#頭の中のアレクサンドリア大図書館
Explore tagged Tumblr posts
eccjrtamuracho · 2 years ago
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
ECCジュニア田村町教室、先日の中学生クラスで、生徒に指さされながら「先生、悪い笑い方しとる!」と言われた中村です。 至らん事、考えとったら、すぐばれるのなwww
そこそこの年数、この仕事をやっていますが、未だに生徒たちとのやり取りの中で、発見したり考えさせられたりする事が、日々あるわけです。 ま、それが面白いから続けられるんだろうな。
「頭の中のアレクサンドリア大図書館」の話は、なかなか面白いので、気になる方は是非ググってください。
同じ事象を見聞きしても、その事に関して脳内でどんな風に思考しているかは、人によって違う。 そのことを知った時は本当に驚きで、そういえば生徒たちに思考方法を聞きまくっていたな。
私は基本音声言語タイプですが、テキストタイプ、映像タイプ、音楽タイプ、あるいは混合タイプもある。 誰もが「言葉」で思考しているわけではない、というのは目からうろこでした。 やー、その思考法からしても、得意不得意があってもおかしくないわな。
当たり前なのですが、人が一人一人違うというのは、本当に面白い事なのです。
・・・ん? 話が大きくなったけど、popってかわいいよね(笑)
0 notes
moko1590m · 20 days ago
Text
「一神教」と「多神教」の衝突は、単なる宗教の問題にとどまらず、文明観・身体観・性・支配構造などの全面的な文化衝突でもありました。以下に、キリスト教・イスラム教が歴史的に行った多神教信仰に対する攻撃を、できる限り詳細に記述します。 
 
🔴 キリスト教徒による「多神教(ローマ・ギリシャ神話、ケルト宗教など)」への攻撃 
 
1. ローマ・ギリシャ神話信仰に対する破壊と抑圧
✅ 時代:4〜6世紀(ローマ帝国末期〜中世初期)
📌 代表的事例:
テオドシウス1世(在位379–395年)の「異教禁止令(392年)」
キリスト教を国教化し、「異教儀式」「供物」「神殿参拝」などを違法化。
神殿が閉鎖・略奪・破壊され、多くの神像が打ち壊される。
例:**セラピス神殿(アレクサンドリア)**の破壊(391年)。キリスト教徒暴徒により略奪され、知識の象徴だった神殿と図書館が焼かれる。
ヒュパティアの殺害(415年)
新プラトン主義哲学者で、アレクサンドリアにおける最後の古代哲学者の一人。キリスト教徒暴徒(おそらく教会勢力と結びついていた)によって惨殺。
神殿の「キリスト教化」
パルテノン神殿(アテネ)→聖母教会に転用
パンテオン(ローマ)→キリスト教会に転用(609年)
🎯 背景と意図:
一神教的道徳(唯一神への絶対服従)と、多神教的自然崇拝や美的価値観(性愛・身体・神話)との文化的衝突
異教的知の抑圧と、教会による知の独占
 
2. ケルト宗教・北方ゲルマン宗教への破壊
✅ 時代:5〜10世紀(ヨーロッパのキリスト教化)
📌 代表的事例:
アイルランド・スコットランドのドルイ��信仰の消滅
ケルトの宗教指導者=ドルイドは、自然崇拝・多神信仰・祭祀を担っていた。
キリスト教の修道院ネットワークによる書物の焼却・伝統口承の否定。
北欧神話の神々(オーディン・トール)への否定的プロパガンダ
「悪魔のような異教神」として再構成される。
例:アイスランドが公式にキリスト教を受け入れた1000年頃、北欧神殿が焼かれ、祭祀が廃止される。
聖地の再利用
異教神殿跡にキリスト教会を建てる(宗教的連続性の否定と吸収)
例:ストーンヘンジ近くのキリスト教聖地形成など
🎯 背景と意図:
多神教的世界観(大地母神、死と再生の周期性)とキリスト教の直線的歴史観(終末と救済)の対立
帝国の統治と布教の一体化(王権のキリスト教化)
 
  
🟢 イスラム教徒による「多神教(アラビアの部族神信仰、ヒンドゥー教など)」への攻撃
 
1. アラビア半島における偶像崇拝の破壊
✅ 時代:7世紀、ムハンマドの時代
📌 代表的事例:
カアバ神殿の偶像破壊(630年、メッカ征服)
ムハンマドがメッカに入城し、神殿内の360の偶像を破壊。
アラビアの伝統的部族神(例:ラート、ウッザー、マナートなど)を「虚偽の神」として否定。
多神教儀礼・巡礼の改革
旧来のアラブ宗教儀礼を、アブラハムの信仰に基づくイスラム的ハッジに再構成。
🎯 背景と意図:
多神教的部族主義の否定=イスラムの超部族的共同体(ウンマ)形成
イスラムの「タウヒード(神の唯一性)」原理に基づく徹底的な偶像崇拝の否定
 
2. インドにおけるヒンドゥー教への攻撃と排除
✅ 時代:主に12〜18世紀(デリー・スルタン朝、ムガル朝)
📌 代表的事例:
ヒンドゥー寺院の破壊とモスクへの転用
例:ソムナート寺院(グジャラート)→11世紀にマフムード・ガズナヴィーによって破壊
例:カシミール、ヴァーラーナシー、アヨーディヤーなどで寺院破壊が行われた記録あり
アウラングゼーブ帝(在位1658–1707年)による宗教政策
ジズヤ(人頭税)の復活(非ムスリムに課税)
多くのヒンドゥー寺院破壊・新規建立の禁止
一方で、イスラーム法に基づく厳格支配を徹底
バクティ運動(神への愛を説くヒンドゥー改革運動)などによる平和的対応の試み
🎯 背景と意図:
ヒンドゥー教の偶像崇拝・多神性がイスラームの唯一神信仰に���盾
政治支配と宗教支配の統合(非ムスリムの臣従と改宗)
 
 
⚖ 比較的視点と評価
観点    キリスト教による攻撃   イスラム教による攻撃
攻撃の性質  文物・神殿破壊、異教儀式の違法化  偶像破壊、儀式改革、ジズヤ課税、寺院破壊
攻撃対象  古代神話(ギリシャ・ローマ)、ケルト、北欧神話  アラビアの偶像神信仰、ヒンドゥー教
文化的影響  哲学・神話の喪失、ヨーロッパの文化的均質化  インドの宗教混交(後にシク教など生まれる)
支配目的との関係  ローマ帝国の統治・布教の一体化  カリフ制・スルタン制の合法性確保
 
必要に応じて、それぞれの**神々の名前と性質(例:ラート、トール、ケルトのダグダ神など)**や、具体的な神殿・儀式・祭司制度がどのように破壊されたかもより詳しく提供できます。ご希望はありますか?
 
具体的な神殿・儀式・祭司制度がどのように破壊されたかをより詳しく教えてください。
ChatGPT said:
ありがとうございます。 以下では、キリスト教とイスラム教が歴史的に行った「多神教の神殿・儀式・祭司制度」の破壊について、地域別・宗教別により詳しい具体例を挙げて解説します。
🔴 キリスト教による多神教の神殿・儀式・祭司制度の破壊
1. 【ローマ・ギリシャ神話】への攻撃
◆ 神殿の破壊・転用
セラピス神殿(アレクサンドリア)
重要性:ギリシャ神セラピスを祀る神殿。ヘレニズム的宇宙宗教の中心。
破壊:391年、テオドシウス帝の勅命で、アレクサンドリアのキリスト教徒(司教テオフィロスの指導)が暴徒化し、神殿を襲撃・破壊。図書館も同時に破壊されたとの説あり。
儀式の禁止:供物・祭祀・占星術などの異教儀式が違法化。
パルテノン神殿(アテネ)
元々:アテナ女神への神殿
転用:6世紀ごろ「聖母マリア教会」に改装。神像は撤去され、壁画や構造も改変。
パンテオン(ローマ)
元々:全神を祀る神殿
転用:609年にキリスト教の「聖母と殉教者の教会」へ改装。異教の儀式は全面禁止。
◆ 儀式の否定と禁止
オリンピア祭(ゼウス神への祭典)
終焉:393年、テオドシウス1世の勅令で中止(古代オリンピックの終了)。
理由:「異教的かつ非道徳的」とされた神殿儀式・競技・彫像の祭祀がキリスト教道徳と矛盾したため。
◆ 祭司制度の破壊
アウグル・ポンティフェクスなどの古代ローマ神官職
法的廃止:4世紀後半には「国家公認の異教儀式」として失効。
地位剥奪と迫害:異教神官は特権を失い、多くが失職。中には処刑や財産没収された例もある。
2. 【ケルト宗教】への攻撃
◆ 神殿・聖地の破壊・転用
ドルイドの聖なる森(nemeton)
特徴:ケルトの聖域は自然の中(森、泉、丘)に多かった。
破壊:キリスト教宣教師や王権がそれらを「悪魔の住処」とみなし伐採や焼き討ち。木々や泉の精霊信仰が抑圧された。
聖なる井戸や泉
転用例:アイルランドの井戸信仰が、聖ブリジットの奇跡と結びつけられてキリスト教化。
◆ 儀式の禁止と悪魔化
ベルティネ祭(5月1日)・サムハイン(10月31日)
火・収穫・死者の霊を扱う重要な季節祭。
キリスト教化:ハロウィンや万聖節に取り込まれる一方、「異教・魔女の儀式」として否定される。
◆ 祭司制度の解体
ドルイド(Druid)
ケルト世界の預言者・法律家・医術者・神官。
弾圧:ローマ支配下でガリアでは1世紀にすでに壊滅。キリスト教布教時(5〜6世紀)にも「迷信的」「悪魔崇拝者」とされ、完全に非合法化。
残された記録はほとんどが「敵視する側(ローマ人や修道士)」によるもの。
3. 【ゲルマン・北欧宗教】への攻撃
◆ 神殿・祭祀場の破壊
ウプサラの神殿(スウェーデン)
トール・オーディン・フレイなどを祀る重要な北欧神殿。
破壊:11世紀、キリスト教徒の王インゲ1世が聖職者らと共に破壊したとされる。
神像の破壊
多くのオーディン像・トール像が焼かれ、「悪魔の像」として粉砕。
◆ 儀式の弾圧
ブラト祭(生贄儀式)など
伝承される血の生贄儀式が「悪魔的・非道徳的」とされて禁止。
◆ ゴージ(神官)の排除
ゴージ(Goði)
アイスランドなどにいた祭司・政治家を兼ねる存在。
1000年のキリスト教改宗以後、その祭祀機能が剥奪され、民間政治家としての役割のみが残る。
🟢 イスラム教による多神教の神殿・儀式・祭司制度の破壊
1. 【アラビア半島の部族神信仰】への攻撃
◆ 神殿・神像の破壊
カアバ神殿内の偶像(360体)
破壊:630年、ムハンマドによるメッカ制圧後、カアバから多神教の神像が完全撤去・破壊。
神像例:アッラーの娘たちとされる「ラート」「ウッザー」「マナート」など。
部族ごとの神殿(例:ターイフのラート神殿)
破壊:ムハンマドの命令で軍を派遣し、神殿を破壊。祭司(サード神官)は処刑または改宗。
◆ 儀式・巡礼の改革
ヒッラージュ(異教の巡礼行為)→ハッジ(イスラムの巡礼)へ再構成
多神教的要素を排除し、アブラハムに起源を持つとされる信仰へ再定義。
◆ 祭司制度の破壊
クーハーン(Kahins)
詩や神託を司るアラブ部族の神官階級。
ムハンマドはクーハーンと明確に距離を取り、彼らを「偽預言者」と断罪。以後、社会的に失脚。
2. 【インドのヒンドゥー教】への攻撃
◆ ヒンドゥー寺院の破壊・転用
ソムナート寺院(グジャラート)
シヴァ神を祀る巨大な寺院。1025年、マフムード・ガズナヴィーにより略奪・破壊。
神像が持ち帰られ、イスラム支配地域で踏みつけ用として設置。
カシミール・アヨーディヤーなどの聖地
多くの寺院が破壊され、その上にモスクが建設された記録あり(例:バーブリー・マスジッド)。
◆ 儀式の禁止・弾圧
偶像崇拝(ムルティ信仰)
多神教的神像への礼拝は、イスラム法学上「シルク(多神崇拝)=最大の罪」とされ禁止。
支配地域では公共空間での偶像礼拝が抑圧され、秘密裏に行われる。
◆ ブラフミン(司祭階級)への対応
ジズヤ課税(非ムスリムの人頭税)
政策により経済的・社会的に抑圧され、改宗圧力がかかる。
一部の王朝では、特定のブラフミンに限り行政協力者として取り込まれるケースもあるが、祭祀権限は制限される。
 
