#鎌倉の海
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tokyowalking · 1 year ago
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Shichirigahama. Japan
七里ヶ浜 神奈川県 鎌倉市🇯🇵
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tanzawa77 · 5 months ago
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七里ヶ浜の夕景です。
カメラをSonyα7CからLumix-G100Dに買い替えました。
カメラはセンサーのサイズで上位機種から下位機種となるのですが、Sonyα7Cはフルサイズのセンサーで、Lumix-G100Dはマイクロフォーサイスという小さなセンサーです。
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Sonyα7Cを下取りに出してLumix-G100Dを買ったのですが、かなりお釣りがくるぐらいに価格にも差があります。どうしてランクを下げてまで買い替えたかと言うと、Sonyのカメラがしっくりこなかったからです。同時に、マイクロフォーサイスのカメラの面白さに惹かれたからです。
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no111bloom · 2 years ago
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お仕事してる冊子に 80歳から、うれしいお手紙が届いたの。
当たり前じゃないよね。嬉しいな
園田咲子 探してくれてありがとう。
またここで気づいてくれたら嬉しいなぁ。
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gon-iii · 21 days ago
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海景を望む
2012年、成就院。
成就院から紫陽花と鎌倉の海を眺める。
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yoga-onion · 6 months ago
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Heart Sutra ~ A sutra that describes “The Heart of the Perfection of Wisdom" (9) 
Hoichi the Earless – A Japanese tale about spiritual merit of the Heart Surtra
When Xuanzang crossed the Silk Road to India, recited the heart Sutra and protected himself from evil demons through its spiritual power. (Ref). There is a folk tale in Japan that tells its spiritual merit.
A young Biwa-hōshi (lute monks) named Hoichi lived at Amida-dera Temple in Akamaseki. Hoichi was a master storyteller of the Tale of the Heike, especially the Dannoura battle, which is said to ‘make even the demons shed tears’.
The Battle of Dannoura was a historical fact, once a decisive battle between the Genji and Heike clans, with many Heike warriors and court nobles sinking to their deaths in the sea, and perished. The temple was built on the coast overlooking Dannoura to commemorate the Heike family.
One night, when the abbot is away, a warrior suddenly appears out of nowhere. Hoichi is begged by the warrior to go to the palace of the ‘nobleman’ to play his biwa. Although the blind Hoichi could not understand them, many noblemen seemed gathering. They requested a piece about the battle of Dannoura. Everyone is sobbing aloud and looking intensely moved. Hoichi is asked to play a whole week, and starts going out every night.
The abbot became suspicious and had temple men follow him one night. It was raining heavily, and Hoichi was alone in the empty cemetery of the Heike clan, playing his biwa in front of the grave of Emperor Antoku, who had died an untimely death as a child, surrounded by a frighteningly large number of demon firebrands. The astonished temple men forcefully bring Hoichi back home. The abbot then, knowing the nature of the grudge spirits that the body parts on which the sutras are written are transparently reflected and invisible, copied the Heart Sutra on Hoichi's whole body together with the temple men, so that the grudge spirits could not recognise Hoichi. However, they did not realise at the time that they had forgotten to copy the sutra on his ears (auricularia). 
That night, as Hoichi sat alone, the warrior came for him as usual. However, Hoichi's body, on which a scripture is written, is invisible to the grudge spirit. Puzzled, the grudge spirit looked around for Hoichi, and found only his ears in the darkness, which were forgotten to copy the sutra. The grudge spirit used its monstrous power to tear the ear off Hoichi's head. The spirit left, silently. When the abbot returned at dawn, he realised that when he had written the Heart Sutra on Hoichi's body, he had forgotten to write the sutra only on his ears, and apologised to the bloodied Hoichi for his oversight.
After that, the Heike ghost never appeared before Hoichi again, and the wound in Hoichi's ear was soon healed by the good doctor. This strange event spread throughout the world, and he came to be known as ‘Hoichi the Earless’.
(There is also a version where Hoichi dies.)
[Image below: The tragedy of the young Emperor Antoku drowning in the arms of his grandmother, Taira no Tokiko]
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般若心経 〜「智慧の完成」の精髄を述べる経典 (9)
耳なし芳一 〜『般若心経』の霊験にまつわる日本の物語
玄奘三蔵がシルクロードを越えインドに渡るとき、『般若心経』の霊験を信じ口誦し悪鬼どもから身を守ったことは先にも述べた(参照)。その霊験を物語る日本の民話がある。
赤間関の阿弥陀寺に芳一という若い琵琶法師が住んでいた。芳一は盲目だったが、平家物語、特に「鬼も涙を流す」といわれる壇ノ浦の合戦を語る名手だった。(琵琶法師とは、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した僧侶の姿をした琵琶の弾き語りで、��とんどが盲目だった。)
壇ノ浦の戦いは、かつて源平の決戦となり、多くの平家の武士や公家が海に沈んで没した、という史実である。壇ノ浦を見下ろす海岸に、平家を弔うために阿弥陀寺が建てられた。
ある夜、住職の留守の時に、突然どこからともなく一人の武者が現われる。芳一はその武者に請われて「高貴なお方」の御殿に琵琶を弾きに行く。
盲目の芳一にはよく分からなかったが、そこには多くの貴人が集っているようであった。彼らは壇ノ浦の戦いについての曲を所望した。皆、声を上げてすすり泣き、激しく感動している様子で、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚く。芳一は七日七晩の演奏を依頼され、毎晩出かけるようになる。
不審に思った住職は、ある夜、寺の者たちに尾行させた。大雨の降る中、誰もいない平家の墓地で、幼くして非業の死を遂げた安徳天皇の墓の前で琵琶を弾いていた芳一は、おびただしい数の鬼火に囲まれていた。驚いた寺男たちは、強引に芳一を連れ帰る。
そこで住職は、怨霊の「お経が書かれた体の部分は透明に反射して見えない」という性質を知っていたので、寺男たちと一緒に芳一の全身に般若心経を写し、怨霊が芳一を認識できないようにした。しかし、その時、耳(耳介)にお経を写すのを忘れていたことには気づかなかった。
その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武者が迎えにきた。しかし、経文の書かれた芳一の体は怨霊である武者には見えない。怨霊は当惑し、芳一の姿を探し回った挙句、写経し忘れた耳のみを暗闇の中に見つけ出した。怨霊は怪力でもって芳一の頭から耳をもぎ取った。怨霊はそのまま去っていった。 夜明けに戻ってきた住職は、芳一の全身に般若心経を書いたとき、耳だけにお経を書くのを忘れていたことに気づき、血まみれの芳一に自分の見落としを詫びた。
その後、平家の亡霊は二度と芳一の前に現れることはなく、芳一の耳の傷はすぐに良医によって癒やされた。この不思議な出来事は世間に広まり、彼は「耳なし芳一」として知られるようになった。
(芳一が死亡してしまうバージョンもある)
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cctrain0722 · 4 months ago
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今年も冬の鎌倉フォトリップ!
