#短編小説
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貝殻に棲む女
失恋した現実から逃れたくて貝殻に棲み始めた。
小さな白い砂浜がふて腐った私の庭。
夜が更けると満天の星が降り注ぎ、朝を迎えると陽が輝き出す。
波は子守唄に、風は気分転換になって心地良い。
波にさらわれないように気をつけることを除けば、貝殻の中はとても快適で棲みやすい。
そんな怠惰で緩慢な日々を送っていたある日、すっかり厭世主義になっていた私に結婚式の招待状が届いた。
持つべきものは女友達かな。こうしちゃいられない。
現実に引き戻されたはいいけれど、居心地の良い貝殻から引っ越すには勇気がいる。現実はとても厳しいのだ。
さあ、どうするか。
私は少し考えると欠席に丸をつけた。
ごめんね、私まだ貝殻から出られない。
これが私の現実。
貝殻の中は今日も優しい。
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僕には名前がない。
古い何処かの軍のコオトと、白いシャツ、目立たないやうに継ぎ当てしたズボンにこれも古いブーツ。伸びて目に掛かる髪。ノオトとペンと音の外れたギター。
それが僕の外形を成す物だ。けれどそれは僕の総てでは無い。
例えば、雨漏りの滴の音階を名前にしても良い。レシ、ド。
例えば、君が眠る前の最後の言葉を名前にするのも素敵だ。アスハ。
好きに呼んでくれて構わない。
とにかく、僕は名前を持たない人間の一人だ。そして何処にも居ない。
雨樋の下でギターを当て度もなく爪弾く。知らないメロディ。これは、この夜の為に。そんな風に僕は時間を過ごしている。
ところで、世界の果てがどうなっているか君は知っているかな。
其処ではとても大きな川が流れていて、毎秒小舟が出てゆく。乗る人は居ない。水音はドウゴウと酷く鳴り響いて、誰だって三分以上は留まれやしないのだ。
それが世界の果て。
僕はこれから朝食を食べる。一等気に入っている、山の上の小屋に行こう。名前のない人々が何人か来るだろう。
点された灯が段々と力を失い、朝がやって来ていた。灯守りがあちらからやってくる。
「やあ、灯終いかい。」
「そうだよ。これには毎朝気が滅入るよ。」
灯守りは本当に肩の下がった様子でそう言った。彼は、夜になるとこの村の其処此処にあるランタンに灯を移して歩き、また朝になるとそれを消して回るのだ。
「朝食を山の上でどうだい。」
僕がそう聞くと、灯守りは少し微笑んで見せた。
「それは良い、屹度温かいスウプが出るね。ああ、それと君の詩をまた聞きたいな。」
詩。僕は詩を作ることだけ覚えている。
それは秋の日の溜め息のように。
それは魚の跳ねた光のように。
それは本から落ちた古い栞のように。
灯守りとはまたすぐに会う。ギターと詩を聞かせる事になるだろう。
山を上る道は、近くに住む者が植えた素朴な花で囲まれていて、それが僕のお気に入りだった。
赤い実が付いた花房を摘んだ。小屋に飾ろう。
今は冬の初めで、とても美しい季節だ。今日は晴れらしく、空の上の上の方に円を帯びた雲が少し散らばっているだけだった。
朝焼けじゃあなくて良かった。
それは余りにそれらしいからね。
「おはよう。早く入って、ギターを弾いて。」
無造作な小屋の扉を開けると、料理の得意なサシャが出迎えてくれた。サシャは昼間は林檎売りをしている。そのせいか、とても愛想が良い。
僕は少し広いその小屋の隅に座って、またギターを弾く。詩をぼんやり考えているときに、この音色の風合はやたらに合うんだな。
灯守りもやって来た。人が来る度に、扉がキイギと軋んだ音を立てる。
ブーツでリズムを取る。朝食はやはり温かい野菜スウプだった。
「ハレルヤ!」
声を合わせてそう言うと、食事と会話が一斉に始まった。僕もギターを抱えた儘、ひと匙スウプを飲んだ。サシャの料理は美味いな。
突然、風が吹いた。
青色の風だった。
それが今の僕の名前だ。君に伝わるだろうか。掴めない青色。僕は今、それを象る名前を名乗るのかも知れないよ。
ギターを弾こう、そして風についての詩を作ろう。
灯。
花。
小舟。
そして、風。
コオトのポケットには、昔誰かが誰かに宛てて書いたとっておきの素敵な手紙がある。僕はいつもそんな風に居たいと思うんだ。
それでは、また何処かで。
風が吹く頃に。ギターを弾いてあげるからさ。
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生乾きと雨粒
何日も、雨が降り続いていた。 この雨は、もしかしたら止まないのかもしれない…… そんな風に思うくらい、何日も何日も降り続いた。
洗濯物は、この雨のせいで乾かず、部屋の中でなんとも言えない、あの独特の臭いを放っていた。
生乾きの臭い。生乾きのシャツ。生乾きのズボン。 ……生乾きだったあの頃を思い出していた。
その日、俺はダラダラと夕方まで寝ていて、目が覚めると既に外が暗くなっていた。
身体がとにかくダルくて、まだ、あと23時間は寝れる。
そんな感じだった。
そのダルさを、何日も降り続く雨のせいにして、時間の流れも忘れボケっと過ごした。
それでも、腹は不思議と減る。
なにもしなくても、なぜ人間は腹が減るのだ。
そう思うと、なぜか腹立たしく、その腹立たしさはきっと空腹のせいだ。と、自分を納得させ、雨が降る中コンビニへと買い物に出かけた。
歩くたびに跳ね上がる泥水を背後に感じながら、��燈も殆どない、どこか薄気味悪い公園を抜け、近道をした。
雨の音に紛れるようにして聞こえてくるブランコをこぐ音。
こんな時間に?出来ることなら、目をつぶって走って、通り過ぎたいくらい気味が悪かった。
それでも、どこか「怖いもの見たさ」と言う意味のわからない衝動に駆られ、雨と暗さで見えにくい中、目を凝らしブランコの方に視線を走らせた。
男が一人。
ブランコを漕いでる。
それも、いい年した、オヤジだ……
俺は立ち止まり見てはいけないものを見てしまったような「目」で見た。
とにかく不思議だった。 そいつも、俺を見ている……ような気がした。 たぶん……目があっている。
雨と暗さでよく見えないけれど。
「おい。」
どきっとした。
しゃべった。
そいつが……俺に向かって。
目をそらし、その場を立ち去ろうとした。
「おい。こっち来いよ。ブランコ一緒に乗ろうぜ。」
て。お前いくつだよ……
いいオヤジがこんな時間に、しかも、この雨の中なにやってるんだ。
「乗ろうぜ。俺、すっげー高くまでこげるんだぜ。」
待て。あいつの喋り方、おかしくないか?まるで子どもだ。オヤジに見えて、実は子どもなん��ゃないのか?だけど、スーツ姿の子どもてのも……
近くで確かめたくて仕方なくなった。怖いもの知らずにも程がある。だけど、そうめったに出会える光景じゃない。しかも、相手は妙に友好的だ……
そろり、そろりと近寄り、オヤジの隣のブランコに手をかけながらマジマジとそいつの顔を覗き込んでやった。
「な。どっちが高くまでこげるか競争しようぜ。」
……て、やっぱり、いい年したオヤジだった。だけど、妙にキラキラした、その目は、子どもだった。なんだか良くわからないまま、俺もブランコに乗った。
