#松江美容室
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「酒呑童子ビギンズ」展

サントリー美術館で「酒呑童子ビギンズ」展を見る。この美術館が所蔵する「酒呑童子絵巻」(以後サントリー本)の修復が終わり、関連する他の絵巻物などとともに大公開されている。
酒呑童子の物語のものすごくおおざっぱなあらすじはこうである:大江山または伊吹山に住む鬼の酒呑童子は、都へ出ては金品や婦女子を略奪していた。平安時代の武将である源頼光が四天王とともに討伐に出かけ、神さまの加護もあって頼光一行は酒呑童子を見事仕留める。
ものによって鬼の本拠地に異同があり、サントリー本は伊吹山系の最古の絵巻であると言われる。上の画像にある展覧会メインビジュアルは、���呑童子の首を刎ねたら首がぽーんと飛んで頼光の頭にかぶりついた、でも頼光が被っていたのは神さまからもらった兜だったので助かった……というような場面の一部。ここだけ見てもだいぶ愉快な物語である。
さて、展示室の最初の章では、まずサントリー本が惜しみなく披露されている。全長約66mのうち約35mぶんを見ることができるので、絵巻物の展示としては相当な大盤振る舞いだと思う。しかも自分が訪れたときは来館者がさほど多くなかったので、展示ケースの前に張り付いてじっくり見ることができた(人出の多い展覧会だと場所の譲り合いがシビアで絵巻物の鑑賞が難しいことが多い)。
サントリー本の成立は室町時代、描き手は狩野元信。漢画系の絵師だがやまと絵も真摯に学んだことがうかがえる描きぶりとのこと。見どころの場面には解説があるし、最初に絵巻の見かたを説明するパネルも用意されていて、絵巻の中で迷子にならずに物語を追っていけるように工夫されていた。
サントリー本と並行して展示されていたのが、江戸時代に成立した「酒呑童子絵巻」。絵師は伝狩野孝信。サントリー本を踏襲しつつアレンジしている部分もある。「酒呑童子絵巻」は全三巻なので、サントリー本の上巻、伝孝信本の上巻、サントリー本の中巻、……と交互に並べられていた。
以下の2枚の画像は展覧会図録の表紙と裏表紙。


以降の章では、その他の酒呑童子絵巻や関連作品を取り上げている。徳川将軍家の種姫(家治の養女、松平定信の実妹)の所持品だった酒呑童子絵巻(ライプツィヒ・グラッシー民族博物館所蔵、通称ライプツィヒ本)は、今回が初めての“里帰り”だそうで、保存状態のよい美しい絵巻だった。このライプツィヒ本は、基本的にはサントリー本とほぼ同じ内容だが、もともとの物語にはない酒呑童子の生い立ちについての話も描かれている。それによると、童子はヤマタノオロチの子どもで、大酒を飲むのも父親譲りらしい。このストーリーを採用するなら、童子の存在に少しの悲しさや哀れさが感じられる……かもしれない。
また、ライプツィヒ本は上述のように種姫の所持品だったのに対し、サントリー本は徳川家康の娘、督姫の嫁入り道具のひとつだったのだそう。酒呑童子を退治するのが源頼光すなわち清和源氏の武将であり、徳川家も(実質はさておき)清和源氏に連なる家系を標榜していたはずなので、酒呑童子絵巻を所有したり、求めに応じてそれを披露したりすることが、イエの正統性を高める一種のステータスだったのではないかとの見方が示される。現代人の感覚では、酒乱の鬼を退治する物語なんて良家のお姫さまの所持品としてふさわしいのだろうかとも思ってしまうが、当時のお姫さまはイエとイエの関係を強化するための財や道具のようなものだっただろうから、嫁入り道具もイエの都合で選ばれるのが当然ではある。
また、酒呑童子の物語は古典芸能の世界へも広がっている。その例として能の「大江山」を取り上げ、そのダイジェスト映像を展示室内で見られるようになっていた。酒呑童子絵巻を解説込みでずっと見てきた直後に「大江山」を見る格好になるので、能に馴染みがなくともその世界にすんなり入っていけて、よい展示構成だと思った。

