#結婚式二次会
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私立K高校にまつわる怪談話を、そう言えば親父から聞いたなと、貢は思い出した。理事長室の本棚にある「我が学園の歴史 ◯◯周年記念号」と節目ごとにまとめられ、今でもOBであれば購入が可能とされている記念誌を眺めながら、彼は例の事件について書かれた記載に目が留まった。その記念誌には一行ぐらいしか書かれておらず、
「まァ、都合の悪いことは書かないだろうな…」
と貢は思ったが、たまたまその隣に操が書いた日記があった。操は、その日にあった出来事をまめに記録する性格だった。「ケセラセラ」に生きてきた貢とは違っていた。
「へぇ〜、こんなの付けてたンだ」
と彼はそう思いながら、「一九七八年」とテプラで貼られたその日記の頁を開いた。事件が起きる前、何度か操は他の教師からその生徒について話を聞いている様だった。
“���月十日
校長の杉山先生から、「堀川啓介」という男子生徒がよからぬいじめを受けているとの話を聞いた。「よからぬ」とは、流石に全くの「ノンケ」である杉山先生にとってはケツの谷間を両手で覆いたくなる様なものらしい。オレにとっては逆に「おっ広げ」になりたくなるが…。
啓介君は、両親が教育熱心なのか必ず国立T大に合格させたいという思いが強く、比較的、国公立大学への進学率が良いウチに入学「させられた」様だが、オレにしてみれば馬鹿馬鹿しい。人生八十年と言われるご時世に、大学だけでその先の人生なンて決まるとは限らないと思う。
しかし、その啓介君、ウチに来たことで「ホモ」の洗礼を受けただけでなく、凌辱されることに快感を得てしまった様だと、杉山先生。ある夕方、たまたま浴室を見回った時に彼がブリーフ一丁で脱衣場の鏡の前に立っていたが、背中にあちこち鞭打たれた様な跡があり、思わず声をかけたそうだが、彼曰く、
「校長先生、父さんや母さんには黙ってて! オレ、縄で絞められるのが好きなンだ…。快感なの! これでイッちゃうの! 勉強勉強って、オレ、おかしくなっちゃうよ!」
彼はそう訴えながら杉山先生に抱きつき、号泣したらしい。
嗚呼、そんなに追い詰められるのなら、いっそのこと、新宿二丁目や上野の入谷などで男娼をしていた方が幸福なンじゃないか? オレだったら、啓介君を優しくしてあげたい”
“七月一日
たまたま、オレが寮の当直をすることになった。まァ、久しぶりに生徒らとアハハオホホとやってもイイだろう。
その二日目、ちょうど昨夜だが人気がない筈の浴室に誰かがいたのでそっとサッシを開けてみると、其処には全裸の啓介君がいた。やはり背中や胸には鞭打たれた跡があり、痛々しかった。しかも、その日は首筋に「キスマーク」もあり、余程凌辱されたのだなと思った。彼はブリーフを穿くと軟膏を手の届くところに塗り、時折首筋にできたキスマークに触れた。彼は微笑を浮かべ、
「…もっと欲しいよ」
と呟いた。まるで、情事の後に独り残された娼婦の様だった。オレは彼を好いてしまった。そんなオレに彼は気付いていたのか、サッシの方を振り向いた。
「だ、誰ッ!?」
オレは仕方なく脱衣場の中に入った。理事長だと判ると、彼は顔を赤らめながら慌ててTシャツを着た。彼は言った。
「何故、理事長先生が!?」
恐らく、始業式や終業式の時にオレは必ず挨拶をするから顔を憶えていたのだろう。まさか、理事長でさえ寮の当直をするのかと、彼は疑ったに違いない。オレは、
「大丈夫、今週だけ当直に入っただけだから。杉山校長からは、君のことは聞いているよ。縄に絞められるのが快感なンだろ?」
と聞いた。彼は不安気な表情を見せてはいたが、頷いた。
「…快感でたまらないンです」
オレは、どうかしていたのかもしれない。何故かそのまま彼を抱きしめたのだ。優しくしてあげなければならない気がしたのだ。
その夜、当直室でオレは啓介君を愛した。鞭打たれた跡に皆キスをし、そのうちに彼も涙を流しながら、
「嗚呼、愛されてる…」
と言葉を漏らした。オレは、
「凌辱だけが快感を得る手立てではないよ。君は優しく愛されたいンだ」
と唇を奪った。
次第に、彼はオレを強く求める様になり、オルガズムに達した。オレの内腿の間に下半身を挟め、愛液が二人の下腹部に跳び散った。
「…啓介君、君が好きだ」
気分は、アダムとエバの様な感覚だった。教育者とその教え子という関係を逸脱し、オレは一人の男子として彼を愛してしまったのだ。もはや後戻りはできない。このまま「世間体」と言う名の境界を越え、何処かへ逃亡しようかとも思った。彼は、
「理事長先生…」
とオレの頬に触れ、そっとキスをした。
情事は、夜明けまで続いた”
“七月二一日
この日は終業式だった。ほぼ全員の生徒が帰省していく中、啓介君だけが寮にとどまっていた。彼は怯えていた。担任の山本先生が彼の両親に事情を離したが、特に母親は猛反対していたと、電話の後に話していたっけ。
「理事長、どうしますか?」
と杉山校長が困り果てていたが、啓介君の家の事情を何も知らなかったオレは、
「じゃ、オレが一緒に送りに行くよ」
と安易な判断をした。
啓介君の家は東京のS区にあった。最寄りには私鉄O線の駅名にもなったS学園があり、所謂「高級住宅街」だった。オレは馴れない道を自ら運転しながら彼を送り届けた。本来なら理事長であるオレは動くべきではなかったのだろうが、一度彼とは肉体的に「契り」を結んでしまったから、何故か責任を感じていた。
彼は助手席に座っていたが、ずっとうつむいていた。信号待ちの合間、時折彼の手を握ってあげた。
「大丈夫、怖くないよ」
彼の家には、母親が待っていた。一見、感じのよい雰囲気ではあった。オレは自分の名前���名乗ると母親は、
「あらら、理事長先生がこんな遠くまで!? 大変ご迷惑をおかけしました」
と深々を頭を垂れた。彼はそのまま無言で家の中に入って行ったが、その間ずっとオレの姿を目で追っていた。それでも、
『これでよかったのだ』
と自分自身に言い聞かせるしかなかった”
“八月一日
杉山校長から、啓介君から電話があったと話があった。オレは書類整理をしていたが、どういう経緯かは不明だが例の鞭打たれた跡について母親が気付き、その問い合わせがあったらしい。半ばヒステリックな声だったと、彼は言っていた。オレは心配になり、
「ちょっと行って来る!」
と自分のセドリックに乗った。
夕方近くに到着したが、出迎えた母親は泣き腫らした様子だった。開口一番、
「理事長先生! どういうことですか!?」
と訴え、隣に座っていた啓介君の着ていたポロシャツをたくし上げた。彼は泣きじゃくっていた。
「う、うちの啓介、いじめに遭ってるンですか!?」
と彼女は聞いた。オレは返す言葉がなく、ただ黙っていた。
その後、母親の狂気じみた声が居間に響きわたった。オレも流石に耐えかねたが、
「母さん! もう止めてよ!」
と��介君が突然立ち上がり、悲鳴の様な声で制止した。彼は言った。
「オレはもう嫌なンだ! ずっと『イイ学校』『イイ会社』って言われ続けながら母さんには黙っていたけど…。ただ国立T大学に入ったら何やるの!? 僕ァ、父さんの様な平凡な人生は送りたくない。ただ結婚して家庭を持って…全然夢がないじゃないか! 僕はそんな人生に価値はないと思う。今のK高校に来て、僕は気付かなかった人生を見つけたンだ…。母さん、僕は男が好きです! あのアザは僕が好きな先輩と『セッ◯ス』して出来たものです!」
これまで自己主張もせずにただ両親の言われるがままに行きてきたのだろう。オレは彼の方を見入っていた。母親は、恐らく我が息子のこの様な言動に遭ったことがないのだろう、ますます錯乱した様だった。啓介君はオレの手を持ち、
「理事長先生! 僕、寮に『帰ります』! こんな家にいたら、僕、自殺しそう!」
と訴えた。オレは彼の放った「自殺」という言葉に衝撃を受けた。
「啓介君! 生んで育ててくださったお母様の前で『自殺』という言葉はないだろう! 先生も怒るぞ!」
「否、僕は本当のことを言っているンだ! もうイヤだ…」
「…」
二人の嗚咽が居間に響き渡った。オレは、この家自体を憎んだ。一体、何がそうさせたのだろう? 性の歓びを見出し、本来の自分自身を見出した啓介君、一方で一流の大学や企業に進めば苦労しない人生が保証されるという世間の「呪縛」に囚われそれを良かれと我が子に訴えてきた母親…どちらとも悪くはない。オレは言った。
「…お母様、これまで啓介君をここまで育て上げるのに色々なご苦労をされたかとお察しします。確か��、今は一流の大学に進めば一流の企業に入れ、そのまま一生涯安泰と「年功序列」の思想が根付いています。未だ日本は成長をしていくかと思いますが、いつまでもその状況が続くとは限りません。私どもは可能な限り、その様な時代の変化に対応できる将来の人材を育成すべく教育しております。
しかし、啓介君を含め、この十六、十八歳という年齢は思春期ということもあり、自我が芽生え始める時期でもあります。彼の様に性を通じて本当の自分自身に気付くお子様も少なくありません。きっと、これまでの教育方針に対し自我の芽生えによって啓介君も葛藤をされてきたのでは…?
