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第13回 これから社会で生きて行くために

第13回 これから社会で生きて行くために
2019年7月18日、最終講義まであと1回。 ついにここまでやってきたか、という感想を抱きながら講義は始まった(と、抱いているのはこのブログを書いている高橋の主観...)。
さて、本日はまず「苅宿さんやっちまった!」というところから始まった。

それは何故か、、、
本来20分の座学のところを、60分も使ってしまったのだ。 その結果、、、

これには苅宿先生も良いのか、悪いのか、と前置きをしながら、正直な感想にとても嬉しく思ったようだ。でいて自分がしなければいけない反省をしたようで、、、

なるほど、、、 ということはである。
僕が書いた前回のブログも長いものになった、、、 こっちは書き終わった後、ものすごい達成感を感じた。
にもかかわらず、内容が果たし��皆に響く程伝わるのか、いや、どうだろう、、、

そうだ、「答えは自分の中にある」!


本当にその通りで、、、答えは自分の中にある。ということだろう。
実体験を通っているからこそ、座学の中で言われている概念がしっくりと理解できる。すでにこの座学の内容を実体験で自分の皮膚感覚に混ぜ込んでいる、その分、座学を聞いていても「それ知ってるよ」となる、ということだ。
というわけで、

そして

苅宿さんでも失敗する。だけどそんなときは失敗をも教材にしちゃうことで、学生たちにはまた違う角度からこの講義というものを見せる。そして失敗した時にどうしたら良いかわかる。開き直るのだ。

とは言っても学生たちもそれを理解し始めている。

そう、だからこそ学生たちには、とにかくやってみてから���悔するなりしないなり悩めば良いのではないだろうか、ということを苅宿先生は常に言い続けている。

そして先週!どっきりしました!というお話。

どういうことか。 ナンジャモンジャゲーム。
ほとんどの人が楽しんでくれた。

しかし、、、

本来、20分で終わらすべきところを、60分に伸ばしてしまったものだからほとんどのワークを出来ずに終えてしまい、無理矢理「ナンジャモンジャゲーム」を入れたのでした。
実際に僕も前回のブログを書きながら、あれ、どうしてこの脈絡からこれに(突然始まった感じが拭えなかった)、、、と思っていたり、、、
で、その時間に一体、何を見せたかったかというと、ワークショップデザインとゲームデザインには様々な種類がある、ということ。色んなゲームをやるこことで「面白い」と感じさせるデザインの多様さを見せたかったのだと。

ロジェ・カイヨワの遊びの定義。
「『遊びと人間』が有名で、カイヨワはその中で「遊び」を〈アゴーン(競争:文字通り徒競走など)〉、〈アレア(偶然:ルーレットなど)〉、〈ミミクリー(模倣:演劇やRPGなど)〉、〈イリンクス(眩暈:絶叫マシーンなど)〉の4種類に分類して考察している。(wikipediaより抜粋)」
「遊び」というのを上の4要素で分類したのがこのロジェ・カイヨワだった。
ロジェ・カイヨワの定義の中でのナンジャモンジャゲームはとても面白い分類に入る、ということを説明した上でゲームをやってもらう予定だったのが時間の都合上それを省いてしまったので突然感が増してしまっていた、というものだった。
ではワークショップデザインとは何か

ワークショップというのは仲間作りのための他者理解、合意形成のエクササイズという定義付けがされている。それをコンセプトワークというのがあって、それを比較してもらいたい。そのコンセプトワークというものを体験してもらう。ということで、、、


で、このコンセプトワークをベースにしたゲームは単純に「遊び」を目的としてきているわけではない。互恵性と排他性を含ませている。ゲームを通して「身につける」という言い方ではしっくり来ないと感じるけども例えば、物事を考える力というようなことを体感してもらえる、それがコンセプトワークのゲームだ。

では早速、ゲーム開始!!


この様にほっぺあるいはおでこに貼って行く。



で、貼られた丸いシールをもとに仲間を作ってグループを組む。誰も一言も話さずに組んで行く。そう、喋らずに組むというところがみそ。

そしてグループを組むことが出来たら、お互いに自分の顔も名前ももう知っているだろうけども、あえてここで自己紹介。
そしてこれが終わったらもう一度、違う経験として違うタイプのシールを混ぜながら同じようにグループを組んでもらう。組んでもらったら、今度はそのグループ分けを行ったのは、どうしてなのかを語り合ってもらう。
互恵のワークと排他のワーク

このワークは互恵と排他という相互にかかわり合う概念が表裏一体となって両立する。
互いに見合って、あなたはこの人と一緒、そっちと一緒、とくくっていくことは出来るのだけど、結局シールを貼られた側は誰もが助けを必要とする。どれだけ他者を分類できても自分自身のことはわからない。だから誰かに助けてもらう必要がある。そういう意味で、このワークには互恵の概念が入れられている。
実に素晴らしいことなんだ。だけれども、、、
排他のワークとも呼べるものになっている。

