#盲亀浮木
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23日(日)はね、 #盲亀浮木 さんにお願いして スッキリ爽やかな 🍊🍋柑橘ジンジャーサイダー🍹をいただき 残業頑張りました💪 (きのこ文庫) https://www.instagram.com/p/CPQqKqLMbxR/?utm_medium=tumblr
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古典落語「高田の馬場」

むかしは、ただいまの浅草公園のあたりを浅草の奥山と申しまして、見世物、大道芸人のたぐいが、それからそれへとならんで、ひとびとの足をとめていたものでございます。 その奥山の大道芸のなかで、名物のひとつになっていたのが、居合い抜きという芸当でございます。 どんなことをしたかと申しますと、奥山の人出の多いところへ荷をおろしまして、真鍮《しんちゆう》のみがきあげた道具に長い刀をかけ、若い男が、うしろはちまきをして、たすきをかけ、袴《はかま》の股立《ももだ》ちを高々ととりあげて、六尺棒などをふりまわし、 「あいあい、あちらでもご用とおっしゃる」 などとやっております。そのうちに、十分見物人があつまってまいりますと、柄鞘《つかざや》八尺という長い刀を腰のかげんで抜いてみせる。これがすなわち居合い抜きで、それがすむと、うしろにひかえている娘がでて、鎖鎌《くさりがま》などをふってみせるのでございますが、この居合い抜きも鎖鎌も、つまりは人寄せにすぎません。そのじつは、がまの油を売るのが商売で、芸当のあいだあいだで、たくみに口上を述べ立てるのでございます。この口上のいい立てがすこぶるおもしろいもので…… 「なんとお立ちあい、ご用とおいそぎのないかたは、よっくみておいで。遠出山越し笠のうち、ものの文色《あいろ》と理方《りかた》がわからん。山寺の鐘はゴウゴウと鳴るといえども、法師一人きたりて、鐘に撞木《しゆもく》をあてざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とーんとりくつがわからん道理だ。さてお立ち合い、てまえ持ちいだしたるなつめのなかには、一寸八分の唐子ぜんまいの人形だ。細工人はあまたありといえども、京都にては守随《しゆずい》、大阪おもてにおいては竹田|縫之助《ぬいのすけ》近江《おうみ》の朝臣大掾《あそんだいじよう》。てまえ持ちいだしたるは、竹田近江がつもり細工、咽喉《のんど》に八枚の歯車が仕掛け、背には十二枚のこはぜをつけ、これなるなつめのなかへ据えおくときには、天の光りと地のしめりとをうけ、陰陽合体して自然とふたがとれる。つかつかっとすすむは、虎の小走り小間がえし、すずめの小間とり小間がえし、孔雀霊鳥の舞い、人形の芸当は、十《とお》とふた通りある。しかしお立ちあい、投げ銭や放《ほお》り銭はおことわりだよ。投げ銭や放り銭をもらわずに、なにを渡世にするやとおたずねあるが、てまえ、多年のあいだ渡世といたすは、これに持ちいだした蟇蝉噪《ひきせんそう》四六のがまの油、四六、五六はどこでわかる。前足が四本に、後足が六本、これをなづけて四六のがま。このがまの住めるところは、これからはるか北にあたる筑波山のふもとにおいて、車前草《おんばこそう》という露草を食らって生成する。さて、このがまの油をとるには、四方へ鏡を立て、下には金網を張って、そのなかへがまを追いこむ。がまは、おのれのすがたをみておどろき、たらりたらりとあぶら汗を流す。それを下の金網にて透《す》きとり、柳の小枝をもって三七、二十一日のあいだ、とろーり、とろりと煮つめたのが、このがまの油だ。その効能をなにかといえば、金創《きんそう》切り傷にきく。第一番になおしてあげたいが、出痔《でじ》、いぼ痔、走り痔に脱肛《だつこう》。虫歯で弱るおかたはないか? でておいで。綿へ塗って内へつめ、歯でくいしめるときは、雪に熱湯をそそぐがごとく。待ったお立ち合い、刃物の切れ味をとめ��。てまえ持ちいだしたるは、鈍刀《どんとう》たりといえども、先が切れて元が切れない、そんなあやしいものではない。ほら、ぬけば玉散る氷の刃《やいば》、鉄の一寸板もまっぷたつだ。お目の前で白紙をこまかにきざんでごらんにいれる。さ、一枚が二枚に切れる。二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚……春は三月落花のかたち……」 などと、その刀の切れ味をみせておき、それへがまの油を塗って、切れ味をとめたり、または、油をぬぐいとって、さらに、自分の腕を切って血をだし、その血を、がまの油ひと塗りでとめてみせたりするのでございますが、その口上とともに、じつにあざやかなものでございます。 こういうぐあいの口上をもって、いましも浅草奥山の人の出ざかり、居合い抜きからがま油の効能を述べております二十歳《はたち》前後の若者、そのうしろにひかえておりますのは、その男の姉でもありましょうか、年ごろ二十二、三の美しい娘、これが鎖鎌をつかうのでございます。まわりは、黒山のようなひとだかり、その混雑を分《わ》けながら、 「えい、寄れ寄れ、寄れっ」 と、その居合い抜きの前へつかつかと近寄りましたのは、年ごろ五十四、五にもなりましょうか、供《とも》をつれたお侍でございます。 「あいや若い者、最前��りこれにてうけたまわっているに、なにか金創《きんそう》切り傷の妙薬とか申すが、それは、古い傷でもなおるか?」 「古い、あたらしいとを問わず、ひと貝か、ふた貝おつけになれば、かならずなおります」 「二十年ほどすぎ去った傷でもなおるかな?」 「なに、二十年? ……二十年はすこし古すぎますが……まあ、ちょっとその傷を拝見いたしましょう」 「おお、みてくりゃれ」 と、侍は、ただちに片肌ぬいで、その傷をみせましたのを、じっとみていた若者が、 「やや、こりゃ武士にあるまじきうしろ傷、投げ太刀にてうけた傷でござるな」 「うーん、なかなか目が高い。