#燭台切探偵事務所
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otoha-moka · 6 years ago
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燭台切探偵事務所2
「ええっ、伽羅ちゃん文化祭なの?!」 「……言われてなかったのか?」 長谷部の住む6階建てのマンションの502号室……の隣には職業探偵の燭台切は住んでいる。ここから探偵事務所に出勤しているが、実際は帰ったり帰らなかったりとまちまちだ。燭台切の趣味は料理らしく、休みの日になる度に何か作っては、お裾分けと言って長谷部の家に上がり込んでくる。 そんな長谷部の自宅に大倶利伽羅は同居していた。というのも、大倶利伽羅の両親は海外赴任で現在日本にはいないのだ。そんな事情があり、紆余曲折を経て2人は同居生活を送っている。 そのため、燭台切と大倶利伽羅はよく知る間柄なのだが。 「聞いてないよ!言ってくれれば遊びに行ったのに……」 「そんなことだから言わなかったんじゃないか」 夏休みの事件から3ヶ月ほど経っていた。痛いほどの暑さはすっかり引いて、秋風が穏やかに流れている。テレビでは紅葉狩りの名所なんかが連日放送されているこの季節は、学生にとってはちょうど文化祭シーズンで、それは大倶利伽羅達の通う学校でも例外ではない。 もっとも、大倶利伽羅はこういったイベントごとは積極的ではないので、長谷部が聞いた文化祭の話も「日曜は学校で、月曜は振替休日だから」という事務報告だったのだが。 長谷部としても、その際に「行くべきか?」「来なくていい」という短い会話があり、行かないことにしていた。学生の行事なのだから、大人は要らないというのなら学生で完結させておくべきだろう、というのが長谷部の方針だった。 だが、燭台切はそうでもないらしい。 「そんなあ……あ、そういえば、伽羅ちゃんから国広くんのことって聞いてる?」 ギャグ漫画のようにわかりやすく項垂れた燭台切が、真剣な面持ちになる。ああ、仕事か。燭台切の切り替えの速さに長谷部は常々感心していた。 国広くんのこと。 長谷部にはその質問に思い当たる節がある。大倶利伽羅がここ最近、たまに特定の人物に対する近況報告をするようになった。それが"国広くん"だった。何故、と訊ねると、「文句は光忠に言え」と短く返されたのを思い出す。つまり、燭台切にその人物の様子を確認してほしいなどと頼まれたのだろう。 「特に問題があるようには見えないそうだが……。俺に聞くくらいなら自分で確認したらどうだ?俺は詮索するつもりはないし、守秘義務もあるだろう」 「そう、だけどさあ……彼、こちらが気にかけてると知るとそれはそれで気にしそうで」 「難儀なことだな」 この前の事件のときも、ずっと巻き込んでしまったって気にしてたし。そう呟いて、燭台切はかの夏の日を思い返す。きっかけは彼に届いた脅迫だった。そこで、ふと先日のことを思い出す。 「…ああ、そうだ!長義くんのことは伽羅ちゃんから聞いてる?彼も転校してきたんだよね、この前そこのコンビニで会ってさ」 何やら違う人物がでてきた。長谷部は燭台切の話の展開に眉根を寄せる。実はその人物についても、ちらりも大倶利伽羅の話にでてきてはいた。けれども、長谷部としてはもう、たまの休みの二度寝をしたい気分だったのだ。 「だから!気になるなら文化祭にでもなんでも行けと言っている!」 この男、いっそ学校に投げ飛ばしてしまいたい……。 とはいったものの、自分よりもガタイのいい燭台切を投げ飛ばすなんてことはできないので、ぐいぐいと玄関先まで押し出すことになる。燭台切はもともとはお裾分けを持ってきただけだったので、玄関まで行くと大人しく靴にはきかえた。 「ああ、長谷部くんが文化祭について教えてくれたってことは言わないから大丈夫だよ」 「俺以外どこから漏れる情報だというんだ……」 学園祭パンフレットを持たせると、ありがとうといいながら懐にしまい込んだ。パンフレットは学生用のものだ。大倶利伽羅が1部だけ置いていっていたもの。 「……全く。なんでもいいが、入れこみすぎるなよ」 「ははは、君がいえた義理じゃないなあ」 そう言い残して、燭台切は長谷部宅を出て行った。なんとなく腹立たしいが、なにか反応すると睡眠時間が減りそうなので、後ろ姿をじとりと睨む程度にとどめる。 「……さて、寝るか 」 長谷部はそう独り言を零すと、小さく欠伸をして部��に戻っていった。
***
文化祭だ。 先日までは、休み時間や放課後、学級会、それから一部の授業も使って準備を進めてきた。昨日は準備日で、丸一日。今日も朝��くからきて準備に勤しんでいた連中もいる。その辺はもうどれくらい文化祭に入れ込むかといったところだろうか。 大倶利伽羅はというと、登校時間とされた8時半ぴったりにクラスのドアを開け、9時の開会式に出ると早々に静かな場所を探そうとあたりを付け始めた。文化祭とはいえ、外れに行けば意外な程ほどに喧騒の外だ。 大倶利伽羅が声をかけられたのは、ちょうどそんなことを考えていた時だった。相手はこの夏の一件でそれなりに話すようになった山姥切国広と、その一件の関係者の山姥切長義だった。2人はよく一緒にいるが、国広曰く「長義が思い出せと言うんだが……どうしてでも思い出せなくて……」とのことで、長義が国広に昔のこととやらを本気で思い出させようとあの手この手を使っているらしい。 とはいっても、何か無理のある関係ではなく(事件の蟠りもないようだ)、仲の良いクラスメイトのように見える。今日もそれは同じようで。 「大倶利伽羅のクラスはおばけ屋敷なんだよな。なら、やっぱり脅かし役とかするのか?」 「いや、準備に積極的に参加すればあとは自由と言われたんでね」 「へえ、じゃあ今日はほとんどフリーなんだ?」 「あ、そうか。それならうちのクラスに寄っていかないか?うちは模擬店なんだが……」 「ああ、それでその格好か」 2人の出で立ちは文化祭のドレスコードと言うべきか、少々コスプレっぽさのあるウェイターだった。高校生の文化祭らしいちゃちな作りではあるものの、それを感じさせないほどに似合っている。 「国広がね、早くパーカーに着替えたいと言って聞かないから、担当は午前だけなんだよ」 「だって、こんなの無理だ……」 「そういうわけだから、よろしく」 つまり、来るなら早めに来てくれ、ということらしい。聞けば、長義は国広のシフトにかなり合わせているらしく、残りの時間は2人で回る予定だという。なんとなく長義の内心を察してしまったものの、大倶利伽羅は何か言うつもりはなかった。 しかし、国広の方はあくまでクラスメイトと回る予定と捉えていたらしく、長義の思考はよそに、そうだ、と思いついたように声をあげる。 「大倶利伽羅も午後から一緒にどうだ?」 国広の提案に、はじめ大倶利伽羅は断ろうとした。馴れ合うつもりはないし、図書室辺りは静かだろうと考えていたところだったのだ。隣に立つ長義の顔にはわかりやすく「断れ」と書いてある。だが、「……迷惑、だろうか」と申し訳なさそうにする国広を見ていると、無碍にするのも気が引けた。断る理由も特にはないということもある。 「……少しなら」 「!……少しでもいいんだ、ありがとう」 結局、大倶利伽羅は国広の提案を断りきれなかった。ぱあっと、だが控えめに国広の表情が華やぐ。半分くらい付き合って、半分くらいは2人にさせてやろう、そう思いながら大倶利伽羅が長義をちらりとみると、長義は仕方ないかと息をつく。こちらとしても少し申し訳なく感じてしまった。
昼前に一度自分のクラスのバックヤードに戻ると、隣の模擬店の大盛況ぶりが伺えた。やたらと絵になるウェイターがいるとのことで、入店は女子生徒を中心に人が並ぶほどだった。ああは言われたものの、別に2人の接客を受けたいわけではないし、大倶利伽羅は一度も隣のクラスの模擬店には寄らなかったのだが、ここまで盛り上がっているとさすがに気になる。 教室のドアは抜かれており、画用紙に『出口』と書いている方から少し中を覗き込むと、件の2人が何やらきゃあきゃあ言われていた。長義の方は慣れたように対応しているが、国広の方はそういったことは苦手らしく、助けてくれとばかりに他のウェイター役に視線を送っている。 「……大変そうだな」 思わずそう零した時だった。 国広の視線が出口扉の方を向いて、大倶利伽羅の存在に気がつく。気が付いたかと思うと、今度はずんずんとこちらに向かってきた。 「大倶利伽羅!来てくれたんだな」 「……違う、俺は少し様子を見に来ただけで」 「そうなのか……でももう昼時だし、軽食ならあるから、折角だしよければ食べていかないか?」 パウンドケーキなんだ、とメニューを渡してくる国広は見るからにほっとしている。あの人集りを何とかできたからだろうか。大倶利伽羅は、国広の誘いに教室の外を改めて見てみた。やはり長蛇の列だ。 「並んでいるようだが。それに、席もないだろう」 「ん、それなら大丈夫だ」 あの人と相席ということで。そう言って国広が目で指した方向に顔を向けると、嬉しそうに手を振っている、昔からよく知る眼帯の男がいた。
***
午後1時30分。 長義と国広はいつもの制服(制服は自由なので、実際はなんちゃって制服というやつだが)に着替え、料理部の広島風お好み焼きを買って、大倶利伽羅が待つ中庭に向かう。そこにはすでに燭台切と大倶利伽羅が待っていた。 「すまない、待たせたかな」 「お疲れ様。二人とも大人気だったね」 大倶利伽羅が言うには、中庭は例年出し物がないため、文化祭の時は人が少ないらしい。しかし、木製の簡易テーブルと日陰棚があり、居心地は悪くない。実際、平時ならば昼休みには生徒もいる場所だ。 「だが、上手く出来た気がしない……」 「大丈夫、ちゃんとかっこよかったよ」 「パウンドケーキも悪くなかった」 「……!本当か!」 「あれ実は国広が兄弟からレシピを聞いたんだよ」 ね、と同意を求めると、国広ははにかみながら頷いた。評判が良いことがよほど嬉しいらしい。 「ほら、国広は兄弟大好きだから」 「兄弟の作るものは何でも美味しいんだ」 からかうように長義が言うも、国広の耳はそうとはとらなかったらしい。兄弟?と燭台切が訊ねると、養子先の兄弟なんだ、と国広はやはり楽しそうにしている。 「なるほど、好きな人のことを褒められると嬉しいものだよね」 「……ああ、嬉しい」 そんな会話をしながら、何となく空いている席に着く。がさり、とビニール袋をテーブルに置いたところで、長義と国広は互いに目を見合わせた。その様子を見ていた燭台切は、「僕らはもう食べちゃったから、遠慮せずに食べて」と人好きのする笑みで促す。長義がそれでは遠慮なく、とセットの割り箸を割ると、国広も遠慮がちに手を合わせ「いただきます」と声を揃えた。
「それにしても、国広くんも長義くんも元気そうで安心したよ」 暗に夏のことについて言っているのはわかった。国広が返答に困っている様子なので、長義は代わりに俺達は問題ないよ、と答える。 「だが、長義……」 「……はあ、わかってるよ」 長義の「問題ない」という言葉に、国広は抗議の目を向ける。長義は嫌そうにため息をついた。話したいことではないらしい。 「……一度母には会った」 「え、そうだったのかい?」 「あの、たしか鶴丸……だったね、彼にも会ったよ」 「鶴さん?どうだった?」 「元気そうだったよ」 「だろうな」 実際はそうでもないのかもしれないが、大倶利伽羅は元気ではない鶴丸を見たことはなかったため、そういうものだと思ってしまっているところがあった。まあ、本人もそう思われたくて、そのように振舞っているようだが。 事実だけを伝えて、長義は話を打ち切ろうとする。顛末は気になったものの、無理強いをするのも良くはないだろう。燭台切はそれ以上何かを尋ねることはせず、文化祭の話題へと話は流れていった。
「じゃあ僕はこれで、文化祭楽しんでね」 それから程なくして、会話の切れ目に燭台切は立ち上がり別れを切り出した。もともと文化祭そのものよりも、どちらかというとかつての依頼人達の様子を見に来ていたようで、もう用事は済んだのだろう。大倶利伽羅はそう推測しつつ横目で見る。 「ところで、俺は光忠に文化祭の日程は伝えてないはずだが」 「あ、ああ、その、たまたま通りかかって……?」 「そのパンフレット、学生用のものなんだがな��� 大倶利伽羅の指摘に、燭台切が困ったように誤魔化しうとするも、あえなく追撃をくらう。別にどうでもいいが、と大倶利伽羅が返そうとした、ちょうどその時だった。
『3F音楽準備室で火事です。繰り返します、3F音楽準備室で火事です。校内にいる皆さんは、至急校庭に避難してください』
突然、文化祭は終わりを告げた。
学校が燃えてなくなる、などということはなかった。 当然と言えばそうだし、幸いと言えばそれもそれで一理あるのだが。 とはいえ、ことが起きてしまったということもまた事実で、文化祭は中止、明日は休み、振替休日も予定通り休みで、火曜日に片付けのために登校するという運びになった。今日ももう帰れ、というのが学校側からの通達だ。それも当然と言えば当然ではあるが、興を削がれた生徒のブーイングが出てしまうのもまた、もっともだろう。 「……でも、少し不思議じゃないか?」 「何が?」 「音楽準備室って火災が起きるようなところだろうか……」 帰れと言われているのだから帰るしかない。今度こそ燭台切と別れ(送ろうかと言われたがそれは断った)、三人は教室に戻り、���科書などの入っていない軽い鞄を手に玄関まで向かう。上履きを履き替えた所で、ふと国広が疑問の声をあげた。 言われてみれば、と長義は顎に手を当てて考えてみる。思い返せば、音楽準備室にあるのは楽器ばかりだ。��くにある美術室の方が、よほど燃えそうなものがたくさんあるように思う。あるいは、音楽室そのものなら、机や椅子は木製なので燃えるだろう。 一方で、大倶利伽羅は怪訝そうに国広を見ていた。思うところがあるらしい。 「……いや、燃えるだろ、楽譜とか」 「楽譜は火を起こせないだろう」 大倶利伽羅の言葉に国広はすかさず返す。たしかに楽譜は燃えやすい素材ではあるが、そういうことではないらしい。長義は改めて国広の言葉を反芻する。火を起こすもの、火種……。 「……つまり、国広は調理実習室や給湯室のある職員室ならともかく、そういったものがないところで起きたのが不思議ってこと?」 長義の考え込むような声に、国広がこくり、と頷く。大倶利伽羅も、そっちか、と呟いた。 「確かにそうだな……音楽準備室には窓もないから、光を集めてしまうこともない。それこそ楽器と音楽教師の私物くらいしか……」 「あ、それじゃないかな。教師の私物のライターとか」 音楽教師の保科は喫煙者だったはず、と長義は続けた。転校してわずか三ヶ月程度にもかかわらず、すっかり学校内のことは把握しているらしい。以前、そのことに対して、すごいな、と伝えたところ、大きい家ではそういうのの把握が大事だったからね、と何でもないように返されたのを国広は思い出した。住んでいた世界が違うとはこのことを言うのだろうか。時々、国広はそうやって長義との距離感を測りかねていた。長義はあまりそういったことは感じていないように見えるが。 「仮にそれだと、保科先生はどうなるんだ?」 「相応の処分をくらうんじゃないか」 あの人、悪い噂で有名だったからまた荒れそうだな、と大倶利伽羅は来る火曜日、水曜日にうんざりとした。騒がしいのは好きではない。ましてや、そういったあれこれで煩くなるのはごめんだ。 予定よりずっと早く家に着き、事情を話した長谷部に驚かれた後も、大倶利伽羅はの心のうちは靄がかったままだった。
***
ところが、予想に反して、保科は火曜日も水曜日も普通に学校にいた。 それどころか、生徒が一人自殺し、一人が捕まった。自殺したというのも、捕まったのも一年の生徒で、二人は保科に嫌がらせを受けていたらしい。らしい、というのは、自殺については朝礼で少し話があったが、捕まった云々の方は噂でしかなかったからである。嫌がらせについても、もちろん噂でしかない。 不確かな噂話を真に受けて騒ぎ立てるのは好きではない大倶利伽羅は、そういった話には積極的に参加する気にはなれず、なんとなく居心地が悪くなり休み時間は教室から離れるようになった。もともとつるまない性質なので特に違和感もない。大倶利伽羅が教室を出ると、ロッカーの荷物を整理している国広と目が合った。国広の方も、あまりそういった類の話は好きではないらしく、困ったように眉を下げた。 少し離れるか、という大倶利伽羅の提案に、国広も乗った。そのまま昼休みを過ごせるような場所を探し、廊下を弁当箱片手に適当に歩いていく。 「長義の方は?」 「……その、家の方で色々とあるんだそうだ、それで」 「休みなのか」 家の方、というのは恐らくは夏の事件に関することだろう。大倶利伽羅は目の前の国広と今はいない長義について考える。二人は確かに穏やかに、特に問題はなく過ごしている。しかし、絡んでいる問題というのはかなり強固なものだった。なるべく意識しないようにはしているものの、ふとした時にその時のことを思い出す。第三者である大倶利伽羅がそうなのだから、二人だって恐らくは似たようなものだろう。 事件の後、夏休みの間に会う機会があった際に、大倶利伽羅は国広に尋ねたことがあった。「両親について、とか、色々とあったが」と。大丈夫か、とは聞けなかった。国広は少し考えた後、「……本当の家族を知ったというのに、薄情かもしれないが」と前置きし、「今の家族が、俺の家族だと思っているんだ、それだけで十分なんだと、思う」と選んで乗せるにぽつりぽつりと言葉を置いていった。何も言わないと、いたたまれなくなったのか、国広は被っているパーカーをぎゅっと深く被りなおそうとするので、大倶利伽羅は「それでいいんじゃないか」と返した。 こちらは直接訊ねることはなかったのだが、きっと長義に関しても、きっと同じように思うところがあれど、自分なりに折り合いをつけてなんとかあの事件を飲み込んだのだろう。 「大倶利伽羅、どうした?」 「……いや、」 少々ぼうっとしていたらしい。国広が心配そうに声をかけてくる。現実に引き戻され、なんでもないと小さく返した。 ふと目に留まった階段を見る。黄色いテープが張られているその先は音楽準備室、それからその先には屋上へと続く扉がある。 「……音楽準備室、か」 「しばらくは芸術選択は一律自習に変更になるそうだ」 「だろうな」 ここはここで居心地があまりよくない。移動するか、とどちらともなく言ってその場を去ろうとした。……が、呼び止める声でそれは叶わなかった。
「お二人は、この前のボヤ騒ぎ、やっぱりおかしいと思いませんか」
その声の主は、唐突にそう話しかけたかと思えば、次には「鯰尾っていいます、一年生です」と頭を下げてきた。
大倶利伽羅と国広の反応をみた鯰尾は、これは話を聞いてくれそうだと判断したのか、長話になるから放課後どうですか?と提案してきた。先日より、どこか違和感を持っていた二人は特に悩むでもなく頷く。 「決まりですね!じゃあ放課後、そうだなあ……」 「……あ、待ってくれ。今日の放課後には長義が帰ってくるんだ、報告することがあるかもしれないからあけておいてくれ、と言われている」 「本当にとんぼ返りだな」 「……その人、信頼に足る人ですか?」 「えっと……友人、だが……」 それなら別に一緒でもいいですよ、味方は多い方がいいので。にっこりと肯定する鯰尾に、すまないな、と国広が謝る。この場に長義がいなくてよかった、と大倶利伽羅はぼんやりと思った。友人だとはっきり言われるのは、なかなかに厳しいものがあるだろう。いや、長義のことだから、そのあたりは織り込み済みかもしれないが。 「……味方は多い方がいい、と言ったな」 「え、あ、はい、言いましたけど……」 「その道の奴がいる。そいつもその話に加わらせていいか」 いいのか?と小声で訊ねてくる国広に、問題はない、と返す。国広の心配事といえば、忙しいんじゃないかとか、お金はどうすればとか、そういったことだろうが、そのあたりに関して、大倶利伽羅には当てがあった。そもそも、困っている人を見ると手を貸してしまう世話焼きな性質の燭台切なので、言えば何を頼まずともついてくるだろうということが一つ。それから、先日猫探しに付き合った大倶利伽羅には、借りを返せといえば協力してくれるだろうということがもう一つ。それに、最近は少し仕事が暇らしく、お裾分けの回数が多いことがさらに一つ。 鯰尾が、いいですよと肯定するなり、大倶利伽羅はスマホを取り出し、燭台切あてにメッセージを送った。
***
長義は東京に戻ってくるなり、国広に言われ、学校近くの喫茶店まで足を運ぶことになった。本来ならば、何かと理由をつけて国広の放課後を手に入れようと、あわよくば、少しくらい意識させられないだろうかと画策している時間だったのだが、まあそれはいい、効果もあまり期待できないし。また、何かに巻き込まれるなり首を突っ込むなりしてしまったというところだろう。本人に自覚は恐らくないだろうが、国広はなかなか死に急ぐタイプだというのが、長義のここ最近の見解だった。 喫茶店は個人経営のもののようで、あまりがやがやとした雰囲気は感じさせない、悪く言えば少々暗い雰囲気の店だった。指定したのは大倶利伽羅というところだろうか。カラン、と音をたてたやや重い扉をくぐる。少し辺りを見回すと、すぐに目的のグループは見つかった。すでに役者は揃っているようだ。国広が振り返って小さく手招きをするので、やや小走りに長義は座席に向かった。
「噂になっている二人がいるでしょう?あれ、どっちも俺のクラスなんです」 「噂って?」 「そっか、燭台切さんは知らなくて当然ですよね。うちの学校から、一人自殺したっていう生徒がでて、それからもう一人、例の文化祭でのボヤの犯人が捕まったっていうやつです。自殺の方は、ぼかされてはいますが朝礼で全員通達がありました」 初対面が半分という状況ではあったが、鯰尾本人がなるべく急ぎたいというので、挨拶もほどほどに本題にはいる。 燭台切に学校の現状を一通り共有すると、それから鯰尾は、「それで、ここからが話したいことなんですけどね」と一度区切った。 鯰尾が言うには、つまりこういうことらしい。自殺したという生徒はクラスメイトで、確かに音楽教師からの嫌がらせを受けていたし、それを苦にしていた。自殺した生徒の部屋には遺書のようなメモ書きがあったため、自殺した生徒が放火犯であると推測。しかし、その生徒には別の生徒によってアリバイがあった。文化祭の日、犯行時刻にあたる時間にその生徒と行動を共にしていた人物は、共犯もしくは庇いだてしている可能性が高いとして、警察に事情聴取を受けている。 「……なんだ」 「いや、慣れているな、と……」 「そういえば、以前も慣れた様子だったね」 「別に、大したことはしていない」 話がはじまるとすぐに鞄から小さいノートと筆記用具を取り出した大倶利伽羅を見て、右隣に座る国広が大倶利伽羅の飲み物をそっとずらす。そのまま簡単にメモを取りはじめるのを、国広と長義が両隣からのぞき込んでいた。視線のうるささに大倶利伽羅が訝しむと、二人は心底感心したというように声をもらす。 「あのー……話、続けても?」 「あ、ああ……すまない、ちゃんと聞いている」 話がすっかり逸れてしまっていた。先ほどから流れる様に話をしていた鯰尾が、いったん話を止めて、遠慮がちに前に座る三人に声をかける。国広が慌てて謝罪し続きを促すと、鯰尾は問題はないとふるふる首を横に振った。 「いえいえ、そんな、気にしてませんから。えっと、それで、月曜日はお休みだったじゃないですか。あの日、家に警察が来て、それからはもう、まるで犯人扱いなんですよ」 「ちょっと待って、家に?」 「ああ、そっか。捕まった生徒の方なんですけど、俺の兄弟なんです」 燭台切の疑問に、言ってなかったか、と思い出したように鯰尾は返す。返した言葉に、骨喰っていうんだけど、似てない双子ですね、とさらに鯰尾は付け足した。 骨喰は文化祭の日、ちょうど自殺したという生徒、早川と行動を共にしていた。鯰尾を含め、三人のクラスの出し物は演劇だったらしい。同じクラスの二人は、舞台のセットが甘いことに気付き、補強するためにあれこれ材料を取りに行っていたという。鯰尾が骨喰に問い質すと、犯行が起きたと推測される時間の間、骨喰と早川はずっと一緒にいたと証言したという。 「そんな彼女が死んじゃって、そこにメモがあって、だから彼女が犯人で、一緒にいたって言ってる骨喰も芋づる式で何か悪いことを一緒にしていたんじゃないかって、警察はそこを疑ってるんだと思う……」 鯰尾はテーブルの上に置いた拳を握り、わなわなと震えていた。ペンを走らせていた大倶利伽羅が顔をあげ鯰尾を見る。大倶利伽羅だけではない。テーブルの全員が何も言わず、次の言葉を待っていた。鯰尾は自分を落ち着けるように一呼吸おく。 「でも、あいつは、骨喰は、共犯とか、そんなことしないと思うんだ!確かに友達思いだし、優しいし、そのことは兄弟贔屓目を抜いたとしても俺は証明できる!でも、あいつは誰かが悪いことしてたら、それはちゃんとダメだっていうやつなんだ!だから…��っ」 お願いします、骨喰の疑いを晴らしてほしいんです、と鯰尾はテーブルに額が付きそうなほどに深々と頭を下げた。
隣に座る燭台切が慌てて鯰尾の顔を上げさせる。それを確認したのち、大倶利伽羅はメモをテーブルの真ん中付近に置いて、ペンで指しながら情報を整理していく。ひとつひとつの事実問題に確認をとると、鯰尾は「はい、あってます。そうです」と言いながら頷いた。メモを再び眺めてみる。 「なあ、長義はどう思う?」 「まだなんとも。でも、骨喰の疑いを晴らそうというのなら、必然的に早川の疑いを晴らすことになる。そうなると、怪しいのは遺書と思われるメモ、かな」 「偽造の可能性があるということか?」 「まあ、そうかもね。遺書は騙られるものだよ」 「え、それドラマとかの話ですか」 「……いや実体験」 国広の問いに、大倶利伽羅の字で書かれた『早川→自殺?遺書がある?』という部分を指さしながら長義は答える。国広も特に異論はないようで、そうだな、と首肯し、遺書の偽造の可能性を提示してきた。その会話に疑問を持ったのはむしろ鯰尾の方で、長義に問いかけてみるも、反応しづらい答えが返ってくる。その様子を見て、長義は「なんてね、冗談だよ」と悪戯っぽい笑みを作って見せた。 「僕が気になったのはこの犯行時刻だね」 「犯行時刻?」 「まず、火災の発生時刻についてだけど、今回の場合火の手が回りにくいところで発生しているよね。そのうえで、放火の場合の発生時刻はそこまで正確には求まらないはずなんだ。たとえば、九時ごろ発生とあれば、九時台のどこか、というようにね」 燭台切の言葉に、鯰尾は困ったような表情になる。何が言いたいのかわからない、とわかりやすく顔に出ている鯰尾に、じゃあ質問、と燭台切は投げかけた。 「骨喰くんと早川さんが準備をしていたというのは、何時間もかかるようなものかい?」 「いえ……多分、あって数十分のものですけど……」 「それ以前や以降は二人だけで一緒にいた?」 「……あ、そうか」 燭台切の言葉に鯰尾は納得したようにぱん、と手をたたいた。それから、ちょっと紙とペン借りますね、といいながら、大倶利伽羅のメモの次のページに横線を引いていく。そして、引かれた線に短く切れ目を入れ、『犯行時刻』と記した。 「早川さんと骨喰がいたのが、ここ」 「今回の音楽準備室の火災は、隣の美術準備室まで火が回っていて、時間の特定が数十分単位で出来ないんだ。ですよね、燭台切さん」 その通り、と燭台切は答える。やった正解だ、などと鯰尾も楽しそうに返している。結構楽観的なところがあるのかもしれない。その様子を見ながら、国広は氷がほとんど解けたメロンソーダを一口飲んだ。炭酸も随分と抜けていて、甘い味だけが広がる。長くなると知りながら炭酸を頼むなんて失敗したな、とその時になって少し後悔した。
「……それなら、一度音楽準備室を探してみないか」 結局のところ、怪しいと思われた部分といえば、遺書の中身と犯行時刻くらいだった。しかし、それらは基本的に警察の管轄で、関係者でもない限りは蚊帳の外になってしまう。情報の開示だってしてくれないだろう。燭台切は一通り伝手をあたってくれるだろうが、生徒である自分たちにできることはもうないようだ。そう長義が結論付けたところに、国広が割って入ってくる。 「黄色いテープが張ってありますけど」 「……だが、全校集会の時に何も言われはしていない」 「なんだよ、その一休さんみたいな理屈は」 普通、黄色いテープが張ってあればそれは進入禁止を意味する。何も言われなくてもそういうものだと受け取るもの、暗黙の了解というやつだ。長義は呆れてため息をついた。しかし、鯰尾の方は、その言葉に「言われてみれば」などと思案し始める。大倶利伽羅はいつも通りの表情で黙っていた。これは悪くないときの反応だ。長義としては分が悪い。 「進入しちゃうのはさすがにまずいよ」 「……だよな」 助け舟となったのは燭台切の言葉だった。そういえば、初めて会った時も、大倶利伽羅と国広に死体をなるべく見せないように、だとか、そういったことをしていたな、と長義は思い出す。国広も、言ってはみたものの実行に移すことにはそこまで強く考えていたわけではなかったらしく、あっさり納得した。 しかし、その言葉に大倶利伽羅が反応する。 「……許可があれば、いいんだな」
