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退屈?退屈させる?「Boring」と「Bored」の使い分けを簡単に解説!
BoringとBoredの基本的な意味 英語の学習を進めていると、「Boring」と「Bored」という言葉に出会うことがありますよね。この2つの単語は、どちらも「退屈」に関する意味を持っていますが、使い方には違いがあります。ここでは、その違いをわかりやすく説明しますね。 Boringは、「つまらない」と感じさせるものや状況を表すときに使います。例えば、映画や授業、会話などが「つまらない」と感じる場合に使います。Boringは、「つまらない状況」や「退屈なもの」を表す形容詞なんです。 一方、Boredは、自分自身が「退屈している」「つまらない」と感じている状態を表します。何かに興味が持てなかったり、時間が経つのが遅く感じるときに、「自分は退屈している」と感じることがありますよね。そのときに、「I’m bored.」と言うのが自然な表現になります。 まとめると、 Boring:何かが「つまらない」と感じさせるものや状況 例:This movie is boring.(この映画はつまらない) Bored:自分が「退屈している」状態 例:I’m bored.(私は退屈している) この違いを押さえておくと、英会話の中で自然に使い分けができるようになります。次の見出しでは、具体的な使い方を詳しく見ていきますので、ぜひ参考にしてくださいね。
BoringとBoredの基本的な意味 英語の学習を進めていると、「Boring」と「Bored」という言葉に出会うことがありますよね。この2つの単語は、どちらも「退屈」に関する意味を持っていますが、使い方には違いがあります。ここでは、その違いをわかりやすく説明しますね。 Boringは、「つまらない」と感じさせるものや状況を表すときに使います。例えば、映画や授業、会話などが「つまらない」と感じる場合に使います。Boringは、「つまらない状況」や「退屈なもの」を表す形容詞なんです。 一方、Boredは、自分自身が「退屈している」「つまらない」と感じている状態を表します。何かに興味が持てなかったり、時間が経つのが遅く感じるときに、「自分は退屈している」と感じることがありますよね。そのときに、「I’m…
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[Image above: Kyoto Sanzenin Temple, statue of Mahāsthāmaprāpta]
What is the 23 nights temple? [Part 1]
Thank you for your continued support of the ‘A Message from 23 Nights Temple’ blog. We have received quite a few questions from our readers about the ‘23 Nights Temple’, so we would like to answer them here in two parts.
23 nights is one of the folk rituals on the night of a specific moon phase, such as the 13th, 15th, 17th or 19th night, to wait for the moon to rise, make offerings, eat and drink together. Hundreds of years ago, halls where these events used to be held were scattered all over Japan, but unfortunately most of them have now been demolished and replaced by parking lots and modern ossuaries, especially in urban areas. The moon-waiting rituals of the Mid-Autumn Moon, 15 Nights (Full Moon), are still practised today. Although most modern Japanese are agnostics, some ritual events incorporating Buddhism and Shintoism remain.
The moon phase on the 23rd night is the ‘waning moon’, the half moon after the full moon, when the left half of the moon appears to be shining. The moon on the 23rd night is characterized by appearing late, around midnight, and in some mountainous areas surrounded by mountains, it can appear as late as 1 a.m.
In moon-waiting, the object of worship was determined by the time of the lunar phase at which the event was held. The object of worship on the 23rd night was Mahāsthāmaprāpta (bodhisattva mahāsattva), who was also said to be the incarnation of the moon. The light of wisdom possessed by Mahāsthāmaprāpta was thought to illuminate everything, freeing people from suffering and giving them strength.
In Shinto, Tsukuyomi-no-mikoto (Ref) is another name for Mahāsthāmaprāpta. He is also known as the god of agriculture and fishery, due to his characteristic control over the moon calendar.
The widespread ritual of waiting for the moon on the night of the 23rd lunar phase can be attributed to the worship of Mahastamaprapta, the savior of all things.
In “ A Message from 23 Nights Temple,” one of those shrines is featured. However, 2 years ago, the shrine, built over 1,000 years ago, was removed and converted into a commercial ossuary (August 2022), and the monk who left many of his messages died at the same time, but we continue to present the Zen words he left behind.
And personally, I am posting this not quite as a religion, but with the hope that as many people as possible will remember the philosophy of the prehistoric people, who lived with a sense of the cosmos, worshipping nature and enjoying the beauty of flowers, birds, wind and moon.