いかにも投げ太刀にてうけた傷じゃ」 「さては、若気のあやまちにて、斬りとり強盗、武士のならいなどと申して、ひとをおびやかさんとして、かえっておびやかされ……」 「いやいや、さようなことではござらん。かかる場所にてはなすのもいかがかと存ずるが、それも身の懺悔《ざんげ》じゃ。まず聞かれい。もはや、ふたむかしもほど経《へ》しことゆえ、拙者《せつしや》を仇《かたき》とねらう者もござるまい……じつは、拙者はもと薩州の藩の者でござるが、ある下役の妻女の美しさに懸想《けそう》したのが身の因果……いや、笑うてくださるな……なにがさて、その女が、おもいのほかの手ごわさ、しょせん尋常《じんじよう》ではなびかぬことと存じたゆえ、夫の不在をうかがって、手ごめにせんといたしたのじゃ。と、その折りも折り、とつぜん夫が立帰り、『上役の身をもって、無態《むたい》のふるまい不都合《ふつごう》千万』と、たしなめられ、かなわぬ���の無念さも手つだい、『なにを小しゃくな』と、抜き討ちに、その場において斬りすて申した」 「う、うーん」 「斬ってののち、はじめてわれにかえり、ああ、とんだ殺生をいたしたと気がついたとて、もうおそい。ままよと、そのまま立ちのきにかかったとき、『夫の仇』と、その妻女が、乳呑児《ちのみご》を抱いた片手に、懐剣ひき抜き、追い駈けてまいったが、女の足のおよばぬとおもってか、『えいっ』と投げつけたる、その懐剣が背に刺さり……すなわちのこるこの傷じゃ。暑さにつけ、寒さにつけ、どうもいたんでならん。なおるものなら、なおしてもらいたいが……」 と、語りおわって、おもわず吐息《といき》をついております。若者は、その傷あとをつくづくとながめ、その物語りに聞きいり、さらに、その武士の人品骨柄《じんぴんこつがら》をじっとみつめておりましたが、 「おおっ、そこもとは、悪沢源内どのではござらぬか?」 「えっ、な、なに、拙者の姓名をご存知の御身は?」 「さてこそなんじは悪沢源内、かくいう身どもは、なんじのために討たれたる稲垣平左衛門がわすれがたみ平太郎、これにひかえたるは、姉ゆき、なんじを討たんそのために、姉弟ふたりが艱難辛苦《かんなんしんく》いかばかり、二十年《はたとせ》あまるこの年月《としつき》、ここで逢うたは盲亀《もうき》の浮木《ふぼく》、優曇華《うどんげ》の花、待ちえたる今日の対面、いざ手あわして尋常に勝負、勝負、姉上、ご油断めさるな、おしたくめされい」 「おお、合点《がつてん》」 「親の仇!」 と、左右からじりじりっとつめよりましたから、さあたいへん。とりかこんでみていました群集はもとより、物見高いは江戸のつね、ことに浅草奥山、繁昌のまんなかでございますから、黒山のひとだかりでございます。 「なんだ、なんだ、どうしたんだ?」 「乞食が、お産をしたんだ」 「たいへんなところではじめたもんだな」 「ひとごみで押されたためだよ」 「ところてんじゃああるめえし、押されてでるやつはあるまい」 「いいえ、そうじゃあない、巾着《きんちやく》切りがつかまったんだ」 「ちがう、ちがう。犬がかみあっているんだよ」 「ふざけちゃあいけねえ。犬の喧嘩《けんか》なんぞはめずらしかあねえや」 「そんな気楽なもんじゃあねえ。仇討ちだ」 「えっ、仇討ちだと? ……あがってみろ、あがってみろ」 「どこへあがるんだ?」 「五重の塔のてっぺんならよくみえるだろう」 「鳩やからすじゃああるめえし、あがれるもんかい」 などと、例の弥次馬という連中が、わいわいさわぎ立てますからたまりません。なかには、石を投げるやつがいたり、なにしろたいへんなさわぎになりました。 「あいや、ご姉弟、しばらく、しばらく、しばらくおひかえください。もはや、ふたむかしもすぎ去ったることゆえ、よもやとおもったが拙者の油断、現在仇とねらうそこもとに、口外いたしたのは、これ天命のがれざるところ、いかにも仇と���乗って討たれよう。なれども、ここは観世音境内の浄地《じようち》、血をもって汚《けが》すはおそれ多い。ことに拙者は、現在、主《しゆ》持つ身の上にて、ただいま使者にまいってのもどり道、立ち帰って、復命いたさねば相成らぬ。されば、ひとたび立ち帰り、役目を果たせし上おいとまをちょうだいし、心置きなく勝負をいたし、この首をさしあげん。明日巳《み》の刻《こく》(午前十時)までお待ちをねがいたい」 と、いかにもいつわらない顔つきで申しましたが、それを聞いていた弥次馬連が承知しません。 「だめだ、だめだ。そんなことをいってにげるんだ」 「ぐずぐずしてねえでやっちまえ」 と、またさわぎ立てます。なかにも、侍の弥次馬とくると、 「あいや、卑怯《ひきよう》者をとりにがしては相成らん。身どもが助太刀をいたす」 などと、りきんでとびだします。 ところが、居合い抜きの若者は、しばらくかんがえておりましたが、なにかうなずくと、 「なるほど、源内の申すところも道理である。しからば、明日巳の刻まで相待ち申そう」 「そりゃご承知くださるか?」 「いかにも……して、明日、その出会いの場所は?」 「さよう、その場所は……おお、高田の馬場にて、お待ちうけいたす」 「うん、かならずそれに相違ないか?」 「はばかりながら悪沢源内、武士に二言はござらん」 「しからば、明日巳の刻まで、その首をおあずけ申す」 「千万かたじけない。今日は、これにておわかれいたそう」 と、そのまま右と左にわかれてしまいましたから、おどろいたのは見物人で、 「おいおい、留さん」 「ええ?」 「どうなったんだい、仇討ちは?」 「日延《ひの》べ」 「日延べ?」 「そうだよ」 「そんなばかな、料理屋の開業式じゃあねえぜ。二十年もさがしてた仇にようようめぐりあったんじゃあねえか。それを日延べだなんて、そんなふざけたはなしがあるかよ」 「おれに文句をいったってしょうがねえじゃあねえか。