#渦潮観潮船
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trivia-jp · 1 year ago
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鳴門の渦潮 四国の名所
鳴門の渦潮は、日本の四国地方、特に徳島県鳴門市の鳴門海峡において観察される自然現象です。この地域は、四国と淡路島を結ぶ瀬戸内海の出口に位置し、潮の流れが速くなるために渦ができやすい特殊な地形です。 鳴門の渦潮は、干潮と満潮の際に潮流が急速に変化することで生じます。干潮時に瀬戸内海から太平洋へ潮が流れ出し、満潮時に太平洋から瀬戸内海へと潮が戻ることで、潮の流れが激しくなります。この潮の流れが狭い海峡を通る際に、特に橋などの地形的な影響を受けて渦が発生し、見事な渦巻きを形成します。 特に大潮の時や春と秋の潮位差が大きい時期には、非常に大きな渦潮が発生し、その迫力と美しさから多くの観光客が訪れます。渦潮を観察するための遊覧船も運航されており、船上から渦潮を間近で見ることができます。 鳴門の渦潮は、自然が作り出す壮観な光景として知られ、その迫力や美しさから国内外から多くの人々が訪れる観光名所です。特に海峡を渡る橋から眺める渦潮の姿は圧巻であり、多くの観光客がその景観を楽しんでいます。
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whirlpools of naruto Famous spots in Shikoku
Naruto whirlpools are a natural phenomenon observed in the Shikoku region of Japan, especially in the Naruto Strait in Naruto City, Tokushima Prefecture. This area is located at the exit of the Seto Inland Sea, which connects Shikoku and Awaji Island, and has a special topography where eddies are easily formed due to fast currents. Naruto's whirlpools are caused by rapid changes in tidal currents during low and high tides. At low tide, the tide flows out from the Seto Inland Sea to the Pacific Ocean, and at high tide, the tide returns from the Pacific Ocean to the Seto Inland Sea, making the current stronger. When this tidal current passes through a narrow strait, it is influenced by topography, especially bridges, and creates eddies, forming spectacular whirlpools. Especially during spring tides and when the tidal level difference between spring and autumn is large, extremely large whirlpools occur, and many tourists visit due to their power and beauty. Pleasure boats are also operated to observe the whirlpools, and you can see them up close from the boat. The whirlpools of Naruto are known as a spectacular sight created by nature, and are a tourist attraction visited by many people from Japan and abroad due to their power and beauty. The view of the whirlpools from the bridge that crosses the strait is especially impressive, and many tourists enjoy the view.
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awajibaikundo · 2 years ago
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七夕ナイトクルーズ。
星に願いを...
お香世界に平和を
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#お香
#天上界
#七夕
#ナイトクルーズ
#七夕ナイトクルーズ
#淡路島観光
#淡路島
#南あわじ
#南あわじ観光
#南淡路観光
#咸臨丸
#淡路島咸臨丸
#天体ショー
#天体ショー2023
#鳴門海峡大橋
#道の駅福良
#うずしおドームなないろ館
北に南に遊覧船あって、橋も二つあって、歌に、踊りに、音楽に、瞑想に、花や緑に、海山の幸食べ物に、七福神の寺や神宮もあって
西海岸はサンフランシスコぐらいかと思っていましたが、
淡路島はテーマパークのようだ
ガイドさんのように淡路島に移住して暮らす人もいる。
セーヌ川のようにナイトクルーズ賑わうと
渦潮交わり夜開いている店色々できそう
天体の下にも様々な光
観光あなた
どうする
淡路梅薫堂
兵庫県淡路市江井2845-1
http://www.awaji-baikundo.com/
0799-86-0065
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kachoushi · 2 years ago
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各地句会報
花鳥誌 令和5年7月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年4月1日 零の会 坊城俊樹選 特選句
一葉の家へ霞の階を きみよ 春昼や質屋の硝子なないろに 小鳥 伊勢屋質店今生の花とほく 光子 菊坂に豆煎る音や花の昼 和子 一葉の質屋は鎖して春の闇 はるか 本郷の亀を鳴かせて露地住ひ 順子 おかめ蕎麦小声で頼み万愚節 いづみ 文士らの騒めきとすれ違ふ春 三郎 一葉を待つ一滴の春の水 光子 物干に如雨露干したり路地の春 和子
岡田順子選 特選句
一葉の家へ霞の階を きみよ 金魚坂狭め遅日の笊洗ふ 千種 菊坂の底ひの春の空小さし 光子 坂の名のみな懐かしき日永かな 要 赤貧の欠片も少し春の土 いづみ 本郷の間借りの部屋の猫の妻 同 質店の中より子規の春の咳 俊樹 止宿者の碑のみ残すや蝶の舞 眞理子 本郷の北窓開く古本屋 きみよ かぎろひの街をはみ出す観覧車 いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月1日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
花冷の背後より声掛けらるる 美穂 幾年も陽炎追ひて遊びけり 散太郎 濃きほどに影のやうなる菫かな 睦子 化粧水ほどの湿りや春の土 成子 画布を抱き春の時雨を戻りけり かおり 昼月は遠く遠くへ花満開 愛 シャボン玉の吹雪や少女手妻めく 勝利 麗かや砂金三つ四つ指の先 睦子 成り行きの人生かとも半仙戯 朝子 鞦韆の羽ばたかずまた留まらず 睦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月3日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
花吹雪卍色と云ふが今 雪 花冷に後姿の観世音 同 そぼ降りてひと夜の契り花の雨 笑 観世音御手にこぼるる花の寺 同 お精舎やこの世忘れて糸桜 啓子 逝きし友逢へないままに朦月 同 裏木戸を開ければそこに花吹雪 泰俊 御仏と咲き満つ花の句座に入る 希 愛子忌や墓にたむけの落椿 匠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月5日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
縋りつく女心や桃の花 世詩明 肌寒く母の手紙はひらがなぞ 同 啓蟄や鍬突き立てし小百姓 同 日野河原菜花の香る祭りかな ただし 菜の花や石田渡しの蘇る 同 雛祭ちらしずしそへ甘納豆 輝一 ぽつたりと落ちて音なき大椿 清女 花吹雪路面電車の停車駅 同 大拙館椿一輪のみの床 洋子 花の山遠く越前富士を抱く 同 吉野山日は傾きて夕桜 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月6日 うづら三日の月 坊城俊樹選 特選句
花の下天をを仰げば独り占め さとみ 春陰やおのが心のうつろひも 都 春耕や眠りたる物掘り起す 同 左手の指輪のくびれ花の冷え 同 園児等のお唄そろはず山笑ふ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月8日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
膝をまだ崩せずにをり桜餅 秋尚 登り来て本丸跡や花は葉に 百合子 葉脈のかをり弾けて桜餅 同 桜餅祖母の遺せし会津塗り ゆう子 売り声も色つややかに桜餅 幸子 木洩日の濡れてゐるやう柿若葉 三無 春愁や集ふふる里母忌日 多美女 伍しゐても古草の彩くすみをり 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月10日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