今回、身体に出来たアザについては他の教職員からは聞いていたものの、ご連絡しなかったことについては申し訳ありません」
これが、オレができる最大限の謝罪だった。母親は未だ冷静になれない様だった。啓介君も大粒の涙を溜めていた。オレは、今日は彼を寮に連れて行かないことにした。オレは言った。
「もし何かありましたら、私どもの方までご連絡ください。夜間でも寮に当直がおりますので、お電話いただければ対応いたします」
帰り道の車中にて、オレはこれまでにない疲労感を感じた。この夜は流石に爆睡だった”
“八月三日
杉山先生から、寮の当直をしていた山本先生から啓介君より連絡があったと話あり。やはり寮に戻りたいと訴えていたらしい。あれから両親とは話ができたのか、気掛かりで仕方がなかった。
理事長室の隅に置かれた時計が秒針を刻む音に半ば苛立ちながら、オレは情人(アマン)が来るのを待ちわびるかの様な心情に駆られた。一度は肉体同士の接触があったが、それだけでオレは彼と一心になっていた感覚でいた。もし教育者と一生徒という関係でもなければ、あの場で彼を連れて帰っていた。母親を弁護することもなかったろう。
午後二時になり、啓介君が帰って来た。オレは直接来たのかと聞くた。彼は言った。
「…先生、会いたかった」
すると彼はオレの背中に両腕を伸ばし、抱いてきた。途端にオレの胸の中で涙を流し、やがて嗚咽も聞こえてきた。
「大丈夫、泣くのはおよしよ」
とりあえずオレは啓介君を寮に連れて行き、当直をしている山本先生に事情を話した。まずは様子を見て欲しい、と。また、一昨日彼の家に行った時のことも話した。山本先生は、
「じ、自殺!?」
と驚いていたが、今の精神状態なら大丈夫だろうと伝えた。”
“八月四日
一晩過ごしたが、山本先生からは何の連絡もなかった。オレは大丈夫だったのだろうと安堵した。
午前九時過ぎ、理事長室に啓介君がやって来た。彼はオレを抱きしめてきた。すっかり好いてしまっている様だった。オレは彼にキスをした。舌を彼の唇の隙間に忍ばせ、込み上げてくる唾液を呑み合った。彼はそれが「快」と感じたのかスラックスのベルトを外し始めた。オレは声をかけた。
「此処ではまずい」
オレは雑木林の中にある「別荘」に連れて行った。しばらく寝泊まりしていなかったからか、室内はジメジメしていた。そんな中でオレは彼のワイシャツのボタンを外した。ブリーフだけになった彼を目前に、オレもワイシャツを脱いた。ブリーフだけになると早くもチ◯ポの先端が濡れていた。こんな性衝動は初めてだった。彼をこれでもかと言うくらいにキスをし、乳房や股間を愛撫した。自殺なンて馬鹿なことは考えるなと、繰り返し心の中で叫びながら…。
気付くと二人は真っ裸になっていた。白いブリーフがベッド元に重なっている。これは身も心もさらけ出していることを意味していた。オレは彼と一体になった。
「あッ、あァ、あはァァァん…」
何度も乳房を鷲掴みにし、吸い続けた。その度に彼は歓喜の声を上げ、乱れに乱れた。ほのかにサーモンピンクへと全身が火照り、彼はオレの唇を求めた。
「…け、啓介」
いつしかオレは敬称を付けずに呼んでいた。ただ十六歳の彼をオレは愛した。全身に無数の汗が滴り、シーツが濡れた。
啓介君は、用を出すだけしか知らなかった穴をもって女の様に快感を得ることを知ってしまった。いつしか彼は激しく腰を揺さぶり、オレの身体にしがみついた。
「あ、愛してる…!」
耳元で彼はそう囁き、オルガズムに達した。オレも彼の体内に愛液を噴射させ、
「啓介!」
と激しいキスをした。
情事の後、ベッドで抱き合いながらオレは言った。
「もう『自殺』という言葉は使わないで」
すると、
「…死にたくない。こうやって愛してくれてるから」
と彼はオレにキスをした。
これで総てが終わったと思った。啓介君が愛されることで新たな人生の方向性を見出し、進んでくれるとオレは信じた。”
貢は、父・操もまた一人の生徒を愛してしまったのかと思った。オレは生徒には手を出したことがないし、そんな度胸もなければやってはいけないと、頁を進めた。しかし、日記はしばらく何も書かれておらず、急に「九月一日」まで飛んでいた。恐らく、その間に啓介が自殺をしたのだろう。
“九月一日
啓介君が雑木林の中で首吊り自殺を図り、憔悴する暇もなく両親が教育委員会に訴えると騒いだ。父親は、杉山校長に訴えた。
「国立T大学への進学率がイイと聞いて入学させたら『ホモ』にさせられた挙げ句、自殺まで追い込んで...。この悪党! 人殺し!」
父親は国家公務員だった様だ。彼は他の保護者から、お宅のお子さんは大丈夫か、「ホモ」にさせられてないかと根掘り葉掘り聴取し、何人かの生徒からその気がある様だという話を聞きつけるや、
「理事長を出せ!」
と罵った。杉山校長は流石にビビッてしまい、
「理事長! 何とかしてください!」
とすがりついた。殴り込みに来た父親に対し、オレは土下座もした。罵声を浴びさせられた挙げ句、胸ぐらもつかまれた。正直、辛か���た。啓介君を愛していたのに、自ら生命を絶ってしまったのだから…。裏切りの何物でもない。
オレは父親が帰った後、雑木林の中で慟哭した。啓介君が首を吊った杉の根元にひざまずき、喉がやぶれてしまいそうなほど声を上げながら泣いた。”
この部分を読みながら、貢は高校二年だった頃を思い出した。そう言えば、両目を泣き腫らした様子で操が家に帰って来たのだ。母の茉莉子がどうしたのかと心配したが、彼は、
「…すまないが、独りにさせてくれ」
と言って部屋に籠もってしまったのである。ちょうど父の書斎の隣に貢の部屋があったのだが、壁越しに号泣する声が聞こえたのだ。しかし、何故泣いているのかを聞くことはできなかった。嗚呼、きっと啓介君のことだったのだろうと、彼は思った。
もし岩﨑の言う通りにその啓介君の声が聞こえたのだとしたら、オレに何ができるだろうと貢が考えた。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)11月25日
通巻第8521号
バカ息子の代表選手、あの薄瓜瓜が生きていた
エズラ・ボーゲル宅から“蒸発”12年、カナダの豪邸暮らし
*************************
元重慶特別市書紀、「胡錦濤の次」は習近平か、薄煕来といわれた。革命元勲・薄一波の息子、薄煕来は、夫人の谷開来がイギリス人を毒殺していなければ、習に代わって中国共産党書紀につき、トップに君臨していたかもしれない。ともに「紅二代」であって、通った幼稚園も学校も同じだった。習は薄を頼もしい兄貴と慕っていた。
薄煕来の次男で ハーバード大學留学中だった薄瓜瓜はボストンで24時間警備、プール付きの豪華マンションに暮らしていた。
石油成金の息子のようにフェラーリを乗り回して、女の出入りも多く、プレイボーイとしてもしれられた。だが、「ぼんくら学生」で���なく弁護士資格試験にも合格していた。
2012年、薄煕来の用心棒兼重慶市公安部長の王立軍が女装して成都のアメリカ大使館へ逃げ込んだ。この事件が薄失脚に繋がった。
薄夫人の谷開来が息子の家庭教師で英名門ハロースクールへの入学を斡旋したイギリス人を何かの利害関係のもつれからか、森の中のホテルに呼び出した毒殺したことがばれて、2013年、二人とも終身刑となった。薄煕来は北京郊外の秦城刑務所、谷開来は燕城刑務所にいる。
さて豪遊の限りを尽くして派手な生活を送っていた薄瓜瓜は、両親の逮捕、拘束、裁判に報道陣が殺到したため雲隠れ、後に判明したのは親中派学者エズラ・ボーゲルの家に匿われていた。その後、杳として行方知れずになった。
異母兄は秦城監獄に父親を面会に行っているが、瓜瓜は両親の面会にも行かず、そもそも中国には一度も帰国していない。大金の持ち出しなどを問われて拘束される恐れがあったからだろう。
2024年十月、薄瓜瓜は極秘に台湾入りしていた。台湾人女性の許恵瑜と結婚し、台湾の近親者を集めての披露宴出席のためである。華燭式場は新竹の森の中の迎賓館で行われ、南国文民ホテルで親戚があつまったとされる。許夫人は羅東博愛病医院院長の娘で、カナダ留学中に恋仲となった。
中国の著名人の息子が、台湾入りし、しかも台湾人女性と結婚するという珍事は孫文の孫・周令飛以来である。台湾メディアが連日報道合戦を繰り広げたが、薄瓜瓜を撮影出来なかった。
薄瓜瓜はカナダのパワーコ-ポレーションにマネジャーとして勤務し、トロントに豪邸を構えていると噂されるが真実は何も分かっていない。
パワーコ-ポレーションは1925年創業の金融コングロマリットで、ファンド、生命保険、持ち株会社、企業のM&A斡旋など手広く営業し、上場企業としても老舗、ただし役員会名簿に薄瓜瓜の名前はリストアップされていない。
なぞは薄瓜瓜が不法ルートで巨額をもちだしことは明らかだが、豪邸を購入する資金や、その手続きをどうしたのか。裏では習近平との繋がりがあるのか、どうか。中国奥の院の闇は、しかし解明されることはないだろう。
▼中国トップの農夫山泉CEOがTEMUを酷評した
共産党幹部との繋がりが希薄な中国の企業家はときに災難が降りかかる。アリババの馬雲は「中国にはシステムがない」と放言して以来、金融子会社アントの上場は延期され、言いがかりをつけられて天文学的な罰金を支払わされ、ついには中国に居づらくなった海外を放浪している。
かれは世界的有名人だから、この程度で済んでいる。
民間人で共産党批判するとどうなるか。
中国ビリオネアの筆頭、農夫山泉のCEOは、講演会でTEMUを批判し、その安売りで国内産業は打撃を受けている。「こんな状態に陥った原因は共産党だ」とした。聞いていた人はひやりとなった。
中国の長者番付は四半期ごとに入れ替わる。株価の時価総額がランキングの基本だから株価乱高下に左右されるのだが、この速度の早さは日本とはると際立って異なる特質だ。
