#従兄弟の家にお泊まり
Explore tagged Tumblr posts
Quote
服部吉次さん(俳優・音楽家/78歳) 今年3月に英公共放送BBCが報じたジャニーズ事務所の創業者・故ジャニー喜多川氏の性加害問題のドキュメンタリーを契機に、元ジャニーズJrでシンガー・ソングライターとして活動するカウアン・オカモト氏(27)が実名でジャニー氏を告発するなど、その衝撃は日本中に広がっている。今回、俳優で音楽家の服部吉次氏が小学生の時に受けたジャニー氏からの性被���を告白する。吉次氏は「別れのブルース」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」などの和製ポップスで知られる国民栄誉賞受賞作曲家・服部良一の次男。長兄は作曲家の故・服部克久だ。(独占インタビュー前後編の前編です) ◇ ◇ ◇ ──なぜ、今過去の性被害を公表する気になったのでしょうか。 「ひとつは、カウアン・オカモト氏ら実名で告発した方たちに対する敬意です。ジャニーの悪行にはかつて(2000年代に)司法の明確な裁きが下ったんです。にもかかわらず、それから30年経った今に至るも、主要なメディアはジャニーズ事務所の数々の非道の兆候を明確に指摘することをためらい、忖度し、温存する側に回ってしまった。 なぜか。この国ではむきだしの怒りを相手にぶつけることを避けてしまう。人々はこの世の歪みに気づかないふりをする。でも、少しずつではあるけれども、勇気ある告発は増え続け、海外からの声も追い風になり『おかしい』という声は大きくなってきた。それだけに行動する人に対するバッシングも大きくなる。今回こそ、真正面からその圧力と向き合おう、この機会を失うと、もう二度と発言の機会は失われてしまうかもしれない。そんなやむにやまれない思いで、今回の告白に踏み切りました」 ■父の米国巡業の縁で姉弟が服部家に ──被害にあったのはいつ頃でしょうか。 「まず、ジャニーと私の父・良一の出会いから話します。1950年に、父が歌手の笠置シヅ子さんと『ブギ海を渡る』を持ってアメリカ巡業ツアーをしたのです。8月11日にハワイ公演、9月1日から3日間はロサンゼルス公演でした。会場は高野山ホールという高野山真言宗の直営ホールで、当時の高野山真言宗米国別院の第3代主監が喜多川諦道氏。ジャニー喜多川の父です。 諦道氏は『ボーイスカウト第379隊』の結成に尽力したり、プロ野球球団『ゴールドスター』のマネジャーも務めていたという多芸多才な方だと、今回ネットで知りました。ロスの日系社会で声望が高かったそうです。息子のジャニーは当時19歳。姉のメリーと共にコンサート会場を駆け回り、大人顔負けの接待役を発揮し、父や笠置さん、服部富子(叔母で『満州娘』の大ヒットで知られる歌手)、スタッフたちのマスコット的存在だったそうです」 ──服部家とはその縁で? 「同じ年の6月に勃発した朝鮮戦争で、ジャニーはアメリカ国民として徴兵され、従軍するのですが、ある日、突然、彼が新宿区若松町の家にカーキ色の軍服姿で現れました。パパ(良一)と叔母は、それを見るなり『ヒーボー(ジャニー氏の本名・擴からこう呼んでいた)! ウワー、大きくなって』と歓声をあげて出迎えました。 それから、何回か若松町に遊びに来ました。今でも忘れられない光景があります。玄関にうずくまり、軍靴をゆっくりと編み上げている彼の姿です。家族はそれを囲んで一言も言わずじっと見つめていました。それから彼は立ち上がり、私たちに別れの挨拶をするでなく、『あー、行きたくないなー』と一言。 今思うと、2世差別の残る戦場へ向かう彼の姿を中国戦線での慰問経験をもつパパと叔母は、どんな思いで見ていたのだろうと思います。ジャニーは朝鮮戦争から帰還し、その翌年日本に戻り、除隊後には米大使館軍事顧問団に勤務したといいます。それで再び、服部家に出入りするようになったのです」 ──どんな印象でしたか? 「ジャニーはワシントンハイツ(代々木にあった進駐軍宿舎)に住んでいて、時々、お土産をもって服部家を訪ねてくるんです。ハーシーのチョコレートやハンバーガー、フライドポテト、アイスクリームなど。PX(基地内の売店)で手に入れたものでしょう。当時の日本は皆貧しいですからね、ハーシーのチョコなんて高根の花でした。うちは比較的裕福とはいっても、進駐軍の物資の豊かさは別世界です。 ある時、冷蔵庫が運ばれてきたのでびっくりしました。父が彼に頼んで買ったものでしょうけど、当時は氷を置いて冷やす簡易冷蔵庫しかない時代です。冷蔵庫・洗濯機・テレビが三種の神器と呼ばれて主婦が憧れたのは1960年代の初めですからね」 ──ジャニー氏の性癖を知ったのはいつですか? 「私は当時8歳。小学2年生ですから、チョコレートやお菓子を山のように持ってきてくれて、一緒に遊んでくれるヒーボー(ジャニー氏)は優しいお兄さんですし、大好きでした。ある日、いつものようにふらりとやってきて、確か“キャナスター”というトランプゲームなどで遊んでくれたヒーボーが、『もう遅くなったから今日は泊まっていこうかな』と言うんです。母も、『そうね、どうぞ泊まっていって』と言う。 ���ーボーが『どこに寝ればいいかな?』と聞くと、『よっちゃんの部屋がいいんじゃない』と母。『よっちゃん』というのは私の愛称です。 それでヒーボーが私の部屋に泊まることになりました。2階が子供部屋で4部屋あるうちの2つは兄と私、1つは姉3人が寝るようになっていて、一つは布団部屋みたいになっていたと思います。 パジャマに着替えた私が布団に入ると、彼が『肩揉んであげる』と言うんです。私も子供のくせに肩こり性なので、言う通りうつぶせになると、ヒーボーの手が虫みたいに体中をはいまわるので『なんか変だな』と思ったけど、私にとっては優しいお兄さんですからね。 そのうち、下半身をまさぐってきて、パンツをめくって股間のあたりに手を入れてくるんです。指でさすられているうちに生温かいものに包まれたと思った瞬間、今まで知らない突き抜けるような快感があって。それが初めての射精でした。何がなんだかわからず、びっくりしていると、今度は肛門をいじり始め、舌がはい回ってくる。そのうち舌とは違う硬いものが入ってくる感触がするけど、さすがに痛いので身をひねったら、諦めたようで、指で自分を慰めている。それを見て怖いというよりも、8歳だから何がなんだかわからない状態です」 ■姉からは「汚らわしい」と言われ… ──母親には話さなかった? 「その翌朝、起きたらすでにヒーボーの姿はない。何も知らない姉が笑顔で『どうだった? 昨夜は大好きなお兄ちゃんと一緒に寝て楽しかった?』と聞くので、『うん、ヒーボーは僕の体を揉んでくれるんだけど、だんだん、手がパンツの中に入ってきて、おちんちん触るんだよ。おちんちんって汚いよね。ぼく、なんだか気持ち悪くて……』と言ったら、姉が、『やめなさいよ、そんな話。汚らわしい』とすごい剣幕で言う。 姉がそんなに怒るのは昨夜のことはやっぱりいけないことだったんだと思って……母親に話すことはできないし、まして普段からあまり会話が少ない父親に話すなんて無理。そこで思考停止しちゃったんです。 ジャニーがしたことがオーラルセックスだというのは大人になってわかるんですが、変なことをされたという気持ちとそれを自分が受け入れた後ろめたさが子ども心にも複雑な心理状態になるんですね。 アイスやチョコをくれて、性的な快感を味わわせるということで、こちらに後ろめたさを持たせ、その一方で加害者としてその快楽を使った口封じをしているわけです。性に関する問題は『支配と奉仕』の二重構造があるのだと思います。でも、それで終わったわけではなかったんです」(後編につづく) ▽服部吉次(はっとり・よしつぐ) 本名・服部良次。1944年生まれ。父は作曲家・服部良一。劇団黒テント���創立メンバー。「翼を燃やす天使たちの舞踏」「上海バンスキング」「阿部定の犬」ほか多数の舞台に出演。妻は女優の石井くに子。次男はハンブルク・バレエ団で東洋人初のソリストで、バンクーバー五輪の開会式に出演したバレエダンサー・服部有吉。兄は作曲家・服部克久。甥は作曲家・服部隆之。隆之の娘はバイオリニストの服部百音。 (取材・文=山田勝仁)
(2ページ目)国民栄誉賞作曲家の次男がジャニー喜多川氏からの性被害を告白 「8歳の時に自宅部屋で…」|日刊ゲンダイDIGITAL
9 notes
·
View notes
Text
2023.10.30
日曜日は兄の結婚式でした。帰省してすぐつけたテレビで流れたのが「なぜ若い女性は此処(地元)を出ていくのか?」というローカル番組の特集CMだったので少し気まずい、私ひとりしか見てなかったけど気まずい。そんな地元で一番身近な家族が、若くて美しいカップルが挙式をあげるのだからそんな捨てたもんじゃないと思うけどなぁとか思いつつ、じゃああんたは地元に戻る気あるの?と聞かれると素直に頷けはしない。結婚式仕様に付けたネイルチップが長くて文字が打ちづらい。相変わらず地元に帰ると相反する感情にのまれてどうしようもなくなるけれど、それでも結婚式はすごくよかった。昔、従兄弟が妹の結婚式で「やっぱり兄妹のは堪えるわ」と言っていたのを思い出した。あっという間に終わったし、お相手の親族に外国の方がいるから急遽父親のスピーチを英訳するっていう父からの無茶振りがあったせいで若干ナーバスだったけれど、それを含めてやってよかったし、参加して良かったなぁと思う時間でした。
新婦さんは本当に素敵な人で、ご家族も素敵で、絵に描いたよう��仲良し親子っていう感じでそれは素直にすごく羨ましいなと思った。私は末っ子で自由にやらせてもらってるから結婚とか式をあげるとか家を買うとか地元に帰るとか、そういう少し煩わしい問題から都合よく目を逸らしてるけどやっぱり年齢も年齢だし人の結婚式を見るとそういうの考えちゃう。結婚式って日常に鋏を入れてくれるような素敵時間であるのは間違いなくそう���うけれど、友達の前で両親への感謝を伝えるとか死ぬほど恥ずかしくて誰もそんなの見たくないんじゃないかとか考えなくていいことまで考えて1人で疲弊してる。今の恋人はそろそろ社宅の更新が迫っていて新しい物件を探している、そのタイミングで自分の年齢なら「同棲しない?」とか話に上がってもいいはずなんだろうけど私はそういうところからずっと目を逸らしてるなぁとか思う。一緒に住みたいと思ったことはなくはないし、平日だって仕事の合間を縫ってお互いの家を行き来して泊まったりしてるし、一緒に住めたら楽なんだろうな〜と思うけど、相手もその話題は出さないし、まあいいかなと思って何も触れないでいる。ご祝儀の準備をしてたら親から「あんたのときに帰ってくるもんね」と言われて何とも言えない気持ちになった。親は私がいつか結婚すると思ってるし、挙式もあげると思ってる、それは特別な期待とかではなくごく当たり前の感覚としてそう言ってるところまで、わかる。私には心から大好きな人がいて、その人とずっと一緒にいたいと思っている、けれど、まだ結婚したくない、と思っているのもたしかなのだ。結婚したら自由がなくなるっていうのは私の考えすぎ?なのだと思うけれど、こういうことを考えるたびに、私にはまだ見たい景色がたくさんあるのだと痛いほどに実感する、そしてそれが痛く感じるのは、かつての自分のように今の私がひたすら若い自分じゃなくなったからなのだともわかる、健康で自由に行動できるエネルギーがある時間は、意外と限られているのかもしれないなんてずっと昔から気がついていた、憧れを潰さなければ永遠にタンブラーへ思いを綴る大人になっちゃう。なんて、書きながらそれを認めた東京行きの新幹線。内側で煮えたぎる思いがあるくせに、帰省のたびに家族との別れでいちいち泣きそうになる自分がバカみたいだった。そんな自分がいちばんありのままの私なんだと知っているから、余計にバカらしくなる。セブンイレブンで無糖レモンサワーを買った、一息ついてすべてを飲み込みたかった。
4 notes
·
View notes
Text
"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ ��� ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母��健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃���牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
201K notes
·
View notes
Text
備忘004
久しぶりに自分の時間をとれた
内田樹のブログのメモ
"「誰に食わせてもらっているんだ」というのは親が絶対に言っちゃいけないやつ"という内田先生の言で、ちょっと不安になる。これは何回か言われてきていたし、自分のなかにも内在化している部分が強いという自覚ができてきた。やっぱり、損をしたくない、食い物にされたくない、という意識が、「誰に食わせてもらっているんだ」には��れていると思う。ここはカウンセリングでなんとかしたい。