実はこれは同じものを求めるという気持ちは、違うものを排除している、ということと同義なのだ。だから最初、このワークを行う時に起きることはまず何よりも排他なのだ。
例えばボスニア紛争、ボスニア人やセルビア人がお互いをある日から敵視し始めるという現実の問題を念頭に、このようなワークを考える。
そこを、円環のワークという発想で転換する。 排他にするのではなく、これは円環、つまりはどこかに共通する観点を見つけて行く。わずかな共通点を見つけてグループ、仲良くなるという、これは考え方の違い、違うというところ、相違点を見つめ続けて排他性を強めて行くのか。そうではない。どこかで共通する箇所を互いに積極的に探していこうじゃないか、というところに着目する。それがこの円環のワークの狙いだ。

これは国際紛争を解決するものの考え方と同じ試行錯誤の方法を実行しようとしている。自分が信じる宗教、性別などあらゆる属性をもとに私たちは分断を進めている。現代は”批判すること”に重きが置かれ、超えられるトレーニングをこのコンセプトワークを通して学生たちに学んでもらった。
例えば色が同じというグループ。かたや別の色のマルの中に同じ色のマル。あるいはマルが2つあるグループなど、見方によって同じ仲間に慣なれるよね、という考え方。
このワークを進めて行けば、自ずと自分と違うところ、ではなく、同じところはどこなのか、共通点はどこなのかを必死に探そうとする。
そしてマルというカタチを共通にすれば最終的には全員が一緒になれる。そういう風に円が作れるように出来ていて、これがコンセプトワークという。ある目的のために効率的にどのようなコンセプトを作って行くか、デザインして行くのか。お互いに助け合う、互恵を意識する、そしてさらにそこの裏には排他という意味も有りますよね。実はこれを無意識に我々はやっていますね。ということを考えさせられる。
そこで排他を円環にして行くのは自分たちの意志で決められるのだ、ということを活動として私は念頭に置いてやっている、と苅宿先生はいう。
会社の部署間のズレや齟齬もそれを補正して行く、それがこういう概念やワークを知っていることで出来るのだ。

ということで今度は自分で「円環」する仕組みのシールを作ってみよう!

ということで学生たちにやってもらった。


これは対立するものを、どう共通項を探し、解決して行くかというもの。
国家間の問題、紛争解決にもし共通する項を見つけられれば、そこで一致できるのではないか。現状があまりにもお互いの違うところに着目しすぎているのではないかという発想を着想のスタートにしている。
これは大いにあり得ることだと思う。 ネット、twitterやyahooニュースを見ると必ずと言って良い程、匿名での批判、あるいは顔が見えないことを良いことに差別的な発言が現実の問題としてそこに現われる。そしてそのネットの中での言説はあたかも真実かのように拡散され、多くの人々が勘違いを起こしやすい。かくいう、このブログも、ファクトを示していないと全く同意できるものとはならないのだけど、、、
かたや、現在の教育現場で行われている、対立を探すのではなく、妥協点やあるいは共通点を探す前向きな教育に、とても難しさを感じる部分もある。それを端的にこの記事が捉えているので紹介したい。
「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく (現代ビジネス 野口雅弘氏による記事)
21世紀も四半世紀が目前に狭り、アジア太平洋戦争を経験したあの時代から75年が経とうとしている。にもかかわらず世界では未だ紛争が絶えず、国家を主導する為政者たちは大きな声とその力を行使して、それに対抗する術を持たない、あるいは持てる状況にない民衆を煽り、分断し、自らに都合のよい事実を報じている、ように感じる。
このブログを書いている2019年7月19日現在、日本では今週末に参議院選挙を21日に控えている。安倍政権になってどうしてか、「野党は批判ばかりしている」という言説が日本社会で出来上がっているようだ。それはもしかしたらこの政権が6年も続いて来たことと起因するのかもしれないし、投票率を見ても野党に投票している人々の数はこの6年ほとんど変わっていない。個人的にはそれは日本社会全体が現状を黙認しているような状況といっても良い気がしている。
その中でこの上のリンクの記事ではとても良いなと思う部分に言及している。詳細はぜひこの記事に飛んでいただきたいのだけど、概略としては、今の「アクティブラーニング」にスポットを当てた教育を推し進めすぎると、同調過剰という現象に陥り、「批判」を拒絶しかねないということだ。
程度にもよることは前提とした上で、批判を批判として受け入れる努力を、批判される側も一旦自己の中にその問題意識を共有できなければ、ことは改善できないのではないか、というものだ。それが現状、「批判をする」ということは、コミュニケーション能力や空気を読むということを謳われる世代にとっては自然と拒否反応を起こしやすい。だからこそ、若者世代は野党嫌いになってしまいかねない。ということだ。
と、脱線しすぎたかもしれないので戻します...
では次に、こちら。

youtube
カードゲーム系のワークは様々なコミュニケーション系のワークショップで使われている。まずはこの動画を見ていただきたい。
はぁって言うゲーム

幻冬舎エデュケーションのサイトより
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「今言った「はぁ」は、怒ってる? とぼけてる? それとも、感心してる? 与えられたお題を“声”と“表情”だけで演じて、みんなで当て合うパーティーゲーム!
例えばお題カードが「はぁ」だった場合、【怒りの「はぁ」】【とぼけの「はぁ」】【感心の「はぁ」】など各プレイヤーに異なるシチュエーションが割り当てられるので、身振り手振りを使わずに“声”と“表情”だけでお題を表現し、お互いにどの「はぁ」を演じているか当て合います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このゲームにとりかかってもらった。これもコンセプトワークのひとつだ。