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京都・島原といえば、かつて興隆をきわめた、日本でいちばん古い廓(ルビ:くるわ)。幕末の時代、新選組が闊歩したことでも有名である。その地でたった一軒、現在でも営業を続けるお茶屋が、輪違屋(ルビ:わちがいや)である。芸・教養・容姿のすべてにおいて極上の妓女(ルビ:ぎじよ)、太夫(ルビ:たゆう)を抱え、室町の公家文化に始まる三百年の伝統を脈々と受け継いできた。 古色なたたずまいを残す輪違屋の暖簾をくぐれば、古(ルビ:いにしえ)の美しい女たちの息づかいが聞こえてくる。太夫のくりひろげる絢爛な宴は、多くの客人たちを魅了し続けている。 本書では、輪違屋十代目当主が、幼き日々の思い出、太夫の歴史と文化、お座敷の話、跡継ぎとしての日常と想いを、京ことばを交えてつづる。あでやかでみやびな粋と艶の世界----これまでは語られることのなかった古都の姿が、ここにある。
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○日時 平成28年10月31日(月)16:00~18:00 ○場所 TKP新橋カンファレンスセンター ホール3A (東京都港区西新橋1丁目15-1 大手町建物田村町ビル3階) ○出席者 (構成員等) 山本輝之座長、岩崎俊雄、久保野恵美子、田中正博、中原由美、平田豊明、松田ひろし、 松本俊彦、村上優、森隆夫 、森祐司、日野博愛、久保厚子、萩原勝己、桐原尚之、 小幡恭弘、松田ひろし、田村���子、窪田彰 (関係省庁等) 堀江裕 厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部長、 朝川知昭 厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課長、 内山博之 厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部障害福祉課長 、 田原克志 厚生労働省社会・援護局精神・障害保健課長、 石垣健彦 厚生労働省社会・援護局福祉基盤課長、 河邉正和 厚生労働省医薬・生活衛生局監視指導・麻薬対策課薬物取締調整官、 坂本大輔 内閣府政策統括官(共生社会政策担当)付参事官(障害者施策担当)、 今福章二 務省保護局総務課長、 矢崎正子 法務省刑事局付、 高須一弘 警察庁生活安全局生活安全企画課長、 河原雄介 警察庁刑事局刑事企画課刑事指導室長、 和田勝行 文部科学省初等中等教育局健康教育・食育課長、 森下平 文部科学省初等中等教育局特別支援教育課特別支援教育企画官、 佐久間信哉 神奈川県保健福祉局長、 熊坂誠 相模原市健康福祉局長 ○議事 ○山本座長 それでは、定刻となりましたので、ただいまから第7回「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」を開催いたします。構成員の皆様方におかれましては、御多忙のところ御参集いただきまして誠にありがとうございます。 では、まず初めに本日の出欠状況について事務局からお願いいたします。 ○厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部精神・障害保健課長 事務局でございます。本日は、構成員の皆様全員が御出席となっております。事務局からは以上でございます。 ○山本座長 どうもありがとうございます。それでは、続きまして、事務局から資料の確認をお願いいたします。 ○厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部精神・障害保健課長 資料の確認をさせていただきます。座席表、クリップ留めの資料がございまして、資料1から資料10となっております。それぞれの関係団体ヒアリングの出席者名簿や関係団体からの提出資料でございます。青いドッチファイルがございますけれども、これは前回までの資料でございます。このほか別冊といたしまして、全国手をつなぐ育成会連合会から資料が配付をされております。 以上について足りない資料がございましたら、事務局までお申しつけください。 ○山本座長 ありがとうございました。それでは、以上をもちまして撮影については終了とさせていただきます。また、本日は関係団体の皆様からのヒアリングを行いますので、議事は公開とさせていただきます。 それでは、議事に入ります。本日は、関係団体の皆様からのヒアリングを行います。まず、社会福祉法人日本身体障害者団体連合会から御発言をお願いいたします。よろしくお願いいたします。 ○森参考人 日本身体障害者団体連合会の森と申します。今日は、本来ならば阿部会長が来て御説明するところでございましたが、私が代わりに説明させていただきます。 お手元に資料2「相模原市の障害者施設津��井やまゆり園における事件について」ということでございまして、本年7月26日に神奈川県相模原市の障害者施設津久井やまゆり園において19名もの尊い命と二十数名の方が負傷されるという悲惨な事件が起きたことについて、二度とこのようなことが起こらないよう、事件の真相の究明をしていただくとともに、精神障害に対する偏見、無理解が広がらないようにすることが緊急の課題であると考えております。 また、同施設を建て直すという話がございまして、財政的支援並びに新たな施設ができるまでの間、入居者の住まいの確保や事件による心的外傷後ストレスの疑いのある職員の方などに対して適切なケアを、関係する方々や地元の自治体と連携して、しっかりと取り組んでいただきたいと思っております。 なお、障害者の権利条約が批准され、そして、本年4月から障害者差別解消法が施行されたわけでございまして、このようなときにこのような悲しい事件があったということ、大変残念だと思っておりますが、これを機会といたしまして、障害のある人もない人も分け隔てることない、共生社会の実現に国を挙げて邁進していただきたいと思っております。 以上でございます。 ○山本座長 どうもありがとうございました。私から事前に、各団体10分以内で御発言をいただくよう、よろしくお願い申し上げます。 ありがとうございました。それでは、続きまして、全国身体障害者施設協議会から御発言をお願いいたします。 ○日野参考人 身体障害者施設協議会の日野でございます。 今日はこのようなヒアリングの場を設けていただきまして、心から感謝を申し上げたいと思います。お手元の資料3に私たちの協議会のヒアリングの資料をつけておりますので、その朗読とポイントのみ説明をさせていただきたいと思います。 身体障害者施設協議会は、全国で約510施設の団体でございまして、医療的なケアの高い方を含めた重度の身体障害者の方に対する施設支援と、それから地域で生活されている方、在宅の方、相互に対する生活支援というものを身障協の姿勢として謳って、今日まで事業を継続してまいりました。 4点について述べさせていただきますけれども、今回の事件を契機に、障害のある方への偏見が助長されたり、施設と地域との関係を閉ざすことにつながりかねない過度な施設管理体制整備と行政指導等が先行しないよう、地域と一体となった開かれた社会福祉施設づくりが不可欠です。折しも国は地域共生社会の実現を目指しており、そうした社会の実現に向けた関係施策に係る御配慮をお願いいたしますということで、ここで申し上げたいのは、過度な施設管理体制ということで、外部からの侵入防止を強化する余り、例えば施錠をしっかりしろとかいう通知が来ておりますけれども、そういったことを過度にやりますと、万が一災害が発生したときに、避難に時間がかかったり、あるいは避難経路の確保の妨げになったりとかいうことがございますので、ここで申し上げたいことは、防犯と防災は一体化して取り組んでいかなくてはいけないということが重要ではないかと思っております。 2つ目でございます。障害のある方への支援のための高い志とスキルを持つ職員がいつまでも働き続けることができるよう、人材確保・育成・定着に向けた職場環境の改善及び施設職員の処遇改善に向けた取り組みが推進されるよう、お力添えをお願いいたします。また、抜本的な職員配置基準の見直しにより、施設利用者の安全・安心につながる夜間の職員配置体制の強化に向けた施策検討が推進されるようお願いいたしますということで、まずは施設内の職員体制を整備することが重要だろうと思います。職員の配置基準であるとか、夜間職員体制の見直しが必要ではないかと考えております。 3つ目についてでございます。共生社会の実現に向けては、幼少期の教育、学校教育において、正しい人権感覚と知識を養う必要があり、障害者福祉施設を積極的に活用するなど地域における福祉教育の推進につきまして、御検討いただきますようお願いいたしますということで、やはり福祉教育の重要さを申し上げておりますが、これはそれぞれ行政とか社会福祉法人が別個にやるのではなくて、やはり一体的に取り組んでいくことが重要ではないかと思います。 4つ目、最後でございますけれども、平成28年度補正予算において、障害福祉サービス等の防犯対策の強化に関して示されておりますが、まさに社会福祉施設における防犯対策は喫緊の課題であり、早期の対応をお願いしたいと思っています。また、補正予算成立前に施設独自で実施した防犯対策についても、補助対象とするなど柔軟な対応が可能となるようお願いをいたしますということで、やはり早急な対応を図らなくてはいけないということで、施設によってはこの事件が発生した直後から既にそれぞれの施設で防犯強化体制に取り組んでいる法人が多いわけですけれども、通知では成立する前に取り組んだ事業は補助の対象にならないということになっておりますが、ぜひこれも補助の対象としていただきたいということと、もう一つは、取り組み方が自治体によって多少違うのではないかということも聞いておりますので、ぜひ統一した実施をお願いしたいと思います。 以上です。 ○山本座長 どうもありがとうございました。 それでは、続きまして、全国手をつなぐ育成会連合会から御発言をお願いいたします。 ○久保参考人 全国手をつなぐ育成会連合会の久保でございます。 本日はこのような場を設けていただきまして、まことにありがとうございます。 私どもの意見書としましては、資料4に出させていただいております。私どもは、障害の程度にかかわらず、各ライフステージに応じた適切な支援の基で安心して暮らせることを願っておりまして、共生社会の実現を求めております。本事件の検証及び再発防止に関する提案が、誰もが安心して暮らしていける社会の構築につながることを願っております。 1番目の精神鑑定の結果と当該施設の検証結果を反映していただきたいという要望でございますけれども、現在、容疑者への精神鑑定が行われておりまして、結果が1月ぐらいに出るとも聞いております。具体的な情報は今、私たちの中にはないと思っておりますし、容疑者が措置入院していたという事実と事件との因果関係が今もってはっきりとしていないという状態でございます。その中で、中間報告で焦点化された措置入院ですけれども、その鑑定の結果次第では、事件と距離感のある、そんなまとめになりはしないかということを危惧しております。 容疑者は、予告文を用いてその思いを世間に示したわけでございますけれども、書かれた内容とか本人の粗暴な振る舞いというのがありまして、結果として措置入院での対応となりましたけれども、本来、本当に措置入院の対応が適切であったのかどうかということも少し疑問視をしております。結果として、そんな対応をすべきではなかったのかなという思いもしております。いずれにしろ判断が困難だったこのような事例につきまして、当時の司法とか行政、医療、福祉を検証して、関わりが難しい人、対応の困難な方とされている方に、医療に託されがちな人の支援について、地域の関係機関が谷間を埋めつつ、本当の意味での連携がきちんと図れて、対応策が示されるように検討を深めていただきたいと思っております。その際、誤解とか偏見が生じないように御配慮いただきたいと思います。 皆さんのお手元に、私どもの方でコピーをしました「知ってほしい・知っておきたい-知的障害者と『警察』-」ということで、警察向けの冊子を私どもの会でつくっております。要は、すぐに犯人と思うというのではなくて、少し対応の困難な方に向けて、各方面で特性を御理解いただ��たいなという思いがありまして、こういう冊子をつくらせていただいておりますので、こういうものもいろいろな方面で御活用いただいて、御理解いただけたらなと思っております。 そして、防犯対策ですけれども、中間報告の取りまとめの時点では情報が余り得られていないために、内部犯行を前提にしての検討がきちんとなされていないのではないかという感覚を持っておりまして、神奈川県では、まずやまゆりの報告書が出まして、今、神奈川県の方でやまゆり事件の検証委員会が設置されているとも聞いております。そこでまた結果が出てくるとも思いますので、この事件の検証が行われていますので、そうしたことの結果を少し踏まえながら、ここでも検討していただく必要があるのかなとも思っております。容疑者の犯行声明にどう対応したのかとか、離職後の容疑者をどのように犯行予告に備えてきたのかとかいった具体的な情報が十分に得られていないように感じておりますので、防犯対策の強化の経緯と結果への評価を踏まえて、今後の全国の施設への防犯対策としての検討を行っていただきたいなと思っております。 また、防犯を行う職員へのケアという点でも、職員同士の人間関係とかその辺のところも重要でありまして、職員の人間関係の中でその職員の特性だとか人柄みたいなものも分かってまいりますし、いろいろな情報が得られるだろうと思っております。これらの情報を得て、今後の対策として職員体制、施設職員の処遇とか、そういうことを検討していただきたいなと思っております。 2番の再発防止のことですけれども、これからの対応について段階的に整理していただきたいと思っておりまして、私どもは第3回の会議にも意見書として提出をさせていただいておりますけれども、2つの課題を踏まえての具体策が必要であると考えておりまして、1つ目は、事件の事実から抽出された「対策」。2つ目は、事件の事実そのものには関わらないものの、背景として考えられる課題を解決していくための「政策」が必要ではないかと思っておりまして、下のほうに対策と政策という形でずっと書かせていただいております。新たに書かせていただいたこととか、今までに意見書として出させていただいたこととか、いろいろ混ぜておりますけれども、お読みいただけたらと思います。 先ほどからも意見がありますように、共生の社会を目指して障害者への理解とか偏見をなくしていくという部分では、やはり育成会としましても、学校教育が重要な役割を果たす��思っておりまして、ぜひ学校教育の中で教科の一つのようにしながら、子供たちに多様性を認める共生の社会をつくっていくのだということで強く意識をつけていただきたいなと思っております。 具体的に今回示させていただきましたけれども、そういうことも含めて、未着手のものもございますので、さらに深く、広く御検討いただきたいと思っております。 今回の事件が社会的に与えたダメージは大変大きなものがありまして、私どもの会のほうにも、障害のある御本人や御家族から、怖いとか、自分の隣にいる支援者が信用できないとか、外に出られないとかいろいろな声が届いております。今もまだぽつぽつと届いている状態でございますので、本人や家族については本当に深く深く心に傷をつけたなと思っておりますし、それをまた一生懸命支援しようとしてくれている職員の方のところにも、心に傷をつけた事件であったと思っております。 そういう意味でも、この間違った発言を徹底的に払拭していけるような共生社会の実現を目指していけるような、そんな要因が必要だと思いますので、事件及びその影響に躊躇することなく、お互いに人格と個性を尊重しながら共生する社会の構築に向けて、私たちみんなが着実に歩みを進めていくことが実現できるような検討の報告書をつくっていただくことを強く期待しております。 どうもありがとうございました。 ○山本座長 どうもありがとうございました。 それでは、続きまして、公益財団法人日本知的障害者福祉協会から御発言をお願いいたします。 ○萩原参考人 日本知的障害者福祉協会の危機管理委員会委員長を務めております萩原と申します。 当協会につきましては、知的障害福祉サービスを提供する施設・事業所の集まりでございますけれども、1934年が設立になっております。82年を迎えておりますが、会員数が本日現在6,215施設・事業所、そのうち施設入所支援を行う会員数が1,575施設となっております。この1,575施設の中には、津久井やまゆり園も含まれてございます。本日、私どもの方といたしましては、中間報告、中間の取りまとめに対応する意見として、何点か報告させていただきたいと思っております。 まず、精神医療の対応についての検証が進んでいると思いますけれども、この植松容疑者が犯行に至る、障害者は死ぬべきだという思想を抱くに至った要因などの検証解明といったものが必要と考えております。今後、裁判などで明らかになっていくと考えられますが、さらに時間をかけた中で、なぜこのような思想を抱くに至ったのかといったようなところの解明をお願いしたいと思っております。 それから、検証内容には入っておりませんが、障害者なんて要らないといった言葉がストレートに報道されましたことで、その言葉が印象づけられ、支援現場では、「私は要らないのでしょうか」と利用者が支援者に相談された方の例もございます。知的障害のある方への配慮ある報道のあり方について、御検討いただきたいと考えております。 それから、施設における防犯対策でございますが、施設においては従前から、夜勤の職員について法令上の最低基準が決められております。仮にこの知的障害者関係施設が基準以上に夜間対応を手厚くしたとしても、重度の障害者への対応などさまざまな支援がある中で、侵入者への警戒や対処には限界がございます。各施設におきましては、既に防犯対策の研修会あるいは設備の整備といったようなところに検討や着手しているところがありますけれども、実際にそういった対応についても限界がございます。今回のように犯行予告があった場合には、警察の対応が強く望まれるところだと考えております。 それから、施設における防犯対策に関する今後の検討課題という中に、設備面のみによる一律の対応には限界があるため、地域住民との連携など、いわゆるソフト面での対策も具体的に示すことが課題であると記載されております。この件については、私どもといたしましても賛同いたします。これまで知的障害関係施設におきましては、利用者の地域での生活を支援するために、地域に根差し、地域に開かれた施設であること、そして、これこそが共生社会の原点であるとの理念を持って活動してまいりました。このような事件が起きたからといって逆行するわけにはまいりません。報告書にあるように、地域住民との連携など、いわゆるソフト面での対策を具体的に示すことは重要と考えますので、早急に着手をお願いいたします。先進的なモデル事例などを収集される場合につきましては、御協力もさせていただきたいと考えております。 また、この中間取りまとめが出された翌日、9月15日に発出されました「社会福祉施設等における防犯に係る安全の確保について」、「社会福祉施設等における点検項目」、これが地方自治体におきまして指導項目としてひとり歩きしないように徹底していただくことも、あわせてお願いいたします。 最後になりますが、今回の事件によって、障害者の方々への偏見や差別が助長されるようなことは断じてあってはいけません。全ての人々がお互いの人格と個性を尊重し合い、共生できる社会を実現していく。そのための具体的な行動として、国民に向け、障害者差別を解消するために、人権意識を醸成するために啓発を早急に進めていただきたいとお願いいたします。 以上でございます。 ○山本座長 どうもありがとうございました。 それでは、続きまして、全国「精神病」者集団から御発言をお願いいたします。 ○桐原参考人 全国「精神病」者集団の桐原です。 本日は、このような場に呼んでくださり、心より感謝を申し上げます。 このたびの相模原の障害者施設で発生した連続殺人事件で亡くなられた方々に心から御冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた方々が一日も早く回復されることを願っております。 私たちは、精神障害の当事者の全国組織ですので、精神障害の当事者という立場から、以下4点の意見を述べたいと思います。 まず1点目です。あらゆる事実の精査というふうに書かれているのですが、幾つかの重要な論点が中間取りまとめでは検証されていないのではないかと感じます。1つ目は、職員の採用基準についてです。このような行動を起こしてしまった職員を採用してしまった施設の採用基準を検証すべきではないかと思います。 2つ目は、教育・労働・安全衛生等の労働実態です。例えば職場の上司や同僚に相談することができたかなど、そうしたことを通じて技術の向上とか人材育成ができていたのかなど、そういった労働実態についての検証がされるべきではないかと思います。 3点目は、施設の提供するサービスの内容についての検証です。例えば意思の表出が困難な重度障害者が狙われたと聞いているのですけれども、こうした人たちの意思決定や意思疎通、コミュニケーションの支援というものがどれぐらいなされたかということに関心を持っています。そういった人でも意思を読み取れる職員がいて、読み取られることによってその人は意思を持った、人格を持った個人なのだと周囲に認識されると思います。そうした支援がされていなかったがために容疑者のような「生きていてもしかたない」という認識に至ったのかもしれないわけですし、意思疎通の支援がどれぐらいされているかなどの検証が必要で��ないかと思います。 職員に対する研修ですが、第2回検討チームで一定されてはいるのですけれども、先ほど言った意思疎通の支援に関する研修がされていたかどうかということが検証されているかどうかが中間取りまとめを読んでもよくわからないので、これは検証が必要ではないかと思います。 そして、警察官通報を初めとする警察の対応について、この検証ももう少し、特に捜査方法や施設への情報提供、警職法判断や精神保健福祉法に基づく通報、こういったことが妥当であったかどうかといったことを検証しなければならないのではないかと思います。 続いて、2点目のほうですけれども、中間取りまとめで問題に思った点です。 主に今回の件は、検証が措置入院の入院や解除、施設の防犯といったところに重きが置かれているわけなのですけれども、しかし、これは余りにも精神保健医療福祉の検証・検討に偏重した枠組みではないかと思います。特に措置入院になったということは精神障害者という要件を満たして措置入院になるわけですので、容疑者に何らかの精神障害があったのだということは、それはそのようになるだろうと思うのですけれども、その疾病や障害と事件時の行為の因果関係に関する検証というものがされていないのです。これは刑事事件における精神鑑定を根拠に置かなければならないので、精神鑑定を待ってからでなかったら、本来これは検証できないのではないかと思います。 だけれども、再発防止策という形で措置入院解除後のフォローアップに対する関心が非常に高い。そのような中間取りまとめのつくりになっておりますので、精神障害による行為を抑止するための措置入院という形でなければ筋が通らなくなるので、そうなると容疑者の犯行時の障害の状態と行為との因果関係の検証、証明が必要になると考えます。しかし、この中間取りまとめは検証、証明がされておらず、容疑者に精神障害があったという事実をもって措置入院に対する関心が書かれてしまっている点で問題があると思います。 今までもこういった精神保健上の問題という形で社会的に取り扱われた事件は、往々にして責任能力ありというふうにされる傾向にあります。本件もやはりそうした可能性があるので、そこは慎重に検討されなければならないのではないかと考えます。 あと、警察官通報に関して、警職法の通報なのですけれども、どうしてもこれを法律の手続にのっとってやったら問題がないというのは、法律の手続にのっとっているから法律上問題ないことにはなるのですけれども、警察官がどのような必要性を判断して警察官通報にしたのかとか、警察官側が必要とした根拠について、それが妥当であるか、妥当ではないのかといったことの検証も必要ではないかと思います。こういったことをしなければ、広く恣意性というのは許容されていきます。法律の手続に従ってなされた手続は妥当であったものとして処理されるきらいがありますけれども、そこについてはもう一歩踏み込んで検証が必要ではないかと思います。 それから、神奈川県警の方で具体的に結束バンドで職員を縛るだとか、外部との連絡を取れなくするとか、抹殺したあとは自首するとか、そういったことを書いた衆議院議長宛ての容疑者が作成した手紙があるのですけれども、これを施設側、かながわ共同会に神奈川県警が見せていなかったということが報道されたり、議会で質疑されていたりしています。神奈川県警は、事件の発生予防という観点から、逆に危機感を失わせる結果になるのではないかということで、事態の危険性を正確に理解していただけるようにその内容を口頭で説明したのだと、だから手紙そのものを示すことは必ず��も適切ではないのだということで、見せなかったと報道されています。 ですが、明らかに犯行の方法などを事細かに書かれているわけなので、この神奈川県警の見立てというものが果たして本当に妥当だったのか、否、妥当ではなかったから実際に事件が起きて、施設側は対応できなかったわけですから、この点に関しては踏み込んだ評価が必要であろうと思います。そうでなければ現場の職員は、手紙を見せられずに情報共有がないまま防犯対策の責任だけを負わされることになるので、施設側の努力だけに解決の糸口を求めていくと、そういう解決策の筋書きになってしまいます。警察官のそのときの手紙を見せないという判断が妥当であったかどうかということを検証しなければならないのではないかと思います。 3点目ですけれども、これは実際に再発防止策という形で期待を寄せられている継続支援チームと多機能垂直型統合診療所についての私たちが思っていることについてです。 まず、兵庫県で実際に実施されている継続支援チームについては、兵庫の精神障害者の団体と協力して独自に調査した結果、次のような事実がわかってきました。精神科救急の輪番を組んでいて、その日当番だった病院が、あまり評判がよくない病院で、そこにたまたま救急で入院した。入院して、その後、継続支援の対象になって、通院自体をかなり厳密に管理されてしまって、逆にしんどいということで体調を崩した人がいるということと、それから、かなり他害防止のための監視という部分が強いので、そのあたりで監視されているということで体調を崩して入院を繰り返したりとか、そういった人がいるので、実際の面でも慎重に考えられなければならないと思います。 多機能垂直型統合診療所に関しては、これもやはり福祉のマターに対して精神科医が非常に入りやすくなってしまうということと、その大きな権限を持って精神障害者の地域生活に常に医師の目がつきまとってしまうことで窮屈なものになるのではないかと懸念します。 4点目は、措置入院見直しについてとか、犯罪防止機能の強化といったことに対して一般論なのですけれども、措置入院解除の検証というものは非常に力点が置かれているのですが、再発防止策として措置入院解除後の過度に管理的な干渉がなされるのではないかと私たちは危惧しています。そういう意味では、こうしたやり方には反対しています。地域の精神障害者は、報道でそういう事件があって、精神障害の犯行というふうに報道されたことによって体調を崩す者がいますし、検討チームの報道を耳にして、自分も措置入院にされてしまうのではないかと、そうやっておびえている人もいます。ですので、その部分については慎重に進められるようにお願いしたいと思っています。 精神保健医療福祉の問題という形で総括されてしまうことによって、結果として私たち精神障害者の実際の生活が規制されていく法制度になり得る状況にあるので、精神保健医療福祉を犯罪の防止のための策にすることに対しては、強く反対します。 ありがとうございます。 ○山本座長 どうもありがとうございました。 それでは、続きまして、公益社団法人全国精神保健福祉会連合会から御発言をお願いいたします。 ○小幡参考人 本日はヒアリングの機会をいただきまして、ありがとうございます。本来ですと、理事長の本條が発言するところなのですが、別件の会議が重なっておりますので、私、小幡のほうからかわって発言させていただきます。 私どもの団体は、精神障害者の家族会を中心とした団体・組織になっております。私たちとしては、今回の再発防止策の検討は必要なことだとは思っておりますけれども、今回の中間まとめ、また、この間の報道や、各団体さんからもるる発言いただいているところですけれども、このことが精神科医療全般の措置入院やそういったところに偏重しがちなところについては危惧を持っております。そういった意味では、予防拘禁的な機能や犯罪予防というような部分がしっかり押さえられるのであれば、別途対策も必要かと思っているところです。ただし、今回の再発防止策の中では、これに関するところがかなりまとめられておりますので、危惧されるところも含めて当会として意見を述べていきたいと思っております。 容疑者の特異な考え方というのは、精神の症状から発生するとは私たちは考えておりません。そういったことで治療で治るものではないとすれば、この入院措置、いろいろな対応というのは一時的な対応手段でしかなくて、本来の解決というところの糸口をともすると見失ってしまうようなことになりはしないかと思っています。 既に国のほうでは、これからの精神保健医療福祉のあり方に関する検討会というものが設置されておりまして、当会からも構成員に入っておりますけれども、そちらのほうで保護入院等の非自発的入院と措置入院というのは本来連動するものと思いますので、関連があるのであれば、そこの部分をしっかりそちらの検討会のほうにも盛りつけていけるような方策が必要ではないかと思っております。 それから、今回の防犯対策としての救命というところを本当に区別していかないと、元職員の犯行であるとなれば、幾ら防犯策をとっても内部的なところからの観点というのは網羅されていないところがありますので、盲点として残ってしまうのではないかと思います。退院後のフォローアップにつきましても、精神疾患の患者さんということであれば、いろいろな方策がもちろんとられるわけですけれども、入院中からの退院支援に向けての取り組み、ここに支援者の参加を、専門員などを含めてですけれども、必須としていただきたい。 それから、地域の訪問支援の拠点というものに圏域をどう定めるかということはあると思いますけれども、小回りのきく小規模な拠点、区域にして、ここにも多職種、いろいろな目が入るようなチーム編成を築いていただきたいと思っております。 地域生活に移った後は、治療の中断、今回はそれに当たるところもあるかとは思うのですけれども、ここにどうアクセスしていくのか。また、家族とは今回、容疑者の方は一緒に暮らされていなかったところもありますが、そういった背景がどこから生まれているのか。精神の特性等にもし起因するところがあるとすれば、医療中断がないように、また急性期に陥らないようにしていくというところは、本人のみの対応ではなくて、本人を取り巻く家族やそういったところに関する医療へのアクセスの方法についてもつぶさに見ていかないといけないのではないか。そういったところでは、診療報酬との兼ね合い等も出てくるのではないかと思っております。 また、今回、容疑者の友人等もいろいろ変調を感じ取っていたりというようなこともあったようですけれども、そういった意味では相談をする窓口をきめ細かに、また、どんなものもたらい回しにせず、ワンステップでそのことを受けとめ、関係機関等につながっていくというようなサービス体制も整えていくことが求められているかと思っています。 また、いろいろな事件が起きたときに対応するには、国や行政等のかかわりももちろん必要でしょうけれども、当事者や家族会等が、なぜそういったこと至ってしまったのかというところで独自に情報を入手し、介入していけるようなシステムを自治体等の後押しをもってできていくということがあるといいのではないかと思っています。 それから、今回、容疑者が緊急措置入院になったときの状況は余り詳しくわからない部分があると思うのですけれども、措置入院になったときの身体拘束等が広がってきているというような背景を見たときに、例えば一般的な緊急措置入院になった場合と、今回の容疑者が措置入院になったときの受け入れや治療方針を立てるときの差異というのは逆になかったのかどうか。特異な事件としては扱われるのだけれども、ほかの状況と比べたときにどうだったのかというところは私たちも情報を得られないところがありますので、そういう観点から検証するのであれば、他の類似事件等も含めて比較対照が必要だと思いますし、現在、事件とは直接関係のない状況であっても、措置入院や緊急措置入院、また保護入院の実態というものもたださないと、明確な対策はとれないのではないかと思っております。 いずれにしましても、精神疾患、精神医療のところに偏重しない検証というものを進めていただきたいですし、今回の事件は防犯をしても内部から起こさせてしまえば、それは対応のしようがないという部分もありますので、こういった点については、より掘り下げて検証いただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 ○山本座長 どうもありがとうございました。 それでは、続きまして、公益社団法人日本精神科病院協会から御発言をお願いいたします。 ○松田構成員 資料7です。私、構成員ですけれども、たまたま日本精神科病院協会の役員ですので、その立場で今、お話しさせていただきます。 声明を日精協で出しました。その中で、終わりのほうですが、今回の事件でさまざまな立場から多くの意見表明や議論がなされていますが、日常的に措置入院患者を受け入れている日本精神科病院協会としては、今後二度とこのような悲惨な事件が生じないように、十分に人権擁護に配慮した措置解除後のフォローアップ体制の充実を含め、制度の見直しが早急に必要であると考えます。そして、今回の事件が地域移行の流れを阻害し、精神障害者への偏見を助長することのないように、そして、精神障害者と地域がともに安心かつ安全な生活を実現するために、各団体の団結が望まれますということです。 次のところには、今度、私どもの会長の意見が書かれています。その最後の方で、途中は飛ばしますが、再発防止を目的に治療・改善を行うための保安処分の検討や、医療監察法の対象者を治療可能な精神障害者のみに限定してよいのか。本来は司法モデルであるべき案件を安易に医療モデルとすることで、精神科病院に責任を押しつけてはいないかといった根本的な検討が求められているような気がしてならない。病院はあくまでも治療の場です。それを司法の考えを導入するというのはなかなか難しい。今回の事件に関しても、司法の側の検討をぜひお願いしたいと思っています。 以上です。 ○山本座長 どうもありがとうございました。 それでは、続きまして、公益社団法人日本精神保健福祉士協会から御発言をお願いいたします。 ○田村参考人 公益社団法人日本精神保健福祉士協会副会長の田村と申します。よろしくお願いいたします。 資料8に従いまして、私どもの協会の意見を述べさせていただきます。 また、その前に、今回の事件におきまして被害に遭われた全ての方々に対して、慰めがありますようにお祈りしたいと思います。また、この検討会におきまして、先生方が熱心に御議論くださっていることと、本日こういう機会を頂戴いたしましたことに感謝申し上げます。 それでは、資料8に従いまして述べさせていただきます。 私どもの団体は、精神障害者の社会的復権と福祉の向上ということに取り組んでおります専門職の団体であります。 まず1点目、幅広い見地から事件を検証し、再発防止策を検討すべきです。事件発生後の早い段階でこの検討チームが設定されたこと、そして、措置入院制度の見直しが規定のことかのように議論が進んでいることに、本日も幾つかの団体の方が御意見をおっしゃっていますけれども、私どもも違和感、そして危機感を強く覚えております。こうした類似の事件の再犯防止のために最も重要なことは、生きるに値する命とそうでない命といったものを��別するような差別思想、これとい��に私たちが闘うかということの検討が必要だと思います。その意味では、政府としてもその方策を議論する必要があると考えます。 また、そのためにも、今回の事件の刑事司法における対応の検証と課題抽出が欠かせないと考えます。 2点目です。本協会としましては、精神科医療や措置入院制度のあり方及び退院後の継続的な支援のあり方を今回の事件の再発防止策として論ずることに反対いたします。これも他の方々も述べられていますが、被疑者の措置入院歴あるいは精神障害ということと、今回の事件との因果関係は明らかになっていないと思います。そういう中で、措置入院制度の見直しを検討することは、あたかも犯罪の再発防止の機能を精神科医療が担うということを肯定しているように映ってしまいます。精神科医療の守備範囲というのは、あくまでも精神疾患のある人への適切な医療の提供であります。その一端を担う措置入院制度におきましても、極端な差別思想に基づく行動をとる方、そういった方を取り締ま���ような治安機能はあり得ないと考えます。 また、私どもソーシャルワーカーである精神保健福祉士は、基本的に御本人中心の支援を行う立場にありますので、社会防衛のために私たちの支援が機能するということは直接的にはあり得ません。 3点目です。改めてノーマライゼーションやインクルーシブな社会の実現に向けた取り組みを推進すべきです。日本における障害者入所施設の入居者の方あるいはその御家族は、本当に幸せな日々を送っていらっしゃるのでしょうか。今回亡くなられた方々のお名前も公表されなかったということ一つとっても、その人生がどのようなものだったのかということを想像させられます。たとえ障害を持って生まれてこられたとしても、地域社会から排除されることなく幸せな人生を送れるような社会づくりが本当に必要だと思います。そのためにも、財源を伴った社会保障の充実は欠かせません。国としては、生存権の保障ということを貫く姿勢を今こそ見せていただきたいと考えます。 また、改めまして、福祉専門職や研究・教育者が差別思想というものに対峙できるような共生思想を再構築し、広く啓発することも重要な使命であると考えております。 4点目です。福祉人材の確保と育成方法について見直すべきです。今回の事件と障害者施設が置かれている状況やそこに従事する福祉労働者の実情等を切り離して考えることはできません。福祉人材を養成する教育現場においては、人権教育を一層充実させること、また、一定の資質を備えた人材を雇用できるだけの待遇を確保すること、そして、福祉現場での教育研修体制を充実させること、これらが一体的に図られる必要があると考えます。 5点目です。私どもソーシャルワーカーとして、本事件の被疑者をもしも私たちの支援対象であるクライエントと捉える場合に、その時間と費用の保障ということが必要であると考えます。もし本事件の被疑者に精神保健福祉士として支援介入するとしたら、もちろんこれは医療の対象とは限らず、福祉的な支援の対象ということを多く含んでおりますが、長時間をかけて援助関係を形成するということ、そして、この方が持っている心の闇に入り込みながら詳細なアセスメントを行うということ、その上で御本人の不満や不充足感といったものがどういったところから起こってきているのか、その根源を探ること。そして、この方がどういう生き方をしていきたいと考えているのか。そういった生き方探しに伴奏するようなソーシャルワー��の関わりが必要となります。 こういった支援を丁寧に行うことを考えますと、仮に例えば今回のように措置入院でしたけれども、そういった短期間に限定される、そして強制的な治療の場においては、この関係形成においた支援は不可能と思います。また、これをもし成し得ようとしましたならば、制度的、経済的な裏づけなしには行うことは困難と考えます。 以上の5点を総括させていただいた上で、措置入院制度のあり方ということに関しましては、特に措置解除の判断やその後の通院など強制医療提供の部分に特化して議論が矮小化してはならないと思います。警察官通報のあり方、措置診察件数の都道府県格差を初めとした措置入院に至る過程の検証も含め、現在厚労省に設置されております、これからの精神保健福祉医療のあり方に関する検討会、こちらで精神保健福祉法の改正の検討がなされているところですので、そちらにおいて議論すべき事項であると考えております。 このため、私どもの協会としましては、そちらの方へ措置入院制度のあり方に関する具体的な意見提出をしたいと考えていることを申し添えて、本日の意見とさせていただきます。 なお、添付は私どもの協会で2度にわたって、今回の事件とそのことについての報道等に関しまして見解を出させていただいておりますので、御参照いただければ幸いです。 以上です。 ○山本座長 どうもありがとうございました。 それでは、続きまして、日本多機能型精神科診療所研究会代表世話人、窪田彰氏から御発言をお願いいたします。 ○窪田参考人 今日は発言の機会をいただき、ありがとうございます。 今回の事件で亡くなられた方々の御冥福をお祈りしたいと思います。 さて、私は、今回の事件の本人が措置入院として適切であったかどうかについては、詳しく知るものはでありません。ただ、今回のことで気づかされた措置入院後の地域支援体制の乏しさ等について意見を述べさせていただきたいと思います。 医療保護入院では、退院後にケア会議が位置づけられている一方で、措置入院においては退院後の支援を検討するケア会議すら求められていないのが現状です。 私は、精神科診療所を開業している精神科医師で、日本多機能型精神科診療所研究会の代表世話人をしております。日本の精神科医療は、入院ばかりに頼らない地域ケアがなかなか実現できていないことが問題だと思っています。そのためには、重い課題を持つ患者さんを地域で支援できる包括的精神科外来医療チームを生み出していかなければならないと考えています。この考えに至った道筋と今後の方向性について述べさせていただきます。 それでは、1枚目のスライドに移ります。 東京の下町は、精神科病床が極端に少ない地域で、1978年に日本で最初の精神科救急病棟がこの錦糸町の都立墨東病院に生まれました。このときに私は着任しています。都立墨東病院の30床の入院病床は、日本一の短期入院期間を誇っていましたが、当時は退院後の治療継続支援もリハビリテーション支援もなく、日が経つにしたがって、再発再入院患者さんが増えてきたのです。このような経緯から、退院後の再発再入院を少なくするためには医療の継続支援が必要であり、同時に、地域に当事者たちの心の拠り所になる拠点も必要だと考えました。 そこで、周囲から寄附を集めて、当事者たちが自由に利用できる「友の家」と名づけた部屋を墨東病院の近くの町の中につくりました。その後、それらを支援し、継続的な医療を提供するために、1986年に錦糸町に精神科診療所を開業しました。墨田区等の行政や地域の医療・福祉���関との連携を構築し、必要な地域資源を立ち上げるなど、様々な活動をしているうちに30年の歳月がたちました。必要に応じて必要なサービスを提供できる体制を整えていくことによって、気がついてみると、まだ不十分ながらも重い課題を持った患者さんのための地域ケア体制ができてきました。 2枚目のスライドに移ります。 入院ばかりに頼らない地域での生活を支援していくためには、まず、重い課題を持った患者さんを外来で支援できなくては始まりません。重い課題を持った患者さんとは、この表のように例示できます。措置入院後とか、長期入院後とか、刑務所出所後とか、そういった課題を持った方たちがおられます。また、重い課題を持った患者とは、この表のほかにも、急性期の激しい病状を示す患者さんも短期的には含まれます。正直に言えば、重い課題を持った方たちを当院で診なくてはいけないとの制度はありませんから、本音のところではつらいなと時には思うこともあります。しかし、重い課題を持った方こそ手厚い支援が必要であるにもかかわらず、そのような患者さんを積極的に診療する医療機関は非常に限られており、当院では何とか診てまいりました。 今後は、市町村からの委託事業等により、何らかの責任と公的役割を認められたほうが、覚悟して実施ができるように思っています。 次のスライド、3番目に行きます。 当院の通院患者さんの特徴をグラフでお示しします。左側の円グラフのように、当院は統合失調症の患者さんが半分近くを占めています。鬱病や神経症圏の患者さんが多い一般的な精神科診療所と比較すると、当院は比較的重い患者さんが多いことが特徴です。 右側の円グラフは、当院でのフォローアップ期間を示しています。当院では、10年以上治療継続している方が40%以上を占めており、多くの方に長期の継続支援をしていることがお分かりいただけると思います。さらに、スライドには示しておりませんが、最近のある水曜日を急遽調べたところ、その日の私の外来患者さん69名中、措置入院経験者が6名、医療監察法通院処遇中の患者さんが2名、刑務所経験者が3名、拘置所経験者1名、計12名が重い課題を持った患者さんでした。刑務所経験者3名のうち2人は違法薬物の使用経験があります。この方たちは、外来通院につながっているという意味で成功例です。問題は、通院治療中に中断し、再三の電話連絡をしても応じない、つまりは継続支援からドロップアウトしてしまう方たちが問題としてあると思います。 4番目のスライドに移ります。 これは現在の当院の実践を図にしたものです。赤い字の箇所は診療報酬外のサービスで、ボランティアになっています。当院の特徴は、外来で医師の診察に加えて精神保健福祉士などのコメディカル職員も個別面接や家族支援を行い、ケースマネジャーとしての調整役を担っていることです。このことが毎日夕刻に開かれている院内ミーティングでのアセスメント等の検討時にチーム医療の重要な要の役割を果たしています。 精神科デイケアは、リハビリテーションへの入り口の役割とともに、人間関係が苦手な患者さんが安心できる環境で仲間に出会える場の役割があります。訪問看護や訪問診療、往診といったアウトリーチ支援を行うことによって、外来で通ってくるのが難しい方への医療継続支援��、ある程度の危機対応が可能になります。また、患者さんが実際に生活する場を見ることで、より本人のニーズに即した包括的な支援を行えることも、アウトリーチ支援の利点です。このようなアウトリーチ支援を当院は1カ月間に合計400件ほど行っています。ケア会議は、行政や入院中の精神科病院の職員との協議を行う大切な場ですが、ほとんどの活動は持ち出しで、報酬はありません。 5番目のスライドに移ります。 この図は、錦糸町の地域精神保健マップです。地域全体で精神障害のある人々を支えるために、顔の見える連携を構築しようと考えています。このようにサービス拠点が地域に点在して町に溶け込んでいる、町に散らばっているところがうちの特徴です。住みなれた地域でサービスを受けられることが特徴です。区役所やスカイツリーで患者さんがデイケア等でつくった作品を販売するなど、さまざまな活動を通して地域住民の精神障害者への理解も促進されてきたと感じています。このような地域に根差した活動や支援の提供を通じた地域共生社会の実現が、私たちの目指しているところです。 次に、6番目のスライドに移ります。 医療機関では提供困難なサービスについて考えてみます。当院では、このように創意工夫をして実践してきましたが、それでも力の及ばないことがあります。以下にあるような方々には支援が大変に困難なものです。 第1には、引きこもり等で初診すら困難で、もしくは受診拒否の方への治療導入。 2番目には、重い課題を持った患者さんが受診を中断・拒否している場合です。私たちは、患者さんの自己決定権を尊重しつつも、患者さん及び周囲の人々の生命、健康、生活を守るための支援をしていきたいと考えていますが、現実には難しい問題が多いのです。治療契約が成立しない患者に対しては、たとえアウトリーチ支援が可能な体制があっても、強制的な治療提供はできず、手を出せないのが現状です。できれば措置入院などの強制力を発動するために、入院にならないうちに地域で見守りを続けて孤立を防ぎ、根気よく働きかけることにより関係性を構築し、本人が納得した上で外来治療への導入もしくは再開することが望ましいと思っています。そのためには、公的な事業委託のような診療報酬とは違った仕組みで当事者を見守り、関わっていける枠組みが必要と考えています。 さらに第3には、薬物依存症等の濃厚なケースマネジメントを必要としている場合でもケースマネジャーが実施するサービスは現状では診療報酬の対象外であります。これらの課題は市町村から医療機関への業務委託が制度化されれば、地域への責任が生まれ、公的役割を果たすことができます。 7番目のスライドに移ります。 ここで、通常の医療機関では対応困難な方たちの医療継続支援の提供方法について提案したいと思います。 市町村からの医療継続支援については、2つの方法があると思っています。一つは、この図の右側の部分で、市町村が直接支援として保健師等の力で支援する現状のスタイルです。もう一つは、図の左側の部分、民間医療機関に業務委託をする案です。市町村の役割と責任の一部を実際に外来診療を行っている医療機関に業務委託することにより、民間医療機関でも市町村の保健師等と協力しながら一定の役割と責任を果たすことを可能にするのです。つまり、通常の診療では対応困難な患者にも、温かな見守りによる孤立防止や十分な時間をかけた関係づくりや必要時の危機介入ができるようにするのです。仮にこのような医療拠点を意欲のある外来医療機関、つまり、全体の精神科外来の約10%が引き受けてくれれば、全国に500から600カ所ができると思います。 す��わち人口10万から20万に対し1カ所程度ができてくれれば、継続的な医療支援が機能しやすくなると思います。例えば措置患者さんの退院前にケア会議を開き、その後の支援を行う場合を考えてみます。東京都は、人口当たりの措置入院が最も多い自治体の一つですが、例えば人口26万人の私がいる墨田区では、年間では二十数人が措置入院しています。月に直して言えば月に2人程度ですから、1つの機関で十分対応可能と考えられます。そして、このシステムの透明性を確保するためには、各都道府県単位の精神保健センターがモニタリング機能を担うようにすれば良いと考えています。 