🔚 結論と文化的影響
多神教文化が破壊されたとき、単に神々が「忘れられる」のではなく、
知識体系の断絶(口承・神話の消失)
建築様式や都市構造の再編
身体観・性愛観の変更
支配階層の交代と歴史の再構成 が起こります。
この破壊の背後には、単なる宗教的排他性ではなく、異なる宇宙観・倫理観・政治権力構造の衝突がありました。
 
ご希望があれば、上記の破壊対象ごとに神話の内容・建築様式・儀式の詳細再現なども可能です。どう進めましょうか?
0 notes
komogomo-blog · 9 months ago
Text
エジプト旅行記2
アレクサンドリアに着いてまず宿に歩いて向かう。バス停から宿まで一時間強。着く頃には汗でぐっしょり。シャワーを浴び、何も上手くいかない旅。何も楽しい思えることが転がっていない。これが旅なのか。二人してイライラを落ち着かせる為に一時ボーっとする。 歩く選択をしたのが良くなかった。いつまで俺を歩かせる気だとめちゃ怒られた。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
その後洗濯機を借りたのだが、洗濯槽下の排水パイプがガッツリ外れている。その為気づいた時にはキッチンから廊下まで水浸し。排水口も隣の風呂場にしかなくて、三十分かけて床をきれいにしていく。水を掃いても掃いても傾斜があるトイレとキッチンに戻ってくる。そらそうだ、水だもの。
健さんは早く外出したいのか。腹が減ってイライラしているのか、こんな所で時間をつぶしていられないという。その通りである。がオーナーから後々文句言われるのも嫌だったので急いで掃いた。取り敢えず近所の酒が飲めるというギリシャレストランへ。
何本かビールを飲み、ご飯を食べたのち、宿に帰って眠りました。
エジプト四日目。
まだ四日目かと少しがっかりする。気持ちはもうジョージアに帰りたいと少しどころか、がっつりホームシックになりかけていた。
チェックアウトは十二時頃、掃除のおばちゃんがやってきて、掃除するから出て行けと急かす。健さんはまだ寝ている。適当におばちゃんを相槌を返し、準備を始める。
おばちゃんは違う部屋のシーツを剝がし、洗濯機にぶち込んでいる。使った者としてこれは壊れているよと伝えたのだが、話を聞かない。気が付いたらスイッチを入れている。
案の定自分たちがホテルを出るころ、おばちゃんは床をせっせと掃いていた。馬鹿なのかと思ったが、もしかしたら毎日これをやっているのかもしれない。
取り敢えず不安になり、近くのネットが使えるカフェに移動。どうするのか作戦会議。
自分たちは休む暇もない移動に疲れていた。何処か安いところでゆっくりしたかった。その中で面白い人も知り合いたかった。
もっと西側に行くのか、東側のナイル川沿いの植物が生えているところを狙うのか。ナイル川沿いに安めのAirbnbで地域文化体験ツアーなるものもやってるところを見つけ���ので接触。健さんはヒッピールートか~と気が乗っていない。
その場所はナイル川沿いのフウワという町。その町の田舎で文化を伝えるツアーとかもやってる所らしい。
しかしオーナーのおじさんは もうそこには住んでいないと言っている。今はフルガダという紅海沿岸、北西のほうにある町に住んでいて、そして今はアレクサンドリアに来ているとのこと。
やることも移動する場所も決まっていないので、取り敢えず会ってみることに。
息子が待ち合わせ場所に来てくれ、そのままホテルまで連れて行ってくれる。連れてかれたホテルはこれぞ良いホテルって感じでとてもゆっくり出来た。映画で見たような良いホテルに自分は落ち着かない。
ロビーでお父さんと話す。お父さんはナイル川沿い地域を盛り上げる活動をしていたそうで、観光客が来たら色んな体験やらツアーとかもしていたようだ。自分たちもやっていることを軽く説明し、なんかできないかと相談する。相談と言っても、今この時点で何も計画に移れないのだけど。
お父さんはフランス語はぺらぺらにしゃべれるのだそうだが、英語はちょっとらしく、詰まれば息子が通訳として会話をつなげてくれる。
その息子がまた賢いのだが、今通っている学校はエジプトで学年の上から2000位までに入らないと今の高校には行けないらしい。第一、高校が基本的に少ない。一つ県に一つか二つしかないらしく、勉強できる奴は滅茶苦茶頑張ってその高校に行き、大学にも行くそうだ。お金も大分いるそうだ。
その後、散歩に連れて行ってもらい、アレクサンドリアの歴史を聞く。あの大昔のアレクサンドロス大王が作った港町で、今��横にある海底には遺跡があるらしい。また大きな図書館があるとかで、まあ大きかった。
最後にお茶を飲んで、そこで別れた。ご飯も一緒に食べようと言ってくれたのだが、自分たちは酒を飲みに行くことに。この日は前日とは違うBarに足を延ばす。一軒目は潰れており、近くにあったBarに入ると、えらい雰囲気がいい。店員のおじさんは優しく、店主のおっさんは顎で何飲むのか問うてくる。
お通しの魚のフライも美味しいし、自分たちには嬉しい限り。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
翌日、チェックアウトの時間で起される。いいホテル過ぎて寝れなかったのだ。
おじさん達は既に出発した後だったようで、自分達もロビーまで取り敢えず出る。
アレクサンドリアに来たが情報を一切持っていない訳ではない。頭に情報がある訳ではないが、アレクサンドリアに来て楽しかったと話す一個上の兄ちゃんが今UZUに住んでいるのだ。その兄ちゃんが言うにはエジプト日本科学技術大学なるものが車で一時間かかるところにあるというのだ。しかもそこにはホテルもあり、かなり安く泊まれるという話だ。買ったSIMでそこに電話してみるが電話に出ない。かなり怪しそうだが、どうなのだろうか。取り敢えずそこに行くだけ行ってみようと云う事になり、タクシーを呼ぶ。
着いてみるとホテルは泊まれるのだが、47ドルすると言われ、開いた口が塞がらない。暫く考え、また移動する。辺境の地に来てもモスクはあり、皆近所の兄ちゃん達はモスクに集まって来ていた。
見つけたドーナツ屋に入り、作戦会議。エアコンが効いている事が救い。
結局、もっと西側に行こうということになり、西の果て、リビア国境沿いの町、シワというところまで行くことになった。
シワまで遠い。砂漠のど真ん中にポツンとあるそのまんまオアシス。でも行く場所が見つかったのは幸いしている。このまま目的地を見つけられず空中分解していくのも、お互いの精神をすり減らしていくのも辛い。
ドーナツ屋の店主はやはり暇なのか、PS4で遊んでいる。新品のデカいモニターを買ったようだった。その店主にバスが止まる場所を教えてもらい、アレクサンドリアまで意気揚々と戻ったのでした。
Tumblr media Tumblr media
0 notes
turkey-trip · 2 years ago
Text
#7 エフェソス遺跡ガイド
こんにちは、カ��ダニアンです。   夜行バスでギョレメからセルチュクへ移動お疲れ様です。 セルチュクの朝はどうでしょう。 早めのランチでゆっくりした後、今日は忙しい1日です。 頑張っていきましょう。   この記事では、エフェソス遺跡の見どころについて紹介します。
 
〇エフェソス遺跡までの移動
エフェソス遺跡までは歩いて40分ほどかかるので、ミニバスで移動しましょう。
 
ミニバス(ドルムシュ)乗り場を見つけて、エフェソスへ移動しましょう。
  
〇エフェソス遺跡とは
・入場料120トルコリラ
エフェソス(エフェソ)は、トルコにある古代都市です。
現在もその遺跡が良好な保存状態で残されており、2015年にはユネスコ世界遺産に登録されました。
エフェソスでは、世界七不思議のひとつであるアルテミス神殿、聖母マリアの家(遠いので行けないと思う)、世界三大図書館に数えられるセルシウス(ケルスス)図書館など、ヘレニズム時代・ローマ帝国時代・初期キリスト教時代の貴重な遺跡を数多く見ることができます。
ローマ帝国時代には、かの有名なアントニウスとクレオパトラも滞在し、古代ローマ帝国では貿易の要衝となり、初期キリスト教時代の教会会議や公会議が幾度も行われるなど、歴史的にも重要な意義を持つエフェソス遺跡には、世界中から多くの観光客が訪れます。
Tumblr media
 