ではでは、これらのワークはどのように外で活用されているか。それがこの下に続くスライドだ。

今、苅宿研究室は主にこのALE学習活動の考え方のもとあらゆる教育機会を様々な場で提供しようとしている。

苅宿先生は常々、アートを「使う」ことに重きを置いて来た。それはアートを使えるようになることが個人にとってもこの社会で生きて行く上��とても重要な位置を示すのではないかと考えているからだ。
自己表現をできるようになる主体/個人が増えることで、それぞれがより良い生き方を自身の中で持てるようになる。自己効力感という言葉で集約できるかもしれないが、それを自分の中で培うことが出来れば、それなりに社会の荒波に揉まれようとも、自分を保つ力が高ければ傷付く可能性を限りなく減らして行くことが出来るのではないかと考えている。


読んでいただければだいたいのことはご理解いただけると思うが、


そしてこれらの研究やファクトを元に、鳥取市立鹿野学園義務教育学校で「表鷲科」という科目名で実際に学校教育の中に組み込まれている。あるいは新潟でも表現ワークショップの授業を実践として提供している。
この研究の難しいところは、客観的数値を研究の成果としてどう表して提示するかということだったが、それを苅宿先生と苅宿ゼミの学生たちは量的・質的研究両方をワークショップの中で上手に掬い上げ、成果として提示している。それはワークショップに参加した生徒たちの、ワークショップ後の感想、振り返りシート(リフレクションシート)というカタチでデータ化したり、あるいはそのファシリテーターたちの発話分析を行って、キーワード毎にその都度、授業を受けている側の児童・生徒たちは何を感じたかを映像などを用いて客観的に提示できるような研究のスタイルから成立している。
これは僕が学生の頃にはまだ見られなかった研究・分析方法に思う。
残念ながら更なる詳細は授業を受けられた学生にしか見せられないのだけれども、、、
さて!!来週は!!!!!


ということで、、、

お題は、、、


そのためにも、、、

ということで、次回の授業で使う背景用のポートレートを撮影しに行った。

さて、今回の講義はここまで! 残すは最終回!!
乞うご期待!
今回も写真は全て現在大学4年の苅宿研究室ゼミ生、シメジくんとシュンくんがiPhone Xを駆使して撮影している。良い写真をありがとう!!
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第12回 この授業を通して学んだこととはなんだろう?

第12回 この授業を通して学んだこととはなんだろう?
2019年7月11日、快晴。7月も半ばに差し掛かろうとするところ、夏本番はこれからだけども、この講義はこの回含めて残り3回...
今回も省察回。 話はまず「なぜ世界のエリートは『美意識』を鍛えるのか」というところから始まる。それはこの講義の前日、青山キャンパスで苅宿教授がシンポジウムを主催し、山口周さんという方と対談をしたからだった。
いま、美大あたりを中心に社会人向けに様々な学びのコースが用意されている。既に社会人になられた方々が今、実際の社会で直面している問題として、今、必要とされるものを身につけるためにこぞって美意識を鍛えているという。
この著書の本文から以下の文章をお借りした。
「グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む、あるいはニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、こけおどしの教養を身につけるためではありません。彼らは極めて功利的な目的で「美意識」を鍛えているのです。
なぜなら、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです。
では、そのように考える具体的な理由はなんなのでしょうか?(本文より)」
会社の役員たちも含め、今、世の中で起きている出来事、日々めまぐるしく変化している日常へ対応しようとしているということだ。
アメリカが関わらせた朝鮮戦争、そして朝鮮特需という異例な状況による経済的恩恵を受けた日本。そこから高度経済成長によって一億層中流社会が煽られた。「三種の神器」といって白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫を持っていることがひとつのステータスとされた。そんなモノを持つことが幸せだった時代から、今の大学生が生まれ育ってきた環境はどういう状況か。モノを持っていることが大事とはされず、それ以上に自分の世界観、とか自分だけのストーリーという唯一のものを
ITや金融業を筆頭に富める側はより富んでいき、貧しい者はより貧しくされていく。経済格差は拡大している。物価は上がって行くのに、それが給料に反映されておらず、法人税が下がる一方、消費税は上がり、さらに貧しい側の人間は消費も貯蓄もし��くされて行く...
2018年の段階で、国民生活基礎調査(厚生労働省)では57.7%が「生活が苦しい」と答えている。
そんな社会を生きているとおそらく大学生の感覚として、今より社会が良くなるということは想定できないかもしれない。その結果が日本財団による、「18歳の社会や国に対する意識調査」でこういう結果が出る原因だろう。ほとんどの設問で日本の18歳は他国の18歳の方々よりも低い数値を統計的に出している。
これが表すことは何か。日本の若者が政治離れ、無関心を決め込んでいるのではなく、日本社会側が若者を社会から遠ざけ、政治離れさせている結果ではないかと疑う必要がある。そこからこの現実を直視して、”自己効力感”を身につけるにはどうすれば良いのか...
ということを、この授業で”体験”してもらっている。
前回の講義で「この授業で何を学んだのか」ということをグループワークで考えてもらった。そして講義後のリフレクションシートではこの様な答えが戻ってきた。