***
「というわけだ、長谷部。日本号に許可を出してもらえるように頼めないか」 「何を言っているんだ、お前は」 久しぶりに保護者を頼ってきたと思えば、頼ってきたのは正確には日本号だった。長谷部は大倶利伽羅の言い分を聞きながら、少し嘆きたい気分になる。ため息も思わずついてしまった。 日本号は大倶利伽羅たちの通う学校で教員をしており、今は三年の副担任を二つのクラス分担当している。日本号自身は、きっと頼めばいくらでも入室許可を出してくれるタイプであるように見えるが、日本号の教師としての立場が生徒からの頼みという一点でのみ許さない。逆に言えば、保護者、養育者、そういった立場からの要請ならば、応えてくれるだろうという確信がある。また、日本号と長谷部は古くからの腐れ縁というやつらしく、付き合いも長い。 「……危険は」 「火災発生現場ではあるが、基本的には学校だ」 妙なところで燭台切の影響を受けたな……。 長谷部は再びため息をつく。あの男は、入れ込みすぎるなと忠告したにもかかわらず、また何かに首を突っ込んでいるようだ。しかも、大倶利伽羅もしっかりと巻き込んで。正確には巻き込んだのは大倶利伽羅で、巻き込まれたのは燭台切なのだが、それは長谷部の知るところではなかった。 「夜か」 「そうだな、夜中というわけにはいかないが、下校時刻が過ぎた後になる」 何か問題があればすぐに連絡をする、という大倶利伽羅の言い分に押され気味になっていく。もう一度、頼む、と静かに言われる。長谷部はそういった頼みには弱いところがあった。三度目となるため息を深くつく。それから長谷部は私用のスマホを手に取り、連絡表の『に』の欄を忌々しげに見つめる。「今回だけだ」と大倶利伽羅にとって通算何度目かわからない「今回だけ」を告げた後、通話ボタンをタップした。
***
「別に、送っていかなくてもいいのに」 「一秒でも長く居たいという気持ちが、お前にはわからないかな」 「そんなに思い出させたいのか。だが、その……」 「……そっちじゃない」 喫茶店を出るころには、すっかり日が落ちていた。喫茶店前で鯰尾とは別れ、それから駅で燭台切と大倶利伽羅とも別れ、電車には二人が残された。下車駅は二つ違い、同じ路線という比較的近隣に住んでいることが九月頭には判明し、それからは時間が合えば途中まで一緒に帰ることが多いのだが、今日は途中まで、ではなく国広の家まで送る、と長義が言い出した。 とはいえ、同い年の同性、特に送る意味が国広には見出せない。 「手続きは、一通り全部終わったよ」 「そう、か」 「……最初にDNA鑑定を見たときにね、正直に言うと、少しお前を憎んだんだ」 大通りから二本入った道を歩きながら長義はぽつりと呟くように切り出した。ひょっとしたら、国広に話しかけたわけではなかったかもしれない。国広の相槌を気にする様子もなく、長義は続ける。 「お前という存在で、俺の家はすっかり駄目になったんだって、そう思った」 「……それは」 「いや、お前を責めているわけじゃないよ。ただ、少しそう思ったことがあるというだけだ」 歩くスピードはいつの間にかゆっくりとしたものになっていた。少しだけ、並んで歩いていた距離に差ができてしまう。だから、国広には、少し前を歩く長義の表情をうかがうことが出来ない。長義も国広の方へと向こうとしない。 「でも、祖母がお前のことを『鬼子』と言って、まるでなかったことのように扱うのを目の当たりにして、考えを改めたよ。お前が���をどうこうしたんじゃない、あの家がお前を認めてはくれなかったんだと、今度はそう思った」 ゆっくりとした歩きが、ついにとまる。夜の電灯と家々から漏れる灯りが、少々心もとなくあたりを照らす。車の通りも少ない道路には、今は二人しか見当たらない。国広は、かける言葉が思いつかず、ただどうしたらいいのかと俯いてしまう。国広に気付いたか気付いていないのか、長義の独り言のような語りはさらに続いた。 「あの日、お前が現れて、なんで来たんだと思った。今更帰ってきても、お前はこの家にはとうにいないものになっている、俺も家の者としてはお前を認識してはいけなかった。本当なら、はじめに玄関先にいるのが見えたあの時に、もっとかける言葉があっただろうに。層が違うように、二度と会うことも話すこともない存在でないといけない、と考えていた」 あの日、というのは国広が村に来た当日のことだろう。玄関先ですぐに追い返されてしまったあの日。その時にはもう、長義は国広がいることに気が付いていた。「その、」と国広は思いつかない続きも放り投げて、聞こえないような小さな声で長義に呼びかける。聞こえていたかは定かではないが、その声とほぼ同時に、長義は国広の方へと振り返る。 「だからね、こうして今いるのは奇跡のような偶然だと思うんだ」 それは普段の様子からは想像がつかないほど穏やかな表情で、国広は息をのんだ。 言いたいことは色々とあるのに、言葉にはならない。 「……それは、その」 言葉が喉につっかえて出てこない。長義の言葉がなにを意味しているのか、なんとなくはわかってはいるのに、それを自分から口にすることが出来ない。そうやってしどろもどろにしている様子を、すぐにいつものような様相に戻った長義は何が面白いのか可笑しそうに笑いだす。 「まだわからないかな、好きだって言ってるんだよ」 考えておいてね、と言って、また明日と手を振り、そのまま真っすぐ来た道を歩いていく長義を、国広は茫然と眺めていた。 それから、きっともう家まではそれほど距離はなかったとは思うが、どうやって帰ったのか、国広は覚えていない。
(また明日って、明日からどんな顔して会えばいいんだ……) 気付かないフリをして、なんとか保っていたはずの均衡だったのに、長義はそれを許してくれないらしい。国広のささやかな打算は呆気なく崩れ去った。 夜になると、どうしてでもその日あったことだとか、些細なことをきっかけにして色々と考えが浮かんでしまう。ネガティブなことも。しかし、今日に限っては、数時間前のことで頭がいっぱいだった。 「……考えておけって、どうすればいいんだ」 誰かに相談したい、そう思ってメッセージアプリを開くも、こんなこと誰にいえるんだ、とすぐに閉じて、スマホをベッドサイドの充電器に差し込み、国広は逃げるように布団に潜り込んだ。
気が付いたらもう外は白んでいた。 「……あさ、」 目元をこすりながら時間を確認する。もう起床時間だ。国広は潜り込んでいた頭からかぶっていた布団から這い出した。気持ちの方が落ち着いていなくても、体は機械のように習慣通りに動いてくれるようで、制服に着替えて居間へと向かう。すでに起きている家族と挨拶を交わしご飯を口に運ぶ。さすがに挙動不審だったのだろう、兄弟に何かあったのかと尋ねられて、また昨日の夜を思い出してしまって顔が熱くなる。熱があるなら休もう、無理はしちゃダメだよ、と立て続けに言われてしまい、申し訳なさと居た堪れなさと気恥しさでいっぱいになる。熱じゃないから、心配ないから、などと国広は自分でも不思議なほどに必死に否定して家を飛び出した。
慌てて飛び出したからか、いつもよりもずっと早く着いてしまった。日直の生徒もまだ来ていない一人きりの教室。本来ならば一応は日直の仕事ではあるが、何かしていないと落ち着かないし、早く来たのに何もしないというのも気が引けた。国広は窓を開け換気を行い、黒板の日付を書き換え、教室の後ろにあるロッカーからほうきとちりとりを取り出してさっと辺りを掃除し始めた。しばらくすると日直の生徒が教室に入ってきて、入ってくるなり国広の姿を認め、何かあったのかと訊ねてくる。なぜ、と言えば、こんなに早く学校に来てるから、ともっともな意見を返されて、国広はなんでもない、なんとなくだ、とあやふやに返事をしてしまった。 それから日直の仕事を少し手伝いつつ、時間が過ぎるのを待った。日直の生徒は、いいよ別に、と言うのだが、ほとんど人のいない教室で、じっと机についているというのが、今日の国広にはどうにも出来そうにない。少しでも時間ができると、すぐに昨日のことを思い出しそうだった。 さらに時間が経ち、生徒の数が増えてくる。賑やかないつもの教室になると、ようやく気分が落ち着いてきた。そう思って、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。 「おはよう、国広」 「……ああ、おは……よ、……っ?!」 誰かの挨拶に顔を上げて返そうとする。返そうとしたところで、驚いて声が出せなくなってしまった。 長義はいつも通りに教室に入り、いつも通りに鞄を置き、いつも通り隣に座る国広に声をかけたに過ぎない。それはわかっているのに、国広にはその��つも通りが出来ない。『考えておいてね』という言葉が頭の中でリフレインしてしまう。 国広はガタン、と音を立てて立ち上がり、あと5分もなく1限目だというのに「……すまない、頭冷やしてくる!」と言い残して教室を走り去っていった。クラス中の注目が残された長義に向く。あいつに何したんだよ……と呆れるグループに、遂に何かあったんだな、と察して苦笑いするグループ。そんな面々をよそに、長義はにやける頬をなんとか抑えるのに必死になっていた。 もちろん、何の反応もないとは思っはいなかった。国広は色恋沙汰には鈍いように思うが、それでも直接の言葉を曲解するほどのものではない。けれども、あんなに意識されるとも長義は思っていなかった。 たとえば、普通に挨拶をすれば、向こうも昨日のことは夢か何かだと勝手に完結して終わるような、そういうものを予想していた。だから、あれは夢ではないのだと、今日の帰りにでも、もう一度念を押してみようかと昨夜は計画していたのに。 「……あんな反応、期待するだろう」 数分後、チャイムを聞いたのか慌てて教室に戻ってきた国広を、長義は見ることが出来なかった。
***
「音楽準備室についてなんだが……何かあったのか」 昼休み。教室の外が一気に騒がしくなる。二限と三限の間に来ていた、大倶利伽羅からグループメッセージの通り、長義と国広は文化祭の日に昼食を食べた中庭に向かった。授業が終わるや否や、国広が逃げるように教室から消えてしまったので、長義はひとりで中庭に向かうことになった。しかし、同じ教室から同じ場所に、しかも同じ人物を目的として向かうのだから、当然、早足で向かえば国広に追いつく。国広、と声をかけると、こちらを見ることなく、国広は早足になる。しまいには、中庭まで走ることになってしまい、四限は体育だったのかジャージ姿で先に来ていた大倶利伽羅は、妙に疲れた様子の二人を見て僅かに眉を寄せた。 「なん、でもないよ……ちょっと国広に逃げられただけで」 「に、逃げてはいない……!」 「声をかけたら走り出しただろう」 「う……急いでいたんだ、教室から中庭は少し遠いから……」 「俺が声をかけるまでは歩いていたのに?」 「どうでもいいが、長く続くようなら他所でやれ」 「……すまない」 堂々巡りになっている応酬に、大倶利伽羅が釘を刺す。売り言葉に買い言葉、あまり生産的ではないことに自覚はあった二人は、素直に黙って、先日とほぼ同じ日陰棚の下にある木製のテーブルに昼食を置いた。 程なくして、鯰尾が中庭まで駆けてくる。 「みなさんお揃いで!お待たせしてすみません」 ぺこり、と小さく頭を下げ、「じゃあ、えっと、お隣失礼しまーす」と空いている大倶利伽羅の隣に座り、弁当箱を置いた。 「……それで、音楽準備室がなんですか?」 「ああ、長谷部が……いや、これはいいか。結論を言うと、日本号から教師立ち会いの元ならば許可を出すと言われた」 「日本号先生?3年生の副担ですよね、どんなご縁が?」 「……知り合いの知り合い、のようなものだ」 「それもう全くの赤の他人ですよね」 鯰尾が大倶利伽羅の言葉にあけすけに返している間も、長義と国広は黙々と昼食に集中していた。話は聞いているらしく、頷いたり、声の方に視線を向けたり、といった反応は示している。一方で、たまにちらちらと隣を見ては、さっと目を逸らし、というのを続けているのが、大倶利伽羅にも鯰尾にもすぐにわかった。 「何かあったんですか?」 「……さあな。とにかく、今日の放課後に日本号立ち会いで音楽準備室を調べる……そこの2人、伝えたからな」 「えっ、あ……ああ……大丈夫だ、聞いてる、その、許可ありがとう……」 「……俺も、ちゃんと聞いてるから安心していいよ」 大倶利伽羅がやや強い口調で言えば、国広はびくりと肩を跳ねさせ、長義は少し忌々しげに放課後の音楽準備室調査を了承した。
***
放課後、下校時刻過ぎに音楽準備室へ続く階段前に全部で四人の人影があるのを確認した日本号は、「お前らが長谷部の言ってた燭台切の助手か」と尋ねた。戸惑いながら否定しようとする国広を遮って、大倶利伽羅は「そのようなものだ」と返す。 「高校生をスパイにして保科の浮気調査とは、燭台切のやつもなかなか……」 「え、そんなことになってるのか?」 「見ろ国広、あの顔は冗談言ってる顔だよ」 「……なんて、ちゃんと長谷部のやつから聞いてるよ。この前の放火で気になるところがあるんだろ?」 じゃあ行くか、そういうと、日本号は黄色いテープの端をハサミで切る。いいんですか?と国広が慌てると、日本号はあっけらかんとした態度で後で張りなおすさ、と答えた。
「しかしまあ、あの長谷部がこんなことを頼んでくるとはなぁ……」 あいつも丸くなったってことかね、と日本号は遠い目をした。日本号の知る昔の長谷部ならば、頼まれたから少し音楽準備室とやらを開放できないか、出来ることなら子守りも頼む、教師なのだから生徒の面倒を見ろ、などと言��だすはずがない。ルールはルール、そういってどんな意見でも一蹴していただろう。いや、どうだろうか。あの真面目馬鹿はそういった自分の真面目馬鹿さで散々なことになったことがある。その時の後悔が長谷部を変えたのかもしれない。いずれにせよ、悪いことではないように日本号は思っていた。 階段を上がる中、そのようにぼんやりと考えていた日本号に、鯰尾が声をかける。 「あの、すみません……でも俺、どうしてでも気になっちゃって」 「気にすんな。もしも俺がお前のような立場だったとしても、何かおかしいって言いだすだろうよ。でも、無理矢理物を開けようとしたり、壊したりはしないこと。いいな?」 「……当然だ」 「はーい、わかりました」 じきに着いた音楽準備室の鍵を日本号が回す。今日は保科はいない曜日なので、鍵は職員室にかけてあるものを使った。鍵は保科の持っているものと、職員室のものの二つがある。それは学校中で周知のものだった。音楽準備室は吹奏楽部もよく使うが、保科は快く鍵を貸さない性質であったため、必ず職員室から借りているのだ。 「じゃ、俺はここで待ってるから終わったら言ってくれや」 日本号がそう言って扉を開けると、籠った空気がふわりと漂ってきた。 「……さすがにもう、焦げ臭くはないですね」 「でも、結構見事に燃えてる」 「……保科の私物もかなりが燃えたんじゃないか。焦げが強いのが机のあたりだ」 「机のあたりなら、なおのこと本人のライターとか、その線が強くならないか?」 思い思いに感想を述べながら、音楽準備室に入っていく。その様子をドアの前で日本号は、これはこれで不思議な組み合わせだと考えながら見ていた。 教室というには準備室は狭い。楽器などはすべて移動されたため、もともとの音楽準備室に比べればずっと広いはずだが、それでも一つの教室を半分にした程度の広さしかない。もう半分は美術準備室になっているはずだ。いずれも、音楽室・美術室が広々としているためなのだろうか。荷物は多いはずなのだが、これに抗議が出たことはなさそうだった。 「でも、調べてみたところで、一応ここって警察も見てるはずだよね」 「……まあな。ダメでもともとだ」 一通り見た所で、手がかりが得られないような気がしてた。飽きてきたのか、残された棚を開けて、手で奥の方をまさぐりつつ、長義が誰に言うでもなく呟く。反応を帰した大倶利伽羅も、もう一度見てみるか、と案の定、鍵がかけられていいた保科の机に手をかけた。やはり変わらずしまっている。 「でも、火元が机側というのは大きいんじゃないか?この教室の最奥にあるから、入り口付近で火を放ったということはないことになる」 国広がやや前向きな意見を出したときだった。 「……あ!」 鯰尾が何かを見つけたのか、やや大きく声を上げた。 「……何かあったのか?」 近くにいた大倶利伽羅が声をかける。鯰尾は「手がかりかはわかりませんけど……見つけました」と言いながら、一枚の写真を渡した。 そこにいたのは、保科と、それから高校生くらいの生徒。 制服には校章があり、どこの学校かまでは潰れていて見えないものの、私服制服のこの学校とは違うものだとわかる。服装はセーラー、女子だった。 「心当たりは?」 「……あります。これ、早川さんの友達です。文化祭の日、うちのクラスに来てましたから」
「明日は骨喰についていたいので」 鯰尾とはそう言って昨日別れた。骨喰はあまり多くを語らないから、自分が見ていないとどうにも心配なんだと鯰尾は零していた。 「だって、ほら……SOSだって骨喰は言ってくれないから。信用されていないとは思わないんですけどね、それが骨喰にとっての当たり前だし。それなら、俺が骨喰のこともたくさん気付いて、拡声器になればいいんです」 それが俺達の在り方なんですよ、と鯰尾は笑っていた。
「大倶利伽羅もあまり喋らないよな」 「……何の話だ」 「昨日の」 国広が思い出したかのように話を始めたのは、放課後の空き教室で、昨日の写真のコピーを三人で囲んでいるときだった。大倶利伽羅も昨日のことを思い出したのか、国広の言葉に、ああ、と相槌を打つ。 「燭台切は、やっぱり大倶利伽羅が喋らない分を代弁していたりするのか?」 「光忠はそんなんじゃない」 「鯰尾たちの在り方と、大倶利伽羅たちの在り方は、やっぱり違うよ」 「……そう、か。そうだよな」 長義が大倶利伽羅の言葉に付け足すように言う。あ、と声を上げ、次にはすまない、と謝る国広に、大倶利伽羅は、謝るようなことか、と息をついた。はじめのうちは苛立っていた国広のこの態度も、夏の日から、まだそんなに長い付き合いではないのに、あっと言う間に大倶利伽羅には慣れたものとなっていた。 その間を割るように、長義は話を切り出す。 「鯰尾は、骨喰のために出来ることをやっている自分にその在り方を見出しているんだろうね」 世話焼き体質というところかな、と長義は続ける。その言葉を受けた国広は、在り方、と呟き、黙りこんでしまった。俯いてしまうと、長い前髪が目元を隠してしまい、二人には国広の表情が読めなくなってしまう。瞳は面白いほど感情を乗せるというのに、これでは何もわからない。長義は国広のこの仕草があまり好きではなかった。
***
今朝から妙に寒気があって、頭がぼうっとしていたからだろうか。普段なら気にしないようにできていたことが、妙に気にかかってしまう。昨日の帰りには気にならなかった鯰尾の言葉が気になったのもそのせいだろう。 国広は、二人の会話がどこか靄がかって遠くで聞こえる中で一人考え込んでいた。 今しがた発せられた長義の言葉を反芻する。 (……出来ること、在り方、か) 最初に国広が鯰尾の話を聞いて一番に思ったのは、自分の兄弟が同じように疑われていたら自分はどうするかということだった。 きっと、鯰尾のように誰かを味方につけようとは考えない、かもしれない。でも、兄弟が疑われるのはきっと見ていられない。途方に暮れるだろうか、一人でできることを探すかもしれない。思えば、あの夏の依頼も、友人に脅迫状を発見され、半ば無理矢理引っ張られたのだった。それがなければどうしていただろうか。少なくとも、長義とはこのような形で出会うことはなかったかもしれない。いや、ひょっとしたら今ここに自分はいないかもしれないほどだ。 国広には、大倶利伽羅のように探偵の知り合いもいなかったし、日本号に許可を取り付けたように別のあてもない。それだけではない。昨日の様子を見ていてもそうだったが、大倶利伽羅はずっと鯰尾のことを気にかけていた。クラスメイトが自殺し、兄弟が疑われている、気丈であろうとしてはいるが、焦燥はある。国広にもそれはわかっていた。しかし、自分が気にかけることで鯰尾に余計に気負わせてしまわないかと思うと、何もできなかった。大倶利伽羅は、相手を気負わせることなく、さり気なく気を遣うことが出来る。 長義はどうだろうか、と国広は大倶利伽羅と話している長義を見る。長義はあの夏、ひとりで秘密を抱えていた。『家の者としては』と長義は言っていた。自分が同じ立場なら、あんな風にはきっと振舞えない。 自分には、彼らのようにはなれない。彼らにできることが、自分にはとても出来そうにないから。まるで傾いた天秤のようだ、と国広は考えた。それが自分の在り方として、よいものだとは思えなかった。 (……そうだ、考えておけ、と言われたんだった。) 昨日の帰りまでは長義を見る度に思い出して、その度に心臓が跳ねるのを感じていたのに、今度は気分が沈んでいく。 今、告白を受けたところで、何となく長義に流されただけなのではないか、そう国広は考えてしまいそうになる。ずっと知っていた、何となく気付いていた視線に気付かぬ振りをしておきながら、いざ告白を受けたら馬鹿みたいに意識をして、それで付き合おうとなるのは、長義に対して不誠実な気がしてしまう。 「……ひ……ろ、国広!」 「……え?」 「え?じゃない。急に黙るな、心配するだろう?」 思考の海に沈んでいたところに、自分を呼ぶ声が響く。はっと我に返ると、国広の目の前には���義が、その少し後ろには大倶利伽羅が、どちらも心配そうにこちらを見ていた。 「……す、すまない……考え事をしていて……っうわ?!」 「顔色も悪い、と思ったら少し熱があるな……」 咄嗟に謝る国広に対して、有無を言わせず長義は国広の前髪を右手で避け、そのまま額を国広に押し付ける。驚く国広をよそに、額も手もさっと離れ、怪訝そうに眉を寄せた長義はぶつぶつと呟きつつ、国広の前髪を軽く整えた。国広が、熱?と聞き返す間もなく、今度は右腕を掴まれ、国広を椅子から立ち上がらせる。 「すまない、大倶利伽羅。今日はこいつを連れて帰る。明日以降にしよう」 「ああ、構わない」 「え、え……その、長義?」 「帰るよ」 そのまま長義は国広の座席にかけてある鞄と自分の鞄を持ち、国広を引っ張りながら教室から出て行った。残された教室で、大倶利伽羅はため息をついた。 「……喋らないのは、そっちだろ」
***
長義が黙ったままなのが、国広にはなぜか恐ろしく思えた。何か、自分の考えを見破られているような居心地の悪さを覚えてしまう。自分の考えを見破られて、そのことで軽蔑されているかのような感覚だった。 ぎゅうっと掴まれたままの腕が痛い。なのに、振りほどくのが怖い。 「……長義、あの」 校舎の玄関まで来たかというところで、小さく、痛い、と素直に告げると、あっさりと掴む腕はほどかれた。それどころか、長義はどこかバツの悪そうな顔をしている。そのためか、国広まで悪いことをした気になってくる。口癖のような謝罪が口をついて出てくるかといったところで、それを遮るように長義が話し始めた。 「……先に一応言っておくけど、国広が悪いわけではないから」 「え?」 「お前とは同じクラスだろう?朝の時点で、様子がおかしいのなら気が付けたはずなのに、気が付けなかった自分に苛立ってる。……すまない、お前にぶつけるつもりはなかった。自分でも、驚いてるくらいで……」 「そんな、俺は……」 自分でも長義に言われるまで体調に気が付かなかったくらいだし、今も大したことではないし、と国広は言葉を並べはじめる。それでも納得のいかない様子の長義は、そうじゃない、と国広を遮った。 「……鯰尾のこと」 「……ああ」 「いいな、と思ったんだよ……お前も、言わないから」 パタン、と靴箱になっている棚を閉めながら、そう言い出した長義の言葉に国広は首を傾げた。言わないとはなんのことだろう。そう思いながら自分も靴を履き替える。 言わない、言わない、と何度か繰り返して、告白のことか、と思いあたった。返事をせかされているのだろうか。毎日���緒にいて、何もアクションを起こさないのは、言われてみれば確かに、それはそれで不誠実な気がする。国広はそこまで考えて、それから一度息を吸った。 「……その、先日の夜のことだが」 嬉しくなかったわけじゃない、むしろ、自分でいいのかと思ったほどで。 でも、ダメだと思ってしまう。自分では、長義にとって最終的にはよくない。 「俺では、お前に応えられないと、思う」
***
白状しよう。 浮かれていた。今の今まで、勝利を確信していた。 だから、長義は国広の言葉が最初飲み込めなかった。何を言っているのかもよくわからなかったし、熱に浮かされてわけのわからない思考回路から結論を導いているんじゃないかと疑った。だが、国広は正気のように見える。少し顔色は悪く、先ほどから咳が混じるようになっているが、自分でも気が付かなかったというように意識の方はしっかりとしている様子だった。 昨日の朝のあれは、どう考えても、そういう反応だったのに。少ない経験からもあからさまにそうだと思えるほどにわかりやすかったのに。 だからこそ、長義は冷水を浴びせられたような感覚になってしまった。 「……それ、が……答え?」 「……すまない」 ずっと、どうやって告白を断ろうかと考えていたのだろうか。どうしてこのタイミングでそのようなことを言うのか。もしや、国広のことを気にかけてしまうことに対して、迷惑だとでも感じているというのか。 国広は申し訳なさそうに謝ってくる。国広の口癖のようなものだった。 「……はあ、どうして今言うかな」 「……、」 「ああもう、謝るな……こちらが惨めになる」 惨めにさせてくれるな、といえば、国広はまたも続けようとしていた謝罪の言葉を飲み込んで黙ってしまう。 「お前が迷惑に思っていたとしても、今日はお前を送り届けるから」 「迷惑、なんかじゃ……」 「……お前ね、病人が余計な気を遣うなよ」 「……」 国広は、とぼとぼと長義の少し後ろを歩く。大丈夫だから、と鞄は持たせてしまった。国広とて馬鹿ではない。体調があまり良くない今、無理にどこかへ行こうとはしない。長義が国広を送っていく意味もあまりない。 明日からどうしようか、大倶利伽羅は気が付く方だから、そっと察してくれるだろうか。長義はぼんやりと考えた。
家まで何も話すことなくたどりついてしまった。 国広が家に入っていくのを見届け、自分も踵を返す。そういえば、ここで話をしたんだった、と帰り道、一人になって考えた。 国広は最後まで謝っていた。そこまで悪いことをしたわけでもないのに、国広はすぐにその言葉が出てくる。あるいは、自分が悪いとでも本気で思っているのかもしれない。それは長義にはあずかり知らぬ国広の内面的な部分だ。 長義は、国広のそういった性質が嫌いで、それでいて存外気に入っていた。 『俺が骨喰のこともたくさん気付いて、拡声器になればいいんです』 鯰尾の言葉だ。長義は、これを悪くないと感じていた。 国広がああいう性質なのは、もう仕方のないことだ。変わらず自分だけが覚えている幼少期から、今ほどではないにせよ、引っ込み思案なきらいはあった。同い年なのに、少しばかり誕生日の早い自分は、まるで弟が出来たような気分にもなっていた。当時は、だが。 今こそ抱いている感情に変かはあれど、根本的に変わらないところもあった。簡単に人は変われないし、国広がどうしてそういう性質になってしまったのかも、長義にはどうでもいい。ただ、ああやって自分を押し込めてしまう国広の代わりに、自分が国広のことに気付いてやれれば、と思っていた。 結果的には、国広を困らせていたようだし、とんだ独善だったようだが。 はあ、ともう一度ため息をつく。いつまでもぐるぐると平行線をたどるようなことを考え続けるなど、自分らしくもない。 「ああクソ、やめだやめ……」 誰に聞かれるでもない日が落ちた住宅街。気持ちを切り替えようと独り言を声にしてみた。思ったよりも声は大きく響いたような気がしてしまって、思わずあたりを確認してしまった。聞こえているなんてありえないが、少なくとも、国広には聞かれたくはない。 「……あれは」 その時だった。長義は目の前に見覚えのある姿を見つけた。 その人はきょろきょろとあたりを見回している様子で、近くの公園へと入っていく。 例の写真の女性だった。