心経をとなへ毛虫に火をはなつ 昭子 マンホール蓋の窪みに花の屑 昭子 栄螺売潮の香りを置いてゆく 三四郎 金の蕊光る夕月てふ椿 時江 禅寺の読経流るる花筏 ただし 若者の髭に勢や麦青む みす枝 龍が吐く長命水の春���汲む 三四郎 花吹雪受けんと子等の手足舞ふ みす枝 土器の瓢の町や陽炎へり ただし 海遠く茜空背に鳥帰る 三四郎 紅梅のことほぐやうに枝広げ 時江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月10日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
片棒を担いでをりぬ四月馬鹿 三無 薬草園とふ門古りて松の花 和魚 だんだんと声ふくらみて四月馬鹿 美貴 四月馬鹿言つて言はれて生きてをり 和魚 松の花表札今も夫の居て 三無 白状は昼過ぎからや四月馬鹿 のりこ 一の鳥居までの大路や松の花 秋尚 松の花昏き玄関応へなく 美貴
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月11日 萩花鳥会
京よりの生麸草餅薄茶席 祐 不帰のヘリ御霊をおくる花筏 健雄 ただ一本ミドリヨシノの世界あり 恒雄 堂々と桜見下ろす二層門 俊文 猫に愚痴聞かせて淋し春の宵 ゆかり 杵つきの草餅が好きばあちやん子 美惠子
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令和5年4月13日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
便り待つポストをリラの房覆ふ 栄子 畑打つや鍬を担ひし西明り 宇太郎 軒下の汚れし朝や燕来る 都 桜蕊降る藩廟の染まるまで 美智子 桜蕊降るももいろの雨が降る 悦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
何氣なく来て何気なく咲く花に 雪 神御座す杜の新樹に聞く鳥語 かづを 老の踏むひとりの音や落椿 ただし 野辺送り喪服の背に花の蕊 嘉和 夜ざくらのぼんぼり明り水あかり 賢一 喝采の微風を受けて花は葉に 真喜栄 生きる恋はぜる恋ととや猫の妻 世詩明 葉ざくらに隠されてゐる忠魂碑 同 眩しさを残して花は葉となれり かづを
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月16日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
極大と極小としやぼん玉宙へ 要 穴出でし蟻の列追ふ園児どち 経彦 頰􄼺をつく石仏の春愁 貴薫 酸模を噛む少年の今は無く 要 稲毛山廣福密寺百千鳥 同 瑠璃色を散らし胡蝶の羽ばたきぬ 久 春陰の如意輪仏へ女坂 慶月 棕櫚の花年尾の句碑に問ひかくる 幸風 朴の花仏顔して天にあり 三無
栗林圭魚選 特選句
蝌蚪の群突くひとさし指の影 千種 峠道囀り交はす声響き ます江 美術館三角屋根に藤懸かる 久子 こんもりと句碑へ映るも若葉かな 慶月 微かなる香りや雨後の八重桜 貴薫 朝の日に濃淡重ね若楓 秋尚 落ちてなほ紅色失せぬ藪椿 経彦
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月19日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
通勤のバスから見ゆる日々の花 あけみ 花馬酔木白き房揺れ兄の家 令子 亡き鳥をチューリップ添へ送りけり 光子 偲ぶ日の重く出たるや春の月 令子 あの頃の記憶辿って桜散る 美加
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月19日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
矢車の音きしみ合ふ幟竿 世詩明 風よりも大きく揺れて糸柳 啓子 花万朶この世忘れて花の下 同 あたたかやお守りはねるランドセル 同 甘き香の女ごころや桜餅 千加江 春場所や贔屓の力士背に砂 令子 落椿掃きゐてふつと愛子忌と 清女 春の虹待ちて河口に愛子の忌 笑子 散りそめし花の余韻も愛子の忌 同 城の濠指呼の先には花の渦 和子 花筏哲学の道清めたる 隆司 故郷の深き眠りや花の雨 泰俊 山道の明るさを増す百千鳥 同 ほころびて色つぽくなり紫木蓮 数幸 花桃に出迎へられて左内像 同 瞬きは空の青さよ犬ふぐり 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
忠直郷ゆかりの鬱金桜とぞ 雪 椿てふ呪縛の解けて落つ椿 同 春愁や言葉一つを呑み込んで 同 御襁褓取り駈け出す嬰や麦は穂に みす枝 鶯の機嫌良き日や鍬高く 同 ただならぬ人の世よそに蝌蚪の国 一涓 あの角を曲つてみたき春の宵 日登美 春の果次も女に生れたし 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月21日 さきたま花鳥句会(四月二十一日)
清冽な水は山葵を磨き上げ 月惑 連写して柳絮の舞ふを収めけり 八草 天守閉ぢ黙す鯱鉾朧月 裕章 行き先は行きつく所柳絮飛ぶ 紀花 南無大師遍照金剛春の風 孝江 揚浜に春の虹立つ製塩所 とし江 柳絮飛ぶ二匹の亀の不動なり ふじ穂 筍堀り父編むいじこ背負ひ来て 康子 花吹雪ひと固まりの風の道 恵美子 満天星の花揺らしつつ風過ぎる 彩香 夢叶へ入学の地へ夜行バス 静子 啓蟄やピンポンパンの歌聞こゆ 良江
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令和5年4月23日 月例会 坊城俊樹選 特選句
真榊はあをばの中に立つてをり いづみ 水の上の空のその上鳥の恋 順子 掌の中の春の蚊深き息を吐き 炳子 耳朶を掠めて蝶のうすみどり 緋路 仕上りの緻密なる蒲公英の絮 秋尚 手放して風船空へ落ちてゆく 緋路 春の闇より声掛けて写真館 順子 零戦機日永の昼の星狙ふ ゆう子
岡田順子選 特選句
玉砂利の音来て黒揚羽乱舞 和子 耳朶を掠めて蝶のうすみどり 緋路 仕上りの緻密なる蒲公英の絮 秋尚 風光る誰にも座られぬベンチ 緋路 緋鯉とて水陽炎の中に棲�� 俊樹 手放して風船空へ落ちてゆく 緋路 蜂唸る神の園生に丸き井戸 炳子 佐保姫は夜に舞ひしか能舞台 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
つかまへし子亀に問へり亀鳴くか 美穂 亀鳴くや拷問石にある哀史 ちぐさ 亀鳴ける賓頭盧尊者撫でをれば 美穂 板の戸に志功の天女花朧 喜和 連子窓に卯の花腐し閉ぢ込めて かおり 大人へのふらここ一つ山の上 光子 ふらここや無心はたまた思ひつめ 同 ふらここや関門海峡見下ろして 同 さくら貝ひとつ拾ひて漕ぎ出しぬ かおり 午後一時直射にぬめる蜥蜴の背 勝利 花冷の全身かたき乳鋲かな 睦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月4日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
落城の如く散りたる落椿 世詩明 三人の卒業生以て閉校す 同 双葉より学びし学舎卒業す 同 氏神の木椅子はぬくし梅の花 ただし 鳥帰る戦士の墓は北向きに 同 草引く手こんなですよと節くれて 清女 雛あられ生きとし生くる色やとも 洋子 官女雛一人は薄く口開けて やす香 露天湯肩へ風花ちらちらと 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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kyotomoyou · 4 years ago
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【徳島県】渦潮🌀うずしお⛴️ . なかなか絵に描いたような 綺麗な渦巻きでは撮れませんでした🍥 . (2021/05/25撮影)
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manacatherine · 6 years ago
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PENTAX  Q-S1  06 TELEPHOTO ZOOM
@鳴門海峡うずしおクルーズ(兵庫県・徳島県)
 Mar.2017
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hiyamanblog · 2 years ago
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鳴門の渦潮を見てきました(観潮船・うずの道)
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pakutoma · 5 years ago
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大学生活が終わるとどうなる? 知らんのか 大学院生活が始まる
ご無沙汰しております。ぱくとまです。
卒業研究が終わり、実務訓練も終わり、学会発表も終わり。色々なことを終えて、大学生活も終わりに近づいています。 あとは卒業研究の資料をまとめたり、引っ越しをしたりすれば、あっという間に私も大学院生です。
