知識を学び取ろうとした者は、かえって ... 寄木 ( よりき ) は流木の浜に漂着したものといい、親はこちらで言うならば長者のことである。 「椰子の実」と柳田國男 =流木のロマン= ■ 日本は四方を海に囲まれ、その海岸線の 総延長は3万6千km(地球の9/10周に相当)にも及び、ロシア連邦、オーストラリアに 次いで世界で3番目に長い。日本は紛れもなく海洋大国なのです。   ◆島崎藤村の「椰子の実」は実にロマンチック… | 八重山毎日新聞社 http://www.y-mainichi.co.jp/news/12500 2008/12/02 島崎藤村の「椰子の実」は実にロマンチックだ。愛知県・渥美半島の伊良湖岬を民俗学者の柳田國男が訪れたとき、散策の途中に恋路ヶ浜で拾ったヤシの実の話を友人の島崎に語ったのがきっかけで生まれた叙情詩だという ▼波に揺られ、長い歳月をかけて南の島からたどりついた1個のヤシの実は文部省唱歌となり、多くの人々に親しまれている。その舞台になった渥美町(合併で田原市)は、石垣島沖から毎年ヤシの実を流して自然のロマンを再現、実際に漂着したケースもある ▼ところがどうだろう。八重山に流れ着くのは嫌なものばかりだ。復帰前は爆発物の「機雷」や米軍機の燃料タンク、廃油ボール、そしていまは海外の漁具類やごみだ ▼かつては海岸線を歩くのが楽しかった。珍しい形をした流木や漁具のガラス玉を拾って持ち帰った。だがいまは漂着ごみ量にぼうぜんとなる。プラスチックの容器をヤドカリが抱えて歩いている光景にも出会った ▼先に開かれた環境省の漂着ごみ地域検討会で、観光客アンケート結果として「ごみ回収で滞在日数は0.9日増える」と報告された ▼漂着ごみは静かに島々に負のイメージを広げており、事態は深刻。回収しても次々とごみは流れ着く。その悪循環を断ち切るのが外交力であり、政府に強く望みたい。(黒島安隆)   ◆童謡集/椰子の実(歌詞付き) https://youtu.be/eG1gB5dluU8 2009/08/02 有名な童謡曲集~MillesVents風~シリーズ 第2弾 とても難しい日本語で書かれた歌詞・・・ それを少しでも聴いて頂いた方に理解出来るようにと工夫して歌ってみました・・・。 伝わったでしょうか? ---歌詞の親切な解釈--- (文語調に不慣れな方の為に、歌詞の概略をしるしておきます) ※歌詞そのものではありません
名前も知らない 遠い島から
流れ着いた 椰子の実がひとつ
ふるさとの岸を離れて
お前はいったい何ヶ月 海をただよって来たんだい
お前が育った椰子の木は きっと生い茂り
枝の下に 影ができるほどなんだろうね
僕もまた 波の音を枕に
一人さすらう 浮寝の旅さ
椰子の実を手に取り 胸に当てれば
さすらいの憂いが また新たにわく
海に沈む夕陽をみていると
遠い異郷の地に流れ着いた今の我が身に
涙があふれて流れ落ちる
思いははるか 果てしない波の彼方
いつの日にか 故郷へ帰ろう
いつの日にか 故郷へ帰ろう ~Pucky訳~   ◆日本近代史の中の日本民俗学-柳田国男小論  http://bit.ly/xwOKIY 戦前の大東亜共栄圏の夢が軍事政治的には潰え去ったけれど、経済的覇権として甦ったのだ。 なぜ私たちは「大日本主義」の時代になると「日本」「日本人」を問いたくなるのだろうか。 外部より内部に目を向けたがるのだろうか。   ◆南方熊楠のキャラメル箱サイト��検索:柳田国男 http://bit.ly/wxM9F9 南方熊楠の手紙:神社合祀反対運動の終結、その他(口語訳1)明治44年12月10日   ◆柳田国男と遠野物語 2019/12/28 https://youtu.be/94ZghOx8jXM   ◆柳田国男.mpg  2010/08/16 https://youtu.be/oWm7zXLOBCI