レンズはSigma 135mm F1.8 とVoigtlander ULTRON 40mm F2を。
年末年始は小田原・熱海&塔ノ岳縦走を楽しみましたが… やっぱり鎌倉も歩いておきたい!という事で、ぶらりフォトリップへ。
まず鎌倉に着いたらやること…それは浜でまったり貝殻ひろい。 冬とはいえ日差しは暖かく、海の色もパステルカラーで歩いていて気持ちがいいです。
あらためて江ノ電を撮っていると、人々の生活に自然と溶け込んでいるんだなと感じます。曲がる音、やわらかい汽笛、可愛らしい電車になんだか懐かしいホーム…どれもが鎌倉らしく、愛らしいです。
ここ鎌倉でしか味わえない”鎌倉時間”。何度も来ているはずなのに、また過ごしたくなってしまいます。 年末年始とはまた少し違ったように感じた鎌倉、しっかり満喫しました。
一枚目【焦点距離】135mm【ISO】64【SS】1/8000【F値】/1.8 二段目左【焦点距離】135mm【ISO】64【SS】1/6400【F値】/1.8 二段目右【焦点距離】135mm【ISO】125【SS】1/2000【F値】/2.5 四枚目【焦点距離】135mm【ISO】64【SS】1/8000【F値】/1.8 五枚目【焦点距離】135mm【ISO】64【SS】1/3200【F値】/1.8 五段目左【焦点距離】135mm【ISO】64【SS】1/3200【F値】/1.8 五段目中【焦点距離】40mm【ISO】3600【SS】1/2000【F値】/2 五段目右【焦点距離】40mm【ISO】2000【SS】1/80【F値】/2 九枚目【焦点距離】135mm【ISO】64【SS】1/2000【F値】/1.8 十枚目【焦点距離】135mm【ISO】800【SS】1/2000【F値】/1.8
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wankohouse · 8 months ago
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鎌倉 五所神社 例大祭 ィ 乱材祭(みざいまつり) 海上渡御
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かわい~
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密集!腰がもみ合い状態に!
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旧旧材木座村は、江戸時代前期の元禄時代に旧乱橋村(みだればしむら)と旧材木座村(ざいもくざむら)の2つに分割した。1889年(明治二十二年)に、この二つの村は合併した上で西鎌倉村に編入されて、鎌倉郡西鎌倉村大字乱橋材木座となった。その後の1908年(明治四十一年)七月には、旧乱橋村と旧材木座村の5つの神社が合併して五所神社になった。2村5社の祭りは合併して乱材祭(みざいまつり)になった。材木座は鎌倉七座と呼ばれる商工組合一つ。中世に材木を販売した座で、由比ガ浜(ゆいがはま)の東南部、和賀江付近と推定されている。
・・・そうだけど、江の島海岸も由比ガ浜もどこだか知らないよ! 材木座海岸とか和賀江と言われても分からないよ! とにかく鎌倉の(海の)祭りは同じ輿丁が舁いているから区別付かないよ。もんもんの人は、(記憶では)神輿会が主催している寒中御輿錬成大会以外は参加できないのが多いけど、乱材祭はOKだよ。
なお、合併した5社は、
 材木座村の鎮守諏訪神社(現 材木座五丁目)、材木座村中島部落の視女八坂社(見目明神)(現 材木座六丁目)と、
 乱橋村の鎮守であった三島神社(現 材木座2丁目9−1)、乱橋村能巌寺部落の八雲神社(現 材木座四丁目)と金毘羅宮(現 材木座四丁目)。
五所神社の所在地は乱橋村鎮守三島神社の跡地で、本殿は材木座村鎮守諏訪神社の物を移築。両村への気遣いが窺われるね。
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chisasarasa · 2 months ago
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250114
昨日の夜、気がついたらねていて、朝になった。 乾かしきれなかった髪の毛が意思をもってうねっている。
鎌倉へ行く。 展示中、ずっと海を見たかった。 ずっと東京へ行っていたから、もう東京へは行きたくなかった。 東京は何もかもが多すぎる。 気になっていたギャラリーへ行く。 入った瞬間、ここで展示をしてみたい、と思う。 小さく、繊細なガラス作品が居心地よさそうに並んでいる。 作品についてよい距離感でギャラリーの方が説明をしてくれて、芸術がほんとうに好きなんだろう、と思う。愛がある。
1日1作品つくっているという展示をみて、この、日記のドローイングももっと作品として昇華したい、と思った。
海はまぶしかった。 波がひかりの粒であそんでいる。 長谷寺まで歩いていって、なつかしく思う。 あじさいの開くたび、��葉が色づくたび、誰かとここに来た。 おみくじをひいてみると、大吉だった。 2025年もどうか生きていけますように。 家に帰って、母とふたりでご飯を食べた。 今日が誕生日の父は会社の人に祝ってもらっているらしい。
