#旧小田急8000形
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旧小田急8000形が西武ホワイトとスマイルカラーを施され、西武新宿線で試運転。新西武8000形は国分寺線で5月から営業運転 2025.5.2 花小金井駅~小平駅
#landscape#japan#photography#Rail & Geo Photographer#Seibu Line#Kokubunji Line#鉄道写真#西武鉄道#国分寺線#旧小田急8000形#新西武鉄道8000形
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Made books 2024
HOMMAGE 特別号 地味なひとり旅
HOMMAGE No.4 共通ラッピング車両
HOMMAGE No.5 山手線
HOMMAGE No.6 ドラえもん電車
東急8500系 2020系がいない日常
HOMMAGE No.7 行ってみたい駅
My Train No.1 京急1000形
My Train No.2 横浜
My Train No.3 上越線
大分発金沢経由上野行き
東急8500系 サークルKの終焉
My Train 総集編 目的地は駅(Kindle版)
2024年は12冊作成しました。
・HOMMAGE 特別号 地味なひとり旅
(発売開始:サンシャインクリエイション 2024spring)
目次:山中城跡公園 / URまちとくらしのミュージアム / NTT技術史料館 / 澤乃井(小澤酒造) 豆らく、きき酒処 / 旧伊藤博久金沢別邸 / 江戸東京たてもの園 前川國男邸 / 横浜市電保存館 / 京王れーるランド / 大崎公園・披露山公園
ひとりで巡った場所を厳選して紹介。テーマがニッチだったり、開館日が極めて限定的だったり、さらには美味しい日本酒を満喫したり。 話題にしても地味でパッとしない、でもそこでの学びや感動はひとりで行くからこそ味わえないかと。
・HOMMAGE No.4 共通ラッピング車両
(発売開始:COMIC1☆24)
目次:共通ラッピング車両ガイド(JR西日本323系 / 大阪メトロ30000系 / 京阪8000系 / 近鉄9820系・近鉄5820系 / 阪急1000系・1300系 / 阪神1000系 / 大阪モノレール2000系 / キャラクターを探して / 横浜市営バス「あかいくつ」)
増殖するキャラクターラッピング車両。大規模イベント開催前に、この一冊はいかが?
・HOMMAGE No.5 山手線
(発売開始:コミティア148)
目次:数字で知る山手線 / E235系 伝統のウグイス色を受け継ぐ / 影の薄い山手線の駅/駅そば、うどんの思い出 / 山手線横断~南と北の名所~ / New brand / Natirta Express E259 / N'EX From Hachioji
東京の中心を1周60分で走る山手線。東京に行けば必ず乗る路線だが、意外と知らないことも多かったり。 そんな山手線の気になること、一緒に探してみませんか。
・HOMMAGE No.6 ドラえもん電車
(発売開始:おもしろ同人誌バザール大崎)
目次:高岡市 藤子・F ・不二雄ふるさとギャラリー / ドラえもん電車に乗ろう(DORAEMON-GO!・DORAEMON TRAM・Wrapping train) / 小田急F-trainⅠ correction / 小田急F-trainⅡ 8 month diary / 川崎市 藤子・F ・不二雄ミュージアム
今や国内問わず海外でも人気な「ドラえもん」と電車のコラボを紹介。今も走るドラえもん電車や幻のF-trainなど、藤子・F・不二雄ファン必見な一冊。
・東急8500系 2020系がいない日常
(発売開始:コミックマーケット104)
目次:朝 / 偶然 / 四季
2013~2015年の東急8500系の写真を掲載。毎朝の始業光景から、偶然な一枚、そして四季と8500系。沿線住人にとっては懐かしい光景、それ以外の方も見たことがない鉄道のシーンを見てみませんか?
・HOMMAGE No.7 行ってみたい駅
(発売開始:コミティア149)
目次:3駅連続 スノーシェルターの駅 / 首都圏のご当地発車メロディのすすめ / 旅先の変わった駅 / 食べたかった駅弁 / 復活?80年代の歌姫 / ひと夏の思い出 小田急ロマンスカーLSE
駅は旅の経由地ではなく目的地。そんな行きたくなる駅を紹介。あなたの地元の駅もあったりして。
・My Train No.1 京急1000形
(発売開始:おもしろ同人誌バザール神保町)
目次:空増結 金沢文庫 / 車体別車両図鑑 / 1000形(アルミ) 2100形 600形 同じじゃないですか!? / 体感快特!?普通浦賀行き / イエローハッピーターントレイン
総製造数500 両を越えた京急1000 形。600 形、2100 形から受け継いだ車両は、確立した技術をもとに今も進化を続けている。今回は20年以上同じ形式をつくり続けた京急のスタンダードを見ていく。
・My Train No.2 横浜
(発売開始:コミティア150)
目次:歩き鉄 汽車道・山下臨港線プロムナード / 濱の鉄道ヒストリー / リバイブ横浜市電 横浜市営バスで辿る横浜市電の旅 / SOTETSU NAVY BLUE / Seaside Line シーサイドライン / 南町田グランベリーパーク号
1872年10月14日、横浜~ 新橋に日本初の鉄道が開業した。その後もネットワークを広げ新たな鉄道が誕生したり、時代と共に消えた鉄道もあった���発祥の地で歴史を変えた鉄道を訪れる。
・My Train No.3 上越線
(発売開始:文学フリマ東京39)
目次:繁栄期の歴史 1962-1982 / 明日使える?上越線の小ネタ / 新清水トンネルの駅 土合駅・湯檜曽駅 / 過去の栄光を残す 石打駅 / SLを支えた車両の最後 DLぐんま4fine / 最後のひととき 特急ときの振り回された転属劇 / 群馬デスティネーションキャンペーンラッピング車両
上越線と言われて雪国(作 川端康成)を浮かぶ人は多いだろう。群馬と新潟を結ぶ重要な路線は、東京発着の特急が行き交っていた。時代の流れで変わってしまった路線だが、そんなかつての繁栄を探した。
・大分発金沢経由上野行き
(発売開始:文学フリマ東京39)
目次:はじまり / 大分発金沢経由上野行き / コラム 鉄道博物館で図書を読む / あとがき
昭和45年10月1日ダイヤ改正の運用表から気になる列車を見つけた。今では考えられない大分から大阪、金沢さらには上野と広範囲で運転を行っていた。なぜこの運用が出来たのか、当時を知らないからこそ気になる疑問が出て来る。新幹線のネットワークにより、縮小する在来線特急列車。今とは違う特急列車の存在を探ってみる。
・東急8500系 サークルKの終焉
(発売開始:コミックマーケット105)
目次:新生 / 大井車 / 非直車 / 幕車終焉
東急8500系写真集第三弾。2020系の導入により、変化するサークルKを中心に取り上げる。
・My Train 総集編 No.1 目的地は駅 (us / uk)
(e-book 発売開始:12/26 Thu)
目次:3駅連続 スノーシェルターの駅 / 美佐島 / 分割増結 / 復活?80年代の歌姫 / #八景シリーズ Best shot No.468 秩父八景-私鉄貨物
駅は旅の経由地ではなく目的地。そんな目的地として行きたくなる駅を紹介。意外と近くの駅があったりして。
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メロンブックス / フロマージュブックス
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Made books 2023
About(2024.10) Post:10.10 2024
Work Post:9.13 2024
#dojinshi#comic market#comitia#doujinshi my train#コ��ックマーケット#コミケ#コミティア#同人誌#即売会#鉄道#おもしろ同人誌バザール#同人誌My Train
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2025/4/11 13:00:24現在のニュース
奈良の落雷事故「強い雨が降り始めた直後に」 2人重体、学校は休校:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/4/11 13:00:14) 東海道新幹線のGW予約1%減 曜日配列が影響 混雑のピークは3日午前の下り([B!]産経新聞, 2025/4/11 12:51:46) 全国で渋滞1000カ所減、まちに価値 和歌山市は地価上昇 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/11 12:49:07) 日経平均一時1900円安 主力株急落、米投資家に売り観測 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/11 12:49:07) 鉄道3社コラボクリアファイル 元近鉄 伊賀鉄など販売 車両写真、路線図デザイン /三重 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/4/11 12:43:14) 美祢線の復旧費 負担軽減を要望 市議会がJR西に /山口 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/4/11 12:43:14) 習近平氏が東南アジア3カ国歴訪へ トランプ関税に対抗、足固めか(朝日新聞, 2025/4/11 12:40:33) 地域発:東北 食堂車で能登支援 最後の「サシ481形」 盛岡→石川、イベント活用へ /東京 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/4/11 12:36:18) 小田急から西武鉄道へ リニューアルした「8000系」を公開 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/4/11 12:36:18) ローカル鉄道維持 国の責任明確に 全国知事29人が首相に要望書 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/4/11 12:36:18) 両陛下、11日大阪ご訪問 万博開会式ご臨席へ 皇室と万博縁深く([B!]産経新聞, 2025/4/11 12:33:54) 万博会場に「オールジェンダートイレ」 便器も洗面台も男女共用、歌舞伎町では物議で廃止([B!]産経新聞, 2025/4/11 12:33:54) 「機動救急隊」が活動開始 市民高齢化で出動件数の増加受け 秋田(毎日新聞, 2025/4/11 12:33:27) コメ価格高騰巡り 農相、卸売業者に放出を直接要請へ 14日に面会(毎日新聞, 2025/4/11 12:33:27) 現場急行に備え 水上警察隊の機関長、船メンテ「毎日万全に」 千葉(毎日新聞, 2025/4/11 12:33:27) 春らんまん 1200本桜のトンネル 佐賀市のサイクルロード(毎日新聞, 2025/4/11 12:33:27) 党首討論 23日に開催 慎重だった与党も前向きに「石破さんなら」(朝日新聞, 2025/4/11 12:33:23)
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を���ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の���水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が��ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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2022年4月15日

ひろしまレポート(広島県)

旧海軍第六潜水艇 明治期の殉難追悼 呉の神社に100人参列(中国新聞)
明治末期、訓練中の沈没事故で佐久間勉艇長たち乗組員14人が亡くなった旧海軍第六潜水艇の殉難追悼式が15日、「殉難之碑」のある広島県呉市西三津田町の鯛乃宮(たいのみや)神社であった。地元住民や海上自衛隊員たち約100人が参列した。

総人口64万人減の1億2550万人 21年、減少率最大に(日本経済新聞)
総務省は15日、2021年10月1日時点の人口推計を発表した。外国人を含む総人口は20年10月と比べて64万4000人少ない1億2550万2000人だった。減少は11年連続。減少率は0.51%で、統計を取り始めた1950年以来、最大となった。
労働の担い手となる15~64歳の「生産年齢人口」は58万4000人減の7450万4000人だった。総人口に占める割合は59.4%で過去最低を更新した。近年は労働力不足を高齢者や女性が働きやすい環境づくりで補ってきたがそれも厳しくなりつつある。
少子高齢化にも歯止めがかからない。65歳以上の高齢者は3621万4000人だった。総人口に占める割合は28.9%で過去最高となった。年金や医療、介護といった社会保障費が膨らめば国の財政悪化の要因となる。
解説・室橋祐貴 日本若者協議会 代表理事
岸田首相が今国会の冒頭、施政方針演説で「若者・子育て世帯の負担増を抑制するための改革」に取り組むと述べた一方、「全世代型社会保障構築会議」では、給付と負担のあり方が論点に含まれていません。賃金上昇の停滞に加え、社会保険料の増加によって、現役世代の可処分所得は減り続け、子どもを育てる余裕もありません。大学授業料の引き下げも本格的に検討する必要がありますが、こうした中心的な課題は避けられ、周辺部分ばかりが議論されています。いつまで課題を先送りし続けるのか。政治家の無責任さが残念です。
分析・考察 菅野幹雄 日本経済新聞社 上級論説委員/編集委員
私も60歳が近づき人のことは言えませんが、4年ぶりに帰国して東京を歩くと、シニア層の割合の高さを実感します。記事のグラフが21年でボコンと落ちたのを目にすると、中長期での日本の体力低下を憂慮します。
米国でも21年7月時点の人口が1年前の0.1%増と過去最低の伸び率になりました。新型コロナウイルスによる人同士の接触機会の減少は世界的な傾向ですが、日本の動きは一段と遅れています。コロナ鎖国ともいえる外国人の入国締め出しが続き、人口減少を補う移民の受け入れの議論はもちろん、インバウンド旅行者への「開国」すら立ち往生しています。参院選対策も大事でしょうが、将来世代のための人口政策はもっと重要です。
分析・考察 中村奈都子 日本経済新聞社 編集委員
国際NGOプランインターナショナルの調査によれば、女の子らしさや男の子らしさを求める「ジェンダー・ステレオタイプ」に対し、日本の高校生の7割が「自分の可能性を狭めていると感じる」と回答しています。未来に希望を持てない社会で、若い人たちが子どもを産み育てようと思うでしょうか。
ジェンダーに基づく思い込みや偏見を改善するためにも、高度成長期の家族を前提とした社会システムの見直しが急務です。
総人口は64万人減の1億2550万人、減少幅は過去最大-15年連続自然減(ブルームバーグ)
総務省は15日、2021年10月1日現在の総人口が前年に比べ64万4000人減少し、1億2550万2000人だったと発表した。減少幅は比較可能な1950年以降過去最大。
日本人人口は1億2278万人で、前年に比べ61万8000人の減少となり、10年連続で減少幅が拡大
自然増減は60万9000人の減少で、15年連続の自然減少で減少幅は拡大
人口増加は沖縄県のみ
同県と滋賀県を除く45都道府県で75歳以上人口の割合が15歳未満人口の割合を上回る
関連記事:東京の人口が26年ぶり減、コロナ不安やテレワークで一極集中に変化も

難病ALSの進行止まるかも 京大などのiPS創薬治験、2段階目に(朝日新聞)
筋力が衰えて体が徐々に動かなくなる難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の患者に、iPS細胞を使って見つけた治療薬候補「ボスチニブ」を飲んでもらう第2段階の治験が今月から始まった。京都大学などのチームが15日、発表した。
ALSは進行を遅らせる薬はあるものの、根本的な治療法はない。チームはiPS細胞で病気の細胞を再現。有効な薬の候補を探したところ、白血病の治療に使われる「ボスチニブ」が見つかった。2019年から21年の1段階目の治験では、1日100~300ミリグラムを12週間服用した患者9人のうち、5人で病気の進行が止まったという。進行を止めたり、遅らせたりする新たな治療薬になる可能性がある。(鈴木智之)

昨年度の空自緊急発進1004回 中国機が大幅増(産経ニュース)
防衛省は15日、他国機が日本の防空識別圏に入り、航空自衛隊機が緊急発進(スクランブル)した回数が令和3年度は計1004回に上り、過去最多だった平成28年度の1168回に次いで過去2番目に多かったと発表した。中国機に対する回数が722回と急増しており、全体の回数を押し上げた。
防空識別圏は領空侵犯に備えるために領空外側に設けられた空域で、戦闘機による緊急発進の基準となる。
昨年度1年間の緊急発進回数は計1004回で、前年度の725回から大幅に増えた。中国機に対する発進が722回で、前年度の458回から急増し、全体の約72%を占めた。一方、ロシア機は266回と全体の約26%で、前年度と同水準だった。
沖縄本島と宮古島の間での中国機の通過確認は無人機を含め12回で、前年度の4回から大幅に増加。うち情報収集機が多数を占め、中国は情報収集活動を活発化しているとみられる。
昨年11月には3度目となる中露爆撃機の共同飛行が確認され、12月には中国空母から艦載機の発進が確認されるなど飛行の態様は多様化、高度化している。また、新型無人機が2回確認されるなど無人機の自国開発も継続されている。
岸信夫防衛相は15日の記者会見で中国の活動活発化について「国防政策や軍事力に関する透明性の不足とあいまって、地域と国際社会の安全保障上の強い懸念となっている」と述べた。
防衛費、5年でGDP比2% 自民調査会の提言原案(時事通信)