内田:いま永井くんが「教育」と言っているのは「学校」を想定していると思うんだけど、僕は人の生き方は学校では教えられないと思う。人権教育は学校で教えてくれと思っている親がいるかも知れませんけれど、それは無理筋だと思う。「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。 前に、元SEALDsの奥田愛基くんに会って話した時に、半分ぐら���がお父さんの話だった。彼のお父さんは奥田知志さんという牧師で、長くホームレス支援をしてきた人なんです。父親が家の中に知らないおじさんを連れてきて、「この人、あそこの公園にいたホームレスの人だけれど、今日からうちに泊まるから」というようなのが日常という家で彼は育った。だから、困っている人を支援するのが当たり前で、それをするために何らかの理論的な基礎づけや、イデオロギーを動員する必要がない。永井くんも家風の成果なんじゃないですか? 永井:家風ですか...。いや、私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。 内田:全然、人権派じゃないね(笑)。 永井:父親が単身赴任先から帰ってきたら母親があることないこと全部盛って言って、そのレポートをもとに父親が怒るわけです。もちろん私もそれに対して反抗します。「こういう大人になったら終わりだな」と思って、まあ反面教師ですよね。「誰の金で飯食ってるんだ!」とか言われ続けてましたし。もちろん私も問題児では確実にありましたけど。 内田:「誰に食わせてもらっているんだ」というのは親が絶対に言っちゃいけないやつですね。僕自身はほとんど親と喧嘩したことがないんです。なんだかこの人たちと考え方、生き方が違うかも知れないと感じたところで早々と家を出てしまったので。相手を説得できるとも思わなかったし、説得されるとも思わなかった。だから、ぶつかって、傷つけ合っても仕方がないから、すっと離れた。 倫理を身に着けるとしたら、実際に、その規範に従って自然に生きている人を見て、その謦咳に接するということを通じてしかないのかも知れないですね。 今度、学校教育で「道徳」が教科化されましたけど、教える先生自身が道徳的な人であって、その立ち居ふるまいから「人のあるべき姿」が滲み出て来るというのであれば、道徳教育も成り立つでしょうけれど、教える先生自身が特段道徳的な人ではないという場合には、教科書を使って道徳を教えることは不可能でしょう。
合意形成とはなにか。それは全員が損をする、不満が残るという一致点を見つけることである。
”優劣を問うても仕方ないんですよ。現に意見が対立している以上は、そこにはそういう意見を持つに至った個人の歴史があり、そこに至る切ない事情がある���けです。それはある程度認めざるを得ない。みんながお互いの抜き差しならない事情を認め合うことでしか調停というものはできない。”
たしかにそうだ。そして講談っぽさもある。
内田:それができたら人類は完成の域に達しますよね。なかなかそこまですぐにはいかないと思います。ただ、「合意形成はできた方がいい」ということについての合意形成は取れたほうがいい。対話できないよりは対話できたほうがいい。 それぞれに立場があるけれど、合意したり対話したりするためには、いったん自分の立場を離れてみる。「集団全体としては何が一番いいのか」ということに関して、みんなで知恵を出し合う。そういう合意形成の訓練はもっと小さい頃からした方がいいと思います。 勘違いしている人が多いんですけど、合意形成って「誰かが正しい意見を言って、周りの人間を説得してその意見に従わせる」というものではないんです。そうではなく、「みんなが同じくらいに不満足な解を出す」ってことなんです。全員が同程度に不満というのが「落としどころ」なんです。それを勘違いして、合意形成というのを「全員の意見が一致すること」だと思っている。「Win-Win」なんて無理なんですよ。そんな奇跡的な解はふつうはまずありません。合意形成でとりあえず目指すのは「みんなの不満の度合いを揃える」ということなんです。誰かが正解を述べているので、説得するなり、多数決で抑え込むなりして、その正解に従わせるということではない。そうじゃなくて、全員が「俺の言ってることも変だけど、みんなも変」というところから出発して、誰かが際立って損をするようなことがない解を探り当てる。それが合意形成なんですね。 法社会学者の川島武宜が『日本人の法意識』という面白い本を書いているんですけど、そこで日本の伝統的な合意形成の方法の一つが紹介されています。歌舞伎に『三人吉三廓初買』という演目があります。お嬢吉三という悪者が夜鷹を殺して百両を手に入れる。それを見ていたお坊吉三という悪者が「それをよこせ」と言ってワルモノ同士の殺し合いが始まる。そこに和尚吉三が仲裁に入る。この時にどうやってトラブルを収めるかというと、「百両を二つに割って五十両ずつ納めてくれ。それでは足りないだろうから、その代わり俺の両腕を切って、一本ずつ受け取り、それで気持ちを鎮めてくれないか」と言うわけです。この提案に感動して、三人は義兄弟の契りを結ぶ、という話です。 こういう話って、昔からあるんです。合意形成に持ち込むためには、全員が同じ程度に不満足である解を見つけなければならない。そして、合意とりまとめを主導する人間には一番たくさん「持ち出し」をする覚悟が要る。『三方一両損』で大岡越前が出す一両も、『三人吉三』で和尚吉三が出す両腕も、本来ならば彼らにはそんなものを出す義理はないんです。でも、それを「持ち出す」覚悟を示す���とで合意形成を主導できる。そういうものなんです。 現代人はそういった合意形成の要諦をもう忘れていて、「一番正しい意見にみんな従うべきだ」と思っている。合意形成は「Lose-Lose-Lose」の「三方一両損」なんです。だから、「しようがねえなあ。じゃあ、これで手を打つか」という舌打ちとともに終われば上等で、最後にみんなで万歳というようなことは期待しちゃいけない。 永井:とても納得できます。意見の優劣を競うというわけではないわけですね。それどころかプラスを消してマイナスを平等にするという。 内田:優劣を問うても仕方ないんですよ。現に意見が対立している以上は、そこにはそういう意見を持つに至った個人の歴史があり、そこに至る切ない事情があるわけです。それはある程度認めざるを得ない。みんながお互いの抜き差しならない事情を認め合うことでしか調停というものはできない。永井くんも紛争調停の仕事をしているわけですから、そのあたりのことは経験的にわかると思います。
ああ、内田樹先生はやさしい、と思うような一言で〆られている。
内田:長く仕事を続けたいと思ったら、呼吸をするようにできる仕事をすることです。自分の能力をはるかに超えたような目標は掲げない。三度のご飯を食べて、お風呂に入って、8時間眠って、家族を持って、生計を立てて、時々は息抜きをして遊んで...ということをしながらでも十分にできる仕事をする。毎日こつこつと継続できる仕事がいつの間にか最も遠くまで僕たちをつれていってくれるんです。
0 notes
Text
福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです
①コリント9・16-19、22b-27
福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです
使徒パウロのコリントの教会への手紙
皆さん、9・16わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。17自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。18では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
19わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。22bすべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。23福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
24あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。25競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。26だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。27むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
答唱詩編
詩編84・2+3、11cd+12
しあわせな人、神をおそれ、主の道を歩む者。
詩編84
84・2すべてを治められる神よ、 あなたの住まいは麗しい。 3わたしの魂は主の庭を慕い、 心とからだは生ける神にあこがれる。
11cdよこしまな人の幕屋に���まるより、 わたしは神の家の戸口に立とう。 12主は光と恵みを豊かに注ぎ、 とがなく歩む者にしあわせを拒まれない。
福音朗読
ルカ6・39-42
アレルヤ、アレルヤ。主よ、あなたのことばは真理。わたしたちを真理のうちに聖なる者にしてください。アレルヤ、アレルヤ。
ルカによる福音
そのとき、イエスは弟子たちに6・39たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
0 notes
Text

8/29 その2
すっかり書き終えた気でいたけど、8月のことを思い返してみる。
まず、じいじが亡くなったこと。
9日、ママがわざわざ遠いところ来てくれた。最近じいじの調子が急降下したって聞いてたから心配してた。8月この日しかママと私の休みが合わないしってことで来てくれた。会った時にも詳しく調子を教えてくれて、車も前の日に買ったらしく(送迎の車が欲しいってなって即購入したらしい。すごい。)これから忙しくなるね、ママも無理しないでね。って話してた。私はママと少しでも長くいたいから引き止めちゃって、16時30分くらいに解散した。
その日の夜、神奈川の松田のほうで大きい地震があって(しかもこっちは全然揺れなかったし、テレビもつけてなかったからアーティストがインスタのストーリーで投稿してるのを見て知った)大丈夫かな。って心配だった。世間がお盆休みに入る金曜日の夜に小田急全線止まっちゃって気の毒だね...。とか話してた。
ママに���ったラインに全然既読が付かなくて、心配になって電話した。私が、地震大丈夫だった?って聞いたのかな「じいじね、亡くなっちゃったんだ。」ママからそう言われて心の準備のできていなさと、混乱と、罪悪感が一気に駆け巡って、私は泣いてた。
ママは帰り、早速渋滞に巻き込まれていたらしい。
ママの妹が元々今日の夜来てくれる予定だったらしく、妹が家に着いたらピーピーって何かが鳴ってたらしい。何だろうと思って音のほうに行ったら、じいじが台所で倒れていたらしい。ブザーの正体は冷蔵庫で床にビールが転がっていたらしい。とにかく110番して心臓マッサージをしてたら少し息があったらしい。(110番も119番も押したから家の前いっぱい来てプチ渋滞になってたらしい。)
どうやら息がなかったら警察の霊安室に運ばれるらしいんだけど、病院に搬送されることになって、ママはその連絡を聞いてそのまま病院で妹と合流したらしい。今思うと、少し息があったのはママの到着を待つためだったのかもね。って言われてる。じいじも誰にも見られずひとりで逝きたかったから、ママを私のところに行かせたんだよ、その日の朝にママの手作り料理も食べたし、前日かその前の日には直々にありがとうって伝えてくれたらしいし、介護施設にはいきたくなかったらしいし、タイミングだったんだよって。
私たちは10.11で仕事して11の夜から相手の実家の大阪に帰省する予定だった。けど忌引の意味も知らなかったけど、とにかくママのそばに行かなきゃいけないって思って、店長に連絡して二日間ともお休みにして翌日、神奈川に帰った。(その日の夜すぐ帰りたかったけど、大阪分含めた荷物の準備をまだ何もしていなかったのと、涙が止まらなくて心も疲れてしまったのと、オリンピックのブレイキンに見入ってしまって気づいたら深夜になってしまっていたから、早朝に出ようと決定した。)
ママの好きなフランセのレモンケーキを買って帰った。
ママもママの妹もいて、二人とも疲れた顔してた。
ママの妹が帰ってから(いつも静かだったけど)静かな家で夜を過ごした。今日は特段静かだった。
涙が出そうになったけど、一番つらいのは子供たちであるこの人達だなって思って我慢した。けど涙は隙間から出てきた。
大阪にも行った。実家に帰ってきた日の夜に大阪へ出発する予定で、ママが心配だったけどお兄ちゃんが泊りに来てくれた。(11の夜)
因みに弟は14の夜泊りに来てくれるらしい。こどもたちもママのことを支えたくて必死。来てって言ってないのに来てくれるのラブだね。
大阪は無事朝4時くらいに着いてそのまま寝て、7時くらいに甥っ子に起こされて大阪1日目が始まった。
大阪散歩、楽しかった。プールはしんどかったけど、まあ楽しかった。(水着持ってくればよかった)
甥っ子と少し話せるようになって嬉しい。かわいい。今後の成長が楽しみ。2日目は朝��ら淡路島へ行ってみた。兵庫県の高速ずっと混んでて嫌だったけど、淡路島の国立公園はとても整備されていて、広くて楽しかった。暑すぎた。もっと冬に行きたいなって思った。蝉が怖くて悲鳴を上げながら木の下を駆けた。
ロイホの店員さんの動きの無駄のなさと、ホスピタリティの高さとカレーのおいしさに感動しまくり。
3日目は、ささっとお土産買って14時くらいに大阪出たのかな。
22時くらいに家着いた。長旅!!!でも運転楽しいね。
お葬式終わって疲れ果ててハングリータイガーいったけど疲れすぎて、ハングリーすぎて、料理でてくるの遅すぎて、みんな最終的に無言だった。従妹がギャルになってた。
帰ってひと眠りして、相手を拾って弟送って帰った。
ここから、夏休み第二章が始まる。
翌日、出勤したけど節々が痛くて立ってるのも辛くなってしまって、早退した。しかもタクシーで勝どきに向かって昨日送り届けた弟の家で休ませてもらうことになった。1時間くらい寝てたらママが来てくれて家まで送ってくれることになった。みんな、昨日ぶりって感じ。
コロナだった。初!高熱出たし、のどは痛いし、味わからなくなっちゃうし、しんどいねえ。一応5日休んだけど、まだふらつくからもう一日休みたいって思って「明日出勤します。」ってラインを一回消して(未読だった。)「明日もお休みいただきたいです。」と送信しなおしたらチクリと言われた。もう本当にうまくやれないなあ。
そんなこんなで今。今日はライブだ!!!!