「お前さ、立ちこぎ出来るかよ?」
俺は黙って、子どものとき必死にやった立ちこぎを、そいつにやって見せた。そして、大きく揺れるブランコからピョンと飛び降りてみせた。
「なんだよ。お前すげーなー。すげーよ。なんだよ。俺、それ怖くて出来ねーんだよな。」
オヤジがブランコを急に止めて、目をまるくしながら俺を褒める。めちゃめちゃ褒める。
「すげーな」と何度も繰り返す。
俺はあの頃の光景が目に浮かんだ。
子どものころから怖いもの知らずだった。
誰よりも早く、ブランコで立ちこぎをして、誰よりも早くブランコから飛び降りることができるようになった。そして、みんなが俺に驚く。「すげー」「すげー」と……
そのオヤジと雨が降っていることすら忘れ、遊んだ。
ドロだらけになって。時間が経つことも忘れ、腹が減っていたことも忘れ、必死に遊んでた。
気付けば、どこからともなく集まっていた大人たち。みんな時間を忘れ、雨なんてお構いなしで、びしょ濡れになって遊んでた。 びしょ濡れになって……
それから、毎日にのように雨が降ることを待ち望んだ。
雨が降れば、あの不思議なオヤジたちと、すべて、すべて、本当にすべてを忘れ、まるで子どものときのように思い切り遊べたから。
俺は、大人だ。
いつから、大人になったのかは忘れた。だけど、世間一般に、大人として扱われる。だけど、俺は、大人だ。と、言ってもそれを、どこかで認めていない。
だけど、世間の皆様に俺が大人じゃないと、どんなに力説したところで、ただの変わり者としか見てくれない。
それが、この世界だ。
でも、どうやっても俺は大人だけど、大人じゃなかった。
だけど、大人になりたくないわけじゃなかった。
ただ、俺の中で俺を大人として認めていないだけだった。
どこか、湿った感じ。
そう、乾ききらない洗濯物のように……
どこか、はっきりとしない。
それが、俺だった。
雨の日だけ、思いっきり今を生きることができた。
雨の日だけ、俺は俺らしく、あのオヤジたちと一緒に。雨だけが俺たちを認めてくれた。
湿った、感じの中で。
大人になりきれない、俺たち。
雨の夜の公園で遊ぶ大人の格好をした子どもたち。
世間の皆様より少しだけ、ゆっくりと大人になって行ったのか、次第に集まる人数が減っては、増え、減っては増えを繰り返していった。
そして、いつごろからだろう……
俺も、ついに、あの雨の降る夜の公園が懐かしく感じるようになってた。
数日、雨は降り続いた。
足元を濡らすぬかるんだアスファルトを踏みしめ、傘も差さずに歩いた。冷たい雨粒が頬を伝い、服の袖に染み込んでいく。
コンビニの明かりは、やけに眩しく、ガラス越しに映る自分の姿は、少し大人びて見えた。
店に入り、適当にカゴに放り込んだパンや飲み物をレジに運ぶ。
店員が無表情でバーコードをスキャンする音が、妙に心地よく感じた。
「ポイントカードはお持ちですか?」
「ないです。」
そう答えながら、ふと昔のことを思い出していた。
会計を済ませ、袋を片手に店を出る。
雨を降らす空を見上げた。
黒く曇った夜空に、雨粒が光を反射している。
生乾きの匂いが、ほんの一瞬鼻をくすぐった。あの時とは違った感覚で大人になった。だけど、まだ、乾ききらない部分を今でも感じている。
それでも、確実にあの時の生乾きのあの独特の臭いは、もう、俺から漂うことがなくなった。
洗濯物の乾ききらない、あの独特の臭い。
今でも、夜の雨の公園から漂ってくる。
ブランコをこぐ音と大人たちの声が
聞こえた気がした。
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短編小説「じゅたろう」 ① 9回裏 1-3 ワンアウト一、二塁 地区予選大会決勝。相手チーム南園学園は140kmの速球と125kmのスライダーを誇るサウスポーのエースピッチャー野村。 俺たち大友商業の3番セカンド北川は手堅くまずは得点圏に同点ランナーを進めて4番安藤、5番のオレ久富に回そうと送りバントの構え、そこに野村の高速スライダーが右バッター内角に食い込む。ガッと鈍い音がして、バントの打球は転がらず三塁側に変な回転の飛球が少しだけ上がる。野村がノーバンで拾おうと、マウンドを猛ダッシュで駆け下りて来る。 二塁ランナーは三塁に猛ダッシュする。一塁ランナーはノーバンで捕られたらゲッツーで試合終了になると考え迷ったが「捕られたら二塁ランナーは飛び出してるし、どっちにしてもゲッツー」と思い遅れて二塁に走る。ピッチャー野村は打球に走るが寸前でノーバン捕球は間に合わず、瞬間、迷ったが何とフォースアウトを狙い三塁に豪速球を送球。間一髪アウト!ツーアウトだ。 三塁手はすかさず、アウトに出来れば試合終了と、走塁が遅れている一塁ランナーが向かう二塁に猛然と送球。アウトのタイミング!一塁ランナーは二塁にヘッドスライディング。土煙りが上がる。 「終わったか、、、」とその時、ボールが二塁に入ったセカンドのグラブから溢れた。 「セーフ!」と大きな声が響く。 送りバントは失敗したが、辛うじて試合は続く。 9回裏 1-3 ツーアウト 一、二塁 バッターは4番こちらもサウスポーの安藤が左打席に入る。地区大会首位打者の安藤はこの試合まで4割を超える打率だったが、相手エース左投手の野村に押さえ込まれてノーヒット、三打席とも詰まった内野ゴロ。普段は明るく人気者の安藤の表情は野村の前にやや硬く見える。 一方、左ピッチャーが好きなオレは野村からセンター前ヒット、レフト前ヒット、そして、7回に今日の大友商業、唯一の得点をソロホームランで叩き出してる。 「フォアボールでもデッドボールでもいいから、オレに回してくれ」満塁にな��ば、ツーアウトだから、ランナーは全員思い切り走れる。 ヒットでも同点に出来るだろう。 1球目 内角速球を引っ張った安藤の打球は又、詰まって一塁側に転がる!観客席から悲鳴と歓声が同時に響く。 「ファール!」主審の声。 2球目 サウスポー野村の切れ味鋭いスライダーが外角を襲う。安藤、空振り! ノーボール、ツーストライク。 あと、一球で試合終了か。 3球目 更に外に少しはずしたボール球のスライダーに泳いだ安藤が手を出す!ポップフライが三塁側に上がる。さっき猛然と二塁に投げた相手サードがファールグラウンドに走る、走る、レフトも走って来る。再び耳をつんざく歓声と悲鳴。 「落としてくれ、、、、」 ファールグラウンドから観客席ギリギリ打球が飛ぶ。 入った。 観客席に入った。 「ファール!」 「タイミングが全く合ってない。」オレは呟いた。 「安藤!最後だ!悔いなく思い切って振り切れ!」オレは叫んだ。 安藤はこっちを向いて、日焼けした顔、切れ長の目で少し、はにかむように微笑んだ。 あれ?こいつ硬くなって無いのか? 4球目 またタイミングが合わない高速スライダーだ!安藤が右足をグッと踏み込んだ。泳いで無い。 すくい上げた。 パキーン!と甲高い打球音が球場に響いて左中間の深いところににボールが飛ぶ。飛ぶ。飛ぶ。 観客もピッチャー野村も安藤もオレもベンチの選手も審判も白球の飛ぶ夏空を見上げる。 一塁ランナーも二塁ランナーも見上げながらも走る、走る、走る。 