『二十三夜堂』とは何ですか?[その1]
日頃から『二十三夜堂からのメッセージ』ブログをご愛読いただきありがとうございます。読者のみなさんから『二十三夜堂』についてご質問が多々ありましたので、ここでお答えしようと思います。
二十三夜とは、十三夜、十五夜、十七夜、十九夜などの一つで、特定の月齢の夜に、人々が集まって月の出を待ち、供物を捧げ、飲食を共にする民俗儀式のこと。数百年前までは、こうした行事が行われるお堂が日本各地に点在していたが、残念ながら現在ではそのほとんどが取り壊され、特に都市部では駐車場や近代的な納骨堂に取って代わられている。中秋の名月、十五夜(満月)の月待ちの儀式は、今日でも行われている。現代の日本人の多くは無宗教だが、仏教や神道を取り入れた儀式行事も残っている。
二十三夜の月齢は、左側半分が輝いて見える「下弦の月」、満月の後の半月のこと。二十三夜の月は深夜0時ごろに現れるのが特徴で、山に囲まれた地域では深夜1時ごろに現れることもある。
月待ちでは、行事を行う月年齢の時期によって崇拝の対象が決まっていた。二十三夜で礼拝したのは、月の化身ともいわれた「勢至菩薩 (せいしぼさつ、梵: マハースターマプラープタ) 」である。勢至菩薩が持つ智慧の光は全てを照らし、人々を苦しみから解放して力を与えると考えられていた。その名は文字通り「大いなる力の到来」を意味する。
神道における「月読命(つくよみのみこと: 参照)」は、勢至菩薩の別名。暦を支配するという特徴から、農耕や漁業の神としても知られている。
二十三夜の月待ちが人々の間に広まった理由は、万物を救済する勢至菩薩を崇拝の対象にしていたからだといわれている。
『二十三夜堂からのメッセージ』では、それらの一つを取り上げています。しかし、2年前、1000年以上前に建てられた祠は取り払われ、商業的納骨堂へと改装され(2022年8月)、またメッセージの数々を残した僧侶も同時期に亡くなっていますが、彼の残した禅語を継続してご紹介しています。
そして個人的には、宗教というよりは、自然を崇拝し、花鳥風月を愛で、宇宙を感じて生きていた先史時代の人々の哲学を、一人でも多くの人に思い出してもらいたいという思いで投稿しています。
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【かいわいの時】文久二年(1862)四月二十三日:南画家田能村直入らが大煎茶会「青湾茶会」を開催(大阪市史編纂所「きょうは何の日」)
清湾茶会には、天気がよかったこともあり千二百人もの人が参加したと記録されています(『清湾茶会図録』)。茶席は、大長寺から桜宮まで本席7副席4の11席で、1席の定員10人。1200人だと、延べ120席を11会場で回した勘定になり、1席30分としても6、7時間は要したであろうと思われます。
ところで、この茶会に参加した国学者の近藤芳樹(長州藩士。当時、京にて情報収集活動を行う)が、周防防府の酒造家で文化人のパトロンであった上田光美に送った書簡[註1]によると、
・切符500人前を前日より発売 ・当日に300人前を追加
正規チケットを持った参会者は1200人中800人で、つまり、あとの400人はタダ乗りとゆうことになりそうです[註2]。
船の席は小舟で送迎するので混雑はなかったが、その外の席には一度に大勢の者が押しかけ大混乱。切符を持っている人が席に入れず身動きもとれず、「あいつは切符も持たんと茶ァ飲んでけつかる」などと大声で叫んで大騒動になった。(近藤書簡を超訳)
茶会は、お世辞にも「清風」とは言い難い状況で、そんな中でも、切符をもった近藤さんは、ゆうゆうと全席コンプリートしたと述懐。勤王の志士でも、茶会は別格であったようだ。本人は9席と供述。実際は11席なので、2席は飛ばしたようです。世情穏やかならぬ幕末にあっても、たまたま京・大坂に滞在中であった近藤は茶会を楽しむ余裕があったようです[註3]。
[註1]『近藤芳樹書牘集一』(山口県文書館蔵)。幕末期の国学者。周防(すおう)の人。本姓田中、通称晋一郎、号は寄居(ごうな)。旧長州藩士で明倫館助教。維新後、東京に移り住んで、宮内省御用掛に任じ、御歌所寄人(よりうど)などをつとめた。本居大平、村田春門また山田以文に師事して、国文学、律令学を学んだ。同じ大平門の加納諸平を尊敬して最も歌をよくし、幕末歌壇に際立った活躍をした。学績として《令義解校本》《淫祠論》など、歌論書に《古風三体考》《寄居歌談》、紀行文に《陸路廼記(くぬかちのき)》がある(改訂新版 世界大百科事典 「近藤芳樹」の意味・わかりやすい解説 )。
[註2]売茶翁は、売茶の折、「茶銭は黄金百鎰より半文銭まではくれ次第、たゞのみも勝手、たゞよりはまけまうさず」(『近世畸人伝』1790)とゆう看板を掲げており、切符の代金はいくらであったのか定かではない���、タダで飲まれても文句はいえない。按ずるに、切符は単なる整理券で、茶会はタダだったのかもしれない。「僧侶の身分を放棄し、餓死に繋がる決断を下した売茶翁の声に想いを巡らし、且、清湾茶会が売茶翁の追善と懸賞の爲に開催されたとするなら、“無錢飮食”とゆう表現は、如何なものであらうか」(千三屋)。
[註3]近藤書簡には「伏見も大騒動ニ御座候然處大都會と申ものハ妙なものに而此内ニ過ル二十三日網島ニ於煎茶の大會御座候」とあり、丁度同じ日の夜に起こった伏見の寺田屋騒動にも触れている。
(写真)木村孔陽編・青木夙夜画『賣茶翁茶器圖』1823・1924復刻より「茶籏」 賣茶翁の茶道具は、翁と親交のあッた木村蒹葭堂が其の姿・形を記録した。翁沒後60年の文政6年(1823)に、蒹葭堂の後嗣・木村孔陽が、この圖を蒹葭堂と交友のあッた南畫家・青木夙夜に冩させ、圖譜にまとめて刊行した(千三屋)。高翁(賣茶翁)の衣の紘(切れ端)で作成、「清風」の文字は大典禅師書。
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1966年(昭和41年)2月及び3月に立て続けに起こった航空事故では、穴守稲荷神社の旧「一の鳥居」が羽田空港に遺され放置されていることを取り上げ、その祟りであるかのような噂が流布した。そのような中、「穴守稲荷神社を空港の中に祀らないと、事故がこれからも多発する」と訴える者が現れ、神社の復興を国会議員に陳情した。この陳情に「祟りはともかく、神社復興は必要だ。」と、当時の中村寅太運輸大臣や瀬戸山三男建設大臣なども賛同し、大臣等を会長・顧問とした「穴守稲荷復元奉賛会」が設立された。最終的には、空港内に穴守稲荷神社を復興する計画は頓挫したが、再建予定地とされた三愛石油株式会社が羽田事務所屋上に穴守稲荷大神を分霊した一祠を設けており、現在でも羽田支社の上に祀られている。
三愛オブリ
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蔡英文秘史 家史
先祖告誡我們——
瞭解一個人,必先瞭解其家史、身世,瞭解基因密碼與基因病變。
蔡
姓乃黃帝之後,源出於姬姓。