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250115
飛行機に乗って、北海道に帰ってきた。 少しずつ近づいてくる、畑、畑。雪がのっていて、白。 それをみていても帰ってきた感じはしなくて、空港からのバスが街へ入って、やっと帰ってきた、と思った。 この、抜け殻になりつつある雑多な街がわたしにとっての北海道ということらしい。さびしい。 彼の作りためたカレーを食べながら、お正月にやっていたドラマをみて、ねた。
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250116
朝、起きられなかった。 昨日は早めにねたのに。 あまりにも仕事に行きたくなくて、ちょっと泣いた。 現実がもどってくる、と感じたのだろうか。 展示をしているとき、非現実だな、とは思う。
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shintani24 · 11 months ago
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2024年8月8日
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南海トラフ地震の想定震源域と今回の震源
南海トラフ地震臨時情報の対象の1都2府26県707市町村はこちら(朝日新聞)
気象庁は8日、初となる「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発表した。対象となった1都2府26県707市町村は次の通り。同庁は今後1週間程度、地震や津波への注意を呼び掛けている。(内閣府の資料から)
茨城県 水戸市、日立市、ひたちなか市、鹿嶋市、神栖市、鉾田市、東茨城郡大洗町、那珂郡東海村
千葉県 銚子市、館山市、旭市、勝浦市、鴨川市、���津市、南房総市、匝瑳市、山武市、いすみ市、大網白里市、山武郡九十九里町、同郡横芝光町、長生郡一宮町、同郡長生村、同郡白子町、夷隅郡御宿町、安房郡鋸南町
東京都 大島町、利島村、新島村、神津島村、三宅村、御蔵島村、八丈町、青ケ島村、小笠原村
神奈川県 横浜市、横須賀市、平塚市、鎌倉市、藤沢市、小田原市、茅ケ崎市、逗子市、三浦市、秦野市、厚木市、伊勢原市、海老名市、座間市、南足柄市、三浦郡葉山町、高座郡寒川町、中郡大磯町、同郡二宮町、足柄上郡中井町、同郡大井町、同郡松田町、同郡山北町、同郡開成町、足柄下郡箱根町、同郡真鶴町、同郡湯河原町
山梨県 甲府市、富士吉田市、都留市、山梨市、大月市、韮崎市、南アルプス市、北杜市、甲斐市、笛吹市、上野原市、甲州市、中央市、西八代郡市川三郷町、南巨摩郡早川町、同郡身延町、同郡南部町、同郡富士川町、中巨摩郡昭和町、南都留郡道志村、同郡西桂町、同郡忍野村、同郡山中湖村、同郡鳴沢村、同郡富士河口湖町
長野県 岡谷市、飯田市、諏訪市、伊那市、駒ケ根市、茅野市、南佐久郡川上村、同郡南牧村、諏訪郡下諏訪町、同郡富士見町、同郡原村、上伊那郡辰野町、同郡箕輪町、同郡飯島町、同郡南箕輪村、同郡中川村、同郡宮田村、下伊那郡松川町、同郡高森町、同郡阿南町、同郡阿智村、同郡平谷村、同郡根羽村、同郡下條村、同郡売木村、同郡天龍村、同郡泰阜村、同郡喬木村、同郡豊丘村、同郡大鹿村、木曽郡上松町、同郡南木曽町、同郡大桑村、同郡木曽町
岐阜県 岐阜市、大垣市、多治見市、関市、中津川市、美濃市、瑞浪市、羽島市、恵那市、美濃加茂市、土岐市、各務原市、可児市、山県市、瑞穂市、本巣市、郡上市、下呂市、海津市、羽島郡岐南町、同郡笠松町、養老郡養老町、不破郡垂井町、同郡関ケ原町、安八郡神戸町、同郡輪之内町、同郡安八町、揖斐郡揖斐川町、同郡大野町、同郡池田町、本巣郡北方町、加茂郡坂祝町、同郡富加町、同郡川辺町、同郡七宗町、同郡八百津町、同郡白川町、同郡東白川村、可児郡御嵩町
静岡県(全域)静岡市、浜松市、沼津市、熱海市、三島市、富士宮市、伊東市、島田市、富士市、磐田市、焼津市、掛川市、藤枝市、御殿場市、袋井市、下田市、裾野市、湖西市、伊豆市、御前崎市、菊川市、伊豆の国市、牧之原市、賀茂郡東伊豆町、同郡河津町、同郡南伊豆町、同郡松崎町、同郡西伊豆町、田方郡函南町、駿東郡清水町、同郡長泉町、同郡小山町、榛原郡吉田町、同郡川根本町、周智郡森町
愛知県(全域)名古屋市、豊橋市、岡崎市、一宮市、瀬戸市、半田市、春日井市、豊川市、津島市、碧南市、刈谷市、豊田市、安城市、西尾市、蒲郡市、犬山市、常滑市、江南市、小牧市、稲沢市、新城市、東海市、大府市、知多市、知立市、尾張旭市、高浜市、岩倉市、豊明市、日進市、田原市、愛西市、清須市、北名古屋市、弥富市、みよし市、あま市、長久手市、愛知郡東郷町、西春日井郡豊山町、丹羽郡大口町、同郡扶桑町、海部郡大治町、同郡蟹江町、同郡飛島村、知多郡阿久比町、同郡東浦町、同郡南知多町、同郡美浜町、同郡武豊町、額田郡幸田町、北設楽郡設楽町、同郡東栄町、同郡豊根村
三重県(全域)津市、四日市市、伊勢市、松阪市、桑名市、鈴鹿市、名張市、尾鷲市、亀山市、鳥羽市、熊野市、いなべ市、志摩市、伊賀市、桑名郡木曽岬町、員弁郡東員町、三重郡菰野町、同郡朝日町、同郡川越町、多気郡多気町、同郡明和町、同郡大台町、度会郡玉城町、同郡度会町、同郡大紀町、同郡南伊勢町、北牟婁郡紀北町、南牟婁郡御浜町、同郡紀宝町