◆遠野の昔話 『オシラサマ』  2015/04/04 https://youtu.be/h0hVjjrd5Gc 川崎市立日本民家園 佐々木家住宅 語り部 大平悦子氏   ●とおの物語の館 - 遠野市 http://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/48,23855,166,html 2013/04/25 昔話の世界を体感  とおの昔話村が、平成25年4月27日、「とおの物語の館」としてリニューアルオープンしました。  昔話を映像や音声で楽しむことができる「昔話蔵」や、語り部による昔話を聞くことができる劇場「遠野座」などのほか、お食事処やギフトショップも充実。見て、聞いて、食べて遠野をまるごと満喫できます。   ◆遠野の語り部   2008/12/08 https://youtu.be/96rY_9SQEWE 遠野の語り部、カッパの昔話 岩手の方言をお楽しみください   ◆柳田國男「神道は、太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」 幕末の国学、柳田國男の「国家神道」批判、http://bit.ly/A5bfro   ◆第4回講座-神道研究入門- http://yamaguchi-gokoku.jp/subupage4.html 神道を敵視する立場から神道を研究するわけですから、そうした人たちの神道の研究書に従えば、天皇は人民統治手段として神道を用い、神も支配したという結論に導かれる論理になっており、神道は超国家主義的宗教とされました。
◆補足 「国家神道」がムラを壊した 04 09/10  http://bit.ly/xLHSWv 近代国家としての日本は終始一貫して「国家神道」を、国民の国家への忠誠と献身とを引き出す道具として利用した。 このような国家的計略を「日本に固有のものとはとうてい言えない」と批判したのは官僚出身の民俗学者、柳田国男であった。   ◆民俗学 - Wikipedia http://bit.ly/xOE6LS 民俗学(みんぞくがく、英語:folkloristics)は、学問領域のひとつ。高度な文明を有する諸国家において、自国民の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問で、民族学や文化人類学の近接領域である。   ◆国家神道批判 [柳田国男の昭和]  http://bit.ly/xbZnG6 国男にとって、神道とは神と人とが交感し、交歓する祭にほかならなかった。その原風景が残るかぎり、たとえ国家が敗れても、くには残ると信じていた。   ◆祭政分離はとうぜん [柳田国男の昭和]  http://bit.ly/xKz8M5 記事はGHQの検閲をへている。 国男の発言は、明治憲法と国家神道を廃絶しながら、政治から切り離された国の祭祀者としての天皇を認めるというマッカーサーの考えを側面から支援するものとなっていた。 だが、それだけでは終わらない。 国男はさらに進んで、政治に利用されることのない神道の再生をひそかに構想していたのである。   ◆【日本近現代史】歪められた日本の歴史 | 日本人の信仰と聖書 ... http://nihonjintoseisho.com/blog001/2019/06/06/history-of-japan-2/ 2019/06/06 「高校生のためのおもしろ歴史教室」というウェブサイトを大変興味深く読ませていただいております。「日本を不思議の国から当たり前の国にいま、周辺国の陰謀によって悪化しつつある国際的評価に正しい主張をしてまいりましょう」日本を美しくする会相談役 鍵山秀三郎(月刊「致知」平成27年10月号「巻頭の言葉」/致知出版社) という文章が紹介されていましたので、一部をご紹介させていただきます。   ◆戦後日本 : 柳田国男らの民俗学による歴史学の破壊 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/symp_012__39__27_36__39_48.pdf A・N・ メシェリャコフ ロシア国立入文学大学 (日本語訳 ・土田久美子) 二十世紀はユートピアの世紀であった。ソビエト連邦でも、ナチス・ドイツでも、そして日本でもユートピアを建設する試みが見られた。 すなわち、ソ連は共産主義 、ドイツは「新秩序」、日本は「大東亜共栄圏」の建設を試みたのである。 ユートピアの思想を実現させる為 、いずれの三力国でも一社会的・文化的相違はあるにせよ一「全体主義」として特徴づけられるべきシステムが構築された。 いずれの三力国でもユートピアの建設は、国内外に対する広範囲の武力行使によて 実現された。 二十世紀はユートピア建設の世紀であるだけでなく、その破綻の世紀でもあった。 前述のいずれの国家もこの運命を免れることは不可能であった。 ドイツと日本は戦争に敗北し占領下に置かれ 、ソ連は第一に非効率的な経済システムの為に崩壊した。 全体主義が破綻した後 、いずれの三力国でもより民主的・個人主義的な社会を創り出す政策がとられ 、それは「全人類的」価値への参加として理解されたそれと同時に、かつての希望の破綻に伴い 、厳しいアイデンティティ���危機が生じた。 危機には解決を要する。 新しいアイデンティティを創造した日本の経験はかなりの独自性で際立っており、あらゆる観点からの研究がなされる必要がある。