なにもおれが日延べにしたわけじゃあねえんだから……」 「だって、あんまり歯がゆいや」 「そんなに歯がゆかったら、歯ぎしりをしなよ」 「してえんだけれど、反《そ》っ歯《ぱ》でできねえんだ。このあいだも、喧嘩に負けてくやしいときに、どうしても歯ぎしりができねえもんだから、となりのげた屋の亭主に歯ぎしりをしてもらった。ところが、あとで歯代をとられた」 「ばかなことをいうない……あした巳の刻ってんだ。弁当でも持って、高田の馬場へいこうか」 「いこうか」 「いこう、いこう」 と、講釈のつづきでも聞きにいく了簡《りようけん》だからおもしろい。 こういう連中が、それからそれへとしゃべってひろめるのですから、その日のうちに、江戸じゅうの評判になって、当日は、夜のあけないうちから、わいわい高田の馬場へ仇討ち見物がおしかけるというさわぎで、さしもにひろい高田の馬場も、たちまちいっぱいのひとでございます。ふところのあったかいひとは料理屋へはいって、一ぱいやりながら待っておりますし、弁当を持ってったひとは、よしず張りの掛け茶屋へはいって茶をもらって弁当をつかうということで、よしず張りの掛け茶屋がずらりっとならんでおります。 「おいおい、ごらんよ。たいへんな人気だなあ。みんな仇討ち見物のひとだぜ。おい、こうやってぼんやり待ってるのも気がきかねえや。そのへんで一ペえやりながら待とうよ」 「そうさな、ろくな酒はねえだろうがな」 「そりゃあしょうがねえや。どうせひまつぶしなんだから……」 「じゃあ、いってみようか」 「おい、ごめんよ」 「いらっしゃいまし」 「だいぶ混《こ》んでるな……どこかあいてるか?」 「便所のわきならあいてます」 「いやなところがあいてるんだなあ。まあ、しかたがねえや。そこで一ペえやろう」 「こちらへいらっしゃいまし」 「ああ、ありがとう。おう、ねえさん、酒はあるかい?」 「はい、まだ少々ございます」 「少々? 心ぼそくなってきたな。なくならねえうちに、五、六本持ってきてくれ……それから、なにかつまむものがあるだろ?」 「もうたいしたものはのこっておりません。焼きのりとおしんこうぐらいです」 「まあ、しょうがねえ。それでもいいから持ってきてくれ」 ある掛け茶屋で一ぱいやっている職人風のふたりづれ、仇討ちの幕あきの長いのをじれったがりながら、 「ええ、おう、じょうだんじゃあねえぜ。いつになったらはじまるんだろう?」 「ほんとうだな。なにをしていやがるんだろう? ……おい、ねえさん、いま何どきだい?」 「はい、午《うま》の刻《こく》(正午)でございます」 「なに、午の刻? おかしいなあ。仇討ちの約束は巳の刻だぜ。もうすぎちまったじゃあねえか。まさか、また日延べになったわけじゃあなかろうな」 「真剣の仇討ちが、そうたびたび日延べになんぞなるもんか」 「そうよなあ……おいおい」 「なんだい?」 「あすこをごらん。あの、柱へよりかかって酒を飲んでる侍をよ」 「うん……あっ、ありゃあ、きのう浅草でみた仇の侍にちげえねえ」 「たしかにそうだな……ひとつ聞いてみようか?」 「よせよせ。無礼討ちだなんて食らっちゃあつまらねえや。相手さえくりゃあ、はじめるんだろうから……」 「むやみに無礼討ちなんぞする気づけえはねえや。まあ、おれが聞いてみるから、まかしておきねえ……ええ、お武家さま、だいぶご酒《しゆ》をめしあがりますな。まだなんでございますか、お帰りになりませんか?」 「うん、まだ当家から勘定をもらわんから立ち帰らんのだ」 「へーえ、料理屋へきて、勘定をはらって帰るというならわかっていますが、勘定をもらって帰るというのは変ですな……旦那は、だいぶご酒がいけますな」 「さよう……たんともいかんけれど、朝一升、昼一升、夕べに一升、寝酒に一升だな」 「へーえ、一日に四升! ずいぶんめしあがりますな」 「そのほうは飲めんか?」 「いえ、飲めねえことはねえんですけれど、とても、こちとらのようなかせぎの細い者には、飲みたくっても飲めませんや」 「そのほうの稼業《かぎよう》はなんだ?」 「あっしどもは、でえくでございます」 「なに? でえくとはなんだ?」 「へえ、大工《だいく》なんで……」 「大工と申せば、職人のなかでも一番|上《かみ》に立つ職だというが、そのほうは、日にどのくらいかせぎがあるな?」 「そうでございますな。日に三|匁《もんめ》がご定法《じようほう》でございます」 「日に三匁と申すと、ざっ��一月に一両二分だな」 「まあ、そんなもんで……」 「はっはっははは、情けない稼業だな。そんなつまらん稼業はやめて、身どもの商売になれ」 「旦那のご商売は何で?」 「身どもは仇討ち屋だ」 「へーえ、仇討ち屋っていいますと?」 「おまえたち、ここへなにしにまいった? きのうの浅草奥山の……」 「おっと待った。待っておくんなせえ。そこまでいきゃあ、あっしのほうがはなしは早えや。がまの油あ売ってたやつに、仇だといわれたのは、旦那でござんしょう?」 「はっはっははは、いかにも拙者だ」 「あれっ、おちついてちゃあいけねえなあ、仇討ちはどうなったんで?」 「はははは、きょうはやめた」 「えっ、やめた? 旦那はそれでようござんしょうが、相手が、それじゃあすみますまい?」 「すむもすまんもない」 「え? どうして?」 「仇を討とうというあの姉弟は、身どものせがれと娘だ。きょうは、天気がいいからのう、うちで洗濯でもしてるじゃろう」 「うちで洗濯してる? ……うーん、どうもわからねえや……いったいどういうわけなんで?」 「うん、身どもが、浅草奥山の居合い抜きの仇になって、この高田の馬場で討たれるという評判を立てて見物をあつめ、このへんの茶屋小屋を繁昌させて、その勘定の割りをとるというわけだ」 「いやあおどろいたなあ……おい、兄い、聞いたか? 仇討ちは評判だけのもうけ仕事だとよ」 「なあるほど、それじゃあ、見物にきたこちとらが、まんまと返《かえ》り討《う》ちだ」