滋賀県(全域)大津市、彦根市、長浜市、近江八幡市、草津市、守山市、栗東市、甲賀市、野洲市、湖南市、高島市、東近江市、米原市、蒲生郡日野町、同郡竜王町、愛知郡愛荘町、犬上郡豊郷町、同郡甲良町、同郡多賀町
京都府 京都市、宇治市、亀岡市、城陽市、向日市、長岡京市、八幡市、京田辺市、南丹市、木津川市、乙訓郡大山崎町、久世郡久御山町、綴喜郡井手町、同郡宇治田原町、相楽郡笠置町、同郡和束町、同郡精華町、同郡南山城村
大阪府 大阪市、堺市、岸和田市、豊中市、池田市、吹田市、泉大津市、高槻市、貝塚市、守口市、枚方市、茨木市、八尾市、泉佐野市、富田林市、寝屋川市、河内長野市、松原市、大東市、和泉市、箕面市、柏原市、羽曳野市、門真市、摂津市、高石市、藤井寺市、東大阪市、泉南市、四條畷市、交野市、大阪狭山市、阪南市、三島郡島本町、豊能郡豊能町、泉北郡忠岡町、泉南郡熊取町、同郡田尻町、同郡岬町、南河内郡太子町、同郡河南町、同郡千早赤阪村
兵庫県 神戸市、姫路市、尼崎市、明石市、西宮市、洲本市、芦屋市、伊丹市、相生市、加古川市、赤穂市、宝塚市、三木市、高砂市、川西市、小野市、加西市、南あわじ市、淡路市、加東市、たつの市、加古郡稲美町、同郡播磨町、揖保郡太子町
奈良県(全域)奈良市、大和高田市、大和郡山市、天理市、橿原市、桜井市、五條市、御所市、生駒市、香芝市、葛城市、宇陀市、山辺郡山添村、生駒郡平群町、同郡三郷町、同郡斑鳩町、同郡安堵町、磯城郡川西町、同郡三宅町、同郡田原本町、宇陀郡曽爾村、同郡御杖村、高市郡高取町、同郡明日香村、北葛城郡上牧町、同郡王寺町、同郡広陵町、同郡河合町、吉野郡吉野町、同郡大淀町、同郡下市町、同郡黒滝村、同郡天川村、同郡野迫川村、同郡十津川村、同郡下北山村、同郡上北山村、同郡川上村、同郡東吉野村
和歌山県(全域)和歌山市、海南市、橋本市、有田市、御坊市、田辺市、新宮市、紀の川市、岩出市、海草郡紀美野町、伊都郡かつらぎ町、同郡九度山町、同郡高野町、有田郡湯浅町、同郡広川町、同郡有田川町、日高郡美浜町、同郡日高町、同郡由良町、同郡印南町、同郡みなべ町、同郡日高川町、西牟婁郡白浜町、同郡上富田町、同郡すさみ町、東牟婁郡那智勝浦町、同郡太地町、同郡古座川町、同郡北山村、同郡串本町
岡山県 岡山市、倉敷市、玉野市、笠岡市、井原市、総社市、備前市、瀬戸内市、赤磐市、浅口市、和気郡和気町、都窪郡早島町、浅口郡里庄町、小田郡矢掛町
広島県 広島市、呉市、竹原市、三原市、尾道市、福山市、府中市、大竹市、東広島市、廿日市市、安芸高田市、江田島市、安芸郡府中町、同郡海田町、同郡熊野町、同郡坂町、豊田郡大崎上島町
山口県 下関市、宇部市、山口市、防府市、下松市、岩国市、光市、柳井市、周南市、山陽小野田市、大島郡周防大島町、玖珂郡和木町、熊毛郡上関町、同郡田布施町、同郡平生町
徳島県(全域)徳島市、鳴門市、小松島市、阿南市、吉野川市、阿波市、美馬市、三好市、勝浦郡勝浦町、同郡上勝町、名東郡佐那河内村、名西郡石井町、同郡神山町、那賀郡那賀町、海部郡牟岐町、同郡美波町、同郡海陽町、板野郡松茂町、同郡北島町、同郡藍住町、同郡板野町、同郡上板町、美馬郡つるぎ町、三好郡東みよし町
香川県(全域)高松市、丸亀市、坂出市、善通寺市、観音寺市、さぬき市、東かがわ市、三豊市、小豆郡土庄町、同郡小豆島町、木田郡三木町、香川郡直島町、綾歌郡宇多津町、同郡綾川町、仲多度郡琴平町、同郡多度津町、同郡まんのう町
愛媛県(全域)松山市、今治市、宇和島市、八幡浜市、新居浜市、西条市、大洲市、伊予市、四国中央市、西予市、東温市、越智郡上島町、上浮穴郡久万高原町、伊予郡松前町、同郡砥部町、喜多郡内子町、西宇和郡伊方町、北宇和郡松野町、同郡鬼北町、南宇和郡愛南町
高知県(全域)高知市、室戸市、安芸市、南国市、土佐市、須崎市、宿毛市、土佐清水市、四万十市、香南市、香美市、安芸郡東洋町、同郡奈半利町、同郡田野町、同郡安田町、同郡北川村、同郡馬路村、同郡芸西村、長岡郡本山町、同郡大豊町、土佐郡土佐町、同郡大川村、吾川郡いの町、同郡仁淀川町、高岡郡中土佐町、同郡佐川町、同郡越知町、同郡梼原町、同郡日高村、同郡津野町、同郡四万十町、幡多郡大月町、同郡三原村、同郡黒潮町
福岡県 北九州市、行橋市、豊前市、京都郡苅田町、築上郡吉富町、同郡築上町
熊本県 宇城市、阿蘇市、天草市、阿蘇郡高森町、上益城郡山都町、球磨郡多良木町、同郡湯前町、同郡水上村、同郡あさぎり町、天草郡苓北町
大分県 大分市、別府市、中津市、佐伯市、臼杵市、津久見市、竹田市、豊後高田市、杵築市、宇佐市、豊後大野市、由布市、国東市、東国東郡姫島村、速見郡日出町、玖珠郡九重町
宮崎県(全域)宮崎市、都城市、延岡市、日南市、小林市、日向市、串間市、西都市、えびの市、北諸県郡三股町、西諸県郡高原町、東諸県郡国富町、同郡綾町、児湯郡高鍋町、同郡新富町、同郡西米良村、同郡木城町、同郡川南町、同郡都農町、東臼杵郡門川町、同郡諸塚村、同郡椎葉村、同郡美郷町、西臼杵郡高千穂町、同郡日之影町、同郡五ケ瀬町
鹿児島県 鹿児島市、鹿屋市、枕崎市、阿久根市、指宿市、西之表市、垂水市、薩摩川内市、日置市、曽於市、霧島市、いちき串木野市、南さつま市、志布志市、奄美市、南九州市、伊佐市、姶良市、鹿児島郡三島村、同郡十島村、薩摩郡さつま町、出水郡長島町、姶良郡湧水町、曽於郡大崎町、肝属郡東串良町、同郡錦江町、同郡南大隅町、同郡肝付町、熊毛郡中種子町、同郡南種子町、同郡屋久島町、大島郡大和村、同郡宇検村、同郡瀬戸内町、同郡龍郷町、同郡喜界町、同郡徳之島町、同郡天城町、同郡伊仙町、同郡和泊町、同郡知名町、同郡与論町