***
「……探し物ですか?」 「えっあ、は……いぃっ?!」 思わず声をかけてしまった。 公園へと入っていったその人は、どう考えても遊びに来ている様子ではなかった。公園の隅の方、花壇の陰、あらゆる死角を服が汚れるだろうことも気にすることなく、ごそごそと探し始めた。公園には彼女と、それから長義しかいない。その人は、長義の様子に気付くこともない。よほど集中しているようだった。 長義が声をかけると、その人は振り返り、それから自分の行動をみられていたことに気付いたのか、驚いて素っ頓狂な声を上げる。 「だ、誰ですか見てましたか見てましたよね?!」 「……ええ、と、まあ」 「わわ、忘れてください!」 「ああー……そういうわけにも、いかないかな」 それから、妙なハイテンションで長義に向ってまくしたてた。普段どちらかといえば静かな連中の方が周りには多いためか、どうにもそのテンションについていけず、ひるんでしまう。 しかし、忘れるわけにはいかない、といった長義の言葉に、その人はスッと一瞬で表情を、仕草を凍らせた。知られるわけにはいかない何かがある、ということだ。長義はその瞬間を見逃さなかった。 「……保科、という人間を知ってますね」 「貴方……一体、」 鞄の中にいれたままになっていた写真のコピーを取り出し、女性に見せる。女性の表情はますますこわばっていく。黙り続けていると、ついには、恐怖からか、ぽろぽろと涙を流し始めた。理由はわからないが、泣かせるつもりもなかった長義はさすがに戸惑った。何か言わなければ。そう思った長義が声をかけるより前に、女性が口を開く。 「……天使との、取引なんです」 「天使……?」 はい、天使です。聞き返した言葉に、はっきりとそう返されて、長義はどこか気が遠くなるのを感じた。
翌日。 どうにも気まずい。自分で蒔いた種だというのは理解している。だからこそ、どうしようもなかった。 大倶利伽羅とはまだ会っていない。鯰尾とも。長義は同クラスなので顔を合わせているが、会話は交わしていない。思わず目を逸らされてしまった。無理もない、結果的には長義から受けた告白を断るようなことをしてしまったのだから。きっと彼は自分に対していい感情を持たないだろうし、ひょっとしたら怒ってるかもしれない。 そう思っていた矢先のことだった。 「……山姥切」 「えっと、うち二人いるんですけど、どっちですか?」 「ああそうだったな、山姥切国広、ちょっと」 二限と三限の間の時間だった。ガラリと教室の扉が開いたと思ったら、呼び出しだった。ドアの近くにいた生徒が対応し、「国広くん、呼ばれてるよ」と自分を呼ぶ。何かあっただろうか、何かしただろうか、なんとなく不安に思いながら、「はい」と返事をする。顔を上げて、思わず固まってしまった。目の前にいたのは、音楽教師の保科だった。
「山姥切のやつ、いくらなんでも遅いな」 もう三限のチャイムなってだいぶ経つのに。そう呟く近くの生徒の声で、長義はようやく国広がいないことに気が付いた。違う。正確には、誰かに呼ばれて教室を出ていったということを事実としては知っていた。ただ、なるべく意識の外に彼をおくようにしていたから、鈍くなっていたのだ。 「国広、どうかしたの?」 「お前気付いてなかったのかよ」 生徒の一人に話しかけると、彼の方は、むしろなぜお前が気付いていないのかとでも言いたげに答える。次の時間は選択科目で、三限と四限は自習だった。先生はたまに見回りにくるくらいで、教室は授業中の時間帯にも関わず比較的騒がしい。 「……色々あってね。それで、国広は?」 「先生に呼ばれた」 適当に誤魔化しつつ、続きを促し、返ってきた答えに嫌な予感がした。 「先生って誰」 「え、何でお前が必死になってるんだ……?」 「いいから!」 「保科先生だけど……って長義?!」 次の瞬間には、長義は教室を飛び出していた。向かうは音楽準備室だ。あそこは、今は一応封鎖扱いだから、きっと人が寄り付かない。かつ自分のテリトリーでもある。自分が保科ならそこを選ぶ。急がないと、と思いながらも隣のクラスを横目で見る。大倶利伽羅はいつもの席にはいなかった。メッセージを開き、『音楽準備室』とだけ書いて送って、ポケットにスマホをしまう。 どこで漏れた?長義は音楽準備室へと続く階段へと向かいながら頭を働かせた。きっと国広が、保科について嗅ぎまわっていると思われている。間違ってはいない。だが、そこに長義は含まれていない。だから、国広だけを呼び出したのだろう。 「……だから、俺は知らないと言ってます!」 「知らないはずがない!あいつは、天使の話をしたと言っていたんだ!お前に!」 「……っ、本当に、知らない、昨日は早く帰って、それからずっと家に……」 「あいつに指定した場所はお前の家の近くだった、その上、山姥切と名乗ったと言っていた、お前以外に誰がいるというんだ!」 階段を駆け上がった先、すぐによく知った声が聞こえた。 すぐあとに、何かがぶつかる鈍い音もした。 慌てて扉を開ける。 保科と、それから痛みで小さく呻きながら蹲り、それでも目の前の男を睨む国広がいた。
***
「それで、天使って……?」 「そう、ね……貴方は、オペラ座の怪人って知ってる?」 「……ガストン・ルルーの?」 「そう、それ」 さすがに秋とはいえ、夜になると少し肌寒い。近くにあった自販機で、適当に温かい飲み物を探す。結局ホットココアを二本買って、ひとつを女性に手渡した。それから、公園のベンチに座り、女性に話の続きを促す。すると、女性の口から出てきたのは、かの有名な小説だった。 「私ね、舞台女優をやってるの……まあ、あんな大舞台ではないけれど」 大舞台に立つのは夢ね、スポットライトを浴びて死にたいと思うもの。女性が続ける言葉に、へえ、と長義は相槌を打つ。言われてみれば、確かに結構顔立ちは整っているし、言動はともかくとして、話し方もはっきりとしていた。舞台に立てば、それなりにスポットライトが映えるだろう。天使だなんだと突然言い出すことへは、不信感がどうにもぬぐえないが。 「でも、私、いまいち伸び悩んでいて」 「それは……オペラ座の怪人というほどなら、歌?」 オペラ座の怪人は、クリスティーヌに歌を教える『天使の声』と、オペラ座��住まう怪人の謎を巡った物語だ。長義も以前、一度だけ、今はもういない父に、東京まで突然連れられて観劇したことがあった。今にして思えば、ああいった父の態度は、自分への贖罪だったのか、あるいは……。 「……話が早いのね。そう。私はね、ファントムに歌を教わっているの。その代わりに、私はファントムの言うとおりにする……そうすれば、私は舞台に立てる」 だから取引か、と長義はようやく最初の言葉を理解した。 しかし、話はあわせつつも、長義からしてみれば頭の痛い話だった。きっとファントムというのは保科のことだ。彼は音楽教師だから、指導も当然できることだろう。言うとおりにするというのが何を意味しているのかは、はっきりとしないが、こんな時間に公園で一人、探し物をさせるくらいだから、どうせろくなことではない。 彼はファントムなのだろうが、エリックではない。彼女を愛しているとか、そういったことではきっとない。彼女も、わかっていて騙されているのだろう。ひどく、歪んだ関係に思えた。 「……そう。でも、今日はもう帰った方がいい。ほら、夜に女性が一人で出歩くのは危ないだろうし」 「あら、貴方結構紳士ね……ええと、名前……」 「……山姥切、だけど」 「珍しい苗字ね。ありがとう、山姥切くん。でも、私は大丈夫だから」 そう言って微笑む女性は確かに綺麗で、舞台女優としての貫禄のようなものが見えた気がした。その勢いに押され、結局は長義は早川さんについてのことを聞きそびれたまま、女性を見送ってしまった。ホットココアはもう、とっくに冷めていた。
***
「光忠……急いだほうがよさそうだ」 「え、ああ、ごめんね伽羅ちゃん。僕のことはいいから先に……」 「……音楽準備室、とメッセージが来ている。長義からだ。恐らく、国広もいるんだろう、どちらかか、あるいはどちらもか、とにかく危ない」 「え、ええっ?!なんで?!」 「俺が知るか」
昨夜のこと。 早川の母親から長谷部へ、それから燭台切へと手渡された懐中時計は、最終的には大倶利伽羅のもとへとたどり着いていた。 早川さんのお母さんには会えなくて、結局その時計だけが手がかりで……と言いながら、燭台切は大倶利伽羅に懐中時計を見せた。懐中時計を見るなりに、面倒がやってきたとばかりに険しい顔をする大倶利伽羅をよそに、燭台切はといえば、どうすればいいと思う?などと聞いてくる。 「ばらせばいいんじゃないか」 「僕、機械には弱いんだよ……知ってるでしょ?」 「はあ……貸せ」 道具ならあるよ、と言いながら、ミニ工具セットを取り出してきた燭台切に、またため息をついた。仕方ない、と受け取った懐中時計を電気にかざしたり、くるくると回してみたりする。妙な音がした。 「……これ、時計を合わせれば開くタイプの絡繰りなんじゃないか」 「ああ、そういうやつか……」 何度か針を回すと、特定の位置でカチ、カチと音が鳴る。針は短針と長針で、違うところでなっているようだった。 「……探偵、金庫を開けるのと同じ要領でいけそうだが」 「う……探偵がピッキングとか鍵開けにたけてるって、漫画の世界の話だよ」 まあやるけど。そう言いながら、燭台切は耳に懐中時計を押し当てながら、少しずつ針を回していく。しばらく経つと、カチャリと別の音がして、支えを失ったパーツの一つが、何か中に入っていた軽いものとともに床へと転がり落ちた。 「……紙、だな」 「ねえ、これって……例の遺書……?」 そこに書かれていたのは、告白文だった。 確かに、早川という生徒が、ボヤ騒ぎを引き起こした。そのことが書かれていた。
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「骨喰、大丈夫?それとも結構きつい?」 「……『はい』か『いいえ』しか、言ってない気がする」 表情こそ大きく変わる様子はないものの、長年一緒に過ごしている鯰尾には、骨喰がひどく疲れていることくらいは、すぐに察しがついた。よほど疲れているのか、わかりやすい弱音も吐いていて、珍しいとか変わってやりたいとか、色々と感情がこみあげてくる。 「警察の人、なんか言ってたりした?」 「……思い当たることは、」 「だよねえ……」 骨喰は無関係だ。何を言われたところで、知りません、としか言えないし、何を聞いたところでわからない話だ。ひょっとしたら、色々と調べていた鯰尾の方が、事件について詳しいかもしれないくらいだった。 「……そうだ。早川、は」 「うん?」 「早川の遺言書は、切り取られたもの、らしい。残りは、見つかってないそうだ」 「うーん……どういうことだろう?」 「さあ……」 コンビニで買った肉まんを片手に、住宅街を歩く。ここは二人の通学路だった。自宅までほどなくしてたどり着く。 学校では散々だった。勿論、クラスの誰もが、いや、心の内では少しもということはないのかもしれないが、骨喰を疑ったり、骨喰に冷たく当たるようなことはしなかった。早川についても同じだ。死体蹴りをするのもどうかと思うし、何よりもつい数日前までは、みんなで文化祭の準備をしていたはずなのだ。手のひらを返すような態度をとる人がいないのは、当然と言えば当然なのかもしれない。 でも、警察で重要参考人として聴取を受け続けていた骨喰は、好奇の対象だった。つまり、質問責めに遭った。 「……山崎、香取、堀川、高橋、と」 早川の遺書について、少し考えてみた。しかし、考えてみても何も思い浮かばない。気晴らし程度に、公園沿いにある表札をなんとなく確認しながら歩く。とはいっても、特に変わり映えはしないのだが。鯰尾にとっては、ご近所さん、といえども、全く交流があるわけではない。小学校が同じ、とかそのくらい近しい関係の奴の家ならば、ある程度わかるが、その程度だった。 「……鯰尾」 「ん?どうしたの?」 「隠れる」 「えっ?!」 突然名前を呼ばれたと思ったら、腕をひかれ、二人で転がり込むように公園入口横の木々の間に潜る。骨喰の頭についた葉を落としながら、鯰尾がいきなりどうしたのかと訊ねると、骨喰は真っすぐ公園の奥、ベンチの陰辺りを指さした。 「保科だ」 「……本当だ、こんなところになんの用だろう」 そこにいたのは保科だった。小声で会話を交わす。といっても、さっきの音もだいぶ大きかったし、気付くならあの時点で気付いていそうだが。保科は、二人に気付くことなく、あたりを挙動不審気味にきょろきょろ見回しながら、木陰に何かを置いて、土を軽く被せた。 集中しているのか、逆にまったく集中できていないからか、相も変わらず誰かの気配などには気付くことなく、保科は公園をそそくさと離れていった。 「行ったみたいだ、行こう」 「ちょっと、骨喰!」 保科が公園から離れていくのを確認した途端、骨喰は立ち上がり、迷わずベンチの方向へと向かっていく。少し遅れて、鯰尾がそれを追いかけた。 少し土を掘り返すだけで、すぐにそれは現れた。なかなか体格のいい保科には、少し不似合いにも思える小さく可愛らしい小瓶だった。 「……これって、土に埋めるもの?」 「どちらかといえば、海だな」 「あ、中に紙が入ってる」 ますます海の方がいいんじゃないか、と言い合いながら、何度か小瓶を逆さにして振ると、あっさりと中のものは出てきた。小さく折りたたまれたメモ用紙だ。 「……これ、は」 「黒……」 「……だね」 互いに顔を見合わせる。それから、こくりと確かめるようにうなずき合った。
『明後日いつもの駅前ホテル八〇四号室』
中身は、誰かへの指示だった。 しかも、駅前のホテルについて、手元ですぐに調べたところ、明らかに高校生には不釣り合いで、不適切な場所だ。そんなところへ、誰かを行かせようという指示。 露骨なまでに黒だった。 さっと血の気が引くのを感じる。何か、大変な情報を手にしてしまったかのような。鯰尾は手早く小瓶をポケットにしまい込み、「行こう」ともう一度頷きあい、そのまま二人は急ぎ足で公園を後にした。
***
翌日。 鯰尾が三限の終わりにスマホを確認するとメッセージが入っていた。色々とあって、手を借りている先輩たちのグループだった。ちょうどよかった、お昼に小瓶を渡したい、そんな思いでメッセージを開く。すると、そこにあった文字は『音楽準備室』という長義からのメッセージ、それから、大倶利伽羅からの『お前たちは来るな』というメッセージだった。 「……え、音楽準備室……これって、やばいことになってるってことじゃ……」 言った方が絶対にいいはず。そう思い鯰尾は教室を出ようとする。しかし、それを止めたのは骨喰だった。 「……四限、はじまる」 「そう、だけど……ごめん!俺行かないと!」 鯰尾は骨喰の制止を振り切って教室を飛び出す。音楽準備室までは遠い。廊下は走るなよ、という教師の言葉も無視して、音楽準備室まで鯰尾は急いだ。 ピコン、と音がなる。 走りながら一応確認すると、再び大倶利伽羅からのものだった。中身はみずにポケットにしまい込む。あの人たちは、保科が公園で埋めたメモを知らない。 もしかしたら、彼らも危険かもしれない。 巻き込んだのは自分だ、自分だけが蚊帳の外にはなりたくなかった。
「先輩っ!無事です……か……?」 音楽準備室に飛び込むと、今にも暴れ出しそうな保科を取り押さえている燭台切と、近くのガムテープを長くとって切る大倶利伽羅と、頭を押さえている国広と、それからそんな国広に話しかけている長義の姿があった。 「……緊急事態、だったんだ。それは一応、解決したよ」 茫然とする鯰尾を見るなり、そういいながら、ははは、と力なく笑う燭台切は、すぐにまた保科を抑えるために力を込めなおした。大倶利伽羅は容赦なく抑えた腕から長く切ったガムテープを無言でぐるぐると巻いていく。 「頭、打ってただろう。いいから見せろ」 「長義は大袈裟なんだ、これくらい、何ともない」 「何ともなくはないんだよ、脳震盪を起こしているかもしれないし」 その横で何か言い争っている様子の長義と国広を見る。国広の方が先に鯰尾に気付いき、何か言おうと口を開いたと思ったら。すぐに閉じて視線を逸らした。 「じゃあ、皆さん無事なんですね」 「……ああ、まあ」 「それならよかったあ……ほっとしたら、力抜けちゃいました」 鯰尾がドアの前で座り込む。ちょうど、大倶利伽羅は保科の手足��ガムテープを巻き付け終わったようだった。まだ何か喚いている様子の保科に、今度も容赦なくガムテープで口をふさぐ。ああ見えて、怒っているのかもしれない、鯰尾は安堵した思考でぼんやりと考えた。 燭台切が、場を切り替える様に、パンパン、と二度手を打つ。 「それじゃあ、真相解明といこうか」 その言葉で、全員の視線が燭台切に向いた。
***
「まずは、結論から言おう。先日、この教室に火をつけた人物。それは早川さんのお母さんだった。……トリックも何もないね、あの日は文化祭で、保護者の人も当然学校に来ている。いつもよりも人の出入りが多く、誰がどこにいるのかの把握が難しい。つまり、誰でも火をつけることは可能だった。でも、彼女はこの学校を燃やしたかったわけじゃない、燃やしたかったのは、写真だった」 「……写真?あ、もしかしてこの……」 「……残念だけど、そっちじゃない」 鯰尾がスマホに撮っておいた写真を見せようとする。燭台切はそれを静かに止めて、それから保科へと向き直り、話を続けた。 「保科さん、長谷部という人を知ってますか?」 大倶利伽羅がピクリと眉を動かす。どうして長谷部の名が出てくるのかとでも言いたげだ。しかし、反応を示したのは大倶利伽羅だけではなかった。保科も、目を見開いた。なぜその名前が出てくるのかと言わんばかりに。 「いえ、今は喋れませんよね。……ですが、今の反応は肯定と受け取ります。僕は長谷部くんの友人……っていったら怒るかな、まあ知人なんですよ。あなたが高校生の頃にやっていたことも、聞きました。早川さんのお母さんは、あなたと同級生。……貴方のやった売買の、被害者だった」 燭台切は、ほんの少し暈した物言いをした。周りにいるのはほとんどが未成年の高校生だったから、直接的な言葉を避けたかったのだろう。しかし、その場にいる全員が、保科の行動を理解していた。「最低だな」と侮蔑する声が国広のすぐそばから聞こえる。国広も、目線だけその声の主、長義の方へと向け、すぐに保科を睨んだ。似たような感情だった。 「保科さんは、売買の記録を丁寧に写真付きで残していましたね。……写真、残ってましたよ」 「今度こそ、この写真……?」 鯰尾は、早川の友人が写る写真を再び見た。独り言のつもりが、燭台切に拾われる。 「そう、その写真だ。あなたは今でもその売買を行っていた。長谷部くんがい言うには、結構曖昧に、当時は解決という形をとったらしいからね。貴方に何もお咎めなしだったことは十分に考えられる。そして、それからもこの学校を拠点に、活動を続けていた。……そんな折に、早川さんの友人に偶然��を出したことを、早川さんに知られてしまった」 「……早川への当たりは強かったと聞く。それが理由だな」 燭台切の流れるような話ぶりに、大倶利伽羅が補足を入れてくる。鯰尾は、ああ、と納得したように声を上げた。 「早川さんは、ことの大きさ故に、母親に相談したんだ。母親は、被害者だったから、その時のことには誰よりも詳しかったのかもしれない。最初は、あの先生には関わらない方がいいとでも言ったのだろうね。そうしたら、今度は、早川さんが独自で調査を始めてしまった。母親は、写真が残っていることを恐れたんだ。もう、一五年以上前になる、その写真があるかもしれないことを」 「……それで、火を?でも、それならおかしいだろう。写真さえ燃えればいい、そのような事情なら大事にもしたくはないはずだし、火事が起きるような事態にはならないんじゃないかな」 「そうだね。ここからが、運の悪いことだった。この教室にはね、早川さんが前日に細工をして帰ったんだよ。保科さんは、喫煙者だから、たとえば、煙草の火が着火の合図になるように、仕掛けることができるよね」 長義の疑問に、燭台切が答える。それに対して、返したのは国広の方だった。 「……そうか、油。隣は美術準備室で、ここは普段、結構臭いがきついから、多少のものなら気が付きにくい。煙草でも着火の危険があるほど撒いたのならば、当然、写真を燃やしていたら、火が移るようになる……」 「そう。意図せぬ大事故だった。そして、早川さんは、音楽準備室のある階段から降りてくる、母親の姿を見てしまったんだ。僕は早川さんじゃないから、全部の気持ちはわからないけど、きっと罪悪感とか、色々なものが押し寄せてきたのかもしれないね。自分が犯人だという遺言を残して、自殺した。これが、大まかな真相だよ……そして、ここからが保科さん、あなたの話だ。僕は、貴方に自首を勧めたい」
そういって、燭台切が保科の目の前に差し出したのは、一枚の紙だった。よく見えるわけではないが、国広にも、そして長義にも、鯰尾にも見覚えのないもの。大倶利伽羅は燭台切の話そうとしている内容まで把握しているのか、特に注視する様子はなかった。 「最初、僕は早川さんの自殺の話を聞いて、亡くなった場所は自宅の、もっと言えば自室辺りを想定していたんです。ですが、そうではなかった。亡くなった場所は、この学校ですね。普通、火災の騒動があって、犯行を自供した生徒が自殺とくれば、それなりにマスコミが取り上げます。ですが、彼らの話を聞いていてもそのことがひとつも出てこない……誰かが、圧力をかけているということになります。もちろん、学校の評判が落ちるので、教師とをしては避けたいところでしょう、でももっと避けたいことが、これがどこかから流出することだった」 それが、これです。そう言いながら、保科に見せつける様に燭台切は途中で破られた紙をその場にいる全員に見せる。確かに、そこには細かな字で、ことのあらましがすべて書かれているように見えた。 私が、音楽準備室ごと友人を騙すあの怪物を殺してしまおうと考えた。そうでないと、騙されやすい彼女は、ずっと騙される。彼女はアレをファントムだと信じている。けれど、彼はエリックなんかじゃないし、彼女もクリスティーヌではない。あいつはただの化物だ。彼女を愛してなんかいない、彼女の目を覚まさせるには、もうあの怪物をなんとか彼女の目の前から消してしまわないといけない。そう思って、あの音楽準備室細工をした。相談していた、お母さんも、あいつの被害者だとか、私がお母さんを追い詰めてしまっていたとか、そんなこと、かけらも思いつかなかった。 そこから先は、遺書の『ごめんなさい』に続くのだろう。 切羽詰まったような殴り書きが細かくされているそれは、確かに公になれば、すぐに保科の行動に疑いの目が向けられるようなものだった。 「調べてみれば、早川さんはこの近くには住んでいなかった。ですが、この学校の近くに住んでいる長谷部くんは、早川さんの母親に会っています。なんでもない平日に。母親が自殺した娘に関して学校に用があったことはわかりやすい。そして、その時に破られた遺書の残りを見つけた。……長谷部くんは学生時代に保科さんについて独自に調べていたそうですから、彼に希望を託したのでしょう。この残りの遺書が、懐中時計に入って、僕に渡されたんです。貴方の悪質な行為は一〇余年に及ぶ。……僕は、これを警察に届けます。ですが、出来ることなら自首してほしいんです」 燭台切が言い終えると、途端に教室内は静かになった。保科も、もう暴れる気力もないらしく、大人しくなっていた。燭台切が大倶利伽羅を呼ぶ。大倶利伽羅も、わかっているというように、口元のガムテープだけを剥がした。自由になった口で、保科は呻るような声で答える。 「……しょせんは想像、なんだろう?」 「……貴様、いい加減に」 その声に真っ先に反応を示したのは長義だった。先ほどまで話を聞きながら、話が進むたびにどんどん冷めた表情になっていったのを、誰より近くにいた国広は見ていた。今も、凍るような声色で言うものだから、国広の方が驚いてしまった。今まで見たことのないような怒り方をしていることが、それだけでもわかる。 「おい、長義……」 「あの、証拠ならありますよ」 長義が切れる前に止めなければ、と声をかけようとした矢先、出入り口に一番近いところにいた鯰尾が声を上げた。それから、二歩ほど前に歩いて、小瓶を床に置く。その横に、畳まれていたのであろう、折り目が多くついた紙を丁寧に広げて置いた。 「……昨日、帰るときに保科先生をみたんです。骨喰も一緒でした。保科先生は気付いてなかったみたいですけどね。それで、その時にこっそり写真をとって、それからこれを掘り起こしたんです。鯨のオブジェがある第一公園ってところなんですけど、知ってますよね」 「……うちの、近くだ」 「え、そうだったんですか?国広先輩ご近所さんだったんですね!……でも、山姥切なんてあの辺にあったかなあ……」 ぽつりと独り言のように呟いた国広の言葉に、鯰尾がいつもの軽い調子で返してしまう。 「鯰尾」 逸れかかった話題を戻したのは大倶利伽羅だった。無言で鯰尾を見ながら続きを促す。 「……んん、そ、それでですね、このホテル、調べたんですけど、その、そういうホテルみたいじゃないですか。……誰に、これは渡す予定だったんですか?」 保科は答えなかった。その様子を見ていた長義が、これ見よがしに納得したというような態度をとる。 「……ああ、なるほど。その渡す予定だった相手とは、俺がその日の夕方過ぎに会ってるよ。確かに、彼女はクリスティーヌだったかな」 舞台の道を志しているそうでね、と長義は続ける。あの女性は、何かを探していた。偶然、その日鯰尾たちが回収してしまったから、その情報伝達はうまくいかなかったということだ。そして、その女性から保科へも、情報伝達がうまくいかなかったのだろう、と長義は考えた。 「早川の友人か……昨日といえば、お前らが一緒に帰っていったな」 「……つまり、俺の家の近くで『山姥切』という生徒を見かけた、と言われたから、あんたは俺のことだと思った、ということか」 「まあ、居住している場所も、教師ならすぐにわかるだろうね。国広は、山姥切って表札の家には住んでないから、あの女性ではきっとわからないだろうし」 大倶利伽羅の言葉に、補足するように国広が続ける。さらに、長義が追い打ちをかけた。その言葉を聞き終えると、鯰尾が保科をじっと見つめる。それから、もう一度、ずいと小瓶と紙を動けない保科の前に差し出した。 「……と、いうことです。それで、誰に、この指令を渡すつもりだったのか、答えてくれませんか」
***
思ったよりも早く自白した。燭台切は自首を頼んでおきながら、実際のところは学校で手続きをしている間に警察を呼ぶように頼んでいたようで、警察はすぐにかけつけた。 証拠品をすべて警察の方に手渡すと、「こういうのは、すぐに警察に渡しなさい」と少しだけ注意を受け、その日はそのまま解放と相成った。 「……国広、やっぱり一度検査くらい」 「だから、頭を打つ���とくらい誰だってあるだろう……」 音楽準備室に入った長義は迷わず国広の前に出た。何か勘違いをしているらしい保科が、国広の何かを疑っていることは明らかだった。恐らく、本当の目的は自分の方であることも、何となくわかってしまった。もっと言えば、自分が急に前に出てくることで、隙ができると思ったのもあった。 実際、動きは止まった。その隙をついて、「逃げるぞ」というや否や、国広の手を引き教室の外へと走りだそうとした。頭を強かに打っているからか、昨日熱があったし、本調子ではないのか、国広の身体は少しだけ普段よりも重たく感じられた。「……長義」と力なく呼ぶ声に振り返ってしまう。それがせっかくのチャンスをふいにしてしまった。……かと思えば、ドアのすぐそこにいたのが燭台切と大倶利伽羅だった。燭台切は迷いのない動きであっという間に保科の動きを封じ、大倶利伽羅も一切の躊躇いなどなく、ガムテープを手にした。そこへ鯰尾も現れたのだった。