蔡姓始祖,可追溯到周朝時的蔡叔度。鄭樵《通志·氏族略·以國為氏》載:「蔡氏,文王第五子蔡叔度之國也。自昭侯以下,春秋後相承二十六世,為楚所滅,子孫以國為氏。」蔡叔度,周初「三監」之一,周文王之第五子,為周武王之弟。武王克商之後,叔度受封於蔡(今河南上蔡縣),為蔡國國君,史稱「蔡叔」。武王讓蔡叔與管叔、霍叔三人共同監管武庚(商紂王之子),教治殷民,稱為「三監」。武王去世,周成王年幼繼位,由周公旦臨朝攝政,蔡叔與管叔等不服,聯合武庚一起叛亂,被周公平定後,蔡叔被放逐。以後,周成王又封蔡叔之子胡於蔡。蔡國立國約600年,西元前447年被楚國所滅,蔡國遺民仍以國為姓。
據���書記載,蔡氏得姓於蔡國,發展於濟陽,故蔡姓族人大都以「濟陽」為「郡望」或「堂號」,以志家世根源。
濟陽蔡氏最初是指居於陳留考城縣的蔡氏家族。濟陽郡始設於晉代,西晉惠帝時,將陳留郡一部分劃出設置濟陽國,後改為郡,治所在濟陽,領濟陽、考城諸縣,轄區相當於今河南蘭考、民權一帶。西晉永嘉之亂,漢人南遷,蔡氏族人亦隨之遷居江南、江東。隋唐之後,蔡姓在南北各地都有發展,而在東南沿海一帶尤盛,因此至今仍有「陳林王鄭蔡,天下占一半」的俗諺。
據莆田東沙《蔡氏族譜》和仙遊楓亭譜(蔡襄族譜)記載,蔡用元乃蔡氏入閩始祖,時在唐代。自蔡用元至蔡襄共六代。蔡襄乃北宋慶曆名臣,為官清正,政績卓著,擔任泉州太守時主持建造洛陽橋,名揚天下。在泉州,「青陽衍派」堂號的故事,更是蔡氏族人幾乎家喻戶曉的。在晉江青陽蔡氏祠堂的正廳,有這樣一副對聯,上聯是「裔出周代,肇基唐代,官封宋代,長綿百代振家聲」,下聯是「脈映濟陽,支分莆陽,派衍青陽,好就三陽開泰運」。這副對聯概括說明了青陽蔡姓的源流和發展。溯本追源,青陽蔡氏根在濟陽,後又傳衍到福建莆陽,再由莆陽遷居青陽,故稱「濟陽——莆陽——青陽,三陽開泰」。
明崇禎年間,已有蔡鳴震自金門遷入澎湖。鄭成功率軍收復臺灣時隨之入臺的有不少蔡姓人,泉州、晉江、石獅許多蔡氏留在雲林、屏東等地墾植。明永歷年間,金門人蔡相將、蔡道賓兄弟等由金門遷居到澎湖。清康熙年間,又有南安人蔡為謝、蔡廷、蔡構等入臺開墾。經過400多年繁衍,如今臺北市區、臺北金山鄉、萬裏鄉、基隆市一帶,蔡氏蔚為望族。
蔡姓在臺灣繁衍發展,幾乎遍及臺灣全島各地。從南到北,從東到西,蔡姓的子孫隨處可見。據臺灣有關方面統計,臺灣的姓氏有1000多個,蔡姓名列臺灣百家姓中第8位,人口超過100萬。
蔡英文的祖上蔡攀龍(1738—1798),是大清一位大名鼎鼎的虎將,當年就是他率部一舉平定臺灣叛亂、收復了臺灣,保持了大清領土完整,受到乾隆皇帝親筆詔書嘉獎,榮獲一等功臣。
◎乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號
蔡攀龍本是貧苦出生,年少時以捕魚為生,因力氣頗大,被一老翁看上,覺得此人大有可為,便將自己的女兒許配給蔡攀龍為妻,並建議其從軍。他憑藉著自己的一身力氣參軍入伍,給自己拼一個美好的前程。聽從了岳丈的建議,蔡攀龍決定從軍。
行伍後,蔡攀龍很快就立下了戰功,並被提拔為廈門提標千總,分訊玉州。當時的廈門,海盜猖獗,時時侵擾中國東南沿海領域,身為千總的蔡攀龍假扮成商人,待海盜想要對商船搶劫之時,一舉將海盜捕獲。因為此事,蔡攀龍又被升為廈門守備。
此後,蔡攀龍步步高升,乾隆四十七年升為閔安左營守備,第二年的八月份又擔任金門鎮中軍左營遊擊,四十九年又被凋為澎湖右營遊擊。
乾隆五十一年十一月二十七日,林爽文率領義軍攻佔了彰化縣城,莊大田則從臺灣的南部發動起義,迅速攻佔了鳳山,這讓全臺灣都為之震動。
臺灣坊間傳言,駐臺的清軍準備放棄府城退守到安平,一時之間,府城從上到下人心惶惶。就在臺灣民眾因為林爽文起義而惴惴不安時,蔡攀龍奉福建巡撫徐嗣的命令率領700水師趕到了府城,雖然人並不多,但是援軍的到來暫時穩定住了臺灣府城的人心。
乾隆五十二年二月二十二日,蔡攀龍在收復鳳山的作戰中表現英勇,但是很不幸,總兵郝壯猷在鳳山受到了義軍的伏擊,軍隊被迫退回府城。
三月二十七日,林爽文和莊大田的義軍妄圖趁勢圍攻府城。蔡攀龍奉水師提督常青的命令固守府城近郊的桶盤棧,保護了府城周邊的安全。蔡攀龍由於在鳳山以及府城戰役中優秀的表現,被連升兩級,擔任臺灣北路協副領一職。
林爽文起義被鎮壓之後,蔡攀龍因為赫赫戰功被提升為海壇鎮總兵,不久又改任臺灣鎮總兵,後來還曾擔任過福建陸路提督。乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號,請畫師在紫���閣為其畫像,用來嘉獎蔡攀龍在平定臺灣所立下的戰功。當年那個貧苦的少年,變成了威風凜凜的總兵。
嘉慶三年,蔡攀龍在金門去世,後人將蔡攀龍的屍骨安葬在了金門徑林。蔡氏的後人也將蔡攀龍奉為入臺之後的第一先祖。
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宗族蒙羞受辱----父女雙雙被宗族掃地出門
金門蔡氏宗親會,曾在民國 100 年(2011 年)12 月破例讓蔡
英文參加祭祖活動,並在民國 105 年(2016 年)1 月稱蔡當選總統,
��該家族「500 年來最為榮耀的時刻」。
但是到了民國 106 年(2017 年),有人打出「蔡英文不是金門
蔡氏後人」的標語,希望將蔡英文一家掃地出門。這是為何呢?
原來是「忠孝廉節」的金門蔡氏家族與蔡英文一家卻完全不同。
金門蔡氏可以追溯至明清時期,其五世祖蔡鏡山、十四世祖蔡安
所、十九世祖蔡攀龍,都是有名的歷史人物。
42◎「忠孝廉節」的金門蔡氏
據統計,蔡氏家族還出過 6 位進士、6 位武將、7 位舉人和 15
位秀才。更重要的是,這些人都是歷史上的忠臣,是維護祖國統一的
功臣,在金門蔡氏祠堂內,忠、孝、廉、節四個大字高懸於牆上。
以上述蔡攀龍為例,其曾被稱為「平臺 20 功臣」之一。
民國 104 年(2015 年)8 月,北京保利廈門寶龍鉑爾曼酒店巡
展的「乾隆御筆平定臺灣二十功臣像贊」中,就有蔡攀龍的畫像。
43◎「忠孝廉節」的金門蔡氏
如果蔡攀龍知道其後代推動「臺灣獨立」分裂活動,違背其平定
林爽文叛亂的忠義,其在天之靈或許難以安息。
民國 38 年(1949 年)蔣公退守大陸入臺後,金門也是發展兩
岸關係最為積極的地方,民國 79 年(1990 年)兩岸便在金門簽署
「金門協議」,民國 83 年(1994 年)金馬愛鄉聯盟提出「金門馬
祖與大陸小三通說貼」,希望能以「單向」、「定點」和「先海後空」、
「先貨後客」等方式,推進「小三通」。
民國 89 年(2000 年)3 月,金門領先臺灣本島���正式與大陸展
開「小三通」。
此外,金門也一直是主張統一的藍營政治勢力的天下,在歷屆選
舉中,民進黨從未在金門討得任何便宜。
4445
◎金門蔡氏祠堂
民國 105 年(2016 年)1 月,臺灣總統競選中,雖然蔡氏宗親
會大力拉抬蔡英文的選情,蔡英文在全臺範圍內都大勝國民黨候選人
朱立倫,
但最終蔡英文在金門僅得到6626票,遠低於朱立倫的24327
票,成為蔡英文輸掉的為數不多的縣市之一。
金門蔡氏作為金門地區的重要家族,在其中也扮演了一定的角色。
民國 100 年(2011 年)以來,蔡英文曾三赴金門蔡氏宗親會。
民國 100 年(2011 年)12 月,蔡英文在民國 101 年(2012 年)