沖縄県 名護市、糸満市、豊見城市、うるま市、宮古島市、南城市、国頭郡国頭村、同郡東村、島尻郡与那原町、同郡渡嘉敷村、同郡座間味村、同郡南大東村、同郡北大東村、同郡伊平屋村、同郡八重瀬町、宮古郡多良間村
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猛暑のせい?広島の夏の交通事故、死者数が倍に 警察が注意呼びかけ(朝日新聞)
7月以降に広島県内で起きた交通死亡事故数が、昨年の同時期を大幅に上回っている。県警によると、連日の猛暑による集中力や注意力の欠如が原因の一つと考えられるといい、注意を呼びかけている。
県警交通企画課によると、7月1日~8月4日の交通事故死者数は12人で、昨年同時期の5人から倍以上に増えている。
このうち、バイクや自転車、歩行者の死者数は計9人。日中の事故で亡くなった人は9人で、夜間は3人だった。
同課は、気温が高くなり、運転などに集中できないことが事故につながっている可能性があると分析。運転する場合はこまめに水分補給したり休憩をとったりし、体調に異変を感じる時は運転を控えるなどの対策が必要としている。
担当者は「交通事故を防ぐためにも、熱中症警戒アラートが発せられるような暑い日は不要な外出を控えて」と呼びかけている。
気象庁によると、広島市内では35度以上の猛暑日が8日まで10日間続いている。(遠藤花)
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「1990年に天皇の戦争責任を論じ始めたとき不安はなかったか、ですか? なかったと言えばウソになります」=吉本美奈子撮影
(インタビュー)昭和天皇の戦争関与 歴史学者・山田朗さん(朝日新聞)
「昭和天皇は戦争への主体的な関与をしなかった」「最後まで対米英戦を回避しようとした」。こうした昭和天皇像に、実証的な研究を通じて見直しを迫ってきた歴史学者がいる。明治大学教授の山田朗さんだ。「天皇の戦争指導」の実態はどうだったのか。その歴史を直視してこなかった戦後日本社会とは。
 ――昭和天皇(1901~89)が戦争中にどう行動し、そのことを戦後にどう考えていたのか。実証的に調べる研究を30年以上も続けていますね。
「きっかけは、昭和天皇の���康が悪化した88年から日本社会を覆った『自粛』現象でした」
「天皇が戦争にどうかかわったかについての先行研究はすでにありましたが、私には『昭和天皇には戦争責任がある』という結論ありきの研究に見えました。他方には『戦争責任などない』との意見もあったけれど、どちらも戦争中の実態を踏まえた議論とは思えなかった。史料を踏まえた実証的な研究が必要だと思いました」
 ――日本が米英に対する戦争を始めたのは41年12月でしたね。「昭和天皇は最後まで日米開戦を避けようとしていた」という話が広く信じられていますが、事実でしょうか。
「違います。41年9月6日に開かれた御前会議の時点までは、確かに天皇は開戦を躊躇していました。しかし側近の日記や軍の記録などから見えてきたのは、そのあと天皇が戦争への覚悟を決めていく姿でした」
「10月には宣戦布告の詔書の作り方を側近に相談しており、11月には軍の説く主戦論に説得されています。最終的には天皇は開戦を決断したのです」
 ――昭和天皇は戦争に主体的に関与することがなかった、という理解も広がっていますね。
「事実ではありません。大日本帝国憲法では天皇は大元帥、つまり日本軍の総司令官でした。形式的発言をするだけだったというイメージが広がっていますが、記録によれば、大元帥として出席した大本営御前会議では活発に発言しています。軍幹部への質問や注意を通じて作戦に影響を与えていた実態も、史料から見えてきました」
 ――昭和天皇が具体的に変えた事例を挙げてください。
「42年のガダルカナル島(南太平洋ソロモン諸島)攻防戦で、航空部隊を現地へ送るよう天皇は3回にわたって、出撃をしぶる���軍に督促していました。3度目の督促の翌日、陸軍は派遣を決めています」
「45年の沖縄戦では『現地軍は何故攻勢に出ぬか』と言って、積極的な攻撃に出るよう要求しました。現地軍は持久戦でいくと決めていたのですが、天皇の意思が現地まで伝わったため中途半端な攻勢が行われ、無用な出血につながりました」
「天皇の言葉が作戦を左右する影響を与えた事例は、満州事変から敗戦までの間に少なくとも17件確認できます。国家意思に影響を与えていた形です」
 ――作戦指導だけにとどまらず「戦争指導」も行っていたと著書で主張していますね。
「ええ。戦争指導は単なる軍事作戦指導とは異なり、外交などの政治戦略と軍事作戦を束ねた、より高次の指導です」
「昭和天皇は43年のソロモン諸島などの攻防で、戦い方が消極的だと侍従武官長を厳しく叱責し、こんなことでは敵国の士気が上がって第三国にも動揺が広がってしまうと言って積極攻勢を求めました。国際情勢をにらんだ上で国家としてどう作戦を立てるかという戦争指導の領域にこのとき昭和天皇は立ち入っていたと、私は思います」
 ――昭和天皇はなぜ作戦指導や戦争指導をしたのでしょう。
「大日本帝国という国家の抱えていた構造的な問題が背景にあってのことだったと思います。天皇を好戦的な指導者だったとみなすのは間違いです」
 ――構造的な問題とは?
