#禅駆動
Explore tagged Tumblr posts
Text
臨済禅師は、仏とは何か、決して外に求めてはならないとくり返し説かれました。
自己に本来具わっている清らかな智慧のはたらきこそが仏だと説かれています。
清らかな智慧とは、無分別の智慧だと説いています。
「無分別」というとあまり良い意味のように思わないかもしれません。
『広辞苑』をみても、
「分別のないこと。前後の考えがないこと。思慮のないこと」
という解説があります。
しかしながら、その『広辞苑』にも、仏教語として
「主体と客体の区別を超え、対象を言葉や概念によって把握しないこと。」
という解説もあるのです。
更に『広辞苑』にも「無分別智」という語が「無分別にもとづく智慧。根本智」として解説されています。
では、岩波の『仏教辞典』を見てみますと「無分別」は、
「分別から離れていること。主体と客体を区別し対象を言葉や概念によって分析的に把握しようとしないこと。この無分別による智慧を <無分別智> あるいは <根本智> と呼び、根本智に基づいた上で対象のさまざまなあり方をとらわれなしに知る智慧を <後得智(ごとくち)> と呼ぶ。無分別を実現した心のあり方を <無分別心> という。」
と解説されています。
要するに、「無分別」は仏教では、大切な智慧なのです。
鈴木大拙先生も、この「無分別」の智慧を大切に説かれています。
『東洋的な見方』に次のような一節があります。
「東洋文化の根抵にあるもの」の章で、
「分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの——この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次ヘ次へと発展してゆく。」
と説かれています。
その通りで、分かるということは、分けて知ることです。
「���学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。」
分けてものを見ることが、西洋思想の特徴だと大拙先生は指摘されます。
そして、分けることは、それのみに終わらないのです。更に増幅されてゆくのです。
その様子を大拙先生は、
「それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」
勝者と敗者とが出てくるのです。
ブッダの説かれた通り、
「勝つ者 怨みを招かん 他に敗れたる者 くるしみて臥す」
という世界になります。
更に大拙先生は、
「高い山が自分の面前に突っ立っている、そうすると、その山に登りたいとの気が動く。
いろいろと工夫して、その絶頂をきわめる。そうすると、山を征服したという。
鳥のように大空を駆けまわりたいと考える。
さんざんの計画を立てた後、とうとう鳥以上の飛行能力を発揮するようになり、大西洋などは一日で往復するようになった。
大空を征服したと、その成功を祝う。」
と言います。
そのようにして、次々と文明を発達させてきたのです。そのおかげでお互いの暮らしも便利になりました。
新幹線や飛行機の恩恵を受けています。
しかし、それは良い面ばかりではありません。
大拙先生は、
「この征服欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略主義)の実現となる。自由の一面にはこの性格が見られる。」
と厳しい指摘をされています。
頭を中心にしていると、分別にかたよってしまいます。そこで臍下丹田(せいかたんでん)に氣をおさめて、静かに坐るのです。
無分別のままに、感じるのです。すると、
聞くままに又心なき身にしあれば己なりけり軒の玉水
という歌のように、雨だれの音と自分と隔てがないと感じられるのです。
横田南嶺
無分別 | 臨済宗大本山 円覚寺
2 notes
·
View notes
Text
第13回常陸の国・里山&野外ワークショップ&マインドフルネスアート合宿【初秋特別編】(2023年9月18日-19日 in 茨城県常陸太田)

第13回常陸の国・里山&野外ワークショップ&マインドフルネスアート合宿【初秋特別編】 (2023年9月18日-19日 in 茨城県常陸太田) https://kanglohoops202309.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/690266253005922
今年で12年目を迎えたオープン合宿。今回は、初秋特別編です。「160年の古民家荒蒔邸、300年の菊地邸などの里山古民家、1000年古神社で過ごす心鎮めるマインドフルネス、本格有機農体験、手仕事ワークショップ、深い森と滝散策リトリート、参加者との交流ダイアローグ、創業200年八幡太郎義家ゆかりの湯で心と体を癒すなど、今年もゆったりと過ごす企画にする予定です。
茨城県の常陸の国は、元は日高見国とされていた土地。7世紀に令制国として常陸国が誕生。『常陸国風土記』によれば大化の改新(645年)直後に創設されました。ここは、古い里山だけに多くの文化遺産が残っています。昨年には、NHKの朝ドラマのあの「ひよっこ」の舞台にもなりました。今回は、天候、状態にもよりますが、御岩神社への巡礼も行う予定です。
そして、160年古民家荒蒔邸を拠点に、ゆったりとマインドフルネスな時間を体験をします。地元でも秘境��深い森や滝、古神社でゆっくりと過ごします。また、就農25年目となる布施大樹さんと美木さんご夫妻の経営する有機栽培農園「木の里農園」の有機野菜と共に、夜は本物の火や囲炉裏を囲んだ談義と自分達で仕込んだ自然食を頂き下鼓を打ち、焚火の灯で温まりながら、夜の思い出を刻みます。今も住人が住み続ける300年を超える古民家「菊地邸」(ご主人の話を聴けるかな?)で安土桃山時代の空気を味わいます。
このような素晴らしい里山で2日間共に過ごす程、贅沢な時間はないでしょう。里山の人たちとの交流や自然・大地の恵みを得ながら、ライフコーチ、スピリチュアルカウンセラー、アーティストの森夕花先生と共に人生の本来の目的を思い出し、明日への道を見出したいと考えています。今回も素晴らしい機会となることを確信しています。ご参加をお待ちしております。
主催:カングロ株式会社 HOOPS!事業部 https://www.facebook.com/hoops.kanglo
■旅の案内人: ★マインドフルネス&ライフコーチング担当:森夕花(もりゆうか)先生 ●ライフコーチ/アーティスト/カングロ(株)取締役執行役員、尚美高等音楽学院ピアノ科卒業 京都芸術大学芸術学部卒業。ピアノ、声楽、シナリオ、演劇、ジャズダンス、日本舞踊などの自己表現を通して自分自身を探求する。1993年ドイツ、イタリアへの留学。その後、21世紀に入り、ハワイ、セドナ、インドのアシュラムを巡礼する。心理学、哲学、美学、手相、インド占星術、代替医療(中医学・ヒーリング)などを学び、 ヒーリングカウンセラーとして23年間、企業のライフコーチとして9年間、セッション、研修を行う。現在、「大人のためのアート思考講座」「Philoarts研究会」を主宰。趣味は、声楽、読書、人間観察、そば栽培、ヨガ、瞑想。特技、人・動物の心を読む、直観力、探求。好きな言葉は、「自由」「日日是好日」
★企画&案内人担当:藤井啓人(ちょろお) ●茨城県東海村出身。高卒後、上京し新聞配達をしながら予備校に通い筑波大学に入学。4年間、体育会硬式野球部に所属し選手と2軍監督��経験。1992年に株式会社リクルート入社。12年間、組織・人事コンサルティング事業に従事し、約2000社の企業の変革に携わる。社内表彰制度���全国MVP・部門MVPの受賞計8回。2004年に独立し、事業再生コンサルティングのマネジメントリコンストラクション社を設立。2010年5月カングロ株式会社 代表取締役に就任。独自のサステナビリティ・イノベーティブ・コンサルティング事業を開始。米国で「今最も羨望の注目を浴びる企業」とされるオンライン・リテーラーのザッポス社のハピネス経営、「社員をサーフィンに行かせよう」「レスポンシブルカンパニー」の題材となっているアウトドア用品メーカーの米パタゴニア社を研究し続け、約1000社3000名のビジネスパーソンにセミナーや勉強会等でその真髄を伝えている。2013年には西アフリカのナイジェリア連邦共和国にて合弁会社を設立し、水問題、エネルギー問題、食糧問題、環境問題を日本のテクノロジーで解決するソーシャルビジネス事業も行う。実地の中から発信される指南は、斬新・先駆的でかつパワフルであり、魂を揺さぶるものとなっている。2013年以降、システムD研究会、自転車事故防止委員会、セブメディの会を設立。2015年より同士と共に「懐かしい未来プロジェクト(HOOPS!)」「サステナ塾」を開始し、持続可能な地域社会の実現のために人間本来の役割を思い出すためのあらゆる「体験」の場と機会を提供している。自転車のある生活をこよなく愛し、年間約1万kmを走破する。マラソンランナー、トライアスリート。趣味はゴミ拾い、俺のベランダ菜園。
★有機野菜:木の里農園 http://konosato.com/
■開催日:2023年9月18日(月)- 19日(火)1泊2日 ※下記集合場所に10時頃に集まり、翌日16時頃に現地解散予定です
■集合場所: 道の駅さとみ(茨城県常陸太田市小菅町694-3) http://www.hitachiota-michinoeki.jp/page/dir000003.html
■スケジュールイメージ: ※天候などの状況により変更となる場合があります <8月26日(土)> *10時:集合場所(道の駅さとみ) ※電車組は、JR常磐線東海駅からの送迎有り *10時15分~:手打ち蕎麦ワークショップ *12時~13時:自分の打った蕎麦で昼食&オリエンテーション *13時15分:大中町の荒蒔邸へ移動しチェックイン ・1000年以上前に建立された大中神社にご挨拶 *13時30分~22時頃: ※概ね下記のメニューをゆるりと実施していきます。 ・里美の滝散策(美しい秘境の滝を巡ります) ・300年古民家「菊地邸」訪問 ・全員で夕食準備&自然食料理での夕食&片付け ・荒蒔邸の囲炉裏と焚火を囲んでのダイアローグ(対話) ・横川温泉 中野屋旅館 で入浴(入湯料は個別清算) *22時頃:自由時間 *23時頃:就寝
<8月27日(日)> *06時:起床~朝のさんぽ(朝陽を拝むマインドフルネスウォーク) *07時:全員で朝食準備&朝食(禅イーティング)&片付け *09時~:森夕花先生のマインドフルネスアートセッション *11時~:清掃・片付けをし移動 *12時~:御岩神社巡礼 *14時~:ゆっくり昼食&対話&クロージング *16時頃:解散(電車組は近場のJR常磐線内の駅まで送迎します)
■宿泊場所: 里美 160年古民家の宿「荒蒔邸」 茨城県常陸太田市大中町1547 【地図】https://www.aramakitei.com
■当イベントの参加資格:どなたでもご参加可能です。 お気軽にお申し込みください。以下は参考です。 どなたでもご参加可能です。お気軽にお申し込みください。 ※エコビレッジ、パーマカルチャー、トラジションタウン、半農半X、 スローライフ等に関心のある方 ※マインドフルネス、スピリチュアル、メディテーション、ヨガ、 リトリート等に関心のある方 ※お子様は、小学生高学年以上が良いと思います(過去参加有)。 お子様を同伴されたい方は、事務局に事前にご相談下さい。
■参加料:お一人様 3万800円(税込)※小中大学生は1万5400円(税込) ※上記には、参加費、宿泊費、夕食のBBQ及び翌日の朝食付き代が含まれています (アルコールは最低限用意をしますが、多めに飲まれる方は持参頂いています) ※上記には、交通費、夕・朝食以外の食事、入湯料、工芸料などは含まれておりません ※小中高大生はお一人様半額となります(お子様同伴の方は、事前にご相談下さい) ※必要に応じ、領収書をご用意致します
■注意事項:※必ず目を通しておいて下さい ※コロナ対策のご準備をお願い致します ※当企画は、現地集合・現地解散企画です ※電車組は、JR常磐線「東海駅」にてピックアップ致します ※宿泊は、状況に応じ、女性専用部屋を用意します(枕、敷/掛布団あり) ※横川温泉 中野屋旅館 で入浴(入湯料は500円、個別清算となります) http://www.satomi-nakanoya.com ※工芸ワークショップは「常陸蕎麦・本格手打ち蕎麦教室」を予定(昼食込みで一人2000円程度) ※参加者同士、車での乗り合いをお勧めしております ※参加料は、事前振込制となっております(申込後にお知らせ致します) (前日キャンセルは50%、当日100%のキャンセル料を徴収致します)
■定員:8名限定 ※先着順。定員になり次第締切ります。 ※最小携行人数は5名。参加者が5名を下回る場合、開催を見送る場合があります。 ※小学生未満同伴の場合は、事前にご相談下さい。
■当イベントの申込方法【重要】: ※ 下記をご一読いただきお申込み下さい。 ①下記URLの申込フォームにより正式エントリー 申込フォーム https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSft1YNO6SP4C-YGlgpacoHgGK-wLQ9t-NOybyJuhsVg8sNbjg/viewform
②お申込後、24時間以内に参加受付受領のe-mailを事務局よりご返信させて頂きます。 e-mail: [email protected]
③②の返信メール内にある振込み先に前日までにご入金
(現地でのお支払いも可能です)
④これにて「申込完了」となります。
■協力:木の里農園さん、地元の仲間たち ■主催:カングロ株式会社 HOOPS!事業部 https://www.kanglo.co.jp
3 notes
·
View notes
Text