8番目のスライドに移ります。 次に、個人の生活・価値観を尊重した医療継続支援を実現するための条件について触れたいと思います。 第1には、医療機関が適切なアセスメント、ケースマネジメント、24時間365日のミクロ救急等を実施することです。手厚い支援が必要な人には、さまざまな医療資源や福祉資源を活用し、多機関との連携を密に行うことが必要となってきますので、それらのサービスの連携、構築のためのケースマネジメントが支援の鍵になります。そして、病状や生活状況が改善したときには、定期的アセスメントにより、逆にサービスを減らしていくということも必要になってきます。 第2には、外来医療の充実です。入院医療中心から地域中心へという国の方向性が明確に示されていますが、残念ながら、外来医療の診療報酬は従来と変わらず手薄なままです。デイケア、アウトリーチ、多職種によるケア等の外来医療全般の質の底上げが必要だと思います。 3番目はスライドのとおりです。 第4には、自治体の実情に応じて、民間医療機関への業務委託をすることにより、官民協働で包括的地域ケアを提供することです。これにより、地域共生社会の実現を果たしていけると考えています。 最後の9番目のスライドになります。 このように、市町村単位で民間医療機関への業務委託による官民協働の体制が実現すれば、カナダやイギリスやイタリア等の先進諸国と同様に、日本にも地域に責任を持ち、重い課題のある患者さんにも対応可能な精神科外来医療拠点が生まれます。ここに多機能で包括的な精神科外来医療チームを形成して、人口10万から20万人に1カ所の地域精神保健センターを日本にも創設する必要があるのではないかと考えています。 以上です。 ○山本座長 どうもありがとうございました。 それでは、田原課長、よろしくお願いします。 ○厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部精神・障害保健課長 事務局でございます。 追加資料を今、配付させていただきたいと思います。全国手をつなぐ育成会連合会から冊子が届きましたので、お手元にお配りいたします。 以上でございます。 ○山本座長 どうもありがとうございました。 それでは、そのほか本日御発言いただいた方々から、もし追加の御発言があれば承りたいと思うのですが、いかがでしょうか。 どうぞ。 ○日野参考人 身体障害者施設協議会でございます。 他の団体の方とは、施設という視点から若干違う意見を申し上げたいと思うのですが、今回の事件について、協議会としていろいろな意見が出たのですが、侵入防止という観点から考察しますと、まず第1は、敷地内への侵入防止策をいかに図るかということと、2つ目は、建物内、要するに利用者の方が生活をされている居住空間への侵入防止策をいかに図っていくかということと、3つ目が、今回の事件のように建物内に侵入された場合にどう対応していくかという、この3つの視点から、私たちの協議会は具体的にこれから取り組んでいかなくてはいけない重要な課題だと思っています。 もう一つは、今回の事件が元職員であったということは、やはり重視しなくてはいけないということで、特異なケースではあるにしても、今、職場環境改善ということも先ほど申し上げましたけれども、職員のメンタルヘルスケアという���のをしっかり取り組むことが、職員の資質の向上にもつながると思っていますので、その部分だけ追加をさせていただきました。 ○山本座長 ありがとうございます。 他はいかがでしょうか。 どうぞ。 ○久保参考人 今、お手元に配っていただきました9月号の「手をつなぐ」という冊子ですけれども、私ども、先ほどのお話の中でも意見を言わせていただいたのですが、知的障害の方だけではなく、精神障害の方や身体障害の方からもお声をたくさんいただいておりまして、助けてほしいというような意見とか、今の報道されていることが障害のある人たちや家族から見るとマイナスのイメージばかりになってしまっているというのがあるのです。それで私たちは、もっと前向きに、みんなと家族や仲間と本当に明るく前向きに元気に生きている、こういう人たちのことを、障害のある人たちのところに余り関心を持っていない方も含めて、この人たちの命がなくていいものでしょうかというので発信をしたいなと思って、9月号を出させていただきました。 みんなマイナスイメージで、怖がって助けてほしいという声が聞こえてきますので、前向きに生活をしていけるような、そんな活動の一つとしてこの9月号をやらせていただいていますので、報道関係にはそういうところに御注意いただきたいという気持ちもありまして、今日提供させていただきました。よろしくお願いします。 ○山本座長 ありがとうございました。 その他いかがでございますか。よろしいでしょうか。 それでは、本日御発言いただきました各団体の方々、本当にどうもありがとうございました。御礼申し上げます。 それでは、各団体からのこれまでの御発言を踏まえまして、御質問、御意見があればお願いしたいと思います。いかがでしょうか。 田中構成員、どうぞ。 ○田中構成員 育成会連合会としても2つ要望させていただいておりますけれども、1つは、本人の精神鑑定がどのような進捗状況になっているのかということと、この会をどのように進めていくのかということについて、今日意見提出をしていただいた団体からも、そこを踏まえての検討が必要ではないかとされておりましたので、神奈川県での検証委員会の動きと、精神鑑定についての見通しはどのようになっているのかについて、お答えいただける方がいればお願いしたいと思います。 ○山本座長 ありがとうございます。 今の点に関しましては、神奈川県のほうはいかがですか。 ○神奈川県保健福祉局長 神奈川県の保健福祉局長の佐久間です。 今日は大変貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございました。 私どもでやっております、先ほど団体の方からも検証委員会のお話を具体的に出していただきましたけれども、厚労省のチームと余りほどなく設置をさせていただいて、主に事実関係をどう認定していくかということと、それに対してどういう課題があったのか、課題に対する対応はどうすべきかと、こういった視点で検証をやらせていただいております。 もちろん第三者による検証委員会でございますので、私ども事務局がいつ出るとはなかなか言いにくいのですが、今の見通しですと、最終的なある程度のまとまりある報告、レポートというのは11月中にいただけるのではないかと受けとめてございます。 以上でございます。 ○山本座長 ありがとうございました。 田中構成員、よろしいですか。 ○田中構成員 であるとして、この会がいつ結論を得るのかということと、幾つかの団体や私たちから要望した精神鑑定も含めて検証につなげるということについて、事務局としての見通しについてもお聞きしたいと思います。 ○山本座長 事務局、よろしいですか。 ○厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部精神・障害保健課長 精神鑑定の方の見通しは、まだ我々も十分承知はしておりませんが、この検証チームの再発防止策については、秋頃にまとめるということで申し上げておりました。大体11月中を念頭に置いていたものでございますので、神奈川県の検証の状況なども念頭に置きながら、この場でのいろいろな意見集約を見て、再発防止策がまとめられるように進めていきたいと考えております。 ○山本座長 ありがとうございました。 田中構成員、どうぞ。 ○田中構成員 団体からの意見としても強く上がっておりましたし、私も構成員��しては2つの結論を待ってから検証報告を出したほうが、いろいろ指摘されたことに対してもバランスよく答えていくことになるのではないかと思いますので、11月ごろに報告書を出すという見通しを立てた時期とかなり情報が変わってきておりますので、もう一度そこは再考していただきたいと意見としては述べさせていただきます。 ○山本座長 この点につきましては、今の御意見をいただきまして、ちょっと検討させていただきたいと思います。 他はいかがでしょうか。もう田中構成員はよろしいですか。 ○田中構成員 今の件1つです。 ○山本座長 他はいかがでしょうか。 平田構成員、どうぞ。 ○平田構成員 今の精神鑑定との関わりについては、何回目かの会議で私も指摘したと思うのです。やはり鑑定の結果といいますか、被疑者の病理と事件との関係が解明されなければ、結論を急ぐべきではないという話をしたつもりなのです。ただ、それが確定するのを待つということになると、最高裁まで行ってしまう可能性がありまして、いつなのか見通しがつかないという事情もありますので、制度的な問題に限ってこの検証委員会で取りまとめるということはあってもよいかなと私は考えているのです。 ただし、鑑定結果が出たところで、もう一度そこに焦点を絞った検討会は再開すべきではないかと、ここで述べさせていただきたいと思います。 ○山本座長 ありがとうございます。 その点について、松田構成員、いかがですか。 ○松田構成員 全く同じ意見です。 ○山本座長 ありがとうございます。 村上先生、どうぞ。 ○村上構成員 確かに精神鑑定の結果を待って、それからというのが一つの正論ではあるのですが、私はちょっと違った観点でお話をさせていただきたいと思います。 医療監察法ができました池田小学校事件の場合にも、要するに彼がこれまで医療を受けてきた経過を検討されて、そして、医療監察法という制度がスタートいたしました。制度が発足したときには随分反対意見も多かったと思います。ですが、ああいう不幸な事件をきっかけとして、医療としては、松田先生は司法モデルとおっしゃいましたが、あれは司法モデルを取り入れてはいるけれども、病院そのものは医療モデルで動いております。そういう意味での展開を考えてみますと、今回の措置入院という状況の中で、措置入院個々に関して、そのときに医師がどのように判断をしたのかに関しては、実際に診てきていただいた先生も含め、我々もいろいろ書類を読ませていただいた関係も含めた上で検討をさせていただきました。 ですから、確かに精神鑑定というのは、とどのつまり最後の結論はこれでしたという正解みたいなものがあるのだけれども、我々は全て正解を知った後に判断をしているわけではない。日常臨床というのは、そのときその場で状況を含めて判断をしております。その上で我々が陥りやすい落とし穴があったり、我々が用心しなければいけないことだったり、我々が準備しなければいけないということは、現時点でもしっかり論議はできるし、提案はできると思っております。 何度も申しますが、池田小学校のときの事件に関しては、岡江先生が、亡くなられる直前ですけれども、鑑定書を公にされました。お読みになった方もおられると思います。その鑑定書の中は、最終的には情性欠如の精神病質、パーソナリティー・ディスオーダーという判断なのですけれども、読み方によれば、もっといろいろな議論ができそうなものでした。 あれは一審でほぼ確定して、控訴したものもすぐ取り下げましたから一審で確定して刑が執行されましたけれども、不幸な事件を契機にして、でき上がった制度というのは必ずしも間違いではなかったと私は思っております。 ○山本座長 ありがとうございます。 今の点について、いかがですか。 座長でございますが、私も中間取りまとめの際にも申し上げましたけれども、鑑定の結果が出るまでは相当時間がかかるわけです。しかも、我々は検証におきまして課題を抽出したわけですから、その課題につきまして制度的に再発防止策を出すというのは義務だと思います。そして、これは秋頃までを目処に出すということを公にしておりますので、そういうことで再発防止策を出していくという方向で堅持したいと思います。それでよろしいでしょうか。 松田先生。 ○松田構成員 それで全く問題ないです。ただ、先ほどから皆さんの意見の中に、措置入院とかそのあり方を検討しているかのような御発言がありましたが、そういうことは一切ありません。この事案に関してどうなのかということをやっていますので、それに対して今、再発防止をどうしたらいいかということに特化しています。措置入院はこうあるべきだなどという上から目線の議論は一切していないということをお伝えしたいと思います。 ○山本座長 ありがとうございました。 他はいかがでしょうか。 松本先生、どうぞ。 ○松本構成員 私も今回の事件をきっかけにして、質の高い地域精神保健福祉のサービスが実現できればいいなと思っているのですが、その中で、きょう窪田先生に御指摘していただいた、本当にだんだん地域中心の精神科医療になっているのだけれども、診療報酬は本当に入院中心についていて、外来などではやせ細った形で支えている現実がありますし、地域保健の行政サービスのほうも年々人員的には厳しくなってきて、直接住民を支援するというよりは、役所仕事になっていってしまっているという現状があるなと思っています。 その中で、今日は窪田先生の御紹介された内容にちょっと関心を持ったのですけれども、2点ほど質問させていただければと思います。もしわかればということなのですけれども、現状の日本の中で、多機能垂直型のこのサービスをやっている医療機関というのがどのぐらいあるのか。例えば実態として、そういったところが担えるぐらいの潜在的な数があるのかどうかということが1点。 もう一点、私自身は薬物依存症を専門とする精神科医なのですけれども、本当になかなか医療機関が少なくて苦慮しているのですが、例えば行政から一定の委託費があれば診られるのか、あるいは診るだけのソフト面というか、職員のスキルなどは高められる可能性はあるのか。この2点について御意見をいただければと思います。 ○山本座長 ありがとうございます。 では、窪田先生、お願いします。 ○窪田参考人 御質問ありがとうございました。 まず、名前なのですが、今、垂直まで言うと余りにも長いのと、多少の概念の混乱がありますので、多機能型精神科診療所と言っています。それに相当する今回のようなきちんと地域でケアできる体制を持った医療機関がどれだけあるかといいますと、もしこれが制度として発足したときには、診療所レベルでは恐らく50から多くて100ヶ所くらいだと思います。日本中の精神科診療所でデイケアを持っているところは大体多機能になっているのです。それが約450件です。その中で重い患者たちを責任を持って診ると手を挙げる精神科診療所は、恐らく3分の1から4分の1というところだと思います。 これが始まったときには、精神科病院の外来で多機能になっているところは随分全国的にありますので、そこが中心的に担っていただいて、都市部については多機能型の診療所がやるというような現実的な形になると思います。それから、公立病院や総合病院でもそういったことが担える病院は幾つもあるだろうと思いますから、日本の総力を合わせて500~600カ所できてくるのではないかと思っています。 実際の力についてはどうかということを言われると、たしかに能力的にはまだばらつきがあります。少なくともデイケアをやっているところはスタッフが10人以上いますが、当院や幾つかの力をこめて実践しているところは50人を超える職員がいる診療所が増えてきています。全体を見れば、まだ研修も必要ですし、これがもし委託を受けることになれば、責任を持って薬物依存の患者を診療所も診なければいけないし、そのことについての研修もしなければいけないと思っているところです。 ありがとうございました。 ○山本座長 ありがとうございました。 松本先生、よろしいですか。 ○松本構成員 はい。 ○山本座長 他、いかがでございましょうか。 岩崎構成員、どうぞ。 ○岩崎構成員 私、再発防止ということに関連して言えば、先ほど育成会あるいは身障協の会長さんからお話がありましたように、教育の必要性というのは大変大事だと考えておりまして、文科省でもカリキュラム編成の際にそのような努力をしていきたいという前向きな回答をいただいております。 私が知る限りでは、平成の1桁の時代には、福祉の教育モデル校みたいなものがあって、学校教育の中でインクルーシブ社会の創設に向けた検討が行われていたのですけれども、このところは余り聞かれなくなってきた。ということは一般化してきたということで、評価すべきなのかもしれませんけれども、子供たちにとってはそういう機会に接することがなくなったということで、ぜひ団体としても御活躍をお願いしたいと私個人的に思っております。 それから、日野会長から出た中で、防犯対策と防災対策は一体的にしていくべきではないかという御発言をいただきました。私、初めてこういうことを聞いたのですけれども、今回出されました4課長通知の防犯に関する通知と、これまで行われてきた防災対策の中で示唆に富むようなお話があればお伺いしたいと思ったのです。 といいますのは、今回の防犯対策について、ちょっと細か過ぎるのではないかとか、幾つかの批判を各種別からお話しいただいているものですから、もしあれでしたら、身障協としてどんなお考えかも含めて。 ○日野参考人 岩崎構成員のほうからおっしゃったこと、教育の話は本当に重要だろうと思いますので、協議会としても、ライフステージに沿った教育というのが必要なので、教育委員会と社会福祉法人と一体的に取り組むことが必要だろうと思っております。 それから、防犯対策につきましては、示された通知とかでちょっと表現が過度な体制整備をしないようにとお願いしていますけれども、例えばある団体、先日の別のところのヒアリングでおっしゃったのは、防犯カメラを設置するということについては人権の問題、例えば監視をされるとかいうこともあるので控えていただきたいという御意見があったのです。それは身障協としては、外に向けての監視カメラであれば特に問題ないのではないかと思っておりますけれども、やはり一番危惧するのは施錠のところです。施錠の方法もいろいろあるのですが、例えば外から今回の場合はハンマーか何かでガラスを割って、そこから解除して侵入した。そのことであれば、例えば割れにくいようなビニールを窓ガラスに張るとか、そういう方法をとれば、例えばハンマー等でガラスを割るにしたって時間がかかるし、音がしますので、それは職員が気づくと思うのです。その程度であれば問題ないのですが、何カ所も施錠するとかいうことに関しては、先ほど申し上げました防災、万が一災害があったときに避難に時間がかかる。避難経路の確保ということを含めて一体的に検討しなくてはいけないのではないでしょうかということで発言をさせていただいたということです。 ○山本座長 岩崎構成員、よろしいですか。 ほかはいかがでございましょうか。 部長、どうぞ。 ○厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部長 ありがとうございます。 防犯と防災ということで、社会から閉じた施設にならないようにというのは、どの委員からも共通して出ている話でございまして、私どものほうも通知の中で、地域と一体となった開かれた社会福祉施設となる���とと、防犯に係る安全確保がなされた社会福祉施設となることの両立を図るために、日ごろから利用者が地域に出て活動するということ。それから、地域開放など地域の関係者との交流に向けた諸活動について、防犯に係る安全確保に留意しつつ、これまで以上に積極的に取り組むことが重要で、また、利用者の自由を不当に制限したり、災害発生時の避難に支障が出たりすることのないように留意するということを書かせていただいております。 そうはいうものの、また改める必要があるのではないかという御示唆、御提言がありましたら、またお聞かせいただければと思います。 ○山本座長 ありがとうございました。 そのほか、いかがでございましょうか。 どうぞ。 ○松本構成員 先ほどの多機能型クリニックの話の続きなのですけれども、今、なかなか公的機関で地域のサポートをするマンパワーが少ない中で、こういう民間のそういったところに委託するというのは一つのアイデアだなと思う一方で、本日、全国「精神病」者集団の方がプレゼンテーションしてくれた中に、やはり医療の抱え込みみたいな感じになるのではないかという、それも確かに危惧すべきことかなと思っていて、先生のクリニックなどは本当に地域に根差してやっているのですけれども、地域によってはかなり病院で抱え込んでいるなという感じもある。 多分、その解決策の一つとして先生が提案された中で、市区町村などとの人的な交流であるとか、精神保健センターのモニタリングみたいなことを添えられたのかなと思っているのですけれども、どうでしょうか。やはりこれが医療の抱え込みとかになって、それは私もとても危惧すべきことなのかなと思っているのです。 ○窪田参考人 ありがとうございます。 これまでの日本の精神科診療所を考えますと、余りにも非力だった。医者と事務の2人しかいない。これで一体、重い人たちを地域で支えられるのかという、とても無力な状況があったと思います。やっと最近はデイケアができ、訪問ができて、他職種多機能になり一定の力を持てるようになってきたのです。さらに近年では、障害福祉サービスのほうも障害者自立支援法ができてから株式会社も実践する時代ですから、医療機関も包括的ケアや垂直統合型と言うなど、一つの医療チームでしっかり支援する必要があります。重い急性期の状況にある人たちについては、とにかく相当力を込めないと支え切れない。医師が外来で10分間程度面接するだけでよくなるかというと、それだけでは無理です。地域の中で様々な力を統合していく必要があります。しかし、日本の現状はまさに個々ばらばらです。たくさん地域に福祉施設はあるのだけれども、どれもみな別々の法人がやっていて、チームになっていないのです。これが日本が諸外国に遅れをとっている面だと思っています。重い人をサポートするときには、多職種による多機能の連携をチームとしてやっていく必要があります。そのためには、一つの医療法人でチームとしての実践をしっかりやらなければいけないと思っています。 ですから、一定程度の安定を見たら、そこからは福祉レベルに移すことを私は水平連携と言っていますが、力を込めるときには力を込めてやる。そして、一定程度安定したら地域の福祉の人たちにお任せしていくということが必要です。一つの医療法人だけで抱え込まないことは大事だし、開かれた場である必要がありますが最初の急性期のときには力を集中して対処しなければならないわけですから、最初の大変なところは医療チームがしっかりと支えて、そして一定程度よくなったら、より広い範囲の中で見ていくという構造が必要と思います。今までの日本にはこのような医療ケアが無さ過ぎたのではないか思います。 ○山本座長 私からも1点よろしいですか。 これは継続的支援を行う場合、期限とかはどのようにされているのでしょうか。それと、行われていることについて、もし課題を感じていることがあられたら、ちょっと挙げていただければ非常にありがたいのですが。 ○窪田参考人 特に統合失調症の方については、現状で言えば、やはり再発予防が大事ですから、5年、10年と長いお付き合いになるのはやむを得ないと思っています。ただ、かなり力を込めてサポートする、これもかなり個人差がありますね。本当に数週間で急性期を立ち直る人もいれば、引きこもった状況からやっと友達ができて、人の輪の中に入っていけるのに10年かかる人もいますから、何とも期間については一概には言えないと思います。ただ、評価を定期的に行って、不必要な支援は減らしていくという作業がいると思っています。 現状で我々のクリニックで困っているのは、例えば家を探しに不動産屋さんへ行っても、それは診療報酬にならない。仕事を探しにソーシャルワーカーがハローワークに行っても、これもボランティアにしかならない。そろそろ退院だから来てくださいねと、当院のスタッフが精神病院のケア会議に行っても、これも診療報酬にならない。全部持ち出しでボランティアではなかなかやれないのです。そういった生活支援の活動に対して経済的な手当がつく必要があります。 逆に言えば、私の提案の中にある地域精神保健センターをというのは、そこに2人でも3人でも自由に動けるコメディカルがいてくれれば、個々の活動のたびに診療報酬にしばられずに動けます。例えば八王子の病院に地域移行のケア会議が必要な患者がいれば飛んでいくし、地域で困っている人がいれば夜でも飛んでいくことができます。さまざまな応援ができる。そういう自由に動ける人手がいないというのが実は一番困っているところです。 ○山本座長 ありがとうございました。 これは民間委託をするのも一つお考えだということですが、そういう場合でも情報提供の問題とかがあると思うのですが、何かその点についてお考えはございますか。 ○窪田参考人 情報提供という��は、病院との間ですか。 ○山本座長 要するに病院との間です。市町村から。 ○窪田参考人 例えば現在入院中の患者さんで、退院してから当院の外来へつなげる必要があったとき、こちらはその患者さんがもともと当院に通院中の患者さんならば、ケア会議に行くことはオーケーだけれども、今まで当院にかかったことがない人だと、情報提供上の問題が起きてきますね。それが区からの委託を受けて当院が責任を持って退院促進もやってくださいと言われていて、公的な契約関係があれば、情報の共有は可能になるのではないかと思っています。 ○山本座長 その辺はちょっと制度的な検討が必要だと思いますね。ありがとうございます。 ○窪田参考人 そうですね。それから、民間であることのよさは、やはりローコスト・ハイパフォーマンスでできる。アメリカも精神保健センターができたけれども、どんどんNPOに委託になっていると聞き及んでいます。そういう委託の良さがあると思っています。 ○山本座長 大変貴重な御意見をいただきました。ありがとうございました。座長のほうからいろいろすみません。 では、松田先生。 ○松田構成員 窪田先生に引き続き質問で申し訳ないですが、先生のような意思ある人がきちんとやるというのは大事なのだけれども、やはりどこかでポシャっちゃうのではないかという心配があるのです。そこら辺のところは地域力のアップ、地域での治療共同体でもいいし、福祉共同体でもいいし、生活共同体、そういったものを同時に考えていかないといけない。そこら辺の運動とか活動をどうリンクさせるかという問題があるのだけれども、そこら辺はどうお考えですか。 ○窪田参考人 ありがとうございます。 当然そこが中心になれば、その医療機関の周辺の、例えば障害福祉サービスとも���平連携していかなければいけない。ただ、そこが委託を受けて一つのリーダーシップを発揮できれば、周辺の支援機関と一緒にケア会議を開くことが可能になります。今のところ現状で言えば、当方のクリニックはクリニックとしてやっているだけで、言うなれば八百屋さんと何の変わりもないのです。当院が周辺に呼びかけて一緒にケア会議を開こうなどという権限も何もないわけです。でも、そういうことをやれる、少なくとも言い出しっぺになれるような権限を与えてくれると、もうちょっと地域がうまく連携してやれるようになると思っています。 ○山本座長 松田先生、よろしいでしょうか。 ○松田構成員 はい。 ○山本座長 それでは、いかがでございましょうか。 また私からで申しわけないのですけれども、幾つかの団体の方から、警察の取り組みといいますか、警察官行政についての検証ということが指摘されておりますが、これに関しては、警察のほうではこの事件に対する対応として検証とかを行っているのでしょうか。どうぞ。 ○警察庁生活安全局生活安全企画課長 警察庁の生活安全課長でございます。 こちらの考え方としましては、チームに参画して一緒に検討させていただいているという理解でおります。 ○山本座長 特に内部ではされていない。 ○警察庁生活安全局生活安全企画課長 内部というか、もちろんこの検証チームがありますので、それにその都度、上司等に諮って相談申し上げておりますので、そういう意味では検討はしているところでございます。 ○山本座長 わかりました。 神奈川県のほうは、警察についての検証はいかがですか。 ○神奈川県保健福祉局長 神奈川県の検証委員会のほうにも県警本部の生安の総務課長さんに常時御出席いただいて、当然秘密会でやっております関係もあって、さまざまな資料でありますとか、いろいろな状況説明でありますとか、非常に丁寧にやっていただいて、今、そのおかげで非常に検証がはかどっているという面はございます。 ○山本座長 神奈川県では検証がはかどっているわけですね。 ○神奈川県保健福祉局長 おかげさまをもちまして。 ○山本座長 わかりました。 どうぞ。 ○窪田参考人 松田先生からの御質問で、だめなところはどうするのかというお話を思い出しました。委託したけれども、ちゃんとした成果を上げないところについてはどうするかについてです。自分が考えているのは、5年ごとに見直しをすることです。それぞれのところについてちゃんとやれているのか、そういったことを県の精神保健センターがモニタリングする。もしくは各自治体、市町村が委託を5年ごとに再契約をするというような形にすることによって、ちゃんと機能していないところは他に替わってもらうという道があるのではないかと思います。 恐らくこれが制度としてスタートすれば、かなりやる気になるところが出てくるのではないかと私は思います。逆に言えば、一つの地域で2つも3つもやりたいと言ったらどうするのかということがありますから、何年かごとに再契約し直すという制度が必要になってくるのではないかと思っています。 ○山本座長 ありがとうございました。 松田先生、よろしゅうございますか。 村上先生、どうぞ。 ○村上構成員 先ほど山本先生からも出たのですけれども、この間、私もグレーゾーンという表現で、これは警察が扱うべき事案なのか、医療が扱うべき事案なのかという、要するにはっきりとしない領域についてお話を伺いました。私自身、例えば日常臨床の中でも、当院は窪田先生のところと似ているのか、多機能型病院と言っていいぐらい問題な方ばかりがお見えになりまして、ほとんど警察の方がお連れになります。診断もやはり多様です。基本的には、すっきりと統合失調症という方はほぼおられません。多かれ少なかれ事件的なことを起こしておられます。 やはり我々自身も悩むのですね。多分この方を引き受けられた病院も悩まれたと思うのです。悩まれた経過はよくいろいろなところで調べていただいたものを見て、そのように悩んだけれども、やはりこれは受け��うと思っておられたということは随分我々自身も共感を持って追跡ができるわけです。ただ、この悩んだ過程に関して我々は共有できない。 日常臨床はそういうことで、お巡りさんが連れてこられるので、お巡りさんとはすごく仲がいいわけですけれども、悩んだときに、この意見の交換がどれぐらいできるかということが、やはりこういう難しい場面に対応するような病院は必ず必要になってくるので、ぜひ警察のほうも、悩んでいただきたいというのはおかしい話ですけれども、悩んでいただいて、そこの悩みの部分は共有していただきたい。その結果において、我々医療が引き受ける場合もあれば、お戻ししてそれは司法といいますか警察の方で対応する場面もあるのだろうと思いますが、その領域があるのだということは、非常に難しい場面をどのようにマネージしていくかにとって非常に重要なポイントになるのだろうと思います。よろしくお願いしたいと思います。 ○山本座長 ありがとうございます。 田中構成員、どうぞ。 ○田中構成員 私も窪田さんにお聞きしたいのですけれども、プレゼンテーション資料の中の6ページの「行政からの業務委託により対応可能に」という文言は、4ページの図全体に対しての提案なのかなと理解しているのです。今日お話しいただいた精神の分野の医療の伴った対応ということになるわけですけれども、ケースマネジャーと相談支援専門員がかかわる分野は、3障害だけではなく発達障害、難病にも広がった状況ですので、業務委託に関してのウエートは、ソーシャルワーク的に動く相談支援専門員を指しているのか、医療的な背景を伴っていることに対して業務委託と御提案なのかということについて御意見をお聞きしたいと思います。 ○山本座長 窪田先生、お願いいたします。 ○窪田参考人 ありがとうございます。 やはりチームとしては一部のソーシャルワーカーだけの業務というわけにいかないと思うのです。包括的なコミュニティーケアという意味では、この医療法人の中の医者もソーシャルワーカーも心理も看護も、それから周辺にある訪問看護ステーションとか、就労移行支援事業所とか、様々なところが一体的に機能していく必要があると思っています。 ただ、一般外来では鬱病や不眠症の人も大勢来ていますから、そちらについては直接かかわらないでしょう。より重層的な多機能な支援が必要な人たちを対象にしたセクションになっていくと思っています。 ○山本座長 よろしいですか。 ○田中構成員 一言だけ。私たちの提案としても、対応が難しい方の特性を理解した見通しを見立てていくということが非常に重要だと思っていますので、この一体的な機能について、窪田さんからの提案を受けて、今後の対策の中で強めていただければということで、今の御意見ですとなかなか分かちがたい部分があるということだったかと思いますけれども、これを参考にして、ぜひ何らかの形になるように検討、報告にも反映していただければと思いますし、政策にも取り込んでいただければと思っての意見表明です。 以上でございます。 ○窪田参考人 ありがとうございます。 ○山本座長 ちょっと話が飛んでしまったのですが、先ほど村上先生から御指摘いただいた点につきまして、警察からいかがでしょうか。 ○警察庁生活安全局生活安全企画課長 村上先生は以前からおっしゃっておられることは認識しておりますので、その趣旨は理解しているつもりではありますけれども、警察側も決して悩んでいないわけではありませんで、以前、ちょっと今数字を思い出せませんけれども、保護した中でも全て23条通報しているわけではないというお話もさせていただいたかと思います。あくまで23条におきましては、精神障害のために自身を傷つけ、または他人に害を及ぼすおそれがある、自傷他害のおそれがあると認められる者を発見したときは直ちにその旨を最寄りの保健所長を経て都道府県知事に通報しなければ��らないとございますので、そういう意味では真面目にやらせていただいているところでございますので、また導き等、よろしくお願いしたいと思う次第でございます。 ○山本座長 村上先生、よろしいですか。 ○村上構成員 そういう関係性をつくるのに、日々、我々、日常的には警察の方と連携をとってきて、やっと信頼関係ができてくるというプロセスがございます。だから、警察の方も一生懸命されていることは十分承知しているのですが、ただ、何回も言うように、グレーゾーンというかはっきりと判断が出ないような、幾ら専門家が見てもたった1~2時間の世界では信頼がつかない場面があって、そこだけで何かの決定を出さないといけないわけですから、そういうときにお互いの意見交換がフリーにできるようなことは非常に重要なのだと。精神鑑定で結論が出てくるのは、入ってくる情報量の桁が3つ違うぐらいの情報量の中で診断をしたり判断をするわけですけれども、実際の診療というのはもっと生きている状況の中で、時々刻々の中で判断するわけですから、お互いに100%正解な答えを出しているわけではないというところを共有していただければと思いました。 ○山本座長 ふだんからの密接なコミュニケートというものは必要だと思うのですが、今後そういう具体策みたいなもの、村上先生、ございますか。 ○村上構成員 私、司法精神学を専門としているので、私がまいりましてからそういう非常に難しい患者さんに関して、かなり丁寧なケア会議を開かせていただいて、その中に警察の方がお入りになることもあるし、それから、先ほどお話ししましたように、ほぼ問題な患者さんは地域にある意味ではそのままいます。問題が起こるたびに余り有効な手が打てずにおります。そこが少し医療という観点で入ることについて、私のほうからも手を出したところ、警察の方もすっかりと、それこそ対話ができるようになったというプロセスがございます。だから、医療とこういう困難な方の処遇に関することは、やはりお互いの歩み寄りなのだと思います。 それは例えば児相も出てくるし、保健所も出てくるし、相談機関も出てくるわけですが、やはり一番判断の難しいところは、手つかずにあるということの事実なのです。この事実を我々が認めて、何か手をそこに出していかないといけない。多分今回の相模原のケースだって、手を出し始めるとそんなに簡単にいかない。単に寄り添うといっても、非常に二面性があってどのように判断するのかわからない局面が多分あったのだろうと。そういう非常に難しい局面にある方が実際に地域に多くおられるということ、そこを我々はどのように医療なのか、司法なのか、対話をしていくということが重要なのではないかと思いました。 ○山本座長 ありがとうございました。 ほかはいかがでしょうか。 中原構成員、どうぞ。時間がありませんので、済みませんが簡単に。 ○中原構成員 今の村上先生のお話の中に出てきた警察との情報共有というのは、保健所としても一番大��なところだと思っておりまして、要は地域で保健所とそれぞれの地域の警察がきちんとそのような意見を共有できるような関係性をつくる。それもまた各全国の保健所の役割だと思っています。 司法のほうでも、そういったところを十分に認識していただけるように意識していただければと思っておりますので、これは警察の方にお願いです。よろしくお願いいたします。 ○山本座長 ありがとうございました。 警察の方、今の点について何かございますか。 ○警察庁生活安全局生活安全企画課長 私自身も先週、座長に御一緒させていただいて兵庫の取り組みを拝聴してまいりましたので、そうした形で保健師の先生方、あるいはお医者様方とのつながりというか連携が必要だと思っております。 ただ、余りこちらから言って、各いろいろなところがあろうかと思いますので、構築というのは一朝一夕には難しいのかなという気もしているところでございます。 ○山本座長 ありがとうございました。 最後に、幾つかの団体から障害者に対する差別や偏見をなくす教育が必要だと、そういう体制をとっていくのが政府として非常に重要なのだという御指摘がございましたが、これについて、文科省か、内閣府のほうがよろしいですか。何かちょっとこの取り組みについてお話ししていただけますか。 ○内閣府政策統括官(共生社会政策担当)付参事官(障害者施策担当) 内閣府でございます。 この事件、内閣府の取り組みということで申しますと、9月20日、第5回のこの場でも申し上げたことでございますけれども、うちの加藤大臣もやまゆり園を訪問するといったようなこと、それから、神奈川県との共催で障害者差別解消地域フォーラムに出席して、命の尊さ、あるいは共生社会の重要性ということで発信したところでございます。 内閣府のホームページでも、やまゆり事件に対する取り組みということで特設ページを設けまして、いろいろな取り組みについて一覧できるようにしております。それとともに、あと1カ月ちょっとたちますと障害者基本法で決められている障害者週間というものがあるのですけれども、今年は12月2日に内閣府でやることにしております。そういう中でも、改めて命の尊さについて考えるという形で、原点に立ち返ったようなテーマでパネルディスカッションのようなことも行うといったことで、いろいろな形で、今、久保会長もおっしゃっていましたけれども、とにかく当事者がいて、その家族がいて、お互いすごく大事な存在としているのだという、みんながある意味当たり前、本来それが当たり前だというようなところを一人一人の命の尊厳ということとあわせて発信することができればと考えております。 内閣府としては以上でございます。 ○山本座長 文科省、いかがですか。 ○文部科学省初等中等教育局特別支援教育課特別支援教育企画官 文部科学省でございます。 障害者理解の教育につきましては、実はこの会議の場でも折々重要性を指摘されておりまして、私ども、これから努めていきたいと思っております。 委員の皆様には繰り返しになってしまうのですけれども、現在の学習指導要領においても、障害者についての理解ということでいろいろな場面で障害のある子供たちと一緒に学習をしたりする場面を設けたり、あるいは道徳であるとか社会科の中で勉強するというのも盛り込まれていますけれども、現在、学習指導要領全体を見直しておりますので、その中でさらにとりわけ今度の改訂は、次のオリンピック・パラリンピックが東京であるタイミングでもございますので、それに合わせて障害者への理解等の充実をしていきたいと思っております。 1点、先ほど学校のモデル事業のような御指摘がありましたけれども、現在もそういったことをやっておりまして、現在、私どもで行っているのが、心のバリアフリー推進事業という通称で呼んでいますけれども、特別支援学校等において障害のある子供たちと障害のない子供と交流する場を設け、スポーツを題材にして、例えばパラリンピアンを呼んできて講座を聞くとか、障害者スポーツを一緒にやるとか、そういった場面を活用して行う委託事業をしているところです。 今、概算要求ではそこに文化の事業についても使えるように活用しようと思っていまして、これからもこうした形で事業を進めていきたいと思っています。 ○山本座長 よろしくお願いしたいと思います。 それでは、時間になりましたので、本日の議論はここまでとさせていただきたいと思います。 最後に、事務局から今後の日程などについて御説明をお願いいたします。 ○厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部精神・障害保健課長 次回の日程につきましては、追って御連絡をしたいと考えております。 また、先週24日、兵庫県の取り組みの視察をしておりますけれども、その内容につきましては、次回説明をしたいと考えております。 配付した資料のうち、ドッチファイルにつきましては、机の上に置いていただきたいと思います。 事務局からは以上です。 ○山本座長 ありがとうございました。 本日はお忙しい中、長時間にわたりありがとうございました。 また、各団体の方には、貴重な御意見をいただきまして、本当にありがとうございました。 それでは、これをもちまして、第7回「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」を閉会したいと思います。どうも長時間にわたりありがとうございました。 (了)
相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム(第7回)議事録(2016年10月31日)|厚生労働省
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女士
���十年后,广陵王的末路,一个食人故事。含重要人物死亡、尸体和血腥内容。
因为广陵王的亲王身份认为广陵王姓刘,本篇用刘广陵做代称。
刘广陵已经到了她权力生涯乃至人生的末路。南征接连惨败,她带兵渡江退守广陵。下坯与魏军相持尚难自顾,扬州至广陵的漕运被吴军控制无力支援。刘广陵开春带兵南下,六月渡江时粮草已经紧困,吴军乘胜而追,并不攻城,只在城外十里驻扎,再每日到城下喳喳喝喝叫一番阵。
广陵围困四月,城中屯粮已经见底,米汤掺了一茬又一茬水,常有士兵挨不住甲衣昏厥过去。九月她下令杀战马充饥,到十月城中已无马可食。城中饿殍遍地,室中仅余浮肿的大肚孩子和干枯的父母。军队据守广陵之初就散播了吴军叫嚣要屠城的恐吓,而今一切铁器和粮食早充作军用,人民已经错失了起义的机会。
刘广陵此时已经五十多岁,衣着言行与任何一个同龄男人无异,甚至惯于自称老夫。虽仍以男人的面目示人,却不再裹胸,肆无忌惮地向世人展露她作为女人隆起的乳房。如今全天下都晓得这个手握权柄的旧亲王是个女人。当她拥有土地和政权时,自然就被人们划分到掌权者这一特殊的性别中,人们不在乎她是否胸前坠着乳房、下身有没有可使女人受孕的交合器;当她失势时,女人的身份就重落回到她身上,成为对方羞辱她的把柄。初入十月的一个下午,她正无所事事地坐在堂中——如果在战争初期还有运筹帷幄的说头,挨到今天,可预见的结局只有士兵倒戈杀了她再开城请降这一个。她的脑袋,要么由她亲自献给孙吴,要么由手下的军队割下再献给孙吴,总之,一颗已经不属于自己的头颅,但姑且还安放在她脖子上,可以随意转动和考虑。下属再一次呈上捆着劝降书的箭矢,她打开发现一块织着女人衣服时兴花样的绸缎,夹着一页纸,左不过一些废话。
她拿起来平静地读了。饥饿,即使已经得到城中最充足的供养,她也依旧腹中空空,在简单的生理痛苦面前,这种低级的羞辱已经不能撼动她。不仅饥饿,城中水流已被吴军截断。一应用水都指望着仅有的几口水井,由于死尸污染,即便已依华佗的指示填埋和煮沸,基本饮水依旧成问题,更不消说保持洁净了。没饭吃没水喝,干渴和饥饿使她脑袋发昏,她随手抛了那块布头,走出几步,忽然听见雷声,天快速阴沉下来,开始下暴雨。廊下几个侍女走出来呼喊着到天井接水。她叫人取来蓑衣和笠帽,牵来她的马——广陵城中最后一匹——慢吞吞往城墙去了。
登上城楼,刘广陵隔着雨帘观望远处的吴军营帐,又走下来察看在城墙上值守的兵士。暮秋的冷雨中,挨饿已久的士兵们缩在城垛后打战,疲软地答她的问话。她一路走过去,从一个角楼到另一个角楼,最终无声地沿着湿滑的步踏下了城墙,慢慢牵着马回到府上。院中已经摆了几口大缸接雨水,侍卫上来接过缰绳和马鞭,说左仙人已等候多时了。
她往客堂走,看见左慈立在堂中的身影。
刘广陵已经二十多年未与左慈相见,不想他忽然不远万里地拜访。她行过礼抬头,入眼一张几十年青春不改的面孔。从她的母亲,到她在隐鸢阁度过的幼年,尔今她已五十余岁,揽镜自照时望见一个已逾天命之人的老脸:白发,褶皱,松弛耷拉的皮肤和乳房,手背上的褐色瘀瘢,无不显示这个女人已迈入暮年,加之多年来浸淫其中的权力,都使她难以坦然地把一个青春美丽的人叫成师尊。最终她说:左君。也许吃惊于她的疲态,左慈翕动嘴唇几欲说些什么,最终只是点头。
左的到来并不使她快活,除刚听见通传时的吃惊,至多有些茫然的不忿。她知道左是绝无可能会使用超人的力量帮她赢过战争的,或许出于世交的情谊,他已算出她死期将至,等着来替自己收尸。旧师徒在为左慈安顿的住处对坐,小心来往了几嘴干巴的寒暄,左慈忽然问,设若一切依你的心意,你愿意寿数几何呢?
自然越久越好。
多久算久?左慈反问,俄尔又说:常人百又二十就长寿得稀奇,二百岁已经近妖,彭祖寿数八百岁,应该算非常久了,但没听说有谁许愿活得像他一样长。
噢,那我猜是,凡人想到八百年前尚觉得久远得可怕,哪里敢许愿八百年后的事呢?
看来你并不喜欢长寿。
长命百岁的事痛不痛快,想来左君最有心得了。
尚不至心得,人多少岁自有多少岁的活法。
刘广陵抚掌大笑:左君好大闲,特地来我广陵论道。
……我来迟了。
不晚。眼下广陵粮尽援绝,献降指日可待,老夫愿请左君为我敛尸。
恐怕你正恨我。
得亏左君早辟谷了的,不然老夫实在难招待。她冷笑说。徒弟眼下腹中空空,正恐惧忽然辘辘几声闹了左君雅兴,先行告退了。
等等!
左慈撩住衣角呼啦一下站起来。
她于是站住问:左君可知广陵能撑到何时?
左慈不回答。
她又问:左君可知吴军进城后将如何?
左慈不回答。
她再问:左君可知吴军将拿孤如何?
左慈不回答,用淡绿色的、非人的眼睛望着她,过了许久说:
余思虑不周,想来你早饿极了才如此。你许多遭遇,是为师之过。且待余找些吃食来,明日再说吧。
广陵于是冷笑着拂袖走了。
入夜侍女来传话,说左君���门叫不开,请她去看看。她起来整顿衣裳,推门出去,侍女提着灯为她照路。白天下过雨,石板地上积水如鉴,映出彤彤的火光。她走了一阵,发觉脚底已有些湿了,一行人浸水而变得沉重的鞋底踩在地上,发出一片踏踏声。
左的住处不远。她走入院中,出于莫名的预感,屏退了侍从,独自推门进去。
绕过屏风,撩起帘子,昏���的榻上卧着一具开膛破肚的尸体。脏腑从刀口中鼓鼓地挤出来,散了一床,血浸透棉褥,手撑上去就按出一个小小的血洼。她扭身从灯架上拔下一根火烛,伸进帐里仔细照着看,啊,原来死的是左慈。
他手中还握着一枚卷刃的匕首,想来是自己把自己切成这样的。刘广陵忽然明白左慈所说的吃食究竟是什么。倘使姬晋可以吃下仙胎成为左慈,自然凡人刘广陵也可以大啖仙人的五脏而得道。自此,什么凡人的纷争就一概与她无干了,只需要远远抛下广陵城,飞回西蜀,自然还有一个阁主的位置等待。
她把灯架挪近,在忽闪忽闪的火光中,割开仙人的肚腹扯开,逐个切下仙人的肝、肾、胃、肠,劈开胸骨,割下仙人的肺叶,掏出仙人的心脏,剔肉取髓。永生,永生是馨香的,仙人的血蒸腾在空气中,竟然是梅香。
夜半华佗被人从梦中推醒,睁眼看见广陵披头散发地坐在榻边。灯火昏暗晃荡,他又刚从梦中起来,眼睛迷迷怔怔看不清楚,只瞧见她手中拿着一碗汤水,举着一枚调羹。他亦随军饿了百余天,勺子戳到嘴边便迷迷糊糊张嘴喝了,被辣醒。汤里兑了好些酒水和辣椒,颜色黑乎乎的看不清楚,华愤而问:你给我喝的什么东西!
这是麒麟血。广陵说。
麒麟血?
是,你快喝了,我还有肉给你吃。
华佗饿极,一听肉,立即劈手夺过汤饮尽了,哀哀地等着上肉。刘广陵果真端来一碟肉片,他急切地上手抓来吃。滋味并不美,有些油脂,但烤得过火候,焦糊糊的泛着苦味。他吃完揩着嘴说:这是什么肉,就是焦了些还少味道,再捏撮盐才好。
这是龙肝。广陵说完就不再开口,又默然地端来一盘:这是凤髓,吃罢。
这都是什么名字。华佗笑着接过筷说,从盘中黏糊糊的一滩中捞出几段猪皮一样的吃了,没什么味道,只是腥。
还有什么?他用衣袖抹掉油说。肚里有了油水,就产生起关爱别人的意思,想起来问广陵:你吃过了么?
吃过了。想起表哥,来给你送些。
多谢了,咱们也算同生共死一回。
连累你了。
看来是命该如此,我无可怨。你也知道,哪怕这回不死,想来以我的身体也不远了,能活到今天实在已经不敢想。
广陵只端来一盒肉片,叫他叉着吃。
这又是什么?华佗问。
心。
什么心?
仁心、慈心、忠心、悲心、贪心,都有一些,你尝尝罢!
你说得倒怪。他说。
他就吃了:仁心、慈心、忠心、悲心、贪心,只尝出咸味。肉片用了太多盐腌渍,吃得华佗饮了几大口白天新接的雨水,喝得太急,又呛得咳嗽了一番。广陵拍着背帮他顺气,又扶他躺下。
他很快又睡着了。再醒来已经变天,广陵自开城门请降,吴军兵不血刃进入城中,惊恐的百姓很快随着他们的安抚和放粮镇定下来,广陵王被押往建业,十万士兵卸甲划在城南等待收编。一支吴军被拨去占领王府,查至一处院落时嗅见腥味,派人过去瞧,推门一阵冲鼻的血气,众人难忍地掩住口鼻。一个胆大的士兵闯进去,看见内室榻上有一具拆得七零八落的尸体,没有头颅,脏腑遗失不见。因为此事,吴军中很快生出广陵围城之困至于食人的传言。
孙权留广陵王软禁在建业,华佗使了些手段意图看望都不成。经此一战,南方太平了不少,他索性云游去了。又三年,听说她被鸩杀的消息,只有长叹遥拜。
长生的显示是个漫长的过程,起初几年他毫无知觉,到再见十年前的故人,才从对方的惊叹中明白自己的不老。当年所吃究竟是谁的血肉,已经无人可问,华于是只坦然自在地活着。
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2024年4月22日(月)

