#本山町といえば
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京都の伏見は酒蔵の町
京都の伏見といえば、伏見稲荷大社が有名ですね。
その一方で、酒蔵の町としてもよく知られていたりします。

月桂冠に黄桜に、松本酒造に。有名な酒造メーカーが並んでいます。

↓のページが見やすいです。
去年の秋くらいに仕事で近くに行ったので、少しぶらぶらしてきました。
これは松本酒造。


桃の滴が有名なのですかね。

川沿いにあって、春になると菜の花も咲くようで、絵になる景色が見られるかもしれません。
大正時代からある酒造で、正面の佇まいからも歴史が感じられます。
見学もできるようですね。


ここから少し離れたところに、月桂冠大倉記念館やキザクラカッパカントリーなどもあります。

そのあたりも行ってきたので、次の記事でも写真を載せていきますね。
ここのブログは、1記事につき10枚までし��写真がアップできないので、記事をわけなければいけません。
さて、酒蔵の町・京都伏見は、日本三大酒どころの一つだそうです。
あと二つは、兵庫県の灘、広島県の西条です。
京都の観光地というと、やはり祇園・四条・清水エリアが人気ですが
京都伏見のこの辺りも、もっと観光客が増えてくるのでは?と、勝手に見込んでいます。
最近は、インバウンド観光客向けなのか、日本酒の飲み比べができるお店やお酒の美術館もできているほどですから。
京都四条の錦市場にも、日本酒の飲み比べができるお店があります。人気ですよ。
錦屋台村が人気ですね。
京都伏見の酒蔵の町には、あの寺田屋や十石舟、伏見桃山城もありますし、
もう少し人が入ってきてもいいのになぁと思いながら、散策しておりました。

春になったら人が増えるのかもしれませんね。
桜が咲く頃の十石舟の風景写真は、Instagramでもよく見かけます。
最近はInstagramでの宣伝効果もすごいみたいで
そこまで有名でなかったはずの長岡京市の光明寺や
同じ伏見区の城南宮などがおしゃれになって参拝者も増えたので驚いています。
城南宮��、昔から知ってたりしますが、
今までと違う参拝者が増えたように感じられますね。
Instagramの影響ですね、きっと。
インスタ映えを意識した写真をよく見かけます。
そういう演出もされているようです。
伏見稲荷は、外国人の参拝者ばかりです。⛩️のキーホルダーもよく売れてますし、狐の小物もあったような気がします。
あと、狐のお面があったような。
伏見稲荷の狐さんもPUMAのロゴみたいでかっこいいです!

で、伏見稲荷から酒蔵の町の伏見桃山あたりまでは、歩いて行ける距離ではありません。
電車で14分位ですね。歩くと結構遠いです。
行きたい場所によっては、伏見桃山駅よりも中書島駅のほうがいいかもしれませんね。
1つ隣の駅になりますので、もう少し時間がかかります。
京阪本線で移動するのがスムーズではないかと。
ただし問題があって、京阪本線は京都駅からは乗れないので
観光される方は、京都駅から地下鉄東西線で四条駅に出て
人気観光エリアの祇園・四条・清水あたりを観光されてから
徒歩圏内にある京阪本線の祇園四条駅か、三条駅から
伏見稲荷、伏見桃山駅方面へ向かわれると良いのかも。
途中、東福寺もあります。
もう少し便利な移動手段があれば、伏見桃山あたりももっと賑やかになるのかもなぁとか思ったりして。
思ってたよりもちょっと静かなんですよね。
素敵な街だからもったいないなぁ。
秋ぐらいに行ったからだろうか。
もう少し賑やかになってほしいですね。
長々とすいません。色々気になったので調べました。
ですから、こういうのも
前記事で書いたように
Googleのマイマップに
まとめたいわけなのです��
#日本酒#にほんご#京都#歴史探偵#歴史#japan photos#kyoto#sake#japanese sake#伏見稲荷大社#fushimi inari taisha#景色#風景#ひとりごと#日記#観光スポット#観光#懐かしい#japanese#日本人#日常の記録#穴場#Instagram#gekkeikan#酒#大正時代#aph japan#考え事
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16.首相官邸の建築 - 東京建築散歩
「これは、テレビの画面から撮った写真だけど、正面だけ、非常に開放的に作られているのがよくわかるなあ」「これは、とっても不思議なデザインだと思いますが、どういう人が設計したものなんですか?」 「これは、官邸のなかに検討委員会ができて、ずいぶん時間をかけて検討した結果なんだよ。有識者会議が開かれて、丹下健三、芦原義信、鈴木博之などという人から意見を聞いたらしい」 「丹下さんまで呼ばれているんだ」 「まあ、丹下さんと芦原さんはすでにかなり高齢だったはずだから、注目したいのは歴史家の鈴木博之さんだ」「鈴木さんはとくにハイテクと和の要素を組み合わせたデザインにすべきだ、と力説したらしい」と宮武先生。 「全体はモダニズムだ。しかし、たしかに和の要素が感じられる」と東郷さん。 「どこが和なんですか?」と恵美ちゃん。 「第一に左右非対称。つぎに軒。」 「えーっ、左右非対称がどうして和なんですか?」
「これはアメリカの大統領官邸ホワイトハウスだ。左右対称、シンメトリーなデザインが国の権威を表現するデザインとしてよくきいているだろ」 「たしかに日本の国会議事堂もシンメトリーですね。では、なぜ首相官邸は非対称なんですか」 「じつは、日本建築の特質として左右非対称ということが昔から言われているんだよ」 「昔の建築も、もとは中国から入ってきた時は、全部左右対称だったのに、日本に入ったとたんに、非対称にくずしてゆく。法隆寺からして非対称なんだ」 「えーと、法隆寺は中門を入ると、金堂と五重塔と左右に並んでいますね」 「そうだろう、中国では、金堂を中心に据えて、五重塔を左右対称に置くのが原則なんだよ」 「確かに法隆寺は非対称ですね」 「それは、桃山時代になって、茶室、数寄屋建築になるとますますはっきりする。それこそ、日本建築の特徴だといわれてきたんだ」 「でも、和のデザインという方針から、非対称のデザインへ行くのは、相当大胆な決断力ですね」 「もし、丹下さんが設計していたら、必ずシンメトリーになっただろうなあ」 「つまり、日本的なデザインと指示されて、��対称のデザインでこたえた建築家は相当なツワモノだということだ」
「ガラスの中に木の格子が見えるだろう。これも和のデザイン要素だよ」 「そうですね。あれは、町家の格子のようですね」 「国家を代表する建築としては、かなり大胆なデザインだと思うよ」 「参考意見は、分かりましたけど、設計したのはだれなんですか?」 「うーん。それがはっきりしない。公式には建設大臣官房 官庁営繕部ということになっている。つまりお役人が設計した。しかし、漏れ聞くところでは、じっさいには日建設計がやったということだ」 「そうだろうなあ、これは、相当腕のたつヤツの仕業だぜ」と東郷さん。
「モダニズムの建築でこれだけ軒が出ているのはめずらしい」 「ヨーロッパのモダニズム建築は立方体で、軒はないですからね」 「車寄せの庇から、ピアノの鍵盤のような壁面、そして軒と実にリッチなデザイン要素が重なっているぞ」 「ハイテクと和のデザイン、この建築の見せ場だな」
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Scan and transcription of the Persona 3 part of Newtype Magazine February 2016