2015年 06月 07日
真観写房坐禅と上野公園
朝5時半に起きた。
そして僕は、久しぶりに、真観写房では初めて坐禅を1炷した。多分昨年の11月辺りから禅寺には行っていない。師走に入り仕事が急に忙しくなり夜型生活に逆戻りしてしまって今日に至る。
久しぶりの坐禅は気持ち良かった。遠くに車が走る音、そして小鳥のさえずりを聞きながら。自宅坐禅を習慣付けたいと思っている。その第一歩が出来たことは嬉しかった。
歩いてバス停まで。重いバックを背負��て。中身は、電池駆動のアンプ付きスピーカー、小型三脚、Rolleiflex、Canon G12、Victorian masks、シート等々。
9時半のバスに乗り東京駅へ。日曜日のこの便のバスは六本木ヒルズにも寄るが誰も下車しなかった。東京駅に着いてオーストラリア産のワインを購入。そしてDAIMARUに行き、兼ねてから興味があったオーディオショップをチェック。意外と店舗は狭かった。店内にはに入り辛く外から眺めるのみ。
上野駅へ。学生のAから連絡が入った。今日は来れないらしい。僕は、気にしなかった。又の機会に。そして僕は、人で賑わう上野公園の中を歩いて行った。
今日は、Aのボーイフレンド��Sのバースデーパーティー。お花見の様に公園の桜の樹の下でシートを敷いて人が集うのだ。いいね!久しぶりの野外。そしてアイディアがいい。どこかのお店でやる様なパーティーは苦手だ。AとSたちと合流して次第に12.3人の方々がやって来た。会費は、2.500円。本格的な手料理が振る舞われた。塩で覆って焼いた鯛、タイ式生春巻き、海老が入ったパエリヤ、豚のオーブン焼き、ローストポーク?、全粒粉の手作りパン、ショートブレッド、、、そして手作りケーキ。どれも凄く美味しく僕は、久しぶりに手料理を食べ、来ていた人々と話をした。会費の金額は決して高くない。
僕は、持って来た電池駆動のアンプ付きスピーカーにiPhoneを繋げDJ役を勝手に勤めた。それとVictorian masksをみんなに渡し各々マスクを顔にしてもらい写真も撮る。さらにRolleiflex、いわゆるフィルムで集合写真を撮った。全ては、パーティーを盛り上げる為に。喜んで頂いた様で嬉しかった。
お酒もスパークリングワインに始まり、ワイン、イギリスのビール、沢山飲んだ。大きな失態?はしなかったがCanon G12を地べたに落としてしまった。レンズが収納するボディとの間に細かい土が入り込んだが幸いにも大したことはなかった。お酒を飲んでいるとこういうことになる。(苦笑)
AもSも楽しそうだった。僕は、Sに昨日買ったバースデープレゼントを渡した。そしてオーストラリア産のワインも。オーストラリアと言えば、映画「英国王のスピーチ」のオーストラリア人を思い出し、それから話はイギリスの歴史になってSがヘンリー8世の話をしてくれた。かなりイギリスの歴史に残る王だったと知る。イギリス人は、いつも自国の歴史を話してくれる。Sも例外になく。
Aが同居しているNさんとも初めてご対面して色々話が出来た。Nさんはある芸能人に似ていた。パーティーの終わりにはAとNさんが酔っ払いながらもハワイアンダンスを踊って見せてくれた。
風は強かったが光は終始綺麗だった。
日が暮れてパーティーはお開きに。7時を回っていた。僕は、10時のバスを予約していたが、急いで東京駅に向かった。8時のバスに間に合わせる為に。東京駅には余裕で着きバスに乗った。バスの中は混んでいて隣席に女性がいた。
10時過ぎ静岡に着いた。そして僕は、歩いてアトリエまで帰った。
シャワーを浴びて布団に入る。KちゃんとLINEでチャット。今日東京駅に行った際に��く会えるかな?とメッセージを送っておいたが返事が来たのはアトリエに帰って来てからだった。会おう、会おうとやり取りをしているが中々会えない。彼女、どうやらお店の店長になった様だ。それは素晴らしいこと。彼女の人生の一つの開花だ。それじゃあ、忙しいだろう。僕は、気長に待つことにする。
AND SO THE DANCE GOES ON ・・・ ダンスは続く。
0 notes
Text
2023/09/17
一日だけ京都にいた。京都国立近代美術館の展示を見たいと思ったからだった、あまり深いことは考えずに、なんとなくでも興味が湧いたら、それを単なる錯覚だとか抑えずに、とりあえず軽い気持ちで見に行ってみようというモードにあり、それを実行したかった。職場にコロナに感染した人がいて、自分のデスクに近い人だし備品を共用してた人だったので、最近の体調不良からして自分はグレーだと思われるし、今までにあまりない感じの深刻な頭痛がきていつもの薬が効かないということでいよいよこれは、と暗い気分になって仕事を早退した日の夜、22時くらいの夜行バスで向かった。どうもお腹の調子が悪い。でもバスに乗ったら平時の感覚が戻ってきた、たっぷりある移動中に山本精一の本を読もうと思って、財布とかと一緒にリュックに入れた。途中の鮎沢SAは涼しくていい匂いがした、自分の知っている少し昔の夏休みの匂いに近く、下界とは違ってさわやかだった。人の気配がなく、私にはまだ逃げ場があると思える、曇っていて星は見えないけど、この場所は多分自分の味方であり続けてくれるはずだ。途中で酔わない程度に本を読む、やっぱりこの人は頭がおかしい。お腹の調子が悪いしこんな寝不足じゃ、小学生の頃なら吐いていただろう、あんまり眠れないまま5時半に京都駅前に着き、時間的にまだ真っ暗だったら嫌だなと思っていたが思いの外明るくなっていて安心した。国道1号を北へすすみ、日がのぼる頃の鴨川を見たいということでどんどん歩いていった、くるりの「ロックンロール」を聴きながら歩くと歩くスピードと合ってて、人も全然いないし人の匂いも全然なく、空気はすずしく、なんとなく自由って感じがあり気分が良かった。高瀬川を渡り、左にカーブするコンクリートの橋を渡る、急に開けて広い川が見える、東側の山の稜線が朝靄と朝日でぼんやり霞んでいる、いいなあと思う、だんだんお腹が空いてきたけどそのままお寺とか神社に行くのがいいかもと、近くにあった豊国神社を参拝した。そのまま川の東側の小道を北へ進むと良さそうな和菓子屋さんがあったけど朝早すぎてやっていない。五条まで来て、川縁に降りてたもとを歩いていった。白鷺とかゴイサギとかカモとかカラスとかがいる、朝の方が川の水もきれいに見えて断然良い。とにかく朝が早すぎて落ち着けるところがそんなになく、疲れない程度に歩くしかなかった。8時半くらいまでぶらぶらして、期待外れだった朝ご飯のお粥をお腹に押し込み、地下鉄に乗って蹴上まで行き、今度こそ「インクライン」を見るんだと思っていたのに、結局やっぱり「インクライン」がどこにあるかわからず、以前来たのと同じルートで南禅寺に行き、水道橋と、本堂の龍の天井画を見た。もうこの辺りで気温が上がってしぶとい暑さに疲れ始めていた。やっぱり同じルートでそのまま平安神宮の方に琵琶湖疎水の脇を歩いて、美術館についたが微妙に開館まで時間があったので、その辺を一周してから入館。朝早いのに若者が結構きていて京都ヤングの文化程度の高さを感じた。眠すぎて時々急に電池が切れたように意識がブラックアウトする。工芸品が所々ケースなどに入れず直に展示されているので万が一そっち側に倒れ込んじゃったりしたら非常に危ない。何度か前や後ろに倒れそうになりながら、そのため監視員にうっすらマークされながら一個一個見たんだけど、やっぱり時代が新しくなるにつれてつまんないというか、何をこいつらはしたかったんだろう、みたいな気持ちが湧いてきて飽きてしまった。60年代までは工芸品とオブジェの境界に迷うような姿勢が見えて、それが作品に直���してる感じがして良かったけれど。最後の部屋まで来てやっと意識が安定してきたので、また最初の方の部屋に戻って展示のストーリーを確認しながら見た、まあ話は分かったがなんかやっぱりつまらないので、単純にいいと思った展示物だけを見て終了し、コレクション展の階に行くと、やっぱりいい絵があったので、安心した。山崎隆の屏風絵《神仙》、《歴史》、村山知義のリノカット、伊藤久三郎の《人々》。これらを見られただけでも収穫だということにする。広くて明るくて客もあんまりいない、すいすいと自分のペースで回って、気分がいい。正常な空腹を感じたので、ああ自分は元気になったんだと安心し、東山からまた地下鉄で二条城前まで行き、頑張って微妙に体力を消耗する暑さの中を歩いていったのに、ちょっと一人で入るのに勇気が必要なカフェでは、狭い待合スペースにイケイケの若者、いや、文化に明るそうな高踏そうな?若者たちが鮨詰め状態なのが見え、すぐに心が閉じてしまって踵を返した、東西の太い道路を横切って、写真のギャラリーに行って、展示を見て、川崎祐という人の写真集を買った、東京で今個展開催中らしい(知らんかった)。最後にまた鴨川を見たかったけれど東海道新幹線の遅延の報を知り、しょうがないのでもう駅に向かう。やたら店内の暗いコンビニで適当に買ったアイスを食べながら日陰を歩く、どこもめちゃくちゃ混んでいて全ての人を黙らせたい衝動が起こったがナチュラルな関西弁は聞いていてそこまで気分が悪くない。京都駅で家にお土産を買って、結局定刻通りに運行しているらしい「ひかり」に乗る、名古屋まで30分くらい、忙しなさすぎてあんまり感傷?に浸ることもなく、でも夕方の車窓はやっぱり美しく、斜め後ろの座席の家族連れがうるさいな~ってことすら流せるくらい順調、定刻通り名古屋について颯爽と下車したら名古屋はまた死ぬほど人がいて、面食らった。改札近くのトイレも駅ビルのトイレもどこも全然空いてなくて、夕ご飯を買いたかった売店も観光客らしい人たちで大混雑していて、たかが名古屋のくせにと軽くイラついた。やっとのことで名古屋屈指の古い地下街の、そのまた地下(地下駐車場の)のお手洗いで用を足し、普通にバスにも間に合った、隣席は発車時刻ギリギリで乗り込んだ黒人の若いお兄さんだった。一瞬、バスジャックされたりしたらやだなとほんの一瞬思ってしまった(彼は終始、携帯などには一度も触れることなく、黒いリュックを抱えて多分寝ていた)。窓がでかいバスで、サッサカ暮れていく空と、高速の防音壁と、一瞬だけ帰ってきた名古屋の街とをゆったりした気分で眺めた、高速に乗る、というのはどこか、挑むみたいな気持ちになる。これからのとてつもない長い距離と時間に、後ろに去っていく風景に、空の色に、それがすごい好きだった。とてつもなく長い距離、というのが私にとっては重要なのです。とてつもない距離とそれが抱えている時間に次第に倦んでいく感覚さえ自分にとっては。こんなにも離れていたということ。これから離れていくということ、小さくなっていくことの寂しさと安心。夕方の名古屋高速はいい。伊勢湾岸道に入り、羅針盤のアルバムを聴きながらうとうとしていると、早々に「足柄から大井松田まで渋滞25キロ通過60分」の表示を見かけた。終電には間に合うかなと思って途中のSAで悠長にソフトクリーム(静岡茶味)を食べてたら、どんどん渋滞が伸びて40キロとかになっていた。横浜から首都高の入り口までも渋滞が始まってるということで地獄が待ってるらしかった。終電に間に合わなかったら交通費をいっぱいにケチった旅行が丸潰れになる~とか焦り始めていると、いざとなったらなんと父が東京駅まで出動してくれるという連絡が。ありがて〜けどそれもまた問題だよと思う。こんな年齢になった娘などもうどこで痛い目にあっていようがのたれ死んでようが放っておけばいいのにと思う。バスの運転手さんは非常に優秀な人と見えて、比較的空いている道ではちゃんとそれなりのスピードで走っていく。特に工事で端っこの車線が慢���的に通行止めの道でも、ガンガン右車線で飛ばしていき、どんどん後ろへ車が抜かされていくのが面白かった。この快調なスピードの上にいないとわからない音楽ってあるよね、ということで、くるりやスピッツやフジファブリックや奥田民生を聴いた。絶対そうなのだ。おなじみの足柄SAにたどり着くと、またものすごい数の車が集まっていて駐車場はごった返していて交通整理をする警備員さんが怒号ともつかない叫びで駐車できずあぶれた車、というかドライバーをさばいていた。御殿場を過ぎて雨が降ってきたけど、いつの間にか雲が切れて止んでいて、夜空はすごく澄んでいて星がいくつも見えた。こういう経験も、夏休みとか冬休み特有のものだった。渋滞でノロノロ進む車内でまた例の本を開く。人や動物に簡単にすぐ殺意を抱いたりしていて忙しそうで笑える。そもそも自分はこういう文体ににハマるたちだし、かなり真理らしいことを言ってたり考え方の極端さには共感すらしてしまうが、憤りとかマイナス?の力が増大した時の思考の飛躍と行動・言動が怖すぎて(ときどき時代錯誤感もあるし)、この人が父親でなくて本当によかった。歌声がいい、歌詞もいい、ギターもすっごいカッコいい、しかし。で、そんなこんなで終電に間に合うか、間に合わないか本当に微妙な時間になってきていたが、運転手さんの的確でメリハリある優秀な運転のおかげで遅れは1時間弱だった。心身ともにきついこともめちゃ多い仕事とは思うがやっぱり運転がうまい人はかっこいい。あと夜行バスは疲れている時はもちろん基本的には交通手段の選択肢から外すべきだ。どうせ眠れないから。ふらっとどこかへ消えたいと思った時、忙しない旅程を組むと感動する余裕も大して持てず帰ってきたときに何も変わっていない自分にただ、ただただ絶望する。0時前の混んでいる中央線快速、火でもつけたい気持ちに駆られつつ、急に疲労が襲ってきてまた意識がガンガン途切れて忘れたはずの吐き気も出てきて、薄めた地獄みたいだった。
0 notes
Text
真夏の京都巡り。
少しずつ秋の気配がしてきました、時間がたってしまいましたが、8月末の京都巡りの備忘録。
朝一番は龍安寺へ行きました。