私の職場(私立女子大学)では、今日から前期授業が3週目に入る。主担当の<スタディスキルズ>は1年次必修科目、2人の教員がペアとなって同時進行することから、協力して先週末に全クラスの出席状況を調べてみた。すると、例年のことではあるが2週連続欠席しているものが数名いる。事情はそれぞれあるだろうが、大学生活に馴染めないのなら決して無理することはない。教室に来られないのなら、カウンセリングルームを利用するだけでも良い。少しでも心を開いて、新緑の風を感じてもらいたいものだ。

5時起床。
洗濯。

朝食は、昨晩の寿しの残りを頂く。
珈琲。
弁当*2。
1人で出勤。

順調に到着する。
mac mini を買い換えたので、今使っているものの Apple Care + の解約手続きをする。相変わらず apple のサポートは早くて丁寧、結局残り半年で¥1,777の返金となった。
京都市大型ゴミセンターに申し込み、来週月曜日に炊飯器を回収して貰う。
<スタディスキルズ>第3週の資料を印刷する。
<情報機器の操作Ⅰ>第3週の内容チェック、sampe兄の用意してくれた資料を確認する。
月曜日3限・4限は<情報機器の操作Ⅰ(看護学科)>、10分間の入力練習、ファイルの提出方法を学内フォルダ・メール添付・Classroomの3種類を解説・実践する。最後には<研究倫理eラーニング>の説明、個人登録してユーザIDとパスワードの発行、使い方の解説、次回に「修了証書」を提出してもらう。

順調に帰宅、ずいぶん燃費が良い。
コレモ七条店で買物、トマト・ミニトマト・レタス・コロッケ。
ツレアイは月1のテディベア作りから帰宅、一緒に夕飯を頂く。

月曜日が終わればホッとする、少し贅沢だがジョージアワインをいただく。
録画番組視聴、「らくごのお時間」から笑福亭鶴光「西行鼓ヶ滝」。
舟を編む、(10)
初回放送日:2024年4月21日 「大渡海」校了直前、松本先生(柴田恭兵)が入院する。すぐにまた会えると信じるみどり(池田エライザ)たちだったが、新型コロナウイルスで世界が一変。暮らしが大きく変わる中、馬締(野田洋次郎)のある問いかけが、辞書編集部に衝撃を与える。一方、客足の途絶えた店で、香具矢(美村里江)もある決断をしていた。十数年の時をかけた辞書作りは、彼らに何をもたらすのか。令和の「舟を編む」の結末がここに…!
原作は素晴らしいが、今回の脚本もとても新鮮で楽しかった。
片付け、入浴、体重は250g減。
少し遅くなったので、日誌は明日の朝にする。