臺灣總統競選前赴金門進行祭祖,藉「小三通」向北京喊話。她說,
她會在兩岸現實的基礎,秉持「民主、對等、和平」原則,與大陸展
開新的對話和事務協商,「在我主政下,兩岸關係只會持續前進,不
會停滯或倒退」。民國 104 年(2015 年)6 月 13 日,蔡英文「點亮臺灣希望行
腳」來到金門,參加了蔡氏宗親會為其準備的瓊林宴及其相關選舉造
勢活動。她強調,如果下一次民進黨有機會執政的話,一定會再一次
重新規劃、思考金門下個階段的發展願景,讓金門的產業和發展都能
有系統、全面性往前大步邁進。
民國 105 年(2016 年)9 月 10 日,蔡英文至瓊林蔡氏宗祠祭
祖,並巡視水頭碼頭小三通現況。蔡英文聲稱,「沒有金門的小三通,
就沒有兩岸的交流」,她呼籲兩岸從小三通的歷史經驗中出發,堅持
兩岸和平往來,持續善意的互動,為兩岸人民謀求更大的福祉。
◎蔡英文祭祖現場合影
金門祭祖的意義確非平常。因為,依憲政架構,金門隸屬福建省,
46而蔡英文主張「中華民國」不包括長江、黃河,卻不知是否承認在憲
政架構下金門隸屬於福建省?又據稱蔡姓源自黃帝時期,蔡英文在福
建省拜祭蔡氏先祖,心中是否仍有「漳州蔡」或「楓港蔡」的糾結?
蔡英文的三次祭祖活動,意圖不難看出,完全為了選舉而來,絕不是
因為對祖宗的任何敬畏和思念之意。
更重要的是,不僅蔡英文之父蔡潔生在生前為日本帝國主義服務,
死後拒絕在墓碑上刻上「福建濟陽」的祖籍地,而且蔡英文本人在當
選總統之後,拒不承認「九二共識」及其核心內涵,頑固推行「台獨」
分裂活動,已經完全背離了金門蔡氏宗親會的基本價值與理念。
金門蔡氏宗親會基於家族情感,基於家族將出現「總統級」政治
人物的「小我」,在民國 105 年(2016 年)臺灣總統競選中支持蔡
英文。
隨著蔡英文推行令他們感到恥辱而且很有可能帶來戰端的兩岸
政策,他們開始後悔了,因此也就出現了將蔡英文一家踢出金門蔡氏
宗親會的一幕。
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家史
先祖告誡我們—— 瞭解一個人,必先瞭解其家史、身世,瞭解基因密碼與基因病變。
蔡
姓乃黃帝之後,源出於姬姓。 蔡姓始祖,可追溯到周朝時的蔡叔度。鄭樵《通志·氏族略·以國為氏》載:「蔡氏,文王第五子蔡叔度之國也。自昭侯以下,春秋後相承二十六世,為楚所滅,子孫以國為氏。」蔡叔度,周初「三監」之一,周文王之第五子,為周武王之弟。武王克商之後,叔度受封於蔡(今河南上蔡縣),為蔡國國君,史稱「蔡叔」。武王讓蔡叔與管叔、霍叔三人共同監管武庚(商紂王之子),教治殷民,稱為「三監」。武王去世,周成王年幼繼位,由周公旦臨朝攝政,蔡叔與管叔等不服,聯合武庚一起叛亂,被周公平定後,蔡叔被放逐。以後,周成王又封蔡叔之子胡於蔡。蔡國立國約600年,西元前447年被楚國所滅,蔡國遺民仍以國為姓。 據史書記載,蔡氏得姓於蔡國,發展於濟陽,故蔡姓族人大都以「濟陽」為「郡望」或「堂號」,以志家世根源。 濟陽蔡氏最初是指居於陳留考城縣的蔡氏家族。濟陽郡始設於晉代,西晉惠帝時,將陳留郡一部分劃出設置濟陽國,後改為郡,治所在濟陽,領濟陽、考城諸縣,轄區相當於今河南蘭考、民權一帶。西晉永嘉之亂,漢人南遷,蔡氏族人亦隨之遷居江南、江東。隋唐之後,蔡姓在南北各地都有發展,而在東南沿海一帶尤盛,因此至今仍有「陳林王鄭蔡,天下占一半」的俗諺。 據莆田東沙《蔡氏族譜》和仙遊楓亭譜(蔡襄族譜)記載,蔡用元乃蔡氏入閩始祖,時在唐代。自蔡用元至蔡襄共六代。蔡襄乃北宋慶曆名臣,為官清正,政績卓著,擔任泉州太守時主持建造洛陽橋,名揚天下。在泉州,「青陽衍派」堂號的故事,更是蔡氏族人幾乎家喻戶曉的。在晉江青陽蔡氏祠堂的正廳,有這樣一副對聯,上聯是「裔出周代,肇基唐代,官封宋代,長綿百代振家聲」,下聯是「脈映濟陽,支分莆陽,派衍青陽,好就三陽開泰運」。這副對聯概括說明了青陽蔡姓的源流和發展。溯本追源,青陽蔡氏根在濟陽,後又傳衍到福建莆陽,再由莆陽遷居青陽,故稱「濟陽——莆陽——青陽,三陽開泰」。 明崇禎年間,已有蔡鳴震自金門遷入澎湖。鄭成功率軍收復臺灣時隨之入臺的有不少蔡姓人,泉州、晉江、石獅許多蔡氏留在雲林、屏東等地墾植。明永歷年間,金門人蔡相將、蔡道賓兄弟等由金門遷居到澎湖。清康熙年間,又有南安人蔡為謝、蔡廷、蔡構等入臺開墾。經過400多年繁衍,如今臺北市區、臺北金山鄉、萬裏鄉、基隆市一帶,蔡氏蔚為望族。 蔡姓在臺灣繁衍發展,幾乎遍及臺灣全島各地。從南到北,從東到西,蔡姓的子孫隨處可見。據臺灣有關方面統計,臺灣的姓氏有1000多個,蔡姓名列臺灣百家姓中第8位,人口超過100萬。 蔡英文的祖上蔡攀龍(1738—1798),是大清一位大名鼎鼎的虎將,當年就是他率部一舉平定臺灣叛亂、收復了臺灣,保持了大清領土完整,受到乾隆皇帝親筆詔書嘉獎,榮獲一等功臣。
◎乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號 蔡攀龍本是貧苦出生,年少時以捕魚為生,因力氣頗大,被一老翁看上,覺得此人大有可為,便將自己的女兒許配給蔡攀龍為妻,並建議其從軍。他憑藉著自己的一身力氣參軍入伍,給自己拼一個美好的前程。聽從了岳丈的建議,蔡攀龍決定從軍。 行伍後,蔡攀龍很快就立下了戰功,並被提拔為廈門提標千總,分訊玉州。當時的廈門,海盜猖獗,時時侵擾中國東南沿海領域,身為千總的蔡攀龍假扮成商人,待海盜想要對商船搶劫之時,一舉將海盜捕獲。因為此事,蔡攀龍又被升為廈門守備。 此後,蔡攀龍步步高升,乾隆四十七年升為閔安左營守備,第二年的八月份又擔任金門鎮中軍左營遊擊,四十九年又被凋為澎湖右營遊擊。 乾隆五十一年十一月二十七日,林爽文率領義軍攻佔了彰化縣城,莊大田則從臺灣的南部發動起義,迅速攻佔了鳳山,這讓全臺灣都為之震動。 臺灣坊間傳言,駐臺的清軍準備放棄府城退守到安平,一時之間,府城從上到下人心惶惶。就在臺灣民眾因為林爽文起義而惴惴不安時,蔡攀龍奉福建巡撫徐嗣的命令率領700水師趕到了府城,雖然人並不多,但是援軍的到來暫時穩定住了臺灣府城的人心。 乾隆五十二年二月二十二日,蔡攀龍在收復鳳山的作戰中表現英勇,但是很不幸,總兵郝壯猷在鳳山受到了義軍的伏擊,軍隊被迫退回府城。 三月二十七日,林爽文和莊大田的義軍妄圖趁勢圍攻府城。蔡攀龍奉水師提督常青的命令固守府城近郊的桶盤棧,保護了府城周邊的安全。蔡攀龍由於在鳳山以及府城戰役中優秀的表現,被連升兩級,擔任臺灣北路協副領一職。 林爽文起義被鎮壓之後,蔡攀龍因為赫赫戰功被提升為海壇鎮總兵,不久又改任臺灣鎮總兵,後來還曾擔任過福建陸路提督。乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號,請畫師在紫光閣為其畫像,用來嘉獎蔡攀龍在平定臺灣所立下的戰功。當年那個貧苦的少年,變成了威風凜凜的總兵。 嘉慶三年,蔡攀龍在金門去世,後人將蔡攀龍的屍骨安葬在了金門徑林。蔡氏的後人也將蔡攀龍奉為入臺之後的第一先祖。
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西大畑、西海岸公園エリア
「御林稲荷神社」