この、「改めて」ということを重要視していると苅宿先生はいう。授業をデザインする苅宿先生にとって、re-designという言葉を例に、「もう一度学び直せる」という経験を得てもらうことが苅宿先生の仕事として価値があるのだという。
そしてあなたにとってグループワークとはどういうものなのか。


グループワークが上手く行く時、それは自分たち以上の力を発揮しているということを実感してもらっている。

グループ、あるいは組織として何かを運営して遂行する時、個人の力を上げるためには他者とどういう協働を必要とするのか。そこにいることで自分も他者も排除されず、まず何よりもあなたはそこにいて良いのだと認められている空間の場作りは一つの鍵となる。その結果、1+1+1=4の力となって、グループとしての方が1人で何かをやる時よりも力を発揮する可能性を持つのだと。

この”ひらめき”という言葉もさらに鍵となる。そしてそのひらめきを発揮させてくれるのが、グループとして活動している時に感じられる”楽しい”、”安心できる”という感覚なのだと苅宿先生はいう。ここからいくつか羅列する。




結果的にこれはデザイン思考が必要とされているということだ。自分の能力を素直に認め、グループでどう運営して行けばいいのかということを考えさせる。


この、”楽しむことから始まるんだ”ということをこの講義から体感してくれた上で、活動してもらったらもう既にデザイン的思考になっているという。

このように、その場を「◯◯な場」であると定義付けられる時点でこれは”学習環境���ザイン”という学習科学と学習工学という両分野を横断する様な学際的な学問領域に入るということをいう。以下のスライドを見て行こう。




これらを参考に自分がこの講義でやってきたことは学問的に語れるようになるんです、という紹介だ。
実はこの「語れる」ということがとても重要なことで、今の大学生が就職活動で自分のことを語ろうとしたとき、例えば「大学で何を学んできましたか」と面接官ですら大学の時に何やっていたんですか?と問えば答えられなそうな気もする質問をされた時、私は大学で学習環境デザインという手法を学んで、コミュニティがどのように運営され得るか、ということを学びました、などと答えられるようになるということだ。
そしてまだまだ少ないものの、今までのスタイル、会社のカタチにハマることを求められていたものから段々と、あなたの主体に合せて働くことを進められるように環境を整備しようとする職場も増えつつある、という。
次に、こちら。

実はこれは苅宿先生が小学校の先生をしていた時の学習環境、空間のデザインを施した図工室だ。黒板を全て排し、先生が児童たちと同じ目線で教え、学び、椅子や机の配置もデザインされている。
これは実は苅宿先生がNHKに特集で出演していたときのテレビで放映されたものだ。その中でナレーションされた箇所を抜粋する。
「モノを作ることを通して、”自分らしさ”に出会って欲しい。名付けて「らしさ工房」。そしてこのらしさ工房は、花と同じで水を与えて手入れしないと枯れてしまいます。水は、皆の「作ることが楽しい」という気持ちです。このらしさ工房で作ることを楽しんでくれたり、他の人が楽しいと感じたことを楽しいと感じてくれたら、このらしさ工房は枯れません。それからこのらしさ工房には色んな人が心を休めに来るかもしれません。そんな時は、工房のゆったり���した時間と、花がたくさんあるところに鳥が飛んでくる、そのような空間を楽しんで行ってもらいましょう」
このナレーションにもあるように、苅宿先生はこの時から、外からも人が行き来する、そのような環境をデザインして、かつ、児童や外からやってくる方々もこの環境を作って行く側として参加してもらう意識で、このらしさ工房をサロン的なものとしてコミュニティを作っていた。
この場所で行われていた営みは、人間がこの社会で生きる上で根源的なことと言えるかもしれないと僕は個人的に感じている。それはこのナレーションの中でも言われている通り、この場所、この環境を運営して行くにあたっては、皆がそれぞれの「作ることが楽しい」という気持ちを持続できなければその環境は喪われて行くということだ。そこには不断の努力が必要だ。何かこれは楽しくないと感じた時に、どうしたらその場所がまたお互いにとって”楽しい”と感じる場所になるのか。それを常に問いながらこの環境は成立していた。
そしてこれは、日本国憲法の中で謳われている文言と似ていることに気づかされる。
日本国憲法第十二条、
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
つまり、苅宿先生は小学校の図工室を使って、民主主義とはどういうものかをそこに集う全ての人々に概念だけで教えるのではなく、身体でもって体感してもらっていたということなのではないだろか。
さて、リフレクションシートに戻ろう。