いつ以来でしょう。

東から、5、2、3、2、3と15の石が配置された石庭は室町末期に作られたそう。

続いて金閣寺へ。夏の金閣寺は初めてです。

青空の下に光り輝く。

均整のとれたお札引換所。

茶室 夕佳亭の、まる、さんかくの窓。

ここから朝ごはんに向かう。バスに乗り、四条まで。

今回、現在京都の現場で期間常駐されている先輩を訪ねたわけですが、食のセレクトが最高。美味しかった。

このあと歩いて鳩居堂へ向かう。
建築家 内藤廣氏により2020年にリニューアルオープンした鳩居堂本店。

木とスチールの天井。繊細さに圧倒される。

中央のトップライトの光も美しく。

奥に中庭。

続いて、京都市京セラ美術館へ移動。2020年に、京都市美術館がリニューアルオープンしたもの。青木淳氏の設計。

リニューアルの目玉という入り口はスロープになっ��いて、足元にはガラスがリボン状にまわっています。

チケット売り場から階段をあがると、圧巻の大空間。旧大陳列室が大ホールとなって、各所へつながるハブとなっています。

2階から。

美しい。

展示室前の明るい空間は、元中庭が、リニューアルで屋根がかかり内部化されたもの。

京都市美術館時代のままという空間。天井のステンドグラス、床のモザイクタイル、照明器具、装飾の数々、思わず息をのむ。

続いて南禅寺へ向かう。ブルーボトルコーヒーにて途中休憩。

内部。

一息ついたあと、いざ南禅寺へ。

上にあがると、風が涼しい。

水路閣。

小堀遠州の作といわれる大方丈庭園。江戸時代初期の作で、並ぶ石が虎の親子、白石の大海を渡る姿に見立てて「虎の子渡しの庭」ともいわれるそう。

続いて、無鄰庵へ。明治29年に作られた山縣有朋の別荘。
近代日本庭園の先駆者、七代目小川治兵衛による庭は、東山を借景に、琵琶湖疎水を引き込んだ躍動的な新しい庭園観により作られたもの。

鮮やかな緑が美しかったですが、紅葉の季節もきれいだろうなあ。

このあと、三十三間堂に向かうも、数分遅れですでに閉門。残念。そして向かった先は、、、、

路地裏のお好み焼き屋さん。暑い1日のあとの瓶ビールとお好み焼きと焼きそば、最高でした。

久しぶりの京都、気温36℃、夏の京都の洗礼を浴びながら、1日かけてあちこち巡ることができ、楽しく美味しい1日でした。一緒にまわってくれた先輩に大感謝。また行きたいなあ。
1 note
·
View note
Text