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#京丹波町#旧質美小学校 #盲亀浮木 @anmochi110mamekichi0420 の「静かなる師走祭り」に参加してきました。 ◯煎米焙じ茶とほろ苦モカと柿のショートケーキを、謎なイートンメスと一緒に愉しむひと皿 ◯ブルーチーズの誘惑 様々な素材との組合せを愉しみ、ワイン不在を惜しむ為のひと皿 という、字ヅラからして魅惑的な内容のスイーツが用意されていました。ひっそりお取り置きをお願いし、JRに揺られ1時間&RUN30分。 いつもうっとりしてしまう、店主みきさんの笑顔を見たら、いろんなものが溶けていくのを感じました。移動距離の長さなんて一瞬���すっ飛んだ!笑 柿のみずみずしい自然な甘みと、ほうじ茶の香ばしさやモカのほろ苦さ、そしてふわふわで溶けていく口どけ…柿のソースや見た目も、すべてが素晴らしかったです。こんなスイーツあるのか!と興奮♡ レッドペッパーがアクセントのブルーチーズは、ほんまに呑みたくなるオトナ味で、ブルーチーズ好きにはたまりません。 それぞれ異なるテイストで大満足。わざわざ来てよかったと心底思いました。 味だけでなくお店の雰囲気、みきさんの優しい笑顔に、柔らかなたたずまいに、紡ぎ出される美しいことばたち…もうただただ幸せでした。これほどの喜びはそうそうないかもしれん! 週末が混み合うのはわかるけど、今日もほぼ満席でびっくり。平日でもにぎわっているのですね。でも週末に比べたらマシなようで、ゆったりした空気が流れていました。この雰囲気がしっくりきますね〜 そして同席のお客様と意気投合!みきさん交えて熱いBBAトークを繰り広げてしまいました。笑 たまたまかも知れないけど、人生における出来事って、偶然のようで必然なことばかりよね!皆さんとそういう意見で一致して解散。 盲亀浮木での会話、出会いのおかげで、今日がどれほど豊かなものになっただろうか。いろんな偶然が重なってだけど、みきさんが引き合わせてくださったんじゃないかと感じます。出会いやいろんなことに感謝! 手間も交通費もかかるけど公共機関で行けるのがわかったし、RUNでもほどよい距離だし、ぼっち訪問可能がわかったのが、大きな収穫でした。これでこれからも、ちょくちょくお邪魔できそうでうれしいなぁ♡ 行きたい、会いたい、食べたいと、ココロが揺さぶられるものには、欲望にしたがっても正解なことがほとんど。来年はそんな野性的勘を、さらに高めていきたいです。 #京都#kyoto#船井郡#質美笑楽講 #京都カフェ#kyotocafe#カフェ#cafe #京都スイーツ#kyotosweets#スイーツ#sweets #チャラオバ京都 #撮影する時は一声かけよう運動 #チャラオバの京都カフェ案内 #京都中丹の良きトコ広め隊 #食べ歩き命#インスタおばさん#インスタBBA (盲亀浮木) https://www.instagram.com/p/BrVK9ZynPc-/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=4xcnrt16iyu8
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【氾濫】熊本県南関町「関川」が豪雨で氾濫!浸水被害や道路冠水!「やばい…九州が通行止めで分断される…」
熊本 南関町を流れる関川 氾濫危険水位に 熊本県によりますと、南関町を流れる関川は竜瀬橋観測所で、正午までに氾濫危険水位を超えました。 熊本 南関町を流れる関川 氾濫危険水位に | NHKニュース 【NHK】熊本県によりますと、南関町を流れる関川は竜瀬橋観測所で、正午までに氾濫危険水位を超えました。 www3.nhk.or.jp 現場の様子がアップされる やばい…九州が通行止めで分断される… pic.twitter.com/CPyucGrB3q — Rester®盲亀浮木 (@hirohiro7654321) August 12, 2021 氾濫する💦ヤバイ💦 pic.twitter.com/xD64LnVmMX — めぐみ (@rltYy1WOYFafika) August 12, 2021 だぁ〜南関もやばい… pic.twitter.com/HPw3Xdo5o0 —…

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「#ハタチのワタシ」にて。武蔵野美術大学の蜂須瑚々さんの「盲亀の浮木」という日本画です。 目の見えぬ亀が香木を掴むことは滅多に無いという話ですが,この亀は奇跡のような幸運に恵まれたのでしょうか。 (埼玉会館) https://www.instagram.com/p/B9Tc_ewpdgR/?igshid=tx7ie9dhzwmv
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土俵入りされたブルーチーズのケーキ。 #京丹波カフェ (at 盲亀浮木) https://www.instagram.com/p/B5MU5zrggfV/?igshid=cwfrtji0yt15
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Sayo Samonji
小夜左文字
僕は小夜左文字。西行法師の歌から名付けられたんだ。 ……でも、僕が見い��される事になった原因はそんな綺麗なものじゃない。血と怨念にまみれた、復讐劇だよ……
I am Sayo Samonji. I was named after the poem by Saigyou Houshi. ……But the matters of my origin are not such a pretty sight. … I am covered in blood and hatred, a revenge tragedy……
僕は小夜左文字。あなたは……誰かに復讐を望むのか……?