年末に予定される国家安全保障戦略の改定に向け、自民党安全保障調査会(会長・小野寺五典元防衛相)がまとめる提言の原案が15日、分かった。防衛費について、北大西洋条約機構(NATO)が国内総生産(GDP)比2%の目標を定めていることを踏まえ、同程度の水準を5年をめどに達成するよう求める。
2022年度予算では、防衛費5兆4005億円を計上。GDP比は0.957%であるため、自民提言は大幅増を求めた形だ。

「ロシア軍艦、くたばれ」現実に ウクライナ、切手発売の2日後(毎日新聞)
ウクライナの郵便局が12日、「ロシアの軍艦、くたばれ」というタイトルの切手の販売を始めた。露軍への敵意をむき出しにしたものだが、くしくも2日後、ウクライナ軍のミサイルが命中したとされる露海軍黒海艦隊旗艦のミサイル巡洋艦「モスクワ」が沈没。ウクライナではこの切手に人気が集まっているという。
切手は、露軍艦とみられる艦船を背景に中指を立てるウクライナ国境警備隊員を配した刺激的なデザイン。初日限定の封筒とのセットは2万部を発行した。英BBCは14日、「モスクワ」が沈没したというニュースを受けて、ウクライナ国内の郵便局に行列ができていると伝えた。
切手は国内で有名な実話に基づいたデザインだ。ロシアがウクライナに侵攻した2月24日に黒海沿岸ズミイヌイ島のウクライナの国境警備隊員が、投降を要求するロシア軍兵士に対し「くたばれ」と拒否したエピソードがもとになっている。隊員らは殺害されたとみられていたが、その後、露軍の捕虜となっていたことがわかり、捕虜交換で解放された。ウクライナの郵便局は「この警備隊の応答は勇気と不屈の精神を示す象徴となった」としている。
郵便局はこのエピソードをもとに「フェイスブック」上で人気投票を実施。約8000票の投票が集まり、20作品の中からクリミア出身の画家ボリス・グロー氏のスケッチが採用された。
郵便局の幹部は「海外の友人たちは、この切手が貼られた手紙を喜んで受け取ってくれると確信している。郵便という方法で、我々の土地から今すぐ立ち去るよう侵略者に思い知らせる」としている。【堀和彦】
ロシア黒海旗艦が沈没 ウクライナはミサイル攻撃主張(時事通信)
【AFP=時事】(更新)ロシア国防省は14日夜、ウクライナでの軍事作戦中に損傷した黒海(Black Sea)艦隊旗艦のミサイル巡洋艦「モスクワ(Moskva)」が沈没したと発表した。国営タス通信(TASS)が伝えた。
国防省によると、同艦は弾薬の爆発と火災に見舞われた後、港へのえい航中に船体の損傷が原因でバランスを崩し、荒波にもまれて沈没した。
同省は先の発表で、火災は鎮火し、同艦は沈没していないと説明。火災の原因については調査中としていた。数百人の乗組員は別の船に避難したとされる。
ウクライナ側は、同艦をミサイルで攻撃したと主張。南部オデーサ(Odessa)の軍報道官は、国産巡航ミサイルのネプチューン(Neptune)で損害を与えたと説明している。【翻訳編集】 AFPBB News

ロシア核兵器使用の可能性を警告 米CIA長官(AFPBB News)
【AFP=時事】米中央情報局(CIA)のウィリアム・バーンズ(William Burns)長官は14日、ロシアのウクライナ侵攻が苦戦を余儀なくされているのを受け、ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領は核兵器の限定使用に踏み切る可能性があるとの認識を示した。
バーンズ氏はジョージア工科大学(Georgia Institute of Technology)で講演し、「プーチン大統領とロシア指導部が自暴自棄になる可能性、さらにこれまでの戦局の停滞を踏まえると、戦術核もしくは低出力核兵器を使用する恐れがあることを軽視できない」と述べた。
ロシア大統領府(クレムリン、Kremlin)は2月24日の侵攻開始直後、核抑止力部隊を厳戒態勢に移行するよう命じた。しかし、バーンズ氏によると、実際に配備されたことを示す「具体的な証拠」は確認されていない。
駐ロシア大使を務めたことがあるバーンズ氏は「われわれが憂慮しているのは言うまでもない。私は(ジョー・)バイデン(Joe Biden)大統領が、第3次世界大戦を回避すべく、また核戦争につながるぎりぎりの線にまで到達しないよう熟慮していることを知っている」と語った。

ローソン、からあげクンを10%値上げへ、1986年発売以来で初(朝日新聞)
ローソンは15日、レジ横で販売している「からあげクン」を5月31日から値上げすると発表した。1食(5個入り)税込み216円を、238円に10%引き上げる。値上げは1986年4月の発売以来初めて。原材料の高騰や原油高による輸送コスト上昇などで自助努力では対応できなくなったという。
「レギュラー」「レッド」「北海道チーズ」「レモン味」の4種類が定番だが、これまでに地域限定やアニメとのコラボなどで300種類以上の味を展開し、今年3月末時点の累計販売数は37億食を突破した。原材料の鶏むね肉やから揚げ粉として使う小麦粉の国産化も進めた。店内厨房(ちゅうぼう)で調理する「まちかど厨房」や「フライドフーズ」などの一部商品を税込み価格で6%程度値上げする方針も明らかにした。

【本日 (4/15)の広島県内の感染状況】(広島県)
GW新幹線の予約は去年の約2倍 ピークは下り29日、上り来月5日 JR広島管内(FNNプライムオンライン)
JR西日本によりますと今年のゴールデンウイーク期間の新幹線の予約率は、去年に比べるとおよそ2倍に増加しているということです。
最大10日間の大型連休となる今年のゴールデンウイーク。JR西日本によりますと今月28日から来月8日までの期間で、広島支社管内を発着する新幹線指定席の予約数は、今月13日時点で上り下りあわせて34万3000席です。
「まん延防止等重点措置」などが解除されたこともあり、去年と比べると予約数はおよそ2倍増加していますが、新型コロナウイルス感染拡大前の2018年と比べると5割程度にとどまっています。
ゴールデンウイーク期間の予約のピークは下りで今月29日で上りは来月5日と予想されています。
【国内感染】新型コロナ 62人死亡 4万9761人感染 (15日18:30)(NHKニュース)
東京都 新型コロナ 7人死亡 6768人感染 1週間前より1300人余減(NHKニュース)
大阪府 新型コロナ 7人死亡 3692人感染確認 前週より200人余減(NHKニュース)
コロナ新規感染者 1週間平均 34都道府県で前週より増 地域差も(NHKニュース)
新型コロナウイルスの新規感染者数を1週間平均で比較すると、全国では緩やかな増加傾向が続いていて、34の都道府県で前の週より多くなっています。首都圏などの都市部では増加が緩やかな一方、地方を中心に増加の幅が大きくなっているところもあり、地域によって感染状況に差が出ています。
NHKは各地の自治体で発表された感染者数をもとに、1週間平均での新規感染者数の傾向について前の週と比較してまとめました。
全国 ▽先月17日までの1週間ではその前の週から0.90倍、▽先月24日は0.76倍で、6週連続で緩やかに減少していました。
しかし、▽先月31日は1.17倍と増加に転じ、▽今月7日は1.04倍、▽今月14日まででは1.06倍と、3週連続で緩やかな増加傾向となっていて、一日当たりの平均の新規感染者数はおよそ4万9888人となっています。
感染者数が前の週より増えたのは34の都道府県で、首都圏や関西、中部の都市部ではほぼ横ばいとなっている一方、九州など増加の幅が大きくなっている地域もあります。
沖縄県 人口当たりの感染者数が最も多い沖縄県は▽先月31日までの1週間は前の週の1.32倍、▽今月7日は1.29倍、▽今月14日まででは1.17倍と、4週連続で増加傾向となっています。一日当たりの新規感染者数はおよそ1310人で、直近1週間の人口10万当たりの感染者数は625.09人と、全国で最も多くなっています。
1都3県
【東京都】▽先月24日までの1週間では減少傾向となっていましたが、▽先月31日までの1週間は前の週の1.19倍、▽今月7日は0.99倍、▽今月14日まででは1.01倍とほぼ横ばいで推移していて、一日当たりの新規感染者数はおよそ7502人となっています。
【神奈川県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.01倍、▽今月7日は1.01倍、▽今月14日まででは1.03倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ3966人となっています。
【埼玉県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.23倍、▽今月7日は0.90倍、▽今月14日まででは1.01倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ3411人となっています。
【千葉県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.17倍、▽今月7日は1.03倍、▽今月14日まででは0.96倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ2577人となっています。
関西
【大阪府】▽先月31日までの1週間は前の週の1.10倍、▽今月7日は1.07倍、▽今月14日まででは1.06倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ3956人となっています。
【京都府】▽先月31日までの1週間は前の週の1.28倍、▽今月7日は1.04倍、▽今月14日まででは1.00倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ916人となっています。
【兵庫県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.09倍、▽今月7日は0.99倍、▽今月14日まででは1.06倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ1931人となっています。
中部
【愛知県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.14倍、▽今月7日は1.00倍、▽今月14日まででは1.07倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ2685人となっています。
【岐阜県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.24倍、▽今月7日は1.17倍、▽今月14日まででは1.10倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ618人となっています。
【三重県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.45倍、▽今月7日は1.19倍、▽今月14日まででは1.04倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ609人となっています。
その他の地域
【北海道】▽先月31日までの1週間は前の週の1.20倍、▽今月7日は1.15倍、▽今月14日まででは1.13倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ2224人となっています。
【広島県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.37倍、▽今月7日は1.09倍、▽今月14日まででは1.12倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ1097人となっています。
【福岡県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.25倍、▽今月7日は1.07倍、▽今月14日まででは1.11倍となっていて、1日当たりの新規感染者数はおよそ2516人となっています。
一方、増加の幅が比較的大きい地域もあります。
【佐賀県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.66倍、▽今月7日は1.09倍、▽今月14日まででは1.28倍となっています。
一日当たりの新規感染者数はおよそ446人で、直近1週間の人口10万当たりの感染者数は384.62人と、沖縄県に次いで全国で2番目に多くなっています。
【宮崎県】▽先月31日までの1週間は前の週の1.47倍、▽今月7日は1.61倍、▽今月14日まででは1.29倍となっています。
一日当たりの新規感染者数はおよそ579人で、直近1週間の人口10万当たりの感染者数は378.65人と、全国で3番目に多くなっています。
このほか、▼岩手県は今月14日までの1週間は前の週の1.31倍、▼長野県は1.26倍、▼福井県は1.23倍、▼奈良県は1.31倍、▼和歌山県は1.20倍、▼岡山県は1.32倍、▼徳島県は1.33倍、▼長崎県は1.29倍となっています。
専門家「増加している地域もあり油断できず」
感染症に詳しい東京医科大学の濱田篤郎特任教授は、現在の感染状況について「地域によって感染に差がみられるのが現在の特徴だ。大都市圏では、地方都市に比べてすでに感染した人が多く、免疫を持っている人が多くなっているなど免疫の面で違いがあると考えられる。それに加えて大都市圏では流行がずっと続いていたため、職場や学校などで積極的、効率的な予防対策が取られていることも一因ではないか」と話しています。
今後について、濱田特任教授は「まだ一日に4、5万人の感染者が出ていて増加している地域もあるので油断はできない。ただ、世界的な傾向としてオミクロン株の流行は減少に向かっているので、注意をしながらもう少し我慢すれば減少に向かう可能性は十分にある。これから大型連休を迎えるが、例えば旅行する際にはワクチンの3回目接種を受け、マスクの着用や会食は少人数で短時間にするなどの対策を続けてもらいたい。体調が悪い場合などには旅行を取りやめることも想定しておいた方がいい。この2年間でどういう行為がリスクが高いか分かってきていると思うので、大型連休でもしっかり対策を続けることが大切だ」と話しています。
保健相の拉致など計画 独で反コロナ規制グループ逮捕(AFPBB News)
【AFP=時事】ドイツ西部ラインラント・プファルツ(Rhineland-Palatinate)州の捜査当局は14日、爆発物を使った攻撃などを計画したとして、新型コロナウイルス対策の制限措置に反対する親ロシア派極右団体の4人を逮捕したと発表した。計画にはカール・ラウターバッハ(Karl Lauterbach)保健相の拉致も含まれていた。
4人は電力供給設備を破壊し全国で長期的な停電を引き起こそうとしていたほか、「内戦のような状況を引き起こし、最終的にはドイツの民主主義体制の転覆を企てていた」とされる。さらに複数の「著名な公人」の拉致も計画していたとされ、ラウターバッハ氏は自身が標的の一人だったと認めた。
捜査当局は13日、41〜55歳のドイツ人容疑者5人を特定。最終的に4人を逮捕し、カラシニコフ銃1丁を含む銃器約20丁などを押収した。
4人は極右団体「統一愛国者(Vereinte Patrioten)」に所属。同団体には70人のメンバーがおり、ロシアのウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領の支持者や、ドイツの民主主義制度を否定する極右団体「帝国の市民(Reichsbuerger)」のメンバー、政府のコロナ対策に反対する人々も含まれていたという。
ラウターバッハ氏は、コロナ規制反対派の一部は「非常に危険」になっていると指摘した。ドイツでは時に数万人規模の反コロナ対策デモが行われ、ワクチン懐疑派や、ネオナチ(Neo-Nazi)、極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」のメンバーなど、多様な人々を集めている。
韓国、コロナ規制ほぼ全面解除(AFPBB News)
【4月15日 AFP】韓国政府は15日、新型コロナウイルスの感染者が激減したことを受け、ソーシャル・ディスタンシング(対人距離の確保)対策の規制をほぼ全面的に解除すると発表した。
室内でのマスク着用義務は「かなりの間」維持する。屋外での着用義務については、このまま感染者数の減少が続けば、2週間後に解除される可能性がある。
屋外での感染リスクが極めて低いことを示す検証事例も多く、米国など多くの国でワクチン接種済みの場合は屋外でのマスク着用は求められなくなっている。
金富謙(Kim Boo-kyum)首相によると、飲食店などの深夜営業の禁止と、10人までとしていた集まりの人数制限は、18日から撤廃される。
今回の決定により、中小企業の活動の大幅な抑制につながった、2年前に導入された厳格なソーシャル・ディスタンスの規制は終了し、韓国社会は通常に戻ることになる。
映画館などの施設内での飲食の禁止も、25日から解除される。
オミクロン株の流行による感染のピークは過ぎたとみられ、先週の新規感染者数は1日10万人を下回った。3月中旬のピーク時は62万人を超えていた。