とても長いことブログの更新をしていなかったため、少しずつ記憶が薄れていっているのですが、まずは卒業研究の話をします。 卒業研究では、ここ数年で一番精神的に追い詰められていました。研究に追い詰められていた、というのは少し違います。研究発表に、追い詰められていました。 私は、口頭で何かを発表する、ということがとても苦手な人間です。スライドを作ることも、そのスライドを使って発表することも大の苦手です。 そんな私が、週に2回の発表練習と、発表練習の合間の修正と、成果が出るのかギリギリの研究を並行で行うとどうなるか。……病みました。 私は今までの人生で、発表をすることこそ何度かありましたが、何度も発表練習をして、その度に指摘をいただいて、スライドを直して、読み上げを練習するということを繰り返したことはなかったように思います。 高専の卒研発表の際も、発表練習は確か2回だったと思います。その時は発表が8分くらい。一回の指導は20分くらい。 今回は6回もやりました。そのうち4回は先生がいて、1回は先輩方と、1回は内輪で。一回につき発表は5分。先生がいる時は、一回の指導が50分くらい。 何がそんなに辛かったのかは今でも本当に分かりませんが、本当に辛かったです。2回目の発表練習くらいから精神をおかしくし始めて、睡眠時間が取れなくなっていきました。 眠れないから精神が不安定なのか、精神が不安定だから眠れないのか。上手く行かない実験を回しながら、どう直せばいいのか分からないスライドを直す毎日を送っていました。 自分は生来の性格から、嫌なことへの集中力が続かないのですが、そのせいか研究室の机で夜を明かしても何も進んでいない日が何日もありました。 実験は1時間につき500円ほどのお金がかかるので、私は毎日のように「実験が進まずに○千円無駄にした、○日後にまた発表練習があるのに何もしていない」と思い続けていました。 ある日、夕食を食べるために部屋に帰��た時に、スマホのメモに「自分がちゃんと発表資料を作らないことで先生方や同期の練習時間を無駄にしている」と書き、 その文字を見ながら「自分は先生方の貴重な時間や研究室のお金を無駄にしている」、「自分が研究室にいなければ研究室ではもっとちゃんとした研究が出来た」とボソボソと呟いていたら、 頭の中に、自分が存在しなければ先生方や先輩方や同期はもっと幸せになれた、という自分の価値を否定する考えが渦巻いていき、私は自分の部屋で突然声を上げて泣き出してしまいました。 それから、私は「自分は他人に迷惑をかけている、と考えると壊れてしまう、もっと適当に生活しないと」と思い、なんとか精神を立て直したつもりだったのですが、 その翌日の発表練習では全然喋れなくなってしまい、先生に「え、どうしてそうなっちゃったの?」と心配混じりの疑問を投げかけられてしまいました。 それから何とか持ち直し、数日後の卒研発表では、とても走り気味ではあったものの、なんとか無事に卒研発表を終えることが出来ました。 卒業論文のことは覚えていません。卒研発表の後、なんだか適当に書いて、適当に出して、適当に通った気がします。
少し暗い話をしてしまったので、明るい話をします。実務訓練です。 実務訓練では、タイに行きました。大学とかではなく、日本の企業の子会社的なところです。 会社のほとんどの人が少しなら日本語を喋れるような感じで、仕事をする分にはほとんど言語的障壁のない、言ってしまえば英語の喋れない私にも語学的には非常に楽な場所でした。 初めての海外だったので、来る前と、来てから3日間くらいは非常に不安なことが多かったのですが、一週間くらい経った後はほとんどバカンスのような気分でタイを楽しんでいました。 毎日のように地下鉄や電車で寄り道をして、色々なデパートに行ったり。観光客でごった返す夜市に行って、ビール片手に屋台でワニの料理や虫の料理を食べてみたり。 寺院の敷地に座り込んでお寺のライトアップを待ったり。日本焼肉屋に行ったら思ったより高くて焦ったり。フードパンダを呼んだらタイ語で電話がかかってきてめちゃくちゃ焦ったり(6回くらい呼んだけど毎回かかってきた)。 パタヤビーチに行こうとバスに乗ったら全然違う場所に降ろされて、アゼルバイジャン人の観光客と「ここどこだか分かります?分かりませんよねwwww」と言い合って、タクシーを割り勘で乗ったり。 パタヤから船に乗ってラーン島という島に行き、エメラルドグリーンの海を初めて見たり。その場で水着を買って海に入ったり。パタヤの夜の街をソンテウの後ろに乗って走り、南国の潮風を感じたり。 学校の方や他の学生には、遊びじゃないんだぞ���責められるかもしれませんが、その時の私の精神は海外で頑張れるほど回復していなかったこともあり、タイに行ってとても良かったな、と思います。 タイでは毎日のように食べていたガパオライスやパッタイは、調味料をタイで買ってきたけれどまだまだ上手に作れなくて、目下練習中です。
タイから帰ってくると日本はCOVID-19で騒いでいて、学会発表もオンラインですることになっていました。オンラインでする学会発表は、そこまで緊張しなくて良かったです。タイでお休みを取っていたおかげかもしれません。 これから引っ越しをして、大学院生になるのですが、通っている大学の院にそのまま進み、研究室も変わらず、引越し先の部屋も大学のすぐ近くにしたので、なんだか代わり映えのしない大学院生活になりそうです。
卒業研究の頃には色々と心配もさせてしまうこともありましたし、インターネットの皆さんには今年度もとってもお世話になりました。ありがとう。 私がタイで3つだけ学んだタイ語の一つは「コップンカップ」でした。ありがとう、です。 タイで1つだけ学んだ英語も「Thank you so much.」でした。 very よりも so の方が使われるんですね。フードパンダのお兄さんが言ってくれました。 来年度も仲良くしてくれると、とっても嬉しいです。なかよくしてね!
愛を込めて ぱくとま
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xf-2 · 6 years ago
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の���蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、��軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえ��て大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。��宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始��をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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gkeisuke · 6 years ago
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20190105
22時に退勤を2日目にして破りそうになったので仕事を強制終了した。覚えてる?あの約束のこと。
去年くらいから芸人さんの深夜ラジオをよく聴くようになり、今日はオードリーのANNを流しまくっていた。若林さんがVRで自分磨きをした話で爆笑しそうになった。
本当は文章と文章の行間をもう一個空けたい。ポンコツなのでうまくできない。
『こえ部』さんの感想を拝見する。何らかのきっかけとなるためには、言葉の順番を間違えたかもしれないという想いがあり、極論を言えば、私の文章を読まなくても『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観て下さればそれでよいのだけど、ネタバレ云々は、そもそも私に説明能力がないので、あまり気にしなくても良いと思う。
ある程度、意図的なものではあるのだけど、身内ノリが過ぎたかもしれないというのは少し反省しています。ただ『こえ部』で書くこと『こえ部』で伝播させることを強く意識した文章ではあったので、一冊の中に馴染んではいたようにも感じるので、そこは良かった点だとも思っている。
毎年、冬は誕生日を迎える前に徳島へ行き、その飛行機の中やホテルでこえ部を読ませて頂くので、再来週に徳島へ発ち、今度こそ簡単にでもちゃんとすべての感想を述べるものとなりたい……(叶わないと言われている中期的な目標)
随分前から1月21.22日で徳島行きのチケットを取っている。
時事的に、すごい米津さんファンみたいな場所のホテルを取ってしまった。レンタカーも借りたので、もう徳島駅周辺をグルグルするだけの私ではない。
2年前に徳島に行った時、鳴門の渦潮を見に行くというベタなイベントをここまで一度もやってこなかったので、バスを乗り継いで観潮船に乗ったところ、神戸あたりの美容学校と思われる学生たちと同じ回になり、学生たちの他には私一人という状況になったことを思い出す。
ご存知の通り、私はそういう状況が死ぬほど苦手なので、追加料金を払い、2階の特別展望室のようなところへ早々と逃げ込んだ。
大人はすぐお金の力で解決する。
特別展望室には私一人とスペースをめちゃくちゃ広く使って王の気分を味わっていると、あのーよろしければ少し外で観ませんかと、一人だけ2階にいたガイドのおねえさんが声をかけてくれた。
いうて2階は私とガイドのおねえさんの二人だけだった上に、冬場は渦潮がそんなに見れないということで、海を眺めながらめちゃくちゃどうでもいい世間話をしていた。東京の大学にいたけど、地元に戻って就職をしたというおねえさんの阿波弁まじりの声にほっこりし、これが特別展望室……となった。
帰り際にも目があい、会釈すると、向こうもニコッと笑ってくれた。
これが本日の最終便だったので、私が出来るオトコだったら「まだ話し足りないんで、良かったらご飯でもどうですか?」とお誘いしていたのだけど、誰が降りるんだという場所にあるすごい名前のバス停たちをいくつも通り過ぎてここまで来たオタクだったので、施設の周辺をぐるぐるして、ニチャアと気持ち悪い笑みを浮かべながら、嬉しそうにTwitterにこのエピソードを投稿して終わった。
この時「もし車があれば、未来は違っていたのかもしれない……」という想いが、私を運転に駆り立て、今年はそのリベンジということになる。
おねえさんの話は本当ですが、最後のところは嘘です。
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年末年始は、ゆるキャン△の話題を振ってもらえることと、キャンプに誘われることが多かったので、いい加減山梨にも行きたい。
家に着いたので終わり。日記か?