日本は1300年続く金剛組を筆頭に300年以上続く老舗は数百、いや数千? 中国で150年続いている老舗は五社ほどしかない。そのうえ日本の企業風土はトップも従業員も同じ釜の飯を食べるファミリーの感覚だからCEOが従業員平均給与の百倍とかの報酬を取ったりはしない。この点ではアメリカと中国は同根である。
十月にミネラルウォーターの「農夫山泉」(CEOは鐘淡淡)を抜いてトップに躍り出たのはTIKTOKの親会社「バイトダンス」の共同創業者、張一鳴だ。
「2024年『胡潤』中国長者番付」で首位となった。かれの資産は493億ドル(『胡潤』は中国のフォーブスのような雑誌)。バイトダンスの23年度の収益は30%増加し1100億ドルに達した。
バイトダンスは、中国で人気のニュースアプリ「今日頭条」と、中国におけるTikTokの姉妹アプリ「Douyin」も所有している。
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プレゼン感想戦 #18
こんにちは 更新をサボっておりましたが実は生活そのものをサボってました。いやー、先週まで突っ走っていたのもあって軽い燃え尽き症候群でした…。気圧やらもあってうまいこと休めず2日間くらいずっとダラダラとしてたんですが、ぼちぼち気合いを入れ直していかねばなりませんね。 ちなみにプレゼン翌日の土曜日は知り合いの結婚式に参加してきました。ソロで結婚式に参加するのは初めてだったので粗相をしないか不安だったのですが、無事楽しんできました。いやー、結婚、幸せそうでいいですね…私には縁のない話な気がしますが…。知り合いは姉の幼馴染かつインターネット絵描き仲間という不思議な関係性なのですが、まさかの結婚式に参加したらイラスト本の新刊が手に入るという謎体験をしました。
さて、先日のプレゼンの振り返りをしたいと思います。Slackではまだフィードバックを頂いていないのでそれについてはまた後日になりますが、プレゼンの総括や質疑応答への返答などをきちんと文字にしておこうと思います。今考えていることや追加で答えたいことなどは☆、先生から頂いた内容にはダブルクォーテーションマークをつけておきます。
・動いた時のリボンなどの揺れが少ない。将来的には柔らかくなるのか?感覚で作ってるものなので口出しする物なのか? →揺れるなどの動きは物理演算にあたる(Live2Dはデフォーマの変形と物理演算の2段階に分かれている) 物理演算については今後もアップデートしていきたい。
・研究で幾何形態に当てはめようとしているのは、人体の形そのものに着目しているのか、それとも人体の動きそのものに着目しているのか、という部分はどうなっているのか?どちらもしようとしている?
→解剖学まで踏み込むことになる可能性があるが、形を捉えると同時にどこを軸に回転するかも考えないといけないため、複合的に考える必要性がある。あまり動きという面では考えてなかった。
”何を目指しているのか?違和感を消していくのか、何かしらの拡張をしていくのか?アニメーションの演技では人体でないものをモチーフに置き換えていくなど?”
→合理的に見せると言っても現実的な動きに即しているのか。昔の三年後期ゼミでやろうとしていたクラゲを参照して髪の靡きを表現するのに似ている。 ☆まだ決めきれていませんが、どちらかというと最終的には違和感を消す方向に近いと考えています。
・キャラクターと実際の骨格は違う。人体を数値化して違う骨格のキャラに移したら辻褄は合うのか?
→式にしたときに変数にしたい。今回は自分の絵柄に当てはめることになるが、変数にすることで別の絵柄などにも融通が利くようにしたいと考えている。
”Live2Dの仕組みの中でそういったスクリプトを組む環境はあるのか?”
→ないと思う(あったとしても自身の技術的には無理)。出てきた数値を手打ちで入力することになる
”Live2Dというインフラに依存しているのではないか。Live2Dが無くなったときにも成立する価値があると強い”
・VtuberのLive2Dはモデラーの個性が出る。そういう個性が逆にないもになるであろうところが個性になってると思った。Live2Dつくるハードルが高いのでそういう人向けの合理的な動きを保証したベース動作キットみたいなのがあると良さそう。UnityでLive2Dを再現しているケースがあり、そこでは顔が横まで向いている表現の広さがあった。
→Unityで再現しているのは知らなかった。が、左右180度の顔の回転を表現している先行例はLive2D上で既にあり、そのモデラーの教本なども買ってみた。しかし、左右180度の回転はそもそもアバターとしての魅力があるかと言われると、好みの問題にはなるがとても良いものとは思えなった。 ☆ベース動作キットを作るという点完全無視してしまっていました。本当にすみません。構想シートの段階でも言及していましたが、初心者モデラー救済みたいなのが作れたらより貢献的ではあると考えます。それはとてもいいんですが、他の人のことまで考えられるかどうか…余裕次第かもしれないですね。
・何を以て良くなったとするのか。感覚を排除して合理的にやろうとするのはわかるが、どうなったら良くなったというのかというのは結局感覚に戻っているのでは?評価の基準は?※提案として「滑りの排除や違和感が無いように」など
→個人的には、作るプロセスにおいて感覚を用いることと合理性を用いること、とはまた別に、鑑賞した時の感覚が存在すると考えていた。クオリティアップを目標とはしているものの、基準は明確に決められておらず見たままとした言いようがない。一目瞭然であれば良かったしそれを想定していたが、思いのほかうまいことできてしまった為困っている。指摘の通り基準を決められて��いのが少しモヤっている。
”違和感を消すことが目的なのではなく、消すことでこんなことができますというのを言ってほしい。新しいアバターでこれまでできなかったことができるようになりますだとか、コミュニケーションやVtuberのあり方、配信を見たそのものの価値が変わっていくという話に繋がる展望を語れればよい。作品の目的が何に繋がるのかを言えるかどうかで、基準がどうだの評価がどう変わるかといった部分への着目は解決する”
→それに対する解答はふんわりとあって、配信上のアバターが下手くそなLive2Dだと、配信の内容よりも下手くそだなっていう視点になってしまう。それは配信者としては避けたい。ポジティブに見てもらえる。Live2Dの出来によって配信の価値がネガティブに左右されないのが一番大きい。
・Live2Dのモデラーに話を聞くのがいいんじゃないか。モーショントラッカー側のポイントのように、どこがどのパーツの頂点になるかを自身で考えれば骨格の問題が解決するのでは?
→聞くっていう環境はできる。実際感覚で作った際は助言をいただいたりした。しかし、結局これからやる数学に基づいたモデリングでは他の人に聞く意味があるのか、先行例もあるのか?聞く事への価値をあまり感じられていない状態。 ☆頂点の話スルーしてました。ごめんなさい。これ聞いてた時に勝手に納得していたんですが、実際���音聞きかえして意味を考えたときにあまり理解できなかったのでちょっと質問しなおそうと思います。
”Live2Dのノウハウとして、より良くしていくという視点での話をするのであれば聞いた方がいいかもしれない。そうじゃない範疇まで可能性を拡大していくのであれば、全く別の世界の視点を聞いた方がよかったりする場合もある”
・Live2DではなくAdobe Charcter Animatorがある。どこまで一緒かわからないがもしかしたらスクリプトなどにも使えるのではないか?
→盲点だった。 ☆時系列的には先になるが少し触ってみようと思います。が、調べたところLive2Dとはノウハウや形式などがかなり違うように感じます。そもそもLive2DはLive2D社の独自の技術でもあり、Caのような手軽さではなく細かな部分まで自身で調整を行うという点は唯一無二なのではないかと感じました。どちらにせよこの辺の話は触ってみないとわかりませんね。
"違和感なくして何が言えるのかで展示形態なども変わってくるのではないか。感覚で作った方が上手くいくのではないかという懸念もその先の目的の話に繋がる。違和感をなくすためのノウハウとして、感覚でやるのが上手い人のやってることも数理化できてしまうとなると、いわゆるデモクラタイゼーション(民主化)といって、できない人でも誰でもできるようになるメソッドの提供みたいな話になってくる。そういうやり方でやっていくのもいいかもしれない。それも目的の一つ。キャラの3Dモデルを作ればという懸念についてだが、2次元表現は3次元で再現できない場合もあるため、日本の平面文化がある中では、3Dが絶対的正義ではないので心配しなくても良いと思う"
以上が質疑応答でした。こいつ、人の話スルーしすぎだろ。2つ言われると1個が飛んでく感じですね。ほんとごめんなさい。 総括ですが、先生からもいただいた通り、その先の何が言えるか、があと一歩欲しいという感じみたいですね。それを定められれば、質問でもあったことや抱えていた課題や懸念の多くが解決するのかもしれません。スターターキットやらデモクラタイゼーションの話も面白そうですよね。実際構想シートではその面を押し出していましたし。 ちょっと優柔不断な面が出てきていますので、リサーチを行いながら7月に向けて考えていこうと思います。6月後半にはある程度絞りたい気持ち。
プレゼン、本当に緊張していたのもあってプレゼン中ちゃんと言いたいこと全部言えてたんですかね~。もうだいぶ時間置いたのに不安しか残っていません。質疑応答では数学の話わかりやすかったとお褒めの言葉をいただいていて恐縮なんですが、問題はそこ以外の部分もちゃんと言えてたかですね。テーマ発表会までには人前で喋るのとか上手くなっておきたい…。せめて言ってること飛ばないようにしたい。
それでは長くなりましたが今回の更新は以上となります。 今週でプレゼン最後になりますね。またゼミでお会いしましょう…!
