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胖媽炒麵 | 勤美綠園道附近美食推薦,模範街必吃台中炒麵~
勤美綠園道附近的《胖媽炒麵》可以去吃、大吃特吃、反覆的吃!這天去吃勤美美食,沒有選市民廣場周圍的台中美食店家,而是相隔一條街的模範街,這條路上的台中小吃也超級多!有人潮超扯的黃家園蒸餃、剛介紹沒多久的葉小籠包跟這次要介紹的胖媽炒麵,當然還有其他間還沒吃還沒分享的店,《胖媽炒麵》的招牌台中炒麵真的很可以,肉燥給的多、有蒜泥、麵條Q有勁,還有加了東泉!這必須得推推阿~ Continue reading 胖媽炒麵 | 勤美綠園道附近美食推薦,模範街必吃台中炒麵~
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西武現實主義(Seiburealism)
/ Victor Burgin, 1989
四月的東京。在上野公園,櫻花低垂如雲,野餐席遍布��下。啤酒潑灑成水漥,載著狂歡人群的塑膠布筏子順著櫻花樹大道漂流(每艘筏邊整齊地擺放著一圈鞋子)。這些���青河流的兩岸擠滿觀光客,他們既為櫻花短暫盛放的美感所吸引,也沉醉於花見野餐所展現的景象——櫻花短命的綻放成了這場狂歡的道德藉口、一種死的提醒(momento mori)。櫻花影像被傳輸到西武百貨澀谷店,以環境影像的形式出現在店內各處。透過十二層樓的螢幕、交錯的手扶梯與電梯中,櫻花在商場每個角落綻放;如同富士山的影像(櫻花融化為山景,伴隨著約翰·藍儂《Imagine》的旋律);又或是街上的路人影像,被隨機捕捉,短暫地使螢幕成為千扇窗戶,讓人望向外部世界。(從外頭望上,百貨外牆橫跨數層樓的數位螢幕上,行人可能只看見巨大的魟魚,在海底悠然擺動,然後畫面轉化為像素化的動畫新聞,播報最新的人質危機。)
班雅明(Benjamin)曾視十九世紀的購物商廊為從街道過渡到百貨公司之間的中介階段。商廊——一條室內街道——白天靠天窗照明,這種大片透明玻璃得以實現,乃因為鐵架的支撐使其成為可能。抬頭望去,人們可見白日的雲朵,或夜晚的星空。在西武百貨中,這些鐵框玻璃矩形彷彿已從格子中爆裂而出;我想像它們在電腦動畫中慵懶地翻滾,變形為無所不在的視訊螢幕。在一種與時間無關的均勻冷光照射下,這些螢幕可以顯示雲朵、火星地貌,或任何可用二進位編碼定義的影像。東京位於富士山以東約百公里之處。從江戶時代(1600年)起至明治末年(1912年),富士山仍可間歇而清晰地從市內望見——成為一種固定的時空精神指標(在東京,能望見富士山之地即為「名所」)。如今,建築與空氣污染抹去了富士山的輪廓,至少在肉眼中是如此。新的參���點、新的「山」,在城市中自身誕生,成為僅能從百貨公司中看到富士山的景觀。儘管如此,觀看富士山的現象學經驗仍保留於百貨空間中——人們在穿越商場、從一處螢幕移動到另一處時,如同昔日穿越建築縫隙偶爾瞥見山景一般。
日本人稱為「立讀(tachiyomi)」的行為,是一種移動中、隨機式、斷續式的閱讀方式:翻閱漫畫與雜誌,只是路過隨手翻看,並無購買意圖;或在地鐵上從鄰座撿起報紙隨意瀏覽。安德烈・布勒東(André Breton)曾回憶戰時與賈克・瓦謝(Jacques Vaché)在南特的日子,他們的習慣是「無論正在播放什麼,都隨意走進電影院,看到哪裡算哪裡,一旦感到無聊便馬上離席,前往下一家影院,如此不斷輪替」。如今我們不斷切換電視頻道。(有段時間,在紐約某些餐廳流行「瀏覽式點餐」——這嚐一點、那吃一口。)觀光客也像這樣「套餐式」地體驗文化:在這座城市待兩天,再去另一座城市幾日(就像我如今在這區閒晃,在那區遊蕩)。而日本人不也常被說是「瀏覽」西方文化、取其所需再「本土化」的代表嗎?如果文化本身是複雜的文本,那麼它們如今已成為富裕與閒適者邊走邊翻的文本——無須承諾,只是移動中的一瞥。
在這間西武百貨的書籍部(藏書四十萬冊,我甚至找到兩本由密西根安娜堡的UMI學術出版社出版的超現實主義論文),一整面牆成為了放映螢幕,播放經典好萊塢電影的片段——以主題分類,其中之一是「戰爭」。畫面上,美國轟炸機正準備夜襲(東京曾在戰爭中遭遇毀滅性燃燒轟炸),畫外音堅定表示:「無論敵人藏在哪裡,我們都會追擊。」螢幕右側,在轟炸機飛出畫面之處,擺放著一座展示模型——燒焦的塔樓,其頂部爆炸場景正是電影《魔鬼剋星》(Ghostbusters)結尾的鏡頭之一。
(布勒東初識瓦謝是在1916年的軍方精神病院,當���布勒東是實習醫生,瓦謝是病人。其他病人中,有一人堅信所謂的「戰爭」不過是模擬場景;砲彈是道具,傷口是化妝;死者是從醫學院解剖台上帶來的屍體,趁夜散佈在假的「戰場」上。)美軍轟炸機由畫面左側飛向右側,如同西方的閱讀方向。而在書區翻閱時,我又看到一部漫畫,開頭描繪的是日本轟炸機自右向左起飛。它們先摧毀珍珠港,然後轟炸美國本土。接著,日本士兵踢破美國住家的大門。一戶家庭——男子、女子與一名幼童——蜷縮在客廳中,被士兵襲擊。男子遭殺害。士兵開始撕扯女人衣服,孩子哭喊。一名日本軍官抓起孩子的腳踝,以一個橫跨雙頁的弧線將他甩向牆壁。孩子的臉部從頭顱撕裂開來,飛越畫面,拖出一道墨筆揮灑般的筆觸,讓人聯想到禪宗書法。接下來半頁畫面中,女人遭輪暴(其哀號以英文呈現),最後士兵們聚集起來,坐在倒塌自由女神像的伸展手臂上合照。下一頁,也是最終頁,我們看到裕仁天皇騎馬現身。有人說,東京之所以安全,是因為所有暴力都被收納於這些漫畫中。
布勒東在《超現實主義第二宣言》中曾寫道:「最單純的超現實主義行動,就是手持左輪手槍,走到街頭,盡你所能隨機射擊群眾。」如今,這樣的行為雖然不常見,卻也成為日常生活中的一種現象。有評論指出,第二次世界大戰的爆發令超現實主義失效,因為現實世界的暴力早已超越藝術所能預見。(盟軍登陸時,超現實主義攝影師李・米勒(Lee Miller)遊走於滿目瘡痍的街道,每扇門像是通往駭人而奇幻的風景。有次她不慎踩到一隻人手,撿起後憤怒地將其拋向街道。)但人們往往忘了,超現實主義始於第一次世界大戰,其戰間期的重要使命之一,正是將日常生活中的恐懼與失落加以昇華——轉化為幻想,特別是在性愛的範疇中。
在街頭,人群偶爾會突然分開,使人瞥見某個身影、某張臉,但那一瞬即逝,卻觸動了情慾神經。班雅明稱之為「最後一瞥的愛情(Love at last sight)」。百貨公司則提供這一現象的變體:透過那些輕薄帷幕圍成的小空間,女性離開觀眾群,成為被觀看的對象——不僅為了自己與其他女性目光的觀賞,也為那因帷幕掀開而勾引來的非法凝視所設(羅蘭・巴特曾問:「身體上最具情慾性的部分,不正是衣物掀開之處嗎?」)。我匆匆轉移視線;某些光線在鏡面空間內反射、延遲,在我視網膜上形成混亂(與其說是超現實,不如說更像立體主義),只能依靠記憶,在其中提取出一段熟悉的、被愛的身體片段。班雅明在論述超現實主義的文章中寫道:「在秘儀式的愛情中,女人本身並不重要。布勒東亦如此。他與娜佳(Nadja)親近的,不是娜佳本人,而是娜佳身邊的事物。」我們可以將這種「秘儀愛」以臨床術語命名——「戀物癖(fetishism)」。百貨公司,作為商品戀物的神殿,也召喚著佛洛伊德所言的戀物心理。男性漫遊者(flâneur)若欲前往正當之地,勢必得穿越洋裝海洋與香水濃霧的沙漠。他別無選擇,只能進入這些禁忌之地。他的藉口天衣無縫,而內心的罪惡快感則無可迴避。當他在衣架間無意識地翻看服飾時,或許以為自己在為情人挑選禮物,但同時他也正盲目地觸摸著母親的身體。某刻我在西武感到口渴,找到了飲水機,其透明上層水流覆蓋著石礫——彷彿是一段溪流被切割下來,擺放於展示台上的自然部件。
在街道層,有一家以廢墟為造型的酒吧(採用「後末日建築」風格),其立面突出一段飛機機翼,下懸的引擎艙象徵性地讓人聯想到曾夷平越南的 B-52 轟炸機。在奈傑爾・柯茲(Nigel Coates)設計的 Café Bongo 中,「內部空間」衝破與「外部空間」之間的脆弱邊界。在同一個六本木(Roppongi)地區,為時裝設計師安傑洛・塔拉齊(Angelo Tarlazzi)設計店鋪的建築師八束一(Hajime Yatsuka)曾說,他將整棟建築構思為城市的「內部」。班雅明曾評論:「對於漫遊者(flâneur)而言,街道就是他的住所;他在房屋立面間的感受,猶如市民置身於四面牆內一樣自在。」百貨公司已成為那些從榻榻米小房間逃出的富裕難民的共同居所,他們在地鐵裡入睡。在城市各處,人們沉睡的景象隨處可見。男性躺在西武百貨各樓層扶梯轉折處旁的寬大沙發上,看似專為此而設(否則用途為何?),進入沉睡。
在這家百貨公司底下的有樂町地鐵站內,年輕的女性上班族也入睡著。她們從城市邊緣通勤,來回奔波於狹窄的住處與辦公地點,週末則重返澀谷、銀座、池袋,或其他西武分店。她們購買的是三宅一生(Issey Miyake)、Comme des Garçons 等品牌的服飾,而這些品牌對歐美的同齡女性來說幾乎遙不可及。從她們狹小房間出發,搭乘約一個半小時的列車,度過一天如遊蕩者般的生活,徘徊於西武那奢華至極的空間——這些空間透過無所不在的環境影像,開啟通往無限空間的通道。作為來自英國北部工人階級家庭的流離者,我想起了那位較富裕的姑媽家中的「前廳」(frontroom)。那是一間擦得發亮、充滿蠟香的房間,平時封閉,只在打掃或有訪客來時才會開啟。來客可以看,但不能碰,只能站在敞開的門前觀看,而不能踏入其中(這間「起居室」沒人坐,這間「客廳」裡也無人交談)。這房間彷彿是一個全息投影的模擬空間,只為提供心理上的額外生活空間,如同西武百貨所帶來的慰藉一般。在西武百貨,正如其西方對應對象(至少在這方面),家具部就如同無數富人家庭的前廳;彷彿從其原始情境中抽離,再「傳送」到這座城市的樓層中——這座由無數「前廳」構成的城市,雖然沒有牆壁,卻以內部街道相互隔開,主要用途就是用來閒逛(flânerie)。
尚–盧・高達(Jean-Luc Godard)曾表示過這樣的想法:既然任何東西都可以被拍進電影,那就所有東西都應該被拍進電影。比起電影,西武百貨更是一場由異質集體所創作的組合展——包括買手、租戶精品店業者、駐場視覺藝術家、圖書管理員、旅行社人員等。這裡沒有「作者控制」或「敘事封閉」的概念(因此也不需要布勒東與瓦謝式的���避);其組織原則早已是非整體的、務實的、機會導向的。在某種程度上,這場組合也可視為一種整體,由此構成的過程類似於超現實主義者的集體書寫實踐。
西武百貨是超現實主義於後現代階段的作品,一件無盡變奏的作品,由遊蕩者(flâneur)「自動書寫」而成,其對於商品的興趣與對所處空間的興趣無高下之分。(班雅明有句格言:「建築是在分心狀態中被欣賞的。」)
在日本,想看一場重要的藝術展覽,你有很大機率會在百貨公司,而不是美術館看到它。當西武百貨展出尚・杜布菲(Jean Dubuffet)的作品時,東京上野公園內的東京都美術館也於1988年4月開展名為《1920年代的日本》的展覽。我在那裡得知,1923年摧毀東京的關東大地震,被視為日本「機械時代」藝術的開端。布勒東的《超現實主義宣言》與《超現實主義革命》首期,也是在1924年的巴黎發表。在東京都美術館,我發現大量機械美學影響的證據,特別是包浩斯(Bauhaus)對視覺藝術——攝影、繪畫、建築、工業設計、電影、劇場設計、時尚等的深遠影響。同時也能看出德國表現主義的廣泛影響,尤其在劇場與電影領域;而隨著1920年代結束,愈來愈多政治啟發下的「寫實主義」創作開始盛行。然而我幾乎找不到任何關於超現實主義的明確跡象。並沒有理由認為當時的日本在1920年代對於超現實主義的了解會比其他歐洲美學運動來得少。1970年,瀧口修造(Shūzō Takiguchi)——在布勒東與艾呂雅所編的《簡明超現實主義辭典》中被列為「超現實主義作家」——曾寫道:「在日本,從未出現過像法國那樣的超現實主義團體。」我無法判斷超現實主義在戰間期或今日的日本意味著什麼,也無從推測它未能代表什麼;我確定的是,它的意義絕對與我自己的理解不同。許多超現實主義研究者認為,這場運動的編年史應該終結於1968年五月事件。而就在同一年,一個法國電視台團隊前往東京郊區採訪三島由紀夫。他是傳統價值的擁護者(兩年後,他將以近乎完美的切腹行動實踐他的理念),當時他住在一間宛如法國蔚藍海岸別墅的宅邸中。一樓以十八世紀法國風格裝潢,而樓上則採用現代國際風格設計。三島說道:「在這裡,只有看不見的部分才是日本的。」
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2024年主催イベント・アンソロ振り返り
#一次創作イベント・合同誌主催や創作者に寄与する活動をしている人が1年を振り返る アドベントカレンダーに参加します。うぉんさんお誘いいただきましてありがとうございます。
初めましての方もいるかもなので簡単に自己紹介。オカワダアキナです。小説を書いて同人誌を作っています。おもに文学フリマなどの即売会で頒布しています。 小説を書いて本を作るようになったのは2015年くらい。イベントに出るようになったのもそのころ(それまでは演劇をやっていました)。初心者とは言い難いですがベテランってほどでもない…いわゆる爆売れはしてないですが自分としては本当におおぜいの方に作品を手に取ってもらってありがたいな…みたいな感じです。 受賞歴や商業出版の経験はありません。まあなんかこうわたしくらいのものを書く人はおおぜいいて、これといって秀でたものや特別なものはないよなあと思っていますが、でもわたしはわたししかいないからな…!(ものすごいポジティブみたいだけど、これはちょいちょいプリパラアイドルのマインドが顔を出す感じです…) 即売会だと純文学ジャンルで出ていますが、クィア文芸みたいな言い方をしたほうがしっくりくるのかも?と最近は思っています。J庭などボーイズラブのイベントにも出ています。だいたいいつも性の話をしている。
[主催したイベント&アンソロジー]
2月 コピー本交換会@つまずく本屋ホォル 5月 『庄野潤三「五人の男」オマージュアンソロジー 任意の五』主催 7月 任意のリーディングパーティー&五人の男たちブックフェア@犬と街灯 12月 ドキっ♡作者だらけの本屋ナイト@platform3
アンソロジー主催は何度かやっていますが、イベント主催はこのコピー本交換会が初めてでした。すごくドキドキしながらやってみて、でもこういう規模感ならわたしにもやれることがあるのかもと思って、今年はいろいろチャレンジしてみた感じです。といっても小さなスケールで個人的なものなので、誕生日会とか忘年会の幹事をやるみたいな感覚だったかもしれない(どっちもあんまやったことないけど)。 つまずく本屋ホォルさん、犬と街灯さん、platform3さん。いずれも独立系書店さんと協力して開催しました。自分の同人誌を置いていただいているお店で、わたしの活動や作風、ポリシーなどをある程度知ってくださっているので相談がしやすかったです。みなさん本当に親身にきいてくださりありがたかった。
また今年はいろんなアンソロジーにお招きいただきまして、たくさん寄稿させてもらいました。そうすると腰を据えて長編に取り組むのは難しいなあと思って、それならアンソロやろっかな! イベントとかもできるかな! みたいな感じでした。われながら勢い任せだなあと思うんですが、せっかくいろんな本におじゃまするのでいつもより開いた活動をしたいなあと思ったのもあります。 そういうわけでずっとドタバタしていましたが総じて楽しかったし幸せな時間でした。ほんとはもうちょっと身軽なときにやるものだったかもとは思いつつ、身軽なときというのはなかなかやってこないので、えいやっとやってみてよかったように思います。
以下、それぞれについてとりとめなく振り返ります。ノウハウのようなものを期待する人もあんまりいないと思いますが、個人的なレポートとしてもあまり参考にならないような話ばかりで恐縮です…。 先に結論のようなものを書いておきます。こういうイベントやアンソロジーの主催を通していちばん心に残ったこと、大事なこと、大きく感情が動いた瞬間や怒ったり笑ったりしたことは、本当にわたしの個人的なことで、こういうまとめ記事に書いてもあんまり伝わらないのかもなあと思います。そのとき一緒にいた人にしかわからないことばかりで、こういうところに書いちゃだめだろうなあということもあります。 Twitter(X)が壊れ、文学フリマの規模が大きくなるとともにようすが変わり、場や人の変化を日々実感しています。そういうなか、小規模な場所や自分で作った場所でその場限りの感情があったことが、わたしはとてもうれしいし感慨深かった。そういう「個」に立ち返ることを強く意識した一年でした。
[コピー本交換会]