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imoimoimoimoimo · 7 years ago
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歴史学者廃業記 歴史喪失の時代
與那覇潤 | 元愛知県立大学日本文化学部准教授(日本近現代史)
4/6(金) 11:00
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大学で歴史の教員をしていた際に開設した「史論家練習帳」を、この原稿をもって閉じることにしました。まずは長年更新できなかったことでご心配をおかけした(かもしれない)読者のみなさま、また本稿の掲載にあたって懇切なサポートをいただいたYahoo!ニュース個人のスタッフのみなさまに、ふかくお詫び申し上げます。
昨秋に、開設時の勤務先を離職しましたので、職業的な意味での「歴史学者」を廃業しているのは自明のことです。それにいたる経緯は、本日刊行となる『知性は死なない 平成の鬱をこえて』(文藝春秋)にまとめたので、ご関心のある方はそちらをご参照いただくとして、最後にこの場をお借りして、より本質的な意味での、私にとっての「歴史」の喪失について記したいと思います。
歴史を語らなくなった識者たち
歴史学者という肩書で、雑誌に連載を持たせていただいたとき(2012年)、初回の一行目に「歴史というものは、人間の社会にとって、本当に必要なのだろうか」と書きました。当時の職業的に考えると、これは自殺行為なのですが、そのあとも同じ思いがふくらんでゆくだけの数年間だったなと、いまふりかえって思います。
まだこのウェブサイトを更新していた2014年の春に、総合誌で「安倍総理の「保守」を問う」という企画があり、私もふくめて総勢100名の論者が回答を寄せたことがあります。掲載号が送られてきて驚きました。
歴史学者もふくめて、圧倒的多数の識者が「保守とはそもそも何か」を語るのです。エドマンド・バークの立場をさすとか、文化や伝統を大切にするとか、極端に流れず中庸を重んずるといった「保守の本質」を紹介したうえで、そういう立派な保守があってほしいですね、と結ぶ。政治哲学者がそのように答えるのは自然ですが、歴史の専門家として知られる人でも、いまはそう答えるものなんだと知って、ふっと意識がとおくなる気持ちがしたのをおぼえています。
もちろん、そういった本質論(そもそも論)がまちがっているわけではありません。寄稿の依頼としても、「日本は「右傾化」しているのか」と「本来の「保守」とはいかなるものか」のどちらに答えてもよい形式だったので、後者をえらんで回答するのが不誠実だということもない。
しかし、「正しい保守のあり方」のようなものを、純粋に思想の世界からとりだしてきて、目下の「保守政治」や「右傾化」がその水準に達していない、と批判すればことたりるなら、歴史を参照する必要はなくなります。リバタリアンとコミュニタリアンが両極にくる哲学チャートのようなものを準備して、平面上の「いま、ベストな立ち位置」を探せばすむことであって、過去をふりかえって歴史という「奥行き」をそこにつけくわえることに、さしたる意味はない。
奥行きということばのニュアンスを、もうすこし具体的にいうと、現時点で私たちがもっている価値観や提示されている選択肢、そういったものの成立事情や背景をしることで見えてくる、相対化の感覚、ということになるでしょうか。どの価値観や選択肢をえらぼうと、歴史の流れにそれらが拘束されていることをしれば、けっして全能感は得られない。そういうわりきれなさ、「過去の影」のようなものですね。
ひょっとすると私たちは、長らくものごとを「歴史的」に語りすぎてきたのかもしれません。とくに昭和の戦争については多弁をついやしすぎたせいで、たとえば先ほどの雑誌の依頼に「戦争の悲惨さを知っている世代が亡くなっていくことで、いまの日本では右傾化が進んでおり…」といった回答をすると、ベタでダサくみえてしまう。それは避けたいという気分が、有識者のあいだにもあるのかなと思います。