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纽市盘前:硬脱欧前景骤升实属过度应激,英镑走高90点;OPEC再唱悲歌,美油下挫逾1.3% 纽市盘前:硬脱欧前景骤升实属过度应激,英镑走高90点;OPEC再唱悲歌,美油下挫逾1.3% 周一(9月14日)欧洲时段,英镑兑美元走高90点,大涨0.8%至1.29,在英国和欧盟之间的会谈恶化之前,对冲基金已经将其对英镑的多头押注提高到了五个多月来的最高水平。投资者等待英国下议院关于内部市场法案的投票,英国方面表示,内部市场法案将保护英国的贸易,同时保持世界领先的标准。但投资银行高盛表示,出现破坏性的无协议英退的可能性“大大低于”市场所暗示的水平,对于愿意忽略短期波动的投资者而言,当前的英镑水平具有吸引力。而摩根大通表示,无协议脱欧可能会使英国GDP在2021年下降至少3%,导致英国央行采取更多的量化宽松政策,并有可能将利率降至0%以下。 欧洲时段,美油下跌1.35%至36.83美元/桶,OPEC月报认为由于需求疲软,页岩油产量复苏,石油价格前景将趋弱。同时预计2020年全球原油需求下滑946万桶/天(较上月下调40万桶/天),预计2021年全球原油需求增长662万桶/天(较上月下调38万桶/天),此外,在利比亚,指挥官Khalifa Haftar承诺结束长达数月的石油设施封锁。此举将增加市场供应,尽管尚不清楚油田和港口是否会开始运营。经纪商的资深市场分析师Jeffrey Halley表示,关于利比亚石油出口码头封锁可能即将结束的声明,将给本周OPEC+会议增加难题。OPEC+将于9月17日开会讨论减产协议的执行情况,不过分析师认为不会进一步减产。 ★近期热点提要★ 1、【英国首相发言人:首相约翰逊将于周一就脱欧计划展开议会辩论】英国首相发言人:英国部长们已经就接管问题与公司进行了谈话;欧盟-日本协议与我们对欧盟的承诺类似;内部市场法案将保护英国的贸易,同时保持世界领先的标准;我们本着诚意进行谈判,需要继续取得进展。 2、【OPEC月报:认为由于需求疲软,页岩油产量复苏,石油价格前景将趋弱】OPEC月报:将2021年全球经济增长预测维持在4.7%不变;将2020年全球经济增长预期从4%下调至4.1%;将2021年非OPEC国家石油供应增长预测从37.1万桶/日提高到100万桶/日;预测2020年世界石油需求将减少946万桶/日(此前预测为减少906万桶/日);疫情影响仍然具有挑战性,需要包括OPEC在内的所有市场参与者采取协调的政策行动; OPEC月报:八月份石油产量增加了76万桶/日,达到2405万桶。据机构计算,减产履约率率升至103%;将2020年全球原油需求量预测下调70万桶/日,2021年下调110万桶/日,原因是非OPEC产油国供大于求,全球需求下降;预计2021年石油需求将增长662万桶/日(此前预测为700万桶/日);将2020年世界石油需求下降程度的预测下调40万桶/日至950万桶/日; 7月中国原油进口量为1210万桶/日,进口量为有史以来第二大;7月份经合组织石油库存下降450万桶,降至32.3亿桶;据二手资料显示,伊朗8月原油产量增加1.0万桶/日至194.0万桶/日;阿联酋8月份原油产量增加了18万桶/日;沙特8月原油产量增加47.5万桶/日至889.2万桶/日;伊拉克8月原油产量减少10.0万桶/日至365.2万桶/日;科威特8月原油产量增加12.7万桶/日至228.8万桶/日。 3、【菅义伟赢得日本执政党党魁选举,迈向首相宝座】① 日本内阁官房长官菅义伟周一赢得日本执政党自民党党魁选举,为他本周在国会投票中当选日本首相铺平道路。② 在党魁选举中投出的535张选票中,菅义伟获得377票。现年71岁的菅义伟是即将离任的安倍晋三首相的忠实助手,他说过将坚持安倍的主要经济和外交政策。③ 前防卫大臣石破茂获得68票,前外务大臣岸田文雄赢得89票。④ 由于自民党在众议院中的多数优势,菅义伟实际上肯定会在周三的国会选举中当选首相。他将完成安倍作为自民党主席截至2021年9月的剩余任期。⑤ 安倍是日本在位时间最长的首相,他上月表示将因病请辞,结束近八年的执政。⑥ 菅义伟已经表示他将延续“安倍经济学”政策,利用超宽松货币政策、政府支出及推动各项改革的策略,来应对新冠疫情及景气滑坡的问题,同时面对日本人口老化及低生育率等中长期问题。⑦ 一项调查显示,日本制造业者9月连续第14个月维持悲观看法,凸显出下任领导人面临的巨大挑战。 4、【德国经济部:由于制造业趋弱,近期经济复苏步伐放缓】德国政府周一发布的一份报告显示,由于汽车行业需求疲软,机械产出下降,德国近期经济复苏步伐有所放缓。德国经济部在最新发表的月报中表示,德国经济继续复苏,但近期有所趋弱,今年接下来的时间里,复苏料将持续,但只有到2022年初才会回到2019年末危机前的水平。报告称,企业更加乐观,但由于全球经济前景难以确定,德国出口行业前景谨慎乐观。 5、【欧元兑美元多仓规模仍然非常庞大,失守1.17前仍有冲高机会】① 持仓数据显示,欧元兑美元多仓规模仍然非常庞大;尽管7月底失去上涨动能,但交易员仍继续推高欧元兑美元。② 数据显示,欧元兑美元的多仓规模一直在扩大,直到8月底,之后几乎没有减少;在该货币对失去动能后,多仓规模增加了50亿欧元。③ 现在的问题是,投机客准备持有这些多仓多长时间。交易员认为,当然欧元有可能更大幅度地上涨,但不大可能很快出现。④ 今年交易商所能期待的最好结果就是,缓慢涨至1.2167;若收盘跌破1.1700,可能令人担忧,之后的目标为1.14-1.15。 6、【法国央行:修正2020年GDP预测至-8.7%,2021年增长7.4%,2022年增长3.0%。预计第三季度GDP环比增长16%,此前第二季度萎缩13.8%。预计目前经济活动比正常水平低5%】 ★欧洲时段外汇行情回顾★ 欧洲时段,美元指数跌逾30个点至93关口下方,投资者预期本周的美联储利率决议依旧偏鸽,大多数分析师认为,美联储不会对货币政策,尤其是对购买债券目标或收益率曲线控制进行表态。但在大选前,美联储表态会相对温和,并尽一切努力来稳定经济。美国财长努钦表示,将继续推动经济刺激计划,愿意就刺激计划进行谈判,没有任何条件,认为如果佩洛西愿意妥协,是可以就新冠刺激计划达成协议的。 欧洲时段,欧元兑美元四连涨至1.1885,受益于美元回落,而持仓数据显示,欧元兑美元多仓规模仍然非常庞大;尽管7月底失去上涨动能,但交易员仍继续推高欧元兑美元。数据显示,欧元兑美元的多仓规模一直在扩大,直到8月底,之后几乎没有减少;在该货币对失去动能后,多仓规模增加了50亿欧元。但荷兰合作银行认为欧元兑美元有向下修正的空间,欧洲大陆新增病例数量的增长超过了美国,欧盟的复苏基金不太可能足以覆盖欧洲的任何大规模封锁,这种情况可能重新引发该地区的政治不和谐,并给欧洲央行政策制定者带来进一步压力,虽然欧洲央行能够在9月政策会议上喘口气,但危机显然还没有结束,考虑到到年底避险需求可能更多,从三个月来看,欧元兑美元��率可能跌向1.16。 欧洲时段,英镑兑美元走高90点,大涨0.8%至1.29,在英国和欧盟之间的会谈恶化之前,对冲基金已经将其对英镑的多头押注提高到了五个多月来的最高水平。投资者等待英国下议院关于内部市场法案的投票,英国方面表示,内部市场法案将保护英国的贸易,同时保持世界领先的标准。但投资银行高盛表示,出现破坏性的无协议英退的可能性“大大低于”市场所暗示的水平,对于愿意忽略短期波动的投资者而言,当前的英镑水平具有吸引力。而摩根大通表示,无协议脱欧可能会使英国GDP在2021年下降至少3%,导致英国央行采取更多的量化宽松政策,并有可能将利率降至0%以下。 欧洲时段,美元兑日元跌破106,刷新三日低点,美元指数回落,而估值较高的美国科技股出现深度调整的风险,可能会令日元受益,日本内阁官房长官菅义伟周一赢得日本执政党自民党党魁选举,为他本周在国会投票中当选日本首相铺平道路。这将有助于限制金融市场动荡,但并不意味着,人们对日本提振通胀和经济增长的政策的信心不会继续减弱,有利于日元未来弱势进一步逆转。 欧洲时段,现货黄金探底回升至1950美元/盎司上方,美元回落,本周市场将聚焦于美联储利率决议。黄金市场在等待着美联储会议,虽然并不认为美联储会改变目前市场语境,但市场对通胀升温的预期相当强;在利率已经非常低的情况下,通胀走高意味着实际利率的进一步走低,这对黄金是利好的。Oanda高级市场分析师Jeffrey Halley表示,黄金长期看涨的基本面没有变化。下行支撑在1900至1920美元/盎司间,上行阻力在1970左右;很难说短期金价走势会如何,但投资者们应当等待未来几周买入机会的到来,可能在1830美元/盎司左右。 欧洲时段,美油下跌1.35%至36.83美元/桶,OPEC月报认为由于需求疲软,页岩油产量复苏,石油价格前景将趋弱。同时预计2020年全球原油需求下滑946万桶/天(较上月下调40万桶/天),预计2021年全球原油需求增长662万桶/天(较上月下调38万桶/天),此外,在利比亚,指挥官Khalifa Haftar承诺结束长达数月的石油设施封锁。此举将增加市场供应,尽管尚不清楚油田和港口是否会开始运营。经纪商的资深市场分析师Jeffrey Halley表示,关于利比亚石油出口码头封锁可能即将结束的声明,将给本周OPEC+会议增加难题。OPEC+将于9月17日开会讨论减产协议的执行情况,不过分析师认为不会进一步减产。 机构观点 【基金经理:美股严重高估+市场对美元失去信心,将推高黄金白银】① 美国资金经理和经济学家迈克尔·彭托(Michael Pento)表示,股市和基础经济之间存在巨大的差异。目前股市的估值变得十分的疯狂,股票估值是GDP的180%。从这个角度来看,2000年3月纳斯达克市值下跌85%之前,它的市值相当于GDP的140%。”② Pento说,他的投资组合目前黄金和白银的权重为20%;③ 他预测,美联储即将出台的通胀政策和利率抑制“将成为黄金和白银出现火箭般上涨的助推器”;④ Pento指出,黄金和白银上涨的走势才刚刚开始,如果比特币是每盎司1万美元,为什么黄金不能是每盎司5000美元、10000美元或15000美元呢?市场上充斥着这么多美元,黄金很容易就能涨到5000或8000美元/盎司,这就是未来的走势。”⑤ Pento还说:“债券市场最终会崩溃,但即将到来的最大崩溃是对所有法定货币的信心。” 【摩根大通:美国大选投票有争议将是市场的最坏情形】①摩根大通策略师Mislav Matejka等报告表示,如果美国的选票过于接近,大选结果因为重新计票和可能的法律纠纷而被推迟,将是市场的最坏情形;②该机构报告称,从现在到年底,标普500指数波动性期限结构会向上倾斜,并于2021年1月达到顶峰,而不是到11月大选日左右,这表明市场愈发预计大选结果会有争议。同小布什与戈尔对阵时相比,如果国会陷入瘫痪可能对经济“更具破坏性”,因为经济纾困的关键刺激措施可能会延迟;③摩根大通认为,进入年底,市场的另一风险是贸易不确定性可能再次增加。其他风险包括疫苗延后或遭遇挫折、市场技术指标充满挑战、经济基本面可能疲软、信贷风险、美元强势,以及围绕英国脱欧、俄罗斯、伊朗等地缘政治风险。 【对冲基金在脱欧谈判破裂前增持了英镑多头头寸】① 在英国和欧盟之间的会谈恶化之前,对冲基金已经将其对英镑的多头押注提高到了五个多月来的最高水平。② 根据商品期货交易委员会(CFTC)汇总的数据,截至9月8日当周,杠杆基金持有的净期货和期权头寸增加了7591份合约,至10173,为3月24日以来最高。资产经理采取了相反的做法,同期他们的净空头头寸增加了6,223份合约,至8,821。③ 此举发生在鲍里斯·约翰逊政府拒绝了欧盟有关其撤销有违脱欧协议的最新立法要求之前。英镑兑美元今年以来下跌超过3%,在G10货币中表现最差。④ 摩根大通澳大利亚宏观销售执行董事Laura Fitzsimmons称,随着脱欧风险攀升,英镑可能降至1.26水平。她在接受采访时说:“由于英镑之前表现好得多,使市场陷入了对英国脱欧的虚假安全感,但这是因为美元疲软,现在已经反过来了”。 【对美联储本周议息会议的判断,分析人士有不同的看法】① 保诚金融首席投资官Quincy Krosby表示,她认为美联储不会继续对货币政策,尤其是买多少美国国债的问题上做出更加清晰的表态,因此股市可能不会表现太好。她认为,市场正在担心美联储不会提供对货币政策计划的明确解读;② Bleakley Advisory Group首席投资官Peter Boockvar认为,美联储不太可能对货币政策进行大幅调整,并且还将继续以每月800亿的速度购买美国国债;③ 美国银行策略师表示,债券市场正在密切关注美联储资产负债表及其前瞻指引的变化,尤其是对通胀政策的调整。目前,美联储将关注目标通胀率的政策更改为平均利率,这意味着若通胀率超过2%,美联储可能不会收紧货币政策。他同时表示,美联储目前的政策变化,可能会支持更高的后端利率和更陡峭的收益率曲线。这意味着如果美联储如果不明确购买国债的计划,长期债券可能会被抛售;④ 美联储本周的会议,将是大选前的最后一次议息会议。分析人士预计美联储主席鲍威尔会尽一切努力来稳定经济;⑤ Bannockburn Global Forex表示,他认为美联储的表态会十分温和,但鲍威尔不太可能会对购买债券目标或收益率曲线控制进行表态。他同时指出,美联储7万亿美元的资产负债表最近已从峰值下跌约1000亿美元,其债券购买量远远落后于欧洲央行;⑥ 美联储将继续诉说不担心通胀的表态。相比通胀,美联储更大的担忧是经济下行风险。未来一周股市可能会保持震荡,但不会急剧下跌。毕竟如果美联储偏鸽,美元可能会下跌,然而这对股市有利;⑦ 过去一周中,股票市场波动率和跌幅很大。标准普尔500指数2.5%的周跌幅也创下了月度记录;而纳斯达克指数4.1%的周跌幅,也是自3月份以来最糟糕的一周。下周末,美股期权的大量到期可能会加剧市场的波动。 【本周随着美联储利率决议的到来,黄金市场或许会迎来较为明显的行情】① 本周最重要的无疑是美联储利率决议。这是美联储宣布了平均通胀2%之后的首次会议,因此备受瞩目;② 道明证券(TD Securities)表示,预计美联储会重拾其极为宽松的货币政策立场。本周美联储利率决议将能够清除黄金多头的第二个障碍,预计美联储官员们会给出较为鸽派的信号;③ 该行表示,随着时间流逝,这意味着购债平均到期期限将延长,会进一步支撑贵金属市场的表现。在这种情况下,金价将上行突破;④ 不少黄金市场人士认为,投资者不必太过关注本周美联储利率决议,因为利率将维持低迷状态;⑤ 野村证券(Nomura)的经济学家们认为,本周利率决议美联储不会有什么重大宣布,关键在于其更新后市经济预期,包括对2023年的预期。9月会议还是会讨论那些关键的长期话题,但重大政策要等到今年晚些时候才会出现;⑥ 汇丰银行(HSBC)首席贵金属分析师James Steel指出,实际利率会维持在负值。在这种环境下,低利率会使得黄金这种资产变得更有吸引力。 【随着黄金波动下降,黄金期权策略备受瞩目】① Darin Newsom Analysis主席Darin Newsom指出,黄金市场被陷在中性的震荡区域里,波动率也在下降,所以可能是押注期权的好时机。在波动率低迷的情况下,期权交易是比较好的,波动率高的时候则应该出售期权。眼下黄金市场波动率比较中性;② Newsom认为,从技术面来看,黄金有些看空,但投资者们不能忽视的是金价维持住了关键支撑,也就是持续走高的股市和美元的回升。一个不能下跌的市场是不会下跌的,有些东西在支撑着价格,整个市场充满了紧张情绪和不确定性;③ 在这种情况下,Newsom指出,投资者可以考虑买入1900或者1910美元/盎司附近的12月期权,下方的目标则是4周低位1874美元/盎司水平;④ Blue Line Futures首席市场策略师Phillip Streible表示,黄金市场目前显得有些平淡,但之后很快就能迎来大行情。金价走势的三角形态在收紧,即将迎来突破,其下方支撑稳固,因此看好金价上行突破。 【市场人士们认为,接下去无论是黄金还是原油或其他大宗商品,都将继续波动】① Kopernik Global Investors研究主管Alissa Corcoran指出,很多大宗商品价格都在其长期激励价格下方。只要这些大宗商品继续有需求,那么这样的价格就是无法持续的,供应会转至和需求匹配的水平,推动价格变动;② Corcoran表示,原油价格的下跌受到了需求下降的影响,其长期激励价格应该在75美元/桶左右水平,目前原油价格则不到40美元/桶;③ Opportune的John Echols则表示,全球经济的缓慢复苏使得能源需求下降,因此原油价格承压;但在经济逐渐复苏的情况下,美国大量钻井却是关闭的,因此中期也就是为了18个月作用时间里,油价有上行的可能;④ Metals Daily首席执行官Ross Norman表示,那些推动金价走高的因素也依然还在,长期推动力将是10年期美国国债收益率。此外,11月的美国大选也是一大风险事件。大选结果不明,很可能难分胜负,这意味着市场不确定性会继续,推动金价走高;该机构预计今年年末金价涨至2200美元/盎司;⑤ 总体而言,Corcoran表示,短期整个大宗商品市场都将有很大的波动,但这不是风险,反而是机会。
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长者与1990年春晚
作者:黄薄码 2015-02-12
写在前面的话:发现几天不更新,就给我搞个大新闻,说主页君被封号了,把我批判一番。江学博大精深,考据不易,一篇文章背后付出很多。而且我这号纯属玩票性质,又不打广告对吧。你愿意等,我才愿意出现。
1990年的春节是特殊的,刚刚取消戒严的北京一片肃杀气氛,人人过关的审查正在紧锣密鼓的进行中,忐忑的人们对未来走向愈加不确定。
临危受命且兼具「传统士大夫情节」和「海派」作风的长者有责任也有义务对内收复人心对外重塑形象,节前他上矿山下商场,「为恢复群众支持竭尽全力」,甚至还去训练基地与世界冠军乔红切磋了下乒乓球。
对外,其不避嫌频频在西方媒体上露脸,ABC主持人Barbara Walters形容江有「一副可爱的笑容」。
元旦前一天,长者在办公室接受了央视记者采访,随后实况被作为新年讲话向全国播报,这是中共建政之后第一次领导人实况向全国人民新年讲话,外媒捕捉到一个细节「他身着一件西服」。当年路透社电文这样形容「中国领导人已分赴全国各地,开展马年微笑运动」。
神秘嘉宾
马年微笑行动的高潮出现在春晚,春晚自创办至今一直就携带着政治意味,并非独立的民间叙事,但最高领导人出现在春晚舞台上却是33年来仅这一次。
当年的春晚总导演黄一鹤回忆「我们也没请他来,他也没通知。演出当晚,马上就12点了,赵忠祥该上台零点报时。就在这时,接到紧急通知:江和李要到现场,抓紧时间准备」
长者一身西服和月月鸟走上舞台,并先后发表讲话,未来被各路脱口秀演员模仿的经典句式「同日们喷油们,窝代表党中央、国务院、中央军委向全国郭族人民… 向中国人民解放军全体指战员、武警部队和公安干警…」即出自此次讲话。
而讲话风格一直被人诟病的月月鸟依然死板僵硬,并全力为自己打气,一句「向支持和理解我们的国际友人致以春节的祝贺」也是耐人寻味。
那年的春晚观众都是请的大学生,掌声诡异地热烈。
讲话完后,长者与月月鸟下台与演职人员见面。从视频中可以看到,长者在握手时对姜昆说「我一看就知道你的名字,你今晚表演得淋漓尽致,相声演员要有真本事⋯⋯」又对冯巩说「你也是,我已经听过好几次你的相声」。
在见到《当我们年轻的时候》演唱者翟春萍时,翟拿出一张貌似是合影的照片给长者看并说「87年在美国…」,长者一看顿时飚了句「one day when we were young」。 笔者考证这句也是有典故的,87年6月13日,江应邀前往旧金山访问,期间他热情邀请美女市长共同演唱了这首39年奥斯卡获奖影片《翠堤春晓》的插曲《one day when we were young》,正是翟在春晚唱的这首。
长者不仅飙了英语,在见到��曲小品《拷红》表演者时还用上海话问「吴��还是越剧」
不仅是长者,月月鸟也紧跟其后与演员交流,他见到姜昆时说「…活灵活现,而且后来都验证了」前半句视频听不清,那「活灵活现」和「后来都验证了」什么呢?