2/18(土) つまずく本屋ホォルさんにて コピー本を作って物々交換する会。売り買いの場はすでにいっぱいあるからなんかそうじゃないことをしたいなあと思った。 それぞれ5部とか10部とか持ち寄って交換する。当日来られない人は郵送でも受け付ける。競争や選別ではない場所で作ったものをシェアする…これは一からアイデアがあったわけではなく、昨年「陰気なクィアパーティー」というzineの交換イベントに参加して、こういうのいいなーと思って真似してみた感じです。
つまずく本屋ホォルさんの2階(ふだんはコワーキングスペース)を貸切にしました。深澤さん吉田さんが本当に親身になってくださって、事前の打ち合わせでコンセプトの共有がしっかりできたのがありがたかった。わたしのフワフワしたイメージを丁寧に解きほぐしてくださり、方向性が定まった感じです。 13時〜19時までをイベントの時間として、途中で「本作り座談会」というトークイベントっぽいものをやったり、交換したコピー本やわたしのおすすめ同人誌zineなどを読める読書スペース、シルクスクリーンで遊ぶコーナーをやったりしました。またホォルさんの複合機を使わせていただき、その場で出力してコピー本を作れるコーナーも。場所が広いのでいろんなことができて楽しかったな。
思ったよりおおぜいの人が来てくれてうれしかった。わたしとツイッターやインスタでつながっている人、イベントで知り合った人、そういうわけではないけどどこかでイベントを知ってくれた人、ホォルさんについているお客さん、そのお客さんの知り合い…。必ずしも同人誌の活動をしている人とも限らなくて、何か書きたい人や書いたものを読んでほしい人はおおぜいいるんだなあと改めて実感しました。またわたしが小説の活動をしているので小説の人が多いかなーと思っていたのですが、そうでもなかった印象です。 そしてみなさん思ったより長い時間会場に滞在して��ださって、13時の開場前からぽつぽつ人が来て座談会スタートの17時にあわせてずっと人が増えていった…という感じでした。会場のホォルさんからも、こういう出入り自由のイベントでみなさんが長い時間過ごしてくれるイベントはめずらしいとのことでした。座談会では人が座りきれないほどで、冷房つけるか?という熱気でびっくりした。正直ぜったいひまになる時間があるだろうなーと思っていたのと、トークはまあ5人くらい集まればいいかな~と思っていたのでうれしい誤算でした。
どなたでもOKにするのってけっこうドキドキしたんですが、意識的にそういう場をやらないと自分が閉じていくなあと思った。即売会でもオンラインのやりとりでも、だいたい決まった人とのつきあいになっていく。それは自然なことだけど、予備知識なくふと出会った何かしらを読んでみる、読んで面白がってみるっていうのは、作品や他者に胸襟を開く訓練でもあるよなあみたいなことも思いました。めちゃめちゃ自戒ですが、自分の思う面白さや好きってけっこう狭い範囲で固まってしまうから、意識的にこういう機会を作るのは大事かもなーと思った。
本作り座談会は、谷脇栗太さん、瀬戸千歳さんをゲストに呼んで装丁とかアンソロの作り方とかの話をしました。ほぼふだんのおしゃべりのノリで完全に無軌道に話し…。まあ出入り自由イベントだからお客さんも好きにしてくれるだろうと思ったんだけど、けっこう最後まできいてくださりびっくりしました。2時間半ほどしゃべってたみたいですね…。 クリタさんくらなさんがほんとにお話じょうずで助かりました。さっき作品や他者に胸襟を開くと書いたけど、そういうことが普段から自然に身についている方々で、ずっとリラックスしてしゃべれました。この装丁がよかった!とかこんな本作りたい!とか、けっこうマニアックな話もできてうれしかった。お客さんからの質問もいろいろ受けました。いっこ申し訳なかったのが、わたしはおおぜいの人の前でお金の話をきかれるのがあんまり得意ではなくてちょっとちょけた回答をしてしまい…。親しい人とクローズドな場でなら話せると思うので、その場でそう言えたらよかったな。
けっこう緊張していましたがほんとに豊かな時間でした。いわゆるスタッフがわたし一人でドタバタだったので、写真とかほぼ撮れずだったのが心残り。。どなたかに記録係をお願いするべきだったなあというのはこのあと毎度思うものの毎度忘れていますね。。




[『庄野潤三「五人の男」オマージュアンソロジー 任意の五』]

5/19 文学フリマ東京で刊行。 庄野潤三の「五人の男」という短編を足がかりに、父性や男性性について問い直すというアンソロジー。わたしは「五人の男」がすごく好きで、これ自分だったらどういうふうに書くかなあ、あの人だったらどんなふうに書くかなあと、最初の思いつきはすごくシンプルだったように思います。 1月終わり〜2月入ったくらいで声をかけ始めました。同タイミングで家父長制アンソロジー『父親の死体を棄てにいく』に参加していたので、なんかこう裏番組的なアンソロがあったらいいかなみたいなみたいな気持ちで始めたんだった気がします。上記コピー本交換会の打ち上げでも声をかけまして、直接会ったときにお願いするのってあんまりよくないよな〜と思いつつ(断りづらいだろうし)、でもなんかすごく楽しい気持ちでいっぱいだったので思わずお誘いしてしまった。
わたしが書いてほしい人にお願いしたアンソロで、今回は公募はなしにしました。コピー本交換会を誰でもOKの場にしたので、こっちはがっつり自分の色を出していこうと思った。イベントをやるのも本を作るのも「広場」みたいな気持ちでいるのかも。このアンソロはそんなに大きな広場じゃないかなあと思った。 いわゆる作家研究とかファンブックではなくて、とはいえ大喜利っぽい感じにもならないような温度感でやりたかったので、また父性や男性性というテーマを含む本だったのでそのあたりの話がしやすそうな方に声をかけたつもりです(実際に作品を作る中で各人と突っ込んだ話をするわけではないんだけど)。 今回はわたしが一方的にファンで作品を読んでいる方や、同人誌の活動はしていない方にもお願いしたのでけっこうドキドキでしたが、みなさん快く引き受けてくださり助かりました。長らく大ファンの晋太郎さんにお願いできたのは自分の中でもちょっとじーんとくる出来事でした。
〆切は5/10。文フリは5/19なので5/15か16くらいに入稿すれば間に合うっしょみたいなスケジューリングで、正直これは無茶なことをやっています…。5月文フリあわせのアンソロってだいたい2月末〜4月末が〆切で、わたしもそこらへんに提出する〆切いっぱいあったので、ちょっと時期をはずそうかな〜みたいな軽い気持ちでした。結果的に入稿したのは5/17で、仕事の昼休みに入稿。 このあたりの感覚はわたしがギリ入稿慣れしているのもあるし、パッと書いてパッと作る同人誌感を大事にしたいというのもあるかも。文学フリマはしっかり作った本が多いし商業誌もたくさん並ぶようになったので、わたしの活動はぐちゃぐちゃのままやっていってもいいんじゃないかと思っており…。 ギリギリにならないと動けない、計画的にものごとをやれない人も同人誌をやっているし、できるよ!というのを見せていきたい気持ちがあります。あとまあこれはわたしに無茶をやれる経験値がついてきたのと、無茶をやれる体力がまだある、そのあたりのバランス的に遊べるのは今だな…!って感じでやっていることでもある。14人中6人が〆切に間に合わなくて本当にヒヤヒヤしたけど同人誌作ってるな〜!という感じでよかった。
ものすごいドタバタで作りましたが、組版や表紙を自分でやった本なので作業自体は迷いなくパッとできました。思っていた以上にクィアやプロテストへの言及を多く含む、なんていうかバキバキの本になってよかった。先に作っておいた表紙はグレーっぽい色味だったんだけど、これはもうちょっと色が入っているほうがいいな…と思ってピンク寄りになった。


[リーディングパーティー]

7/13(日) 犬と街灯さんにて 五人の男アンソロの関連イベント。作品の朗読、好きなところや感想などを話す時間。要するに読書会なんですがアンソロ参加者さんに集まってもらえるのがとってもうれしくて「リーディングパーティー」というちょっとテンション高めのネーミングにしました。 本の販促というよりは、書いたものや読んだものの話をしたい…!作った本を作りっぱなしにしちゃうのがもったいない…!みたいな気持ちからやってみたものです。��集作業中にこれはなにか作品について話す場を作りたいな〜と思って、打ち上げ時に打診したんだった記憶です。 なんていうか、SNSの宣伝の文言でコンセプトや作品の紹介をするだけでは足りない、もっと「読んだ」話をしたいと思ったの。ちょっと話が飛躍してきこえるかもしれないけど、ジェノサイドに抗う、差別に抗う、そういうことへの態度や実践として、作品の細部を見つめる、具体的な小さい話をたくさんやっていく必要があるんじゃないかなあと思っています。個別の話、個の話。
朗読は暴力と破滅の運び手さん、兼町ワニ太さんにお願いしました。運び手さんはおもちゃのピアノと魚肉ソーセージを持ってきてくださって…という話は作品を読んでる方にはとっても楽しい…! たくさん笑顔になりました。ワニ太さんは、作品のどこを読みますか?とその場でリクエストにこたえてくださって、タヌキのところとパンダのところをお願いします…!とお願いしました。声に乗せて読んだときの方が切ない手ざわりで感嘆しました。 そしてこの日はKaguya Booksさんの朗読ライブがあって、完全に日時がかぶってしまい…申し訳なかった…。お声かけしたのがこちらのほうが早かったとはいえ運び手さんがリーディングパーティーに出てくださったのはほんとにありがたいことだなあと思いました。井上彼方さんと相談し、途中で中継をつないでコラボっぽいことをしたのが楽しかった。前日京都にお伺いして特典ペーパーの受け渡しをし…というのもおたがいとってもドタバタで、彼方さんが書店さんに納品に行くところに追いついて道端でサッと渡したのがなんかスパイっぽかった。
こういうイベントはわざわざ人間が一箇所に集まらなくてもできるような気はするのですが、集まること、会って話すことに重きをおきたかった。また刊行が文学フリマ東京だったので関西方面でなにかやりたいなあという気持ちがあって犬と街灯さんにお願いしました。書いてくれた方々、文フリで会えなかった人たちに会いに行きたい…!という気持ちもありました。 とはいえ同人誌の読書会ってあんまりない気がするのでけっこう緊張はしていました。お店の広さやコンセプト的におおぜい集客する必要はないんだけど、内輪っぽくはなっちゃうよなあみたいな怖さがあったかも。内輪っぽく”見えちゃう”怖さかな。でもある種の「輪」を作ってそこで自分が楽しく過ごす、リラックスして話すことをもっとやったほうがいいのかなあと思って、いままでだったらあんまりやらなかったことにチャレンジしてみたつもりです。 Twitter(X)はじめSNSのようすは日々変化していきますが、前からそうだったけどより一層殺伐としている、差別やヘイトの文言があふれている。そういうなかで活動することの苦し��があって、どうやって対抗していこうと悩んでいます。リーディングパーティーちょっと前のヘイトのトレンドでは(いやなトレンドだ…)、AFABノンバイナリーへの罵倒や嘲笑が苛烈になっていて恐怖を感じていました。どうしたらいいのかわかんないですが、自分が好きな人や会いたい人と集まって過ごす時間を作るのは生きのびるために大事なことかなあと思った。
また当日来られなかった方の作品について、前日夜にTwitter(X)のスペースでしゃべりました。ゲストにマツさんをお招きしていろいろ話せてうれしかった。マツさんがアンソロジー各作品の感想をTwitterにあげてくださって、それがすごくうれしくて…。大阪のホテルの部屋から配信したんですが、けっこう壁の薄い部屋だったので隣の部屋のドライヤーの音とか入ってそうでドキドキした。旅行っぽくて楽しくもあったけど。 あとほんとにぜんぜん余談なんですが、このイベントの直前に妹が流産してしまってわたしはかなり気持ちが動揺していて…(もともと妹と甥と旅行する予定だったのが、妊娠がわかってわたし一人になって、出発直前に流産→手術となったの)。直前の告知があまりじょうずにできなかったり、反動で当日やけにテンションが高かったりしたんですが、会いたい人たちに会えて気分転換になったし、かなりなぐさめられたように思います。同人誌にはぜんぜん関係ないことなんだけど自分の体や心は一つだよなあと痛感した。いまはみんな元気です。
イベントにあわせてブックフェアも開催しました。アンソロ参加者の同人誌などを店頭に並べてもらいました。犬と街灯さんがリトルプレスとZINEのお店で、もともと関係者の本がたくさんあったので実現できたことかなあと思います。犬と街灯の谷脇さんとはリモートで打ち合わせだったんですが話が早くて助かりました。 アンソロジーを作るたびに毎回こういうイベントをしているわけではないんですが、せっかく自分がお願いして書いていただいたので、いろんなことしたいなあという気持ちに自然となりました。また何か主催するときはこういうこともやれたらいいなあと思っています。