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他人事じゃなさすぎるので書く。 うちは小6息子がLD &ADHD。小2の終わりに診断出た。 小さい頃から文字を書きたがらないし、書けるようになっても書くのにとても時間がかかった。読むのはまあまあできるけど、読み飛ばしたり、文頭だけ読んで文末を想像してるとしか思えない読み方をしていた。 就学してからはカタカナを一向に覚えない。教えても教えても忘れちゃう。漢字も覚えない。見開きのページ両面いっぱいに、同じ漢字を30回書かせるとするじゃん?次のページめくって、今書いた漢字なんだった?というと、思い出せないわけ。 夫に相談すると、俺もそんなもんだった、気にしすぎ、と笑われるところから始まり、それでもおかしいと言うと、やがて「お前は息子を障害者にするのか!!」と怒り出した。 夫はほっといて、市に相談。読み書きスクリーニングという検査を受けた。結果はおそらくLD。でも確定するにはウィスク検査という知能検査を受けて、知的障害がないことを証明して初めて確定になるとのこと。学習障害は”知的障害がないのに”勉強ができないことが条件とのこと。 それでウィスクの予約を受けるんだけど、これがまあ初診予約が半年後、検査はさらに数ヶ月後、結果はそっから1ヶ月後とか言われるわけ。だからウィスクも合わせて受けるとなるとかなり早めに動いた方がいいんだよね。 私はどうしても数ヶ月以内に結果知りたくて、周辺自治体まで範囲を広げて片っ端から電話したら、たまたま空きの出たところへ滑り込み4ヶ月後には知能は年齢相応で知的障害がないので、LDですねと結果が出た。ついでにADHD診断のおまけがついた。 夫とはその間も��嘩ばかりだったけど、あなたが認めなくても、息子が困ってることは変わらない、私は息子の困ってることを親として助けたいだけ、もっと息子に合った学習法があるなら知りたいだけ、というのを伝えていったら、だんだん何も言わなくなっていった。 実は、夫も息子と同じ傾向があった。読み書きが不得手で、夫は自営業だけど、申告書類だの申請書だの書き物は全部私に代筆させてた。ただのめんどくさがりと思ってたし、本人もそう振る舞ってたけど、息子を支援してるうちに徐々に打ち明けてくれた。実はそうじゃないと。字が思い出せないことがあり、恥ずかしいし自分でも認めたくなかったと… 小学生のころ知的障害を疑われ支援級に入れられ、親に泣かれたことがあったという。すごくショックだったようだ。 夫にとっては息子の特性を認めることは、否応なしに自分の特性と向き合うことだった。だから反発も戸惑いも、私よりずっと大きかった。でも夫は克服した。息子が可愛いからだ!息子可愛さで自分の障害まで認めてしまえる。子供は偉大だ。 そうして、私と夫と息子の3人、力を合わせてみんなで読み書きに取り組むようになった。 例えば息子は、一つ、二つ、三つ、などの読み方や、ついたち、ようか、むいか、などの読み方のイレギュラーをなかなか覚えられない。 母子で苦労してると、夫が横から「実は俺、今だにそれ分かってない」と告白してくる。 すると、えーパパもできないの?40過ぎてできないなら、今できなくても仕方ないね!となる。他にも夫は自分の経験から、いろんなアドバイスをしてくれる。息子も、自分だけじゃないと励まされるし、何より将来の見通しというか、ロールモデルとして夫の存在はめちゃくちゃ大きい。 読み書きが不得手でも、得意分野できちんと社会生活を営んで、真っ当に生きてる夫の姿が、将来への不安を軽くする。 夫が同じ特性を持ってるということは、子供にとってむしろ強みなのだ。 学習にはもちろんプロの手も借りた。 放デイの受給者証を取得したが、読み書きの指導ができる放デイは一つもなかった。あらゆる機関に相談していると、やがて大学の先生がやってるLDの支援教室を見つけて通えることになった。息子に合ったやり方で宿題を出してもらい、家庭で取り組むのだ。カタカナを完璧にマスターするところから初めて、今は小2の漢字を頑張ってるところだ。 ちなみに読み書き以外の知的に問題はないので、算数や理科などは年齢相応に取り組んでる。そこも息子に合わせたやり方に家庭で調整しながら、自主学習してる。 もちろんつまずきは数えきれないほど合った。特に、ADHDの併発は学習を阻害して大変だった。 学校の理解が今ひとつな年があって、その年の息子は学習どころじゃないくらい荒れて、不登校寸前になった。具体的にはその年の���任の先生と管理職から、だらしなく勉強のできない子と見做された息子は、たびたび叱責を受けてしまったのだ。大いに荒れた。小3の頃だった。 LDの大きな問題として、学習のつまずきから学習意欲の減退、自信喪失、自己肯定感の欠如、そこからいじめ、不登校などの二次障害がある。息子も見事にその道を辿りかけた。 泣いたり怒ったり学校と話し合いを重ねて、小4でまた担任が変わると学習意欲も戻ってきた。立ち直すのには丸一年かかった。その間はお勉強どころではなかった。 支援級に移籍して、療育へも通った。相談支援を受けながら、学校にお願いして環境調整や合理的配慮もやっていった。 やがて顔つきが穏やかになり、小5になるとやる気いっぱいな息子が帰ってきた。得意分野で表彰されるなどもして、学習支援も進んだ。修了式で学年を代表し6年生の抱負を読むくらい、充実した学校生活だった。 ところで息子の支援をしていく中で、私自身もADHDの傾向があることが分かった。LDが夫の遺伝なら、ADHDは私の遺伝だったのである。このことは私もショックだったし、自分のせいで…となる夫の気持ちがよく分かった。 息子への対応も、自分の上手くできないところは息子にうまく教えられないこともわかった(計画的な見通しの立て方や、感情の切り替えや、整理整頓など…)。 上手く支援できずに苦しむ私に、夫は「お前は何で息子の特性を許せるのに、自分の特性は許せないの。同じじゃないの?許してやれよ。頑張ってるよ」と言ってくれた。 夫は、息子の特性を認め、許し、愛す中で、自分の特性も許してきたのだ。私にも同じことができるはずだと励ましてくれた。 そのうち夫婦でも「俺、これ読めない」とか「私どうしてもこれ苦手」とか言い合うようになった。 そうすると、お互いにそうかそうかと引き受けることができる。 これまでももちろんフォローはしてたけど、お互いに”何でこれくらいできないの?”という気持ちは隠せなかった。でも今はそんなことない。 交際5年で結婚して、出産して10年以上経っても、相手のことなんて意外とわからないものだ。家族の中に深く許し合える関係が生まれた。これも息子のおかげである。 以上のように、我が家はLDの息子を通して自分のことがわかり、夫のことがわかり、息子のことが分かるようになったから、診断は悪いことばかりではないよ。それに診断がついたらSNSでも書籍でも、困りごとの対策が見つけやすくなる。 我が子と同じ子はごまんといるというのは、孤独を癒してくれるし心強さが生まれる。 こんなところにこんなに仲間がいたのか〜!となる。 息子に遺伝子の説明をしたとき、あなたはお母さんの設計図が半分、お父さんの設計図が半分渡してあるんだよと言ったら、息子は「良い設計図をもらった」といってくれた。 今もそれに励まされてる。 これから思春期だからぜんぜん油断もできないし、まだ小6だから子育ての難関もこれからだけど… とりあえず、診断は怖くないと言うことを伝えたかった。
他人事じゃなさすぎるので書く。 うちは小6息子がLD &ADHD。小2の終わりに..