0 notes
Text
おそらく、ほぼ確実に、
自分の希死念慮は、おばあちゃんから吹き込まれたものだと思う。
まず初めに、三世代で車移動しているときに、車から頭を出して風を浴びようとした。車酔いがひどいので、外気が欲しかった。そこから、「子供が窓から頭出してたらすれ違ったトラックに頭だけ持って行かれた話聞いたことあるからやめとき」と言い、車の窓を開けるたびにその話が繰り返される。風が欲しいだけで頭なんて出そうとしたのは一回だけで、そのあとは後部座席の真ん中に座らされる。窓を開けるたび、同じ話になる。父は、「俺も聞いたことあるけど、車から腕出して走ってた人が腕跳んだりしたとかな」と。父、加勢するなよ。
次に、赤子が生まれたとか親族関係の遠い人に二人目の子供が生まれた話になると、「聞いたことあるけどな、まだものがわからん子とその下の子がお盆に帰ってきてな、大人で盛り上がってるところに、赤ん坊の泣き声がうるさいなあと誰かが言うたんやと。そしたら、その子がふっと赤ん坊の方に行って、ぴたりと泣き声が止んだ。嬉しげにしてるその子と、心停止している赤ん坊が見つかったんやと。子供やからな、声を出さないためには口塞がんと、と思ったから息ができんようにしたらしい」と聞いた。まだ幼かった自分は恐ろしいと思った。
今度は、墓参りのたびに、苔が生えるほど古いのに立派な墓を指差して、「この人はな、頭が良くて今で言う京都大学に行ったけど、途中で結核で死んでしまったんよ。そしたら、同級生がこのお墓の横にな、漢詩で書いてくれた。私は読めんけど」と言い、その漢詩の解読は彼女にとって孫である私と従姉妹に振ってかかり、従姉妹はそれをなんとか判読して、国語の先生に渡したらしい。先生曰く、「私には、素晴らしい友愛として読める」と言われたらしい。「どう思う?」と、漢文なんてまだ書き下す法則しかわからない自分に回ってきた。知るかよ。
さらには、ひいおばあちゃんの死に際について、おばあちゃんから聞かされたが、Ver.3まである。しかし一貫しているのは、「栄養摂取の拒否」で、それだけが共通している。無理にでも食べさせんと行かんのではないか?
華厳の滝がニュースに映る。その度に、「身投げした子がいたよな」と言い、この話は自分が、「人生不可解のね」で締めないと終わらない。だからお盆に帰るのが嫌だ。去年は帰らなかった。今年はどうだろう?
「考古学者になりたいと思い続けてな」と言った。ピラミッドを調べたいと。墓荒らしである。「法医学者になりたかった」と。合法だが、あまりよろしくない。法医学者は、本当の正義感に突き動かされなければいけないが、彼女には向いていないと思った。
墓をセメントで蓋する提案があったが、それは良くないと父もおじいちゃんも反対していたが、独断で勝手に蓋した。
で、いよいよおじいちゃんが老衰で入院していて、その面会に行って帰るたびに、「もうな、あんなに"かわいそう”なら、いっそ連れて帰って心中でもしようかと」と、わざわざ従兄弟が結婚予定だ、という報告をしてきたその座卓の場所で言う。「物の言い方に気をつけろ」で父とおばあちゃんに育てられてきた己は、諦めた。叔母は(〇〇ちゃんと呼ぶぐらいには叔母である感覚はないが)その発言を聞いてから、祖母に対する目つきが呆れ返っていた。父は父で、自分の話しかしない。家族全員、うどんの話ばっかり。ついていけない話の緩衝材に、「本当にうどんの話ばっかり!」と投げ入れて笑わせた。「実は私、こちらに旅行したことがあって、その時は骨付鳥を食べたんです」そこからメインどころの骨付鳥の店を列挙していくが、いちいち自分が解説しないと店がわからない。「でも最近ラーメンもちょっとずつ盛り上がってて、いりこラーメンが来てるんですよ」と話した。前情報で海沿いの人だとは聞いていたので、おそらく魚介の話をすればなんとなく繋がるだろうな、と思って話したところ、「うちはどこそこで、海のもの美味しいんですけど、瀬戸内海はまた違いますよね」「よく言うんですけど、なんちゃって地中海気候なんですよ。オリーブとかレモンとか」そして美術館や文化、電車の話をして、共通項が見つかった。最初は己も母も同席しない予定だったが、従姉妹の結婚報告に立ち会ったのに従兄弟の報告に立ち会わないのは筋が通らないだろう、と無理やり母も呼んだ。最適解だったが、あの席で一番脳みそを使ったのは自分だと思う。父と従兄弟��叔母が、完全に自分の目を見ながら話をしていて、「あー、これ完全に役割もらってるな」と内心思った。し、実際もらっていたらしい。あとから母に聞くに、「あんたの発言で全部話題がお相手にシフトしたり、止すべき話題が止まったり、よくやったと思う」と。昔からこうだった。あるときから混沌だった。今回は役割を果たした。すると従兄弟は、「式は何日にどこでやるので、何卒よろしくお願いします」と、父ではなく完全に自分の目を見て言った。誠意があった。墓を見てから帰るとのことで、車で大回りして宿泊場所に帰るらしい。タイミングとルートとして、この道をこう通るだろう、と予測して、やってきたのと同じような車が通ったので手を振った。助手席の人が思いっきり手を振ってくれて、ああ、この振り方は叔母だ、と記憶の中にある映像を思い出す。
ここまでに二回、「あんたなんか病気か?痩せすぎやろ」と祖母に聞かれていて、もうすでにイライラしまくりだったが、別れ際にもう一回、同じ質問をされた。本気でイラついたので、「大丈夫だからもう聞かんとってくれんか」と靴で地面を蹴りながら話したところ、返す刀で、「まあ、前がぽっちゃりしすぎとったからな。あれもあれでどうかと思うけど」とのこと。死ぬほど食わされて胃が膨れたら、「お腹出たな!運動せんとな!」と抜かしていた今と同じ体型の自分に欠ける言葉とは思えない。死ぬほど食わされると言って、たとえばすき焼きで肉1kgに野菜たっぷりを3分の2程度食わないと「これじゃ締めができないじゃない」と残りを食わされる。で、そのあとに締めのうどんになるが、これがまた、たった五人なのに普通に8玉とか買って、それに一応付き合うだけの両親と、ほとんどすき焼きそのものを食べない祖母と、すき焼きを食らい尽くした己が祖母が食べたそうにしながら誰も食べないのだったら食べない、といったうどんを、「じゃあ食べようか」と優しさで付き合うんだが、食後には大量の水を飲み口の中の砂糖と醤油っけを洗い、吐いたらまた叱られるので大人しくしながら胃から下に落ちるのを待つ。そんだけ食わせて、「腹出たな!」もおかしければ、痩せりゃ痩せたで詰問。ダブルバインド。無理。あのババアにはもう会わない。じいちゃんには会いたい。従兄弟の結婚式は行きたい。従姉妹の子供も見たい。弟はいずれ。
偏食ではなく、悪食でもなく、家族が残したメシを食う。食えるだけありがたいが、量が虐待(物心ついてからずっと)で、箸の持ち方がおかしければ注意され、一方父親も祖母も箸の持ち方がおかしく、すき焼きで最悪の音声の啜りぐいをする。テレビはつけっぱなしなんだが、ポジショニングが父の向こうにテレビがあるから見えない、なのに音声だけで己がテレビが今何を放送していてどういう経緯でこの顛末に至っているのか解説せに��ならん。鍋の肉はどしどしこちらに応募される。鍋の肉の管理は己の管轄だ。野菜を次々に投入するのはいいとして、煮えてるゾーンを寄せてから煮えてないゾーンを作らないので、肉が下に行く。たまたま掘り起こした肉をこちらによこす。無理〜〜。
寿司だったら例えば四人前のパック寿司に助六と稲荷とetc.が追加され、結果七人前になり、そのうち四人前食べないと納得されないが、彼らの好きそうな寿司を率先して食べると、「食べたかったのに」と怒られる。イカ、サーモン、鉄火巻き。見た感じ大トロや鯛、ハマチがあるのに、食べてるネタは悲しい。イカとサーモンはものすごく嫌いなんだが、食べられないわけではないので食べる。いくら軍艦も嫌いだが、これは誰かが率先して食べる。さすがっすね。助六と稲荷はもちろん食べたがる人は少ないので、結果的に残り物になろうとしているものを、「もったいないから食べりなよ」とか「若いんやから食べれるやろ」とかで、まあ食べれちゃうんだが、食べられることと食べたいかは別である。正直苦役だ。
という希死念慮から歪んだあの食卓について話したところ、お医者さんは、「呪縛やね」と言っていた。医学用語で呪縛と調べると、実際に存在した。しかしまあ、精神医学の診断はほとんど占いに近い。
そうなんすよ。よく生きてたよ、己。死にたくないよ俺は。こんだけ食わされても痩せ型というかカリカリというか、内臓の力よ。一時期の軽い肥満の原因は概ね把握した。次はどうしよう。
0 notes
Text



太鼓腹のおやじ
Sunday 30 March 2014
真観は、車で禅寺に行った。雨が強かったからだ。週末なので3炷坐禅を組んだが3炷目は早く終わった。今日は坐禅中少し頭痛があった。昨夜のiPhone、iPadの電磁波じゃないかと思う。まだ寝床で使う癖が抜け切っていない。分っていながらやってしまう。反省する真観。
真観は午後母に電話した。「母の日」は昨日だったが真観は電話するのを忘れてしまった。母は元気だった。つい先日話したばかりなので特に話すこともなかったが母は東京の叔母の話をしてくれた。東京の叔母は母よりも9歳年上で今年88歳。足が悪い不自由はあるが元気だ。東京で1人暮らし。週末には息子さん(真観の従兄弟)の1人が様子を伺いに来る。週3日のデイサービス。お金の心配はない。まあこのことは真観も知っているが今日の話題は最近その叔母から母に電話があり約1時間話したことだ。叔母はあまり自分から電話をしない人。真観のiPhoneの電話番号と母が住む実家の電話番号は24時間無料登録をしてあるので毎回料金に対して気兼ねなく電話で話せる訳だが実家の電話機のナンバーディスプレイには真観の電話番号は非表示なってしまうという。そして叔母の電話も非表示という。ということは同じ電話会社のなのか?料金は無料なのか?というのが母の疑問だ。しかし叔母にそのことを尋ねても息子さんにそういったことは任せている様で叔母本人としてはどうでもよさそうなことであしらわれてしまう。でもまあ、同じ電話会社なら遠慮なく電話し合うのもいいとは思うが・・・。真観今日は母と約50分話をした。
真観は忘れていたが昨日は、亡くなった父の誕生日だった。 真観の昔の彼女の誕生日が一緒でその彼女とはFacebookで繋がっているからFacebookを見れば自動的に誕生日を知らせてくれる。真観は、彼女にはバースデーメッセージを送った。どちらにしても忘れるくらい意識が薄いということになる。(命日は忘れない)
実家の安城と茶畑庵の裾野、どちらも今日の天気は同じ様で激しい雨に嵐、そして夕方には空は明るくなり夜になると雨は完全に止んだ。
9時過ぎに茶畑温泉へ行く。サウナで太鼓腹のおやじに話しかけられた真観。話題は、この近辺のどこの温泉がどうのこうのなんて話。このおやじは恐らく真観の年下。今夜は高校生の団体が宿泊していて温泉も賑やかだった。そのオヤジは、高校生たちにも臆することなく話かけていた。あの屈託がい気軽さに真観は今日1日の最後に学びを得たと思った。ありがとうございました。
0 notes
Text
天よ、義を滴らせよ
そして人々は、 東から西から、また北から南から来て、 神の国で宴会の席に着��。ルカ13:29
(1/21の週の聖句)
天よ、上から水を滴らせよ。 雲よ、義を降らせよ。 地よ、開いて、救いを実らせよ。 正義を共に芽生えさせよ。 わたしは主、 わたしがこれを創造した。イザヤ書45:8
しかし、私たちは、 神の約束に従って、 義の宿る新しい天と新しい地を 待ち望んでいます。Ⅱペトロ3:13
使徒16: 9~15 Ⅰテモテ4:1~11(通読箇所)
(ローズンゲン『日々の聖句』1/22;月)
―――― α&ω ――――
聖書を通しご自身を啓示している神、 天の神、【主】、 「『わたしはある(I am)』という者」と 名乗られる方(出エジプト3:14)は、 すべての人がご自分の子、家族となって、 思いを一つにし合う関係になることを願っておられる方。
世界の隅々にまで、 この、イエスによる良い知らせを伝えて、 すべての人がこの恵みを受け取ってほしいと 思っておられるのだそうです。
それで神の国では、このプレゼントを受け取った人々、