I am Sayo Samonji. Whom do you wish revenge on…?
Sayo Samonji was forged by Saemonzaburo (左衛門三郎) in 1334 CE with a 24.4 cm blade and an inscription which reads 築州住・左 (Chikushū-jū – Sa, which should mean Lived in Tsukushi province - Sa).
Saemon Saburo Yasuyoshi was the founder of the Chikuzen Sa(左) School, also referred as to Sa or Samonji because he signed most of his blades with the characters 文字(monji).
Samonji was active from the end of Kamakura Period (1333) to mid Nanboku-chō Period (1360ca), and became one of the “Ten Brilliant Disciples of Masamune”*, changing his forging style from the traditional Ko-Kyūshū adding some Shōshū elements.**
There was a legend that said Sayo was once in the possession of a rounin from Nissaka (日坂), which is now called Kakegawa-shi of the Shizuoka prefecture. When his wife died of illness and left him with their son, he decided to part with his beloved tantō. So he headed to Kanaya (金谷宿). But he had to go past the pass called Sayo no Nakayama (小夜の中山 or 佐夜の中山) in Toukaidou (東海道). It was known to be a dangerous area due to the amount of robbers lurking around, so the rounin was killed at the top of the pass and the blade was stolen.
(An alternate version of the story of Sayo’s name has the mother go to town to sell the tantō instead. Sayo’s enormous hat resembles a type of wide-brimmed straw hat commonly worn by travelling women at the time, so it is speculated that his hat may be a nod to the ill-fated mother.)
When the orphan had grown up, he was told by local inspectors about what happened to his father. He swore revenge upon the man, but his only clue was the tantō blade. He headed to the west of Nissaka and took an apprenticeship under a sword polisher in Kakegawa.
15 to 16 years later, a man came into the shop and asked for his blade to be polished. The orphan removed the hilt to find the signature “Chikushuu-juu - Sa” (築州住・左) on the front and the back of the tang. It was the signature of his father’s lost sword. When the customer came back, the orphan used the sword and thrust it through his stomach.
Hearing this, Yamauchi Kazutoyo (山内一豊), the lord of Kakegawa Castle, appointed this orphan as his retainer. This tantō was then presented to Yamauchi Kazutoyo as a gift by the orphan, most likely as an act of gratitude. As time passed, this tantō was then given to Fujitaka/Yuusai Hosokawa***, of who desperately desired it. Later on, Sayo was passed along to Tadaoki Hosokawa, of who also possess the sword Kasen Kanesada. Sadly, Tadaoki’s land hit a famine, and his people began to starve. In a desperate attempt to feed them, he sold Sayo Samonji.
From this point on, Sayo was passed along to many different owners, but as of today he now belongs to a private collection with no public viewing.
Sayo is always eager to fulfill his master’s wish, and since revenge was the passionate desire of his previous owner, he was led to believe that the saniwa, would find happiness in that as well. He even urges the saniwa to put him to use in revenge, asking about who he should kill next, saying that it is his mission in life.
(Some quotes are: If you seek revenge… use me. Surely, that is my reason to live… | Do you…have an opponent you wish to take revenge upon? | Aah, let’s go, on the dark path of revenge. | Tell me the formation of our enemies. Let me know if there is anyone I need to kill.)
However, none of it is what he as the soul of the sword, really wishes for. He only tells himself that he needs to help his owner with revenge because he wishes for happiness for his master.
Sayo is the most confused and broken boy among all the tantous because he is the only one who suffered through poverty and was used for bloody revenge killing.
Most of the tantous in-game were never used for combat, as they are mostly omamori-gatanas for self-defense, holding more symbolic meaning as a prayer talisman to keep their owners safe, and showered with love. Even for samurais, tantous were a last resort in fighting, only one was confirmed to be used to commit seppuku (Imanotsurugi). The swords in the game are all shaped by their owners one way or another, and Sayo’s previous owner’s wish for revenge left a deep scar in him.
If you bring Sayo to the merchan he will say: “Bringing me along, are you facing financial problems?” which is a reference to being sold by his owners as a result of poverty. He thinks the saniwa is bringing him to the store not to buy him goodies, but to sell him off, and when you put him to fieldwork he will say: “I want to avoid famine…”
Fujitaka/Yuusai Hosokawa ( 細川藤孝/ 細川幽斎) was the one to give Sayo the name “Sayo Samonji”. Hearing the tale about how a former owner of this tantou was killed on the pass “Sayo no Nakayama”, he was reminded of this line from a poem of Saigyou Houshi’s (西行 法師): (年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 - “When I was young I thought about crossing this mountain (Sayo no Nakayama) again when I’m old, it’s because I’m still alive at this age now that I’m able to do so.”).
Sayo has another poem line during the loading of the game: “盲亀の浮木、優曇華の花待ちたること久し…… ”
“Like the blind sea turtle who seeks for his floating log in the vast ocean, I have waited so long for this opportunity of a lifetime where the flowers of Udonge would bloom…”
It is said that this were the lines spoken by the orphan right before killing the thief who killed his father.
He also has a rather eerie removed line: “夢に見るんだ……僕が敵討ちを為すまでの間、僕に殺された人々の、恨みの声を”
“I had a dream…of the hate-filled cries of the people I killed while I was taking revenge.”
Some fanarts depict Sayo and Kasen Kanesada together. This is most likely due to Sayo being in possession of the Hosokawa family, the same family in which Kasen has resided in. In fact, Sayo may have been in the possession of Tadaoki Hosokawa, Kasen’s former master.
Sayo is also very often depicted with his two brothers, Kousetsu Samonji and Souza Samonji. In his 1st Anniversary official illustration he is depicted with them and Nihongou.

*Masamune trained many disciples who all went on to become very famous smiths in their own rights. Masamune had ten brilliant students who gathered from various regions of Japan, namely Rai Kunimitsu, Hasebe Kunishige, Kaneuji, Kinju, Yoshihiro, Norishige, Naotsuna, Bizen Kanemitsu, Chogi, and O-Sa. Today is generally agreed that best blades were made in the Kamakura period and, for quality and beauty, still remains the best period.