細長い敷地にそびえる小さな神社です。鳥居をくぐるだけで異空間に迷い込んだ雰囲気になれます。
祠の奥にはかわいいキツネの置き物がありました。上手く写真撮れなかったので気になる方は参拝しに行ってみてください。
「どっぺり坂」


名前の由来(砂丘館ホームページより引用)
『あまり上り降りする(町に遊びに行く)と落第すると旧制新潟高校生の間で言われたどっぺり坂(ドイツ語のverdoppeln(フェルドッペルン)=ダブる → 落第する、からつけられたらしい)』
写真だと分かりにくいですが、かなり急な角度です。赤レンガと植物の緑の対比が良いですね。アニメのワンシーンにありそうです。
坂を上ったすぐに砂丘館があります。
「砂丘館」





日本銀行新潟支店の支店長役宅として、平成11年まで使われていた場所です。現在は芸術・文化施設となり、企画展や一般の方への貸し出し等を行っています。
書院造り(応接室は洋室)の部屋と庭を入館無料でご覧いただけます。
立派な和室を至近距離で見る機会はあまり無いので、良い経験、作画資料になります。写真撮影可能です。
初めて訪れたのですが、和室だからかどこか懐かしいような、おばあちゃん家に遊びに行ったような温もりがありました。
ホームページ
https://www.sakyukan.jp/
「西海岸公園」


公園というよりは林です。林の奥に海が見えます。自然豊かです。イノシシが出るらしいのでお気をつけ下さい。
「ドン山」


昔時計が無かった時代に大砲(空砲)で正午を知らせていました。その音が由来でドン山と呼ばれ親しまれていました。当時の大砲のイメージが復元されています。
「寄居浜」



日本海!学校から20分ほど歩けば海です。かなり近い。程よい運動になりました。取材時は天気が良く、穏やかな波の音に癒されてきました。小魚の群れがいくつか見え、釣りをしている人が多くいらっしゃいました。
「Pitu