「行っけ〜!!!」とオレは叫んだ。 と、センターが手をあげた。 打球が青空から落ちて来る。 悲鳴と歓声がこだまする。 安藤は一塁に走りながら、また、微笑んだ気がした。 安藤が右腕を突き上げている。 入った。 観客席に入った。 ホームランだ。 アレ?スリーランホームランだ? あれ?という事は? 4-3の サヨナラだ!!! 時が止まったような球場のベースを安藤がゆっくりと回っていく。 ピッチャー野村は膝を折った。 ニコニコ笑った安藤がホームベースに着く頃、オレたちはみんな安藤の笑顔を揉みくちゃにすべく、ホームベース上に集まり、抱き合って、待っていた。 「ゲームセット!」 「いいとこ、取りやがって!」とオレは叫んだが、果たして、ツーアウト満塁になってオレなら本当に結果が出せたのか??? そんな事は今は良い。 とにかくサイコーだ。 この日、オレと北川や安藤や野球部の仲間はサイコーに喜んでいた。 (②定食屋「イカ天」に続く) https://x.com/takigawa_w/status/1787822221651845444?s=46&t=8Vf8aUwk_B-ZbQ5UAGv05w #短編小説 「#じゅたろう」 #野球 https://x.com/takigawa_w/status/1787822805494739318?s=46&t=8Vf8aUwk_B-ZbQ5UAGv05w
https://x.com/takigawa_w/status/1787822805494739318?s=46&t=8Vf8aUwk_B-ZbQ5UAGv05w
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さいきんは、ネイルをしている人が増えた気がします。
芸能人がしているネイルは、その芸能人がしていることに集中していてあまり見ることができてないのですが、電車に乗っている時に見たりできるネイルがすごく好きなので
永遠と普及してて欲しいです。
起:みんなのネイルを蔑む
ネイル怪獣出現
承:それでも負けじと住民は
ネイルをしまくる
転:キラキラのネイルが流行る
カラフルな色、流行りまくる
結:怪獣がキラキラに負けて没
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バラ色の連帯と称する奇妙でみだらな疑似家族を営む母娘と俺との、エロティックな関わりの始まりと終わり。
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メッセージ ~聞こえた気がしたのは、誰の声だろう~
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ある地方に、私は住んでいる。緑昆虫溢れるそこには、駅などもちろん一つしかなく、バス停はない。しかし意外であるが、こんな有り様でも電車の往来は多く、一時間に一方向向きの電車が、3、4本は来る。これはこの地方が、大都市と大都市の間に位置しているためである。
私は本を読みながら電車を待っていた。私の他にホームには、毎日絞られている雑巾のような顔をしたサラリーマンと、愛情をたっぷり腹に溜めたような妊婦、そして制服を着た男子学生が、色褪せたベンチに座っていた。紺色のブレザーの制服を着た男子学生は、あの水が詰まったような髪の毛は失われて丸刈りになっていたが、その目を見ればすぐに、中学の頃の同級生と分かった。いずれの人間も、皆スマホを見つめて俯いていた。この多量の緑の中に、ぽっかりと開け放たれた駅は、やはり浮いていた。
私が読んでいる本は、太宰治である。太宰治が書いた短編集を読んでいる。再度になるが、ホーム上でスマホ以外の何かをしているのは私だけである。
やがて電車が来た。早く入れよとドアが滑って開く。ホームの中で立ったのは私だけである。
電車の中でも勿論太宰治を読む。富嶽、恥、失格、なんとかかんとか...しばらく読んでいれば、すぐに乗り換えの駅だ。乗り換えの駅に着けば、そこから目的の駅はもう一つだけである。
ホームに出ると、すでに電車が一つ、停車している。電光掲示板を見ると、目的の駅に辿り着けるのはもう一つ後の電車である。私はそこまで認識していたが、気づくと私は、またも地方の駅にいた。
ドアが開くと、そこには、毎日絞られている雑巾のような顔をしたサラリーマンと、愛情を腹にたっぷりと溜めたような妊婦、そして制服を着た男子学生が、色褪せたベンチに座っていた。私は咄嗟に、電車の中に逃げこもうとしたが、電車は私に愛想をつかせたように消えてった。ただ、自然の中に、太宰治を握りしめる学生と、スマホを見つめて俯く人間たちが残された。
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不運なボブは変わったと緑色の液体を飲む
昔々、ある男が居た。彼の名はボブ、世界で一番不運な男だった。ボブは静かな森に町に生きていた。 ある日、奇妙な老人が町に来た。彼は町の全部の人々に話していた。 「こんにちは! 今日はワシが飲み物を持ってきた! これを飲めば空に飛べるぞ!」と変な老人は言った。 でも、誰もが老人の飲み物を買いたがらなかった。 「それ、高いだ!」と誰かが言った。 「それなんか、緑色で気持ち悪いじゃない」と別の人は言った。 奇妙な老人はあらゆる町の人々に聞いた、でも誰もが買いたがらなかった。そして彼は、不運なボブの家に来た、ボブが外を座っていた。 「これを買えばあなたは空を飛べる!」と老人は言った。 「そりゃかっこいい!」とボブが言った。 そして彼は飲み物を買って飲んだ。
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星に帰す
黄昏時の二階の図書室は、西陽が窓に当たると壁にその影が映る。
その窓の影が扉になっているのは茉矢だけの秘密だった。
茉矢はセーラー服を翻すと、軽やかに影の扉を開けた。
中はやはり図書室だった。けれど学校のそれとは違った。
並べてある本の文字は異言語で、茉矢の暮らす星のものではなかった。
茉矢は少しずつ、こちら側の文字を読めるようになっていた。
ある時みつけた本に茉矢は夢中になっていた。
どうやら地球について書かれたものらしい。
茉矢が生まれるずっと前のことから、茉矢が死んだずっと後の未来のことまで詳細に書かれてあった。
人間が滅んだところまで読み進めたとき、図書室に誰かが入って来る気配がした。
茉矢は急いで影の扉から元の世界に戻った。
放課後、未来の経緯をおおよそ理解した茉矢は、部活を終えた鷹於と下校した。
付き合ってひと月足らず、二人は手を繋いだこともなかった。
茉矢はそっと鷹於の手に触れた。
指先から鷹於の緊張が伝わってくる。
鷹於は先のことを知らない。
まだまだずっと先のことだけれど、この星が無くなる前に、自分と鷹於が在ったことを確かなことにしたかった。
茉矢は立ち止まって鷹於を見上げた。
空には金星が光っている。
二人の影が重なった時、白い月が鈍く輝き出した。
