#魔法使いの仕立て屋
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今日読んだ漫画 2023年8月16日(水)
PASH UP!
😵『婚約破棄だ、発情聖女。』藤峰やまと+まえばる蒔乃
作品ページ
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婚約破棄だ、発情聖女。|PASH UP!
2023春の大増刊号 りぼんスペシャル
🧙♀️『魔法使いの仕立て屋』四季一二三
マンガMeets
🎸『Session』泉麦歩
作品ページ
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【泉麦歩先生】Session(セッション)
🐶『セカンド・ワンダフル』姫野たまき
作品ページ
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【姫野たまき先生】セカンド・ワンダフル
🎓『サヨナラ星屑』田中ゆちあ
作品ページ
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【田中ゆちあ先生】サヨナラ星屑
🏀『君にだけ、かくれんぼ』田中ゆちあ
作品ページ
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【田中ゆちあ先生】君にだけ、かくれんぼ
♥️『ホントのスキとウソのピアス』田中ゆちあ
作品ページ
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【田中ゆちあ先生】ホントのスキとウソのピアス
#今日読んだ漫画#婚約破棄だ、発情聖女。#藤峰やまと#まえばる蒔乃#魔法使いの仕立て屋#四季一二三#session#泉麦歩#セカンド・ワンダフル#姫野たまき#サヨナラ星屑#君にだけ、かくれんぼ#ホントのスキとウソのピアス#田中ゆちあ
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<正論>CO2は生命育む恵みの物質
東京大学名誉教授・渡辺正
CO2を悪とみる1988年以来の発想は、中世の魔女狩りに似て、社会を壊すエセ科学だった。かつて35年ほ��光合成を研究した工学系の化学屋が、そう断じる根拠をご披露したい。
快適な暮らしもその恵み
約30万種の陸上植物は、太陽光を動力にした光合成で、安定な水とCO2から高エネルギー物質を作る。必須物質の全部を生合成する植物は、単独で繁栄できる。
物質合成能の低い動物は、植物の「製品」を強奪して生きるしかない。草食動物はむろんのこと、肉食動物も間接的に植物を食べている。要するに植物から見た動物は「寄生虫」にすぎない。
大魚や鯨を頂点とする海中の食物連鎖も、植物プランクトンと藻類がCO2から作る有機物を原点にして成り立つ。
私たちも植物の恵みで生きる。飲食物のうち、水と食塩を除くほぼ全部が、直接間接の光合成産物だとわかる。体重72キロの筆者を作る13キロの炭素原子も、元は大気中のCO2分子だった。
光合成は、私たちに飲食物のほか材料(木材など)と繊維(綿・麻・紙)も恵む。1億~2億年前の光合成産物は、化学変化して石油や石炭、天然ガスになった。
文明や文化を創造し、快適な暮らしと移動法を手に入れ、情報化社会を作ったヒトも、食物から産業用動力までの全部を植物に頼る。高層ビルが演出する都会の華麗な夜景も植物の恵み、つまりはCO2の恵みだと心得よう。
CO2増え豊かさ増す世界
CO2削減の声が芽生えてから大合唱に育つまで35年余、大気のCO2濃度は増え続けた(たまたま同時進行した昇温の原因は多様)。直近の25年間はペースを上げながら15%以上も増え、世界を豊かにしつつある。なぜか?
大気に適量の酸素がたまった4億~5億年前に緑藻の一種が上陸し、分化・進化を経て1億~2億年前の���竜時代に大繁栄した。葉の化石を調べた結果などから、当時のCO2は現在の5~10倍も濃かったと推定されている。
当時の生物を先祖とする植物に、今のCO2は薄すぎる。だからこそ本格的ハウス栽培では、石油燃焼装置を使って内部のCO2濃度を外気の3~4倍に上げ、植物=作物の生育を速める。
大気に増えるCO2は、むろん地球の緑化を進め、ひいては私たちの食��を増やしてくれる。
衛星観測によると地球の緑は、30年間に約10%ずつ増えてきた。作物の収量も快調に増えた状況を、国連食糧農業機関(FAO)の統計が語り尽くす。食糧の増加は、8億人以上ともいう飢餓人口の低減にも貢献してきた。
そんなCO2を減らすのは、全人類に向けた大犯罪だろう。
カネと利権「CO2悪玉論」
CO2は、気温変動の主因ではない。たとえばCO2が単調に増え続けた過去2千年のうち、10~13世紀は今よりだいぶ暖かく(中世温暖期)、江戸期を含む14~19世紀は寒かった(小氷期)。
先述の1億~2億年前は、気温も3度は高かったとおぼしい。それでも熱暴走など起きず、生物が栄えたわけだから今後、CO2が倍増しても問題はない(CO2の赤外線吸収は飽和に近いため、倍増時でも昇温は0・5度未満)。
だが国連は、東西冷戦の終結が見えた88年、CO2温暖化危機を口実に、排出の多い先進国の富を途上国へ流す南北調停仕事を思いつく。だから定例集会COPでも、近年は「カネよこせ(途上国)」と「ちょっと待て(先進国)」の口論だけをやってきた。
実のところ国連の企(たくら)みは、とうの昔に破綻している。80年代末は途上国だった中国が今や世界一のCO2排出国なのに、国の分類を変えないというルール上、今もって「途上国」なのだから。
けれど、環境浄化が進んで失業に怯(おび)えつつ国連と協働した面々が、一件を「解決可能な環境問題」という虚構に仕立て上げた。
深刻そうな話にメディアが飛びつき、政治家は票を期待して血税を垂れ流す。巨費の利権を産学界の亡者(一部は知人)が狙い、脱炭素など非科学語を操って庶民を騙(だま)す世になった。
政府は昨今、脱炭素・経済成長の営みをエセ英語でグリーントランスフォーメーション(GX)と呼ぶ。10年で投資150兆円を期待するというけれど、「脱炭素」の成功だけはありえない。
たとえば、バイオ燃料のCO2発生量は石油より少ない…と叫ぶ集団がいる。事実なら人類は燃料問題から解放され、化石燃料の大半を掘らずにすむ。だがバイオ燃料はCO2を増やす代物だから、石油採掘が減る気���すらない。
バイオ燃料は善…という噓が、2022年12月の航空法改正(バイオ燃料導入)につながった。審議会に理系の人はいないのか?