何とか3つのリングクリア。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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二,稳坐太师椅的大上海
记得电影《战上海》里有这么一句精典台词,"向大上海进军!",这声音仿佛是一声晴天霹雳,敲响了老上海的丧钟,紧跟着维系这座城市的一切旧秩序迅速土崩瓦解,此时新政权正以摧枯拉朽之势横扫全国。社会变迁不是头一次,更不是最后一次,历史上曾发生过无数次,而每次的社会巨变所带来的地动山摇,其威力犹如火山爆发一样。对身处火山口的平头百姓而言,时代的一粒灰,落在个人头上,就是一座山。
那一年,母亲正值豆蔻年华,这是一个对世界充满好奇和幻想的年纪。当时她根本没料到自己的家庭正跟着老上海,跟这个旧制度一起走向瓦解。外公跟着蒋家王朝一起去了台湾。他是什么时候走的?是坐飞机,还是坐船走的?母亲根本不知道。记得龙应台写的《大江大海1949 》里有这么一段话:"所有的颠沛流离最后都由大江走向大海。所有的生死离别,都发生在码头——上了船,就是一生。"
对母亲身上隐忍不言的隐痛,我曾不止一次的问过她,答案其实我早就听得滚瓜烂熟。不过这次我又忍不住提起这件事情。母亲的回答照旧没出乎我的意料之外,外公走的时候她还是个孩子,她哪知道在她周围正发生着一场巨变,一场改变千千万万人的命运的大革命。不过,我的这番话,反倒引出她的另外一段回忆。外公走后,外婆带着三个还在上学的孩子一起生活,生活断了来源,只能靠过去的学生、同乡和旧友的帮助,靠变卖家产度日,家里所有的佣人都各奔东西。有一天,过去一个年龄最小的女佣兴冲冲跑来我家,趁外婆不注意的当口,拉着母亲就往门外跑,一直来到我家对面的霍山公园里。然后,她气喘吁吁从兜里掏出钱来,畏畏缩缩的说,"四小姐,这是我在外面刚赚来的一点钱,分给你一些。"这时母亲才恍然大悟。她记起前二天也有另外一个女佣,把一枚金戒指偷偷塞给我的三姨妈,结果却被外婆发现给退了回去。原来这个鬼丫头是怕被外婆发现,才把母亲拉来了这里。母亲忘了自己到底拿了她多少钱,反正钱不多,最后都交给了外婆。母亲讲述这段往事的时候,说话的声音并不流畅,说到一半,她把脸朝向了窗外,眼睛里泪光莹莹,最后她又喃喃的加了一句,说:"她才比我大3岁——这一别,我再也没见到过她。"这句话虽然比刚才的平缓,但看得出她的心绪并不平静。在她眼里,自己的家和老上海一样天崩地裂,可是人与人之间那份风雨故人来的情谊,足足温暖了她大半辈子。
从此母亲的人生轨迹彻底的被改变。鉴于家里的特殊背景,我在北京空军总医院当医生的二姨妈只准许母亲学医,这一看似不近情理的要求,却意外成就了一段良缘佳话。后来母亲跟在同一家医院当外科医生的父亲认识,恋爱、结婚、最后生下了我和弟弟。我们兄弟俩一直在父母爱的怀抱里,过着我们那个时代十分幸福快乐的生活。
母亲告诉我,我是在他们医院的妇产科呱呱堕地的。这是一个上海的早晨,不过这个早晨有点特别,阳光灿烂,和煦温暖,还有一声声响彻云霄的海关报时钟声,都像是在专门来迎接一个小生命的到来。父母的医院离海关大楼只有二个街区,医院四楼的手术室甚至跟海关的报时钟遥遥相对。母亲冲着我微笑,笑得满心欢喜,这是她人生中第一次收到的最美的礼物。
今次回上海,我有几次路过这家医院,可是医院早已人去楼空,整座医院都搬到南浦大桥附近一个更大,更气派,更现代化的新址。而医院原址的二幢大楼(住院部和门诊部)——以前的三菱洋行大楼和美孚洋行大楼,都被列入上海市优秀历史建筑加以保护。现在这二幢具有欧洲古典主义建筑风格的大楼大门紧闭,里面一片死寂,仿佛这里从未发生过人世间的生老病死,悲欢离合的故事,一切都显得冷冰冰的庄严肃穆。
从医院出来,走一个街区便到了外滩。行走在外滩街头,心情即轻松又沉重。过去我每天上下班都要走这条路,那时的路上尽是行色匆匆的上班族,哪像现在到处都是无所事事的游客。当我走近海关大楼的时候,似乎有一股力量,让我情不自禁地放慢脚步,在海关门前伫立徘徊。或许我是想再听听曾陪伴我成长的钟声,还有那黄浦江上的阵阵气笛声。可是一切都是枉然,眼前所见到的景致还是原来的样子,可是一切又不是原来的,不复当年的熟悉和亲切,我也不再是当年的模样,一切都随着翻涌的黄浦江水汇入了大海。
我极力想寻找那些曾熟悉,曾热爱过的东西。于是我在街上边走,边看,边找,可是找来找去能跟我那个时代沾上边的只剩下八十年代建起的几幢宾馆大楼,一些店铺的商招。吃的似乎多一些,光明牌冰砖、大白免奶糖、梅林午餐肉……那个时代留给我们看得见,摸得着的东西实在太少了。
我又在记忆深处去寻找,蒙蒙笼笼一大片,而真正刻骨铭心的就这么几件。这些记忆远远近近跨越了数十年。就拿最远的来说吧,我小时候常常看见外婆暗自垂泪。每当这时,我就算玩兴再大,都会乖乖的来到外婆身边,用一双稚气的眼睛看着她,可是不一会儿,我把自己也看哭了。外婆三个最心爱的男人,一个在海峡那一头,一个发配去了宁夏当中学教师,只有我陪在她身边。我是她最亲的人!
比起我们的遭遇,世上不幸的人实在是太多太多了。上世纪七十年代,父亲带领一支上海市医疗队去江西玉山县,参加为期一年的血吸虫防治(切脾手术)。回来之后,有一次我对吃的挑三拣四,父亲就严厉的告诉我,说:"你这孩子还在这里挑肥拣瘦的,真应该带你去农村看看。你简直不能想象江西山区的农民有多么的贫穷,很多人所谓的家只能用‘家徒四壁’来形容。"当时父亲说话的那种表情,我至今都难以忘怀。
时间到了80年代改革开放,上海才开始慢慢恢复往日的繁荣。我也长大成人,组建了自己的家庭,有了一个可爱的女儿。整个八十年代是我四季人生中的春天,也是我们这一代经历过的最开放包容的时代,至今想起来还热血沸腾。可是在八十年代行将结束的最后几天,我离开了上海,因为我向往更高远的天空,和自由自在的飞翔。
人的记忆是无限的,又是有限的。记忆可以穿越古今,跨越国界,所以说它是无限的。有限是因为记忆会随着时间而变得模糊,甚至遗忘。所以人的记忆要靠回忆不断去强化,用照片帮助回忆,还可以通过过去的一景一物,唤醒尘封中的记忆,当然文字的记载要远胜于人的记忆。这次我在一大堆的书籍杂志里翻找出一本1992年第9期的《读者文摘》,里面有一篇《大上海,你还背得起中国吗》的文章,是二位广东记者深入上海街头的采访,今天读来依然觉得恍如昨日。
文章开综名义写道:"在中国有这么一个地方:如果把全国的土地分成一万块,它只占6块,然而它的工业产值却占全国1/13,财政收入占了全国的1/10。奔驰在全国城乡的自行车每5辆就有1辆是这里生产的,每5只国产手表有1只产自这里,区区弹丸之地,竟创造和结累着如此巨大的财富。这个地方就是上海。"文字是呆板的,数据是枯燥的,不过这也反映了一个事实,上海在中国经济中绝对占有霸主地位。
"大上海是以其规模大,门类齐全的轻、重工业,名副其实的中国经济火车头而蜚声中外。被人称道的是上海产品,上海产品以设计新颖,经久耐用而名扬天下,永久牌、凤凰牌自行车,上海牌手表,蝴蝶牌缝纫机,红灯牌收音机,蜂花牌香皂,中华香烟,英雄牌钢笔……那时印有‘上海’二字的旅行袋,跟今天提着印有‘香港’字的旅行袋一样时髦…… "
再看看当时的上海人是如何生活的。记者采访中写下了几则有趣的小故事。
"我们来到南市区学院路,这里是居住条件最差的棚户区之一,用碎砖、木板、杉皮搭起的临时建筑物,一"临"就是几十年,东倒西歪,一片浪藉。主人们是在屋里一层又一层地躺着,一见有生人来,"呼"地从四面八方伸出十几个脑袋。听说是记者,"哗"地在石子街口围了几圈人,都拉着扯着往自家屋里拽,好像我们是分房的救星,"请看看阿拉这房子,8口人住14平米每人不到2平米。""全国都进入现代化了,家家冰箱彩电洗衣机,可我们还是中世纪!阿拉不是买不起,连人都没地方蹲,你叫这些东西往哪蹲?"一个戴眼镜的知识分子模样的男子忿忿地说……
蓬莱路一憧"石库门"小楼,里面住了十几户人家,"楼道陡窄,暗无天日,一个急转弯跟着一个急转弯,一个拐弯就是一户人家,行走要侧着身子,但依然磕磕碰碰,热烘烘的煤饼炉——盖也盖不严实的马桶,一户一个煤饼炉,一户一个马桶,一股股刺鼻的说不清道不明的气味,诉说主人们的窘迫。"
"3平方米的晒台已改做住房,结结实实地充塞着一个二三十岁的大小伙子,还没结婚,说是找房子比找老婆还难,这辈子不知道有没有希望。怪得很,坐在这3平方米的空间你没有想要赶紧逃开,那一尘不染的绸缎窗帘悠悠地飘着,挂在墙上的吉他、壁画、摆在床头的书刋、咖啡、咖啡伴侣、高脚玻璃杯……一切都那么精致,那么有情调。叫人想起一句话:‘螺丝壳里做道场。’ "
"走在大街上,有一种景观很让我们惊讶,青年人都在大街白炽灯下,公共汽车里卿卿我我,旁若无人,比西洋人还西洋人。我们笑说上海人特别多情缠绵,可陪同采访的Q君充满同情地说,那是因为家里几代同堂,市区里公园又少,青年人被驱赶到大街上搂搂抱抱了。外滩是年轻人谈恋爱的圣地,密密麻麻一步一对情侣,各顾各亲热,互不干扰,去晚了还占不到地儿,于是有‘经纪人’早早吃完晚饭赶到那儿,占一个好位子,见姗姗来迟的情侣到了,伸出两个指头:‘两元钱’一个座位,阿拉饭没吃好,坐了一个钟头,要算劳务费也是挺便宜的哦。"
二位记者进入一家商场,购买市面上紧俏的琥珀桃仁。"‘要几包?’精精瘦瘦的男服务员远远地吊过来一句话。‘要二包’我们举起两根手指,否则他听不见。‘ 6元,要不要找钱?’他依然没有挪动,又吊过来一句话。‘要找1元钱’我们扬扬手中的7元钱。好了,他满意了,提了两袋琥珀桃仁过来,收款,交货,未了解释一句:‘否则我要走三次’ "楞了一会,二位记者才回过神来,感叹道:"连自己走路的步子都要数清楚的人真是绝了!"上海人"精明不精明呢?小家子气不小家子气呢?"
二位广东记者写得是不是事实?当然是事实。不过上海人的生活窘迫并不是他们的错。"解放后几十年的风风雨雨中,上海咬紧牙关担起了‘养家糊口’的重任,从1953年到1988年,上海累计为国家完成财政收入4725亿,提供全国使用的国民收入2963亿,为国家出口创汇658亿美金…… 1979年到1988年,上海提供给全国的国民收入总额可以再建两个上海这样规模的工业基地。"原来上海改善民生的钱都用去支援了全国。
虽然记者写得都是事实,但在上海人眼里记者所写的还是不够客观。上海远非他们笔下那么的不堪,居住条件,生活条件好的大有人在。不过,这也不能全怪他们,就连土生土长的上海人写上海都会顾此失彼,更别提走马观花来上海一趟的外地记者。但不管怎么说,他们看待上海的视角很独特,那就看人,从许许多多普普通通的上海人身上,去了解一个真实的上海,不管是光鲜亮丽的市容,还是龌龊不堪的角落。说句难听的实话,你只有在尘埃里才能看得见蝼蚁们的生活。
八十年代前的上海乏善可陈,以后这十年,上海在复苏,但婆婆妈妈太多,政策束缚太严,纵然有十八般武艺,都难以施展拳脚。其实一部电视剧《繁花》形象地还原了当时和后来厚结薄发的上海,也给大上海作了一个精彩的诠释。不过王家卫还是承袭李安导演的电影《色戒》的老路子,底色完全是老上海灯红酒绿,奢华排场的那一套,华美、绮丽、绝色,光影,流光溢彩,霓裳���纷,俊男美女。想想也是,没有老上海这些乱花迷眼的底色,这部电视剧就得大打折扣,说到底还是老上海的那套深入人心。
《繁花》拉开了上海起飞的序幕,不过老大的位子也开始岌岌可危,就像大上海的出现,老上海便要退出历史舞台一样。有中央的政策支持,老大终于可以轻松一点,甩开膀子去开创一个崭新的上海,一个充满魔幻的上海。
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感傷
H:文人的感傷既長且深,一個秋,可長篇如韓愈「秋懷詩」,如梭羅「散步」。一般人只能望字興嘆,而且有興致的讀下去。納蘭性德「人生若只如初見,何事秋風悲畫扇。」自己的思念,扯到秋風卻成名句。詩人散步,寫千古名句,一般散步,回來會說「好熱」就没下文。張愛玲:「不知道,是什麼讓自己滄桑,不明白,是什麼讓自己撐起,才知道人生短暫,而生命的路途還是那麼遠。」宋.無門慧開「春有百花秋有月,夏有涼風冬有雪;若無閒事掛心頭,便是人間好時節。」年輕太閒易生事,要在忙中取閒。老一輩的人笑年輕人太閒要當仙,道行尚淺有可能成仙嗎?年紀大想太多易生病,要在閒中取得規律的生活。想太多,無彩工。宋周邦彥「此時情緒此時天,無事小神仙。」清 錢德蒼《解人頤》「一生風月且隨緣,窮也悠然,達也悠然。日高三丈我猶眠,不是神仙,誰是神仙?」能閒能睡就是福,日高三丈我猶眠賽神仙「貧惰仙」。晨4:45起,太閒,查感傷相關!20250525W7
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秋懷詩
作者:韓愈 唐本作品收錄於《昌黎先生集》《秋懷》詩十一首,《文選》詩體也。唐人最重《文選》學,公以六經之文為諸儒唱,《文選》弗論也。獨於李並阝墓誌之曰:「能暗記《論語》、《尚書》、《毛詩》、《左氏》、《文選》。」而公詩如「自許連城價」,「傍砌看紅藥」,「眼穿長訝雙魚斷」之句,皆取諸《文選》,故此詩往往有其體。多自感,其趨尚不與世合,故末章有「避語阱」、「觸心兵」之句,繼又以霜菊自嘆,可見一時直道之不容也。
姊妹計劃: 數據項
窗前兩好樹,眾葉光薿薿。[1]秋風一披拂,策策鳴不已。微燈照空床,夜半偏入耳。愁憂無端來,感嘆成坐起。天明視顏色,與故不相似。羲和驅日月,[2]疾急不可恃。浮生雖多途,[3]趨死惟一軌。胡為浪自苦?得酒且歡喜。
白露下百草,蕭蘭共雕悴。[4]青青四墻下,已復生滿地。[5]寒蟬暫寂寞,蟋蟀鳴自恣。運行無窮期,稟受氣苦異。適時各得所,松柏不必貴。
彼時何卒卒,[6]我誌何曼曼?[7]犀首空好飲,[8]廉頗尚能飯。[9]學堂日無事,驅馬適所願。茫茫出門路,欲去聊自勸。[10]歸還閱書史,[11]文字浩千萬。陳跡竟誰尋?[12]賤嗜非貴獻。[13]丈夫意有在,[14]女子乃多怨。
秋氣日惻惻,秋空日淩淩。上無枝上蜩,[15]下無盤中蠅。豈不感時節,耳目去所憎。[16]清曉卷書坐,南山見高棱。其下澄湫水,[17]有蛟寒可罾。惜哉不得往,豈謂吾無能。
離離掛空悲,戚戚抱虛警。露泫秋樹高,[18]蟲吊寒夜永。斂退就新懦,趨營悼前猛。歸愚識夷塗,[19]汲古得修綆。[20]名浮猶���恥,味薄真自幸。庶幾遺悔尤,即此是幽屏。[21]
今晨不成起,端坐盡日景。蟲鳴室幽幽,[22]月吐窗囧囧。[23]喪懷若迷方,浮念劇含梗。塵埃慵伺候,文字浪馳聘。尚須勉其頑,王事有朝請。[24]
秋夜不可晨,秋日苦易暗。我無汲汲誌,何以有此憾?寒雞空在棲,缺月煩屢瞰。[25]有琴具徽弦,再鼓聽愈淡。古聲久埋滅,無由見真濫。[26]低心逐時趨,[27]苦勉只能暫。��如乘風船,一縱不可纜。不如覷文字,[28]丹鉛事點勘。[29]豈必求贏余,所要石與甔。[30]
卷卷落地葉,隨風走前軒。鳴聲若有意,顛倒相追奔。空堂黃昏暮,我坐默不言。童子自外至,吹燈當我前。問我我不應,饋我我不餐。退坐西壁下,[31]讀詩盡數編。作者非今士,相去時已千。其言有感觸,使我復淒酸。顧謂汝童子,置書且安眠。丈人屬有念,[32]事業無窮年。
霜風侵梧桐,眾葉著樹乾。空階一片下,琤若摧瑯玕。[33]謂是夜氣滅,望舒霣其團。[34]青冥無依倚,飛轍危難安。驚起出戶視,倚楹久汍瀾。[35]憂愁費晷景,日月如跳丸。[36]迷復不計遠,[37]為君駐塵鞍。
暮暗來客去,群囂各收聲。悠悠偃宵寂,亹亹抱秋明。世累忽進慮,[38]外憂遂侵誠。強懷張不滿,弱念缺已盈。[39]詰屈避語阱,冥茫觸心兵。敗虞千金棄,[40]得比寸草榮。知恥足為勇,晏然誰汝令。[41]
鮮鮮霜中菊,既晚何用好。揚揚弄芳蝶,[42]爾生還不早。[43]運窮兩值遇,婉孌死相保。[44]西風蟄龍蛇,眾木日雕槁。由來命分爾,泯滅豈足道。
《木蘭詞·擬古決絕詞柬友》納蘭性德
人生若只如初見,何事秋風悲畫扇。
等閒變卻故人心,卻道故人心易變。
驪山語罷清宵半,淚雨零鈴終不怨。
何如薄倖錦衣郎,比翼連枝當日願。
「無事是貴人」這句話的意思是,心中沒有煩惱、無罣礙的人,才是真正的貴人。 聖嚴法師曾解釋說,這種人不會計較個人利害,對所有的人都有幫助,就像幫助他人脫離苦海一樣。
宋 周邦彥《鶴沖天》(溧水 長壽鄉 作):
「梅雨霽,暑風和,高柳亂蟬多。
小園臺榭遠池波,魚戲動新荷。
薄紗櫥,輕羽扇,枕冷簟涼深院。
此時情緒此時天,無事小神仙。」
清 錢德蒼《解人頤》
「小門深巷巧安排,沒有塵埃,卻有莓苔。
自然瀟洒勝蓬萊,山也幽哉,水也幽哉。
東風昨夜送春來,才見梅開,又見桃開。
十分相稱主人懷,詩是生涯,酒是生涯。
一生風月且隨緣,窮也悠然,達也悠然。
日高三丈我猶眠,不是神仙,誰是神仙?」
「懶惰」在閩南語裡有多種表達方式,例如「貧惰」(pîn-tuānn)、「懶屍」(lán-si)、或者「懶惰蟲」(pîn-tuānn-thâng)等等。 其中,「貧惰」是最常用的詞彙,表示懶惰、不勤快。
具體來說:
貧惰(pîn-tuānn): 表示懶惰、不願意工作。
懶屍(lán-si): 表示懶洋洋、無精打采的樣子。
懶惰蟲(pîn-tuānn-thâng): 比喻懶惰的人。
【臺灣唸謠】貧惰仙
貧惰仙,貧惰仙,
一天過了又一天,
身軀無洗全全鉎。
走去溪仔邊洗三遍,
毒死烏仔魚數萬千。
貧惰骨
釋義
名詞 懶骨頭、懶惰蟲。
第1項釋義的用例:
彼个貧惰骨,日頭曝尻川矣閣毋起來。
貧惰(pîn-tuānn): 泛指懶惰.
貧惰仙(pî-tuānn-sian): 類似「懶惰仙」的說法,帶有幽默、戲謔的意味.
懶屍(lán-si): 形容懶洋洋、倦怠的狀態.
懶屍骨(lán-si-kut): 類似「懶惰蟲」的說法,強調懶惰的程度.
乞食仙(khit-tsia̍h-sian): 類似「懶惰蟲」的說法,比喻懶惰成常.
荏懶(lám-nuā): 形容懶惰.
畏懶(uì-lán): 形容對工作或活動的厭倦和不願做.
維基文庫
翻譯:散步 (梭羅)
語言
監視
編輯
散步
作者:亨利‧戴維‧梭羅
1861年於美國
譯者:維基用戶
漢語譯文借鑒了以下書籍:
1.(簡體中文)亨利·梭羅 著,台灣藍色瓶子文化編譯小組 譯. 《山·湖·海》[M]. 文學新象系列. 北京:中國對外翻譯出版公司. 2000年1月第1版. ISBN 7-5001-0655-6.
2.(簡體中文)瑪麗·奧斯汀;梭羅 著,朱筠;龔燕靈、祝秀波 譯. 《少雨的土地 漫步》[M]. 美國自然文學聖典. 桂林:漓江出版社. 2009年8月第1版. ISBN 978-7-5407-4618-6.
修改譯文後,請在討論頁註明原因、增補校勘記或直接用模板:參添加註釋。
我願為自然、為絕對的自由和野性代言,而與此形成對照的自由和文化只是文明些罷了——為了將人類視為自然的居民或重要部分,而不是社會的一員。 我願作出極端化的陳述,若是這樣的話,我就可以作出強調性的陳述,因為文明的衛士夠多了:牧師,以及學校委員會,還有你們每一個人都會小心保護它。
在我的人生歷程中,只遇過一兩個理解散步之藝術(即走路之藝術)的人——他們可謂有saunter(法語:逍遙信步,悠遊)的天賦:這個詞完美地源於“中世紀在鄉野漂泊漫遊,並藉口去往à la Sainte Terre(法語:聖地)以乞求施捨的閒人”,直到孩子們大聲嚷道:“那裡來了一個Sainte-Terrer(法語:朝聖者,saunterer)”——信步者。 他們在散步時從未如佯稱的那樣去聖地,確實不過是遊手好閒者和流浪漢;但確實去那裡的人卻正是我所指的褒義的信步者。 然而,有人將這個詞溯源至sans terre(法文:無地無家),因此褒義地說,意味著居無定所,同時卻也四海為家。 因為這是順利圓滿的信步的奧秘。 終日靜坐屋中的人,也許是所有人中最漂泊不定的;但褒義的信步者並不比蜿蜒漫步的河流更漂泊不定,河流始終孜孜探尋著奔向大海的最短捷徑。 但我卻更偏愛前者,那其實是最有可能的字源出處。 因為每一次散步就是一種十字軍東徵,由我們心中的某個隱修士彼得來佈道,出發去從異教徒手中奪回這片聖地。
不錯,我們只是膽小怯懦的十字軍戰士,如今連散步者們也沒有堅持不懈、永無止境地努力。 我們的遠徵只是旅遊而已,到了晚上就重又折回我們出征的舊爐邊。 散步的路程中有一半只是在原路返回。 我們應沿著最短距離向前走,或許,憑藉不朽的冒險精神,絕不歸還——準備著把我們塗著香料的心,僅作為遺物送回我們荒涼孤寂的王國。 若你預備好離開父親母親、兄弟姊妹、妻孩朋友,再不相見——若你還清了債務、���下了遺囑,並把一切事務料理妥當了,而且是個自由的人,那麼你就準備好去散步了。
而談到我自己的體驗,我的同伴和我(由於我間或有個同伴)樂於幻想我們自己是一支新建的,確切地說是古代的騎士團的騎士——既非古羅馬的騎手亦非法國的騎手,既非德國的騎手亦非英國的騎手,而是散步者,我確信,這是更為古老而榮耀的類別。 曾經屬於騎手的豪俠精神和英雄氣概現在似乎永存於,或許恐怕累積於散步者了——不是騎士,而是散步者、遊俠。 他是教會、國家和人民以外的一種第四等級。
我們感到,我們差不多是在附近獨自實踐這一高貴的藝術;儘管說實話,至少,要是我的大多數同鄉自己的主張得到接受的話,他們有時欲像我一樣去散步,可他們沒有辦法。 財富買不到必需的閒暇、自由和獨立,那些才是這一行當的首要之處。 它只承蒙上帝恩典而至。 成為散步者,需要來自天堂的直接授命。 你必須出身散步者世家。 Ambulator nascitur, non fit.(拉丁語:散步者與生俱來,無可製成。)我的有些同鄉,真的,能夠記得住並向我描述他們十年前的幾次散步,他們蒙福於此,以至於在林中沉浸了半個小時;可我非常清楚,無論他們會怎樣自詡以躋身這被揀選的類別,他們會一直把公路上揀選的類別,他們卻一直被揀選的類別,他們一直被揀選。 無疑,透過回憶過去的一個存在狀態,他們暫時是高尚的,那時連他們都是林中居民和法外之徒。
「當他來到綠林的時候,
是個愉快的早上,
那兒他聽到細小鳴聲,
是鳥兒愉快的歌唱。
‘我上次在這裡,’羅賓說,
『是在很久很久以前;
我呢有點想要,
朝暗褐色的鹿射箭。 ’”[佚名詩謠:《羅賓漢傳奇》(Gest of Robyn Hode)]
我認為我保持不了健康與活力,除非我每天至少花四個小時——一般會更長——信步穿過樹林、翻過山丘和田野,絕對自由地免於一切世俗的事務。 你可以有把握地說,你到底在想什麼。 有時我想到,機械技工和鋪坊老闆不僅整個午前,而且整個午後都呆在他們的鋪坊中叉腿而坐,他們許多人——好像創造出腿是為了坐著,而不是為了站立或步行——我就會覺得,他們沒有全都早早地自殺,應為此而受到些讚譽。
我在屋子裡待一天就要生鏽,當我有時偷偷溜出去散步,下午四點鐘快要結束了,來不及挽回一天,當夜幕已經開始混入晨曦,我感到似乎我犯了某一宗要被贖回的罪——我承認,我驚訝於我的鄰居的忍耐力,更不必說其道德麻木感了,他們整日鋪整月 我不知道他們的行為方式出自什麼貨色的習俗——此刻下午三點鐘坐在那兒,就好像是早上三點鐘。 波拿巴可能會談到早上三點鐘的勇氣,但對於那樣的勇氣——能夠在午後的這個時辰愉快地坐下來,面對著你熟悉了一上午的自我,為的是用飢餓迫使你以如此強烈的同情心所必定迫使得了的守軍出來——這算不了什麼。 我納悶,大約這個時候,或者說下午四五點鐘之間,讀早報嫌太晚,讀晚報嫌太早,街頭巷尾竟聽不見一聲通常的猝響,好讓一大批陳舊過時且家長里短的胡思亂想為一次外出兜風隨風而逝——如此則邪惡自愈。
比男人更侷限於家的婦女是如何熬過來的,我並不知道;可我琢磨著猜想,她們大多數人根本就沒有熬。 一個夏日的午後,我們早早地從衣衫下擺拂去村莊的塵垢,疾行而過那些房屋,它們朝路的一面是純粹的多立克式或哥特式,籠罩著安詳恬謐的氣氛,我的同伴悄聲低語道,它們的住戶們這種時候大概都已睡了吧! 那時我就欣賞了建築的美麗與壯觀,它自己從不就寢,卻永遠矗立,持續守護著入眠者。
毫無疑問,氣質,尤其是年齡,與它非常相關。 當人變老時,他靜坐並辦理室內事務的能力隨之增長。 隨著桑榆暮景的逼近,他的作息同樣逐漸日薄虞淵,直至最終快要黃昏時他才現身露面,並在半個小時內散完他所需的步。
但我所說的散步,絲毫不近乎像病人定時吃藥那樣的所謂鍛鍊──像揮舞啞鈴或盪鞦韆那樣;而它本身就是一天的事業與冒險。 如果你要運動的話,去探求生命的泉源吧。 想想一個人為其健康而揮舞啞鈴,而那些泉水則在遠方他未追尋過的草原中噗噗上冒著!
此外,你得像一隻駱駝般散步,據說駱駝是動物中惟一邊散步邊沉思的。 有個旅行者請華茲華斯的女僕給他瞧瞧她主人的書房,她回答說:“這兒是他的藏書房,可他的書房在屋外頭。”
常生活在戶外、風吹日曬,無疑將造就性情的某種粗野——將使較厚實的表皮生長於我們本性中某些較細膩的品質之上,像臉上和手上,或像重體力勞動使手部分喪失了其觸覺的靈敏一樣。 所以,待在屋子裡,另一方面,雖說不上皮膚之薄,也會造就柔軟和光滑,伴隨著對特定印象的敏感度增強。 也許我們應該對若干深深影響我們智識和道德成長的作用力更敏感些,對身上的風吹日曬是否少了一點更敏感些;而使皮膚之厚薄均衡合適,無疑是件不錯的事。 然依吾之見,那是很快就會脫落的皮屑——可以發現,自然按照夜晚朝著白天、冬天朝著夏天、思想朝著體驗的方向來補償其比例。 在我們的思想中將有多得多的空氣和陽光。 自尊而英勇的身體組織更細膩,其觸覺震顫心靈,與軟弱無力的慵懶手指相比,它們同勞動者結趼的手掌更有交情。 遠離曬黑和結趼的體驗,白天躺在床上自認為是白的,那隻不過是多愁善感。
我們散步時,便自然地走向田野和樹林;若我們只是在花園或林蔭大道散步,會遇得到什麼呢? 連某些學派的哲人也感到了向自己引進樹林的必要性,之前他們沒有去過樹林。 在露天柱廊裡subdiales ambulationes(拉丁文:頂天而行)之處,「他們種下小樹林和法國梧桐小徑」。 當然,如果踏出的腳步沒把我們帶到樹林,往彼處走去也是無用的。 若我已走入樹林一英里,身體到了,精神卻還沒到那兒,遇到這種情況,我是驚恐的。 午後散步時,我欲忘卻我所有的晨間事務和社會義務。 但我有時無法輕易地甩脫那個村莊。 有些事情的思緒將在我的腦海中縈繞回環,而我並不在身體所在之處——我超越了我的感覺。 散步時,我欲回歸我的感覺。 若我總是想著樹林外面的東西,我在樹林裡還做了什麼事? 當我發現我自己竟如此受所謂善舉的糾纏連累時——由於這有時可能會發生——我就懷疑我自己,並不由自主地戰慄。