[ドキっ♡作者だらけの本屋ナイト]

12/1(日) platform3さんにて 文フリ東京抽選落ちしちゃって…という話から、じゃあ文フリ当日の夜になにかやりましょう!とplatform3のTANさんが助けてくださったイベント。裏文フリとか地下文フリみたいな気持ちで始めました。10月末くらいだったかな。 platform3さんは8月に開店した新しい書店さんです。 TANさんとは以前読書会でご一緒して、���たしの作品を読んでくださったり、集まるクィアの会で遊んでいただいたり、コピー本交換会にも来てくださいました。本や作品を通じて親しくなった方と何か一緒にやれるのはとてもうれしい。打ち合わせの中でイベントタイトルに「ナイト」って入れたい…という話をしたら、「ドキっ♡作者だらけの本屋ナイト」というかわいいタイトルをつけてくださいました。告知画像もかわいく仕上げてくださり本当にありがたかった。 作った本を持ち寄って販売するのと、輪になってトーク、弾き語り&朗読ライブ…と盛りだくさんな内容でした。
当初はもうちょっとこじんまりやる予定だったのですがだいぶにぎやかになりました。一年を通じて「会いたい人に会いに行く」を大事にした年だったから、ちょっと欲ばってしまったかもしれない。 こういうの、アンソロにお誘いするときもそうなんだけど、好きな人や会いたい人に声をかけるという言い方をするのってちょっと難しくて、ほかの人は好きじゃないのかというともちろんそんなことはな��て…っていう。今回は書店さんに本を並べつつ夜に集まって話すみたいな場なので、そのあたり楽しんでくれそうな方にお願いしたつもりです。ふだんからやりとりある方とか、告知に反応してくださる方とかはやはり気楽に投げやすいですが、友だちに声をかけるというとまたちょっとちがう感じで…。本は作るけど即売会には出ないポリシーの方とかはあんまり無理にお誘いするの悪いかなあみたいなのもあります。あとplatform3さんがクィア関連の書籍を多く扱っているお店��ので、わたしもそのあたりリラックスして話せる場だったのもあり、自分のセクシュアリティを知ってる人や話しても大丈夫そうな人…みたいな気持ちもあったかな。心理的安全性というか。 また今回はわたしとTANさんのダブル幹事みたいなところもあったので、わたしがplatform3さんで出会った本の作家さんやわたしが一方的にファンの作家さんにもお声かけしました。遠藤純一郎さん、C3さんありがとうございます…! 遠藤さんとクリタさん、それぞれウクレレを用いたライブだったこと、C3さんと瀬戸千歳さんに装丁の話をきけたことなど、なかなかない機会でうれしかったな…。このあたりTANさんがじょうずに舵取りしてくださったので、ちょっとめずらしいメンバーになったかなと思います。
本屋ナイトはまだ直近なので振り返るのが難しい。とにかくわたし自身がうれしくて幸せな時間でした。文学フリマのもろもろでタイムラインにいろんな意見が流れてきていて、そういうのに対する自分なりのできることってなんだろうって考えたときに、こういうことじゃないかなあみたいなのをいっこ掴んだというか…。 自分が幸せや喜びを感じるのってどんなときなんだろう、わたしは小説を書いて本にしていて、どうなったらうれしいんだろう。いろいろあるけど一つの答えとして、ああこういうことなのかもなっていうのを感じたので、ゆっくり振り返っていければと思います。




来年のことはまだなんにもわからないのですが、ひとまず個人誌ででかめの新刊をやりたいなあと準備中。5月の文フリ東京の刊行が目標です。アンソロ参加や主催の予定は今のところほぼないので、自分の作品をしっかりやる年になるかな…?
といいつつ去年のいまごろはコピー本交換会やろうかなくらいでほかのものは影も形もない状態だったので、またそのときそのときでいろんなことを元気にやれたらなと思います。コピー本交換会や本屋ナイトのようなことはまたやってみたいな。プラス、すでにある本、作った本を読み合う時間を作れたらうれしいです。


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イスラム教の基本として「家族の男性と同伴せずに一人で髪や肌を露出して外を歩いている女は誰の物でもない女(=売春婦の一種)であり男は自由に取って食って良い」というのがある。 だからクルド人の青年が街中で日本の夏に適応した薄着の服装をしたローティーンの少女を目にしたとしたら「道にイチジクの実が落ちてるな」とスナック感覚で捕まえてレイプするし、それで逮捕されても意味が分からない。 被害者の少女と同じ女性の青年の母親ですら「息子が逮捕されたのはおかしい! 息子を誘惑した売春婦のお前が悪かったと言え!」と一家で被害者を攻撃して示談に追い込もうとするし、 なんなら、��察や裁判所すら一族総出で襲撃して法の支配を覆そうとする。 彼らの信じるイスラム法(ないし部族法)では青年は何の罪も犯していないのだから、冤罪であり、不当な弾圧に対して正義の闘争を始めるのは当然であろう。 この論理でクルド人に限らず、日本などイスラム教徒が多数派ではない国に移住したイスラム教徒は世界中で性犯罪絡みの騒動を起こしている。 警察と司法がクルド人の犯罪に対して(もちろん法律の範囲で)厳格に対処するのと同時に、 自治体など行政がクルド人コミュニティーに「その倫理観では日本人とは共生できないから改めろ」と粘り強く改善を働きかける必要がある。 さもなくば、クルド人に屈服させられ続け、行政の事なかれ主義で救済もされない日本人の鬱憤がいつか爆発し、暴力を伴う大規模な外国人排斥事件が起きる
クルド人(というかイスラム系)の性犯罪者には特有のヤバさがある
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和七年(2025年)1月30日(木曜日)弐
通巻第8629号
ディープシークなど新しいAI戦争で米国は中国に負けるわけには行かない
「中国はチップでは遅れたが、応用分野は先行している』(レイ・ダリオ)。
*************************
AI業界が大騒ぎの最中の1月29日、今度はアリババが新製品を発表した。
アリババグループの傘下企業は「ディープシークが開発した高性能の生成AIを上回った最新モデルだ」とした。
「アリババ・クラウド」のAIモデルの名称は「Qwen2・5─Max」。性能テストでディープシークの生成AIを上回ったと説明している。
米企業が寡占した開発競争にどかどかとチャイナ勢が侵入したかたちである。
ウォール街の預言師、レイ・ダリオが口を開いた。
「オールイン・ポッドキャスト」のフリードバーグとのインタビューで、「米国も中国もAI覇権をめぐる競争に負けるわけにはいかない。この技術戦争は『利益』より、はるかに重要だ」と強調した。
以下がインタビューの重要部分である。
Q(フリードバーグ)「私はモノを作る企業(の株式)を所有するのが好きです。いまのような環境下で、インフレの影響と価値の下落が起こり、債務危機を乗り越えても収益と所得が伸び続ける生産資産を所有できる場所はどこでしょう?
最も優れた生産資産はどのようなもので��ょうか。鉱業でしょうか。商品取引業でしょうか?」
A(レイ・ダリオ)「生産性は増大する傾向があります。それが AI の領域です。AI は素晴らしいですが、AI をどこで指すかによって異なります。
エヌビディアなど世界のス��パースケーラー(大規模企業)にはリスクの問題がある。テクノロジー戦争では大きな混乱が起き、それをかもし出す側と振り回される側に別れますが、混乱をもたらすのは、必ずしも車両を製造する人ではなく、変化を起こしている人です。
テクノロジー戦争、AI戦争の方が重要です。利益よりも重要なので、どの国も負けることのない戦争です。中国や米国がこの戦争に負けた場合、利益よりも重要なのです。そのように戦争をしなければなりません。EVのようなものかもしれませんし、中国製のEVは生産できるところならどこでもそうです。中国はチップでは少し遅れていると思いますが、応用分野では先行しています」。
フリードバーグ 「ディープシークの発表をご覧になりましたか?」
レイ・ダリオ 「 少し前から知られていました。中国が取り組むのはチップです。非常に安価なチップを工業製品に組み込むのです。ロボット工学も加わる。中国人は信じられないほど安価に物を作るのが得意です。中国は世界の工業製品の 33% を所有しており、これは米国、ドイツ、日本の工業製品を合わせた量よりも多いです。中国はもっと多く生産しています。
そういったタイプの競争は、ソーラーパネルなどのように起こるかもしれません。利益は重要ではありません。生産性と革新性、そして破壊的な要素があるところにこそ、競争相手がいると私は考えています」。
レイ・ダリオは全米最大のヘッジファンド「ブリッジウォーター」の創業者で、運用資産は1000億ドルを超える。
ダリオには十数冊のベストセラーがあり、『PRINCIPLES(プリンシプルズ) ──人生と仕事の原則』、『巨大債務危機を理解する』など四冊が邦訳されていて日本でも投資家、銀行証券関係者にも知名度が高い。
ダリオのようなウォール街の専門家までが、あたらしいAI戦争に、投資家の範疇を超えた視点で推移を見守っている。
そして「アメリカは、この戦争で中国に負けるわけには行かない」というのが、アメリカ人投資のコンセンサスと考えて良いだろう。
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ラジコン備忘録 2024/9/14
Miniz-Cup 2024 Hokkaido Day.1
さてやってまいりました。レース当日編。まずは1日目。

今回の大会会場は旭川。去年は札幌だったので久しぶりの旭川開催。僕にとって旭川会場は5年ぶり。
8時には旭川に着きたいので、5時起き・5時半出発です。
忙しい2日間が始まるのは目に見えているのでパッと高速で旭川に向かいます。うーん、早朝PAで見る愛車はカッコイイ。一応、ラジコンイベントの駐車場ではジロジロと実車を見られることがあるので綺麗にしておきました。排気量の余裕とフルバケの効果もあってか、移動の疲労感が少なくて相変わらず良い車です。

7時半に旭川に着いて朝食。会場の駐車場がまだ空いていなかったので、近所のマックに。同じような考えの仲間と遭遇して奢ってもらいました。朝マックなんて超久しぶり。

今回の会場は、旭川市市民活動交流センター CoCoDe(ココデ)。 昔の廃倉庫を活用したイベントスペースらしいです。レンガがおしゃれですね。 開場1時間前ですが、いくつか荷物で順番取りをしていますね...。
旭川、めっちゃ寒いです。家を出るときは半袖でも余裕でしたが、現地は無理。さすがに1枚羽織りました。この時点で16度くらいだったかな。寒いので路温が心配。

9時開場、エントリー受付です。初めての会場では無いので、記憶が少しずつ蘇ってきます。トイレの位置だけはハッキリと覚えている不思議。
今回の北海道大会、見る限りエントリーが少なめ。代表権狙いの人には良い状況ですね。
1日目に参加するオープンクラスの参加者は11名。かなり速いモーターを使うので難易度が高くて、上級者しか参加しないカテゴリー。参加人数も少ないカテですがそれにしても少なめ。とはいえ、本州からの遠征組も2名参加。ホームで負けるわけにはいかないので、ボコボコにしてやる勢いです。

この会場はピットスペースは2階に配置。吹き抜けになっているので、ピットからレースの様子がよく見えます。吹き抜けになっているような会場は全国見てもここだけなので、珍しいですね。 上からライン取り、車の挙動がよく見えます。

操縦台の上からコースを見渡した図。2階から見るのと大して変わらないですね。操縦席とコースの距離もあるので、操縦位置による有利不利も無さげ。

1日目のピット。いつも机上をゴチャゴチャさせてるのに比べれば大分スッキリ。気になる事といえば、ここの会場暗すぎる。タイヤ交換の作業をするにしてもかなり暗いです。棚にLEDをつけていますが、追加でデスクライト的なものを持ってこないと細かい作業は厳しい。コース自体も、吹き抜け構造なので2階からの照明が遠くてイマイチ。まぁ、こればっかりは仕方ない。暗いという意味でいえばみんなイコールコンディションですからね。

練習走行。まずはいつもホームコースで走ってるセッティングに少し曲がりを足したマシンで走行。
...なんだこれ。聞いてはいたけどここまでグリップ低いか?って路面に驚きつつ策を練ります。
いつものセットじゃ全く話にならないですね。テールスライドしまくり。カウンター当てないとまともに走れません。
最近のラジコンは便利なもので、横Gをジャイロセンサーで検知すると自動でカウンターを当てたり、スロットルを絞る機能があります。仕方なくそれを最大限活用する作戦に移行。
初日エントリーのオープンクラスは約2秒で40km/hに到達するといわれる最速モーターを搭載したカテゴリー。この小ささで40km/hというとかなり速い部類ですね。正直、操作はかなり難しいです。
そんなピーキーなマシンを操作しやすくするために、スロットルジャイロを30%ON。普段は0~5%なのでどれだけグリップが低いのか...。
モーターも100%のパワーを出しても扱い切れないので、出力上限を95%に設定。これで立ち上がりがマイルドになります。パワーを出し切らない方が速い、珍しい路面です。ピーキーなモーターをキッチリ扱えてなくて、下位カテゴリーのマシンより遅い始末。

そしてタイヤも変更。リアタイヤがグリップしなかったときの想定をしておいて助かりました。リアのタイヤコンパウンドを30°→20°に変更。これでリアグリップを確保・空転させないでトラクションをかける作戦です。

とはいえ、そんなに根詰めて悩んでも仕方ないのでスイーツ休憩。一息入れてから予選で勝負に出ます。大会当日は糖分の補給を積極的に行うようにしています。その方が脳の働きが良くなりそうなので...。