春、夏、秋を経て冬、理が出す答えを見届けて
監督 田口智久
死を見つめる季節のフィナーレに
第1章でコンテ、第2章で監督を務めてこられた劇場版「ペルソナ3」ですが、ファイナル・シーズンである第4章は、どのような気持ちで臨んだのでしょう?
田口 第3章で自分が監督としてかかわっていない劇場版「ペルソナ3」を見ることができたのが、刺激になりました。自分とはまったく違う方法論で構築されていて、僕がやったら確実にこうならないですし、なんというかジェラシーのようなものを感じまして。ああ、ペルソナって、こういうふうにつくることもできるんだ、と。それを受け止めることができたからこそ、第4章では、自分のやり方を突き詰めたフィルムにしなくてはと思いました。あとは、やっぱりフィナーレということでのプレッシャーが大きかったです。
第4章の物語の関となるのは?
田口 理と綾時の関係性ですね。そこヘシャドウの母体であるニュクスが襲来したり、それに伴ってみんなの心がダウナーになって⋯⋯という展開で、ずいぶん重いものになっています。でも、みんなが悩んでいる部分にしっかり尺を取って描いているので、映画ならではの見せ方ができているのでは、と思います。
理にスポットが当たっていきますが、どのように描きましたか?
田口 第3章に、理が旅館の池に落ちて笑うシーンがありますけど、あの理を経ての理をしっかり追っていこうと考えていました。今作では、抱えきれないほどの絶望を前に、悩み、立ち止まってしまうというところまで、みんなが落ちてしまうんですけど、そのなかで理が見つけ出す答えというのが、全4章通してのテーマでもあり、象徴的なセリフになっています。そして、それは、第3章で笑った理がいなければ、たどり着けなかった答えなんじゃないかな、と。
それから、綾時とアイギスも、重要な存在ですね。
田口 すごく極端な⋯⋯本当に超極端な言い方ですけど「綾時と理は両想い。アイギスは理に片想い」っていうのを、こっそり頭の片角に置いてました(笑)。もちろん僕独自の解釈なので、いろんなとらえ方をしてほしくもあるのですが。ただ、そうやって、アイギスがヒロイン然としているわけではないからこそ、ペルソナならではの仲間感が出る、というのもあるんですよね。
理と綾時に重点が置かれていくとなると、その二役を演じられている石田彰さんのアフレコもすさまじいものになったのでは。
田口 石田さんだけ別の週に理以外の綾時を中心とした声を録らせていただいてから、全体アフレコの週に理としてみんなといっしょに録らせていただいた感じなんですけれど、本当にすばらしかったです。演技に対するストイックさが本当にプロフェッショナルで、ご自身で「今のは少し綾時が出てしまったから」とリテイクを申し出てくださったり。
全体的にも、とてもスムーズなアフレコになったそうですね。
田口 圧倒的にスムーズでした。特に今回は静かなシーンが多くて、感情的にセリフを吐くような場面はほとんどないんですけど、その淡々とした空気感を成立させるのは難しいはずなのに、自然にスッとやってしまえるのがこのチームの方々の成せる技。こんなに研ぎ澄まされた現場は、なかなかないのではないかと。
細かな心情描写という意味では?画づくりにもこだわられたのでは?田口監督の描き出すダウナーな情景描写が楽しみです。
田口 カッティングが終わった後に、編集さんに言われたひと言が「暗っ!」でしたからね(笑)。刺されて死ぬとか大惨事が起こって死ぬとかのサスペンス的な死ではなくて、非常に観念的な死についての物語なので、精神的にどうやられていくかというのを、どう表現するかが課題で。光や色味の演出であったり、降ってくる雪の量で表現していきました。アニメで雪が降りつづけている作品もあまりないんじゃないかと思うんですけど、心情とマッチさせたいなあというところで、力を入れています。作画もすごいアニメーターさんたちが集まってくださっていて、誇張された動きというよりはリアル寄りの芝居をていねいに描いてくださっています。全然動いているように見えないところにも実は枚数が割かれていて、作画枚数もこれまででいちばん使っているんですよ。
最後に、今作を描くうえでの最大のポイントだったと考えるシーンを教えてください。
田口 ラストですね。それは���4章を担当すると決まったときから、見据えていたビジョンでもあります。第1章の春からともに季節を経てきた理と仲間たちが迎える、そのラストを見届けてほしいです。
#1 Spring of Birth
1日と1日のはざまに隠された影時間。そこにはびこる怪物・シャドウに襲われて���無気力症となってしまう者が町に続出していた。対抗できるのは、ペルソナという特殊な能力をもつ者だけ。春、私立月光館学園に転校してきた結城理は、ペルソナの力に覚醒し、同じくぺルソナの力をもつ者たちが集う特別課外活動部へと引き入れられる
#2 Midsummer Knight's Dream
夏休みに屋久島旅行に向かった特別課外活動部。そこでアイギスという女の子に出会う。彼女は対シャドウ特別制圧兵装のラストナンバーであり、なぜか理のそばにいることを望むのだった。理たちは影時間の謎を追いながら、さらに新たな仲間と出会い、きずなを深めていく。だがそこにストレガと名のる者たちが現われ⋯⋯
#3 Falling Down
季節は秋。特別課外活動部は、影時間を終わらせるため、シャドウや滅びを望むストレガとの死闘を重ねていた。ある者は仲間や家族の死と向き合い、ある者は護るべき者に気づき、ある者はこれまでの戦いの意味に葛藤する。そんなとき、理の前に謎の転校生、望月綾時が現われる。その出会いの先にあるものは⋯⋯
「PERSONA3 THE MOVIE #4 Winter of Rebirth」
●1月23日土全国ロードショー
●第3章Blu-ray&DVD 1月20日水発売
WEB▶http://www.p3m.jp/
Twitter▶@P3movie
illustrated by YUKIO HASEGAWA, finished by SAORI GODA
background by BIHOU, text by HITOMI WADA
©ATLUS ©SEGA/劇場版「ペルソナ3」製作委員会
STAFF 原作=「ペルソナ3」(アトラス) 脚本=熊谷純 スーパーバイザー=岸誠二 キャラクターデザイン=渡部圭祐 ペルソナデザイン=秋恭摩 プロップデザイン=常木志伸 色彩設計=合田沙織 美術監督=谷岡善王(美峰) 美術設定=青木薫(美峰) コンポジット&ビジュアルディレクター=高津純平 編集=櫻井崇 音楽=目黒将司、小林哲也 音響監督=飯田里樹 第4章監督=田口智久 制作=A-1 Pictures
CAST 結城理=石田彰 岳羽ゆかり=豊口めぐみ 伊織順���=鳥海浩輔 桐条美鶴=田中理恵 真田明彦=緑川光 山岸風花=能登麻美子 アイギス=坂本真綾 天田乾=緒方恵美 荒垣真次郎=中井和哉 イゴ ール=田の中勇(特別出演) エリザベス=沢城みゆき
#persona 3#p3#ryomina#that tag's deserved i think#'Ryoji and Makoto are in love with each other. Aigis' feelings for Makoto are unrequited'#insane
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0523 「日本酒取りに行っていい?」という口実で(前回わたしが京都みやげを渡すのを失念していた)男の人が家に来た。彼が家に来るのは2度目。 料理をふるまうのは苦手だし、技術があったところで付き合っていない相手に繰り出せばなめられるし、ということで手巻きずしを提案した。ちょうどいい可愛さだし華やかだし準備楽なのだけれど、付き合っていない相手とするのは初めてだった。 コストコで大容量のサーモンを持参すると連絡があったので、おもに薬味(茗荷、青紫蘇、ディル、ゴマ、チーズ、納豆、錦糸卵等)と酢飯を用意した。刺身がサーモンだけだったのでこの人手巻き寿司初めてかよと思って内心ウケていたら本当にほぼ初めてだった。 21時から始めたこともあって家に泊まりたそうなムードを出されたが好きとも言われてない相手を泊めるほど初心じゃないのでセックスする気ないですムードを出し返したら帰ってくれた。 いずれ折を見て寝てみたいとは思っている。でもいまじゃなくていい。わたしの欲の方が根深い、舐めないでほしい。 0524 サークルの、ずっと会ってみたかった野澤さんという4歳下かつ代は4つ上の先輩をライブ後に出待ちしたらごはんに連れて行ってくれた。かっこよくて、でも女子に対して警戒心が強いところが可愛かった(無論、初対面だった上にわたしがありえないくらい歳を食った後輩だからというのは否めない)。 あなた小説書いてるんでしょ?千葉からいろいろ聞いてるよ、と突然言われて顔がちびまる子ちゃんくらい真っ赤になった。だから、そういうのやめてくれよな。まあお笑いやってることと自意識の度合いは同じような行為なので別にそれくらい明かしてもいいだろってことなんだろうけど、本当にほんとうに勘弁してほしい。結果出してるからいいじゃんとか言ってどれくらいの選考の進み具合なのかまでご丁寧にわたしがいない場で紹介する知人は数年前からあとを立たない。わたしの華々しい活躍に頼らずあなた自身のことをもっと話したら!?って思う。キャッチーだから使いたいのはよくわかるんだけど。 また会いたいけど明らかにわたしみたいな圧のある女が苦手そうだったので、出待ちはほどほどにしたい。 0527 夕方に新幹線に乗って京都へ。彼氏が駅まで迎えに来てくれた。 借家をていよく追い出された(住み込みのバイトが来る���しい)ので彼氏宅(寮)に寄生することになった。大掃除を頑張ったからなのか、前よりかは寮全体が綺麗だった。寮祭をしているので夜中まで人がいっぱいいる。 日記で彼氏とか恋人とか書くのちょっぴり恥ずかしくなってきたのでこれを機に同居人って記せるな~と思いはするのだけれどつかの間なのでやっぱやめとこ。 0527 夕方、ゴミ回収のバイトから帰ってきた恋人と丸太町のモリオカというイタリアンで夕食を食べに行った。彼が300グラムでパスタを注文したのでありえないくらいの大皿に隙間なくアラビアータが盛られたものがしずしずと大船のように運ばれてきたので男子大学生すぎるだろ!と思ってウケた。男子大学生と言ってもわたしと一つ違いなのだけれど。 そのあと銀座湯で銭湯行ってほかほかになり、眠い眠いと言いながらそれでも煎餅布団の中でエッチなことを散々して知恵の輪のように絡まり合って寝た。 恋人はとても可愛い。尖った属性をいっぱい持っているのに、それを売りにしていない。市場に立ったことが――自分を売ろうとしたことがいちどもないしこれからもそうなんだろうなってところが可愛い。あらゆる面において、ねじれの位置に存在する人間だなと思う。わたしは打算を掲げて資本主義と商業主義に跪く、野心と承認欲でガソリンの如くぎらつく女だから。 それをどれほど彼が理解しているのかわからない。よほど生活が充実しているのか、全然スマホ見ない。山の信仰の本とか読んでる。 0528 碌に研究室へ行っていない割にはバイトやバンド練習や寮会議で忙しそうなので仕事は基本ひとりで部屋を占拠している。学生証を借りて図書館に行ったら母校と変わり映えしない無機質な学習室がずらりと並んでおり、2016年の頃の気持ちがよみがえってくらりとした。 寮のジムに行ってシャワーを浴びに行った帰り音楽室通ったらドラムの音が聴こえたので覗いたら案の定彼氏だった。あーんめっちゃかっこいいんですけど~と思ったけどわたしは相変わらず音楽のことなどなにひとつわからないのだった。 「どういう時自暴自棄になる?」と訊いたら「あんまりならないけどだいたいドラムの演奏が上手く言ってない時やな。いいビート刻めたらその日はごきげん」と言うので、原稿と一緒だなあと思った。 今月中に初稿あげたかったけどぎりぎり間に合うかどうかってところだ。キャラメルママにパソコン持ち込んで、初稿まで残り30枚。