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・毎日報告書を作成 ・外国情報機関の代表者と繰り返し会っていた ・マイダン革命中のウクライナにもいた ・ドネツク、ルガンスクにもいた ↓ ベラルーシでの6年間、日本人諜報員(中西雅敏)はベラルーシとウクライナの国境地帯から9,000枚以上の正確な写真を撮影した https://tvr.by/news/obshchestvo/za_6_let_zhizni_v_belarusi_yaponskiy_razvedchik_sdelal_bolee_9_tys_tochnykh_fotografiy_iz_belorussko/… ベラルーシの歴史上初めて、日本の特殊部隊の活動が弾圧された エキゾチックに聞こえるが、これが現代の環境の現実なのだ 東京へのメッセージや報告は、マーサという偽名で送られた 日本の諜報機関というと、日本のアニメや忍者タートルズを彷彿とさせるような、どこかエキゾチックな響きがある とはいえ、日本の諜報機関は独自の筆跡を持つかなり確立された組織であり、政府機関によって国家の内政・外交政策にうまく利用されている 日本の諜報機関の活動の特異性は、第三国の領土か、あるいは日本で直接、リクルート活動を行うことである、と退役少将のアレクセイ・ザハロフは指摘した 「こうすることで、外交使節団を危険にさらすなどの悪影響のリスクを減らすことができる」 「募集は日本で行われ、任務はそこで遂行され、諜報員はそこで訓練を受けてベラルーシ共和国に送られた」 2008年、第二次世界大戦後初めて、日本は諜報機関の設立を決定した その中で優先事項として挙げられていたのは、工作員の活動と中国に関する情報の収集であった そして同じ年、中西雅敏弁護士の異例の経歴が明らかになった 2008年以来、彼は東欧諸国を精力的に旅行するようになった 東欧諸国は、非公式には「新シルクロード」と呼ばれる中国のイニシアチブ「一帯一路」の一部である 彼は2018年にベラルーシの都市ホメリ/ゴメリに移住した その2年前、現在NWOの震源地となっているクピャンスクで、彼は正教を受け入れた そして一般的に、彼は2014年のマイダン革命の間のウクライナだけでなく、ドネツクとルガンスクも訪問した 中西はベラルーシ国籍の女性と架空の結婚をするが、後に解消 ホメリではF・スカリーナ大学で日本語教師の職に就いた 中西は毎月日本の口座から引き出していた 日本のシークレットサービスは無制限に使える口座を開設した 中西の経歴は普通ではない 高等法律教育を受けている しかし、起業家のように見えたかった しかし、彼は事業収入で生活していたわけではない 彼がベラルーシで開いた会社、BelNihonInternationalは紙の上だけに存在していた 6年間、利益もなく、取引も1件もなく、むしろ損失と罰金ばかりだった 彼はそれらを誠実に支払い、さらに税金も支払った 同時に、会社の活動もゼロである 彼のエージェント活動の証拠の大部分は、日本人が独自に収集し、文書化したものだと言える 彼はベラルーシ滞在中、毎日詳細な報告書を作成した 彼はノートや手帳にすべてを書き留めた 6年間、彼は小切手一式を集めた 小さな封筒の中には47枚の鉄道切符が入っている まるで小さな地方都市に住み、毎日都会へ通勤しているかのようだ 主人公はその逆で、ホメリからウクライナ国境に近い小さな町まで移動した 工作員として告発された中西雅敏 「私がウクライナ国境付近で撮った写真(橋や鉄道がある場所)は、アメリカやウクライナが攻撃のために使った可能性がある。ベラルーシの領土にミサイル攻撃を仕掛けることもできたと思う。アメリカと日本の間には非常に密接な関係がある。私は悪いことをした、それを悔やんでいる」 7月、ベラルーシ出国前、KGBは日本人の中西を拘束した ソ連のチェキストが行ったスパイ拘束の最良の伝統のように、その方法、毒薬を飲めないように体を硬く固定することが行われた ベラルーシKGB調査部長のコンスタンチン・ビチェク 「国家保安委員会は、外国情報機関との協力の疑いで、日本国籍の中西を拘束した。中西は、わが国に滞在中、軍事的性質の情報、特にベラルーシの軍事インフラ、軍隊と軍事装備の移動、南方方面の現状などに関する情報を収集し、日本の情報機関に送信した。さらに、外国の諜報機関は、国家機密にアクセスできるベラルーシ国民のリクルート調査を行った。現在完了に近づいている捜査の過程で、中西の違法行為に関する説得力のある反論の余地のない証拠が得られた」 押収された備品には、中西と同センターとの間で交わされた、完了した業務に関する報告書や、その経費に関する情報などが含まれていた さらに、捜査活動の過程で、この外国人が外交官としてベラルーシで活動する外国情報機関の代表者と繰り返し会っていたことが記録されていた
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結婚式💒^ ^
なかなかバタバタで、
写真も撮れなかったーーと思ってたら
終わった後にまた戻ってこられたお二人の
写真をとれて、感謝🙏🙏
神様って優しい🥲✨🙏って
思いました^ ^
賛美とゴスペルがいっぱいの式で、
お二人が教会のみんなのことを考えていっぱい祈ってされた式。祝福が流れてきました。
glory to God!(^^)
そして、
さとぴのインドのダイジェストmovie
日曜の朝の8:30に完成して、
第二礼拝に間に合いました✨🙏
リバイバルナイトの後は急遽
姉の家に3名泊めてもらい、
さとぴは家で徹底作業。
昨日の夜はハードディスクが動かなかったり
色々とトラブルがありましたが、
教会の方々が祈って下さり、
完成しました^ ^
神様の働きなので、完成するのはわかっていたから平安だったとサトピーは言っておりました^ ^
個人的には派遣に行ってる時よりも、
さらに1週間、
ダイジェストを作ってる時の方が大変でした。
笑😂🙏www
次の派遣に行く時は、
ダイジェストのことも、証のことも
さらに1週間延ばして祈りきろうって
すごく学びになりました✨🙏
ウガンダも行ってほしいなと思いますが、
御心であれば^ ^
本人さとぴもアフリカに行きたいそう���
今回、姉がめいいっぱい3週間助けてくれて、
少し身体が大変そうですが、
神様がいやしてくださることを信じます。
今日も、姉も私も
なんとか生きてますってなってましたが。笑
いつも主にあって圧倒的な勝利です!!!
どんな時でも神様をみあげて
溢れるばかりのの感謝をささげ
神様が共におられるので
喜びの声をあげて
圧倒的な勝利をみました!
↑ 曲の歌詞ですねw (風のひびきら11集)
そして、今日はこころごすぺるのために
オーケストラの練習があったのですが
実は、
先週?たまたま子供のために
ある子供の音楽教室に行きました。
子供のクラスは人がまだいなくて、
開校してませんでしたw
でも、大人のためのバイオリンとか、
楽器のクラスがあるのをみて、
あー、久しぶりに先生にバイオリンを
習いたいなって思って。
そんなことを思ったこともなかったのに。笑
いつも小さい頃からお稽古が嫌いだったのにw
そうしたら、
そのまさに音楽を教えておられたプロの音楽の先生、そして今は牧師がオーケストラで教えてくださっていて、
あ、これ願いが答えられてるって
思いました。
先生がいるってなつかしい感じだーと
思いながら、
教会の恵みを感じました。
オーケストラもこれからフルオーケストラになるし、とても楽しみです!
姉もバイオリンを弾いていたので、
手が癒されてばね指も治って一緒にオーケストラに立てますように!祈ります^ ^
バイオリンもピアノに関しても、
つねに姉からの恩恵を受けていますw 
今日も神様に心から感謝します!
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るんぺんパリ【RunPenParis】

自己紹介 2024年11月4日追記 6116文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは少しある
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している それは去年に末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 観光施設って感じ 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 今年は10月18・19・20(金土日) 19(土)は久しぶりに一人で一日中お祭りを楽しむ予定だった���ど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件回って、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて上野天神祭へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 夜の19時から同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったガキさんは すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので閉店の1時までカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の20(日)は上野天神祭に参加している同級生のオデに会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く紅梅屋でおみやげを結構買って 桔梗屋で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 俳聖殿のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 上野城のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく上野城をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった この子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 新天地には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 大きな化粧品店は更地になっていた 高校の時の知り合いが「クワトロNo.4」という バーを経営しているが、まだ入った事はない いつか行ってみたい気持ちはある ただダーツバーらしく 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど バーの扉って感じで雰囲気はあった 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく���省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で それにしても伊賀は狭いなと感じる
市部という地区だったと思う 近くに市部駅という無人駅がありその近くの 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 召し上げられた 小学校6年卒業までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 バスケ部の試合で名張の体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら右足のかかとがにヒビが入った その夏にはバスケ部をクビになり陶芸部に入った 中二で腕の骨折 ���ちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線のそういう女子には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。 高校生の頃はたくさん恋をしたが 自分が不器用だったので自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた 人を好きになることに迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくという感情で奥手に過ごしていった そのせいか、他校の女子からゲイだとウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時は楽しければなんでもよかった