なお形容詞「グリーン」は、遠い未来の姿ではなく、CO2が増え、植物界も食卓も豊かさを増す現状にこそふさわしい。
GX関係者はCO2が減ると誤解して喜び、筆者は増えると確信して喜ぶ。私たちは妙な時代を生きている。(わたなべ ただし)
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しゃべりたいことがたくさんあってどうしようもない。書いて散らしていく。
学位プログラム等で関わりのある、学年がひとつ下の後輩(Kとする)に対して苦手意識があった。それが明確になったのはつい先日、プロジェクトのミーティング前に雑談しているときだった。みんなで、学振ヤバいよね〜という話をしていた。学振というのは、日本学術振興会というところでやっている、将来有望な研究者の卵に研究費を支援するプログラムである。倍率はクッソ高い。通過率10%くらいかな? D進を視野に入れているorD進した大学院生はみんなそれを狙っている。狭き門だ。
去年学振DC1に落ちたわたしが、話の流れで、「わたしは去年書いた申請書が原型としてあるから、作成自体はそれ見ながらやればなんとかなるかな〜」と零した。そうしたら後輩のKが言った。「いや落ちてんだから書き直せよ(笑)」と。
しね、と思った。お前だけはDC1落ちろ、と思った。キメーんだよ、こっちの努力も知らないで。つーかそんなコロコロと研究計画変えられるわけねーだろ(笑)おまえはどんだけ一貫性ない研究してんだよ(笑)ちょうしのんな。ちょうしのんな。ちょうしのんな。
な〜んて思いながらも、それに対して過剰に反応する自分なんか誰にも見せたくないから、てきとうに誤魔化した。誤魔化せていたかどうかは定かではない。とにかくKがうざいな〜と思っていた。だけど後輩だから許せた。これで自分よりも年上だったらドン引きだけど、歳下ならキモいな〜で済む。
だがその後、驚きの新事実が舞い降りた。後輩K、なんと高卒後1年間浪人していたらしく、年齢はわたしと一緒らしいのだ。
その瞬間、そいつが大嫌いになった。アーわたしと同じだけ年齢を重ねてきたくせに、おまえはわたしですら持っている良心を持っていないんだね? と思った。キモキモキモキモ。
またも同じプロジェクトの別の後輩(こちらは女性)と、別件で飲みに行った。話の流れで、恋愛についてしゃべった。彼女はひどくプラトニックな恋愛に身を投じていて、わたしとは違う人種のにんげんだった。彼女もその彼氏も大学院生で、ふたりは性的な経験を持たず、クリスマスに贈り合ったというプレゼントも同年代のカップルが交換するものとしてはかなり子どもっぽくて(示し合わせ��わけでもないのに、素で2〜3000円で買える物を贈りあっていた)、ふたりともびみょうに垢抜けてなくて、デートっぽいデートもしているわけではなさそうで、たまにお家で一緒にご飯をたべて、健全に解散するだけの関係で、基本的にすべて割り勘で、お互いに自立を求めていて、親もその関係を知っていて、そんな彼氏の現在の趣味は節約で、外食もしなければ俗っぽい遊びもしない、しかも告白の場所は地元の近くの公園で、初デートはお互いの研究領域にゆかりのある施設、らしい。誕生日くらいは奢ったり奢られたりしないの? とたずねると、べつに割り勘ですね〜、と返ってきた。いい意味でピュアなのだ。彼女は俗っぽい恋愛というものを知らない。
わたしはそれを聞いて、高潔だな、と思った。
彼女にわたしの話をしても引かれるだけだろう。そう思って、あまり自分の話をせずに、ひたすらに聞き手に回った。すてきな関係だね、なんて、思ってもいないことを口にして。
わたしはいろいろと歪んでいるので、汚くない恋愛をせずに生きてきた彼女を羨ましく思っていると同時に、じぶんはこっち側でよかった、とも思っていた。高潔であることは羨ましい。だけどわたしは、そういう付き合いに耐えられない。クリスマスには多少見栄を張ってほしい。仮にその後輩ちゃんがクリスマスに貰ったモノを、わたしが自分の彼氏から貰ったとしたら、発狂して大喧嘩をすると思う。おしゃれなレストランで食事をしたい。飲食店のソファ席は当たり前に譲ってほしい。重い荷物は持ってほしい。愛は目に見えないものだから、お金と時間をかけて愛を具現化してほしい。つまり、わたしにお金と時間を使ってほしい。そうしてくれないと嫌。もっと甘えたい。わがままを聞いてほしい。つねにわたしだけの味方でいてほしい。わたしを何より優先してほしい。わたしに依存してほしい。自立しないでほしい。わたしだけが生きる意味であってほしい。
汚い恋愛をしないと見えない世界というものが確実にある気がする。知るのと知らないのだったら、知っている方がいい。わたしは無知を罪だと思っている節がある。べつに彼女を罪深い人間だと決めつけているわけではないが、恋愛という話題において、わたしの価値観は彼女を傷つけるし、彼女の価値観はわたしを傷つけるものだと悟った。
その後の会話で、彼女の家族仲が良いことを知り、わたしはやっぱり、ほんのすこしだけしにたくなった。彼女が持つ、自分の価値観に対する絶対的な自信は、家庭のあたたかさに起因するものだったのだろう。垢抜けてなくても、世間の恋愛観と自分の恋愛観がすこしずれていたとしても、なにも気にせず、ありのままの自分を愛してもらえると、彼女はそう信じているのだ。ああ、そういうところが妬ましい。両親からありのままを愛されたからこそ、そんな高潔な思考をブレずに持ち続けられるのだ。「〇〇さんのお家では家族LINEとかないんですか?」って無邪気な顔で聞かれたときのことが忘れられない。わたし、家族だけどお父さんのLINE知らないの。
実家がお金持ちな家庭はもちろん羨ましいけれど、それよりももっと羨ましいのは、家族旅行などに行ける関係性の家族である。先に書いた彼女はその典型で、家族とよく旅行をしているらしい。それがなんだか苦しかった。これはわかる人にだけわかってもらえたらいい。
父と母と旅行に行きたいかと言われたら微妙なんだよ。しぬまでに母をどこかに連れて行きたいとは思うけれど、父はべつに……って感じだ。そんなわたしのことを冷たいと感じる人は、自分の家庭を引き続きたいせつにしてください。全員に理解されたいわけじゃない。もっともっと奥深くてどうしようもない感情なんだ、これは。何度も言うけれど、わかる人にだけわかってもらえたらいいの。
月末、やっと母との予定が合い、実家に帰ることになった。妹と弟が家にいない日を狙わないと、わたしはろくに実家にすら帰れない。きっと帰省しても父とは挨拶を交わすくらいでまともに話はしないだろう。
LINEで母が言った。「あなたの部屋がぐちゃぐちゃになっている」と。妹がパニックを起こし、わたしが使っていた学習机をひっくり返したらしい。あの机の引き出しには、実家を出る前に付き合っていた元彼からもらった手紙と、元彼と撮ったプリクラが大量に仕舞われているはずだ。ほんのすこしおもしろくて、ほんのすこししにたくなった。
わたしはきちんと家族という枷に縛られている。わたしは自分の家庭環境の中でていねいに創り上げてきた自分の価値観が揺らぐのが、おそろしいのだ。
上記でなぜこんなに学生プロジェクトのメンバーの話をしているかというと、先日、同プロジェクトで企画した一般向けのイベントがあり、それでプロジェクトメンバーとの関わりが一時的に増えたからである。大学でとある単位を取得するために、あまり得意ではないアウトリーチ活動をした。
企画イベントは大盛況だった。まあ、それは話の本筋とはなんら関係ないので端折る。
イベント参加者に質問紙調査をさせるために、同じくイベント運営メンバーそれぞれからiPadを貸してもらうことになっていた。だからiPadを回収する前日、ブラウザの履歴を削除するように呼びかけていた。やましいものは消せよ、とは言わないものの、まあそういう意味合いを込めて伝達した。当日、回収したiPadの設定をするためにブラウザアプリを開いたら、わたしがとても尊敬しているI先輩のiPadのブラウザタブにアダルトサイトが残っていた。しかもMissAV。おまえ違法サイトで見てんのかよ。セコすぎわろた。しかも大学から貸与されてるiPadでAV観てんのヤバすぎ、大���面を満喫してんじゃねえよ。でもわたしは基本的にI先輩がだいすきなので、完全無欠なI先輩にもそういう人間っぽいところがあるんだ、と思ってすごく安心した。とりあえず、念入りにタブを削除させてもらった。思春期の息子の自慰行為を悟った母親の気分ってたぶんこれかも。
I先輩はイベント後、新幹線の終電で帰宅した後そのまま報告書を書き、夜中1時くらいにこちらに送ってきた。なんだそのバイタリティは。I先輩には敵わない。やっぱり尊敬している。
大学院生は世間という実体からかなり離れたところに位置していると思う。つまるところ、みんな浮世離れしているのだ。
苦手な後輩Kも、子どもっぽい恋愛をしている後輩も、わたしだってそうだ。
学部時代のわたしは中堅私立大にいた。ずっとそこで学歴コンプレックスを患っていたけれど、今となってはそこで4年間、俗っぽさの海を漂えてよかったと思っている。旧帝大はやはり頭のネジが数本ぶっ飛んでるひとが多すぎるし、それがマジョリティになっている。そしてそのほとんどが、自分の感覚が世間とズレていることを自覚していない。
わたしは、世間の感覚を失うことに怯えている。高校や大学のときの友人は社会人になって、社会に揉まれながらも妥協点を見つけて生きている。わたしは、世間から遠ざかりながらも、同時に大学院生(とくに自大)のコミュニティに馴染めない感覚もある。どちらにも振り切れないのだ。それがくるしい。わたしを置いていかないで。
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Persona 3 Club Book Strega pages scan and transcription.