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El clan Nanbu tenía un fuerte. ¿Qué es un daimyō? La gama que los samuráis ganaron más poder son los señores feudales, el sitio histórico de shojujitate fue la residencia del clan Nanbu, construido en la orilla norte del río mabuchi en la prefectura de Aomori. Estaban ubicados en el punto estratégico de comunicación. - Sin embargo, el castillo estaba cerca de los caminos oshu kaido y kazunokaido, el lugar estaba limitado por montañas al este-oeste y norte-sur, los 300 a 250 m la dimensión del fuerte era de aproximadamente 90.000 metros cuadrados. Como resultado de la excavación que el arqueólogo llevó a cabo hasta el edificio de pilares del escape más grande de la región de tohoku, se extiende 18 tramos de 36 m de norte a sur de 42 m, la estructura ha sido de dos pisos de altura y los pilares de la puerta de 45 cm la fecha del castillo de 1539 en la era de Teherán. - Cerámica de alta calidad y artefactos culturales honshu Ainu, se han recuperado más de 4000 tipos de cerámica vidriada medieval dentro del sitio, de los cuales siete décimos son guerras vidriadas chinas. - En resumen, la forma en que se puede discernir a partir de los elementos recuperados en los restos de shojujitate datan de la cultura del período Murumachi y Sengoku en Japón. - - En resumen, la forma en que se puede discernir a partir de los elementos recuperados en los restos de shojujitate datan de la cultura del período Murumachi y Sengoku en Japón. - 南部氏には砦がありました。大名とは?武士が勢力を拡大した範囲は領主領であり、青森県の馬渕川北岸に建てられた南部藩の居城であった正寿寺立史跡は交通の要所に位置していました。 しかし、城は奥州街道や鹿角街道に近く、東西南北は山に囲まれた場所でした。 300 から 250 m の砦の寸法は約 90,000 平方メートルでした。 18スパン36m南北42mに及ぶ東北地方最大級の脱獄の柱建造物を考古学者が発掘調査した結果、2階建てで門柱45cmの城郭時代の1539年テヘラン時代。 高品質の陶磁器と本州アイヌの文化的遺物、4000 種類以上の中世の釉薬を使った陶磁器が遺跡内から回収されており、そのうち 10 分の 7 が中国の釉薬を使った陶器です。 手短に言えば、正寿寺立遺跡の出土品から、室町時代と戦国時代の文化が日本に伝わる様子がわかる。 - The Nanbu clan had a fort. What is a daimyo? The range that the samurais won more power are the sir feudal, the shojujitate historic site was the residence of the Nanbu clan, built in the north bank of the mabuchi river in the Aomori prefecture were located in the strategic point of communication. However the castle was near the oshu kaido and Kazunokaido roads, the place was limited by mountains to the east-west and north - south; the 300 to 250 m the dimension of the fort was approximately 90.000 square meters. As a result of excavation the archaeologist conducted to the pillar building of the largest escape of the tohoku region extending 18 spans 36 m north-south spans 42 m, the structure has been two stories tall and gate pillars 45 cm the castle date of 1539 in the Tehran era. High quality ceramics and honshu Ainu cultural artifacts, more than 4000 types of medieval glazed ceramics have been recovered from within the site of which seven tenth are Chinese glazed warres. In short the manner it can be discerned from the items recovered at the shojujitate remains date Murumachi and Sengoku period culture to Japan. ソース写真/source photo: https://www.town.aomori-nanbu.lg.jp/page/1543.html
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去年のことなのだが、一国一城の主になることができた。 昼と夜に営業する飲食店を開いた。若い頃から、ずっと関東地方にあるレストランで修行してて、いつかは自分の店持ちたいなー、と思ってた。先輩方は30代後半までにお店を起こす人が多かった。出遅れた感はあるけど、やっと達成できたのが心地よかった。 悩みというのは、「おしぼり業者をどうすればよかったのか?」ということだ。本業に比べれば、なんとも小さいことなんだが、地域でやっていくにあたり最適な業者を選びたかった思いがある。 以下長いけど、経過をまとめてみた。 (以下経過。長いです) 東京で修行して、故郷である京都市内でお店を開くっていうのが若い頃からの理想だった。 最初は故郷である山科の郊外でお店を開こうと思ってたが、(いろいろ問題がわかって)試行錯誤した結果、祇園にいいところが空いていた。 で、まさに開業をしようという時だった。残りひと月を切ったあたりかな? お店の開店準備をしてると、何かの営業の人がふたり来ていた。「こんにちは。ちょっと、いいですか?」ってプランクな感じだった。見た目は京都スタイルの和風私服だったけど、まあビジネスにもありかなって装いだった。 それまで営業は全部断っていた。自分で調達先を決めていたから。でも、『おしぼり』の会社だったんだ。京都でずっとやってるという。 おしぼりは、当時の自分が失念していた調達先のひとつだった。その時に「うわ、まずい忘れてた」と思ってひとまず話を聞いた。 「オーナーさんですよね。開店おめでとうございます」 という感じで名刺を渡されて、いろいろ話を聞いて、その場では返事をしなかったけど、こんな感じの内容だった。 ・おしぼりのレンタル(リース)をやっている ・長い間営業していて、京都市内の飲食店だとシェアがある ・祇園の半分の店はうちを使っている ・飲食店組合にも話は通してあるので すごいニコニコしていた。嫌な感じはしなかった。 「少し、考えさせていただけます?」でその場は乗り切った。 一応は、東京都内の飲食店に勤めていた過去がある。一部マネージャーの仕事もやってたから、なんとなく嫌な予感がした。最悪、反社の可能性がある。はてな民・増田民の皆様も、ああいう営業で人当たりが良すぎるのは気を付けた方がいい。 『地面師たち』のドラマ見たことある人はわかると思うけど、反社の人って演技力が抜群である。いい人の演技が熟達してるヤツが結構いる。 正直迷った。ちゃんとした業者の可能性も十分あるので。どうしようか迷った結果、飲食店の組合に聞いてみることにした。 京都は飲食店組合が強いと聞いていた。コミュニティが熟成しているのは間違いない。祇園なんて、全体で見ても狭い街である。最短で10分もあれば横断できる。新宿や六本木も狭いけど、一般市街地まで含めたら広い。 ただ、この京都のコミュニティの中で、(反社含めて)いろんな業者がどれほどの力を持っているのか、自分には全然想像もつかなかった。 祇園の飲食店組合(※正式名称は出しません。一応……)に思い切って聞いてみた。長年の経験によるアドバイスがほしかった。 業者が来た経過を説明したのだけど……正直スゲー他人事みたいな表情だった。その初老の役員さんは。 「まあ、○○さんですか。昔からある業者さんやわな」 「聞きにくいんですが、いわゆる、そういう方々なのでしょうか?」 「さあ、どうやろな��~祇園も色々あるやんなぁ~答えられん。おしぼりをどこから取るかは、結局、お店が決めることやし。組合がどうこう言う話でもない」 そっけなかった。「���店が決めること」っていうのは、自己責任ということだ。 組合は相談に乗ってくれなかった。絶対あんた情報知ってるやろ。反社かそうでないかくらい教えてくれよ。 ほかの店のおしぼり業者も気になった。 「うちの店の近所である」と断言できるお店が3つだけあった。同じ通りにある。 ただ、そこも教えてはくれなかった。口が重いというか、うちが新参だから気にされてる感はあった。 返答はこんな感じだった。 ・うちは昔から付き合いのあるところに頼んでる。会社は教えられない ・おしぼりなんて、適当に決めたら?(紙おしぼりでもええですよ) ・あなたもお店も、まずはええお客を作らんと。細かいところは後でいい ・どこも似たようなもん。京都府内だったら適当に会社を選んでもハズレはない ・話聞く限り、あなたのお店は高いんでしょう?おしぼりくらい自分で選びや~ なんか、どのお店もよそよそしい感じだった。それはわかるんだよ。近所とはいえライバルなのだから。 私が京都に帰ってきたのはつい先日である。料理の専門学校を卒業して都会に出たのだが、その暮らしの中で京都弁はすっかり抜けて標準語になってた。年に一度は山科に里帰りしていたのだが(京都の人は地元感を気にする)。 あの人たちは核心に触れるのを避けているように感じられた。面倒事に関わりたくないというか。 例えば、鴨川を挟んで真向かいにある木屋町だったら、今でも反社に守ってもらってるお店はある。高瀬川の上流にあるエリアである。第一観光ビルとかグリーンビルとか、昔小学校が建っていて今ホテルになってるとことか、あの周辺が特にそうだ。※たまに足がついて京都府警のお縄になっている 下流のエリアだと、ハイソがお店が並んでいる。同じ木屋町でも、お金持ち向けのエリアである。高瀬川の反対側にも飲食街があるが、そのあたりは残念ながら確信がない。 あきらめたくなかった。当時、一生懸命にどの業者がいいか?を調べていった。 おしぼりや什器といったお客さんが絶対に使うモノは、どこぞの知らない業者から手に入れたくなかった。こだわりがあった。反社など論外。東京で痛い目にあったことがあるからわかるのだ(秋葉原~台東区にかけての飲食街。アキバ冥途戦争はあながち間違ってない)。 ところで、故郷である山科で開業しなかったのは、開店時に「そういう人達」がやってくる可能性が極めて高かったから。木屋町も同様だった。その点、祇園は飲食店組合がしっかりしているからか、明らかにそういう連中が「うちが守ってあげますよ(^^)」みたいに来ることはなかった。 というわけ��、食材やメニューや仕入れルートを決め切った後で、細かいことでも一生懸命に調べまくったよ。まな板とか包丁とか、食器とか、キッチンの導線とか、メインでもメイン以外でも、こだわりたかった。何事も最初が肝心だと思ってる。 今になっての感想だが、調べておいてよかったという確信はある。小さいことにも専心するのが事業の基本である。おしぼり業者は、結局インターネットで見つけた大手の無難そうなところにした。 ただ……今になって後悔がある。あの例のふたりで営業にきたおしぼり業者なのだが、彼らは反社ではなかった。正直、まっとうというか、京都市内でも伝統があると断言して差し支えないところだった。 彼らは、「祇園の半分の店はうちを使っている」旨の発言をしてたけど、それはマジかもしれなかった。実際、うちの近所の3店は、その業者からおしぼりをリースしてもらってた。 だったら、なんで教えてくれなかったんだよ!! 最近になって、そのおしぼり業者がもう一度きて、「しょうがないか……」という感じで、ほかの店とリース契約している証拠を見せてもらった。うちが京都と地縁が薄い新参店ということで、特別な配慮をしてもらったのだ。 ※私が失礼にも証拠を要求したのもある 後悔している感はある。実際、今からでも間に合うなら、その会社とおしぼりの契約をしたいと考えてる。ここだけは、明らかに選択を誤った。 けど、今の会社もまっとうな大手企業だし、契約期間1年未満で切るのもちょっとな~という思いがある。 おしぼりって意外と大事なんだよ。今の時期だったら、温かいおしぼりと、冷たいおしぼりが選べる店があるかと思うんだが、どっちにも適応できる神おしぼりを提供できるリース業者だってある。 あと、食事中もお手拭きや、洋食のナフキン代わりにおしぼりを使うお客さんもいるので、できればいいやつをお店に置きたいのである。 飲食店を開いたのは、「自分の料理で人を幸せにしたい」という確固たる思いがあるからだ。その思いは、開店前も今も変わらない。 だからこそ、全部こだわりたい思いがある。自分でうだうだ悩んでいてもしょうがないので、こちらに相談してみようと思った。その道に詳しい人が増田にはたくさんいるはずだ。 商売とかやってる人でも、会社員の人でも、経済社会に今は参加してない人でも、アドバイスをいただけるとありがたいです。クソバイスになってても読ませてもらいます。