予選1回目。スタート時の混戦に巻き込まれてグダグダ。総合8番手で終了。マシンは悪くないようですが、レースの運び方が悪かった。他車との接触が2回はありました。ですが、次の予選2回目は前列スタートと考えるとたぶんイケる予感というか確信です。
予選2回目。スタートダッシュと1コーナーのアプローチが決まって2番手以降をブッチギリ。誰も前に出させることなく好調な走りで1番手フィニッシュ。ベストラップもきちんと出ています。
結局予選2回目が最速タイムになり、予選1番手が確定。マシン・腕前ともにイマイチ本調子ではないような感じもしますが、悪くはないようです。みんなこの路面に苦戦しているということですね。
北海道大会での予選1番手は5年ぶり。ポールポジションはやはりうれしいものです。
昨年は全国大会の権利を貰っているので、朝の段階で各選手に僕の走りをジロジロと見られているのは感じていました。そんなプレッシャーに負けずに走れて良かった。決勝も気楽に頑張ります。
グリップは少しずつ上がっていますが未だに低いまま。それでも、予選のままのマシンセッティングで何とかなる予感。決勝は変えずにこのまま勝負します。曲がらなくなってきたら、走行中にプロポで微調整をかける練習はしていました。


決勝はカーゼッケン1番に変更。やはり、予選1番手というのは特別で良いですね。

決勝Aメイン8分レース。
ポールポジションからスタートを決め、2周目くらいまで維持。だけどセットがなかなか合ってこず、3番手まで順位を一時落とします。しかし、ここからが僕の意地の見せどころ。瞬時にプロポ設定をいくつか調整し、前方選手のミスを見逃さずオーバーテイク。3番手まで落ちたのは一瞬で、30秒ほどで1番手に復帰。
僕の指先といえば、かなり忙しいです。グリップが低すぎて、いまだにアイスバーンを走っているような感覚。ブレーキをガツンと入れてキッチリ減速しつつも、スロットルは徐々に煽ってまさにドリフトしているような感覚。この走らせ方、かなりリアタイヤを消耗することは分かっていますが、こうでもしないとトップは死守できません。
その後2位の選手からの追い上げを感じますが、途中で追い上げは諦めたみたいです。表彰台圏内なのに、無理に追い上げて自爆する方が怖いですからね。つまらないですが、頭のいい作戦です。こちらとしても走りやすい。そのままタイム差を広げて2番手とは6秒差でゴール。ポールトゥウィン。完全勝利です。
リアタイヤは柔らかいコンパウンドを選択しているのでレース後半の 消耗が心配でした。ラスト2分でタレてきている感触はありましたが、誤魔化せる範囲で助かった。最近のラジコンの電子制御、本当にすごいです。疑似的なトラクションコントロールとABSでタイヤ消耗は助けられました。
今回の大会は路面グリップが終始低すぎて、スロットルワークが上手か下手かで勝負が分かれていた気がします。ワークスドライバー級のプロはステアリングよりもスロットル操作を重視すると言いますが、まさにそんな感じ。

表彰式。色んなカテゴリーがありますが、最速カテゴリーで優勝ということは、この会場の中で一番速いということなので嬉しいですね。

表彰状をもらいました。社会人になって表彰される機会というのはなかなか無いので嬉しいものですね。1位となればなおさら。
ここまでくるのに色んな人のアドバイス・協力がありました。本当に感謝。なかなか恩を返しきれないです。

1日目が終わると、2日目に向けて東横インにチェックイン。全国大会の時に東横インに5泊したので、この際東横��ンのポイントを集めます。ちなみにキャリーバッグの中身は全てラジコン関係。着替え類はリュックで収まりました。
旭川くらいなら日帰りでも行ける距離ではありますが、翌日に向けて寝不足は避けたいのと、燃費計算をして宿泊した方が断然安かったのでホテル泊。

その後は直ぐに旭川の街に繰り出します。僕の記憶の中の旭川の街って、栄えてはいるけど古臭いビルが立ち並んでいるイメージでした。久しぶりに旭川を歩いてみると随分と近代化していますね。オシャレなビル・お店がたくさんあります。今度、きちんと旭川で呑みたいですね。

さて、北海道大会参加者の懇親会です。参加は30名くらい。ビアガーデンスタイルの鉄板BBQ。これで5,500円か~...と思いつつも陽気に飲み食いしてしまうのは相変わらず。初日1位の男なので、各方面にモテまくりです。大規模な飲み会で主役を張れるというのは、酒呑みにとっては随分と気持ちいいです。


飲み会が楽しく終わり2次会に消えた人々もいるみたいですが、僕は偉いのでホテルに戻ります。翌日のことを考えたら、呑みすぎは絶対にNGですし。一人でしっぽりやりながら、次の日の準備。電池関係がメインですね。
1日目の走りを動画で確認しておきますが、我ながら良い走り。 次の日もこんな感じで走れれば良いんですが、今さら考えても仕方ないのでホテル晩酌を満喫。24時には就���。
2日目編につづく...。
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2024.06.18
夏日の後、どっさり雨が降って
昨夜は冬に戻ったかの様な寒さ!
むちゃくちゃな気候です
前に、Cat ch.22に来た事がある
ボーカルをやってる子が、訪ねて来た
恐らく、模索してるんだろうけど
この尾道での環境、そして世の中的に
音楽、バンドムーブメントが下火な状況を考えたら
路頭に迷うわな(笑)
ワイが高校生の頃、どうやったら
この街から飛び出る様な活動、活躍、
プロミュージシャンになれるか?を模索してた
彼はまだ20歳
まだまだ先輩が沢山居る世代
吸収しまくりの世代だからこそ
この街にミュージックシーンが無いのは
砂漠を旅する様なもんだろうな
今回は自作の音源を聴いて欲しいと持って来た
人に聴かせる程の自信が無い…と言ってたな
オリジナル曲を作ってます!と言いつつ
人に聴かせる自信が無い作品は
オリジナルを作るレベルでは無いって事
今、世の中にある楽曲では
自分の事を表現、代弁、体現してくれないし
泣く、笑う、悲しむ…なんて感情を音で、曲で
表現すること行為が作曲、作詞、オリジナル曲に
辿り着くのが本来なのだから
彼の曲を聴いた。
作り方も分かってしまう。
図星だ。
例えるなら、コンビニ弁当買って来て
自宅のお皿に盛り付けて、はい!手料理作ったよ!
は、自分をよく見せたい彼女がやる事で
そこには、彼の為にって言う、愛情よりも
自分を良くみせたいエゴが優ってる訳
こちとら、コンビニ弁当マスターだから
おい…これ、ローソンの唐揚げ弁当やんけ!!
と、答えが分かってしまうと、一気に冷めてしまう
初めは模範から入ればいい。
コンビニ弁当の盛り付けを真似て
お皿に盛ればいいのよ。
でも、オリジナル!とか嘘言っちゃダメ。
そこから盛り付けのセンス学べばいいやん。
次はセブンイレブン、ファミリーマートの弁当買って
盛り付けの違いや普遍性を学べば良い
次は、取り出した 唐揚げを
フライパンで黒酢餡掛けにカット野菜でも
ぶち込んで炒めたら、八宝菜みたいになる
そうなると、コピーバンドから少し、
オリジナルバンドに近付くぢゃない
真似る事は基礎を学ぶ事。
マジョリティの中から逸脱して、
俺は違うんだ!マイノリティで、特別で、
才能あって、認められたいんだ!
は、先ず、作品を作ってから。
弁当容器変えたくらいで、オリジナル作りましたは
ちと虫が良すぎる
無知な人に聴かせる分には、
そもそも音楽に興味無いんだから
すごーい!と言われるかも知れないが
プロの料理人や、その唐揚げ弁当の開発者には
通用しないよ
聴かせる自信が無いのは、その執着が見えるから
過去や執着を乗り越えてから
初めて自信が持てるわけ。
聴かせて貰った、彼の自称オリジナル曲は
まだ絵コンテの段階。
やりたい事は分かった!
その曲で自然を表現したい!と言ったから
自然も、山なのか?海なのか?川なのか?
その季節は、夏なのか?冬なのか?
年代は、現代なのか?50年前なのか?
日本なのか?海外なのか?宇宙なのか?
コンセプト決めは、しっかりと!
落葉を表現するなら、その木々の種類まで!
あと10日で、この曲の
ブラッシュアップの宿題を出しました
かなりヒントはあげましたが(笑)
彼と同じ歳の頃
ワイはプロの現場で揉まれて、
けちょんけちょんに言われてた事
悔しくて泣いたし、実力も知識も無かった
あのブースからトークバックで返ってくる
デレクターの、
お前、才能無いんぢゃん!辞めちゃえよ!
声は、トラウマになってるわ(笑)
逆に、良いテイクだと、
お前!いいぢゃん!才能あんぢゃん!
と、言われた
飴と鞭?ツンデレ?
そこまでの感情や、ワイに対する思い入れは
感じなかったが、ビジネスとして
ちゃんと仕事してる現場だったな。
しかし、今は、あの経験がワイにとっては
大切だったし、好きだった音楽が嫌いになったし
プロの厳しさを知った瞬間だった。
やっぱ厳しく行かないとさ。
そういう意味で
自分で曲聴いて下さい!と門叩くだけ
彼は頑張ってる!偉いよ。
そこは、才能あんぢゃん!とデレクター風に。
そして、曲聴いて、才能無いんぢゃん!と
デレクター風に言ってあげといた。
これがワイが通ったみ道。
遠回りしても、脇道外れても
走ってりゃ、追いつくからな。必ず!
宿題提出が楽しみだな
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クィアたちのZINE交換【前編】