2013年 08月 27日
蜂の巣駆除とはるおの眼差し(27 August 2013)
早朝坐禅は、禅寺の都合でお休み。8時に起きた。午後に来る予定の蜂駆除の方は、奥さんを連れて午前中に来てしまった。打ち合わせ通り農薬を使って蜂駆除をした。僕は、茶畑庵の中に待機していたので駆除風景を写真には撮れなかった。しばらくすると蜂駆除の方からお声が掛かり外に出て蜂の巣を見上げて見てみるとごっそりなくなっていた。蜂にしたら大災難。申し訳ない。蜂駆除は、これで終わりではない。数日後にまた農薬をかけて徹底的に駆除をし、その後大工さんを呼んで屋根を剥がしてその中にある蜂の巣を駆除する予定。午後になってから蜂の巣を見てみると蜂の出入りは極端に減った。成功した様だ。今月帰省した時に我が家アルバムを何冊か持って来た。今日の写真は、そのアルバムからの一枚だ。これは、祖父のお寺で行われた正月のお清めの儀式だと思われる。僕は、拡大した写真に写る子供たちの一番右。こういった経験があるからこそ今に繋がっているのだと思う。子供の頃の生活環境は、その人にとって大きな影響を持つのは間違いない。かといってこの時に兄(左から2人目)を含め親戚の子供たちや大人もいるが今現在お寺に通うのはほんの僅かだが。僕には強く影響を与えたわけだ。寺の玄関の中央で頭巾を被っているのが祖父。僕は、いくつだろう?3〜4歳と推測。ということは、1967〜8年頃となる。その頃アメリカで流行っていた音楽、ムーブメントと言えばこれだ。
youtube
日曜日辺りからすっかり秋の気配が近づくいている。夏の様な日差しがあることにはあるが湿気が少なく風も吹いている。過ごし易いのだ。前後するが写真の蜂の死骸は僕が集めて皿に乗せて撮ったもの。写真では見えないが尾部にある針は、とても細いがどの蜂も向き出ていた。後、またCanonG12の調子が悪い。動作不良が時々起こる。再修理をしなければならない。
追記 ブラジルに里帰りしている友人のCとSkypeで話をした。ここ1ヶ月ブラジルのサンパウロに帰っているがとても充実した毎日を送っている様だ。その様子は、Facebookで紹介している。日本の電車は、疲れて寝てる人が多いがブラジルはその反対だと言う。アイキャンイマジン。来年一緒にブラジルに行こうと誘われた。そりゃぁ、行きたいがインドにチェコにブラジルかぁ。世界旅行したいわ。こうして彼女と話しているとくだらない人間関係はきっぱり遠のけた方がいいと実感する。
0 notes
Text
無題
義兄の命日で、事故現場に同行させてもらった。彼女はあらかじめ1週間の休みを取って、丈母と2人で西日本を漫遊していた。坐禅体験とかしたらしい。俺は当日日帰りで、早朝の新幹線で日本列島を下って合流した。350mlの缶ビールを2つだけ空けた。やはり日帰りの岳父もそこへ合流して、4人揃って在来線に乗り換えてさらに小一時間、徐々に口数が減っていく中、緑豊かな山間にある郊外の駅に降りたった。
駅中のファミマでお供物の水や菓子や缶ビールを買い込んで、乗ってきた線路にまっすぐ沿っている坂道を上っていった。ガードレールのない歩道はひび割れて、わずかに陰になっているところに苔類がむしていた。陰湿な6月の陽射しがじりじり蒸し暑かった。あそこだよ、と彼女がいうので目を上げると、すぐ向こうが見通せる短いトンネルがあった。その手前が現場だった。片側二車線の国道で、中央分離帯の縁石にわずかな白い跡が残っている。事故の痕跡だという。
そばの街灯に岳父の設置した花立があって、そこに買ってきた供花を生けるのだが、近づいてみると、配電盤の筐体が大きくひしゃげて、黄色い規制線みたいなテープが何周も巻きつけられていた。新しい事故の跡らしかった。歩道にも削り取られたようなタイヤ痕が残っていた。単車だろうか。義両親は特段そのことには触れず、慣れた手つきで花立を洗浄し、水を入れ替え、供物を並べていく。短い蝋燭と線香を一本焚く。甘い匂いがする。そうしている間にも、すぐそばを猛スピードで車が駆け抜けていく。
道路はトンネル手前の緩やかなカーブを抜けたらほぼまっすぐに伸びて駅の方まで続く急な下り坂で、現場のすぐそばに傾斜8%という標識があった。あとで航空写真を見ると、トンネルの入り口手前からのっぺりした白い文字で速度落せという標示が繰り返されていた。街灯にはスリップ注意という標識があった。去年はなかったよね、と彼女が岳父にいっていた。
義兄の車は何らかのきっかけで短いトンネルの入口でバランスを崩し、最終的に数十メートル先で電柱の支線に後方から乗り上げる形で停止した。致命的だったのは、運転席に横から直撃した街灯だった。午前3時だった。街灯は捥ぎ取られていた。今あるものは事故後に新しく建て直されたもので、その費用は義両親が補償したらしい。
茫然としていると、岳父が淡々と顛末を語ってくれた。直前に義兄の追い抜いたバイクが事故を目撃して、通報してくれたのだと。
*
駅でタクシーを拾って、昼食をとるためにもう少し大きな駅まで移動した。ロータリーの横断歩道で若い男が飛び出してきて、運転手が急ブレーキ踏んで悪態をついた。岳父が、自殺行為ですね、といって笑った。土地の名物を食べた。生ビール2杯飲んだ。
*
現地で義両親とは別れた。来てくれてありがとう、と丈母がいうので、来られて良かったです、と俺は素直にいった。新横浜に帰り着いて、ビアホールで彼女と献杯して、色々話した。
あの場所に行っていつも考えるのはね、と彼女がいった。あの場所に行っていつも考えるのはね、兄が最期に見た景色はこれだったのかっていうこと。
*
今もああやって生々しい事故の跡が新しく増えていたわけで、車もビュンビュン飛ばしてた、事故現場そのものというか、標識ばかり増やして何も対策しない行政とかに対する義憤みたいなものはないの? と俺は思ったことを訊いてみた。
道路のせいとは思わない、あくまで兄がばかをやらかした、と私たちは考えている。と彼女は答えた。私たち、と彼女はいった。
*
兄の声が思い出せないのが嫌なんだよね、といって彼女は目を潤ませた。この日初めて見る彼女の涙だった。忘れていることが年々増えている。バイクの人が通報してくれたことも、岳父の話を聞くまで忘れていた、と。
*
忘れることは、悲しみやトラ���マから人間が立ち直っていくために必要な機能だから、と俺はありきたりなことをいった。しかしまた、思い出すことが供養になる、ということも話した。祖父の十三回忌の時に、坊さんの説法で聞いた話だった。俺はこの考え方を信仰している。リメンバーミーみたいな話だけど。あの場に行って、俺がここにいる意味は何だろう、とずっと考えていた。丈母が立ち尽くして泣いている横顔を見て、俺にできることはマジで何にもないな、とさえ思った。この考えが既に傲慢なんだけど、けど。
*
義兄に会ったことはない。思い浮かべることしかできない。岳父と、丈母と、彼女と、そこへ俺がもう一人加わった。マイナスではないはずだと思いたい。悼む、偲ぶ、思う、祈る、なんでもいいけれど、そうする人間が一人増えた。それだけで良いことだと思いたかった。
50 notes
·
View notes
Text
昭和天皇 佐賀県への御巡幸のお話。
ぜひ読んでみてください。僕は号泣しました。
佐賀県に因通寺というお寺があります。
この寺には、戦争罹災児救護教養の、洗心寮が設置されていました。
洗心寮には、44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児がいました。
この寺の住職:調寛雅(しらべかんが)氏と昭和天皇はあるご縁がありました。そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。
この地域は、共産主義者がたくさんいる地域で、特に敗戦後ですので暴動が起きる可能性がかなりありました。因通寺のある町では陛下の行幸を歓迎する人と反対する人で対立が起きました。
歓迎するのにも命がけの雰囲気です、反対派から何をされるか分からない。
お迎えするのは町長や知事などもである。
ある町長は知事にこう言います。
「知事さん、あなたも、おわかりだろうけど、このたび一天万乗の大君でいらっしゃる天皇陛下がここに来られるんですよ。私も息子を今度の戦争で亡くしましたけれど、おそらく息子は天皇陛下万歳といって死んだにちがいありません。その息子のことを思ってみても、天皇陛下がおいでになるとき、父親である私がどうしてじっとしていることが出来ましょう。
せめて陛下がお出で頂くとき、気持ちよくして下さるよう、みんなでこうして掃除をしているんですよ。
知事さん、心配しなさられでもいいですよ。至誠天に通ずですよ。」
5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。
いろんな想いの群集から、「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がります。
それは、地響きのようでした。陛下は、群集に帽子を振って応えられます。
そして陛下は門前から洗心寮に入られます。子ども達��、それぞれの部屋でお待ちしていました。陛下はそれぞれの部屋を丁寧に足を止められます。
「どこから」
「満州から帰りました」「北朝鮮から帰りました」
「ああ、そう」「おいくつ」
「七つです」「五つです」
「立派にね。元気にね」
一人一人にお声をかけられます。
ひと部屋、ひと部屋と。
そして一番最後の部屋の「禅定の間」に進まれます。
陛下は、その時突然、ある一点を見詰めて佇まれます。
侍従長以下は「何事があったのか」と足を留めます。
しばらくして、陛下は一人の女の子へお顔を近づけられます。
「お父さん。お母さん」と、お尋ねになる。
女の子は、二つの位牌を胸に抱きしめていたのである。
女の子が「はい。これは父と母の位牌です」と、返事します。
「どこで」「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は、引き揚げの途中で、病気で亡くなりました。」
「お淋しい」
「いいえ。淋しいことはありません。私は仏の子どもです。仏の子どもは亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土にま��ったら、きっともう一度会うことが出来るのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そして、そっとお父さんの名前を呼びます。そっと、お母さんの名前を呼びます。するとお父さんも、お母さんも、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるのです。私は淋しいことはありません。私は仏の子どもです。」と答えました。
陛下と女の子は、じっと見つめ合います。
さらに陛下は部屋の中に入られ、右の手に持っていた、帽子を左に持ち替えられ、右手を女の子の頭において、撫でられたのです。
陛下は「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申され大粒の涙をハラハラと流されました。
すると、女の子は「お父さん」と呼ぶのです。
多くの人たちは、言葉無く佇みます。
新聞記者までが、言葉を無くし一緒に涙を流したのです。
孤児院から出られるとき、子ども達が陛下の袖を持ち、「またきてね、お父さん」と言います。
陛下は、流れる涙を隠そうともせず「うん、うん」とうなずかれお別れになられます。
そして後に、一首の歌が届けられました。「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」
調住職はこの昭和天皇陛下のお言葉をみなに響き聞かせようと、この御製を寺の梵鐘に鋳込ませました。
今でも因通寺に行くとこの梵鐘の響きが当たり一帯に響き渡るそうです。
洗心寮を出られたあと、長い坂の下でたくさんの人々が陛下を出迎えます。
陛下は遺族などと一人一人お話になり、進まれます。
その中に若い青年と思われる数十人が一団となり陛下をお待ちしていました。
シベリア抑留の時に徹底的に洗脳され、共産主義国家樹立の為に共産党に入党した者達でありました。
すごい形相でむしろ旗を立てて待ち構えていたのです。
恐れていた事が起こる気配です。
周りの者が陛下をお守りしなければと駆けつける前に陛下は、その者達とお話になられます。
陛下はその者達に深々と頭を下げられます。
「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して深く苦しんで大変であっただろうと思うとき私の胸は痛むだけではなくこのような戦争があったことに対し、深く苦しみを共にするものであります。」
「皆さんは、外国においていろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、新しい方向に進むことを、希望しています。皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」
非常に長いお言葉を述べられます。
陛下の、表情は自愛に溢れるものでした。陛下は、彼らの企みをご存知ない。
陛下の前に、一人の引き揚げ者が、にじり寄ります。
「天皇陛下さま、ありがとうございました。今頂いたお言葉で、私の胸の中は、晴れました。引き揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で、相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。最低の生活に落ち込んだのです。ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったと、思ったことも何度かありました。そして、天皇陛下さまを、恨みました。しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかったのです。天皇陛下さまも、苦しんでいらっしゃることが、今、わかりました。今日から、決して、世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」と言ます。
その時、むしろ旗を持ってすごい形相の男が不意に地面に手をつき泣き伏しました。「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。 俺が間違っておった。俺が誤っておった。」と号泣するのです。
その男の懐には短剣が忍ばせていたのです。泣きじゃくる男に、他の者達も号泣します。
じっと、皆を見詰めて動こうとされない陛下。陛下の、まなざしは深い慈愛に溢れ、お優しい目で見つめられます。三谷侍従長が、ようやく陛下のおそばに来て促されようやく陛下は歩を進められたのです。
陛下が涙を流された時、人々は知りました。陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてお抱え込んでいらっしゃる事を。
陛下は、危険を顧みず全国を御巡幸され続けます。そのお姿に、国民は「一丸となって、共に頑張ろう」と思うのでした。
戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたのです。
晩年、昭和天皇は病床で「もう、駄目か」と言われます。医師たちは、ご自分の命の事かと思いましたが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。
最後の最後まで、国民を御思いになられる陛下でした。
その昭和天皇の御心は、平成5年に今上陛下(今の上皇陛下)によって果たされます。
今上陛下は、歴代天皇初の沖縄ご訪問をなさいました。その時、原稿なしで遺族を前に5分間にわたって、御心のこもったお言葉で語りかけられました。
そのお言葉に、険しい表情であった遺族も「長い間ご苦労様でした、というお言葉をもらったので満足しています。お言葉には戦没者へのいたわりが感じられました。陛下のお言葉でまた一生懸命やろうという気持ちが湧いてきました。」「なぜか泣けて言葉にならなかった。沖縄のことを愛しているのだろうという気持ちがこみ上げてきた」
こうして昭和天皇が昭和21年2月から始められた御巡幸は45年もの月日を経て一区切りがついたのです。
695 notes
·
View notes
Text
2023.2.1 ~ 片江から油山へ
(写真が多いです。)