レストラン営業のこじんまりとした悩み
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カルタゴ滅亡をトレースする現代日本
◆カルタゴはなぜ滅んだのか?!
日本と同じような商人国家であったカルタゴが、完膚なきまでに滅ぼされた例を他山の石として日本人は国防を考え直す必要があると切に思うからです。
カルタゴは紀元前250年頃、地中海に覇を唱えていた大国でした。
第2次ポエニ戦争に負けて、戦勝国から武装を解除させられ、戦争を放棄することになったカルタゴは、戦後の復興を貿易一筋で見事に成し遂げ、戦後賠償も全てきれいに払い終えました。しかし、その経済を脅威だと捉えたローマ帝国によって、結局は滅ぼされてしまいました。
滅ぼされる直前、カルタゴの愛国者であるハンニバル将軍は、ローマの考えを悟り、祖国の危機をカルタゴ市民に訴えましたが、平和ぼけした市民は耳を貸そうとしませんでした。
それどころか「ハンニバルは戦争をしようとしている!」と中傷する者さえいました。しかも、最終的にハンニバルはローマに洗脳された者達によってローマに売られ、自殺にまで追い込まれてしまったのです。
平和ぼけした市民は、ローマから無理難題を次々に要求されてからはじめてハンニバルの警告が正しかったことに気が付きましたが、時すでに遅く、徹底抗戦に踏み切るもカルタゴの陥落を防ぐことはできませんでした。この間、たった3年の出来事でした。
ちなみに、生き残ったカルタゴ市民は約5万人でしたが、その全てが奴隷にされてしまいました。城塞は更地になるまで徹底的に破壊され、再びこの地に人が住み、作物が実らぬように大量の塩が撒かれたと言われています。
これはただの負け方ではありません。まさに地上からの抹殺です。
この悲惨なカルタゴ滅亡の理由は2つあると言われています。
1つは、カルタゴ市民が軍事についてほとんど無関心だったことが挙げられます。もともと自国の防衛はおおむね傭兵に頼っていた上に、国内世論も「平和主義的」な論調が強く、有事に備えて軍事力を蓄えておくといったことはままなりませんでした。
2つめは、国内の思想が分裂状態であったことが挙げられます。そもそも挙国一致して事に当たらなければ有事を乗り切ることはなかなか難しいものですが、カルタゴにはそれがなく、戦時中にハンニバルが外地を転戦している間も市民は素知らぬ顔をしていました。そして、ハンニバルを売り渡したのは、ローマに洗脳されたカルタゴの売国奴達でした。
自らの手で愛国者を切り捨てる・・・かくしてカルタゴは「滅ぶべくして」滅んだわけですが、私は今の日本がこのカルタゴに酷似している様に見えて仕方がありません。
今こそ日本の国防を真剣に考えないと本当に危ないと思います。
【対比】日本と似すぎているカルタゴの運命
カルタゴは、フェニキア人が建国した海洋国家で、現在のアフリカ大陸チュニジアに位置しています。
カルタゴは、世界一の造船技術を持ち、スペイン、シチリア島などの海外領土を支配していました。
紀元前3世紀、地中海貿易により富を蓄え、ローマ帝国と並ぶ強国となります。
BC264年、両者の中間にあるシシリー島で紛争がおこります。そして、これを契機にカルタゴとローマは、世界の覇権を賭けて激突します。この戦いは、23年間の中断をはさんで63年間続きます。(第一次ポエニ戦争、第二次ポエニ戦争)
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1867年、島国日本は、長い眠りから��め、明治維新により近代国家への道を目指します。西洋文明を積極的に取り入れ、富国強兵に邁進します。日清・日露の戦争に勝ち、朝鮮、台湾、南樺太と領土を拡張します。
強国となった日本は、戦艦大和を建造して、世界有数の海軍を持ち、
太平洋をはさみ、超大国アメリカと対峙します。
1941年12月、日本連合艦隊は、ハワイの真珠湾の奇襲に成功します。太平洋戦争が始まります。
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カルタゴの英雄ハンニバルは、象36頭と兵士5万人を率いて、スペインを出発します。象を連れて、アルプス山脈越えに成功、ローマの本拠地イタリア半島を奇襲します。ハンニバルは、イタリアに、なんと15年も踏みとどまり、ローマを一時追い詰めます。
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「マレーの虎」山下奉文中将は、マレー半島を南下、シンガポールに侵攻します。インド兵への離反策が成功し、1942年2月15日シンガポールは陥落、イギリス軍は降伏します。
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カルタゴは、地力に勝るローマに対して次第に劣勢になります。ついに、名将スキピオ率いるローマ軍が、カルタゴの本拠地に進軍します。カルタゴは、イタリアで善戦していたハンニバルを帰国させ、本土決戦に賭けます。BC202年、天下分け目の戦い(ザマの戦い)が行われます。カルタゴの完膚なき負け戦でした。
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アメリカは、生産力、技術力で日本に勝っていました。ミッドウェー海戦を境に、戦局は逆転します。ガダルカナル、硫黄島、沖縄。日本は、敗退を続けます。本土空襲が激しくなり、広島と長崎に原爆が投下されます。日本の完膚なき負け戦でした。
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カルタゴは、ローマに無条件降伏します。
全ての海外領土は、放棄され、軍船、象もローマに引き渡されます。軍隊は、自衛のためのものだけが許されました。そして、自衛のためでも戦争する場合、ローマの許可が要ることになったのです。(この許可の項目が、後に大問題となります)
そして、50年賦で1万タラントの賠償金をローマに支払うことが決まります。
ともかく、カルタゴの町は、無事に残りました。100人会は、貴族の世襲制でしたが、戦後まもなく代議員が選挙で選ばれるようになります。
カルタゴは、民主主義の国家に生まれ変わります。
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「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・」玉音放送が流れ、日本は無条件降伏します。
日本列島以外の領土は、返還されます。アメリカが決めた平和憲法で戦争が放棄されます。(後に自衛隊が誕生します。)国土は焼け野原、アジア諸国には賠償金の支払いが必要でした。ともかく、本土決戦だけは避けられました。
日本は、天皇主権の国家から、主権在民の民主主義国家に生まれ変わります。
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カルタゴ人(フェニキア人)は、ユダヤ人やアラビア商人と同じセム語族で、最も商才があるといわれている種族です。
軍事国家への野心を棄てたカルタゴ人は、ますます貿易や商売に熱中するようになります。ローマ人は、楽しむために働きましたが、カルタゴ人は働くこと自体が人生の目的でした。奇跡の経済復興が実現します。
戦勝国ローマは、休む間もなく、マケドニアやシリアと戦わなければなりません。軍備費の要らないカルタゴは、次第にローマに匹敵する経済大国に、のしあがります。
BC191年ローマは、シリアを打ち破ります。
無敵の軍事大国ローマにとっての脅威は、経済大国カルタゴに移っていくのです。
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日本人には、勤勉さと物作りの才能がありました。
焼け原から立ち上がった日本人は、ひたすら一生懸命働くことで豊かになろうとしました。エコノミックアニマルと日本人は、陰口を叩かれます。奇跡の経済復興が実現します。
アメリカの核の傘に入り、軍事費もいりません。戦勝国アメリカは、ソ連との冷戦を戦わなくてはなりませんでした。
10%を超す高度経済成長が続きます。日本は、世界第二位の経済大国になります。
ソ連が崩壊し、日米の経済摩擦が激化します。
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BC187年、カルタゴは、50年賦と決められた賠償金を一括払いしたいと申し出ます。いくら叩いても不死鳥のように蘇る、カルタゴ人の経済力に、ローマ人は、羨望と恐怖心を抱きます。ポエニ戦争の悪夢がふと蘇ります。
経済大国カルタゴの最大の悩みは、隣国のヌミディアでした。ヌミディアは、騎馬兵団で有名な、戦争に強い国です。自衛力しか持たないカルタゴを侮り、その領土を侵犯します。
カルタゴは、ローマに調停を頼みますが、黒幕のローマはもちろん取り合いません。ついに、カルタゴとヌミディアの間で戦争が起こり、平和の国カルタゴは、敗北します。
ローマの事前許可のない戦争開始は、条約違反でした。
ローマは、カルタゴに対して、突然宣戦布告をします。
驚いたのは、カルタゴです。ローマの許しを得ようと、300人の貴族の子供を人質に差し出します。しかし、8万人の世界最強のローマ兵が、上陸し、カルタゴに進軍します。
カルタゴの使者が、「どうすれば、許していただけるのですか?」とローマの司令官に聞きます。
「全ての武器を差し出せ。」司令官は、答えます。
カルタゴは、20万人分の鎧、投げやり、投げ矢、2000の石弓を司令官に差し出します。
すると、司令官は、最後の要求を使者に言い渡します。
我々は、カルタゴの街を根こそぎ破壊することを決めた。
カルタゴ人には、今の街より10マイル内陸部に
新しい居住地帯を造ることを許可しよう。
使者からローマの意向を聞いた20万人のカルタゴ人は、驚愕して、嘆き悲しみ、最後に激怒します。
「こんなひどい仕打ちがあろうか。街を破壊する��と。
内陸部に引っ込めだと。どうせ死ぬなら戦って死のう!」
カルタゴ人は、丸腰で戦う覚悟を決めます。返事の猶予期間の30日間、密かに戦争準備がすすめられます。
武器職人は、連日徹夜で武器を作ります。
若い女性は、長い髪を元から切って石弓の弦が作られます。
こうして、始まったのが、第三次ポエニ戦争でした。
(戦争というより、ローマによるカルタゴの民族浄化です。)
カルタゴは、ここで奇跡的な粘りを見せます。なんと丸腰で三年間ローマの猛攻を食い止めたのです。
しかし、戦闘と飢えと疫病で、20万人のカルタゴ市民は、10万人に減ります。
そして、ついに、ローマ兵は城壁を破り、街へ進入します。
女、子供までがレンガを投げて抵抗しますが、5万人が虐殺されます。
ビュルサの砦に逃げ込んだ5万人のカルタゴ人は、オリーブの枝を掲げて投降します。
彼らは、一部が処刑され、残りは奴隷として売られます。
カルタゴの街は、十数日燃えつづけ、灰は1メートル積もります。カルタゴの復活を恐れたローマ人は、この地に塩を撒き不毛の土地にします。
700年続いた経済大国カルタゴと世界の富を独占したカルタゴ人は、BC146年こうして滅んだのです。