全員と別れ、再び二人の帰り道になっていた。鯰尾と国広は家が近いことがわかったというのに、鯰尾は長義と国広の間に何度か視線を動かすと、「今日は用事があったので」と言って走っていなくなってしまったのだ。気を遣われてしまった、と国広は少しだけ落ち込んだ。 「第一、何で呼び出されたときに俺も呼ばなかったんだよ」 「……気まずい、だろう。俺は、あんなこと言ってしまった翌日だったし……」 あんなこと、という国広の言葉で、長義もつい昨日の出来事を思い出してしまう。 「……今なら、熱に浮かされていたことにするけど」 我ながら未練がましいような言い方をしてしまった。長義は自分のあまりの言い草に情けなくなってしまい口を噤む。どうしようもない沈黙がふたりを包んだ。ついさっきまでは、少々緊急事態だったということもあり、昨日のことなどなかったかのように接することが出来ていたというのに、いつの間にかまた、どう振る舞えばいいのかわからなくなってくる。 内心でクソ、と悪態をつく長義に対して、国広がぽつぽつと言葉を置くように話しだした。 「……違う、んだ。その、告白、されたことは嬉しかった」 「……え?」 「でも、どうして俺なんか、って思ったし、すごく、俺も戸惑っていて……それで、すまない、うまく言えない……」 予想外すぎる発言に、ぽかんと開いた口が塞がらない長義をよそに、首をゆるゆると静かに横に振って、国広はそう続けた。 隣には渦中になってしまった公園がある。昨日は全く意識していなかったが、たしかに目立つ鯨のオブジェがあった。存外可愛らしい造形をしているが、塗装はだいぶ剥げていて、それなりの年月を感じるものだ。 まだ言葉の出ない長義に対して、国広は変わらず独り言でも言うかのような声音で話を続ける。 「昨日の夜、ずっと考えてた。うまく言えないままでお前に応えるのは、すごく不誠実でよくないように思った……でも、今朝のお前を見て、ひどく傷つけてしまったんだろうなって思ったんだ……なあ、俺はどうしたらいい」 真っすぐに国広は長義を見つめた。家はすぐそこだというのに、まるで迷子のような瞳だった。 「……馬鹿じゃないのか」 「っ俺は真剣に!」 「……ふ、はは……馬鹿は俺も同じか」 「は……?」 その瞳に見つめられて、思わず笑いがこみあげてくる。可笑しい。馬鹿馬鹿しいったらない。態度の変化に、国広は怪訝な表情を隠せない。それでもなお、長義は面白おかしいとでも言うように、声を上げて笑い出した。 「……本当に、なんなんだよ、お前は」 「それはこっちのセリフなんだが……」 自惚れだと笑うなら笑えばいい。だが、今度こそ勝利を確信していた。長義は出来るだけ逃げ道をふさぐような物言いを、ぱっと二‐三考える。そのうち、一番国広の退路を塞げそうなものを選んで口にした。 「好きあうという意味でも、お前の気持ちが言葉になるまでという意味でも、俺はお前と付き合いたいと思ってる……それなら、お前も答えられる?」 「……だが、」 「迷うということは、その気があるということだと受け取るけど」 「……っ!……わ、わかった、こたえる、こたえるから!」 長義の有無を言わせない言い方に、国広は押し負けた。勢いでそのまま返答をしてしまう。それから、「うう……」と羞恥からか、勢いで答えてしまった罪悪感からか、俯いたまま長義よりも一歩斜め後ろを何も言わずに歩いて、家の前で止まった。 「じゃあ、また明日」 「……ああ、また明日」 いつも通りに言い合って、長義は国広が家の中に入るのを見届けてから、来た道を戻りだした。 正式なお付き合い、というのとはまた少し違ってしまっているけれど、これはこれで自分たちらしい関係かもしれない。そう思うと、悪くないようにも思える。あの様子では、恋人らしいことも当分は先の話だろうな、とも考えた。別に、そういう目的でもないから構わないのだけれど。 「……そっか、俺達、付き合うのか」 ぽつりと零してみて、改めて実感する。ただただ、単純に嬉しい。 くるりと振り返り、国広の家を見た。今頃国広は何を考えているだろうか。
クリスマスまで、あと一か月と少し。
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hananien · 5 years ago
Text
【S/D】アナ雪パロまとめ
アナ雪2の制作ドキュメンタリー面白かった。みんなで一つのものを作るって素敵だなって素直に感動しちゃった。一人でコツコツ作り上げるのも素敵だけどさ、それとはまた違うよね。
アナ雪は大好き。2でアナが超進化を遂げたのでもっと好きになった。また兄弟パロ書きたいな。
3話あるけど全部で12000字くらいなのでまとめました。
<エルサのサプライズパロ>
 弟の誕生日を祝うため、城や城下にまで大がかりなサプライズを仕込んだディーンは、過労で熱を出してしまった。キャスたちの協力もあって無事にサプライズは成功したものの、そのあとで何十年ぶりくらいに寝込むことになってしまった。  (これくらいで熱を出すなんて、おれも年をとったもんだな。そりゃ、ここのとこ狩りもあって、ろくに寝てなかったけど……。昔はそんなこと、ざらだったのに。こんなていたらくじゃ、草葉の陰から親父が泣くな)  「ディーン」 スープ皿を銀の盆に乗せて、弟のサムが寝室にやってきた。「寝てた? ちょっとでも食べれそう?」  「食べるよ。腹ぺこだ」  まだ熱のせいで頭はもうろうとしていて、空腹を感じるところまで回復してないことは自覚していたが、弟が持ってきた食料を拒否するなんて選択肢は、ディーンの中にないのだ。  サムは盆をおいて、ディーンが体を起こ��のを手伝ってやった。額に乗せていた手ぬぐいを水盆に戻し、飾り枕を背中に当ててやって、自分の上着を脱いで兄の肩にかけてやる。  兄がスープをすするのを数分見つめてから、サムは切り出した。  「ディーン、今日はありがとう」  「うん」  「兄貴に祝ってもらう最初の誕生日に、こうやって世話が出来て、本当にうれしいよ(※何かあって兄弟は引き離されて大人になり、愛の力で再びくっつきました)」  「おまえそれ、いやみかよ。悪かったな面倒かけて」  「ちがうよ」 サムは少しびっくりしたように目を広げて、それから優しく微笑んだ。「本当にうれしいんだ。まあ、サプライズのほうは、あんたの頭を疑ったけど。ワーウルフ狩りで討伐隊の指揮もしてたってのに、よくあんなことやる時間あったな? 馬鹿だよ、ほんと。ルーガルーに噛まれたって、雪山で遭難したときだって、けろっとしてるあんたが、熱を出すなんて……」  「うーん」 ディーンは唸った。弟の誕生日を完璧に祝ってやりたかったのに、自分の体調のせいでぐだぐだになったあげく、こうやって真っ向から当の弟に苦言をされると堪えるのである。  「でも、そのおかげかな。こうやって二人きりでいられる」  「看病なんてお前がしなくていいんだぞ」  気難し気に眉を寄せてそっぽを向きたがるディーンの肩に手をおき、ずれてしまった上着をかけ直してやって、サムはまた優しく微笑んだ。「ずっと昔、僕らがまだ一緒にいたとき、あんたは熱を出した僕に一晩中つきそって、手を握って励ましてくれた」  そんなことを言いながらサムが手を握ってきたので、しかもディーンの利き手を両手で握ってきたので、ディーンは急に落ち着かなくなったが、すぐにその思い出の中に入り込んだ。「ああ……おまえはよく熱を出す子だった。おかげで冬は湯たんぽいらずだったな」  「一緒に眠ると怒られた。兄貴に病気をうつしてもいいのかって、親父に叱られたよ」  「おれは一度もおまえから病気をもらったことなんて」  「ああ、あんた病気知らずだった。王太子の鏡だよな、その点は」  「その点はって」  「僕はその点、邪悪な弟王子だったんだ。あんたに熱がうつればいいって思ってた。そうしたら、明日になっても、一緒のベッドに入っていられる。今度は僕があんたの手を握ってやって、大丈夫だよ、ディーン、明日になれば、外で遊べるようになるさって、励ましてやるんだって思ってたんだ」  「……そりゃ――健気だ」  「本当?」  「うん……」  「こうしてまた一緒にいられて、すごく幸せなんだ」  「サミー」  (キスしていい?) サムは兄の唇を見つめながら、心のうちで問いかけた。息を押し殺しながら近づいて、上気した頬に自分の唇の端をくっつける。まだふたりが幼いころ、親愛を込めてよくそうしていたように。  ディーンはくすぐったそうに笑って顔をそむけた。「なんだよ、ほんとにうつるぞ。おまえまで熱出されたらキャスが倒れる」  「もう僕は子供じゃない」 サムは握った手の平を親指で撫でながら言った。「だからそう簡単に病気はうつらないよ。そもそも兄貴の熱は病気じゃなくて過労と不摂生が原因だからね」  「悪かったな」  「僕のために無理してくれたんだろ。いいんだ、これからは僕がそばで見張ってるから」  「おー」  目を閉じたディーンの顔をサムは見つめ続ける。  やっと手に入った幸福だ、ぜったいに誰にも壊させない。兄が眠りについたのを確認すると、握った指先にそっとキスを落とす。彼がこの国に身を捧げるなら、自分はその彼こそに忠誠と愛を捧げよう。死がふたりを分かつまで。
<パイとエールと>
 公明正大な王と名高いサミュエル・ウィンチェスターが理不尽なことで家臣を叱りつけている。  若い王の右腕と名高いボビー・シンガー将軍は、習慣であり唯一の楽しみである愛馬との和やかな朝駆けのさなか、追いかけてきた部下たちにそう泣きつかれ、白い息で口ひげを凍らせながら城に戻るはめになった。  王は謁見の控えの間をうろうろと歩き回りながら、臣下たちの心身を凍り付かせていた。  「出来ないってのはどういうことだ!」 堂々たる長身から雷のような叱責が落ちる。八角形の間には二人の近衛兵と四人の上級家臣がおり、みんなひとまとまりになって青ざめた顔で下を向いている。  「これだけの者がいて、私の期待通りの働きをするものが一人もいない! なぜだ! 誰か答えろ!」  「おい……どうした」 ボビーは自分の馬にするように、両腕を垂らして相手を警戒させないよう王に近づいた。「陛下、何をイラついてる。今日は兄上の誕生日だろ」  サムは切れ長の目をまんまるに見開いて、「そうだよ!」と叫んだ。「今日はディーンの誕生日だ! ディーンが天界に行っちゃってから初めての誕生日で、初めて王国に戻る日だっていうのに、こいつらは僕の言ったことを何一つやってない!」  手に持っていた分厚い書冊を机に叩きつけた。ぱらぱらと何枚かの羊皮紙が床に落ちて、その何枚かに女性の肖像が描かれているのをボビーは見た。頬の中で舌打ちして、ボビーは、今朝、この不機嫌な王に見合い話を持ち掛けた無能者を罵った。  まだ手に持っていた冊束を乱暴に床に放り投げて、すでに凍り付いた家臣たちをさらに怯えさせ、サムは天井まである細い窓の前に立った。  ひし形の桟にオレンジ色のガラスが組み込まれている。曇りの日でも太陽のぬくもりを感じられる造りだ。サムがそこに立つ前には、兄のディーンが同じように窓の前に立った。金髪に黄金の冠をかぶったディーン・ウィンチェスターがオレンジの光を浴びて立つさまは、彼を幼少期から知る……つまり彼が見た目や地位ほどに華美な気性ではないと知るボビーにとっても神々しく見えたものだった。  ディーンがその右腕と名高かったカスティエルと共に天界に上がってしまってからというもの、思い出の中の彼の姿はますます神々しくイメージされていく。おそらくはこの控えの間にいる連中すべてがそうだろう。  「兄が戻ってくるのに、城にパイ焼き職人が二人しかいない」  「ですが、それで町のパン焼き職人を転職させて城に召し上げるというのは無理です……」 家政長が勇気を振り絞った。しかしその勇気も、サムのきつい眼差し一つで消えた。  「全ての近衛兵の制服を黒に染めろといったのになぜやらない!」  二人の近衛兵は顔を見合わせたが、すぐに踵をそろえて姿勢を正した。何も言わないのは賢いといえなくもない。  「何で黒にする必要がある?」  ボビーの問いにサムは食い気味に答えた。「ディーンが好きだからだよ! ディーンは黒が好きだ、よく似合ってる」  「ディーンはベージュだって好きだろ。ブラウンもブルーも、赤も黄色も好きだ。やつは色になんて興味ない」  「それに注文したはずのエール! 夏には醸造所に話を通していたはずなのになぜ届いていない!」  項垂れる家政長の代わりに、隣に立つ財務長が答えた。「あー、陛下。あの銘柄は虫害にやられて今年の出荷は無理ということで、代わりの銘柄を仕入れてありますが……」  「その話は聞いた! 私はこう言ったはずだ、ディーンは代わりの銘柄は好きじゃない。今年出荷分がないなら去年、一昨年、一昨々年に出したのをかき集めて城の酒蔵を一杯にしろと!」  「そんな、あれは人気の銘柄で国中を探してもそれほどの数はありません……」  「探したのか?」 サムは、背は自分の胸ほどもない、老年の財務長の前に覆いかぶさるように立ち、彼の額に指を突き付けた。「国中を、探したのか?」  財務長の勇気もこれで消えたに違いなかった。  ボビーは息を吐いた。  「みんな出て行ってくれ。申し訳ない。陛下にお話しがある。二人だけで。そう。謁見の儀の時間には間に合わせる。ありがとう。さっさと行って。ありがとう」 促されるや、そそくさと逃げるように控えの間から去っていった六人を丁寧に見送り、ボビーは後ろ手に扉の錠を下ろした。  「どうなってる」 ボビーの怖い声にもサムはたじろがなかった。気ぜわしそうに執務机の周りを歩き回る足を止めない。  「最悪だ。完璧にしたかったのに!」 床に落ちた肖像画をぐちゃぐちゃにしながら気性の荒い狼みたいな眼つきをしている。「ディーンの誕生日を完璧に祝ってやりたかったんだ! 四年前、僕らがまた家族になれたあとに、ディーンが僕にしてくれたみたいに!」  「四年前? ああ、城じゅうに糸を張り巡らせて兵士の仕事の邪魔をしまくってくれたあれか……」 ボビーは口ひげを撫でて懐かしい過去を思い返した。「しかしあの時はディーンが熱を出して……結局は数日寝込むことになっただろう」  「完璧な誕生日だった。僕のために体調を崩してまで計画してくれたこと、その後の、一緒にいられた数日間も」  「あのな……」  「いろいろあって、あの後にゆっくりと記念日を祝えたことはなかった。ようやく国が落ち着いたと思ったら、ディーンは天界に行っちゃった。いいんだ、それは、ディーンが決めたことだし、僕と兄貴で世界の均衡が保てるなら僕だって喜んで地上の王様をやるさ。滅多に会えなくなっても仕方ない。天界の傲慢な天使どもが寛大にも一年に一日だけならディーンが地上に降りるのを許してくれた。それが今日だ! 今日が終われば次は一年後。その次はまた一年後だ!」  「わかっていたことだぞ」 ボビーはいった��「べったり双子みたいだったお前たちが、それでも考えた���に決めたことだ。ディーンが天界にいなければ、天使たちは恩寵を失い、天使が恩寵を失えば、人は死後の行き場を失う」  「これほど辛いとは思わなかった」  サムは椅子に座って長い足を投げ出し、希望を失ったかのように俯いた。  「なあ、サム。今日は貴重な一日だよな。どうするつもりだった。一年ぶりに再会して、近衛兵の制服を一新した報告をしたり、一晩じゃ食べきれないほどのパイの試食をさせたり、飲みきれない酒を詰め込んだ蔵を見せて自慢する気だったのか?」  「いや、それだけじゃない。ワーウルフ狩りの出征がなかったら、城前広場を修繕して僕とディーンの銅像を建てさせるつもりだった」  「わかった。そこまで馬鹿だとは思わなかった」 俯いたサムの肩に手をあて、ボビーはいった。「本当に馬鹿だな。サム、本当にディーンがそんなもの、望んでると思うのか?」  「ディーンには欲しいものなんてないんだ」 サムは不貞腐れたように視線を外したままいった。「だからディーンはディーンなんだ。天界に行っちゃうほどにね。それだから僕は、僕が考えられる限り全てのことをしてディーンを喜ばせてあげなきゃならない。ディーンが自分でも知らない喜びを見つけてあげたいんだよ」  「ディーンは自分の喜びを知ってる。サム、お前といることだ。ただそれだけだ」  サムの迷子のような目がボビーを見上げた。王になって一年、立派に執務をこなしている姿からは、誰もこの男の甘えたな部分を想像できないだろう。  もっとも、王がそんな一面を見せるのは兄と、育ての親ともいえるボビーにだけだ。  「……それと、エール」  「ああ、焼き立てのパイもな」 ボビーは笑う。「職人が二人もいればじゅうぶんだ」  サムはスンと鼻をすすって、ボビーの腕をタップして立ち上がる。  「舞踏会の用意は?」  「すんでるよ。ああ……サム、中止にするわけにはいかないぞ。もう客も揃ってるし、天界のほうにもやると伝えてある」  「わかってる。頼みがあるんだ……」
 ディーンがどうやって地上に戻ってくるか、サムは一年間毎日想像していた。空から天使のはしごがかかって、白い長衣をかぶったディーンがおつきの者たちを従えてしずしずと降りてくるとか。水平線の向こうからペガサスに乗って現れるとか。サムを驚かせるために、謁見の儀で拝謁する客に紛れ込んでくるかもしれない。  そのどれもがあまりに陳腐な空想だったと、サムは反省した。  謁見の儀を終えると、ディーンは何の変哲もない、中級貴族みたいな恰好で、控えの間に立っていた。  ひし形に桟が組まれた、長い半円の窓の前で。  「ディーン」  サムの声に振り向くと、ディーンは照れ臭そうな顔をして笑った。「サム」  二人で磁石みたいに駆け寄って、抱き合った。
 ディーンの誕生日を祝う舞踏会は大盛況した。近隣諸国の王侯貴族までが出席して、人と人ならざる者の世の均衡を保つ兄弟を称え、その犠牲に敬意を表した。ディーンと彼に随行したカスティエルは、誘いのあった女性全員とダンスを踊った。そしてディーンは、しかるべき時間みんなの祝福にこたえたあと、こっそりとボビーに渡された原稿を読み上げ――それはとても礼儀ただしく気持ちの良い短いスピーチだった――大広間を辞した。  「どこに行くんだ?」 一緒に舞踏会から抜け出したサムに手を引かれて、ディーンは地下に向かっていた。「なあ、王様がいなくていいのかよ。まだ舞踏会は続いてるんだぜ」  「僕がいなくてもみんな楽しんでる。今夜は一晩中、ディーンの誕生日を祝っててもらおう」  「本人がいない場所でか?」  「ああ。本人はここ」  サムは酒蔵の扉を開いてディーンを招いた。「ディーン、来てくれ」  いくつかある酒蔵のうち、一番小さな蔵だった。天井は低く、扉も小さい。サムの脇をくぐるように中に入ると、まるで秘密の洞窟に迷い込んだように感じた。  「ここ、こんなだったっけか」 踏み慣らされた土床の上に、毛皮のラグが敷かれている。大広間のシャンデリアを切り取ってきたみたいに重々しい、燭台に灯されたろうそくの明かり。壁づたいに整列された熟成樽の上には、瓶に詰められたエール、エール、エール。  「パイもある」 どこに隠してあったのか、扉を閉めたサムが両手に大きなレモンパイを持ってディーンを見つめている。  ちょっと決まり悪そうな、それでも自分のやったことを認めて、褒めてくれるのを期待しているような、誇らしげな瞳で。  「誕生日おめでとう、ディーン」  二人きりで過ごしたかったんだ。そういわれて、ディーンは弟の手からパイを奪い取った。  パイは危うい均衡で樽の上に置かれて、二人はラグの上に倒れ込んだ。
<永遠>
 誰がなんというおうと、おれたちが兄弟の一線を超えたことはない。  天使たちはおれの純潔を疑ってかかった。天界に昇る前には慌ただしく浄化の儀式をさせられた。”身持ちの固さ”について苦言をたれたアホ天使もいたほどだ。おれはその無礼に、女にモテモテだった自分を天使たちが勘違いするのも無理はないと思うことにした。  ああ、若く逞しい国王のおれと、いちゃつきたがる女は山ほどいた。でもおれは国王だ。心のどこかでは、弟に王位を譲るまでのつなぎの王だという思いもあった。だからこそ、うっかり子供でも出来たら大変だと、万全の危機管理をしていた。  つまりだ、おれはまだヴァージンだ。浄化の儀式は必要なかった。  女とも寝てないし、男とも寝てない。弟とは論外だ。  いつか、サムに王位を譲り、おれが王でないただの男になったら、女の温かな体内で果ててみたいと、そう思っていた。  でもたぶん、それは実現しない。なんというか、まあ……。  天界に行ってから、天使たちがおれの純潔について疑問視した原因が、女じゃないことに気がついた。そこまでくればおれだって、認めないわけにはいかない。  クソったれ天使たちの疑いも、あながち的外れじゃあないってこと。
 おれと弟が一線を超えたことはないが、お互いに超えたいと思っていることはどっちも知っている。  ということは、いずれ超えるってことだ。それがどうしようもない自然の流れってやつだ。  どうしてそんなことになったのかというと、つまりおれたち兄弟、血のつながった正真正銘の王家の血統である二人がおたがいに意識しあうようになったのはなぜかということだが、たぶんそれは、おれのせいだ。おれの力だ。  おれは小さい頃から不思議な力があった。  それはサムも同じだけど、サムの力はウィンチェスター家から代々受け継いだもので、おれのほうはちょっと系統が違った。今では、それが天使の恩寵だとわかっているが、当時はだれもそんなこと、想像もしなかった。それでも不思議な力には寛容な国柄だから、おれたち兄弟は一緒に仲良くすくすくと育った。ところがある事件が起きて、おれは自分の力でサムを傷つけてしまった。それ以来、両親はおれの力を真剣に考えるようになり、おれたち兄弟は引き離された。  おれが十一歳のとき、もう同じ部屋で寝ることは許されていなかったが、夜中にサムがこっそりとおれの寝室に忍び込み、ベッドに入ってきたことがあった。  「怖い夢を見た」という弟を追い払うなんてできるはずがなかった。お化けを怖がるサムのために、天蓋のカーテンを下ろし、四方に枕でバリケードをつくって、ベッドの真ん中でふたり丸まって眠った。  翌朝、おれは自分が精通したのを知った。天蓋ごしにやわらかくなった朝日がベッドに差し込み、シーツにくるまっていたおれたちは発熱したみたいに熱かった。下半身の違和感に手をやって、濡れた感触に理解が追い付いたとき、サムが目覚めた。汚れた指を見つめながら茫然とするおれを見て、サムはゆっくりとおれの手を取り、指についた液体を舐めて、それから、おれの唇の横にキスをした。  おれはサムを押しのけて、浴室に飛び込んだ。しばらくすると、侍女がおれを迎えに来て、両親のことろまで連れて行った。そこでおれは、これからは城の離れにある塔で、サムとは別の教育を受けさせると言い渡された。大事にはならなかったとはいえ、サムを傷つけた力には恐怖があったから、おれはおとなしくその決定に従った。結果として、サムがキスをした朝が、おれたちが子ども時代を一緒に過ごした最後の日になってしまった。  おれの変な力がなかったら、あのままずっと一緒に育つことができただろうし、そうならば、あの朝の続きに、納得できる落とし前をつけることもできただろう。おれはなぜサムがキスをしてきたのか、その後何年にわたってもんもんと考える羽目になった。サムによれば、彼もまた、どうしてあのタイミングでキスしてしまったのか、なぜすぐにおれの後を追わなかったのかと後悔していたらしい(追いかけて何をするつもりだったんだろう)。なんにせよ、お互いに言い訳できない状況で、大きなわだかまりを抱えたまま十年間も背中合わせに育ってしまったんだ。  再会は、おれの即位式だった。両親の葬儀ですら、顔を合わせていなかった。  喜びと、なつかしさ、罪悪感に羞恥心、後悔。それを大きく凌駕する、愛情。  弟は大きくなっていた。キャスに頼んで密偵まがいのことをさせ、身辺は把握していたけれど。王大弟の正装に身を包んだサムは、話で聞いたり、遠目にみたり、市井に出回っている写し絵よりもよっぽど立派だった。  意識するなって言うほうが無理だろ。
 ところでおれは、もう人じゃない。  一日に何度も食べなくても、排泄をしなくても、死なない体になった。天使いわく、おれは”顕在化された恩寵”だそうだ。恩寵っていうのは天使の持ってるスーパーパワーのことをいう。つまりおれはスーパーパワーの源で、天界の屋台骨ってこと。  そんな存在になっちまったから、もう必要のない穴ってのが体に��残っているんだが、おれの天才的な弟ならその使い方を知っていると思っていた。  そして真実はその通り。弟はじつに使い方がうまい。  「純潔じゃなくなったら、天界には戻れない?」 一年前から存在を忘れられたおれの尻の穴にでかいペニスを突っ込んだサムが尋ねた。  うつ伏せになった胸は狼毛のラグのおかげで温かいが、腰を掴むサムの手のひらのほうが熱い。ラグの下に感じる土床の硬さより、背中にのしかかっているサムの腹のほうが硬い。  ついに弟を受け入れられたという喜びが、おれをしびれさせた。思考を、全身を。顕在化されたなんちゃらになったとしても、おれには肉体がある。天使たちはおれにはもう欲望がないといった。そんなのはウソだ。げんに今、おれの欲望は毛皮を湿らせ、サムの手に包まれるのを期待して震えている。  「サム……あ、ア」 しゃっくりをしたみたいに、意思を介さず肛門が収縮する。奥までサムが入っていることを実感して、ますます震えが走った。「サム、そのまま……じっとしてろ、おれが動くから……」  「冗談だろ?」 押さえた腰をぐっと上に持ち上げながら、サムはいった。「どうやって動くんだよ。力、入らないくせに」  その通りだ。サムに上から押さえつけられたとたん、おれの自由なはずの四肢は、突如として意思を放棄したみたいに動かなくなった。  「そのまま感じてて……」 生意気な言葉を放ちながら、サムはゆっくりと動き始めた。おれの喉からは情けない声が漏れた。覚えているかぎり、ふざけて登った城壁から落ちて腕を骨折したとき以来、出したことのない声。「はああ」とか「いひい」とか、そういう、とにかく情けない声だ。  「かわいいよ。かわいい、ディーン」  「はああ……」  「あんたの純潔を汚してるんだよ、ディーン……。僕に、もっと……汚されて……」 サムの汗がおれの耳に垂れた。「もう天界には戻れないくらい」
 まあおれは、かねがね自分の境遇には満足だ。天界にエネルギー源として留め置かれている身としても、そうすることを選んだのは自分自身だし、結局、やらなきゃ天界が滅んでしまう。天国も天使もいない世界で生きる準備は、国民たちにもだれにも出来ていない。  せっかくうまくいっていたおれとサムの関係が、期待通りにならないことは承知の上だった。おれたちは王族だ。自分たちの欲望よりも優先すべきことがある。おれは天界で腐った天使どもと、サムは地上でクソったれな貴族どもと、ともに世界を守れたらそれでいい。そう思っていた。サムも、そう思っているはずだった。  一年に一日だけ、地上に戻る許可を与えられて、おれが選んだのは自分の誕生日だった。  ほんとはサムの誕生日のほうがよかった。だけどおれの誕生日のほうが早く訪れるから。  サムに会えない日々は辛かった。想像した以上に永かった。
 下腹をサムの手に包まれて、後ろから揺さぶられながら、おれはふと気配を感じて視線を上げた。酒蔵の奥に、ほの白く発光したキャス――今は天使のカスティエルが佇んでいた。  (冗談だろ、キャス。消えてくれ!)  天使にだけ伝わる声で追い払うが、やつはいつもの表情のみえない顔でおれをじっと見つめたまま動かない。  (取り込み中なの見てわかるだろ!?)  (君はここには残れない) キャスがいった。(たとえ弟の精をその身に受けても。君はもはや人ではないのだ)  (そんなことはわかってる) おれがいうと、キャスはやっと表情を変えて、いぶかしげに眉をひそめた。(君の弟はわかっていない)  (いいや、わかってる……)  「ディーン、こっち向いて」 キスをねだる弟に応えて体をひねる。絶頂に向かって動き始めたサムに合わせて姿勢を戻したときには、もう天使は消えていた。  わざわざ何をいいに来たんだか。あいつのことだから、もしかして本当に、サムのもらした言葉が実現不可能なものだと、忠告しに来たのかもしれない。  天使どもときたら、そろいもそろって愚直で融通のきかない、大きな子どもみたいなやつらだ。  きっと今回のことも、天界に戻れば非難されるだろう。キャスはそれを心配したのかもしれない。  お互いに情けない声を出して、おれはサムの手の中に、サムはおれの中に放ったあと、おれたちは正面から抱き合って毛皮の上に崩れ落ちた。  汗だくの額に張り付いた、弟の長い髪を耳の後ろにかきあげてやると、うるんだ緑の目と目が合った。  「離れたくないよ、ディーン」  「おれもだ」  サムはくしゃっと笑った。「国王のくせに、弱音を吐くなって言われるかと思った」  おれはまた、サムの柔らかな髪をすいてやった。  おれがまだ人だったころ、おれの口から出るのは皮肉や冗談、強がりやからかいの言葉ばかりだった。だれもがおれは多弁な王だと思っていた。自分でもそうだった。  でも今や、そうじゃなくなった。  おれは本来、無口な男だったんだな。  見つめていると、弟の唇が落ちてきた。おれは目を閉じて、息を吸い込んだ。このキスが永遠に続けばいいのにと思う。  願っても意味はないと知っているからな。