ストレガ
Strega
主人公たち特別課外活動部の行く手に現れる謎の3人組。同じペルソナ使い ながら��くまで敵対する彼らもまた、彼ら自身の信念でその限られた力を振るっている。
復讐代行屋 Strega
港区全域
自らをストレガと名乗る3人組の表向きの顔は、「復讐依頼サイト」に書き込みされた内容を受けて、自ら手を下せない依頼人の代わりに復讐を果たすことだ。人知れず所持する武器を手に、彼らは裏社会を渡り歩いている。
3人はいずれもかつて幾月が、ペルソナ能力者開発のためにグループ内部にすら秘密裏に進めてきた研究の被験者だ。非合法の人体実験で多くの子どもたちが命を落とすなか、幸運にも生き永らえて能力を開花させたものの、悲惨な実態を目の当たりにして研究所から逃亡し、身を寄せ合って生きてきた。
ペルソナ能力の発現と引き換えに心身に過剰の負担を負う彼らは、制御剤の力を以ってすら長くは生きられない。生命としてのルールを逸脱した運命に魅入られ、彼らは刹那的な衝動にのみ突き動かされて生きている。
たった3人だけで影時間に生きてきた彼ら。宵も享楽を求めて夜の街を笑う。
タカヤ Takaya
凶行の担い手
ストレガの実質的リーダー。3人の中では推定年齢が一番高く、研究所から逃亡した当初から指導的立場に立っている。刹那的・虚無的な思考が強く、自分にも他者にもあらゆる物事への執着の愚かさを説く。復讐代行屋として銃の引き金を引くときも、自分の享楽はもちろんだが、相手の生にしがみつく無様な姿を浄化してやろうという思いがあるようだ。
かつて同列の研究対象であったタルタロスは、忌まわしい邪悪なものではなく、甘美な悪夢をもたらす近しいものだと考えており、ペルソナ使いの存在はもまた、タルタロスあってのものだとしている。そのため真意を知らずタルタロス破壊を目指す主人公たちの存在は、愚かな人間がシャドウの恐怖に怯えることへの嘲笑も込めて、抹殺すべきものだと捉えている。
主人公たちの働きではからずも滅びそのものである二ュクスの復活が秒読み段階に入ると、自ら二ュクスの代弁者を名乗り、滅びと破壊の思想で扇動する。
タカヤの救世主思想
• あなたが自覚している悪意と、相手が感じている悪意とは無関係⋯ 人はみな、聞き���いように聞き、信じたい事だけ信じるものです。(6月22日影時間・裏通り)
• 聞けば、人々を守るための、“善なる戦い” だとか。ですが⋯ 今夜はそれをやめて頂きに来ました。(8月6日影時間・防空壕跡)
• 時の限られたこの体⋯力を失ってまで生き永らえるなど無意味⋯ ならば、 私の生きた証⋯ この地に立てるのみ!(11月3日影時間・ムーンライトブリッジ)
• 分かっていますね⋯? 君には “居場所” など無い⋯ 私たちと来る以外にはね。君もよく知っている筈だ⋯ 怖いのは死ぬ事なんかじゃない。(11月21日深夜・辰巳記念病院)
• フ⋯亡霊などではありませんよ⋯ 生に “執着” などしなかった我々を、運命はそれでも “生かした”⋯ 私は “選ばれた” のです。(11月22日影時間・タルタロス)
自分たちの思想こそが浄化された世界を作ると信じるストレガのリーダー。痩せこけた体に長い髪、色素の薄い瞳という憂世離れした姿。
欲深き自称メシア
ほぼ同年代のはずのストレガですがタカヤは見るからに老け顔。不精ヒゲを剃って髪を切ったらかっこいいのに。
ジン Jin
知性派の爆弾魔
タカヤの右腕を務める少年。自作の爆弾を持ち歩き、武器として使用している。
社会から隔絶された自分たちだけのコミュニティの中で生きているストレガは、物資の調達の大半を影時間を利用した略奪行為によってまかなっているが、その指揮を担うのがブレーンであるジン。特別課外活動部を脱退してからの荒垣に接触し、ペルソナ能力抑制のための制御剤を提供することになったのも、ジンの情報収集能力あってのことである。またネットでは同名のハンドルネームで知られており、その知名度と情報操作のノウハウが、ニュクス教を一気に広げることを可能にした。
つねにともに生きてきたタカヤを崇拝しているが、それゆえに狂気の思想に囚われる彼を、命を捨てていさめようとする。
物議を醸す髪の構造がよくわかる右からの一枚。身につけているものひとつひとつにもこだわりが感じられます。
ストレガ一家を支える苦労人な屋台骨
実際的な生活能力の欠如したストレガを支える一番の常識人。資金調達から食事の世話まですべてを担う関西弁のミリタリーマニア。
ジンの毎晩大変なんだから
• お前を恨んどるヤツが��んねや。でもって、“復讐” を頼まれとる。(6月22日影時間・裏通り)
• お前らには “個人” の目的しかあらへん。どいつも本音はその為に戦っとる。お前らの正義は、それを正当化する為のただの “言い訳” や。そんなんは “善” や ない⋯ ただの “偽善” や。そんなもんに邪魔されとうない。(8月6日影時間・防空壕跡)
• 破れかぶれは、あかん! ⋯すんません。でもこれは⋯ あなたが言うてくれた言葉です。(11月3日影時間・ムーンライトブリッジ)
• やめときや、タカヤ⋯ アンタには先がある! ここで無理したって⋯意味 あらへん! (11月22日影時間・タルタロス)
チドリ Chidori
手斧の魔女
白いドレスに身を包んだ、虚ろな表情の少女。ストレガのひとりとしてタカヤやジンと行動を共にし、ぺルソナ能力のひとつである索敵能力でふたりのサポートを行なうが、ふたりとともに戦いの場で力を振るうことは少ない。
感情表現に乏しく、とくに喜びや悲しみを表に現すことはほどんどない。それは幾月の下で受けた過酷な人体実験や、逃亡後の寄る辺のない生活によって後天的に身に付けた自衛の手段。また彼女は自身のペルソナを通して、あらゆる生き物に命を分け与えることができるが、これも自分の人生にはすぐ先に死が見えているという揺るぎない事実ゆえ、生きることに対してまったく執着を持たなくなった結果の悲しい力だ。しかしそれでも、ふたりが手を下す殺戮現場に決して目をやろうとしないのは、運命をゆがめて与えられる死への、本能的な嫌悪感を抱いているからかもしれない。
生を放棄した飛べない小鳥
可憐な容姿に似合わず手斧を振るって戦う少女。気の向かない相手とは一切会話せず、自分のペルソナだけを拠りどころに生きている。
冷めた目線はチドリのトレードマーク。豪奢なドレスは彼女の趣味なのか、ジンのお仕着せなのか。
あんたには関係ない私の言葉
• チドリよ。私の名前。順平が訊いたんでしょ? あの絵⋯もうすぐできるから。私の描いたものは、私にしか分からない。でもそんなに見たきゃ⋯来れば? (8月31日昼・ポートアイランド駅前)
• 命より、作戦が大事ってこと? 死ぬ事って、普通の人には一番の恐怖なんでしょ? ⋯ 違うの? (9月5日影時間・巌戸台分寮屋上)
• ⋯言っとくけど、心配してくれなんて、言ってないから。あんたの勝手な早合点でしょ。(9月8日昼・辰巳記念病院)
• なにそれ⋯ なんで、そんな顔してるの? 死ぬなんて怖くないのに⋯ 死なんて、あした目が覚めないってだけ⋯ ただそれだけじゃないの。(9月10日昼・辰巳記念病院)
• そう⋯アイツのせいよ⋯ アイツが近づいて来てから、私、毎日、苦しくて⋯ 死ぬのが⋯怖くなって⋯ (11月21日深夜・辰巳記念病院)
• 順平と一緒に居ると、怖くなかったものが、なんでも怖くなる⋯ 無くすのが怖い⋯ 死ぬのだって怖い⋯ 一緒の時間が終わっちゃうのが⋯怖い⋯ だから、私⋯ (11月22日影時間・タルタロス)
「チドリ補正」の入った超ナイスガイな順平とともに。幸せになって欲しいカップルNo.1。
順平との出会いと「生きること」
敵同士としての立場にありながらも献身的に尽くす順平と出会って、チドリは少しずつ生きることの意味を知る。けれどそれは自分自身の死の認識と同義。ずっと忘れていた死ぬことの恐怖におののきながら、それでも彼女は愛する彼に生きて欲しいと願った。
頬を染めたグラマラスなチドリの魅力に、すっかり鼻の下が伸ぎ切った順平がキュート。がんばれヒゲ男くん!