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遊佐町丸子地区 Maruko,Yuza Town,Yamagata Prefecture
鳥海山から「丸子」と「鳥」が現れたという言い伝えからこの地は丸子と呼ばれています。この辺りの地名や名字に「丸」が付いているのは鳥海山が由来かもね。「丸子」っていうのが何なのかははっきりとしていなくて色々な説があるのだけど、帽子椅子梯子杓子とか色々な言葉に子が付いてる例もあるし、漢字「子」の一から了で始まりから終わりまでって意味が丸くつながってるって事はウロボロス的な概念を表してたりするのかも、あるいは本当に丸っこい何かがなんて言うか鳥のように?飛んで?何かした?のかもね(あいまい)
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何年か前私はここでインスタントオナニーの話をした。名前の通り手っ取り早い自慰行為なんだけど、今はその逆でタイパより丁寧さに最近力を入れている。手っ取り早くしすぎたせいで、慣れもあったし、なんせ、行為自体早く終わらせなきゃ悪、みたいな思いが勝手に付いてきていた。セックスレスにも繋がるけど、慣れと手っ取り早さを行為に当て嵌めてはいけない。
最近読み始めた本がある。アンソロジー本で『私の身体を生きる』各著者の性や身体に関することがエッセイとして書かれている。私の知らない部分を見入っては圧巻というか関心というか。20代後半になって性に関することで悩んだり通院することになったり三大欲求であると共に切るに切り離せないものだと思っているので、これを機に振り返ってみようと思う。
私の初体験は知らない男だった。知らないというのは素性をそこまで知らずインターネットで知り合った男だった。私は16、向こうは32。家の縛りや慣習に辟易として早く捨ててしまいたいと思っていた。初めて行ったラブホテルは部屋になぜか自転車が置いてあったので今でも印象に残っている。わからないなりに咥えたり喘いでみたりしたけど挿入時は痛みがあった。出血はしなかったことに安心した。その後、大学進学のための上京で欲が爆発した。行為が好きだった、裏にはいつと贖罪があった。好きにさせてしまった、と思えば身体を差し出して許しを乞うてみたり、可哀想だから、と頭ひとつ出て相手を見下している部分もあった。そんな私を知った母親から「私は純潔で父に捧げた」と言われた時は取り戻せない後悔より、だから?と見下していた。
コロナ禍に学生に戻った時なんてTinder無双をした。チンソムなんてしょうもない事もしていた。
欲だから浮き沈みもあって、修論書いていた時は1年間性行為と無縁だった。っていいように書いてみたものの、無双の中で出会った男に無理矢理犯されて痛みと共に下物の色がおかしくなってその時初めて婦人科に行った。M字開脚に放心になりながらも、異形成と知りコルポスコピーも受けた。癌になるかならないかのグレーゾーン判定を受けた時は人生呆気ないかも、と思った。結局なんやかんやで生き延びているし、最近の定期検診も大丈夫だったので適度に生き抜いていきたい。
再社会人になってからも少し遊んでいたが、ピルを飲み始めたら体調が悪くなった。常に気持ちが悪く、欲もどうでもよくなった。丁度その頃付き合い始めた恋人と燃えあがるような想いと行為だったのに、ピルと具合の悪さが続いて花火のように消化してしまった。ちょっとした興味本位もあったのに、なんだかなぁ。
夜になると欲を消化しないと眠れない日々が続いた。冒頭のようにしていたら、上手く達せられなくて、脚ピンの良くない体位でどうにか、を繰り返した。パブロフの犬。
夫婦間のレスの投稿をXかnoteかはてなで読んだ。行為が嬉しさだと気付いたような文を読んだ時は、幸せの先の嬉しさか、嬉しさゆえの幸せか鶏卵になった。
飲み会や日常で聞く下ネタに嫌悪を抱いている。どうでもええわ。が核心。勝手に私の知らないところで勝手にどうにかしてください。奥ゆかしさこそみたいなものもある気がする。(知らんがな)
29にして常日頃将来を見つめ直し思い悩んでいる。性もそう。このままじゃと思って伝えたけど、家族になり過ぎる前に妊娠出産を得ないと安寧に縋ってしまうかもしれないと自分自身で思う。この脅迫概念に近しいものは、時期やイベントが過ぎれば呆気なかったなと思うかもしれない。わからないが故に時間と共に杞憂して焦っている。女故の性に囚われてしまっている。
消費期限と揶揄されることがあり、焦るにせよみないにせよ人生80年、100年ある中でなんたる微々たるものよ。
私の性は自分のものでいたいけど、世間的にといい家族といいレールに敷かれる上でぞんざいに扱われている気がする。
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【かいわいの時】寛政元年(1789)六月二十日:7月にかけて、玉造稲荷砂持大にぎわい(大阪市史編纂所「今日は何の日」)。ママ。『年代記・明和の春』では十八日、『摂陽奇観』では二十六日。
寛政元年(1789)五月末より七月にかけて、玉造稲荷の社殿築造に伴い、東横堀の久宝寺橋東詰や安堂寺橋の浜(神社の真西)から砂を浚い上げ、いったん神社南西の真田山「土取場」に集結し、稲荷社まで運ぶとゆう神事が行われました。六月中頃に「社内を地上」するため、諸人に勧進しようと社人などが市中を巡回したことに始まったとされています。砂持の願主は、大坂三郷を中心に近郷より昼夜を問わず参集し、労働奉仕だけでなく、財貨や、米、炭、薪、桧皮、材木等を奉納しました。その際、「ねりもの之出立」という仮装行列や俄が催され、これを「砂持風流」といいました。
(写真)「ねりもの之出立」。白蔵坊『栄々集』1789序(大阪府立中之島図書館蔵)(写)より。
本図は、まさに、砂持風流を代表する絵です。「大手」「中」(大手町の町中か)の集団が、行灯を先に立て、桃灯を灯りに進む。おかめや狐の面をつけ、囃子詞のように鍋釜に蠟燭を立て(丑ノ刻参りのパロディーか)、天秤棒やもっこ、子どもは籠で砂を運んでいる。米俵に立て札、竹を立てて注連を張って奉納しています。
『栄々集』 大阪府立中之島図書館蔵『栄々集』は同館書誌情報によると、書名「よいよいし��う」(略)著者は「白蔵坊」とあり、同館ウェブサイト「おおさかeコレクション」に写真掲載されている《略》版本の体裁をとっているものの出版は確認できず、内容的には孤本の写本である《略》「序」末によると、同書を同年初秋(旧七月)に記したとあり、残暑の残る二か月以上にわたる砂持の最中と直後に、現地での見聞や記事異聞を、虚実綯い交ぜに記した随筆であろう。創作もあろうが、単なる読み物でなく、基本的には見聞した事実を踏まえている。例えば、噂を聞いたが見ていない部に「竹田近江戯場・楽屋面ゝ」が挙げられ、江戸中期の京坂の舞台で活躍した歌舞伎役者の伝聞が記されている(福原敏夫)。『仮装と俄の祭礼絵巻』岩田書院2020より。
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#おでかけ #犬山
山の上に建っているのは犬山城。現存する日本最古の天守で、国宝指定されています。私は小さい頃に天守に登った記憶がありますが、もちろんそんな歴史的背景など何も知らずに入ったので、最古の有り難みも何も感じずに登っています。
近隣に住む人あるあるだと思うんですが、近隣の(さほど興味のない)観光地って行かないですよね……というわけで、大人になってからこの天守に登ったことはないのです。松江城とか遠方のお城には入っているのにね。
そういえば名古屋近辺の観光地っぽいところにもほとんど行ったことがない。名古屋城だけは辛うじてお付き合いの一環で一度行きましたが、熱田神宮周辺も、レゴランドもジブリパークも未踏の地です。母親も「その土地に住んでおきながら鵜飼を一度も観たことがない」と言っているし、意外と住民より県外の人の方が観光地を知っているかもしれない。