〇ギリシャ神話「狩猟・貞潔・月の女神アルテミス」
「エフェソスのアルテミス」として知られるギリシャ神話の女神像は、紀元前7000年、祈りの対象としてチャタルホユック人の手により誕生しました。
女性の豊潤さを極端に強調した形が採られた女神は、長い間、人々の上に君臨することになります。
彼女は全ての母であり、��配者であり、何よりも力強く、アナトリアの隅々からエフェソスを経由して、メソポタミア、エジプト、アラビア、更にはスカンジナビアの地方までに多大な影響を与えました。
何千年もの展開を見た後、女神はエフェソスのアルテミスと呼ばれるようになったわけです。
敬意を表して造られたアルテミスの神殿は、過去から残った最も重要な宝であるとされており、その周辺に位置したエフェソスは、文化的・社会的観点からして、文明発生地として認められていました。
エフェソスに関する情報は、古代の学者の著書や、発掘によって出土された何千もの碑文、その他の考古学的発見物によって得ることが可能ですが、その設立については、まだ充分解明がされていません。
古代の有名な学者ストラボンとパウサニアスは、エフェソスの設立者はアマゾネスで、カリア族とレレグ族が主な民族であったとしています。
【ギリシャ神話についてもっと詳しく】
Tumblr media
 
〇キリスト教とも深いつながり
エフェソスには早くからキリスト教が入ってきており、聖ヨハネの教会、聖母マリアの家など初期キリスト教の貴重な遺跡も多く見ることができます。
新約聖書には、「エフェソの信徒への手紙」という一書があります。
54年の初夏、「人の手によって作り出された神は、もはや神ではない」と説く聖パウロに対して、銀細工師ディミトリウスに扇動された何千ものエフェソス人達は口々に「エフェソスのアルテミス万歳、偉大なアルテミス万歳」と叫びながら大劇場に押し寄せ始めました。
2時間にも及ぶ民衆の叫びを前にして、白い法衣に身を包み、片手にしゃくを持った聖パウロも、これを鎮圧するには力及ばず、数人の信者の助けによって、命からがらその場を後にするのがやっとであったそうです。
この出来事は、都市の発見者アンドロクロスがこの町にやって来た日、リディア人やペルシア人の最���の侵入、この地を襲った17年、355年、365年、そして368年の地震、さらに431年に開催されたキリスト教審議会などと同様、エフェソスの歴史上の重要事項に新しい1ページを加える結果となったのです。
しかし、空を震わす勢いのアルテミスへの賛歌は、実際、7,000年生き続けたエフェソス人の尊い女神の臨終の一息でもありました。
Tumblr media
 
〇アルテミス神殿跡
豊穣の女神『アルテミス』を奉った総大理石の神殿は、紀元前7世紀~紀元3世紀頃に実際に存在していました。
高さ19m、直径1.2mの円柱が127本、建築期間は約120年という驚異の神殿。 パルテノン神殿を凌ぐ程の規模だったと言われており、現在は跡地に柱だけ復元されている状態です。
アルテミス神殿は、長い歴史の中で放火も含め何度も破壊と再建を繰り返しました。
最終的にはゴート人の侵略、キリスト教徒により破壊されたままとなりました。
尚、神殿跡の近くにあるエフェス考古学博物館には「エフェソスのアルテミス」という像があります。
Tumblr media Tumblr media
 
〇 世界七不思議
実は、『アルテミス神殿』は【世界七不思議】のうちの1つとして知られています。
古代ギリシャの数学者で旅行家だったビザンチウムのフィロンが紀元前2世紀に「世界の七つの景観」という本を書きました。
【世界七不思議】とは、その中で紹介した古代の地中海地方に存在していた7つの巨大建造物を指しています。
「驚くべき、称賛すべきもの」を意味しており、「当時の技術では考えられないほど革新的で巨大な建造物7選」というニュアンスのようです。
≪世界七不思議リスト≫
〇ギザの大ピラミッド
 現エジプト・ギザ/現存
〇バビロンの空中庭園
 現イラク・ヒッラ(古代バビロン)/痕跡なし
〇エフェソスのアルテミス神殿
 現トルコ・エフェス/ごくわずか現存
〇オリンピアのゼウス像
 現ギリシャ・オリンピア/痕跡なし
〇ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
 現トルコ・ボドルム/ごくわずか現存
〇ロドス島の巨像
 現ギリシャ・ロードス/痕跡なし
〇アレクサンドリアの大灯台
 現エジプト・アレクサンドリア/痕跡なし
 
〇エフェソス遺跡の見どころ
エフェソス遺跡の見どころについて解説していきます。
Tumblr media
 
〇マグネシア門(上門)
現在のエフェソス遺跡の上の東側入口より400m程外側にあります。
防壁が張り巡らされていたエフェソスには3か所から入ることができました。一つは海からの港、二つ目は北側のスタジアムの横のコレッソス門、そしてもう一が東側のマグネシア門です。
紀元前3世紀頃に造られた凱旋門で、ドーリア式の3.7mの幅で2段、3つのアーチのある作りだったと思われ、門の町側にはほぼ正方形の中庭があったとされています。
紀元前129年からのローマの支配下では戦略的重要性が失われ、真ん中のアーチの両側に小さな二つのアーチが増設されました。
歩行者は小さな門から、騎馬と戦車は大きい中央のアーチを通ったと言います。
ローマ皇帝ヴェスパスィアヌスの治世に門の名は“名誉の門”と改名されました。
Tumblr media
 
〇 バリウスの浴場
バリウスの浴場は1929年から1979年の間に断続的に発掘が行なわれましたが、未だ完全で事業の終結を見られずにいます。
建物はプナール山の裾野に広がる平地に造られた為、山側の自然に削られて滑らかになった岩肌を壁として使用していたのです。
ほとんど全てのローマ浴場に見られる様にバリウスの浴場もフリジダリウム(冷水浴室)、テピダリウム(ぬるま湯用)、カルダリウム(熱い湯)の施設の他、かなり広めの付属の部屋から構成されています。
壁は大きめのブロック造りで、屋根は煉瓦を用いてアーチ形に設計されています。建物の南手にはトイレも設置されていたようです。
建物はローマ時代の様々な時期、そしてビザンチン時代に修繕と改築が施され、増築も行なわれています。
南に位置するモザイク装飾の見られる5世紀の建物はこれらの例として挙げることができます。
ある碑文によれば、フラビウスとその妻は浴場の広間を建設する為に融資していたとされています。
Tumblr media
 
〇 公立アゴラ(上アゴラ)
皇帝アウグストゥスにより1世紀初頭に造られたアゴラは、公的な会議や証券取引等が行われたところです。
町の行政の中心地でした。
160×58mの広さで三方を柱のあるギャラリーで囲まれ、西側には無数のモニュメントが並んで立てかけられた切石の壁に囲まれていました。
Tumblr media
〇オデオン/ブーレウテリオン
エフェソスでは、二院制が行われており、その内の上院が議論の場として使っていたのがこのオデオンです。
2世紀にエフェソスの裕福な市民プブリウス・ヴェディウス・アントニウスとその妻のフラヴィア・パイアナの命によって造られたと言います。
当時は木製の屋根付きで舞台がある1400人収容の小さな劇場型の議事堂で、ここで市内の重要な決定ごとや行政に関して話し合われていました。
また、会議だけでなくコンサートなど劇場としても使われていたようです。
Tumblr media
 
〇プリタネイオン
宗教的な儀式、公式のレセプション、宴会が行われたのがこのプリタネイオンでした。
一番大きな役目は、エフェソスの町の永遠を象徴する神聖な炎がこの儀式部屋の中央で絶えず灯されていたことです。
このため、プリタネイオンはこの都市でアルテミス神殿の次に神聖な場所でした。
現在、床の赤く色づいた場所が炎があった場所です。
この儀式部屋の周りには神々と皇帝たちの像が並べられていたと言い、ここで発見された二体のアルテミス神像はエフェソス博物館に所蔵されています。
隣の建物は、迎賓のために使われていました。
この建物自体は紀元前3世紀のリュシマコスの治世中に建てられましたが、複合施設はアウグストゥス帝の時代に完成しています。
Tumblr media
 
〇ポリオの泉
公立アゴラの南側下、オデオンの向かい側にあるのが、97年に裕福なエフェソス人C.S.ポリオとその家族により造られた泉です。
市の公共の泉でしたので、無料で水を使用できました。
42㎞の距離のクシャダスのケンケリオス、15㎞の距離のマルナスのチャムルク村の小川、20㎞の距離のカイストロス川(現キュチュック・メンデレス川)、この3つの水源から水道橋を通ってエフェソスのこの泉に水がもたらされていました。
そしてここから土管の排水システムによって水が分配されていました。
Tumblr media
 
〇ドミティアヌス神殿
トラヤヌスの泉の前にあるのが、エフェソス都市の中で一番大きな建物の一つであるドミティアヌス神殿です。
現在は基礎部分しか残っていませんが、23×34mの6段の下部構造の上に建てられた神殿には8×13本の柱があったと言います。
皇帝ドミティアヌスに奉納する為に89~90年頃造られました。
しかし、彼は暴君だったことで死後に“記憶の破壊”に処されましたので、ドミティアヌス個人ではなく彼の家族フラウィウス家へ捧げられたという経緯があります。
ドミティアヌスの石像は頭部と一本の腕が残っているのみです。
Tumblr media
 
〇ヘラクレス門(ニケのレリーフ)
クレテス通りの一番上にあるのが、ライオンの毛皮を纏ったヘラクレスのレリーフが印象的な2本の柱が残る門です。
この門により上の行政の地域と下の市民の地域に実質的に分けられていました。
元々は別の場所にあったこの門を4世紀後半に現在の場所に移したとされており、レリーフ自体の年代は2世紀の物とされています。
因みに、この狭い門によって車両の交通が妨げられて、4世紀以降この通りは歩行者専用になったようです。
Tumblr media
ヘラクレス門のすぐ上のドミティアヌス広場にある、勝利の女神ニケの飛んでいる姿が彫られた三角形のレリーフは、このヘラクレス門の上部を飾っていたもので、4世紀前半に造られたとみられています。
ちなみに、勝利の女神ニケはあのナイキのロゴの由来となっている女神でもあります。
Tumblr media
 