発端
ある6月の休日、ZINE交換会に参加した。 主催は、数人のクィアによって結成されたプロジェクト集団「陰気なクィアパーティ」。今年春から、東京と名古屋で、派手なパフォーマンスが苦手なクィアのための穏やかな集まりを開いている。
そもそも「クィア」とは何か
「クィア」は、既存の性のカテゴリーに馴染めない人を指す言葉として、最近様々なメディアで使われるようになった。 元々「クィア(queer)」は「奇妙な」「異様な」という意味の英語で、セクシュアルマイノリティたちを揶揄する蔑称として欧米で使われていた。 しかし社会運動をしていたセクシュアルマイノリティたちが、たとえ端から見れば奇妙でも自分たちはありのままで生きるという決意と共に「クィア」を自称しはじめたことで、かつてのネガティブな意味合いが薄れてゆき、現在に至っている。
「クィア」の意味するところは「セクシュアルマイノリティ」と似ているが、カバーする範囲は「クィア」の方が広い。 紙媒体やネットでこれらの言葉に触れてきた印象では、「セクシュアルマイノリティ」は、性自認・性的指向が明らかにマジョリティとは違うという自覚がある人を指している。 それに対して、「クィア」には、まだはっきり認識できていないものの、世間が想定する性のカテゴリーに今ひとつ馴染めない…と感じているような、マジョリティとマイノリティのあわいにいる人も含まれる。 また、「セクシュアルマイノリティ」には、マジョリティに理解されず、社会から疎外された存在というニュアンスがある(その他の「マイノリティ」=在日韓国人、部落民、外国人などのような)。 この言葉が使われる際は、当事者が法制度などによって不当に権利を制限され、自分らしく生きることを阻まれているという実態がセットで提示されることが多いように思う。
例えば、性自認が男性(シス男性)で恋愛対象は女性(ヘテロセクシュアル)だが、女装をしている時の方が心地よいという人がいたとする。「クロスドレッサー(異性装)」「トランスヴェスタイト」「女装家」などと呼ばれる存在だ。 特殊なセクシュアリティを持っているが故に、街中で後ろ指を指されたり馬鹿にされたりして、尊厳を傷つけられることはあるだろう。 しかし、「ホモセクシュアル」ではないので、同性婚できない日本でパートナーと結婚できずに苦しむリスクはない。 「トランスジェンダー」的な傾向はあるものの、性自認と医学的・社会的に割り当てられた性のギャップに苛まれたり、高額な性別適合手術の必要性を感じているわけではない。 このような人は、「私はセクシュアルマイノリティです」と言っていいのか戸惑いがあるのではないだろうか。 自分の辛さは、法制度と闘わなければならない人のそれに比べたら軽微なのだから、この程度でセクシュアルマイノリティを自称して生きづらさを訴えるのは行き過ぎている…と自粛してしまうことが考えられる。 しかし、男は365日ズボンで暮らすものだという既存のジェンダー観から外れているという点で、彼は間違いなく「クィア」である。「私はクィアです」と言うのは、「私はセクシュアルマイノリティです」と言うよりはるかにハードルが低い。
「クィア」は、既存の性のカテゴリーに馴染めていないが「セクシュアルマイノリティ」の括りから除外される人々もふんわりと包み込む、懐の深い言葉だ。 セクシュアリティは千差万別で、まだ解明されていないことも多く、しかも生まれてから死ぬまでに変化する可能性もあるという揺らぎを前提として生まれた概念なので、より多くの人たちの拠り所になれる。しかし、このふんわりとした性質故に、定義するのは非常に難しい。
参考:
私のクィアネスについて
私は自分が「デミロマンティック」だと思っている。要は、世間一般の人と比べて、恋愛感情が希薄だという自覚がある。
多分「デミロマンティック」は多くの人にとって聞き慣れない言葉だが、「アセクシュアル」「アロマンティック」であれば知っている人はいるのではないだろうか。 「アセクシュアル」は性的欲求を持たない人、「アセクシュアル」は恋愛感情を持たない人を指す。 (日本では「アセクシュアル」は恋愛感情も性的欲求もない人の意味で使われ、恋愛感情はあるが性的欲求のない人は「ノンセクシュアル」と呼ばれるケースもあるようなので、「アセクシュアル」の意図するところは使う人や文脈によって変わりそうだ。なお、「ノンセクシュアル」は和製英語だそうです。)
「アセクシュアル(asexual)」「アロマンティック(aromantic)」の頭に付く「a」は、英語では否定(non-、un-)の意味を持つ。「asexual」=「sexual(性的欲求のある状態)でない」、「aromantic」=「romantic(恋愛感情のある状態)でない」ということになる。 一方、「demi」は、「半分」「少し」の意味を持つ(ヨーロッパ系のカフェでエスプレッソを注文すると出てくる小さなカップ=「デミタスカップ」を想像してもらえると腑に落ちるのではないでしょうか)。つまり「デミロマンティック(demiromantic)」は、「romantic(恋愛感情のある状態)が少なめである」という意味になる。
息抜き:
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当事者の書いた文章や当事者が主人公の小説を読む限り、アセクシュアルおよびアロマンティックの人は、それぞれセックスや恋愛に対して拒否感や嫌悪感がある印象だ。 私はどちらに対してもそこまで強い拒否感はなく、恋愛の延長線上にセックスがあることにもそれほど違和感を持っていないが、いかんせん恋愛感情が起こらない。
学生時代、周囲が少女漫画を貸し借りして「○○君と△△君だったらどっちがタイプ?」「私たちもこんな恋愛したいよね~」と真剣に語り合っている中、私はそのテンションに全く付いていけず、自分はみんなと違うな……と漠然と感じていた。
勉強や就職活動や創作活動などは、将来の自分の可能性や選択肢を増やして今より自由になるための活動であるのに対し、恋愛は、相手と良い関係を作るためのしがらみや我慢を発生させる点で、人生を不自由にする活動だと思っていた。 シスヘテロ男性との恋愛の先にあるかもしれない結婚・妊娠・出産などを想像すると、積極的に恋愛するシスへテロ女性たちは、自ら進んで家父長制に取り込まれにいっているように見えてしまった(ものすごく穿った見方だという自覚はある……彼女たちは自分の意志で恋愛しているのであり、余計なお世話だとは思うけど)。
私の中にこういった思考が育まれたのは、幸せな恋愛やパートナーシップのサンプルを身近に見つけられなかったという環境的な要因に加えて、やはり先天的な要因もあると思う。 近年の脳科学では、外部からの刺激によって脳内の快楽を司る「報酬系」という神経回路が活発化し、ドーパミンが分泌されると恋愛感情が起こるとされている。多分、私の脳ではこの回路があまり活発ではなく、少女漫画という刺激では作動しないのだろう。 (ただ、脳内物質にはドーパミン以外にもセロトニン・テストステロン・エストロゲンなどがあり、これらが出ていれば何らかの感情は発生していることになるので、恋愛感情がないからといって無感動というわけではないのですが。)
参考:
社会人になってから、微妙に恋愛感情が出てきた時期もあるにはあったが、それも数年に一度ぐらいの低い頻度だった。 仕事が忙しければどうでも良くなるし、一人で行きたい場所に旅行したり、カルチャーに触れたりライブやイベントに行ったりすればそこそこ満たされてしまうので、そのうち別にいいやという気持ちになる。
そんな自分のことを、私自身は「ドライな人間」「淡泊なタイプ」だと解釈していた。 ただ、性自認と医学・生物学的な性は一致しており(シス女性)、恋愛感情が起こる場合は異性に向くため(ヘテロセクシュアル)、自分がセクシュアルマイノリティだとは思っていなかった。 しかし、日本でもセクシュアルマイノリティに関する議論が活発になり、LGBT以外のセクシュアルマイノリティやクィアについての文献や記事が広く出回るようになって、やっと「デミロマンティック」というちょうど良い表現に出会えた。
クィアを自覚した後の問題
自分がクィアだと自覚することは、こういう人間は自分だけではないと安心できる点では救いだが、自分は差別される側の人間なのだという疎外感を突きつけられる点で呪いにもなる。 過去にセクシュアリティの違いが原因で周囲から浮いてしまった経験を、差別を受けた体験として捉え直す作業は、それなりの痛みを伴う。 しかし、これを丁寧に行わなければ、自分の生きづらさを解きほぐして緩和することもできないし、この先どう生きるのが自分にとっての幸せなのかも模索できない。 また、自分が生きている日本社会がどんな人間を異端として疎外・排除しているか、あらゆるセクシュアリティが肯定されるために社会や自分自身はどうあるべきかも見えてこない。
自分の中のクィアネスに向き合うことを意識し始めてから、同じように既存の性のカテゴリーからはみ出している人がどう生きているのか知りたいと思うようになった。 コロナが沈静化したタイミングで読書会やコミュニティを定期的に検索していたところ、「陰気なクィアパーティ ZINE交換会」の告知に出会った。 クィアとして生きる実感をZINE作りという形で語り直す作業を、この機会にやってみたいと思った。
限られた時間の中で何とか内容をまとめ、A5版12ページ、6,000字強のZINEが完成した。 会場で7部を交換し、2部は手持ちのZINEがなかった人に渡した。
「陰気なクィアパーティ」の大らかさ
私は「LGBT」ではないし、「アロマンティック」「アセクシュアル」のいずれでもないので、そういった人を対象とするコミュニティへの参加には抵抗がある。 でも「クィア」を冠したコミュニティであれば、私もここにいて良さそうだと思える。
会のグラウンドルールには、このような文言がある。
陰気なクィアパーティは、セーファースペースであり、あらゆる性のあり方を持つ私たちが共にいるための空間です。 差別の構造を解体する空間であるためには、参加者全員の協力が必要です。 自身の境界と他者の境界を尊重し、全ての人が居心地良く過ごすことができる対話空間作りにご協力ください。
この宣言はとても心強い。 このような場なら、「性的指向も性自認もマジョリティと変わらないくせにマイノリティぶるな」とか、「もっと辛い立場にあるセクシュアルマイノリティに比べれば、お前のしんどさなんて取るに足りないものだ」といったような攻撃を受けるリスクは低そうだと感じた。 そして、一定の安全が担保された空間で様々なクィアたちとコミュニケーションする中で、クィアとしてどう生きるかのヒントが掴める気がした。
会場に足を運び、様々なセクシュアリティの参加者からもらったZINEを読んで、自分の想像を超えた差別や疎外感を知り、世界の見え方が少し変わった。 あの空間に、一人のクィアとして立ったからこそ見えた景色だ。 私のZINEも、誰かにとって新たな気付きをもたらすものになっていればいいなと思う。
会社を辞めようとしているタイミングでこのような場に出会うことができ、本当に感謝している。 主催者の皆様、ありがとうございます。
そして今後は、小説の執筆ペースを上げることと並行して、一人のクィアとして考えたことをもっと言葉にしたくなった。 個が尊重されるセーファースペースで、様々なクィアと対話したり励まし合ったりする時間が定期的にあったら、何かと心細いクィア人生も豊かなものになる予感がする。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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娃娃機算八大嗎?
在台灣的街頭巷尾,娃娃機幾乎無處不在,成為了年輕人休閒娛樂的一部分。想像一下,當你走進一家遊戲廳,眼前擺滿了各式各樣的娃娃機,五顏六色的玩偶在燈光下閃閃發光,吸引著你的目光。你投入硬幣,操控著搖桿,心中充滿期待,渴望能夠抓到那個心儀的玩具。這樣的場景不僅僅是遊戲,更是一種文化現象。 然而,娃娃機是否算作八大行業之一呢?根據台灣的法律規範,娃娃機的經營模式與傳統的賭博行為有所不同。它們主要依賴技巧和運氣,並且通常不涉及金錢的直接賭注。因此,從法律的角度來看,娃娃機並不屬於八大行業的範疇。 這樣的區分不僅影響了經營者的經營模式,也讓玩家在享受遊戲的同時,能夠更安心地參與其中。娃娃機的魅力在於它所帶來的樂趣與挑戰,而非單純的賭博行為。讓我們一起珍惜這份獨特的娛樂文化,享受抓娃娃的樂趣吧! 文章目錄 娃娃機產業迷思解構:從經驗分享看台灣機台文化 娃娃機經營權益全解析:法規、稅務與風險評估 常見…
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TNR與TNVR貓咪耳朵缺一角的秘密
愛牠就不要遺棄牠,以領養代替購買,以絕育代替撲殺
TNA(捕捉-結紮-認養 )⼈道的⽅法
TNR (Trap Neuter Return)誘捕、絕育、回放
TNSA(Trap-Neuter-shelter-adopt)捕捉、結紮、收容、認養
TNVR(Trap Neuter Vaccinate Return)誘捕、絕育、注射疫苗、放回原地
TNR的全稱為Trap-Neuter-Return,也就是誘捕、絕育、放回原地;加注射疫苗、(Trap Neuter Vaccinate Return,縮寫:TNVR)的做法,在原來TNR的程序上增加了注射狂犬病疫苗的步驟,作為預防狂犬病擴散的重要手段。透過專業誘捕方式捕捉流浪犬貓,再由志工送至動物醫院進行絕育工作,並於手術中剪耳作為標記,待傷口復原後再放回原地。將牠��放回原本熟悉的社區,除了不會再繁衍更多動物,還可以發揮「地域性」保護自己的地盤,並驅趕外來的流浪動物,讓當地流浪犬貓數量維持自然平衡。
TNR、TNVR的好處:
1. 節育後犬貓較少攻擊性
部分專業人士認為,經過節育手術後的犬貓,較不會受發情的影響出現攻擊行為,或是靠便溺氣味劃地盤等行為。也可以減少攻擊兒童、用路人的情況。
2.噪音減少
「貓叫春」等聲音是許多流浪貓聚集地居民會有的噪音困擾,節育後的貓狗會減少因發情出現的行為,半夜貓咪嚎叫等狀況就比較不會出現了。
3. 防止疾病傳播
在成功誘捕後會將流浪犬貓帶至動物醫院,除了進行節育手術之外,也會檢查是否有傳染疾病,並施打疫苗,可以有效減少動物間,甚至是人畜相通的疾病傳播。
4. 減少老鼠、蟑螂數量
犬、貓的存在如同食物鍊一般,可以抑制該區域的老鼠、蟑螂的數量。假若區域內的犬貓都被清光,老鼠可能就會因為少了天敵而大肆繁殖影響社區居民生活品質。
TRAP 誘捕
會先藉由長期的餵養,來達到人與貓之間的信任,了解貓咪的個性,藉此觀察是不是其他人半放養的貓咪再使用誘捕籠進行捕捉。
NEUTER 絕育
絕育手術通常是建議將整個生殖系統摘除,才不會導致之後還有機會受孕的狀況發生,送至醫院前可以先詢問醫師,是否有在協助TNR及住院。
在絕育手術中會趁麻醉藥效還在時,順便剪掉貓咪耳朵的一角,分為男左女右,作為標記分辨此貓已做過TNR,讓愛心人士或是社區志工們,可以在遠處就能分辨是否還需要進行誘捕。
RETURN 放回原地
會要「放回原地」而不是隨地亂放回,是因為別的環境有可能這隻浪犬貓是不熟悉,不知道要去哪裡覓食。
TNR、TNVR步驟實施前
1. 社區內的通報人與餵養人觀察區域內的流浪犬貓數量。
2. 於固定地點餵食,並持續超過一週,確保有足夠數量的流浪動物會聚集於該處覓食。
3. 與社區居民和其他餵養人宣導和溝通,一般居民切勿擅自餵食,餵養人則需配合於相同時間地點輪流餵食,並且不可一次放置過多食物。但為確保誘捕日餵食時,有足夠流浪犬貓會出現,在誘捕日前應盡量少餵食。
流浪貓完成絕育手術後,一般會以剪去耳朵的一小部分作為已絕育的標記,剪耳標記的方式到目前為止仍未有一致共識,因執行單位的不同考量而有所差異,其中包括剪去耳翼側面一小部份(半圓形或三角形)、剪去耳尖的一小部份(半圓形或三角形)或水平剪去耳尖呈現180度平角等方式,由於剪耳翼或耳尖一小部份後,耳朵外觀上與貓因打鬥所造成之耳朵撕裂頗為相似,且半圓形或三角形之缺角在打鬥過程中也可能更容易使耳朵撕裂,加上此標記方式剪去的耳朵面積通常較小,不利於遠距離觀察怕人之流浪犬貓是否有作耳朵標記。因此,大部份的團體都建議採用剪平耳尖的做法。另外,目前大部份的團體也會同時採取「男左女右」的標記方式,公畜一律於左耳作標記、母畜則在右耳作標記,如此在日後便可進一步排除耳朵之缺角是非人為因素(如貓之間的打鬥)所造成。
補充維基百科資料
壽山國家自然公園,經過4年的高強度TNVR,壽山母犬絕育率達85%、半屏山區達74%。110~111再次進行浪犬及山羌族群量研究,清華大學助理教授顏士清團隊發現浪犬數量微幅下降,有效抑制出生率,顯示TNVR可暫緩族群數量上升,但要減低族群量仍須搭配移除安置。根據110到111年調查,壽山地區的山羌減少超過90%,目前推估數量僅剩50到63隻,已出現區域性滅絕的可能,而推測流浪犬是造成山羌數量下滑的主因(但無確切證據),零撲殺政策上路已6年,應有配套措施。
臺北市動物保護處於2013年把原來在臺北市行之有年的「街貓絕育回置TNR方案」升級為「街貓友善照護行動方案」(Taipei Cat Care Programme,TCCP),內容主要是補助與臺北市動保處合作之民間團體實施TNVR以及後續領域護理(例如乾淨餵食、定期施打狂犬病疫苗、點除蚤藥等)的經費。此方案同時提供志工教育訓練課程與認證,通過認證的志工方能執行TCCP補助計畫的工作。
臺北市動物衛生檢驗所於2006年7月開展「街貓絕育回置TNR方案」,試驗先進國家使用之街貓絕育方於臺北市實施之可行性,為臺灣政府單位首次嘗試採用TNR的方式處理流浪貓問題。臺北市動檢所結合民間資源以及志工人力,與社團法人台灣認養地圖協會、臺北市流浪貓保護協會、台灣動物不再流浪協會、台灣動物協會、台灣收容動物關懷協會等民間團體以及愛心媽媽合作,補助其執行社區流浪貓TNR計畫的費用,但動保團體或相關人士需要與有意願合作之里長簽訂合作條約,方能合法執行方案。街貓TNR方案首年於臺北市大安區新龍里試辦,並完成80隻街貓的TNR工作。同年執行「新龍里居民意見調查分析」發現超過六成里民支持街貓TNR政策,有72%的里民認為TNR可改善生活品質。在2007年,街貓TNR方案推展至大安區建安里、龍淵里;文山區興昌里及士林區天福里。於2008年再度擴大實施範圍共20個里(社區)。於2009年度再次擴大實施範圍至32個里,且增加補助動保團體500隻以上的街貓TNR施作。同年針對32個辦理TNR區域進行「里民民意滿意度調查」,發現有高達75.6%的受訪市民表示支持此方案,顯示多數受訪市民支持藉由TNR方式控制街貓數量。2010年時,方案執行的區域首次突破100個里,而在2012年更達到207個里,顯示此方案的確能夠有效解決市內街貓衍生之社會問題。根據臺北市動物保護處的調查資料,2005年臺北市內的街貓總數為14,499隻,而在2013年街貓的數量,花了8年時間下降至4879隻。
新聞資料補充 1
〔記者顏宏駿/彰化報導〕彰化縣號稱百萬人口大縣,卻無一座像樣的「流浪狗中途之家」,縣府原本打算在溪州興建「可愛動物園區」又被廢止,目前動物防疫所轄下的「流浪狗中途之家」又面臨「爆棚」,流浪狗不斷繁衍,成為各鄉鎮最頭痛的問題。
為解決流浪狗無限繁殖和無處收容問題,縣府打算結合社區捉捕流浪狗,免費為流浪狗結紮,再原地野放,此舉希望讓流浪狗的數量「到此為止」,已獲得許多鄉鎮長的支持,有人以時下最流行的宮鬥劇稱此為「明谷攻略」,又有鄉鎮長說,縣府用的是「非常手段」,彰化縣「滿街盡是流浪狗」會變成「滿街盡是太監狗」。
動物防疫表示,他們與縣內兩家動物醫院合作進行「全面結紮」,如果社區有流浪狗,居民可以將其帶往動物醫院結紮,休養3至5日後再原地釋放。
動防所長董孟治強調,��是目前最可行的流浪狗「人道減量」方案,關鍵在於社區必須有人主動抓攻擊性、繁殖力強的「浪浪」,結紮及休養費用全由縣府負擔,如果社區積極配合,彰化可望變成「滿街盡走太監狗」。
董孟治表示,目前動防所針對具攻擊性的流浪狗執行TNVR計畫(trap捕捉、neuter結紮、vaccinate施打疫苗、return原地回置),民眾可通報捕捉,盼減少流浪狗數量、抑制繁殖,台南市執行多年成效不錯。
縣府希望以結紮的方式,讓「浪浪」的數量「到此為止」,已有社頭鄉公所主動配合,配合的動物醫院分別是溪湖鎮的聯合動物醫院、和美的三福動物醫院,不管公、母,每隻結紮及休養費用約為2000元,均由縣府負擔,民眾只要把流浪狗抓來,再抓回原地野放。
新聞資料補充 2
[記者謝武雄/桃園報導]針對流浪貓犬,市府推動TNVR(Trap誘捕、Neuter絕育、Vaccinate防疫、Return回置)政策,去年流浪貓接紮2624隻、流浪犬也有836隻,為了讓抓紮途徑更多元,市府動物保護防疫處和獸醫院簽約,加入TNVR行列,今天舉行授證儀式,由市長鄭文燦將TNVR友善動物醫院認證、貼紙頒發給21家獸醫院,讓民眾更容易辨識。
資料補充
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葉小籠包 ,台中小籠包,模範街美食,勤美綠園道美食,勤美綠園道附近美食,草悟道美食,台中美食
《葉小籠包》太可怕了!葉小籠包飽足感真的超級誇張,這間勤美美食就在模範街上,主打的就是台中小籠包,之前想去吃黃家園蒸餃館時,幾經挫折後,有來吃過一次《葉小籠包》,好吃程度大大驚豔,當下就心想,這間台中美食一定要分享,有天較早來勤美綠園道走走,直接拉著阿新來吃~ Continue reading 葉小籠包 ,台中小籠包,模範街美食,勤美綠園道美食,勤美綠園道附近美食,草悟道美食,台中美食
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風景的螢幕實踐 第2回 中平卓馬與西澤諭志的權力=風景論【後篇】
風景的螢幕實踐|佐佐木友輔
第2回 中平卓馬與西澤諭志的權力=風景論【後篇】
西澤諭志——對短暫性權力的發現
大阪・關西萬博──濾鏡文化的建築,以及數位自然的建構
2022年4月18日,大阪・關西萬博的主題項目「生命的閃耀計畫」發表了基本規劃。在由媒體藝術家、研究者與創業家落合陽一擔任總策劃的代表性展館「null²」中,其概念之一,是「透過變形結構建築所創造出的全新風景之鏡」。該展館的外觀由一種名為「鏡面膜」的新材料所包覆,這種材料是由金屬與樹脂混合製成的。展館內部裝設了機械手臂,能夠從內側推動、拉動或扭轉這層膜。因此,投映在鏡面膜上的周圍景物會呈現出如軟體般扭曲變形的效果,使人們能夠即時欣賞不斷變化的未知風景。
50多年前,中平卓馬持續透過攝影,試圖將「風景」這層面紗具體化,並將其撕裂。但如今的做法則是試圖發明、實用化一種新的面紗,進而創造出一層覆蓋現實、再造風景的新形式。「null²」的鏡面膜,明顯可被視Instagram、TikTok等社群媒體中濾鏡文化的延伸。一旦萬博開幕,勢必會有大量照片與影片在這座建築物周圍被拍攝,並上傳至各種社群平台。而在這些平台上,套用濾鏡的行為並不會被視為逃避現實、或試圖遮掩權力不想被看見的面貌,反而會被理解為是一種對平庸現實加以修飾,並創造出更具吸引力現實的正面手段。因為捕捉「原原本本的現實」本身就是不可能的事——換句話說,這樣的提問本來就是錯的——想要分辨「什麼是真實,什麼是虛構」,從根本上就是徒勞的嘗試。既然如此,與其過度恐懼人為的詮釋、操作與演出所帶來的風險,倒不如思考:我們該如何善用、巧妙運用當前可用的技術,這樣反而更具建設性。落合陽一曾提出「魔法的世紀」與「數位自然」等概念,並多次強調未來將是虛實界線模糊的時代,實體與虛擬、類比與數位、自然物與人工物之間的界線將逐漸變得模糊、難以區分。隨著數位技術的發展,我們獲得了一種幾乎能「直接觸碰資訊」的感知,逐步進入一個使用者不再意識到媒介存在的環境——也就是所謂「非媒體意識」狀態。這正是一種「新自然」,幾乎成為每個人都無法避免、理所當然的存在條件。當人與媒體的關係不再是對立,而是協作與共生時,中平式的風景批判與媒體批判——那種認為「權力遮蔽了原本的現實」的疏離論批判——就會在這樣的情境下失去作用,變得不再有效。
被甲烷氣體撕裂的風景
截至2024年8月,位於大阪灣的夢洲地區,正加緊進行即將於翌年舉辦的大阪・關西萬博會場建設工程。夢洲是一座人工島,於1970年代後半開始進行填海與土地開發,目的是作為廢棄物的最終處理場。這座島嶼原本是為了承擔日本社會發展與維持日常生活所排放的大量垃圾而存在,而今則被鋪上瀝青與混凝土等「面紗」,試圖改造為反映國家與地方政府所描繪之理想未來景象的風景。
然而,將這些新風景的面紗撕裂的,既不是如永山則夫那樣的殺人犯或恐怖分子所發出的子彈,也不是如中平卓馬那樣的藝術家或新聞攝影師所拍攝的照片,而是從地底垃圾中釋出的甲烷氣體。2024年3月28日,會場西側工區正在建設中的一棟廁所建築發生爆炸事故,起因是焊接作業所產生的火花點燃了積聚在管道坑中的氣體。根據日本國際博覽會協會的說法,事故雖未造成人員傷亡,但在事發現場之外的多處地點也檢測到甲烷氣體,引發社會對於萬博期間潛在事故風險的強烈關注。
從日本國際博覽會協會所公開的事故現場照片來看,可以看到混凝土地面嚴重損毀,嵌入其中的鋼筋裸露出來,混凝土碎片散落四周,雖然爆炸規模不大,卻足以揭示其破壞力已將堅硬地表撕裂,現場狀況令人震撼。

