#見たら死ぬ絵美術館
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無題
平穏よりも胸のときめきをいちばんにしたら世界のぶあつい皮膚が一枚めくれたかのようになにもかもが歌い踊りかがやきはじめたのをいまでも覚えている。わたしは親が厳しくて外泊できないけれど、そのあいだに同級生の子たちはうつくしい島の海に反射する満月をみて、だれかと夜通しぴたりとからだをあわせて内緒話をするような、今にもぷつりと切れそうな糸のように細くて鋭い若さを世界の夢に浸らせている。感性を野放しにして、こどものころの感動をひとつずつ取り戻す時間がわたしにも必要だった。けれど思いどおりにいかないこともある、それも定めとおもって歯をぎゅっとくいしばる。わたしには必要だった。路上、白い廊下みたいに澄んだ朝霧をかんじる時間。薄いトップス。ズレた口紅。好きな男の子と寝て一限目をサボるとか、夜の街頭を走り抜け、くだらないことに時間とお金を費やすこと。「それだけじゃない、夜に遊ばなくても昼に釣りをしたりサッカーしたりそういう遊び方だってあるだろう。そっちのほうが幾分もまともだ」 おとうさんは夜遅くに帰ってきたわたしを叱りつけ、そう言った。わたしはけしてワルにあこがれているのではなくて、ただただ綺麗なものに飽きただけだった。わたしにとって祈りや信仰はさいしょから型があってそれに当て嵌めてハイ完成みたいなかわいいお菓子作りのようなものじゃなかった。昔も今も自分でうつくしい歌をつくれない。うつくしいものがたりをかけない。うつくしい絵を描けない。世の中にはフォロワーが万桁いる女子高生がいて、今、世界中では何千もの美術展が開催されていて、明日、いつかオリンピックに出るであろう少年がはじめてスケボーに乗るかもしれない。わたしには何もできないかもしれないけれど、彼らの生き様はわたしをわたしたらしめる微かなエッセンスとしてわたしに溶け込む。それを祈りという言葉で表象してはだめ?これからのことをかんがえると、ずっとどきどきする。目の前の光景が、訪れたことのない地の光が、風が、わたしを、わたしのからだを必要としてる気がする。世界中に張り巡らされた血管がわたしの心臓部にも繋がっているような心地。死ぬ5秒前ってどんな感覚なのかしらないけど、築き上げた塔が崩れてゆく感じなのかな、雪景色のような。
無題
朝起きたら腕に友達の噛み跡と身に覚えのない痣が3つくらいあった。耐え難い疲労がからだのあちこちにひっついて、入れ墨と化している。活字の海を、本をその背に背負えたらよかったのに、今のわたしを崖っぷちに引き止めているのはうつくしい言葉でもなくて、泥に塗れた重いカルマ。イヤホンの先から垂れ流れる音楽すらも風のように軽やかで自由なものではなくて、ねばねばした気持ちわるくてかなしいものに聴こえた。夏と、そのあつさと、その底知れぬ闇に街ゆくものすべてがこころのずっと奥の方で平伏している。昼過ぎにスクランブル交差点前の巨大スクリーンが薄青い空を泳いでいるようにみえたこと、街ゆく人の肌色が、シャボン玉のようにその熱を吸収して発光していたこと、ぜんぶなんか夢みたいにふわふわしているかんじがした。もうすぐでなつやすみなのに、大学入ってからそれまでもずーっと夏休みのような感じだったからあまりどきどきしない。みずみずしくずっと光っていたい。わたしもいつかデカい人間になりたい、いつかいつかいつかという文句ばかりが増えてゆくのを横目でみて、ぜんぶカサブタを剥がすように振り解いて拭ってくれる奇跡みたいな命、日々、音をどうしても期待してしまう。どうすればいいんだろーと思いながらまたあしたも友人と夜ご飯をたべにいく約束した。それでまた家に帰って、朝起きて虚無感に苛まされて、の繰り返しを大量の課題で中和する。薄暗い中でたべるごはんとか朝早起きして化粧をすることじゃない、今はなにもない海とか草原でなにも繕わずにその自然のデカさとか愛を仰向けになって享受するのがいちばんただしいきがする。たすけてと呼ぶには大袈裟すぎるし。
end
泣き出しそうに張り詰めた空気に鼻を啜る。世界の彩度が落ちて、ぶあつい服を着た街ゆく人たちが皆んなちっちゃな怪獣みたいにみえる。肌寒い。外はずっと灰色、モスグリーン、レモンみたいな匂い。大きな木が揺れて、木の葉の上に横たわっていた雨の滴が霧のように3秒間くらい降った。最近は毎日毎日やることが多くて、それをこなしているあいだに1日が終わる。3日連続で化粧を落とさずに寝てしまった。多くの人が電車にのっているときに外の景色に目をやらないのと同じ感覚で、わたしも生活の外側にひろがる微かな動きに鈍くなった。ずっと特別でありたかった、1番愛されたかった、そういった思春期的な熱望とどんどん疎遠になっていく自分に日々焦ったり安堵したりしている。だけど同時に、わたしの中をまだ生きている17歳のわたしがその面影をときどき覗かせる。期待させる。突拍子もなく走ったり、ゲラゲラ笑ったりする。些細なことで泣いたり、理不尽な世界に怒っている。良くも悪くも変わっていくのなら、これからの自分に期待をしたい。アルバイト先では後輩が6人くらいできて、みんなわたしよりも仕事ができる。わたしはもともと注意をされると衝動的に泣いてしまうところがあったし、シンプルに忘れっぽかった。あまりにも器用に仕事ができないので、ある日店長とそのことについて話し合ったら意識の問題と言われた。その1、人からのアドバイスに劣っている自分を見出してはだめ。その2、素直に人からの意見を受けとる。その3、自分のためでなくだれかのために働く。この3つを約束した。夜の繁華街で50歳の男性に飲みにいきませんかと声をかけられたり、あした授業にどんな服でいくかを考えながら化粧品を見に薬局に寄り道したり、腕に点々とのこる虫刺され痕をみて、それを残した蚊のことを考える。あした、図書館で借りた本の返却期限。わたしもちっちゃな怪獣になって寒さをまるごと食べてしまいたい、寒い日の、霞んだ光やクリアな淋しさ、果実のようにぎゅうぎゅうに酸っぱい気持ちを。
slow burning
大学一年生というよりも、高校四年生というような振る舞いをしているなあ、と自分のことを客観視する。新宿の横断歩道橋から行き交う人々を眺める。つい最近まで、委員会の同期の仲の良さにムラができていて、グループとかカーストとかそういう言葉が浮上してきてしまうほど揉めそうになっていた。それでも、それぞれが居心地の良い場所にしようと歩み寄っている。こういう、諦めによる愛想ではなくて心からの気持ちに胸を打たれる。明大前の飲み屋で酔っ払って「俺みんなのこと愛してるよ」と照れ笑いする���輩に、わたしたちみんな、キモいねーなんて言って茶化した。そのあと夜の大学で騒いでいたら警備員に注意された。机の下に10円玉を落としたのを拾わないで帰る。いつまでも赦されていたい。山���のような女の子でいたかった。すぐ隣、肌すれすれにだれかの温もりを感じて弱さを誤魔化すのではなくて弱さを共鳴しあっていたい。「東京の人は生き急いでいる」なんて言葉があるけれど、わたしは美しい光景がそこに広がっていれば必ず立ち止まる人でありたい。仕事に遅れそう、とか、終電が、とかじゃない、好きな人たちのためだけに忙しくありたい。恋人は待ち合わせをするとき、「どこでおちあう?」と聞くのだけど、高2の頃、初めて会う日、それを「(恋に)落ち合う」と勝手に解釈して勝手にどきどきしたのを思い出した。それからわたしも「どこで落ちあう?」と聞くようにしている。ドア窓の形に切り取られた青い影が電車のフロアに映って、がたんごとんという音に沿ってフィルム映画みたいに小刻みにうごいていた。池袋で新疆料理をたべて、お腹を下す。スペイン語の中間試験。渋谷で5分1000円の手相占いをしたら、鎖みたいにいくつもの線が絡まっていますね、と言われた。意外と気にしいなんじゃないですか?「そうですね」と答える。駄菓子屋で1000円使い切ったほうが幸せになれそうだとおもった。電車の隣の線路にカラスが一羽いた。こんなに近くでみるのははじめてだ、と思って、じーっとみつめた。黒なのに黒じゃなくて、光を受けて渋いグリーンや紫っぽくみえる羽毛に目を見張る。なんか、空はどこまでも真っ青なのに光の細部だけ色があたたかい夕方前みたい。ふわっとなにかに気付いて、じーっとそれを見つめて、そこになにかが“視える”とぜんぶ途端にスローモーションになって、焦燥感や虚しさがたちあがってくる瞬間がある。からっぽなのにぎゅうぎゅうな感じ。AirPodsをケースにしまう音が体感的に5秒間くらい耳に残ったり、自分の息遣いにどきどきしたり、すれ違う男子高校生の会話声や、鳥が羽をはためかせる様子がクリアに輪郭が保ったまま空中を転がる。ガムを買って噛みながら、心のもやもやしたなにかを同時に小さく噛み砕いてゆく。光の洪水。家に帰ってパスタをたべたあと、お風呂で下の毛をつるつるにする。夕方終わりにお風呂に入るの、とても好きだなあと思う。コンタクトレンズを外さないまま、化粧も落とさずベッドへダイ��する。瞼の裏に東京タワーの赤がたましいの塊みたいにまあるく光っている、はやく何もかも諦められる年齢になりたいと思う。
無題
なんかまじでわたしが疲弊していて悲観しているのか、世界が残酷なのかわからなくなってきた。脳科学の講義を受講したあと、テキトーに混雑した休日の街をあるいていたら皆んなの脳みそが透けて浮きでてきそうで気持ち悪くなった。地球4周分の神経線維。そう、どでかい爆弾が街ゆく人々の頭蓋骨に葬られている。ニューロンが軸索を介してつながってゆく、放出と受容を繰り返してみんな手を繋ぎあってゆく。セール中でバイトの雰囲気がぴりぴりしていて、みんな資本主義の豚みたいに働いていた。うつくしくないとおもったし、私も美しくなかった。結いた髪に、ぴたっとあげられた前髪。なにを思っているのかを書くのがずっと怖かった。もしかしたら私の感じているこの欲望はとても汚らわしいもので、それゆえにだれかを傷つけてしまうかもしれない。でも、言葉にしなければすぐにわすれてしまう感情に名前をあげなくなって、水をあげなくなって、そうしたら、じぶんの脳みその溝をうめていたみずみずしい苔までもがすっかり枯れきってしまって虚構を連ねるようになった。空洞に哀しみの音だけが響き渡る。友達はいるけど、私はその友達の1番になれない。恋人みたいな人はいるけど、私はその恋人の1番にはなれない。1番っていうのはほんとうの意味での1番、2番とか3番とかがいない1番。圧倒的な2人の世界の中でのフェアで高貴な1番。有名になりたかった。文章でも外見でも写真でもなんでもいい、だれにも敵わない羽根で世界を羽ばたいてみたかった。わたしを選ばないで、そこらへんのそれっぽくかわいい女の子を選ぶかっこいい男の子たちを信じられないでいる。外国に行ったらモテるよ^_^と投げかけられた言葉について何回も考えるけど、考えるたびにかなしくなる。でもね、神様はいるとおもう。木漏れ日の首筋に、砂丘のしずけさに、広大な空の一枚下に、その温もりと永遠が芽吹いているのをしっている。そのたびに、わたしはこの世界に愛されていて、まだ19歳で、まだ何にでもなれて、そして世界を(気持ちがあふれてしまいそうなくらい)等身大で愛しているドラゴンみたいにかわいい女の子だとまじないを唱えるようにして心を強く保つ。アスファルトに散った桜が朽ちて、吐瀉物のようにグロテスクにぬるい光を浴びている。走り抜ける。だれかの憎悪の中に、疑念の中に、見下しの中に憧憬の眼差しを覚えながら。東京で灯される光の数だけ、アフリカの広原でつややかな花が咲けばいいのに。光の重さの分だけ、銃弾が軽くなればいいのに。帰り道、ひさしぶりにパンを買って帰った。
日記
弟がiPadのタッチペンを無くしたらしくて、それを聞いた母がすぐにAmazonで検索して新しいのを買った。こういうとき、ほんとうになんか小さなことだけれど、すごく心が愛にみちる。
大学の新校舎の建物のにおいが400人もの人が集まった大教室の縁をすべっていく。扉を開けた瞬間、目と目と目がわたしの顔を捉える。湿気漂うフロアにだれかがペンを落とす音、先生のマイクが吐息までもを拾って湿った熱を加速させる。「儚いって聞いて何を思い浮かべますか?蝶?蛍?蝉?トンボ?」 教授がそう聞くと、みんなのえらぶ選択肢がちょうど均等に分かれる。講義が終わるといつもすぐに帰るイケてる男の子が蛍を選んでいて、なおさらかっこよく見えた。わたし、インスタのフォロワーが490人いるんだけど、その人数って今見てるこの人たちよりももっともっと多いのかと思うとなんか心強いような息苦しいような、不思議な気持ちになるなーとぼんやり思った。君たちはぶっちゃけ勝ち組です、という先生がキモかった。海外の大学院に行きたい。わたしはもっともっと色々な人を知るべきだし、美しい景色にであうべきだし、貪欲に学ぶべきだとおもうから。聡明になって、お金を稼いで、将来だいすきなひとたちにたらふくご飯をたべさせてあげたい。お母さんとお父さんが育ててくれた、守ってくれたこの心の真ん中にそびえる愛情のかたまりを誰かに分け与えていきたい。でも、そうとも思うけど、逆にそれをこなごなにさせてくれる危険性や若さゆえの解放にも目が眩んでしまうの。「今しかできない」ってとてもずるい言葉だなあ。
19さい
19歳とかいちばん呪われていた1年だった。まだハタチじゃないけど、もうそうさせて、と思うくらいに、1年のあいだに10年分くらいの幸せと不幸せがぎゅうぎゅう詰めに、どっちがどっちかわからなくなるくらいに入り乱れててくるしくてさみしくて悲しかった。くるしかった。わたしと同じ純度で、等しく、あいしてほしい。あいされたい。
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2024年まとめ