今日は少し雲が出た。が、しか~し、まぁまぁ暖かい。

片江阿蘇神社の南西側にある「江陽館」(こうようかん・地区の集会所)… 結構立派な施設です。新しく建て替えられる前は福岡藩の藩校「修猷館」が大名から西新に移転した際に不要となった建物を移築したと言う伝統がある(あった)建物らしいです。

阿蘇神社前の小さな祠(河童さま)の後ろから

南片江 ~ 水道みちを跨ぐ上の道、片江新橋そばの阿弥陀堂から

ニャンの進んだ先 ~ 花立地蔵(首切り地蔵)の裏

イタチのような動物もいて、阿弥陀堂から道を渡ってここへやって来てました。

南片江を抜ける水道みち ~ 西向き・梅林方向

南方向へ移動して ~ 油山方向

片江中央公園から ~ 永田池

到着機

何か撮影中

「木の枝葉は演出なのね。」~ ベンチの上に

公園はいろんなエリアがあってめっちゃ広いです。(駐車場はありません。)

油山の中腹にある天福禅寺の本堂前から

イノシシに注意 ~「駆除すんのかぁ…」

片江風致公園から


油山南公園の近くから ~ 到着機

福岡都市高速

2009年の夏、油山・片江展望台で撮影したイノシシ


1 note
·
View note
Text
天皇さまが泣いてござったー「因通寺の女の子」
佐賀県に因通寺というお寺があります。 この寺には、戦争孤児救護教養の、洗心寮が設置されていました。 洗心寮には、44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児がいました。 この寺の住職:調寛雅(しらべかんが)氏と昭和天皇はあるご縁がありました。 そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」 との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。 この地域は、共産主義者がたくさんいる地域で、 特に敗戦後ですので暴動が起きる可能性がかなりありました。 因通寺のある町では陛下の行幸を歓迎する人と反対する人で対立が起きました。 歓迎するのにも命がけの雰囲気です、反対派から何をされるか分からない。 5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。 いろんな想いの群集から、 「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がります。それは、地響きのようでした。 陛下は、群集に帽子を振って応えられます。 そして陛下は門前から洗心寮に入られます。 子ども達は、それぞれの部屋でお待ちしていました。 陛下はそれぞれの部屋を丁寧に足を止められます。 「どこから」 「満州から帰りました」 「北朝鮮から帰りました」 「ああ、そう」 「おいくつ」 「七つです」 「五つです」 「立派にね。元気にね」 一人一人にお声をかけられます。 ひと部屋、ひと部屋と。 そして一番最後の部屋の「禅定の間」に進まれます。 陛下は、その時突然、ある一点を見詰めてたたずまれます。 侍従長以下は 「何事があったのか」と足を留めます。 しばらくして、陛下は一人の女の子へお顔を近づけられます。 「お父さん。お母さん」 と、お尋ねになる。 女の子は、二つの位牌を胸に抱きしめていたのである。 女の子が 「はい。これは父と母の位牌です」 と、返事します。 「どこで」 「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。 母は、引き揚げの途中で、病気で亡くなりました。」 「お淋しい」 「いいえ。淋しいことはありません。 私は仏の子どもです。 仏の子どもは亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土にまいったら、 きっともう一度会うことが出来るのです。 お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。 そして、そっとお父さんの名前を呼びます。 そっと、お母さんの名前を呼びます。 するとお父さんも、お母さんも、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるのです。 私は淋しいことはありません。 私は仏の子どもです。」 と答えました。 陛下と女の子は、じっと見つめ合います。 さらに陛下は部屋の中に入られ、 右の手に持っていた、帽子を左に持ち替えられ、 右手を女の子の頭において、撫でられたのです。 陛下は 「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」 と申され大粒の涙をハラハラと流されました。
すると、女の子は 「お父さん」と呼ぶのです。 多くの人たちは、言葉無くたたずみます。 新聞記者までが、言葉を無くし一緒に涙を流したのです。 孤児院から出られるとき、子ども達が陛下の袖を持ち、 「またきてね、お父さん」と言います。 陛下は、流れる涙を隠そうともせず 「うん、うん」とうなずかれお別れになられます。 そして後に、一首の歌が届けられました。 「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」 調住職はこの昭和天皇陛下のお言葉をみなに響き聞かせようと、この御製を寺の鐘に刻まれました。
今でも因通寺に行くとこの鐘の響きが当たり一帯に響き渡る。 洗心寮を出られたあと、長い坂の下でたくさんの人々が陛下を出迎えます。 陛下は遺族などと一人一人お話になり、進まれます。 その中に若い青年と思われる数十人が一団となり陛下をお待ちしていました。 外国から帰り革命を起こして日本を変えようとしている反天皇の思想を持った過激な活動家達でした。 すごい形相でむしろ旗を立てて待ち構えていたのです。 恐れていた事が起こる気配です。 周りの者が陛下をお守りしなければと駆けつける前に陛下は、 その者達とお話になられます。 陛下はその者達に深々と頭を下げられます。 「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して深く苦しんで大変であっただろうと思うとき 私の胸は痛むだけではなくこのような戦争があったことに対し、深く苦しみを共にするものであります。」 「皆さんは、外国においていろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、 日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、 新しい方向に進むことを、希望しています。 皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」 非常に長いお言葉を述べられます。 陛下の、表情は自愛に溢れるものでした。 陛下は、彼らのたくらみをご存知ない。 陛下の前に、一人の引き揚げ者が、にじり寄ります。 「天皇陛下さま、ありがとうございました。 今頂いたお言葉で、私の胸の中は、晴れました。 引き揚げてきたときは、着の身着のままでした。 外地で、相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、 戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。 最低の生活に落ち込んだのです。 ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったと、思ったことも何度かありました。 そして、天皇陛下さまを、恨みました。 しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかったのです。 天皇陛下さまも、苦しんでいらっしゃることが、今、わかりました。 今日から、決して、世の中を呪いません。 人を恨みません。 天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」 と言ます。 その時、むしろ旗を持ってすごい形相の男が 不意に地面に手をつき泣き伏しました。 「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。 俺が間違っておった。俺があやまっておった。」 と号泣するのです。 その男の懐には短剣が忍ばせていたのです。 泣きじゃくる男に、他の者達も号泣します。 じっと、皆を見詰めて動こうとされない陛下。 陛下の、まなざしは深い慈愛に溢れ、お優しい目で見つめられます。 三谷侍従長が、ようやく陛下のおそばに来て促され ようやく陛下は歩を進められたのです。 陛下が涙を流された時、人々は知りました。 陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてお抱え込んでいらっしゃる事を。 陛下は、危険を顧みず全国津々浦々を御巡幸され続けます。 そのお姿に、国民は敗戦の苦しみを乗り越え 「一丸となって、共に頑張ろう」 と決意したのです。 戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたのです。 https://ameblo.jp/ten4m/entry-12369444772.html
56 notes
·
View notes
Text
地球のケアテイカーになろう/第54回大人のためのSDGs超基礎講座(2024年1月9日)