「ガダルカナル戦で天皇が指導に踏み込んだのは、どちらが航空機を出すかでもめていた陸軍と海軍の対立を解くためでした。大日本帝国では陸軍も海軍も天皇に直属していて、両者を統合して指揮する統合幕僚長のような指導役が不在でした。陸・海軍の対立を調整できるのは当時、天皇だけだったのです」
「軍事戦略と外交戦略の双方を統括しえたのも天皇だけでした。軍の最高指揮権にあたる『統帥権』は天皇にあり、統帥権は行政から独立していました。首相ですら軍事行動の詳細を知ることはできない構造です。外交や予算をつかさどる行政が軍部と分立していた中で、両者を架橋しえたのは実質的に天皇だけだったのです」
 ――「昭和天皇は戦争指導をしたのか否か」と問う以前に、「そもそも戦争指導をできる指導者は当時いたのだろうか」と考えさせられる話です。
「ええ。戦況の悪化に直面したことで昭和天皇は大日本帝国が抱えた構造的欠陥の深刻さに気づき、自らが動くしかないと考えた可能性があります。陸軍と海軍が持つそれぞれの経験値では解決できない事態があり、政治が軍事を制御できる仕組みも見当たらない。そんな状況下での戦争指導だったのです」
 ――昭和天皇に戦争責任はあった、と主張していますね。
「実態を踏まえれば、昭和天皇には戦争責任があったと考えるべきだと思います。あれだけの悲惨な結果を招いた戦争において、大日本帝国の軍事と政治の双方を統括できる国家指導者だったのであり、すべての重要な政策決定の場にいたのですから、およそ責任がなかったと言えるものではありません」
 ――連合国が戦後に日本の戦争指導者を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)で、昭和天皇は訴追されませんでした。米国が占領統治のコストを下げるために見送ったとされます。
「裁判が始まる前から日本国内では、昭和天皇は平和主義者であって戦争責任を問われるべき人物ではないとのイメージづくりが、政府などによって進められました。天皇を守るためだったと語られがちですが、それだけではなかったと思います」
「戦争は陸軍の強硬派が進めたものであって天皇には止める権限がなかったというストーリーをつくることで、海軍主流派や外務省・内務省の官僚らは自らを『天皇の側にいた者』とし、責任追及を回避できました。その人たちが戦後日本の権力を担っていったのです。このシナリオを最終的に追認したのが米国主導の東京裁判でした」
 ――その歴史は現在に何か影響を与えているでしょうか。
「責任をとるべき人がとっていないという巨大な前例が今も生き続けています。宮内庁が編纂して今から10年前に公開された『昭和天皇実録』も、天皇は平和主義者だったというイメージを強化する内容でした」
 ――ウクライナ侵攻などが起きた影響もあって、今、日本政府はかつてない規模での防衛力増強に乗り出しています。
「戦争期の近代日本史が教えるのは、軍を政治的にコントロールすることの難しさです。軍事は軍事の専門家だけが理解できるものだという論理のもと、閉じられたサークルの中で『自己展開』していってしまう傾向が、軍事にはあるからです」
「昭和戦前期と違って今は一応、行政府が外交も安全保障もあわせて統括できる体制には変わっています。しかし、国民の代表である国会のチェックが安全保障政策に反映されているかといえば、答えはノーです」
 ――5年前に公開された新史料「拝謁記」に注目するよう訴えていますね。なぜですか。
「昭和天皇があの戦争のことを『戦後に』どう考えていたのかを、今までにない生々しさで伝えている史料だからです。拝謁記とは、初代宮内庁長官だった田島道治が昭和天皇の戦後の肉声を記録したものです」
 ――何が分かったのですか。
「昭和天皇の中で戦後、『誰がどうやっても戦争の流れを止められなかった』という考えが次第に強まっていった事実です。田島の耳に最後には言い訳だと聞こえてきたほどでした」
「陸軍が戦争の牽引者だったのは事実です。しかし昭和天皇はブレーキの壊れたジェットコースターの単なる乗客だったのではなく、操縦する側でした。ブレーキが壊れていたわけでもなく、実際、天皇の聖断という形で戦争は終わっています」
 ――その歴史からどんな教訓をくみとるべきでしょう。
「戦前は天皇が国家の主権者でした。その主権者が戦後、『自分にはどうしようもなかった』という考えに至っていた。現在の日本では国民が主権者です。再び戦禍に見舞われたあとで『自分にはどうしようもなかった』という総括をまた繰り返すのか。主権者としての選択が問われていると思います」(聞き手 編集委員・塩倉裕)
やまだあきら 1956年生まれ。専門は日本近現代史。軍事史や天皇制論に詳しい。著書に「大元帥 昭和天皇」(94年)、「昭和天皇の戦争認識」(2023年)など。
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furoshikiblog · 2 months ago
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【 八十八夜 】
♪ 夏も近づく八十八夜・・・♪
立春から数えてちょうど5/1,2あたりが八十八夜。 新緑まばゆい茶摘みの季節。
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八十八夜は一般的に9つあるとされる雑節(ざっせつ)の一つで日本独自のもの。 旧暦では実際の季節と暦(こよみ)が半月もズレることがあって、 農家への注意喚起として作られたとか。
インド・ベトナム・中国あたりが原産とされるお茶の木は、日本に伝わって��自の抹茶や煎茶の文化が生まれます。 抹茶は鎌倉・室町時代から茶の湯の発展により普及しましたが富裕層のもので、現在一般的に飲まれている緑茶・日本茶(煎茶)は江戸時代に入ってから。
それまで粗末な煎じ茶を飲んでいた庶民のお茶に革命をもたらしたのが、お茶づけ海苔で有名な永谷園の先祖・10代ほど前の永谷宗円。 15年の歳月をかけて、今のような黄緑色の薫り高く滋味あふれる煎茶を作り出したそうです。
   雨粒の甘き八十八夜かな  石田阿畏子
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quotejungle · 8 months ago