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kyotomoyou · 4 years ago
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【徳島県】鳴門海峡大橋と渦潮🌀 . 渦潮は大きなのが一つあると思ってました🌉 . いっぱい発生してました🐟️ . (2021/05/25撮影)
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jx0 · 4 years ago
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#晦日 の #渦潮。 #sea #eddy #鳴門 #桃始めてさく #啓蟄 #睦月 #March #2021 (うずしお観潮船) https://www.instagram.com/p/CMUW1YiFus-/?igshid=mon1cs4mjsha
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kachoushi · 5 years ago
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各地句会報
花鳥誌 令和2年12月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和2年9月2日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
朝風に愛子の萩の零れつぐ 世詩明 露の墓夫の名を読む未亡人 同   新聞の漫画切りとる夜の秋 清女 灯籠も飛び石も灼け苔の庭 同   古城跡花野を統べる碑ひとつ 輝一 良夜なり逢ひたき人は皆遠し すみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年9月3日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
闇夜にも音さはさはと落し水 喜代子 九頭竜の大河の上に月明り 英子 供へたや母の好物かき氷 由季子 文机の真向ひ仰ぐ月の窓 都   川底に物の気配や秋の水 同
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和2年9月5日 零の会 坊城俊樹選 特選句
路地に住み簾名残の駄菓子屋へ はるか 秋簾巻いて佃の女房かな 和子 秋暑し渡船跡には鉄の錠 炳子 古井戸のある軒先の青蜜柑 梓渕 朽ち舟の底の錆色水の秋 炳子 右耳に地虫鳴きけり廓跡 和子 月島の恋は昔や秋簾 いづみ 昼の虫三尺路地の行き止まり あおい 鯊釣りも佃の生まれ同士かな いづみ 佃煮を売りて咲かせて鶏頭花 順子 いつも濡れて佃の路地や草の花 和子
岡田順子選 特選句
秋簾巻いて佃の女房かな 和子 月参りして色草の道帰る 小鳥 秋旱洲浜あらはに匂ひけり 要   爽やかや老女商ふ佃煮屋 慶月 秋の昼ブリキの如雨露持つ子供 あおい 隠れめくもんじやは秋の灯をともす 俊樹 喪の家の鶏頭花の炎えてをり いづみ 四畳半ほどの舟とて秋潮へ 俊樹 いつも濡れて佃の路地や草の花 和子 聖路加の鐘の音響く野分前 あおい
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年9月8日 萩花鳥句会
仲秋や浮世絵寄贈され逝かる 祐子 窓開けて夕蟬を聴く湯殿かな 美恵子 歌枕ちあきなおみは夜長向き 健雄 秋風にふと振り返る道のあり 陽子 もろこしを食す姿に迷ひなし 吉之 夜夜の月思ひ出ばかり重なりて ゆかり 柏翠師句碑に山萩こぼれけり 克弘
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令和2年9月9日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
空澄んで百日祝や萩の道 実加 梁眺め燕帰ると母の言ふ あけみ 夕陽の透き通りくる九月かな 紀子 エプロンの紐をほどけば秋高し 実加 コロッケを頰張る君と秋の街 登美子 トリミング猫に急かれつ障子貼る 令子 星月夜弘田三枝子の歌を聞き 光子 もう乗れぬ自転車に謝す月の下 令子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年9月11日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
銀板の傾き直す秋彼岸 宇太郎 弟や石狩に住み秋耕す 幸子 風舞つて丸見えとなる葛の花 史子 カンコ船役終へ洗ふ秋の浜 すみ子 連結の列車が行くか秋の雷 佐代子 白露かなただ黙々と庭を掃く 益恵 鶏頭花地軸にマグマねまりつつ 都   窓はたく蚊取とんぼの湯殿かな 宇太郎 赤とんぼ若き日の空父と居る 悦子 乾らぶ枝に秋蝶の息やはくあり 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………  
令和2年9月12日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句
林檎園名残りのりんごいびつなる 清   寝つかれぬままに何時しか虫の闇 和加 束の間を光りて露の消え去りし 寛子 コスモスや母校の横の文具店 晶子 秋の日の砂丘の砂のこぼれをり 豊作 慣れて来し介護のリズムほしづくよ 慧子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年9月12日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
丈高き草と小さき桔梗活け 白陶 水神を奉る小流れ蜻蛉過ぐ 亜栄子 鰐口の一打の余韻昼の虫 百合子 畳屋の白萩へりで括られて 教子 水門の濁り渦巻く秋出水 白陶 ひと気なき苑の桔梗は濡れてをり ゆう子 杭の上時は止まりて赤とんぼ 節子 桔梗の雨に姿勢を崩すなく 秋尚 年尾句碑撫して温みの昼の虫 文英 日の光零さず受けし桔梗かな 白陶
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年9月14日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
鋭角の頭並べて秋刀魚焼く 信子 此の下駄で踊りし吾娘の七回忌 清女 法師蟬旧家にのこる撥釣瓶 昭 上嶋  子 文殊山奥の院より稲光 ただし 鱗にも羊にもなる秋の雲 信子 極くまれに腑抜けの花火ありにけり 上嶋昭子 針持てば針の耳ほど日短か 清女 父母と語り尽きせぬ秋彼岸 時江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年9月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
向日葵の花に呑まれてゐる心 雪   静けさにつゆけさに南無観世音 同   秋の蚊と云はれさうかと気付く耳 清女 毬栗や坊主頭の如くなり 富子 結界のなき碧空にとんぼ舞ふ 和子 生涯を飾らず生きる吾亦紅 みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年9月16日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
口紅を汚さぬ色の葡萄かな 世詩明 葡萄刈り空に汚れのなかりけり 同   左内の像隠してをりぬさるすべり 令子 秋の蝶番で舞うてすぐ消えて 同   先生は天にゐますと柏翠忌 雪子 月窓寺あかずの扉深む秋 同   樹木希林展を見てきて鰻屋へ 清女 アイスキャンデー昭和の雫したたらせ 雪   やゝ褪せし藍の日傘も柏翠忌 同   越前に生まれて老いて柏翠忌 同   美しく空蟬となりおほせたる 同   替へる気もなき裏窓の古簾 同
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和2年9月16日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