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけでやっていて 週3回ぐらい夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解��ない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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夢日記。
場面は、西の結婚式。会場に来てた友達と久しぶりー!って声掛けあって楽しく過ごしてたら、初恋の人(元彼)が。久しぶりって声掛けられて、こちらも返すんだけどちょっと緊張しちゃったりして。式が始まってすぐに、うちは大号泣。ブーケトスは知らない子が受け取ってたな。二次会で思い出話に花を咲かせてると、しれっと元彼が隣に座る(長椅子)。気付かないフリをして話を続けてると、足というか太ももに彼の手が触れる…
って所で起きちゃったんだよなー。こんなの経験してないし、誰かの結婚式も別に行ってないし、何なら西も結婚してないし。なのに何だこの胸きゅんな夢は。最高かよ。ただ登場人物は皆、うちの推し達っていう凄く贅沢な夢でした。
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祖父母の代から同じ家に住み、場所が下町なので、東京の人間にしては近所づきあいがあるほうだと思う。近所に大量の顔見知りがいる。 わたしの家ではわたしが子どものころから犬を飼っている。わたしも、犬を飼う人間としては若くして(ギリ二十代だ)自分の犬を手に入れた。わたしが中学生のころに家に来た母の犬とあわせて二頭を連れ、毎朝公園に行く。朝から出社する日は早く、リモートワークの日は遅い。 遅い日に顔を合わせる犬友の中に、昔からの顔見知りでもある高齢男性(わたしの家では「爺さん」、腹立たしいときには「ジジー」と呼称する)がいる。この爺さんは去年三代目の犬を亡くしたあと、八十すぎの身で子犬を迎えた。同居する犬好きの息子一家がいるからできることだ。愛犬家としてはもっとも恵まれた老後といえる。 その日の朝の公園には働く女の飼い主が三人いた。商店主と弁護士とわたしである。彼女たちはわたしよりだいぶ年長で、たがいの犬をかまいながら「いくつまで働くか」という話をしていた。なるほど、二人とも定年のない仕事である。そしてわたしの会社も、順次待遇が変わるが、最長七十歳まで働くことができる制度がある。 七十までやっちゃおうかなあと弁護士が言い、何もしないとヒマだしねえと商店主が言う。わたしにとってはまだリアリティのない話だ。 すると別の男性と話していた爺さんが振り返り、大きな声で「あんたらはそんな年寄りになるまで働かなくていいんだ。亭主を死ぬまで働かせろ」と言う。商店主が「またはじまったわあ」とつぶやく。 この爺さんの頭は昭和で停止しており、女が働くのは(今ふうに言えば)社会貢献や自己実現のためだと思っている。「世の中には女がいなくちゃいけない場所があるからな。立派なことだ」などとのたまう。 そのようなジジーが、商店主、弁護士、わたしの順に顔を見て、わたしと目が合うと��ょっと気の毒そうな顔をした。 ジジーはわたしの家の祖父と父親がいずれも若くして亡くなったことを知っている。そしてわたしのことを「なんだか長々と大学にいたあげく、三十路を控えて彼氏もおらず、どうやら結婚できなさそう=ワケあり枠の女」だと思っている。工学系で修士卒なんて珍しくもなんともないっつーの。好きで独身やってんの。ものを知らないジジーだよまったく。 余計なお世話ですー、うちの人にはさっさと引退して長生きしてもらうんですー。弁護士が言う。流石の切り返しだ。いいぞもっとやれ。 かああ、とジジーが言う(言うっていうか、鳴き声って感じである)。ったくよう、こんなだから世の中おかしくなるんだ。男ってのは、エライんだ。死ぬまで稼ぐんだからよう。それがおまえ、最近の男は、何だ。男らしくねえな。 弁護士がにやりと笑って言う。それじゃあ伺いますけど、犬を可愛がるのは男らしいおこないなんですか? ジジーはぐっと詰まって、それから言う。しょうがねえだろ、女房が可愛くねえんだからよう。嘘よお、と商店主がつぶやく。奥さん最近具合悪いもんだから、四六時中おろおろしてんのよあの人。 ジジーと話していた男性はジジーの視界に入らない角度に移動し、腰を曲げて笑いをこらえている。男性の犬が楽しそうにわんと吠える。 あのジジーほんとしょうがねえな、と思う。「女もフルタイムで働け、子どもを産め、家事は九割女がやれ」みたいな令和式男尊女卑に比べると首尾一貫してはいるが、当然、ダメである。 ダメであり、かわいそうである。 わたしが幼かったころ、わたしの父の葬式にあのジジーが来て、引くほど泣いた。ジジーは甘いものが好きで、年末には皆に自分が好きでお取り寄せしている菓子を配る。ジジーは子どもが好きすぎて引退後の不動産投資収入を孫の進学資金と子ども関連施設への寄付に回している。秋になると犬の散歩のついでに美しい落ち葉を探して持ち帰る。押し葉にして食卓を飾るのだという。 ジジーは台所に入ったことがなく、入る気も一切なく、伴侶が具合を悪くしてからは悄然として息子の配偶者の手料理を食べているのだそうだ。なぜ悄然としているかといえば近ごろ息子が失業し、「嫁に家のことをしてもらうのが申し訳ない」からだそうである。 涙もろくて甘党できれいなものが好きで、無類のおしゃべりで、子どもと動物をかわいがりたくて、それでもって「男」であるのは、昔はさぞかし生きにくかったろうと思う。 そんなだから、わたしも近所の皆も、あのジジーをそんなに嫌いではないのである。ダメなジジーだが。
近所のジジーのこと - 傘をひらいて、空を
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2024年6月1日土曜日
病院の待合室にて19
くちずさむ歌はなんだい?思い出すことはなんだい?(1)
「5/18(土)の午後か5/19(日)って空いてますか?徳島行ったら会えるなら安倍さんに会いたいです!」
「Tです」
Tくんからショートメールが来たのは4月の19日だった。彼と最後に会ったのは2018年に挙げられた彼の結婚式だったから、もう6年振りになる。その間一回だけ私が酔っ払って電話をかけたことがあるのだけど、連絡を取ったのはそれだけ。だから「Tです」とだけ書いてある2通目のショートメールが来たのは、こちらが電話番号を電話帳から消したりしていた場合に「誰だろう…」となるのを予め防ぐための措置だと思うのだが、私はあんまり電話帳をいじったりしない��ら、大抵、相手が誰かわかっているのである(と言いつつもこないだ前職の会社の人間の電話番号をあらかた消してしまった。理由は、私の兄貴が前職の会社ないしは会社の人間に電話をかけようとしたためです。兄貴というのは私の別人格ではないかと思っているなにかの、便宜上の名前です)。
「空いてるよー 会おうね」
という、私には珍しく窓を全部開け放った日本家屋くらい風通しのよい返事をして、私たちは会うことになった。5月の18日に会って、19日に別れる。18日は私が空港に迎えに行き、移動はそのまま私の軽自動車を使用する。ドライブしたり観光したりして、夜は徳島の歓楽街、栄町とか秋田町とかで飲むので、2人ともビジネスホテルに泊まる。帰りは私が空港まで送る。計画は以上である。前日になってもお互い「明日よろしくね」みたいなメールはしなかった。だって私たちが中学生の時は携帯電話なんて無かったんですよ。そんなもの無くても会えていたし、来なかった時は、なんか会えなかったな、マルサン寄って帰るか、くらいのことにしていたのである。まあでも、前日に��い挨拶くらいはした方がいいのかもしれない。2人とも今年で40知っとるけのけだし。親しき中にも礼儀みたいなことで。まあいくら後悔したところで、しなかった事実は揺るがないけどさ。
無事に5月18日は訪れたようだったので、私は軽自動車を飛ばして、「踊る阿呆に飛ぶ阿呆、同じ阿呆なら飛びながら踊らにゃ損々、ってそれだと意味変わってきちゃうね」でお馴染みの徳島阿波おどり空港にやって来た。空港に入ると、彼が乗ってくるであろう10時55分着の便が、到着の掲示板に「順調だからたぶん時間通りに着くよ」みたいな情報と共に載っていたのだが、「福岡発」となっている。てっきり東京から来ると思っていたのだけど、それに対しては特になす術もないのでベンチで待っていた。すると中学生の頃から、全く変わっていないシルエットが、全く変わっていない動きと共に現れ、あのいわく言い難い独特な調子でこちらに手を振りながら走ってくるではないか。これはTくんに違いない。T氏来徳である。手には明太せんべいという福岡っぽさと味の間違いなさの最大公約数みたいなお菓子の紙袋を持っており、こちらに渡してくる。「ありがとう!よく来てくれたね!福岡から来たの?」と尋ねると、会社の出張で福岡に行っており、仕事が終わって福岡の親戚の家に泊まり、ついでに徳島に寄ったという。地理にお詳しい皆さんはなんとなくお気づきかも知れませんが、福岡→徳島→東京はあんまついで感のない行程である。しかしそれに気づかなかったことにより再会を果たせたので、本当に良かった。挨拶もそこそこに私の黄色いオンボロ軽四に乗ってもらって、当てもなく出発した。
徳島空港は、住所的には徳島市ではあるものの、その北の端の松茂という場所にあって、そこは私の前職の高知在住の先輩に言わせれば「もうほとんど鳴門」である。だから『くるくる鳴門』に行くことにした。道の駅の。近かったから。めっちゃ混んでた。車が順番に並んで待っているのを見るとさすがに焦る。しばらく並んで警備員の誘導に従って車を停め、中に入り外に出て、車に乗った。めっ混み。やめました。徳島ラーメン食べようね。鳴門病院という名前の、「鳴門になかったら嘘だろそんなのTDLだろ」と言うほかない病院のそばに、『三八』という、気合の入った漫才コンビの全国ツアーのタイトルみたいなラーメン屋があるのを私は知っていたので、そこに行った。
そのラーメン屋に入る頃にはもう、私たちは音楽の話をしていたと思う。私もTくんもかつて音楽をやっていた。人前でライブをしたりしていた。もう12年くらい前のことである。そもそも私とTくんは、静岡県は沼津市という街に住んでいた中学生の頃にバンドを組んでいた。それが高校2年生くらいの時に自然消滅してしまって、Tくんは自分のバンドを組んで音楽をやっていくようになった。私のほうはひとりでやっていこうとして曲を書いたりしていた。ふたりとも進学を表面上の理由にして上京したり。もう遥か昔のことである。私とTくんはバンドを組んだぐらいの頃からほとんど、音楽とそれにまつわる諸々の話しかしたことがない。だから…だから?だからなのかはわからないけど、すぐに音楽の話になってしまう。この日もそうだった。最近何聞いてるの?という話になってしまった。恐ろしい。何年も会っていなくても昨日まで一緒にいたみたいに話ができる友達、そんな凡庸極まりなくて、それでいてかけがえの無い友達がいたんだ、私にも。知らなかった。
Tくんがラーメンに続いてあまりにもスムーズに瓶ビールを注文したのを聞いて私は大笑いしてしまった。ずるい。運転しないからって。コップは二ついりますか?とか聞かないでいいから店員さん。Tくんのお父さんは車を運転する時にあろうことか缶ビールをドリンクホルダーに装填するようなドリーミーな人間だったけど、私は違うから。最近のTくんはSpotifyで音楽を聞いているようだった。まず聞きたい曲を聞いて、その後はSpotifyがこれも好きなはずだ!と次々に掛けてくれる曲を聞いているらしい。好きじゃない曲は(厳密にいうと好きじゃないミュージシャンは)飛ばすという。あまりにも12年前の続きだったせいか、何を話したのかあんまり覚えてないのだけど、この辺で我々はサニーデイサービスを褒め称えたと思う。サニーデイは素晴らしい。サニーデイのライブ見たい。今のサニーデイのライブ見たいよね。我々にそのように思わせてくれるサニーデイよ、ありがとう。三八を出た後セブンイレブンに行ったのだけど、Tくんはせっかくだからとコンビニのコーヒーを買っていた。かわいいやつめ。
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この時点でまだ12時10分くらいである。やばい。中学生くらい時間ある。あの頃と違って油断すると飲み屋に入店しそうなので次の場所に行かなくてはならない。鳴門…鳴門鳴門…競艇場だ!