地球のケアテイカーになろう/第54回大人のためのSDGs超基礎講座(2024年1月9日) チケット https://kanglo-sdgs240109.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/351620600792752
---------------------------
2015年9月25日、国連総会にてSDGsが採択され、あれからすでに8年が経ちました。人類は、21世紀に積み残してしまった地球全体の危機的課題の解決に向けてどれ程前進できたのでしょうか?SDGsは、人類史上初の世界規模における共通目標として始まりました。期限は2030年です。この時までに、人類がこの目標の達成に向けて、どの程度実践できたかによって今後の地球の未来が決定付けられます。もし、うまくいかなければ、地球の未来は確実に悪化の道に向かいます(と多くの科学者が訴えています)。私たち大人は、運よく80年そこそこの人生を得た中の、その一部の期間、危機を体験するだけに留まれますが、これから生まれてくる子供たちにとってはどうでしょうか。
「こんなに辛く厳しい環境ならば、生まれて来なかった方が良かった」 「2020年頃に生きていた大人たちが、何もしなかったことによって、地球がこのようになってしまった」 「責任は誰にあるのか?」と叫ぶことでしょう。
今の大人たちが、今の世の中の現実を受け継ぎ、作り上げてきたという自覚と責任を持ってしたならば、現在のこの地球の有り様に対し、「俺は知らん」「私には関係ない」「もう何もどうすることもできない」と放置をすることが、どれほどまでに罪深きことであるのか。そうした”反省”も込めて、自戒の念を込めて、このSDGs超基礎講座を開催することにしました。2018年頃より、日本においても、小中学、高校、大学にて、SDGsに関する科目や、学科が次々と作られ、基礎的な知識のみならず、自ら課題解決に向けて実践を続ける子供たちが急増しています。その子供たちから、SDGsのことについて尋ねられて、もはや知っているふりや、否定をすることは出来ません。子供たちは、大人たちの振る舞いや言動を見ています。「このあなたたちが作り上げてきた課題ばかりの社会を、どうしていくつもりなのか」と。もう、もはや恥ずかしくて知らんぷりをすることなど、到底出来ません。必要のないプライドを振りかざして、SDGsを否定するのは止めにしませんか?ご一緒にSDGsの真の在り様、そして、これから一人の人間として、何をするべきなのか、ご一緒に考えていきませんか?
(自戒の念を込めて) 藤井啓人
■日程:2024年1月9日(火)20時~22時 〔他開催日程〕※毎月1回~2030年まで継続予定 2024/2/6、3/5、4/2、5/7、6/4、 7/2、8/6、9/3、10/1、11/5、12/3 ※毎回第1火曜20時~を予定 ※変更日程あり
■形式:オンライン(Zoom)
■内容: ・毎回、Today’s themeの内容は、その時の情勢によって変わります。テーマの投げかけを行いますが、教える講座ではなりません。 ※どの回から参加をしても大丈夫な仕立てにしております。 ※SDGsの超基礎情報から最新情報、実践的な事例などを取り扱います。 ※参加者と緩やかにつながり、共助、協働できるコミュニティを少しずつ作っていきます。
■参加費:チケット制 https://kanglo-sdgs240109.peatix.com/view ・1回分チケット:1000円 ・5回分チケット:3500円(1回あたり700円) ・10回分チケット:5000円(1回あたり500円) ※小中高大学、大学院生は無料(無料のチケットでの登録をお願いします) ※チケットは、連続して使う必要はありません。ご都合に合わせて無理なく、ご参加下さい。 ※既に未使用のチケットをお持ちの場合は、主催者に参加の旨、一言お知らせください。
■参加対象: ・どなたもご参加頂けます(SDGs超初級者、初級者向け) ※小中高大学、大学院生も大歓迎 ※大切な家族、お友達、会社の同僚の皆さんもお誘い合わせの上、ご参加ください。
■申し込み方法: ・Peatixよりお申込みを頂くと、ZoomURLが発行されます。 https://kanglo-sdgs240109.peatix.com/view ※できるだけ毎回参加してみてください。やがて、自分自身の中に、何か軸のようなものが出来、判断をする時のモノサシを持てたような実感が生まれてくるでしょう。
■講演登壇者: ★★藤井啓人(ふじいひろと):茨城県東海村出身。高卒後、上京し新聞配達をしながら予備校に通い筑波大学に入学。4年間、体育会硬式野球部に所属し選手と2軍監督を経験。1992年に株式会社リクルート入社。12年間、組織・人事コンサルティング事業に従事し、約2000社の企業の変革に携わる。社内表彰制度で全国MVP・部門MVPの受賞計8回。2004年に独立し、事業再生コンサルティングのマネジメントリコンストラクション社を設立。2010年5月カングロ株式会社 代表取締役に就任。独自のサステナビリティ・イノベーティブ・コンサルティング事業を開始。米国で「今最も羨望の注目を浴びる企業」とされるオンライン・リテーラーのザッポス社のハピネス経営、「社員をサーフィンに行かせよう」「レスポンシブルカンパニー」の題材となっているアウトドア用品メーカーの米パタゴニア社を研究し続け、約1000社3000名のビジネスパーソンにセミナーや勉強会等でその真髄を伝えている。2013年には西アフリカのナイジェリア連邦共和国にて合弁会社を設立し、水問題、エネルギー問題、食糧問題、環境問題を日本のテクノロジーで解決するソーシャルビジネス事業も行う。実地の中から発信される指南は、斬新・先駆的でかつパワフルであり、魂を揺さぶるものとなっている。2013年以降、システムD研究会、自転車事故防止委員会、セブメディの会を設立。2015年より同士と共に「懐かしい未来プロジェクト(HOOPS!)」「サステナ塾」を開始し、持続可能な地域社会の実現のために人間本来の役割を思い出すためのあらゆる「体験」の場と機会を提供している。自転車のある生活をこよなく愛し、年間約1万kmを走破する。マラソンランナー、トライアスリート。趣味はゴミ拾い、ベランダ菜園。
★★森夕花(もりゆうか):横浜生まれ。ドイツのフライブルクに留学中、フライブルグ市の行政と市民による持続可能な世界を目指す社会システムに出会う。その後、ユーゴスラビア紛争で、ドイツに逃れた難民の方々と出会い、罪のない人々の深い悲しみに触れ、生きるとは何か、幸せとは何かを考える大きなきっかけとなる。帰国後、戦争や内乱に巻き込まれ傷ついた子供達を救済するためのNGOドイツ国際平和村の存在を知り、世界の平和と心の癒しに携わることが自分自身の使命と感じ、ヒーリングセンターアルケミストで研鑽を積み、2001年から2008年まで同センターで、ヒーラーとして人間と動物の癒しに携わりながら、講師として後進の指導にあたる。2003年から自らの内面の探求のため、十数回、インドのアシュラムを訪れ、ヒンズー教の聖者より宇宙の真理の教えを受け、様々な神秘的な体験をとおして見えない世界の存在を確信する。また、心理学、仏教の禅、認知行動学、ジョーティッシュ(インド占星術)、メディカルハーブ、中医学などのホリスティック医学を学び研鑽を積む。 2015年1月、カングロ株式会社 執行役員に就任(2017年1月同社取締役に就任)。ライフコーチの他、アリゾナ州セドナにおいて『ビジョンクエスト(自己探求)ツアー』、茨城県常陸の国の『マインドフルネス古民家合宿』など、自然と宇宙との繋がりを取り戻し、古の叡智と共に暮らす生き方を体験し、それぞれが人生のMISSIONとVISIONを思い出す旅の案内人としても活動している。
※【ダイジェスト版動画】講座特別映像をご視聴頂けます: グレートリセットとは何か?/第53回大人のためのSDGs超基礎講座(2023年12月5日) https://youtu.be/x-CW0tPLtzE
戦争が無くならない本当の理由/第52回大人のためのSDGs超基礎講座(2023年11月7日) https://youtu.be/ISZKjSPep0k
変質化した異常火災について/第51回大人のためのSDGs超基礎講座」(2023年10月10日) https://youtu.be/OLS2ds5pwic
2030年に起こることを想像してみよう/第50回Anv.大人のためのSDGs超基礎講座(2023年9月12日) https://youtu.be/ODgY-z-vY0I
SDGsのスーパー事例を集めてみた!/第49回大人のためのSDGs超基礎講座(2023年8月1日) https://youtu.be/pbLHzt08_hU
SDGsはもう終わったのか?SDGsの本当の目的を探る/第48回大人のためのSDGs超基礎講座(2023年7月4日) https://youtu.be/lXrA8KV88zY
Wind(風)について考える~風の神秘/第47回大人のためのSDGs超基礎講座(2023年6月13日) https://youtu.be/QtDcfxztkWE
Fire(火)について考える~火の神秘/第46回大人のためのSDGs超基礎講座(2023年5月2日) https://youtu.be/owWgezVx46g
Soil(土)ついて考える~土壌の神秘/第45回大人のためのSDGs超基礎講座(2023年4月4日) https://youtu.be/f3IQ7Y7CVo8
Water(水)について考える「第4の水の相」の神秘/第44回大人のためのSDGs超基礎講座(2023年3月7日) https://youtu.be/VBB9A5qC-7c
「宇宙開発の真実/なぜ今、加速化する宇宙開発?」第43回大人のためのSDGs超基礎講座(2023年2月7日) https://youtu.be/LaOkFIBHW98
「超メタバース社会を検証する~私たちは異次元を受け入れるのか」第42回大人のためのSDGs超基礎講座(2023年1月17日) https://youtu.be/9SD6WBMxKfE
「COP27を検証する~もう私たちは間に合わないのか」第41回大人のためのSDGs超基礎講座(2022年12月13日) https://youtu.be/R_ceFx0TbOw
「総貧困化社会~私は大丈夫の妄信」第40回Aniv.大人のためのSDGs超基礎講座(2022年11月1日) https://youtu.be/7Y0gZwjylak
「大災害が来る~何を心得、何を備えるべきか?」第39回大人のためのSDGs超基礎講座(2022年10月4日) https://youtu.be/NsEv0mQfvQs
「核兵器~人類は、また使うのか?」第38回大人のためのSDGs超基礎講座(2022年9月6日) https://youtu.be/TtxvRAm7m3g
「超脱炭素社会の到来~本当の目的とは何なのか」第37回大人のためのSDGs超基礎講座(2022年8月9日) https://youtu.be/FPKsy4HS7u8
「超食糧危機に備えよ~食糧危機キャンペーンの真実」第36回大人のためのSDGs超基礎講座(2022年7月12日) https://youtu.be/LO4iQL9YcfA
「人と人との関係を考える~人と人が支え合い生きていくこととは」第35回大人のためのSDGs超基礎講座(2022年6月14日)SDレポート2022/アリストテレス/���独死/退職理由 https://youtu.be/OyxWiEGPGfw
「働き甲斐とは何かを考える~人は何故にはたらくのか」第34回大人のためのSDGs超基礎講座(2022年5月10日)ディーセントワーク/ILO/フアン・ソマビア/インド・パキスタン熱波 https://youtu.be/emPiTtkimPA
「本当の健康を考える~人は何故に生きるのか」第33回大人のためのSDGs超基礎講座(2022年4月12日)国際連合/WHO/天然痘/ポリオ/多剤耐性菌/医療化問題/過剰医療問題 https://youtu.be/B_h6wRitTbY
「生命活動の源であるエネルギーのことを考える」第32回大人のためのSDGs超基礎講座(2022年3月8日)https://youtu.be/A4CxeazfnxE
「地球の空気の奇跡を知る~あなたが知らない空気の話」第31回大人のためのSDGs超基礎講座(2022年2月8日) https://youtu.be/LtJIbXfR_I0
「質の高い教育とは一体何か?本質に迫る」第30回Anv.大人のためのSDGs超基礎講座(2022年1月11日) https://youtu.be/XP129td-nU0
フルバージョン動画はこちらで視聴頂けます。大人のためのSDGs超基礎講座・全アーカイブ動画集(有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/kanglosdgs
■企画・運営:SDGs超実践者委員会(SSPC)、カングロ株式会社 https://www.kanglo.co.jp/ 協力:サステナ塾/システムD研究会/イノベーションサロンZ/ショック・コヒーレント・イノベーション・クラブ/フィロアーツ研究会
1 note
·
View note
Text