ゼロ戦ブームに歴史はあったのか
こういうことをいうと、「でも歴史教科書の問題や、中国・韓国などとの「歴史戦」に熱くなっている人は、いまもおおいじゃないか」と反論されるかもしれません。たしかに、あとわずかで終わる平成が「歴史論争の時代」でもあったことは、後世に(学問として���歴史がまだ存続していれば)書かれる文化史の、脚注くらいには残るでしょう。
しかし、政治的・社会的に「問題」になったときにだけ、歴史のまわりに寄ってくる人たちが、先ほどのべた「奥行き」という意味での歴史に関心をもっているとは、私には思いがたいところがあります。むしろ(左右とわず)自分のなかに最初から「正解」をもっていて、それが異なる人と戦って、排除したい。そういうメンタリティは、むしろチャート上のポジション争いに近い、平面的なものではないでしょうか。
私が大学に勤めていたのは、「歴史作家」としての百田尚樹さんのブームが頂点に達した時期でしたが、『永遠の0』(2006年、文庫化は2009年)も『海賊とよばれた男』(2012年)も読んでいた同僚は、百田氏の「極右的」な歴史観をしって、本気でおどろいていました。文学を専門とされる方でもです。
『永遠の0』という小説自体は、とくに特攻讃美でも零戦礼賛でもありません。搭乗者の使い捨てを前提としたメカニックの無意味さや、技術面ですら間もなく米軍機に追いぬかれた事実がえがかれ、あげられる参考文献も航空戦記のほかは、NHKのドキュメンタリーや半藤一利氏といった「無難な歴史観」です。そこからどうして過激な歴史修正主義がでてくるのかと、おどろくのは自然でしょう。
鍵となるのは、現代の若者(姉弟)ふたりが特攻隊員だった祖父の姿をたずねて、その戦友たちを訪ね歩くという構造の「無意味さ」です。この戦友たちがみなじつに饒舌で、かつどう考えても戦場にいた時点ではしらなかったはずの史実(海軍上層部のようすや、米軍側の事情など)を、延々と「証言」する。つかう用語も現代風ですね。戦前生まれの人物が大学名に「帝国」を入れずに、「東大法学部のトップクラス」と陸大出の参謀を比較したりします(文庫版p202-203)。
戦友たちが戦後に各種の書籍で戦史を学び、その成果をふまえて主人公に語っているという設定なのでしょうから、やはり平成のベストセラーとなるとともに歴史家のきびしい批判をあびた『少年H』(妹尾河童著、1997年)にくらべれば、矛盾がすくなく構成されているとはいえます。しかし、それなら主人公に自分で勉強させればよい話で、戦中派の証言に仮託する必要はないでしょう。
「未知の過去をたずねる」形式をとりながら、じっさいにはどの証言者を切りとっても、現代人たる「著者の百田氏の分身」としか出会っていないのが、『永遠の0』に奥行きがない理由です。そして、だから読まれたのです。そこで消費されたのは、歴史というより「���代のある特定の価値観」であり、だからその著者が、異なる価値観にたいして非寛容な人物であることとも矛盾しないのです。
公平を期すなら、平成の歴史論争で百田氏と正反対の側にいた「左翼的」な人にも、『永遠の0』と同様の擬似巡礼をくりかえすケースはよくみられます。自分がえがいた(その人にとっての)「理想の被害者」にしか出会う気がなく、そのイメージにあてはまる範囲でしか証言を聞かない。2014年に朝日新聞が報道を一部撤回するなど、混迷を深めた従軍慰安婦問題も、そのような人たちに引きまわされた感がありました。
この、歴史をたずねているはずが、自分にしか出会わない「旅」になるという構成は、文体にもあらわれています。容貌について具体的な描写がほとんどないので、肝心の祖父・宮部久蔵も背が高いことしかわからず、女性の登場人物はただ「美人」だとしか書かれない。読む前から読者の頭の中にある、偉丈夫や美女のイメージを代入して、各自満足してくださいということですね。これも平成を席巻した、ライトノベルやケータイ小説に通じる特徴かもしれません。
政治家に歴史観を求めた不思議な時代
もっとも、各自が別個にイメージを投影して、じっさいには他の人と食いちがったままばらばらに満足するのは、必ずしも悪いこととはかぎりません。ことに「政治」のように、多様な価値観をもった国民をひとつにまとめることが要求される場面では、そうした技術がむしろ必要とされることがあります。