と、この辺に書かれていること、リフレクションシートを通して「振り返り」学ぶ、ということ。

このあたりは、ドナルド・アラン・ショーンの省察的実践とは何かに書かれてあることで、

振り返ることによって、自分に気付いて行く。
すなわち、苅宿先生が得意としている「入れ子構造」というもので、繰り返しやっていくことで、自分の多面性を気づいて行くという過程でもある。

これは青山学院大学の高木教授の心理研究の分野でもある。状況によって自分を変えているということ。
そう、ここまでの講義でもう受講されている学生たちも気付いているが、自分でこの授業の仕組み、構造を語ることができるようになっている。つまり、「作品の作品化」というこの下のスライドの中で語られていることをもう、出来るようになっている。

『これからのメディアをつくる編集デザイン』
そして、

苅宿研究室の卒業生の佐々木まゆさんの紹介。彼女は今も空間デザインを自分の仕事にしている。この様に、苅宿先生のもとで学んで、今現在も空間デザイン、コミュニティを作ることをやられている方もいる。

しかし、この講義は答えがあるわけではない。だから

のように悩む。
でも実は生きることはそのような回答のない問いを答えようともがき、これが正解なのかと確信しそうになるところで手の上からこぼれる砂のように、掴んだと思ったその瞬間には答えもまた違うと思い始めてはまた問いを振り返る。そのようなサイクルを生きるということが、生きるということなのではないか、みたいな哲学的な考えが、このワークショップデザインを通して学ぶことかもしれない。

それはソクラテスの「無知の知」に通じるものだ。
自分は知らないということを知っているということが一番強いのだ。このワークショップの講義を通して無知の知を体験している。

そこでソクラテスは問う、なぜ、問うのか。

よりよく生きるため、なんだと。
漫画家の山下和美さんの『不思議な少年(第2巻)』で「ソクラテス」を描いている。これがまた秀逸なので未読の方はぜひとも読んでいただきたい。この中でソクラテスは当時、雄弁だった弁士たちに「それはなぜですか?」と問い続ける。すると答えらないでいる弁士たちはソクラテスを悪者だとレッテルを貼り、コミュニティから異端視させる。牢獄に入れられ、そこで、、、という話だが、この漫画によって僕は生きるということ、人間とは何か、というような根源的な問いが心から浮かんできた。この漫画に出会ったのも、実は僕が大学4年生の時、苅宿研究室のゼミ生だった頃だ。
ゼミの講義で次のゼミの授業までに1人ひとつ、映画を鑑賞してそれを発表する、というもの。そこで苅宿研究室の中にあったDVDを選んでいた時、ふとめに止まった「横浜メリー」という文字。これはなんだろうと思い、ふと手にした。すると、戦後の横浜の町を、1人、ご高齢ながら白塗りをしてワンピースで歩いていた娼婦がいた、というとても興味深い話だった。結局、その時に選んだDVDは想田和弘さんの『精神』という映画で、これもまた僕の考え方、生き方を揺さぶったものとなったが、それでもずっとその後まで「横浜メリー」のことが気になって仕方がなかった。DVDを見ろという話だが、何故かそうすることがなかった。その理由はわからない���、もしかしたらその姿を見ることが少し怖かったのかもしれない。その後、メリーさんのことをさらに知って行くのは結果的にgoogleで検索した時だった。山下和美さんの『不思議な少年(第7巻)』という漫画で”ヨコハマ・リリィ”として題材にされているという。ならばその漫画を読んでみようと買ったのが初めて山下和美さんの作品と出会った瞬間だった。
と、この話をすると、一日が暮れてしまうので、あとは皆さんに山下和美さんの『不思議な少年』を検索していただくことにして...。
授業に戻ります。
絵巻を作る
前回の授業では以下のような絵巻物を作ってもらった。



抜粋で大変恐縮だが、様々なレイヤーワークを施した上でそれぞれの班が自分たちの想像力を生かし、その班特有のやり方でこの授業で学んだことをとても面白く作っていた。

この受講生たちが凄いところのひとつは、既に彼らはこの授業を受けたことで、様々なことを理論的に学んでいるだけでなく、身体的に経験、体験できているということだ。大方の大学の講義では様々な制約からなかなか「体験」をするということが出来ない中、この苅宿研究室のやり方はまずはやってみる、体験してみるということから「学び」は始まると考えているため、どんな状況だろうと、経験をしてもらえる場を提供できるように試みている。
で、これらにはどんなリフレクションがあったのか。