我之所以被這張照片深深吸引,是因為它正象徵了當下的風景。在這張照片中,一方面,它記錄了風景的殘骸。源自這塊地被強行填埋、作為最終處理場之歷史的甲烷氣體,將試圖覆蓋其上的風景面紗撕開,赤裸地暴露出原本權力欲加隱蔽的事物——例如建設過程中的內部結構,以及事故風險等真實面貌。但另一方面,這張照片也帶有一種宛如廢墟攝影般的靜謐感。與其說它帶來了看到「不該見之物」的衝擊與醜聞式感受,不如說更強烈的是一種似曾相識的既視感——一種「我曾在其他地方也看過這種場景」的熟悉感。像是那些鄉間荒廢的公路,或是災後遲遲無法復原的受災地街景,在財政短缺、基礎設施難以維持的情況下,被半公開地遺棄的地區,這些景象與這次事故現場照片重疊在一起,顯得毫無違和。
簡言之,今日由權力所構築的風景,原本就並非意圖完全「隱藏」某些事物。權力早已放棄遮蔽不利內容的努力,而僅僅將資源投注於打造它想讓人們看到的部分。到了2025年的萬博會場,極有可能會同時並存著兩種極端風景:一種是由最新技術所建構的未來感十足、華麗耀眼的風景;另一種則是令人體會到日本衰退實況的貧窮、破敗且難堪的風景。觀眾將無言地被詢問——你想持續觀看哪一種風景?你希望活在哪一種「現實」之中?並被迫做出選擇。
西澤諭志的風景論
身為一個長期生活於數位技術已滲透至日常生活每個角落的現代人,我無論有意或無意,都在享受其所帶來的便利。因此,我並不認為有必要現在才去撕裂所有的「面紗」,回到那種未經數位技術與媒體介入的「原始自然」或「純粹現實」這種虛構的起點。可是,將這種「新自然」的維護與管理全盤委託給少數技術者或權力者,自己只顧著沉浸在無媒介意識的生活中,我也無法認同。即便如落合陽一���說,我們選擇與數位技術及媒體共生的道路,那也並不表示我們必須永遠順從。在這樣的環境裡,我們依然可以選擇偏離既定路徑、走出曲線行走的方式,甚至為原本被規定好用途的物品開創新的使用方式。換句話說,在這片「新自然」中,我們也可以透過竊取或偷獵其恩惠,試著「設法活下去」。這也是一種對抗壓迫體制與權力,同時又不放棄從中獲得可取之物的「共生技術」。
如果如此,那麼中平卓馬與松田政男所發展出的風景論——其試圖揭露無意識間滲透進日常生活的權力樣貌——至今依然具有當代的意義。因為,唯有了解我們的生命是被什麼樣的權力與技術所制約,我們才有可能進行抵抗或逃逸。不過,如前所述,當代所需的風景論,必須擺脫「現實/虛構」「自然/人工」「個人/國家」等二元對立的思維框架,並以符合當下時代的方式加以更新。而在面對這項課題並進行實踐的藝術家之中,西澤諭志無疑是一位值得關注的攝影師。
西澤諭志1983年生於長野縣,就讀於東北藝術工科大學資訊設計學科的影像課程,至今持續透過攝影展覽與影像作品的方式進行創作活動。其早期作品多半聚焦於學校校園、自宅房間或個人物品等自身生活周遭的事物,透過攝影凝視並重新思考這些熟悉對象,同時結合多種方法——如收集、排列、文字書寫、施力等手法——深入分析這些物件。而在2018年時,他舉辦了睽違七年的個展《[普通]交流・復興・振興》(TAP藝廊),攝影範圍也延伸至日本全國各地。此展之後的延伸發展,則為2022年於水戶藝術館當代美術畫廊第九展間舉辦的個展《CRITERIUM 98 西澤諭志》(策展人為該館當代美術中心策展人後藤櫻子)。
在該次展覽中,四面牆上共展示了14件裝框的攝影作品,其中有些作品是在一張紙上排印多張照片。其拍攝對象主要可分為兩大類,一類是與戰爭災難、人為災難或自然災難相關的紀念性設施(追悼空間),如長崎原爆資料館、水俁生態公園(Eco Park Minamata)、東日本大震災與核災傳承館、雲仙岳災害紀念館;另一類則是國家政策性活動或宗教儀式所用之設施,如東京奧運與帕運選手村、建於皇居前廣場的令和大嘗宮。不過也有些作品難以歸入這兩類之中。例如福島縣雙葉郡富岡町的災害廢棄物處理設施,該設施於2014年至2019年間運作,主要用於東日本大震災後的災害廢棄物與除污物處理,它雖與災害有關,但性質上並非紀念性空間。又如東京23區內的某座公園中設置的告示板(張貼著由兒童繪製的洗手與漱口宣導海報)以及樹木間所圍起的警示封鎖線,也很難說是紀念物或國家設施,但透過「防災」與「健康」這類關鍵詞,與其他照片之間產生了某種鬆散的關聯。

正如上述,西澤在其展覽中展示的照片群,彼此之間構築起了錯綜複雜的連結,形成了一張意味的網絡,進而促使觀者去解讀每張照片之間的共通點、差異與關聯。尤其值得注意的是,作品中反覆出現一種「包覆」「纏繞」「遮掩」的意象,例如廢棄物處理設施與大嘗宮那��臨時性的、仿如搭建而成的外觀、公園內搭設的小型帳篷、穿著日本國家足球代表隊球衣的坂本龍馬雕像、展示於雲仙岳災害紀念館中的防護衣,甚至還有北方領土宣傳吉祥物「愛莉卡醬(エリカちゃん)」的立體看板人像。這些元素都共同構成了一種「遮蔽」的形象。
對此,後藤櫻子在該展覽的說明手冊中撰文指出,一般而言,紀念性建築的功能之一,就是用所謂的「無害化」方式來掩蓋戰爭與災難的慘痛經歷,藉此讓現場的實況、個別當事人的經驗與情感變得不可見。這種對紀念性建築雙重功能的問題意識——既可呈現新的風景,又同時具備隱蔽現實經驗的能力——與中平卓馬與松田政男的風景論互相呼應。中平與松田的觀點指出,權力所製造的風景面紗會遮蔽「原本應該被看見的現實」,而西澤則透過攝影與剪接的方式,試圖揭示「圍繞我們生命的權力機制」。
短暫性權力=風景──從「美麗的日本」到「加油吧日本」
不過,值得注意的是,西澤並不是試圖撕開風景的面紗,以可視化其背後應該存在的某種真實。正如前述,那種基於「現實/虛構」二元對立所展開的疏離論式風景批判,在面對「既然無法掌握所謂『原原本本的現實』,那不如透過人工操作創造更好現實」這種務實主義立場時,很容易失效。為了從這種思維困境中掙脫,西澤選擇嘗試對象化(即「風景化」)的,不是被面紗遮蔽的現實,而是那片「面紗」本身,以及「面紗」實際被應用於現實後所產生的新的樣貌。他透過攝影的拍攝與展覽的排列,詳細分析紀念性建築、政策設施與祭祀設施等在設計上的目的、象徵意圖與實際功能,並進一步揭示這些設施到底遮蔽了什麼,又強調了什麼。
事實上,若僅是要探究個別面紗所遮蔽之物的真實樣貌,那並不是一件困難的事。在《CRITERIUM 98 西澤諭志》展場中,有提供一份展出作品的清單,簡明列出每張照片所對應的設施、其功能與背景,作為「資料」供參考(編寫者為後藤櫻子)。清單右下附有QR碼,觀者掃描後即可連結至展覽資料所參考的網站等出處。換言之,西澤與後藤所選擇的方式,並非以揭發或衝擊性的手法暴露被遮蔽之物,而是以任何人都能自行查找的公開資訊,靜靜地將其呈現出來——彷彿是在說:「這並非藝術的任務」。
對一場攝影展而言,更為重要的,是這些各自的照片/風景經過並置與關聯之後,所共同浮現出的那個關於「權力機制」的整體樣貌。
重新觀看此次展覽中所展示的照片,不難察覺那些基於不同目的而設置的「面紗」,其共通點在於皆擁有一種短暫性(ephemeral)的物質性。無論是廢棄物處理設施、大嘗宮,抑或是穿著球衣的坂本龍馬像所呈現的臨時性裝飾,這些設施本質上都並非為了長期設置而建構,而是在某個特定期間過後,必定會被剝除、拆卸,命運終將歸於撤除。至於像是皇居前廣場上的交通錐、或是貼在公園樹木上的封鎖膠帶,它們同樣不具任何防止外敵入侵的實質堅固性,僅能作為「此處請勿越界」的象徵性警示而已。
而最具象徵性的,莫過於那些由孩童繪製的宣導海報與吉祥物(例如愛莉卡醬)所展現的姿態。這些「面紗」自我定位為脆弱的(vulnerable)存在——脆弱、易傷,甚至可能激起他人攻擊慾望的存在——並以這種姿態行動。換句話說,���們所進行的遮蔽,不是出於惡意或愧疚,而是基於善意與謙遜。