** Kyūshū forging style means that the jigane (sword’s steel) looks soft and oily, the Hamon(blade pattern) is basically a suguha with a subdued and hazy nioiguchi and often a yakitoshi appears.
The Mongolian invasions attempt of 1274 and 1281 greatly influenced the Japanese swords, until this period the method of battle in Japan was based on single duels, with rituals as exchanging names and genealogies each other before fight with no organized formations and tactics.
On the contrary Mongolians attacked suddenly in organized formations following tactics, their armor were tough and they used weapons which Japanese have never seen before such as gunpowder, hand-grenades and rockets. Their armors were also lighter and they could move faster. After that Japanese armor began to become lighter and sword shapes changed to allow them to cut through the lighter mongolian armor without being entrapped and then broken in them. Formerly, blades were heavier and thicker to be able to cut through harder things, thus blades in this period became thinner. The Kissaki (the final triangle of the point of a blade) got longer because if shorter swords were broken there was no room for restoration. The swords also became narrower, this shape looks like the refined one of the first stage of Kamakura, but the kissaki in this period is bigger and the center of Sori (the center curve of the blade to balance it) is moved up. This way if the edge becomes thinner the strength of the blade decrease. The most significant change is the introduction of the Odanbira (thick, wide, curved type of companion sword) in the Northern and Southern Dynasties.
The Mongolian Invasions influenced Hamon (blade pattern), too. Obusa-Choji and Juka-Choji were giving way to Choji-ha based on Sugu-ha or Kataochi-gunome, because blades with very wide Ha (final part of the blade) are easier to break. Swordsmiths realized it from experience, the Ha is harder than the other parts. If the harder part holds most of the blade, the blade will be easier to break as the blade can’t absorb the shock of impact. The top of the Hi (higher part of the blade before the Sori) invariably stop lower. This was done to leave room for repair when the point is damaged. In this period, Tantō production increased in number and there is characteristic shape. Samurai put Tantōs on the right-side of their waist, the handle facing right to be unsheathed easily when armors were in contact with each other like when grappling or close combat is expected.




Tantou - 🌸Low Rarity - #83
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@SHIHEILIN(林士平(りんしへい))
お盆読切連弾1作目
新鋭の鬼才・遠山花近が贈る『ドクターマーメイド』❗️
万病を治すと言われた薬用人魚を11兆で落札した大富豪・盲亀浮木。羨望と嫉妬。巻き起こる混乱。明かされる人魚の秘密…。
薬用人魚を巡る巨弾感動奇譚読切❗️
きっと心に残るので是非に御一読を‼️
https://shonenjumpplus.com/red/content/SHSA_JP02PLUS00017281_57 https://twitter.com/SHIHEILIN/status/1291389095613042688/photo/1
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オープン。オープン。 絵本ちゃんときのこ文庫は 本日16時までです📚️ 旧質美小学校はpandozo cafeさんと カフェ盲亀浮木さんもオープンです🏫 ↑ こちら注目‼️#盲亀浮木 さん再開されましたよっ☕️ ご利用下さいませ~😊 #絵本 #繪本 #トンちゃんってそういうネコ #MAYAMAXX さん #汐文社 私が以前から大切にしていて絵本(角川書店)が 汐文社さんから再版されました❗️ 比べると あちこち変わっているよ ぜひご覧下さい‼️ #京丹波町 #旧質美小学校 #絵本屋 #絵本ちゃん (絵本ちゃん) https://www.instagram.com/p/ChtdiGSvKJx/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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白鯨137