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元はまず、第一次侵攻(文永の役)で数万人のモンゴル・高麗連合軍を朝鮮半島経由で送り込んだ。ただ、この時期の元は中国南部の南宋をまだ滅ぼせておらず、日本侵攻は南宋への牽制を兼ねた大規模な威力偵察としての側面が強かったとされる。 一方で第二次侵攻(弘安の役)は、第一次と同じ朝鮮半島からの東路軍に加えて、南宋の滅亡で接収された漢人兵士を主体に構成された江南軍も、東シナ海を経由して送り込まれた。元側の兵力は東路軍と江南軍の合計で十数万人以上にのぼったとみられ、本気で日本征服を念頭に置いた陣容だった。 元はさらに第三次侵攻も計画したが、内紛などで結果的に中止した。一方、日本側も鎌倉武士団の奮戦で防衛に成功したものの、対外戦争の負担は鎌倉幕府が滅びる遠因になった。
なぜ中国人は元寇を知らない? 公教育が避ける「中華民族による侵略の歴史」 | Web Voice|新しい日本を創るオピニオンサイト
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bearbench-img · 5 months ago
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ソウシュウシチリガハマ
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相州七里浜(そうしゅうしちりがはま)は、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎による「冨嶽三十六景」シリーズの作品の一つです。この作品は、現在の神奈川県鎌倉市七里ヶ浜付近の景色を描いたもので、北斎の代表作として知られています。絵には、七里ヶ浜の海岸沿いに広がる雄大な景色が表現され、遠くには富士山が美しく描かれています。波打ち際では、漁師たちが網を引く姿や、沖合では漁船が並ぶ様子が生き生きと描かれています。北斎の卓越した構図と色彩感覚によって、日本の自然の美しさと力強さが感じられる作品となっています。この作品は、世界中の人々を魅了し、西洋の印象派画家たちにも影響を与えたと言われています。
手抜きイラスト集
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no111bloom · 2 years ago
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ママの呪いをかけないように
付かず離れずちょうどいい場所で待ってるからね。
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chiyoha1488 · 11 months ago
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ちよ旅オカルト編2024夏②
屋島(香川県高松市)
ここから香川県に入って行きます
 チヨハのフォロワーの中にまだ香川県に行ったこと無いヒトいたら「屋島はマスト」だとまず言っておきましょう
うどんなんか食ってる場合じゃないですよ、屋島に行け(現にチヨハもまだうどん食ってないです
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というのも、屋島という場が全方面のオタクにしっかり刺さるような多角的な魅力を持つ地であるからです
以下、用語バンバン出しながらざっくり説明するから気になったら調べてね
地学的な話をすると「メサ」という残丘地形です、その息を呑む美しさは屋島に登ってく道で必ず気付くはず
歴史的な話をするといわゆる源平合戦の「屋島の戦い」の舞台です、平家の拠点があったんですが義経軍に奇襲かけられちゃって気合いで押し切られ壇ノ浦へと敗走する契機となった戦いです
観光的な話だとお遍路八十八��所のお寺もあるし水族館もある、景色も綺麗
香川観光のイメージいくつか上げた時には順位あんまり高くなさそうなとこですが、実はそんな欲張りセット的なとこなのです
まあでもチヨハは当然オカルト的な目的で行きました
屋島にはタヌキがいるのです
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平成たぬき合戦ぽんぽこはまあ義務教育レベルだと思うんですが、
自然を破壊する人間に対抗することを目的に変化の技術を磨くために、多摩に四国から3匹の長老タヌキが呼ばれてきます
そう、四国はタヌキ信仰がめちゃくちゃ浸透してるのです
この3匹の��老タヌキは四国3大タヌキとして実在(実在?)してて、
屋島にいるのは真ん中にいる一番おじいちゃんタヌキ
「屋島の禿狸」こと「太三郎タヌキ」です
実はこの太三郎タヌキ、四国どころか日本3大タヌキにも数えられるくらいの大物なのです
そんなわけでタヌキ大国の四国においてでも、四国タヌキの総大将みたいな位置付けになってます
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屋島には太三郎タヌキにちなんでたくさんタヌキがいます
でもタヌキが多い四国でもなぜ太三郎タヌキが総大将足りえるか、その答えが屋島頂上の「屋島寺」境内にあります
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お寺の境内に太三郎タヌキが仏様に並んで「蓑山大明神」の名前で祀られているのです
そこらの変化が上手いだけの単なるイタズラタヌキではなく、「仏法の守護者」としての地位に落ち着いてるところにこの太三郎タヌキの凄さがあります
御使レベルなら他の動物にもあったりしますがこのレベルは結構珍しい例なんじゃないかなと思います
鎌倉から昭和まで「神々の守護がある」という建て付けで行われていた他国との戦争の戦時下、日本軍に���やたら「神様から加勢があった」という報告がありました
日露戦争時には太三郎タヌキも参戦していたというまことしやかに語られた噂があることからも、神仏の類いとして見られているということは間違いないでしょう
平成たぬき合戦ぽんぽこで終盤、太三郎タヌキが念仏に傾倒し、亡くなったタヌキを極楽浄土に率いていくのも、この辺の事情を反映しているということですね
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歴史的には屋島は源平合戦の舞台ということですが、それにまつわるオカルトもあります
上の写真は「血の池」
源氏方が平家を討った後、この池で刀を洗うこと、池を血で染めてしまうほどだったということだそうです
今はご覧の通り美しい池なのですが
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また、屋島の戦いも海戦であったことから、壇ノ浦(山口県下関市)と同じく、「海へと沈んだ平家方の武士は怨念が宿った平家蟹へと生まれ変わった」とされます
合わせて「海へと沈んだ平家方の女房はカッパに生まれ変わった」という伝承があります
カッパ?