我们来看姜昆的节目是和唐杰忠合作的相声《学唱歌》,节目最后,姜昆让唐找一首歌,他来辅导,唐选了首《年轻人就是这样相爱》,出自歌曲《哎哟妈妈》,唐就在姜昆的辅导下唱起来「河里青蛙从哪里来,是从那水田向河里游来」,唱完这句姜问你在干嘛呢,唐说「我在摸蛤蟆呢」。
这已经不是月月鸟在全国观众朋友们第一次黑长者了,89年6月28日,长者第一次以新任党的总书记的职务在全国人民面前亮相,电视上月月鸟在介绍完六位新任政治局常委后指着长者说「江是我们的领导,从今以后,我们这个集体所有人都跟随他的指导,当然是在老一代的帮助下」。
最后这一句看似无心,却暗示没有后面这个条件,新任总书记无法长久。
“小背篓”的惊艳出场
下面是我英,被经常拿来做比较的彭,年长我英4岁,资历也老,84年就开始登上春晚,并前后20次登上春晚,直到07年Shit Damndamn位列储君才转居幕后。这样的春晚钉子户却意外缺席了90年春晚,不知道是不是因为半年前为戒严部队献唱,就像今年春晚导演哈文说的「不用有污点的演员」。
女人之间的竞争是惨烈的,你麻的这次缺席成就了上演春晚处女秀的我英,一首小背篓,一身蓝色旗袍,玲珑有致的身材,虽然面容青涩,还带点婴儿肥,但金嗓动听宛若出水女神,令在场的观众如痴如醉。
沈从文笔下心疼的湘女,终于不需再以悲剧的面貌呈现在世人面前,这位从湘西老寨走出来的女孩,美丽如蝶,才华横溢,第一登台便崭露头角。
后来就到了全场的闪光时刻,当时全场演职人员很多且不乏后面观众伸手向前,现场一度有点混乱,长者一路走过去,却不曾迷路,喜欢的人的气息是从不失职的温柔路标。
终于他走到了她的面前,她娇羞的低了下头,长者明显愣了下,没有问她「声乐有几种唱法」,我英只顾傻傻地笑,晕眩在了长者的光芒里,而长者幸福地就像太阳下面眯着眼睛给心爱的人打电话那样,一眼一瞬间,恒久永流传。
握完手后,两人好像都恍惚了,像踩在云朵上一样不知所措,长者一改之前的谈笑风生,与后面的人只是机械性的握手,甚少话语。时年23岁热气腾腾的我英就这样唤醒了长者心中的少年。
从90年这届春晚直到2013年,我英一次都未缺席,在13年那届春晚的告别演出中,我英先是和席琳迪翁合唱扬州市市歌茉莉花,又陪其演唱其成名曲「my 蛤 will go on」,如此各种致敬的谢幕演出堪称完美。
其他花絮
总有痴心被辜负,总有奢望被满足,小背篓前一个节目是张晓梅独唱《好大一课树》,彼时这首歌尚未被田震翻唱并用来歌颂人民教师,胡YB的女儿在书中提到了这首歌的创作背景,「1989年4月15日那天,邹友开在返京的火车上突然听到广播里播发胡病逝的消息,心里顿时悲痛万分,于是饱含泪水和真情创作了这首深切怀念胡的歌」。
所以这首关于半年前掀起巨涛波澜导火索的歌居然上了当年的春晚,不能不说大裤衩中出了叛徒。
说到叛徒,90年的春晚还奉献了一个经典节目,陈佩斯和朱时茂的《主角与配角》,其中扮演配角叛徒陈佩斯的「队长别开枪是我」「皇军托我给你带个话」两句经典台词传诵至今。和首次亮相的我英一样,这届春晚还是另外一位时下话题人物的处女秀,这就是赵本山。同样从那年开启春晚旅程的还有巩汉林。
这届春晚结束后的第二天晚上,解除戒严后第17天的北京,在工体,最高层默许了沉寂了半年的崔健举办第一次公开演唱会,现场有8000多名崇拜者到场,这在当时的北京是难以想象的。崔健推出了一首新歌,他说「我们全都是获得机遇的人」。
他没说错,未来十五年,一段蛤艺复兴的时代开始了。
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●古代文明はなぜ砂漠化した
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●古代文明はなぜ砂漠化した ◆水と砂漠と文明、それぞれの因果関係 http://home.e08.itscom.net/21water/bunmei.htm 人間文明とそこに不可欠な水資源との関わりかたに興味を持っている。本誌にそくして言えば、大きな意味で、河川とその水に関わる人間の文化だからだ。 ■砂漠化は文明の仕業か? 水が希少な場所の代表は砂漠である。水が比較して豊富な我が国から見ると、砂漠は人間文明とは対極の位置にあるように思える。水が枯渇し文明が滅んだ土地としての砂漠の印象が拭えないのだ。 その砂漠が、現在でも「砂漠化」によって拡大しているという。 過放牧による植生破壊、農地利用の大規模灌漑の末の塩害、更にはそれらの結果裸地化した表土が風食、水食され、表面の植生土壌を喪失して、砂漠化は進むと説明されている。以上は人間活動によるものだから、その最たるものとして文明が敵視されるのである。 ◆なぜエジプトは砂漠化したのか? - 絵文字姫・まくまく雑学のぉ城 https://blog.goo.ne.jp/celestial_princesa/e/384f2fb49748af19f0306be09b30f8ae 2006/08/17 エジプトは、ナイル川の岸辺のごく一部を残して、乾燥しきった国土をもつ国です。 しかし、かつてこの土地には、世界で最も豊かな農業国家が栄えていました。 巨大なピラミッドを作る力があることからも豊かな国であった事が伺えます。 この富を顕示しようとしたのがピラミッド建設 しかし、このピラミッド建設が緑豊かな国土をカラカラの乾燥地に 変えてしまったのです。皮肉な話ですね・・・。 ◆四大文明と縄文文明 〜学校では教えてくれない四大文明のウラ〜【CGS 日本の歴史 1-6】 2015/07/31 https://www.youtube.com/watch?v=9fk5jZkeuiE 世界四大文明、と言えばエジプト文明・メソポタミア文明・インダス文明・黄河文明と教わるかと思いますが、未だにこんな事を教えているのは日本くらいです。 実はそれ以前から文明の流れがあったという事が調査により判明しています。(そこに大きな文明があった事実は変わりありません。) もちろん日本にも、文明と呼ばれる文明はなくても、このような流れが遥か昔から続いていました。 他の文明の中心地が砂漠化をする中で、緑豊かな大地を保ってきた日本の持続可能な社会についても、学校で教えるべきではないでしょうか。 ◆世界最古の文明は日本から? 【CGS 日本の歴史 1-2】 2015/07/03 https://youtu.be/7DK8zIy2Fzg 今回は日本の文明の興りについてご紹介します。日本列島では約11万年前には打製石器が、3万年前には磨製石器が使われていました。 そして世界最古の土器は、日本?それとも中国?しかし中国であるという確たる証拠はありませんでした。 また、石器に関しても少し認識がおかしい様です・・・。 気をつけたいのは、世界最古であるから日本は偉いのだ、という事ではありません。正しく認識し、正しく教える事が大切です。 ◆第二回 黄土高原の歴史と砂漠化(2000年9月25日第464号)橋本紘二 http://www.nouminren.ne.jp/dat/200009/2000092508.htm 2000/09/25 黄土高原は昔から砂漠化した大地ではなかったようだ。 黄土高原は古代から大きな国が生まれ、文明が発達したところでもある。紀元前七百年前の周の時代、黄土高原の東南部(現在の山西省の南部)には唐という国があり、春秋時代(BC722~450)の晋は山西省を中心とした勢力であった。そして、黄土高原の南西部にあった秦が、始皇帝によって初めて全国統一(BC221)を果たす。 また、黄河のほとり、西安(長安)には漢王朝(BC202~196)が前漢、後漢時代合わせて四百年も続いた。そして、四世紀末には山西省の大同に北魏の都が置かれ、人口百万の大都市だったという。 つまり、黄土高原に大きな国や都ができたということは、その兵力や大人口を食わせるだけの豊かな農業と自然があったということである。 ◆砂漠化 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/砂漠化#砂漠化した地域とその原因 砂漠化した地域とその原因 中東、特にメソポタミア(現在のイラク)は、農業が始められた最初の文明が起きた地域と言われている。 ここは緑に豊かで土壌が肥えていたが、過度な農業活動により土壌が渇いていったことと、河の上流にあった森林の伐採によって上流に降った雨が一気に河に流れ込むことにより洪水が発生し、下流の表土を流し去った。 また、灌漑によって表土の塩性化を招いた。 さらには上流からアルカリ性の土砂が流れ込むことにより植物の成育には向かなくなった。 同様のプロセスはエジプトやインダス河流域でも起きている。 インダス河流域に発達したインダス文明は、メソポタミア文明(シュメール)との交流が強く、同様の農業活動を行なったと思われる。 森林は焼き煉瓦を作るために伐採された。 ��耕地帯ではしばしば土壌の維持や再生の理解を無視した大規模な農地開発が行われ、結果的に「砂漠化」を招いた例がある。 ◆世界四大文明が起こった所は必ずしも大河のほとりではない | 沖大幹 講義詳細 https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=754 水と地球と人間と(1)水と文明 沖大幹/国際連合大学 上級副学長/東京大学生産技術研究所 教授 ●大河を利用する灌漑技術が文明を生んだ 大上 今日は、東京大学生産技術研究所の沖大幹さんという非常に立派なお名前の先生にいらしていただきました。これから「水の話」をしていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 沖 よろしくお願いします。 大上 それではまず、世界地図を見ながら「水と文明」について語っていただけますか。 沖 世界の四大文明は、大河のほとりに生まれたといわれています。ナイル川のエジプト文明、インダス文明、チグリス・ユーフラテス川のメソポタミア文明、そして黄河文明。どれも確かに大河のほとりですが、大きければよいわけではありません。世界の大河には、南アメリカのアマゾン川、北アメリカのミシシッピ川、次にロシアのオビ、エニセイ、レナという北極海にそそぐ三つの大河川があり、そのあとにはラプラタ川などがあって、ようやくナイル川が来ます。四大文明河川は、世界の大河川の中では、必ずしも大きな川ではないのです。 ◆【衝撃】サハラ砂漠は“人工砂漠”だった! 科学メディアの発表に大反響、定説覆る可能性 https://tocana.jp/2017/03/post_12651_entry.html 2017/03/16 世界最大規模の砂漠「サハラ砂漠」。あまり知られていないことだが、実はサハラ砂漠は8000年前まで森林が生い茂る豊かな土地だったと言われ、砂漠の地下には巨大な川の痕跡も見つかっている。それがどうして、北米とほぼ同じ面積を持つ巨大不毛地帯に様変わりしてしまったのだろうか? ■サハラ砂漠化は人間の責任、8千年前まで緑豊かな土地 従来の理論では、緑豊かなサハラが急速に砂漠化した原因は“地軸のズレ”による気候変化とされて���たが、ここにきて考古学の常識を大きく覆す新説が飛び出してきた! 科学ニュースメディア「Science Daily」(3月14日付)が報じている。 韓国・ソウル大学校の考古学者デイヴィッド・ライト教授によると、サハラの砂漠化は人間が引き起こした“人災”だというのだ。 ◆文明は「砂漠に川」で生まれる | Fukushima-days https://michikuina.com/%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%A0%82%E6%BC%A0%E3%81%AB%E5%B7%9D%E3%80%8D%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%82%8B 2019/04/25 世界史では、まず「メソポタミア文明」続いて「エジプト文明」を学習します。 どちらも(四大文明すべて)、乾燥した砂漠のような気候の地に、源流を遠方に持つ大河(外来河川といいます)が流れているという特徴があります。 砂漠は、水に対する不安が絶えずある土地です。 しかし、そこに川が流れていれば、それは爽やかで、大変快適な生活地となります。 特に定住を始めた人間にとって、地質と日光に恵まれた土地に、水があれば、最高の農作地が手に入るというものです。 農業はこうした地域で発展しました。 農業は「長い時間我慢する」すなわち「ずっと先の結果を想像し、目先の利益に左右されない」というとても人間的な知恵を要するものです。これこそが文明の始まりですね。 古代エジプトの人々は、ある季節になると決まっておこる洪水を「困るものだが、これによって土地がより豊かになる」と考えていました。 ◆1. 宇宙考古学とは - 東海大学情報技術センター http://www.tric.u-tokai.ac.jp/isite/sarchaeology/jsa.html 世界の古代文明の発祥地域は水と深く関わっています。 エジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はティグリス・ユーフラテス川、インダス文明はインダス川、そして中国文明は黄河や長江の流域に発祥しています。 人類はこの大河に沿って長い歴史を築いてきましたが、古代の都市や遺跡を調査すると、そのほとんどは世界の中緯度帯の非常に乾燥した砂漠地帯に分布しています。 これは砂漠地帯に文明が発祥したのではなく、その地域に環境変動があり砂漠化したことにより、人間の生活条件が変わってしまったことを示唆しています。 このような文明や環境の変遷に関わる調査は、その地域の歴史的事実の解明だけではなく、地球温暖化や森林破壊をはじめとする近年の地球規模の環境問題への取り組みや将来的な環境変動予測のための貴重な手がかりとなりえます 1972年にランドサット1号が打ち上げられて以来、人工衛星データによる地球観測技術は、環境、災害、気象、海洋、資源など、様々な分野の調査・研究に応用され、これまで多くの成果をあげてきました。衛星に搭載されるセンサが高解像化し、赤外線やマイクロ波センサによって地表の状況がより明確に観測できるようになると、衛星データの応用範囲はさらに多様化し、密林や砂漠の下に埋もれた古代の都市や遺跡の検知なども可能となってきました。 この宇宙からの情報技術を考古学の領域に応用し、現在の地球環境をモニタリングしながらかつて文明があった地域の遺跡や古環境を推考するための研究を宇宙考古学(Space Archaeology)と言います。 ◆水と文明|水とくらす 古代文明の発祥地 http://www.thr.mlit.go.jp/mogami/learning/kids-corner/mizu/mizu_04a.html なぜ古代文明は、川のそばで栄えたのでしょうか? 紀元前3000年頃、地球は寒冷化し、気候の乾燥化が起こり砂漠がひろがっていきました。牧畜民は生活の場を追われ、水を求めて大河のほとりに集中しはじめました。 大河のほとりでは農耕民が生活の場として生活していました。 そこで、2つの異文化を持つ民族が同じ場所で生活するようになり、争いもたびたび起こりましたが、文化の交流も盛んにありました。 そうした文化の交流の中で古代文明は誕生し、豊かな水源のもとで隆盛していったのです。 ◆「古代中国の文明観」に学ぶこと | 日経 xTECH(クロステック) https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/COLUMN/20070409/130351/ 2007/04/09 資本主義経済における「イノベーション・差異化→模倣…」の永久運動は,結果として高度な「技術文明」をもたらす一方で,自然を商品化することで地球環境問題に直面していることから,その永久運動の方向を変える必要が出てきている,と述べた。そしてその糸口として,「アジアをはじめとする新興国をこの永久運動を続けるための新天地と見る一方で,西洋とは違う文化であるということを見直すことで,その方向を少しでも変えられる可能性にも注目してもよいのかもしれない」と書いたところ,以下のようなコメントを頂いた。 ◆弥生人渡来説の嘘! 〜なぜ弥生時代に生活が質素になったのか〜【CGS 日本の歴史 1-10】 2015/08/21 https://youtu.be/QwgK9s42Oxk 第1章最後の回は、前回の「稲作が縄文時代から始まった」という事に続き、弥生人は渡来人という定説のウソを暴きます。 よく言われるのが横長の顔の骨格が縄文人、縦長・平たいのが弥生人、のように骨格に差があるとされてきましたが、実は骨格の差はなかった様です。そしてそこには「捏造の歴史」がありました。 いわゆる自虐的な歴史観はこの時代からもう存在していたのでしょうか。 ◆解明が進む縄文人の軌跡・前編 ~イメージを覆す高度文明~ 2019/11/07 https://youtu.be/E8KpiR4KdI0 日本人の祖先と言われている「縄文人」。 縄文人といえば、竪穴式住居に住む狩猟民族のイメージを持つ人は多いでしょう。 しかし、近年の研究でそんな縄文人のイメージを覆す発見が次々と明らかになってきているのです。 今回は縄文時代や縄文人について・前編として、日本列島での縄文人がどのように過ごしていたのか、ご紹介したいと思います。 ◆解明が進む縄文人の軌跡・後編 ~世界に渡り古代文明を興した?~ 2019/11/17 https://youtu.be/vs6XjXFjR4M ハテナ見聞録では以前、「縄文人が海洋民族だった」というお話をご紹介しました。実は、縄文人の痕跡は日本国内だけでなく、日本列島の外でも見られるのです。 今回の動画は、海外で発見される縄文人の痕跡から見る歴史背景と 縄文人が世界各国の文明の発祥に少なからず関わっていたのではないかとされる説についてご紹介したいと思います。 ◆砂漠化している「世界四大文明」と緑豊かな「縄文文明」 | 天命発見 ... https://ameblo.jp/matsuyan02/entry-12385249365.html 2018-06-20 【世界四大文明とは】 ・エジプト文明 : 5000年前 ・メソポタミア文明 : 5500年前 ・インダス文明 : 4300年前 ・黄河文明 : 5000年前 世界四大文明は4300年前から5500年前ごろできた文明の事を言います。 しかし、現代の世界の考古学会では 黄河文明より古い長江文明などが発見されていることから、 もっと古い時代からもっと大きな文明がある ことが常識になっている。 そして、これらの世界四大文明はGoogleEarthで 見てもわかるようにすべて砂漠化している。 黄河文明の端に一部緑があるが、 これは日本が戦前統治した地域で億単位で植林をしてきた結果だそうだ。 世界四大文明は結果として自然を破壊し人が住めなくなるような土地になっている。 これが文明なのか?文明観がおかしいと語られる。 縄文の女神は1万3000年前であり世界四大文明よりはるかに古い時代から 文明に相当するものが育ってきているそして、いまだに日本は緑が豊富である。 自然と共生している。 持続可能性の高い社会を創れる能力が高いのが日本人。 ◆広い視野で縄文時代を見る http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2000dm2k/japanese/02/02-08.html 縄文時代と同じ頃の西アジア − 西秋 良宏 − 定住、農耕、都市 縄文時代と同じ頃、アジア大陸の反対側にある西アジアでは、どんなことがおこっていたのか。 西アジアは、その間に、旧石器時代から新石器、銅石器時代はもとより金属器の時代、歴史時代にまで移りかわった。 社会の体制でいえば、狩猟採集民の世界から、農耕牧畜村落、さらには都市や帝国の時代まで駆け抜けている。 1万年もの間、縄文という一つの時代でくくって考えられるほどの安定性、継続性がみられる日本列島の場合とは、きわだった違いだ。 ◆ 縄文の記憶 http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2000dm2k/japanese/02/02.html 縄文の記憶 坂村 健 21世紀の縄文時代研究 今村啓爾 学史 モースの大森貝塚コレクション 今村啓爾 日本先史土器の分類学的研究 —山内清男と日本考古学— 鈴木公雄 縄文人の埋葬骨 諏訪 元 広い視野で縄文時代を見る 縄文時代の地球と宇宙 松井孝典 東アジアと縄文時代 西田泰民 縄文時代と同じ頃の西アジア 西秋良宏 縄文文化 西本豊弘 旧石器時代と縄文 西秋良宏 新しい手法 DNA分析 岩本(木原)昌子 川口昭彦 放射性炭素(炭素14)で年代を測る 吉田邦夫 竪穴住居址の小柱穴位置について 渋谷文雄 ◆『【縄文文明】世界最古の文明!?』縁側-日出づる処の天子の掲示板 - 価格.com https://engawa.kakaku.com/userbbs/2261/ThreadID=2261-549/ 2019/09/23 紹介文 日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 聖徳太子さまは今頃何をしておいででしょう? キントーンならお会いすることが叶うかも知れませんね。 縄文時代より日本は豊かな自然に囲まれ戦争のない自由と平等と自然を神様として平和な日々を送ってました。 (縄文文明) 弥生時代は戦争難民が大勢移住して人口が膨れ上がりました。 水耕栽培もそのころ始まり、増えた人々の胃袋を満たしました。 仁徳天皇は民のため多くの政策を実行。 土木工事で水路を大阪湿地帯で行い稲作耕地を庶民に与えました。 そのころの土木工事の跡が多く存在します。 そして現代の大阪・日本があるのですね。 ◆世界最古の文明は縄文文明だ!文明は日本から世界へ広がった!【縄文王国】 2018/09/12 https://youtu.be/9dkyCvFuewY 縄文文明が世界最古の文明であることを知らない日本人は非常に多く、 このチャンネルを通して、縄文文明の素晴らしさについて知っていただければと思います。 ◆山内丸山遺跡の発見 (縄文前期~中期の集落遺跡)500人超が定住生活。 ・巨大なヒスイの珠。ヒスイに穴が多数出土。 ↑ヒスイは新潟県糸魚川周辺で産出。 ・黒曜石で出来た石器も多数出土。 ↑北海道が産地。 ↑岩手県から琥珀が。 ※交易が行われていた。(船?) ◇縄文人が船で沖で漁をしていた証拠も。 ・1mの真鯛の骨も見つかる。 ◇栗の人工栽培(DNA鑑定) ・大型哺乳類の骨は殆どない。 ⇒農耕が行われてたことが科学的に裏付けられた。 ◆ーー縄文土器ーー 世界で最初の土器発明は縄文人。 ↑世界最古の縄文土器��大平山元遺跡から出土したもの。 ⇒年代測定法で16000年前と判明。 ※世界最古とされたメソポタミアは10000年前。 ◆ーー漆も土器も日本で発明された。 ◇中国:長江下流域の河姆渡遺跡(かぼといせき)出土が約7000年前。 ◆北海道南茅部町の柿の島B遺跡(垣ノ島遺跡(かきのしまいせき))から9000年前の漆製品が発見。 ↑中国漆技術と比較して高度な漆技術。 ↑三内丸山遺跡の漆のDNAは中国と別系統。 ⇒日本から中国に漆技術が伝わった可能性が出てきた。 <<炭化ケイ素による焼き戻し法>> ↑現代のセラミック加工技術に通じる特殊な処理が施されてる。 ◆11万年前には、石器がつくられ 3万年前には、加工した石器(磨製石器)がつくられ 16500年前には、世界最古の土器がつくられ 13000年前には、人の形をした土偶がつくられ 12500年前には、漆が栽培され使われていた。 ◆岩宿遺跡の打製石器 https://ja.wikipedia.org/wiki/岩宿遺跡の打製石器 ◆焼畑農業 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/焼畑農業 焼畑農業(やきはたのうぎょう)/ 焼畑農法(やきはたのうほう)は、主として熱帯から温帯にかけての多雨地域で伝統的に行われている農業形態である。 通常は耕耘・施肥を行わず、1年から数年間は耕作した後、数年以上の休閑期間をもうけて植生遷移を促す点が特徴である。 英語では移動農耕 (shifting cultivation) という語が使われ、火入れをすることは必ずしも強調されない。 (実際、湿潤熱帯の各地では火入れを伴わない焼畑農耕も見られる) 英語圏の研究においては、短期の耕作と長期の休閑が繰り返されて循環することにより、焼畑が定義されることが多い。 ◆世界中ですすむ森林の減少と劣化 - 地球・人間環境フォーラム https://www.gef.or.jp/forest/deforest.htm ●世界中で進む森林の減少と劣化 ●森林減少と劣化の要因 ・農地転用 ・産業植林 ・焼畑農業 ・違法伐採 ・森林火災 FAO(国連食糧農業機関)の "Global Forest Resources Assessment 2000(FRA2000)"によると、世界の森林(樹冠率10%以上)の面積は約38億6,900万ha であり、全陸地面積の約30%を占めている。このうち95%が天然林であり、5%は植林である。 これを地域別に見ると、ヨーロッパ(東欧・ロシアを含む)が10億3900万haと最も広く、次いで南米、アフリカとなっている。世界の3分の2の森林が、ロシア、ブラジル、カナダ、アメリカ、中国、オーストラリア、コンゴ、インドネシア、アンゴラ及びペルーに集中している。また、国土に占める森林面積の割合を見ると南米が最も高く、約50%であり、次いでヨーロッパの46%となっている。 2000 年、UNEP-WCMC(国連環境計画-世界保全モニタリングセンター)の調査によると、樹冠率30%以上の森林は、合計34.2億haとなっている(UNEP-WCMC, 2000)。 うち、熱帯地域における森林は15.2億ha、非熱帯地��における森林は18.9億haである。 同調査においては、28の森林タイプごとの森林面積、保護地域面積を算出している。 それによると、最も大きい面積を占めるのが非熱帯常緑針葉樹林(樹冠率30%以上)であり、8億ha(全体の約18%)である。 ついで、熱帯低地常緑広葉樹林(樹冠率30%以上)で約7.3億ha(全体の約16%)、樹冠率10-30%の非熱帯林(5.8億ha、13%)、樹冠率10-30%の熱帯林(5億ha、11%)となっている。以下、非熱帯落葉広葉樹林および非熱帯落葉針葉樹林の面積が大きい。
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《大逆转:中国的私有化——1979-1989》摘录
对合作化农业的改革始于1980年,中共中央低调的指示,推荐开始在小范围推行“家庭联产承包责任制”。在这一制度下,每个农户家庭与队或村签订合同,规定应当上交国家和生产队的部分,剩下的产出归农户。这个显然是从集体化农业后退的政策,经过一段时间,其最终目的日益明朗:全面的私有化,丝毫不考虑社会的意愿以及当地的具体情况和环境。
1983年的夏天,我乘飞机从北京飞到上海。在3万英尺的高空,我向下俯瞰,我第一次看到了“责任制”给广阔的华北平原带来的令人吃惊的变化。从前,在村落和连接它们的道路间,有着整齐的方形的长方形的土地,绿色的、黄色的、褐色的,一直延伸到地平线。而现在,细碎的一小块一小块的土地排成零散杂乱的图形,蔓延上千公里。那是比土改前所谓“邮票一样小块”的土地更细小的,带子一样的、面条一样的土地!以至于马车经过时,一个轮子在这个人的土里,另一个轮子就压倒了另一个人的土里。
一个目瞪口呆的农民同志对我说,“我算看明白了,通过农村改革,共产党把农村这块包袱丢掉了。从现在起,他娘的,你要是落后了就只能怪你自己。”
我清醒地认识到,许多的农民拥护改革。个人有了土地生产的决定权而且可以随心所欲的决定自己从事的副业,加之同时期农业品价格的上涨,这都使不少农户有了可观的收入。然而,在我看来,面条一样小块的土地只能是死路一条。农民用锄头耕作,这种低效的生产方式意味着一年到头最多就能收获一吨粮食,只是我在宾夕法尼���用拖拉机机械化耕作产量的八百分之一。一吨的粮食,只值一百多美元,就将要决定无数这样的耕作者未来的生活水平。随着工农差别,城乡差别和脑体差别的增大,和自由市场带来的无情的剪刀差,小农们无论现在享受着怎样的繁荣,都注定只是昙花一现。
不过,“责任制”初步显现出来的一些结果,似乎证明了我的担忧是杞人忧天。许多“面条一样小块土地”的承包人,收入的上升大大出乎我的预料。在这收入上升的背后,不仅有农产品价格大幅度上升的因素,而且还有国家对超定额纳粮者的奖励。与此同时,许多不愿或不能得到土地承包合同的人,外出自谋出路。他们中只有一小半能找到工作,但能够找到工作的那些人——通常是手工艺者,小贩,车夫,建筑工,短工等等,大多收入也增加了。就这样,随着改革势头的增长,农村里不少人的生活改善了。
农村出现了阶级分化,主要是大量的小农变为廉价的雇工(在集体化时代,他们是公社的股东),他们的家庭在农村仍有小块口粮田,虽然生产的粮食够自己吃,但不能维持日常生活开销。从收入的主要来源看来他们已经成为雇佣工人,虽然他们并没有放弃土地的使用权,但是他们放弃了或者失去了从事商品生产的土地的承包合同。
因为每个家庭从此必须自负盈亏,经济活动的目标从追求长远利益一下变为追求家庭利益的收入最大化。这一变化使得数以亿记的人们开始寻求可以带来快速的收入或是直接的收益的一切事物。
从1985年的秋天开始,改革带来的令人欢欣鼓舞的飞速发展日渐显露出真相。据农业部统计,1985年的粮食产量比上年下降3千万吨。1988年,粮食据报道减产9百万吨,政府将此归结为受气候的影响。
在改革的整个进程中,改革家们采取的手段都是这样的——先从社会主义经济基础或者上层建筑领域中多少不太起眼的问题入手进行“试验”,从而避免引起太多的争议,然后以试验卓有成效为名大规模的进行推广,而且也不再限于试验的原有目标。在推行这套渐进的、曲线式改革的过程中,改革家们总是避免与可能反对他们政策的强大的社会力量正面冲突。而当任何可能的反对者明白过来实际上所发生的一切时,他们不得不面对这样一个既成事实:改革家们攻击的法律或实践已被基本改变。
改革家们娴熟地重复着这套手法,直到大家都明白,改革根本就不是什么解放思想,探索出一条“通往社会主义的中国式的道路”。改革的领路人并没有“摸着石头过河”——像邓声称的那样——他们处心积虑,蒙着面罩对整个社会主义制度发起进攻,而代之以一整套与私营经济和自由市场相适应的所有制,生产关系,法律,习惯,文化。
改革开放带来了新的腐败。1985年,改革家们开始实行价格双轨制。这是用市场经济取代“万恶”的计划经济的一个步骤,改革家们假定通过竞争这只“看不见的手”可以实现对市场公平合理的调节。但是价格双轨制引发了大量官僚利用差价牟取暴利,这很快被观察家们命名为“官倒”。
“官倒”这种形式,是“通过权力(或关系)从低价的国有部门获取日用品或者其它紧俏资源,然后在私有部门高价转手倒卖。”日益增长的倒买倒卖消除了价格双轨制可能带来的任何益处,而且使得高得惊人的通货膨胀问题更加严重。
张庄的农民没能利用他们充足的水资源。每年冬天政府花大力气动员张庄人种好地以灌溉,但是到了春天发现没有什么进展。政府对这个行动迟缓的公社失去了耐性,称之为“老大难”。行动迟缓的真正原因在于土地。农民浇的越多,土地越难弄。水带来了盐而不能把它冲走。太阳把水蒸发了,土地裂成块,扯开了植物的根。人们用脚投票反对灌溉,对丰收不抱希望,并将注意力转到副业上,在邻近的工厂签合同工作,甚至做投机买卖。一个典型的例子是李宏昌,他开着货车到湖南,在那里用土豆换小麦运回张庄,然后以两倍的购价卖出,往返四天挣的钱比在地里干一个月挣的都多。
改良土地的工作随着所有制关系的变化受阻更大。张庄三分之一的土地已经属于铁路、市有水泥厂和锯片厂。
在过去几十年里外界影响改变着张庄的社会生活,带着天津特色的知青们只是这外部影响的一个方面。张庄的领导人发现开会越来越困难,附近总是有比赛进行或者电影播放。看电影已经成为一种习惯,极大的破坏了其他的文化和政治生活。