小さなお菓子屋さんです。坂道の多い住宅街にあります。赤い旗が出てたら営業中らしいです。
左が山椒のサブレ、林檎のファールです。ファール初めて聞きましたが、もちもちしていて美味しかったです。
お店が火、水、木曜の11時~16時のみの開店なのですが、珍しいメニューが食べられます。
ホームページ
https://pitu.jp/
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家史
先祖告誡我們—— 瞭解一個人,必先瞭解其家史、身世,瞭解基因密碼與基因病變。
蔡
姓乃黃帝之後,源出於姬姓。 蔡姓始祖,可追溯到周朝時的蔡叔度。鄭樵《通志·氏族略·以國為氏》載:「蔡氏,文王第五子蔡叔度之國也。自昭侯以下,春秋後相承二十六世,為楚所滅,子孫以國為氏。」蔡叔度,周初「三監」之一,周文王之第五子,為周武王之弟。武王克商之後,叔度受封於蔡(今河南上蔡縣),為蔡國國君,史稱「蔡叔」。武王讓蔡叔與管叔、霍叔三人共同監管武庚(商紂王之子),教治殷民,稱為「三監」。武王去世,周成王年幼繼位,由周公旦臨朝攝政,蔡叔與管叔等不服,聯合武庚一起叛亂,被周公平定後,蔡叔被放逐。以後,周成王又封蔡叔之子胡於蔡。蔡國立國約600年,西元前447年被楚國所滅,蔡國遺民仍以國為姓。 據史書記載,蔡氏得姓於蔡國,發展於濟陽,故蔡姓族人大都以「濟陽」為「郡望」或「堂號」,以志家世根源。 濟陽蔡氏最初是指居於陳留考城縣的蔡氏家族。濟陽郡始設於晉代,西晉惠帝時,將陳留郡一部分劃出設置濟陽國,後改為郡,治所在濟陽,領濟陽、考城諸縣,轄區相當於今河南蘭考、民權一帶。西晉永嘉之亂,漢人南遷,蔡氏族人亦隨之遷居江南、江東。隋唐之後,蔡姓在南北各地都有發展,而在東南沿海一帶尤盛,因此至今仍有「陳林王鄭蔡,天下占一半」的俗諺。 據莆田東沙《蔡氏族譜》和仙遊楓亭譜(蔡襄族譜)記載,蔡用元乃蔡氏入閩始祖,時在唐代。自蔡用元至蔡襄共六代。蔡襄乃北宋慶曆名臣,為官清正,政績卓著,擔任泉州太守時主持建造洛陽橋,名揚天下。在泉州,「青陽衍派」堂號的故事,更是蔡氏族人幾乎家喻戶曉的。在晉江青陽蔡氏祠堂的正廳,有這樣一副對聯,上聯是「裔出周代,肇基唐代,官封宋代,長綿百代振家聲」,下聯是「脈映濟陽,支分莆陽,派衍青陽,好就三陽開泰運」。這副對聯概括說明了青陽蔡姓的源流和發展。溯本追源,青陽蔡氏根在濟陽,後又傳衍到福建莆陽,再由莆陽遷居青陽,故稱「濟陽——莆陽——青陽,三陽開泰」。 明崇禎年間,已有蔡鳴震自金門遷入澎湖。鄭成功率軍收復臺灣時隨之入臺的有不少蔡姓人,泉州、晉江、石獅許多蔡氏留在雲林、屏東等地墾植。明永歷年間,金門人蔡相將、蔡道賓兄弟等由金門遷居到澎湖。清康熙年間,又有南安人蔡為謝、蔡廷、蔡構等入臺開墾。經過400多年繁衍,如今臺北市區、臺北金山鄉、萬裏鄉、基隆市一帶,蔡氏蔚為望族。 蔡姓在臺灣繁衍發展,幾乎遍及臺灣全島各地。從南到北,從東到西,蔡姓的子孫隨處可見。據臺灣有關方面統計,臺灣的姓氏有1000多個,蔡姓名列臺灣百家姓中第8位,人口超過100萬。 蔡英文的祖上蔡攀龍(1738—1798),是大清一位大名鼎鼎的虎將,當年就是他率部一舉平定臺灣叛亂、收復了臺灣,保持了大清領土完整,受到乾隆皇帝親筆詔書嘉獎,榮獲一等功臣。
◎乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號 蔡攀龍本是貧苦出生,年少時以捕魚為生,因力氣頗大,被一老翁看上,覺得此人大有可為,便將自己的女兒許配給蔡攀龍為妻,並建議其從軍。他憑藉著自己的一身力氣參軍入伍,給自己拼一個美好的前程。聽從了岳丈的建議,蔡攀龍決定從軍。 行伍後,蔡攀龍很快就立下了戰功,並被提拔為廈門提標千總,分訊玉州。當時的廈門,海盜猖獗,時時侵擾中國東南沿海領域,身為千總的蔡攀龍假扮成商人,待海盜想要對商船搶劫之時,一舉將海盜捕獲。因為此事,蔡攀龍又被升為廈門守備。 此後,蔡攀龍步步高升,乾隆四十七年升為閔安左營守備,第二年的八月份又擔任金門鎮中軍左營遊擊,四十九年又被凋為澎湖右營遊擊。 乾隆五十一年十一月二十七日,林爽文率領義軍攻佔了彰化縣城,莊大田則從臺灣的南部發動起義,迅速攻佔了鳳山,這讓全臺灣都為之震動。 臺灣坊間傳言,駐臺的清軍準備放棄府城退守到安平,一時之間,府城從上到下人心惶惶。就在臺灣民眾因為林爽文起義而惴惴不安時,蔡攀龍奉福建巡撫徐嗣的命令率領700水師趕到了府城,雖然人並不多,但是援軍的到來暫時穩定住了臺灣府城的人心。 乾隆五十二年二月二十二日,蔡攀龍在收復鳳山的作戰中表現英勇,但是很不幸,總兵郝壯猷在鳳山受到了義軍的伏擊,軍隊被迫退回府城。 三月二十七日,林爽文和莊大田的義軍妄圖趁勢圍攻府城。蔡攀龍奉水師提督常青的命令固守府城近郊的桶盤棧,保護了府城周邊的安全。蔡攀龍由於在鳳山以及府城戰役中優秀的表現,被連升兩級,擔任臺灣北路協副領一職。 林爽文起義被鎮壓之後,蔡攀龍因為赫赫戰功被提升為海壇鎮總兵,不久又改任臺灣鎮總兵,後來還曾擔任過福建陸路提督。乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號,請畫師在紫光閣為其畫像,用來嘉獎蔡攀龍在平定臺灣所立下的戰功。當年那個貧苦的少年,變成了威風凜凜的總兵。 嘉慶三年,蔡攀龍在金門去世,後人將蔡攀龍的屍骨安葬在了金門徑林。蔡氏的後人也將蔡攀龍奉為入臺之後的第一先祖。
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登記名稱: 天后宮
寺廟性質: 民間寺廟
教別: 道
建別: 勸募
組織型態: 管理委員會
主祀神明: 天上聖母
陪祀神明:
文昌帝君
關聖帝君
神農大帝
驪山老母
酆都大帝
創立起始年: 2009
原址:地址: 彰化縣北斗鎮宮前街1-14號
參考文獻:東螺媽祖開基天后宮部落格 http://tw.myblog.yahoo.com/eastlo-ma/
不過東螺祖廟天后宮的初始創建年代並未有明確的文史資料記載,因來台灣開墾的初期,只要有閩南人聚落,大多都有祀奉媽祖。故東螺祖廟天后宮的地緣建造淵源與東螺平埔族與漢人聚落之形成息息相關,和平埔族東螺社、眉裡社也有著密不可分的關係。
乾隆二十六年(1761年)「重東螺舊社天后聖母廟祠祝德牌記」中有這樣的記載:「……螺陽建興天妃祠廟崇聖母祖姑由來舊矣焉……稽昔自康熙丙辰先輩之人資以修興……。」牌文中康熙丙辰即康熙十五年(一六七六年)這是有關東螺媽信仰最早之記載,亦說明東螺媽祖廟創建之年代應該在康熙十五年(一六七六)之前,至今已有三百多年之歷史。
而昔日整個彰南平原在古東螺地區域幾乎都是東螺媽的信仰圈,記載著像是眉裡社的熟番,將從漢人收來的地租捐獻一部份就作為酬謝媽祖的獻金、以及從現存的地契,功德牌記,長生祿位牌…等古物中可見得平埔族|熟番也因漢族移民日益增多融��之下也祭拜媽祖。舊時東螺媽的信仰力量是相當深遠的,它使不同的族群融合,這台灣媽祖文化史上,首尊為「平埔仔媽」,三百多年來默默地守護著居住於這片土地的子弟蒼生,不論漢人或是平埔族人,在東螺媽的指引下,這最道地的台灣原鄉文化源脈漸漸露出曙光。
據地方文史工作者洪慶宗表示,明末清初先人拓墾東螺地區(泛指南彰化一帶),自福建湄洲迎靈媽祖神像,庄人為媽祖建天后宮,「東螺媽」成為先人的信仰。但是西元一八○五年兵禍、水患不斷,東螺天后宮灰飛煙滅,然信仰仍流傳民間。
他說,十年前,地方開始尋找東螺媽歷史,並自彰化縣溪州鄉迎回一尊供奉於民家的軟身東螺媽。2009年東螺文化會館落成與東螺媽行宮入火安座大典,籃城里數十位居民帶著祖先當初奉請至埔里的媽祖神像同來慶祝。地方人士說,一條幾乎斷了線的風箏,因為東螺媽的指示再度接上。異居兩地的東螺媽子弟們則許下一個共同願望,要繼續把東螺媽過去的信仰圈及文化給傳承下去。
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七律:讀〈入武林〉有感
北風席捲漢家山,赤手書生欲補天。
靖難起兵招勇士,勤王駢力復東南。
捨身取義垂青史,視死如歸遺絕篇。
忠烈千秋懸日月,同光二聖感煌言。
註:武林指杭州。駢力指和鄭成功配合抗清。復東南是指張煌言率兵收復了安徽浙江四府二十餘縣。日月暗喻明朝。二聖指岳飛和于謙。@*
七絕:殉國
(一)
天祥燕市仰南天,世傑秀夫葬海瀾。
大宋文臣多死節,明亡畢竟有煌言。
(二)
取義成仁重泰山,精忠報國仰前賢。
立碑湖畔名三傑,一樣冰心鑒海天。
張煌言〈入武林〉
國亡家破欲何之?西子湖頭有我師。
日月雙懸于氏墓,乾坤半壁岳家祠。
慚將赤手分三席,敢為丹心借一枝。
他日素車東浙路,怒濤豈必盡鴟夷!
注1:一枝是指小小的棲身之所。語出《莊子•逍遙遊》:「鷦鷯巢於深林,不過一枝。」用鳥一枝可以立足來比��人一抔可以埋身。這兩句的意思是我赤手空拳起兵抗清,失敗了,很慚愧,不敢和岳飛和于謙並列三席,但我有一顆忠義之心,也希望死後和兩位前輩葬在一起。
注2:素車指錢塘江潮。鴟夷:皮革製的囊,借指伍子胥。《史記•伍子胥傳》說子胥死後,吳王取其屍「盛以鴟夷革,浮之江中。」《吳越春秋》:「吳王乃以子胥之屍,盛以鴟夷之器,投之江海,子胥因揚波成濤激岸,隨潮往來。」伍子胥死後為海神,每年八月都會駕素車白馬,驅錢塘江潮,拍岸伸冤。我的理解是素車白馬是另外空間的情景,而在人間看到的就是錢江大潮,所以素車就是大潮。這兩句是說:我死後今後再有錢塘大潮時,那怒濤並不一定完全屬於伍子胥的,也有我張煌言一份。表示自己死後也要化為驚濤駭浪反抗異族統治精忠報國的決心。
張煌言,字玄著,號蒼水,1620年出生於鄞縣(今浙江寧波),是南明大臣,文學家,民族英雄。他是崇禎時的舉人,官至南明兵部尚書,南京失守後,與錢肅樂等起兵抗清。後奉魯王,聯絡13家農民軍,並與鄭成功配合,親率部隊連下安徽20餘城,堅持抗清近20年。1664年,魯王朱以海病死於金門,張煌言終於認為復明無望,將軍隊解散,躲避至浙江象山附近的小島隱居,之後仍為清軍偵知逮捕,在省城杭州被處斬決,臨刑前,賦〈絕命詩〉。他詩文多是在戰鬥生涯裡寫成,質樸悲壯,表現出作家憂國憂民的愛國熱情,有《張蒼水集》行世,張煌言與岳飛、于謙並稱「西湖三傑」,與羅綸並稱為「張司馬二客」。
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古神道を振り返るとき
古神道とは、仏教や儒教が日本に伝来する以前から存在していた、日本本来の信仰形態です。
自然そのものに神が宿るとする素朴で精神的な宗教観は、現代の神社神道とは異なる多くの特徴を持ちます。
日本の神には、高天原から来た天津神と、地上の葦原中国を治めていた国津神たちに分けて語られますが、その土地土地に様々な神様がおられた、その神様たちが徐々に天孫系の神様に置き換えられたりしてきて、神社を中心とした、天皇制の神道に歩みを進めていったと考えられます。
もともと古神道的な考えだと現代よりももっとアニミズム的な要素が強く、神社という形式もなかったのではないかと言われます。
歴史は強者が作ると言われますが、神社や祠にしても、どんな信仰をしていたかは由緒の記録から消えてしまえばなかなか探ることはできません。
どんな価値観や信仰も、長い歴史の中で少しずつ継ぎ足し継ぎ足しされ、さらに力のある人たちの影響も受けながら意図的にも変わってきてしまうのです。
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一度は体験したい!癒しのパンダツアーで中国の魅力を満喫|成都パンダからツアー情報まで
中国の国宝といえば、なんといっても愛くるしい姿で世界中に人気の中国パンダ。そんなパンダたちに会いに行けるパンダツアーは、近年日本人観光客の間でも注目を集めています。
とくに本場・中国四川省の成都パンダ繁殖研究基地では、赤ちゃんパンダやリラックスする大人パンダたちの姿を間近で観察できることで有名です。この記事では、大人気のパンダツアーの魅力や、訪れるべきスポット、ツアー選びのポイントなどを詳しく紹介します。
���ンダに会える場所はどこ?
中国パンダに会うなら、まず最初に名前が挙がるのが「成都パンダ繁殖研究基地」。成都中心部から車で30~40分の距離にあり、アクセスも便利です。ここでは100頭以上のパンダが保護・繁殖されており、子パンダの保育施設や医療エリアも見学可能です。
他にも、「臥龍パンダ自然保護区」や「雅安碧峰峡基地」など、四川省には複数のパンダ関連施設があります。パンダツアーでは、こうした施設を巡る旅程が組み込まれており、現地ガイドの解説付きでパンダの生態を深く学べるのも魅力の一つです。
大人気のパンダツアーを選ぶ理由
多くの旅行会社がパンダツアーを提供していますが、なかでもおすすめは大人気のパンダツアーです。このツアーでは、成都での滞在時間をたっぷり確保し、パンダだけでなく四川料理や歴史的名所の観光も楽しめるよう工夫されています。
さらに、現地の専門ガイドによるサポートがあるため、言語の心配もなく快適に旅を楽しむことができます。写真撮影スポットの案内や、おすすめの食事処の紹介など、個人旅行では難しい部分もカバーしてくれるのが魅力です。
成都パンダ施設でできること