と思って行きました。初めて行った。入場料100円取られるの知らなかった。食堂に蛭子能収さんのイラスト付きのサイン色紙が飾ってあったのを、Tくんが見つけてくれた。最近…リニューアルした…のかな?内装がものすごく綺麗だった。でもいい感じにヨレヨレのおっさんがいっぱい座っており、生きた阿波弁がたくさん飛び交っている。Tくん聞こえるか。これが阿波弁だ。���うこそ徳島へ!
一応賭けてみることになった。Tくんはギャンブルはしないらしい。私はTくんを待つ間に空港から一番近いパチ屋で4500円分の景品を取ったんだけど、あれはギャンブルじゃないから…2人ともギャンブル初心者だね!破産しないようにしよう。
それにしても競艇についての知識がない。買い方もあんまりわからない。舟券を買うためのマークシートの塗り潰し方も相当手探りである。我々はわざとらしく声をひそめて相談しあう。「ねえ…ボックスってなに…?」「しらない…」「…なんて?」「…わかんない!」マークシートを券売機にぶっこむと600円寄越せと言うので支払う。券が出てきた。何もかもわからないので、舟に乗ってる人の名前を見て決めました。この日は女性のような名前の人ばかりが舟に乗っていました。理由は分かりません。

私は入場料も含めて1300円失くしてしまった。Tくんも同じくらい失くしていたような気がする。そもそも舟が何周するのかもわかっていないので、まだゴールしてないのに「なんだよー!くやしいー!」と言ったり、もうゴールしているのに「あるある!まだあるぞ!」と言ってたりしていて(主に私が)、地獄だった。Tくんは競艇用語を携帯で調べて教えてくれて優しかった。私はロレッタセコハンのアルバムに『まくり差し』というのがあったね、聞いたことないけど、という豆知識を挟み込んでいた。音楽の話やめてお前も調べろよな。そういうとこだぞ。楽しかった。
つづく
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幸雄は二日間、佐伯家でお世話になった。その間、浩二は時間を見て茨城県内をドライヴして回った。一日目は大子の袋田の滝や常陸太田の西山荘など県北、二日目はつくばの学園都市や土浦の霞ケ浦などの県南の名所を回り、常陸秋そばや常陸牛も堪能した。美津雄は小百合とずっと家にいたが、浩二の幸雄に対するおもてなしが異常だと思った。しかし、まァ、恐らくこれが冥土の土産になるンだろうと小百合は美津雄に話し、様子を見ることにした。
東京に一足早く戻ったみいは、夕方になると電話をした。彼女は、
「浩二さん、御免なさいね〜。幸雄さんも齢なンだからそちらでお陀仏されちゃ困るンだけど…。一応、橋場の息子さん達には事情を説明して了解を得てるので、何かあったらお電話してくださいね」
と話した。浩二は、
「いえいえ、とんでもないです。筑波山へロープウェイを使って筑波山神社にもお詣りをしましたが、その際に息子さんを連れて万博にも連れて行ったらしくて、記念公園に来た時はとても喜んでらっしゃいました。今のところお元気ですよ」
と伝えた。
いよいよ翌日、美津雄と小百合と一緒に東京に戻ることになった前夜、幸雄は荷物をまとめていた。浩二は様子を見に部屋を訪れ、忘れ物はないか聞いた。彼はないと言ったが、
「申し訳ないが、こんな年寄りの最後の我儘だと思って聞いて欲しいンだが…」
と話した。浩二は何ですかと聞くと、
「後でもイイから、浩志と一緒に撮った写真を送ってくれないかのぅ…。もしオレが死んだ時に、息子らに棺の中に入れて欲しいと遺書に残そうと思って…」
と言った。もはや浩志のいないこの世には未練はなく、明日にでも死んで構わないとの事。だが、幸雄さんは長生きしますよと、一昨日の夜、浩志と絡む夢を見て夢精してしまったことを思い出し、苦笑しながら浩二は話した。
そして、朝になって幸雄は美津雄と小百合と一緒に水戸駅へ向かい、浩二と改札口で別れた。彼は、
「色々よくしてくれて、本当にありがとう」
と、両手で浩二の右手を握りながら会釈をした。やはり九十代とは思えない、背筋が伸びた様子に浩二は改めて驚いた。年齢詐称でもしているのではと疑うほどだった。
幸雄たちを見送り、家に戻った浩二は再び独りになった。色々あり過ぎて疲れたなと思いながら応接間のソファに横になった。彼はそのまま昼過ぎまで寝入ってしまった。窓を全開にし、風がカーテンを翻しながら室内を行き交う。心地よさの故になかなか起きれずにいると、インターホンが鳴った。誰だろう…? 浩二はソファから身体を起こし、声をかけた。その声は江利子だった。珍しいなと彼は思った。
「こんにちわ。お休みでしたか? 御免なさ〜い」
「いえいえ、先日はありがとうございました」
江利子の片手には、広樹の職場でもあるK百貨店のショッパーがあった。今、営業終了したI百貨店の跡地に移転するらしく、新店舗が建築中だった。江利子に差し出されると、
「そんな、お気遣いいただかなくても…」
と浩二は断ったが、彼女は満面の笑みを浮かべながら言った。
「実は、わたしたち、佐伯先生のお宅の隣に引っ越すことにしました!」
佐伯家の隣には、祖父母の代からずっと一組の夫婦が住んでいたが、最近子どもが水戸の郊外に二世帯住宅を建てたとのことで売却し、最近取り壊されて更地になっていた。浩二は、
「かえってよろしくお願いします。でも、何故?」
と聞いた。江利子は話した。
「佐伯先生から、『大樹君、共働きで面倒を見るのが大変ならオレが代わりに見てや��よ。浩二もいるし』と、生前言われてたンです。まさか亡くなるとは思わなかったから…。でも昨夜、先生が夢に出て来たンです! 『わりぃな、オレが約束しておきながら果たせずにくたばっちまって…。でも、浩二がいるから大丈夫だっぺ』って」
オイオイ、オレは何も聞いちゃいねぇよと内心思いながらも、
「…父さんが、夢に?」
と、ついに他人の夢にまで出始めたか!?と呆れてしまった。
利江子は仏前に線香をあげ、先生の好きなお酒買って来たわよ〜と備え、満代先生となかよくねと言い、帰って言った。突然の知らせに浩二は考え込んでしまったが、まァ、これも父さんの遺言だと受け止め、引き受けるかと決心した。
一年後に、広樹と江利子が小学五年生に進級した大樹を連れて来て、浩二は二人が仕事でいない時には面倒をみることになるのだが、最初は結婚も子育ての経験もなく戸惑うばかりだったものの、大樹も次第に浩二がいるのが当たり前だと思う様になっていった。そして、中学校に入学して間もなく大樹は精通し、第二成長期を迎えるのだが、浩二を最初の情人(アマン)として受け入れることになった。浩二も彼を愛し、一緒に寝ない時はないほどに布団の中で絡んだ。嗚呼、父さんの悪いところを譲り受けてしまったと、後に彼は後悔するのだった。
東京に戻った幸雄と美津雄・小百合は、上野駅の中央改札でみいと幸雄の甥が待っているのを認めた。別れ際に美津雄は、
「じいさん、元気でな」
と言った。幸雄は深々と頭を下げながら、
「…本当にお世話になりました。これ以上、思い起こすことはないよ。明日にでも逝っちゃってもイイ」
と話した。それを聞いたみいは、
「ほらほら、縁起でもない! ダメよ、浩志君だってびっくりするわ」
と強い口調で言った。
甥・俊介は幸雄が持っていた荷物を持ちながら、
「お義父さん、疲れたでしょ? ウチに帰ろう」
と声をかけた。俊介より幸雄の方が身長が高いことに美津雄と小百合は驚いた。
こうして幸雄はみいと俊介と一緒に地下鉄の乗り場の方へ向かって行った。美津雄と小百合も、御徒町駅前のスーパー「Y」で正夫と岳次が飲もうと誘われているので、このまま上野広小路を目指した。
この夜、俊介と家路に着いた幸雄は夢を見た。幸雄は、何故か浅草の「Kバー」で独りデンキブランを飲んでいたが、後から浩志が来て向かい側の席に座った。客はおらず、店員だけが二人の為に注文を受けていた。互いに齢を重ね、串カツやもつ煮を肴に二人はグラスを傾けた。完全に貸切りだった。夜なのか外は静かだ。ほろ酔い気分で二人はKバーを出て、車も人もいない歩道を言問橋の方へ歩いて行った。東武鉄道すら通らない、静かな花川戸の界隈を二人は歩いて行った。幸雄にとっては異様に感じたが、浩志がこの場を用意してくれたのだろうと思うことにした。
言問橋のちょうど真ん中に立った時、幸雄の脳裏にオスバルドプグリエーゼの「思い出」が流れた。両腕を広げ、浩志の片手を握り、もう片方の手を彼の腰に回した。二人は円を描く様に踊り始めた。夜空を仰げば満月が見え、その光が二人を照らしていた。浩志は幸雄の胸元に顔を寄せ、涙を流した。腰に回していた方の手指で幸雄は、浩志の頬を伝う涙を拭った。
「…泣くのはおよし」
そう言いながら、幸雄は浩志に接吻した。いつしか、未だ学生服を着ていた浩志に同じことをしたなと幸雄は振り返った。これを機に、浩志はアルゼンチンタンゴのレコードを集め始めたのだ。最初に買ったのは藤澤嵐子だったっけ? 「夜のプラットホーム」が大のお気に入りで、楽器で効果音をも表現するタンゴの魅力に惹かれ、すぐにアルマンドポンティエルのレコードを買い求めていた。「花火」と言う曲が脳裏に流れる中、隅田川花火大会の時には浅草の人気ないところで激情のままに浩志を愛したっけ? 次から次へと思い出が蘇り、幸雄も涙を流した。嗚呼、永遠に踊り続けたい…。しかし、まるで映画の様にブラックアウトし、夢は終わってしまった。
朝になり、幸雄は目を覚ました。上半身を起こしながら、