つまりどういうことか。

この代替不可能性という考え方。
10班がそれぞれ、自分たちの特色で作られていた。決して被らなかったことは、皆で被らないように作って、と言われているわけではないのにも関わらず作れちゃう。
それはつまり、こういうことでもある。 この下の問い、「好きな色は何ですか?」という苅宿先生がうんと昔から使っている質問。これは本当にシンプルで良く出来ているから、高知県佐川町にてワークショップデザイナーとして活動をしている大道剛さんも使っていると言っていた。

さぁ、あなたの答えは?
ちなみに僕は青です。
あなたは緑?赤?黄色?それとも紫?
では、

どうですか?
そう、そんな人は、いないんです。
つまり、

この絵巻を作ったことで、何がわかるか。
あなたはあなたのままで既にそれでオッケーなんだということを再認識するワークがこのような絵巻作りワークだったのだ。
それが代替不可能性を肌で体感するという授業だった。
取り扱い説明書をつくろう!

ということで、この授業の次のフェーズ、自分とはどういう人間なのか、それを理解するためにもこういうものを作ってみるワークに入った。
自己紹介、ではなく、
「自分には◯◯な特性があって、◯◯な時は◯◯になります。なのでそう言うときには◯◯してもらえると、◯◯になります。」
というような、◯◯が多過ぎて全く理解が進む書き方ではないので大変申し訳ないが、、、




さて、今度はそれを皆で発表する時間だ。 これは人に伝えることで完結する。
自分を客観的に認識する作業、そしてそれを踏まえた上で他者に自分はこういう特徴がある、ということを伝える。

ちなみにここで前に出て段取りを説明するのがモッチーだ。3人班になってもらってお互いに説明書を伝え合う。その班分け後、この講義の行く末を見届けるモッチー。敏腕ワークショッパーだ。











そしてもうひとつ重要なこととして、この写真からもわかるかもしれないが、実は皆が作業していた机を移動させている。ここも、環境を変える、<場面転換>という手法を用いて、学生たちがその環境に飽きさせないように苅宿先生はデザインをしている。
ひと工夫もふた工夫もするのがこの苅宿研究室だ。
この講義でやっていることはそれぞれの学生が、自分とは何か、他者とは何か、他者を通して自分の多面性に気付き、そこにはどういう意味があるのか、それらを自分で語れるようになってもらったりと社会人になるまでには知っておきたいこと、気付いておきたいことを実践的に学んで経験してもらうことを重要視している。
そこで重要になってくるのが、

ということで、この後に今回はナンジャモンジャゲームというのをやってもらった。
これは、
ロシア生まれの爆笑カードゲーム『ナンジャモンジャ』は、頭と手足だけの謎生物“ナンジャモンジャ”族が描かれたカードが中央の場に次々とめくられるたびに、その人のセンスで特徴を捉えた名前を付け、全員で共有し、以降もし同じものがめくられたらその名前をいち早く叫んで、溜まったカードを獲得し、集めた枚数を競うゲームです。(ナンジャモンジャ日本版公式サイトから拝借。)

遊びには4種類がある。
競争、運、モノマネ、ぐるぐるまわるもの(エンドレス)。
実はこのナンジャモンジャゲームをやってもらって遊んでもらったことも実はデザインされているのだ。ゲームを通して、勝ち負けだけじゃない、盛り上がるデザイン。そこに意味を乗せるということは実はとても難しい。そうなると、意味がないことに価値はないのか。いや、そうではないのだ。
そういうものにこそ今、価値を見出して行かなければどんどん人間の価値基準、判断が狭まって行き、何事も競争思考になりか��ない。そんな風になったら果たして、、、競争に乗り遅れる人はどうすればいいのか。
書いている僕自身なんて真っ先に乗り遅れると思う。 とにかく人のペースに合わせるのが不得手な自分は自分のペースでなければそのうち息苦しくなり、圧死しかねない。だからこそそうならないためにも、自分に色々なチャンネルを用意して、様々な評価基準を自分の中に持ち、多面的な自分のこの面を今発動しよう、等と使い分けられれば、少しかもしれないが、生きやすくなるはずだし、この社会、少なくともこの講義を通った学生たちにはそうあってもらいたい。勝つ必要が有るわけじゃない。負けなければ良いのだ、という発想に近いのかもしれない。
と、大いに盛り上がったところで、今回もポートフォリオ作りに...
しかし、今回はまた新たな道具を、残りこの講義入れて3回しかない中で、この新しい道具を投入して、学生たちのポートフォリオ作りのモチベーションを再度上げさせてもらう。これも苅宿先生の手法だ。




ではまた、次回の講義で。 残すところ、あと2回!!
※そして今回の写真は全て現在大学4年の苅宿研究室ゼミ生、シメジくんとシュンくんがiPhone Xを駆使して撮影している。
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第10回 ”楽しむ”とは何なのか