摂関家は「廿」の横線を書かない傾向があるらしい。
相即、対立しているように見える二つの事象が実は一体不離であること。
俳農一如
肉団心は心臓。
焦門が儒仏道三教の思想を基盤とするなら今は何の思想を基盤とすべきか。
辺見は常見と断見に執着すること。
無体、言葉に対応する実体がないこと。
言葉に実体性がないことから無理を通すことは無理無体と言うようになった。
盲亀浮木。
日本の女性差別は仏教の〈変成男子〉説に由来し、もとは古代インドに端を発する。
変成男子は平家物語で胎児を皇子に「変成」するために使われた。
自給農家なら雑穀と大蔴と煙草は育てるだろう。
影は形に随い、響は音に応じる。
定型にこだわるのは執着、自由律にこだわるのは執着。
有季にこだわるのは執着、無季にこだわるのは執着。どちらにこだわらないとするのは執着。季感くらいがいい。
意図を伝えようとするのは執着、何があったかを記録しようとするのは執着。
禅の公案は詩のボクシングみたいなものか。
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RT @kamosawa: 「ここで会ったが百年目。盲亀の浮木、優曇華の花。」までやるフルフレッジの講談調は昭和40年代には失われていて、懐かしんでるわれわれは既に曾孫世代だったりする。 https://t.co/Ni2Fjl6o9S
http://twitter.com/gajumaru3/status/940593869678264320
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空転する主体と主体化の場―ラッツァラート『記号と機械』への書評として―
憂鬱さや無気力、気怠さを抱えながら、ただ生きつづけていくといった生の形式が一般化して久しい。すでに多くの人がそのことを漠然とであれ感じながら日々を送っており、それによって���分たちが何かに攻撃されているという認識を持つようにいたっているように思える。しかし、ただのっぺりとつづく死の瞬間までの時間を、その場をやりしのぎながら生きていくことを要請するこの社会のもとで生きる私たちの生の有り様に、ここ最近、微妙な変化が訪れているように感じる。それは、生の形式自体が社会的力の変化によって新たな形式に変えられるといったものではなく、何者かになれという命令を受け入れることによって、何者かになることを否定される脱—主体化の力学が生む屈辱の感情に、人間が耐えきれなくなっているということを意味しているのではないか。その屈辱の感情は、その規定力に抗うための主体化を要請する。この主体化を自殺に見たのがビフォであった。
二〇〇一年九月一一日以来、自殺こそがわたしたちの時代における決定的 な政治的行為となった。人間の生命が無価値になるとき、屈辱はもう耐え難く 爆発しそうなほぼにまで育つ。このとき希望はおそらく、自殺からのみ生じうるのである。[1]
こうしたある種の乱暴性を伴った主体化への欲求は、近年自殺や自爆テロのみに限定されない広がりを見せているように思える。この主体化の様式について考え、批判的な介入を構想していくとき、ラッツァラートの『記号と機械』というテクストは、一つの重要な参照項となりうるだろう。ここでは自分の関心にしたがいつつ、このテクストに応えていきたい。
1 まず、ラッツァラートはドゥルーズ・ガタリのテクストを参照しつつ、社会的服従と機械状隷属の概念を整理する。それは特に機械状隷属概念が、現在の資本主義分析に有用なものとなっているからだ。
ここでいう社会的服従とは、人間に性別や身体、職業、アイデンティティなどのカテゴリーを当てはめ、個人化された主体を生産することを通して、人びとに主観性を装備させる権力の様態を意味する。そこでは人間という主体の間で交換を可能にすると同時に、人間と他の存在は区分される。
一方、機械状隷属は人間と他の存在の間に区別を設けず作動する権力の方式のことである。機械状隷属の視点から見たとき、例えば個人と機械は連続しており、共に交換可能な部品として見なされる。つまり、機械状隷属はデーター、数値化する前—個人的かつ超—個人的に作動し、主体を解体する。主観性は、この二つの装置の交錯点において生産される[2]。
では、主観性にはどのような形式がありえるのだろうか。以前であれば、それはコミュニストや民族、ブルジョア、労働者といった形式を兼ね備えていた。しかし新自由主義が全面展開し、冷戦以降のイデオロギーの無効化という言説の旺盛と機械状隷属の浸透という文脈のなかで、そのような一連の主観性の形式は徐々に消滅しつつあり、一方で「企業家の主観性」(フーコー)が遍在化するようになった。「企業家の主観性」は、既存の主観性の形式を破壊し、自己責任のもとに自己を管理、運営する主体を要請する。ここではフーコーと問題意識を共有していたドゥルーズを参照しよう。
工場は個人を組織体にまとめあげ、それが、群れにのみこまれた個々の成員を監視する雇用者にとっても、また抵抗者の群れを動員する労働組合にとっても、ともに有利にはたらいていたのだった。ところが企業のほうは抑制のきかない敵対関係を導入することに余念がなく、敵対関係こそ健在な競争心だと主張するのである。しかもこの敵対関係が個人対個人の対立を産み、個々人を貫き、個々人をその内部から分断するための、じつに好都合な動機づけとなっているのだ、「能力給」にあらわれた変動の原則は、文部省にとっても魅力なしとはいえない。じじつ、企業が工場にとってかわったように、生涯教育が学校にとってかわり、平常点が試験にとってかわろうとしているのではないか。これこそ、学校を企業の手にゆだねるもっとも確実な手段なのである。[3]
変動相場のような数字の変化が個人の生のうえに押しかかってくる。その局面局面において存在が点数づけられる。そのような点数の変動の波を乗り切るために自己を管理、運営していくことが人生として認識される。こうした状況が一般化された状況を、私たちはいま経験しているのではないか。人の価値がそのときどきの数字によって測定され、さらにその数字を参照しながら他者を見通していく。そのとき、数字によって自分の価値が測られることに対する屈辱は際限なく育っていく。
2 しかしどのような世界意識が、私たちが機械状隷属という装置を知覚することを妨げているのだろうか。
例えば、イタリアの映画監督であり思想家でもあるバゾリーニを参照しつつ、ラッツァラートが述べたつぎのような言葉にその問いを考える糸口があるように思われる。
文化としての自然は、表現力をもった自然である。文化としての自然は自らにたいして語りかける。「樫の木」という言葉を発する人と「樫の木」そのものとのあいだには「いかなる連続性にも解消されない連続体」がある、「樫の木」そのものは「樫の木」という記号の指示対象ではない。それは記号そのものであり、図像的記号なのである。まったく同じように、生きている人間は「人」という記号の指示対象ではない。「命ある―図像的」記号そのものなのである。[4]
人間が主体を持った存在��あるのと同様に、自然もまた「自らにたいして語りかける」主観性を持ち合わせた存在であった。自然への畏怖の感情、歴史や神話には、人間以外の存在にも主観性や表現の主体性が備わっ��おり、その諸主体の表現の結晶形によって現実が構成されているということを認識させてくれる機能が内在していたはずである。しかし諸技術や機械の発展とともに肥大化した科学的合理性は、そうしたものを非合理性の名のもとに排除し、神話や歴史をフィクションとして、自然を商品生産の対象—道具として人間に従属させてしまい、人間という存在意識の優等性だけが過剰に肥大してしまった。ある精神病理学者のつぎのような言葉は、その点で重要だ。