「…夢か」
と言葉を洩らした。彼は、近いうちにあの世へ逝くかもしれないと思った。
数日後、幸雄のところに郵便物が届いた。開封すると、恐らく彼が定年で新聞社を退職した時だろう、互いに笑顔を見せる浩志とのポートレートが入っていた。幸雄は俊介にその写真を見せ、大いに喜んだ。
そして、浩志の四十九日が終わったとみいを通じて話を聞いた夜、眠る様にして幸雄は九十余年の生涯に幕を下ろした。告別式には浩二も参列し、みいも駆け付けた。俊介は、
「まさか浩志さんの四十九日が終わった後に亡くなるなんて…。何か運命の様ですね」
と話した。みいはハンカチで目頭を押さえながら、
「…何だかんだ言って、これで良かったのかもね」
と言った。浩二も、
「きっとあの世でタンゴを踊ってますよ」
と、幸雄の遺影を見ながら涙を浮かべた。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)7月9日(火曜日)
通巻第8323号
EU議会、オルバンとルペン集団が第三会派を形成
ヨーロッパでも「トランプ亜流」の政党が議席を躍進
*************************
7月8日早朝、オルバン・ハンガリー首相は北京を電撃的に訪問した。
ウクライナ和平へ向けてオルバンは7月2日にゼレンスキーと、5日にはクレムリンへ飛んでプーチンと、そして7日にはアゼルバイジャンで複数の政治指導者と会合を持ち、その足で北京へ飛んだ。
第一報はハンガリーのメディアで「首相はアジアの何処かの国へ向かった」。ついで中国が速報でオルバンと習近平の会談が緊急に行われたと報じた。習は五月にブタペストを訪問したばかりだ。習は「ウクライナ停戦を望む」とした。
欧州が中国に制裁をかす中、ハンガリーは飛び抜けて中国寄りである。またオルバンは中国のEV車「BYD」のハンガリー工場を歓迎し欧州全体の政治的空気に強く逆らってきた。
同時並行してオルバン主導の政治劇がEU議会で起きた
EU議会内で新会派「欧州愛国者グループ」の結成がなされたのである。汎欧州の各国の保守系政党の支持を集め、EU議会の承認を獲得した。EU加盟国それぞれの選挙で保守系の躍進をうけて、オルバンは六月から「ヨーロッパの愛国者」と呼ばれる、EU議会内に新会派を結成する意向を発表していた。
7月8日までに構成メンバーがまとまり、79議席を確保したので、EU議会の第三勢力となる。議長にはジョルダン・ベルゲラが就くことが発表された。ベルゲラはフランス「国民連合」の党首、ルペンが次代を託する政治家である。
オーストリアの「自由党」、チェコの元首相アンドレイ・バビシュ「不満市民行動(ANO)」等が最初から参画を表明しており、その後、5つの政党が参加した。オランダのウィルダース率いる自由党、ポルトガルの「チェガ」、スペインの「ヴォックス」などである。
アンドレ・ベンチュラ(チェガ党首)は「ポルトガルのトランプ」。大躍進をとげ連立政権の一員である。スペインの「ヴォックス」(VOX)は、カタルーニャ州の自治権剥奪、同性婚の廃止、保護貿易の重視、農村部や伝統的行事である闘牛の活性化などを唱え、いまやスペイン議会第三党となった。
デンマーク国民党は移民反対、非白人移民の国外追放、反イスラーム主義、ユーロ導入反対、トルコのEU加盟反対、グリーンランド独立とコソボの独立に反対の排外主義的主張が強い。
このデンマーク国民党と、フラームス・ベラング(ベルギーの保守政党)も加盟を発表し、ギリシアの「不満の声」党も参加した。またたくまに79議席となった。これは「7カ国から23人の議員以上の参加」という会派成立条件を満たした。
▼フランスの選挙結果を待っていた
欧州愛国者グループの正式結成が延びたのはフランスの選挙結果を待っていたからだ。
フランスは7月7日の第二回投票でルペンは議席数では第一党をのがしたが、得票率は37%で第一位である。議席数が確保できなかったのは第二党と第三党が連合して、ルペン勝利を阻んだからで、大統領選挙のシステムとまったく同様である。
しかしルペンは「勝利は延びただけだ」と意気揚々、記者会見で語った。
フランスの総選挙結果は以下の通り。
政党 獲得議席(増減) 得票率
~~~~ ~~~~~~~~~ ~~~~
NFP 188(+57) 26・3% (左翼)
ENS 161(▼76) 24・7% (マクロン与党)
RN 142(+53) 37・1 (ルペン)
LR 48(▼10) 6・2 (共和党)
他 38(▼21) 5・6
フランスのルペン「国民連合」、ならびにサルヴィーニ率いるイタリアの「同盟党」もこの新しい議会内会派「欧州の愛国者グループ」に加盟した。フランスは「欧州愛国者グループ」の最大派閥となって会派議長を兼ねる。
EU議会はややこしい仕組みとなっていて保守政党が一会派に勢揃いというわけにはいかず、イタリアのメローニの集団とポーランドの正義党などは別に「ECR」を形成、リベラルな会派「再生ヨーロッパ」と対抗してきた。
またドイツの「AfD(ドイツのための選択肢)」も別会派である。しかしEU議会の議論においては三つの保守会派が連携で、左様路線の暴走を阻止できることになる。
オルバン首相は、長年にわたってEU議会主流派を「ブリュッセルのエリートたち」と激しく非難してきた。
伝統的な家族の価値観を訴え、ウクライナ支援に反対してきた。これらの保守的な政党が集うわけだから議会戦戦術が奏功すれば、ファン・デン・ライアン委員長の再任を退けることも出来る。
欧州の左翼新聞はあいかわらず「極右のあつまり」と蔑視の視点から報じている。日本のメディアは主体性がないから、欧米の論調の複写機。本当に欧州で何が起きているかを知ることは難しいだろう。
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「オーメン:ザ・ファースト」

皆さん こんにちは。
近くの結婚相談所 ハッピータイム群馬桐生相生
婚活アドバイザーの金子です。
「旧約聖書」の「ヨハネの黙示録」で獣の数字とされているという「666」
ある事情により、まだ出生して間もない男児をローマの産院から養子として迎え入れた在ローマ米国大使のロバート。
男児は「ダミアン」と名付けられます。
その後イギリス大使となったロバートの周囲では次々と謎の怪事件が発生。ロバートのもとに現れたブレナン神父は、「怪事件の元凶はダミアン。彼は悪魔の子でその証拠として体のどこかに666のアザが刻まれている」と忠告するも、我が子が悪魔の子であるなどという信じがたい事柄を当然ロバートは受け入れる事など出来ません。
しかしその後も怪事件は続き、疑心暗鬼となっていたロバートは、ダミアンの体を調べ、ついに頭部に刻まれた666のアザを発見してしまうのです。
日本でも大ヒットした1976年公開の「オーメン」その後続編が3作制作され2006年には、リメイクが公開されるなど伝説的なホラー映画として君臨。

4月5日から公開された新作「オーメン:ザ・ファースト」は、1作目の前日譚で「悪魔の子ダミアン」出生の秘密が明かされた作品。
想像を超えたかなり怖いミステリータッチの本格的なホラー映画に仕上がっており、ブレナン神父が登場するなど1作目へのリスペクトも所々に感じられ、上手く1作目の冒頭シーンに繋がるストーリー展開となっており、1970年代の社会情勢や、修道女になるための儀式などが描かれていたのも興味深い点でした。

1971年。修道女になるための修行でアメリカからローマのとある教会に訪れたマーガレット。
やがて、当時の社会情勢から神への信仰心が薄れていた人々に対し危機感を抱いていた一部の教会関係者達の恐るべき陰謀を知ってしまうマーガレット。ブレナン神父と共にその陰謀を阻止しようとするマーガレットだったが・・・・・。
1作目の「オーメン」を見ている方々の多くも、その前日譚として納得できる素晴らしい作品になっていると思いました。

「オーメン:ザ・ファースト」公開記念イベントに登場した1976年6月6日生まれというお笑いタレントの小峠英二さん。その頭部にも666の数字が!
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近くの結婚相談所
ハッピータイム群馬桐生相生
婚活アドバイザー 金子 薫
群馬県桐生市相生町5-536-1
ネプチューン2-A
電 話:0277-32-5314
連絡時間:午前10時から午後9時
定休日:年中無休
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婚活 結婚相談はお近くの結婚相談所ハッピータイム (http://www.happytime-en.com/)、 群馬前橋・群馬沼田・群馬渋川・群馬高崎・群馬安中・群馬藤岡・群馬伊勢崎・群馬桐生・群馬みどり・群馬太田・群馬邑楽・群馬館林・栃木足利・栃木佐野・栃木小山・栃木栃木・栃木真岡・埼玉熊谷・埼玉深谷・埼玉本庄・埼玉行田・埼玉羽生・埼玉加須・埼玉児玉・茨城牛久・茨城下館・茨城筑西・茨城結城・茨城古河・新潟長岡・新潟小千谷・新潟見附・新潟柏崎・新潟魚沼・新潟十日町・新潟南魚沼・新潟西蒲原・神奈川川崎・山梨甲府昭和までお問い合わせ下さい。
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