 「驚いたよ」 天界へ帰るすがら(地上からは一瞬で消えたように見えただろうが、階段を上っていくんだ。疲れはしないけどがっかりだ)、キャスがいった。「きみたちは……意外とあっさり別れた。もっと揉めるかと思っていた」  「揉めるってなんだよ」  「ずいぶんと離れがたそうだったから」  「ふつうは他人のセックスをのぞき見したこと、隠しておくもんなんだぜ」  「のぞき見などしていない」 キャスは大真面目にいった。「のぞき見ではない。私は隠れてなどいなかった」  おれは天界への階段から転がり落ちそうになった。「おま……キャス……じゃあ、おまえの姿、サムには……」  「見ていただろうな。君とキスしているときに目があった」  「――あいつそんなこと一言も」  「今朝、私には警告してきた。次は翼を折ってやると。君の手の大きさじゃムリだと言ってやったが」  おれはため息を吐いた。  「次があると思っているのだな」  「もう黙れよ」  「一年に一度の逢瀬を、続けるつもりなのか。君はもう年をとらず、彼は地上の王として妻をめとり、老いていくというのに」  「なあ、キャス。おまえに隠してもしかたないからいうが、おれが天界にいるのはサムのためだ。サムが死後に行く場所を守るためだ」  キャスはしばらく黙ったあと、唇をとがらせて頷いた。「そうか」  「ああ、そうだ」  「きみに弟がいて世界は救われたな」  おれは足を止めて、キャスの二枚羽の後ろ姿を見つめた。彼がそんなふうに言ってくれるとは思っていなかったから驚いた。  キャスが振り返っていった。「どうした」  「べつに。おまえ皮肉が上手くなったなって。ザカリアの影響か?」  「やめてくれ」 盛大に顔をしかめてキャスはぷいと先を行ってしまう。  「お、待てよ、キャス。おまえのことも愛してるぜ!」  「ありがとう。私も愛してるよ」    たとえばサムが結婚して、子どもができ、平和な老後を迎えるのを、ただ天界から見守るのも素晴らしい未来だと思う。義務感の強いサムのことだから、十中八九相手は有力貴族の娘か、他国の姫の政略結婚だろうが、相手がよっぽどこじれた性格をしていない限り、いい家庭を築くだろう。あいつは優しいし、辛抱強くもなれる。子どもにも偏りのない教育を受けさせるだろう。安定した王族の指導で、王国はますます繁栄する。国王と王妃は臣民の尊敬を受け、穏やかに愛をはぐくみ、老いてからも互いを慈しみながら、孫たちに囲まれ余生を過ごすだろう。  愛と信頼に満ちた夫婦。サムがそんな相手を見つけられたらどんなにいいか。おれは心から祝福する。それは嘘偽りのない真実だ。  だけど、それは死が二人を分かつまでだ。  サムが死んだら、たとえその死が忠実な妻と手をつなぎ、同時に息を引き取るような敬虔なものだったとしても、彼の魂はもう彼女のものじゃない。死神のものですらない。おれだ。おれがサムを直接迎えにいく。  そしておれがサムのために守ってきた天国で、おれたちはまた、やり直すんだ。  おれが精通した十一歳の朝からでもいい。  ぎこちなかった即位式の午後からでもいい。  世界におれたちだけだったら、どれだけ早くたがいの感情に正直になれたかな。それを試すんだ。  だから今は離れていても、いずれは永遠に側にいられるんだ。  今は言葉だけでいいんだ。おれを汚したいといったサムの言葉が何物にも代えがたい愛の告白に聞こえたなんて変かな。サムの愛の言葉と、この体のどこかに残っているサムの精だけで十分なんだ。  また来年、それをおれにくれ。おまえが誰かいい女と結婚するまで。  おまえのための天国を作って、おれは永遠が来るのを待っている。
おわり
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amatsubu-citron · 7 years ago
Text
【探偵物パロ】花屋での密談
※加州→燭台切要素、つるいち要素有 ※現パロです。出てきてないですが、実際は長谷部主人公です。一夜にして仕事も住居もなくした長谷部が古備前探偵事務所に拾われてはちゃめちゃライフを送る感じの話です。今回は美大生の加州のお話。
 加州が足繁く通う花屋の店長は、燭台切光忠という一度聞いたら忘れられなさそうなインパクトのある名前をしている。夜の街で働いていますと言われたら納得してしまいそうな甘いマスクと低く艶っぽい声音。しかし、話してみれば、花が好きで、気の良い世話焼きなお兄さんといった彼のことを気に入っていた――という言い方は、少々ずるいかもしれない。嫌いではないがわざわざ買って飾るほど好きなわけでもない花を毎週のように買って帰るのは、偏に彼に会いたいという下心からだった。つまりは、気に入っているとはそういう意味である。  常連になると、他の常連客のことも必然と知る機会が多くなった。燭台切が特に親しく世話を焼いているのは、花屋の向かいにある建物の2階に入っている古備前探偵事務所の鶯丸と大包平という男、そして最近その事務所に社員として入ったらしい長谷部という男だ。この3人とは顔を合わせたことはあるが、まともに話をしたことがあるのは鶯丸くらいだった。何を考えているかよく分からないマイペースな男で、正直、加州としてはあまり良い印象はない。まあ、想いを寄せている相手が甲斐甲斐しく世話を焼いている男なんて全員良い印象なわけがないのだけれども、それは一先ず置いておこう。  そして、更にもう二人、燭台切とやけに親しくしている男達がいた。加州が花屋を訪ねる時、この二人と遭遇する確率が非常に高い。仕組まれているのかと疑ってしまいそうなほどだ。片方は、探偵事務所の上にあるアパートに住む男、もう片方は、スーツ姿なのに異様にちゃらちゃらした雰囲気の男だった。アパートに住んでいる男は官能小説家なんて職業を生業としている如何にも怪しい男で、もう片方は何をしているかまったく分からない。さり気なく尋ねてみたら、旅人か風来坊ってところかな、と飄々とした微笑みと共にふざけた回答が返ってきた。 「あれ、なんだ……きみ、また来たのか」 「どーも」  今日は、官能小説家のほうだった。白とも銀ともつかないきらきらと輝く色素の薄い髪、眩いばかりのシトリンの瞳。中性的な顔立ちをした白皙の青年は、見目だけならば非常に整っている。儚げにも感じる線の細さとは裏腹に明朗快活とした性格は、恐らく大抵の人間から好かれるものだろう。しかし、加州は、燭台切と親しいという点を除いてもこの男が少々苦手だった。明るく人懐こい微笑みとは裏腹に、つぶさに観察されているような錯覚がするのだ。彼は、加州の姿を認めると、意味ありげに唇を緩めた。 「あ! いらっしゃい、加州君」  にっこりと微笑んだ燭台切の笑顔には、表裏がない。彼の手には、白と水色を基調とした花が握られていた。恐らく、先客である彼が注文したものなのだろう。鶴さんの対応しているからちょっと待っててね、と眉を下げた彼は、水の入ったボウルに花の茎を浸けて、手慣れた仕草で茎を切っていく。その姿をぼんやりと眺めていると、なあ、と先客である彼――鶴丸が、口を開いた。 「今日は一人で回してんのか。伽羅坊と貞坊は?」  彼の言う「貞坊」と「伽羅坊」は、此処で働いているアルバイトのことだ。中学生と間違えそうな幼さの残る溌剌とした高校生と、彼とは裏腹に無口で素っ気無い大学生。後者の「伽羅坊」は俱利伽羅広光という大層な名で、加州の通う美大の同級生である。デザイン系の学科に所属する加州とは異なり、彫刻を専攻している彼とは直接関わり合いは無かったが、キャンバス内で何度か擦れ違ったことくらいはある。加州がちょっとした面識のある油絵専攻の山姥切国広と親しいらしく、よく一緒に居る姿は見かけていた。 「どっちも学校だよ。伽羅ちゃんは制作が忙しくなってきたみたいでね」  燭台切は、器用に作業を続けながら答える。ふうん、と相槌を打った鶴丸は、加州のことなど既に視界にも入らないような様子で、そういや次の賞に作品出すとか言ってたな、と納得したように独りでに呟いていた。 「鶴さんは? 執筆のほうは順調なの?」 「今回は順調だ、もう原稿渡してある……っと、そういや、アメリカに旅行に行ってなあ。きみに土産を渡そうと思ってたんだ」  鶴丸は、思い出したように声を上げる。その手には、小ぶりの洒落た袋が握られていた。加州がこういう場面に遭遇したのは、初めてではない。それくらい、鶴丸は頻繁に旅行しているようだった。つまり、海外旅行にも頻繁に行けるくらいには稼いでいるようだ。加州は彼のことを薄っすら名前が聞いたことがある程度だったが、読書を嗜むという同級生に彼のことを尋ねてみたところ、官能小説と一括りに言ってもあれはもはや芸術だ、と熱弁された。どうやら、加州にはまったく興味が持てないが、ファンは多いらしい。エロいというよりも煽情的、艶めかしいといったような文学的な表現が相応しいということだそうだが、まあ、加州には理解できない世界だった。 「どこ行ってきたの?」  渡された袋を受け取った燭台切は、ありがとう、と微笑みながら、興味深げに袋へ視線を落としていた。加州もちょっとデザインが良いなと思ってしまうくらいシックで洗練された袋の中身は、恐らくそう安いものではないだろうことは理解できる。開けてみてもいいぜ、と意味深げに笑った鶴丸の顔をじっと見た燭台切は、ふ、と唇を緩めると、後の楽しみにしておくよ、と返していた。 「ベガスと、ロスと……後は、まあ俺の会社<カンパニー>に来いって友人がうるさくてな、ちょっと見学させてもらってたきた」  加州は、ふとその言葉に違和感のようなものを覚えた。会社と言えば良いところをわざわざカンパニーなんて言い方をした鶴丸の言い回しが不思議だと思っただけなのだが――まあ、特に意味はないのだろう。加州は、すぐにその違和感を頭の片隅に追いやってしまった。後になって思い返してみれば、あれは、鶴丸から加州に与えられた挑戦状であり、加州のことを哀れんでいた彼からの忠告でもあったのかもしれない。しかし、今の加州はそんなことに気付くわけもないのだ。だって、そうだろう。会話の中に散りばめられた違和感を掬い上げて繋げるのはそれこそ探偵だとか刑事だとかの十八番で、加州はただの美大生でしかない。幼い頃から剣術の道場に通っていて多少腕は立つかもしれないが、それでも、加州はただの一般人でしかなかった。 「へえ、一人でいったの? 一期君は?」  燭台切は、にこやかに微笑んだ。一期君、というのは度々聞く名前だったが、会ったことはない。評判だけを聞けば、随分と穏やかで真面目な青年らしいが、その仕事を聞くと、途端に胡散臭くなる。ここから歩いて数十分の距離、繁華街の裏路地にひっそりと建つ年季の入った建物――よろず屋・粟田口の看板を掲げている店の主が、粟田口一期という名前の青年らしかった。目の前に居る鶴丸と彼がどういう関係なのかは知らないが、一緒に旅行するような仲なのだろうか。燭台切の質問に目を細めた鶴丸は、まさか、と笑う。 「寂しい一人旅さ。今度、光坊も行くかい?」 「アメリカに?」 「そう、ベガスとかな。きみに似合いそうだ。後は――そうだな、ラングレーとかも楽しいぜ」  ラングレー。聞いたことのない地名だ。有名な場所なのかな、と加州は首を傾げる。まあ、それよりも気になるのは、燭台切がこの問いかけにどう答えるかだった。アルバイトの二人も含めた彼らはどうやら昔馴染みのようで、非常に親しい。ぎゅうと胸を締め付けられるような感覚とどろりと込み上げてきた嫉妬の感情から目を逸らすように、視線を花へ向ける。 「――ふふ、そうだね。でも、僕は日本が好きだからなあ」  外国はちょっとね、と笑う彼の反応は少し意外だった。思わず燭台切に視線を向ければ、彼は少し困ったように微笑んでいた。そして、はい、できたよ、と手に持っていた花束を鶴丸に向けて差し出す。そんな彼をじっと見ていた鶴丸は、そうかい、と柔らかく呟くと、差し出された花束を受け取り、提示された金額を財布から取り出した。 「じゃあな、光坊。ああ、あと、加州――だったか、きみも。Have a nice day」  妙に流暢な挨拶を残した彼は、ひらりと手を振って去って行く。その背中をじっと見ていた加州に何を思ったのか、鶴さん、ああ見えてアメリカ育ちなんだよ、と燭台切が声をかけてきた。 「へえ、そうなんだ。……光忠さんってさ、行ったことあるの? アメリカ」  加州が燭台切の様子を窺うように視線を向ければ、蜂蜜のように甘い色をした金色の瞳がぱちりと瞬く。そして、いいや、ないよ、とにこりと微笑む。その言葉に、少しだけ安心する。どうやら、あの作家と一緒にアメリカへ過去に渡ったことはないようだった。 「ふうん、良かったの? せっかく誘われてたのに」 「僕は日本のほうが好きだからね。で、加州君は今日はどうするの?」  そう言って柔らかく微笑んだ彼の顔は、今日も格好良かった。
 ◆ ◇ ◆
「――ねえ、鶴さん? 一般人がいる前でああいうのは感心しないなあ」 『はは、何だい。きみ、怒ってるのか』 「そりゃあね、わざと言ったでしょ。カンパニーも、ラングレーも。加州君が意味に気付いたらどうするつもりだったんだい?」 『気付いたところで無意味さ。あの子は一般人だというなら、猶更だろう。――それに、とっくのとうに俺は抜けてるからなあ』 「その割には古巣に呼び出されたんだね?」 『あー、この前本国で騒ぎがあっただろう。あの一件で、ちょっとな……あそこの残党が関わっているらしいって話だったから』 「――それで、一期君には内密に?」 『いちにわざわざ教えてやることもないだろう、あいつはもう立派に堅気なんだしな。……それより、気を付けておいたほうがいいぜ、光坊』 「……何?」 『あっちで聞いた。お前が追ってる組織のことだけどな。どうやら、この町で取引をするらしい』 「へえ、なるほどね。それも、”お土産”かな?」 『はは、あっちの土産も喜んでもらえたかい? 手に入れるの大変だったんだぜ』 「もちろん。感謝してるよ、鶴さん」 『お礼は君の働きで返してくれればいいさ、長船”警視”』 そんな遣り取りが裏で交わされていることを、未だ、今の加州は知らないのだ。
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kokobara · 8 years ago
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特集 2017年3月24日 蓮實重彥氏に聞く(聞き手=伊藤洋司) 鈴木清順追悼 『けんかえれじい』『東京流れ者』『ツィゴイネルワイゼン』といった作品で知られる、鈴木清順監督が、二月十三日に亡くなった。六〇年代から七○年代にかけては、ほぼ十年間、映画を撮ることから遠ざかるを得なかったものの、一九七七年の『悲愁物語』でカムバックを果たし、作品ごとに野心的な映画作りに取り組んだ。「清順映画」の魅力とはどこにあったのか。生前には親交も深かった映画評論家の蓮實重彥氏にお話しをうかがった。聞き手は本紙映画時評を担当する中央大学教授・伊藤洋司氏にお願いした。 (編集部) 鈴木清順問題共闘会議 伊藤 洋司 / 中央大学教授・フランス文学専攻 / 中央大学教授・フランス文学者。一九六九年生。伊藤 二月十三日に、鈴木清順監督が東京都内の病院で亡くなられました。大正十二年、すなわち一九二三年生まれの九三歳でした。遺作は二〇〇五年公開の『オペレッタ狸御殿』になります。蓮實さんは、死去のニュースをどのような気持ちで受け止められましたか。 蓮實 何か特別な「気持ち」があったかと言えば、ほとんどなかった。もうお撮りになることはないと思っていましたし、新作に入られるという噂をフランス経由で聞いたこともあったのですが、それはないだろうと思っていましたから。あのように自分の撮りたい映画をほとんど好き勝手に撮られた方ですから、大往生を遂げられてほっとした。これが正直な気持ちです。 伊藤 読売新聞の追悼文(二月二七日朝刊)に書かれていましたが、蓮實さんは一九九一年に、鈴木清順監督と一緒にロッテルダム映画祭に参加されています。個人的な親交もあったとのことですが、最初に出会われたのはいつのことでしょうか。 蓮實 鈴木清順問題共闘会議があった頃のことです。『シネマ69』のインタビューで、山根貞男さんをはじめ編集部の方々が青山のあたりに席を設け、数人でお話しをうかがった記憶があります。 伊藤 一九六八年四月に、鈴木清順監督が日活から解雇を通告されたことに端を発して、六月に銀座でデモが行なわれ、七月には鈴木清順問題共闘会議が結成されました。このデモに、蓮實さんも参加されたとうかがっています。 すっころび仙人の人生論鈴木 清順講談社 この本をウェブ書店で買う 1960年代の鈴木清順映画1995年に刊行された著書では自らの生い立ちや映画制作について語った(講談社刊)蓮實 当時、シネクラブ研究会をやっていた川喜多和子さんが、清順さんの全作品上映会を企画していました。けれども、日活がフィルムの貸出しを拒否し、全作品を封鎖してしまったので、デモが組織されたわけです。だから、最初は「清順映画を見せろ」ということが、デモの主旨だった。それが段々、「資本主義体制下では、映画を撮ること自体が犯罪だから、清順も撮ってはいかん」というような話になってしまった。私はそんなことはないだろうと思い、「撮れる機会があれば撮っちゃっていいんですよね」と清順さんにうかがうと、「そりゃ撮りますよ」と笑っておられました。 伊藤 蓮實さんは個別の問題として考えて参加されたのだと思いますが、このデモは時代状況もあって、学生運動とも繋がりを持たざるを得なくなったようです。当時の状況をもう少しお聞かせいただけますか。 蓮實 私は責任者ではなかったんですが、しかるべき社会的な地位にあるということもあり、川喜多さんから、デモのまとめ役をやってくれないかと依頼され、「デモをまとめることなんてできません」と答えるしかなかった。事実、松田政男さんが学生を連れて入ってきて、渦巻きデモで盛り上げて、最後には総括を行ったりしている。総括なんてちゃんちゃらおかしいと醒めた目で見ていましたが、私服の警官ともかなり危うい関係になり、私が出てゆき、「お名前を教えていただけますか」とその私服に訊ねると、「教えられません」と答えたので、「あなたは公僕だから、教える義務がある」と言い返したりしたのをおぼえています。 伊藤 鈴木清順問題共闘会議による裁判の支援にも関わりになられたのでしょうか。 蓮實 形式上は支援者のひとりでありましたが、実際はほとんど関わりませんでした。共闘会議の最初の集まりにいくと、無償の政治的色が強く、自分の出る幕ではないと思って、そのまま帰ってしまいました。 伊藤 この解雇問題のそもそものきっかけが、『殺しの烙印』(一九六七年)という作品です。これが日活社長の堀久作から、難解だと非難されました。僕の大好きな映画です。はじめて見たのは大学生の時です。何がなんだかよくわからないのですが、めちゃくちゃ面白い映画だと、そういう印象をずっと持っていました。でも、数年前にDVDで見直して、考えが変わりました。序盤で、殺し屋ナンバー1を護送する最中に銃撃戦が起こります。トンネルがいくつもある細い道で、向こうから襲ってくる。僕はずっと、この場面は空間的な位置関係がデタラメだと思っていたのですが、ゆっくり再生して見てみると、そうではないことがわかりました。 蓮實 細部は結構律儀に撮られているのがわかります。 伊藤 位置関係がすべてわかるように撮られているのに気づいて、びっくりしました。空間は多少歪んでいるようには思うのですが、それでもわかるように古典的に撮られていたのです。この場面だけではなく、物語の全体が、何が起こっているのかという点に関しては明瞭で、すべて示されています。その意味では、わけのわからない映画ではまったくありません。八〇年代以降のいくつかの「難解」な作品とは明らかに違うのです。実は、『東京流れ者』(一九六六年)ともちょっと違います。 蓮實 重彥 / 映画評論家・フランス文学者・元東大総長 / 映画評論家・フランス文学者・元東大総長。著書に「ボヴァリー夫人論」など。一九三六年生。蓮實 鈴木清順監督が我々に残したインパクトはあまりに強烈で、清順映画を見ることより、清順について語ることの喜びを誰もが行使しすぎていたと思います。鈴木清順と聞くと、何か言葉に出したくなる。その言葉は、結局のところ、「難解な清順美学」というものに尽きてしまう。そう言っておけばいいとみんなが思っており、『ラ・ラ・ランド』のデミアン・チャゼル監督までが、『東京流れ者』の影響について語ってしまう(笑)。『ラ・ラ・ランド』が、色彩の使い方において『東京流れ者』から間接的に影響を受けたというのは、わかりやすい話ではある。しかしチャゼル監督には、こう言いたい。『東京流れ者』に関してはともかく、清順さんは一九五〇年代から撮っていた人であり、他の映画をまともに見ていますか。清順さんはごく普通に映画を撮れる人なんですよ、と。もちろん非常に面白い個人的な視角も入ってきますが、難解な清順美学などと考えられているものは、我々にとって、もっともわかりやすいものでしかない。清順監督の真の意味での「難解さ」は、彼の撮ったごく普通の映画に現れている。私が好きな『悪太郎』(一九六三年)のような作品です。『悪太郎』は『野獣の青春』(同年)の直後に撮られています。『野獣の青春』では、色彩としての赤が強調されていたり花びらが舞ったり、いわゆる清順美学といわれているもので見るものを惹きつける。それが『悪太郎』ではがらりと変わって、ごく普通の地方映画になっている。ロケーション効果も見事です。背景となった土地の雰囲気や人物の動かし方は、ほとんど松竹映画を思わせさえする。導入部で高峰三枝子と山内賢を乗せた二台の人力車が広い堀端を行く複数のショットなど、胸がどきどきするほど素晴らしい。清順さんはそういう普通の映画を撮れる人であり、人はそこを見ずに、清順美学と呼ばれているものだけを語ってしまう。しかも、美学と呼ばれているものを人々が本当に目にしてるかといえば、言葉で納得してしまっているだけです。八〇年代以降の鈴木清順作品と『殺しの烙印』は違うと今おっしゃったけれど、まさにその通りであって、上層部の評判が悪かったとはいえ、『殺しの烙印』は商品として充分使い物になっている。清順さんは五〇年代からずっと撮りつづけ、B級的・裏番組的な側面はあったにしろ、それで酷い損害を会社に与えたことなどまったくない。ただし、時々ちょっといたずらをしてみることがあって、それが受けたので、ご自身もそちらの方向にいくところがあった。そんな感じだったと思いますね。 『けんかえれじい』 伊藤 一九六二年までの初期の作品では、『すべてが狂ってる』(一九六〇年)が飛び抜けて好きなんです。戸外での若者たちの歩行や自動車の走行の感覚、さらには室内の性的な場面での、ネ津良子や中川姿子の瑞々しい演技など、どれも素晴らしいですよね。語りの経済性がしっかり尊重されていて、ロケーション撮影のリアリズムも魅力的です。こういうのを見ると、普通の映画をきちんと撮れる監督だということがよくわかります。そうした基本がしっかりしているから、映画を崩して撮っても大丈夫なんですよね。 蓮實 下手な人が崩すと、どうしようもなくなってしまう。ただ、清順さんが演出のうまい監督だとは、誰も言いませんでした。見る前から、演出が変だと思われていたのです。『すべてが狂ってる』は、私も非常に好きな映画です。日活だけはなくて、当時の五社では、地方ロケが多かった。その土地の雰囲気をうまくとらえて、地元の人たちにも見てもらおうという狙いがあったのでしょう。だから『けんかえれじい』(一九六六年)にしても、備前と会津若松が舞台になっている。それぞれの場面がその場所で撮られているかどうかはともかく、このふたつの舞台が素晴らしい。しかも、会津では白虎隊をからかっている。私は、監督の語る言葉などほとんど信用しませんし、その言葉で論を立てることもしない人間ですが、清順さんが「明治が嫌いだ」と言っていたことだけは、信用しています。つまり明治維新も嫌いであり、白虎隊なんてちゃんちゃらおかしいと思っていた。よくあんな映画を会津若松で撮れたなという気がするほど反明治的であり、大正・昭和の感じが強い。それから、ラストの鶏小屋における乱闘シーン。あそこも、本当は全部が正しく繋がるように撮られているのですが、余計なことをひとつ見せることによって、何をやっているかがわからなくなる。つまり仲間がみんな縛られているところで、高橋英樹が蝋燭の火でロープを焼き切って逃れる。それで最終的に喧嘩に勝ったり、ふと北一輝が出てきたりするところも格別に面白い。 伊藤 『けんかえれじい』では、高橋英樹と浅野順子の、最後の別れの場面が大好きなんです。修道院に入るという浅野順子が、高橋英樹の部屋を出て障子を閉めるんですが、その後、ふたりは障子越しに指をなぞり合う。すると、女の指が奥から障子をそっと突き破って男の指に触れるんです。この指が本当に素晴らしいと思います。まさに正統派の演出です。 蓮實 おっしゃる通りですね。障子といえば、石原慎太郎を思い起こしがちですが、そんなことを忘れさせるほど、あの場面は素晴らしい。ふたりは、破れた障子を通して指を絡ませることしかできない人たちだった。その関係が実にうまく描かれている。グリグリ坊主の高橋英樹の凛々しい立ち振る舞いが実にいい。男優では『関東無宿』(一九六三年)の小林旭も素晴らしいし、ああやって役者を真に活かすことができる監督は、そうはいないと思わせるほど演出がうまい。 伊藤 『関東無宿』は、窓の外が黄色から青紫に変ったりする演出に目がいきがちなのですが、やはり物語がきちんと語られていますよね。組の違うふたりの男、小林旭と平田大三郎が、それぞれやくざ社会の中で追いつめられていく。その一方で、女学生役の中原早苗が、やくざ社会に入っていく。三人の物語が端正な演出により並行して描かれていて、胸を打たれます。ただし、『けんかえれじい』に関してですが、蓮實さんは以前『ユリイカ』で、ラストの雪に寒さが感じられないと指摘されました。この寒さの欠如は欠点ではなく、映画的な運動を表層に露呈させるための演出だとされました。『花と怒涛』(一九六四年)のラストにも新潟の雪景色が登場し、これもセットで作られた感じが強くて、寒さが欠落しています。ただ、ここでは『けんかえれじい』のように見事な映画的運動が組織されているとは言えません。雪の場面を見ていると、正直に言えば、もうちょっと寒さを感じさせてもいいような気がします。一九六〇年代なら、大映の三隅研次や、東映の加藤泰の雪は本当によかったと思います。鈴木清順の描く雪は、それらとは少し違って��ます。それに、グリフィスの『東への道』の終幕を考えれば、雪の寒さと映画的な運動の両立は、本来、十分可能ではないかと思います。蓮實さんはどのように考えていらっしゃいますか。 蓮實 『東への道』はロケーションですよね。清順監督の映画の雪は、ほとんどセット撮影ですからね。その違いはあると思います。「アメリカ映画は、あんなところによくロケーションにいけるなあ。僕もやってみたい」ということを、清順さんはよく言っておられました。グリフィスのように雪の冷たさを表現するのは、自分たちには端からできないと思っていらしたんじゃないでしょうか。 伊藤 雪の寒さの描写に、まるで興味がなかったようなふしも感じるのですが。 蓮實 そこまではわかりませんが、実際に雪景色の中で撮っている『東京流れ者』にも、寒さは季節として描かれていない。 伊藤 季節感の不在について、蓮實さんは『ユリイカ』で論じておられました。 蓮實 それも、「明治が嫌いだ」ということと、どこか通じるものがある気がする。 伊藤 先程、高橋英樹がいいとおっしゃられました。『刺青一代』(一九六五年)での彼の演技も素晴らしいですよね。この作品では、ラストの殴り込みの場面が有名です。水色の襖を次々と開け、その次に黄色い襖を開けていき、さらには暗闇の中で、拳銃の銃口から赤い光が放たれます。多くの映画監督に影響を与えている場面ですね。でも、この殴り込みだけでなく、そこに至るまでの盛り上げ方も素晴らしいんです。抑えた描写で、徐々に、だが確実に情感を盛り上げていく。この演出がしっかりしているから、最後の抽象的な様式美も、多くの観客に受け入れられたんだと思います。 蓮實 私は『刺青一代』が公開された年の暮れにフランスから帰ってきたので、リアルタイムでは見ていない。一九六二年の秋から六五年までの作品は、すべて後に名画座などで見たものです。  「大正三部作」 伊藤 蓮實さんがはじめてご覧になった鈴木清順監督の映画は、どの作品ですか。 蓮實 『裸女と拳銃』(一九五七年)だったと思います。先程『悪太郎』が好きだという話をしましたが、そういう意味でいうと、私にとっての鈴木清順は、「太郎」の人なんです。本名が清太郎であり、私がはじめて見た清順監督の映画で主演していたのが、水島道太郎。最初見た時は、この人がどうして主演をはれるのか、不思議な感じを持ちながら見ていました。では、『裸女と拳銃』をどうして見ることになったのか。私の高校の先輩に三谷礼二という、後にオペラ演出家になった方がいるんです。彼は大学時代、『孤獨の人』という映画に出演して、大学を退学処分になっています。『孤獨の人』は学習院の高等科が舞台になっていることもあり、映画の衣装として、私も制服を貸したりしたのですが、三谷さんはその後、日活の宣伝部に移ったので、大学時代の私はよく試写室で公開前の映画を見せてもらいました。ある時、「三谷さん、今日は何か面白いのない?」って聞くと、「清太郎があるから来い」と言われて見たのが、『裸女と拳銃』だった。めちゃくちゃ面白くはなかったけれど、なかなかよかった。次の『暗黒街の美女』(一九五七年)も水島道太郎主演で、その頃の清順さんの映画は、当時日比谷にあった日活の試写室で見ました。