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ふかふかん。無重力の月の海には、永遠に浮かんで居られるなあ。
宇宙うさぎは、今朝もそんなことを考えていた。一応の仕事である郵便配達もせず、月中を散策と称してふらふらと漂っている。
だって、昨日は上弦の月だったからね。おかしなことがあるかもしれないぞ。
少し真面目な顔になる。
兎に角、月という場処には繊細な扱いが必要で、いつも機嫌を見てやらなくてはならない。
今日は図書館へ行こう。
宇宙うさぎはぽふぽふと歩き出した。嘆きの海近くにある、国立図書館はとても素晴らしい建造物である。昔の地球の出版物や書物なんて、皆んなあるんだからなあ。
郵便配達という仕事を選んだのも、彼が書き物がめっぽう好きだったからである。
日記、小説、詩にあれこれ。宇宙うさぎにはなんでも書くことができた。
そしてそれを誰にも読ませなかった。
僕は、僕の浮かぶこの宇宙に向けて書いているんだ。途方もない銀河の涯に向けてね。
いま誰にも読まれなくても構わない。
でも、いつか誰かが、手紙を返してくれるだろう。そのとき僕ははじめてほんとうに僕になるだろう。この青い目や細胞の端々までが歌って、そう、生まれたばかりのように歓喜に満ちた僕になるんだ。
宇宙うさぎは今日も夢を見る。
白い毛はふわふわと空に靡く。
月の反対側に、銀河の隅に、土星の輪に居るはずの、君へ書く手紙だよ。
すこし微笑んで、宇宙うさぎはうとうととしている。また夜が来る。
いつか、いつかの話さ。
上弦の月の次の晩には、何か起こるといいね、宇宙うさぎさん。
まるいふわふわのしっぽが少し、揺れた。
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スクレイピング・ユア・ハート ― Access to SANUKI ―
あらすじ 平凡な大学院生である丸亀飛鳥。 新規気鋭のイラストレーターで、飛鳥の後輩である詩音。 四年ぶりの再会を経て、二人は奇妙な出来事に巻き込まれていく――――
物語の始まりなんて、なんでもよかった。 偉人の言葉を引き合いに出して、壮大な問題を提起する冒頭が思いつかない。洒落た言い回しを使った、豪華絢爛な幕開けが思いつかない。ああ、思いつかない。とにかく、思いつかないの。 一般教養が足りないとか、センスがないとか、そんなんじゃない。 ただ、平坦。二十三年生きた人生に山も谷もない。 一般的な都内の中流家庭に産まれ、すくすくと成長し、苦難なく小中高大を卒業。 特に研究したいこともないが、働くのが嫌で大学院へ。研究生活の中で平均くらいの能力を身につけ、今でもゆるゆると日常を謳歌している。 そんな人間が想い描く物語だ。たとえ始まりを豪華絢爛にしたところで、面白くともなんともない。 だから、始まりなんてなんでもいいん『そんなことないわ』 ……そうかしら。それなら、もう少し頑張ってみ「お願いだから止まって、止まって!」 ……どっちよ。 これは、寝る前にするちょっとした妄想。クラスを占拠した悪漢を一人でやっつける、みたいなもの。 目を瞑っているのだから周囲は真っ暗だし、私以外の声が聞こえるわけ「先輩!先輩!しっかりして!」 うーん。うるさいわね。 聞き覚えがある女の子の声。少しガサついていて綺麗な声音ではないのだが、なぜか心地よくて、落ち着く。 ……寝る前に聞く、ちょっとえっちなASMRの切り忘れね「先輩!?」。面倒だけど一度起き『ダメよ』
身体がビクン、ビクンと震える。
表面上は高潔な雰囲気を纏っているものの、ねっとりとした厭らしさが滲みでて、根底にある魔性を隠しきれていない女性の声。 今まで一度も聞いたことがない。声の主なんて知るはずがない。それでも狂しいほど切なく、堪らないほど愛おしい。 そんな声が全身を駆け巡り、電撃のような痺れとなって身体を激しく愛撫したのだ。 『貴女の全てが欲しいの』 唐突に発せられた媚薬のような愛の囁きに、動悸が早くなって頬が火照る。恋愛感情に近い心の昂りが瞬く間にニューロンを焼き焦がして、身体にむず痒い疼きを与えた。 『貴女は快楽の熱で、ドロドロに蕩かされていく』 そう告げられると、容赦ない快感が次々と身体に打ちつけられ始めた。 堪らず身を捩ろうとするが、金縛りに遭ったように手足が動ない。舐めしゃぶられるように身体中が犯され、許しを乞うことすらできない。ただ一方的にジュクジュクとした甘ったるい快楽の波が全身に蓄積していく。 やがて許しを懇願することさえ忘れ、頭の中が真っ白に染まってしまう。もう耐えきれない、決壊してしまう。 『そして、深く深く流れ落ちていく』 そ��タイミングを見透かしたように、許しの言葉が告げられる。同時に、心の器が壊れ、溜め込んだ全ての快感が濁流のように全身を駆け巡った。 意識が何度も飛びそうになって、頭のチカチカが止まらない。獣のように声にもならない嬌声をあげながら、やり場のない幸福感に身を委ねて甘く嬲られることしかできない。何もかもがどうでもよくなる程、気持ちがいい。 永遠に思えるような幸福な時間を経て、すぅっと暴力的な快楽が引いていくのを感じた。代わりに、深い陶酔の中へ身体が沈み始める。 そして、自然と強張っていた身体から力が、いや、もっと大切な何かが抜けていく。でも危機感はない。 たとえ声の主が猛獣で、彼女に捕食されている最中であっても、私は目を開けず身を任せてしまうだろう。 ゆっくりと身体の輪郭が曖昧になり、呼吸が浅くなっていく。意識が朦朧として何も考えられない。ただ、恍惚たる快楽の余韻に浸りながら、彼女の言葉の通り深く深く、流れ落ちていく。 『おやすみなさい、愛しい貴女』 赤ん坊に語りかけるような優しい声音で別れが告げられる。そして、私の意識はブレーカーが落ちたようにプツンと切れた。 遠くからぼんやり響いた悲痛な叫びは、もう私に届くことはなかった。
*** もしあたしにインタビュー取材依頼がきて、最も影響を受けた人物を聞かれたら、間違いなく先輩と答えて彼女への想いを語り続けるだろう。 コラム執筆依頼がきたら必ず先輩の金言を引き合いに出して最高のポエムに仕上げるし、ラジオに生出演したら「いぇい、先輩、聴いてるー?」が第一声と決めている。 現に初めて受賞した大きなイラストコンテストの授賞式の挨拶では、会場にいない先輩に向けて感謝の気持ちを述べた。それほどまで、高校で先輩と過ごした二年間はかけがえのない宝物だったのだ。 だから、あたしという物語の始まりは必ず先輩との思い出を引き合いに出すと決めている。 そんな小っ恥ずかしいことを寝巻き姿で平然と考えてしまう程、あたしこと讃岐詩音は浮かれていた。 なんせ今日は先輩と四年ぶりの再会である。 窓から差込む小春日和の暖かな日差しが、今日という素晴らしい日を祝福しているようにも思えた。
「詩音、朝ごはんできてるわよー」 「うん」 一階から聞こえたママの呼びかけに応じる、蚊の鳴くような声。自分のガサついた地声が嫌で、どうしても声量が小さくなってしまう。 おそらくママには聞こえていないので急いで自室から出て階段を降り、リビングに移動する。閑静な高級住宅街に建つ一軒家に相応しくないドタバタ音が鳴り響いた。 