我在1983年3月应邀去凤阳,参观新的承包责任制带来的最好景象。从省会合肥往北行途中,第一件打击我的事情是安徽北部农村的极大退步。我们似乎在时间上滑到了中世纪——被废弃的灌溉工程,留下了成群满是碎片的土坯房屋,在没有框架的窗户和门上面是 黑色的茅草房顶。泥土围砌的院子刚刚高于街道的污水坑。
县领导告诉我没有哪个合作政策似乎能够起作用。当地干部一腔热血往往在群众的冷漠面前碰钉子,那些土地上的人们总是拖拖拉拉,无视他们自己的集体利益。副县长王长泰说,这是因为任何个人付出的努力和他所获得的回报之间的联系是非常少的。农民根本看不到通过努力能给他们个人带来任何进步。他们的目标就是干尽可能少的活,依赖政府把每个人带到第二年的春天。
根据王永锡的说法,安徽的合作化运动违反了农村组织的两个基本的原则:第一个原则是农民必须是基于本地模范在经济上的成功而自愿地参与;第二个原则是收入必须基于所付出的劳动进行分配(按劳分配)。党的领导人忽视了这些基本原则,在他们能够看到任何令人信服的证据表明(合作化的高级阶段)能够取得的优点之前,就匆忙的催促农民进入到合作化的高级阶段,并且建立了收入分配的形式,这种分配形式把收入或多或少的根据人口进行平均分配,而没有考虑到个人所花费的劳动。
在实行合作化的政策挫败之后,凤阳农民希望得到按人头分配的土地进行耕种,但他们不想要产品配额、按百分比给予的奖励和变化的义务。他们想知道政府和公共部门需要以现金的方式从土地得到什么。然后他们可以答应上交(政府希望得到的)最小配额,只要他们能够任意处置剩余的作物。
中国农村合作社继续存在的问题之一就是,在作为国家基础部分的单位里,一人管理且滥用上面分配的职权。新的公社企业,由底层投资并在国家体系之外,是由拥有他们的人管理经营的。如果经理无法令同时是股东的工人们满意,他们将解雇经理。
我们对该县的快速调查——对东西南北先进单位的四天紧张参观——揭示了正在前进中的县城:农业和工业产量增长,收入增长和生活质量提高。每个人都把进步归功于“责任制”,它把个人努力和直接收入相联系并给每个劳动者提供了很强的刺激进行生产。
支持产量增长的最重要的客观因素是水利基础设施——大坝,灌溉设施,河沟——是由过去的集体劳动建造的。支持产量增长的第二个最重要的因素是国家的粮食价格体系,该体系慷慨的回报出售给国家多于要求份额粮食的人。高增长的第三个主要因素是由于不断提高的技术水平和物质水平的支持,农民们不仅对每亩地所使用的化肥量是过去的四到五倍,而且他们还首次使用了磷肥以及氮肥,多种肥料组合的大量使用对产量产生了惊人的效果。或许,“承包责任制”是让所有这些因素产生效力的催化剂。
王副县长预料农民一旦富裕了就会购买机器,形成小组的联合��作,并把各自的土地连起来以形成足够大的耕地从而使农业机械化显得更有意义。这种发展形势也是可能发生的,但是自然环境所造成的困难是巨大的。很难想象,农民们在以家庭为单位并且相互竞争多于相互合作的情况下能如何克服这些困难。
王副县长认为剥削应该是通过市场的投机倒把以及放高利贷所获得的收入,或者是试图使用旧社会的那种租让土地形式以获得收入。农民之间互相提供服务而获得的报酬不应该认为是剥削,这些收入是其投资的一种合法回报,也是对其劳动技能的一个报酬。他的这个结论是建立在当今在中国被广泛宣传和引用的一个涉及土地所有权的理论上的。这种理论认为,中国的农业生产,主要的手段就是使用土地,历史上剥削制度的产生是建立在土地的私有制基础上的,自从土地掌握在公社手里后,除了从公社里按人均分得的一份土地外,没有人能够获取更多的土地使用权,这样就不没有剥削存在的物质基础。
对于集体财产(资源)的破坏是新政策最恶劣的后果之一。许多情况下,集体财产简简单单就被卖给了个人;当集体的财产已经确定要被出售而无法保留的时候,人们就会来拆除并拿走曾经属于他们共同拥有的一切,包括总部(总指挥部)、学校、任何公共的机器等等。
新的体制表现出的旧的经济关系或者转向传统经济关系越多,传统的文化和习俗就复苏越多。
为了解决过度放牧这一主要问题,有几件事是必须做的。首先,家畜养殖的观念必须改变。牧民必须意识到牧场和植被才是他们的主要资源,而不是牧群。实际上,牧群相当于在土地上的投入,就像农民种下的种子一样。其次,牲畜的数量必须减少到适合牧场的承受能力,同时放牧必须被好好的管理以保护草场。最后,牧场本身的面积必须一步步的增加。
牲畜的减少并不必然意味着收入的减少。实际上,如果我们使牲畜数量和土地资源相适应,并进行良好的管理,我们就能使产出(牲畜的出售和畜产品的出售)在质和量来两方面增加,从而使收入提高。
我们的目标应该是在不破坏植被或者改善植被的条件下,利用单位面积土地生产出尽可能多的肉、羊毛、牛奶或者其他动物产品。好的管理意味着:首先要使牲畜数量降低到土地能承载的水平。具体的数目随着牲畜结构而变化,从而使饲料投入最小,产出最大。
首先,牧草是一种类似于空气和水的充足资源,而财富却是通过个人拥有的牲畜来测量,这就导致牧民片面追求牲畜数量的习惯。其次,牧民们习惯上使手头有大量的老牛,因为它们能够经受住饥饿和寒冷。尽管这些老牛浪费了大量的草料,但是却为牧民们提供了保险,如果需要一些紧急的花销——生病、婚丧等等,他们可以把老牛卖掉。最后,价格体系也促使人们保留一些年迈的牲畜,因为市场上质量不高的肉和高质量的肉具有同类价格。
责任制在草原上是一种最糟糕的组合方法——私人所有的牧群在公共所有的草地上吃草。没有人会去照料这些土地,因为没有人会对它负责。每个人都因为土地既是公共的又是免费的,企图养更多的牲畜,从而得到更多的收益。
农业现代化的钥匙是农业机械化。没有机械化,农村的剩余劳动力就不能摆脱土地去从事其他类型的生产活动;没有机械化,农业就不能为工业提供足够的消费品。
政策的制定者提出通过实行“责任制”及推广所谓“科学种田”以提高农业生产率。“科学种田”指的是通过改变动植物组成,促进更好更多的肥料,应用先进的灭虫剂,注意田间管理,田间套种,密植,精耕细作。但是“科学种田”加艰苦劳动根本不可能解决土地生产力的问题。中国的粮食产量已经比较高了,“科学种田”和艰苦劳动可能会使产出翻倍,也可能翻三番,但是想要翻四倍则不太可能。即便能够翻四倍,也是远远落在世界水平之后。
对农业机械化的最通常的异议是:农村已经有过多的剩余劳动力,机械化解放出来的劳动力并不能找到足够的就业机会。机械化,习惯上被认定会导致无法接受的失业。
土地的低生产率和与日俱增的、离开土地的经济机遇导致了一系列问题。首先,健壮的劳动力到其他地方谋生去了,留在农村的主要劳动力成了老人、孩子、病弱者和妇女。不可能将土地耕作好,导致低产出,没有能力管理土地的人则开始抛荒。其次,部分由于健壮劳动力的减少,农业基础设施——梯田、排水渠、灌渠——的修建都被忽略了,秸秆肥料、粪便囤积等措施也都在迅速减少。
劳动力短缺在三种情况下是明显的:
那些副业、工业、采矿业发展迅速的乡村
在大多数大城市和许多中等城市周边的乡村
在那些人少地多的地区——东北、西北和内蒙古
大寨是山西省的一个山村,毛泽东把它选为农村发展的典型,主要是因为那里实践了合作与自力更生的精神。毛死后,邓小平和他的同僚们批判大寨,指责它的成就是虚假的。最终在1983年,大寨进行了自上而下的全面重组。改革者宣称,大寨村民从此过上了好日子。他们提高了作物产量,开发了新的、繁荣的副业,提高了人均收入和生活标准。然而,实地调查的结果并不支持上述观点,中国的媒体一直虚假的宣传着大寨,一面诋毁集体的成就,一面鼓吹改革的成果,两方面都罔顾事实。
当前的报道多从总收入、个人收入、工厂企业这几个方面肯定大寨的改革。但需要注意的是:首先,这些增长数字都没有修正通货膨胀的因素。其次,改革前后的情况不能通过数字直接比较,它们描述的是不同的事情。改革后,货币收入占收入的绝大部分,而在改革前,货币收入只占一个人总收入的60%-75%。改革前,合作社成员作为集体经济的拥有者之一,基本享有免费的保障服务,这些利益的价值是难以估算的;此外,还有考虑公社积累资金在固定资产上投入的回报,如修路、修建排水渠、灌渠等水利设施。最后,一些改革后的新兴企业确实带来了收入的提高,但同时,不少改革前的工程已经衰落,甚至破产。
在70年代,中国30%的农村沿着大寨的模式,发展的很好;中间的40%则显示出很大的潜力,但仍存在不少问题;剩下的30%,或者歪曲使用或者根本不采用大寨的模式,这部分农村确实很穷。联产承包责任制解决了最后30%的发展问题,于是政府开始在全国推广,掀起了一股新的风潮,却不管中间的40%和发展最快的30%是怎么想,强迫他们必须走同一条路。
党的13大上,出现了一个在理论上新定义的社会主义阶段——“社会主义初级阶段”。所有的一切事物只要有利于推动生产力的发展,它就是社会主义的。
自从1983年实施改革以来,大寨人对两极分化已不再陌生。那些承包企业或用政府廉价贷款购买卡车和拖拉机的人都暴富起来,每年家庭收入超过1万元。而那些缺少资本、信贷或劳动力的人却只能维持最低限度的生活水准。一个前妇女领袖耕种了3亩地,1986年卖掉600斤粮食收入100元。此外,她和她的丈夫还有每人72元的养老金,但她却从未看见这笔钱。
原来公社中人们通过按劳分配共享集体劳动成果的分配制度,很快变成了一种分层的分配制度:少数居于顶层分享非劳动所得;中间的大部分变成了雇佣劳动者,靠工资生活;最穷的那部分多是缺乏劳动能力的残疾人。资本、资产的多寡——包括拥有的或支配的生产资料,而不是劳动量,成为决定收入水平的主要因素。
曾经是中国农村合作经济标志的大寨,现在走入了它的对立面。成熟的改革使现在的大寨成了中国整个农业面临危险的代表。新的政策在农村毫无疑问刺激了可观的副业生产高潮,但越来越清楚的是,改革政策对土地、对种植业、尤其是粮食生产缺乏“持久的动力”。当非农企业——煤矿、货运、拖拉机——繁荣起来时,农业一点点衰败下去,基础建设被破坏掉了,随之土壤肥力下降、产量下降、技术支持减弱。如果很多村庄都无法种植足够多的粮食养活自己,粮食短缺就会最终达到无法用其他替代资源弥补的地步。
中国农村改革中的一个问题是,人民公社的失败案例是否在总体数量上多于成功案例?我的结论是否定的。我认为,在中国这样一个大国里,合作化能取得30%的成功已经是非常难得的成就,那意味着有2亿4千万人进行了很好的合作。既然这么多人都能够进行合作化,那么合作化确实是中国农民的一条可行出路。
如果说,农业合作社是行不通的。那么,在家庭联产承包责任制已经实施了5、6年后,新的制度有没有使人均粮食产量增加?答案显然是:没有。1983年至1988年真实的作物年产量一直徘徊在3.5亿吨到3.8亿吨之间,计算出的人均粮食拥有量为345千克,并不比1978年的平均数字高多少。
一个被改革者频繁突出的观点是:集体化时代,毛泽东提出的“以粮为纲”的政策被夸大执行,严重限制了农村的多样化经营。合作社有时过分注重粮食生产以至于损害了矿业、工业,尤其是水果、家畜和农副业。
中国一直是一个农业大国,工业投资的积累来源只有农业,没有其它选择。政府规定的谷类和其它农业产品的价格保持较低的水平,以保证城市有低价粮食供应,也使城市工人们的工资保持较低水平。这样的政策提供了低价的原材料,有了廉价的粮食和原料,工业的积累速度就可以保持高水平。机器、设备、农药和化肥等又流回农业作为投入。此外,国家在农村基础建设上进行直接投资,以帮助农村的发展。
1980年以后,国家直接农业投资和向农业提供产品的工业投资都大大减少。这两项指标的减少导致了对农村生产条件改造的后退,因此,尽管粮食和其它农业产品的价格有了显著提高,但是剪刀差却加大了。
改革者声称毛泽东强迫农民进行合作化,因而合作化运动对农业生产造成了严重的破坏。确切地说,在合作化建立期间是存在着命令主义。干部们在许多农民并不了解合作化意义、不愿意进行合作化的情况下,就匆忙让他们入社。这与自愿实行的精神相违背,在很 多地方严重的阻碍了合作化运动。
合作化组织需要更多的自治,尤其是在他们的资源和投资分配的管理上。我敢说,如果当时合作社的权利能赶上80年代包干到户时个人得到的权利的一半,合作化成功的比例将远远超过当年的数字。
命令主义,一般表现为日常运行中官僚主义的干涉,在很大程度上是中央集权制的一种延伸,使得党内中央集权制风气抬头。中国的官员声称他们有权管理所有事务,甚至人民生活的小事。这是非常封建的传统,普通民众对此极为反感。
在清算集体财产过程中普遍存在的无耻的剥夺使得那些有“钱、力、本事”的所谓特殊家庭迅速先富起来。在瓜分集体资产的时候,有影响有关系的那些人——公社干部和他们的亲戚、朋友、亲信——可以大折扣的买到拖拉机、卡车、井、泵、设备等,这些都是公社成员们在几十年里积累下来的。这些人不仅能够给资产开低价(经常是实际价值的三分之一甚至还少),而且能够很容易得从国家银行拿到贷款,最后也经常没有按条件还贷款。
集体经济要想生存下去并壮大起来,必须有稳定的政策土壤。信贷政策、价格政策、投资政策、 机械化政策、科技政策、所有制政策、医疗保险政策以及许多其它方面的政策,必须都要有利于集体经济。文化导向上必须鼓励“集体第一、个人第二”的伦理原则。
中国内部走资本主义道路的阻力巨大,可以这样来概括:金饭碗,铁饭碗,瓷饭碗。
“金饭碗”指的是那些国家系统中政府各级机构的官僚主义者享有的对经济的管理和控制的特权,以及由此而来的坚实的工资,福利收入,和非法暴利收入。
“铁饭碗”指的是终生有保证的工作,适用于所有国家企业中的正式工人。改革者把这种工作保证视为提高劳动生产率和实现现代化的主要阻力。改革者希望把岗位竞争与企业破产的“魔棒”投向这些工人。他们要改变生产关系,把受到终身雇佣的工人推向劳动力市场,把他们的劳动力变成商品——就像资本主义国家必须的一样。但是从工人的观点看来,终身的工作保障及相关的权力是革命的最基本的成果。是需要珍惜和保卫的东西。
“瓷饭碗”指的是使用土地的权力,这一来源的收入是脆弱的。不像工人的工资和政府官员的薪水,农民的收入是从土地的回报中获得的,它更多是由汗水、病虫和天气决定的。
没有农业的雄厚基础,其它产业的繁荣发展只能是一句空话。
3号我幸运地全天呆在广场上,那儿不再聚集着学生。当时只有离散了的小群学生们还滞留在广场中,其中大多数来自外地。大量的首都学生已经离开了,但没有回学校,而是去了社区和工厂去组织动员,依旧活跃的他们还试图发起大规模的群众运动。
在广场的一角,3日清晨那儿有个记者用喇叭在叙述前夜的事件,其中很多比较怪异。起初,一队身着短裤和T恤的兵士从长安街跑来,佯装成平民,试图进入广场。自然他们没有携带任何武器,但他们并没离开长安街太远就被挡住并往回赶。西边一辆小货车紧急刹车,但还是撞开了一道栅栏,还撞伤了四个骑车的人,其中一名当场死亡。趁人们阻拦货车之机,与之伴随的三辆汽车溜走了。人们在车里发现了身着便衣的士兵,他们带有武器和用于捆绑脖子的钢索。可以说,这是一次秘密军事行动,只不过由于司机的刹车和事故意外地暴露了。这在3号成为大新闻。
我是住在城区东北角的,靠近三环路,那儿不是一个主要的入口。但夜晚仍有人聚���在那里,有一两千吧。他们到公交车站徒手把车推到十字路口,来封锁四方的交通。由于其间还会有些缺口,他们就让运煤的卡车、货车停在那里。还有一队骑摩托车的人在支持学生们,他们出没于夜里,300个壮汉在绕城巡逻,显得狂热无比。
不久,有传闻散布说人民大会堂西边确有士兵。这是第一次报道士兵距广场如此近,我们便过去调查。毫无疑问,大会堂北台阶的西侧有一些凹陷处,就在那里有200名士兵。有人在那辱骂他们,也有人试图鼓动他们。但是士兵们有规定禁止和人们交谈,因此他们都不好意思地背坐在那,从而避开人们的指责。我们走的非常近去瞧他们,就在那时候——大概是下午两点,8000名军人从大会堂中冲了出来。看起来就像是一湍由防暴武装力量形成的急流,虽然没有带什么明显的武器,但每一个人都有一个小包——其中不是手榴弹就是催泪弹或者是武器。他们出动显然是要进入广场的。接着,他们化作三股形成八列,往北奔向街道。人们出现了,似乎从天而降,刹那间他们就塞满了街的北端。有年轻人还冲过去用身子去撞士兵,有些还反弹回来摔倒了。士兵们继续前进着,但人民也坚持朝南行进,到最后,尽管后面的队伍还在向前推但士兵们还是一步也前进不得。这8000人的队伍滞留着就像一架手风琴,军官命令他们朝左运动,于是便往左边移动,接下来又一道命令说:“不,不,不要那么远,回到中部来!”巨龙就这么在街上进进退退。