手水舎の所作美しきひと生姜市 美貴 秋繭や白く��く空の月 史 空 秋草の花は色濃くこまごまと 怜   靡き癖そのまま活ける秋の草 秋尚 幾つもの声潜ませて秋の草 同   秋繭の淡き煌めきうすみどり 三無 秋草を供へる少し寂しかり ことこ しばらくは参る人なく生姜市 秋尚 吽像の角に継ぎ痕生姜市 美貴 ビルに日の傾ぎだらだら祭かな 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年9月20日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
菊月や昔薬舗の箱階段 亜栄子 約束のごとく咲かせて彼岸花 貴薫 白亜紀の化石を濡らす秋の雨 眞理子 なまはげの案山子のでんと田を睨む 芙佐子 防人の歌碑にはらりと一葉降る 同   古民家の箱階段に隠す秋 久   防人の妻なる人の句碑に秋 同   姥ゆゑに萩のトンネル華やぎて 慶月
栗林圭魚選 特選句
騎馬像の分倍河原に荻のこゑ 幸風 美しきとは群を離れて曼珠沙華 久   風の音高く欅の薄紅葉 秋尚 光る野やしづかに狂ふ秋の蝶 千種 庚申の猿の見てゐる彼岸花 慶月 案山子みな彼方を見つむ寂しさよ 炳子 曼珠沙華咲き揃ひたる色昏き 秋尚 秋蟬や森のしじまのうす濁り 千種 こぼれ萩巌に刻む万葉歌 炳子 淡々と十月桜に雨雫 亜栄子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年9月24日 鯖江花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
突と咲き忽として消ゆ曼珠沙華 上嶋昭子 村里の沈むばかりに豊の秋 一涓 一村を一枚にして虫時雨 みす枝 碧天の色降りて来し露草に 中山昭子 束ね髪解きて夜毎に髪洗ふ 世詩明 鰯雲広ごる空へ観覧車 同   秋灯に喪の髪低く結ひにけり 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………  
令和2年9月24日 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
青墨のたつぷり残暑見舞かな 孝子 鰯雲都会は尖るものばかり 寿美香 その奥に御仏ゐます秋簾 地人 艶聞は見ざる聞かざる秋簾 かおり 百獣の吼ゆる思ひや夜の野分 豊子 新涼や身籠りのまだ薄き腹 睦子 野分より戻りし夜半のショーロホフ 寿美香 石を放れば豊年の水の音 美穂 古りし碑の詩(うた)のぞきゐる秋日傘 睦子 十六夜や鏡の奥の扉の開き かおり 些かの心隔てて秋簾 さえこ 檸檬噛む狂(たぶ)れるほどに詩に溺れ 伸子 新盆の母に故郷の口説唄 由紀子 曼珠沙華ほろりとくづれ魔力消ゆ 光子 東に太白星や花木槿 さえこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月5日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
木々の間を蟬は尿りて逃げにけり 世詩明 捨てるのをためらはれたる籠枕 同   ペタル踏む少年の背や夾竹桃 秋子 父の日やせめて遺影に酒供養 同   子等が耒るただそれだけの盆休 すみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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mashiroyami · 5 years ago
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Page 116 : 空と底
 ブラッキーの牙が、アランの身体に突き刺さった。  激しい飛沫が五感を遮ろうと、栗色の双眸は獣の動きを克明に捉えていた。直前の行動は意志というよりも反射であった。アランは辛うじて身を捩り、それは首ではなく左の肩口を襲った。致命傷こそ避けたが、アランは堪らず痛みに声をあげた。深く、ヤミカラスを食い破ったいくつもの牙が穿たれたまま離れない。ブラッキー自身から溢れるものと合わせて、赤い色水をぶちまけていくように傷からあっという間に赤が広がっていく。  それでもアランは強くブラッキーを頭から抱擁した。しかし、服が水を吸い込み、痛みは一気に体力を奪う。だんだんブラッキー諸共、沈んでいき、辛うじて顔を出すのに精一杯であった。  湖畔から呆然と見つめていたエクトルは水タイプのポケモンを持ち合わせていない。だが、漸く脳内でスイッチが入ったように、背後を見やった。 「ガブリアス、来い!」  背中越しにドラゴンを呼ぶと、逆鱗直後とは考えられぬほど従順に命に従い、涙目で地面にへたり込んだフカマルを置きざりにしてガブリアスはすぐさまエクトルの傍へ来た。一瞬振り返った後にまた湖面に視線を投げると、目を疑った。  平穏な湖に異変が起きている。  彼女らを中心として、湖面にゆるやかに渦が発生している。いわば渦潮である。ほとんど水流の生まれていない今、それも比較的浅い岸辺、自然現象としては起こるはずのない出来事だった。  しかし、エクトルはその光景に対して既視感を抱いた。何故と動揺し判断を失念した間に、初めは細波程度であった勢いが、瞬く間に強くなった。見えない巨大な力で乱暴に掻き回される。上空は不変に広がる蒼穹、照る太陽の光が波間で反射する。まるで湖にだけ嵐が起こり始めたようだった。勇敢なヒノヤコマやピジョンが柵を越えて救助を試みようとするが、水の勢いがあまりに強く近付くことすら叶わない。  二対の声が小さくなって、とぷん、と、中心に吸い込まれるように、不意に掻き消された。  ざわめくのは、渦巻く激流の荒れた音と、空疎な羽ばたきと、錯乱するエーフィの叫び声のみ。  エクトルの脳裏で湖へと引き込まれていく主人の姿が重なった。  浮かんでいた血は荒い白波にほだされて、深い青に沈んでいった。
 *
 湖面が遠ざかっていき、鮮血が煙のように上がっていく。  突如として襲った渦潮に巻き込まれ、激しく突き動かされながら、その流れから漸く手を離された時には、戻りようもないほど深い場所へと彼等は身を沈めていた。  身体を覆う服が重く、浮き上がることは叶わない。  傷つけられた身体は更に渦潮に打ち付けられ、空気を吸いこむ間もなく水中に引き摺り込まれた。少女は獣を離さなかったけれど、最後に苦しげに口から水泡が絞り出されて水面へ浮かんでいった頃には、とうにはっきりとした意識は失われていた。  晴天が放つ陽光が遙か遠くで木漏れ日のように輝いていた。誰も居ない暗闇へと誘われていく。月輪が朧気に光り、暗闇で位置を示しながら、抵抗無く沈みゆく。底に向かう程に冷たくなっていく感覚を、彼等の���は感じていることだろう。
 *
 きっかけは、地震だった。  吉日と指定されて熱に浮かれた秋季祭の中心地にも、その地響きは僅かに伝わった。静かに一人座り込んでいれば辛うじて感じ取れるかといったような、ほんの少しの違和だった。だから、ザナトアはその不自然な一瞬を自らの足先から電撃のように伝わった直後は、気のせいだと思った。ポッポレースを終えて選手も観客も労いの空気に包まれていて、誰も気付いていなかったからだ。  揺れる直前には、ザナトア率いる野生ポケモン達のチームが参加する自由部門のレースは殆ど終了していた。  ポッポレースが終わってしまえば、ザナトアにとって秋季祭という大イベントは殆ど終わる。  ヒノヤコマを初めとして、群れを牽引する者の不在を、ザナトアは少しも不安に思っていなかった。たとえ群れに馴染めなかったとしても厳しい野生の世界で逞しく生きていくために育成を施してきた子達の、集大成にあたる舞台なのだ。結果的に、誰一匹として離脱することなく、チェックポイントを全て回り、ゴール地点まで還ってきた。順位は下の上といったところだろう。充分な結果だ。遠くないうち、冬が本格的に始まる前に野生に返す準備をしなければならない。彼等にとってのザナトアの役割は終わりを迎えようとしている。喜ばしいことだ。しかし少しだけ寂しい。彼女はおやではないが、おやごころが芽生えるのだ。たまにヒノヤコマのようにそのまま卵屋に棲み着いて離れない者もいるけれど、ザナトアは微妙な胸中に立たされる。複雑なおやごころである。  当初の予定よりずっと少ない面子の乱れた羽毛をブラシで丁寧に梳かしてやり、一匹一匹に声をかけていた最中だった。 