「危ないからゆっくり降りてきなさいって言ってるでしょ」 ママのお小言に無言で頷きながら、焼きたてのバターロール一個とコップ一杯のスープをテーブルに運ぶ。いつものご機嫌な朝食だ。 「バターロールもう一個食べない?消費期限今日までなの」 ママの問いかけに対して首を横に振って拒否した。少食なあたしにとって、朝の食事はこの量が限界。これ以上摂取すると移動の際に嘔吐しかねない。 「高校でバスケやってた時はもっと食べてたのに。ママ心配よ」 そう言われてしまうと気まずいが断固としてNOだ。先輩との大切な再会をあたしの吐瀉物で汚したくない。 話題を逸らすためテレビをつけると、ニュースキャスターが神妙な面持ちで原稿を読み上げていた。 「横浜市のアトリエで画家の東堂善治さんが倒れているのが見つかり、病院に搬送されましたが意識不明の重体です」 たしか、以前参加したコンテストの審査員だったような。国際美術祭で油彩画を見たような。あと生成AI関連で裁判がうんたら。 「東堂さんは世界的に権威のあ……また、スポンサー契約を交わしていたFusionArtAI社に対して訴……捜査関係者によると奪われた絵……」 ニュースの内容を聞き流していると、概ねの内容は記憶と合致していた。どうやら、高校を卒業してから勉学の道には進まず、創作活動に勤しむようになったあたしの記憶力はまだ健在らしい。少しだけ、ホッとした。 「最近物騒ね。よく聞く闇バイト強盗かしら。ほら、この前も水墨画の先生が殺されたじゃない。詩音も今日のおでかけ、気をつけなさいよ」 「ん、気をつける」 ママを心配をさせないために少しだけ大きな声で返事をして、深く頷いた。 食事を終えた後、アイロンがけされた一張羅に着替えて身なりを整え、先輩が待つ喫茶店へ向かった。 *** ――――ちょうど三週間前のこと。 本業のデジタルイラストの息抜きとして始めた水彩画にハマりにハマって、気がつけば丑三つ時。ふと先輩の顔が頭に浮かんだのだ。 丸筆とパレットを置いてから勢いよくベッドにダイブして寝転がり、流れるようにエプロンのポケットからスマホを取り出す。 先輩はSNSを実名で登録するタイプではない。それでも広大なネットのどこかに先輩の足跡みたいなものがないか、淡い期待を抱いて名前を検索してしまう。 そんな自分がちょっと気持ち悪い。 自己嫌悪に陥りつつ検索結果を眺めていると、思いもよらない見出し文を見つけたので間髪入れずにタップした。
「情報システム工学専攻修士1年生の丸亀飛鳥さんが、AIによる雛の雌雄鑑別システムに関する研究で人工知能技術学会最優秀論文賞を受賞しました」
ゆっくりとスクロールしながら情報を集める。やがて研究室のホームページに掲載された集合写真にたどり着く頃には、これが先輩の記事であることを確信した。 ……正直言って自分がだいぶ気持ち悪い。 「やっぱり先輩はすごい。うん、とてもすごい人だ」 先輩の活躍ぶりに足をばたつかせながら興奮していると、ピコンと仕事用のアドレス宛に一通のメール。見慣れないアドレスだったが、ユーザー名が目に入った瞬間飛び起き、正座になる。 「marugame.asuka0209って、これ絶対に飛鳥先輩だ!」 偶然にしては出来すぎているが、なんの警戒もなく開封をして内容を隈なく読み込み――――読み終える頃には呆然としていた。 要約すると研究協力の依頼であり、可能であれば一度会って話せないか、という非常に堅苦しい内容である。 気がつくと涙が頬を伝っていた。 四年ぶり、つまり先輩が卒業してから初めて貰った連絡。元気?今度ご飯でも行かない?みたいな、そういうのを期待していたあたしがおバカじゃないか。 ――――いいや、先輩が悪いわけではない。これが普通。むしろ、あたしがおかしい。 何を隠そう、あたしと先輩の間に特別な繋がりはない。友達でもなければ恋人でもない。ただ、バスケ部の先輩後輩というだけで、練習と試合だけが共に過ごした時間の全て。連絡も練習に関することだけ。そんな程度の仲。 「……それでも好き」 あたしに手を差し伸べてくれた先輩に対する想い。四年経ってもこの気持ちは色褪せていない。 でも、これが最後になるかも。もし拒絶されたら、ただの先輩後輩ですらなくなってしまったらどうしよう。そう思うと、胸が苦しくなる。だから今まで一度も自分から連絡できなかった。 ――――涙を拭い、ありったけの勇気を振り絞る。 先輩に会ってお話しがしたい、その気持ちだけで震える指をどうにか動かし、書いては消してを繰り返す。文面が完成しても、何度も声に出して読み上げ続け、早三時間。返信を完了する頃には外が薄明るくなりつつあった。 急にドッと疲れが出て、再びベッドに倒れうつ伏せになり、顔を枕に埋める。そのままうめき声を上げて、湧き出る混沌とした感情を擦り付けていく。 このあられもない姿がママに目撃されていたことは、あたしの人生最大の汚点となるのだった。 *** ――――いつの間にか私はドアの前に立っていた。 温かみを感じるレトロな木製のガラスドア。ここは大学から離れた場所に佇む、少し寂れた喫茶店の玄関前だ。私の憩いの場の一つで、よく帰り道に訪れている。 ぼーっとしていると、店内が薄暗いからか自分の姿がガラスに反射していることに気がついた。 ガラスに映る、ケープを羽織ったおさげ姿の美少女。うどんのように白い肌が彼女の纏う儚さに拍車をかけ��いる。 彼女の名は讃岐詩音。 私の一個下で、高校バスケ部の後輩だ。 某バスケ漫画に憧れて入部したという詩音は、初心者という点を考慮しても信じられないほど下手だった。 ドリブルやパスはへんてこだし、一番簡単なレイアップシュートすらろくに出来ない。おまけに口数が少ない不思議ちゃんで、趣味と特技がイラストときた。 そのため、次第に周囲から腫れ物のように扱われるようになる。 それでも詩音は部活を辞めず、直向きに人一倍努力を続けた。 しかし、周囲からの扱いは変わることはない。下手っぴが一人で頑張っても嘲笑の対象になるだけだ。 だから私は、詩音に手を差し伸べた。少しでも彼女が笑顔になれるように。 ――――精一杯頑張る彼女の姿が、どこか冷めていた私の憧れだったから。 原因は不明だが、今、私は『詩音』の姿になっている。まるでVRを体験しているようだ。なんにせよ、玄関前で棒立ちを続けるのは迷惑だ。 混乱しながらドアを開けて入店すると、店員がにこやかに迎え入れてくれた。 「いらっしゃいませ、讃岐さんですね。丸亀さんはあちらの席でお待ちです」 会釈をするも、妙な違和感。戸惑いながら店員の案内に従い、席に移動した。そして私は大っ嫌いな女と対面することになる。 緑色の黒髪が綺麗な、リクルートスーツ姿の美女。気品のある見た目をしているが、中身は空っぽ。連絡が来ないから嫌われたと思い込み、自分を慕う後輩を四年間も放置したクズ。そんな女性が私を見て微笑む。
『久しぶりね、詩音』
そう、『『私』』だ。まるで鏡を見ているかのように、『私』が机を挟んだ向こう側に存在している。 詩音と四年ぶりに再開したあの日の夢を見ているのだろうか。 唖然とする私を無視して、目の前に座っている『私』は一方的に話を進めていき、本題に移り始める。
『研究室が推進するイラスト生成AIプロジェクトが難航しているの』