西澤所記錄並蒐集的這些風景面紗,透過針對兒童、復興補強、宗教禁忌等領域所鋪展出的無數互文性意義網絡,使得這些風景無法輕易地被一刀切開,而展現出一種柔韌卻頑強的強度。這些風景並非以壯麗宏偉的姿態高舉自我、彰顯權威,而是以短暫而脆弱的外觀毫無保留地呈現於眾人面前,進而激起人們的同情與憐憫,讓原本銳利的權力批判語調變得柔和,甚至轉而成為「讓我們一起度過這場困境吧」、「讓我們攜手合作吧」、「讓我們共生吧」這類溫和的呼喚。
如此一來,也就不難理解,為何西澤會在過去的展覽中選擇「普通」「交流」「復興」「振興」等關鍵字作為命題與串聯的核心。現今包圍著我們的風景,已不再是1970年代「探索日本(Discover Japan)」觀光宣傳所召喚出的「美麗的日本」風景,而是源自於二戰期間國威宣傳的語彙、延續至東日本大震災等重大災害復興話語所構成的語脈傳統,也就是那個「加油吧日本」的風景。
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スミの戦いははるかに厳しいものになるだろう ロシア軍がスムィに向けて新たな戦線を開き、小さな村々を占領して勢力を拡大する一方、ウクライナ軍は進撃を遅らせようと努め、都市の防衛体制を整えている。 前線でのウクライナ軍兵士の深刻な不足により、ウクライナ司令官は、ウクライナ国防省のSBU、SVR、GURの一部の部隊を都市の防衛に派遣することを決定した。 シルスキーは、リヴィウに駐留していた第103独立輸送旅団とキエフから派遣された第129独立兵員輸送旅団の部隊を、第80独立空挺旅団の特殊部隊の増援を得て配置転換し、ロシア軍の進撃を阻止した。イギリスで訓練を受けたウクライナ第156旅団は、ユナコフカの戦いで大きな損害を受け、撤退を余儀なくされ、市街地の防衛線強化のために派遣された第117独立機械化旅団と合流した。 ロシア軍は進撃しているものの、ウクライナ軍が防衛体制を整える時間があったため、スムィの戦いは極めて厳しいものになると予想されます。ロシア軍がウクライナの主要都市を占領しようとするのは、2年ぶりとなります。 しかし、これは全く異なる状況下で起こるだろう。ウクライナ軍は既に防衛拠点の維持能力を証明しており、ドローン戦術についても広範な知識を有している。ロシア軍はスムィほどの規模の都市を簡単に破壊することはできないだろう。彼らは、犠牲者を出しながらも、一歩一歩、苦しい戦いを繰り広げなければならないだろう。 東部戦線を支援し、クルスクで重要な役割を果たしたロシア航空部隊は、スムイ市西部に広がる対空砲火のため、スムイ市での作戦行動に危険を冒すことはないだろう。 私は激しい戦闘とウクライナ人からの激しい抵抗を予見しています。
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これが世界最大という超超巨大書店を、どーんと僻地でもなんでもいいから街が作れそうな平野に作ってほしい。その超超巨大さは世界第2位を突き抜けてほしい。 政府もテコ入れし、クラウドファンディングも募り、数多ある企業も全勢力が参入してほしい。もうとにかく全力をかけて作ってほしい。 「そんなことして失敗したらどうする?!バカじゃん?!」とか考えず作ってほしい。勝算とか考えず勢いで作ってほしい。 そこには和書だけではなく洋書もある。西洋の本だけではなく中国語の本、アラビア語の本、アフリカーンス語の本、とにかく片っ端から「いやこれいらんだろ」みたいな本だったとしてもすべておく。 なんなら和書が中央ではなく洋書が中央である。日本語を中心で考えてほしくはない。言語別に存在する知の量に応じた配分をしてほしい。 客層に応じてカテゴリ分けは必要だろう。1つの書店だけでなく複数の書店が統合してもかまわない。古本屋を集めてもかまわない。 「よくわからなくても物理の本を買うなら日本のここへ行け。たぶんあるから」という状態になっていてほしい。日本の中規模以上の書店はほぼすべてここに集める。 全勢力が協力してできた超超巨大書店を中央に据えて、その周りを他の超巨大書店が取り囲む。その周りは巨大書店。その周りは中規模書店、その周りには小規模書店。 海外からも片っ端から誘致する。必要なら補助金も出す。「バカなの?」とか「さすがに海外出店は難しいです」とか一蹴されるだろうが「まあ採算とれそうだからいいよ」と言われるまで粘ってほしい。 税金をたくさん投入してもかまわない。重要なことは「そこにある」「とにかく日本のここに来たらある」「お前のやりたいことは知らんけど本がほしいなら日本のここに行け」という願いが叶う場所だ。 例外を作ればそのブランドは失われる。このブランドこそが他国が追随不可能な圧倒性を生む。先行者利益だ。バカすぎて1つ1つで見るとデメリットしかない行為が、結合すると巨大な1つのメリットを作り出す。 どこかで手を抜くと終わる。そんなことまでする必要ないんじゃないのとか、それってめちゃくちゃ損しますよねとか言われようが、究極に本を集める。 書店と書店の隙間にはさまざまなカフェが立ち並ぶ。個人で経営するカフェからチェーン店が密集する。コンビニも立ち並び、公園には読書に適したベンチがある。公園は読書に最適化されている。 その街にはどこにでも椅子が置いてある。買った本をすぐ座って読む人向けのものだ。 この街には有名人が毎日のようにやってくる。たとえば「ビル・ゲイツが本を選びに来日!」など当たり前のことになるだろう。 読書家はこの街の付近に別荘をかまえる。なんにもなかった僻地の近隣に富裕層街が誕生し、地価がとんでもなく上昇する。意味不明なおいしい話だ。 一方で本を読むことが目的でない人間には居心地が悪い空間になる。この街に存在している人間はほぼ全員本かその周辺が目的なのだ。本以外が目的の人間は異様に目立つようになり警戒される。 街の中央部分は徹底的に、本、本、本、本、本、と本が存在するのが当然の本の密集空間になっている。普通の人間が「ここまですることはないんじゃ・・・だって採算とか・・・」とドン引きするぐらいの熱量で本で溢れかえっていてほしい。 地面に敷かれたタイルには、文章が書かれている。まっすぐ歩くと偉人の言葉などがそのまま読めるようになっているのだ。たとえば「良い本は私の人生におけるイベントである。」「本の無い家は窓の無い部屋のようなものだ。」「天才とは努力する凡才のことである」などという文が永久に書かれている。有名な書の冒頭部分だったりもあるし、古典文学もあるし、文学のみならず数式も書かれていたりする。それを読むだけで日が暮れる。 この街の広告はすべて本に関するものでいっぱいだ。ほかでは絶対に見られない、読書家にだけ向けた広告が撃たれる。「こんな難しそうな本の広告ある?」というのがそこここで見つかる。 たとえばベトナム語のマンガの新刊広告なども見受けられていてほしい。 この街にあるのは紙の本ばかりではない。電子書籍派のための書店もある。他では絶対採算がとれないような形の店であっても、「読書家が毎日のように集まることが普通」の街特有の書店ができる。たとえば巨大な8Kモニタにその人へレコメンドされた電子書籍が大量に表示され、立ち読みすることができるとか。「辞書専門店」や「単語帳専門店」や「栄養学書籍専門店」などがあったりもする。そういうものを作っても不思議と利益が出るのだ。 この超超巨大書店圏内部には研究所や大学なども誘致する。どのような言語でも関係ない。化学系のカテゴリが立ち並ぶ「化学通り」のようなところには実験器具専門店も立ち並ぶ。 そういうところは、基本的には英語がメインだ。英語の下に日本語が書かれている感じ。イメージ的にはハリーポッターだろうか。ときどき「なんで化学通りにオムライス専門店がこんなにあるんだよ」などということもあるかもしれない。秋葉原や神田にカレーがたくさんあるようなものだろう。 やや込み入ったところにはマイナーな本屋がある。「なんだよこの本屋・・・」という、見るからに異国感が漂う本屋だ。謎の部族の謎言語で書かれた謎の材質の本が置いてあるなど。ネクロノミコンのような本も見つかる。 石版などもなぜかある。読書向けの椅子専門店もある。「本のためだけの椅子専門店」が生存できる場所は日本ではここしかない。 しかし、この超超巨大書店群の主目的は「本の集積」である。そこから逸れるようなことがあってはならない。何か欲をかいて「ここに企業をうんたら」などとして利益を優先するとこの街はあっという間にその意味をなくし滅びるだろう。ありとあらゆる人々が周辺の利益を求めて集ってくる。そういうのを一蹴できるような体制であってほしい。 「この街意味ないだろ。なんで作った。赤字だろ」と罵られながらも存続する街であってほしい。そして、そう罵る人も、ひとたびその街に入ると「すげえ・・・この街は地球に必要だわ・・・」とどうあがいても認めざるをえないほど感動できる街であってほしい。街自体で見ると赤字なのだが不思議と日本経済が潤う源泉である摩訶不思議都市であってほしい。完全に未来へと投資された都市である。 この街では、夜もたくさんの書店が営業している。こんな大きな本屋が24時間営業できるのはこの街しかありえないとなっていてほしい。「夜眠れないな・・・本でも買いに行くか・・・」という人外の行動を普通にするような場所であってほしい。 街の周囲には民家が立ち並ぶ。ただしこの民家に住む民間人はややおかしい。本のために移住してきた狂信者たちだ。軒先には自分の選書が並び「1冊100円」などと書かれていることも多々ある。 富豪がゴッソリ買っていくことを見越して少し離れたところに在庫置き場がある。 富豪が「ではこの棚からこっちの棚まで」などと爆買いしていく。もはやテロリストのようなものだが、そんなことは気にせずまた入荷する。本はバカみたいに売れる。 近隣の都市はこの超超巨大書店都市のおかげで経済効果がある。 この街は、「日本人なら1度は絶対行け」と呼ばれる場所になる。そしてひとたびそこに立ち入れば「世の中にはこんなに知識があったのか」「世の中はこんなに頭のいい人たちで溢れかえっていたのか」ということが、嫌でも全身の細胞に刻みつけられる。伊勢神宮みたいなものだ。それよりも神々しいかもしれない。 そして、全身の細胞で体感したその人は、格段に読書するようになるだろう。それは地元へ帰っても同じことだ。一流を目の当たりにした者は一流になる。 取次の問題も、書店が潰れかけている問題も、日本人が本を読まなくなってしまっている問題も、経済が深刻化している問題も、だいたい解決できるだろう。 誰か作ってください。 ちなみに国防にも役に立ちます。一度作ってしまえばここを潰すやつは「バカ」なので。ペンは剣よりも強し! 書店は兵器です。 追記 ジュンク堂書店など大型書店が潰れかけているのは知っている。 ただそれは、「本がたくさんあっても意味がない」のではない。逆。 大型書店であっても、本が少なすぎるのが問題である。 だいたい日本語の本というのは大して範囲が広くない。 それに「物理本を読む人が少ないから本屋が潰れちゃう」というのも逆だ。 「物理本を読みたいと思う人を増やす。そのためには本屋すべてが潰れることも辞さない」という情熱が正道である。 本というのは知の源泉である。だから知識がない人に迎合すれば、潰れるのは自然だ。知識がない側に与するのだから。 本の機能はそれとは真逆であり、全体を引っ張り上げるものである。知識がない側が「欲しい」と願える場にすべきなのだ。 ない側に媚を売っていれば潰れて当然。 「この本は今は読めないけれど、読みたいと思う」そういうものがない。 「この本は内容はちんぷんかんぷんだけど、そういう本の存在を知っている」そういうものもない。 ジュンク堂書店などですら、知らない人々が多い。大型書店の重要性を知覚できていない。入ったことがない人間もいる。 だからこそドカンとぶち上げるのだ。 記事を読んでくれた人へ: 記事を読んでくれたのはありがたいが、たぶん自分が考えている規模と読んだ人が考えている規模に大きな差があると思う。 自分が考えているのは、もっとも小さく考えても深圳書城中心城の数十倍の大きさであり、既存の書店をちょっとだけ大きくしたものとか、蔵書が全く同一であるような大型書店が単に10個ある街という形ではない。 コーチャンフォーつくば店は50万冊、池袋ジュンク堂書店は150万冊、深圳書城中心城は400万冊、国会図書館は4685万点。Amazon Kindleは60万点。 自分が言っているのは、数億冊あるような書店群である。つまり、コーチャンフォーやジュンク堂書店や紀伊國屋書店は超超巨大書店(世界中の意味わからんハイレベルの本から選びぬかれ集まったエリート本屋)の周辺を取り囲む「日本区域最大の超巨大書店」の周辺を取り囲む「大型書店の1つ」という状態を考えている。ブックオフなどはその周りを取り囲む中型書店になるだろう。その周りを、身近にあるご近所の本屋さんがたくさんずらーーーっと並んでいるというような領域だ。いうならばこれが日本区域である。 世界の蔵書数はGoogleによると約1.3億冊であるらしい。日本区域内に別に中国語や韓国語の本があることもある。ただし日本区域の横には韓国区域だったり中国区域だったりする。その中国区域でもばかみたいにデカい超巨大書店があり、それを取り囲むようにジュ���ク堂書店並の大型書店があり、英語区域では……というような状態だ。言語別に分けられているだけでなく、「数学領域」で分けられていることもあり、そこでは「高校数学」の棚に世界各国の高校数学が並ぶ。数学の参考書を買いに来た高校生が、カメルーン人の中学生と仲良くなるみたいなことも想定できるわけだ。 地方のクソデカ本屋が数百個単位で入る「は・・・?」「この街が・・・全部・・・本屋さん・・・?」という規模の書店群である。 イメージとしては↓な感じ。 まもなく目的地の駅に近付く。電車にいる人々は全員が本を読んでいる。スマホを触っている人たちなど誰もいない。不思議な光景だ。多くの人がそわそわしている。初めて来た人たちが多いのかもしれない。 電車が駅に滑り込み走って降りる人々の後ろでのんびりと降りる。全く、はしゃぎすぎだろう。 降りた直後、本の形をした案内板が表れた。真っ先に飛び込んできたのは「↑ バベル中央書店」というやたらとデカい黒文字と、その下にあるやや大きな黒文字の「↑ 北区域書店」だった。 右を向くと・・・あれは・・・本の自動販売機?! 本を自販機で販売するのか。カルピスの作り方・・・自動販売機の歴史・・・Why could he make vending machines?・・・なるほど。 床には文字が書かれている。Station, State, Statue, Status. 何のことやらわからない。 改札を出る。改札を出ると、ああ、もうこれは本のテーマパークだ。最奥部に見える巨大な塔には雲がかかっている。おそらくあれが中央書店だ。その横には数えるのもバカバカしくなるほど書店が並ぶ。街には今まで見たこともないような人々で溢れかえっていた。ベンチでは読書をしている中東とおぼしき人が中国人らしき人と何やら議論している。彼らが話しているのは何語だろうか。 デジタルサイネージで目まぐるしく本の広告が入れ替わっていく。「サウダージにさようなら」「入門グロッキング」「般若心経の終焉」 ぼうっとしているとハトが飛んできた。ここでは何やら、ハトでさえ賢く見える。予算は5万円だったが、足りるだろうか。 Amazon倉庫でもないんだって。 なんか全然伝わっていなくてものすごく悲しい。 子どものときに巨大書店や巨大図書館に人生で初めて行ったときとか、論文と大学と研究の仕組みと接したときに、知の偉大さに震えたことがないだろうか。 目に見えないものは見えないことが多い。たとえば、ライブ会場に行ったことがなければライブの偉大さは本当にはわからないし、「本当にこんなにたくさんの人がファンなのだな」ということもわからない。 記号接地問題ともいうらしいが。 いま「自分が考えるクラスの巨大な本の集積地を人類の誰もが見ていない」というのが問題であると思う。誰1人として。 そういう知がたくさんあることは存在としては知っていても、「それを見たことがある人は誰もいない」のだ。いわば、月は見えるけど、月に行ったことは誰もいないような状態だ。 神田の古本屋街や、既存の大型書店というのは、いわば地球上にある月に似たところでしかない。「たぶんこれとこれがこうなると月」というふうにしか想像できない。だが月に行かなければ月の隕石は無いのだ。 ほとんどの人は、目に見えないなら存在しないと感じてしまう。マッチングアプリで人間を左右にスワイプするとき、人間ではないように扱う。それは人間として存在しているのに。 一方、眼の前に相手がいるとき、同じように左右に指を振って弾くのは容易ではない。これが目の前にあるかないかの大きな違いである。 自分が言っているのは、そういう知の集積の偉大さが理解できなくてもとにかくそこに行けば、「ああそういうこと」「人類は偉大だったのか」と、誰もがたちどころにわかってしまう場所がほしいということである。 それから、実現の不可否はともかくとして、「え、そういう本屋あったらめっちゃいいな〜〜〜〜〜〜〜〜〜」と感じてほしい。