お腹がゆるい
Tuesday, 25 February 2025
4時20分起床、坐禅。 散歩は後回し。 母、まだ調子悪し。薬抜きとデーサービスの疲労のせいか。 早く良くなれ。
YYKヘ。抗酸化陶板浴をしてから若石リフレクソロジー。息子先生の施術とおしゃべりは楽しい。 午後、YYKヘ。波動のおじさんからの情報で「豊田健康生活センター」の存在を知る。今度行ってみよう。 母、夕食は食べれた。母の好きなお雑煮を作った。僕も今日は、昼夜と二食食べた。 お腹がゆるい。トイレに何度も駆け込む。 何故だ?
And so, the dance goes on...
0 notes
Text



2013年 08月 25日
黄色スズメバチ(25 August 2013)
今日は、組の仕事で公民館の清掃だった。朝8時から約1時間。雨の中汗だくでタケボウキで落ち葉を掃いた。この掃除に参加しないと罰金を取られる。厄介な問題が浮上している。それは、茶畑庵に住み着いた蜂の巣。隣家にも迷惑になるので早めに退治しなければならない。昨日大家に相談し今日、大家立ち会いのもと、蜂駆除の方と大工さんも来て頂いて相談をした。ここ数日蜂が茶畑庵に侵入。蜂には申し訳ないがキンチョールで殺虫している。蜂は、黄色スズメバチと判明。蜂の中でも獰猛らしい。怖いよ〜。フードケイタリングした時のキャンプ道具の後片付けを今日全て終えた。今日坐禅に来たかったが公民館の清掃もあったし数日の疲れが酷かったので諦めた。兄と電話で話した。兄は、僕にパソコンの使い方についての相談。僕は、ここ最近気付いたカースピーカーの音割れを相談した。音割れしているスピーカーは、ゴールデンウィークに帰省した際、実家近くのイエローハットで買ったばかりのスピーカーだったので保証書もあり裾野のイエローハットで修理依頼をしてもらおうと考えた。その為にスピーカーを外そうとしたがスピーカーの設置場所がフロントガラスの近くで僕の持っているドライバーでは長過ぎて短いドライバーが必要だった。なのでホームセンターに短いドライバーを買って早速スピーカーの取り外しを試みるとネジが車の振動で緩んでいた。それが音割れの原因と気付きネジをしっかり締め直すと音割れは、なくなって一件落着。今日は、朝は雨だったがお昼頃には止んで風が吹き湿気も少なく過ごし易かった。秋が近づいているのだろう。
0 notes
Text
210118 燃えるような社会悪への怒り、燃えるような金稼ぎ、そこへ身を投じがたい私
今日はかなり抽象的なことを考えた。数年前までは気楽なノンポリでいられた私だが、最近は書店の平積みや、知人との会話や、各種SNSを見るだに、まあ色々あるよね&その中でまあ稼いでいければいっか&ていうかそれさえ大変なんだが…というような態度はのんきすぎるか相対主義か社会悪のはびこる現状追認と指弾されるものなのかも…という気になってきた。
わしは社会の中の悪を憎むべきと思う。とりあえず便宜的に、悪を排除すべきものと定義するなら、悪が存在することで利益を得ている人がいるから…とか、悪も必要…みたいなことは言い訳にならない。悪を同定し、駆逐する方法を考えていきたい。少なくとも、生活の中で悪の香りがした時に意識できた方がいいと思う。そしてそれを仕事にできたらなおいい。法律家でもいいし、政治や法や倫理の研究者でもいい。活動家でも治安維持の専門家でも慈善事業家でも宗教家でもいい。
問題はそうストレートにいかない場合だ。私は悪を憎むが、フルタイムで悪を憎むことはできない。「フルタイムで」というのはつまり、悪を憎むことが正しく、なすべきことで、それに人生を費やそうにも、私には別のやりたいことがあって、時間と注意力の総量が足りない、ということだ。
昨年、京都で友禅の人間国宝、森口邦彦の展覧会を見た。会場には森口がきものを制作している映像もあった。お年は召されているが、なかなか屈託のない顔をしてらっしゃる。インタビューで原料が不足している染料のこととかについても仰っているし、鈴田滋人との対談では公募展のことについても意志を示しておられる。ただ映像を見ていると、そういうこともあるが、彼はただとにかく無心に屈託なく下図を描いたり、糊を蒔いたり、染めたり、という友禅の制作作業をしていたい、それが根深く淡々と人生の髄にある人なのだ……という感じがものすごくした。
わしも、ブログを書いたり、いろんな報道を読んで批評的に何かを考えようと試みたりすることもある。でもそれよりも古く深く太く、��生を占めるものがある。家でコーヒーを飲んだりしながら、一人で誰にも話しかけられず、いろんな形の文字をかき続ける、というのがわしの人生の(楽しみの)コアなのだ。もちろんそれは「他のことを考えるのは嫌で、本当はそれだけやっていたい」ということではない。金勘定も好きだし、顧客と打ち合わせするのも大好きだ。しかし、家で一人で字をやることだけは、それがないと人生ではなくなることというか、何かに替えられないものである。それが後の仕事に使えるデザインボキャブラリーの開発の場だから、カレンダーが売れないと収入が減るから、という理由ではない。なんというか…おそらく森口邦彦にとっての友禅制作の全工程のような、固有の喜び、生きがい、人生の基礎、精神的な面で必要な習性みたいなもの。
同じことを、西尾さんと話している時も思った。鳥公園は目下、どうすれば持続的に創作を続けられるか、とくに経済・組織のマネジメントの面で…ということについてずっともがいている。西尾さんは観察力と、そこから違和感を感じ取る能力がずば抜けているから、俳優の権利、劇団における収益の分配、子育てをしながら創作すること、などさまざまな問題について意識的である。そのどれも重要な問題だ。しかし鳥公園は役所や文化財団やNPOや経営コンサルみたいにそういうことを解決するための組織ではない。劇団は創作のためのもので、何より西尾さんがしたいことや得意なことは、社会的な活動やファンドレイジングや啓蒙活動そのものだけではないはずなんじゃないか、と思う。創作が劇作家の西尾さんの基盤にこの十数年あったし、それは変わらないものなのではないか。西尾さんて東大文1出身らしい(この事実にウケたので何度でも言及するわし…)から文化行政に関わる官僚になった未来もあったはずだが、そうならなかったのだから。
これは、じゃあ官僚になればよかったじゃん、おとなしく劇作品書いてろよ、と言っているのではない。この惣田さんの嘆きを読んで思った。社会悪への怒りに対し、そんなものは無意味だ、前も聞いた、怒ってても仕方ない、いい加減感情的になってないで冷静に行動すれば?そんな言ってるなら選挙出ればいいじゃん、という醒めた言葉というか冷笑、わしも虫唾が走るほど。それは恋愛で不幸になった人間に対し、こうこうすればよかったじゃん、あるいは自分で不幸になりたくてやってんでしょ、というのと同じ。
社会悪への怒り、是正せねばと思っている人間、もしかしたらそれは本当に愚かしい場合もあるかもしれないが、人がどうこう言うことではない。しかしおそらく、なぜある種の者たちが上記のような冷笑的な言葉を繰り出してくるかと言えば、それは自分自信が素直に社会悪への怒りを燃やすことができないからなのではないかと思う。
問題は再び、そこへ身を投じられず、正直…興味ないんですけど…と思いつつ、若干自分でもそれを後ろめたく感じるそういう者たち(わし含)についてである。
そこで、以下のように思った。私は悪について考えるとき、何よりも人間的に考えたい。社会悪を憎む私と、字をやることをかけがえない喜びとする私とが、統合されたものとしてのアイデアを考えたい。
例えば、デザインや文字をやることを社会悪との戦いに役立ててみては?プラカードを書くとかあるじゃん!と言われても、それは後者の私が前者の私に雇用されているということであって、なんで一人の人間がわざわざ分裂して、しかも片方は頭空っぽにして役割分担するみたいな面倒臭いことをせんといかんのじゃ、という気がする。あるいはそんな深く考えずに、仕事の時は仕事、そうじゃない時はパートタイムで正しいことをする、でいいじゃん、というのは全くの組織労働者の行動であり、雇用契約に縛られない心の中までそうなってどうすると思うし、自分の中に自分で責任の取れない領域が発生していると思う。雇用とか職場とプライベートの分別みたいな、ある意味非人間的な概念のメタファーを使っていては、私は統合された人格がものを考えられているとは言えないと思う。
だからそれがどうにかならないうちは、悪や正義について、全人的に実感を持って考えることは難しい。そしてそうしているうちに時間切れになって人類滅亡…となりかねない。それは困る。
でもこれが、わしが実感を持って憎んでいる種類の社会悪であれば、おそらく仕事を通じてもそれを表現することができる。その一つは、個人が自由な人生の喜びを味わうことを妨害するように作用する悪だ。例えばあるイデオロギーのもと個人のてんでに発展するはずの関心を抑えることや、娯楽が他者(特に営利組織)から供給されるものに限定された環境が気づかずに作られることなど。
それからかわいい赤ちゃん、かわいくない赤ちゃんに限らず、すべての赤ちゃんへの暴力も、わしが実感をもって憎む悪だ。そういう実感は、確実に私が文字をやるときの意識(自由や、せせこましくないものを尊重する気持ち)と関係している。
だから、わたしは社会正義について考えるとき、本当はその大小は気にした方がいいとは思うが、それよりも自分の実感していることを軸にしか考えられないのだ…。そういう点で、正直、今すごく話題にはなってる社会悪のうちいくつかには、自分でも非情と思えるほど興味がない。
それは理性や想像力の放棄と言えるかもしれないが、正直それが私の限界である。大事なのはこの限界について意識的であることだと思う。自分の実感の外にも社会は広がり、そこにも正義と悪とその混淆がある、という慎みというか…。
話は変わるが、さっきこの動画とこの動画を見てマジでびっくりした。Marukidoさんという方について、失礼ながらZoom GalsのPVで「初めてなの?チャH…」とユラユラしながら仰っている方という認識しかなかったが、今まで手広くビジネスを手掛けてらした方だと初めて知った。30代で1億めざすって…。年収約400万という日本の同年代の中央値にピッタリハマり、金融資産ない単身世帯としては貯蓄額もド平均な私。Marukidoさんみたいに稼ぎて〜と一瞬血迷ったが、ふとこれも同じ問題だな、と思った。つまり金を稼ぐことに人生を捧げれば、もしかしたら5年内に年収1億に届くのかもしれない。でも多くの人がそうはいかず、そしてもちろんわしもそれが絶対に無理だとわかるのは、それよりも自分にしかできず、自分だけが感じられるかけがえのない仕事があり、それがなくなっては自分の人生ではなくなるが、しかしそれに全然収益性がないからだ。そして繰り返すように社会的正義における正当性もない。
ともかくそうやって多くの人はまっすぐに正義の闘士や財産家となることを阻まれるのだ。正義、財産ともに、それと接続できる種類の生来の喜びをもつ人もいるが、ほとんどの人はそうでないから。人間には固有にやりたいことがあり、それはおそらく正しいとか儲かるとかいう次元よりもより基礎的、より古層の、人格から消したり分離できない位置に存在するのではなかろうか。そして自分の人格を無視して悪に対しても、人間が悪に対したことにはならない。その単純なことが現実であって、動かせない事実である…とわしは思う。正義や金稼ぎについて考えるとき、まずそれを前提に考えないと現実的ではない。
5 notes
·
View notes
Photo
国宝・瑞龍寺(富山)韋駄天立像
今年の正月頃、瑞龍寺で撮った韋駄天。
韋駄天は禅宗寺院の厨房や僧坊を守る護法神で、四天王直下・三十二将中の首位を占める天部の仏神です。
細かな彫刻が恐ろしいくらいリアルで今にも動き出しそうなその姿。
京都・宇治にある万福寺の韋駄天像と類似点が多いことから、中国から渡来した仏師・范道生(はんどうせい)の作とみられています。
仏舎利(釈迦の遺骨)を盗んだ鬼から俊足(韋駄天走り)で取り戻した武神であり、食の神でもある韋駄天。
お寺の目��つところに韋駄天が祀られていれば、そのお寺は臨済宗や曹洞宗の禅寺(禅宗の寺院)だということがわかります。
韋駄天が釈迦のために方々を駆け巡って食物を集めたとの俗信に由来して、「御馳走(ごちそう)」という言葉が生まれたことはよく知られています。
「ごちそうさま」という言葉は仏教用語で、食事を用意してくれた人に「 韋駄天のように馳走して食事を用意してくれてありがとうございます」と感謝の気持ちを現す言葉としての意味があります。
ただ食べ物のみを指すのではなく、その食べ物を作るための努力も含めて「御馳走」と言います。
69 notes
·
View notes
Text
第25回露新軽口噺@動楽亭