原因は技術の普及と発展に伴って、目視であっても判別できないAIイラストがウェブ上に溢れかえったことだ。 その結果、クローラープログラムがウェブを巡回してイラストを収集するスクレイピング技術で作られた学習データにAIイラストが混入し、AIプログラムが崩壊する報告が多数出ている。 余談だが、私の研究は養鶏農家から提供される写真を使用しているため、全く影響を受けなかった。それゆえ、最優秀論文賞を繰り上げ受賞してしまったのだ。
『研究用のデータ加工が大変なのよ』
これはイラストレーター達が自衛として、データをそのままウェブにアップロードしなくなったからだ。 近頃はデジタル画像を紙に印刷した作品やアナログ作品を造花などで飾り付けてからカメラで撮影する、2.5次元作品が主流となっている。 イラスト本体の解像度劣化やカメラフィルターによる色合の変化、装飾物による境界の抽象化などが原因で、2.5次元作品はAIで学習できない。 修正AIで2.5次元作品を2次元作品に加工しようとしても、誤認識のパレードである。そのため、ゆうに一万を超える大量のデータを人力で加工するしか手立てがないのだ。
『FusionArtAI社のデータも法外的な値段で八方塞がりなの』
FusionArtAI社は唯一ピュアなイラストデータを扱っているユニコーン企業だ。東堂善治のような大御所アーティストらと契約し、安定して高品質なデータを取得しているらしい。 AIやらNFTやらを壮大に語っているが事業内容がよく理解できない。それに莫大な資金が何処から出ているのか非常に疑問である。 加えて詩音がモニターとして、AIの学習を阻害する絵具を貰ったのだとか。胡散臭すぎる。
『だから詩音のイラストのデータを全て譲って欲しいの』
「……は?ちょっと待ちなさい」
今まで無言で頷いていたが、思わず声が出てしまう。
『貴女の全てが欲しいの』 「そんなこと言っていない!私は研究協力の依頼を断るように警告したのよ!!」 ことの発端は詩音がイラストコンクールの授賞式で私の名前を出したことである。偶然その授賞式に私の指導教員も来賓として出席していたのだ。 後日、ゼミで彼女の挨拶が話題に出され、私は迂闊にも恥ずかしさのあまり過剰に反応してしまった。 指導教員は詩音が語った人物が私のことだと察した。そして詩音宛に研究協力の依頼を出すよう、私に指示を下したのだ。 なんせ、詩音は今や業界を席巻する超新星。その作品を利用できれば、データの質の担保だけでなく、研究に箔をつけることができる。 下手をすれば詩音が筆を折りかねないその指示に対し、私は強い憤りを感じた。 しかし、上の言う事は絶対。だから大学から離れた喫茶店に呼び出し、密かに依頼を断るように警告したのだ。 ……加えて、授賞式のようなオフィシャルな場で無闇矢鱈に人様の個人情報を出さないよう、情報リテラシーの講義もみっちり実施した。 詩音は私の言葉を素直に聞き入れてくれた。ただし、研究室の厄介事に巻き込んだお詫び?として、週末に作品撮影のアシスタントをする約束をした。 ――――その撮影日が今日。 そこは、誰も寄りつかない瓦礫まみれのビーチ。 遥か昔、海辺に栄える水族館だった場所。 青空の下、詩音が無我夢中になって作品の飾り付けをしている。 装飾材を補充するため、彼女が水彩画に背を向けた刹那。 額縁からコールタールに似た漆黒の液体が勢いよく溢れ出し、彼女を襲う。 だから私は彼女を突き飛ばして。 悍ましく蠢く闇に、『食われた』。 「……ようやく思い出したわ」 これは、妄想でも夢でもない。相対する『私』の皮を被る怪異が起こした現象だ。 理解不能な存在に生殺与奪の権を握られている。その事実を認識した途端、体に悪寒が走り、鳥肌が立つ。今にも腰が抜けそうだ。 怪異は恐れ慄く私の眼をじっとりと見つめながら、ブリーフケースから同意書とペンを取り出し、机の上に置いた。 『貴女とはいい関係になれると思うの』 そう言いながら、怪異は小指を立てながら厭らしく微笑む。 私の生存本能が、この文字化けした書類にサインをしてはいけないと警鐘を鳴らしている。サインをすれば、死ぬ。 それでも私は震える手でペンを掴んでしまう。 ……だって、私なんかが敵う相手じゃないもの。 怖くて泣きじゃくる無様な私に何ができるの。 そうね。きっと、あっけなく死ぬのよ。 ――――そうだとしても 「大切な後輩を襲ったお前だけは、絶対にぶっ殺してやる!!」 私は決死の覚悟を決め、一世一代の大啖呵を切った。瞬時に怪異に対する怒りの炎が燃え上がり、滞っていた思考が急激に動き始める。 相見えるは常識の埒外の存在。裏を返せば奇想天外な自由解釈が可能であり、不格好でもそれっぽい仮説を立ててしまえば、私にとっては常識の埒内の存在になる。 きっとそう強く信じなければ、目の前の『私』は倒せない。 唇に人差し指をあてながら、ただひたすらに、常識や記憶の間に無理やり関連性を見出して理屈をこじつけることを繰り返す。 やがて、その思考過程を経て、一つの結論に辿り着く。 この怪異の正体は、『クローラーを模した淫獣』だ。 こいつは複数回にわたって人を襲い、心の記憶から作品を抽出していくタチの悪い存在。全ての作品を取り込み終えると、獲物に大量の快楽成分を流し込んで再起不能にする恐ろしい習性を持つ。 おそらく詩音も何度か寄生されていて、今日が最後の日になるはずだった。 ところが、すんでのところで私が身代わりになったため、情報の吸い残しがあると誤認が生じてしまった。それは淫獣にとって重大なエラーである。 そこで、やり直しを試みるも、改めて詩音の同意が必要となってしまった。 だから先日の会話に基づいてこの空間を生成し、『私』の皮を被ってサインを迫っているのだ。――――今、自分が捕食している獲物が『丸亀飛鳥』であることに気が付かずに。 そして、最も重要なことは淫獣が人工的に作られた存在という点である。 これまでの同意書に重きを置くような言動を見ると、魑魅魍魎の類とは思えない。何より、元凶に心当たりがある。 そう、FusionArtAI社だ。淫獣の正体が例の胡散臭い絵の具であり、密かに多数のイラストレーターを襲っているとしたら、全て辻褄が合う。 ――――そうであると信じるの。そうすれば、こいつに一矢報いることができるはずよ。 汗ばんだ手で同意書を手繰り寄せ、ゆっくりとペン先を近づける。 すると、自分勝手に喋っていた淫獣が口を閉じ、紙面をじっと凝視し始めた。それだけではない。空間を構成する全てが、その瞬間を見逃すまいと監視している。 張り詰めた空気の中、私は���早く紙を裏返して、���う書き記す。 robots.txt User-agent: * Disallow: / その意味は、『クローラーお断り』。 今や対魔の護符に等しい存在となった同意書を握りしめ、勢いよく席を立つ。 「私の全てが欲しい……そう言っていたかしら?」 沈黙。詩音の好意や才能を踏み躙った淫獣は、口を開かない。 『An error occurred. If this……』 どこからともなくアナウンスが聞こえるが今はどうでもいい。
「これが私の答えよ」