第10回 ”楽しむ”とは何なのか
2019年6月27日の講義は前回のメディア表現ワークショプの講義を振り返り、「省察」を行った。2019年も6月が終わる、ということはもう半分しか今年が残っていないのだ。といっても大学生が感じている半年と29歳の自分、そのさらに上の苅宿教授などが感じている半年はもっと早いのかもしれない。
まずは受講生たちから毎度、講義後に回収するリフレクションシートからの振り返り。

まさにWANIMAの『やってみよう』。とりあえずやってみることで、なんとか結果は生まれるものだと気付いた学生がいた。

「楽しむ」ことであらゆる可能性を広げるというようなこと。この楽しさの中に苅宿教授は「没入感」っていうものを感じられる、という。自分のやっていることに楽しさを感じ、それに没入することができる。その環境やその個人の資質はどういうところから来るのか。それを皆が自分自身に問えるようになってきている。

問題解決の弱点。それはネガティブな方に、欠点ばかりに目が行ってしまい、それだけで全てが回ってしまうように思考が陥ってしまうことにある。ここから深められるならば、どうしてあるできごとが上手く行ったのか、を考えることなのだと苅宿教授はいう。つまりは良かった点はなんだったのか、を起点に考え、それを伸ばすという方法に近い。そしてとある成果を再現することができるのかどうか、というさらなる問いかけ、研究へと結びつく。
そして講義は次のフェーズへ。苅宿研究室に所属するゼミ生から見た、受講生たちの様相の振り返り。

ここで受講生たちが自分たちを映像で振り返ることであの時、自分はこういうことを発していた、そしてその言葉がその場でどのような役割を果たしたか。それを感覚的にだけでなく、頭で理解することで今後、同じ様な場面に出くわした時に自分が取るべき行動、あるいは発する言葉にまた違う側面をもたらせる。



普段私たちは何気なく会話をしている。意識的にその時に発した言葉がその場でどのように周りに反応されたかということはあまりにも感覚的で後から振り返えらない。こうやって映像で自分を客観的な視点で見つめること意義はとても深い。



また、映像化されると言葉でわかること以外にもわかることが多い。これは重要な点だ。ビジュアルランゲージと呼ばれるもの、非言語的な内容だ。これを元に、苅宿教授がやろうとしている教育:目標に向かって頑張る力、他の人とうまく関わる力、など、テストの点数や既存の成績の付け方では人間は測れないという立脚点から、人として生きて行く力、すなわち非認知的能力を高めるためには何が必要なのかを理解することに役立てようとしている。

次はギャップモニタリングだ。同じグループ内のメンバーにそれぞれがお互いに向けて「◯◯さんはこういう特徴があるよね」ということを、「◯◯さん」の部分を書かずに付箋に書いて行く。最後にその言葉が書かれた付箋を相手にギフトするのだけど、それを誰に向けて書いたのか、受け取る側はこれは自分かな?と予測しなければならない。

一種のゲームみたいなものだ。


そして書き終えたらお互いにそのメッセージ、あるいはギフトが、誰に宛てて書かれたものなのか、を当てて行きます。


お互いに「答え合わせ」の様な時間を作り終えたら今度はそれを今度は自分が思ったこと、感じたことを紙にまとめて行く。

このような作業をやることで、本人も気付かなかった「自分」に気付いて行く。なるほど、自分はこういう風に見られているのか、というように。と、この辺りは実は半年間の講義でこのような自分の中にあるものをあぶり出す作業を繰り返し行っている。

じゃあなんでこういった作業を、苅宿教授の講義では行うのか。先ほどの非認知的能力を高める、ということに尽きるのだけれども、それだけではない。
それを理解して行くためには苅宿教授の「場のデザイン」の視点からを学ぶ必要がある。そしてこの講義は「君たちに役に立つということが大事だと思っていて、講義内で身につけられるものとして、自分がひとに自分とは何者なのかを話す時のエピソードを提供できれば良いなと思っている」と苅宿教授は伝える。

そこでこの講義のミソとして、知識などを頭の中にインプットするよりも、自分たちの中に既にあるものを引き出す、アウトプットをメインに身につけられるようにデザインされている。
「このアウトプットには必ずと言っていい程、他者を必要とする。」
そこで苅宿教授は自分の実践を説明する。
教師はそのような場作りをデザインする側の人間で、この講義を受ける方々はそれを存分に生かして自分というものを探す、見つけることを思いっきりやってくれれば良い、という。
例えば前の講義のリフレクションで「授業内に中だるみが生じてしまったらどうするか」という質問を受け、そこには実はとてつもない微調整をしたりしているのだという種明かしをする。裏でスライドを取り除いたり新たに加えたり、と。時間によってその内容を省くかどうか、学生が今、こっちに熱を持っていそうだったら違うスライドを加えよう、などしている。
そこで講義を面白くできるかどうかも実は受講生が提出するリフレクションシートに懸かっていることを告げる。