今年は水彩作品の制作をがんばりました。昨年「来年展示やりたいな」と思ったので実行したというのもありますが、いまだにスタイルの確立ができとらんな~と思っており、試行錯誤があります。
というか静物画と植物画のスタイルは自分の中で確実に手応えがあるのでそれはいいんですが(私のイラストレーションの得意分野はモノ・植物です)、もうちょっとなんとかならんかなと思っているのは漫画絵に寄った人間を描くときのスタイルです。昨年第五人格のファンアートを描いて「キャラクターのスタイルこういう感じならいけるかも」という方向性がうっすらつかめた感じがするのですが、第五人格は根本的にキャラデザが死ぬほどうまいので自分の力じゃないんですよね。というわけで、今年は「月に1作は自主制作水彩絵を描く」を実行しました。イラストはこちらのポートフォリオにまとめています。
11月はキャンドルのシリーズを描いていましたがそれ以外は人間・キャラクター絵を描くという方向でやっていました。振り返ってみて思うのは、やっぱり物語が明確にあるものは一枚絵だとしても作品になりやすいという感触で、アリス展合わせで描いたものは「漫画絵寄りで且つまとまりがうまくいったのでは」と思っています。正方形だったのでバランスのとりやすさもあった。習作で描いた他の正方形の絵も人物にフォーカスする時はかなりいい形式だなと感じました。
構図は、迷ったらメイン人物をセンター正面+背景を物尽くしにするor世界観の表象を入れる、と決めているのでまあまあの割合でそういう絵になっています。これは数年前からやっているので「この構図前にも見たな」ってなると思いますが、ワンパターンだとしても全く問題ないなと感じています。
7月の水彩月間では毎日風景スケッチを描くのを一ヶ月完走したのもいい思い出です。風景うまくなりたいね。
水彩画の展示は大阪・京都・東京の企画展に参加しましたので、おおざっぱすぎる区分ですが西日本と東日本とで展示ができてよかったです。これは有言実行できてよかった。水彩紙や額装マットのメーカーであるオリオンさん主催の展覧会(メインはオンライン)に参加して、原画ではなくプリント展示でしたが銀座の月光荘で自分の絵を展示してもらえたのはめちゃめちゃ嬉しかったです(水彩の制作を再開する時、道具をそろえたのが月光荘だったので)。
今年描いた絵で言えば、制作してはいるけどまだ発表はしていない水彩画のシリーズもあるので、来年はこのあたりをまとめて出したいなと思います。
自主制作以外だと、skebのほか、今年も装画をご依頼いただけたり、毎年恒例の定期案件があるのですがそれで絵を描いたり色々できて楽しかったです。
アリス展に参加したことで、イギリス文芸題材の絵を描くテーマに着手できたのでよかったなと思っています。というか長年ぶつぶつと唱えている、ビクトリアン・パークというレトロ��ームの元ネタになっているイギリス文芸作品の絵を描く、というテーマ、思い入れがありすぎると逆になにも手につかない的な感じなので展覧会に参加してほんとによかった。覚悟が決まる。残るはブラム・ストーカー「ドラキュラ」、スティーブンスン「宝島」、あとビクトリアン・パークの内容本体ではないけどキャラデザでかすっているのでメアリー・シェリー「フランケンシュタイン」です。小説自体は何度も読んでいるのだけど、ほんと絵にするとき「どうやって……!?」というのと「自分の絵で自分の中の小説のイメージが固定するの結構嫌だな……!」という気持ちがめちゃある。でもなんらかの形にはしていきたいですね。自分の趣味趣向のかなり強めの影響もとなので。
来年のイラストレーション制作の目標も人物系のスタイルの確立、文芸題材のイラストレーション制作、というここ数年変わらない内容ですが引き続きこれでやっていこうと思います。
漫画に関しては、『せんせいとぼくと世界の涯』がマグカンの漫画賞でノミネートに入ったので編集の方がついてただくことになり、成り行きで演劇の話で盛り上がってシェイクスピア戯曲題材で漫画のネームが出来上がったが100ページ超えたので「これはこれとしてとりあえずいったん別の短いの描くか」ということで留保になったという愉快な出来事があります。別途描いてるネームは私が仕事&生活優先にしているため忙しくてあまり進めておらず、今からがんばりますという感じなのでどうなるかわからないですが来年なんらかの読み切り漫画は出来上がると思うのでそのうち発表すると思います。
今年発表した漫画は『ギャスケル夫人の庭』のみでした。同人誌も発行しました。この作品は自分の創作の棚卸案件だと思っているのですが、これもほぼ2023年に描いていたものを今年仕上げて発表した形です。私の制作スパンが長めというか描かない(漫画描いてる暇がない)時期をはさむので変に間があくんだよな。
ともあれ9年ぶりに同人誌のイベントに直接参加したので、「ああーそうだこんな感じだったなー」となりました。
なんだかんだで忙しかったため、逢断は進められなかったのが心残りです。収入にならんものごとの優先順位が下がってしまうの、仕方ないけどほんと悔しいな。春までに数話分ネーム作ってあともう淡々と描くだけを一年やるとかにしたらいけるのかも。
今年は意識的に作品制作に時間を割いたので、例年と比べて舞台や展覧会を見る量が明らかに減りました。そう、土日を制作にあてると鑑賞機会がかなり減る。平日も動ける身なのだから平日にねじ込めばいいんですがあんまりうまくいかんのよね。とはいっても色々見に行きまして、今年は特に節分会の芸能行脚をしたこと(コロナ禍前に始めたのですがコロナ禍で中断したので久々の再開でした)が収穫でした。あまりピンとこないひとのほうが多いかと思うので説明すると、正月より節分のほうが季節行事としては強めの節目という文化形態に日本の芸能はなっていて、節分の日に社寺で行われる各種の芸能を見て回る趣味というのが民俗芸能というか郷土芸能というかそういう方面の趣味者にはあるのですね。追儺式と呼ばれたりします。ただし節分の日の行事なので節分の日にまわるしかなく、一人の人間が一日で回り切れる量ではないため「今年はあそこへこれを見に行くか……でもそうするとこっちは行けないな……」となったりするので年単位で行脚したりするのです。私は大念仏踊り、念仏踊りの類をできるだけ見たいと思っておりまして、これは節分に限ったものではないんですが、まー全然見れてないけど可能な範囲でがんばりたいんですよね。見るのを。 他には、建築と写真関係の企画や展覧会を巡ったりベケット映画祭で耐久戦のように上映を見たり、スペインへ行ったので建築がっつり見れたのよかったしプラド美術館も行って「時間が無限に足りない」になったりしました。
作品制作は毎日ちょっとずつやり続ける以外の正解は存在しないのですが、それにしたって時間が有限すぎるなあと感じます。「何をやらないか」を判断するというの、歳を食ったことでやりやすくなった部分はあるかなという気もするので鑑賞も制作も生活も、うまいことやっていきたいところです。
来年は世界が今よりよりよくなりますように。
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さいきんのできごと
「大使館の美術展Ⅲ―文化交流随想―ブルガリア」展 記者発表会&カクテルレセプション
にうかがってきました。『令和ブルガリアヨーグルト』でお世話になったとき大使館スタッフの方に名刺をお渡しした関係で、自動的に招待状が届いたみたいです。普通に生活してたら大使公邸に入れるチャンスなんて二度とないなと思い、野次馬根性フルオープンで編集者と一緒に行ってきました。
大使館の美術展という、その名のとおり大使館が所有する絵画や工芸品が展示される催しが定期的に東京富士美術館@八王子で行われているそうで、今回それがブルガリア大使館です。 記者向けのプレゼン映像でいくつか紹介されていた絵画、主に20世紀以降の風景画を見て、ちょっとびっくりしました。というのも、私の中のブルガリア像って、小説書いてたときに読んだ資料や文学作品の印象の限り、もうちょっと寒くて曇ってる感じでした。残ってる史実がどこもかしこも悲惨すぎて、小説内でも同じ事書いた気がしますが、しかし実際にはどの絵も晴れ晴れと暖かで、光がキラキラしてた。もしかしたら資料映像以外の絵画は曇ってるかもしれないけど、なんか勝手に、よかったね!!! あったかいね!!! という気持ちになったよね。でも昔のイコンもわりとすっきりした顔だった。以外と昔からあったかかったのかもしれない。 併設のレストランではブルガリアンなメニューのアフタヌーンティーもいただけるそうです。このレストラン、めっちゃ凄腕のプロデューサーさんがプロデュースしてるらしいので食べに行ってみてね。私は会場で一部をいただいたよ。美味しかったよ。 会期:10月12日~12月22日 休館日:毎週月曜 開館時間:10時~17時 https://www.fujibi.or.jp/ ちなみに同時開催のメイン展示が「サムライ・アート展-刀剣、印籠、武具甲冑、武者絵、合戦絵-」という、一部界隈が好きそうな感じので、これ『ガラシャ』書いてるときに観たかったです。書いてるだけでどんどん痩せていくという過酷な連載でした。当時……もっと物質的な資料があれば……
近況
北米大陸の北のほうへひとり旅に行ってきました。無事戻ってまいりました。 レンタカー屋で 「海外で車運転するの初めてだから付けれる保険ぜんぶ付けて」 「それはラッキーだね! この町での運転はパリに比べればチョロいぜ! それでも保険いる?」 「イエス!」 「でもタイヤのパンクと窓ガラスの破損は保険の適用外だよ? それでもいる?」 「イエス!!」 「まあ君に貸す車もともと窓ガラス割れてるからちょっとくらい欠けても問題ないけどね!」 というやりとりをし、マジで「これをよく商品として貸せるな……」と思うレベルで窓ガラスが逝ってる車を渡され、肩慣らしのためにグーグルマップでお勧めされた絶景スポットのある近くの山に入っていったらぜんぜんチョロくなかったです。全面的に砂利道で(そりゃ飛び石で窓ガラス割れるわ)深さ30㎝くらいの穴ぼこがいっぱい空いてて、雪も積もってて、それを避けつつ崖から落ちないように山側に張り付いて走ってたら横転しそうになって入国二時間で死ぬところだったわ。しかも途中で心折れてグーグルマップのおすすめスポットまでたどり着けなかったうえに道幅狭くてUターンできなくてしばらくバックで下山する羽目になったわ。生きててよかったです。 一生のうちにやりたいことリストの中に「アラスカハイウェイを車で走る」「でかい橋を歩いて渡る」���あり、今回そのふたつが叶いました。アラスカハイウェイについては検索すると画像いっぱい出てくるので興味のある方はぜひ。
もしかしてこれから初めて北米の北のほうでレンタカー旅をするかもしれない読者へ、主に私が大変だったことを書いておくね。 ・レンタカー屋では自分で駐車場へ行き、鍵オープンのボタンを押して応えてくれる車を探します。 ・行き先を設定すると「170キロ先を左折」とか普通に出てきて笑っちゃう。 ・ガソリンスタンドを見つけたらこまめに満タンにしておくといい。気づいたら目盛りが三つになってて、最寄りのスタンドが100キロ以上先とかだと冷や汗出ます。 ・スタンド併設の売店でトイレも借りておいたほうがいい。道端の休憩エリアのトイレは便器のような台がついた穴だしだいたいドアも閉まらない。 ・田舎に行けば行くほどガソリン代が高くなる。メーター見てると絶望的な気持ちになる。 ・ナビがついてても人の住む場所を大きく外れるとナビごと迷子になるからオフラインマップ必須。 ・「常に運転席が中央線の近く」を意識して走れば右車線走行も怖くないです。
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2025.2.5
8:25
色々あって1週間ほど5時半起きだったため、今朝は5時半に自動で目が覚める。
10時以降まで眠ると魂が回復するし、早起き信仰は軍国主義の名残りだ等とずっと思っている私でも慣れれば自動で目が覚めることがあるのか…と思う。
朝はコーヒーが入るまで何も動けない。とにかくまずお湯を沸かす。冷蔵庫に入れっぱなしのブリタの水はそのまま飲むには冷たすぎるからまずお湯にしてしまい、飲料水にはお湯を混ぜてあたためる。
6:13頃の朝焼けは紺色からオレンジ色のグラデーションが美しい。早起きは大嫌いだけど許してやらないこともない、と毎回少しだけ思う。
スタンレーの保温マグはパターソンのアダムドライバーの水筒の影響で買ったものだけど、たっぷりのコーヒーが温かいままなのはとても嬉しい。手放せない。
新聞を読み、トランプとイーロンの訳のわからない妄言で右往左往する世界と、郵便局とヤマトの揉め事を読んで、かしこげな大人でもこんなに訳のわからない契約をして大騒ぎになるのだから我々の日々がわちゃわちゃになるのも仕方ないものだ、と思う。
アメリカのことは本当に胸が痛むが、手も足も出ないので日々の移り変わりを細かく追うのをやめる。私はLGBTQ+、あらゆる差別に反対しています、その表明と自分の思想と優しさとは何かについて、大切に保全し生き延びたいと思う。みんなが生き延びられるように。私たちはあいつらより長く生きて、あいつらの滅びを見るんだよ。
クソ寒い中、白く美しい富士山を見る。知り合いはスキーが大好きで、今年の雪の話をするときに賢い犬のように笑った。
モーニングを運んで来たロボットが3つくらい先のテーブルで「お取りくださいにゃん」と言っている。目に入るテーブルには私しかいないので私の注文品であり、ロボットからテーブルまで運ぶ。
デヴィッド・リンチが撮ったダイナーのシーンを最近何回も見ているので、アメリカンスタイルのレストランへの愛着が少し増している。
ロボットもまだそこまで動き出していなくて、暖房器具だけが頑張って稼働している。
リンチ先生、あなたのいない世界でロボットがモーニングを運んで来ます。でも昨日見たロボットはハンバーグをぶちまけ、店員さんが掃除をしていました。
2019年の表参道で、デヴィッド・リンチの絵とアニメと写真を見た。展示室の真ん中の黒い小屋と恐ろしいアニメ。私たちの美しい悪夢。
昨日電車の隣の人が、ストロー口までタプンタプンのタピオカティーを飲もうとしていて、ストローをさしたら少しこぼれたらしく、とても小さな綺麗な黒いバッグについたぬいぐるみにかかってしまったような動きをしており、反射的に自分のティッシュを探し始めてしまったが、そこまでの量のこぼれ方ではなさそうだったので思い留まる。ぬいぐるみさんは無事でしたでしょうか。
まだガラガラのレストランにいる。繁華街ではないのでとてものんびりとしている。ロボットもまだあまり動いていない。
ワシントン・ポーとティリーのミステリーシリーズを2冊半読んだところで、荒地をバギーで駆け抜けるティリーの夢をマッドマックスオマージュのような雰囲気で見たため、1日に7時間とか読むと夢に見るんだなと思い、最近読んでいなかった吉本ばななの未読書を読んだ。
父が吉本ばなな&その父著作を読んだり読んでわかったふりをしたりしていた世代のため、小さい頃からずっと読んでおり、アムリタあたりのスピリチュアル濃度までは私の人生観に強い影響を及ぼしていると思う。
「体は全部知っている」と「デッドエンドの思い出」は何回も読んでいるし、私の部屋にあるドラえもんのフィギュアはデッドエンドへのオマージュだ。
吉本ばななさんが育児期に書いていたエッセイを読み倒していたのでその影響もかなりありそうだ。
優しさの体系は吉本ばなな小説から吸収しているし、何割に及ぶのかわからない。
私という人間は、吉本ばななと村上春樹の2005年くらいまでの著作を積み、その上に山田太一のドラマと小説と脚本集を積み、シネマライズの2000年からの上映作を乗せ、その上に岡崎京子の漫画を全部、小西康陽と菊地成孔と石野卓球の音と、2001年以降の東京開催の美術展の図録を何冊か乗せて、スケッチブックとコピー用紙と色鉛筆とアクリルガッシュ、Macintoshと Adobeをぐるっと布で包んでボンと混ぜたら概ね私っぽい何かに仕上がると思う。朝は10:00まで寝かせてあげてください、テキストツールはSimpleTextで大丈夫です。
私のコンプレックスと、私の欠如。私が悲しんでいたことと、そのせいで他者に託しすぎてしまう部分。
私の憧れと、手に入らなかったものたち。
私は私の人生を、もっと好きになれるかな。
仲良くなれなかった人のことを思い出してなんと意味がないことを思い出しているのか、と思いながら、今話ができる素敵な人のことを思えば良いのにな、とテキストを打っている間だけは瞬間的に考えられる。
文字を打っている私は頭の中だけでもやもやする私よりずっと前向きだ。ぼんやりと上げた視線の先に外の光があれば尚のことだ。
窓の外のどうでもいいビル、遠くをたまに通り過ぎる電車、今の外気は1度から3度に上がったけれど、まだ店内は全然あたたまらない。だけどテキストを打ちながら視線を上げると薄青い空が明るい。窓際の席は寒いと学習したので窓から離れた席であたたかい黒豆茶をガバガバ飲む。カフェインは最初の日で懲りた。電車に太陽が反射している。
ある図書館へ行くときに開館時間のチェックと合わせて口コミを少し読んでみたら、青い服を着た常連の方の動きを書いてあるコメントがいくつかあり、図書館に行ってみたら書いてある通りのことを行ってらっしゃったのでコメントの通りだ…と思った。あのテキストは現実を反映していたのか。こんなにも。
その図書館の横の道で昔、小さな女の子が立ちすくんでいて、声をかけたらカラスが怖いというので一緒に木々が途切れるまで歩いたことがある。あの子ももう大人になってるはずだ。
私の記憶の中にいる40歳や50歳の優しい人たち、記憶の中だと40歳だったけれど、今はもうもっと歳を重ねているはずだ。記憶の中では20年30年をスイと越えて40歳のあの人の笑顔しか覚えておらず、吉井和哉さんが好きだったあの人はどうしているのかなとたまに思い出す。あの人たちの優しさ。一緒に仕事をしたけど、ただ優しくされた覚えしかない。
私が叶えられなかったこと。
それは子どもの頃の家の経済状況の関連でもあり、私という人間の努力の不足もある。でも最近も「この人本当に酷いな」と思った母親からの悪い影響でブレていた精神の問題でもあると思う。
私に叶えられなかったこと、叶わなかった憧れ。
手に入らなかったもののことの方ばかり思考に上がるのはどういうことなんだろう?
私のそばに今いてくれる人、私の確かな楽しみ、面白い本、アーティゾンに行けば会える絵画、家にある絵たち、私の愛。
バレンタインやあの人の誕生日に贈りたい小さなプラン。小さなカードに添える絵。
好きな人に渡せる小さな絵、雲が浮かぶ大きな夕焼け。
心が削れるコミュニケーションと、それの検証から得られたこと、愛を得たいなら、愛情の交換をしたいなら、言ってはいけないことが確かにあり、死ぬほど気をつけて自戒しないことには避けられないこと、私が持ってる残酷さ、私が嫌いな親から引き継いだ残酷さ、それの検証から得た自戒。
あの人とあの人はスルスルと世間話が続いて羨ましいな、と思う時があるけれど、もう持って生まれた相性としか言いようがない。
モーニングメニューが終了し、キビキビとした店員さんがテーブルごとのモーニングメニューを回収していった。ロボットはまだあまり動いていないが、先ほどすごい音を立てて引きずられていった。
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2024年4月25日のこと
1. おはようございますアトリエ文学 2. 昨日は新作UPして一瞬で売り切れる感謝感謝の 49着28万8290円 3. 売れ売れの売れすぎやんけやんけ。 4. なんでこんなに売れるのか?1つは手が込んだパーツを大量に入手できたから。2 ボディになる元の古着がたくさん安価に手に入ったから。3それらを組み合わせたものを自分ではなく従業員の人たちが俺が思うニュアンスできちんと再現してくれて、4簡単にネット販売できて5それを欲しいと思ってくれている人が商品の数よりも圧倒的に多いから。 5. このまんま加速すれば何も問題なくて、これをどうやって再現するかが後続の人の肝になる。この5つの部分は重要で、これをやってないと爆裂に安価で売って利益を得るのは難しい。いや、もっと省略して例えば3の部分を機械化するか海外に外注したら予算の10分の1とかでできると思うけどその分在庫を抱えることになるし、もっと大量に売り捌かないといけない。 6. 今、28万円の売り上げの詳細を見たら一点モノが9800円のパンツ6本で58800円。12800円のトップスが8点10万2400円で14点で合計16万1200円。このうち俺が作ったのが2点くらいであとは、配置だけ決めてバイトのリコちゃんに縫ってもらったもの。これを1人だけで作ったら作��量とは別に作りながら考えてしまって5倍以上の時間がかかるから二ヶ月くらいフル稼働することになって4倍くらいの値段になると思う。パンツが4万円でトップスが5万円以上。これだと全部売り切れるのが難しいのでさらに高くしてパンツ6万トップス8万円とかでしょうか。 7. この金額だと同じような感じでよく見る値段になる。パンツ4万、トップス5万も安くはないけど普段6万とか8万が4~5万で売ってたら嬉しいが、即買いできるほどのことではない。 8. パンツ1万トップス12800円で売ると決めたわけじゃないけど、これで利益出すにはなかなか大変ってわけでもない。いや大変で、レースとパッチワークをフリマとメルカリで超超安価に買えてるからなんですよ。この部分を自分らで作るなら8万円で売るのすら厳しい。 9. 途中でやめるは何度も何度も口酸っぱく言い続けますが、ファッションにおける立ち食い蕎麦屋です。駅前一等地にマクドナルドや回転寿司、チェーン店が安価に美味しくあって唯一個人店として抵抗するなら立ち食い蕎麦屋や立ち飲み屋のやり方で椅子はないけど安く早く美味いを提供するために冷蔵庫の残り物調理と言いますか安価で仕入れたブツを掛け合わせてとんでもねぇ化学変化を引き起こして、見たことないブツを超安価で販売して、おまけに利益も出してやろうじゃないの!この世界をこれで生き抜いてやろうじゃないの!って試みなんすよ。 10. 今しかできない、俺しか知らない検索キーワードと誰も見向きもしないゴミを大井競馬場のフリマから探し当てて角度を変えて光らせようという試みのロミちゃんなんすよ。 11. オッペンハイマー観てる場合じゃねぇよ!大田洋子の暴露の時間を読み直せよと。 12. いや、嘘ですよ。 13. 自分が儲かってる仕組みすらも暴露したくなってんのよ。もう儲かったから言ってもいいんじゃないの?と。公開しまくって、自分が儲けられなくなったらまた次の��けを探せばいいので、どんどん言っていこうぜ!と。そんでマティス期に没入すればいい。 14. 今は、パッチワークキルトとドイリーレースをメルカリとフリマでで死ぬほど買いまくってて、それをバズストアやセカストで買ってきたコンディション良すぎるユニクロUや安価で買えたシャツやワンピにレイアウトしたのを縫ってもらって作ってます。 15. まずこの5年でユニクロの服が超クオリティが上がったのと、セカスト、バズストアがそれに対する評価が低いまんまで500円で買えたりする。バズストアのアプリでスクラッチでさらに半額の250円で買えることもある。それを不良外人から中古で4万円で買った電動アシストチャリで都内をポケモンGOの100倍の速さで駆け回り、ゲトゲトにゲットして自転車前かご後ろかごパンパンに積んで過積載すぎて警察も怪しすぎて諦めて職質さえしてくれない。 16. これにパッチワークとドイリーレースを縫ってくり抜いたら1万円が安価に見えてくる不思議なアルケミーですよ錬金術ですよ2024年版ですよ。 17. 生きて帰ってまいりましたソファ文学 18. 自転車で東伏見のセカストまで行ってきた。めちゃくちゃ買えたやんけ。明日からセールだから良いのが揃ってますねぇ。人混みゼロで見れてよかった。 19. 東伏見の弁当屋がびっくりするくらいに大ヒットですよ。幕の内弁当頼んだら好きなの5品選んでくださいってきんぴらゴボウとかピリ辛コンニャクとか頼んだら損した気がするので馬鹿が選ぶ唐揚げ、ハンバーグ、鯖の味噌煮、揚げなす、キンピラの五品に畳とフローリングどっちが良いっすか?と聞かれて海苔をチョイス。いやもう最高の弁当屋っすね。 20. 公園のでかい木の下で椅子持ってきて食べる食べる。昨日から引き続きマインを読む。めちゃくちゃ面白いですね。近藤康太郎、小野和子の2人の本が出て本読める期に突入してますね。本読むならスマホが遠いと最高ですね。喫茶店にスマホ持たずに行くのが一番良いと思います。 21. 我が家から東伏見は15キロも離れてて、電動アシスト充電がほぼ無くなったので快活クラブにイン。充電してアイス食って、シコって、寝て、最高すぎるだろ。 22. コラー!シコるとか書くなよ。 23. 電動アシストチャリは子供を乗せる主婦のものってかママチャリ進化系と思ってる男が多くて、個室ビデオは男が行くんでしょって感じですがこの二つジェンダーフリーっすよマジで。シコるとか子供乗せる自転車とかじゃなく、両方相当にいい。良すぎる。特に快活クラブ良すぎて良すぎて、地方の街道沿いにあるやつはマジで最高なんじゃなかろうか。練馬の環八店かな?最高でした。 24. 内職のアンナちゃんにお届けして、中野の公園でまた椅子出してMINEを読む。 25. あまりにも良すぎたので、ちょいと引っ張ってきます。
いま映画館は、「ネットフィリックスを見ながら家でくつろぐ」習慣から人々を引き離そうと躍起だ。このため極上体験を売るという方針に転換しており、座席はゆったりと大きくし、食べ物や飲み物も上質なものを提供するようになった。航空会社とはまったく逆の路線である。飛行機は乗ること自体が最終目的ではないため、座席間隔はどんどん詰まっている。
クォオオ!最高やんやん。テクノロジーの進化で劇場がそっちに擦る商売に傾き、飛行機は人数を大量に詰め込むために席幅が狭くなる。人の領域がどんどん変化していってるやんやん。
さてさて、
2024年5月3日: 12:00~19:00(金) 2024年5月4日: 12:00~19:00(土)
ときわ座 〒169-0075 東京都新宿区高田馬場1丁目6-13
途中でやめるもバチコン出します。ホリさん企画ですよ。
5月6日横浜トリエンナーレ直売やります。
ドドドのド級にヤバいのを作っておりますので、明日また詳細書きます。 とか言って、今未来の過去の2024/04/25の20時32分。あと28分で新作UPされて確かあと15分以内に書かないと21時にこのメルマガが配信されない。 新作のお知らせという名の長すぎるなんじゃこりゃマガジンですが、 5月6日は中国で刺紙ってジンを作ってる王さんたちが途中でやめるの布に直描きしてくれた布をこっちでリメイクして販売します。 ヨコトリ設営の時に仲良くなって、途中でやめるの服をたくさん買ってくれて、いや、ちょ待てよで、買うんじゃなくて交換しようってことで、布にたくさん絵を描いてもらった。それをTシャツにしたり、刺紙を縫ったりして超いい感じになっております。これが爆裂に売れたらその金を彼らに渡して、辛亥革命よかですか?梅屋庄吉ですテンションでもう一回呼べるんじゃないか?という循環が生まれるんじゃなかろうか。 詳細という名のはしょりすぎで、何が何やらTOKYO BEATってフリクションの曲ありましたか?
6月8日 岡山の宇野港にあるヨギンさんがやってる東山ビルで直売&山下道ラジオ公開収録やります。ゲストはなんとなんとのコチャエの軸原君です。
新大久保から五キロ圏内くらいで激安のミシン使える作業場物件ありましたら教えてください。20平米くらいあると嬉しいです。
山下道ラジオ最新回 なんとSpotifyで聴けるようになりました。
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20231021