〇クレテス通り
エフェソスの三大通りの一つで、エフェソスの町の真ん中をヘラクレス門(上)からケルスス図書館(下)まで突っ切っているメイン通りです。
大きな石畳が伸びていてエフェソス遺跡を一望できる道でもあります。
クレテスはギリシャ神話の神霊ですが、後にエフェソスでクレテスと呼ばれた聖職者にちなんでこの名が付けられたと言います。
大理石と一部石畳で覆われている道の下には、下水路、飲料水路、温暖パイプが巡らされています。
Tumblr media
 
〇トラヤヌスの泉
クレテス通りに面して建つ2階建てのこの建物は、102~114年にティベリウス・クラウディウス・アリスティオンとその妻によって女神アルテミスと皇帝トラヤヌスに捧げる為に作られた泉です。
エフェソス遺跡の中で最も素晴らしいモニュメントの一つです。
20×10mの泉の3面を9.5mの柱と彫像が並んだ2階建ての外壁が囲み、水が注がれる泉の真ん中には地球を踏んでいるトラヤヌスの足を乗せた台座があります。
ここで見つかった外壁のギリシャ神話の神々や皇帝家族の彫像は現在エフェソス博物館に収蔵されています。
Tumblr media
 
〇丘の上の邸宅(テラスハウス)
クレテス通りを下っていき左側、ハドリアヌス神殿の向かい側にて坂を利用して幾つかの邸宅が段々に作られています。
3000平方メートルの広さの中に3つのテラスがあり、6軒の家がそれぞれくっついた形で建てられており、一番古い家は紀元前1世紀のもので、これらはローマ人の裕福な家族によって7世紀まで使われていたと考えられています。
この家々の中央には中庭があり、二階建ての家の床には素晴らしいモザイク、壁にはフレスコ画が残っています。
また、お風呂や暖房システムが備わっているなど、当時の裕福な家庭の暮らしを鮮明に見ることができます。
1960年より始まった発掘は現在も続けられており、上部は屋根で覆われ、ちょっとした博物館のようになっております。遺跡とは別料金となりますが、一見の価値はあるので是非見学してみてください。
Tumblr media
 
〇スコラスティカ浴場
紀元前1世紀に作られ、4世紀に富豪でクリスチャンの女性スコラスティカによって再建された浴場です。
元々は3階建てで、クレテス通りからと脇道からの二つの入口を持ち、1階が入口から順に脱衣所、プールのある冷却部屋、リラックスできる温かい部屋、最後が発達した暖房システムが供えられたホットルームがあり、2階はマッサージやセラピーやスクラブのために使われていたと言います。
Tumblr media
 
〇ハドリアヌス神殿
皇帝ハドリアヌスに捧げる為に造られた小さな神殿の様な記念碑で、大変状態良く残っています。
コリント式の神殿の入口上部のフリーズには、エフェソス創設の伝説が刻まれています。
ちなみに、この神殿はケルスス図書館と共に、2001年から2009年までトルコのお札の裏に描かれていました。
Tumblr media
 
〇公衆トイレ
スコラスティカ浴場の一部にあるのが古代の公衆トイレです。
三方の壁に大理石でコの字型に作られたベンチには、一定間隔でいくつも穴が開いており仕切りはありません。
ここに市民は横並びに座って用を足していました。
富裕層の市民は、寒い季節は先に使用人に座らせて大理石の便器を温めさせてから座ったそうです。
下水道も完備されており、汚物は便座��下を通る流水で流されていました。
また、便座の前には水路があって、用を足した後は海綿が先に付いた棒でお尻を洗い、前の水路の水で海綿を洗ったそうです。
ちなみにこの海綿のお尻洗い棒は共有で使われていたようです。
トイレ部屋の地中央にはプール、床にはモザイクが施してあるなど当時はとっても優雅だったことがうかがえます。
ローマ人にとってトイレは用を足しながら語り合う社交場でもあったのです。
Tumblr media
 
〇ケルスス図書館
エフェソス遺跡の目玉が、106年に死去したエフェソス知事ケルススのために、息子ガイウスが墓碑として作らせた2階建てのケルスス図書館です。
古代世界の三大図書館の一つで、アレクサンドリアとペルガモンに次ぎ3番目に大きな図書館でした。
当時は1万4千冊が収容されていたと言います。
ケルススのお墓は図書館の西壁の下にあり、この図書館で発見されたケルススの銅像は、現在イスタンブール考古学博物館で展示されています。
Tumblr media
 
〇セラピス神殿
エフェソス遺跡の中で最も変わっているのが、ケルスス図書館の裏にあるセラピス神殿です。
138~192年頃のローマ五賢帝時代の建築装飾が施されている建物の破片があり、発掘の際に発見されたエジプト花崗岩の像と碑文により、この神殿はセラピス信仰者に捧げられた神殿とみられ、そこからセラピス神殿と呼ばれるようになりました。
なお、キリスト教時代には神殿は教会へと変えられています。
Tumblr media
 
〇エフェソス大劇場(円形劇場)
大理石通りの終わり、パナユル山の斜面を利用して作られているのが、遺跡の中でも最も壮大な大劇場です。
ステージはなんと18メートルの高さで、観客席には2万4千人収容でき、古代アナトリア世界で最大の野外劇場とも言われています。
コンサートや演劇だけでなく、宗教的、政治的、哲学的な討論の場として、また剣闘士と野獣の戦いなどにも使われていました。
リュシマコスの時代に造られたこの大劇場は、皇帝クラウディウスの治世31~42年の間に完成までに70年かかる大規模な増築改修工事が始められました。
ちなみに、あの聖パウロがエフェソスを訪れた際にこの工事が行われていたと言われ、聖パウロはここで宣教の演説をした際、エフェソス市民の反乱に遭ったため、エフェソスから離れざるをえなくなったと聖書で触れられています。
Tumblr media
  