「<歴史>的主体」にあっては、<想起>の主体は感覚的主体ではなく<歴史>の力自体である。<歴史>の力が、言語という有機的組織の持続力そのものが人間に<想起>させ、感覚に酔った自然人を歴史的存在にしてくれるのだ、という健全な謙虚さがまだ自覚されていた。この謙虚な自覚が地上から消え去りつつある。人間が<歴史>を所有し、<生命>的主体が<歴史>を作るのだ。われわれが言葉を自由に使用し、必要な新しい言葉を作るのだ。このような、あまりにも感覚的な倒錯から免れている謙虚な、均衡のとれた精神は殆どなくなってしまったのではないか。[5]
歴史もまた主体であるということ、そしてそれを想起するのは人間ではなく、歴史が感覚的存在である人間に「<想起>させる」ことを通して、人間感覚への盲従を相対化し、「思い上がり」を抑制する効用をもたらしてくれていたことが、ここでは記されている。
今日、事態は自然からの一方的な資源の引き出しにとどまらず、自然それ自体を、そして歴史それ自体を商品とすることによって、その「トゲ」を跡形もなく消し去り、自らの使い勝手がいいようなものへと意図的に変成させるというところまで進んできている。人間は自然の荒々しさや、自らを構成する歴史の暴力性とそこに隣り合わせにある亀裂性との相互交流を通じて自己を変形させ、知恵を絞り、抗いながら生きてきた。その喪失が示すものはいったい何なのか。そしてその回復において、私たちはどのような新しい関係を結んでいくことができるだろうか。
3 ラッツァラートが言うように、監視社会においては言葉が普及することによって、意見の一致、画一化が推し進められる[6]。言葉の伝達には、デジタル・ネットワークやテレビ、動画、広告などの形式が採用される。こうした言葉の普及はただ単に外在的な形で展開されるのではない。それは人びとの知覚に影響を及ぼす。つまり、言葉を受容する人たちはそれをそのままの形で受容するのではなく、多かれ少なかれデジタル・フラット粒子によって変成されたものを受容するのである。
も��や私たちは、生の言葉に感動しなくなりつつある。私たちが興奮するのは、編集された後にデジタル・ネットワーク上にアップロードされた言葉であり、それを確認するために私たちは現場へといくようになっている。
レーニンの時代、彼の演説はそれを聞くために通りに集まった人びとの感情を高まらせ、興奮を促し、その感情はさまざまなところへ伝わっていった。今日、演説は道路から消え去りつつある。人びとの胸を打つのは、加工されデジタル・ネットワーク上にアップされた動画媒体であり、スマートフォンのなかでそれは再現されている。しかし、そこには限界がある。動画は人間の目を特権化し、それ以外の知覚を遮断する。デジタルな連絡細胞の網は、人と人の距離を近づけながら同時に、その間に分断線を引いている。私たちに問われているのは、それに対して物質に依拠した集団的情動の論理を汲み取ることができるかどうかということなのかもしれない。
4 旧来の主観性の形式が消失してしまい、「企業の主観性」を絶対的なものとして受け入れることを余儀なくされた状況を過ごしてきた結果、人間はもはやそれにも耐え切れなくなりつつあるのではないか。そして主体化への欲望が触発され、そこに存在のすべてをかけようとするとき、ネットワーク状に過剰に埋め込まれた言葉によってその者は捕えられ、そこを食い破ろうとし、しかし逆に食い破られてしまう。こうした「主体の暴発」とでもいうべき事態を、私たちは目にしている。そう考えるとき、主体化に介入し、既存の主体化とはべつの主体化の構想することが求められていることが私たちの課題として浮き上がってくる。
しかし、そうした主体化への介入、あるいは新たな主体化への構想という課題への応答は、おそらく暴発する主体の言葉を批判し、それに違った言葉を対置することによってのみでは達成しえないだろう。ラッツァラートが何度も述べているように、言語ではなく人間存在の非言説的な部分への注目が必要なのではないか。「なぜなら主観性の変化の基盤には、自己、他者、世界の存在論的理解と肯定があり、この存在論的な非言説性の結晶化を起点にして、新たな言語、新たな言説、新たな知識、新たな政治の増殖が可能となる」[7]からである。
彼がバフチンの発話理論を参照しながら、文法—統語—文語と発話—口語のあいだにある差異を考察していることに注目したい。発話は、人びとがメタ言語や規範が生みだす構造的な主体へと行為遂行的に主体化していくものではない。つまり、言語行為と主体化のあいだには溝があるのである。統語論や文語を前提とする言語行為論は、発話行為が「前—人称的な情動の力とポスト—人称的な倫理—政治的な社会的力」[8]を現働化するものであることを決定的に見落としている。つまり、発話の交錯のなかで生まれる応答、身振り、感情の流れ、理解ということを省略してしまう。バフチンの議論を確認しておこう。
発話というものは、すでに外部に存在している究極的な特定の事物について考えることでも、あるいはそれを表現することでもない。それはつねに、まだ存在しないものを創造することであり、反復不可能なまったく新しいものを生みだすことなのである。さらにそれはつねに価値(真実、善、美など)と何らかの形でかかわる。ただし生みだされるものはつねに所与のもの(言語、観察された現実の現象、経験したことのある感情、話をする主体自身、その世界観に定着したものなど)から生みだされる。所与のものは、生みだされるもののなかで完全に姿を変える。[9]
したがって主体化への、あるいは「主観性の危機」(ガタリ)状況への介入のためには、新しい言葉の創造することではなく、まず「主観性の変化の基盤」にある「自己、他者、世界の存在論的理解と肯定」の地点、非言説的な情動の結晶点を捉えることが必要なのである。それは発話が生みだす刷新性を帯びた行動に目を向けていくことでもある。
[1]フランコ・ベラルティ(ビフォ) 『プレカリアートの詩』櫻田和也 訳、河出書房 2009,p86 [2]マウリツィオ・ラッツァラート『記号と機械』杉村昌昭 松田正貴 訳、共和国 2015,p23,p39-40参照 [3]ドゥルーズ「追伸―管理社会について」『記号と事件』宮林寛 訳、河出文庫 2007,p359-360 しかし、工場のシステムのなかでの集団的抵抗を「有利」と把握してしまうドゥルーズの視角は図式的すぎる。労働者間の敵対性は、企業による「敵対関係の導入」とはべつに存在していたはずである。この「敵対性」概念をどのように練り上げるかが重要なポイントとなるだろう。 [4]ラッツァラート 同上 p165 [5]渡辺哲夫『二十世紀精神病理史序説』西田書店 2001,p138 [6]ラッツァラート 同上 p174 [7]ラッツァラート 同上 p27 [8]ラッツァラート p218-219 [9]『ミハエル・バフチン著作集八』
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@hietaro さっきのツイートの「上方落語的なものから江戸落語的なものに……」というのは、こういう認識を踏まえてる 「盲亀の浮木」 https://t.co/KwHnIktsU1 定評のごとく長いエントリなので読み込みが遅いww
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