少し遅れて夏服を仕舞った。
明日の朝は冷え込むと言う。
今年の夏はコロナ開けの影響か3ヶ月ぐらい忙しい時期が続いた。正直あんまり記憶がないんだな。10月頭ぐらいから心身共に疲れが出て月の裏側で暮らすみたいにひっそりやり過ごした。
それでも9月には伊豆の天城山���登り温泉に入って伊豆半島を車で一周。先日は8年ぶりに都心に出かけて東京都現代美術館でホックニー展を見た。スカイツリーを初めて近くからちゃんと見た気がする。
中央線から見える家々や地下鉄の構内に吹く茶色い風、車内アナウンス、交わることのない見知らぬ人たち。東京。私が根を下ろせなかった街。
時は流れたんだなと思った。
そんで秩父の武甲山に登った。
下りで急に目がブリジット・ライリーの絵みたいにチカチカし始め偏頭痛の発作一歩手前のような状態になって超焦ったが夕方から旧友のお母さんのお通夜があったのでカロナール飲んで気合いで秩父から帰った。
10代から20代の頃可愛がってもらいとてもお世話になったがその友人といつしか疎遠となりおばちゃんとも10年は会っていなかったと思う。
今まで確かに存在していてきっと明日もいるだろうと思っていた人がある時を境にこの世界からいなくなる。
この世に生まれ落ちて生きて死ぬことについて歳を取れば何かしら分かるもんだと思っていたが、結局輪を掛けて分からなくなっていく。
四十にして惑わずとは言うものの。
あとは最近なんかあったかね。
少し太った気がするのでランニングを再開した。
来月人間ドックを予約した。
そんぐらい。
球蹴り
そういえば最近サッカーばっかり見とる気がする。
遠藤選手のリバプール移籍でプレミアリーグ見るためにU-NEXTに登録した。でも結局一番楽しみなのはラ・リーガのレアル・ソシエダの試合、久保選手。親戚たらい回しにされるみたいな不遇のレンタル時代を見てきたので昨シーズン後半からの快進撃は非常に感慨深い。
暗黒時代だと思ってた第二次森保ジャパン。つよい。
5年も見てるとなんだかんだ愛着が出てきてもうポイチが監督でいいような。兎にも角にも運がある。
映画
海よりもまだ深く、海街diary、草の響き、cure、distance、12モンキーズ、LEON完全版、マトリックス・レザレクションズ、ヒメアノール、遊星からの物体X、ガガーリン
「火の鳥」に比肩すると言われたあの立原あゆみの大著「本気!」(マジ!)のように「蛇足!」と書いて「LEON完全版!」と読むぐらいに追加された部分に謎を感じる。
これは父性なの?女児愛してんの?と揺れ動く心を想像させる余白が肝だとてっきり思ってたんだが、なんつうか性癖一切隠す気無いんだなと思って単純に気色悪かった。
マトリックス・レザレクションズも謎だったなあ。
本編に挿入される過去作の映像の若い頃のキャリー=アン・モスが綺麗だった。キアヌ・リーブスも若かった。なんか泣けた。
誰も彼もが歳を取る。
監督のウィシャウスキー兄弟が気づいたら姉妹に変わってるくらい諸行は無常。
読書録
「熊を夢見る、中沢新一」「ユング名言集、フランツ・アルト編」「地上に星座をつくる、石川直樹」
毎度のことだが9月過ぎると早い。次ハッと気づいたら年の瀬とか全然ありうる。今年は早めに大掃除するぞい。
どっか旅行に行きたいと思い続けているが考えてた季節と少しずれてしまったのでのんびり計画を考えている。
どっか寂びれた辺鄙な島とか行きたい。
隙あらば世界大戦前夜みたいな空気出してくるけど何なのと思う。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」展