飯島正さんなどが来ておられ、胸をどきどきさせながら見た記憶があります。 伊藤 『裸女と拳銃』が鈴木清太郎名義の最後の映画で、『暗黒街の美女』で鈴木清順に改名したんですね。『暗黒街の美女』はダイヤモンドをめぐる話です。男がダイヤを飲み込んで死ぬと、その男の腹を割いてダイヤを取り出すんです。すごい話だなと思いながら、楽しんで見ました。デビュー時から毎年何本も撮りつづけているのですが、一九六〇年代に入ると、長門裕之主演の『密航0ライン』(一九六〇年)や、『百万弗を叩き出せ』(一九六一年)と『俺に賭けた奴ら』(一九六二年)という、和田浩治主演のボクシング映画などを撮ります。 蓮實 『密航0ライン』もなかなかのものでしたね。 伊藤 長門演じる新聞記者が、国際密輸組織を追う話です。横浜でロケをしていて、テンポがよく、長回しのショットも充実していました。話が前後しますが、『素ッ裸の年令』(一九五九年)は赤木圭一郎の初主演作で、ローティーンやくざたちのオートバイ映画です。『散弾銃の男』(一九六一年)は無国籍的なアクション映画で、主演の二谷英明扮する流れ者が、突然アコーディオンを弾きながら歌い出したりしました。六〇年に五本、六一年には六本も公開されていて、六二年の『ハイティーンやくざ』と『俺に賭けた奴ら』、六三年の『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』『野獣の青春』『悪太郎』『関東無宿』とつづきます。『野獣の青春』で、鈴木清順は変わったと言われています。映画館のスクリーンの裏側に組織の事務所があるという設定が、なんだか想像力を刺激して、強く印象に残ります。 蓮實 リアルタイムでは見ていない時期なので、『野獣の青春』は帰国後に新宿昭和館で見ました。 伊藤 僕は一九六九年生まれなので、ほとんどの鈴木清順の映画をリアルタイムでは見ていないんです。『ツィゴイネルワイゼン』(一九八〇年)と『陽炎座』(一九八一年)さえ、小学生でしたから見逃しました。ただ、世間でかなり話題になっていたので気になっていて、中学二年生の時に『ツィゴイネルワイゼン』を見ました。これが僕の鈴木清順の初体験です。何がなんだかわからない異様な衝撃を受けたのですが、この映画から入ったことは、ある意味で不幸だったと思います。その後、『関東無宿』などをテレビで見たのですが、スタンダードサイズに切られていて、正直なところ、当時は今ひとつよくわかりませんでした。鈴木清順の真骨頂が日活時代にある、特に六三年から六七年だと確信できたのは、大学生になってからのことです。そんな経緯があって、いまだに不安定な姿勢を示すことがあり、『ツィゴイネルワイゼン』自体も、この歳になっても幽霊映画として熱烈に好きなんです。 蓮實 ご本人は「大正三部作」とは言いませんが、あの頃の清順さんは、荒戸源次郎という面白いプロデューサーが出てきて、清順作品をサポートした。しかも上映がテントで、『ツィゴイネルワイゼン』は、東京タワーの下に設営されたテントで見た記憶があります。その前に『悲愁物語』(一九七七年)があったけれども、あれは松竹系だったので、やはり『ツィゴイネルワイゼン』は久々のカムバックという感じもあり、「清順さんやってるなあ」と嬉しく思いました。もちろん映画としても非常に面白かった。ただ、この清順は「やさしい作家」だとも思いました。つまり評判になりやすい映画じゃないですか。私は、むしろ評判になりにくい清順が好きなところがあり、『悪太郎』にしてもそうですね。『ツィゴイネルワイゼン』からは、『陽炎座』『カポネ大いに泣く』(一九八五年)『夢二』(一九九一年)とあり、その頃の清順さんは、世界的な有名人だった。読売新聞の追悼にも書いたけれども、ロッテルダム映画祭では、誰よりも清順さんがスターだった。海外の他の映画祭でも、清順さんとは何度かご一緒しましたが、トリノ映画祭での『東京流れ者』の上映後は、外国人の観客までが「トウキョウ、ナガレモノー♪」って歌いながら劇場から出てくる。こんなに簡単に「毛唐」を騙していいものかと苦笑した記憶があります。『ラ・ラ・ランド』のチャゼル監督までが騙されてしまったわけですから(笑)。 伊藤 『東京流れ者』は、ラストのアクションシーンが基本を崩していて、すごいですよね。単にクラブのセットが抽象的というだけではなくて、カット割りがおかしいんです。白いスーツの渡哲也が黒服の男を撃つと、撃たれた男のピストルが飛んで、ピアノの鍵盤の上に落ちるのですが、飛んでいく方向が明らかに逆なんです。また敵方の男たちが入ってくる時に、どちらの方向から来たのかわからないショットがあります。翌年の『殺しの烙印』ともちょっと違うんですね。ただ、こうしたデタラメさをそれ自体面白いと受け止めていいのかどうか。古典的な基本を踏まえながらも、あえてここは踏み外して撮っていると考えればいいんでしょうけれど。崩すことそれ自体に価値があるというのは、ちょっと危うい気がします。ともかくこの辺りの崩し方が、『ツィゴイネルワイゼン』以降、さらに徹底されていくのではないでしょうか。 蓮實 『陽炎座』は、あえて繋がらない映画として撮られている。 伊藤 たとえば冒頭の橋と階段なんて、ここまで崩していいのかというぐらいデタラメに撮っています。ちゃんとした映画を撮れる監督だからと思って見ていると、やっぱり面白くなってくるのですが、もし新人監督の第一作だったら、どう受け止めていいのかわからなくなるような映画です。鈴木清順の作品の中では、『陽炎座』が一番過激な映画ではないでしょうか。 蓮實 ここでの役者の使い方も過激ですね。演技をさせているようでいて、演技させていない。役者に演技などさせてやらないという点でも、過激な監督だと思います。元々清順さんは、脚本の段階で気に入らないと、書き直しをさせる人だった。新藤兼人にまで書き直させたという逸話もあります。しかし『陽炎座』の頃になると、脚本を直させるというよりも、現場で脚本を変えてしまう。前の晩に思いついたことを、そのまま撮るから、繋がらない映画になってしまったと思います。 伊藤 最初から繋がらないことを目的にしてやっているとも、言い切れないのですね。でも、八〇年代から鈴木清順の映画を見はじめると、繋がらないこと自体が面白いみたいな形で受け止めてしまいがちになります。その辺り、やはり受容の仕方が不幸だったのかもしれません……。 真の清順に達するために 伊藤 話題を変えて、鈴木清順の映画を今後どう受け止めていくべきかについて、うかがいたいと思います。繰り返しになりますが、鈴木清順はキャリアを通して、本質的には映画を崩していった監督として受け止めるのがひとつの筋だと思います。ただ、蓮實さんの受け止め方では、元々基本ができている監督であり、そこを見よということですよね。しかし、鈴木清順から影響を受けている監督たちは、たとえばタランティーノにしても、審美主義的に継承しがちです。原色の使い方とか、様式美とか、そういう面に影響を受けながら映画を撮るわけです。では我々は、ここから先、どのように鈴木清順の映画と向き合っていけばいいのか。蓮實さんの考えをお聞かせいただけますか。 蓮實 現在では、あらゆる映画が、DVDなどで簡単に見られる時代になっています。鈴木清順さんの作品も、四分の三ぐらいは見ることができる。そうすると、見られないことが惜しくなくなってくる。昔は、名画座にしかかからなかったから、見逃��手はないと思って必死に通ったわけです。ところが、いつでも見られるんだからと人びとが考える時代に、鈴木清順の何を見よと、批評家や教師が言えばいいのか。ひとつには、逆説的になりますが、『東京流れ者』は、しばらく誰にも見せないようにしたい。あれを見��ら誰もが面白いと思ってしまうので、そのような面白さを禁じないと、真の清順には達しえないからです。もちろん、真の清順なんて存在するはずもありませんが、一九四〇年代のおわりに松竹に入り、助監督として鳴かず飛ばずの生活をして、日活に移って映画を撮りはじめた。時々妙なものを撮るけれども、会社に大変な迷惑をかけたわけではないし、その中から清順さん独特の面白さを次々に発明していったわけです。まさに撮ることによる映画の発明を実践しておられたと思います。その面白さについて、しばらくは『東京流れ者』のことは忘れて論じるべき時がきている気がします。『東京流れ者』は、わからないことがわかりやすい映画だからです。ところが、わかるということがわかりにくい映画を、清順さんは撮っている。『悪太郎』がそうです。どこが面白いのかがすぐにわからないけれども、じっと見ていると、ロケーションが素晴らしかったり、人物と風景の関係が素晴らしいということがわかってくる。ですから、私は、『東京流れ者』を当分見ることを自粛せよと言いたい(笑)。あれを見て、鈴木清順のわからなさを安易に面白がってはいけないと思います。 野川由美子と和泉雅子 伊藤 『悪太郎』は、十年ぐらい前に見て以来、見返していないのですが、抒情的な描写がとても印象的でした。あの映画ではあと、和泉雅子が好きなんです。彼女は『刺青一代』にも出ていて、こちらもとてもいいですね。高橋英樹が、「俺のカラダは汚れてるんだ」と言って、胸をはだけて刺青を見せます。その時の、切り返しショットでの和泉雅子の表情が素晴らしかった。言葉が漏れ出そうになるのをグッとこらえて、無言で男を見つめるんです。こんないい表情をする女優なんだと感動しました。 蓮實 和泉雅子って、かったるい女優だと思っていたけれど、確かに『刺青一代』や『悪太郎』の彼女はいいですね。 伊藤 かったるい、ですか。あと女優では、蓮實さんも追悼文で触れられていた、『春婦傳』(一九六五年)や『河内カルメン』(一九六六年)の野川由美子ですね。『春婦傳』も長い間見返していないのですが、戦争中の中国が舞台で、真夜中に砲弾が火花のように炸裂するなかを彼女が走るのが、記憶に焼きついています。 蓮實 闇の大地を、野川由美子が疾走する。それが単なる抽象的な疾走ではない。砲弾が飛び交う中を、走りに走る。あの具体的な疾走ぶりに、私はただただ感動してしまう。 伊藤 カメラも横移動するんですね。細部の記憶はあやふやなのですが、野川由美子は、『肉体の門』(一九六四年)より『春婦傳』の方が一段上でした。 蓮實 そう思います。『肉体の門』もいいけれども、やはり『春婦傳』における野川由美子のあの疾走ですね。つまり、あれだけ走ると、息が切れてしまう。その必死な女優の姿を見せてしまうところが、清順さんの演出の素晴らしさだと思います。野川由美子は『悪太郎伝 悪い星の下でも』(一九六五年)でも非常にいい。少し崩れた感じがよかった。もちろん東映のやくざ映画、たとえばマキノ雅弘作品にも出ていたけれども、崩れるようで崩れきらない女の意地みたいなものが、野川由美子にはあるんです。清順さんは、そういうものが本当に好きだったと思いますね。 伊藤 野川由美子は日活専属ではないので、鈴木清順が繰り返し起用したということは、彼女が気に入っていたんでしょうね。 蓮實 お気に入りといえば、『関東無宿』の伊藤弘子もそうでしょう。和服姿で小林旭を惑わす妙齢のファム・ファタルとして逸品でした。『陽炎座』にも出演依頼をしておられますから、清順さんの無意識に触れる何かを持っていた女優だとおもいます。ところで、伊藤さんが最初に見られたのは、『ツィゴイネルワイゼン』だとおっしゃいましたよね。 伊藤 はい、中学二年生の時です。 蓮實 あれが一九八〇年の公開ですから、そこから三五年以上経っている。清順さんが日活で撮りはじめてから『ツィゴイネルワイゼン』までが、ほぼ二五年です。この間、彼は二本立ての裏番組を律儀に撮っていましたが、その時期の方が短い。ここが難しいところだと思います。清順映画の難解さが面白いんだという受け止められ方をしてから今日まで三五年ですが、それは、鈴木清順にとってではなく、我々映画を見るものにとっての不幸であるような気がします。清順さんご自身は「代表作は何か」と聞かれると、「最後に撮ったものです」とか「これから撮るものです」と言っていましたが、自分の映画で何が好きだったのかについては、ついに最後まで語らなかった。ところが、我々から見てみると、少しも難しくない清順映画があって、その中には、評価することの難しさで見るものを途惑わせる作品がいくつかあるわけです。『春婦傳』だって難しくはない。ただ、我々をたじろがせてしまう何かがある。それが撮りたいものだったかどうかはともかく、この場面をこのように撮るぞという時には、本気に撮れる人だった。 唯一のスター小林旭 伊藤 蓮實さんとはちょっと違うかもしれませんが、僕が鈴木清順の映画で一番好きなのは、『殺しの烙印』の防波堤の銃撃戦です。宍戸錠が自動車の下に潜り込んで、敵に近づいていくのですが、その見た目で銃撃戦を捉える、前進移動のローアングル・ショットがあります。戦慄するショットでした。こんなアクションシーン、こんなショットにはめったに出会えるものではない。僕が鈴木清順を心から好きなのは、あのショットを撮ったからだと思います。ところが、この場面について、防波堤にあんなふうにロープが置いてあるなんてご都合主義でおかしいと言う人がいる。逆に、ご都合主義だからこそ面白いと言う人もいる。でも、僕は単にアクションシーンとして素晴らしいと思うんです。あれを越える銃撃戦があるとしたら、ゲルマンの『道中の点検』のラストぐらいではないでしょうか。蓮實さんは、『殺しの烙印』や『東京流れ者』はあまりお好きではないのでしょうか。 蓮實 『東京流れ者』は好きですが、『殺しの烙印』はそんなに見直していません。告白してしまうと、私は、宍戸錠という役者があまり好きになれなかった。あの頬っぺたの膨らみ方が、どうも好きではない。宍戸錠に比べると、圧倒的に小林旭が好きでした。たとえば、『関東無宿』の冒頭、橋の上を歩いているロングショットに続いてすっとバストショットになった時の、その顔の傷の見せ方が、実にいい。あの頃、スターは唯一小林旭しかいなかった。いい二枚目の人たちがたくさんいたし、アクション俳優も何人かいたけれど、役者としては小林旭が飛び抜けて好きでした。多分私は、日活ファンとしては失格だと思います。エースのジョーが好きじゃないなんて言っているぐらいだから(笑)。実は、石原裕次郎も渡哲也もあまり好きではない。『東京流れ者』の渡哲也に比べたら、『刺青一代』の高橋英樹や『花と怒涛』の小林旭の方がはるかにいい。なぜそこまで言えるのかというと、着流し姿が似合うかどうかなんです。渡哲也もいいんだけれど、どこか和服が似合わない。ところが高橋英樹も小林旭も、和服が着られる人たちなんです。小林旭の『関東無宿』は、特に後半部分は何度見てもいいですねぇ。着流しで雪駄を履く感じが様になっている。ふっと振り返る瞬間の演技も、いわゆる東映のやくざ映画とは違う。人間のもっと生々しい感じが出ているんですよ、あの頃の小林旭や高橋英樹には。 伊藤 今回鈴木清順が亡くなって、どれも見直したばかりなんですが、そういう点に注目して、もう一度見たく���りました。鈴木清順の映画での小林旭は、他の監督の時と違って、暗くて翳りがありますよね。 蓮實 小林旭は、他の監督の映画では随分笑っている。でも清順さんの映画では、『関東無宿』にしても『俺たちの血が許さない』(一九六四年)にしても、ほとんど笑わない。あの笑わない小林旭が好きなのです。 伊藤 読売新聞の追悼文によると、蓮實さんが鈴木清順さんに最後に会われたのは、二〇〇五年に『オペレッタ狸御殿』が公開された時ですね。 蓮實 そうです。東海大学で、山根貞男さんと一緒に、清順さんにインタビューさせてもらった時が最後です。清順さんは私よりも一回りぐらい年上なのですが、「蓮實さん、蓮實さん」と会えば気さくに声をかけてくださる方だった。一度、NHKでもばったりお会いしたことがあったのですが、「今日は役者ですわ」と苦笑しておられました。世代的にいうと、私の母が大正元年生まれで、それで大正というものに若干惹かれるところがあって、清順さんに親しみをおぼえるのも、そういうところが関係しているのかもしれません。恩師の山田𣝣先生も大正生まれで、何か近いものを感じてしまう。瀬川昌久さんも清順さんとほぼ同世代で、初対面なのに、昔からの知り合いのような感じで話をしてくださいました。なぜか大正生まれの人たちとは馬が合うのです。ただ、三島由紀夫と馬があったかというと、そうはならなかった気もしますが(笑)。 伊藤 その世代だと、戦争を経験していますよね。鈴木清順監督も学徒出陣で応召し、輸送船が攻撃を受けて、海を漂流したりもしました。『春婦傳』で戦争が描かれていますけれど、やはり戦争体験が、後々の作風に影響を及ぼしたと考えられるでしょうか。 蓮實 よくわかりません。それは、わかろうとする気持ちなど一切ないというのが、私の依怙地なところかも知れません。おそらく何かしらの関係はあったのかもしれませんが、鈴木清順監督は、そのことが映画の上に影響を及ぼすほど、やわな人ではなかろうと思う。戦中の記憶が映画なり、彼の作風なりに現われるほど、体験そのものがやわなものではないはずでしょうし、我々にわかる程度の影響だったとしたら、映画なんか撮らないんじゃないかという気もします。 伊藤 もしかしたら戦争で死んでいたかもしれない。だから、戦後の自分の人生は、ある意味で余生みたいな感覚があって、そのことが、特定のイデオロギーを主張しない、相対主義的な態度にどこかで繋がっていった。そういう予想も立てられるとは思いますが、蓮實さんのお考えでは、それは違うということですね。 蓮實 そのことは誰も知り得ないと思うし、また知ったからといって、清順さんの映画への理解が深まるものではないということです。つまり、あの頃の男たちは、多かれ少なかれ、みんな死にかけている。瀬川さんだって、学徒兵として戦争に行っておられたし、山田𣝣さんにしてもそうです。でも、そのことが後の彼らにどのような影響を与えたかは、私たちにはわからないことだと思います。また、簡単にわかった気になってはいけない。あの世代の方々にとって、戦争体験というものが本当に何を意味しているのか、実体験のない私にはイメージできない。撃沈された輸送船から放りだされた清順さんが波間を漂っている姿など、絶対に想像できないし、してはいけないと思う。確かに、戦争を生き延びたという感覚はあるのでしょうが、だからといって、終戦の時は二十歳ぐらいですから、それ以降が長い余生ということでもないでしょう。その辺りは、本当に想像がつきません。
蓮實重彥氏に聞く(聞き手=伊藤洋司) 鈴木清順追悼|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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deusnatura · 8 years ago
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伊藤  二月十三日に、鈴木清順監督が東京都内の病院で亡くなられました。大正十二年、すなわち一九二三年生まれの九三歳でした。遺作は二〇〇五年公開の『オペレッタ狸御殿』になります。蓮實さんは、死去のニュースをどのような気持ちで受け止められましたか。 蓮實  何か特別な「気持ち」があったかと言えば、ほとんどなかった。もうお撮りになることはないと思っていましたし、新作に入られるという噂をフランス経由で聞いたこともあったのですが、それはないだろうと思っていましたから。あのように自分の撮りたい映画をほとんど好き勝手に撮られた方ですから、大往生を遂げられてほっとした。これが正直な気持ちです。 伊藤  読売新聞の追悼文(二月二七日朝刊)に書かれていましたが、蓮實さんは一九九一年に、鈴木清順監督と一緒にロッテルダム映画祭に参加されています。個人的な親交もあったとのことですが、最初に出会われたのはいつのことでしょうか。 蓮實  鈴木清順問題共闘会議があった頃のことです。『シネマ69』のインタビューで、山根貞男さんをはじめ編集部の方々が青山のあたりに席を設け、数人でお話しをうかがった記憶があります。 伊藤  一九六八年四月に、鈴木清順監督が日活から解雇を通告されたことに端を発して、六月に銀座でデモが行なわれ、七月には鈴木清順問題共闘会議が結成されました。このデモに、蓮實さんも参加されたとうかがっています。 蓮實  当時、シネクラブ研究会をやっていた川喜多和子さんが、清順さんの全作品上映会を企画していました。けれども、日活がフィルムの貸出しを拒否し、全作品を封鎖してしまったので、デモが組織されたわけです。だから、最初は「清順映画を見せろ」ということが、デモの主旨だった。それが段々、「資本主義体制下では、映画を撮ること自体が犯罪だから、清順も撮ってはいかん」というような話になってしまった。私はそんなことはないだろうと思い、「撮れる機会があれば撮っちゃっていいんですよね」と清順さんにうかがうと、「そりゃ撮りますよ」と笑っておられました。 伊藤  蓮實さんは個別の問題として考えて参加されたのだと思いますが、このデモは時代状況もあって、学生運動とも繋がりを持たざるを得なくなったようです。当時の状況をもう少しお聞かせいただけますか。 蓮實  私は責任者ではなかったんですが、しかるべき社会的な地位にあるということもあり、川喜多さんから、デモのまとめ役をやってくれないかと依頼され、「デモをまとめることなんてできません」と答えるしかなかった。事実、松田政男さんが学生を連れて入ってきて、渦巻きデモで盛り上げて、最後には総括を行ったりしている。総括なんてちゃんちゃらおかしいと醒めた目で見ていましたが、私服の警官ともかなり危うい関係になり、私が出てゆき、「お名前を教えていただけますか」とその私服に訊ねると、「教えられません」と答えたので、「あなたは公僕だから、教える義務がある」と言い返したりしたのをおぼえています。 伊藤  鈴木清順問題共闘会議による裁判の支援にも関わりになられたのでしょうか。 蓮實  形式上は支援者のひとりでありましたが、実際はほとんど関わりませんでした。共闘会議の最初の集まりにいくと、無償の政治的色が強く、自分の出る幕ではないと思って、そのまま帰ってしまいました。 伊藤  この解雇問題のそもそものきっかけが、『殺しの烙印』(一九六七年)という作品です。これが日活社長の堀久作から、難解だと非難されました。僕の大好きな映画です。はじめて見たのは大学生の時です。何がなんだかよくわからないのですが、めちゃくちゃ面白い映画だと、そういう印象をずっと持っていました。でも、数年前にDVDで見直して、考えが変わりました。序盤で、殺し屋ナンバー1を護送する最中に銃撃戦が起こります。トンネルがいくつもある細い道で、向こうから襲ってくる。僕はずっと、この場面は空間的な位置関係がデタラメだと思っていたのですが、ゆっくり再生して見てみると、そうではないことがわかりました。 蓮實  細部は結構律儀に撮られているのがわかります。 伊藤  位置関係がすべてわかるように撮られているのに気づいて、びっくりしました。空間は多少歪んでいるようには思うのですが、それでもわかるように古典的に撮られていたのです。この場面だけではなく、物語の全体が、何が起こっているのかという点に関しては明瞭で、すべて示されています。その意味では、わけのわからない映画ではまったくありません。八〇年代以降のいくつかの「難解」な作品とは明らかに違うのです。実は、『東京流れ者』(一九六六年)ともちょっと違います。 蓮實  鈴木清順監督が我々に残したインパクトはあまりに強烈で、清順映画を見ることより、清順について語ることの喜びを誰もが行使しすぎていたと思います。鈴木清順と聞くと、何か言葉に出したくなる。その言葉は、結局のところ、「難解な清順美学」というものに尽きてしまう。そう言っておけばいいとみんなが思っており、『ラ・ラ・ランド』のデミアン・チャゼル監督までが、『東京流れ者』の影響について語ってしまう(笑)。『ラ・ラ・ランド』が、色彩の使い方において『東京流れ者』から間接的に影響を受けたというのは、わかりやすい話ではある。しかしチャゼル監督には、こう言いたい。『東京流れ者』に関してはともかく、清順さんは一九五〇年代から撮っていた人であり、他の映画をまともに見ていますか。清順さんはごく普通に映画を撮れる人なんですよ、と。もちろん非常に面白い個人的な視角も入ってきますが、難解な清順美学などと考えられているものは、我々にとって、もっともわかりやすいものでしかない。清順監督の真の意味での「難解さ」は、彼の撮ったごく普通の映画に現れている。私が好きな『悪太郎』(一九六三年)のような作品です。『悪太郎』は『野獣の青春』(同年)の直後に撮られています。『野獣の青春』では、色彩としての赤が強調されていたり花びらが舞ったり、いわゆる清順美学といわれているもので見るものを惹きつける。それが『悪太郎』ではがらりと変わって、ごく普通の地方映画になっている。ロケーション効果も見事です。背景となった土地の雰囲気や人物の動かし方は、ほとんど松竹映画を思わせさえする。導入部で高峰三枝子と山内賢を乗せた二台の人力車が広い堀端を行く複数のショットなど、胸がどきどきするほど素晴らしい。清順さんはそういう普通の映画を撮れる人であり、人はそこを見ずに、清順美学と呼ばれているものだけを語ってしまう。しかも、美学と呼ばれているものを人々が本当に目にしてるかといえば、言葉で納得してしまっているだけです。八〇年代以降の鈴木清順作品と『殺しの烙印』は違うと今おっしゃったけれど、まさにその通りであって、上層部の評判が悪かったとはいえ、『殺しの烙印』は商品として充分使い物になっている。清順さんは五〇年代からずっと撮りつづけ、B級的・裏番組的な側面はあったにしろ、それで酷い損害を会社に与えたことなどまったくない。ただし、時々ちょっといたずらをしてみることがあって、それが受けたので、ご自身もそちらの方向にいくところがあった。そんな感じだったと思いますね。 伊藤  一九六二年までの初期の作品では、『すべてが狂ってる』(一九六〇年)が飛び抜けて好きなんです。戸外での若者たちの歩行や自動車の走行の感覚、さらには室内の性的な場面での、ネ津良子や中川姿子の瑞々しい演技など、どれも素晴らしいですよね。語りの経済性がしっかり尊重されていて、ロケーション撮影のリアリズムも魅力的です。こういうのを見ると、普通の映画をきちんと撮れる監督だということがよくわかります。そうした基本がしっかりしているから、映画を崩して撮っても大丈夫なんですよね。 蓮實  下手な人が崩すと、どうしようもなくなってしまう。ただ、清順さんが演出のうまい監督だとは、誰も言いませんでした。見る前から、演出が変だと思われていたのです。『すべてが狂ってる』は、私も非常に好きな映画です。日活だけはなくて、当時の五社では、地方ロケが多かった。その土地の雰囲気をうまくとらえて、地元の人たちにも見てもらおうという狙いがあったのでしょう。だから『けんかえれじい』(一九六六年)にしても、備前と会津若松が舞台になっている。それぞれの場面がその場所で撮られているかどうかはともかく、このふたつの舞台が素晴らしい。しかも、会津では白虎隊をからかっている。私は、監督の語る言葉などほとんど信用しませんし、その言葉で論を立てることもしない人間ですが、清順さんが「明治が嫌いだ」と言っていたことだけは、信用しています。つまり明治維新も嫌いであり、白虎隊なんてちゃんちゃらおかしいと思っていた。よくあんな映画を会津若松で撮れたなという気がするほど反明治的であり、大正・昭和の感じが強い。それから、ラストの鶏小屋における乱闘シーン。あそこも、本当は全部が正しく繋がるように撮られているのですが、余計なことをひとつ見せることによって、何をやっているかがわからなくなる。つまり仲間がみんな縛られているところで、高橋英樹が蝋燭の火でロープを焼き切って逃れる。それで最終的に喧嘩に勝ったり、ふと北一輝が出てきたりするところも格別に面白い。 伊藤  『けんかえれじい』では、高橋英樹と浅野順子の、最後の別れの場面が大好きなんです。修道院に入るという浅野順子が、高橋英樹の部屋を出て障子を閉めるんですが、その後、ふたりは障子越しに指をなぞり合う。すると、女の指が奥から障子をそっと突き破って男の指に触れるんです。この指が本当に素晴らしいと思います。まさに正統派の演出です。 蓮實  おっしゃる通りですね。障子といえば、石原慎太郎を思い起こしがちですが、そんなことを忘れさせるほど、あの場面は素晴らしい。ふたりは、破れた障子を通して指を絡ませることしかできない人たちだった。その関係が実にうまく描かれている。グリグリ坊主の高橋英樹の凛々しい立ち振る舞いが実にいい。男優では『関東無宿』(一九六三年)の小林旭も素晴らしいし、ああやって役者を真に活かすことができる監督は、そうはいないと思わせるほど演出がうまい。 