まあでもこの木曽川沿いなら年に数度の頻度でぶらついているので、個人的桜ベストスポットとかは見つけています。
ちなみに犬山城と桜を撮るなら、こちら側からではなく反対側から撮った方が桜の木がたくさんあります。ただ城の向き的にきれいな角度なのかどうかはよく分からないのですが……。


私と母親は桜を満喫しながら歩いていましたが、姪っ子に関してはこの後の城��町での飲食だけを目当てに歩いていたようです。最後までぐずらずに歩いてくれたなとは思っていたけれど、恐らく食い気だけでこの距離を踏破している……。
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長岡京のビール工場と大山崎のウイスキー蒸溜所
前回と前々回の記事で「京都伏見の酒蔵」にまつわるネタで記事を書きました。
京都の伏見は、お稲荷さんも有名だけど、酒蔵の町でもあるのですよーってはじまって
酒蔵だけじゃなくて、有名酒造メーカーのレストランや記念館、酒蔵にちなんだ施設、飲食店がたくさんありますよーっていう流れでお話ししました。
で、今回は、ここからそこそこ近くにある長岡京市のビール工場、
大山崎のウイスキー蒸溜所の話に触れたいです。
この伏見の桃山あたりから車で20分くらい移動すると
サントリービール工場がある長岡京市にたどり着きます。