東京都現代美術館で「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」展を見る。造形作家で批評家としても知られる岡﨑の大規模個展で、作家自身が作品解説も書いている。本人濃度(?)の極めて高い展覧会と言えそうである。
冒頭の画像は、チラシやポスターにも使われている作品。そのタイトルは以下のとおり。
左 Amid the sea’s savage darkness, the little bird glimpsed a single piercing ray of light. What could it be? Awakened, it flew through the storm. Fish, enduring these raging waters, seem stronger, wiser than humans. Beyond twenty feet, wave-roars silence human speech. Reefs transform: slippery, spiked, twisted, sharp—their endless forms leave me utterly lost. 右 The roar of waves and wind deafens me. In reef shadows, I hear phantom whispers, mysterious sea flutes. Mesmerized by the rainbow sheen of fresh fish, divine rapture overtakes me. Sinking through swirling waves, consciousness dissolves. A voice echoes through silver air, "Wild storm! Yet garden, sea, sky—all ablaze." Pale fingers now grasp, cradle.
すべてではないが、かなりの数の作品が非常に長いタイトルを持っている。それも含めて作品が成立しているのだろうと思うので、なるべく正確に書き写すよう努めたが、誤入力があるかもしれない。
展示室は1階から3階まで続き、ミュージアムショップ近くのスペースにも展示が少しある。
展示室1階は「2020年までの仕事」と「さまざまなプロジェクト」。最初に掲げられていたのは、作家が「こづくえ」と名付けた工作物。これを1年あまり壁にかけて眺め、なぜかおもしろいと感じ、のちにシリーズ化していった由。平面を立体化する発想は、洋服の型紙などに通じているようである。





下の作品《3時12分》は、箱に入れて送ったら「梱包材しか入っていなかった」と報告され、ごみ箱の中から梱包材とともに発見されたといういわくつきだそう。壁にかかっていれば周囲から際立った存在たり得るが、置かれた環境によっては作品とは認識されない事例。

このシリーズは、以下のような大きな立体作品にも発展した。


広い展示室でいちばん存在感があったのは、アクリル絵具による絵画作品群だった。透明感のある絵具と不透明な絵具の使いかたがおもしろく、大胆に描き殴ったかのようでありながら、ごちゃついておらず、すっきりした印象にさえ見える。とても長い作品タイトルは、発表当初はかなり奇妙なものと受け取られたらしい。
左 この方角がわたしにとっては、いつとはなしに生きる方角になっていたというわけだ(ぼくらが近づくと消えてなくなる水!)。衰弱していたので海までは出られない。わずかに見える地平線、光線の具合か、砂漠に反射するまぶしい光がぼくらの目を灼く。わずか一滴でも砂の底から草の芽を、緑の火花を誘い出す水。その残してきたすべてを飲み干す。 右 北へ向って五時間歩いたら景色が変った。なにしろできるだけ遠くまで行き(ぼくらは大股に! 歩いた)何もみつからなかったら日没までに戻らなければならない。真昼に消えて夜にはまた生れるあの雲の、日中のさいごに残る積雲の影。そのひとつひとつが、水の動きと水の深さをそなえた森の茂みをあらたに作り出すのだ。見わたすかぎり忙しなく。

左 あなたがたの考え(善悪)は紙に書かれる。この紙きれを火にくべよう。紙が燃えたらその考えこそ過ちとなる。紙は炉に投げ込まれ、しばらく火の中にあったが、やがて焼けも焦げもせずふわり、ふわりと飛びだしていく。楽園に神が生ぜしめた(花も葉もめだたぬ)善悪を知る一本の木。その木から(禁じられた果実と同じく)紙きれも作られたのである。 中央 天使は翼があるから鳥という。顔かたちは玉のように清らか、声のさまも女のよう。心を寄せても返事は文ばかり、耳に入るは羽音だけ。 右 野には(この世界では見えぬ)育ちも摘まれもしない無数の種子が眠る。言葉は種子である。あなたの見る水は、いつのまにか漲り涸れる河のように水蒸気が作るのではない。地の底から、泉のように想起されるのである。

左 石がとどく距離なら、隈なく見渡せるさ。よって、剥き出しになった骸に気づかぬ者—水を目の前に、乾いた口で飢えを我慢するような者は、だれもいない! 悲しみは消えず、きっと肌の上に残るだろう(だから)、いつまでもきりなく泣くことはない。奇麗な死を願うのであれば(食われたくなければ)。海綿と水を用意し、今すぐ洗濯に出たまえ。 右 遠く投げた石によって、少年の肩の筋と骨とは粉々に砕かれた。距たりゆえにこの男—ダレモイナイ、自身は、自分が何をしたのか知ることもない。同じ母から生まれた者を殺したというのに。見える通りその肌はつるつる、滑らかなまま。けれど(だから)心が晴れることはもうないだろう。感じられるのは���脚のくるぶしの痛み。その痛みに大粒の涙を流す、ダレモイナイ。他国のものよ、この男と戦うつもりなら、その鼻と耳を削ぎ落とし、犬に食わすことさえも躊躇うことないぞ。

小さいサイズの作品も多く、大きいサイズのものとは違った魅力がある。左から、《出来/ルーテルの食卓》、《河内(ハノイ)/地球上ではじめての聲》、《瑠璃/西方の溌剌》、《戸口/雑巾と棕櫚の靴拭い》。

床に置かれているのはタイル作品。奥の壁に見えるのが布を使った作品。

床に置かれたタイル作品2点のタイトルは次のとおり。タイルと同じように文字を12×12に並べている。
ひ と の よ は お し よ せ る こ う ず い 、 た て 、 あ ん か ん と い え に ざ し て い て は な ら ぬ 。 れ ん れ ん と こ の よ に と う り ゅ う を き め こ む な 。 す く い の は し が げ き り ゅ う に の み こ ま れ ぬ う ち に い さ ぎ よ く た び た て 。 あ つ い じ ん あ い に お お わ れ た こ の よ に 、 こ こ ろ を あ わ そ う と は お ろ か な こ と 。 ゆ れ う ご く ど だ い に あ し を と ど め て は な ら ぬ い こ う べ き い か な る か げ も お ち て い な い ま ひ る 、 ち か く に み ず わ き い で 、 て ん が い さ な が ら か た ど ら れ た い け 、 か う せ る か 。 み ど り の く さ が も え 、 す ず し げ な み な も 。 さ ば く を は し り ま わ っ た あ し を や す め 、 ぎ ん よ う に あ い た く ち を と ざ す 。 い ち わ の か ら す 、 き ぬ の う え に お か れ た こ く よ う せ き 。 だ れ の た め に も に ふ く す
い ま は わ た し を あ ら う と き で す 、 と み ず に み を な げ た 。 こ ん な う つ く し い ひ と が あ ざ ら し に た べ ら れ て し ま う 、 と ひ と び と は な き さ け ん だ 。 み を な げ る と い な ず ま が お こ り 、 い な ず ま を み て あ ざ ら し は み ず に う か ん だ 。 ひ の く も が と り か こ み け も の た ち が ふ れ る こ と も そ の は だ か の す が た を ひ と に み ら れ る こ と も な か っ た は じ め て て ん ち が し ゅ つ げ ん す る よ り も ま え 、 ま だ な に も の も か た ち を な し て い な か っ た と き 、 い き る も の は た だ お お み ず の う え を た だ よ っ て い た 。 か み の こ と ば に よ っ て て ん ち が あ ら わ れ て か ら は い き る も の は き の う え に ず っ と と ど ま っ て い る 、 だ か ら い き る も の が う ご く た び に 、 こ の き か ら み ず が な が れ で て く る の だ
この下の画像は、布をパッチワーク的に組み合わせた作品のひとつ、《木灰木を育てる》。近づいて目を凝らして見ると、手芸作品ではないので必ずしも布を縫い合わせているわけではないようだった。

絵画ほど多くはないが、立体作品も少なからず並んでいた。
(下の画像左) ハンバウとそむきにぐるものを ホクワクととらへたり (下の画像右) テウミンとたみをとむらって バツサイとつみをきりしは

上の画像で壁に掛かっている小さいサイズの絵は《同じ名をもつ堅さと重量(頭陀袋)》。
また、展示室の隅の一区画が絵本に割かれていた。絵本の実物のほか、絵本『かく』の原画がたくさん。


数々の「ポンチ絵」。作家曰く、デフォルメされて記憶された名画の印象を、設計用薄葉紙を破って表現した、絵画の似顔絵、とのこと。

四谷アート・ステュディウム関連資料。2004年から2014年まで開校された芸術学校で、岡﨑はそのディレクターを務めていたとのこと。

このほか、公園の計画に携わったり(雪と霧の公園)、環境保護的な活動に関わったり(灰塚アースワーク)、公共の場所に設置する作品を制作したり(ファーレ立川)、といった狭義のアートの域にとどまらない仕事も紹介されていた。
2階の小さなスペースでは、岡﨑が2021年に脳梗塞で倒れたことと関連した展示がなされていた。病後のリハビリで描いたものが《T. T. T. Bot (Table Turning Tripod Robot)》の描画過程に似ていたということから、それも展示されていた。《T. T. T. Bot》は2015年の作品で、人の描画過程の速度や方向などを記録し、それを反転させた動きを画板にさせることで、画板に筆を置くだけで描いた本人以外の人も自動的に描画過程を体験できるというもの。この説明では何が何やらという感じかもしれないが、展示室には実物と映像が用意されていたので、仕組みは想像しやすかった。
《T. T. T. Bot》の描画過程の絵はたとえばこんな感じ。

ご本人の脳の写真も。

3階は「2022年からの仕事」。やはりアクリル絵具の絵画作品が主役を張っている。

(上の画像) ジャガタラ。バナナから生まれた。ある日イノシシの牙に引っかかったココナツを見つけました。持ち帰ったココナツを庭に埋めると数日で大木に育ち、花が咲きました。花をとろうと彼女は木に登り、指を切り、その血が花に落ちました。 ジャータカ。かつて菩薩は泥水を泳ぐ力強い魚でした。干ばつがありました。ルビーのような目を開き魚は言いました。助けを求めている世に如来が雨を降らせるのは初めてではありません。洪水が起こって、甘い花の香りが漂いました。 (下の画像) “You don’t see far, and you don’t see clearly,” said the Moon, “In the little pretty whirl here below.” Lute strings trembled moonlight. Gossamer threads caught starlight. Moments dissolved beneath crystal waters. “She wept for the world’s depravity, unheard by the ears of men.” Constellations pierced bamboo grove. Coral pendant caught lamplight. ‘There,’ she exclaimed, ‘there!’ and she knelt and kissed the purple carpet. Evening frost kissed pale skin. Temple candles flickered worlds. Ivory doves scattered dreams. I think she was actually weeping. Dawn shattered like sea glass.


左から On Ohrid Lake’s rocky shore, an ancient sage meditated, his bird-like face carved by time and fasting. Swallows skimmed waters. The novice’s azure beads glinted. “Master,” he murmured, “your strength wanes like autumn light.” Behind them stood a monastery, half-hidden among olive trees, its burned walls whispering tales of sacrilege. “At night, Master, I see them: Hellenic maidens weaving flower crowns with blue wildflowers, their hair flowing with their hearts’ rhythm.” The youth’s voice trembled. Through azure darkness, mysterious figures like shadows - Macedonian shepherds driving boars through olive groves, Dryads herding pearl-white goats, laughter echoing across deep blue Aegean waters. Lilies and roses, planted by long-departed Orthodox monks, wove through the garden where ferns advanced like silent armies. “The ancient Thracian gods still walk here,” the old man murmured, eyes gleaming. Beyond the flower-strewn ruins, cypress groves stretched toward horizon, harboring secrets of Cyclopes and Thessalian nymphs dancing in moonlight. “I seek the moment when immortal spirits sing,” the sage revealed, clutching his cypress staff. “When the sun passes between Ram and Lion, their song trembles through creation. Tomorrow at dawn, I shall hear it.” His eyes blazed with ancient wisdom, reflecting centuries of searching through Byzantine and Delphic lore. The youth gathered roses bright as rubies and lilies white as pearls, weaving them through rushes as the last grains of sand fell. “You’ll find me young again,” the master had promised. When dawn painted the walls with clear light, he sat motionless, embracing the dewy flowers, his quest ended.
《露齿而笑/コロッケを食べるDavy Crocket. または口笛をふくJiminy Cricket》

《Une Larme pour une Goutte d’Eau/ただ一つの慈悲》

立体作品もやはり何点もあったが、Tumblrの画像枚数制限のため少ししか載せられない。
Examine The Tone And Reasoning Too; Consider The face, How It Changes Hue/聆音察理,鑒貌辨色


(上の画像中央の立体作品) Hear the Breakers’ Deepening Roar/气喘如牛、舳艏揺曳倾海/Trampling, Trampling, Trampling, to Overwhelm the Shore! (上の画像左の平面作品) The faithful brown eyes closed in eternal sleep as the wind created an eerie howl. Through tall reeds, something leapt into deep water. “My brother, Follow the path to that volcanic pit,” I whispered. Animals absorb earth’s scent into their flesh; cubed meat wafts soil’s aroma. A large dun-colored beast moved at considerable speed across the green hillside. The stiffened limbs of our prey ceased their natural service. “It was bluish clay,” he muttered, tracking another creature. We glimpsed porcupines, an anteater, and a wild pig with curved tusks. After hunting for over an hour without securing a shot, darkness fell swiftly. (上の画像右の平面作品) The aged fish cast a vast, faint shadow on the pond’s bottom, its silhouette wavering like a mirage in the sunlight. The water’s slight murkiness and the shadow’s immensity rendered it imperceptible to the smaller fish, who swam on, oblivious to the ancient presence above. Daily, the old fish approached the shore, gazing skyward. It sampled the bitter earth, musing, “With time, I’ll adjust.” It longed to scale the bank, envisioning the wonders beyond: distant mountains, rivers, and luminous nighttime cities. The mysterious terrestrial world beckoned, teeming with countless unseen marvels.
最後に余談をひとつ。額縁やケースに入っていない作品が多いので、下の写真のように床のあちこちにテープが貼ってある。ある展示室でテープの先に踏み込んでしまった人がいたらしく、スタッフが「結界を張ってありますのでその先には入らないでください」と言っているのが聞こえてきた。結界。そう、確かに結界と言っていた、ごく自然に、当然のように、大真面目に。それが妙にツボにハマってしまい、誰かに話したくてたまらなくなったが話す相手がいないのでここに記しておく。