我们沿一条与长安街平行的小路向西去,到达下一个十字路口时,突然有大群大群的人涌到街上来,还一边尖叫着:“催泪瓦斯!催泪瓦斯!”有武装警察已经在中共中央的办公地——中南海前施放了催泪瓦斯。
我们回到了广场。那时候政府已经指明了一个逮捕天安门前演说者的办法,并开始谴责学生们竖立反映民主政治的雕塑。许多人认为那是自由女神的一个翻版,当然,它是从自由女神那获得了某些启发,但确是一件相当中国化的雕塑。她头上没有桂冠,双手擎着一把火炬。这传达出了学生们在民主进程中的许多想法,广播最初指责她为外国干涉和嘲讽中国文化的表现。
军队依旧滞留于大会堂,大多数军人坐在街上,精疲力竭,医科院校的学生们在试图让他们感觉轻松些。他们为他们的水壶灌水,给食品,以此来结交这些人。后来,当太阳渐渐落山时,军官们指示队伍回到大会堂去。
我们是在九点多离开广场的,到家已10:30了,然后精疲力竭地睡去。那个时候西城一带已经开火了。第一起人员伤亡肇始于27军的部队在长安街西端的军事博物馆前向人们开火。在两点左右,我们被东城猛烈的交火惊醒了,不仅有枪声,还有炮声,象是坦克的炮。装甲车也有火炮,但那都称不上炮兵武器。我们听着声音就感觉军队从东西两面过来了。
中国的电视节目采取“把尾声当作开端播出”的方式。他们先播出周日下午人们焚烧坦克和武器运送车辆的画面,士兵们说:“在周六下午,人们就是如此对待我们这些可怜的军人的,我们没有其它选择只能还击。”这给人一种错误的关于事情进展的印象。那看起来人民好像是在主动进攻而军队只不过是被迫防卫。但实际上,当这些车辆到达广场,它们就已经扫清了路障并杀了差不多2000人,而且当他们控制了广场后还接着在杀。
士兵们确实没有杀光广场上的所有学生。的确,那不是真正意义的灭绝行动。大概还有4500位学生幸存下来,他们围在人民英雄纪念碑和士兵们谈判,求得脱身,这被同意了,但其中大多数没有走。有人在离开时被后面追来的坦克碾死,我想大概有11个死了,坦克从后面冲来,从他们身上开过去。但有可靠消息说还有100多人拒绝离开,依旧留着广场上反抗着。
但是,不管广场上发生了什么,主要的屠杀是发生在长安街的东西两边。有小巴士的司机描述了自己看到的情景。他说军队在前面开火,后面还有救护车在捡尸体,带走藏匿起来。他认为至少有100人在那被杀了,至于其它地方他没有谈及。
当然,所有的数据都只是估计,大概会有些夸大,因为你所面对的是那么可怕的屠杀,你会极度恐惧,自然很容易把数字想得很大。
下午5点我回去广场,看看那儿还在发生着什么。广场完全无须忧虑,有两排士兵把守着长安街,他们后面有一队坦克,再之后就是一大片的装甲车。还有坚持从东边过来的人群,最大胆地去向军队靠近,朝士兵们叫喊着,大多数试图劝说他们停止屠杀。一旦那聚集了200到250个人,士兵们便会开枪把他们解决掉。我只看到了最后的这一幕。由于军队不让救护车进入,人们只能通过三轮车带走尸体——其中有些人有平板车。其实这些杀伤完全是不必要的,因为整个长安街都已经被控制下来了。
5月20号或21号,北京附近可以动用的军队——38军拒绝开枪,拒绝向人民动手。当士兵们试图进入市区时,他们为路障和人群所阻,如果不杀人以夺路进城,他们只能驻扎在那。后来这支开枪的部队据说是27军,它是军委主席杨尚昆过去的嫡系部队。在北京的人都说他们来自沈阳,他们在行军前与新闻隔绝,他们被告知说人们在杀战士、在虐待他们,因此他们被唆使去保卫自己、去保卫军队。
民众已经深刻理解了邓——在他们的印象中,每次一旦问题出现,邓就会做出果断决策,好像是要去解决它,然而,最终结果总不尽人意。然后他又做出决定,却比前面的更加糟糕,就如此进行一系列国事决策。10年前,邓是很受欢迎的人物,他似乎把中国从文化大革命中解救了出来,通过引入新的言论自由的标准、自由市场和解放性的改革把中国再次推上正路。然而现在,10年过去了,这里纯粹只有军事专政。
学生们是进步者联盟——中间人士、中间偏左人士甚至中间偏右人士联盟中的一部分。如果单独依靠自身力量,学生们是不可能改造中国的。要改造的话,他们必须溶入人民中,一旦他们溶入其中,他们就须面对农民权利和工人权利的实质。他们必须捍卫农民使用土地的权力、反对价格剪刀差保护他们的利益;他们必须和工人站到一起,支持拒绝向管理者上交权力,保住他们的“铁饭碗”,因为工人工作的权利是从革命中获得的。
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中国は永遠に民主化できない…天安門事件より深刻な事態に陥る可能性
前門の虎・後門の狼
いわゆる「香港問題」が共産主義中国にとっての正念場を迎えている。8月18日に警察の許可が無いまま行われた国民のデモは170万人を集めたと報じられ、香港人たちの「自由を求める戦い」は、衰えを見せない。
香港人が本気で「自由」を渇望する一方、日本人を待ち受ける暗い未来
深圳に集結している武装警察によって力ずくでこのデモ隊を屈服させれば、流血は避けられない。そうなれば「第2の天安門事件」として世界中から糾弾され、場合によっては北朝鮮のような経済制裁・金融制裁を課せられ、共産主義中国は自滅する。
逆に、香港人たちの要求を飲めば、共産党の長老たちから習近平氏が「弱腰」と非難されるだけではなく、年間に少なくとも10万件は起こっているとされる共産主義中国各地の暴動を強権的に弾圧する大義名分も失われる。
もうすぐ米国を追い抜くと驕り高ぶり、反対派を、汚職などを口実に次々と蹴落とし、アドルフ・ヒトラーを超える大虐殺者である毛沢東(大躍進と文化大革命での人為的飢饉も含む死者は、西側推計で約8000万人)政治の復活を目指してきた習近平氏は、党内に敵が多い。
トランプ氏の仕掛けた「貿易戦争」で経済面でも大打撃を受け、天井の無いアウシュビッツと呼ばれるウイグル問題もクローズアップされる中で、習近平氏の中国は今まさに正念場を迎えている。
なお、共産主義中国の抱える全般的な問題については、当サイト記事
1月9日「客家・鄧小平の遺産を失った中国共産党の『哀しき運命』を読む」、
5月18日「天安門事件30年で中国は毛沢東時代に逆戻りする予感アリ」、
6月27日「中国は『巨大な北朝鮮』である…共産主義国家の悲しき運命」、
を参照いただきたい。
戦勝国である中国とは台湾のことである
香港問題を理解するためには、共産主義中国が核心的利益と名付け固執する「台湾問題」の本質について考えなければならない。
共産主義中国がいまだに「帝国主義」であり、尖閣諸島、南シナ海、中印国境などで他国の領土を奪おうと虎視眈々と狙っているのは周知の事実である。また、過去にはベトナムを侵略。チベットやウイグルでは占領するだけではなく、人民の虐待を続けている。
共産主義と帝国主義が合体したものがファシズムであるから、共産主義中国はファシズム国家と呼んでも差し支えないかもしれない。
しかし、台湾問題はその帝国主義的な領土拡大とは異なった側面を持つ。
一般的に台湾と呼ばれる中華民国は、中国の歴史で言えば、亜流の共産主義中国とは違って、綿々と続く歴史の本流なのである。
例えば、日本軍と戦い第2次世界大戦の戦勝国となったのは中華民国(現・台湾)である。
読者も歴史教科書で写真を見かけたことがあると思うが、ポツダム宣言(別名:「米英支三国共同宣言」)を発表したのは、その名の通り米国(ルーズベルト)、英国(チャーチル)、支那(蒋介石)の3国であるが、この支那(中国)とは、もちろん中華民国(台湾)なのである。
また、1945年の国連設立時の常任理事国は、第2次世界大戦に勝利した連合国である米国、英国、フランス、ソビエト連邦、中華民国(台湾)である。
共産主義中国の建国は、1949年であるから、その当時は存在さえしていなかったのだ。
その後、1971年に共産主義中国が本流の中華民国(台湾)を押しのける形で、常任理事国の地位を獲得した。一種の背乗りである。
なお、日中国交正常化は1972年の日中共同宣言からである。米中国交正常化は1971年のキッシンジャーの中国訪問から始まり、1972年のニクソン大統領の訪中を経て、1979年のカーター大統領の時にようやく実現した。
田中角栄氏のロッキード事件が、ニクソン訪中で先行していたはずの米国を追い越す形で共産主義中国との国交正常化を行った同氏への報復だと噂されるのも、米国(特に共和党)が共産主義中国を心よく思わず、常に第2次世界大戦を共に戦った本流の中国(中華民国=台湾)を守ることに徹してきた象徴だといえよう。
第2次世界大戦を「ファシズムから自由を守る闘い」と位置づける先進自由主義諸国においては、第2次世界大戦の戦勝国という意味は極めて大きい。
共産主義中国が台湾を核心的利益と呼ぶなら、米国にとっても台湾は「核心的利益」なの���ある。
中華民国(台湾)と中華人民共和国(共産主義中国)とのいわゆる「2つの中国」問題は、かつてメディアを賑わしたが、歴史的に正当な中国が中華民国(台湾)であることは明らかである。
中華民国(台湾)が独立国として、「私の国の戦勝国としての権利、そして正当な中国の歴史は共産主義中国によって奪われた」と世界に訴えたら、共産主義中国は抗弁できない。
日本の歴史教育では、共産主義中国が戦勝国でないことを包み隠しているが、共産主義中国が主張する「歴史問題」のほとんどは中華民国(台湾)の統治下で起こったことであり、中華民国(台湾)が存在する限り、彼らに主張する正当な権利があるから、共産主義中国としては早く中華民国(台湾)を吸収して消滅させたいのも当然といえる。
最近、台湾関連の法規を急速に整備したり、F-16を売却したりして、トランプ政権が台湾に肩入れするのも、共産主義中国が常任理事国の地位を奪う前(米中国交正常化以前)の世界秩序を回復させようという試みであるとも考えられる。
1997年、香港返還の狙いは中国の香港化
また、現在の香港問題も歴史的経緯を理解しないと読み解けない。
香港返還が行われたのは1997年7月1日であり、鄧小平が死去したのは同年の2月19日である。彼自身は返還をその目で確かめることができなかったが、香港返還は傑出した政治家である鄧小平の行った最後の偉業といえるであろう。
そもそも、香港返還は鄧小平でなければ成し得なかったと考えられる。毛沢東亡き後、「改革開放」を軌道に乗せた鄧小平は、ロシアのペレストロイカを行ったミハイル・ゴルバチョフのような「自由化」「民主化」の旗手として西側から大いに期待されていた。
英国が最終的に香港返還を決断したのも、改革・解放が順調に進めば中国も豊かになり、自由化・民主化が進むと考えたからである。
現在のように、毛沢東暗黒時代への回帰を目指す習近平政権では、香港返還などあり得なかったと断言していい。
事実、2014年の香港反政府デモ(雨傘運動)の際には、英国が調査のために議員団を派遣しようとしたが、共産主義中国はこれを拒絶した。
そもそも雨傘運動は、2017年の香港特別行政区行政長官選挙から1人1票の「普通選挙」が導入される予定であったにもかかわらず、共産主義中国が「行政長官への立候補には指名委員会の過半数の支持が必要であり、候補は2~3人に限定すると決定」したことに原因がある。
かつて悪の帝国と呼ばれた、共産主義国ロシア(旧ソ連)でさえ、現在では曲りなりにも普通選挙が導入されている。そのような基本的なことさえ実行できない1国2制度とは何であるのか? 「話が違う」ということなのだ。
すでに述べた様に、英国が香港返還に応じたのは「共産主義中国が香港化」すると考えたからであり、「香港が共産主義中国に統一される」と考えたのであれば、返還に応じなかった。
法律的問題には色々な議論があるだろうが、このような歴史的経緯から考えれば「香港人民の自由が奪われるのなら、約束違反だから香港返還は取り消す」と言いきれるだけの大義名分が英国にはあり、米国をはじめとする西側先進諸国もそれを支持するであろう。
「香港事件」が「天安門事件」より深刻な理由
万が一、共産主義中国が武力でデモ隊を鎮圧した場合には、天安門事件をはるかに上回る厄災が共産主義中国に降りかかることが予想される。
歴史的経緯から、香港には英国のパスポートを持った人間が多数いるし、カナダ人、米国人も相当数滞在している。彼らは白人(ピンク人)であるとは限らない。むしろアジア系・東洋系の顔立ちの者が多いのではないかと推測される。
総人口700万人のうち170万人、あるいは200万人といえば、香港の3~4人に1人は、デモに参加しているということだが、その中に二重国籍者も含めてアジア系英国人、カナダ人、米国人がどの程度含まれているのかは、見た目ではまったくわからない。
武力鎮圧の結果、それらの「外国人」に死者でも出ようものなら、それらの国々に宣戦布告をしたのも同然の困難状況に陥る。
中国が永遠に民主化できない理由
中国がいくら豊かになっても民主化できないのは、共産主義が共産党のために存在し、民主化によってその利権を失うことを恐れているからだが、ロシアはウラジーミル・プーチン氏の独裁が続く中でも、一応、普通選挙は行われている。
大陸中国が民主化できない根本原因については、人間経済科学研究所・研究パートナー藤原相禅氏の研究論文「中国が民主主義を受け入れない理由」を参照いただきたい。
重要なのは、歴史的に「御恩と奉公=封建制度」という「契約に基づく社会を経験」しているかどうかということだ。1人が牛耳る絶対王制が基盤である社会に、いきなり民主主義を導入しても根付かないということである。
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いたるところに、漢字、漢字、漢字が…!
「你好! 安田先生!(こんにちは!安田さん)」
小さいが清潔感のある空港から外へ出ると、私の名字が書かれた紙を持っている青年が流暢な中国語で声をかけてきた。彼の中国語名は子辰。紙には中国語で「歓迎」、日本語のひらがなで「ようこそ」と書いてある。彼は日本語はわからないが、Google翻訳で調べて書いてくれたという。
“子辰”と握手を交わした私のすぐ横を、機内で隣席に座っていた中国国営企業(資源系)に勤務する北京出身のビジネスマンの集団が歩いていく。彼らとは宿が一緒だったので「再見!(またね)」と挨拶を交わして見送った。
「四川電力阿壩公司」
現地の通貨を下ろすためにATMの列に並んでいると、またもや目の前に漢字があった。私の前に並ぶ男が、なぜか中国内陸部のインフラ企業・四川省電力公司アバ支社のサッカーチームのレプリカユニフォームを着ていたのだ。さらにミネラルウォーターのボトルを捨てる場所を探すと、中国語で「リサイクル」「その他のゴミ」と書かれたゴミ箱があった。
待っていてくれたピーター(子辰)と、空港付近で見かけた中国語の数々。ゴミ箱は中国の援助で設置されたらしく、英語よりも漢字のほうが文字が大きい。
そもそも、カタールのドーハで飛行機を乗り換えて以来、私はほとんど中国語しか使っていない。英語はせいぜい機内でのドリンクの注文と、入管で渡航意図を説明したときにちょっと喋った程度だ。
だが、私が来た場所は北京でも成都でもない。東アフリカの内陸部に位置する山岳国家・ルワンダの首都のキガリである。標高1500メートルほどの高原地帯に位置するキガリは、ほぼ赤道直下にもかかわらず、年間を通じて最高気温・最低気温の平均がそれぞれ約27度・約18度、湿度も低くて過ごしやすい。
“子辰”のルワンダでの名前はピーター・ムホザという(さらにフランス語でジャン・ピエール・ムホザという名もある)。意思疎通にほぼ問題がないレベルの中国語を話し、漢字のニックネームまで持っているが、れっきとしたルワンダ人だ。
ピーターとは、現地への渡航にあたり、北京の中国地質大学で恐竜学を学ぶ黒須球子(まりこ) さんのルームメイトのモザンビーク人留学生の友達の友達……という、恐竜とアフリカ系中国人材というカオスな人脈をたどった果てに知り合った。
(黒須さんについては、こちらの記事も参照いただきたい→https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64445)
中国を見るならアフリカを見よ!