我家附近提供了許多不錯的小徑;可儘管多年來我幾乎每天都散步,有時連著好幾天,可我仍沒把它們研究透。 全新的景緻就是莫大的快樂,而我在任何一個下午還能得到這快樂。 兩三個小時的散步將攜我去見一片鄉野,如我所曾期待的那樣奇妙陌生。 我以前未見過的單獨一間農舍,有時同達荷美國王的領地一樣漂亮。 在方圓十英里範圍內(即一次午後散步所及之處),以及一甲子又十年的人生之中,潛在的風景間其實顯露有一種和諧。 它絕不會變得讓你徹底熟悉。
如今差不多所有人所謂的改善,像是造房、砍伐森林和砍倒一切大樹,都簡直是在拆毀風景,使它越來越馴和鄙劣。 一個民族,始於燒籬笆、讓森林站起來! 我看到被吞噬了一半的籬笆,其盡頭隱沒在大草原的深處,一些塵世的守財奴帶著勘測員照看著他的邊界,同時天堂在他周圍出現了,而他沒有看到天使往來穿梭,卻正尋覓著伊甸園中間的一眼舊樁洞。 我又一瞧,看到他站在泥潭似的斯堤克斯河沼澤中間,被魔鬼團團圍著,因此他無疑找到了他的邊界,三顆小石頭打了個樁子,我再湊近一瞧,看到黑暗王子是他的勘測員。
從我自己的門口啟程,我能輕易地走十英里、十五英里、二十英里、無論多少英里,不經過任何一所房子,不穿越道路,除非是狐狸和貂穿越的:起先沿著大河,然後是小溪,然後是草地和林邊。 我家附近有幾平方英里荒無人煙。 從許多小山上,我能看見遠方的人的文明世界和住所。 農夫及其成果並不比土撥鼠及其洞穴更顯眼。 人及其社交活動、教會與國家與學校、貿易與商業、製造業與農業,甚至其中最擾亂人心的政治——我高興地看到,它們在風景中佔據了多麼小的位置。 政治只是片狹窄的田野,那邊有更狹窄的公路通往它。 我有時給旅行者指點到彼處的路。 如果你要去政治世界,跟著大路走──跟著那販子,讓你的眼中含著他的灰塵,它將直接領你到它那兒;因為它也不過有個一席之地,沒佔著所有的地方。 我經過它,就像途經一片豆田而進入森林,於是就把它給忘了。 半小時內,我能走到地球表面的某個部分,在那裡,一個人不會從一個年底競選到另一個年底,所以那裡沒有政治,因為政治只如同一個人的雪茄煙霧一樣。
village(英文:村落)是道路所趨向的地方,是公路的一種擴張,就像河中之湖。 它是身體,道路是其手臂和雙腿——一個三岔或四岔的地方,旅行者的大道和小客店。 這個字來自拉丁文villa(拉丁文:郊外別墅),還有via(拉丁文:路)或更古老的ved和vella,瓦羅把攜帶溯源到了veho(拉丁文:攜帶搬運),因為villa是個東西被帶進帶出的地方。 靠運輸謀生的人被說成是vellaturam facere(拉丁文:做運輸的)。 因此,拉丁單字vilis(拉丁語:廉價的)和我們的vile(英語:卑鄙的)太顯然了;同樣的還有villain(英語:惡棍)。 這暗示著村民有何種墮落的傾向。 在他們之處來來往往的旅行使他們旅途勞累,而他們自己卻沒有旅行。
散步是一種激發詩興的行為,許多詩人都在散步中獲得靈感,例如杜甫的《江畔獨步尋花七絕句》。 以下是一些與散步有關的詩句例子:
杜甫《江畔獨步尋花七絕句》:
杜甫在江畔散步時,寫下了七首絕句,描寫了春花、花草、風景等。
王維《終南別業》:
「興來每獨往,勝事空自如。 行到水窮處,坐看雲起時。」王維也喜歡在散步中尋找靈感,這首詩描寫了他獨往獨來,享受山水的樂趣。
蘇軾:
蘇軾在黃州散步時,寫下了「雨洗東坡月色清,夜來風過竹葉聲」。 這首詩描寫了夜晚散步時的景象,表達了對大自然的喜愛。
江畔獨步尋花七絕句
朝代:唐代
作者:杜甫
江上被花惱不徹,無處告訴只顛狂。
走覓南鄰愛酒伴,經旬出飲獨空牀。
稠花亂蕊畏江濱,行步欹危實怕春。
詩酒尚堪驅使在,未須料理白頭人。
江深竹靜兩三家,多事紅花映白花。
報答春光知有處,應須美酒送生涯。
東望少城花滿煙,百花高樓更可憐。
誰能載酒開金盞,喚取佳人舞繡筵。
黃師塔前江水東,春光懶困倚微風。
桃花一簇開無主,可愛深紅愛淺紅。
黃四孃家花滿蹊,千朵萬朵壓枝低。
留連戲蝶時時舞,自在嬌鶯恰恰啼。
不是愛花即肯死,只恐花盡老相催。
繁枝容易紛紛落,嫩葉商量細細開。
終南別業 / 初至山中 / 入山寄城中故人
朝代:唐代
作者:王維
中歲頗好道,晚家南山陲。興來每獨往,勝事空自知。
行到水窮處,坐看雲起時。偶然值林叟,談笑無還期。
東坡
朝代:宋代
作者:蘇軾
雨洗東坡月色清,市人行盡野人行。
莫嫌犖确坡頭路,自愛鏗然曳杖聲。
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清朝文學
H:清朝文學有那些,查查。20250429W2
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清朝文學
增加條目描述
清朝文學多元發展,兼容並包歷代之文學特色[參1]。明朝以前的文學發展多表現在聲韻、格律、句法、結構的因襲或創變;清朝承接各代文學成果,先後形成許多學派,將各種在明朝以前已式微的文體重新復興,並繼明末進一步發展���類小說、戲曲;另外,因不同地區、民族互動而呈現出語言風格多樣化之文學面貌,於古體詩、近體詩、駢體文、散文、賦、詞、曲、小說、戲曲皆然。由於語言轉變較微妙,往往被人忽視,造成清朝文學缺乏明顯特徵與創造力的一般印象。整體而言,清代文學面向相當複雜多樣,但品質上也良莠不齊[參2]。
清光緒刊本的《紅樓夢》插圖,圖上人物為襲人。(改琦繪)
散文
清朝前期出現風格率真、浪漫的小品文,以張岱、李漁與袁枚為主;又有侯方域、魏禧、汪琬合稱「清初散文三大家」[參3]。但是他們的文風不受道學學者支持,這些學者發起復興唐宋文風的古文運動,此即桐城派。創始人方苞與劉大櫆、姚鼐有「桐城三祖」之稱。姚鼐是桐城派的集大成者,他的古文主張,在提倡「義理(內容合理)、考據(材��確切)、詞章(文辭精美),三者不可偏廢。」講究義法,提倡義理,要求語言雅潔,反對俚俗。後來曾國藩發展成湘鄉派,惲敬、張惠言發展成陽湖派[參4]。
詩
清朝的詩風甚盛[參4],以帝王、宗室為首,官方大力提倡詩學,自清聖祖以後諸帝主導官修《御定全唐詩》、《御選唐詩》、《御選宋金元明四朝詩》、《御定全金詩》、《御定佩文齋詠物詩選》、《御定歷代題畫詩類》、《御選唐宋詩醇》、《欽定熙朝雅頌集》、《御定千叟宴詩》、《欽定千叟宴詩》、《欽定重舉千叟宴詩》、《上書房消寒詩錄》、《三元詩附三元喜宴詩》、《御定歷代賦彙》以及各代皇帝之《御製詩集》,如清高宗酷愛作詩,一生作《御製詩》五集,共計十餘萬首,每作一首詩便令詞臣注釋,若詞臣不得內容原委則准許其回家查閱典籍[參5],多羅安郡王瑪爾渾選宗室王公詩為《宸萼集》。皇帝也將詩詠作為聯繫、攏絡官員的方式[參6]。
清初詩家首推錢謙益、吳偉業與王士禎;康熙中後期,江南地區出現了王式丹、吳廷楨、宮鴻曆、徐昂發、錢名世、張大受、管棆、吳士玉、顧嗣立、李必恆、蔣廷錫、繆沅、王圖炳、徐永宣、郭元𨥤合稱「江左十五子」。乾隆時期袁枚、蔣士銓與趙翼並稱江右三大家,同時黃景仁與鄭板橋也以詩聞名。嘉慶、道光年間文人廣結詩社,京師與揚州風氣最盛,以消寒詩社最知名,代表人物有顧蓴、夏修恕、程恩澤、陶澍、朱珔、吳椿、梁章鉅、潘曾沂、胡承珙、李彥章、劉嗣綰、周之琦、林則徐、徐寶善、卓秉恬。被稱為「詩界革命」的詩歌改良運動產生於維新運動,其代表有黃遵憲的以寫作反映時代的社會詩,其餘如譚嗣同、唐才常、康有為、蔣智由、丘逢甲、夏曾佑均有作品存世。於清末又發展出同光體,代表作家陳三立、陳衍、沈曾植等,且延續到辛亥革命後。清朝詩論學說分成沈德潛的格調說、王士禎的神韻說、袁枚的性靈說與翁方剛的肌理說[參4]。
詞
詞興起於隋唐的「燕樂」,兩宋發展達高峰,至元朝衰微,延續至明朝則趨近消亡[參7][參8];清初詞學振興繁盛,康熙年間納蘭性德與朱彝尊、陳維崧並稱「清詞三大家」,隨後產生由陳維崧為代表的陽羨詞派、朱彝尊為代表的浙西詞派,詞學蔚為風潮。萬樹整理詞調輯成《詞律》,於清詞頗有影響力;康熙末,清聖祖敕命王奕清等編成《御定詞譜》,為詞調格律的集大成鉅作,影響層面最廣[參9]。乾隆、嘉慶朝,常州詞派起而代之,反對浙西詞派的「清空之弊」,代表人物有張惠言、張琦、惲敬、黃景仁、李兆洛、丁履恆、錢季重、陸繼輅、左輔、董士錫、周濟、劉嗣綰、劉逢祿、譚獻、莊棫、宋翔鳳、謝章鋌、馮煦、陳廷焯、王鵬運、鄭文焯、況周頤、朱祖謀、納蘭真等人,著名詞人輩出,持續到清末民初[參10]。清朝因此被稱為詞的「極盛時期」,「號稱詞學中興」,「作家之盛,直比兩宋」,門戶派別各具風采,婉約、豪放都各自重現、盛行[參11]。
小說
清朝小說傑出者眾,曹雪芹等著《紅樓夢》不僅為四大名著之一,由於其對社會百態和眾多人物全面精確的寫實描繪和豐富的藝術魅力而被普遍認為是中國古典小說的巔峰之作。蒲松齡以志怪內容反映社會面貌的短篇小說集《聊齋誌異》。吳敬梓所著的雖結構鬆散但足稱偉大諷刺小說的《儒林外史》;以及在《儒林外史》的影響下,《老殘遊記》等為代表的揭發官場醜態的晚清譴責小說均對近現代有很大影響[參4]。
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MEO対策の基本とは?Googleマップで選ばれるための最初の一歩
“近くの○○”で選ばれるお店になるために、今すぐできること そもそもMEO対策ってなに?SEOとの違いとは? MEO = Map Engine Optimization(地図エンジン最適化) MEOとは「Googleマップ」上で自社を目立たせる対策です。SEOと混同されがちですが、目的も仕組みも異なります。スマホで「近くのカフェ」「松江市 美容室」などと検索されたとき、上位に出てくる地図情報こそが「MEO」の世界です。 検索して出てくるのは「ホームページ」じゃなくて「地図」だった 特に、実店舗をお持ちの事業者様にとって、MEO対策は認知されるための最初の一歩と言えます。なぜなら、多くのお客様はスマートフォンで「地域名 × 業種」といったキーワードで検索し、からです。ホームページへのアクセス数を増やすSEO対策…
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裂爱
第四章:信任的裂痕与PUA的初现
江述的工作室,曾是他自由创作的天地,如今却仿佛成了一个无形的牢笼,压抑着他的灵感和热情。他坐在堆满摄影器材的房间中央,手持相机,却怎么也找不到按下快门的冲动。他的脑海中不断回响着顾言对他作品的评价,那些看似温和却充满否定的话语,如挥之不去的阴影,让他对自己的能力产生了深深怀疑。
顾言开始更频繁地出现在江述的生活中。他不再只是偶尔拜访,而是几乎每天都会来工作室,或邀请江述去他的公寓。他依然温柔体贴,关心江述的身体和情绪,但对江述的控制也越来越明显。
“今天感觉怎样?有没有按时吃药?”顾言走进工作室,手里提着保温壶,里面是精心熬制的汤。他脸上带着一如既往的温和笑容,但江述觉得这笑容背后似乎隐藏着一些他无法看透的东西。
“还好,药一直按时吃着。”江述放下手中的相机,勉强挤出一个笑容。他的目光有些闪躲,不敢直视顾言的眼睛。
“那就好,一定要好好照顾自己。你的身体,不但是你自己的,也是我的,更是我们的未来。”顾言走过来,轻轻抚摸江述的头发,动作亲昵而温柔,但语气中带着一丝不易察觉的占有欲。
江述心跳微微加速,感到顾言的触碰依然甜蜜,但更多的是压迫和不安。他不知如何回应顾言,感到自己仿佛被无形的网缠绕,无法挣脱。
顾言放下保温壶,走到江述工作台前,拿起他刚拍的一些照片。他表情瞬间严肃,眉头微皱,仔细审视每张照片。
江述心跳提到嗓子眼,紧张地看着顾言,等待评价。他知道顾言对他的作品越来越不满意,但他还是忍不住渴望得到他的认可。
“这些照片……怎么说呢,总觉得有些不对。”顾言终于开口,语气平淡直接,没有一丝委婉。
江述的心猛地一沉,他感到自己的希望瞬间破灭了。他努力控制住自己的情绪,尽量让自己的声音听起来平静一些。
“哪里不对?是构图?还是光线?还是……”江述试探性地问道,他的声音有些颤抖,带着一丝不易察觉的乞求。
“都有些问题。”顾言摇头,目光仍停在照片上,似在寻找更多缺点,“构图死板,光线平淡,缺乏视觉冲击力。而且,主题太阴郁,没有一点积极向上的感觉。”而且,这些照片的主题……还是太阴郁了,没有一点积极向上的感觉。”
江述脸色更苍白,感到自信一点一点被顾言话语蚕食。他知道自己的作品一直都带着一些阴郁的色彩,那是他内心世界的真实写照,他以为顾言能够理解。但他现在发现,顾言不仅不理解,甚至还在试图改变他,否定他。
“我……我只是觉得,这就是我眼中的世界。我很难拍出那些所谓的‘积极向上’的照片。”江述的声音越来越低,越来越沙哑,带着一丝不易察觉的痛苦。
“我明白,你心情可能低落,看世界的方式也悲观。但这不意味着,你要一直沉浸在这情绪中。”“你该试着走出来,发现生活中的美好,用镜头捕捉光明的瞬间。这对你病情,对我们未来,都有好处。”顾言转过身,走到江述面前,他的语气依然温柔,但却带着一种不容置疑的意味。
江述沉默,感到顾言的话似在否定他的创作风格和表达痛苦的方式。他开始怀疑自己是否有能力拍出“光明”作品,是���能取悦顾言。他感到内心仿佛被撕成两半,一半渴望顾言认可,一半在痛苦挣扎。
“我……我会努力。”江述最终选择妥协,不想与顾言争吵,害怕失去这份难得的温暖。
顾言对江述的回答似乎很满意,点头露出赞许的笑容。
“你能这么想,我就放心了。记住,你的作品不但是你自己的表达,更是你与世界沟通的桥梁。”你该用镜头传递积极能量,感染更多人,而非总是沉浸在自己的小世界里自怨自艾。”顾言轻声说道,他的语气温柔而坚定,仿佛在引导着一个迷途的羔羊。
江述点了点头,他感到自己的内心,仿佛被一股无形的压力压得喘不过气来。他开始努力地迎合顾言的喜好,他开始试着拍摄一些“光明”的作品,但他却发现,自己越来越迷失方向,越来越找不到自我。
他开始变得不像自己。
他不再拍摄那些充满阴郁和诗意的城市夜景,而是开始拍摄一些阳光明媚的风景照,他不再关注那些在黑暗中挣扎的灵魂,而是开始关注那些笑容灿烂的面孔。他的作品变得越来越平庸,越来越缺乏灵魂,他感到自己正在逐渐失去自己的特色,失去自己的声音。
但他不敢告诉顾言。他害怕顾言会失望,他害怕顾言会离开他。他太害怕��独了,他太害怕再次坠入黑暗的深渊了。
所以,他只能默默地忍受着,默默地迎合着,默默地在顾言的“爱”中,逐渐迷失自我。
除评价江述作品外,顾言还在其他方面暗示其病情是两人关系的负担。
“你最近睡眠如何?有没有按时吃药?有没有做些放松练习?”顾言坐在床边,轻轻地抚摸着江述的额头,他的动作温柔而体贴,仿佛在照顾一个生病的孩子。
“还好,睡得还行,药也按时吃着,练习……偶尔会做一些。”江述的声音有些虚弱,他感到自己的头有些昏沉,可能是因为最近一直失眠的缘故。
“那就好,一定要好好休息。你的身体,不但是你自己的,也是我的,更是我们的未来。”顾言轻声说道,他的语气中带着一丝不易察觉的暗示。
江述心头微震,感到顾言的话似有所指。他想起了自己最近的状态,他总是感到疲惫不堪,情绪也起伏不定,这似乎给顾言带来了不少困扰。
“对不起,我最近状态不太好,可能给你添麻烦了。”江述的声音低了下来,带着一丝内疚。
“傻瓜,别这么说。”顾言笑着摇头,笑容依然温柔,但江述觉得这笑容似乎少了些真诚,“我照顾你是应该的,你生病了,我当然要照顾你。只希望你能快点好起来,这样我们就能一起做更多的事,有更美好的未来。”
江述心中更难受,感到顾言的话似在暗示他的病情是两人关系的障碍,只有尽快好起来,才能配得上顾言的“付出”。他开始感到自己是一个累赘,一个拖累,他觉得自己配不上顾言的爱。
“我会努力的,我会尽快好起来的。”江述的声音哽咽了,他感到自己的喉咙有些发紧,他想要说很多感谢的话,但他却一个字也说不出来。
“我相信你,你一定可以好起来的。”顾言笑着说道,他的笑容依然温柔,但江述却觉得这笑容里似乎隐藏着一些他无法理解的东西。
两人之间的相处,渐渐地变成了一种奇怪的模式。顾言依然温柔体贴,关心江述的一切,但他的言语中却越来越多地带着暗示和控制,他试图改变江述的创作风格,他暗示江述的病情是两人关系中的负担,他让江述感到内疚和自责。
而江述则越来越沉默顺从。他他努力迎合顾言喜好,试图成为顾言眼中“更好”的人,却发现自己越来越迷失方向,找不到自我。
他渐渐变得不像自己。
他不再是那个充满激情和灵感的摄影师,而成了小心翼翼、唯唯诺诺的恋人。他不再敢表达真实想法,总是选择沉默妥协。他感到自己正一点一点失去独立性和自我价值,变成顾言的附属品。
他开始怀念以前的自己——那个敢于用镜头表达痛苦绝望、敢于与世界对抗的自己。但他再也回不去了。他已被顾言的“爱”牢牢捆绑,无法挣脱,也不敢挣脱。
他害怕失去顾言,再次坠入黑暗深渊。他只能在顾言的“爱”中继续沉沦迷失,直到彻底失去自我。
信任的裂痕在他们之间悄无声息地蔓延开来。
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游仙
H:清顧太清「人生行樂須及時,花外光陰去如矢。」「渺渺春波萬古閒,悠悠天地長如此。」吳蘭畹「人生若輕塵,為樂苦不早。」張印「一字算一淚,點點生珠光。」急市取靜,看古人之憂詩,讚嘆詩之美!20250404W5
維基文庫
維基 -> 晚晴簃詩匯 -> 卷一百八十八
《卷一百八十八》[查看正文] [修改] [查看歷史]
《顧太清》
1 
顧太清,字子春,漢軍旗人。多羅貝勒奕繪側室。有《天游閣集》。
《游仙》
1 
層台起虛館,桂柱蘭為堂。微風從東來,吹動羅衣裳。翻階木芍藥,薜荔當門牆。揮杯發清興,絃歌誦詩草。繁星映戶牖,明月照兩廂。為樂及良時,光景孰云長。2 
縹緲十二樓,上有仙人居。左據青玉案,右擁鴻寶書。瓊瑤製危冠,芙蓉曳輕裾。歡笑粲玉齒,從容下丹除。俯察碧流水,清波戲朱魚。仰觀青天雲,舒卷任太虛。3 
巫山高巍巍,江水碧深杳。中有陽臺人,清容舒窈窕。翠袖倚朱闌,顏色常美好。我欲往從之,不見三青鳥。4 
層巖下斜日,雲霧生重陰。昏煙迷修渚,飛鳥投荒林。清宵佇涼月,開窗弄鳴琴。悠悠世中事,泠泠弦上音。
《清明雪後侍太夫人夫人游西山諸寺》
1 
三月山花尚未發,一春忽忽過清明。雲移列岫山無數,雪滿叢林樹有聲。怪石自成蹲虎勢,老松誰與臥龍名。晚晴碧澗添新水,歸路回看暮靄平。
《二十二日由白雲觀過天寧寺》
1 
遂過天寧寺,花香染客裾。蘚碑迷故事,風障護春蔬。野草濃於繡,遙山淡若虛。方今正望雨,宿麥及時鋤。2 
法源寺看海棠遇阮許雲姜許石珊枝錢李紉蘭即次壁刻錢百福老人詩韻贈之3 
籜石文章在,風流天下傳。即看詩句好,想見老人顛。繞座飛花雨,成陰蕩碧煙。禪房春晝靜,香接逆風前。4 
春老花盈樹,豐神借客傳。綠陰隨日轉,紅片任風顛。邂逅江南秀,檀欒法界煙。題詩寄同好,問訊綺窗前。
《游孔水用吳郡盧襄石刻詩韻》
1 
溪去山樓凡七里,平坦不煩折屐齒。下有泉源上石堂,萬佛妙相參差倚。青苔互古不見日,森森濃綠疑無始。龍泉古壁何年失,虎尾春冰豈可履。夕陰水鳥上漁梁,倒映山容碧灘陊。人生行樂須及時,花外光陰去如矢。開元殘碑嵌絕壁,幸得廬襄刻詩紀。出山一路又看山,二水合流成漫水。馬耳東風拂面香,鴛鴦屬玉驚人起。歸塗借問今何時,梨花桃花才結子。渺渺春波萬古閒,悠悠天地長如此。偕隱何辭挽鹿車,雲水遨游���朝市。
《四十初度》
1 
百感中來不自由,思親此日淚空流。雁行隔歲無消息,詩卷經年富唱酬。過眼韶華成逝水,驚心人事等浮漚。那堪更憶兒時候,陳迹東風有夢不。2 
自先夫子薨逝後意不為詩冬窗檢點遺稿卷中詩多唱和觸目感懷結習難忘遂3 
賦數字非敢有所怨聊記予生之不幸也兼示釗初兩兒昏昏天欲雪,圍爐坐南榮。開卷讀遺編,痛極不成聲。況此衰病身,淚多眼不明。仙人自登仙,飄然歸玉京。有兒性癡頑,有女年尚嬰。斗粟與尺布,有所不能行。陋巷數椽屋,何異空谷情。嗚嗚兒女啼,哀哀搖心旌。幾欲殉泉下,此身不敢輕。賤妾豈自惜,為君教兒成。
《夏伊蘭》
1 夏伊蘭,字佩仙,錢塘人。諸生夏之盛女。有《吟紅閣詩鈔》。
《讀列女傳》
1 
我披《列女傳》,懷古心長悸。忠孝節義風,羅列類略備。閨閣垂師表,摹仿匪易易。幼讀《女孝經》,晨昏殊自媿。幸生賢女後,所學為何事。不見蓬戶女,書史未睹記。或投梭表潔,或奉匜養志。至性有餘師,殊途而一致。況綜三千年,供我精取棄。賢媛去今遙,精靈簡策寄。後先心印心,一一呼欲至。我輩工絮吟,聊以娛親意。大義重節孝,餘技通文藝。陶孟範猶存,曹龐型未墜。千秋仰止情,盥薇一編肄。
《憶祖姑母》
1 嚴親幼稚賴提攜,兩代深情一脈遺。骨肉已歸三尺土,恩勤猶記十年時。人天渺渺神何在,笑語依依願已虧。幾度繡窗勞翦鬌,伶俜憶昔苦無知。
《夜讀》
1 展卷坐深宵,竹陰趁清暇。引人書味長,佳境如啖蔗。女伴幸不來,憧擾片時謝。羅紈向夕揮,放我涼風借。妙理耐鑽研,閨房當書舍。創獲珍珠船,寶貴真無價。蛩吟豆花籬,螢墮薔薇架。月解窺讀來,玲瓏穿樹罅。
《宗婉》
1 宗婉,字婉生,常熟人。山西同知蕭瓚、北河州判錦照母。有《夢湘樓稿》。
《漢宮瓦硯歌》
1 
千年古殿生蒿萊,瓦磯變化成良材。文房珍玩何足道,盛衰貴賤亦幻哉。誰人作硯供書契,云是帝鴻古遺制。琢玉奇珍祇飾觀,澄泥別樣誇新製。避雝風宇古樣鐫,合歡秋葉新題簽。小者文場便懷袖,大者椽筆揮雲煙。硯材百種此尤寡,陶質蒼然古而雅。問年神雀五鳳初,讬地長生未央下。當年立仗覆千官,此日抔泥出寒野。良工琢付識者藏,摩挲日久騰輝光。儲以水晶琉璃之寶匣,配以珊瑚翡翠之筆床。更聞此硯能發墨,濡染淋漓殊自得。凹處猶餘士蝕痕,中央已沒苔花色。君不見玉龍金鳳銅雀臺,於今無地無塵埃。又不見離宮別館三十六,望里莘莘走麋鹿。羨爾猶存曆劫身,芸窗珍重伴詞人。他時攜上通明殿,書遍吟毫五色新。2 
湘繭合稿刊成鐵雲妹婿貽餘以詩過蒙推許疊此奉酬3 
爭傳忠簡舊家門,虛譽何當眾口喧。閨裏秀方元不櫛,篇端伯氏敢居尊。棗梨略誌平生,棣萼同懷罔極恩。從此盡填諸缺陷,百年長爇瓣香溫。
《吳蘭畹》
1 吳蘭畹,字宛之,常熟人。宜興拔貢、浙江巡撫任道鎔室。有《灌香草堂初稿》。
《秋聲》
1 冷雨敲窗清夢溼,洞庭木落怒濤生。疏砧靜搗天邊月,羌笛愁聽塞外聲。漢上風雲寒彭角,江間波浪走蛟鯨。何須更作悲秋客,四壁蟲聲已不平。
《寒寺》
1 蕭疏楓葉護雲林,蘿壁荒涼朔氣侵。幾杵霜鐘驚客夢,一龕鐙火照禪心。西風鶴唳空壇冷,殘月烏啼曲徑深。雪滿山中無蠟屐,掩關寂寂夕陽沈。
《清明》
1 彈指光陰百六時,故鄉景物轉淒其。碧桃影裏停游騎,紅杏村中認酒旗。細雨樓臺飛燕子,春風簾幕囀鶯兒。不知此日關門柳,羌笛聲中餘幾枝。
《雨夜不寐》
1 風雨悲搖落,瀟瀟警客眠。愁心千里碎,孤夢五更懸。獨醒知何恨,餘哀轉自憐。縱橫鐙下淚,流不到重泉。
2 幽夢太無憑,傷心獨拊膺。沈陰壓樹黑,殘燼背鐙凝。地下魂應老,人間恨未勝。空餘遺象在,色笑痛難承。
《雜詠》
1 
俯首一長歎,仰首悟太清。萬物各有司,今古徒紛爭。嚴霜摧百草,松柏鬱空青。陰陽倏變化,風雨勵晦明。馥馥幽蘭姿,寒谷隱其馨。藹藹君子堂,蕭艾莫縱橫。豈無媚世容,所寶在榮名。2 
攬衣涉太行,搔首窮八荒。上有青青冥,下有壘壘岡。鴟鴞啼我前,虎豹嗔我旁。回風振山谷,旁徨摧中腸。欲舉苦無翼,神魂馳遠方。浩歌復長嘯,哀衷鑒彼蒼。萬古同一轍,何為自悲傷。3 
寒衾不能寐,靜夜援鳴琴。孤月皎中天,清風激素襟。玄鶴舞瑤階,丹鳳和遙岑。幽蘭與白雪,泠泠太古音。歌苦調自高,識者賞其忱。伯牙遇子期,千載契同心。茫茫此天地,曠世獨悲吟。4 
人生若輕塵,為樂苦不早。榮辱同一瞬,勞心徒懆懆。既無子晉術,又乏忘憂草。良辰豈云再,愁思令速老。志士寶其名,庸人工其巧。試問蕭艾姿,安知松筠抱。
《送別》
1 去去不可留,清淚沾胸臆。今夕斗酒歡,明日分南北。君行日以遠,我心日以惻。豈獨離別傷,轉念孤征寂。舉目童僕親,搔首骨肉隔。野店孤鐙青,輪蹄曉霜白。念此迫中腸,盡夜難安席。願言加餐飯,善保軀金石。
《多敏》
1 多敏,喜塔臘氏,字惠如,滿洲旗人。漕運總督松椿室,寶康母。有《逸蒨閣遺詩》。
《龍么妹歌》
1 弓刀小隊花如雪,英雄兒女真奇絕。良玉曾聞樂府篇,蘭珠爭誦人才筆。丁香小幄明春華,游龍使女出龍家。肌膚妒雪眉欺月,窈窕生香海外花。小姑獨處菱枝弱,姓字薰香護花葉。不將眉黛斗星妝,自有功名望南閣。絳袍斜罥丁香絛,不喜珠華喜寶刀。書開祕笈親軍事,令下如山不動搖。日將騎射教姝麗,粉膩脂香三百騎。瘴地蠻天任指揮,雪劍霜矛精擊刺。昔年小醜生潢池,碧雞無聲金馬癡。名地夜陷官偷活,冷月宵熒鬼守尸。王師驛騎流星急,熊羆十萬分馳入。銅鼓邊城擁護勞,鐵券家聲宣慰襲。阿兄意氣如雷巔,連環雙槊黃金韉。錫封自號百蠻長,象犀遠貢元和年。龍么小妹金閨彥,姽嫿將軍經百戰。星舒猿臂竹枝��,秋暈霜華楊葉箭。白蓮妖孽陣雲涼,髑髏夜泣天旁徨。羽書一紙星火急,檄催猺勇驅天狼。阿兄抱病經秋苦,阿妹從容請纓去。芙蓉舊部領蠻奴,彨虎兵符照勁旅。掃眉傅粉女兒營,沈沈刁斗春無聲。羽旗影颭鴛鴦疊,繡幕香園翡翠輕。永夜談兵翦青燭,龍娘妙計群酋服。白頭老將空咨嗟,蒼鶻游軍盡懾伏。猺中妖女何娉婷,嬌雲燄焰雄風腥。七聖刀飛古雪白,天魔神舞枯魂青。將軍血戰戰未已,娥眉報國誓以死。三千銅弩射無聲,八隊雲旗勢如駛。人龍馬虎踏營空,捷書早報甘泉宮。若從諸將論勛伐,屈指龍娘第一功。翩翩孝廉舊入幕,曾見猺仙話親故。綠字雙箋贈客詩,朱絲一角回文賦。當時佳話人傳揚,至今香塚煙水荒。歌成自酹梨花酒,蠻雲不語天茫茫。
《張夢龍》
1 
張夢龍,字靜齋,湘陰人。嘉慶辛未進士學尹女,衡山陳士源室,光緒癸未進士長治知縣毓光、同知毓昌、己丑進士翰林院編修漳州知府嘉言母。有《柏心堂遺稿》。
《燒詩》
1 
汨羅江上一女子,生來二十九年矣。文章牢落苦無成,滔滔歲月看流水。憶昔兒時喜讀書,操治簡策若蠶枲。先公經術壽日月,茫茫滄海失涯矣。自陳榛椇執中饋,墨守膏盲百不理。夫子論詩獨逴躒,蒼龍出沒天河裏。書窗諷詠有倡和,往往駑駘隨騄駬。貞松百歲連枝葉,庶幾文字共終始。豈知人事倏變遷,羸者未亡壯者死。黔婁先生終有謚,柳下大夫何須誄。孤兒頑稚須教誨,舊經重翻顙有泚。惟有詩稿不可讀,使我徒增忉怛耳。呼兒爇火摧燒之,長向九京伴才鬼。
《何桂珍》
1 何桂珍,字梅因,善化人。上虞廣西慶遠同知俞維藩室,光緒癸巳舉人、內閣侍讀俞壽滄母。有《枸櫞軒詩鈔》。
《醉歌行》