露の新治・新幸師弟の研鑽の場である「露新軽口噺」、8月はお休みいただいて本日(9/11)が25回目となりました。何処に行っても「三密対策」は当然ですが、不安が全くないとは言えません。しかし、新治さんの「七十歳・七十席」の満願を何としても自分の目で確認したいとの思いから、今日も夫婦で伺いました。
「崇禅寺馬場」露の新治(25分)
五郎兵衛がこんな噺もやっていたのかというところをお聴きいただきます・・・と、お、ネタおろしですね。喜六が甚兵衛宅を訪れるという定番の幕開け、仕事を世話すると言うところから「あれ、道具屋?」と思わせながら、喜六に手伝わせるという仕事が何と「追い剥ぎ」。ここで「崇禅寺馬場」という噺と気づきましたが、何しろ口演は聴いたことがありません。二人組が追い剥ぎを働くというのは東京の「鈴ヶ森」と同じ趣向です。実際にあった敵討ちと返り討ち、浄瑠璃になり映画にもよく取り上げられているようです。モノクロ・サイレントのドタバタ映像を勝手に頭に浮かべながら、楽しませていただきました。
「鉄砲勇助」露の新幸(13分)
一席目が終わり、新治さんが座布団を返してメクリを・・・、あれ、メクリ台を裏返したままで新幸さんが登場しました。頭を下げて先ず言い訳、メクリを忘れる、チラシの印刷を間違う、楽屋番でミスをする・・・。あれもこれも、コロナの影響ということで、あまり気になさらずに(笑)。ネタはお馴染みの嘘のオンパレード、何度も聴いていますが自分なりの工夫・表現が随所にあってすっかり身体に入った噺となっていますね。次回はネタおろしを期待したいと思います。
「たちぎれ」露の新治(44分)
一席目で「寄席では有り得ないネタの選定・配列をお詫びします」とのことでしたが、「七十歳・七十席」にむけてのラストスパート、何としてもリストに入れなければならないネタの選定ということでしょう。
新治さんの口演としては、ももやま亭復活祭! 秋の陣(2016年10月30日)で初めて、そして私個人はそれ一回きりですね。米朝の演出に馴染んだ私には、とても新鮮に楽しませていただきました。同じ噺でも、一門・演者の工夫が重なって多様な輝きを見せるという、まさにいまに生きる古典であろうと思います。
新治さんの魅力の1つは丁寧な所作、若旦那が蔵を出てすぐに「紀ノ庄」に駆けつける、互いに事情を納得して仏前で盃を受ける。目線、襟元、手の動き・・・、あたかも自分が(行ったことのない)置屋で盃を受けているような気分になります。下座の連携と相まって、上質な上方落語の世界を堪能させていただきました。
仲入り
いつもなら写真撮影タイムとなるのですが、今回はなし。
「大丸屋騒動」露の新治(43分)
マクラで「肥後守」が登場したので、まさかと思っていると何とこのネタに入りました。初めて聴いたのは「第3回太陽と月落語会」(2016年6月11日)、私が露の新治という落語家に出会うきっかけになった噺でもあります。少し長くなりますが、過去記事から引用させていただきます。
「大丸屋騒動」というネタは、私にとっては特別なネタなのです。桂米朝師が1975年に出版された『落語と私』、その中で「むずかしい大ネタ」の例として「たちぎれ」「百年目」「菊江仏壇」とともにこの噺を挙げ、なかんずく、「誰にもやれない噺」という説明をしておられます。
簡単に言えば、耳で聴いても分かるネタと目で観なければ分からないネタがあり、「大丸屋騒動」は視覚的演出が出来なければ「たいした落語でも何でもなくなってしまう」ほど「むずかしい」落語なのです。
それ以降、他の噺はともかく「大丸屋騒動」に出会う機会がないまま時は過ぎ、私自身も落語から縁遠くなることとなり、今の職場に移って(=関西に戻って)からの落語との復縁。
その「大ネタ」を、露の新治さんが披露されたのが2013年6月の三田落語会でのこと、その時の落語ファンのブログを拝見して以来、新治さんとのご縁ができたのでした。大学入学直後に本で出会った「大丸屋騒動」、40年の時を経てやっと眼前にすることできたのです。
二回目は、「ももやま亭春の陣」(2017年4月30日)でした。その時の印象を、やはり過去記事から引用させていただきます。
「40年越しの再会」を果たしたのは昨年6月のこと、一週間前には「檀王法輪寺」にもお詣りして今日に備えました。
今回はプログラムに加えて、この噺の舞台を描いた地図が配布されています。京都に縁の薄い方には大変参考になりますね、ご配慮に感謝。
三条木屋町に謹慎中の宗三郎、番頭の喜助と柳陰で涼をとっているところへ三味線と唄で「京の四季」、それにあわせて東山の情景を描き出す。ハメモノが見事に効果を発揮するいいシーンですね。
話の流れから、番頭の喜助をだまして祇園富永町の「おとき」のもとへ。つれない対応に業を煮やして「村正」を抜いて鞘ごと切りつける、鞘が走って本当に殺してしまう・・・。この場面、羽織をつかった見事な芝居がかり、切り下ろした右腕からスッと羽織が落ちる・・・新治さん、いつみても所作が綺麗です。
「妖刀村正」に操られるように四条から真葛が原、惨劇の終盤に兄の宗兵衛が登場して弟を取り押さえてのサゲ。観客は戸外の暑さを忘れ、悲劇の世界に引き込まれておりました。
今夜の新治さん、一席目の「たちぎれ」をつかみこむ余裕の演出。羽織の使い方も相変わらず見事、お家芸を存分に演じていただきました。
次回は10月9日(金)、予約は<まいどおおきに露の新治です>までお願いします。
2 notes
·
View notes