すべての国民、部族、民族、言語の人たちが 宴会の席に着くことになるのだそうです。
私たちすべての人間の身代わりとなり、 私たちすべての人間の、 神の創造の目的からの「的外れ」の責任を 御自身の身に背負って、神に呪われた者となって 十字架刑での処刑を受けるために、 天の神の子の栄光の座を捨てて 人となってくださったイエス。 死んで墓に納められ、 三日目、死人の中からの新しいからだへの復活、 そして弟子たちに何度も現れ、神の国のことを語った後、 弟子たちの見守る中、オリーブ山から 天にある神の子の座に復帰されたイエス。
そのイエスを通して来てくださる 【聖である霊】と呼ばれる方は、 約束のとおりに私たちの心に 【父である神】の御思いを置き、書き記してくださって、 私たちのうちに【父である神】の御思いがあるようにし、 私たちが【父である神】と思いを一つにしながら��きるように してくださるのですから。
天が上から水を滴らせて、地から植物を芽生えさせ、 実を実らせるように、 私たちを神の創造の目的のとおりに(創世記1:26)、 神と思いを一つにしながら生きる 義なる正しい関係に生きさせて。 神の約束のとおりに義の宿る新しい天と新しい地の実現を 待ち望む希望のある生き方の中へと。
このイエスによって来られる 【聖である霊】と呼ばれる方による新しい生き方を 伝えていたパウロが 小アジア(トルコ地方)の西の端、 トロアスまで来たときのことをルカは「使徒の働き」で 次のように記しています。
その夜、パウロは幻を見た。 一人のマケドニア人が立って、 「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と 懇願するので��った。 パウロがこの幻を見たとき、 私たち(ルカとパウロ一行)は ただちにマケドニアに渡ることにした。 彼らに福音を宣べ伝えるために、 神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。
私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直行し、 翌日ネアポリスについた。
そこからピリピに行った。 この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、 (ローマの)植民都市であった。 私たちはこの町に数日滞在した。
そして安息日に、 (この町にはユダヤ人の会堂がなかったので) 私たちは町の門を出て、 祈り場があると思われた川岸に行き、 そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。 リディアという名の女の人が聞いていた。 チィアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。 神である主は彼女の心を開いて、 パウロの語ることに心を留めるようにされた。 そして、 彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、 彼女は「私が主(イエス)を信じる者だとお思いでしたら、 私の家に来てお泊りください」と懇願し、 無理やり私たちをそうさせた。(使徒16:9~15)
こうして、ピリピに教会が誕生したのですね。
パウロは弟子のテモテに書き送っています。
しかし、御霊が明らかに言われるように、 後の時代になると、 ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、 信仰から離れるようになります。 それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの 偽善によるものです。 彼らは結婚することを禁じたり、 食物を断つことを命じたりします。 しかし食物は、信仰があり(神との信頼関係の中で生き)、 真理を知っている人々が感謝して受けるように、 神が造られたものです。
神が造られたものはすべて良いもので、 感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。 神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。
これらのことを兄弟たちに教えるなら、 あなたは、信仰のことばと、 自分が従って来た良い教えのことばで養われて、 キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。
俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。 むしろ、敬虔(けいけん)のために自分自身を鍛錬しなさい。 肉体の鍛錬も少しは有益ですが、 今のいのちと来るべきいのちを約束する敬虔は、 すべてに有益です。 このことばは真実であり、 そのまま受け入れるに値するものです。
私たちが労苦し、苦闘しているのは、 すべての人々、特に信じる人々の救い主である 生ける神に、望みを置いているからです。
あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。(Ⅰテモテ4:1~11)
私たちも、 この伝えられたイエスに関する良い知らせを受け取り、 数えきれない多くの方々と共に 神の国での宴会の席につく その日を目指して生きたいものです。
天から滴って来る神の義、 イエスを通して来てくださる【聖である霊】と呼ばれる方が 心に置いてくださる【父である神】の御思いに ついて行きながら。
今日も。
~~~~~~~~~~~~~~
(聖書のことばへの疑問やご意見、 近くの教会を知りたい等の方、 また、婚活で広く出会いを求めたい 教会に行っていないけれど 葬儀をキリスト教でしたい、等の方、 お問い合わせは、 [email protected]へどうぞ。)
〈復活社 http://www.sougi8849.jp/index.html 〉
(株)ブレス・ ユア・ ホーム https://christ-sougi.com/所属〉)
〈日本仲人協会 https://www.omiaink.com/ 認定
〈クリスチャンの結婚相談所
[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]
[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ
0 notes
Photo

いつも「折らないで広げてくださーい」って言われるけどすぐ折っちゃう😋 今回は速攻で帰りますー12時間滞在🙌 #広島行ってきます #springjapan #成田空港 #ターミナル3 #春秋航空日本 #LCC #本当は沖縄に行きたい #なぜ広島 #呉へプチ旅 #従兄弟の家にお泊まり
1 note
·
View note
Text
旧東隊の小説(二次創作)
ホッケえいひれ揚げ出し豆腐
一月か二月の頃だった。
トリオン測定ですごい数値を叩き出した新人が二人も入るそうだというのが、その夜の話題だった。出水公平と天羽月彦のことだ。
新生ボーダーが動き出して一年半になる。『旧』ボーダーという言葉が定着するほどに、時は勢いを増して流れていく。その間に、一番仕事をしたのは開発室室長の鬼怒田本吉だった。
まず、彼は異世界に通じる門の発生ポイントを特定できるようにした。次に門の発生を抑えるトリオン障壁を一時的ではあるが生成に成功、最後に門発生ポイントを誘導する装置が開発され、三門市の安心を約束する三点セットがわずか一年で出来上がる。元々の研究分野の応用とはいえ驚嘆に値する開発速度だった。
こうして、急務だった門発生のコントロールに成功した後は研究途中で放置されていた擬似トリオン訓練室の完成、隊員増加を見越してランク戦で使う対戦ブースと八面六臂の活躍である。
短期間でこれだけのことをやってのけた彼及び彼のチームは、城戸政宗司令がど��からか連れてきた逸材だった。三門市にやってきた時には一緒だった家族とは離婚している。仕事に打ち込みすぎたせいだと専らの噂だった。
開発室以外も働いた。門がコントロールできるまではいつどこで出現するかわからない。国の機関に代わって街を守るボーダー隊員たちは昼夜を問わずパトロールを行い、近界民と戦った。
三門市民は最初、胡乱な目で彼らを見ていたが、公的機関と連携した規律ある行動に徐々にボーダーの存在は受け入れられていく。根付メディア対策室室長による世論操作も功を奏していた。
出ていく人間は出ていき、かわりに大量の物資と人材が流れ込んでくる。
ボーダーにもまた人材が集まった。
まず、市民志願者第一号として柿崎国治と嵐山准が入隊する。華々しい記者会見の後、志願者はぐっと増えた。
東春秋が部隊を結成したのもその頃だ。
この時期の部隊は自由結成と言うよりは忍田や根付の意向が強く反映していた。東隊も忍田の指示によるものだった。
忍田自身も部隊を持っていたが、本部で戦闘員を統括する役職につくために解散することが決まっている。
ガラリと引き戸をあけて顔を出したのは東春秋だった。いらっしゃいませと店員が声をかけると案内はいらないと手を振って、店内を見渡す。じきに見知った顔の並ぶテーブルを見つけて近づいた。
二十二歳だと言うが、ずっと老けて見える。外見だけではない。彼に接する人間はつい彼が二十代前半の若造だということを忘れてしまう。
後ろには背が高い男女二人がやはり背の高い東を挟んで並び立つようにいた。どちらも目を引く美男美女だ。彼らは近隣の六穎館高等学校の制服を身につけていた。
さらに後ろに中学校の制服を着た少年がひっそりと控えている。前のふたりと違って背は低い。寒いのか、マフラーをぐるぐると首に巻いていた。
三人は物珍しげに店内を見回している。
「なんだ、三人とも居酒屋は初めてか」
テーブルにいた眼鏡の男が声をかけた。既に頬は赤い。手には盃を持っている。日本酒派だ。林藤匠という。ボーダーでは古参の一人だ。歳は三十一になる。そろそろ現役を引退したいとボヤいているが、いかんせん昨今の人手不足だ。
ボーダー本部建物ができたにも関わらず、旧本部ビルから動こうとしない、なかなかの頑固者だった。
「学生ですから」
と、生意気そうに答えるのは、背の高いほうの一人である二宮匡貴だった。
「あれ、根付さんから聞いてないか? ボーダーマークの貼ってある店はボーダーなら学生でも入れるようになったんだぜ」
トリオン器官の性質上、十代の隊員は増えていく。本部でも食堂は設置しているが、彼らは三門市の飲食店にも協力を求めていた。パスポート制で十代への酒類の提供はないなどの配慮がされている。
「知ってますが…」
さらになにか言おうとする二宮を東は遮った。
「今夜は明日の確認だけしに来たんです。本部で聞いたら、ここにいるっていうから」
「明日? ああ、国の視察ね。用事は、唐沢さん?」
「俺?」
テーブルの奥から唐沢克己外務営業部長が顔を出す。彼はビール派だ。既にジョッキをほとんど空けている。まだ三十そこそこだが、やり手の男だ。鬼怒田同様、城戸司令がスカウトしてきた。元ラガーマンだという以外素性を明かさない男だったが、人当たりがよい。
今夜の飲みメンバーは林藤、唐沢に加え、エンジニア冬島慎次、戦闘員の風間蒼也、木崎レイジの三人だった。風間と木崎は二十歳前なので、烏龍茶が並んでいる。
「まあ、たってないでこっちに座れよ、東くん」
「あー、ウチはウチでご飯を食べる予定なんです」
東はお供のように控える背後の三人を見やった。東隊のメンバーだ。
「ここで食べていけばいいよ」
「はあ」
少しだけ、東の心が揺れた。老成しているとはいえ二十二の青年だ。気楽な酒の席は魅力的だ。
「大丈夫です。俺たちは帰ります」
東の心を見透かしたように、二宮が後ろの中学生の背を押して店の入口に向かおうとする。
「東」
林藤は声をかけた。
「みんなで食べてけよ。唐沢さんの奢りだ」
「あなたじゃなくて、俺ですか?」
急に振られた唐沢が満更でもなさそうに笑った。確かにこの男前は今日の面子の中で一番地位が高く、懐も暖かい。
「あら、素敵。せっかくだから、ご馳走にならない? 二宮くん」
そこで初めて、女学生が口を開いた。こちらも生意気な口調だが、軽やかでトゲトゲしいものを感じさせない。