戦後50周年にあたる1995年に出された村山富市首相談話(村山談話)は、そのような技法の結晶だったと思います。近現代史を語る部分に「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り」とだけあって、その一時期がいつなのかは語られない。かなり「左」の人であれば、江華島事件や日清戦争から「誤りだった」とみなすでしょうし、相当「右」でも、真珠湾の奇襲攻撃が「誤っていない」と主張する人はまれでしょう。
村山談話は、このあと「戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって」とつづくため、「わが国」が「植民地支配と侵略」をしたという文言をみとめたくない人びとにつよく忌避され、声高にその見なおしをうたって支持を集める政治家も出現しました。いわゆる、「右傾化」とよばれる現象です。
しかし、よく考えると政治家に歴史観をもとめる――政策よりも歴史認識のほうが「自分といっしょであってほしい」と感じて支持や不支持を決めるというのは、不思議な現象です。たとえば、「源氏でなく平家を応援する政治家は、国政にふさわしくない」「あんな、関ケ原観のなっていない人が総理大臣だなんて!」という有権者がいたら、��なり滑稽にうつるでしょう。
これは、極端なたとえではありません。戦前には「足利高氏(尊氏)観がおかしい」という理由で、大臣をやめさせられる政治家がふつうにいました。それがいま、とても奇妙にみえるとすれば、そう遠くない将来、政治家に「日中戦争観」や「太平洋戦争観」を問うていた時代もまた、よくわからないものとして映じる可能性も否定できません。
戦後70周年の総理大臣談話はご存じのとおり、村山談話に批判的な勢力を代表する安倍晋三首相によって出されましたが、こうした談話の書き方自体は、そこまで変わっていません。「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」とあるので、昭和時代になんらかのあやまちを認めていることがわかりますが、そのあと唐突に「そして七十年前。日本は、敗戦しました」とつながって、なにが「誤り」なのかは結局、特定されません。
「植民地支配と侵略」の文言が、日本を主語としては盛りこまれなかったことをもって、画期的な変化――「右傾化」勢力の勝利とする論評も、その賛否を問わずみられました。しかし、それはほんとうでしょうか。
「日本は、世界の大勢を見失っていき」、「次第に...「新しい国際秩序」への「挑戦者」となって」、突然の敗戦にいたる安倍談話を読むと、自国が起こした戦争というよりは、むしろ自然災害の犠牲者を弔う文章のような気がしてきます。「わが国」の誤りが(悪い方向にであれ)歴史を動かした、とのべている村山談話とくらべて、「日本」は侵略云々はおろか、物語全体の主語なのかもよくわからなくなっています。
「日本」というのは(「世界」と同様)、たんに物事が起こった場所の名称にすぎず、荒ぶる地霊かなにかのような、登場人物の力ではいかんともしがたいものによって災厄が生じてしまったので、鎮めるために追悼文を読んでいる。そんな印象をうけるのです。日本という主体を立ち上げて、そのなした行為=歴史への責任を引きうけるというよりは、むしろ主体というもの自体が、すっとなくなってしまうような語り口。
それは、歴史よりも「神話」の語りに近づいてはいないでしょうか。舞台設定はしっかりしている(安倍談話も、19世紀以降の国際環境については滔々と語ります)けれど、だれが主人公かは最後まではっきりせず、登場人物名を入れかえれば他の部族(=国民)とも相互に交換できてしまいそうな物語の群れ。そうしたレヴィ=ストロースが描いた人類学の世界観に、私たちの歴史認識も溶けていきつつあるのでしょうか。
神話とサブカルチャーに飲みこまれて
聖地巡礼という用語も、近年はすっかり「人気アニメの舞台になった土地を訪れること」の意味になったようですね。まずアニメの世界観にはまったうえで、頭の中で照合しつつ「ああ、ここがモデルだったのか」と確認するために、現地へ旅行にいく。もちろん、これはなにも悪いことではありません。
しかし、それが現実の歴史となると、どんなものでしょうか。大学で教えて実感したのは、歴史学者はほんらい、これまで語られてこなかった「新しい歴史像」に出会うために、史資料を読みといたりフィールドに出たりしている。ところが授業の受講者には、むしろ「既存の歴史像」を前提としたうえで、それを「より身近に感じてみたい」といった感覚で、古文書に触ったり史跡をめぐりたがる人がおおいのですね。好きなアニメキャラのフィギュアやグッズを、手元に置きたくなるのと同じです。