https://www.suntory.co.jp/factory/kyoto/
長岡京市は、細川ガラシャのゆかりの地でもありますね。
そして、そこからさらに大阪方面に車で20分くらい移動すると
同じくサントリーのウイスキー蒸溜所がある大山崎があるのです。

https://www.suntory.co.jp/factory/yamazaki/
じつは、京都のこの辺りは、お酒を作っているところが多いのです。
電車で移動できないので、観光コースとしてはお勧めできませんが、、、、
車で移動すると、意外と近いのです。
だから、バスかタクシーなどで移動すると、いろんなお酒の工場や資料館などを見学できたり
お酒の味見とか美味しいお料理を食べられたりできるので、楽しいかもですね。
私の実家からも近いです。
だから私も見学などしたいと思ってます。
長岡京市のサントリービール工場は、リニューアルのため、今は休止しているらしいので
先に伏見エリアから見学していきます。
ところで、
参考までに、伏見の黄桜カッパカントリーあたりから
長岡京のサントリービール工場、
大山崎のウイスキー蒸溜所までの
マップを貼っておきますね。
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七月になり、ようやく広樹のギブスが取れ、サポーターだけになった。通学は自転車に戻り、時折ラガーシャツにも袖を通した。
一方、克也は広樹が辞めないで済んだことに胸を撫で下ろしたが、未だ自分自身の気持ちを言えずにいた。浩志からは、
「いつまでもウジウジしてンじゃねぇよ! チ◯ポ付いてるンだろ!?」
と一喝されていたが、男同士が好きになることに対して罪責感があった。未だ、同性愛が世間的にタブーとされていた時代である。浩志が大学生だった昭和三十年代の後半と比べると、五十年代の前半は女装したり女言葉を使ったりする芸能人も多く活躍したが、やはり偏見はあった。
夏休みになり、秋の試合に向けて練習にも力が入った。浩志も普段はポロシャツとジャージーと言う格好だったが、時折ラガーシャツとラグビーショーツでグランドに現れた。そんな姿に漫画研究会の利江子たちは、
「あれぇ〜? ヒロシったらラガーマンになってるぅ!」
「きゃッ! なんで、あんなにラグパン短いの!?」
「いゃァ〜ん、何か誘ってない?」
「ラグパンって、パンツ穿かないンでしょ!? エッチぃ〜!」
と、相変わらず盛り上がっていた。そんな彼女たちに浩志は、
「鶴田ッ! 一応、穿いてるぞ!」
とラグパンの裾をチラッと上げてみせた。何故、アタシの名前を知ってるのとびっくりしながら、
「ヒロシ、このスケベっ!」
と笑い転げた。他の同級生は黄色い声を上げていた。
休憩時間になり、広樹は予め作っておいた麦茶の入ったやかんを二つ、ベンチのある日陰に置き、部員に声をかけた。皆、待ってましたと言わんばかりに詰め寄って来て、麦茶の注がれたプラスチックのコップを手に取った。浩志も蛇口の水を頭から浴び、
「このまま昼飯にするぞ」
と、眼鏡を片手に持ちながら首に掛けたタオルで頭を拭き、彼は校舎に戻って行った。
その間、日陰で弁当を食べたり芝生に横になったりと、それぞれ休んでいた。克也もケヤキの幹に寄りかかった。視界には空になったやかんや、プラスチックのコップを片付ける広樹の姿があった。なかなか告白できずにいる克也は、
『今なら言えそうな気がする』
と立ち上がった。そっと近づき、広樹の手を取った。
「加藤先輩…?」
「ちょっと来て」
そう言われるがまま、広樹は克也に手を引っ張られた。連れて行かれたのは部室だった。窓を全開にしていたが殆んど風が入らず、蒸し暑かった。十二畳はあるかないかの室内で、克也は広樹と見つめ合った。両手を握りしめ、
「額田君、好きだ」
と克也は唇を奪った。身体を密着させ、広樹の背部に両腕を回し、愛撫した。広樹は嫌がることなく、奪われた唇が克也のものと一体になる様な感覚を得た。
ラグパンの中で股間が隆起していくの互いに感じながら、二人はブリーフ越しに恥部を弄った。内腿から汗が垂れ、次第に濡れていった。克也はこれまで抑えてきた感情を露にしながら喘ぎ、広樹のラグパンを脱がせた。
「あぁん、はァ、ああん…」
鼻息を粗くさせながら、二人はブリーフを膝まで下げ、肉棒の裏側を合わせながらしごいた。
「あッ、あん、ああん…」
先走り汁で手指を汚しながら、克也は広樹のラガーシャツを胸元までたくし上げ、乳房を咥えた。
「イ、イキそう…」
「オ、オレも…」
オルガズムは二人一緒に達した。ドクッ、ドクッと粘度が強い乳白色の愛液を流し合い、克也は広樹の唇を求めた。広樹も舌を絡ませ、二人は暑さも忘れて愛し合った。
練習を終え、体育館に併設されたシャワーを浴びた部員はそれぞれ、制服に着替えて帰って行った。浩志もワイシャツとスラックスに着替え、職員室の扇風機で涼んでいた。嗚呼、今日は飲みにでも行こうかなァ…。そう思っていると、
「…先生」
と克也が訪れた。浩志は、
「何だ、帰ってなかったの?」
と気だるそうな声で聞いた。克也は言った。
「オレ、額田君に告白しました」
「へぇ〜、良かったね。…で?」
「…そのままエッチしちゃった」
「へぇ〜、良かったね」
何も考えずにこう言ったが、否、「エッチしちゃった」って、何が? ようやくコトの真意に気付いた浩志は、
「ハァァァァァァ〜!?」
と上半身を起こした。
「犯っちまったのか!?」
「声が大きいよ!」
「…お前、溜まってたンだな」
「何か、気持ちが大きくなっちゃって…」
克也は、徐々に真顔になっていく浩志の様子に、嗚呼、怒られるのかなと不安になった。しかし、浩志はバンッと彼の背中��叩き、
「よくやった! これでこそ男だ! 気持ち良かったっぺ!?」
と、寧ろ喜んだ。何だ、この先生!?と克也は呆然とした。そして、浩志は克也の股間を鷲づかみにし、
「イイぞ、イイぞ! その調子でガンガン攻めろ! 若いってイイなァ〜!」
と揺さぶった。
「や、やめッ…! おしっこ漏れちゃう!」
もし誰かいたら問題になるなと、克也は思った。
この日を機に、克也と広樹は浩志から色々と「性のてほどき」を受けた。時折、部室で『さぶ』や『アドン』などのゲイ雑誌を渡され、ア◯ルセックスの仕方も山奥のモーテルで「伝授」された。克也は、
「オレは純愛が好きなのに!」
と心の中で叫びながらも、沸々を込み上げてくる肉欲に負けて広樹と絡んだ。広樹も、克也を所謂「セックスシンボル」としてしか見られなくなり、ラグビーショーツから覗くブリーフに生唾を飲んだ。克也の家も若宮町にあった為、水府橋の下で毎日の様に愛し合った。
一方、ラグビー部の成績は劇的に飛躍した。これまで県大会で二回戦以上は勝ち進められなかったのが、関東大会でも上位の方まで成績を残した。他県のシード校を打ち破った時には、浩志は嬉しさのあまりに、
「これも皆、克也と広樹の『愛』あってこそだ!」
と口走り、二人は火消しに追われた。
そんな克也と広樹だが、個別に利江子から漫画のネタに色々とインタビューを受けた。あまりにしつこいので、
「イイじゃん、愛してるンだから。好きにさせてくれよ」
と広樹は言い切ったが、
「えぇ〜!? そんなにラブラブなのぉ〜!? だったらイイじゃ〜ん!」
と、寧ろ彼女の創作意欲に火をつけてしまった。
広樹は浩志との思い出を「熱弁」した。途中、浩二は笑いをこらえるのに骨折り、
「う、嘘ッ!?」
「それ、本当ですか!?」
「高校生だったのに!?」
云々と、何度も聞き直した。
二人が話している間、大樹は座布団を半分にして折り、枕の様にして眠っていた。寝息を立てている我が子を気にしながら、広樹は目頭をハンカチで押さえた。今は高校生だった二人を浩志が手を出し、淫乱にさせたことを信じられないと思っているが、その数年後には中学生になったばかりの大樹をまさか自分がそうさせることになろうとは、考えてもいなかった。
午後九時を回り、広樹は大樹を起こした。
「長居をしてしまってすみません。告別式には妻が来ますので…。私、K百貨店に勤めておりまして、明日から秋に催される物産展の関係で北海道へ行くンです。克也、否、加藤さんは通夜には行けるそうです」
「K百貨店にお勤めですか? 大変ですね。道中、気を付けて」
玄関で広樹と大樹を見送ると、茶の間に戻って浩二は残っていたお茶を飲み干し、片付けた。徐々に、彼は浩志との永遠の別離がきているのだなと実感した。
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(単独ポストでも投稿しておきます)
僕は経営についてどこかで学んだわけではなく、自分の信条や価値観をベースに会社運営や組織運営をしてきました。
例えば、僕は社員のことを家族同然に思ったり、辞められるととても悲しくなったり、社員同士の仲間意識をとても大切にしたり、ホワイトカラーとかブルーカラーとかっていうレッテルをすごく忌み嫌ったり、
とにかく、せっかく同じ屋根の下に集まったメンバーだし、働く時間は人生の3分の1とかなんだから、お互いの人生が少しでも有意義になるように、好きなことをなるべく楽しくやって、その結果として人や社会の役に立てればいいよね、って考え方でやってきました。ぶっちゃけ、利益より、人としてチームとして大事なものあるよね、って思いで。
ボーナスはみんなで勝ち取ったご褒美なんだからみんなで公平に山分け全員同額とか。社員の歓送迎会では何度も涙し合ったり。社内イベントとか社員旅行とかにめちゃくちゃパワーを注ぎ込んだり。社内恋愛も結婚も大歓迎だったり。正直、キャンプとか文化祭みたいなノリでやってました。
なので、弱肉強食的な、個人能力主義的な、勝ち組負け組的な、利益至上主義的なものとはあえて距離を置くような経営をしていました。
元ポストでは、下町ロケットやスクールウォーズを引き合いに出しましたが、僕が好きなのはどちらかというと、日本的で昭和的で家族的でウェットな感じの経営スタイルでした。
そして、今振り返ると、ZOZOの成功の源はひょっとしたらそれだったんじゃないかなと。
ZOZOに出店いただいたブランドさんからよく言われていたのが、
・すごくみんな楽しそうに働いてる
・愛社精神強いのが伝わる
・洋服好きなのも伝わる
・なんかやってくれそうな集団
・他のECサイトとはまるで違う
・利益より服を愛してそう
・ロックでパンクな会社
みたいに評価されていて、それらが多くのブランドさんに出店いただく理由にもなってました。
そして、ZOZOで服を買ってくれるお客様にも、きっとそういう社風とか雰囲気は伝わっていたんじゃないかなと思います。
うまくいった理由の全てがこの昭和的経営スタイルにあったと言うつもりはないですし、それを示すデータや証拠がある訳でもないのですが、一つ確かなのは、この会社がゼロから1兆円企業になったということです。
もしかするとですよ。もしかすると日本人ってこの日本的で昭和的なスタイルの方が好きなのかもしれないし、合ってるのかもしれないなーと。そっちのがみんな頑張っちゃうし、結果生産性も上がっちゃうのかもしれないなーと。
昨今は、日本の労働生産性を向上させるために、旧来の昭和スタイルから脱却し、欧米企業のやり方を真似しましょう、みたいな気運を感じますが、もちろん欧米企業の事例を研究すること自体は良いことだと思いますが、それを取り入れるかどうか(解雇規制の緩和なんかは今まさに総裁選のホットトピックですね)については、やはりそれが日本人に馴染む馴染まない、合う合わないもあると思うので、データだけ見て判断するのではなく、日本人の気質や可能性や国民性に今一度向き合い、働く人一人ひとりの幸せについて、経営者も国もフラットな姿勢で再考すべきタイミングなんじゃないかと切に思います。
長文失礼いたしました。
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よしもとかよ 「日々是好日」。vol.161 (2025/6/4 + 6/11)
2025 4th + 11th june
M1 糸繰り節 (すずめのティアーズ)
M2 ta nyata (Angelite) M3 木曽甚句 (Tarbagan)
M4 収穫の歌 (Difang and 馬蘭吟唱隊) M5 さくらんぼが熟れる (Szaloki Agi) M6 安里屋ユンタ (おおたか静流) M7 salt (Emma Tricca) M8 les escaliers (Austine)
[好日の素…民謡に親しむこと。]
今日、わたしたちの耳に 聴こえてくる音楽のほとんどは ポップス、ロック、ジャズ、クラシックといった いわゆる西洋音楽なのですが、 それじゃあ日本の音楽ってなんだろう? じぶんが暮らしている土地に伝わる トラッドミュージックとは?ということを ここしばらく考えるようになりました。 そこで思い浮かぶのが、民謡。 この頃では 若い方々や海外の方も 興味を持っていると聞いて、 そういえばわたしが グローバルミュージックを聴くようになった きっかけも 民謡だったな、と思い出したのです。 では、地域に伝わる民謡を どれだけ知っているでしょうか…。 富山ですとまず 思い浮かぶのは「こきりこ節」。 学生時代、音楽の教科書だったか愛唱歌集だったかにも 載っていましたし、 わずかながら参加していた合唱団で 合唱曲にアレンジされた作品を歌ったことも。 それから「越中おわら節」、「といちんさ」、 「麦屋節」、「せりこみ蝶六」…。 子どもの頃からなんとなく 触れていたものから 大人と呼ばれる年齢になって知ったものも。 能登について言うと 夏の祭りの夜に踊られる 門前町黒島地区の「八千代栄節」。 家族が亡くなり、ルーツが薄れていくのを 感じていた上に この度の地震もあって、 忘れたくない、失いたくないと思うようになりました。 どの民謡も、 それぞれの地域の風景や そこに暮らす人たちのことが 垣間見られる歌詞になっていることが多く、 さながら 古と今をつなぐ窓のようなものなのかもしれません。 そして、歌うひとがいる限り その歌は 生き永らえることができる、と思っています。 ふるさとの歌を聴かせて、と言われることが この先あるかどうかはわかりませんが、 その際には 一節でも歌えるようでありたい、と思うこの頃です。
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[日々是食べたい!… 塩]