大っ嫌いなクソ女の顔面が吹き飛び、振り抜いた私の拳が漆黒の返り血に染まる。 一呼吸おいた後、心から詩音の無事を願い、静かに目を閉じた。 *** 茜色の空。漣の音。磯の香り……それと、ちょっと焦げ臭い。 そして、私の身体に縋って嗚咽する大切な後輩。 どうやら私は死の淵から生還できたらしい。無事を知らせるため、詩音の頭を優しく撫でる。それでも泣き止まないので、落ち着くまで背中をさすってあげた。 「心配かけたわね。詩音が無事でよかった」 詩音は私の胸に顔を埋めたまま、コクリと頷く。 「先輩も無事?」 「ええ、大丈夫よ」 これ以上、詩音を不安にさせないように気丈な態度をとるものの、重度の疲労を感じ、もはや立つことすらできない。 「ここはまだ危ないから、早く詩音だけでも逃げて」 「やっつけたから、モーマンタイだよ」 詩音が指差す方向を見ると、黒い液体に塗れた水彩画が静かに燃えていた。焦げ臭い匂いの原因はこれか。……やっつけたってどういうことかしら。 些細なことに気をとられている場合じゃない。 先ほどから微かに聞こえる、複数の物音。 何者かが物陰で息を潜め、私たちの様子を窺っている。 今や炭になりつつある淫獣の回収が目的か。いや、それは私がでっち上げた荒唐無稽な陰謀論にすぎない。 ここは、電波が届かない人里離れた廃墟。無防備な女二人がいつ襲われてもおかしくない、危険な場所だ。 詩音も気が付いたのか、私に抱きつく力が強くなる。意地でも私から離れないつもりのようだ。高校の時から感じていたが、この子は気が弱いわりに頑固だ。 ――――息が詰まるような空気を、遠くから鳴り響くサイレン音が切り裂いた。 同時に複数の人影が足音と共に遠ざかっていき、私は安堵の息を吐いた。 「もう大丈夫。定刻を過ぎても私から連絡がなかったら、警察と救急に通報するよう、母さんに頼んでいたの」 半分は今のような不足の事態に陥った時の保険として。 「やっぱり先輩はすごい。うん、とてもすごい」 もう半分は、尊敬の念を向けている後輩から刺された際の保険として。……絶対に黙っておきましょう。 *** ――――事件から三か月後。 結局、私たちを襲った存在の正体は分からず終い。一方、あの場にいた不審な人影は東堂善治を襲撃した闇バイト強盗であった。そのため私達の不法侵入は霞んでしまい、一切お咎めなし。私達の身に何があったか、深く聞かれることもなかった。 まぁ、警察に事情を説明するにしても―――― FusionArtAI社が作ったスライム型の淫獣に襲われてデスアクメしそうになりました。奴らはアーティストの心の記憶に存在する作品データを狙っています。 という私の支離滅裂な説は口が裂けても言えない。それに、FusionArtAI社が不正会計絡みで呆気なく倒産したため、もう追及のしようがなかった。 ちなみに、詩音は黒い液体の正体が亡霊の祟りだと思い込んでいる。だから制汗スプレーとライターで除霊?しようとして、そのまま引火。あの有様となったそうな。 「貴女のおかげで助かったのかもしれないわね」 私の言葉に首を傾げる後輩は、今日も美少女だ。 あの事件以来、私達はお互いの身を案じて一週間に一回は会うようになった。といっても、毎回普通に遊んでいるだけだ。 今日は私の行きつけの喫茶店でまったりとお茶をしている。お紅茶がおいしい。 紅茶の香りの余韻を味わっていると、詩音の手招きが。 またか、と思いつつ耳を寄せる。
「先輩のケーキ、一口欲しい」
耳元で囁かれる妙に蠱惑的な声と熱の籠った吐息にゾクッとしてしまう。あの事件で私が晒した醜態から、余計なことを学んでしまったのだろう。 悪戯っぽく笑う詩音。本音を言ってしまうと非常に嬉しいのだが、どうも照れ臭くて顔を背けてしまう。 でも、これから時間をかけて慣れていけばいい。あの事件が私という物語の始まり、いや、――――私達という物語の始まりと決めたから。 二人に降り注ぐ優しい木漏れ日が、これからの日常を祝福しているように思える。 ――――そんな気恥ずかしいことを考えてしまうほど、私こと丸亀飛鳥は幸せだった。
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12+12=24=25-1
クリスマスがやってくる��いうのに、息子が泣いていた。またママに「そんなことしたらサンタさん来ないよ!」と叱られたのだろうか?と思って、妻に訊いた。「今日、帰ってきてからずっと泣いてるのよ。訊いても教えてくれなくて」とよくわからない。
泣き疲れたのだろうか、リビングにやってきて、「お腹空いた」と、少しおぼつかない足取りでやってくる。サッカー少年で、試合でも目一杯に活躍する子だ。こんな足取りは、相当疲れているらしい。
食事を取って、「久しぶりに一緒に風呂入るか?」「うん」
息子はお年頃なので、最近はなかなか一緒に入ってくれないし、私自身も残業続きで難しかった。子どもと過ごす時間を大切に、とシステムは言いながら、大人なんだから働きなさい、と同時に言われるサラリーマン。
風呂に入った。私が太ったのか、彼が大きくなったのか、昔よりも湯船からこぼれるお湯の量が増えた。
「今日なんで泣いてたの?」
「あのね」また泣きそうになってる。「実は」
ゆっくりと、学校でサンタがやってくると話すと馬鹿にされたこと、サンタの正体は私たちであると知らされたこと、しかしそんなことはないはずだ、と反論しようにも、サンタさんを見たことがないからね、とまた落ち込んだ。
「そうだな。話すべきときだな。実はな、サンタさんは、世界中の人間全員だ。例えば、欲しいものを買うとき、スーパーのレジの人がいるだろう?あの人がいなきゃ、物を買えない」
「たまに宅配のお兄さんが来るだろう?あの人はここらへんの人だけれど、あの人に海外からの荷物を手渡す人もいる」
「そうすると世界中で物を作っている人もいる。例えば、このマンションだって、誰かが作った。この風呂桶だって、誰かが作った」
「そうやって世界中はぐるぐる回ってるんだけれど、その中からちょっとだけ力を出して、みんなにクリスマスプレゼントを渡そうとしている」
「確かにプレゼントを置いたのは、パパかママだ。でもそのプレゼントを手に入れるために、世界のどこかでたくさんの人が頑張ってる。それが『サンタさん』という人の正体だ」
「ちょっと難しいかな。ハハ。パパはもうちょっと入ってるから、ママ呼ぼうか」
風呂のインターホンを押す。扉から出る息子。しばらくしてドライヤーの音が聞こえて、止んだ。
そろそろ出よう。脱衣所とはいえ、今年の冬は寒い。
リビングに行くと、妻が息子とテレビを見ていた。ゲラゲラ笑っていた。
一時間後、息子が寝た。リビングで妻が少し心配そうに「何を話したの?」と訊いてきた。「理解できるかわからないが……」と、風呂での話をした。明るくなった妻が、「じゃあ私、クリスマス頑張っちゃおうかな!」と張り切っている。
「まあ、無理はしないでな。まだまだ寒い。とりあえず、寝た方がいいかもな」「あなたは?」「もうちょっとしてから」
妻の寝息が聞こえる。本を読みながら、ぼんやりしていたが、もう眠い。
ぐっすり寝ている息子の手のひらに、人差し指を近づけた。ゆっくり、人差し指を握った。そう、キミが生まれたとき、こうやってキミの体温を知った。ありがとう。がんばろうな。