1 火雲騰空作紫絳,玉女素趺騎采虹。羿弓迕月嫦娥降,霞漿浮𧣴清腑臟。與我三夕斂衽讓,欲飲不飲卻羞量。飛瓊吹簫雙成唱,雪靨銀齒恣謔浪。天風忽吹氣晃盪,織女招手天河上。石室機張三萬丈,自言此工殊可愴。我欲從之窺帝仗,三辰七宿形模壯。王母嗔顧誰所謗,翻然一覺墮煙瘴。梧月在窗梅插帳,爐煙已燼俄蓬放。山城漏點櫓牙向,行人夜趁廣江漲。
《感事》
1 夜晏宣傳堯母門,明珠世界不黃昏。月擎瓊樹虛留影,草傍龍池盡沐恩。噦々鸞吹搖玉佩,飄飄鳳仗捧金根。侍中不覺宵寒重,新賜宮袍天語溫。天涯何處是邊州,多少羊頭關內侯。舊業未穿鴝鵒硯,新恩遍著鷫鹴裘。男錢散盡龐萌去,女樂頒來魏降留。休說當年豐鎬地,長空衰草陳雲浮。尺天寸地戴堯年,萬寶輸將來日邊。劉晏持籌寬甲帖,徐溫抗疏免丁錢。一籬松菊壺中隱,千畝桑麻夢亦仙。自是太平新氣象,厚生知有聖恩駢。繁華鏡裏讬生靈,岌岌長安世路冥。千市簪裾沈璧月,萬家樓閣落旗星。似聞置俎龍歸董,錯認乘軒鶴姓丁。聖代即今猶富庶,《豳風》秉願續《葩經》。
《徐咸安》
1 徐咸安,桐鄉人。烏程張鈞衡室。有《韞玉樓遺稿》。
《張印》
1 張印,字月潭,潼關人。山東巡撫澧中女,閩縣陝西布政使林壽圖繼室。有《繭窩遺詩》。
《贈荃女》
1 
昔賢故有言,四海皆弟兄。矧我與爾母,儼如娥與英。爾更育於我,寧無骨肉情。今爾年既長,加姘禮告成。相從逾十載,念此摧人腸。憶我初嫁時,爾年尚孩嬰。髮燥兩肩披,身高才几平。祖母僅有爾,視同掌珠擎。鄉音異南北,語意苦不明。我身方京爾,爾乃避道行。我手方招爾,爾乃秋波橫。我心時寒栗,恨難達我誠。幸爾日長大,視我如故常。晨知就我櫛,夜知就我床,飢知就我食,寒知就我裳。有時我入廚,未解作南烹。爾乃私謂我,斫魚當為羹。亦或逢節慶,未辦效閩妝。爾復私謂我,紅繩纏髻梁。中間生爾妹,未克爾扶將。祖母喚爾去,依依仍我傍。妹啼爾抱持,妹飢爾料量。須臾不舍我,誰謂非我生。祖母與我家,同出南軒張。雖則閩與秦,譜牒渺難詳。祖母恆顧我,無視我姑嫜。我生未有女,不如呼我娘。祖母誠愛我,亦由爾回翔。有時我外家,迎迓我歸寧。攜爾與爾妹,偕行登我堂。我母恆謂我,此女何娉婷。我兄亦愛爾,每來輒叮嚀。謂當善撫此,此真為我甥。爾貌實靜好,爾性實端貞。舅時課爾字,筆畫晰以清。亦或教爾讀,上口聲琅琅。爾父曩客陝,盡室胥留京。我時方小極,茶爐伴藥囊。爾能解我意,凡事為摒擋。去歲父書來,屬我即首程。祖母既老邁,我復體羸尫。沿途端賴爾,使我忘長征。爾父嘗謂我,擇婿當擇良。苟中乘龍選,何必拘故鄉。我本遠嫁女,感此增旁徨。忍以己不欲,乃使兒身當。昨父告我婿,安定安吳杭。祖為大中丞,父亦京曹郎。婿年方及冠,頭角頗崢嶸。近在國子監,讀書行成名。我願業已足,何事復淚滂。昨聞有書來,納采今秋涼。百年難共守,去去時吞聲。雖然我聞之,舅姑今在堂。隨時進甘旨,親手調羹湯。蘋蘩乃婦職,春秋妥烝嘗。下有二伯姊,貞明稱里坊。亦有弱弟一,風雨恆對床。宜念秭歸義,勿使荊樹戕。伉儷必以敬,乃覺恩愛長。有無俱黽勉,學業毋嬉荒。即或忤我意,舉案當益莊。間有小不適,亦當身退藏。人道貴謙抑,天道忌盛盈。毋自恃門第,毋自虧簪纓。勉矣曹大家,女誡實隄防。早晚為人婦,從此去家庭。毋為嬌憨態,亦毋心悲傷。祖母今老矣,爾母身早亡。惟我與爾父,年亦非壯強。尤悔爾知免,誥誡我當詳。晶晶秋菊芳,馥馥丹桂香。樸質為此語,且置爾巾箱。一字算一淚,點點生珠光。
《除夕感懷》
1 
廿年作客黃金臺,有婿乘龍今歸來。忽念遠嫁向東越,蕭然忍對殘冬雪。此時我何憶,所憶母與兄。相望不相見,兩地難為情。況母今年七十高,兄謀甘旨官京曹。潼關有家歸不得,飢驅兩鬢霜華飄。憶甘奉姑宣南住,不歸旬日一把晤。往來數數將車迎,家常共話懽平生。不苦凍泥濺裙褲,但覺春風生戶庭。一日夫婿下樞直,手攜鹿尾稱上賜。急索篋中舊貂裘,命質香醪謀一醉。留兄共飲午窗前,此中風味殊新鮮。半酣呼人迎我母,省識此樂真稀有。可憐年事多未完,猶道今朝二十九。我職中饋時入廚,洗手亦復同圍爐。薄暮母去坐無語,始悟宵來已歲除。故鄉勝似他鄉遠,我今來秦反愁惘。亦有梅花插膽瓶,依然狂雪大如掌。當時兩家儼如一,今日一身難化兩。兒女守歲不思眠,事事上心猶昔曩。白雲飛處是京華,料母回頭同此想。吁嗟!好花不久妍,好月不常圓。身為既嫁女,骨肉安得長為歡。母今不歸我行去,天南地北相逢難,令人念此鬱鬱摧心肝。
《從軍行》
1 
昔聞從軍苦,今見從軍樂。從軍豈真樂,毋乃為殘虐。我有灶下媼,全家住近洛。飯罷袖手閒,為我談厓略。昨有潼關兵,新調來襄鄂。入市逢酒肆,牛羊恣大嚼。撒手出門去,佣保還諾諾。乘醉過青樓,應聲奏簫籥。幸蒙垂愛憐,臨行簪珥攫。一夕報賊來,遠近驚風鶴。彼聞翻大喜,距踊如雀躍。沿途有村店,藉口製草屩。毫無造物仁,儼同敝賦索。一人不如意,千百橫刀槊。民也告之官,縣官驚以愕。投刺謁主帥,主帥殊落寞。身家與性命,疇不兒郎讬。似此區區者,九牛一毛灼。掉頭更不言,反是縣官錯。翌日拔隊行,所在苦摽掠。有馬不芻秣,十匹百匹捉。有兵不肩荷,前車後車縛。時或值商賈,搜求罄其橐。鞭夫如鞭狗,彈人如彈鵲。一事稍阻撓,首級立時落。一級銀二錢,請賞向戎幕。嬌奼誰家女,亦既成婚約。寧馨誰家兒,繞項金鎖鑰。女馱馬上去,男繫民前鐸。夫婿躡迹追,爺娘望塵撲。看看十里外,日已西山薄。明早見積骸,狼藉填溝壑。家人哭之慟,捶胸更拊髆。保正為報營,營中方飲酌。粉黛排屏風,珠寶堆山嶽。開口未及說,身已貫木索。困置大旗邊,自分死鋒鍔。倏見縛雞來,認得羽毛駁。今供役盤飧,昨食我稻穛。須臾兵盡醉,相邀縱六博。盧雉信口呼,金錢信手摸。想見儻來物,源源不一涸。乘間逃生歸,思欲主帥籲。相距三百里,程途數日隔。男兒生胡為,恨不兵籍著。嗚呼彼軍人,此孽何可作。亦既客欺主,又復強凌弱。我聞湘澤間,近亦風聲惡。豈無兒在家,豈無女出閣。一旦有兵役,寧能免鼎鑊。天道信難知,作詩叩冥漠。
《病起》
1 衙鼓冬冬夜四更,空閨無籟斷人行。幾微花影月吞吐,三兩竹聲風送迎。鐙意做寒如許倦,藥煙遮夢有餘清。經旬病起渾閒事,眼見秋殘猛一驚。
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1 交付決定の取消し等を行った事業者【11事業者】 Assist・Medical株式会社 所在地 埼玉県富士見市上南畑240番地 代表者 代表取締役 大関翔太 事業所 1か所 調剤薬局バルナバ大森店 補助金 交付決定額 約2億円 交付済額 約3,200万円 措置日 令和5年5月31日 措置内容 交付決定取消し・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 渋谷美容皮膚科クリニック 所在地 東京都渋谷区渋谷二丁目10番15号 NV1 Bldg.8階 代表者 院長 原田慶堂 事業所 2か所 渋谷美容皮膚科クリニック、アリュールクリニック 補助金 交付決定額 約3,700万円 交付済額 約1,400万円 措置日 令和5年5月31日 措置内容 交付決定取消し・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 株式会社メディトランセ 所在地 東京都新宿区北新宿一丁目4番7号 代表者 代表取締役 加藤篤彦 事業所 21か所 tokyoartsgallery、個別指導Wam飛田給校、個別指導Wam清水が丘校、個別指導Wam小宮町校、個別指導Wam小山田桜台校、東京湯島指導センター、東京駒場指導センター、【PCRラボ】ICheck×nanoAce 町田駅東口前PCR検査場、個別指導塾スタンダード市ヶ谷教室、個別指導塾スタンダード西日暮里教室、赤坂見附・無料PCR検査センター、四谷三丁目・無料PCR検査センター、六本木・無料PCR検査センター、【PCRラボ】ICheck×nanoAce浜松町駅前ハマサイトPCR検査場、【PCRラボ】ICheck×nanoAce品川駅港南口PCR検査場、【PCRラボ】ICheck×nanoAce大井町駅PCR検査場、個別指導Wam青戸校、フラクタルPCR検査センター、ICheckPCR検査センター有楽町、【PCRラボ】ICheck×nanoAce 赤坂PCR検査場、炭火串焼き「昌」 補助金 交付決定額 約23億円 交付済額 約13億円 措置日 令和5年5月31日 措置内容 交付決定取消し、返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 株式会社HOS 所在地 東京都中央区日本橋蛎殻町一丁目38番13号5階 代表者 代表取締役 日下部雄太 事業所 7か所 アステル薬局無料PCR検査センター神田駅北口、同センター田町駅、同センター武蔵小山駅、同センター亀戸駅、同センター池袋駅、同センター銀座、同センター御徒町駅 補助金 交付申請額 約33億円 措置日 令和5年3月31日 措置内容 事業者登録取消し、不交付決定 措置理由 検査の実施が適切に行われていないと認められたため 不正の手段により補助金の交付を受けようとしたため 株式会社メタボスクリーン 所在地 神奈川県横浜市中区寺久保34番1号 クリオレミントンハウス横濱山手ロワイヤル412号室 代表者 代表取締役 関澤隆一 事業所 3か所 メタボスクリーン東京第一研究所・コロナバスター東京本部、PCR検査センター東京ラボ・コロナバスター西尾久店、コロナバスター赤坂店 補助金 交付決定額 約8.2億円 交付済額 約3.2億円(交付済額は返納済み) 措置日 令和5年3月31日 措置内容 事業者登録取消し、交付決定取消し、返還命令 措置理由 検査の実施が適切に行われていないと認められたため 不正の手段により補助金の交付を受けたため 医療法人華風会 所在地 大阪府大阪���中央区高麗橋一丁目7番3号TheKitahamaPLAZA3階 代表者 代表 久保伸夫 事業所 4か所 YELL合同会社中河原PCRセンター、無料PCRセンター東中野駅前、平井駅前PCR無料検査センター、ケーズ桜台駅前無料PCRセンター 補助金 交付申請額 約28億円 措置日 令和4年12月28日 措置内容 事業者登録取消し、不交付決定 措置理由 検査の実施が適切に行われていないと認められたため 不正の手段により補助金の交付を受けようとしたため 医療法人社団彩祥会 所在地 東京都北区赤羽二丁目23番2号 鵬ビル1階 代表者 理事長 中島知賀子 事業所 4か所 麻布十番採取所、アンフルール採取所、大田区採取所、瑠璃色の地球採取所 補助金 交付申請額 約6.3億円 措置日 令和4年12月28日 措置内容 事業者登録取消し、不交付決定 措置理由 検査の実施が適切に行われていないと認められたため 不正の手段により補助金の交付を受けようとしたため 医療法人社団JOY 所在地 東京都中央区銀座二丁目11番8号 ラウンドクロス銀座二丁目2階 代表者 理事長 伊東絵美奈 事業所 1か所 エミーナジョイクリニック銀座 補助金 交付決定額 約3.5億円 交付済額 約630万円(交付済額は返納済み) 措置日 令和4年12月28日 措置内容 事業者登録取消し、交付決定取消し、返還命令 措置理由 検査の実施が適切に行われていないと認められたため 不正の手段により補助金の交付を受けたため 向日葵商事株式会社 所在地 東京都中央区銀座三丁目12番19号4階 代表者 代表取締役 田中ゆかり 事業所 3か所 四ツ葉薬局、向日葵商事株式会社、中目黒トライ 補助金 交付申請額 約5.7億円 措置日 令和4年12月28日 措置内容 事業者登録取消し、不交付決定 措置理由 検査の実施が適切に行われていないと認められたため 不正の手段により補助金の交付を受けようとしたため 株式会社ヒューマンプランニング 所在地 和歌山県有田市宮原町須谷535番1号 代表者 代表取締役 富山晃至 事業所 2か所 南大塚無料検査場、狛江無料検査場 補助金 交付申請額 約3.9億円 措置日 令和4年12月28日 措置内容 事業者登録取消し、不交付決定 措置理由 検査の実施が適切に行われていないと認められたため 不正の手段により補助金の交付を受けようとしたため medical 4 men clinic 所在地 東京都中野区東中野二丁目24番13号 スイートルーム302、201、202 代表者 院長 中島知賀子 事業所 8か所 medical 4men clinic、東麻布PCR検査センター、東中野PCR検査センター101採取所、赤羽採取所、泉岳寺採取所、PCR検査センター向原駅前店、江古田採取所、PCR検査センター亀有店 補助金 交付申請額 約69億円 措置日 令和4年12月28日 措置内容 事業者登録取消し、不交付決定 措置理由 検査の実施が適切に行われていないと認められたため 不正の手段により補助金の交付を受けようとしたため
PCR等検査無料化事業補助金交付決定取消し等|東京都
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从网传“当年明月”装疯说起
这几天中国的网上都在传,《明朝那些事儿》的作者“当年明月”由于精神病发作,被送到上海精神卫生中心治疗。十几年前,出版社曾送过我一套《明朝那些事儿》,我翻了几页,发现这书不是给我这种文化程度的人看的,也没有兴趣给它写书评,所以就没有看下去。我以前只知道“当年明月”是广东海关的一个公务员,现在网上传说他被上海精神卫生中心收治,就查了一下,发现他已经跳槽去上海当了一个副局级的官。他是被上海市长龚正看中的。龚正曾经是海关总署的副署长,可能龚正是他的粉丝,那时就赏识“当年明月”。后来龚正去山东当省长,就把“当年明月”也调到了山东省政府办公厅当了一个处长,龚正到上海当市长,也把“当年明月”带到上海当上海政策研究室副主任。
据网上的说法,“当年明月”猥亵女上司,又殴打了男上司,被鉴定出精神病发作,就被上海精神卫生中心收治了。这事的真假我们不知道,但已经传了这么多天,而且传遍了整个网络、上了热搜,没见“当年明月”或他的亲友出来辟谣,也没见上海市政府出来辟谣,所以这事大概率是真的,是可信的。但网上很多人认为“当年明月”是装疯,不是真疯。说他是怕被追究,为逃脱法律责任装疯,因为精神病人可以不用负法律责任。也有人认为他是卷入了官场斗争,不惜自污来自保。央视的评论员刘戈也是“当年明月”的粉丝,他晒出《明朝那些事》一个章节里的例子,叙述明朝也有一些官员怕受到迫害而装疯,说明“当年明月”装疯就是由此受到的启发。
中国古代的确经常有官员装疯,但古代没有精神病学和精神科医生,官员是不是真疯由皇帝说了算,很容易靠装疯蒙混过去。但现在想靠装疯来逃避制裁,未免太小瞧了精神病科的医生,更何况上海精神卫生中心算是中国一流的,有那么容易就靠装疯把医生骗过去吗?
中国的精神病鉴定经常会在网上遭到质疑,除了被认为是装疯的,更多的被认为是受到政治迫害,没病被精神病了。最近也有一个例子,江西南昌有一个叫李宜雪的女青年,两年前由于在商场威胁要自杀,被警察认为是精神病,送到江西精神病医院收治。出院之后,李宜雪就起诉江西精神病医院,还在网上直播,声称要曝光江西精神病医院怎么虐待病人。她因此成了网红,号称有好几亿点击。她做视频时经常骂人,被一个姓罗的告了,警察找上门。按警方的说法,李宜雪说自己有精神病,不应该承担法律责任,申请由北京权威机构对自己做精神鉴定。警方找了北京安定医院的3名医生对她做精神鉴定,认为她患有精神障碍,又有完全责任能力,社区政府就把李宜雪送精神病院收治。
但网上很多人认为她没有病,是遭到了迫害。我看到美国之音找了几个“海外民运人士”讨论这事,法轮功的媒体也认为她遭到了政治迫害。的确,专制独裁国家以前经常发生这种事,将持不同政见的人作为精神病关进精神病院,连判刑都不用。在十几年前,中国还是旧时代的时候,媒体大量曝光过,地方政府会把频繁上访的人当成精神病关进精神病院,“被精神病”这种说法就是那时开始出现的。现在是新时代了,即使还有被精神病的事,媒体也不会报道的,没有哪个记者敢去做调查。这不等于没有这种事情。��过,李宜雪并不是一个持不同政见的人,她其实是一个爱国、爱党的小粉红,地方政府有啥必要去迫害她?即使因为她成了网红,有损地方形象,要迫害她也完全可以以造谣的名义把她抓起来,没必要把她送到精神病院。即使要把她送到精神病院,北京安定医院的医生有什么必要配合地方政府迫害一个网红呢?
精神健康会越来越成为一个重大的社会问题,那么怎样做鉴定、怎样收治也会变成一个越来越大的问题。不只中国是这样,美国也是这样。美国对于有可能对自己或别人造成伤害的精神病人,也可以强制收治,不过各州的规定不一样。加州的规定是,医生可以对精神病人强制收治不超过72小时。如果超过72小时认为病人还有危险,就要走法律程序,由法官批准延长收治时间,但最长不能超过30天。其他州有的规定得比较松,就有空子可钻。前一段时间有美国媒体报道说,有的所谓的精神诊疗中心为了赚医保的钱,强制长时间收留来看病的精神病人,因此制造出个人悲剧和家庭悲剧。
加州在几十年前的规定也很松,可以长时间一直强制收留病人,所以加州政府建了不少精神病疗养院,环境都还不错。但后来加州通过法律规定不能长时间强制收留���神病人,这些精神病疗养院也就废弃了,都空置了。前一阵有人提议说,现在加州住房这么紧张,应该把已经废弃的精神病疗养院利用起来,改造成住房。
但是,禁止长时间强制收留精神病人也会带来一些问题。有很多精神病人不认为自己有病,不会主动要求住院治疗;还有的精神病人虽然知道自己有病,也不愿意去医院接受治疗。这就会给家人和社会带来很大的负担。加州无家可归的问题很严重,无家可归者中相当一部分精神健康有问题。
所以在2022年加州新通过了一个法律:如果有家属、朋友或第一响应者(急救人员、精神科医生等)认为某人有严重的精神疾病,应该长时间住院治疗,可以向法院提出申请。法官找精神科医生鉴定后,可以判决强制住院治疗,时间可以长达1年。1年之后如果医生还认为没能治好,可以再开庭审理,由法官判决再延长时间继续住院治疗。
但中国不是法治社会,是警察国家,法官的权力还不如警察。警察可以动不动就随便抓人,当然也可以动不动就随便把人送到精神病院强制治疗,这就是为什么中国的精神病鉴定和强制收治经常会遭到质疑。
2025.01.08录制
2025.02.01整理
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追憶似水年華,我的忘年知音華嚴阿姨
胡為美
文可電郵來一捲華嚴悦音 mp4,裡面有她母親華嚴阿姨為自己的第三本著作《七色橋》,第 14 本著 作《花落花開》,第16本著作《燕雙飛》錄製的歌曲,我打開Google Drive,一個人躲在書房裡靜靜地 欣賞,一遍又一遍,全神貫注傾聽她字正腔圓,音準又獨特的嗓音唱著:正是夕陽近黃昏....,憶不盡, 相思血淚染紅豆,忘不了,新愁與舊愁....我定睛注視著隨歌曲而流動的視頻照片,當年的阿姨,當年的 電影,當年的演員,多麼意氣風發的當年啊....一直到片尾的燕子啊!燕子啊....啊....歌聲漸行漸遠,當 年的我,卻在不知不覺中,被呼喚了出來。
華嚴阿姨是母親葉蘋女士(葉霞翟校長)的文友,1961 年華嚴阿姨初試啼聲的第一本書《智慧的 燈》,一推出就廣受好評,那時才 8 歲的我,依稀記得母親的文友們曾談及此事,大家都被書中男女主角 鏡花水月的唯美愛情所吸引,可惜最終有情人未成眷屬,空留遺憾。大家給予此書好評的理由之一,用今 天的話語來説,就是「政治正確」,慧劍斬情絲。那時我還小,不懂愛情,卻能夠從母親與文友們的談話 中觀察出大家對阿姨知性文筆的肯定。母親與阿姨的姊姊辜媽媽(辜振甫夫人)熟識,二人當時同是士林 凱歌堂教友,常有往來,卻從沒有見過她的妹妹。第一次見面,我記得是在七張的榕石園。我跟著媽媽出 席此場由作家協會舉辦的花園午餐,當天風和日麗,花團錦簇,華嚴阿姨一身白色套裝,短髮墨鏡,如明 星一般,翩然而至,吸引住眾人目光,我睜大了眼睛,目不轉睛地盯著她看,心中充滿了羨慕。天哪!她 好美,又那麼有才華!從那時起,華嚴阿姨就成為了我的偶像。
大學畢業後我進入婦女雜誌社工作,曾任中央社採訪主任的張任飛先生是我的老闆,一日張先生走到 編輯室,指名要我為華嚴女士寫一篇專訪,而且要我專注報導她的養生之道。那時我和在中央日報擔任記 者的葉文可女士(華嚴次女)已經因為同行而結成好友,我向文可請教在她眼中母親的養生之道,好為自 己的專訪先做準備,她熱心地建議我不妨去她家實地見習,並且為我在她母親面前美言了幾句,使我順利 地獲得了一向不擅於與陌生人打交道的華嚴女士到府面見採訪的機會。
就從那次見面以後,華嚴阿姨與我之間的陌生感奇蹟式的消除了,如同阿姨常説的一句感慨:「人活 在世間,各有形色,談得來的遇上了,就是緣分。」如今回想起來,阿姨不喜歡説教,為文看重潛移默化 的功效,而她每一句語重心長的談話,對我而言,都是至理名言,都能夠心領神會的接受,這對當時二十 幾歲,仍然不知道天高地厚的我來説,尤其難得。我被華嚴阿姨居家樸實規律又簡單的生活方式吸引住 了,發現她的養生之道實在是起源於她的規律作息與節制飲食,她每日晨起運動,寫作,飲食都有定時定 量,我印象最深的就是她每日伏案寫作五,六小時,天天如此,她發明的健康飲食與現在專家提倡的大同 小異,差別只在她早在 70 年代就已經遵行自己的飲食療法。而她每日在松江路家中陽台上的健身操,也 是風雨無阻,生活在簡單的規律中,反而獲取了巨大的能量。
華嚴阿姨要求我以阿姨來稱呼她,並且主動關切我的交友與對前途的規劃。她曾經半開玩笑地對我說 道:為美,妳不要老花時間在我們老人身上,你應該和文可她們一樣,多和同年齡的孩子們交往接觸。她說到做到,立即替我安排了一場冰淇淋餐會,與辜家,葉家的孩子們相聚聊天,隔天還打電話來問我的感 想如何,是不是覺得自己的交友對象可以更加多元化,年輕化一些?
阿姨知道我喜歡她的文章,每出新書一定送我一本,她也喜歡我的作品,經常鼓勵我要多寫勤寫,我 在美國讀研究所時,收到她寄來滿滿一箱她的著作,慰我異鄉寂寥。養成我睡前讀書,安頓身心的習慣。 每當想起,夜讀她寫的《玻璃屋裡的人》,《鏡湖月》,覺得書中主角就是自己,那種知音之感,情難自 己,阿姨怎麼那麼神奇?會知道這麼多少女的心事?她心中一定住著一位小女孩。
華嚴阿姨用嚴謹的態度面對生活,用無私的愛心相夫教子,從 1922 年到 2022 年,她畢生 100 年的 歲月裡,總共完成了 22 本小説,五本散文集,60 餘篇短文,並且參與自己作品如《蒂蒂日記》,《燕雙 飛》等的電影編劇與配樂。她活出了每一位愛好文藝寫作的青年最大的夢想與可能,她活出了我最想要的 人生。如果時間可以重來,我希望自己能夠像她一樣,在三十歲時就開始每天記日記,在千禧年前就開始 像她一樣,珍惜自己的時間,做一個閉門寫作的上班族。
人生不斷往前走,自省與覺悟也永遠不嫌遲,聖經的教導給了我正面的思考與勇氣,回想起研究所畢 業後,我返國在台北成婚前,入大學任教後,再度返美依親外子前後,和阿姨在台北她家中吃過好幾次 飯,促膝長談,聊作品,聊感情,聊人生,每次都有聊不完的話題,感覺阿姨真的就是我的知己,她好懂 我,我們心意相通,她對我的告誡總是那麼恰到好處,而她本身的作品,總是帶給我安慰和尊嚴。她的作 品所拍攝出的主題,總是帶給我溫暖和希望。《智慧的燈》推出 50 年後,她寫的《夢回約園》,為她難 忘的這段往事做了後續與結語。這就是我的華嚴阿姨,重情又長情。對自己的感覺永遠負責到底!
我帶著華嚴阿姨的叮嚀回到美國,開始在異鄉的奮鬥,文可夫婦與我們住的很近,我們時相往來,阿 姨來美探望文可時,我們都會通話,見面。文可常説,她感覺到母親對我很看重,看重的程度與個人成就 無關,而是一種母親對待她們姐妹一樣的等量齊觀,從根本上的瞭解看重。我想這就是緣分了!我愛自己 的母親,感謝母親以身教帶我信主,尊敬母親奮鬥一生,永不屈服的毅力勇氣,華嚴阿姨也是如此,她的 自律毅力令我尊敬,她懂我文青糾結的少女心。我們是心意相通的忘年之交!每次回到台北看望她,一起 去天母吃牛排,鼎泰豐吃小籠包,永康公園旁的回留餐廳,也曾留下我們的足跡。
有阿姨的地方,就有她的快人快語,犀利有愛的笑聲,就像是她小說裡的某個主角,冒出來現身說法 一樣。華嚴阿姨製造出來的情境,永遠不會令我失望!
晚年的華嚴阿姨深居簡出,她和葉明勳伯伯夫妻鶼鰈情深,葉伯伯去世之後,她和兒子葉文立全家生 活在一起,小女兒葉文茲也住在附近,大女兒文心學姊和二女兒文可學姊都住在美國加州,文可幾乎每天 下午加州時間四點會和母親通視訊電話,文心學姊和她先生也常往返美台之間探視母親,幾年前,我返台 時還去看望過華嚴阿姨幾次,那時她的面色仍很紅潤,在三兩位看護,阿姨環繞之下,躺在病床上仍然很 健談,有次她的姊姊辜媽媽正好打電話來,她還開心地告訴辜媽媽説道:「為美來看我了!」
華嚴阿姨於2022 年12月10日病逝於台灣台北。享年100 歲。 「視頻拍的很用心,此時傳閱,更添不捨,華嚴阿姨的音容笑貌,由遠而近,猶在眼前,卻又淡淡隱
去,空留綿綿回憶,溫暖胸膛!謝謝文可賜閱!為美敬上。」 輕輕按下暫停鍵,華嚴阿姨帶給我的暖流,將永留心頭。
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2023年小记(上)
雾霾和沙尘过后,初夏的北京迎来了难得的好天气。这是个晴晴朗朗的早晨,适合穿纯棉的长袖长裤在林荫道上散步。
停下来写这篇记录的时候,回想起四月和五月,是格外忙碌的。但是人似乎只要早起做事,有所取舍,总是能找到时间。又快到年中,匆匆记下这篇流水,拯救不怎么好的记忆。
旅行篇_云南
过年从家回来,和曾经一起去过tw 柬埔寨 丽江&泸沽湖 泰山 (!)的老友去了云南。本想和去年同去海螺沟的好友一起三人旅行,因她手术日期突然提前,休假改为养病。
我提前两天到达,住了久违的青旅,在昆明慢慢的走。青旅里养了许多植物,公共区域清新畅快,露天处可以晒太阳喝咖啡,屋内可以台球唱歌。氛围很好,很像在厦门和tw住过的青旅,很适合外出旅行的青年人结伴交友。吃了几餐家常饭,云南的菌子炒饭怎么都是好吃的。早餐是米线或者稀豆粉饵丝,意外好吃,以至于回京之后尝试复制(未果)。
西南联大旧址在云南师范大学校园里。校园很静也很绿。进到当年的教室旧址,密密的桌椅,教室很矮。在动荡的年代,得是来到交通不便的云南,得以拥有一张安静的书桌。在教室里默默想象这里曾经的日常。北方人汪曾祺也爱云南,似乎是他说,来了昆明就是要生病,生过病,身体反而比以前更好了。从西南联大旧址出来,去到老街,在东方书店逛一圈。