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芸術という言葉を、ずっと避けてきた。
そう簡単に使ってはいけないと、そんなところまで届いていないからと。
でも、いまは言えます。
芸術は遊びじゃない。ほんとうに人を心底から救うことが出来るものだ。
このたましいを、賭けるよ。捧げるよ。
このちいさないのちを美しく使い切ってみせる。
私は歪んだ家庭で育ち、教育もなく、ただ本だけが家にありました。
本棚の膨大な本たち、家には居ない親が購読していた絵本の雑誌、図書館の本、自分で買った本、、それがすべてでした。
子供の頃特に好きだったのは、真夜中に違う不思議な世界に迷い込むようなお話でした。
物語のなかの子供達も、同じように苦しんでいたから。
私の絵の始まりは、大好きなぬいぐるみとのしあわせな生活を夢見てノートに描いたものでした。
文章もその頃から同じように書き始めました。
逃げたかった。
ヤンキーと馬鹿しかいない田舎、目に浮かぶくだらない不幸な未来。
そこから逃れるために、学校で毎日殴られても、物を取られても、学校中の女子に無視されても、本を抱えて毎日過ごしました。
そして、絵と出会いました。
最初はマグリットだった気がします。それからたくさんの画家やイラストレーターさんを知って、ああ世界の美しい部分がほんとうにあった、と思いました。
それから音楽が好きになりました。
Radioheadのカルマポリスを中学のときに聴いて、悪い夢のようで、MVも美しくて。
高校のときにはごく初期のART-SCHOOLを偶然知って、ほんとうに夢中になりました。あまりにすべてが救いの世界で、壊れそうで、実際すぐに活動休止してしまったくらい儚く、凄まじいものでした。
"美しく生きたいと誓った"という歌詞に茫然としました。
地元のつまらない女子校の進学校、週五日遅刻して通い、三人の先生から将来ろくでなしになると宣告されました。
でも、私には違う世界があったから。
本を読んで、イヤホンをして、絵を描いて言葉を綴っていたら、私は大丈夫だった。
卒業のタイムカプセルに入れる手紙に、一生を美の為に捧げます、と書きました。
そして大学から、無事東京へ。
東京にしか私の居場所はなかった。
生き抜いて、力の限り生き抜いて、たまに死にかけながらここまで来ました。
でもいつだって信じていました。
美を、あらゆる文化の救いを、身をもって知って、それだけに縋りつきました。
そしていつだってほんとうに救われて、生きてきました。
芸術は遊びではない。
もし誰かにとってはそうでも、それにしか救われることのできない人たちがいること。
だから、私はたましいで描く画家でいます。
一生を捧げて、この手で美を生んで、恩返しをしたい。
芸術、アルス。
このちいさないのちはその為だけにあるから。
靑生ふゆ
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2025/4/11 8:00:05現在のニュース
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各地句会報
花鳥誌 令和7年3月号

坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和6年12月2日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
火野正平まで連れて逝く冬の雨 清女 淋しさは犬との会話冬の雨 同 赤椿狂ひ咲きして天守坂 千加江 忘れ上手になれよと男近松忌 雪 顔のいづれ淋しき菊人形 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月5日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
11月句会
街路樹や日々の黄落留まらず 由季子 黄泉の祖父何方に振る舞ひ根深汁 同 球根を深々と植ゑ春を待つ 喜代子 泣き笑ひ最後は無言冬に入る さとみ 根くらべ集めて散りし柿落葉 同 古き蔵新酒の香り醸し出し 都 云はずとも母が用意の夜食かな 同
12月句会
道楽も過ぎて齢の木の葉髪 由季子 枯蓮の水面ぼやつと疲れ顔 さとみ 空耳か武者の叫びの虎落笛 都 冬怒濤雄島は人を寄せ付けず 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月7日 零の会 坊城俊樹選 特選句
縁者なきマリア観音冬ざるる 久 近づけば寡黙にあらず冬の墓 荘吉 素つ気なく通り抜けたる冬の墓地 同 冬ざるるものへとマリア傾ぎゐて はるか 拾うてはもらへぬ供花と凍蝶と 和子 枯れて尚マリアの像を守るかな 三郎 クリスマスソングピアノの墓石より 慶月 その墓碑に冬あたたかなひびのあり 和子
岡田順子選 特選句
イザベラの墓へと枯葉踏み残す はるか 槙大樹聖樹となりて花鳥子へ 毬子 冬の日は小さき道を真白にす 小鳥 枯野よりゾンビのやうに師が来たる 光子 維新に死す墓を巡りて饂飩すき 俊樹 すずかけや裸木になるまでの音 和子 電飾の届かぬ異人墓地の冬 毬子 としあつは俊厚と書く冬の墓碑 俊樹 黄葉の錐を瑕疵なき青空へ 要 枯蔦を解く術なぞはありもせず 軽象
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月7日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
火事現場逃げ遅れたる子を抱へ 朝子 押し花の一片欠けて冬の蝶 睦子 仮想の世に情は残りて近松忌 美穂 語られて哀しき火事の妓楼跡 かおり 大火事に昭和の町の灯の消えて 光子 「小火です」と電話口より消防士 成子 若き夢みさせし映画館の火事 睦子 江戸大火偲ぶ救ひの橋いくつ 久美子 逝く人の煙ひとすぢ霜の朝 朝子 火事燻るや愛憎の落し所 睦子 火の見櫓都市の底ひへ沈みたり かおり 時雨るゝやアウシュヴィッツもアフガンも 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月9日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
具材盛る母の湯豆腐命日に のりこ 紅葉山初冠雪の遠見かな 聰 白鳥の雅に進む濠深き 秋尚 新雪を掌に受く静けさよ ます江 窓明けて初冠雪の富士拝す 怜 白鳥や富士を見渡す山中湖 貴薫 白鳥を茜に染めて湖落陽 三無 初雪や窓を絵文字にする子たち 聰 初雪や淡い思ひ出いつまでも 秋尚 初雪や喜ぶ孫の靴の跡 史空 白鳥の飛び立つ姿勇ましく さちこ 湯豆腐を頰張る友の皺の増え 史空 初雪や風音もなく降りしきる 廸子 湯豆腐や友あの頃の顔となり 三無 湯豆腐に心ほぐれて二人酒 廸子 湯豆腐や流れやさしき河の辺に 和魚 白鳥をゴン太と呼ばふ人の逝く 貴薫 湯豆腐を崩さず掬ふ紅の爪 三無 今朝の富士初雪まとふ勇姿かな エイ子 湯豆腐や昔の話に頰染めて 廸子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月10日 萩花鳥会
焼き芋の声透き通り冬に入る 俊文 石焼ィー藷遠ざかり往きしまま 健雄 焼藷をくるんで熱き新聞紙 恒雄 夜勤明け焼藷食みつ帰り道 綾子 何か住む田なかひと町枯葎 美恵子
………………………………………………………………
令和6年12月13日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
日溜に息衝き蝶の凍てゆくか 美智子 顔揚げて冬日に甘え芝広場 栄子 鴉鳴く寒林ふいに淋しくて 都 箒目のたちたる園に散る紅葉 和子 生き様のあるが如くに木の葉舞ひ 宇太郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
色もなく静かに眠る冬田かな 紀子 紙を漉く季節の飾り散りばめて 裕子 隙間風母と耐へしは昭和なり みえこ しあはせは日向ぼつこの中にある 裕子 初雪に歌ひ出すあの一小節 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月14日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
由緒ある館を覆ひ蔦かるる 和代 蔦枯れて残る雨の音風の音 幸子 葱買ひて妻に戻りて帰り道 三無 園児らの声弾みをり日向ぼこ 白陶 鼻の先冷たくなりて句座につく 同 野仏を労はるやうに石蕗の花 幸風 北風に騒めき起こるアスファルト 白陶 枯蔦の中に灯をともすジァズ喫茶 三無 根深汁啜る心は故郷へ 和代 ことさらに人に告げたき枇杷の花 白陶 経あげて冬青空を拝しけり 秋尚 人参引くやはらかき葉の心地良さ 幸子 碧天の雲一つなき枇杷の花 文英 短日や小走りになる下り坂 恭子 牡蠣筏島に抱かれ守られて 幸子 日を溜めてポインセチアの小さき鉢 秋尚 張替へし障子の白に思ふこと 多美女 寒空の墓碑に誦経を修しけり 幸風 息深くして残菊の香に染まり 三無 深谷ねぎ譲る先々崇められ 幸子 住み古りて枯菊を焚く夕間暮れ 美枝子 冬日背にたつぷり溜めて句碑拝す 秋尚 べりべりと枯蔦はがす蔵の壁 幸風 山間の畑の一畝葱坊主 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月15日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
裸木の並木一本づつ孤独 三無 乾きたる落葉の音を深く踏む 秋尚 応へなき観音に問ふ寒さかな 三無 冬日には届かぬ観音様の指 慶月 冬ざるる枡形山に武者の翳 月惑 冬日��影の大きな母の塔 斉 冬紅葉素知らぬふりの母の塔 三無 急磴の手摺冷たく母の塔 芙佐子
栗林圭魚選 特選句
枯れ野行く躓く石も皆乾き 軽象 綿虫とぶ山日の暈を大仰に 千種 敷松葉旧家の縁の蘇鉄かな 久子 凜として冬青草の戦ぎたり 三無 冬晴や大きく開けて蔵の窓 芙佐子 冬ざるる枡形山に武者の翳 月惑 碧空にメタセコイアの冬木立 白陶 静寂の谷戸の小流れ冬紅葉 ます江 冬日和影の大きな母の塔 斉 遠富士を冬青空に確と嵌め 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月17日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
無人駅芒の穂波金と銀 世詩明 虚子偲ぶ三國しぐれの中にかな かづを 落葉掻き柿の木二本栗二本 清女 産土の絵馬は白蛇年用意 希子 省くもの影さへ省く枯木立 同 初雪の門前に立つ修行僧 隆司 寒修行手足真つ赤になりまうす 同 無精髭似合ふ漢の懐手 千加江 人恋ひの世を永らへて近松忌 雪 近松忌黄泉に携ふ文書かん 同 時雨の人よりと結びし古き文 同 書きかけの手紙の続き十三夜 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月16日・21日 柏翠館・鯖江花鳥合同句会 坊城俊樹選 特選句
顔の菊人形でありにけり 雪 濃き縁薄き縁も近松忌 同 越前に生れて老いて菊膾 同 湖を吹く風が遺してゆく寒さ かずを 九頭竜を揺り篭とし鴨浮寝 同 目に見えぬものが背を押す師走街 同 雪囲ひうす暗がりの仏達 ただし 獣をやさしく抱へ山眠る みす枝 ポインセチア妻と二人の医者通ひ ただし 風花の風山からも海からも 世詩明 再手術生きねばならぬ去年今年 同 極月や韋駄天走り買物に みす枝 日本海屋根の上まで浪の花 同 笑ひじわ一本増えて年の暮 真喜栄 肩の荷の一つ減らして年惜む 同 断崖を香りでつつむ野水仙 英美子 薄つすらと甍に雪の初便り 喜代美 板塀の木戸から婦人近松忌 嘉和
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年12月20日 さきたま花鳥句会
半身出し指呼の車掌の息白し 月惑 鴨の陣水面につくるある秩序 八草 竹輪麩におでん談義の始まれり 裕章 昏れなづむ街に消えゆく大熊手 紀花 酉の市客待つ人の股火鉢 ふゆ子 早口の会話飛び交ふ年の暮 としゑ 家用の小熊手買ひて大手締め 久絵 雨上り土ふくらませ生姜の香 康子 冬服や流行遅れの肩パット 恵美子 神宮の森寒禽の声あまた みのり 雪吊を見事に仕上げ茶屋の前 彩香 五十年砥石の凹み十二月 良江
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2025年 WishList100
遅くなったけど今年のWishlist作りました。いい加減資格を取りたいけど、取れても取れなくても次に進む。やりたいことを明確にして生きたい。去年と同じく95~99は人生のどこかでやりたいこと。
ハワイに行く
台湾に行く
韓国に行く
ヨーロッパに行く
ANAに乗る
海外ディズニーに行く
ディズニーランドに行く
ディズニーシーに行く
温泉に行く
サウナに行く
地元以外の図書館に行く
図書館のイベントに参加する
読書旅行に行く
静岡シネ・ギャラリーで映画を観る
高田世界館で映画を観る
簿記論合格する
会計基準をかみ砕く
Duolingoを継続する
一般ロードショーされる台湾映画を全部観る
ディズニー映画を映画館で観る
旅行する国の映画を観る
旅行する国の小説を読む
最初に買った塗り絵のレッスン終わらせる
理想のパフェを見つける
ビストロロジウラに朝カレー食べに行く
スパイスカレーのお気に入りレシピを見つける
台湾カステラ作る
パッシーユ作る
スコーンとクロテッドクリームを作る
パイシート使う
美味しいウフマヨを作れるようになる
美味しいおにぎりを作れるようになる
ピカールのクロワッサンを食べる
ガンボ食べる
スムージー作る
ブレンダー?ミキサー?買う
ホテルブュッフェに行く
テラス席に座る
ハッピーアワーに行く
HUBに行く
ボディクリーム塗る
足裏のメンテナンスに行く
ブルベに似合うリップを買う
美容医療にチャレンジする
婦人科に検診に行く
心臓のエコー検査受ける
文学の読書会に行く
文学以外の読書会に行く
ガーディアン紙の死ぬまでに読むべき1000冊を3冊は読む
美術館に行く
現代アートを見る
どこかでビューンを使う
fuzkueに行く
スマホを持たずに出かける
定期を活用して行ったことのない街に行く
ノンフィクションを読む
ビジネス書を読む
年間36冊本を読む
本を読んで本を売る
部屋を片付ける
机を買い替える
椅子を買い替える
ベランダの改装計画を立てる
友達を作る
デートをする
フィルムカメラを使って現像に出す
新しいデジタル一眼レフを買う
勉強用にiPad買う
勉強方法の情報収集と整理
筆記用具を新調する
新しい職場に慣れる
他部署の人にも適度に無駄がらみする
職場周りのご飯屋さんを足で探求する
帰り道に寄れるビストロを開拓する
仕事終わりに地元以外で映画館にいく
仕事終わりにイベントに参加する
月1~2か月に1回仕事終わりに友達をご飯に誘う
クラシック・ジャズをBGMとしてではなく音楽として聞いてみる(曲名を知る)
コンサートに行く
ミュージカルをみる
単発で料理教室に行く
料理を理論的に覚える
自重で腹筋鍛える
四角いお尻を丸くする
姿勢を良くする
整体に行く
マッサージに行く
頭皮と髪のメンテナンスする
花を買う
外国株を買う
文フリに行く
note書く
発音理論を勉強する
日本語教師になるにはどうするかを調べる
批評を書く
アフリカ大陸に行く
南米に行く
大学で勉強する
語学留学する
優雅な生活で復讐をする
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街とその不確かな壁/君たちはどう生きるか/ジブリ・春樹・1984
最初のジブリの記憶は『魔女の宅急便』(1989年)だ。母がカセットテープにダビングした『魔女の宅急便』のサントラを幼稚園の先生に貸していたから、幼稚園の頃に見たのだ。
まだ座席指定の無い映画館に家族で並び、私は映画館の座席で親に渡されたベーコン入りのパンを食べていた。4・5歳の頃の記憶だ。
その夜、私は夢の中で魔女の宅急便をもう一度見た。私は親に、夢でもう一度映画を見たと伝えた。
『おもひでぽろぽろ』(1991年)も映画館で見たが、あまりよく分からなかった。『紅の豚』(1992年)も映画館で見た。帰りにポルコ・ロッソのぬいぐるみを買ってもらい、縫い付けられたプラスチックのサングラスの後ろにビーズで縫い付けられた黒い目があることを確認した。
『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)『耳をすませば』(1995年)までは両親と一緒に見たと思う。
父はアニメに近い業界にいたため、エンドロール内に何人かの知人がいたようだった。アニメーターの試験を一度受けたそうだが、他人の絵を描き続けることは気が進まなかったらしい。
家のブラウン管の大きなテレビの台の中にはテレビ放送を録画したVHSテープが並び、ジジやトトロの絵とタイトルを父が書いていた。テレビ放送用にカットされたラピュタやナウシカを私は見ていて、大人になってから初めて見たシーンがいくつかあった。
“家族で映画を見る”という行事はジブリと共にあった。ジブリ映画の評価は今から見て賛否両論いくらでもあればいいと思うが、批評も何も無い子ども時代に、母がとても好きだった魔女の宅急便や、戦争は嫌いだが戦闘機が好きな父と紅の豚を見られたことは幸福な年代だったのだと思う。
評価が何も確定していない映画をぽんと見て、よく分からなかったり面白かったりする。
親は『おもひでぽろぽろ』を気に入り、子どもにはよく分からない。父からは昔の友だちが熱に浮かされたように「パクさんは本当に凄いんだよ」と言い続けていたと聞���された。
※
大人になった私は『ゲド戦記』(2006年)を見て「面白い映画に必要なものが欠けているこの作品を見ることにより今までに見たジブリ映画のありがたみが分かった」とぐったりし、『崖の上のポニョ』(2008年)を新宿バルト9で見て、全然楽しめず、新宿三丁目のフレッシュネスバーガーで「神は死せり!」と叫んでビールを飲んだ。
2020年には『アーヤと魔女』の予告編に驚愕し、『モンスターズ・インク』(初代、2001
年)からずっと寝てたのか!?と罵倒した(見ていない)。
私が持っていたジブリという会社への尊敬は過去のものになり、多彩な才能を抱えていたにもかかわらず明らかにつまらないものばかり作る血縁にしか後任を託せない状況にも嫌悪感を抱いた。
期待値は限りなく低く、『君たちはどう生きるか』を見ようかどうか迷っている、とこぼしたら「見て文句も言えるからじゃあまあ一緒に行く?」という流れになり、見た。
あまりにも期待値が低かったため、文句を言いたくなるような作品ではなかった。私は2023年、もっともっとつまらない映画を何本も劇場で見ている。つまらない映画を劇場で見ると、もう2度と見なくて良いという利点がある。
『君たちはどう生きるか』の序盤、空襲・火災・戦火で街が焼ける場面、画面が歪で、不安で、安定感がなく、私はホッとしていた。綺麗に取り繕う気のない、表現としての画面だった。
複数の場面に対してセルフ・パロディーであるというテキストを読んでいたが、私にはあれらはオブセッションに見えた。小説家でも芸術家でも脚本家でも、何を見ても何度も同じことを書いているな、という作家に私は好感を持っている。少なくとも、いつも結局テーマが同じであることは減点の理由にはならない。
『君たちはどう生きるか』になっても高畑勲の作品に比べればどうにも女性の人格が表面的で、天才はこんなにもご自身の性別をも超えて何もかもわかり物語に落とし込めるのかと感激した『かぐや姫の物語』(2013年)に比べてしまうと胸の打たれかたが違うのだけれども、でも私は取り憑かれたテーマがある作家のことが、いつも好きだ。
スティーブン・スピルバーグは『フェイブルマンズ』(2022年)でもう大人として若い頃の母親を見つめ直せていたように思うが(フェイブルマンズで取り憑かれていたのは別のものだ)、
宮崎駿は小さい頃に一方的に見つめていた母に取り憑かれ、母の内面には踏み込めないまま、少年・子どものまま母を見つめ続け、自分が老年の大人として若い母親を見つめ直す気は無い。
そして、母親の方を少女にして映画の中に登場させる。しかも「産んでよかった」という台詞を創作する。
貴方は大人なのにずっと子どものままで母親に相対したいのですか、と思いはするものの、子どものままの視線で母を見つめ続けたいのなら、それがあのように強烈ならば、それがオブセッションなら全くかまわないことだと思う。
最初に屋敷に出てきた7人のおばあちゃんがあまりにも妖怪じみているので驚いたが、あれは向こうの世界とこっちの世界の境界にいるかた達という理解で置いておいてあげよう。
それにしてもアオサギが全く可愛くもかっこよくも無いことに最後まで驚いていた。頭から流れる血液も、赤いジャムも気持ちが悪い。途中途中、激烈に気色が悪い。世界や生き物は気持ちが悪く、性能の良い飛行機みたいに美しくは無い。カエル、内臓、粘膜、血液、食物もグロテスクだ。嫌悪ではない、全部生々しい。生々しく、激烈だ。その生々しさを必要としたことに胸をうたれた。
塔の中のインコについて、愚かな大衆だとかジブリはもう人が多すぎて���まったんだとか商業主義的な人間の表現だというテキストも読んだのだけど、私はあのインコたちがとても好きだった。
インコたちは自分達で料理をして、野蛮で、楽しそうだった。終盤、緑豊かな場所にワッセワッセと歩いていくインコさんが、「楽園ですかねぇ」「ご先祖さまがいますねぇ」と言ったようなことを言うシーンが面白く、可愛らしく、インコたちの賑やかな生活(時に他者に攻撃的であっても)を想像した。
私は水辺の近くをよく散歩していて、大きな渡り鳥が飛来してまた消えていくのをじっと見つめている。鳥たちがある日増えて、いなくなる。国を越えて飛んで行き、地球のどこかには居続けているのがいつも不思議だ。
映画の中で、鳥やカエルはあのように生々しく、実体をつかんでアニメーションに残すことができるのに、全てを生々しく捉える気が無い対象が残っている。どうしてもそれを残すことが寄す処なら、それはそのままでかまわない。
※
小説では、村上春樹の『街とその不確かな壁』を読んだ。
私の父は村上春樹と同い年で高校卒業後に東京へ出てきたので、『ノルウェイの森』で書かれている、まだ西新宿が原っぱだった頃を知っている。その話を友人にしたところ、『西新宿が原っぱだったというのは春樹のマジックリアリズムかと思っていた』と言っていた。
私が村上春樹を読み始めたのは及川光博が「僕はダンス・ダンス・ダンスの五反田君を演じられると思うんだけど」と書いていたの読んだのがきっかけだ(曖昧だけれども、1999年くらいか?)。
『風の歌を聴け』は家にあったので、そのまま『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』を読み、その後短編集をあるだけと、『ノルウェイの森』『世界の終わりとハートボイルドワンダーランド』を読み、『ねじまき鳥クロニクル』は途中途中覚えていないが一応読み、『スプートニクの恋人』(1999年)を高校の図書館で読んだがあまり面白くないと感じた。
最近ではイ・チャンドン監督の映画『バーニング』(2018年)が素晴らしかったし、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021年)も面白かった。
『ドライブ・マイ・カー』の原作(短編集『女のいない男たち』収録)は映画を見た後に読んだが、反吐が出るほどつまらなく、気持ちが悪い短編だった。
イ・チャンドン監督も、濱口竜介監督も、「今見たらその女性の描写、気持ち悪いよ」を意識的に使っていたのだろう。『バーニング』は『蛍・納屋を焼く・その他の短編』時期の初期春樹、『ドライブ・マイ・カー』はタイトルこそドライブ・マイ・カーだけれども、ホテルの前の高槻の佇み方はダンス・ダンス・ダンスの五反田君であろう(港区に住む役者である)。
村上春樹のことは定期的にニュースになるのでその度に考えているのだけど、2023年に、フェミニズムのことをある程度分かった上で過去作を読むのはかなり厳しい気もしている。
次から次にセックスをしているし、主人公はガツガツしていない風なのに何故かモテているし、コール・ガールを呼びまくっている。
『ダンス・ダンス・ダンス』に出てくるユキは13歳の女の子で、ユキの外見・体型に関する記述はそこまで気持ち悪くはないのだが、『騎士団長殺し』に出てきた未成年の女性に対する描写はとても気持ちが悪かった(はず。売ってしまったので正確ではないのだが、あまりに気持ちが悪くて両書を比較をした)。
いくら今「この人は世界的巨匠」と扱われていても、作品を読んで気持ち悪いと思えばもう読む価値のない作家であるので、まだ読んだことがない人に読むべきとは全く思わない。
けれども、20年前に読んだ村上春樹は面白かったし、『ダンス・ダンス・ダンス』に書かれる母娘の話に私は救われたのだと思う。
最近友人に会い、「村上春樹は読んだことないんだけど、どうなの?」と聞かれたので、「春樹の物語は色々な本で同じモチーフが多い。主人公がいて、どこかへ行って、帰ってくる。戻ってきた世界は同じようでいて少し変わっている。私たちが現実だと思っている世界は世界の一部分に過ぎず、どこかでみみずくんが暴れているかもしれないし、やみくろが狙っているかもしれないし、誰かが井戸の底に落ちたかもしれない。だけど主人公は行って、戻ってくる。どこかで何かが起こっていても、行って戻ってくる。一部の人は行ったっきり、帰ってこられない。」
「この世では 何でも起こりうる 何でも起こりうるんだわ きっと どんな ひどいことも どんな うつくしいことも」は岡崎京子の『pink』(1989年)のモノローグだけれども、何でも起こりうる、現実はこのまま永遠に続きそうだけれども、ある日小さなズレが生じ、この世では何でも起こりうるんだわ、という小説を次々に読みながら大人になったことを、私は愛している。日常を暮らしていると現実の全てに理由があるかのように錯覚してしまうけれども、「何でも起こりうる」世界には、本当はあまり理由がない。何か理由があると錯覚し過ぎてしまうと、公正世界仮説に囚われて、善悪の判断を間違ってしまう。
「主人公が、行って、帰ってくる」形は数えきれないほどの小説・映画の構造なので特徴とも呼べないところだけれども、『君たちはどう生きるか』もそうだし、『ダンス・ダンス・ダンス』も、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』も、昔読んだ『はてしない物語』だって勿論そうだし、『オズの魔法使い』もそうで、『君の名は。』もそうだったような気がする。
『はてしない物語』の書き方はわかりやすい。
「絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。」コレアンダー氏はいった。「いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージエンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ。」
※
『街とその不確かな壁』は春樹の長編も最後かもしれないしな、と思って読み始めたが、半分を超えるまで全然面白くなく、半分を超えてもちょっと面白いけどどう終わるんだろうこれ、の気持ちだけで何とか読み終わった。
17歳の少年のファーストキスの相手の音信が突然途絶えようと、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の世界の終わり側の話をもう一度読まされようと、どうしてそれを45歳までひっぱり続けるのか、読んでいて全然情熱を感じなかった。
イエロー・サブマリンのパーカを着た少年が何のメタファーなのかは勿論書かれていないが、春樹は昔に還りたいんだろうか?何故か「あちらの世界」から物語がこちらに、鳥に運ばれてきたみたいにするすると現れ世界を覗けたあの頃に?活発な兎が息を吹き返すように?
※
宮崎駿のオブセッションや視線は今も跳ね回っており、村上春樹の滾りは、もう私にはよくわからないものになった。
私は昔『ダンス・ダンス・ダンス』を何ヶ月もずっと読み続け、どのシーンにどんな形の雲がぽつんと浮かんでいるかも記憶していた。欲しいものだけ欲しがればいいし、くだらないものに対してどんなことを友だちと言い合いビールを飲めば良いかを知った。
岡崎京子に「幸福を恐れないこと」を教えてもらったみたいに。
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Happy New Year Jan. 1. 2025 (part 2)
承前 後編
そして、(25) に至っては、これはもう明らかなビール腹の男がもう一人のビール腹の男にナイフで刺され、宙に投げ飛ばされ、毒を盛られ、銃で撃たれ、布を被せられて見えなくさせられるというドタバタ喜劇 (“slapstick comedy”) に他なりません。

(25)
或いはまた1971年雑誌初出の “The Disrespectful Summons” (柴田元幸訳『失敬な召喚』河出書房新社, 2018) の表紙(26) では、

(26)
タイトルの長い横文字二語を収めるために少々お腹/胸を膨らませられた装飾枠縁のフィニアルも、作中で悪魔に召喚される「か細い腰」の女主人公スクィル嬢の身体と見做せなくもありません。事実、彼女が地獄の業火の中に真っ逆さまに投げ捨てられて終わる最終場面の後の裏表紙(27) では、

(27)
このフィニアルは––––尖端を表紙のそれよりは短く太くされ、お腹/胸には羅典語で “Finis” と書かれて––––死体として地に倒され横たえられて “終” らされているのであります。
更にはまた1993年1月11日『ニュー・ヨーカー (“The New Yorker”)』誌掲載の《忠告詩 (“Verse Advice”)》12点の中の<“At twilight objects often start / To make odd sounds and fall apart.” (黄昏に 物皆しばし 始むるは/バシと音を上げ 砕け毀るる。)>(28) のそれも、

(28)
隣のベンチに座って気になって上/横目遣いにチラ見している老いた68歳翁ゴーリーの、あちこち痛んでガタが来た老体そのものを表しているようです。
フィニアルに関してはこのくらいにして、「古い…便器」の方に移りましょう。シフはこれ以上は言っていませんが、実はこれが、ゴーリーが1985年 (60歳時) に「築200年の古い館を買い…『エレファントハウス』と自ら称した…命名の由来」の中で「もっとも有力な…トイレの便器の形が象の頭部のようだったからという」その便器で、「エンドテーブルとしてリメイクされ、今でも…ゴーリー・ハウスで案内台として活躍中」(29) だそうです。

(29)
確かに、この便器のボウル (“Bowl”) と排水管 (“Drain Pipe”) の組み合わせは、横から見ると、ゾウの頭と鼻にそっくりで、我が沖縄–万座毛の象の巌(30) を連想させます。

(30)
“横から見ると” と言ったのは、通常は便器をその方向から見たりはしない (通常は斜め上・前方) からで、それはまさに、かのマルセル・デュシャンの<泉>(31)