伊藤  『関東無宿』は、窓の外が黄色から青紫に変ったりする演出に目がいきがちなのですが、やはり物語がきちんと語られていますよね。組の違うふたりの男、小林旭と平田大三郎が、それぞれやくざ社会の中で追いつめられていく。その一方で、女学生役の中原早苗が、やくざ社会に入っていく。三人の物語が端正な演出により並行して描かれていて、胸を打たれます。ただし、『けんかえれじい』に関してですが、蓮實さんは以前『ユリイカ』で、ラストの雪に寒さが感じられないと指摘されました。この寒さの欠如は欠点ではなく、映画的な運動を表層に露呈させるための演出だとされました。『花と怒涛』(一九六四年)のラストにも新潟の雪景色が登場し、これもセットで作られた感じが強くて、寒さが欠落しています。ただ、ここでは『けんかえれじい』のように見事な映画的運動が組織されているとは言えません。雪の場面を見ていると、正直に言えば、もうちょっと寒さを感じさせてもいいような気がします。一九六〇年代なら、大映の三隅研次や、東映の加藤泰の雪は本当によかったと思います。鈴木清順の描く雪は、それらとは少し違っています。それに、グリフィスの『東への道』の終幕を考えれば、雪の寒さと映画的な運動の両立は、本来、十分可能ではないかと思います。蓮實さんはどのように考えていらっしゃいますか。 蓮實  『東への道』はロケーションですよね。清順監督の映画の雪は、ほとんどセット撮影ですからね。その違いはあると思います。「アメリカ映画は、あんなところによくロケーションにいけるなあ。僕もやってみたい」ということを、清順さんはよく言っておられました。グリフィスのように雪の冷たさを表現するのは、自分たちには端からできないと思っていらしたんじゃないでしょうか。 伊藤  雪の寒さの描写に、まるで興味がなかったようなふしも感じるのですが。 蓮實  そこまではわかりませんが、実際に雪景色の中で撮っている『東京流れ者』にも、寒さは季節として描かれていない。 伊藤  季節感の不在について、蓮實さんは『ユリイカ』で論じておられました。 蓮實  それも、「明治が嫌いだ」ということと、どこか通じるものがある気がする。 伊藤  先程、高橋英樹がいいとおっしゃられました。『刺青一代』(一九六五年)での彼の演技も素晴らしいですよね。この作品では、ラストの殴り込みの場面が有名です。水色の襖を次々と開け、その次に黄色い襖を開けていき、さらには暗闇の中で、拳銃の銃口から赤い光が放たれます。多くの映画監督に影響を与えている場面ですね。でも、この殴り込みだけでなく、そこに至るまでの盛り上げ方も素晴らしいんです。抑えた描写で、徐々に、だが確実に情感を盛り上げていく。この演出がしっかりしているから、最後の抽象的な様式美も、多くの観客に受け入れられたんだと思います。 蓮實  私は『刺青一代』が公開された年の暮れにフランスから帰ってきたので、リアルタイムでは見ていない。一九六二年の秋から六五年までの作品は、すべて後に名画座などで見たものです。  伊藤  蓮實さんがはじめてご覧になった鈴木清順監督の映画は、どの作品ですか。 蓮實  『裸女と拳銃』(一九五七年)だったと思います。先程『悪太郎』が好きだという話をしましたが、そういう意味でいうと、私にとっての鈴木清順は、「太郎」の人なんです。本名が清太郎であり、私がはじめて見た清順監督の映画で主演していたのが、水島道太郎。最初見た時は、この人がどうして主演をはれるのか、不思議な感じを持ちながら見ていました。では、『裸女と拳銃』をどうして見ることになったのか。私の高校の先輩に三谷礼二という、後にオペラ演出家になった方がいるんです。彼は大学時代、『孤獨の人』という映画に出演して、大学を退学処分になっています。『孤獨の人』は学習院の高等科が舞台になっていることもあり、映画の衣装として、私も制服を貸したりしたのですが、三谷さんはその後、日活の宣伝部に移ったので、大学時代の私はよく試写室で公開前の映画を見せてもらいました。ある時、「三谷さん、今日は何か面白いのない?」って聞くと、「清太郎があるから来い」と言われて見たのが、『裸女と拳銃』だった。めちゃくちゃ面白くはなかったけれど、なかなかよかった。次の『暗黒街の美女』(一九五七年)も水島道太郎主演で、その頃の清順さんの映画は、当時日比谷にあった日活の試写室で見ました。飯島正さんなどが来ておられ、胸をどきどきさせながら見た記憶があります。 伊藤  『裸女と拳銃』が鈴木清太郎名義の最後の映画で、『暗黒街の美女』で鈴木清順に改名したんですね。『暗黒街の美女』はダイヤモンドをめぐる話です。男がダイヤを飲み込んで死ぬと、その男の腹を割いてダイヤを取り出すんです。すごい話だなと思いながら、楽しんで見ました。デビュー時から毎年何本も撮りつづけているのですが、一九六〇年代に入ると、長門裕之主演の『密航0ライン』(一九六〇年)や、『百万弗を叩き出せ』(一九六一年)と『俺に賭けた奴ら』(一九六二年)という、和田浩治主演のボクシング映画などを撮ります。 蓮實  『密航0ライン』もなかなかのものでしたね。 伊藤  長門演じる新聞記者が、国際密輸組織を追う話です。横浜でロケをしていて、テンポがよく、長回しのショットも充実していました。話が前後しますが、『素ッ裸の年令』(一九五九年)は赤木圭一郎の初主演作で、ローティーンやくざたちのオートバイ映画です。『散弾銃の男』(一九六一年)は無国籍的なアクション映画で、主演の二谷英明扮する流れ者が、突然アコーディオンを弾きながら歌い出したりしました。六〇年に五本、六一年には六本も公開されていて、六二年の『ハイティーンやくざ』と『俺に賭けた奴ら』、六三年の『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』『野獣の青春』『悪太郎』『関東無宿』とつづきます。『野獣の青春』で、鈴木清順は変わったと言われています。映画館のスクリーンの裏側に組織の事務所があるという設定が、なんだか想像力を刺激して、強く印象に残ります。 蓮實  リアルタイムでは見ていない時期なので、『野獣の青春』は帰国後に新宿昭和館で見ました。 伊藤  僕は一九六九年生まれなので、ほとんどの鈴木清順の映画をリアルタイムでは見ていないんです。『ツィゴイネルワイゼン』(一九八〇年)と『陽炎座』(一九八一年)さえ、小学生でしたから見逃しました。ただ、世間でかなり話題になっていたので気になっていて、中学二年生の時に『ツィゴイネルワイゼン』を見ました。これが僕の鈴木清順の初体験です。何がなんだかわからない異様な衝撃を受けたのですが、この映画から入ったことは、ある意味で不幸だったと思います。その後、『関東無宿』などをテレビで見たのですが、スタンダードサイズに切られていて、正直なところ、当時は今ひとつよくわかりませんでした。鈴木清順の真骨頂が日活時代にある、特に六三年から六七年だと確信できたのは、大学生になってからのことです。そんな経緯があって、いまだに不安定な姿勢を示すことがあり、『ツィゴイネルワイゼン』自体も、この歳になっても幽霊映画として熱烈に好きなんです。 蓮實  ご本人は「大正三部作」とは言いませんが、あの頃の清順さんは、荒戸源次郎という面白いプロデューサーが出てきて、清順作品をサポートした。しかも上映がテントで、『ツィゴイネルワイゼン』は、東京タワーの下に設営されたテントで見た記憶があります。その前に『悲愁物語』(一九七七年)があったけれども、あれは松竹系だったので、やはり『ツィゴイネルワイゼン』は久々のカムバックという感じもあり、「清順さんやってるなあ」と嬉しく思いました。もちろん映画としても非常に面白かった。ただ、この清順は「やさしい作家」だとも思いました。つまり評判になりやすい映画じゃないですか。私は、むしろ評判になりにくい清順が好きなところがあり、『悪太郎』にしてもそうですね。『ツィゴイネルワイゼン』からは、『陽炎座』『カポネ大いに泣く』(一九八五年)『夢二』(一九九一年)とあり、その頃の清順さんは、世界的な有名人だった。読売新聞の追悼にも書いたけれども、ロッテルダム映画祭では、誰よりも清順さんがスターだった。海外の他の映画祭でも、清順さんとは何度かご一緒しましたが、トリノ映画祭での『東京流れ者』の上映後は、外国人の観客までが「トウキョウ、ナガレモノー♪」って歌いながら劇場から出てくる。こんなに簡単に「毛唐」を騙していいものかと苦笑した記憶があります。『ラ・ラ・ランド』のチャゼル監督までが騙されてしまったわけですから(笑)。 伊藤  『東京流れ者』は、ラストのアクションシーンが基本を崩していて、すごいですよね。単にクラブのセットが抽象的というだけではなくて、カット割りがおかしいんです。白いスーツの渡哲也が黒服の男を撃つと、撃たれた男のピストルが飛んで、ピアノの鍵盤の上に落ちるのですが、飛んでいく方向が明らかに逆なんです。また敵方の男たちが入ってくる時に、どちらの方向から来たのかわからないショットがあります。翌年の『殺しの烙印』ともちょっと違うんですね。ただ、こうしたデタラメさをそれ自体面白いと受け止めていいのかどうか。古典的な基本を踏まえながらも、あえてここは踏み外して撮っていると考えればいいんでしょうけれど。崩すことそれ自体に価値があるというのは、ちょっと危うい気がします。ともかくこの辺りの崩し方が、『ツィゴイネルワイゼン』以降、さらに徹底されていくのではないでしょうか。 蓮實  『陽炎座』は、あえて繋がらない映画として撮られている。 伊藤  たとえば冒頭の橋と���段なんて、ここまで崩していいのかというぐらいデタラメに撮っています。ちゃんとした映画を撮れる監督だからと思って見ていると、やっぱり面白くなってくるのですが、もし新人監督の第一作だったら、どう受け止めていいのかわからなくなるような映画です。鈴木清順の作品の中では、『陽炎座』が一番過激な映画ではないでしょうか。 蓮實  ここでの役者の使い方も過激ですね。演技をさせているようでいて、演技させていない。役者に演技などさせてやらないという点でも、過激な監督だと思います。元々清順さんは、脚本の段階で気に入らないと、書き直しをさせる人だった。新藤兼人にまで書き直させたという逸話もあります。しかし『陽炎座』の頃になると、脚本を直させるというよりも、現場で脚本を変えてしまう。前の晩に思いついたことを、そのまま撮るから、繋がらない映画になってしまったと思います。 伊藤  最初から繋がらないことを目的にしてやっているとも、言い切れないのですね。でも、八〇年代から鈴木清順の映画を見はじめると、繋がらないこと自体が面白いみたいな形で受け止めてしまいがちになります。その辺り、やはり受容の仕方が不幸だったのかもしれません……。 伊藤  話題を変えて、鈴木清順の映画を今後どう受け止めていくべきかについて、うかがいたいと思います。繰り返しになりますが、鈴木清順はキャリアを通して、本質的には映画を崩していった監督として受け止めるのがひとつの筋だと思います。ただ、蓮實さんの受け止め方では、元々基本ができている監督であり、そこを見よということですよね。しかし、鈴木清順から影響を受けている監督たちは、たとえばタランティーノにしても、審美主義的に継承しがちです。原色の使い方とか、様式美とか、そういう面に影響を受けながら映画を撮るわけです。では我々は、ここから先、どのように鈴木清順の映画と向き合っていけばいいのか。蓮實さんの考えをお聞かせいただけますか。 蓮實  現在では、あらゆる映画が、DVDなどで簡単に見られる時代になっています。鈴木清順さんの作品も、四分の三ぐらいは見ることができる。そうすると、見られないことが惜しくなくなってくる。昔は、名画座にしかかからなかったから、見逃す手はないと思って必死に通ったわけです。ところが、いつでも見られるんだからと人びとが考える時代に、鈴木清順の何を見よと、批評家や教師が言えばいいのか。ひとつには、逆説的になりますが、『東京流れ者』は、しばらく誰にも見せないようにしたい。あれを見たら誰もが面白いと思ってしまうので、そのような面白さを禁じないと、真の清順には達しえないからです。もちろん、真の清順なんて存在するはずもありませんが、一九四〇年代のおわりに松竹に入り、助監督として鳴かず飛ばずの生活をして、日活に移って映画を撮りはじめた。時々妙なものを撮るけれども、会社に大変な迷惑をかけたわけではないし、その中から清順さん独特の面白さを次々に発明していったわけです。まさに撮ることによる映画の発明を実践しておられたと思います。その面白さについて、しばらくは『東京流れ者』のことは忘れて論じるべき時がきている気がします。『東京流れ者』は、わからないことがわかりやすい映画だからです。ところが、わかるということがわかりにくい映画を、清順さんは撮っている。『悪太郎』がそうです。どこが面白いのかがすぐにわからないけれども、じっと見ていると、ロケーションが素晴らしかったり、人物と風景の関係が素晴らしいということがわかってくる。ですから、私は、『東京流れ者』を当分見ることを自粛せよと言いたい(笑)。あれを見て、鈴木清順のわからなさを安易に面白がってはいけないと思います。 伊藤  『悪太郎』は、十年ぐらい前に見て以来、見返していないのですが、抒情的な描写がとても印象的でした。あの映画ではあと、和泉雅子が好きなんです。彼女は『刺青一代』にも出ていて、こちらもとてもいいですね。高橋英樹が、「俺のカラダは汚れてるんだ」と言って、胸をはだけて刺青を見せます。その時の、切り返しショットでの和泉雅子の表情が素晴らしかった。言葉が漏れ出そうになるのをグッとこらえて、無言で男を見つめるんです。こんないい表情をする女優なんだと感動しました。 蓮實  和泉雅子って、かったるい女優だと思っていたけれど、確かに『刺青一代』や『悪太郎』の彼女はいいですね。 伊藤  かったるい、ですか。あと女優では、蓮實さんも追悼文で触れられていた、『春婦傳』(一九六五年)や『河内カルメン』(一九六六年)の野川由美子ですね。『春婦傳』も長い間見返していないのですが、戦争中の中国が舞台で、真夜中に砲弾が火花のように炸裂するなかを彼女が走るのが、記憶に焼きついています。 蓮實  闇の大地を、野川由美子が疾走する。それが単なる抽象的な疾走ではない。砲弾が飛び交う中を、走りに走る。あの具体的な疾走ぶりに、私はただただ感動してしまう。 伊藤  カメラも横移動するんですね。細部の記憶はあやふやなのですが、野川由美子は、『肉体の門』(一九六四年)より『春婦傳』の方が一段上でした。 蓮實  そう思います。『肉体の門』もいいけれども、やはり『春婦傳』における野川由美子のあの疾走ですね。つまり、あれだけ走ると、息が切れてしまう。その必死な女優の姿を見せてしまうところが、清順さんの演出の素晴らしさだと思います。野川由美子は『悪太郎伝 悪い星の下でも』(一九六五年)でも非常にいい。少し崩れた感じがよかった。もちろん東映のやくざ映画、たとえばマキノ雅弘作品にも出ていたけれども、崩れるようで崩れきらない女の意地みたいなものが、野川由美子にはあるんです。清順さんは、そういうものが本当に好きだったと思いますね。 伊藤  野川由美子は日活専属ではないので、鈴木清順が繰り返し起用したということは、彼女が気に入っていたんでしょうね。 蓮實  お気に入りといえば、『関東無宿』の伊藤弘子もそうでしょう。和服姿で小林旭を惑わす妙齢のファム・ファタルとして逸品でした。『陽炎座』にも出演依頼をしておられますから、清順さんの無意識に触れる何かを持っていた女優だとおもいます。ところで、伊藤さんが最初に見られたのは、『ツィゴイネルワイゼン』だとおっしゃいましたよね。 伊藤  はい、中学二年生の時です。 蓮實  あれが一九八〇年の公開ですから、そこから三五年以上経っている。清順さんが日活で撮りはじめてから『ツィゴイネルワイゼン』までが、ほぼ二五年です。この間、彼は二本立ての裏番組を律儀に撮っていましたが、その時期の方が短い。ここが難しいところだと思います。清順映画の難解さが面白いんだという受け止められ方をしてから今日まで三五年ですが、それは、鈴木清順にとってではなく、我々映画を見るものにとっての不幸であるような気がします。清順さんご自身は「代表作は何か」と聞かれると、「最後に撮ったものです」とか「これから撮るものです」と言っていましたが、自分の映画で何が好きだったのかについては、ついに最後まで語らなかった。ところが、我々から見てみると、少しも難しくない清順映画があって、その中には、評価することの難しさで見るものを途惑わせる作品がいくつかあるわけです。『春婦傳』だって難しくはない。ただ、我々をたじろがせてしまう何かがある。それが撮りたいものだったかどうかはともかく、この場面をこのように撮るぞという時には、本気に撮れる人だった。 伊藤  蓮實さんとはちょっと違うかもしれませんが、僕が鈴木清順の映画で一番好きなのは、『殺しの烙印』の防波堤の銃撃戦です。宍戸錠が自動車の下に潜り込んで、敵に近づいていくのですが、その見た目で銃撃戦を捉える、前進移動のローアングル・ショットがあります。戦慄するショットでした。こんなアクションシーン、こんなショットにはめったに出会えるものではない。僕が鈴木清順を心から好きなのは、あのショットを撮ったからだと思います。ところが、この場面について、防波堤にあんなふうにロープが置いてあるなんてご都合主義でおかしいと言う人がいる。逆に、ご都合主義だからこそ面白いと言う人もいる。でも、僕は単にアクションシーンとして素晴らしいと思うんです。あれを越える銃撃戦があるとしたら、ゲルマンの『道中の点検』のラストぐらいではないでしょうか。蓮實さんは、『殺しの烙印』や『東京流れ者』はあまりお好きではないのでしょうか。 蓮實  『東京流れ者』は好きですが、『殺しの烙印』はそんなに見直していません。告白してしまうと、私は、宍戸錠という役者があまり好きになれなかった。あの頬っぺたの膨らみ方が、どうも好きではない。宍戸錠に比べると、圧倒的に小林旭が好きでした。たとえば、『関東無宿』の冒頭、橋の上を歩いているロングショットに続いてすっとバストショットになった時の、その顔の傷の見せ方が、実にいい。あの頃、スターは唯一小林旭しかいなかった。いい二枚目の人たちがたくさんいたし、アクション俳優も何人かいたけれど、役者としては小林旭が飛び抜けて好きでした。多分私は、日活ファンとしては失格だと思います。エースのジョーが好きじゃないなんて言っているぐらいだから(笑)。実は、石原裕次郎も渡哲也もあまり好きではない。『東京流れ者』の渡哲也に比べたら、『刺青一代』の高橋英樹や『花と怒涛』の小林旭の方がはるかにいい。なぜそこまで言えるのかというと、着流し姿が似合うかどうかなんです。渡哲也もいいんだけれど、どこか和服が似合わない。ところが高橋英樹も小林旭も、和服が着られる人たちなんです。小林旭の『関東無宿』は、特に後半部分は何度見てもいいですねぇ。着流しで雪駄を履く感じが様になっている。ふっと振り返る瞬間の演技も、いわゆる東映のやくざ映画とは違う。人間のもっと生々しい感じが出ているんですよ、あの頃の小林旭や高橋英樹には。 伊藤  今回鈴木清順が亡くなって、どれも見直したばかりなんですが、そういう点に注目して、もう一度見たくなりました。鈴木清順の映画での小林旭は、他の監督の時と違って、暗くて翳りがありますよね。 蓮實  小林旭は、他の監督の映画では随分笑っている。でも清順さんの映画では、『関東無宿』にしても『俺たちの血が許さない』(一九六四年)にしても、ほとんど笑わない。あの笑わない小林旭が好きなのです。 伊藤  読売新聞の追悼文によると、蓮實さんが鈴木清順さんに最後に会われたのは、二〇〇五年に『オペレッタ狸御殿』が公開された時ですね。 蓮實  そうです。東海大学で、山根貞男さんと一緒に、清順さんにインタビューさせてもらった時が最後です。清順さんは私よりも一回りぐらい年上なのですが、「蓮實さん、蓮實さん」と会えば気さくに声をかけてくださる方だった。一度、NHKでもばったりお会いしたことがあったのですが、「今日は役者ですわ」と苦笑しておられました。世代的にいうと、私の母が大正元年生まれで、それで大正というものに若干惹かれるところがあって、清順さんに親しみをおぼえるのも、そういうところが関係しているのかもしれません。恩師の山田𣝣先生も大正生まれで、何か近いものを感じてしまう。瀬川昌久さんも清順さんとほぼ同世代で、初対面なのに、昔からの知り合いのような感じで話をしてくださいました。なぜか大正生まれの人たちとは馬が合うのです。ただ、三島由紀夫と馬があったかというと、そうはならなかった気もしますが(笑)。 伊藤  その世代だと、戦争を経験していますよね。鈴木清順監督も学徒出陣で応召し、輸送船が攻撃を受けて、海を漂流したりもしました。『春婦傳』で戦争が描かれていますけれど、やはり戦争体験が、後々の作風に影響を及ぼしたと考えられるでしょうか。 蓮實  よくわかりません。それは、わかろうとする気持ちなど一切ないというのが、私の依怙地なところかも知れません。おそらく何かしらの関係はあったのかもしれませんが、鈴木清順監督は、そのことが映画の上に影響を及ぼすほど、やわな人ではなかろうと思う。戦中の記憶が映画なり、彼の作風なりに現われるほど、体験そのものがやわなものではないはずでしょうし、我々にわかる程度の影響だったとしたら、映画なんか撮らないんじゃないかという気もします。 伊藤  もしかしたら戦争で死んでいたかもしれない。だから、戦後の自分の人生は、ある意味で余生みたいな感覚があって、そのことが、特定のイデオロギーを主張しない、相対主義的な態度にどこかで繋がっていった。そういう予想も立てられるとは思いますが、蓮實さんのお考えでは、それは違うということですね。 蓮實  そのことは誰も知り得ないと思うし、また知ったからといって、清順さんの映画への理解が深まるものではないということです。つまり、あの頃の男たちは、多かれ少なかれ、みんな死にかけている。瀬川さんだって、学徒兵として戦争に行っておられたし、山田𣝣さんにしてもそうです。でも、そのことが後の彼らにどのような影響を与えたかは、私たちにはわからないことだと思います。また、簡単にわかった気になってはいけない。あの世代の方々にとって、戦争体験というものが本当に何を意味しているのか、実体験のない私にはイメージできない。撃沈された輸送船から放りだされた清順さんが波間を漂っている姿など、絶対に想像できないし、してはいけないと思う。確かに、戦争を生き延びたという感覚はあるのでしょうが、だからといって、終戦の時は二十歳ぐらいですから、それ以降が長い余生ということでもないでしょう。その辺りは、本当に想像がつきません。
週刊読書人ウェブ 蓮實重彥氏に聞く(聞き手=伊藤洋司) 鈴木清順追悼 http://dokushojin.com/article.html?i=1051
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otoha-moka · 6 years ago
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燭台切探偵事務所
夏休みを目前にしたある日、隣のクラスの山姥切国広から大倶利伽羅はとある依頼を受けた。正確には大倶利伽羅ではない、大倶利伽羅のよく知る知人に探偵がいたのだ。山姥切国広は燭台切光忠と名乗る探偵に、自分への殺害予告が届いていたのだとおずおずとその文面の書かれた手紙を差し出した。
家のポストに入っていたのだという。確証はないが、話を聞く限りでは恐らくいじめの類ではない。すると国広はさらに同封されていたという写真を見せる。調べてみると養子に出された国広が幼少期を過ごしたという村だった。夏休みを利用して、村を調査することにした彼らは、村一番の富豪を訪ねた。
出迎えたのはもう70歳にもなろう老女であった。先日夫を亡くしたという彼女は今、遺産相続についての親族会議の真っ最中だったのだ。なるほど、奥を覗き込むと親戚と思しき人々が一堂に会していた。国広と、同じ歳くらいの青年もいた。――この富豪の名を、山姥切家と言う。
燭台切が訊ねると、国広はごく幼少期にここにいたと思う、と朧気な記憶を辿りながら答える。あまりにも幼い頃の話のため、はっきりとしないらしい。しかし、老女の反応は違った。国広が山姥切と名乗るや否や目の色を変えた。そして「鬼子にやるものなど何も無いよ」と冷たく言い放ち、戸を閉めたのだ。
仕方がないと村で唯一の民宿に泊まることになった翌朝、村の騒々しさに気が付く。燭台切が何があったのかと村人に訊ねると、山姥切家の長男が、どうやら他殺体で発見されたのだと言う。人集りを潜り目にした光景は、50代程度と思われる男性が、何箇所も刃物で刺され失血死している遺体であった。
脳裏を過るのは、国広に届いた殺害予告。村を離れた国広にすら届いた予告だ。この家は村一番の富豪、そして遺産相続。何か、何か繋がりがあるはずだ。燭台切が遺体を前に考え込むと、ふと声をかけられる。見れば昨日の親族会議でちらりと目に入った歳若い青年。彼は自身を「山姥切長義」と名乗った。
「本当は許可されてないんですけど…人死にが出てしまっているとなるとそうもいかない」そう言いながら騒ぎでもぬけの殻となっていた広い屋敷に3人を案内する長義。「これを、」と差し出したのは遺言状だった。遺言状には遺産相続についてこう書かれていた。「私の最愛、■■■■■に全てを」と。
その一文は黒く塗りつぶされていた。「これは…どういう…」「さぁね。俺には祖父のことなどわからない。ただ、この黒塗りで相続争いになってしまった、全く醜いところをすまない」燭台切の疑問に長義はさらりと答える。「最愛、というなら妻ではないのか」あの老女だ、と大倶利伽羅が思い起こす。
しかしその言葉には、それはありえない、と長義はゆるりと首を振った。そして続ける。「祖父は、美しいものが好きでね。身勝手なことに、歳上の妻が老いる様に嫌気がさしたと言う」「なるほどね、浮気か」「証拠なら、お前達が連れてきた…それだ」そういって長義は国広を鋭い視線で見やった。
「え…」国広の瞳が揺れる。知らない、そんなの。何か言いたくても言葉が出ない国広を余所に、長義は遺言状を漆塗りの小箱に仕舞う。「祖父の遺産が目的ならば、これで終わるとは思えない。出来る限りの協力はしよう…探偵ならば、依頼を受けてくれないか」そして、燭台切に向き直り頭を下げた。
話し合いが纏まり山姥切家を出ようとすると、もう昼を過ぎるかという時間だった。 とりあえず遺産問題も大事だけど目の前の事件だ、と意気込むものの、昼御飯がまだだった。誰のものともわからない腹が鳴る。長義は苦笑し「昼ならうちのものに用意させよう。食べていくといい」と告げて立ち上がった。
山姥切家の長男は、長義の父でもあったらしい。父の変わり果てた姿に思うところはあったと言うが、長義は今朝方というのに、過ぎたこととばかりに涼しい顔をしていた。(いや、心中がどうであるかは、読めないが)大倶利伽羅は視線を長義から逸らし国広を見る。こちらの方が落ち着きなさそうに見えた。
燭台切は昼食後、ひとり現場に向かった。さすがに高校生の彼らにこれを手伝わせるのは酷だ。このような寒村では、警察は隣町にある警察署頼りであり、昨晩降っていた雨で土砂崩れが起きたとかで来るのが遅れるのだそうだ。仕方なしにかけた村人から頂いたシーツを捲り改めて遺体を確認した。
遺体があったのは村の河原である。刺殺体の血量と砂利の部分から見える血量に違和感はなく、ここで確かに襲われ殺されたのだろう。砂利が敷き詰められているが、川の上流なだけありごろごろとした大きなものも多い。少なくとも、踏めば音がする。死亡推定時刻は昨晩の今日未明…だろうか。
死体には何箇所…何十箇所にも刺された跡があり、死因は出血性ショックと推定される。通り魔的犯行では、少なくともないだろう。(僕の本業じゃないんだけどな…)気分の良くないものをじっと見るのはどうにも心苦しい。眉を顰めたり、ため息をひとつつくことくらい許されたい。「…ん?これは…」
一方、国広と大倶利伽羅は時間を持て余すことになってしまった。村は騒然としていて、聞き込みに向くかは怪しい。それで、とにかく村の全体像を把握しておこうと散策することにしたのだ。「…すまなかった」「何が」「俺があんた達に言わなければ、巻き込まれなかっただろう…」「…そんなことか」
この村は交通手段は車かバスのみだ。何かに使えるかもしれない、と大倶利伽羅は時刻表をスマホで撮る。「…光忠も俺も、ここに来ることに決めたのは自分の意思だ」俯いたまま少し後ろを歩く国広にこたえる。「…気に病む暇があるなら、手伝え」大倶利伽羅はそう続けて、デジタルカメラを投げ渡した。