第二天白天又是一个人,早晨去了同一家路边小馆吃了早餐,然后步行去到圆通寺。出来后,又坐公交车去了东方书店。到达时刚刚开门,坐在二楼最里面的位置,码了一小时字,直到窗边闻到米饭的香气。


中午吃过饭与好友碰头,开始两个人的旅行。先去翠湖,游人很多。据说因为远方森林火灾,海鸥都飞回昆明,翠湖也聚集了大量海鸥。应付着晃一圈,打车去到滇池。这滇池可是真大,像海。开阔的水面,风很大。沿着观海的路一直走,很是惬意。

坐高铁去到大理。洱海和大理的天空不会让人失望,干净而辽阔。大理环洱海而建,但不曾在中间修桥,由A点到B点没有近路可抄,于是最方便的是包车环湖而游。一路从不同角度,看海和树,看桥,看人,看天。被阳光和温暖的气候包裹,去哪儿似乎都好。
傍晚回程开始堵车,堵了近1小时。补偿是在高速路临海处,我和阿薛像是回到n年前在垦丁骑行时那样,一起看一场海边的落日。


作为游客打卡结束,第二天早晨起来看日出。从山间露出的第一束光到完全升起,用时3分钟左右。


白天坐敞篷小蹦蹦去床单厂艺术区,概念类似于798,但显然更接近初创时期的自由状态。不知这里摆摊的规则是否是先到先得。总归是,有什么手艺就卖点儿什么,也有卖“聊天”的外国人,和想唱就唱的游客,出摊摆着各种书法的摊主——“摊主去相亲了,价格随喜”,原来摊主是个自由职业的会计师女孩,一头卷发,安静少言但很亲切的样子。当然也是有看起来更为气派的vintage店,摆放着1913年的显微镜和(德国?)某不认识的勋爵的结婚证书复刻品。柜台后做作业的小孩,看起来轻松自由的店员。想起住的���店附近一家上榜咖啡馆,本想去打卡吃吃这对年轻夫妻做的蛋糕,走去发现关门,1米宽的门脸,小窗户上写“主人去脱水了,1周后回来。”

工作篇
从昆明的东方书店带回一包花籽的盲盒,是《请你种下这本诗集》的创意。每一包花籽对应一种植物、一首诗。和顺顺弟弟及女友、小张、阳阳一起吃饭,提前买好花盆,请大家抽盲盒。最后剩下的是欧芹和加利福尼亚原生花种,便由我带回家。雨水时节后,我种下他们,花花的嫩芽两日便破土而出。欧芹长得慢些,一周后才冒出小芽,但着实可爱。


一年之计在于春。过去几个月,我的轨迹似乎同播下的小种子一样,奋力向上。寒假和好友打赌,今年的国社一定不能拖延至最后,一定要尽力先完成、留下充分时间好好打磨。于是赶在过年前写好初稿,给老师和师兄姐们看过。这次资料检索的过程中,又尝到了在BJ的好处,虽然住得离国图不算近,但总归是,想看的书去一趟便能看得到。如果馆藏没有,也可以实名推荐采购。虽然推荐的书还没有下文,但还是觉得这种社会人人可荐书的机制是一种信任,也拉近了读者的距离。在国图工作的老师似乎对图书也颇为爱惜,外借英文书归还时,十分仔细的检查有无污损。
未开学时还完成了英文proposal的写作,在农历二月二以这份proposal开始联系出国事宜。这之后,事情的发展有诸多机缘巧合,但似乎又顺理成章。期间还有些准备(虽然最后没用上),读到一本女性主义视角重写国际法院经典判决的书。最重要的是,在写了一些东西后,似乎越发明确了自己近三年的研究重点,有点像是对待开窍后自选的博士论文那样,对待这个自己浅浅尝试的选题。围绕这个主题,过去几个月固定成文的成果,大概就是8000字左右的申报书,1篇20余页的英文文章。但是,实质内容还是在去年年底做的研究,只是一直在润色表达、改换说法,并没有创造性的进展。下半年要继续拓展新的内容了。
如今想来,在摸索研究兴趣和研究方向的过程中,尽管分明知道工作、生存最讲“效率”,也知道时间宝贵,但终归还是“纯粹”二字更适合“学问”。这世间很多事,固然是辛苦受罪才有所得,但是勤奋与享受也未必总是矛盾的。纯粹,热爱,会使那些旁人看来很苦的事情变成日常,经历中的人或许乐在其中,都是心境不同。
似乎是这样:没有白读的书,也没有白听的讲座,就算他们或许看起来“无用”。自己不给自己设限,便是自由的。这自由散漫,是允许自己在离散的、林林总总的积累中聚合成自己的某些特征,待某些属于自己的形状自发形成、渐渐明朗之后,再去有意识的介入、培育、修剪、打磨。在这个过程中,无疑是需要一些运气的加持。于是令人心怀感激。做研究走到这个阶段,似乎摸到了一点学术圈的边,也渐渐对圈内的为人、学问、品格、才学有了一些自己的观察。感激那些让我仰望的人,感激他们具体的、灯塔一样的存在。感激冥冥中指引我找到方向、放我进入轨道的能量场,未来三年,请多多指教。
上学期的课很少,且面授的对象是已经比较熟悉的大三学生,备课上课的体会不多。有一点心得可能是,研究与授课确实是相互促进的,因为长期投入研究而增加的底蕴,会让授课时的自己更加驾轻就熟地表达。更确信,而确信和坚定的老师总是散发魅力的。
生活篇
吃&喝。这几个月外出吃的最多的就是日料。在家吃的有点糊弄,所以胃没养好。排行第一的无疑是九本,食材好,什么都好吃。忙成狗的那一周,昌平上完课后,下午两点到九本一人吃午饭,吃寿司、鹅肝饭、乌冬面、北极贝刺身,真香。常去的理发店旁边,<鲸>的芒果鹅肝寿司很惊艳。古琴老师家附近日料店的鹅肝饭也很赞。
社科定稿前的一两周,特别是五一假期的几日,一面独自抗拒某人热烈的表白,一面尽可能集中精力完成这重要的写作任务。爸妈运来的一箱红酒派上了大用场。一边喝一边写,写到昏头,就畅快的聊聊天,然后去睡。半夜起来口渴心惊,但第二天不会太过难受。在上海出差时,那情绪仍然没有消化完毕,每每一个人,就要一边喝酒、一边工作。与喝酒有关的那段情绪,如今已经归于���静。有些体会只适合跟最亲近的分享。总体来说,是多年不曾体会过的热烈,也是一段还算精彩有趣的人生经历。那心情,姑且以好友发我的蓝楹花作为纪念吧。



听。坂本龙一先生说,
Ars Longa, Vita brevis. 艺术千秋, 人生朝露。
这话贴在我右手边。我会一直记得。晚安,坂本龙一先生。
三月份去看了惘闻的现场。票不难抢。五棵松的MAO有点小,震耳欲聋。听到第一首时十分震撼,一度掉泪。不过最喜欢的还是水之湄,现场听到这首最熟悉的旋律还是很触动。

读书。这两个月几乎没有读什么书的。当然,电视剧和电影更没什么功夫看。翻了几页的,不说也罢。认真读完的只有《牧羊少年奇幻之旅》。其他非专业类的书,是大学和中庸。大学是四月份背完的,中庸还在看。似乎,孔子的话,君子之道,有许多要求,之于老师是十分适切的。目前最喜欢的一段是《中庸》里,说
唯天下至诚,为能尽其性。能尽其性,则能尽人之性。能尽人之性,则能尽物之性。能尽物之性,则可以赞天地之化育。可以赞天地之化育,则可以与天地参矣。
大学和中庸里的话,时而恢弘大气,鼓励远大理想和圣人的至高境界(例如,“与天地参”),时而务实、十分接地气,“夫妇之不肖亦可行”。“秦以上书,一字千金。”很期待接下来的内容。
之前众筹买的文库本也早就到了,得看啊。这下半年,时间重新回到自己手里,那就,好好读书吧。

聚会。带着三个老友回我贸附近吃饭,看花。真好,我爱的人眼里都是爱。校园里的西府海棠美得不俗。正值清明,折柳枝回家。每个人都找到了四瓣丁香。最忙的时候,仍然能在老友的办公室一起吃她“豪掷”请吃的外卖。一块散步时,好友说着说着,因为担心我而哭起来。我逗逗她又抱了抱,只是一味的笑,告诉她没事的。果然,事情都未发生,发生的也平息了。

纪念。去年投的论文获奖,疫情后这第一次参加线下的全国性会议,一下看到许多熟悉的面孔,让人十分雀跃。最值得纪念的是两个瞬间。一是带自己学生参会,见自己的导师,那感觉实在太奇妙了。在老师迎来送往的忙碌中,我跳起来给老师指了指自己的学生,老师说,“我看出来啦,看她们看你的眼神就知道”。在上台等待领奖时,我看向老师的背影,老师正好回头看我,冲我一笑。那样美的一笑,我瞬间湿润了眼眶。记忆里,老师从来不曾直接夸过我什么,但是那个眼神我好像看到一切,期许、骄傲、肯定、欣慰。这可能是近几年让我最难忘的一幅画面。
行走。从家里的窗户望去,有时候可以看到很美的月。

在上海出差,在房间看到美好的落日。

江湾区真绿。好喜欢。fudan是第一次来,在我心中超越了清北,是我见过的最有底蕴的中国大学校园。

差不多就是这些,想到什么,再另写吧。
2023年5月22日
于北京家中
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