「加古」
「ねえ、三輪くん?」
「……」
急に話を振られた中学生は無表情のまま首を傾けた。
「わかりません」
「東さんがここでお酒を飲んでるとこを見てみたくない? 面白そう」
三輪は悩みながらうなずいた。
「ほら、三輪くんもそう言ってるし」
「言ってないだろう」
「言ってないです」
「わかった、わかった」
いつもの掛け合いが始まりそうになって、東は決断する。一応、上役たちの前だ。
「ごちそうになろう。唐沢さん、ありがとうございます」
東が頭を下げると、揉めていた三人がピタッと止まって、同時に頭を下げた。よく訓練されている。東を猟師になぞらえて獰猛な猟犬を三匹飼っていると言っていたのは誰だったか。
「遠慮せずたくさん食べなよ」
唐沢はいつもの人当たりのよい笑みを浮かべた。
「追い出された」
案内されると同時に、風間と木崎が東隊の猟犬三匹のテーブルにやってきた。テーブルが窮屈になったらしい。
今夜はボーダー戦闘員と唐沢の交流会であるらしかった。
風間の兄は林藤の弟子だった男だ。故人である。木崎は東から狙撃手としてのスキルを学んでいるので、東隊の面々とは面識がある。今は林藤に従い旧本部ビルに寝泊まりしている。狙撃以外の分野では林藤に師事していた。
一方は小柄で華奢、もう一方は筋肉隆々の巨漢だ。正反対の見かけだが、どちらも恐ろしく強かった。さらに木崎はトリオン量は二宮と同程度を持っていて近界のトリガーを使いこなす。
加古の隣に木崎が座り、二宮と三輪の隣に風間が座った。スペースの有効活用の結果である。三輪は隣が風間なので緊張する。風間蒼也は様々な思惑の絡む本部で誰からも重用され、確実に任務をこなすエリートだった。
「もう、頼んだか」
「まだです」
彼らはまだ食べるつもりらしい。
「居酒屋は初めてか」
木崎が気を使って、品書きをテーブルの真ん中におく。
店員がまとめて置いていった突き出し(お通し)を配る。
「飲み物から決めよう」
と、店員を呼んでさっさと飲み物を決めてしまう。さくさくと仕切る姿が頼もしい。三人はジュースにしたが、風間と木崎はまた烏龍茶だった。
「おすすめは、揚げ出し豆腐だな。家で作るの面倒だし」
「そういう基準か」
「寺島たちに頼まれて作ったが、たくさん食べるものじゃないし、持て余した」
寺島たちと寺島雷蔵と諏訪洸太郎のことだろう。四人は同い年で気が合うようだった。諏訪は二宮と加古の同期でもある。
「おごりなら諏訪と雷蔵でも呼ぶか」
「来ないだろ」
確かにもう遅い。
「今日の当番は?」
お酒をあおる大人席では、林藤が煙草の煙を吐き出しながら聞いた。
「忍田さんとこと迅です」
迅悠一は木崎隊であったが、先日、晴れて『風刃』所持者となり、隊を離れS級隊員となっている。
「あとは嵐山隊ですね」
なんとなく大人たちは子どもたちのいるテーブルに視線を向けた。三輪がジュースを飲んでいる。迅、太刀川、嵐山と三輪の苦手な三人だ。
「明日は俺らの勤務か」
正直、オーバーワークだ。ここにいるメンバーは皆、ワーカホリック気味ではあるが、大規模侵攻からずっと働き続けている。
「入隊志願者が増えてますからもうちょっと頑張ってもらって…。部隊が増えてくれば、部隊の輪番制に移行するって城戸さんが言ってます」
「もうすぐですよ」
冬島がエイヒレに手を伸ばしながら言う。
「そう願いたい」
品書きと書かれたメニューには写真がない。並ぶ単語は知らないものが多い。
三輪が大人たちのテーブル��チラリと見れば東は刺身の盛られた皿をビール片手につついていた。嬉しそうだ。確かに、隊長ではない東は不思議な感じがした。
「秀次は刺身か」
二宮がつらつらと品書きを見ながら勧める。二宮も初めてだからよくわかっていない。
「盛り合わせがあるぞ」
「ちょっとずつ色んなのが食べたいわ」
加古がウキウキしている。
「レイジさんおすすめの揚げ出し豆腐は頼むでしょ。風間さんのおすすめは?」
「コロッケと卵焼きだな」
間髪入れずに答える。迷いがない。
「じゃあ、それー」
「また家で作れるようなものを…」
木崎がぶつくさ言うが、三輪は蕎麦を茹でるくらいしかできない。
「二宮は?」
風間が水を向けるが、彼は熟考に入っている。
「先に頼んじゃいましょ。店員さぁん」
「加古、お前なあ」
「大丈夫だ、二宮。何度でも頼めるから」
「風間さんがそう言うなら」
注文を手早く木崎がまとめる。
「三輪は決めたのか」
「じゃあ、刺身盛り合わせ(小)で」
「あと、ホッケ」
「加古、語感で決めただろう」
「干物だな。北の魚だ」
明日、視察団が来るというのに、大人組はまだまだ飲んでいる。タバコの匂いがする。
焼肉屋ともファミリーレストランともバーガー屋とも違う雰囲気にふわふわする。
「秀次」
三輪は、二宮に揺り起こされた。ひと通り食べたあと、いつの間にか眠っていたらしい。
「中学生には遅い時間だな」
木崎が気の毒そうに言う。
「大丈夫です。すみません」
彼らも高校生なのだ。
「ほら」
おにぎりが渡された。大きい。海苔がパリッとしている。
「結局、二宮くんが選んだのがこれよ」
おにぎりを優雅に食べるという器用なことをしながら、加古が教えてくれる。
「悪いか」
「いい選択よ」
「うまいな」
風間はまだ食べている。木崎はカチャカチャと皿を重ねて、テーブルを綺麗にしている。 三輪は散々食べたあとだが、おにぎりを持って、「いただきます」と言った。おにぎりは何も入っていなくて塩がきいている。
「おいしいです」
「そうか」
「東さん、あれ酔っ払ってるわ」
三人が揃って東のほうを向くと、その様子がおかしかったのか、木崎と風間が笑った。
「明日はお前らが頑張れ」
その日はみんなボーダー本部に泊まった。
終わり
3 notes
·
View notes
Quote
私事ですが,うちの親父殿が亡くなりまして。 満年齢で85歳,数え年で86歳。 医師の診断書にも自然死とか書いてあったので,世間的には大往生といったところだろう。 長文なのでご注意を。 これまでのあらすじ 親父殿はそれはもう色々と持病持ちで,入れ歯や差し歯がないことが身体的な自慢だったそうだが,それ以外はなかなか苦労していた。 きっかけは,この春にネフローゼ症候群が発覚したこと。 そこから色々と検査して腎臓以外にもあちこち問題があることが分かったので優先順位を決めて治療していくことになったのだが,そ���うち自力で歩くことができなくなってベッドで寝たきりおむつ生活になった。 さらに食べ物や飲み物を自力で嚥下できなくなって,最後の方は点滴頼りになっていた。 実は,春の時点で主治医に「ま,ちょと覚悟はしておけ(←超意訳)」と言われていて,家族内では覚悟完了していた。 積極的な延命治療もしないと随分前に合意済みだったので,酸素マスク以外,あの物々しい生命維持装置の類もなし。 まぁ,アレですよ。 五体満足で死ぬ人はいない。 それは大往生と言われる人でも同じ。 月曜日(前日) 弟が昼に見舞いに行った際に,主治医から「そろそろ葬儀屋やお寺さんを決めておいたほうがいい」と言われたそうで,本家の従兄にアドバイスしてもらいながら(本家の伯父は12年前に亡くなっていて葬儀屋の選定とか親戚への周知とか親の口座の管理とか色々アドバイスしてもらった)準備を始めることになった。 月曜日深夜〜火曜日薄明 したらその日の深夜に病院から弟に連絡があり,私と同居している母親を途中で拾ってもらって(私も母も車を持ってない),入院先の病院へ。 親父殿は(苦しむ様子もなく)眠るように逝ったようだ。 死にゆく人の気持ちなど分かりようもないが,苦しまずに逝けたのならよかったのだろう,多分。 でも,まだ身体は暖かくて実感がわかない。 その後,酸素マスクや尿道カテーテルや点滴針や心電図のプローブなどのエンチャントを外してもらい,浴衣(買い取り)に着替えさせてくれた。 主治医の先生,看護師さん,ありがとう。 うちの親父がお世話になりました。 当直医による死亡診断後,葬儀屋さんに連絡したら1時間半後に引き取りに来てくれた。 考えたら葬儀屋って凄い大変な職業だよな。 親父の身体はそのまま葬儀会場に運んでもらった。 もちろん私たちも同行する。 葬儀会場は家族が寝泊まりする(ただし最大3人まで)部屋が併設されており,納棺前の身体も置いてもらうことができる。 会場入りした頃には身体も冷たくなっていて,本当に亡くなったんだな,とジワジワくる。 その後,葬儀屋さんと軽く打ち合わせて大体の方針を決めたところで薄明時間になったので,いったん解散。 私と母親も自宅に帰って2時間ほど横になった。 でも神経が高ぶって眠れん… 母は葬儀まで会場で寝泊まりするというので諸々を準備していた。 ありゃあ,寝てないな。 火曜日(1日目) 夜が明けて,再度葬儀会場へ。 おっと,その前に勤務先とお客さんに3日ほど休むと連絡を入れておかないと。 家族の部屋に着くと,親父の床が整えられていた。 めっさ綺麗にしてもらってる。 顔もいい感じにしてもらってる。 ありがたや 🙇 弟が早朝にお寺さんへ連絡し,まずは枕経(臨終勤行)を上げてもらった。 そこから葬儀屋さんと坊さんと弟とで打ち合わせに入る。 そうそう,今回は弟が喪主ね。 葬儀屋さんにもちょっと怪訝な顔をされたが(まぁ長男が健在なのに次男にやらすってのはないわな,普通),私は数年前まで広島にいて今も実家から少し離れて生活しているので,ご近所や自治会の運営周りは疎いし,従兄弟・従姉妹連中とコミュニケーションをとるにも弟の方が上手くやれるので,丸投げしてしまった。 ごめんペコン 私はこのスキに諸々の用事を済ませるためにお出かけする。 いったんバスで自宅に帰って(葬儀会場がバス路線上にあってよかった),そこから自転車に乗り換えてあちこちグルグル周り,そのまま葬儀会場に戻る。 よし,葬儀会場周辺の自転車ルートは覚えたぞ。 自転車に優しい道でよかった。 またサイクリングで走ってみよう。 あと,葬儀の日が通院日と被るので病院に連絡して1日ずらしてもらった。 薬 (ヤク) が切れるので処方箋を書いてもらわないと。 午後からは従兄弟・従姉妹連中が勢ぞろいした。 こんだけ集まるのは正月以来だな(笑) 親父は末っ子で,私ら兄弟も従兄弟・従姉妹の間では最年少なのね。 そんな私も五十路後半ということで驚愕されてた。 みんな年とったよな。 そりゃあ,親も死ぬよね。 ちうわけで,親の葬式経験も豊富な従兄弟・従姉妹のアドバイスをもらいながら段取りの微調整を行う。 いや,まぁ,都会の人はピンとこないかもしれないけど,田舎の「ご近所」はマジ大変なのよ。 煩わしいけど,(特に弟の)円滑なご近所づきあいのためには必要なことなので。 夕方になったので泊まり込む人以外はいったん解散。 私も自宅に帰った。 朝は眠れなかったが,メシ食って,風呂入って,洗濯物を片付けて,家事を終わらせて寝転んだら秒で寝落ちしたようだ。 水曜日(2日目) 午前中に納棺を行うので,間に合うように移動。 実家からの車を私の自宅経由にしてもらい,便乗する(礼服で自転車に乗れないし)。 お手数かけます。 あれっスよ。 リアル「おくりびと」っスよ。 自力で移動できなくなった親父は,入院中は全くお風呂に入れなかったそうな(清拭だけ)。 なので湯灌 (ゆかん) もしてもらった。 風呂好きだったしね。 空気で膨らます簡易浴槽を作ってシャワーしてもらったですよ。 (ほとんどない)髪も洗ってもらった。 かゆいとこないですかー 髭も剃ってもらってスッキリ。 「それ」に敬意を払い,とても丁寧に扱っていただいた。 でも,丁寧に扱っていただくほど「それ」がどうしようもなく「物体」であることを意識させられる。 そう考えると納棺も大事な「お別れ」の儀式なんだなぁ,と痛感した。 夕方からお通夜の儀式を行った。 お坊さんのスケジュールの関係で,早めの開始。 今回お世話になったのは浄土真宗大谷派のお寺さん。 浄土真宗のなかでも本願寺派と双璧になってるところですな。 葬儀屋さん曰く,浄土真宗の読経は(他と比べて)短めなんだそうな。 いや,短いのありがたいっス。 儀式が終わって,参列者に食事代わりのお弁当を持って帰ってもらって本日の予定は全て完了。 木曜日(3日目) 朝から土砂降り。 涙雨? 葬儀会場に泊まってる母親から傘を持ってくるよう要請がかかる。 