ところで、私はなぜルワンダに行ったのか? 理由は簡単だ。いま、中国本土以外で中国ウォッチャーが最も見ておくべき場所は、アフリカだからである。
中国は1950年代以来、反帝国主義や第三世界の連帯を唱えてアフリカ諸国と独自のコネクションを築いてきた。イデオロギー主導の外交は1980年代にいったん下火になったが、21世紀に入ると資源エネルギー需要の増大や中国企業の対外進出(走出去)政策、さらに習近平政権下での一帯一路政策を受けて、アフリカとの関係が再び強化された。
※取材謝礼であるヤマハのステレオを手にテンションが爆上がりのピーター。ビックカメラの英語ページから欲しい商品を選んでもらったが、彼が選んだ液晶テレビは中国メーカーのハイセンス製だったので、第2希望のヤマハ製品を持っていった。
近年は中国の対外援助の5割近くを対アフリカ援助が占めている。「政治的条件のつかない援助」を合言葉に、相手国の政体にかかわらず(=たとえ独裁国家が相手でも)手を差し伸べる中国は、専制的な国も多いアフリカから見ればありがたい相手だ。旺盛な経済関係もあって、アフリカ諸国の対中好感度は軒並み高く、国連などの場でも中国の応援団として振る舞うことが期待されている。
そんなアフリカ諸国のなかで、私が今回訪ねたのがルワンダだ。1994年に50〜80万人もの犠牲者を出したルワンダ虐殺から、今年はちょうど25年目にあたる。いまこそ見ておくべき国だと言っていい。
詳しくは後述するが、内戦終結後のルワンダは「アフリカのシンガポール」を合言葉にスマート国家への脱皮を図っている。政治は専制体制、経済はニューエコノミーを重視した国家資本主義……と、国土面積が四国の1.4倍程度の小国にもかかわらず、中国さながらの国家を作ろうとしているのだ。
私は��京から約8000キロ離れたこの小さな国へ、「中国っぽいもの」を探す旅に出たのであった。
習近平は素晴らしいリーダーだ!
「最近のルワンダはアメリカと少しギクシャクしているけれど、中国との関係はすこぶる良好だ。いまのルワンダにとっていちばん重要な国は中国だと思うよ」
空港からのタクシーの車内で、ピーターがそう説明してくれた。
1990年生まれの彼はルワンダ虐殺で父を失ったが、内戦後は母子家庭のなかで勉学にはげみ、成績優秀者を選抜するルワンダ国家の奨学金を得て同国では数少ない高等教育機関であるルワンダ国立大学を卒業した。やがて2015年に中国政府奨学金留学生として北京科技大学に留学して、バイオ燃料にかかわる論文で修士号を取得している。
ピーターは細身の長身で、黙っていると横顔がちょっとウィル・スミスっぽくてかっこいいのだが、お調子者で不器用な性格が玉に瑕である(ただしルックスがよいのでモテる)。もっとも優秀なのは確かで、北京留学中は留学生の代表として訪中したルワンダ大統領のポール・カガメ(後述)にも会った。今年か来年、中国政府から再度の奨学金を得て北京で博士号を取るのが当面の目標だ。
「習近平は素晴らしいリーダーだと思うね。中国のリーダーはロング・タームでものを考えて、実行できている。多くのアフリカのリーダーも見習うべきだろう」
その経歴からしても当然、ピーターは親中派である。もっとも、こういうエリート層は最近のルワンダ(のみならずサブ・サハラ各国)ではそれほど珍しくない。例えば、2日後に私が会ったピーターの友人で、中国語教師のガット(32歳、中国語名「田文」)も言う。
「ルワンダがモデルにするべき国家は中国だ。政治的安定、経済発展、イノベーションを実現するには中国みたいな体制が理想的なんだ」
ガットも94年のルワンダ虐殺の生き残りである。ピーターと同じくルワンダ政府の奨学金を得て大学へ進学し、やがて中国政府の国策にもとづく語学教育プロジェクト・孔子学院の奨学金を得る形で重慶師範大学で漢語教育分野での修士号を取った。帰国後はそのままルワンダ国内の孔子学院に就職し、母国の後輩たちに中国語を教えている。
中国語とソロバン、広がる影響力
孔子学院はあくまでも語学教育プロジェクトであり、日本で一般に思われているほどゴリゴリのイデオロギー教育がなされているわけではない。ただ、ルワンダにとって最大の輸入相手国である中国の言語を教え、さらに奨学金を通じて「先進国」中国への留学の機会を提供してくれるので、現地のインテリ層の対中好感度を上げるうえでは一定の役割を果たしている。
2018年12月現在、アフリカ全土で孔子学院は59施設、より小規模な孔子課堂が41施設あり、のべ140万人以上が学んだとされる。ルワンダだけでも孔子学院・課堂は約20施設があり、ガットが教えているのはキガリからバスで3時間ほどの距離にある地方都市の教室だ。
ルワンダの孔子学院で、学生側が負担する費用は入学手続き料の30000ルワンダ・フラン(約3600円)のみ、入学後の学費は完全に無料だ。学位は取得できないとはいえ、将来を切り開く上ではかなりお得な教育機関だと言っていい。
※もう一人の孔子学院奨学金OBの中国留学経験者で、キガリ市内で旅行会社を経営するガテラ氏。アフリカ大陸のど真ん中にもかかわらず、中国語人材を探すとどんどん見つかる
孔子学院以外にも、私が目にした中国のソフトパワーを紹介しておこう。それはピーターの仕事である。彼は現在、北京に本社を置いて世界展開するソロバン教育塾チェーン「Shenmo(神墨)」グループのルワンダ・ブランチの運営にたずさわっているのだ。
キガリ郊外にある教室に遊びに行くと、6〜11歳の子ども十数人が、一心不乱にソロバンの玉を弾いていた。一通りソロバンを使わせた後は暗算である。算数の基礎能力を付けるうえでは、ソロバンは有効だ。
授業は英語でおこなわれるものの、教材は中国からそのまま持ってきたもの。漢字で書かれた答案用紙に、子どもたちが答えを書き入れていく。
かつてルワンダは旧宗主国のベルギーが教育に不熱心だったこともあって、1960年代まで大学が存在せず、その後も内戦などで教育の混乱が続いた歴史がある。Shenmoはまだ小規模だが、教育産業の需要それ自体はある国だ。
「ルワンダの教育環境は、はっきり言って現在でも全然よくない。理数系に強い人材を育てなきゃいけないんだ」
そう話すピーターは、半年ほど前に隣国タンザニアのダルエスサラームでShenmoのブランチ代表としての研修を経験した。イラン・ルワンダ・タンザニアの代表が集められ、中国人コーチからソロバンの特訓を受けたらしい。ライオンだらけの国に、中国ソロバン塾の「虎の穴」があったのだ。
父は穏健派だから殺された
ピーターのソロバン教室で学ぶ子どもたちは人懐っこく、あれこれと私に話しかけてきたり、時計やカメラをいじり回したりと天真爛漫だ。だが、彼らが生まれる前にルワンダが経験した歴史は重くて暗い。
ルワンダは過去にながらく、旧宗主国のドイツやベルギーによって作り出されたツチ・フツの「民族」対立に苦しんできた。ツチとフツの言語や宗教はほぼ同じで、両者の差異は実質的にほとんどないが、植民地時代に少数派のツチが「白人に近い」とみなされ中間支配層として活用されたことで対立の芽が生まれた。
ツチとされた人たちは人口の約14%、フツとされた人たちは約85%である(他に先住民である「トゥワ」が1%)。ツチ・フツは外見上でも区別できないが、植民地政府が作ったIDカードに「民族」を記載する項目が設けられたことが悲劇の遠因になった。
1962年のルワンダ独立後は多数派であるフツが権力を握り、初代のカイバンダ大統領時代にはツチがしばしば虐殺された。2代目のハビャリマナ大統領(服部正也『ルワンダ中央銀行総裁日記』にも「ハビさん」の名で登場する)の時代の末期、1990年代前半にも激しい内戦が起こり、権力の維持を図った同政権の取り巻き集団を中心にフツ至上主義(フツ・パワー)が喧伝された。
ツチへの憎悪を煽った雑誌『KANGRA』。ルワンダ虐殺の当時、ツチの民兵たちの間でよく読まれていた。キガリ市内の虐殺記念館にて許可を得て撮影
ついに94年、このハビャリマナ大統領の暗殺を契機に混乱がいっそう拡大し、民兵組織や地方有力者の扇動を受けた一般のフツ系住民が、ツチや穏健派フツをわずか3ヶ月間で50万〜80万人(一説には100万人)も虐殺するルワンダ虐殺が起きた。単純計算でも、内戦前の人口(約720万人)の10%近い人数が犠牲になったことになる。ソロバン先生のピーターも、この事件で父親を失っている。
「当時は4歳だったから、僕には父さんの記憶も、虐殺の記憶もない。父さんがフツで母さんがツチだったらしいけれど、父さんはフツなのに虐殺に加わらない穏健派だったから殺されたみたいだ。ただ、どうやって亡くなったのかはよくわからない」
いっぽう、孔子学院の講師であるガットは、父親がツチで母親がフツだった。ガットが7歳のときに発生した虐殺で父親の一族は皆殺しにされたが、当時は母親がフツの男性と再婚していたので、連れ子であるガットはかろうじて難を逃れている。ガットは言う。
「私みたいな話はいくらでもあるが、みんな我慢している。被害者も加害者も大勢いるし、(虐殺の)当時に何をしていたかは、他人に聞ける話題じゃないさ。過去に直接手を下したことがわかっている人についても不問に付す。それが未来のためだ」
虐殺25年後の強権と経済発展
1994年のルワンダ虐殺は3ヵ月ほどで終わった。隣国ウガンダに亡命していたツチ系勢力を中心とするルワンダ愛国戦線(RPF)が内戦に勝利し、虐殺が停止されたからだ(ちなみに同年9月〜12月にはルワンダ難民への人道救援活動として、自衛隊が隣国ザイールの難民キャンプに派遣されている)。やがて政情は徐々に安定し、2000年からはRPFのリーダーだったポール・カガメが大統領となった。
近年、カガメは強力なリーダーシップのもとで「アフリカのシンガポール」を目標にルワンダの国家改造を進めている。カガメはかなり独裁的だが、ジンバブエのムガベや中央アフリカのボカサのような、従来のアフリカにありがちな国家を私物化するタイプのリーダーではなく、あだ名は「ルワンダのCEO」だ。植民地時代から行政や教育現場で用いられてきたフランス語も、英語に置き換えられた。
ルワンダの一人当たりGDPはまだ750ドル程度で、国家予算の3割を援助に頼る。だが、ルワンダの汚職の少なさや政府の行政能力、良好な治安、起業の容易さなどは国際的にも高く評価されている。国外からの投資も集まり、2008年〜2017年の10年間のGDP成長率は約7.5%に達した。人口も虐殺当時の倍以上となる約1220万人まで増え、社会には若者が多く活気がある。
近年は政府の政策により清掃に力が入れられていることもあって、キガリ市内の中心部はかなり清潔だ。路上にゴミはほとんどなく、他のアフリカの都市と比較しても清潔感がある。夜間のひとり歩きも、それほど怖くない。
カガメ政権下では従来の民族対立も強引に押さえ込まれ、いまや「ツチ」「フツ」はもちろん「民族(ethnicity)」という単語すらおおやけに語ることはタブーだ。もっとも実際のところ、内戦前は人口的に多数派のフツ系が支配層だったが、内戦後はカガメ自身を含めたツチ系のリーダーたちが台頭するようになっている。
現在、ICT分野で起業をしたり、中国に留学したりするような「意識の高い」ルワンダ人の青年エリートは(ピーターはフツ系だが)多くが幼少期に虐殺を生き延びたり、亡命先から母国に戻ってきたツチ系の人たちである。彼らはそれぞれカガメを手放しで称賛する。
「カガメ大統領は凄い。彼はルワンダ国民を愛しているし、ルワンダをもっと発展させてくれる。国家が発展するときは、ああいうストロングなリーダーの政治が必要なんだ。マスコミや野党の統制だって、ときには必要とされる場合があるのさ」(ピーター)
「カガメの政策は庶民の希望と合致している。彼ら(=RPF)はルワンダを虐殺から救ってくれたし、カガメに代われる者はいない。みんなが、カガメにもっと大統領を続けてほしいと思っている」(ガット)
中国人から「言論の自由がない」と評される国
ルワンダではカガメについて「褒める」以外の評価が許されていないとはいえ、かなり多くの国民が本気でカガメを支持しているのも確かだ。これはピーターやガットのようなエリート層だけに限った話でもない。
ただし、カガメ政権は経済発展以外の分野でもシンガポールや中国を参考にしているらしく、マスメディアを強力に統制し、野党を強力に弾圧している。さらに2015年には、憲法を改正して大統領任期を事実上17年間も延長してしまった。
プロパガンダ雑誌の表紙をかざるポール・カガメ。「ルワンダのCEO」のイメージを損なわないための演出なのだろうが、反政府ゲリラの元リーダーがこれだけスマートに振る舞っているのは驚きだ。
ルワンダの報道統制は凄まじく、中国系の民間シンクタンクが昨年8月に発表したレポート『非洲国家民衆眼中的中国形象—盧旺達(アフリカの国家・民衆から見た中国の姿:ルワンダ)』のなかでも「言論の自由は相対的に制限されている」「(現地メディアは)民衆の真実の感想や視点を反映したりよく伝えたりすることが比較的少ない」という記述がある。中国人が見てすら「言論の自由がない」と感じてしまうほどの国なのである。
従来、欧米各国はルワンダ虐殺への配慮もあってカガメ政権への批判を手加減してきたが、近年はさすがに批判が強まり、ルワンダの対米関係も悪化しつつある。ただ、それゆえに専制体制を気にせずに仲良くしてくれる「大国」の存在は歓迎される。つまり中国のことだ。
CNNによれば、中国は過去12年間でルワンダに4000億ドル(約4兆3900億円)を投資してきた。ルワンダの道路状況は地方を含めてかなり良好だが、こうした国内道路の7割は中国企業の建設によるという。昨年7月、習近平は中国の国家主席としては初めてルワンダを訪問して一帯一路構想への参加を歓迎し、一説には道路建設に1億2600万ドル(約138 億円)規模ともいう融資を決め、さらに病院や新空港の開発でもルワンダ政府と合意に達した。
ルワンダの目覚ましい復興は「アフリカの奇跡」として国際的にも高い評価を得ている。だが���その成功を支えるものは、広い意味での中国モデルの国家体制である。
「虐殺」の後には中国きたる
以前、私は『さいはての中国』(小学館新書)で、カンボジアでの中国の存在感の増大について書いた。かつて内戦とポル・ポトの虐殺を経験したカンボジアは、1990年代前半にUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)をはじめとした国際社会の支援のもとで議会制民主主義が導入されて国家を再スタートさせたが、近年は中国の強い影響化に置かれるようになった。
現在、カンボジアは急速な経済発展で投資家の注目を浴びるいっぽう、与党が国民議会の全議席を独占するなど、フン・セン首相の独裁体制が固められている。フン・センと中国の関係は強固で、カンボジア国家は、中国からの多額の借款を受け入れている。ASEANの会議などで南シナ海の領土問題が持ち出された際に、カンボジアが必ず中国を支持する光景もすでにお馴染みだ。
虐殺の後には中国きたる――。この構図はカンボジアのみならず、ルワンダもまた同様だ。
米中対立の激化が進むなか、今年5月12日付けのAFP(日本語版)は、フランス国際関係研究所のアリス・エクマン氏の見解を引用する形で、世界の各国が米中のいずれの勢力に属するかの選択を突きつけられる時代の到来を予告している。中国に「新冷戦」を本気で戦い抜く覚悟と体力があるかは不明だが、近年の中国の国際的プレゼンスの拡大を受けて、第三世界の諸国のなかには、かつての毛沢東時代さながらに中国側へなびく国が出てきている。
ルワンダをめぐってはかつて冷戦下の1960年代に、西側寄り(フランス寄り)のフツ系政権を牽制する目的から、複数のツチ系反政府勢力がソ連や中国の支援を受けていた歴史がある。現在の中国とツチ系のカガメ政権との関係は、半世紀前の共闘の構図が新冷戦の時代に装いを変えて復活したもの、という見方もできるだろう。
アフリカで中国を探す私の旅は、まだ始まったばかりである。
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