(31)
––––厳密には、アルフレッド・スティーグリッツがこの男性用小便器をこの置き方で台 (≒台座) の上に載せ、マースデン・ハートリーの油彩画<騎士>(32)

の中心部をバックに、複数の投光/照明で演出・撮影して雑誌に掲載された解説文付き写真図版(33)

(33)
––––の “造形” 原理と同じなのです。
そして、この便器もまた “この写真の作者” であるスティーグリッツには、やはり「ゾウ」に見えたのです……但しゾウはゾウでも、仏像と聖母像ですが……。彼は1917年4月23日付けの手紙で次のように書いています。
––––「『小便器』の写真は本当に全くもって素晴らしい–––見た人は皆美しいと思うよ–––本当に–––そうなんだ。東洋的な雰囲気があり–––ブッダとヴェールを被った聖母マリアを合わせたような感じだ」(‘The "Urinal" photograph is really quite a wonder―Everyone who has seen it thinks it beautiful―And it's true―it is. It has an oriental look about it―a cross between a Buddha and a Veiled Woman’)」(34) ––––と。
聖母であれば、差し詰め<Virgin of Lourdes Fountain (ルルドの泉の聖母)>(35)、

(35)
仏様なら<白衣観音 (白衣母)>(36) といったところでしょうか。

(36)
両者共に白いヴェールを被り、洞穴口 (前者) や岩の狭間 (後者) をハートリーの<騎士>中央部のアーモンド型マンドルラ (“mandorla”=光背) のように背負い、共に湧/噴/出水 (いづみ) と密に結びついているからです。
柴田元幸は、前掲書(11) の p.70 で、ゴーリーが何冊か絵本を協作したピーター・ニューマイアーとの書簡集 “Floating Worlds” の中に披露された (ゴーリー本人自ら言うところの)「E・ゴーリーの偉大にして単純なる芸術論」を、以下のように紹介しています––––「芸術とは、一見ある何かを描いているが実は別の何かを描いたものである。『「ある何か」しかない芸術は退屈だし、「別の何か」ばかりの芸術は苛立たしい』」––––と。
この「別の何か」とは、よく言われるメタファー (“Metaphor” 隠喩/暗喩) とかシンボル (“Symbol” 象徴) といった所謂 “裏に隠された/隠れた意味” のことでしょうが、もしこれが「『何かの形に見える』別の何か」だとしたら、これ以上やり過ぎるとゴーリーならずとも苛立ってきますので、この辺でやめにしておきます。
兎に角このようにしてゴーリーは、例えば「プルースト式質問表」で「あなたの最高の贅沢は?」との問いには「フリーマーケットでものを買うこと」と答え(37)、「『何かの形に見える』古道具が好きで集めていた」 (と言うよりは「物が捨てられない。別の場所に仕舞い込むだけ」(38) だった) わけですが、私が少なからず残念に思うのは––––その買い/集め/仕舞い込んだものが、飽くまで彼の言語 (literature) が先で視覚 (illustration) が後に来る…… (字義通り先在する文字=“litera” の中に=“in”、光=〈色と形〉を差し入れる=“lustrare”) ……創作 (絵本や挿絵) の単なる刺激物や参考品として (或いは純粋な遊びとして) 留まっていただけで––––それを使って (素材にして/別の何かと組み合わせて) 更なる創作 (オブジェや彫刻や立体造形) へと展開することは殆ど無かったという事実であります。
例の “塩/胡椒容れの都市” も––––例えば『ウィローデールの手漕ぎ車 またはブラックドールの帰還』(柴田元幸訳, 河出書房新社, 2024, 原書は1962) の第11場面に描かれた断崖の上の資本家の「宮殿風のお屋敷」(39)
(39)
に反映させたかもしれませんが––––それを立体造形作品としては発表は無論のこと意識さえしていなかったのではないでしょうか。「おろし金の都市」も、作品としては造られた形跡は無いようです。(そしてこれは想像するだに楽しいのですが) “フィニアルの都市” というのも是非、見てみたかったものです。
ゴーリー自らが––––「どちらかというとわたしは自分を作家だと考えています。視覚的なものよりも、文学的なアイデアの方が先に浮かぶんですよ」(40) ––––と言っているのと軌を一にするかのように、文字/言語/文学畑からの方が、視覚畑の方からよりも発言が多いように思います。特に (イラストやデザインといった応用美術=“Applied Art” ではない) 純粋美術=“Fine/Pure Art”––––中でも特にオブジェ/彫刻/立体造形や美術理論/美術史––––の分野からの発言が極めて少ないように思います。
彼が作り出した絵本の中には、文のない絵だけの “字義通りの絵本” もあり、また他の人の文に絵だけを提供したり……と、結果的にはむしろ絵の方が多かったわけで、私が以前に絵本の「読み聞かせ/読み語り」という呼称に対して “音声/言語 /文字/文学偏重で、絵を見せる行為/所作が一言/一文字も入っていないではないか!” と噛み付いた(41) と同じ不満を、このことに対しても抱くのです。
最後に、“これもフィニアルだ!”(42) というお年玉を上 (挙) げましょう。
(42)
これは実は壺でもあります……壺は壺でも「ルビンの壺 (“Rubin’s Vase”)/図地の壺 (“Figure-Ground Vase”)」ですが。
この写真(43) が説明し易いので選びましたが、

(43)
ピンクの服を着た少女の向こう=奥の黒い背景=「地 (“Ground”)」は、首を前に傾げて立つ人物の平面的なシルエット (影絵) になっていて、間の柱を挟んで同様に首を傾げて向かい合って立つもう一人の黒い影も「地」です。そして (この「地」に対する)「図 (“Figure”)」としての少女のオデコが触れそうになっている (やはり「図」である) 立体的な柱が「ルビンの壺」ですが、ここでは壺の形ではなくて、まさに細いフィニアルの形になっています。
ゴーリーのこの絵(42) は、同じ格好でワイン・グラスを掲げて向き合って乾杯する二人/匹の登場人/獣の形に刈り込まれた植木の “Topiary (トピアリー=刈り込み装飾)” が「図」で、蒼い空と地続きの「地」としての狭間が、ルビンの壺ならぬゴーリーの “Finial (フィニアル=先端装飾)” になっているわけです。
この『蒼い時』は、図版引用元のマーク・デリー(44) も述べている通り、ゴーリーの性的指向がホモセクシャル/ゲイであるとの推測/分析/解釈/論評の傍証として喧伝されている作品で、だからここで以下のことを述��るのは場所として相応しいというわけではありませんが、“Finial”(フィニアル=先端装飾) の形が本質的に “Phallic”(ファリック=男根的) であると言う形体類似連想は、やはり最後に一言触れておかねばならないことだと思います。
フロイトは『精神分析入門講義』の中で––––「男性性器……の象徴的代替物となるのは、形の上でそれと似たもの、つまり、杖、傘、竿、樹木、等のように、長いもの、高くそびえるもの…さらに、体の中に侵入する…傷つける……あらゆる種類の尖った武器」(45) ––––と述べています (別訳の異なる訳語では––––「ペニスを象徴的に代理するものは…形の上で似ているもの…すなわち長くて突き出ているもの」(45)-1 ––––となります)。
更に、この『精神分析入門 (正/講義)』(1917) と並ぶ二大著作の一つ『夢解釈 (/判断)』(初版, 1900) の第4版 (1914) の方にも––––「長く伸びるすべての物、…杖、木の枝、傘 (広がることが勃起に比せられるゆえ!)【1909年】…は、男性性器を代理する傾向がある」(45)-2––––と追補・既述されており、また、壺に関連する物に関しても対比的に続けて––––「小筐、箱、大筐、箪笥や戸棚、窯は、女性の体に対応する。【1909年】…洞窟、船、そしてあらゆる種類の容器類もまた、そうである」(同上)––––とあります)。
この図と地の反転図形は、一方に意識が行っている (意識へと浮上させ/解き放っている) 時には他方は見えず (無意識へと「抑圧」(46) ��/沈潜させ)、一旦双方を交互に認識できた途端に、片方ずつしか見えない反転……つまり浮上と沈潜/解放と抑圧……を交互に繰り返すのです。
ゴーリーがこの絵を描いていた時、当然それは図であるトピアリーの方を描いていたわけで、その時この地の “ファロス風フィニアル” に気付いていた (図–地反転が起きていた) のかどうか?––––ひょっとすると彼は、それを無意識的に無意識界へと抑圧して、見えなかったかもしれません。
ただ、意識して描いた「図」であるトピアリーの方にも、実は気になる形があります。それは、この二人/匹の振り上げた片方の脚 (樹木/木の枝) が、位置的にも勃起したペニスのように見えることで、これにもゴーリーは気付いていなかったかもしれません。そして以下のことも知らなかったかもしれませんが、これは原始美術でもよく知られている勃起した男根を持つ上半身が牛で下半身が人間の洞窟壁画(47)

(47)-1

(47)-2
を想起させるのです (ポーズもそうですが、何よりも人でもあり四足獣でもあるという点が共通しています)。
そして、「図」として斜め上に向かって突出し合うこの尖った脚/ペニスは、「地」のフィニアルにとっては、左右から斜め上に切れ込む––––「体の中に侵入…傷つける……尖った武器」としての銛や槍や鏃の威力を高める––––「返し/掛かり/顎 (逆刺/逆鉤)」を形作っていることになるわけです。或いはこの形はまた、フロイトが挙げるペニスの象徴的代理の別の一つである “枝や骨を広げた樹木や傘” にも見えます (おまけに、その先端からは、グラスが激しく合わされば、液体が飛び撥ねることになるのです)。
ただ、ゴーリーが––––「あの悪名高い種族…の一人が…わたしの展覧会を見たあとで、わたしのところに来…ある一枚の絵がずいぶんと気になる様子で––––彼女は精神科医だったんですがね––––『あの絵の本当の意味は何か、教えていただきたいんです』と言ってきた。人が物事に意味を見出しはじめたときには気をつけろ、という…意見に、私は同意します」(48) ––––と言っている通り、私も精神科医の意味付けには充分に気を付けて、傾聴しつつもこの話はこれで「終わり」(49) にしたいと思います。

(49)
(1. 1. 2025)
註
(25) via [https://www.edwardgoreyhouse.org/pages/2024-exhibit]。
これは2024年【ゴーリー・ハウス】企画/開催の《優美な屍骸:エドワード・ゴーリーの仕掛け絵本》展の紹介頁の冒頭に掲げられている図版ですが、そもそもは 1989年に刊行された縦長の「仕掛け絵本 (“Moveable Book”)」『滴る蛇口 (“The Dripping Faucet”)』(25)-1 =[https://www.etsy.com/jp/listing/1603748724/the-dripping-faucet-by-edward-gorey?click_key=8b96556e010b406c8d13c514f71245733995bbd1%3A1603748724&click_sum=3017a4f9&ref=related-2]

(25)-1
の縦 ⅑ 頁の “絵札” 4枚を横に繋げ、その見開き左頁の “読み札” (別の絵札の裏) の文字をそれぞれ下に並べたものです。
この「二人」に関して、濱中利信編, 柴田元幸/江國香織/他著『エドワード・ゴーリーの世界』(河出書房新社, 2002初版, 2020改訂増補初版) の p.41 では濱中が「壺」と (因みに “⅑” は「10分割」と)、また pp. 149-77 所収の「特別座談会:ゴーリー作品の魅力を語り合う」では柴田が––––「チェスの駒みたいですけれどもね、この二人は」(p.165) ––––と言っていますが、もしも後者が “チェスの駒に似ている” の意ではなくて、“どうやらこれはチェスの駒であるようだ” の意だとすると、それは前者の言う「壺」と共に一寸違うと言わざるを得ません。
と言うのも、チェスの駒……の中で��特に歩 (ふ)=“pawn” を指していると思いますが……の基本型である「スタントン・スタイル/デザイン (“Staunton design”)」(25)-2 =[https://en.wikipedia.org/wiki/Pawn_%28chess%29] と、

(25)-2
フィニアル(25)-3 =[https://www.etsy.com/jp/listing/1116587700/unfinished-decorative-carved-staircases?click_key=74cc44b90049cb904e94138a1b91a4cd1b1ee18a%3A1116587700&click_sum=8fb4ce21&external=1&rec_type=cs&ref=landingpage_similar_listing_top-6&pro=1] とは、

(25)-3
その形態の構造原理が異なるからです。
ただ、両者には共用性/融通性が有って、フィニアルにチェスの駒の形を使う (チェスの駒をフィニアルにする) ––––例えばチェスの選手の椅子のデザインとして、背柱/後脚の天辺に駒の形のフィニアルを取り付けるといった––––ことも可能ですし、小さなフィニアルならそのままチェスの駒として盤上で用いることも可能なわけです。実際、タイのチェス (“Makruk” マークルック)の駒(25)-4 (via [https://en.wikipedia.org/wiki/Makruk]) などは、ズングリした “フィニアル形” ですし、

(25)-4
細長い “フィニアル形” としては、かつてフランスで造られていたもの(25)-5 (via [http://www.chess-museum.com/chess-piece-production-in-the-jura.html]) や、

(25)-5
プレ・スタントン型でトルコの塔型(25)-6 (via [https://royalchessmall.com/en-jp/collections/camel-bone-chess-pieces/products/4-6-turkish-tower-pre-staunton-chess-pieces-only-set-black-white-camel-bone]) なんていうのも製造販売されています。

(25)-6
そして、子どもの頃、将棋の歩を一個失くしてしまった時は、代わりに一円玉を歩に見立てて使ったように、そもそも、どんな物でも将棋やチェスの駒に見立てて代用することは可能で、その伝で行くと、先の “塩/胡椒容れ” なんかも、立派なチェスの駒に仕立て上げられるのです。
実は斯く言う私こそ、そういう自由な定形外のチェスの “変わり駒” を造っていたのでした–––– [https://u-ryukyu.repo.nii.ac.jp/records/2001956]–pp.80-3《病院用チェス・セット (“Hospital Chess Kit”)》––––。そしてこの中に「滴る蛇口」で造った駒も (“pawn” ではありませんが) 二つあります (p.83 の右上の写真が p.81 の<⑶ 排尿促進のための駒>で、下段左から3つ目が鍵付き蛇口の “King (王将)”、上段左から4つ目が玉形弁に十字ハンドルの “Rook (香車)” です)。
なお、p.82 の左上の写真で、私に相対して駒を動かしている白髯のカウボーイは、サンタ・クロースではなくて…… (私と撮影者の恵子にとってはそうでしたが) ……美術家のジェームズ・タレル (James Turrell) です。彼がここに写っている経緯は、[https://u-ryukyu.repo.nii.ac.jp/records/2001954]–p.80=「むすびに」に記しています。
(26) [https://www.amazon.co.jp/dp/430927966X?tag=pictbook_info-22]。
(27) [http://andeverythingelsetoo.blogspot.com/2011/09/disrespectful-summons-by-edward-gorey.html] の最終 (最下段) 画。
因みに、これによると初出では表紙=最初 (最上段) 画は、お腹/胸の左右に持手の付いた蓋付優勝カップのような形のフィニアルに描かれています。
なお、この絵本には、この表紙と裏表紙以外にも、第3場面の室内の壁に掛けられた風景画……マティスの室内画ではないが、窓外の風景という可能性もないではない……の中に、同じようなフィニアルが–––– (女性がその前で跪いて祈っているように見える) 墓碑と思しき石碑の天辺に載せて––––描かれています(27)-1 ([https://gorey34243.tripod.com/SUMMONS.HTML]-No.3)。