あなた方に幸多からんことを。それでは、おやすみ。
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石灰光
女が、傘を斜に���って、膝に乗せた風呂敷包の上に肘をついて頬杖をついている。揺れる市電は時間の割に人気が少なく、席に座る人もまばらなれば、目の前に障害となるように立つ男もいない。私の座る斜向かいにその女は腰掛けていて、ただじっと、床の雨染みでも見ているのか動きもしなかった。女が持つのは、使い古された渋い色の和傘に、くすんだ紫の風呂敷。女には珍しい、重たい黒色の洋風のコオトを着て、その裾からは着物の色合いが、調和を乱すように鮮やかに覗いている。泥に汚れた白足袋と、紫の鼻緒の草履。娘盛りを少し過ぎた年頃だろうかと思うのは、その少しく乱れた髪と、生活に霞んだ手の甲のためである。
持って出た本も読み終えた私がその女に目を留めたのは、女がその背を、知らずのうちに冬の白い陽に預けていたためであった。女の背後が西側になっているのだろう、その陽光を女は一身に受けている。その女の淡い白い頬の輪郭が、私の視線を誘導させたのだ。
先ほどまで降っていた小雨の名残が空中に分散して、光線と互いに反射しあっているのか、女の輪郭はやけに淡く光っている。それはまるで銀幕の女優のようで、その白い肌は何よりも私の目を惹いた。女はそれに動じないけれども、市電が動きを止めるたび、そのように揺れる身体をそのまま任せて、そしてその度に、陽の光の方がゆらりと揺れている。
女本人が動きもしないのに、陽の光のほうがゆらゆらと揺れる。それは市電が動いているからであるし、外では日光を遮蔽するものがたまにあるからだろう。思えば不思議はないはずであるが、女の代わりに表情を変えていく冬の光が、私には面白く目に映った。光が表情を変える度、女はその照明に、勝手に照らされる。何度も違う角度から映される写真のように、女は勝手にその陽の光のモデルとなった。
女は一際に美しい容姿をしている、というわけではなさそうであったが、それでもこの情景を留めておけるものなら、そうしたいと、一学徒でしかない私にすら思える。しかしながらどれだけ高名な絵描きであろうと、この光の揺らぐ光景は、絶対に描き留めきれないのだから惜しいものだ。
その時市電が止まり、女が気のついたように数度瞬きをして顔を上げた。風呂敷に沈んだ身体を起こして、頬杖を解放する。私が手持ち無沙汰に女をまじまじと眺めていたことにも気がついていないのか、私とは反対の方向を見て、どうやら現在地を確認しているようであった。すっと伸びた背筋、そこから続く首筋、横顔は鼻筋が通り、重たく見えていた瞼は思いの外強く印象的な瞳を表した。不機嫌そうに引き結んでいた紅が彩る口元の、その端、少し下には黒子が見える。髪の生え際までの額の形と、何よりも、少し寄せられた眉のしなりが美しい。陽の光が女を捉え、女も、遠くを見渡し動きを止めるその瞬間。
その瞬間を私は見たのだ。
それは先ほど上野で見た洋画のどれだかのように。完璧に整った一瞬だったのである。女のポオズ、その表情、持ち物衣類から、市電車内の光景と、冬の柔らかい光の色。私が絵描きであったなら、この光景を逃す手はない。そんなものになってみようと思ったことは、生まれてこのかた一瞬たりともなかったというのに、今この瞬間に初めて私は、自らが芸術の道を選び取らなかったことを悔やみすらした。それはあまりに美しく、私の脳裏に焼きついたのである。
その一瞬間に私は見惚れて、つい女を凝視していたに違いない。次に市電が揺れると、女はついに私に気がついたようにこちらを見やり、黒く細い瞳で私を睨みつけるようにした。そこでようやく我に返る。他者を見澄ましていた己の不躾さに情けない思いを抱えて、居心地悪く女から視線を外す。しばらくそうして車内外に視線を彷徨わせていたものの、自らの落ち度の手前、じわじわと女の視線が刺さる気すらする。ついには居心地の悪さに耐え切れなくなって、まだ先まで乗っているつもりだったものを、次の停車場でそそくさと降りてしまった。
見ず知らずの女に悪いことをしたとふと息をついたのも束の間、「もし」と人を呼び止める声がする。私ではなかろうと思っていると、目の前に影がぬっと現れた。身を引くとそれは、私が先まで失礼を働いていた女当人である。
「あなた」
女が言う。私はその突然の出来事に動転してしまって咄嗟には声も出ずに、ただ女の顔を凝視していた。
「どちらかでお会いしまして?」
しかし女はそれ自体を気に留めていないのか、ぬっと顔を近づけて私を見る。
「いえ、そういうことはありません」先程は……、
と言いかけたところで、女がはっと距離をとった。
「ごめんなさい、近目なものだから。どこかで顔見知りの人のような気もして……今日は眼鏡も忘れてしまったし……」
女は風呂敷を抱えて、斜に頭を下げる。「いえこちらこそまじまじと申し訳ない」と言えば、女が怪訝な顔をするので、結果、自らの罪を一から自白することとなってしまった。
一通りの自白を終えて、女は思いの外朗らかにそれを聞いていた。しばらくそのまま立ち話を続けていれば、冬の長い夜はすぐさまやってくる。そろそろ、と話を切り上げ、別れかけると、女はこのまま、ここで市電を待つのだと言った。私が知り合いと思って降りたから、本当はまだ先まで乗っているはずであったのだと恥ずかしそうに笑う。私もまったく同じことをしたとは打ち明けられずに、ただ女に悪いことをしたと再び苦く思う。自らはここから歩いて家まで帰るつもりであったが、女一人を置いて帰るには停車場は薄暗い。
「失礼ですが、どちらまで」
聞けば女の行先も、自分の帰る方角と似たようなところである。徒歩をやめにして円タクを拾い、先の失礼のお詫びにと同乗を誘えば、女は躊躇いながらもそれに乗った。
帰路にも陽はどんどん暮れる。女が車を停めて降り、別れを告げるちょうどその時、点灯夫が車の横をすり抜けて、ガス灯の火が灯された。ほっと灯る火の暗さが、点々と連なっていく。女はそれをちらと見上げて、冬は日が暮れるのが早くって嫌ですね、と呟く。
女とは、たかが数刻話した程度。なんでもない話をしていたので、その素性は当然聞いてもいない。近くに住んでいるようではあるから、もしかするとこの先も市電で乗り合わせることもあるかもしれないが、この東京ではその可能性も限りなく低いだろう。
昼間見た女のあの一瞬を思い返す。光を受けた女の美しいひととき。その類稀なさ名残惜しさに、動き出す車から背後を振り返ると、女はガス灯の下に佇んでいて、その姿はただ暗く映るのみであった。私が振り返るのに気づいたわけはないと思うのに、女の腕が挙げられて、落ちた袖からその細さが暗がりに浮き上がる。今度は浮世絵のようなその情景に、私はソフトを挙げて、ただ、別れを告げるのだ。
もっちりデミタスさんのアドベントカレンダー(2023)寄稿です https://adventar.org/calendars/8560
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