#persona 3#p3#p3 club book#strega#takaya#jin#chidori#scanned these ages ago but have only now transcribed them
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#日常
「ラストマイル」観てきました。
元々はMIUの二人組目当てというのが動機でしたが、それ抜きでも観に来て良かった!面白かったです!これ書いたらネタバレになるかな〜〜などと考えてると、感想は「面白かったです!」の一言に落ち着くんですね。ほんと…しみじみ良かった……。
勧善懲悪でスッキリする部分もあり、反面全てがめでたしめでたしで終わるわけではないので(救われないところはほんとに救われない)、彼らの明日を、今後を、かき乱されながらも考えてしまいます。問題提起されている部分がほんとに今この社会でのリアルな課題の部分でもあるので、リアリティがありすぎて現実と物語の境目が���昧になってくるような感覚。つらい。
でも、観終わって絶望に叩き落されるとかそんな感じではなく、走り抜けた後の気持ちよさみたいなものはあるのです。それなりに気持ちよさを感じた後に、いやでもそういえば?と立ち止まって考えた時に、周囲に暗闇がいくつも口を開けて待っているさまが見えてしまって呆然とする、という感じでしょうか……。例えが下手だな。これだったら海苔弁が唐揚げ弁当に変わる方が上手いってもんよ!
ただまあ、観終わって最初に思ったことが「……明日も頑張るか」だったので、そう思う私はとても単純なんでしょうか。でもそう思わせる力があるってすごいことだよなぁと思うのです。
あとは、纏まらないけど思ったことをちらほらと。初見の感想なので何も煮詰まってないです。思いつくまま箇条書き。
▼すべてはお客様のために、ね……。ほんとにこれ、魔法の言葉でもあり呪いの言葉であるわけで。考えてみれば、私のいるところだってもうひとつの「ラストマイル」ならぬ末端であるわけで、何だかなぁ、そうなんだよなぁ……皆様の尽きぬ欲望の何千億?何兆億分のいくつかを受け止めているんだよなぁ。しかしその欲望なしには何も動かぬこの世界。欲望あっての我々でございます。
何度も出てくるこの「want」、消費者側である私たちに問いかけてきているのでしょうね。What do you want? あなたの欲しいものは何ですか?
あなたの本当に欲しいものは……?
▼しかし物流センター、この映画の中のシステムがどれだけ現実と一致しているのかは分からないけど、まるでボールコースター(正式名称が分からないけど、レールの上をボールが延々と転がっていくやつ。名古屋市科学館の中にあるのは見たことがある)を見ているような気分。一日でもずっと見ていられそう。
ぐるぐるぐるぐる回って止まらないボールのように、永遠に止まらない物流の世界。それこそ、人が命を絶とうとしても……。
そんな血の通っていないローラーコンベアと、末端の人力とアナログの世界の非情なまでの対比が印象に残りました。
本社側(それこそ米国側)の人々にとって、羊運送やラストマイルのあの佐野運送の親子などの人たちは、きっとローラーコンベアと同じようなものに見えているんだろうなと。
そういえば途中エレナが「FAX〜〜〜〜!!??」と叫ぶシーンがあるんですが、そうなんですよ!!末端はまだろくなシステムが構築されてないのでFAX大活躍の世界線なんですわ(使う側の高齢化もあり)。
「稼働率」の世界とアナログの世界で挟まれるヒツジ急便のヤギさん……なんかもう、わかるぅ……投げ出したくなるよねぇ……と、ある意味あれは涙なしには見れない部分だわ。血と汗と涙的な意味の涙ですが……。
ところでボールコースターの話を出したら、志摩のピタゴラ装置を思い出してしまいました。MIUではあのピタゴラ装置が結構重要な視点になってきていたけれど、それはラストマイルとリンクしているのだろうか……?
▼それにしても、伏線のように思われる箇所が大量に出てきて、1回ではとても推理しきれないところばかりでした。
※※この辺りからかなりネタバレが多くなってくるので、回避される方は薄目でスクロール推奨します※※
・12個の爆弾は全て見つかっている、という理解で間違ってないですよね??サラに向かってエレナが最後に言い放った「爆弾はまだある!」の爆弾は、飛び降り事件の隠蔽?の件や、物流業界での問題がまだ山積していること(またいつ爆発するか分からない)への比喩かなと思ったのですが、本物の爆弾がまだ残っていると考察される方もいて、どっちなんでしょ??
・事務所に泊まっている時にエレナが電話していた相手は恐らくサラだろうなと思うんですが、最後の「私はどっちだと思う?」の意味がまだ掴み切れない……。
考察動画で、メケメケフェレットが出てきた時点でもう私は「すごい……」としか言えなくなったのですが、まさかここでまたメケメケフェレット(伊吹語)を考えることになるとは……!しかし私の知識が非常に不足しているために、このメケメケフェレットの部分は考察し切れない……何故なら私がよく分かっていないから。勉強は何のためにするのか見失っている学生の皆さん、勉強や知識とは、こうやってお話をより深く楽しむために必要なのですよ。知らないということは、表面的なところだけ観て分かったような分からんような気分で悔しがる私みたいになるということだからな!!なんというか、学生時代にもっと名作と呼ばれるものにしっかり触れておけばよかったと、最近とみに反省している私なのでした。
・最初にも書いた「爆弾とは?」と思うものの、エレナがサラに最後言い捨てたシーンはめちゃくちゃスカッとして良かったです。
しかし、何かイレギュラーな事態が起こった時、あれだけ大胆に判断を下していけたらさぞかし気持ち良いだろうなぁ……。ここまで至る間の、アメリカ時代のエレナも見てみたい。
それこそピタゴラ装置じゃないですけど、誰と出会うか、出会わなかったか。五十嵐の下で働いていた山崎が嵌まってしまった袋小路、もしかしたらそれは、3年目のエレナだったかもしれないし、エレナと出会わなかった世界線の孔だったかもしれない。
そこで一つ救われるのは、エレナと出会ったことで、孔の分岐点は変わっただろうなと。この話の中で、それでも変わらない無情というものも描かれる中、明らかに変わっただろうな、と確信できる部分でした。ただ、だからといって孔の未来が光に満ちているかというと全然そうではなく、立場が変わり、その先には更に分岐点がいくつも待っているのでしょうが。
・例のあの暗号なんですが、見たままの意味だけではなくて、まだ何かあるの?か?最後のシーンで五十嵐が血相変えてロッカーを確認するシーンや、孔の最後のロッカーでのシーンがまだ咀嚼しきれておらず。この辺りは自分の中でもっと噛み砕くことができてから文にしたいと思います。一度では到底無理だわ……。
あと、MIUの音楽が流れた瞬間に沸き上がる血よ。これ多分たくさんの方と共有できそうなんですが、あれですあれです。……と書いといて、アレ?流れたのってMIUのテーマだっけ?伊吹のテーマのメロディーラインでしたっけ?特徴的なあのメロディーライン、イーリアンパイプという楽器の音らしいですね。MIUのテーマの方では、そこからバイオリンが入ってくる辺りの上がり方がもうね、大好きです。この曲流れると自動でスイッチ入るんですけど、多分これきっと私だけじゃない。滾るよな……!
数年越しにMIUのサントラ入手するかどうかを本気で考えている本日でございます。
・今回佐野運送の息子役を演じてらした宇野祥平さんという役者さん、私は以前「罪の声」(これも野木さん脚本でとても良かった)を観た時に、そのじんわり沁みるお芝居に良いなぁすごいなぁと思ったのですが、今回ので確信しました。良い……!
日ノ本電機のくだりはとても…とても良かったです。胸を張ってものづくりをしてきた人。会社はなくなっても、良いものを作ったのだという矜持が伝わってきて、じんわりくるシーンでした。
あと毛利刈谷おじさんバディ組も良き。何ででしょう刈谷さん実際に近くにいたらめちゃくちゃ鬱陶しいオッサンだと思うんですが、MIUの世界の中だと何だか憎めないんだなぁ。
▼そして最後に流れる、米津さんの 「がらくた」 。
MIUの「感電」が志摩と伊吹ソングだったし、「Lemon」は中堂さんと亡くなった彼女の歌。となると今回はエレナと孔に焦点が当てられているのかな?と何の根拠もなくそう思っていたのですが、映画鑑賞後は呆然としていてそれどころではなかったので、歌詞まで深く聴くことはできず。そして家に帰ってきて改めて歌詞をじっくり読んでみたのですが……。
これは……エレナと孔のことを歌ったものではなく、もしや…………。
作中で深く描かれることがなかった部分がこれだとしたら。切なさ大爆発で、観てから2日経った今、がらくたをリピート再生してはしょぼくれているところです。これは何というか……遅効性の毒みたいに効いてくるな……。
※※ネタバレ区間おしまい※※
というわけで、2日かけて仕事終わりにちまちまと書きためた初見の呟きです。とりあえず今は、職場で仲良い人たちに「み゛て゛!」と言い回る妖怪みたいになっているところです。み゛て゛!!!!