「……地震?」  ぽつりと呟いて、周囲を見渡した。  だが、誰も顔色を変えずに歓談している。地面が、一瞬だけ突き上げるような、浮かぶような力が加わったように感じた。視線が上がり、白く塗られた電灯同士を渡る旗の飾りが、揺れているのを発見した。留まっていたポッポが羽ばたいたために大きく揺さぶられていた。  果たして、ブラッキーはどうなっただろうか。水面下での懸念事項がはっきりと浮かび上がる。  ザナトアは、アラン達なら大丈夫だと考えていた。楽観的だととられるかもしれないが、アランは依然未熟なトレーナーであるものの、ポケモン達は彼女を見捨てていなかったからだ。獣が強いほど、弱い人間は嘗められる。だが、エーフィ達は決してトレーナーを見下しているわけではない。  アラン達が寂れた育て屋を訪れた日、ザナトアはかのポケモン達に問いかけた。あのトレーナーのことが好きか、と。アメモースはどっち付かずな反応を見せたが、エーフィとブラッキーはすぐに首肯した。良くも悪くも複雑な思考をする人間より、獣はずっと素直で正直だ。彼等の詳しい経緯をザナトアは知らない。これからも知ることはないかもしれないが、ただ一つ確実なことがあったとすれば、あのトレーナーとポケモン達の間には、ザナトアが一瞥しただけでは理解できなかった繋がりが存在している。  ポッポレースの表彰式を促す放送が周囲に響き、熱気の冷めやらない人集りが移動し始めた。  顰めた面をしたザナトアの手が止まったことに不満を抱いたのか、毛繕いを受けていたムックルが鳴いた。声に弾かれ、ザナトアは我に返る。  不意に気付く。大丈夫だと思い込みたいだけなのだ。  無性に胸が掻き立てられて仕方がなかった。
 *
 薄暗くなってきた祭の露店に明かりが灯る。自然公園に設営された屋外ステージで行われたポケモンバトルも幕を閉じ、熱い拳握る真昼から一転、涼やかな秋風が人々の蒸気を冷まし、ちらほらと草原に人が集まり始める。子供から老人まで、配布された色とりどりの風船を持つ姿は微笑ましい光景だ。  秋の黄昏はもの悲しさを秘める。生き生きとした夏が過ぎて、豊かな穂先は刈られ、花々は枯れ、沈黙の冬に向けて傾いていく。雨は冷たくなり、やがて雪に変わる。積雪の下には、次の春へ向けた生命がひそやかに眠る。季節は循環する。儚く朽ちてゆく間際、最も天高くなる時期、人々の願いと感謝が込められた風船は夕陽が沈む瞬間を見計らって、高々と空へ昇る。来る瞬間へ向け、準備が個々で進められていた。  その中には、エクトルの友人であるアシザワの姿もある。  幼い子供は沢山貰ったお菓子をリュックに詰めて、同じ年頃の友達と自然公園を無邪気に駆け回っていた。きゃあきゃあと黄色い声が飛び回る。  湖面に迫る夕陽を前にして一人佇んでいると、普段は思い出しもしないことが浮かんでくる。たとえばそれは聞き流していた音楽だったり、記憶だったり、要はノスタルジーに包まれる。思い出といえば、大役を解かれ休暇を貰ったというのだから無愛想なあの男も暇潰しにでも来るかと思ったが、的外れだったようだ。 「何をぼーっとしてるの」  ぼんやりと芝生に座って三つ分の風船を持ち子供達の姿を眺めていたところ、声をかけられて顔を上げた。朱い夕焼けより少しくすんだ、けれど綺麗な赤毛をした女性に、アシザワはおどけた表情を返し、アンナ、と呟いた。 「何も」 「そう? なんだか珍しく寂しそうだった気がしたけど。はい」  と言って、アンナはアシザワに瓶ビールを手渡した。既に王冠は外されている。湖面を渡るポッポの絵が描かれたラベルが貼られた限定品だ。 「ありがと。お、ソーセージ」 「美味しそうでしょ。列凄かったんだから」 「かたじけない」  アシザワが仰々しく頭を下げると、わざとらしさにアンナは吹き出した。 「李国式だ」 「古風のな」  にやりとアシザワは笑む。  彼女は大ぶりのソーセージがいくつも入ったパックを開ける。湯気と共に食欲を刺激する強い香りが漂う。祭で叩き売りされる食事というのは、普段レストランで味わうものとは違った、素朴でジャンクで、不思議な希望が詰められた味がするものだ。子供も大好きな一品。添えられたマスタードをたっぷり絡めるのがアシザワは好きだった。その良さを知るには子供はまだ早いのが残念なくらいである。 「風船持とうか」 「いい、適当にするから」  瓶を傾け、一気に喉にビールを流し込む。まだ明るいうちに喉を通る味は格別だ。これもまた子供には早い。無邪気に遊び回る子供は自由で時折羨ましくなるけれど、不自由なことも多い。やがて適当に流すことを覚え、鬼ごっこやおもちゃとは違う楽しみを覚える。 「手紙、書いた?」  風船に括り付けるもののことである。人によっては、感謝だったり、祈願だったり、愛の告白だったり、様々な思いをしたためる。  昔は、湖に沈んだ町や大洪水に呑まれた魂を悼み、天空へ誘うポケモンを模していたと聞いている。だが、現代になるにつれ外部の観光客も楽しめるポップな様相へと変わっていった。それでいいとアシザワは思う。水神の未来予知だって、現代は科学が発展して天気予報は殆ど当たる。災害予測も技術が進めば可能だろう。宗教を盾に権力を振りかざして胡座をかいているクヴルールは正直気に入らないところがある。若者を中心に、そう考えている人間は少なくはない。時代が変われば文化も考え方も変わる。  瓶ビールを半分ほど一気に流し込んだところで、口を離した。 「そんな恥ずかしいことはやらねえ」 「ええ? 去年は書いたじゃない。家内安全って」  アシザワは苦い表情を浮かべる。 「そうやって覚えられるから嫌なんだよなあ」 「子供みたい」  くすくすと笑う。真新しい薬指に銀の輪が嵌められた左手が夕焼けに煌めいて、金の輝きを放つ。  赤と、青と、黄色、三原色の風船が穏やかな風に揺れている。湖面の方角からやってくる秋風が心地良い。  秋季祭が終わっていく。 「あーっチューしてる!」  目敏く幼い少年が叫んだ。  いつの間にそんな言葉を覚えたんだ、と思いながら、アシザワは振り返った。その先で黒い影法師が二人分ずっと伸びているのを見て、これは風船があってもばれるなと気付いた。まあいいか。ビールを置いて、走っても走ってもなお体力を有り余らせている子供に向けて、誤魔化すようにソーセージを高々と見せた。ご馳走を目にして歓喜の声をあげながらやってくるユウにも、隣で笑うアンナにも、思いがけず強い感情が込み上げる。この瞬間を、幸福と呼ばずしてなんとするだろう。
 *
 長い時を経て、縁の途切れていたエクトルとザナトアが再会��たのは、秋季祭が夜に沈んでいこうとする頃。   喚くようにヒノヤコマ達がザナトアを探しに来た。宥めても混乱が収まらず、明らかに様子がおかしかった。彼等に連れられて、老体に鞭打ち、通行規制が解かれた湖畔に足を運んだ。場は騒然としていた。罅の入った道路を早急に隠すように工事準備が進められ、車道は片面通行となっている。エーフィは芝生に座りこみ、憔悴した顔で、鳥ポケモン達の声に気が付き縋るように振り向いた。隣にはアメモースもいる。目玉を模した触角は垂れ下がって動かない。彼女の傍をフカマルも離れないようにしていた。腕��小僧には似つかわしくない気落ちした表情をしている。鮮明なテールランプが夕焼けを切り取って回転している。ザナトアは立ち尽くし、言葉を失った。更に奥で、水ポケモンに指示を終え、救急隊が全身ずぶ濡れになって蒼白になった少女と黒い獣を担架で運んでいる。その様子を、嘗ての愛弟子は、ザナトアが本当の息子のように想っていた男は、至極冷静な表情で見つめていた。  遙か向こう、祈りの風船が群を成して、夕景に昇っていった。 < index >
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akirathehustler · 5 years ago
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国境がまだ閉じられていなかった2月16日、横浜の老舗のホールでソウルのドラッグ・クィーン、MOREさんとプロデューサーのコ・ジュヨンさんと一緒に作ったパフォーマンスのレビュー。正確に意図を汲んでいただいていて、うれしい。本当に本当に光栄だ。
국경이 아직 닫히지 않은 2월 16일 서울의 드래그 퀸, MORE와 프로듀서 고주영 씨와 같이 만든 공연의 리뷰.정확하게 의도를 길어 주시고 있고 기뻐서 눈물이 나온다.