食べたい、というよりは 日々お世話になってます、という調味料ですね。 料理はもちろんのこと、 お菓子や飲み物にも、はたまた 生活のさまざまなシーンで 古くから使われてきたもので、 種類もさまざまあります。 おおきく分けると 精製塩と自然塩、そして 自然塩でも海水塩、岩塩、湖塩などに 分かれるそう。 自然塩はミネラルなどを含むせいか うまみや甘みなどが 産地によって少しずつ異なるようです。 また���ハーブなどを加えた フレーバーソルトもありますね。 目下、手元には海水塩を中心に 数種類の自然塩があって、 目的に応じて使い分けています。 産地は国内だと能登や淡路、海外だと イタリア、タイ、ハワイ、モンゴルなど。 特に最近よくつかっているのが タイの塩田の塩。 お土産でいただいたのですが 粒がおおきいので ひとまずスープにつかってみたら とてもまろやかでおいしい! これはもっといろいろつかいたい、と思って ソルトミルを買ってしまいました! 産地やフレーバーで 個性豊かな塩の世界。 お気に入りを見つけるのも たのしいと思います。
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「みんなの表町書店2」のこと

残暑、と呼ぶには、あんまりにもひどく継続中の酷暑に思考能力を奪われたまま、気づけば9月も後半に差し掛かり、いい加減にこの夏の事を振り返っておかなければ、と、今年、2024年もひと月限定でオープンしたシェア型書店「みんなの表町書店」について、まとまりのないまま書いてみる。
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「冬雨文庫」という名前で昨年に引き続き一箱本屋の棚主として出店させていただいた。昨年同様、私家版の詩集と、私物の読了本を並列に置くスタイルを取った。今年は本箱も自作して、工具と材料もほとんどは100均で揃え、それなりの形になったと思う。


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昨年は持病の症状が強く出ていた事、はじめての催しで勝手がわからなかった事もあって、棚主が交代で担当する店番ができなかったのが心残りではあった。けれど今年は比較的持病も落ち着き、数回のイベント出店を経たこともあって自信もついたのか、計三回店番を担当した。
ただ「店番をする」だけでは面白くない、と思ったので、レジ横のスペースに冬雨の個人所蔵の私家版詩集やzineを並べて展示した。一般書店で流通していない、文学フリマやネットで個人が販売している本の数々。冬雨として自分が作った本を並べる、という選択肢もあったのだろうけれど、岡山という地で、表町商店街という人の行き来が比較的多い場所において、自分ひとりの宣伝をするよりは、私が今まで出会って心動かされた作家を紹介する機会にしたかった。
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「自作の頒布」というのも出店の大きな動機であるのだけれど、きっと、詩を書き始める以前の、小学生時代に図書室の主と化していた、ただの本好きのひとりとして、この場にいられる事が嬉しかったのだと思う。昨年に比べて、棚主の数も増えて、「みんなの」という言葉をより感じるイベントになっていたと感じた。
「常設のお店ではない」ということも良い方向に働いているのだろう、各々の棚主が趣向を凝らした棚は見ごたえがあり、「本当にこの本をこの値段で買っても良いのだろうか」というような本との出会いも数多かった。
具体的に数えてはいないのだけれど、売れた本の数と、買った本の数がそれほど変わり無いのではないか、と思うほど楽しませていただいた。
売買、という通貨を通じた形ではあるけれど、私の実感としては見ず知らずの人々とそれぞれの持ち寄った本を交換し合っている感覚であって、(それは身内で楽しんでいるだけじゃないかとの批判点かもしれないが)好ましく思えることだった。
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(みんなの表町書店で私が購入させていただいた本たち)

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これまで関わることのなかった人々との会話が発生した、というのも嬉しい機会だった。特性としてコミュニケーションそれ自体が得意とは言い難い私でも、好きなものを介してであればそれなりに楽しく話すこともできるのだ、ということは発見であった。
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人と繋がるために創作をする、という考え方は好きではない。誰かと出会うために、繋がりをつくる為に、何かをつくるようになるくらいであれば、すっぱりやめてしまえば良いと私は私自身に対して思っている。
ただ、それとはまた別のレイヤーにあることとして、本が好きであることに変わりはなく、町のなかのひとりの生活者として、「みんな」のなかの一人として、魅力的だと思える場が在ることは望ましいことである、とも思っている。
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正直にいえば、岡山市が「文学創造都市」と急に名乗りはじめたことに疑問を抱かないでもない(ずっと岡山に暮らしていた者の実感として)。「都合良く文学という言葉を利用してるんじゃねえよ」というような呆れる気持ちもないとは言わない。
シェア型書店、という形を絶賛する立場を取りたいと思える訳でもない。従来の新刊書店や古書店に代替可能な形式ではあり得ないと思う。あくまでも「本」という文化の楽しみ方のいち形式でしかないのでは、と個人的には考える。その「文化」を大切にする、持続可能的に守って行くことを考えるならば、新たな催し事を増やす、ではなく、例えば図書館の予算であったりとか、常日頃から営業している町の本屋さんの現状を何とかする方が先決なのでは、とか考えたりもする。
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着地点がみえなくなってきた。
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きれいにまとめることはできなかったけれど、書きたかったことは大体書くことができたような気もする。
ひと夏の思い出として、素敵な場をもうけてくださった主催者さま、また、出店者の皆さま方、そして冬雨文庫の本を手にとってくださった方々、本当にありがとうございました。
来年も「みんなの表町書店」は開催予定とのこと。
毎年の夏の定番となれば良いな、と今の時点では感じているし、「商店街の空き店舗活用」という目的も、何かしら良い形で達成されると良いなぁと思っています。


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「冬雨文庫」としての売上 8,400円につきましては、令和6年9月能登半島豪雨への支援として、「特定非営利活動法人ピースウィンズ・ジャパン 空飛ぶ捜索医療団"ARROWS"」に寄付いたしました。
2024.9.23 冬雨千晶
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