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104 :名無しさん名無しさん:2009/11/19(木) 14:57:38 よう、ニートども! 元気か。 今日はオレ様がお前ら腐れ豚でもアニメーターになれる方法を教えてやる。 まずは鉛筆を用意しろ。 鉛筆が無いやつは画材屋か文具店かホームセンターかスーパーで買ってこい。 ネット通販は駄目だ。 今すぐ買え。 Bを買え。 鉛筆削りが無い馬鹿はそれも買っておけ。 消しゴムは買うな。 必要ない。 紙はA4のコピー用紙だ。 これも手元に無い奴は今すぐ買いに行け。 用意ができたら描け。 とりあえず何でもいいから20枚描け。 すると手が慣れてくる。 緊張もほぐれる。 ウォーミングアップは終わりだ。 次に模写をやってもらう。 『電脳コイル ビジュアルコレクション』の模写だ。 他の本では駄目だ。全く駄目だ。 この素晴らしい原画集を表紙から強制的に順番に模写して行け。 消しゴムは使うな。 失敗した線を残したまま描き進めろ。 A4の紙を動画用紙だと思って適切な絵のサイズで仕上げろ。 決して小さな絵を描いては駄目だ。 鉛筆で線を引くときにも指を動かしてばっかりいては駄目だ。 肩を動かして描け。 全身で描くんだ。 この模写が一冊分終わったらアニメーターになれる。 間違いない。 この模写が一冊分終わったらアニメーターになれる、というのは嘘だ。 だがこのプロセスは必要だ。 ���ずは理屈ではなく経験によって体で覚えるんだ。 理屈はその後でいい。 さて、理屈だが、『アニメーターズ・サバイバルキット』を 注文して買ってもらう。 その他の本は一切読まなくていい。 『ディズニーアニメーション 生命を吹き込む魔法 ― The Illusion of Life ―』 も良書だが、 読むのに時間がかかりすぎるし、アマゾンでは現在在庫切れだ。 『アニメーターズ・サバイバルキット』は2~3日あれば読める。 よく分からない所があっても、とりあえず通読しろ。 読み終わった頃には、最初の方の内容は忘れているだろうから、 もう一度読み直せ。 ただし今度は模写をしながら読め。 全ページ分の模写だ。 これは絵柄が簡単だからかなり楽しい作業だ。 この再読&模写の作業が終了する頃にはありえないほどの自身が付く。 騙されたと思ってやってみろ。 ポイントは、教科書は『アニメーターズ・サバイバルキット』のみに 絞るということだ。 多少の違和感もあるだろうが、 とにかくこのアメリカ式の作画理論を身に付けろ。 勉強はまだまだ続くが、順番は守れ。 そうすればお前もアニメーターになれる。 上に挙げた2冊の模写が終わったら、『アニメーションの本』を注文しろ。 この本には、近藤善文が作った練習課題が載っているから、それをやれ。 2冊分の模写を終えた奴なら必ずできる課題だ。 だが、何の勉強もしていなくても、 いきなりこの課題を器用にこなす奴もいる。 そういう天才もいるが気にするな。 天才じゃな��てもアニメーターにはなれる。 この本はプロになったら必ず使う本だから必ず買え。 必ずだ。 巻末にある動きの実例集が役に立つ。 値段も安い。 動きの基礎が分かってきたら、今度は絵の練習をしてもらう。 絵は上手ければ上手いほどいい。 練習をしすぎるということはない。 その練習だが、まず人物画からやってもらう。 教科書は『やさしい人物画』だ。 たぶん、これはもう持っているだろう。 持っていない馬鹿は、大き目の書店で買うか、注文しろ。 だが、持っていても、 全ページ分の模写をやった奴はそんなにいないだろう。 やれ。 終わったら、人物画の練習はとりあえずやめておけ。 ここで色々な本に手を出して、 人物画ばかりやっていてもあまり意味がない。 次は動物画の練習だ。 教科書は、『動物画の描き方』だ。 この本を模写すると、 “あ、人間と~、動物って~、同じ~じゃん~”ということが分かるはずだ。 そのことが分かったら、人物画の練習を再開してもらう。 パースの込み入った勉強は、まだ必要ない。 今のところは『やさしい人物画』で学べる内容で十分だ。 あせってマグの本に手を出すな。
アニメーターになりたいという人集まれ - 絵が上手くなりたいお
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藤高和輝さんと高島鈴さんのトークイベント(クィアに)書くこと
藤高さんが講義の始まりに、「フェミニストか性差別主義者か、今後どちらかとしてしか生きられないならどちらを選ぶ?」と尋ねたら口籠る学生がいた、という話で客席から「えぇっ」という声があがって、なんていうか歌舞伎の大向かいみたいでたのしかった。
ええっ、と声に出すのはたのしい。こう言ったらこう返してくれるでしょ?という定型のやりとりって本当にたのしい。でもそれがバトラー入門という本にまつわるトークイベントで発生するのってどんな種類の皮肉なんだろうと思った。
それが正しいか正しくないか、当たり前か当たり前でないかの判断にはいつだって疑問を持つこと、それが自分にとって当たり前で正しければ正しいほどに、という哲学の土台がひっくり返る瞬間に何人かの知人ら(そのイベントにはバイト先の本屋のスタッフが私を含めて4人、元スタッフが2人いた。あの場にいたジュンク堂のスタッフさんより多かったと思う)(何人か、というのはあくまでもわたしを含めた何人か、で、これら全員ではありません)は疑問を持って、終電がなくなった池袋で頬をふくらましているのでは思うほどわかりやすい不貞腐れ方をしている人を見てうれしくなった。
フェミニストか性差別主義者か、の二択でフェミニストを選ばない奴は"えぇっ"だ、
そうね?
その通り!