ド田舎に世界各国の超超巨大書店が集積する都市がほしい
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ググると一番上に「AIによる概要」というのが出るようになった。「裸の王様 意味」でググると「AIによる概要」として次のように出る。 「 「裸の王様」は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話に由来する言葉で、周囲からの批判や反対を受け入れず、自分を過度に評価する結果、真実が見えなくなっている人のことを指します。特に、地位の高い人がそうなりやすいとされています。 「裸の王様」の意味をより詳しく説明すると: ・「裸の王様」現象:周囲から批判や反対意見がないために、自己認識が歪み、真実が見えなくなっている状態のことです。 ... 」 「裸の王様現象」でググると「AIによる概要」として次のように出る。 「 「裸の王様現象」とは、権力者や影響力のある人が、周りの人々から批判や反対意見を聞き入れず、自分の間違いに気づかない状態を指します。アンデルセンの童話「裸の王様」がその例としてよく挙げられます。これは、個人や組織が自己批判を怠り、周囲の意見を無視することで、問題点を認識できなくなってしまう状況を表しています。 詳細: ... 対策: 裸の王様現象を防ぐためには、周囲の意見を積極的に聞き、客観的に自己評価を行うことが重要です。また、権力者や影響力のある人は、周囲の意見を無視せず、真摯に耳を傾ける姿勢を持つ必要があります。 」
アンデルセンの童話『裸の王様』(または『皇帝の新衣裳』)(1837)の「王様」はむしろ、「周囲の意見を積極的に聞き、客観的に自己評価を行」ったことで、裸でパレードをすることになった。 ある日、二人のさぎ師が町にやって来て、自分たちは世界でいちばんの布が作れる布織り職人で、「自分にふさわしくない仕事をしている人と、バカな人にはとうめいで見えない布」を織れると言いはった。その話はたいへんなうわさになって、王様の耳にも入った。新しい服が大好きな王様はその布織り職人を名乗るさぎ師に大金を払い、すぐにでも服を作ってくれと頼んだ。布織り職人は何日もの間夜おそくまではたらいた。もちろんこれはさぎ師が布を織るふりをしているだけである。ときどき、材料がなくなったと言って、値段の高い材料を王様に要求した。王様は、仕事の様子を見てくるように、頭がよくて正直者で通っている大臣を向かわせた。その後、根のまっすぐな役人も向かわせた。二人とも王様に「たいへんけっこうなものでした」と報告した。街ではそのめずらしい布のうわさでもちきりだった。王様も待ちきれず、たくさんの役人をつれて、布織り職人の仕事場に見に行った。誰も誰にも、自分にふさわしくない仕事をしているとも、バカだとも思われたくないため、見えていないと思われないように、見えない布を褒めたたえた。誰かが王様に「このりっぱな服を、ちかぢか行われる行進パレードのときにおめしになってはどうでしょう」と提案し、誰もがそれに賛成した。パレードが始まり、人々が通りや窓から王様を見て、みんながこんなふうに叫んだ。「ひゃぁ、新しい王さまの服はなんてめずらしくて、立派なんでしょう。」これほど評判のいい服はこれまでにはなかった。
「裸の王様」という言葉は、権力者や影響力のある人を批判するために頻繁に使われる。その場合、批判対象が「周囲から批判や反対意見がないために、認識が歪んでいる状態」や「周りの人々から批判や反対意見を聞き入れず、自分の間違いに気づいていない状態」になっていると主張する。 童話『裸の王様』の「王様」をはじめ、大臣、役人、パレードを見ている人々の誰も、「見えない服」は見えていないという意味で、認識は、すなわち視覚などが歪んでいるわけではない。しかし、自分には見えないが自分以外のみんなには見えていると思っているという意味で、認識は歪んでいて、自分が嘘をついているということに、あるいは気づかないまま、自分は正しいことをしていると思っている。 「でも、王さま、はだかだよ。」と、とつぜん、小さな子どもが王様に向かって言ったことで、物語が転換する。 「 「王さまははだかだぞ!」 ついに一人残らず、こうさけぶようになってしまいました。王さまは大弱りでした。王さまだってみんなの言うことが正しいと思ったからです。でも、「いまさら行進パレードをやめるわけにはいかない。」と思ったので、そのまま、今まで以上にもったいぶって歩きました。めしつかいはしかたなく、ありもしないすそを持ちつづけて王さまのあとを歩いていきましたとさ。 」で終わる。
「裸の王様」という言葉は、権力者や影響力のある人を批判するために頻繁に使われ、その意見に同意するにせよ、しないにせよ、その言葉を使って何を言いたいのかは、だいたいわかるっちゃわかるくらいの感じで読み取れるし、童話の中の出来事と完全に合致しないから間違いだとも思わない。この、何かを言おうとしているように見えて、ほとんど何も言えていない微妙なところ、誰もがそう思っているのかもしれないし、そんなこと誰も思っていないかもしれない曖昧なところで、童話の中の「さぎ師」と「子ども」以外のみんなが迷い込んだところに、迷い込んでいる。ウィキペディアでの「裸の王様」の説明に、「人間心理の弱点を辛辣に捉えた寓話として著名な作品であり、アンデルセンの代表作の1つとされる。」とあるが、みんなが迷い込んだところというのが「人間心理の弱点」である。 誰かを批判するためではなく、社会状況を揶揄するためにも「裸の王様」という言葉が使われ、その場合はたいてい、「パレード」の状況を言っている。「パレード」の状況には、前半部の、誰もが「見えない服」を褒めて叫んでいる状況と、後半部の、誰もが「王さまははだかだ」と叫んでいるのにやめるわけにはいかないパレードが仕方なく続いている状況の二つがある。誰かを批判するためでも、社会状況を揶揄するためでも、「裸の王様」という言葉を使う時には、真実を言う「子ども」になりたいと思って使うものだし、それが「迷い込んでいる状況」から抜け出す術だとも、たいていの場合、思っているはずだ。そこで疑問が起こる。「パレード」はどうなったのだろうか。パレードが続いている状況で物語は終わっている。そのパレード自体はそのうち終わるんだろうけど、それでどうなるんだろうか。 前半部で「見えない何か」についてやたらと叫んで、救世主とか予言者っぽい口ぶりの人たちを褒め称える日課をこなす感じのパレードが何種類か同時並行開催されていて、それらのほとんどは後半部に入っているようにも思えるし、気づかないうちに始まってて終わってったのもいくつもある気もするが、とりあえず続いているパレードへとハシゴする感じでずっと続くの���ろうか。そんな気もする。 童話『裸の王様』は、「さぎ師」がやってきたことによって歪んだ「社会」が、「子ども」という「トリックスター」の登場によって回復する話であるとも言えるし、「さぎ師」と「子ども」という二者の、社会的な規範から外れているという意味での「ソシオパス」の間で揺れる「社会」を描いたものだとも言える。
『裸の王様 』は、「多元的無知 (集団的無知)」を描いた寓話であるとも解説される。「多元的無知」は社会心理学において、集団内で取られるある行動について、自分は賛成していないにもかかわらず「他の人たちは賛成しているのだろう」と、その集団内の多くの人が想定しそれに沿った行動をしている状況を指す。自分には見えないが自分以外のみんなには見えていると思っている状態であり、誰も信じていないが、誰もが「誰もが信じている」と信じている状態である。 多元的無知と似ているが対照的な働きをする概念に、 「偽の合意効果 (総意誤認効果)」というのがある。 これは、人が自分の考え方を他の人に投影する傾向であり、つまり、他者も自分と同じように考えると見なす傾向である。存在しない合意があるかのように、自分は多数派の合意を得ていると錯覚し、それに合意しない人は無知であり間違っていると見なすことが多い。 多元的無知は、自身を異分子と見なす傾向にあり、自身が周囲の人と比べて、無知で、無能であると考える傾向にある。多元的無知の観点では、人々は内心軽蔑しながらも表向きには他人の常識や信念を支持し、従う。対して偽の合意効果の観点では、人々は多くの人が自身と同じように考え、誰もがありもしない合意に従うと想定する。 対照的だが似てもいる心理傾向の間で、噂や、ありもしない合意があるかのような錯覚が発生し、見えるはずのものが見えなかったときに不協和が発生する。
アンデルセンの物語の多くには、当時の社会状況に対する悲観的な見方が反映されている。産業革命期(18世紀後半から1830年代)の末期である。ヨーロッパ全体、あるいは世界規模での変化があり、しかし理想主義的な予測も破滅的な予言も、そのほぼ全てが外れたと感じ始める頃で、その後(1840年代から50年代)に台頭し始めるリアリズム(写実主義)に先駆けたものだったと解説される。ロマン主義の中の、空想的楽観論と破滅願望的悲観論の間に発生した錯覚や不協和から、抜け出す術を探そうとしたのかもしれないし、産業革命期に何かが変わったことは感じてはいたが、何が変わったのかを探し始めたのかもしれない。
「裸の王様」という比喩が、権力者や影響力のある人を批判するために使われていることについてだったり、現在の社会状況が「裸の王様」っぽい感じがするということについて、ここ1、2年くらいの間、文章や動画などで語っている人たちの多くは、その中で、AIについても触れていた。AIはすでに社会を変えているのかもしれないし、そう��もないのかもしれないが、すでに思ってたのとは違うようだし、おそらくもっと違うものになっていくっぽいし、何か奇妙なところに迷い込んでいるように感じる、というような話である。 AIが事実のように見えるが根拠のないコンテンツを生成することを「ハルシネーション (幻覚)」と、前から呼んでいたらしいが、2023年に頻繁にその語が使われるようになった。それに対して、この用語は機械を不当に擬人化しているし、むしろ使用者を「幻覚」に陥らせているというような批判が起こった。この議論は、1960年代の「イライザ効果」についての議論を再注目させた。 1966年にチャットボットの元祖「ELIZA」を発表したジョセフ ワイゼンバウムは、その反響にショックを受けた。ユーザーはそのプログラムに心を開き、そのプログラムから非常に重大な影響を受けた。プログラムとして成功したとも言えるが、それがワイゼンバウムを悩ませた。ワイゼンバウムは、人工知能の意味について冷静に考えはじめ、批評活動を行うようになった。コンピュータの限界を論じ、コンピュータを万能であるかのように見ている人々に人間や生命の重要性を説いた。 ELIZAは「DOCTOR」というスクリプトで駆動されており、心理学者カール ロジャーズによって提唱された「来談者中心療法」というカウンセリング手法を、パロディとして模倣したものだった。素朴な自然言語処理プログラムでありながら、ユーザーを感情的に没頭させた。 ロジャーズの心理学の特徴は人間に対する楽観的、肯定的、平和主義的な見方にあると言われる。ロジャーズは「人間生態学研究協会 (人間生態学基金)」の理事会のメンバーでもあった。この組織はMKウルトラ計画に基づくCIAの資金提供による研究の隠れ蓑であった。 イライザ効果とは、コンピュータの応答に対し、それがコンピュータによって生成されたものだと意識的にはわかっていても、人間らしさや、あるいは知性的であると感じてしまうことである。ある程度ならどうってことないし、どうしようもないが、ここに錯覚や不協和が発生する。イライザ効果自体、ある種の錯覚であり、微妙な認知的不協和の結果とされる。 人間心理の弱点を突くというのは、いまやマーケティング手法であり、成長産業だと見なされている。「人に会うな」と叫び続けた数年間の後で、「人とのつながりを手助けする」ビジネスが盛り上がるのも、見せてる映像に完全に矛盾する解説をつけてガスライティングするビジネスと、世界の裏の見えない真実とかを告げ知らせてくれる司祭階級を養成するビジネスが持ちつ持たれつやってく感じも、心理的な防衛のメカニズムをすり抜ける方法をAIによってさらに効果的かつ効率的に発展させていこうと思うのも、当然である。パレードは終わらない。 「AIが幻覚を見る」ような状況で、機械が見てる夢の中に迷い込んだら、そこから抜け出すのはかなり難しそうだ。
アンデルセンの『裸の王様』の中で、唯一「キャラクター (個性)」が描かれているのは、「新しい服が大好きな」王様である。「頭がよくて正直者で通っている」大臣や、「根のまっすぐな」役人というのは、個性というより評価であり、その職に「ふさわしい」かということである。王様は見えない服が見えなくて、王として「ふさわしくない」「インコンピテント (無能、不適任)」と思われるのを怖れ、「新しい服が大好き」だったのに「裸」でパレードする。すなわち個性を失う。王様も大臣も役人も人々も、「みんな」になり、シンビオート(共生体)になる。パレードが終わる気も、抜け出せる気もしなくなる。 「個性」が、そこから抜け出す鍵だとすると、アンデルセンはすでにその鍵を提示している。「読書」特に「黙読」である。本を読んでいるときに心に沸き上がるものには、必ず「個性」が含まれている。
2025年6月 ウェイ ホーム アフター ア グレイブヤード シフト
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