これは、もともとの意味での聖地巡礼になっているともいえます。一見すると一次史料(一次資料)に触れているようでいても、それを新しい歴史像への入り口としてはとらえずに、むしろ自分の頭の中にすでにある歴史(=神話)上の登場人物がのこした「聖遺物」として、物理的な接触を楽しんでいる。よしあしは別にして、それは近代的な学問とは関係のない、各地の部族社会でよくみられる光景です。
そういう「聖遺物との接触をつうじた神話的な過去のイメージとの交歓」ではだめで、一本、すじの通ったクロノロジカル(年代記的)な歴史観を持たねばならない、という発想自体が、いまふりかえれば特殊なものだったのでしょう。そういう狭義の歴史意識は、地中海沿岸と東アジアの古代文明に固有のもので、たまたまそれらの地域でのちに近代国家が発達したがゆえに、価値ある規範とみなされてきたにすぎません。
たとえるなら、人類の始原から終末への流れを語る歴史観をもつキリスト教と、そんなものとは無縁な先住民の神話の世界観とのあいだに、ほんらい優劣はありません。前者のほうが「進んで」「知的・体系的に」みえたのは、たんにキリスト教文化圏が軍事技術でほかの地域を圧倒したからであり、そういった植民地主義の時代が終われば、捨てさられてしまっても文句は言えません。
もはや物語(ストーリー)の流れをたどることに意味はなく、すべてはキャラクターの組みあわせからなるデータベースやゲームになっている。そういう議論が「サブカルチャーの世界は新しいんですね」といった風潮で、流行した平成前半の空気が、いまはなつかしく思い出されます。じっさい、オンラインゲームとタイアップした作品制作の手法が一般化すると、必要なのは無限に着せかえ可能なキャラクターの集合体であって、重たいストーリーの存在はかえってじゃまになりました。
いま私たちが目にしているのは、そういった変容がサブカル内の「架空世界」のみではなく、現実の歴史をも飲みこみつつある状況ではないでしょうか。文学史的には時系列��ら通っておらず、たんに作家名をキャラクターとして借りているだけのアニメが、その作家の記念館で企画展になる。おそらくはそういう仕事をしないと、政治家に「がん」呼ばわりされてしまうのでしょう。大変だな、と思います。
もうひとつの「歴史の終わり」へ
「歴史の終わり」といったとき、思想的にはことなる2つの意味があります。ひとつはヘーゲル的な終わりで、「もうこれ以上進歩しようのない、最終状態に人類が到達した(すくなくとも、なにが最終状態かは確定した)」という意味。そうした見方は平成の初頭、「冷戦の終焉(自由民主主義の勝利)が、その状態をもたらした」というかたちで流行しました。私が研究者として、何冊かの本で書いてきたのも、こちらの意味でした。
しかし、時代はそちらを通り越して、むしろニーチェ的な意味での歴史の終わり――「歴史的にものごとを語って、一本のすじを通そうとする試み自体に無理があるのであり、もはや有効ではない」という局面に達してしまった。そうして歴史(的なものの見方)が死滅したあとになにが残るのかは、「永劫回帰」といったぼんやりしたことばでしか説明されていませんが、案外それがいま、私たちの目の前にある光景かもしれません。
厳密には、ニーチェと歴史との関係は複雑で、自分を圧殺しようとするキリスト教のような「悪しきもの」の系譜をなぞるというかたちでなら、従来とは裏返した歴史を語れると考えていた節もあり、また既存の歴史像の虚飾をとりはらえば、歴史の真実がみいだせると言いたげなところもあります。ああ、その「日本版」なのだな、と納得できそうな、学者や論客の顔が目に浮かぶ方もいるかもしれません。
そういったかたちで、これからも散発的にわが国の過去をめぐって火花が散ることは、時としてあるでしょう。しかしながら長期的にみて、この国ではもはや歴史というものがゆるやかに壊死していくことは、避けられないように思います。
それが、私がこのサービスを閉じる理由です。いままで読んでくださった方々、また支えてくださったスタッフの方々に、厚く御礼申し上げます。
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xf-2 · 7 years ago