(ここでミソジニーとしていままさに叩かれている村上春樹を引用したのはただのノリで皮肉の上塗りじゃないんですよ)
なんていうか、わたしが問われたらわたしも絶対に口籠る、質問者の定義するフェミニスト/性差別主義はわたしの思うそれと同じか確認できないうちは、確認できたとしても、素直に相手の望む選択をすることで定型の強化に加担するノリについていけるのかはかなり怪しい。
ただわたしはちょうっぜつ藤高さんの大ファンなので藤高さんからの質問なら全然規範の強化でもよろこんでやっちゃうしジュンク堂のイベント会場でも「えぇ〜?」って言った。大きめの声で。ファンミーティングだと思っ���るから。
あのイベント会場のようなものがたぶんある人���にとってはユートピアなのだという想像をする。あたたかくても閉鎖的な場所。それは藤高さんや高島さんが話していたユートピアとは違うんだろうけど、私がユートピアと聞くとどうしてもあの場に近いものを連想してしまってちょっとこわくなっちゃう。こういう単語ってどういう解釈で使われているのかを確認って本当に重要だなとトークイベント中にも感じた。
トラディショナルなコール&レスポンスの後で、藤高さんがしていた「誰に向けて書いているか/話しているか」は、ほんといい話で聞いてて泣いちゃいそうだったしわたしもたぶん、似たような意識で仕事をしていることがある。最近ハン・ガンがノーベル文学賞をとったニュースを観た時に、『ギリシャ語の時間』を読んだ、という理由ですこし珍しいテーマの選書を申し込んでくれたお客さんのことを思い出した。そういう人たちのこと。あなたみたいな人のためにやってるんですよ、と、本当はこころから全員に思いながら仕事をしたいなぁと思う。
誰か、死にそうな誰かに死ななくて大丈夫だよと声をかけたくて、藤高さんも高島さんもそれぞれの著作で違う言い方でそういう声の掛け方をしてくれている。高島さんが著作の序文だけ褒められたことあって、みたいな話をしてらしたけど正直わたしも高島さんの本は序文のさらに最初の方ですさまじく感動して、でも「権力の構造の外に立て」というような言葉でこの本は私に向けては書かれていない、と思ったから気持ちがわからなくもない、歳を重ねた健康な人間が権力の構造の外にいることなんてこの国ではほとんど不可能に近くて、外に立った気になってしまったらそれこそもっと本当に、誰かを殺すような暴力を無自覚にふるうことになると思う。わたしは、それが一番こわい。だから外に出ろと言われても出た気になんて絶対にならない、内側からどうにかすることばかり考えてしまう。
うん、でもその高島さんが藤高さんの書いてきた文章に対して「内側から揺さぶっている」みたいなことを(メモとかしてないんだけど〜)話しているのってすごいことで、うれしかった。
誰か、死んじゃいそうになりながらなんとか生きている人たちに死ななくていいし死にたくていいよと声をかけたくて仕事をしているけど、どのような声をかけ方をしたら、どんな声なら聞こえるのかって本当に相手によって違って、そこを乗り越えるための文体や媒体だと思うんだけどあのすばらしいバトラー入門はだから、本当にあのタイトルと新書で出る必要があったし、それと同じくらいエッセイ集や本当にファンジンとしての形をとって別のタイトルで発売されたらいいなと思う。全く同じ内容で。
8月2日、B&Bのトークイベントの時に二丁目で働いている方が最後にしていた質問のことを、詳細は全く覚えていないのによく思い出すんですよね。高島さんと藤高さんも理論と実存という話はしていたけど、結局本を読める人間、しかも新書や哲学書が目に入る生活ができ���ほんの一握りの人間にしか届かない理論ですくいあげられた人は、わたしは、どのような暴力の被害者であれ結局ものすごく恵まれている。ただの幸運で恵まれて本が読めてすくいあげられたわたしと、それが届く前に死んだ人たちをわけたものについてよく考える。結局暴力を受けないで育った人びとくらいの幸運を、わたしだって十分享受した気がしているのに半端につらさを共有できる場所にも立てて卑怯だと思ってる。「あんたはいいよね」と非難をこめて言ってくれた人たちも死んじゃったから自分で言っていくしかなくて、たぶん死ぬまで後ろめたいし恥ずかしい。その恥ずかしさを完全に引き受けてもいなくて、こうやって話して「まぁしょうがないよ」って誰かが思ってくれるのを知ってるから最悪。最悪なりにでもやれることとして、読んできた本をできるだけあなたに、死にたくて死んじゃいそうな「あなた」に届けたいから本屋にいるんだけどわたしの店って入場料制でめっちゃゾーニングされてるから最近はポッドキャストとかしてる。
まとまらないな、たのしかったんですよ。
座っている位置的に高島さんが藤高さんに向けた笑顔がよく見えて、本当にきらっきらの笑顔ができる人なんだなと思った。藤高さんがサインくれる時に宛名かきながら「あっ、………髪型とか、変わりましたか?」と気まずそうな笑いを含めて言ってくれたの面白くて、でもすんなり「自分自身を説明すること」というわたしの企画したイベントのタイトルはなめらかに口にしてくれたことが本当にうれしくて、なんだろう、本当はもっともっとたくさんの人に聞いてほしかった。し、仕事のやる気はなんかもらえた。
前日大阪で長谷川白紙観てたんだけど魔法学校で『外』を聴いてからずっと思ってる、長谷川白紙にとっての外ってなんなんだろう、という問いが自分の中で膨らむステージで、KID FRESINOが登場してくれた時本当に安心したんだけど、なんていうか、わたしにはわたしと気が合わない他者が常に必要なんだなと感じる。わたしはわたしへの感情によってわたしの言う意味不明な言葉たちにあたたかく頷いてくれる人が一番こわい。咀嚼されずに丸呑みされたり、あるいはその人の領域に持ち込まれて歪められて受け入れられていると感じると不安になる。(訳わかんねえこと言ってるな)って思い続けてほしい。その中で時々、ぴたっと通じる瞬間がうれしい。わたしにとってはそれが外です。普段文句ばっかり言ってるけど、わたしのいる本屋にはそういう人たちが多いからけっこう助かってるよ。

大阪、唯一した観光的な箇所 スーパー玉出
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2023年が終わるらしい
2023年のはじまりは、3月から転職も決まっていたし、持病の悪化による日常生活への不安もあったので、2月いっぱいまで休職した。 療養もかねて尾道に一週間滞在したが、出発の日に地元が大雪ですっころび、カメラのレンズを破壊するという暗黒の始まりを告げるなど、つらいことがたくさんあった。 2月も、結局、休養することがないまま、次の職の仕事をずっとしていた。どこかで休みたいと思いながら、全く休めないまま、2023年が終わりそうだ。 意外だったのは、誰の力も金銭的援助も借りずに十年近くひとりでやってきたこと、というのは、なんだかんだ「使える」ということだった。通用するんだ、これが。というおどろきは大きかった。手応えがあったとか、結果が出たとか、そういう意味ではなく、するっと不安なくやっていける。いままでやってきた、他人の顔色をうかがい、他人の動作に合わせて平均的に働くというのとは違った。積んできたものが、無駄にならない機会に巡り会えてよかったと思う。 休みたいと思いながら、休めないでここまで来たし、年始の休みも8日まであるけど、いろいろと休めないことが多い。雇用契約のある労働は休みだが、個人的な仕事はいくらでもあるし、なんなら山積みになっている。九日間で終わるのだろうか…と思いながら一日目をもう半日終えてしまった。(2024年のしいたけ占いには、おまえはだいたい気づいたら働きまくっていて休んでない、みたいなことが書かれていてちょっと悲しかった)
毎年毎年、何を年間のまとめに書いていただろうかと思うわけで、今年も悩んでいるわけだが、全然答えが出ない。とりあえず、読んだ本とか作った本をまとめていたような気がするから、それをやる。

★作った本★ 1月 『山梔の處女たち』 pixivのいつだったかの百合文芸で佳作をもらったオメガバース百合「首輪とロマンス」、恋愛/性愛から離れたところで手を取り合う少女たちの魔法学園小説「魔女の選択」収録の短編集。Kindle版は、いつだったかのKino-Kuni文学賞で大賞をもらった滅び行く漁村の女二人の物語「迎え火」も収録している。
5月 『けものと船乗り』 現代物、というか、現実世界の不均衡や理不尽に焦点を当てたものがたりを多く書いてきたな、という自覚もあり、あと「幻想文学はもう書かないんですか」とたくさん声をかけてもらったりもしたので、ひさしぶりに幻想文学らしい幻想文学を。 全ての船を沈めてしまうけものが棲むという「島」を望む岬でまちのひとたちにこれまた「けもの」と呼ばれている存在が、船乗りを拾って海へこぎ出そうとするお話。 『ヤールルカ』 写真家の女の短い物語。撮ること/撮られることの暴力を考えているので、そのこととかを中心に、これは短い物語だったが、もう少し長く書けたらいいなと思ってちょっとずつ書いてる。ひとつ、暴力的な経験を「してしまった」ので、それも書けるか…とすごくいやな気持ちになりながら思っており、だが、これは書くことでしか報復も抗議もできないという思いがあるので、この物語とは2024年以降きちんと向き合いたいと思う。