(27)-1
また、第6場面と第11場面の室内にも、やはり墓/石碑の描き込まれた風景画 (/窓外景色) が描き込まれていますが、前者の石碑の天辺に載せられているのは、フィニアルではなくて壺で(27)-2 ([ibid.]-No.6)、

(27)-2
後者の墓/石碑の頭頂部は、下部と一体で彫り出されたかのような境目のない丸みを帯びた人の肩~首~頭を抽象化した形に描かれています(27)-3 ([ibid.]-No.11)。

(27)-3
(28) [https://www.instagram.com/p/CJwqQWQFrC_/?igshid=blas2jgo4d1k&epik=dj0yJnU9WmdOb3dJNVJPUmpxQ1ItNlQxa0JWaWx3ZERGWUlaZ2wmcD0wJm49UEFqRFZydTJJbnI2eTdHa3laWWdrUSZ0PUFBQUFBR2M3X3Vj]。
柴田元幸に倣って、この脚韻二行一連を短歌形式で訳してみました。
なお、2016年の4月から10月まで伊丹市立・福島県立・下関市立の三美術館で開催された (下記書名と同名の) 展覧会の公式図録––––カレン・ウィルキン, 濱中利信, 柴田勢津子著/柴田元幸, 小山太一訳『エドワード・ゴーリーの優雅な秘密』河出書房新社, 2016, p.81 ––––には、この原画からの図版 (cat.no.128 (EG129)) が掲載されています。
(29) 写真は [https://www.flickr.com/photos/astropop/4935052617/in/photostream/] から、また、文章は『M0E』2019年12月号の《巻頭大特集/謎に満ちた異色の絵本:エドワード・ゴーリー》の年譜の〈1985年〉の項の記事と掲載写真のキャプション (p.24) からです。なお、これと少しアングルの異なる写真が、同誌の2023年5月号の《展覧会開催記念:エドワード・ゴーリーの不思議な世界への旅》のグラビア写真頁〈The Edward Gorey House ゴーリーの終の住処へ〉p.68 にも掲載されています (以上の三つの写真とも、便器→案内台が置かれている場所は同じです)。
(30) via [https://diversity-finder.net/tourism/manzamou-manza-beach]。
(31) via [https://artincontext.org/fountain-by-marcel-duchamp/]。
(32) via [https://www.flickr.com/photos/mbell1975/5571983113/in/photostream/]。
(33) via [https://www.thecollector.com/what-was-great-about-marcel-duchamp-fountain/]。
因みに、“この男性用小便器…を置く/眺める方向” に関しては、前註(17) の拙稿 [https://kobayashimasahide.tumblr.com/post/152794762970/光線男は二度ドアを叩く-マンレイのドアノッカーと騙し絵卵平面卵透明巨人について]–註 (*3) で、マン・レイの<便座のドア・ノッカーと騙し絵卵>の便座のそれと比較しながら述べています。
(34) via [https://en.wikipedia.org/wiki/Fountain_%28Duchamp%29]。
但し二重引用符の単一引用符への変更は [https://www.tate.org.uk/art/artworks/duchamp-fountain-t07573] の “Collection Text” 内の引用に従いました。
なお、マイケル・R・テイラー, 橋本梓訳「ブラインド・マンの虚勢:デュシャン、スティーグリッツ、《泉》をめぐるスキャンダル再考 (抄)」『マルセル・デュシャンと20世紀美術』展図録 (朝日新聞社, 2004, pp.12-23 所収) には、この経緯が次のように詳述されています。
スティーグリッツが…撮影した驚くべき写真…によって、鈍く光る男性用トイレの備品は、擬人的な姿へと変容した。当時の鑑賞者たちは、スティーグリッツによって陰影のつけられたイメージを、ベールを被ったマリヤや座したブッダのような宗教的な存在と容易に結びつけた。そうして、…デュシャンのイコノクラスム的な意図を…取り違えることになったのである。(p.12 )
ダダの雑誌『ザ・ブラインド・マン』2号…「リチャード・マット事件」という記事……は、「洗面所のブッダ」と名付けられたルイーズ・ノートンの記事に引き継がれ……/これらの記事には、便器の写真が掲載され…ている。……ガートルード・スタイン…宛て…手紙のなかで (日付不詳)…カール・ファン・ヴェクテンは、グランド・セントラル・パレスでの展示から外されたすぐ後、スティーグリッツの291画廊にこのレディ・メイドが展示されたことを明らかにしている。「……スティーグリッツはそれを291画廊で展示し、何枚かの素晴らしい写真を撮った。写真に撮られた便器は、聖母マリアにもブッダにも見えた」。……カール…やルイーズ…が行った、便器が聖母マリアやブッダのかたちに類似しているという言及は、明らかに、実際の便器そのものではなく、イコン的な写真に仕立てるための照明、陰影のつけかた、視点と関連づけられる。(p.17 )
スティーグリッツが1917年4月にジョージア・オキーフに宛て…た手紙のなかで座したブッダと評した……(32)。(p.21 )
32) Alfred Stieglitz, letter to Georgia O’Keeffe, April 19, 1917,……未出版の…手紙…。(p.23)
21) スティーグリッツは、美術批評家のヘンリー・マクブライトに宛てた手紙の中で、便器の写真を撮るよう頼みにきた人々の名を挙げている。「私は、…デュシャン他によって…撮影するよう依頼された。……面白いのでご覧になってください」。…Alfred Stieglitz, letter to Henry McBride, April 19, 1917,……. (p.23)
(35) via [https://observandoelparaiso.wordpress.com/2013/12/20/la-inmaculada-concepcion-y-santa-bernadette-soubirous/])。
(36) via [https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/531421])。
(37) 文責不詳 (Anonymous) の「エドワード・ゴーリーへのプルースト式質問表 (“Proust Questionnaire”)」(初出 “Vanity Fair”, 10.1997, p.382) : 前掲書(13) pp.195-9 所収。引用は p.196。
(38) フラン・ワイル (Fran Weil) によるインタビュー『不気味の匠がゴーリーを福の神に (“Mastery of Macabre Turns Gorey into Moneymaker”)』(初出 “Boston Herald American”, 3.27.1975, pp.18-9) :「雑多なインタビューより」; 前掲書(13) pp.257-9 所収。引用は p.259。
(39) via [http://tavola-world.seesaa.net/article/edward-gorey-the-willowdale-handcar.html]。
引用はこのブログ主「塔公少年 (“Tagong Boy”)」の訳文です。
(40) トビ・トバイアス (Tobi Tobias)「バレゴリー:エドワード・ゴーリーとニューヨーク・シティ・バレエ (“Balletgorey”)」(初出 “Dance Magazine”, 1.1974, pp.67-7) : 前掲書(13) pp.21-38 所収。引用は p.32。
(41) [https://kobayashimasahide.tumblr.com/post/742667870817927168/la-guerra-delle-campane-1-the-bell-tower-to] の註 (*1)。
(42) via [https://glreview.org/article/edward-goreys-gothic-nonsense/]。
この絵と文は、ゴーリーの1975年の絵本 “L’Heure bleue” (柴田元幸訳『蒼い時』河出書房新社, 2001) の第4場面で、柴田の訳文は––––「ワインはすごくあ��たまる気がするね。/君の考えていることが重要なのか 僕にはわかった試しがない」––––です。
(43) via [https://mussyusiawase.blog.ss-blog.jp/2009-12-13]。
(44) 前註(7) で柴田が言及しているゴーリーの評伝の著者です。
なお、この評伝に関しては、前註(14) で紹介した【ひとでなしの猫】も、[http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-3825.html] で、紹介/要点引用–翻訳/論評しています。「アセクシャル」と自己規定するこのブログ主は、自身の体験に照らして––––「ゴーリーは生まれつき『アセクシュアル』だったものの、当時はアセクシュアルなどという概念がなかったので、他人に『ゲイ』だと言われ、自分でも『ゲイ』なのではないかと思いこまざるを得なかった…。同様に、高機能自閉症(AS)などという概念がなかったころには、他人に『変り者(eccentric)』だと言われ、自分でも『変り者』なのではないかと思いこまざるを得なかった…のではなかろうか」––––と推測し––––「わたしの興味は『ゲイ』としてのゴーリーにではなく『高機能自閉症者』としてのゴーリーにあ」り、「自閉症文化の系譜にゴーリーを位置付けたく思」––––うと述べています。
(45) ジークムント・フロイト (Sigmund Freud) 著、新宮一成 他訳『フロイト全集第15巻 精神分析入門講義』(第2部 夢:第10講 夢における象徴作用) 2012, 岩波書店, p.185。
Web上では、当該部分を–––– (但しその訳文は1977年/高橋義孝・下坂幸三訳/新潮文庫版 {上巻} p.196 のもので、訳語の相違に “männliche Genitale”:男性性器 → 陰茎がある)––––【平原卓の哲学案内】: [https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-freud-vorlesungen-einfuhrung-psychoanalyse/] ––––で、また、原文に関しては–––– [https://gutenberg.spiegel.de/buch/vorlesungen-zur-einfuhrung-in-die-psychoanalyse-926/10] ––––で、読むことができます。
(45)-1 は、懸田克躬・高橋義孝訳, 1971, 人文書院版『フロイト著作集 第1巻』(p.126)。
(45)-2 は、岩波書店, 2011–全集5「夢解釈Ⅱ–第6章 夢工作」p.98。
なお、これはよく言われることですが、こうしたフロイトの象徴対応は、上記の平原卓も言うように––––「これらの例えは…有名だが、かなり無理がある…。…/最大の問題は、象徴の対応関係が原理的に証明できない…ことだ。……/シンプルに言えば、ステッキが男性器を象徴していると言わざるをえない証拠はどこにもない…。一見それらしく思えるかもしれないが、どこまでも行っても証明できない」––––のです。
(46) フロイトは「抑圧 Die Verdrängung」について、次のように語っています––––「抵抗にぶつかり、…欲動の蠢きは抑圧の状態に入る」,「欲動代表は、抑圧によって意識…から遠いところに置かれると…暗闇で繁茂し、極端な表現形式を身に纏う」,「フェティッシュの発生において…欲動代表は…理想化という運命を辿る」,「原則として抑圧の解除は束の間であり、すぐに再び設定し直される。…抑圧は…高度に流動的で…、抑圧されたものは、意識に対して、持続的な圧力を掛け続けて…この途切れることなき反対圧力によって、平衡が維持されている…。…抑圧の流動性…は、睡眠…の中にも見出され、睡眠…だけが夢形成を可能にし…覚醒と共に…抑圧…は、ふたたび送り出される」––––岩波書店, 2010–全集14「論考 (1915年):抑圧」p.195, pp.198-9, p.200, p.201。
これは図–地反転について述べたものではありませんが、相通じるものがあります。特にこの場合は、(図–地の) 地 (フィニアル) が性=欲動的な「フェティッシュ」で、更に図 (向かい合う人/獣) の方にも或る種性=欲動的な “二重像/隠し絵 (Simultaneous Image)” が含まれてもいるからです。
日本語版ウィキペディアの「ルビンの壺」([https://ja.wikipedia.org/wiki/ルビンの壺]) の「特別支援教育」の項に––––「障害のある子どもの場合、2つの見方のうちの一方しかできない…ケースもある。…切り替えができず、『図–地知覚障害』の状態とされる」––––という興味深い記述があります。
また、これとは別に、図は性的な図/画像なのですが、地は非性的という、伊系スイス人画家サンドロ・デル・プレーテによる<イルカたちの愛の詩>と題された絵があります(46)-1 ([https://im-possible.info/english/art/delprete/the-master-of-illusions/083.html]←[https://im-possible.info/english/art/delprete/the-master-of-illusions/index.html]←[https://im-possible.info/english/art/delprete/])。

(46)-1
認知心理学者でカリフォルニア工科大学教授の下條信輔は、この絵に関して、ある対談で次のように語っています。
「有名な『ルビンの壷』で……横顔が先に見えた人は、なぜ…先に見えたかを知らないし、壷が先に見えた人もその理由を知らない。それは頭の中の潜在過程で処理されているわけです。ここにはある種のパラレルワールドがあ…るわけで…、同じ絵を見ているにもかかわらず、ある人は壷を見ていてある人は横顔を見ている。///…すべてのパラレルワールドにはいつから存在したかという問題がある…。/右の絵も同じような隠し絵で…大抵の大人、特に中年男性に訊くと、裸の男女が絡んでるという…。でも6、7歳くらいの子どもに割と近い位置で見せると、イルカが泳いでるって答えるわけです。裸の人なんていないよって…。その時に見方を説明すれば、裸の男女が見える子もいますが、どう頑張っても見えないという子もいるんですね。//…かく言う僕もイルカはなかなか見えなかった(笑)。…人は自ら見たいモノしか見られない…。この場合…、裸の男女を見てもいいし、イルカを見てもいいわけですよ。でも、どちらが先に見えるの (か–引用者補) は、その人の自由意志ではなく、自らのあずかり知らぬところで決まっているような気がします。」(via [http://www.kanazawa-it.ac.jp/rg/rg2009/rep2009/rep6.html] ––––因みに、かく言う私も、解説文を読むまでは大小9頭いる黒地のイルカに全く気付かず、見えませんでした)。
ゴーリーの場合も、また「障害のある子ども」や「6、7歳くらいの子ども」の場合も、この “見える/見えない” の科学的根拠や原因は今のところ分からず、私のフロイト抑圧論の援用も、飽くまで上記平原卓が謂う所の「一見それらしく思える」仮説に過ぎないのです。
(47) via [https://www.larevuedesressources.org/les-reponses-erotiques-de-l-art-prehistorique-un-eclairage-bataillien,605.html]。
因みに、この -1, -2 は、拙稿 [https://kobayashimasahide.tumblr.com/post/639079714964783104/あけましておめでとうございます-令和三年元旦-牛の仮面]-註(7) でも触れています。
(48) 上掲書(40)=前掲書(13)、引用は pp.34-5。
(49) ふくらんだ腹/胸にラテン語で “Finis” と書かれて倒され横たえられた『失敬な召喚』の裏表紙のフィニアル(27) のポーズ (“pose”) を真似し、(42) の狭間に文字を「スーパーインポーズ (“Superimpose”)」しました。英語の “THE END” ではなくてフランス語の “Fin” にしたのは、言うまでもなく “Finial” に掛かるし、ゴーリーがハーバード大学でフランス文学を専攻し、ふるいフランス映画が好きだったからです。
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