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麻薬の国際会議に乱入した北朝鮮の外交官が暴言を吐いた。日本社会を蝕む覚せい剤…密輸の黒幕には朝鮮学校の先生もいた。在日暴力団と連携する北の国家犯罪は、金正日を脅す時限爆弾になるのか。 3日付の産經新聞は1面で北朝鮮外交官による常軌を逸した行動を報じた。 11月中旬、バンコクで開かれていた麻薬取り締まりに関する国際会議に、北朝鮮の大使館員ら2人が乱入。会議場が騒然とする中、座席と発言権を要求、日本の出席者に向かって暴言を吐いたという。 「麻薬はわが国でも違法で、厳しく取り締まっている。日本こそしっかり取り締まったらどうか」 やることも言うことも、礼儀をわきまえていない。 この乱入劇は、会議3日目に警察庁の担当者が北朝鮮の薬物密輸を国家犯罪と見なし、勧告案の採択を求めたことに、北朝鮮側が強く反発したものだった。 イザ12/3「北の薬物、狭める包囲網」   北朝鮮当局者の抗議にも関わらず、勧告案は無事採択されたようだ。しかし、治安機関による国際会議の内容が短時間で北朝鮮側に漏れたことに驚かざるを得ない。謀略国家だけに情報収集能力と対応力は高いようだ。 北朝鮮の外交官のウソを信じる者はいないだろう。 違法薬物として取り締まる以前に、国営工場で堂々と製造している事実は、多くの脱北者などによって明らかにされている。 北朝鮮最大の輸出産品とまで言われているのが、覚せい剤&ヘロインだ。 販売実績として外交官が直接タッチしたケースだけでも何回か大きく報道されている。 98年  在メキシコ北朝鮮大使館員…コカイン35キロ密輸はかりモスクワ空港で逮捕 04年  ���ブルガリア北朝鮮大使館員…合成麻薬62万錠所持をトルコ当局が摘発 04年  エジプトで大量の薬物取引を企てた北朝鮮外交官を逮捕 恐らく国内法を厳格に適用すれば、死刑にも相当する重大犯罪もあるが、外交官は逮捕・拘束されても国外退去で済むケースが殆どだろう。 また、内容物のチェックがない外交郵袋を悪用して密輸する事例もあると見られている。 外交官の名を借りた麻薬密売人である。何度、摘発されても国連で問題視されないのは不思議だ。 個人の活動よりも犯罪性が高いのは、北朝鮮が国家ぐるみで麻薬の製造・販売から流通まで手に染めている事実だろう。 それがマフィア国家と呼ばれる所以である。 【“将軍直営”のドラッグ製造工場】 北朝鮮では古くから医療用に芥子(ヘロイン原料)が栽培されいたという。桔梗に似ていることから、白桔梗(ペクトラジ)と呼ばれている。 この植物の付加価値に目を付けたのが金正日とされる。 悪知恵が働くと言うより、根っからの暗黒な人格だ。 農場で栽培された芥子は、化学工場でモルヒネ→ヘロインと精製するごとに販売価格が跳ね上がる。 北朝鮮国内では、主に2つの工場の奥で密かに製造されていると見られている。 青津・羅南(ナナム)製薬工場 平安南道・順川(スンチョン)製薬工場 これらの工場は脱北者の証言などから浮かび上がったが、規模や製造能力など詳しくは判っていないようだ。それは、麻薬工場が金正日の秘密資金管理部「39号室」の直営であり、最高機密に属している為である。 ちなみに、90年代半ばの大水害で壊滅的な被害を受けた農作物とは、実は芥子だとも言���れている。利益率の高い換金作物は、麻薬原料となる植物だ。興味深いウワサである。 一方の覚せい剤工場は、中朝国境に近い、平安北道・朔州群にある「青水化学工場」だと指摘されている。この工場絡みの疑惑については、数年前に産經新聞が写真入りで大きく報じたこともあった。 昭和18年に日本が建築した工場を改修して使用しているものだが、規模は巨大だ。国境を挟んだ対岸からも、全景が見えるという。 日本の置き土産である大工場で造られた覚せい剤が、我が国を狙い打ちにし、国民を蝕んでいるのだ。 【朝鮮学校の麻薬先生】 今年3月に発表された米国務省の「国際麻薬統制戦略報告」では、北朝鮮について「外貨獲得を目的にし、政府が麻薬製造・取引を含む犯罪活動のスポンサーになっているようだ」と指摘。 同時に、過去数年間、日本で押収された覚せい剤の3~4割が北朝鮮製としている。 我が国で流通する覚せい剤の殆どが北朝鮮製とも想像できるが、実際はどうなのだろうか? 北朝鮮にとって最大のマーケットが日本であることはハッキリしてる。 他の国に比べ末端価格が異常に高く“旨味のある商売”ができるのだ。