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moko1590m · 6 months ago
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職業としての売春は、古くから存在する。職業とは、ヒトのみが行う社会的かつ文化的営為であり、富・付加価値の交換により形作られる経済活動の手段としては、売春は人類最古の職業の一つでもある。 現代の売春とは取引契約に基づくものであり、売春の歴史とは売春仲介の歴史でもある[5]。また、売春という職業が成り立つ為には、貨幣経済の浸透と、家父長制や嫁取り婚が成立していないといけない[要出典]。ヨーロッパでは古代ギリシャ以降になる。 古代 →「公娼」を参照 史上初めて管理売春すなわち売春を国家の登録制度のもとに管理し、公認したのはギリシャのソロンといわれ、国家によって女性の奴隷を「購入」し、「ディクテリオン」という売春施設へといれた[6]。ローマ帝国でも売春仲介業者は法的な認可をうけ、届出をするだけでなることができたため、売春は広く行われていた。しかしローマがキリスト教徒の迫害をやめ、それを国教としたことをうけて、売春を禁ずる法が登場する。ユスティニアヌス法典は、売春仲介業者の責任を問い、売春婦たちを「不幸な運命から救いだす」ことをうたう画期的なものであった[7]。 キリスト教が普及するにつれて、売春を含めた性の問題はすべて宗教の領域で扱われるようになる。キリスト教は売春はおろか婚姻生活以外での性交渉を禁止した。一方で国家は売春の禁止と公認を繰り返してきた。公序良俗を保つためであり、税収を確保するためであった。中世に入ってキリスト教の影響はさらに強まり、例え���、シャルルマーニュの勅令は売春の完全な禁止を謳っている。こちらは業者へは少量の罰金刑を課し、売春婦を「みだらな女」として広場で鞭打ちに処すなど重い罰を規定している。 近代 このように近代まで、国家は売春を両義的なものとして扱っていた。登録制度という公認であっても女性を監視し縛り付けるものだとする「廃娼論」が出現するのは20世紀以降のことである[8]。そして「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女賣買取締二關スル國際協定」が1904年に採択され、「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女賣買禁止二關スル國際條約」が1910年に制定され、1921年に国際連盟によって「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」、1933年に「成年婦女子ノ売買ノ禁止ニ関スル国際条約」がそれぞれ採択された。さらにそれらの協定や条約を統合する形で「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が1949年に国際連合によって採択され、1951年に発効した。 現在、フランスの社会史学派、アナール学派の研究によれば、売春は逆にキリスト教によって誕生したと論じている。本来、男女は対等であったが、キリスト教の「弱者である女性は、保護を行う男性の支配を受けなければならない」という教義から家父長制が強力になり、支配される性としての女性が誕生した、という考えである。[要出典] 日本 →詳細は「遊女」を参照 阿部定が最後に勤めた遊廓大正楼(兵庫県丹波篠山市) 万葉集に掲載されている歌の解釈から、この時代から日本でも売春は行われていたと考えられる。ただし、古代の記録に見られる売春は、都周辺に限られており、地方における実態は不明である。日本において職業としての売春が成立するのは、中世後期の室町期以降である。平安時代に至っても、さらには鎌倉期においても、妻問婚がメインであり、貨幣経済と男性優位の家父長制や嫁取婚はいまだ浸透していなかった。平安時代と同じく母方の父が優位という執権政治の形態が続いていたことからも明らかである。座や町衆などによる市の支配の確立と、惣領制や嫁取婚が成立するまでは、職業としての売春は広がりを見せなかった。 売春は神道において、巫女によって行われたこともあった[9]。鎌倉時代には巫女を養っていた多くの神社や寺院が破綻し、生活の糧を求めて旅に出る巫女が現れ「歩き巫女」と呼ばれるようになった。巫女は主に宗教的なサービスを提供していたが、売春とも広く関係していた[9]。 安土桃山時代に豊臣秀吉が大坂道頓堀において、遊女を一箇所に集めた遊廓を作って以後、江戸時代でもこうした遊廓を設置した。特に吉原遊廓、島原遊廓、新町遊廓は三大遊廓と呼ばれるほどの隆盛を誇った。ただし、遊廓などではいまだ女性の「神」性視が行われ[独自研究?]、遊廓は非日常の空間であり、世俗の法律が通用しなかった。吉原の監督官としての武士も、武家出身者ではなく忍者出身者が行い、公儀とは距離を置いた[要出典]。江戸幕府は、江戸および関東八州については、公的に売春を認めつつ[注釈 3]、散在する遊女屋を特定地域に集合させ、1617年(元和3年)、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、吉原遊廓とし、この他の地での売春を禁じた。この禁を破って売春がなされる場所を岡場所といい、その遊女らは、後任の吉原におけるものと異なり、私娼であって取り締まりの対象とされた。私娼は発覚・奉行所などに捕縛されると、新吉原で女郎として3ヵ年の年季奉公が科せられ(公事方御定書[11])、そのような女郎は「奴女郎」と呼ばれ最下級の扱いを受けた。このように、建前上は、吉原以外での売春は禁じられていたが、岡場所は江戸時代を通してところを変えながら存続し続けたし、特に、近郊の品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿など、近郊の宿場町の宿屋では、泊り客に飯盛女と称した私娼の斡旋を行っていた。 1958年(昭和33年)4月1日に売春防止法が施行され、赤線も廃止されソープランドとして残る(神戸福原) 明治維新以後もこのような遊廓は存在していたが、転換点となったのは1872年(明治5年)である。この年、マリア・ルーズ号事件が発生し、大日本帝国政府はペルー船籍の汽船船内における中国人(清国人)苦力に対する扱いを「虐待私刑事件」として日本の外務省管下で裁判を行ったが、この裁判において被告側より「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」との主張が為された。 この主張に対して、特命裁判長を務めた神奈川県権令大江卓は「日本政府は近々公娼解放の準備中である」と公娼廃止の声明を発し、1872年10月2日、芸娼妓解放令が出された[12]。これにより、女衒による遊女の人身売買は規制されることになったが、娼婦が自由意思で営業しているという建前になっただけで、前借金に縛られた境遇という実態は変わらなかった。 また、この時期に数多くの女性が女衒の斡旋により、日本の農山漁村から東アジア・東南アジアに渡航し、遊廓で働いた。こうした海外渡航した女性たちは「からゆきさん」と呼ばれた。このように世界への渡航を手配した、女衒として有名な人物に村岡伊平治がいる。 第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、日本の統治を担当していたGHQは公娼廃止指令を出し、女給による売春を行う赤線を除いて遊廓は廃止されることになった[注釈 4]。 また、1955年(昭和32年)最高裁判所は、売春を前提とした前借金について『公序良俗に反するものであるとして無効』とする判例を確定させた[13]。さらに、上記「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」を批准するための国内法である売春防止法が1956年(昭和31年)5月に公布、1958年(昭和33年)4月1日に施行され、これによって赤線も廃止されることになった。 これら赤線地帯にあった店は、その後も小料理屋やトルコ風呂(現:ソープランド)などと名称を変え、管理売春や勧誘・斡旋などの売春助長行為ではなく、個人の自由意志での性行為の場所を提供する、という法令に抵触しない範囲で営業を行っている。なお、トルコ風呂の名称については、トルコ人留学生・ヌスレット・サンジャクリが厚生省(現:厚生労働省)に名称変更の訴えを起こし、名称がソープランドに変わった経緯がある[注釈 5]。 →詳細は「ソープランド § 改名問題」を参照 各国の概況
売春 - Wikipedia
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universalpress · 1 year ago
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豊田ルナ、新唯、塚越愛実、西綾乃、ひなたまるがヤンマガ「海の家」お披露目会見に登場
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