9月 『ゆけ、この広い広い大通りを』 日々詩編集室から出た本。二児の子持ちの専業主婦・バイクと音楽がすきなトランスの女性・都会で働けなくなったフェミニスト、三人の同級生が「地元」でささやかな試みをするお話。 「ちがいのある人がともに過ごせる共有地をつくる」をコンセプトにしている団体を母体にもつ出版社から出る本だったので、いろいろ考えたし、思っていた以上にいままで読んでくれていたひと以外のひとに受け取ってもらえてよかった。自分が持つ切実な課題とかもたくさん載せた物語だったので、ベストをつくしたし、2023年のベストだと思う。この物語に全力をつくしていたので、2023年は、ヨモツヘグイニナでは大きめの物語は作らなかった。 この本は、ヨモツヘグイニナの通販の他に、本屋lighthouseさんとか、シカクさんとか、mychairbooksさんとか、日々詩編集室とかでも買えるので、お気に入りの書店さんで買ってもらえるとうれしい。 『いづくにか、遠き道より』 再録短編集。たくさんたまっていたのでつくった。2014年に書いた小説とかをおそるおそる読み返したら、思っていた以上に「小説」だったのでほっとした。
11月 『アルバトロスの語りの果てへ』 売れない作家のノイと、そのパートナーで人気役者のターが、アルバトロスの繁殖ボランティアに参加するお話。 物語を自分自身が語るとき、そこには当然自分も含まれている物語のこともあるし、そうでないこともある。だけど、埒外にあっても内にあっても、ひとは、語ったり語られたりせずとも、勝手に他者に物語を見いだし、それを消費してゆく構造がある。『山梔の處女』収録の「魔女の選択」によく似た内面を持つ物語だと思うが、他者のふるまいや言動に「物語」を見いだすとき、「なにを見ているか」に自覚的になりたいよね…というようなことを考えながら書いていた。
12月 『浜辺の村の大みそか』 日々詩編集室で出た小さい本。『浜辺の村でだれかと暮らせば』の番外編みたいなやつ。いまから日和と八尋がやったような大晦日をわたしも過ごします。
★読んだ本とか観た映画そのほか★ 色々読んだけど、印象深かったものについて。 『銀河英雄伝説』全巻 銀英伝のコンセプトバーやカフェにいくので読んだ。相変わらずめちゃくちゃおもしろい。 『豊穣の海』全4巻 来年参加する八束さんのアンソロジー父親の死体を棄てに行くやつの資料(?)イメージをつかむのに読んだ。今西が金閣寺のように燃えて、それを本多が眺めている(『暁の寺』)がよかった。あと、大人になって読み返してみると松枝清顕……「全部おまえが悪いじゃん!」ってなるのがおもしろかった。勲に対しては共感するところも多かったし、あいかわらず『天人五衰』が一番好き。 『雨の島』 今年の1月1日に読み終えてた。呉明益の本、『歩道橋の魔術師』も読みたいんだけど、未訳のチョウチョのなんとか…?が読みたい。 『苦海浄土』 ネイチャーライティングをやろうとすると必ず出てくる石牟礼道子、の代表作。水俣へ3月と10月といくことになったし、石牟礼道子を筆頭に水俣関係��本をとてもたくさん読めた一年だった。とてもよかった。来年は『水俣病を旅する』『苦海浄土』(全3巻)を読みたい。 『アフターヘブン』 八束さんの本。めちゃくちゃよかった。 『フィリックス・エヴァー・アフター』 すっごくおもしろくて、何度でも読み返したい! 『鋼鉄紅女』 最高だった……「地獄へようこそ……」って武則天が宣言したところから、もう一気に読んだ。家父長制と、男女の二人の「ペア」というかたちに反旗を翻す最高のSF小説。 『私と夫と夫の彼氏』 2023年で読んだ中で、一番一番おもしろかった漫画!11巻が待ち遠しい! 『琥珀の夢で酔いましょう』 この漫画もめっちゃおもしろかった~! 『父の時代、私の時代』 堀内誠一の自伝的エッセイ。「ウッチェロ!!!!!!!」澁澤龍彦・瀬田貞二との思い出を添えて。めちゃくちゃ古本価格高騰していたので文庫で出してくれてありがとう! 『ガザに地下鉄が走る日』 ずっと読みたかったけど、なかなか読めずにいて(岡真理さんの本は『記憶/物語』を2020年に読み、もう一度これも今年再読した)やっと読む。見過ごしてしまわないように、何が出来るかを考え続け、アクションを取る、できることをやるしかないんだけど、「人間が人間として生活するということ」が、誰にでもある世界にたどり着きたい。 本だと、吉田育未さんの翻訳作品を井上彼方さん/紅坂紫さん編集の『結晶するプリズム』で知り、『聖なる証』『星のせいにして』を読む。めちゃくちゃおもしろかった!年越し読書本は『イエルバブエナ』。「このひとが翻訳している本ならぜったいおもしろい!」という翻訳者さんに出会えたのがうれしかった。 映画もいろいろみたけどとくに『バービー』『his』『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』がよかったな~。結局体力がなくて窓際のトットちゃんを見に行けなかったのがちょっとさみしい。 さいたま文学館で開催されていた澁澤龍彦の展示にはいけた。パンケーキも食べた。 12/24にITOプロジェクトの『高丘親王航海記』を見に行く。それについてのくわしいことは静かなインターネットに書いた。
★旅行★ 「今年はいろんなところへ行ったんじゃないですか?」と言われたけど実はあんまり行ってなかったりする(さみしい) 1月 尾道 ライターズインレジデンス尾道でまたみはらし亭に滞在する。だいたい伊勢うどん食べてた。 3月 水俣 はじめて水俣へ。というか九州自体がはじめて。いろんなひとに出会い、いろんなことを学び、いろんなおいしいものを食べた。『常世��船を漕ぎて』を水俣病歴史考証館で買った。 5月 東京 行ったという記憶しかない。なにしたっけ…?なにもしてないのか…もしかして…。 9月 大阪 銀英伝のバー「海鷲」へ行く。ロイエンタールの透けてる板を買った。文フリ大阪も行った。 10月 東京 銀英伝のカフェ「イゼルローンフォートレス」へ行く。かおりさんと会う。ながいことSNS上ではお付き合いがあるのに生身で会うのは初めてで、だけど「すっぱいものきらいだもんね」とか長年付き合ってきた人間同士の会話ができてとてもおもしろかった。次の日は吉祥寺や多磨へいき、緑色のインコとオナガを見る。 水俣 ふたたび水俣へ。熊本市内も立ち寄ったが、土砂降りだったので熊本大学と、橙書店へ行く。島尾ミホと石牟礼道子の対談集というめちゃつよBOOKを買った!めちゃくちゃ楽しかった。 11月 文フリ東京。ヒマラヤ鍋を食べる。次の日は埼玉文学館へ。武蔵野うどんに衝撃を受ける。
★来年の予定とか★ 1月14日に文フリ京都。辰年なので澁澤龍彦のコラージュみたいな『兎島にて』という本をだします。こういう物語で「兎」って単語がでると、誰か特定の人をみんな思い浮かべると思うんですけど、その特定の人は卯年のわたしです。他の誰でもありません。 3月までに出さないといけない原稿がめっちゃいっぱいあるので頑張ってます。 オープンにしてるのは八束さんの家父長制アンソロだけだけど、そのほかもまた媒体に載るなどしたらお知らせします。 やりたいことは、三宅島・舳倉島・天売島、この三つのどれかの島にいきたい!2023年は労働が忙しすぎてぜんぜん鳥写に行くことがなかった(かなしい)一年になっちゃったから、2024年はちゃんと鳥写したいです。 あと、日々詩編集室から『ゆけ、この広い広い大通りを』もでたことだし、もうちょっと小説を書いて発表する幅みたいなものをひろげたいかなと思っている。つらいことがたくさんありすぎたから、アンソロは主催も参加もいやだったけど、そういうのとか……あと、書いたらお金がもらえるタイプの原稿とかも、書ける媒体があるのなら書いていこうかと思っている。 これはずっとそうなんだけど、賃労働をしながらほかにわたしの体力で「できる」ことが「小説を書く」ことしかなかったので……。タイミングや機会があれば、頑張ってみようと思っている。