http://choomin.sfac.or.kr/zoom/zoom_view.asp?type=OUT&zom_idx=514&div=03
去る2月9日から16日まで、日本の横浜に宿泊しながらTPAM2020(Performing Arts Meeting in Yokohama 2020)参加公演の数々を見ることが出来るという「あまり見慣れない」機会が与えられた。
公演観覧することを目的に海外に出て行ったことも、1日に一回以上の公演を毎日見ることも私には全て初めてのことだった。
不慣れなことだったので、普段よりも公演を見ることにより集中しようと努力した。しかし、目を閉じれば韓国で片付けられない数々の仕事と帰ってからやらねばならない仕事たちが頭の中でぐるぐる回り、インターネットで触れる韓国の事件とニュースは韓国にいる時よりもずっと大きく迫って来た。
その渦中に解決することができない悩みに向き合っている友人の日常が心配でもあった。そして、当時横浜にはコロナ19ウィルス感染の拡散防止を理由に3700余名の乗客と乗務員が隔離された旅客船が停泊させられていた。
とても近い所で起きていたけれど、一番非現実的に感じたことでもあった。私が歩いて通った道は穏やかで小綺麗で、公演は決められた場所で定時に始まり終わるというそんな繰り返しだった。私はぎこちない顔をして街を歩き公演を見て酒を飲んで睡眠を取る日々を送っていた。
振り返って見ると横浜での私の様子は見慣れないものではなかった。知らない建物の窓に照らされる私の顔をしばしばまるで違う人の顔のように錯覚するくらいだった。体も心もしっかり足を地面に踏みしめたいけど、実際にいざ自分がいたい場所がどこなのか、よくわからない気分。行かなければいけないのは何処なのか、そしてどこに行きたいのか。それらを確信出来ずにキョロキョロしながらを心許なく歩いているいつもの私の姿を、知らない場所でもっとはっきりと感じていた。
そんな状態で私はTPAM2020の最後の公演となる「ねじロール」と「オギヨディオラ」に出会ったのだ。それぞれ三十分あまりの二つのパフォーマンスが立て続けに上演されるこのプログラムは、TPAMディレクション(プログラムディレクター達によって紹介または企画されたプログラムが束ねられているセクション)の最後の公演でもあった。公演場所であるクリフサイドは外観から、廃業して随分経ったナイトクラブの気配をぷんぷん匂わせる場所だった。
ドアを開けると、年月を経た木と布の匂いが嗅覚を刺激した。過去の栄光が古いテーブルクロスとカーペットの染みの痕跡に記憶された場所だった。ロビーや階段にびっしり埋まった人々がいなくなってしまい今はもう空っぽになった空間が、ようやくブルースの音楽とともに「今にもマジで」ショーが始まりそうな空間だった。
客席の入場が始まると、観客達はロビーから相次いで階段を上り始めた。階段を上り切って到着した二階にはクリフサイドの一階のダンスホールとは区分された空間が設けられていた。ライブ公演を見ること、もしくは舞台に立つことには関心のない人々がそれぞれ集まってわいわいがやがやと酒を飲んでダンスを踊る物語を紡ぐ言葉を交わしそうな空間だった。
その空間で「オギヨディオラ」のパフォーマーであるモア・ジミンとアキラ・ザ・ハスラーが、ドラァグの扮装をし準備をしていた。二人のパフォーマーは、散らかった荷物衣装や小道具の間でまるでそこが自分の家であるかの���うに気楽な様子でメイクをしていて、観客たちはその姿を見ながら客席に通じる狭い通路に向かって相次いで歩いて行った。
私はその二人の姿を交互に眺めながら既に公演が始まっていたことにはっと気づいた。そして狭い通路の前に着くと、その通路の横のコンセントに携帯電話の充電器を差し込んだまま、しゃがみこんで座って、通話をする一人の男性の後ろ姿が見えた。「公演開始まであまり時間がないのにあの人はどんなに急な用があってああしているんだろ」
過去のどこかで、私も何回かは経験した、「緊迫した」行動も時空間を割るひとつのパフォーマンスのようだった。私は二階の狭い通路(下に一階のダンスホールが見下ろせるテラス)を通過して舞台(ダンスホール)が正面に見える一階のディナーテーブルに席を取った。
<ねじロール>
観客たちが席を取る時に生じる騒音と騒がしさは公演の開始時間が過ぎても続いた。おそらく舞台に設置されたスピーカーとサウンドシステムを通じて出て来る吃るような話し方の男性の声に神経が持っていかれるが、ぜんぜん無視もできるくらいの喧騒の中で観客たちのおしゃべりも継続された。
入場のさいに受け取った公演パンフレットをいじくり回す音と、バーに行ってドリンクチケットをビールやワインに変えてくる人たちが動く音で空間が散漫に満たされた。 <ねじロール>の梅田哲也(Umeda Tetsuya)と同僚のパフォーマーが舞台に登場して、サウンドシステムの前に座る動作も特別な気配もなく進行された。
二台の大型スピーカーの間に位置したサウンドシステムは、楽器を変形したものなのか変形して楽器になったものなのか分からない物体と、マイク、オーディオ・コンソール、そしてそれらを連結するラインで構成されていた。 パフォーマーが登場したから、もう何かが起きるのかなと思った瞬間、システムの合間に置かれている黒い旧式の電話機のベルが鳴った。 このベルは私がこの公演で明確に認知した二つの音のなかの一つだった。
ベルは鳴るが、受話器を取る人はいなかった。 梅田哲也が受話器を取り上げて、電話機の横に置いた。 まるで受信者はこの空間だとでもいうように。 そのため、さっきも流れたどもるような話し方の男性の声がもう少しよく聞こえるようだったが、依然として内容は分からなかった。 そして何を見なければならないのか聞かなければならないのか不明なこの状況を経験しているのは(おそらく)私だけではないようだった。
舞台の両側に見える、観客の視線もその焦点を失ったまま、それぞれ漂っていた。と、その時さっき通路にしゃがみ込むように座って電話をしていた男性が舞台の領域に歩いて入り、マイクの前に立ち泰然と通話を続けた。 やっと私はその人がもう一人のパフォーマーである捩子ぴじん(Neji Pijin)であり、これまで流れていた吃るような声の主人公であったいう事実を知ることになった。
若干の追加パフォーマンス(スプレームースを舞台の床にまいたり椅子の高さの構造物の上に立つアクション)がなかったわけではないが、彼は公演が終わるまで終始一貫してマイクを握り、言葉を「叫ぶ」行為を繰り返した。 そして他のパフォーマーたちによって作られた(あらかじめ計作ってあった)様々なサウンドが、彼の叫びをめぐって増幅された。 パフォーマンスが終わる頃に喉が裂けるほど繰り返して何かを訴えていた彼の声から「笛の音」がした。彼の声が裏返ったのだ。
その笛の音が私がこの公演ではっきりとはっきり認知した二番目の音だった。 最初に認知したベルの音が発信の始まりだったら、笛の音は重ねて滑ってしまう発信、あるいは、受信のずれを暗示するようだった。 彼の叫びのなかで、私がわかった内容は遂に一つもなかったが、後で彼が叫んだ言葉のなかに"Can you hear me?(私の話が聞こえるの?)"という言葉があったという事実を知ったとき、笑みがこぼれた。彼の数多くの叫びの中で、私は笛の音だけを受信したんだね。<ねじロール>は、対象と目的がなめらかに収束しない叫びと音をすべての空間にまき散らしながら終わった。 明確な受信させることは当初から発信する目的ではなかったというかのように。
<オギヨディオラ>
空間のあちこちにばら撒かれたエネルギーは、<オギヨディオラ>のパフォーマンスで一つずつ拾い集められた。 <ねじロール>の音が止むと、客席に入場した時から配備されていた、小道具や大道具たちが再び目に入って来た。サウンドシステムが置かれていた舞台の反対側、古いグランドピアノが置かれている空間(社交ダンスの交流の場だったクリフサイドで、ライブバンドの定位置だった空間)の両側に、約1.5×1.5メートルの段ボールに描かれた二つの山(mountain)がそびえ立っていた。 そしてグランドピアノの周辺には華やかな衣装やウイッグ、鏡などの小道具とバレーレッスンのためのバーが設置されていた。 私は前日に<オギヨディオラ>公演のために用意���れた練習室で、部分的にではあるけれど覗き見たパフォーマンスが、今日この空間でどのように実行されるのか期待しながら舞台まわりをもう一度ゆっくり見渡した。 その時、モアが舞台にフッと入ってきた。 ライブでドラァグクイーンの舞台を見るのははじめてだったので、彼が登場しただけで訳もなく胸騒ぎがし始めた。 彼は舞台にのぼり、精巧に描かれたラインと色が調和を成した自分の顔を鏡に映してみたり、靴や衣装といった小道具を手にするように動き、また舞台の外に出て行った。