それ以外にも、在日暴力団を直属の配下にするなど、卸しの部分でも旨味があるのではないか… また、敵国である日本の社会を紊乱化し、人心を蝕むことも別の目的であると想定できる。間接的な侵略、あるいは、結晶によるテロ攻撃だ。 北朝鮮製覚せい剤の流入問題は、90年代末に発覚した「チ・ソン2号」事件が最初の事例である。 97年4月、宮崎県日向市の細島港に入港した北朝鮮籍の「チ・ソン2号」から覚せい剤入りのハチミツ缶が発見された。60キロ近い覚せい剤が中に隠されていたのだ。 この事件では、在日朝鮮人の貿易会社副社長と大阪の暴力団幹部らが逮捕されている。 次いで、翌98年には東シナ海の公海上で北朝鮮の漁船から、200キロの覚せい剤を受け取った暴力団組長らの密輸事件が発覚。 この事件は、洋上で受け渡しを行う“瀬取り”という手法を用いたもので、後の工作船事件につながっていく。 そして、2000年に摘発された事件は、意外な展開を辿ると共に、朝鮮学校の異常性を浮き彫りにするものだった。 2000年2月に島根県の温泉津港に停泊する漁船「栄福丸」から250キロもの大量の覚せい剤が発見された。「栄福丸」は北朝鮮領海まで入り込み、覚せい剤を受け取ったと断定されている。 そして在日朝鮮人の貿易会社「サンコーインターナショナル」が北朝鮮と暴力団を結ぶパイプとして浮かび上がった。この会社の銀行口座に事件前、多額のカネが振り込まれていたのだ。 直ぐに専務が逮捕されたが、黒幕は曹奎聖(チョ・ギュソン)という会社代表の男だった。 この曹奎聖の経歴は、なんと下関朝鮮初中級学校の元教師で、貿易会社を立ち上げる直前は、校長まで務めていた人物だった。 犯罪が発覚した時点では、教職を退いていたが、朝鮮学校の在任中に暴力団と関係を結び、ダミーの貿易会社を設立したもようだ。 校長と暴力団の深い関係は、朝鮮学校の異常な体質を簡潔に現すものではないか…つまり、カタギではないのだ。 各地の朝鮮学校は「民族差別だ」などを声高に叫んで“弱い立場”を主張しているが、周りの地域住民を強面で恫喝し、学校を隠れ蓑にして組織固めを行っていることは明らかだ。 警察権力から逃れる為にある朝鮮総連の聖域でもある。 自作自演の嘘を強弁する前に、このような重大犯罪者が校長を務めていた過去を反省せよ。 この曹奎聖は、2000年1月に北京に向け出国したまま、現在も足取りがつかめず、指名手配されている。北朝鮮国内に逃げたのは明らかだろう。 参考:山口県警Webサイト 「北朝鮮ルートによる覚せい剤密輸事件」 【覚せい剤ルートは時限爆弾になるか…】 小泉前首相は、中共に1億5000万円を支払って、奄美沖で自沈した工作船の引き揚げを行った。この工作船の目的は拉致ではなく、覚せい剤の瀬取り用だった。そして、海底に眠っていた工作船の中から、またとない証拠物が発見される。 プリペイド式の携帯電話だ。 工作船の引き揚げから4年… 今年5月に警視庁は覚せい剤取締法違反容疑で韓国籍の禹時允(ウー・シユン)と指定暴力団・極東会系組長の宮田克彦を逮捕した。 警察当局は、海底からサルベージしたプリペイド携帯の通話記録などを徹底的に調べ上げ、禹時允を割り出した。 02年に「ツルボン1号」が覚せい剤の瀬取りを行ったのを追跡して、逮捕に踏み切ったものである。その際には、充分な「泳がせ捜査」も行ったはずだ。わが国を浸食する北の覚せい剤ルートのかなりの部分を把握できたのではないか。 また、テレビ報道では伝えられなかったが、極東会はコリアンネームの会長が牛耳る在日暴力団の雄である。 北朝鮮の国家犯罪に絡む在日暴力団。 これは覚せい剤・北朝鮮ルート解明の鍵となるだろう。 果たして警察当局や麻薬Gメンは、どこまで全体像を把握し、容疑者や流通経路を掴んでいるのか? 今年5月の摘発から、新たな逮捕者は出ていない。 金正日を脅す時限爆弾を秘蔵しているのか、それとも全容解明に至っていないのか… このまま闇に埋もれさせてはならない。 覚せい剤ルートの解明は、北朝鮮の重大犯罪、在日暴力団の実像を暴くと同時に、日本の健全な社会を守る為にも急務だ。 悪の連携プレーを速やかに断ち切れ。         〆 参考:日本財団Webサイト 工作船の装備品 :別冊宝島Real『北朝鮮「対日潜入工作」』 ~宮塚利雄:「ヘロイン」「覚醒剤」製造工場の秘密を追う~
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