昨日のうちに弟が市役所に死亡届を出し,今日の新聞の「お悔やみ」欄にうちの親父の名前が載ったことで(つか,新聞の「お悔やみ」ってそういうシステムなんだと初めて知ったよ)朝っぱらからケータイが鳴りっぱなし。 ご近所と親戚筋には通知済みだったが,それ以外の両親や弟夫婦の交友関係から電話の嵐。 新聞すげーな。 ちょっと侮ってたよ(笑) この日も実家からの車を私の自宅経由にしてもらい,便乗して葬儀会場へ。 今回は家族葬で,家族と親しい親族のみの葬儀・告別式ということで,その前に流れ焼香を行うことになった。 受付は従兄弟にお願いする。 ありがたや。 流れ焼香に来られる人数が読めなくてねぇ。 香典返しとか多めに頼んだのだが,思ったより(弟や甥っ子が勤める)会社関係の方が多く,慌てて追加発注してみたり。 そういうの即座に柔軟に対応していただける葬儀屋さん,ホンマ凄いわ。 ちなみに,松江市では火葬してから葬儀するパターンが多いらしい。 うちは今回変則的で,先に葬儀を行って,その後に霊柩車で火葬場に向かう際に実家に寄ってもらうことにしている。 入院中は「帰りたい」を連呼してたからね。 生きてるときに帰らせてあげられなくてゴメンな。 流れ焼香が終わる頃には雨は上がっていた。 持ってきた傘は要らんくなったねぇ(笑) 流れ焼香のあとは準備のための休憩を挟んで葬儀・告別式を行う。 やはり読経は短め。 その後,(主にお坊さんの)休憩を挟んで初七日法要も済ませてしまう。 やっぱり読経は短め。 それから昼食。 お弁当なので,都合で火葬に参加されない方は持ち帰ってもらい,ここでお別れ。 ありがとうございました。 午後から火葬場に向かう前に「お別れの義」として棺に副葬品やお花を入れる。 実家の畑で採れたきゅうりやトマトを入れてみたり。 陶器の湯呑みもOKと言われたので,ビールを入れて棺に入れてみた(ガラスや金属はNGなので瓶ビールや缶ビールのままでは入れられない)。 あとは,葬儀会場に届けられた花を片っ端から入れて花まみれにする。 花まみれの親父は女性に好評でした。 棺の蓋を閉じて霊柩車へ。 2人まで霊柩車に同乗できるけど,火葬の後は現地解散なので,移動の足のない���と母が霊柩車に乗ることになった。 おー。 霊柩車に乗るのは人生初! 途中に寄った実家の前で挨拶したのち,火葬場へ。 今は葬儀屋さんは火葬場の中に入れないんだそうな。 なので,ここで葬儀屋さんとはお別れ。 まぁ,ちょっと前まで(新型コロナ対策で)家族も入れなくて,収骨まで火葬場の職員の方がされて,骨壷だけ渡されるという味気ないものだったらしい。 さすがに火が入ったときはクるものがあったけど,甥っ子と姪っ子が号泣しちゃってねぇ。 逆に冷静になってしまったよ。 すまんね,代わりに泣いてもらったみたいになっちゃって。 1時間半の休憩を挟んで収骨。 流石,歯が自慢だったというだけあって綺麗に残ってた。 無事に火葬も終わり現地解散。 私と母は実家の車に便乗して実家へGo。 四十九日まで使う祭壇を用意しないといけないんだけど,葬儀屋さんが貸し出してくれるんだって。 葬儀会場の祭壇に飾っていた花やお供え物も持ってきてもらってデコレーション完了。 飾ってもらった親父を囲んでみんなで晩飯。 ホンマにお疲れ様でした。 「目一杯の祝福を君に」 なんちうか怒涛の3日間だった。 これは悲しんでる暇なんかないわ。 あと,葬儀屋さんすごいな。 うちは親父の代からの分家で仏壇も墓もないのね。 なので今回はとても助かった。 葬儀の段取りだけじゃなくて,お役所手続きのアドバイスとか,お坊さんとの折衝とか,各種手配の手際とか… 色々色々。 ホンマありがとうございました。 親父の死を惜しんでくれる人がいて,悼んでくれる人がいて,送ってくれる人がいる。 これって実は,かなり幸せなことなんじゃないだろうか。 そして,それは遺される私たちにとっても救いになる。 そう思うことにした。 これも祝福なんだと。 翌日 ずらしてもらった通院日。 有給休暇をとって病院へ。 この夏は心臓の手術(厳密にはカテーテル治療)を行う予定なので,スケジュールを含めた打ち合わせを行う。 手術日までの処方箋と入院の手引をもらって終了。 同意書に署名しないとな。 …と思ったのだが,自宅に帰ってからどうにもダウナーモードで何もする気が起きなかった。 自分で思ったよりキてたのかな。
怒涛の3日間 —または「目一杯の祝福を君に」— | text.Baldanders.info
0 notes
Text
おばあちゃんが亡くなったとき、その前後の期間がただ悲しさだけを噛み締めるものにならなかったのは、彼女のそのあたたかい人柄故なんだろうと思った。新幹線に飛び乗ったときは死に目に会えないと思っていたので、そこから約一日も生きながらえたおばあちゃんは強いなと思う。その一方、彼女が悶え苦しむ姿をずっと見ているうちに、もっと早く楽にしてあげたかったという気持ちも湧いた。でも、自宅で子供と孫に囲まれながら逝きたいと願ったのは紛れもなくおばあちゃん自身で、だからこそ、彼女の願いがかなったのだと思うことで多少は救われる。何があっても怒らず忍耐強く、朗らかで可愛く笑うおばあちゃんは、他人に対して優しいけれど自分の中で決めたことを貫き通す芯の強さがあった、そしてその芯を守ってあげたいと子供や孫に思わせるような、根底的な優しさがやっぱりあった。強い人の定義は色々あるのだろうけれど、私にとっての強い人はおばあちゃんのことだなと思う。ぱきぱきとした凶器、相手を脅かすような強さではなく、どこまでもしなやかで何事も受け止める強さ。こればかりは私自身が彼女に対して抱いた紛れもない感情であり、尊敬だった。
久々に家族や従兄弟たちとゆっくり過ごせた日々だった。私は何よりもこの人たちが大事なんだと実感した日々でもあった。友達のように何でもあけすけに話すわけではないけれど、そこに友達とは代え難い愛があるとわかっているから。お通夜が終わった後、従姉妹たちと会場で泊まった。自分たちが食べるものを仏壇にお供えしたくなるという気持ちが初めて痛いほどわかった。孫たちと過ごせて幸せだねえ、と親は言っていたけれど、おばあちゃんがこうしてあたたかい時間を用意してくれたことが私はとても嬉しくて、そして幸せだった。
苦しむ姿を看取るとき、最後の最後で息絶えるとき、たくさん泣いた。思い出の写真を見ながらもたくさん泣いた。それでも楽しい時間だった。地元の閉鎖感と平和ボケし過ぎた空気はあまり好きになれないけど、ここが私の居場所なんだと素直に思えた。実家を離れてまた関東に戻り、日々の暮らしが始まる。今の普通に戻れば戻るほど、そっかもういないのか、とふと我に返る。最後にきちんと会話を交わしたのはいつだろう、もうボケボケで、同じ話を何度も繰り返すけど、ただ笑顔が可愛いから一緒にいたい、美味しいものを食べさせてあげたいと思っていた。今年のお正月にもらったお年玉の一万円は大事にとっておいたけれど、うっかり現金を忘れた千里眼でそれをくずしてしまった。神聖な最後のお年玉だったのに、食べ物に貪欲なおばあちゃんにぴったりな使い道だったかな、と思えばそれはそれでありかなと思った。棺にはだいすきなベーコンエピとモスバーガー、フィナンシェ、それ以外にもたくさんの食べ物を詰め込んだ。スイートポテトが焼けて焼き芋のにおいがしたら面白いね、とみんなで笑った。貴方のように歳を重ねたいです、と書いたメッセージも一緒に添えた。
4 notes
·
View notes
Text
丑の刻の平安京に羅城門が顕現し、下人が侍を鞭打ちしこと
今は昔、さる山中を根城とする盗賊の砦に、のちに都で下人をすることになる子供がいた。砦に囲われた女たちの一人が産んだ男の子だった。子供は口減らしのために棄てる決まりだったが、時々首領が気まぐれを起こして育てさせることもあった。それで、下人にとって女たちは母たちでもあった。
母たちは下人をかわいがった。乳をやり、口々にことばを与えた。
お前の本当の母さんは死んじゃってね。産んですぐ後にね。かわいそうにね。
下人には「本当の母さん」という言葉の意味するところがわからなかった。母はつねに複数いた。赤ん坊は横で頭を潰されて死んでいった。生かされた兄弟たちは、自分と同様に母たちに可愛がられていた。
盗賊たちは街道を通る商人や役人の一行を襲い、身ぐるみを剥いだ。男は報復を防ぐため皆殺しにした。女は裸のまま逃したり、時には何人かさらってきて元からいた女を代わりに捨てたりした。母たちの顔ぶれは入れ替わった。
成長すると、下人も盗みに駆り出された。
初めての仕事は、寺の鐘を盗み出す手伝いだった。まず老法師に扮した爺さんが寺に行き、うまく鐘堂に泊めさせてもらい、そのまま死んだふりをする。下人は、兄弟の一人と共に寺に赴き、激しく泣いて見せ、夕方に引き取りに来ると行って立ち去る。寺の僧たちは貰い泣きをしていた。あとは年上たちの仕事だった。死体を運ぶふりをして鐘を盗み出す者。鉦を叩き経を上げさせる俗法師の仲間たち。鐘堂の穢が明けて小僧が鐘堂を開ける頃には、鐘を鋳融かして加工し市で売りさばいた後だった。
母たちは下人がどんどん一人前の盗人になっていく様を見て嘆き悲しんだ。
ある日連れてこられた母は元は都で女房をしていたといい、男たちの目を盗んで地面に木の枝で読み書きを教えてくれた。下人はすぐに女手と男手のどちらも覚えた。女は夜みなを集めて「光る君」の話を諳んじてみせ、皆で貴人の生活や恋愛に思いを馳せた。あまり娯楽のない砦の生活で、「光る君」の朗読は女たちにとってお楽しみの時間となった。
やがて下人は成長したが、母たちは相変わらず母たちだった。寝ていると母たちの上に覆いかぶさって揺さぶる男たちを嫌悪していた。
自分も「光る君」のような男と「契り」を結んでみたいと思っていた。
そう女房の女に言うと笑われたが、下人が笑わないのを見て口をつぐみ、都に行くんだね、でもなきゃ寺にでも入りな、と言い捨てて母たちの集まりに戻った。
ほどなくして、役人と貴族たちの軍団が砦に攻め入ってきた。
女房は知らせを聞くなり下人を殴って昏倒させ、盗品から密かに隠しておいた女房装束を着せた。下人が目覚めた時には、男は子供に至るまで皆殺しにされ、女たちは砦の前に立たされた。貴族の一人が、何人かを奴婢として持ち帰りたい、と言うと、女房が下人の手を引き前に進み出て、これはかつては宮仕えをしていた女房だ、どうかこの女はそういうものとして扱ってくださらんか、と言った。本当かと訝しむ役人たちだったが、下人が漢籍をすらすらと諳んじて見せるとすっかりそれを信じ、貴族が都に持つ邸宅に仕える家女房として引き取られることになった。
母たちは何も言わず、ひとり都へ向かう牛車に乗り込もうとする下人を涙ながらに送り出した。
掠奪品と共に運ばれた男たちの首は日に日に腐っていき、都で晒される頃には誰が誰のものなのか区別が付かなくなっていた。
都は「光る君」の話から受けた印象とはとうてい異なる場所だった。
正門であったという羅城門はずっと前に倒壊して、柱の残骸のようなものが残るだけになっていた。路上に死体と糞便が溢れているのに文字通りに閉口した。牛車の暖簾の間から、山では見たこともないほど肥え太った蝿が、何びきも入ってくるのだ。少し人通りの少ない所に入ると餓えた犬たちに襲われ、御者と兵が棒や刃物で殴り殺そうと大騒ぎになった。
受領の邸宅は七条と東洞院の交差する所から二町ほど下った所にあった。確かに内裏の近くではないが周りの家と比べては大きいように見えた。塀の中に複数の建物が集まっていて、池や金目のものを集めた倉庫すらあった。感心していると、非常にしばしば集団強盗や放火に遭うから少し離れた所にある別宅に住まうことになる、ここへは物を取りに来ただけだ、と言われた。
別宅はもっと内裏に近い所にある小さな屋敷だった。受領の娘はここで下人を数人従えて住んでいた。もともと居た家庭教師は、さる歌合で才を見出され、女房として出仕することになったそうだ。そういう者にものを教えられたせいもあってか、娘はまだ幼いのにとても利発で、歌や漢籍に関してはもう教えることがないほどだった。その代わり笛や箏は苦手なようで、自分にも教えられることがあることに下人は安堵した。毎日管弦の稽古をして、飽きると歌を作ったり、「光る君」の巻物を読んで感想を語ったりして過ごした。