ほどなく<オズの魔法使い>の挿入曲<Over the rainbow>の前奏が流れた。 そして白いショートカットのウイッグと白い木綿材質のオフショルダー・ドレスを着た、濃く厚いアイラインと彼のものよりさらに厚く赤い唇のアキラ・ザ・ハスラーが、はにかみながら舞台に登場してきた。 彼が歌の始まるポイントに合わせて唇を開いた瞬間、散漫だった空間の空気が彼の周辺に集まるのが感じられた。 彼のリップシンク、手ぶり、歩み、いたずらにスカートの下に隠しておいた、歌のラストに天井にバラバラに飛ばした半透明の黄色い風船まで私にはとても「リアル(real)」であるように感じられて、軽く狼狽するほどだった。
私は誇張されたジェスチャーや内容の公演をまっすぐに見ない方なのだが、アキラ・ザ・ハスラーのショーはもちろん、それに続くモア・ジミンの<It's oh so quiet-Bjork>の舞台も、動作や表情を一つも逃さないようにじっと見つめていた。モアの真っ赤な唇と同じくらい濃いチーク、白い巻き毛のショートカットのウイッグ、小さな白いドット柄が散りばめられた赤い水着。そして赤い靴、そのすべての扮装が本来彼の身体の一部であるかのように自然に感じられ、それでいて美しかった。 私が感じたリアルさと美しさは、舞台の特性を活用し、着飾った二人の華やかさに由来するものでもあったが、何より二人が表現しようとした感情、情緒そして歌の歌詞以上のドラマが、各自に与えられた3分弱の時間の中で、極めて具体的に作られたためだった。 私はにわかに二人の世界をそっとのぞいたような気さえした。
ⓒRody Shimazaki, TPAM - Performing Arts Meeting in Yokohama, 2020
各自のショーが終わるやいなや、すぐに次のパフォーマンスが続いた。 余韻を感じる間はなかった。二人はもうすでに一緒にやるショーを準備するかのごとく「突然」モアによるバレエのレッスンが始まった。バーを使って開始された「講習」は舞台の中央へとつながって行った。 プロのバレエダンサーであり、振付師のモアジミンが見せてくれる動作を真似するアキラ・ザ・ハスラーの姿はまるで大人の真似をしはしゃぐ子どものように見えたりもした。 二人の遊びは、チャイコフスキー(Peter I.Chaikovskii)の<白鳥の湖>の音楽に合わせて最高潮を迎えて、二羽の白鳥のように舞台裏に退場してショーはそのまま終わるかのように見えた。
しかし、すぐに二人は白とピンク色の白鳥の形をした浮き輪に乗って(正確に表現すると両足で引っ張って)オールを漕ぎながら舞台に出て来ると、客席の笑い声とともに異なる次元の遊びが再開された。その後に続いた二つの韓国語の歌に合わせた二人のパフォーマンスは、二人が一緒にドラァグショーを作る、その過程のように見えた。 観客の視線と流れる歌に合わせて二人はショーの場面を一つずつ作って行っていた。
"…天空の星も 大地の花も ひそやかに わが道を 生きてゆくように ふと気がつけば 河が微笑みかけている 私たちも 微笑みがこぼれる…"-<オギヨディオラ>
李尚恩の歌<オギヨディオラ>の穏かなメロディーに会場全体の雰囲気が敬虔になったのか、それともそっと互いに心を配るかのように、それぞれの船に乗って水路の上で出会った二人の動きは、終始一貫して軽くて愉快だった。 "オギヨディオラ"のフレーズがリフレインされると、二人はそれぞれの船から降りて一緒に通ってきた水の流れに白い布を広げた。 そして二人はまるで白い布の上に新しい水路を描くような感覚で空色の絵の具を塗り、撒いた。 そして空色の絵の具が塗られた川(水路)は2階のテラスの高さまで引き上げられて、舞台の正面であり、両側にそびえる山の間に(流れるように)置かれ��。 そして間髪を入れずに二人のパフォーマーはすぐに始まる次のショーのために衣装をチェンジし、順次舞台の両脇に置かれた山(山の絵が貼りつけられた構造物)の上に上がった。 二人がそれぞれの峰に上がると、二つめの歌である楊姫銀(ヤン・ヒウン)の<私たちが登る峰は>のナレーションが始まった。
ⓒHideto Maezawa, TPAM - Performing Arts Meeting in Yokohama, 2020
モア・ジミンは明瞭な表情と口の動き、そして手振りで、自分が登った峰にまつわる話を聞かせ始めた。 その場に韓国語の歌詞を聞き分けることができる観客は多くても5人程度だったため、ほとんどの観客は英語/日本語の歌詞が書かれたパンフレットや、モアのジェスチャーを交互に眺めながら彼の話に耳を傾けた。それは孤独に自身の峰を登っている友達に手渡す励ましだった。 そんなふうに各自の峰で始まった慰めだが、「友達よ」のフレーズのリフレインが始まる頃には二人のパフォーマーは各自の山から降ろし、出会わせ、今度は共に他の山(2階のテラス)を登らせた。
歌がクライマックスに近づくと、二人のパフォーマーは、観客らが公演前に通って来ていた2階テラスの両側の通路を通り、先ほど二人が共に描いた水路の上に並んで立ってプラカードを広げた。 プラカードには、まさにそのときに流れていた歌詞の内容の文句が書かれていた。 "だから友よ 私たちが登る峰は すぐ今のここかもしれないよ"
公演は「まさに今ここ」に集まった人々の耳目を二人のパフォーマーが到着した地点に集中させ、終わった。
驚いたことに<オギヨディオラ>のすべてのパフォーマンスを見るのにかかった時間はわずか30分だった。 二人のパフォーマーは停泊するまで延々とオールを漕いで行かなければならない船頭のようにせっせと、そして休む間もなくパフォーマンスを遂行した。 プログラムディレクターと2人のパフォーマーが公演に込めようとしたメッセージと「こうすれば面白そうだ」と想像した要素が決められた時間内に舞台の上で一つずつクリアになった。 パフォーマンスを一つずつクリアする度にモアが息を切らしながら吐き出した息の音、まるで合いの手や囃し言葉のようだったハイトーンの「はっ!」という音が、私がいま見ているものが何なのかをその度に想起させてくれた。 <ねじロール>での「笛の音」がそうであったように。
ⓒHideto Maezawa, TPAM - Performing Arts Meeting in Yokohama, 2020
公演場で、不慣れな場所で、そして日常でも私はしばしば「まさに今ここ」という感覚を失ってしまう。それは私を取り巻く状況と関係が、たとえどこにいても私に影響を与えているためでもあるが、しきりに今ここにないもの、あるいは私が望んでいないことを欲する真似をするからでもある。 私は今ここに無いものについて話す時、不安な気持ちになり、今踏みしめている地面も,そばにいる人もリアルに感じられなくなったりする。 そんな私に見知らぬ場所での最後の公演であった<ねじロール>と<オギヨディオラ>は、足元に感じられた古いカーペットの感触、そして私が見ているものの表面と裏面を感じられる時空間をその瞬間、開いてくれた。
公演が終わって宿所に戻って、次の日に韓国に発つ準備をしながら李尚恩の"オギヨディオラ"をもう一度聴いてみた。 すると他のどの歌詞より"さあさあ 船を漕いで"というフレーズが耳にすっと入ってきた。 私が漕いできた、そしてこれから漕がなければならないオールのことについて、そして一緒にオールを漕いでいる人たちについて考えた。 私はまた見知らぬ気持ちに酔って、どこか分からないところをうろうろするだろうことは明らかだが、少なくともその瞬間だけはせっせとオールを漕いで向かうべきところがどこなのか、少し鮮やかにはっきりしたのだ。
テキスト: シン・ジェ (演出家・韓国)
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awajibaikundou · 6 years ago
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喪中見舞いのご進物線香ご注文が多くありまして、のし・名入れ、包装、発送伝票、確認など複数名でしており5分の猶予もないのですが、多忙の際にはお断りしておりますご予約を当日お受けしました先日は、二十年以上日本に在国しておられます中国人の方と中国から香港からお客様がお越しくださいました。花さじきさんへ行った後、渦潮をみるため道の駅福良から遊覧船、又は道の駅うずしお、又はうずの丘から渦潮みるそう。そして徳島へ渡るそう。
香港は夜は出歩けないし、暴動あればバスが止まり、昨日はお子様はタクシーでお帰りになったとか。
12月の体験ご予約はお受けできない予定になっております。
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