成都パンダ保護区では、パンダの生活風景を観察できるだけでなく、ボランティア体験も人気です。餌やりや掃除といった作業に参加しながら、飼育員のような一日を過ごすことができます(事前予約制)。
また、併設のミュージアムでは、パンダの歴史や遺伝学的研究の成果を学べる展示があり、子供から大人まで楽しめる内容になっています。動物好きにはたまらない体験になるでしょう。
パンダツアーと他のアジアツアーとの比較
最近ではバンコク現地ツアーも日本人観光客に人気ですが、動物好きにとってはパンダツアーの方がより特化した体験が可能です。バンコクではゾウやタイガーなどアジアの動物と触れ合えますが、中国ならではのパンダはやはり特別です。
また、成都は歴史ある都市でもあり、武候祠や杜甫草堂などの文化財も見どころ。グルメ、文化、自然、動物観察をすべて網羅できるのはパンダツアーならではの魅力といえるでしょう。
旅行のベストシーズンと注意点
中国パンダを見学するベストシーズンは、春(3〜5月)と秋(9〜11月)です。気候も穏やかで、パンダたちも活発に動いている姿を見ることができます。夏場は暑さを避けて屋内にいることが多いため、涼しい時期を狙うのがポイントです。
施設内では静かに行動し、フラッシュ撮影を避けるなどマナーを守ることも大切です。中には事前予約が必要なプログラムもあるので、大人気のパンダツアー公式サイトで事前確認をおすすめします。
まとめ:癒しと学びの旅、パンダツアーへ
パンダツアーは、ただ観光するだけでなく、自然保護や動物の命について考えるきっかけにもなる旅です。成都を訪れ、世界中から愛される中国パンダの魅力を体感する時間は、きっとあなたの記憶に残ることでしょう。
初めての中国旅行でも安心な大人気のパンダツアーを活用して、忘れられない旅をスタートしてみてはいかがでしょうか?可愛い成都パンダたちが、あなたを待っています。
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感謝烘爐地福德正神保佑媽媽手術順利

感謝烘爐地福德正神保佑膝關節手術順利, 恢復行走功能
烘爐地南山福德宮,簡稱南山福德宮、又稱烘爐地土地公廟,是位於臺灣新北市中和區內南里、烘爐塞山的土地祠,本為茶農所祭祀的小廟,後擴展成香火興盛的大廟,有一尊土地公巨像。
沿革
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南勢角呂氏為臺灣清治時期時自漳州府詔安縣來臺灣發展[1],來台祖為呂德進[2]。第二代落腳烘爐塞山區,該地左右突出一塊山頭,下有聳立一塊巨石,後來人便稱此地為「烘爐地」,此地區為呂家產業,附近的中和竟南宮、中和南山觀音寺也都是該宗族所建[3]。廟委呂芳錫表示,一百多年前該地山區有許多茶農,為求平安就在山上用土石搭建一座土地祠,由於山路崎嶇,除茶農外,幾乎沒人上山拜此廟[4]。正殿內小廟
1952年,中和人游興仁改建小廟,各地善信競相捐輸[2]。後來,一名建商為感謝此土地公保佑,捐錢造路,並擴建土地公廟,定名為「南山福德宮」,有求必應的傳聞就此傳開,外地香客也愈來愈���[4]。1967年南勢角呂氏起重建[2],以呂蒼柏為首大幅擴展此廟[5],四年時間建成[2]。廟委游輝文表示,當時1960年代改建時,都靠信徒攜帶一桶水泥或幾塊磚,下山時帶著空水桶下山,慢慢把建材運齊改建[6]。1971年再逐步擴大為今日的規模,有活動中心、停車場、餐廳等[3]。隨著不斷修建,山麓並修建登山階梯,從烘爐塞山腳下登高至正殿,總共有一千兩百多個階梯[7]。
1994年,委員會計畫豎立一座大型的土地公神像,原規劃神像高度僅三十六台尺,經常到烘爐地爬山的林豐正便建議何不乾脆以建立一座新地標的方向來設計,於是委員會重新規畫巨型土地公神像,找到苗栗一位吳姓雕塑師傳製作一尊淨高七十二台尺、基座算起高達一百零八台尺的玻璃纖維巨像[8]。1996年3月完工後,行經北二高中和段時,由南向北往右邊山上望,便能清楚看到山腰上的此土地公像,廟方次年在兩旁各加一條巨龍像[9]。
1998年9月1日,廟方南山福德宮圖書館正式啟用,由市長呂芳煙主持,耆老徐水古、分局長孫翼德等各界參加[10]。
2005年1月5日,一名中和的江姓男子曾在大土地公像旁安裝土製鋼管炸彈,及時被發現[11]。財神殿與土地公巨像
廟又稱「烘爐地土地公廟」[11][12],今址為新北市中和區興南路二段399巷160之1號[1],屬內南里[13]。今日廟身保留舊廟,成為廟中廟,第一間廟於正殿後方,第三間廟則蓋兩層樓,把第二間廟包在一樓[6]。2010年,廟方再於大土地公像下方位新闢建財神殿[14]。
祭祀
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農曆過年、農曆二月初二土地公生日以及八月十五、十六日得道紀念日,是廟裡最熱鬧的三大節日[6]。據廟方黃明裕表示,很多房仲業及各公司行號業務常來參拜,此宮自此成財神廟,如台灣彩券公司每年都會率員工前來參拜[14]。
進入主殿參拜共分五爐依序是天公、福德正神、山神神君與註生娘娘,最後特別繞到正殿後方參拜第五爐,也就是最早供奉在石板間的土地公[6]。正殿後方的石壁除福德正神外,還祭祀招財童子、進寶郎童[15]。因香火鼎盛,過多紙錢引發煙害,導致環保局官員因而屢屢告誡,管委會決定從2007年1月開始進行封爐,而受到地方反彈[12]。
二樓財神殿有財神爺、文昌帝君、月下老人[14]。
頂樓太歲殿:斗姥元君與六十太歲星君。
星雲大師:有佛法就有辦法
金剛經:一切有為法,如夢、幻、泡、影;如露,亦如電,應作如是觀。」
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漢のひとり旅2025春②
DAY2
2日目は福井県敦賀市を散策しました。