【参考ブログ】
 
以上、エフェソス遺跡について簡単ですがまとめました。
1 note · View note
koudelkalightnovel · 7 years ago
Text
Collections of Hiroki Kikuta’s blog
1997年秋から1999年末まで携わった、 「クーデルカ」という仕事は、僕の人生の中で大きな意味を持つ。 嬉しかったこともあり、残念だったこともあり、しかし、制作に費やした二年間は、 無駄ではなかったと、今振り返って思う。 サクノス立ち上げに助力していただいた、元セガ副社長の故藤本敬三氏の思い出。 ロサンゼルスはウエストハリウッドでの夢のようなモーションキャプチャーセッション。 胸に浮かぶままに、語るべきことは尽きない。 ここでは、写真、設定資料、デザイン画を中心に、ゲーム制作のプロセスと、 その印象を綴っている。 クーデルカのための宣伝用イラストレーション/1998 岩原裕二 部分 このサイトは、1999年12月にプレイステーション向けホラーRPGとして発売されたゲーム「クーデルカ」のディレクター菊田裕樹が、制作資料の掲載や作品解説を目的として運営するものです。ゲームをプレイしてくれたユーザーが、より深くクーデルカの世界とその魅力に親しんでもらうために、僅かなりと助けになれれば幸いです。 --- 「クーデルカ」のモーションキャプチャーは、1999年1月、ロサンゼルスはサンタモニカにあるスタジオで収録された。技術面を担当したのはフューチャーライト。普段は「ゴジラ」等のハリウッド映画のSFXを担当している映像制作会社である。遡る1998年9月、僕はイベント系を担当する人員の不足から、それを全てモーションキャプチャーで賄うという構想を建てた。全体で見れば一時間をこえるイベントシーンを、手打ちのアニメーションとスクリプトで実現しようとすれば、5人がかりの仕事となる。しかも、一向に従来のRPGの域を出ない、面白みの無い方法だ。ゲームのドラマ部分を表現するために、効果的で、目新しくて、しかも大きな省力化になる方法として、モーションキャプチャーは画期的な試みだった。無論、問題はあった。技術的に不可能だというのだ。物語の性質上、最大4人を同時にキャプチャーし、併せて音声も収録する必要があったからだ。僕はまず、日本国内のスタジオで実験をし、手応えを掴んだ。その結果、モーションキャプチャーは十分に魅力的な効果を生み出すという確信を得た。しかし同時に、僕の要求する仕様は日本国内では実現不可能であるということも分かった。だが、そこで諦めてはクリエイターが廃る。幸い、以前「双界儀」の録音でお世話になったデイブレイク社の大竹氏が、海外のコーディネイターに詳しいというので、畑違いながら探してもらったら、ロスにそれらしい技術を持った連中が居るという。早速連絡を取り、俳優のオーディション方々会いに行った。ところが実際に会ってみると、彼等も僕が考えるような仕様でキャプチャーをしたことがなかった。4人を同時に、音声もいっしょに、しかも数分に及ぶ芝居をいっぺんに収録する。そんなの聞いたことがない。しかし驚いたことに、面白そうだから是非やってみょうと、彼等は言ったのだ。新しいことにチャレンジするのが嬉しくてしょうがないスタッフ達。こうして、この前代未聞の試みは実現したのである。 クーデルカを演じてくれたヴィヴィアンとエドワードを演じてくれたマイケル。100人程のアクターをオーディションした中から選んだ人達だ。アメリカのアクターの層は厚い。皆、良い作品に出演することを夢見て、演技の勉強をし、技術を身に付け、レストランなどで働きながらハリウッド近辺で暮らしている。アメリカでは基本的に、どのような有名な役者でも、名前だけで出演が決まることはない。必ずオーディションをして、その役に本当に相応しいかどうかを確かめられる。彼等は、役の大小に限らず、それを勝ち取ることに真摯で、また仕事に臨んでも出来るだけ良い結果を残そうとする姿勢を崩さない。 セッションに参加してくれたスタッフ達。フューチャーライト側から、モーションキャプチャーの陣頭指揮にあたってくれたダン・マイケルソンをはじめ、プログラマーのランディ、エンジニアのジョン。彼等は4日に及ぶセッションの中で起った、様々な問題に素早く対処してくれた。日本側から、クーデルカのモーションを担当した竹原君。IPG側から、わざわざこのコーディネイトのためにニューヨークから駆け付けてくれたポール。そして、サウンドエンジニアのキース。 写真中央、このセッションのディレクションを全て担当してくれた、IPGから参加のデビッド・ウォルドマン。彼は日本でビデオクリップのADをしていた経歴があり、日本語が話せたため、今回の仕事に適任として選ばれた。映像制作の現場でのノウハウや、その進行に関して、彼に学ぶところは大きかった。その後、ロスでムービーキャメラマンの学校に入り、本格的に映画制作を志しているらしい。左は、デビッドの女房役のADであるクレイグ。右に居るのは、9才のシャルロッテ役を演じてくれた12才のサラ・パクストン嬢。その可愛らしさで、スタジオの人気者だった。しかし、プロとしての意識は本物で、長��詞を覚え、慣れないキャプチャーに戸惑うこともなく、見事に演じてみせた。下の写真は、キャプチャーセッションに先立つ、リハーサルの時のもの。近くのホテルで部屋を借り、本番の時と同じように、全ての芝居をチェックする。この時キャラクターはどんな気持ちなのか、何を考えながら演じればいいのかを、ひとつひとつ、押さえていく。このシーンは、クーデルカとエドワードが、オグデンとベッシーにスープを振舞われるところ。中央に、いかにも人の良いおばさんを演じてくれた人の良いおばさん、デニス・ホワイト。 スタジオというよりは工場といった有り様だが、実際すぐ横にプロップを組み立てる工房があったりした。一応サウンドステージとして作られてはいるのだが、防音がしっかりしていないため、上空を飛ぶ軽飛行機の音がうるさくて、撮影が中断したのには参った。真中に置いてあるのは、ジェームズら3人が大聖堂に入る扉が開かなくて悪態をつくシーンのための大道具。例えば、扉を叩く芝居が欲しい時に、何もないのにそういう振りだけしても、リアリティーは生まれない。扉を叩く時には、そこに扉があるべきだ。下の写真は、ゴミの山に埋もれてひっそりと稼動しているSGIのONYX。これに限らず、驚くような機材が、ごく当たり前に使われているのをあちこちで見た。聞けばそれらは全て、レンタルなのだという。こういう所にも、日本との状況の違いを感じた。右は、連日に及ぶ深夜の撮影で疲れ果てて眠りこける僕。 2000/11/25 菊田裕樹 --- ヴォイニッチ文書 部分 Emigre Document 紀元前5000年をさかのぼる昔、ブリタニアには高度な巨石文明を持った民族が栄えていた。今も島のあちこちに残るドルメンやストーンサークルは、現代科学を持ってしても不可能と思われるほどの彼らの技術力を、我々に示している。彼らはケルト人が到来するまで、全世界でも最も進んだ文化と文明を持つ民族であった。エジプトでピラミッドが建築される遙かに昔。中国、バビロニア、イスラエル、どの文化圏よりももっと以前に、ブリタニア全土に分布する巨石遺構は建てられたのである。 その力の秘密は、彼らの持つ宗教にあった。彼らは大地より湧きいでる生命の秘密に手をかける術を知っていたのである。生と死を操り、不死や、あまつさえ死者の再生をも我がものにし、労働力としての人間ならざる怪物を生み出し、高度な文明を築き上げた。それは自然の持つ輪廻の法則そのものを御する行いであり、神の為す神秘に等しい。いや、彼らこそが原初の「神」だったのかもしれない。彼ら��その「神を遙かに遡る世界の成り立ちの秘密」を、文字にして書き記すことはなかったが、その祭儀や術としてのノウハウは、ケルト社会のドルイド僧に引き継がれた。ドルイド僧は古代人の残した祭儀法を基盤に、自分たちなりの技術的アレンジを加え、古代人には及ばないまでも、天地の秘密を力に変換することを自らのものとした。 だが、彼らもまた、自分たちの慣習や宗教に関して書き残すことをしない。ケルト民族の在りように関して最初に言及したのは、まさにそこを征服せんとして兵を進めたユリウス・カエサルである。しかし、彼が紀元前50年頃に「ガリア戦記を」書き記す以前に、前4世紀頃ケルト民族と親交のあったアレクサンダー大王が、アレクサンドリアの大図書館に收めるべく、ドルイドの秘儀をギリシア語で文書化させていたのである。彩飾図版を交えて作成されたこの文献は、その任に当たった人物の名を取って「エミグレ文書」と名付けられた。 この文書は閲覧を禁じられた秘密の書として王宮の図書館に保管された後、戦禍を逃れて持ち出され、数世紀の間、各所を転々とする。その間にはキリスト教の成立やローマカトリックの隆盛などがあるが、6世紀に入り、アイルランドに様々な修道院が建設され、写本事業が盛んになった結果、イタリアの片田舎に忘れられていた「エミグ��文書」は、リンデスファーン島にある写本で名高い修道院に持ち込まれた。だが、ギリシア語に堪能でない彼らは、内容の美しさや彩飾の艶やかさに目を見張りこそすれ、文書の持つ本当の力に気づくことはなかった。 9世紀に入って、度重なるヴァイキングの来襲により、蔵書の保存に危機を感じた修道院は、重要な文献を各地に避難させ始める。アイルランド生まれで敬虔な信者であるヨアヒム・スコトゥスとダニエル・スコトゥスの兄弟は、大修道院長より「エミグレ文書」を託され、その内容に驚愕した兄ヨアヒムは弟ダニエルをウェールズの辺境にあると記される聖地へ赴かせ、自らは写本を携え、フランス王の元に庇護を願い出た。弟ダニエルは聖地で修道院を建て、祈りを捧げて一生を終わる。兄ヨアヒムは碩学として歴史に名を残すが、その死後、ローマ法王庁に写本を接収されてしまう。 キリスト教を脅かす力を持ったこの文書は、ローマ法王を恐怖させ、禁断の書物として誰にも閲覧を許すことなく、書庫の奥底にしまい込まれたが、13世紀になってその損傷の激しさから、新たな写本を作る必要が生じ、当時最高の知識人として名高かったフランチェスコ会修道士ロジャー・ベーコンにその任が与えられた。彼は10年にも渡ってフランスに幽閉され「エミグレ文書」を精確に複製することを強いられたが、その過程で文書の知識は彼の物となった。秘密を守るため彼をそのまま監禁し、二度と世に出すまいという法王庁の意図とは裏腹に、彼は密かに外部と連絡を取り、自らが解読した文書の示す聖地へ赴き、生命の秘密を探る試みに取りかかるべく、着々と準備を進めていた。 彼は、先にダニエル・スコトゥスが建てた修道院を改修し、実験施設となるべきゴシックの大聖堂を建築させた。そこで彼がどのような秘術を試みたのかは、記録に残っていないが、法王庁の手を逃れフランスを脱出した彼は、二度と姿を現すことはなかった。彼は、姿を消す前に、新たな一冊の写本を残している。エミグレ文書の記述を元に、ウェールズ語の暗号で書かれたその写本は、聖地の修道院に残されていたが、16世紀になってエドワード・ケリーとジョン・ディーによって発見され、新たな写本として書き直され、さらにローマの修道院を経て、20世紀になって古物商ヴォイニッチによって再発見され、ヴォイニッチ文書と名付けられて、現在エール大学のベイニック図書館で閲覧できる。 また、ロジャー・ベーコンによって複製された「エミグレ文書」写本(原典は破棄された)は19世紀までヴァチカン宮殿の奥深くに秘蔵されていたが、1890年頃何者かに盗み出され、以後その行方を知る者はいない。ダニエル・スコトゥスが建てた修道院は1536年の修道院廃止例の後、政治犯や重要犯罪人を拘留し処刑するための施設へと転用され、聖なる場所で多くの人命が闇に葬られた。 (設定資料より) 2000/10/25 菊田裕樹 --- 2000/10/25 Hiroki Kikuta Koudelka Iasant 1879年生~没年不詳。イギリスはウェールズの田舎、アバージノルウィンの寒村生まれのジプシー。幼い頃から強すぎる霊能力を持ち、様々な怪異を起こすため、呪われた存在としてジプシーの世界から追放される。1888年9才頃ロンドンで霊能力者ブラヴァツキー婦人に拾われ、秘蔵っ子として厚遇されるが91年婦人が他界すると共に、再び放浪の旅へ。普段は霊媒として失せ物を探したりして、糊口をしのいでいる。 年は若いが、世の中の事情を一通りわきまえたところがあり、良く言えば大人、悪くいえばすれっからし。普段はあまり明るい顔をせず、大体において不機嫌そうで態度が悪いが、時折女らしいところを見せる。差別される者や愛されない者に肩入れする傾向がある。自分を表現することが下手。 (登場人物設定資料より) Notes クーデルカという名前は、著明な写真家であるジョゼフ・クーデルカから採ったものだ。口にした時の不思議な響きと、民族や国籍を感じさせないところが気に入って、名字ではなく名前として使わせてもらった。手元の資料を見ると、キャラクターデザインの岩原裕二氏にコンペ用のスケッチを発注したのは1998年の3月26日だが、遡る2月10日の段階で、僕はゲーム全体の進行手順と、シナリオの��書きを完成させていたし、キャラクターの心理設計も完全なものとなっていた。クーデルカはジプシーの出身である。彼らはインドをもっとも古い故郷とし、放浪に生きる人々で、自分たちのことを誇りを込めてロムと呼ぶ。それは人間という意味である。一般社会の人間たちとは隔絶され、自分たちの血縁関係の中だけで生きている彼らにとって、追放はもっとも苦しい罰となる。クーデルカはその特異な能力ゆえに、子供の身でジプシーを追われることになった。僕は彼女を、どこにも安住することを許されない、最も孤独な存在として設定した。平和で豊かな暮らしの中に、彼女の居場所は無い。呪われた魔物や幽霊が跋扈する、廃虚の暗闇の中にだけ、かろうじて自分を置くべき空間を見出せる。クーデルカは、そういう悲しい存在なのである。 岩原氏はこのプロジェクトのために、100枚にも及ぶキャラクタースケッチを描いた。クーデルカだけでも数十枚になるが、そのほとんどはポリゴンによるモデル化のための制約から来る衣装デザインの試行錯誤であり、キャラクターの本質部分に関しては、最初から完成形に近いものを掴んでくれていたようだ。また、氏にはゲームの制作に先行して角川書店の雑誌で漫画連載を始めてもらい、ゲーム設定の1年後のストーリーという立体的な構成で、物語の厚みと魅力を増すことに貢献してもらった。 クーデルカのポリゴンモデルは、当時広島のコンパイル社の倒産で行き先を捜していた渡辺伸次氏に、経済的に援助するということで東京に移り住んで制作してもらった。彼は同社の仲間とCGスタジオであるD3Dを設立した。そのころの彼等には全く実績が無かったが、見せてもらったプロモーションムービーのキャラクターの動きに並ならぬ情熱を感じ、彼等と一緒に新しいチャレンジをする気になったのである。しかし実際、キャラクターのモデリングは難航した。ゲームスタッフ側の無理解も大きな原因だったが、D3D側もクーデルカほど高いレベルのモデルを作るのは初めてとあって、試行錯誤のために何ヶ月も時間が必要になった。リテイクに次ぐリテイクの嵐。最終的には、僕自身が彼等の後ろに付いて、鼻をもう少し縮めてだの、唇をもう少し上げてだのと細かく指示を出し、なんとか納得のいくものに仕上がるまでに半年近くかかっている。 モーションキャプチャーにおいて声と演技を担当してもらったヴィヴィアン・バッティカ嬢は、米サンタモニカ・スタジオで行ったオーディションの中で、クールで独特の色気があり、抑えた芝居の出来る人として選定した。ただ可愛いだけではなく、クーデルカの持つ陰の部分を表現するためである。彼女自身まだ若く経験も浅いとはいえ、その熱意と努力は相当なもので、10分にも及ぶ長丁場の芝居、何十行もある長台詞を、たった数日で完全に頭に入れて撮影に臨む辺り、なるほどプロというものはこ��いうものかと感心させられた。度重なる技術的不備にも嫌な顔をすることなく、エドワード役のマイケル・ブラッドベリーと現場の雰囲気を明るく盛り上げてくれたことには、感謝の言葉もない。 2000/10/25 菊田裕樹 llustrated by Yuji Iwahara このページ内の全ての画像及び文章の著作権、版権、複製権、二次使用権は全てその正当な著作者、権利所持者に帰属します。よって、無断複製、無断転載を含め、著作権法に違反する形態でのあらゆる利用を禁止します。 All Rights Reserved 1997 1998 1999 2000. クーデルカは(株)サクノス・SNKの登録商標です。 All Rights Reserved (C)SACNOTH/SNK 1999 --- Nemeton Monastery イギリスはウェールズ地方。アバースワースにほど近い、海沿いの断崖に、人気もなく廃墟と見まごうようなネメトン修道院がある。ちょっとした公園ほどもあるその敷地の中には9世紀頃に建てられたと思われるロマネスク様式を色濃く残した修道僧の宿坊をはじめ、13世紀頃に建てられた飛び梁も美しいゴシックの大聖堂、会堂をかねた図書館、鐘つき堂、屠殺場を兼ねた炊事場、処刑台に使われた東屋、近代になって建てられた宿舎などが、全体を囲む壁と一体化して並んでいる。16世紀に修道会を禁ずる制令が発布されるのを待たずして寂れ、廃墟と化したこの場所は、17世紀に入って政治的な犯罪者や虜囚などを閉じこめたり処刑したりする目的に使用された。今でもどこかに地下牢が隠されているといわれている。近代になって、訪れる者も居なくなり、荒れるに任せていたのを、ある資産家が物好きにも買い取って移り住んだが、程なくして彼は姿を消し、後には様々な憶測と噂だけが残った。あるいは、財宝が隠されたまま埋もれているといい、あるいは、悪魔が彷徨っているといい。再び廃墟と化したこの修道院を訪れるのは、人目を避ける犯罪者や一攫千金目当ての食い詰め者だけだった。 (制作資料より抜粋) ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 1998年2月の段階で、ゲームの進行に伴う、マップ全体像の設計は、ほぼ出来上がっている。