そして「私は入れ子構造というものを重視して授業をしている」という。 例えば表現活動をしたらそのあとに省察の時間を設けて、何度も何度も何度も同じ様な作業を繰り返していることに言及する。
これはなぜか。
それは、何度も繰り返しやって行くことで”自分”というものに気付いて行くきっかけを作って行くことに繋がる、ということを苅宿教授は経験的に知っているからこれを好んで取り入れているようだ。
このように、自分の得意技を知って行くことができれば、自分の生き方やものの考え方も変わってくるのだと伝える。

大学の教授になる前、まだ小学校の教師だったとき、NHKに追われていてた時の映像を見せ、あえてここで軽い笑いを取りに行く。というデザインをここで見せる。
つまり、「デザイン」するということはなんなのか。それは、デザイナーと呼ばれるひとたちだけがやるものではない、知らず知らず皆さんもやっているはずで、だけどそれを自覚的に自分自身のものとして扱えるようにして欲しい��だ、と。「場のデザイン」あるいは「学習環境デザイン」というようなことをここで伝える。
「デザインに基礎も応用もなく、私は皆がデザインが好きだ、と、デザインしたいと思ったらもう既に始められるものだと思っている」

苅宿先生も色々なことを試してきたのだ、と。 その成果として書かれている内容がこの紙に少し書かれている。 またこの写真の苅宿先生の後ろのスライドに書かれている、「語れる△」も苅宿先生自身で培ってきた経験に基づくツールだ。
人間が、理解をするということはどういうことか。
そこに没入して行くことに学習が生まれる。この学習観にこそひとつのヒントがあり、これはそれを先ほどの小学校の教員時代の映像に出てくる当時の苅宿先生の時から考え、試行錯誤してきたのだという。

人間、「知りたいと思うことは知りたい」という知的好奇心をどう、さらにその先の知の探求へと結びつけられるのか。学習観と認知科学、非認知的能力を結んだ概要がこの紙に書かれている。
そこでとても重要になってくるものがある。何かというと、受講生から返ってくる「リフレクションシートがこの授業は命で」、「来ているひとたちがどれぐらい満足しているのか、そのリフレクションシートを元に測って」次はこうしようあぁしようと変えている。

これは苅宿教授が小学校の先生だった頃に実践していた時間割だ。学校の授業を通して「自分らしさ」をどうやって獲得して行くのか、ということが苅宿先生のテーマなのかもしれない。

そして「語れる△」の登場だ。 受講学生一人ひとりに語れる△を持ってもらってこれを元に自分を語ってもらう時間だ。
この語れる△は上位概念と下位概念で成り立っている。
例えば上位概念に好きな食べ物「オムライス」を当てはめてみて、下位概念に理由を3つ持ってきてそれがなぜなのか、を語る。単純化した例だが、オムライスが好きな理由は3つあって、ひとつには卵が好き、ふたつ目にはお米が炒められているものが好き、そしてみっつ目にはケチャップが好きで、これらを合せたものは実は和食と洋食の融合でだからオムライスが好き。という帰納法的な答え方だけどもそういった使い方が出来る。
これはロジカルシンキングを図形化して俯瞰してみる、という作業だ。(さらに、何か物事を考える時にモノをいじって考えるということをやってみると以外と思い浮かばなかったことが考えられるかもよ、というきっかけ作りという仕掛けが内包されている。)




そしてそれぞれ、自分のことを語れる△を使って発表して終えたら、今度は今各々が別けられていたグループのキャッチコピーをこの上位概念と下位概念という発想を元に考えてみよう!ということをやる。



その班ごとにキャッチコピーを作ったら今度はそれを違う班の学生たちに発表してもらう。






これも今までの省察でも行ってきたことだけれども、これは今回のブログ内でも取り上げたように、苅宿先生の大好きな入れ子構造の考えのもとたびたび行われている。芸術体験活動をする、省察、その活動はなんだったのか、自分は何をしたのか考える、プレゼンする、そしてそれをまた、芸術体験活動をする、省察、その活動はなんだったのか、自分は何をしたのか考える、、、と繰り返すことで体得して行き、学生たちの既に持っている内発的な発想力や表現力を存分に引き出そうとしている。
そして今日も各自のポートフォリオを完成させて講義終了。


ではまた、次回の講義で。
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第14回 君はこれからどう生きるか
vimeo
第14回 君たちはこれからどう生きるか
2019年7月25日に最終日を迎えました。
この講義を受けてこられた受講生、そしてそれを支えてきたゼミ生を含むスタッフと講義を実施されたアーティストの皆さま、そして苅宿先生、半年間大変お疲れさまでした。
何よりも、この講義が多くの学生にとって、実りあるものであったならば、苅宿研究室のいちスタッフとして幸せです。そしてそれを経て今後の皆さまがどのように生きていかれるか、とても楽しみです。
皆さまのご多幸とご健勝を祈りながら、 ささやかながらその祝福の意味も込めて。
髙橋健太郎
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