時刻は夕刻。結局これといった成果もなく大倶利伽羅と国広は村の中心部にある民宿へ戻ることにした。素人が出来ることなどたかが知れている、それよりも日が落ちてから帰る方が却って迷い面倒だというのが2人の判断だった。2人が民宿の手前まで着くと、2人組の初老の女性(村人だろう)が談笑している。
「…って山姥切家の跡取りよねえ」「あの民宿に探偵が泊まっているそうよ、予見していたのかしら」下世話ながら会話を聞いてみると、今朝方発見された遺体――第1発見者はあの河原付近を散歩していた老夫婦だったらしい――についての話だ。「事件が起きるって?予告でも届いていたんじゃあるまいし」
そうだ、予告だ、予告はあったのだ。それは少なくとも、この村から遠く離れた国広に、だが。「…行くぞ」「ああ…」とりあえず今は戻ろう。そう考え、2人は女性に声をかけるのは断念した。通り過ぎる際「…坊ちゃんは、本当は父と血が繋がっていないそうよ」という声を、大倶利伽羅は確かに聞いた。
「ああ、おかえり」宿の部屋に戻ると、燭台切はもう戻っていた。人好きのする笑みを浮かべ2人を迎え入れる。「どうだった?」「どうもこうも…普通の村、としか」「伽羅ちゃんは?」「右に同じだ…お前は」「…それがね、遺体のポケットから…」そういって燭台切は紙切れを2人の前に取り出した。
「これがね、入ってた」ぐしゃぐしゃに丸まったものを、恐らくは燭台切が丁寧に広げたのだろう。中には走り書きだとわかる荒さなのに、神経質にも見える手書きの字体で『今日が終わる頃、河原の黒岩にて。』と書かれている。河原には大岩がいくつかあり、その中でも黒いものがひとつ、目立つ所にある。
きっとあの岩のことだろう。「犯人から、呼び出された?」じっと紙をみた国広が考え込むように呟く。「僕もそう思うよ。逆に言えば、これを筆跡鑑定に回せば物証になるかも」うん、と肯定した燭台切はそれに応える。大倶利伽羅はその様子に、そう簡単にいくだろうか…と日の落ちた窓の外に目を向けた。
唐突に続くよ!明朝。騒々しい声で3人は起こされた。「探偵さん、探偵さん!起きてください大変なんです!」という女将の声だ。燭台切が眠い目を擦り、戸を開けながら返事をすると、青ざめた表情の女将は絞り出すように告げた。「また!あの家の者が殺されていたのです!」「…っ、2人目か!」
『これで終わるとは思えない』国広は青年の言葉を思い出していた。そして、殺害予告のことも。(…次は、俺かもしれない…?)理由は、わからないけれど。「伽羅ちゃんは国広くんと一緒にいてあげて!僕は先に見てくるから!」そうしているうちに、バタバタと着替えた燭台切は走って宿を出ていった。
自分の1番古い記憶を辿っても、この村の記憶はどこか靄がかってはっきりしない。まだ3歳とか、そこいらの記憶だ、無理もない。でも、何か引っ掛かりを覚えてしまう。あの青年のことも、知っているような…。「俺達も行くぞ…山姥切?」大倶利伽羅の言葉に国広は意識を戻され、曖昧に返答し後に続いた。
現場に着くと、野次馬の村人の人集りの向こうに山姥切家があった。定型的な謝罪の言葉でその間をすり抜けて行くと、中庭から見知った声が聞こえてくる。燭台切だ。「…ということですね?」「ええ…」状況を確認しているらしい。そちらへ行こうとした時、遮るように先程思い浮かべた青年が前に立った。
「あの人…お前達の知り合いの探偵の人から、来させないでって言われているんだ」「…なんで、」「…あまり、見ていて気持ちのいいものでは無いからね」「お前は、見たんだな?」「見たも何も、俺とここの手伝いをしている者が、第一発見者…だった。俺も、出来ることなら見せたくはない、かな」
そう言う長義の表情は、昨日よりも青く陰っていた。2日連続で親族が殺され、その1人は父親、もう1人については第一発見者だ、無理もないだろう。「長、」「…思い出したくはないと思うが、誰が死んでいた」国広が声をかけるのを遮って大倶利伽羅は長義に訊ねた。国広から小声で抗議の声が上がる。
それを一瞥すると、長義は組んでいた腕を解いて、右手でこっちへ、と中庭の入口から見えていた部屋へ入るよう促した。「本来なら、玄関から入るべきだけれど仕方ない。靴はそこに脱いでそのまま入ってくれ、話せることは話そう…探偵を呼びに行か���たのも俺だしね」そう言って自分は屋敷に上がる。
顔を見合わせた2人は、ここにいても何が出来る訳でも無いだろう、と長義に続いて屋敷に上がり込んだ。そこからすぐの、客間のような部屋に通される。畳の部屋に大きめのテーブル、座布団はすでに6つほど並んでいて、端にも積まれている。3人分の冷たい麦茶を出されたので、礼を言って軽く頭を下げた。
「今のはマサヒラさん…探偵と話をしているのはモリシタさん…2人居るんだ。さて、誰が死んでいたのか、だったね」「…ああ」「言ってしまえば、恐らくは、俺のおじ、父の弟、次男だ…。今朝方、中庭に倒れていた……、」長義は言い淀む。グラスを手に取ったまま、氷の入った自分の麦茶を見つめた。
まだ会って2日だが、大倶利伽羅には違和感のある様子だった。長義はこういった大きな家として様々な人と接することもあるのだろう、スラスラと澱みなく語る印象がある。隣に座る国広は長義が話を続けるのを静かに待っている。やがて、意を決したように長義は口を開いた。「…首から上が、なかった」
これパロなんで!彼ら刀じゃなくて人間なんで!! 「…そう、か」「すまなかったな、思い出させて」「いや、いい…知りたいんだろう。それに、俺がお前達の立場なら同じことをするだろうしね」そう言うと、いつの間にか涼し気な表情に戻っていた長義はグラスに口をつける。「…他に聞きたいことは?」
「次男、と言ったな。あと何人いる」大倶利伽羅の言葉に、国広はメモとシャーペンを取り出す。それを横目に長義は指を折りながら答えた。「…あと、1人。父の代は、3人兄弟だから。でも、その下の代となると俺と…いや、俺だけ、か。次男に娘がいる。でもうちは代々男があとを継ぐし…俺だけ、だね」
「…なら、」走らせていたペンを止め、国広が声を上げた。誰もが思いつくことだ。国広は申し訳なさそうに目を泳がせている。親族を疑うんだ、そうだろう。「わかってる。一番単純な構造は、遺産を欲しがった三男が、兄ふたりを殺した、ということだろうね…あるいは…」そこで、チャイムの音が響いた。
終わらせる精神で続き! 「あー…○○県警の者だが」その声は戸を開けたままの3人の部屋にも小さく聞こえてきた。縁側へと続く廊下を歩いていた女性が無遠慮に長義へ近付き肩を掴む。「長義、お前ね」その表情は焦りとも困惑とも取れた。長義はそれを無視して、その向こうで狼狽える女性に呼びかける。
先程麦茶を持ってきた人だ。「…お通ししてくれ」「ええ、分かりました」「長義…っ!」ぱたぱたと小走りで彼女が玄関先へ向かうと、何かを訴えるように長義を呼んだその女性は、わなわなと震えながらも立ち上がり、客人を見て「…失礼」と残し部屋を去った。「騒がせてしまったかな」「いや…別に、」
「あれは俺の母だよ」母親か…家庭事情に野暮なことだが、似てはいないように見える…見目も中身も。大倶利伽羅が長義を見ると長義は、ああ、と廊下に視線を移す。「どうにも気がたっているようなんだ、許してやってほしい」「…こんな状況だ、無理もないだろう」2人が言えることなど、それくらいだ。
「鶴さん!来てくれるって信じてたよ」「信じるって君なあ…君だろう?俺を寄越すようにって通報した奴に頼んだのは」「…昨日ちょっと遺体を漁っちゃって」「…この仏さんかい?」「いや、河原で発見された方」もういいだろうと長義が2人を連れて中庭へ行くと、2人の軽口のような会話が聞こえてきた。
「…職権乱用」大倶利伽羅が忌々しそうにそう呟く。「知り合いか?」「…」国広が小声で訊ねるも、その表情のまま無言で目の前の会話を見ている。これは肯定だ、と国広は納得し、これ以上訊くのをやめた。「ところで、君はどうしてこんなところへ?用がなければ滅多にはいかないところだろう、ここは」
「依頼があったからだよ。これは守秘義務だから、これ以上は言えない」「へえ、そうかい。…って伽羅坊!元気にしてたか?…と、そっちは」「山姥切長義です。ここの家の者ですよ」「ほう、長義、と…隣の君は?」「…山姥切国広、です」「山姥切…君もこの家の?」「…あ、いえ、俺は違くて」
「…全て、話した方が早いだろう。山姥切、いいな?」しどろもどろになる国広に代わって大倶利伽羅が答える。国広はこく、と頷いて肯定した。「僕達向こうの民宿に泊まってるんだ。物もそこにあるから…それじゃあ鶴さん後で来てよ。そこで話すから」「ん、了解。一段落したらすぐに行こう」
「…なるほどな、君が依頼人だったか。まあそうだろうとは思ったが」思いの外早くひと段落はついたため、昼前には鶴丸は宿を訪れていた。気前のいい女将が3人分に追加して昼食を用意してくれる。それを有難く頂き、現在は4人で殺害予告を囲んでいた。なんとも奇妙な光景だ。「何かに襲われたりは?」
鶴丸の言葉に思考を巡らせるも、やはり国広には答えが出ない。「…覚えがない」だからこそ、怖くないとは言えない。次は自分かもしれない、と漠然と感じてしまう。「そうか…気にし過ぎるのも体に毒だぜ、何も無いならそれでいいんだ」難しい顔をしていた国広を慰めるように鶴丸はその背を軽く叩いた。
本来の後継者が亡くなり、死者を悼むこともなくヒートアップする遺産相続についての議論に、長義は辟易としていた。自分がそこから消えても大人達は気づく様子がない。部屋を出ると夜の静寂だ。…DNA鑑定。祖父の遺品整理をしていた時、偶然見つけたそれが、長義を絶望にたたき落とすには十分だった。
それを手にして祖母に問い詰めたことは記憶に新しい。自分では考えられないくらい、冷静ではなかった。「じゃあ、国広は…っ!」「あのような鬼子の話、二度とするんじゃありません!」祖母は国広のことを鬼子と呼んだ。わからないわけではない。祖母からすれば、夫を誑かした鬼の子供なのだろう。
いや、しかしその鬼は…。長義は自室に戻り、机の引き出し1段目、鍵のかかった部分を開いてあの日以来隠し持ったままの封筒を開けた。DNA鑑定は、ごく幼い頃に何度か遊んだことのある国広のものと、それから自分のものだ。何度見ても結果は変わらない。「…なんで、戻ってくるんだよ、あの馬鹿は」
しばらくして、長義が階段を降りると白熱していたらしい家族会議がいつの間にか終わっており、別の喧騒が家を包んでいた。どうにも、長義にとっての最後のおじ、三男がいないらしい。(…逃げたか?おや、それとも)バンバンと扉を叩く音も聞こえてきた。三男の部屋だろうか。鍵がかかっているらしい。
お手伝いの森下さんに事情を伺うとそれらを事細かに教えてくれた。そうしているうちに、ガタンと大きな音が響いて、それから、長義は自分の母の金切り声を聞いた。「…え?」なんなのかとそちらへ走ると、大の大人が揃ってパニックになっている。その向こう、部屋の中、首を吊った三男を長義は見た。
途端、弾かれたように玄関に長義は走り出す。それを長義の母は呼び止めた。「長義、どこへ行くの!」「あの探偵と警察を呼んでくるんだよ!二人とも民宿にいるはずだ…」「そんな、迷惑をおかけするんじゃ、」「あの人達はこれが仕事だ!…それとも、母さんは探られたら痛い腹の中でもあるのか!」
「…っ、そんな、こと」言葉に詰まる。この反応は長義にはわかりきっていたことだった。その隙に出しっぱなしのサンダルをそのまま引っ掛けて家を出た。贔屓目なしにも山姥切家はこの村1番の屋敷で、村の中心的な存在だ。村の中心にある民宿には程なくして到着する。明かりはまだ煌々と付いていた。
「…いや、まあ、な?人としては気持ちはわからんでもないが…警察官としちゃあ、なるべく現場の保存に努めてほしかったなあ、なんて…そのロープの指紋とか、手掛かりになるかもしれないだろう?」長義が民宿一行を連れ立って家に戻ると、首吊り死体は床に下ろされていた。可哀想だと下ろしたらしい。
「しかしですねえ、お巡りさん。このような手紙まで残っているんだ、自殺でしょう?」「…うーん、いや、そうだとしても…」鶴丸に言い寄る様子から、どうやら下ろすよう指示したのは長義の祖母らしい。(…あれは、鬼子、と言っていた人だったか…)初日の冷たい視線が、国広には忘れられないでいた。
国広は養子だった。正確には、施設から引き取り手が見つかった。苗字を変えなかったのは、色々と手続きの問題があったらしく、それらがどうにかなった頃には、もうそう呼ばれるのが国広にとって普通になっていたからで、そこまで大きな意味は無い。両親と義兄は優しく、平々凡々な生活を享受してきた。
だと言うのに、あの老婆が「鬼子」と自分を呼んだことに、既視感を覚えた。どこかで、自分はそう呼ばれた気がする。そんな感覚だ。ひょっとしたら、その昔、自分はこの家を追い出されるようなことがあったのではないか、という予感を、なんとなく国広は感じていた。あまり、覚えていないのだけれど。
「これが遺言状だね、受け取るよ…」「俺にも見せてくれっと…どれどれ?」部屋に置かれた机の上に置かれていたという燭台切が受け取った遺言状には、人を殺したという罪の告白と、それに耐えきれないから死ぬという顛末が書かれている。「これはまた…お誂え向きな…」そう言うと鶴丸は眉を顰めた。
即座に諌めるように燭台切が鶴丸を見た。それを軽くかわし、鶴丸は場にいる全員を順に見遣りながら、話しにくそうに続ける。「あー…あのな、疑いたいわけではないんだが、これが自殺であると断定することはまだ出来ない」「でも、彼の死亡時にはみんな部屋に…」「いや、俺は自室にいたよ」「長義!」
何度か目にした気もする光景だ。長義の言葉に彼の母が抗議する、それを長義はものともしない。「3人が死ねば、次の後継者は長男の一人息子であるこの俺だ。…どうかな、これだって最もらしくお誂え向きじゃないか?」「長義、あなたいい加減に…」さらに続ける長義に、彼の母はより声を荒らげる。
それを遮ったのは「なあ、」と呼びかける鶴丸だった。「…長義、と言ったか…君、何か知ってるんだな?」そう確認をとる鶴丸を見ると、長義はゆるりと口角を上げ、どうだろうね、と答える。「…はは、食えないねえ、君。まあいいが…燭台切、宿の部屋借りるぜ」「聞かなくても借りるでしょ、鶴さんは」
鶴丸さんは公私とかで相手の呼び方きっちりわけそうなイメージがあるんだよな…続き。 宿に戻る度にひとりずつ増えているのを女将がさすがに不思議そうに見ている。しかも今回増えたのは村1番の家の孫息子だ。「おかえりなさい。お夜食は…」「ああ、お構いなく」そう軽く挨拶をして部屋に入った。
「さて、こちらからいこうか…最初に言っておくが…君を、疑いたいわけじゃあない」「…鶴丸?」「第一…いや、君の父親の遺体から出てきたメモの筆跡が…君のと一致している」「…そう、だろうね。俺はあの日、父を呼び出した。河原に呼び出したのは、人気のない場所が良かったから…時間も、そうだ」
「…長義くん、理由は、聞かせてもらえるね?」「それは構わないが…」燭台切の言葉に長義はしばし言い淀む。それから、お前、と国広を指した。「お前には、出ていってもらいたい」「…俺?」突然指をさされた国広はわけも分からず首を傾げる。しかし、長義は理由を話すつもりはないらしかった。
「…わかった、出ていよう。30分程度で問題ないか?」「おい、」大倶利伽羅は殺害予告を思い出し、国広を止めようとする。これはまだ未解決だ。が、国広としてはそうではないらしく、退出しようとする。「それは…山姥切家の何かだろうが、その犯人が死んだんだろう?」「…ついて行く」
大倶利伽羅が連れ立って出ていくのを、鶴丸が物珍しげに見ていると、呆れたようなため息が降ってきた。「…いくらなんでも過保護すぎないかな」「殺害予告が届いてるんだよ」「…殺害予告?」長義が訝しげに燭台切を睨む。燭台切は、しまった、と口を滑らせたことを自覚し、誤魔化すように笑った。
「部屋にいてよかったのに」「自分が脅迫されているのを忘れたのか」「それはそうだが…」戻ってすぐに宿から出ていく2人を女将が「気をつけて」と見送り、2人は何も無い道をなんとなく歩いていた。街灯も少なく、改めて暗がりだと感じる。空を見上げると星空が広がっていて、澄んだ空気を実感した。
夏だと言うのに、山奥の村は東京よりもずっと涼しい。「なあ、お前は、この村にいたことを誰かに話したことがあるか?」「…俺は、そうペラペラと他人に過去を吹聴して回るタイプに見えるか」「…いや、」違うだろう。だからこそ、十数年前の国広を知っている者でないとあの殺��予告は送れない。
「やはり…身内、だな」「…ああ、俺も…そう、思う。でも、俺に予告が届いたのが何故かわからない…」国広は今回のこの遺産相続について、ここへ来て初めて知ったほどで、山姥切家と接触を絶って久しいく、むしろ家のことも、ここへ来るまですっかり忘れていたし、今でも思い出せないほどだった。
2人の声を除けば、さくさくと土を踏む音だけが響いている。「…待て、お前さっき」国広はもう犯人は死んだのだから大丈夫だと言っていた。だが、今の話ぶりだとまるで事件解決を信じてないようだ。「…ああ言わないと平行線だろう」大倶利伽羅が国広を睨むと、国広はなんてこと無いように答えた。
こちらが柄にもなく心配したというのに…と、国広の言葉に大倶利伽羅は軽く苛立つ。が、何も出来ず溜息に息に変換される。それを聞いてか、こちらを伺うように名前を呼ぶ声も腹立たしい、と思ったところで、気配がした。瞬間。パシュッと何かが風を切る。何と思うまもなく、視界には星空が広がった。
たしか、直前に隣を歩いていた国広の声がした、叫ぶような、と大倶利伽羅が考えると、その声がすぐそこから聞こえてくる。うう、と低く呻く声だ。そこでようやく、何か重いものが乗っていることに気付いた。「…山、姥切?」「…怪我は?」そう言いながら右腕を庇うようにして国広が起き上がる。
「俺は頭を打ったくらいだが…今のは」「何か、矢のようなもの、だと思う…やられた…」「…は?やられた?」右腕を抑えている左手を掴み右腕を見ると、その刺激に痛みを感じるのか国広は小さく息を漏らす。右腕には、何かが刺さったような、掠ったような真新しい傷跡から、絶え間なく血が流れていた。
「矢は…見当たらなさそうだな。掠っただけでよかったが…」「いいわけないだろう、簡単に止血するから腕を貸せ」国広が辺りを見渡しても、凶器のようなものはない。2発目がないあたり、罠でも仕掛けていたというところだろうか。辺りを探そうとする国広を呼び止め大倶利伽羅は自分のタオルを裂いた。
宿に帰ると、残っていた3人は三者三様に神妙な面持ちで国広を見た。次の瞬間には、国広の怪我に気づいたのか慌てた燭台切が鞄から救急セットを探し始める。「…話は済んだのか」「まあ、大体は…」部屋に入った国広が長義に訊ねると、長義は痛々しい傷口を見詰め、それから苦い顔をして答えた。
鶴丸は立ち上がり、国広の怪我を見る。何か尖ったものが皮膚を鋭く抉ったような切り口だ、自然にはできない。「派手にいったなあ…転んだ、とはいわないよな」「…ああ、矢のようなものだったと、思う…物は見つけられなかった」「大丈夫、それだけ分かれば上出来だ。光坊、救急セットあったかー?」
「あったよ、鶴さん。はい、パス!」そう言うと緑の小さな入れ物を鶴丸に向かって投げる。危うげなく受け取りながら、鶴丸は全く…と呆れ返った。「っと、こんなん投げるなよ」「鶴さん受け止めてくれるでしょ」なんの疑問もなくそう返され、そりゃどーも、などと心無く返事をし、鶴丸は箱を開ける。
「…よし、次からは無茶しないように!…こちらも、止めなくてすまなかったな」「わかってたのか」「まさか、わからないと思ったか?大人を揶揄うんじゃあない」一通りの手当を終えて、国広は自らの右腕に巻かれた真新しい包帯を軽く擦る。素人目にも丁寧な仕事だ、などと場違いに感心してしまう。
救急セットを片付けた鶴丸は燭台切の方へそれを滑らせる。座っていた燭台切の足元にぶつかり、ちょっと鶴さん…などと抗議するも、笑いながらすまんと謝られては仕方ない。鞄に再びしまいこみながら、残りのぐちゃぐちゃにした荷物を纏めていた大倶利伽羅に燭台切は声をかけた。「明日、捕まるよ」と。
翌朝、今日も村の天気は晴れていた。山向こうでは雨で土砂崩れとニュースでやっていたのに不思議なものだ。「さて、行こうか」結局自宅に戻った長義を除いた4人で泊まり込むことになったので、4人連れ立って山姥切家に向かう。山姥切家の前には、既に起きていた長義が腕を組んで塀に背を預けていた。
「案内しよう。昨日言われた通り、人は集めたよ」長義はこちらの姿を確認すると、数歩歩いて4人の前に立った。挨拶を交わすと、昨日大倶利伽羅と国広が外に出ている間に交わした会話か、燭台切と鶴丸がその言葉に礼を言う。「…あとは、よろしく頼む」そう言いながら、長義は深く頭を下げた。
案内された部屋には、残された兄弟の母、妻3人と、娘1人、それから手伝いの2人が座っている。「あの、犯人って…昨日手紙があったじゃないですか」一同が入るや否や、そのような言葉を次々と投げ掛けられた。それを制止したのは、案内した長義だ。「…話すよ」誰に向けての言葉か、長義はそう続ける。
静まり返ったところで、燭台切は話し始めた。「…この事件、本当ならあともう1人、犠牲者が出るはずなんです」燭台切がそう言うと、部屋の中がざわつく。「正確には、僕が連れてきてしまった。彼…山姥切国広は、最後の犠牲者になるはずでした。犯人は失敗したようですがね。動機は、遺産でしょう」
謎解きなんですけど、先述のとおり事件のトリックとか一通りあるんですが長いので省きます、すみません。 「遺産?彼は部外者よね?」1人から声が上がる。無理もない、知らされてないのなら、そう思うのが普通だ。現に何も知らない国広自身は戸惑っている。「ええ、ですが…長義くん、いいんだね?」
燭台切の言葉に、長義は覚悟を決めたように静かに頷いた。そして、封筒を燭台切に手渡す。「まさか、その子は亡くなったお爺様の、4番目の子供…ということ?」三男の妻が眉を顰める。燭台切は封筒の前に遺言状をテーブルに置く。「いえ、遺言状を見てください。最愛に遺産を送ろうとしています」
それから受け取った封筒の中身を取り出す。中身はDNA鑑定だ。それも長義と国広のもの。見るなり長義の母は青ざめる。長義は俯いたままで表情は読めない。「ここにはこう記されています。長義くんは、森下さん…貴女の子供ですね。そして、お爺様と、長義くんのお母様…貴女の子供が、国広くんだ、と」
「単刀直入に言いましょう。犯人は複数犯です。森下さん、それから、長義くんのお母様、あなたです」「長義、あなた…っ!」私を売るのか、と視線が刺さる。長義は唇を噛むことしか出来ない。やるせないのは、自分の方が上なのだ、と。間に入るように鶴丸が立った。「…すまんな」と小声で謝罪される。
そうしている間にも、起きた事件について整理され、それらが燭台切によって次々と暴かれていく。昨日、聞いた話と同じだった。『それじゃあ、呼び出したのは』『父は、俺が本当の息子ではないことなんてとうに知っていた。妻のことも、相当恨んでいてね…国広に、全てを話すなと忠告したかったんだよ』
『ところが、翌朝死んでいた』『信じられない話…と言いたいところだけど、だからこそ、犯人の検討がついてしまった。出かけることを森下さんには話していたからね。いいように利用されたということだ…忌々しい』『じゃあなんでもっと早くに…』昨晩の会話を反芻する。昨日の自分の言葉を思い出す。
「…以上が事件の概要です。あなたは本当に長義くんを可愛がったのでしょう。だから、焦った。これ自体は当てつけでしょう。けれど、遺言に本当に書かれていたのは国広くんだと、知ったから。そして、遺産を本当の長義くんの親である森下さんと山分けすると約束し、今回の事件を起こしたんです」
そこまで言い切ると、燭台切はこれが全てだとばかりに黙った。「で、でも、何もせずとも遺産は長男のものになろうとしていたわ!それなら、その妻に動機なんて…!」沈黙の中、啜り泣く声を裂いて次男の妻が声を上げる。それには聞き役に徹していた鶴丸が答えた。「…動機ならある。個人的な怨恨だ」
「どうにも、長義に聞いた話じゃあ、長男はこのこと全部を知っていたようでな。あまり良好な関係ではなかったそうだ。こんな寒村でそんな不義がバレたら、親子諸共どうなるかなんて想像に難くない…脅されることもあったんだろう。相続問題にかこつけて殺した…何ヶ所も刺されてるのはそれが理由だな」
ついでに、と鶴丸は続ける。「国広を仕留め損ねたのは、やったのが暗がりだったからとか、友人を連れていたからだとか、理由はいくつかあるんだろうが…息子だったから、というのも大きいんだろうな。こいつは結構無防備に過ごしていたらしいじゃないか…チャンスなら、あったはずだろう」
鶴丸がそこまで言うと、情報の提供者にも気付いているのだろう、すすり泣く声に「どうして、どうして長義…」と批難のような声が交じる。長義は昨日の会話を思い出していた。『どうしてもっと早くに伝えなかったのか』の続きだ。「…俺だって、まだ、家族でいたかった」長義は昨晩も、そう答えていた。
盛大にダイジェスト…。 鶴丸が犯人を署に送るのを見送った後、3人も村を出る用意を整え、宿を出た。「それじゃあ、僕達はこれで」燭台切の言葉に合わせて、3人は会釈する。女将は「今度はゆっくりしに来てくださいね」と言葉を交わす。運転席に燭台切、後ろに国広、助手席に大倶利伽羅が乗り込んだ。
「今回は、巻き込んでしまって本当にすまなかった…」前でシートベルトしてね、などと他愛のない会話していると、後ろから湿っぽい声が聞こえてきた。「言っただろう、ここへ来たのは俺の意思だ、と」「ふふ、伽羅ちゃん、また来る?」「…勘弁してくれ」「…まあ、後味のいい話ではなかったけどね」
後味のいい殺人事件なんて、あってたまるものか。そう思いながら窓を見ると、こちらに走ってくる人影がある。「光忠、車はまだ出すな」「ん?どうしたの?…あ、」長義だった。言ってることがききとれず、車の窓を開ける。側までやってくると、長義は少しばかり息を切らしていた。「もう出立?」
「そのつもりだけど…どうしたんだい?」「いや、挨拶くらいしないといけないかな、と。間に合ったようならなにより」父親は殺され、母親が犯人だというのに、気丈に振る舞う様に虚勢は見られない。過ぎたことは仕方ない、そう考える性質なのだろう、と燭台切はひとり納得する。「それから、国広」
「…何だ?」助手席のあけた窓から長義に名前を呼ばれて、後部座席の国広は身を少し乗り出した。「…狭い」「少し我慢してくれ」大倶利伽羅の抗議は軽く流される。「お前、ここでのことを覚えてないってなんなんだよ」「…は?」「へ?」あまりにも斜め上の発言に、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「それって、お前の遊び相手が専ら俺だったこともすっかり忘れているってことだろう」「…その、すまん…?」「俺だけが覚えているというのがイライラする、思い出させてやるから覚えておけよ…」奇妙な空気が流れる。「あ、あのー…もう、いい…かい?」何故か申し訳なさそうに燭台切が入ってきた。
「すまない、それを言いに来ただけだったんだ。それじゃあ、道中気をつけて」その言葉に長義は、はたと国広から離れ、燭台切に微笑み、定型文の挨拶を並べた。窓を閉めると、離れたところから小さく手を振って送り出してくれる。「…なんだったんだ、あの捨て台詞」国広だけが、それを見ていなかった。
それからの夏休みは恙無く過ぎ、順調に新学期の最初のHRを迎えた。(殺害予告なんて、嘘みたいだ…)教員が入ってきて、ざわついた教室が静かになる。1年前にも聞いた言葉を聞く。普段通り、だった。「――では、転校生を紹介する…」自分と同じ名字の、この夏知り合った彼が、教室に入ってくるまでは。
おしまい!色々と、本当に色々と端折ったけどそれでも長すぎる!TLにたくさんすみません!読んでくださった方、ありがとうございました!ちなみに長義くんは東京の親戚に引き取られたので東京にいます。遺産は話し合って破棄です、国庫に入りました。
ちな完全に蛇足なんですけど、長男殺しはいいとして、次男殺しは長義くんちょっと嘘ついてて、よそで殺した死体を森下さんが運ぶところを目撃(女性が成人男性運ぶのはむずいのでバラバラにした)、頭部は殺害現場近くにまだある状態、森下さんは繕ったけど長義くんは知った上で同時に発見、と言ってる。
そうした理由は先述の通り。でも、その後すぐにこれは駄目だと思って罪滅ぼし目的で情報提供開始。三男殺しは、コナンくんで20回くらいあるタイプの、時間差トリックの密室殺人。ざっくりいうと、時間差で、眠らせた三男の首にかけたロープが吊るされ、自動的に死ぬシステム…のつもりだった。
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