数年経って娘の女房仕えの話がまとまりかけた頃、都に疫病が流行りはじめた。まず赤い発疹が腕や顔に現れ、数日で高熱を伴って全身に広がる。かすかに肉が焼けるような臭いがし始めると今度は代わりに血を吐き、青白くなって息絶える。下人の数人が倒れ、次は娘だった。
娘が苦しみ悶えながら死ぬ様を呆然と見送った。使いを送ってしばらくのち、受領が悲嘆に暮れつつ下人の前へと現れた。
ひどい有様だ。本当にひどい。鬼が……千切れた腕や、頭を持って、走り回っているんだ。
受領は、あなたを養子として迎える準備がある、と微かに涙の残る声で下人に告げた。思ってもいない話だった。下人は少し考えたのち、微笑みながら首を横に振り、立ち上がって服を脱ぎはじめた。単衣を床に落とすたび少し赤らんだ受領の顔が、肌を曝すと再び血の気を失い、袴を脱ぐ頃には昏倒した。
下人は死んだ下人の服に着替えた。
*
下人となった下人は、女房装束や日用品を一揃い背負い籠へ入れて家を出て、その辺をぶらぶらした。
疫病は大量の死を生み出していた。庶民の死は単なる悲劇だが、貴人のそれは大量の失業者の発生を意味し、路上には常ではありえないほどの路上生活者がいた。みな妊婦のような腹をしていて、何も身に付けておらず、土や垢で汚れきっており、老若男女の区別も付かぬような状態だった。力なくへたり込んでいるように見えて、屋内で出た死体が外に投げ出されると驚くほどの俊敏さで群がった。なるほど、鬼かもしれない、と納得した。しばしば彼らは疫病で死んだり、犬に襲われて死んだり、暴漢に殴られて死んだりしていた。
内裏の近くまで行くと、なぜかバラバラになった死体を集めているものたちに出くわした。ひとりの男に話を聞いてみると、怪訝そうな顔をしながらも、烏や鳶が途中で落としてしまうのだ、自分たちは刑吏や死体の廃棄を生業としている者たちで、内裏や貴族の家の近くで発生した死体を片付けると、検非違使が彼らに金を与えてくれるのだと言った。そういう利権で食っている集団が複数存在し、穢れの度合いで報酬も変わってくるのでどの集団がどこのどんな死体を拾うというのが大変微妙な機微をはらむ問題らしかった。話をしている間にも���くの方で小競り合いが起き、加勢しなきゃ、と言いながら男は去っていった。
夜な夜な下人は死体が発生したという独居人の家に忍び込み、死体を運び出して空き地に捨てた。それから家に戻り、女房装束を着て笛を吹いた。しばらくすると、簾の向こうに人影が見え、細紙が簾の隙間から差し入れられた。「夢のような笛の音色に引き寄せられてたどり着いたこの破れ庵に美しいあなたが垣間見えたことだよ」という歌が書きつけられてあった。下人は少し考えて、「夢に見たあなたのことを思って笛を奏でておりました、夢であなたが教えてくださった曲を」という歌を書いて返した。
男は簾をくぐって入ってきた。下人は扇で顔を隠し、窺い見た。特に光り輝いてはいなかったのでがっかりした。
この家に住んでいたものは、亡くなったはずではなかったか。
こうして生きておりますわ。
女ではなかったはずだ。
そういうこともございますわ。
男は出口を塞ぐように立ち塞がって抜刀した。
そなたはあやかしか? それとも強盗か?
歌を解し文を書いて贈るあやかしや強盗など、聞いたことがございませんわ。
そう返すと男は納得した様子で刀を鞘に戻し、なるほど、貴人とは虫のように単純な頭をしているのだな、と思った。契りを結ぼうと鼻息荒く覆い被さってくるのを「このような夜を寝るだけで過ごすのは風情がないことだよ」とか何とか言って押しとどめ、娘の家からくすねてきた酒を飲ませた。
あなたは人を殺めたことがございますの。
なぜそのようなことを訊く。
武の道に秀でた殿方は素晴らしいと思いますわ。
そう煽てると男は敵対する貴族を刀で斬り殺しただの手際の悪い牛飼童を殴り殺しただの自慢しはじめた。こいつは「光る君」とは似ても似つかぬ下郎だなと思った。「光る君」は人を殺さない。男を手刀の一撃で昏倒させると、身ぐるみ剥いで背負いかごに突っ込んで家を後にした。
それからも何度も同じことを繰り返したが、その度に失望を味わうこととなった。誰に聞いても快楽殺人を一度は行なっているとは一体どういうことなのだろうか。都人たちを見ても、けだものが職と服を身につけて歩いているとしか思えなくなってきた。
それでもいつかは「光る君」のような有徳の者が垣間見てくれるのではないかと期待していた。
ある日、簾の前にすらりと高い影が差すのが見えた。笛を吹くのをやめて見上げたが、じっとそこに立って動く様子がない。じれったくなって「なぜそのようにじっと立っているのでしょう、私の心まで見透かしているなら中に入っていいとわかっているでしょうに」という内容の歌を書きつけた細紙を出し出すと、男は黙って簾をくぐってきて、下人の前に立ち塞がった。
何の御用でしょうか、と訊ねると、男は急にもじもじし始め、消え入りそうな声で話しはじめた。
頼みたいことがあるのです。
侍は俯きながら乗馬用の鞭を手渡してきた。
これは何でしょうか。
鞭です。
それは分かります。何故こんなものを渡してきたのかをお訊きしているのです。
男は答えず、着物をはだけて上半身を顕にし、後ろを向いた。毛深い背中には幾百幾千の傷跡が斜めに走り、醜く盛り上がっているのが見えた。
お帰りください。
男は下人の膝元に蹲り、涙ながらにこれまでの事の顛末を語った。元は侍として内裏に仕えていたが、ある女と共寝をしてこれを妻とした。しかしある日突然妻から鞭で何百回も叩かれ、なぜか強盗団の幹部として働くことになった。数年経ったある日のこと、愛する妻は家や家財もろとも蒸発してしまい、男は検非違使にひっ捕らえられて獄に入れられた。刑期を終えて宮中を彷徨っても結局妻を見つけることはできず、悲しみに暮れていたところ、笛の音が聞こえてきたのだという。
前の妻と出会ったときも、その曲を吹いておりました。きっとこれは宿世の縁です。さあ、私を打ってください。
理解はいたしました。お帰り願えますでしょうか?
侍はその格好のまま惨めに泣き始めた。身体の震えで着衣はますます乱れ、尻や腿までもが同じような傷に覆われているのが目に入ってしまった。
下人は肚を決め、衣をはだけて上半身を顕にした。
騙す形になってしまい申し訳ございません。私は女性ではございません。あなたの妻になることはできませんから、お引き取り下さい。
構いません。妻も私を鞭で打つ際は男装をしておりましたから。
そういう問題ではないのではないか? と下人は思った。侍は泣きながら遺品だという水干袴と烏帽子を見せてきた。
仕方ないので打ってやることにした。
試しにどんなものか一度叩いてみると、腐っても鞭、軽く打つだけで厚く堅くなったはずの侍の背中には鋭い傷が残り、血が滲み出した。侍がぐっと何かに耐えるような声を漏らしたのが真に迫っている感じで嫌になった。あんっ♡とかそういう、ちょっと楽しげな感じだと思っていたのに。
気を取り直して、何回打てばよろしいでしょうか、と訊ねると、妙にはっきりとした声で八十回よろしくお願いします、と返ってきた。
八十回打ち終わる頃には背中が一面血塗れになったが、男は、平気だ、と言うばかりだった。流石にこれを放置するわけにはいかぬという気持ちになり看病をしていると、下人は言い知れぬ理不尽さを感じ、涙が流れた。
ここを離れようと思い服を着直していると、侍がお待ちください、と手を握ってきた。
礼を言わせてくださいませんか。ご迷惑をおかけいたしました。
その真摯な眼差しから何故か目が離せなくなり、下人は無意識にいつもの質問をした。
あなたは意味もなく人を殺めたことはございますか。
侍は少し考えてから、ないと断言した。下人は、なぜ自分がそんなことを訊いたのかもわからぬまま、その家を立ち去った。
下人はその日を境に垣間見待ちをやめた。再びあの侍が来そうで恐ろしかったのだ。それから、食い扶持を稼ぐために盗賊団に入ることになった。
あんたも都にさえ生まれればね。こんなけだもの共とは無縁の現世だったろうにね。何にだってなれたのにね。
母たちはよくそう言ったものだった。実際、何にでもなった。女房のようなことをしたあとは、貴族から強奪した所持品を売り飛ばすために行商の変装をした。それで何とか生計を立てていた。今は強盗団だ。強盗団は強盗だけをして生きている人間ばかりではない。商人や聖職者、役人や女房のような者たちすらいた。貴族の家で働く使用人や侍はしばしば情報を売り渡し、自分で屋敷に火を放ちすらした。彼らもけだものだ。下人も仲間の手引きで貴族の家に下人として働きに行き、強盗を行うときは偵察や暗殺を行った。
朱雀大路にやってきた旅芸人の一座を見て、自分の生まれを思い出さずにはいられなかった。偵察し、場所を開けるよう頼む者がいる。声を出して人の気をひく者がいる。演じる者がいる。道具を運び、組み立てる者がいる。金を集める者がいる。彼らもきっと盗むのが上手いだろうと思った。
「光る君」のことを諦めた訳ではなかった。本物の下人として内裏へと出入りするようになった。しかし幾度宴を覗き見たところで、どの男も光り輝いていなかったので、いよいよ失望を覚えた。宇治にでも行った方がよいのだろうか、と思い始めた矢先に、腕の内側に赤い発疹ができた。信じられないような早さで熱が上がり、内裏の中で動けなくなった身体を下人たちが引きずり出して、路地に捨てた。
目を開けていることもままならなかったが、それでも飢えた犬と飢えた人間たちが近づいてくるのを感じた。襲い掛かられることを覚悟した瞬間、何かが自分を背負い上げた。まだ死んでいないのに河原に捨てられてしまうのだろうか。いったい私の穢れはどの程度、どのくらいの価値があると判断されたのか。
下人の意識はそこで暗転した。
*
下人は小さな部屋で目覚めた。見知らぬ部屋のようでもあったし、これまで一夜を過ごして貴族を殺した部屋のどれかであるようにも思えた。簾が風にはためく音が耳に入り、目を向けると人影が見えた。すらりとした長身で、かすかに光り輝いていた。
簾の外に出ると、男の姿はなく、かすかな光が尾を引くのみだった。その光を辿っていくと朱雀大路に出た。南の果てが金色に光っているのが見えた。ふらふらと歩み出した。死人もなく、野犬もいないことに下人は気付いていなかった。
七条を過ぎる頃に、見慣れない建物が見えてきた。京の南端にたどり着くと、羅城門の跡地に巨大な建物が建っていることが分かった。朱雀門に似ていた。
門扉を開けると、上階から光が漏れ出ていた。階段を登ると老婆が死体の髪の毛を毟っているのに出くわしたが横を素通りした。廊の突き当たりに、薄金色に発光するものが見えた。近寄ってみると、あの侍が正座しながら発光していた。下人が追ってきたことを後悔して帰ろうとすると、またも鞭を手渡された。
さあ、私を打ってください。
お断りします。
打ちなさい。あなたは私を打たなければなりません。
なぜ。
なぜでも。
無視して帰ろうとすると、後ろから「わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ…」とぶつぶつ喋る声が聞こえてき��、横を通り過ぎて帰るのが嫌になってしまった。あの老婆が毟り終わって帰るまでここを動きたくない。
仕方ないので打ってやることにした。
今回は何回ほど打ったらよろしいでしょうか、と訊いたらまたも一時の逡巡もなく、八十回、と返ってきた。どうもその回数に拘りがあるらしい。
気乗りがしないままに叩きはじめると、また男が濁声で耐え忍ぶような声を上げはじめたのでうんざりした。どうせ叩かせるのなら、もっと気持ち良さそうにしてくれた方がまだ叩き甲斐があるのに、と思っていると、突然男が振り向いた。
手を抜いているでしょう。
はあ。
あなたはよっぽど度胸のないかたですね。
下人はその言葉を聞かなかったことにし、無心で八十回打ち据えた。侍の背中は樫の幹のように硬く頑丈で、手が痺れてしまった。こんなことをしてもらって悦ぶようになる前はきっとさぞかし立派な侍だったに違いないのに、どうして……。下人は、虚しくなってしまった。
終わりましたよ。
ありがとうございます、と言いながら侍は立ち上がり、下人の方に向き直った。
では、今度は腹を八十回お願いいたします。
ご冗談でしょう、と下人は叫んだ。背中はすでに裂傷でズタズタになり、どんな悪人でももうこれ以上は打たないのではないかと思うような状態になっていた。死んでしまいますよ。
これしき何でもありません。この傷跡が目に入りませんか?