駅でミスドのロイヤルミルクティとパイを購入。朝食はサンダーバード車内でゆっくり食べよ~^^と思っていましたが…
サンダーバードって全席指定席なんですね。乗る前に気づいてよかった。慌ててネットから席を予約しました。女性専用車両に乗ったのですが平日にも関わらずほぼ満席でした。
本来なら50分ほどで着くはずでしたが、この日は強風のため徐行運転で、20分ほど遅れて敦賀に到着しました。人生初北陸上陸です🗾㊗️
目的地方面のバスの本数が少なかったので観光案内所で相談したところ、レンタカーを勧められたので言われるがまま従いました。

レンタカー屋に居たフレデリック
知らない土地を運転するのに抵抗がありましたが自分が普段乗ってる車と同じ車種のものを借りられたのでなんとかなりました。
まずは常宮神社を目指して車を走らせます。
途中、通りがけにあった気比の松原に寄り道しました。



灰色の空 雪化粧した山 荒れ狂う波…
早速イメージ通りの日本海側の景色を拝むことができ感無量でした。仕事で飽きるほど内海の景色を見ていますが地元では見られない寂しげな海です。クッソ寒い中しっかりと目に焼き付けたところで車に戻りました。
海沿いの道を進んでいくと常宮神社に着きました。 1本道なので分かりやすかったです。


入り口から良い雰囲気

境内の道路沿いにある休憩所?から撮影 めちゃくちゃ絵になる



どこを切り取ってもかわいい



左右の小さな祠に1匹ずつ小さな狛犬がいました

しっかりとお参りをし、御朱印をいただきました。こちらの御朱印のデザインが可愛く、今回の旅の目的のひとつでした。
梅と犬のハンコどっちがいい?と聞かれたので迷わず犬と答えました。その後梅も押せるけど…どうします?と聞かれたので梅のハンコも押してもらいました。春らしくていいかんじ^^ そして字がうますぎる…!
神社でホッコリしたところで次なる目的地、立石岬灯台へ向かいます。道がよく分からなかったのでとりあえず半島の端を目指し県道を突き進みます。少し不安もありましたが見知らぬ土地で聞き慣れないラジオを聴きながらドライブするというのも悪くない体験でした。
敦賀原発を横目に進んでいくと漁港に辿り着きました。この漁港に車を止め、灯台まで歩いていくとネットに書いてあったので駐車しました。

生粋の九州男児のぼく、クマがこんな身近な存在に感じたのは初めてでした。人気もなく少し気味が悪かった為まあ、当然灯台は断念しましたね。




せっかくここまで来て何もせず戻るのも惜しいので漁港で海を眺めていました。海好きなので飽きずに楽しめました。(しっかりと推し活もした。)20分程眺めていたところで地元民らしき方たちが山から降りてきて、変なヤツと思われそうなので撤退しました。
その後市街地へ戻りました。周りたい候補は決めていたものの順番は決めていなかったので観光名所が集まっている敦賀港へ向かいました。
ちなみにお昼はヨーロッパ軒のソースカツ丼を食べると心に決めていたのに、なんと店休日でした。飲食店を探したもののお昼時を過ぎていたので見つけられずローソンのミニチーズコロッケとサラダチキンを食べました。
軽く食べたところで港周辺を散策していきます。


旧敦賀港駅ランプ小屋。明治時代の建築で、むかしは活気があったようですが現在はポツンと佇んでいます。切ないけどそこがいい。

敦賀ムゼウムにて ポーランドの民族衣装。ここではポーランド孤児やユダヤ難民を受け入れた歴史が展示されています。アニメーション映像で紹介されていたので、恥ずかしながら歴史に疎い自分でも分かりやすかったです。新めの施設なのかな?綺麗で設備が整っている印象でした。




コンテナや船、赤レンガ倉庫を見ながらお散歩しました。全てがたまらん景色ですね。カメラのシャッターを押す手が止まらなかった。ボク港や漁村に無性に惹かれるんだけど前世漁師なのかな…とか考えてました。
ボンヤリしてたら時刻は16時を過ぎていました。レンタカーを18時に返却しないといけなかったので最後に気比神宮に寄ることにしました。

人が写ってたので画像加工してます。
日本三大鳥居のひとつ、気比神宮の鳥居です。圧巻のデカさ!神社が17時に閉まるということで、ギリギリ参拝することができました。訪れたのが16時50分頃だったのですが、この時惜しくも御朱印やお守りの販売は終了していました。
いい時間になったのでガソリンを満タンにし、レンタカーを返却しました。レンタカー屋のおじさん、初めは寡黙そうな印象でしたが表情に出ないタイプなだけで愛嬌があって可愛かったです。ボクも普段観光客相手のお仕事をしているのですが、最近手を抜いていたのでお客さんに少しでも旅を楽しんでもらえるよう気をつけなきゃな…と猛省しました。
駅でお土産を購入し、抹茶ミルクを飲んで京都へ帰りました。敦賀、めちゃくちゃいいとこでした。また来ます。次は宿取って北陸制覇とかも…アリだ。

かわいいフォルムとかっこいい名前のサンダーバードくん。帰りは女性専用車両ではなく一般の車両を選んだら普通に空いてました。

夕飯は京都駅の伊勢丹で値引きされた惣菜を買って食べました。そしてせっかくなので近所の銭湯で冷え切った体を癒して1日を終えました。
最後まで贅沢な1日だった…。
③に続く
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