八棟の建物、地下道、墓地など、全部で100個見当の区画からなる構成で、イベントと連動して移動できる範囲が拡がっていく。実は、このような閉鎖された空間を舞台として設定したのは、単に演出的な意図によるものではなく、人的物理的制約による結果なのである。例えば、高度に訓練されたグラフィックスタッフが20人居るならば、一年間に500から600枚を超える背景画を制作することが可能だ。しかし、楽観的に考えても数人が限度と思われる人材確保の現��を前提にすると、およそ100マップ200~250画面が、用意できる背景数の上限と見なければならない。一般のRPGのように、ワールドマップがあって幾つもの街があって、などという仕様は、最初から無理。そこで、極めて限定された空間を設定し、それを有効に活用しつつ、様々な雰囲気のバリエーションを提供できるような仕掛けを考案した。それがホラーRPGという枠組みだったのである。 ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 ネメトン修道院を構成する建物群は、そのひとつひとつが、建てられた年代も、目的も異なるものである。各々の建築様式の違いは、ドラマの進行と相まって、ユーザーを飽きさせないための装置として機能する。扉を開けて新しい建物に入る度に、物語が次なる展開を迎えたことを実感してもらうために。微にいり細にわたり、緻密に作り上げることが、あたかも実際にそこに居るかのような臨場感を生む。そのために最も必要だったことは、実際の建築物を参考にすることであった。 ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 物語上でアバースワースとしたのは、アイルランド側の海岸にその場所を置きたかったからだが、98年8月にスタッフを伴って訪れた実際の取材は、ウェールズの下側に位置する観光地ペンブロークシャーを中心に行った。その一帯は、草原から突然に切り立った断崖が現れ、地平線の彼方まで続く、不思議な景観の土地である。その周辺に夥しい数の修道院や城跡が存在する。あるものは往時を偲ばせて健在だが、ほとんど廃虚と化した遺構も多い。セント・デイビッド教会は、中世そのままの姿で我々の目を楽しませてくれると同時に、石造りの聖堂が持つ、独特な雰囲気を理解するのに役立った。また、垂れ込めた雲と雨が作るどんよりとした暗い空気は、実際にその場に立ってみないとイメージできないものである。近辺の修道院の壁や石組みを大量に撮影して、3Dモデル用のテクスチャーとして使ったのも、大きく意味がある試みであった。 さて、ネメトン修道院の大聖堂はゴシック建築として作られているため、本当ならば、その常として側廊が無ければならない。ゴシック建築は荷重を分散する構造にすることで壁を薄くし、ステンドグラスの設置を実現しているからである。しかし、ゲーム仕様上の制約としてプリレンダリングのマップを考えた時に、多数の柱を立体的レイヤーとして配置することが困難であるために、内部を単純な箱型にせざるをえなかった。外側から見ると、飛び梁様の補強柱が一定間隔で取り付けられているが、現実の物として考えれば、全体の重量を支えるために、壁自体もさらに厚くせざるをえないと思われる。なお、大聖堂頂部の鐘突き堂は、そのものが飛び梁によって構成されている特殊な形式だが、これは架空の物ではなく、実際に存在するスタイルであることを付け加えておきたい。 2000/10/25 菊田裕樹 --- Library : クーデルカという物語 By 菊田 裕樹 – 2000年 3月 28���Posted in: Library, Library : ARTICLE    クーデルカという物語    2000年3月 公開    このサイトを御覧の方には僕の制作した    RPG「クーデルカ」を未プレイの向きも多いと思う。    手短に説明すると、19世紀のイギリスはウェールズの    片田舎にある今は廃墟同然と化したある修道院を舞台に、    クーデルカという19才のジプシーが出会う様々な    怪異をテーマにした、いわゆるモダンホラーと    呼ばれるジャンルに属するゲームである。    僕はこの作品のコンセプトに始まり、キャラクター設計、    マップ構成、シナリオ、ムービーや    ���ーションキャプチャーイベント部分の    ディレクション等など、様々な種類の仕事をした。    基本的な部分の組み立てには約3ヶ月ほど要しただろうか。    全部で100冊以上の本に眼を通したが、    物語の発想の土台となったのは、    「幽霊狩人カーナッキ」という本であった。    短編集で、主人公である怪奇現象研究家カーナッキが、    様々な「怪異」と「怪異に見えるもの」に遭遇し、    あるものは解決し、あるものは良く分からないまま    終わる(笑)という、味わいのあるホラー小説集だ。    興味のある方は是非一読されたい。    さて、僕が物語を組み上げる段階でこだわるところは、    歴史上の事実を曲げないということである。    実際に起こったとして、記録に残っている様々な事件を、    相互に関連付け、その隙間を虚構で埋めていくという    やりかたが僕は大好きだ。    同じ嘘をつくのでも、まったく根拠も無く考えるのと、    事実に基づいてその基盤を組み上げていくのとでは、    細かい部分でのリアリティーが違ってくる。    だから、クーデルカという物語には、    プレーヤー諸氏が考えているよりも、    ずっと多くの史実が含まれている。    エドワードやロジャーが実在の人物である事など、    歴史に興味のある方は、調べてみられるのも一興かと思う。    1898年は科学と迷信がせめぎあう世紀末の、    まさに移り変わる一瞬を捉えて興味深い時代である。    明ければすぐに1900年、近代科学文明の浸透の    象徴ともいうべき、パリ万博が開催される。    そしてそれこそが、僕がクーデルカの続編と    目論んでいた物語の舞台なのである。    ウェールズを描くために、ロンドンやペンブロークに    足を運んだのと同じように、僕はパリやベルギーに    取材をするつもりだった。    (パリ万博に出展されていた建物が、当時の    ベルギー王の要望で買い取られ、    ブリュッセルに現存するのだそうだ)    会場から郊外を結んで建設された地下鉄と、    そこで起こる怪異。エースネクスト誌連載中の    漫画版のエピソードを終えたクーデルカが、    拠ん所ない事情でパリを訪れ、地下に巣喰う    亡霊どもの争いに巻き込まれていく。    実はクーデルカの続編は、僕の頭の中では4作目まで    出来ている。第一部イギリス、第二部フランス・・・    とくれば、第三部はアメリカである。    時代は大きく跳んで、1973年アメリカはシカゴ。    主人公は、シカゴ大学で教鞭を取る文化人類学者、    クーデルカ・ロードメル。    クーデルカの娘アメリアが後に渡米して産んだ子供で、    つまりは孫だ。ベトナム戦争末期とあって、    帰還兵が持ち帰ってしまった悪霊が、    様々な殺人事件を引き起こすのを、まだ生きている    ロジャーの助けを借りて解きあかしていく。    (ちなみにロジャーはスーツを着て出てくる)(笑)    そして第四部は1984年奈良。    関西大学で教える友人の宗教学者の元を訪れたクーデルカは    何者かに命を狙われ、陰陽師や式神と戦う羽目になる。    奈良の巨石墳墓や京都の町並みが、    雰囲気造りに一役買うだろう。    残念なことに、今のところ僕がそれらの    続編を作る予定はないが、    小説のようなものであれば、書いてもいいかなあと思う。 Story of Koudelka : Library --- Haven: On Koudelka, you served as producer, writer, and composer. What were some of the goals you accomplished in taking on these various responsibilities? Were there ways in which the project could have been better realized? Hiroki Kikuta: Let me begin by saying, whenever you divide up responsibilities among a group of people concerning the judgments that get made on a project, the end quality is bound to suffer as a result. To keep the quality high and the schedule organized on a project, it's better for as few people as possible to be making key decisions, and for them to be communicating within the group with as few conflicts as possible. The ideal situation would be for but one director to be delegated the responsibility of expressing his or her creative vision. That said, for Koudelka, I was pursuing that degree of creative control. To prepare, in gaining an understanding of the game's setting, I read about one hundred books on English history, touching on periods from the Medieval era to around 1900. It proved useful in discovering relevant episodes which could be incorporated into the story. Having several events to ground the plot in a kind of historical reality, I then started building on that foundation with some fictional events. For example, the character of Edward is based on an actual Irish dramatist named Edward Plunkett, 18th Baron Dunsany, while the woman who writes a letter for Charlotte is based on Sophie Dorothea of Württemberg. Roger Bacon is, of course, a historically famous philosopher. Also, the incident on the Queen Alice really occurred and is recorded in the captain's log of the vessel. By filling out the gaps in those historical events with fictional incidents, such as the Emigre Document and reincarnation ritual, I aimed at providing a realistic basis to the imaginary aspects of the story. Before production, some members of our staff went on a trip to Whales to gather information and capture the genuine atmosphere of the place with our own eyes. We demanded extreme accuracy in providing the background details, and we even used motion capture technology to provide culturally appropriate body language for the characters, techniques advanced enough to compete with the standards of the Hollywood industry at that time. Those challenges, which were provided by the passion motivating that project, were the real essence of Koudelka. Koudelka, "Patience," music sample I remember that I was reading the critical biography of James Cameron, who was making Titanic at that time, on the airplane to England. I was overwhelmed by his tremendous efforts to capture those startling images. At that time, I realized that it is necessary for creative work to have a degree of obsessive passion involved. I hope that some degree of that conviction had a positive result on the end product. --- As soon as it is in the year 1900, the Paris World Expo is to be held as a symbol of the penetration of modern scientific civilization. And that is the stage of the story that I was thinking as a sequel to Kuderuka. In the same way that I went to London and Pembroke to draw Wales, I planned to cover Paris and Belgium. (It seems that the building which was exhibited in the Paris Expo is bought at the request of the King of Belgium at the time and exists in Brussels.) The subway built by connecting the suburbs from the venue and the monster occurring there. Kuderuka who finished the episode of the comic version in the series of Ace Next magazine visits Paris due to circumstances that are not based, and is caught up in the strife of ghosts who nest underground.    (The first line of the Paris Metro opened without ceremony on 19 July 1900,[4] during the World's Fair (Exposition Universelle - that is what is meant by subway) Actually, the sequel to Kudelka is made up to the 4th in my head. Part 1 England, Part 2 France · · ·     If you do, the third part is the United States. The era greatly jumped, in 1973 America was Chicago. The hero is a cultural anthropologist, Kurdelka Roadmel, who teaches at the University of Chicago. Kuderuka's daughter Amelia is a child who gave birth to the United States later, that is, it is a grandchild. With the end of the Vietnam War, the evil spirits brought back by the returning soldiers will solve various murder cases with the help of living Roger yet.     (By the way, Roger comes out wearing a suit) (lol) And the fourth part was Nara in 1984. Kurdelka who visited the origin of a religious scholar of a friend taught at Kansai University is targeted to someone, and it will be fought against the Yin Yang masters and the expression god.     The megalithic tomb of Nara and the townscape of Kyoto will contribute to the atmosphere building.     Unfortunately, for the moment I have no plans to make those sequels, but if it's like a novel, I wonder if I can write it. --- RocketBaby: At what age did you become interested in music? Hiroki Kikuta: When I was ten years old, I met up with the music of Emerson, Lake & Palmer. I had never heard such marvelous music before. It was quite an impact for me. A few months later I heard that Keith Emerson was using a particular instrument called MOOG synthesizer. RB: At what age did you start writing music? HK: When I was twelve years old, the Folk blues movement came over to Japan from America. I studied Acoustic Guitar and started to create an original song immediately. I wanted to be a singer/ songwriter... if I wasn't a terrible singer. Actually, Digital equipment opened up my potential as a music composer. Without a musical sequencer, I can't create any complicated tunes. When I first acquired a YAMAHA SY-77 synthesizer/sequencer, I felt as if I got a ticket to a different world. RB: Why did you start Sacnoth? HK: I had held many original ideas about video games and visual expression for a long time. The most important purpose is to create an entertainment. When I was searching for a way to achieve my dream, I met a dominant business advisor. He introduced me to the chairman of SNK. I told him about many pitfalls that every existing RPG had. I thought those were lacking a comprehensive insight and a integrative interpretation. It is a structural defect of game production. To resolve the problem, it is necessary to get the picture of each element of game creation at the same time. I have an ability to do that. I established a company SACNOTH and took up my position as CEO in order to produce a new horror RPG project, Koudelka. But unfortunately... Though I conceived a grand scheme to realize an innovative game system and visual expression, many old staffs from SQUARE were not able to accept real change without hesitation. I say that the person who will have no change is already dead. After termination of Koudelka project, I retired as CEO of SACNOTH. It was my choice. RB: As a composer how should music effect the game? As a developer how should the music effect the game? HK: A music composer wants to create a good tune with utter simplicity. But if you want to create a good game as a developer, it is not enough. Because good music does not necessarily fit a good game. The most important problem is adjustment of each of the elements. If the visual element exactly synchronizes with the musical element, a dramatic effect will be generated.. And I take it for granted that everybody wants to hear a good melody in the end. RB: What were your influences for Koudelka? HK: In the first instance, I designed all concepts and fundamental settings of the Koudelka's world. I gathered various graphic and text materials in London and Wales. I did character design, map design, event design, scenario writing, direction of computer graphics movie, direction of motion capture... I got involved with all of the integral parts of Koudelka except battle and game system. Especially, I had no influence in battle section. I still have a great regret. I wish I could have designed it. And a quick digression, I consulted many movies and books for Koudelka. A most impressive movie is The Name of the Rose (Jean Jacques Annaud 1986). I also read the original book which was written by Umberto Eco. It is a definitely masterpiece. If you want to know some origins of Koudelka's world, you may read Carnacki the Ghost Finder written by William Hope Hodgson and The Case of Charles Dexter Ward written by Howard Phillips Lovecraft. Many fantasy novels by Lord Dunsany (His his full name and title is Edward John Moreton Drax Plunkett 18th Lord Dunsany) are also important. If you want to know about visual origin of Koudelka, see photographs created by Bob Carlos Clarke and Jan Saudek and Holly Warburton. Those are extremely exciting works. RB: How did you manage to write, direct and compose the music for Koudelka? HK: Writing a scenario. Directing a CG movie. Composing a BGM. Each of those is no more than a single face of game creation. When I imagined the world of Koudelka, I figure graphic elements and story elements and sound elements all at once. Because, those are mingled with each other organically. So I think that It is rather easy to manage multiple affairs. RB: What was the easiest aspect of working on Koudelka? What was the hardest? HK: The easiest aspect is music composing. Because I can create a music by my lonesome. It makes me free and I feel comfort. Hardest aspect is behind-the-scenes maneuvering of power game in company organization. I am so tired to do that. Let's get something straight, I am not a buccaneer but rather a creator. All aspects about creation are really pleasant for me. RB: Why do you make music? Why do you make games? HK: Music composing is a natural behavior for me. Like breathing. I usually conceive a good melody and a harmony without suffering. So I have no reason to make music. I think that it is my vocation. Meanwhile, creating video game is not my vocation. It is my wish. I want to produce high quality entertainment in the future. When I write a story and a plot, I usually suffer by myself. Though it is very hard and thorny, I feel maximum accomplishment. RB: What inspires your melodies? HK: Many great works of famous composers and musicians inspire me. If I must respect only one person or group as a music composer(s), I will take Pink Floyd. RB: What are your hobbies and why? HK: Good question. Riding bicycles is my hobby. I also love my yellow Peugeot MTB made in France. I also have some fun playing with my cat. She is extremely pretty. RB: When did you begin working at Square? HK: I began work at Square in 1991. I was twenty seven years old. In those days, the production studio of Square was placed in Akasaka Tokyo. It was small and homey, different from now. I remember that Nobuo Uematsu and Kenji Ito interviewed me in their office. We talked about progressive rock music and famous guitar player Allan Holdsworth with each other. I created sound effects for Romancing Saga at the start of my career. A few of graphic staff worked with me to design a lot of novelty sounds. We worked hard in night and day. RB: How much freedom did you have making music at Square? HK: In a sense, I had perfect freedom. Because, the planning staff of Square put none of the assignments relevant to the menu of music work and schedule in my hand. Nobody explained to me about game detail which they were producing. I had to think and imagine what kind of music was needed for our game project. Changeover,changeover, and more changeover of specifications. It was difficult to foresee the final image of it. But I did. RB: What is favorite game that you worked on at Square and why? HK: May be Seiken Densetsu 2 (Secret of Mana). I think that it was a pretty good game except for the big BUG. The multi player system was extremely fresh and delightful. In the aspect of music, I was fully challenged in regard to sound expression using 8 voice PCM system of SNES hardware. Please see and hear the opening sequence of Seiken Densetsu 2. It is so simple but so lyrical, isn't it? I am really proud of my visual direction and music composition. RB: Did Nobuo Uematsu influence your work? HK: I think there is