侍は胸を張って見せた。確かに胸から背中ほどに掛けてびっしりと傷跡が隆起しているのが見えた。
下人は言葉を失ってしまった。老婆の声が再び響く。「…せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
下人は共感した。一緒に髪をむしりに行ってもいいかな、と思った。下人には地上の法が理解できない。下人は強盗だった。人を殺し、物を盗んで暮らしてきた。
下人が振り向こうとした瞬間、肩を強い力で掴まれ制止された。
そちらへ行ってはなりません。
なぜですか。
ならぬからです。
罪のある者たちの物や命を奪うよりも、あなたを鞭で打つほうがよほどならぬことだと思われるのですが。
侍はこれを聞いて、それはどうしてですか、と不思議そうに聞き返した。下人は答えに窮した。
あなたが死んでしまいそうで恐ろしいからです。
こんな程度で死にはいたしません。それに、私が死んだところであなたに何の問題がおありですか。
いけないことです。
なぜいけないと思うのでしょうか。
必要のない死、必要のない暴力だからです。強盗とは違います。強盗は生きるために行うことです。
私は必要としています。生きるために必要なことです。
私には必要がありません。
だからよいのです。人に施しを与えることは功徳を高める行いです。さあ、私をお打ちください。
全く納得のできない論理であった。躊躇していると、お打ち願おう! という大音声と共に間合いを詰められた。もう逃げ場がない。
仕方ないので打ってやることにした。
八十回でよろしいですか、と訊ねると、そうだが、とでも言わんばかりの慇懃さで頷かれて腹が立ち、思わず加減をせず一発目を叩いてしまった。
ぐっ……いい打ち加減だ。その調子です。
心底気持ちが悪いと思った。下人は何も聞かなかったことにして無心に叩こうとした。しかし背中を叩くのとは違って表情で反応がわかってしまう。普段通りの力で叩いたら物足りなさそうな顔をするのが見えてなんとも不愉快な気持ちになり、顔を背けてしまった。
なぜ……。なぜ私は、このような様子のおかしい者を殴らなければいけないのでしょうか……。御仏様、これが、私が今まで犯してきた罪に対する報いなのでしょうか……。生まれてきたことが、間違いだったのでしょうか……。
侍の腹は樫の幹のように硬く頑丈で、八十回打ち終える頃には手が痺れてしまった。
いいですか。これで最後ですよ。もう二度と絶対に叩きませんからね。
下人が顔を上げた。侍は全身からぼたぼた血を垂らしながらこちらを観察していた。鬼のようだった。
私を打って、楽しかったですか。
いいえ。
二百四十回も打ったのに、ただの一度も。
苦痛でした。
ならばあなたは暴力がお嫌いなんですね。本当は、人を殺すのも、人から物を盗むのも嫌いなはずだ。あなたは女手を理解し、管弦の扱いにも長けたお方。好きなはずがない。
強盗だって読み書きや管弦の扱いくらいわきまえていることくらいありましょう。
それにあの服。なぜ女房装束を着ていたのですか。
あなたの奥様が男装をしたように、私も女装をしていただけでございます。
では、どうしてあんなことを訊いたのです。あなたは意味もなく人を殺めたことがありますか、と。
下人には答えられなかった。黙っていると、侍は下人を抱擁した。自分が震えているのがわかった。なぜ震えているのか分からなかった。血の匂いが濃く香り、自分の着物を熱く濡らすのが感じられ、一層大きく身震いした。
強盗のあなたと女房のあなた、どちらが本当のあなたなのですか。どちらが本当の望みなのですか。
*
答えようとしたところで目が覚めた。
見知らぬ部屋に寝かされていた。頰が涙で濡れているのは意味のわからない夢を見たせいだろう。羅城門が再建されるなどという話は、聞いた覚えもない。いや、そんなことよりも。
生きている……。
弱った腕を持ち上げて、発疹がないことを確認した。信じられない。あの病に罹って生き延びたものなど、聞いたことがなかった。御仏の加護だろうか。この私に。
外から、貴人と思われる男が入ってきた。
目が覚めましたか。
ここは……。
私の家ですよ。部下の一人があなたをここまで運んできたのです。
家の中で死んだら大変なこと(内裏に出仕できなくなるなど)になるはずだった。よく匿ってくれたものだ。奇異の目で見ていると男は、私は自由の効く身なのです、と言って微笑んだ。
運んできて下さった方は……もしかして、身体中が傷だらけで赤い髭の方でしょうか。
そうです。
お礼を言いたいのですが。
死にました。
死んだ?
あなたはここに運ばれてすぐ血を吐きはじめ、もういつ息絶えてもおかしくない状態でした。あの男は熱心に看病をしていましたが、あなたの身体が青白くなる頃には黙って泣いていました。それが丑の時にもなろうというころに突然「行かねばならぬところがある」と屋敷を出ていったのです。そして今朝、羅城門の跡で、死体になって見つかりました。身ぐるみ剥がれた上に髪の毛まで抜かれており、体中に謎の鞭傷が残っていたそうです。……どうかしましたか?
いえ。悲しいことですね。
下人の頭には先ほどまで見ていた夢の光景が急速に蘇りつつあった。
貴人は、好きなだけここで身体を休めてくれて構わないと鷹揚に言い残してどこかに去り、それきり顔を見せなかった。頼りない、なよやかな首の感じが妙に印象に残る、美しい男だった。
下人は横になりながら、答えられなかった最後の問いについて考えていた。
──私は「光る君」に会いたかった訳ではなかったのかもしれない。「光る君」の話に出てくる者たちの生活に憧れていただけかもしれない。暴力もなく強盗もない美しい世界のように思われたのだ。そして、それは「垣間見」でしか得られないものであるような気がした。きっと、あの砦で一緒に話を聞いていた母たちにもとってもそうだったに違いない。
──私は色々なものになった。男にもなったし、女にもなった。どんな職業にも成りすまして、盗み、殺してきた。でも、私は母親にだけはなれなかった。母親になれなければ契ることはできない。母たちはきっと、そこに目を瞑っていた。それでも私に女房装束を着せて、生き延びさせてくれた。
──自分にはどうしようもできないことだ。どうにもやりきれない。そして、私たちの早急で不実な考えは、あの男に死をもたらした……。
下人は、枕の上ではらはらと涙を零した。大きな声を出して往来を走り回りたいような気分だったが、身体は相変わらずうまく動かなかった。
*
ある晩、夜半に目を覚ました。簾が風にはためく音が耳に入り、目を向けると人影が見えた。すらりとした長身で、かすかに光り輝いていた。
簾の外に出ると、男の姿はなく、かすかな光が尾を引くのみだった。下人は、光の後を辿って、歩みはじめた。身体の重みは感じなかった。
下人の行方は、誰も知らない。
1 note
·
View note
Photo

先週の一泊2日の韓国旅行はとてもハードでした。 まずは金曜日に仕事途中に病院に行き、PCR検査 ↓ その後陰性の英文証明書を取りに行く ↓ 土曜の12時韓国に出発 ↓ 13時25分に仁川到着、そこでさらにPCR検査 ↓ 15時にソウル駅到着 ↓ まさかのジンジュ(韓国の地名)ゆきの電車が満席 ↓ 急遽駆けつけてくれた親戚のおかげでバスチケットを何とかゲット ↓ 17時にソウル出発 ↓ 21時にジンジュ到着 ↓ ★21時30分に危篤だった103歳のお婆ちゃんにようやく会える ↓ 23時半にソウル行きの深夜バスに乗る為、バスターミナルに出発 ↓ 24時ジンジュ出発 ↓ 4時ソウル到着 ↓ 迎えに来てくれた従兄弟の車に乗ってそのまま仁川国際空港に向かう ↓ 17時仁川国際空港到着、従兄弟と軽くご飯を済ませてそのまま待機 ↓ 9時に仁川国際空港出発 ↓ 11時に関西国際空港に到着(コロナの影響で帰りの直行便がなかった為) ↓ ここでもまさかのPCR検査 ↓ 13時頃陰性判明後、新大阪駅に向かう ↓ 14時半頃新大阪駅に到着 ↓ 15時6分の新幹線で博多に向かって出発 ↓ 17時42分博多到着、家に向かう ↓ 18時に40分頃遂に家到着! ↓ その後ご飯を軽く済ませ、やっとお風呂も入って20時頃から死ぬかのように寝る。 以上が先週土日の私の動きでした。 今週も頑張りましょう!! #えび反り#denimcap#ues #militarypants#m52#m52chino#frenchmilitary#50s#レプリカ #アメカジ#タックイン#タックインコーデ#シンプルコーデ#シンプルスタイル#ワークスタイル#ワークファッション#workstyle#workfashion#militarystyle#militaryfashion#waiper#심플룩#아메카지#밀리터리룩 https://www.instagram.com/p/Cd4ReGsPWcA/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#えび反り#denimcap#ues#militarypants#m52#m52chino#frenchmilitary#50s#レプリカ#アメカジ#タックイン#タックインコーデ#シンプルコーデ#シンプルスタイル#ワークスタイル#ワークファッション#workstyle#workfashion#militarystyle#militaryfashion#waiper#심플룩#아메카지#밀리터리룩
2 notes
·
View notes