no influence from Nobuo Uematsu. I have never taken any lessons about composing game music. The style and the melody of my music are totally conceived by myself. Just the same, every staff composer at Square were free from influence of somebody else. Originality and personality were cheerished in our studio. It was the policy of Nobuo Uematsu. RB: What are the best and worst memories that you have of Square? HK: Hmmm... Best memory... it seems a trip to MANA island of Fiji republic. After a production of the game Secret of Mana, I and my friend decided to visit an island placed in South Pacific Ocean. We played skin diving everyday and watched some corals. Those were extremely beautiful. It looks like a blue heaven. I will never forget the view of the sunset from Mana's beaches. It is one of my treasures. By the way... Worst memory is a dissolution of the game team in which I was supposed to participate. I wanted to propose an innovative game system using music and sound effects. RB: Who is your favorite Square composer and why? HK: I recommend Jin Sakimoto (Hitoshi Sakimoto). His works are extremely dense. RB: One of our favorite soundtracks of yours is Soukaigi. The sound quality and styles are some the best for a game. HK: Soukaigi has many characters of sound. I designed it with different complex styles. House music meets real performance, fusion meets folk choirÖÖ It was an adventure for me. To tell you the truth, the style of music does not a matter. I don't dwell upon it. Though I put a high value on counterpoint it does not bind me. It is only a method. In the case of Soukaigi, I was mainly influenced by East European pops like Varttina. RB: Why did you leave Square? HK: I wanted to direct not only musical expression but also visual expression. And of course, I wanted to write a fine scenario which is different from existing one. I had felt a big complaint against those juvenile works. But unfortunately, I couldn't get a chance to take a part in those kind of production works in Square. I suffered terribly for a long time. After all is said, I left Square and established new company Sacnoth to achieve my idea. RB: Do you perform your music live? HK: If I have a chance to do that, I wish to play my music as a live performance. I didn't make an attempt to do that in Japan yet. Do you want to hear my music in front of your eyes, ya? RB: Who would you like to make music with? HK: Jin (Hitoshi) Sakimoto. Because, I could not collaborate with him on composing game music when we were hired together by Square. I respect him. Except for game music composer, I want to collaborate with Allan Holdsworth, a fusion guitar player. His music is a miracle. RB: How do you think game music compares to other genres of music? HK: I think that is similar to movie soundtracks. It is important to synchronize the music with visual element. It has an expressive purpose. If you want to create a game music, don't forget to construct it as an emotional device. RB: How will the next generation consoles allow you to express yourself as composer and game designer? HK: I feel a strong attraction to X-box and Game Cube. A big visual capability makes me hot. I have many ideas to display fascinating characters using real time computer graphics. They will sing and dance and talk with real emotion. Don't you want to play the Musical RPG on Network? I want to play it. RB: What would your advice be to people who: A. People who want to create game music. HK: Listen to as much music as you can. Don't confine yourself to your room. The genre of music is meaningless. If you want to find your treasure, you must challenge the common practice at any one time. B. People who want to create games. HK: Video games are not art. They are an entertainment. You must amuse your audience first instead of amusing yourself. I am always conscious of the feeling to accommodate someone with a fun service. Can you create a lot of gimmicks for the player? If you work so hard and push yourself enough, the day will come to collaborate in some way with me for sure. Let's think of a next game together. RB: What is in the future for Hiroki Kikuta? HK: I will be involved in some new game projects that are not directed by me. I will be a technical advisor. I will create computer graphics and sounds. But soon, I hope to form my studio and develop my own game project. So now I am looking for new investors around the globe. RocketBaby would like to thank Mr. Kikuta for chatting with us.
4 notes · View notes
takahashicleaning · 5 years ago
Link
TEDにて
マリアーノ・シグマン:言葉から、あなたの将来のメンタルヘルスが予測できるとしたら?
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
言葉の話し方や書き方から、あなたの将来の精神状態、さらには精神疾患の発症までもが予測できたとしたら?
神経科学者のマリアーノ・シグマンが、古代ギリシャと内省の起源へと時代を遡り、どのような仕組みで言葉から人の内面が垣間見えるのかを掘り下げます。
彼はまた、言葉をマッピングする方法を用いた、統合失調症の発症を予測することもできるアルゴリズムについても詳しく解説します。
シグマンによれば、私たちの書いたり話したりする言葉の客観的・定量的な自動分析に基づく、今とは大きく違った形のメンタルヘルスが将来的に登場するかもしれません。
心理学者ジュリアン・ジェインズは、人類最古の書物のいくつかを対象に、ある種の心理分析を行い、1970年代に非常に奇抜で過激な仮説を立てました。
わずか3千年前の人類は、現在の私たちの呼び方でいえば、統合失調症だったというのです。この主張の根拠はこうです。
古代エジプト文明がローマ帝国に吸収された後、イギリスにホッブスやジョンロック、ヒュームなどの哲学者が登場するまで、西暦400年から1640年くらいまでキリスト教との関係から理性は失われていたと言われている。
アレクサンドリア図書館もこの頃、失われている。
これらの書物に登場する太古の人間たちは、終始一貫して、文化的・地理的な違いにかかわらず、何かの声を聞き、それに従うように行動しており、それを神の声やミューズの囁きと考えていた。
現代の私たちはこれをインスピレーションと呼ぶでしょう。そして、その後、時代が進むにつれ、古代人たちは自分たちが内なる声の創造主であり、所有者であることを認識し始めた。
これによって人類は、内省。つまり、自らの思考について考える能力を手にしたというわけです。
ジェインズの理論によれば、人間が自意識を少なくとも現代の私たちが認識している形で抱き、自分が自分自身の存在のパイロットだと感じるようになったのは、かなり最近の文化的変容なのです。
この理論はとても華々しいものですが、明白な問題点を抱えています。ごく少数のかなり特殊な事例を根拠にしているという点です。
果たしてこの理論の人類の内省がほんの3千年前に成立したという主張は、定量的・客観的な方法で検証できるでしょうか?
なお、この頃に仏教も誕生しています。
語彙空間を構築してみると 、内省の歴史についての問いや、以前は、抽象的でなんとなく捉えにくかったあらゆる概念の歴史についての問いが、具体的なものになり、定量的科学で扱えるようになるのです。
私たちは、ただ対象とする本を手に取り、それらをデジタル化し、登場する言葉の流れを1本の軌跡という形で、語彙空間に投射し、その軌跡が、有意に長い時間をかけて、内省という概念の近くを旋回するか、問えばよいのです、
そして、この方法で古代ギリシャの伝承における内省の歴史を分析することができました。文字資料データが最も豊富だからです。具体的には、分析したい書物を年代順に並べて、それぞれの本の全ての語を抜き出し、語彙空間に投射して、個々の語が、内省にどのくらい近いかを検討し、その結果の平均を出しました。
次に、時代が変わっていくにつれて、これらの本の中身が、徐々に着々と内省の概念に近づいていったかどうかを調べました。
すると、まさに、これが古代ギリシャの伝承で起きていたのです。ホメロスの伝承の時代には、内省に近づいた書物の増加傾向は小さく、しかし、紀元前4世紀ごろになると、この傾向が急激に増え始めて5倍近くになり、書物が、どんどん、どんどん、内省の概念に近づいていったことが分かります。
この発見の良いところの1つは、ここから、私たちが、さらに同じ傾向が他の独立した伝承にも、当てはまるかどうか調べられるということです。ユダヤ・キリスト教の伝承に対し、同じ分析を行ってみると、結果、ほぼ同じパターンが出てきました。
ここでも、やはり、最古の旧約聖書で��、緩やかだった上昇傾向が、後の新約聖書になると急激に高まります。そして、内省に最も近いピークが「聖アウグスティヌスの告白」紀元後4世紀ごろの書物です。これはとても重要なことでです。
なぜなら、聖アウグスティヌスは、研究者たち、文献学者や歴史家たちから、内省の始祖の一人とみなされてきたからです。近代心理学の生みの親と考える人もいるほどです。
私たちのアルゴリズムは、その長所として定量的であるということや客観的であること。そして、もちろん、極めて高速で一瞬で処理を終える性能を備えていますが、極めて重要ないくつかの結論を長い伝統のあるこの探究にもたらしてくれるのです。そして、これが科学の美点の1つともいえるのですが、今度は、このアイデアを応用し、一般化して様々な分野に活かすことができます。
今では、Apple製品他があるので、潜在意識の膨大なインスピレーションを一瞬で書き込むことは容易になっています。
健康、豊かさ、移動の自由、病気のかかりにくさ。どのモノサシで選択してみても。現代こそ!この地球上の歴史で最も最良の時代と訴えます。
100年前の、大金持ちと同じ生活水準を現代では、普通に手に入れられます。これは驚異的なことです。現代の最低な生活水準は100年以上前の世界水準の王族の生活とほぼ同じです。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、��1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて個人のプライバシーも考慮)
<おすすめサイト>
脳と直接通信できるステント
エリザベス・ギルバート :創造性をはぐくむためには?
エレノア・ロングデン: 私の頭の中の声?
メアリー・ルー・ジェプセン:未来のマシンで脳からイメージを読み出せるか?
ディヴィット・チャーマーズ:あなたは意識をどう説明しますか?
日本テーラワーダ仏教協会
マイケル・スペクター: 科学を否定することは危険
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
東京都北区神谷のハイブリッドな直送ウェブサービス(Hybrid Synergy Service)高橋クリーニングFacebook版
0 notes
sarukuragen · 6 years ago
Link
0 notes
sitesirius · 8 years ago
Quote
「厖大なアレクサンドリア図書館へ向かうのではなく、世界はコンピュータ、つまり、まさしく揺籃期のSF小説に描かれている電気的頭脳そっくりになってきた。私たちの感覚が外に出ていくにつれ、ビッグ・ブラザーは中に入ってくる。だから、この力学に気づかない限り、私たちはすぐに部族の太鼓と全体的相互依存と二重焼き付けになった共存の小さな社会にふさわしいパニック的恐怖の段階へと入っ���いくだろう。……恐怖は口承的な社会の常態だ。というのも、この社会ではつねにすべてのことがすべてのことに影響を与えるからだ。……西欧世界に感性の統一と、思想と感情の統一を回復しようという長い努力のなかで、私たちはこのような統一性の与える部族的帰結を受け入れるつもりはない。それは、私たちが印刷文化によって、人間精神の断片化を受け入れるつもりがないのと同じだ」(有馬哲夫訳)。
#グローバル・ヴィレッジ - Wikipedia
0 notes