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Mがタラウマラを退職して今月末で早くも1年になる。Mとの出会いはサイクルショップすずめ時代で、彼がダルクからの帰り道に3,500円のママチャリを買いに来たのがはじまりだった。その後も何度か話をしているうちにとても面白い人だと思うようになり、おまけにサイクルショップすずめが立ち退きを迫られていたタイミングだったこともあり、純粋な気持ちで「自分はこれから新しい店を始めようと思うが、一緒にやらないか?」と声をかけた。その後はとんとん拍子に話が進んで……という訳にもいかず、突然連絡が途絶え、聞いていた住所を訪ねるも接触ができなかったりした(笑)。やっぱりあかんかぁ、と自分は自分で今後の準備に取り掛かっていたところで、突然サイクルショップすずめの店頭にふたたびMが現れて「ぜひともやらせてください」と言って来た。最初に声をかけてから数ヶ月が経過していたと思う。そこからは本格的にタラウマラの準備に取り掛かった。Mには諸々の事情があったので、契約面、資金面については僕がすべて請け負い、あくまでも雇用する者とされる者の関係性のうえで二人三脚で開業の準備を進めた。僕は開業資金の100万円を借り入れ、途中で不足が生じたので社会福祉協議会から新たに40万円を調達した。その間に数人の友人たちに「Mと一緒に新しい店をやろうと思う」と伝えたら、全員から猛反対された。これは誇張や脚色ではなく、本当に色んな人から「何を考えてるんですか?」「いままでやってきたことを棒に振るんですね」「あなたがやろうとしていることは商売ではなく福祉だ」との助言をもらって、これまでのMがやってきたことを勝手に想像しないではなかったが、それ以上にそんなダメダメなMをきちんと支えたいという想いが遥かに上回っていた。なかには「あなたがMと一緒にいるなら、もう関わりたくない」と言ってきた人もいたが、その方とは未だに再会できていない。とにかく当時の僕はMに夢中だったし、むちゃくちゃに酒癖は悪いがどこか憎めないところがあって、すべては許容範囲だと感じていた。実際タラウマラが始まっても酒でのトラブルは絶えなかったし、M自身も慣れない仕事で精神的にきつかったのだろう、いつだって抗不安薬を手放せないでいた。それでも僕はMの才能に魅せられていたし、ひとりの友人としてもこんなに腹の底から笑い合えるのは初めてだとも感じていたから、最初の2年間は本当に楽しかった。タラウマラで雇用する際にひとつだけ約束事として交わしていた「違法な薬物に手を出さない」ということもきちんと守ってくれていたように思う。Mの音楽作品もコンスタント��リリースを重ね、また彼自身の尊敬する先輩や友人からオファーを頂く機会も増えていった。とにかく酒や違法薬物をできるだけ遠ざけ、それ以上に夢中になれることをふたりで模索していた。僕はあのときの自分の感覚とMを信じて良かったと心の底から快哉を叫んだ。唯一の不安は金銭面だった。そこだけは本当に苦しかった。社会福祉協議会に追加の借り入れを申し込んだが、それでもまったく足りなかった。互いに友人や親戚の仕事を手伝ったり、単発の日雇いバイトに従事することで何とか糊口をしのいでいた。そんな金銭的な不安を打開するために僕は出版物のリリースを目論んだ。もともとMは編集者になりたかったと言っていたこともあり、それならば、と季刊刊行物を制作しようと思い立った。それが「FaceTime」である。タラウマラのような小さな店舗ではどれだけ頑張っても自転車だけでは到底2人分の給与は稼げない。Mの持っている技術で新たに売上をつくることができれば、今後、彼自身の自信にも繋がるだろうし、タラウマラの第2ステージとしても最高だと思った。実際、滑り出しは順調で尊敬する友人たちが素晴らしいテキストを寄稿してくれたこともありvol.1の500冊はすぐに完売した。Mの編集技術も回を重ねるごとに更新されていった。ちょうどその頃、Mに恋人ができた。Kという彼女は僕の「DJ PATSATの日記」を読んでMに興味を持ち、好きになったと言っていた。しばらくするとKはジョージアへ1年間の語学留学に発つことになるのだが、ロシアとウクライナの戦争が激化し、ジョージア国内でもキナ臭い動きが表面化したことで、彼女は緊急帰国した。そして淡路にあるM宅での同棲が始まった。突然の帰国に際してタラウマラからは自転車やTシャツを贈呈した。するとMが「Kが土井さんに直接お礼を言いたいとのことですので、土井さんの勤務日にお邪魔しますのでよろしくお願いします」と言って来たので、そんな気を使わんでええよ、と思いつつも心のどこかで楽しみに待っていた。しかし予定の日にKがタラウマラに現れることはなかった。その後、3度、同様のことが繰り返されたので僕ははっきりと気分を害していることをMに伝えた。Mは狼狽しつつも「Kの仕事が急に忙しくなって、家から一歩も出ていないんです」と必死にKを庇っていた。ちょうどその頃、常連のOさんがタラウマラにやって来た際に「そう言えば先日、Mさんの彼女を紹介してもらいました」と言うので「どこかでばったり会ったんですか?」と聞くと「いやいや、タラウマラでに決まってるじゃないですか!ビールまで頂いてしまって」と笑う。Oさんが店を出た後、僕はMに電話をしてはっきりと怒りを露わにした。もうKには挨拶に来てもらわなくて結構!と伝えるとMは終始すみません、ごめんなさいと誤っていた。翌日、Kは菓子折りを持ってタラウマラにやってきた。本人と直接話をしても僕の中で靄が晴れることはなかった。その後、周知の通りMの商業出版が決まり、Mは多忙な日々を送ることになるのだが、明らかに酒量は増えていった。そして遂には◯◯にまで手を出してしまうことになる。タラウマラを一緒にやるうえでの絶対的な約束を彼は破ってしまった。僕の妻は心底呆れて「もうあかんで、やめてもらって」と言っていたが、本人が深く反省していたこともあって、僕はなぜか不問に付することにした。いま思えばもうどうでも良くなっていたのかも知れない。その代わり、Mには土日だけの勤務にしてもらい、給料もそれまで売上の完全折半でやって来たところを日給制に切り替えた。Mは義兄のバイト、土日のタラウマラ、商業出版の執筆、最後の「FaceTime」の編集作業と引き続き忙しそうにしていた。その頃からますますKがタラウマラの業務について口出しをしてくるようになった。給与面、業務時間、業務負担についてなど、それらすべてをMの言葉を介して僕に伝えられた。何度かそばで聞いていた友人が「それ以上はKのことを土井さんに言わない方が良い、ネガティヴキャンペーンにしかなってない」と注意をしてくれた。Kは「なぜMばかりそこまでやらないといけないのか」と繰り返しているようだったが、物事には役割分担というものがあり、僕には僕のやるべきことがあり、MにはMのやるべきことがあるというだけの話だ。どこからか金が降って湧いてくる訳でもなく、自分たちで稼がないといけないのだから。そして遂にはタラウマラで行われるイベントの際にMは「いまのあなたには執筆の方が大事でしょ」とKから言われたとのことだったので、僕はイベントの最中にMに対して「もう帰りや」と言ったのだが、Mは慌てて「そういう意味じゃないんです」と訂正した。いまでもそれがそういう意味じゃなくてどういう意味だったのかわからない(笑)。「淡路が嫌いやから」という理由でMとKが引っ越しをしたり、その後も色々あったが、綱渡りのような精神状態で互いに業務を遂行していた。そしてその先に待ち構えていたMの解雇を決意するに至る決定打は、実につまらない些細なことだった。ライブやバイトのスケジュールでMは度々シフト変更を求めてきたが、僕も家族のことなどで逆にMにお願いすることが何度もあったので、そのこと自体については持ちつ持たれつで何ら気に留めるようなことでもなかったのだが、ある日Mが同日の予定変更を何度か重ねて依頼してきたことがあった。最初の変更時に僕自身もプライベートの予定を入れてしまっていたこともあり、2度目の依頼の際には代わりに出勤することもできず、その日は店を閉めることにした。一応Mに休みたい理由を聞いてみると「Kがどうしてもその日に新開地の立ち飲み屋に行きたいと言っている」とのことで、この瞬間にはっきりと僕の中で何かが崩れた。あのときのことはいまも忘れられない。本当にこれまでMと積み上げてきたことがはっきりと物音を立てて崩れ去った瞬間だった。僕は「わかった、でももうMとはタラウマラをやっていくつもりはない。年内で辞めてくれ」と伝えた。その後も例によって色々ありながらも、彼がタラウマラを辞めると決まってからは僕も色んなことがふっ切れて、随分と気持ちが楽になった。Mの商業出版に関しても素直に応援することができた。ただ一点だけ、彼の出版を手がける編集長がタラウマラにやってきた際に「著者と打ち合わせしたいので、しばし外して頂けますか?」と直々に言ってきたことについてはいまでも呪いのように自分の内側に燻り続けている。タラウマラはコワーキングスペースでもなんでもなく、僕が借金して作り上げた自転車屋やで(笑)。
※ ここから先は「他人の事情」につき閲覧注意!
それはさてお��、2022年の年末でMはタラウマラを退職した。最後の1ヶ月は本当にたくさんの方々がタラウマラを訪れ、みな口々にMを労ってくれた。ほんまに色んな人から愛されとんなぁ、と驚いたのをいまでも鮮明に覚えている。タラウマラを始める際には周囲からあれだけ反対されたのに、どないやねん(笑)。しかしある意味でこの両極の振れ幅こそがM「らしさ」なんやと思う。最後にシャッターをふたりで閉めた際に僕は素直にMに「楽しかった。ありがとう」と伝えることができた。Kからも「色々お世話になりました。これまではタラウマラにあまり顔を出せずにいましたが、来年はもっと遊びに行きます」とメッセージが届いていた。年明け早々にはMと友人と一緒にmole musicに行った。出会った頃のように話をして、笑うことができて嬉しかった。別れ際に「出版もうすぐやな、楽しみにしてるで。僕も同じタイミングで何か作ろうと思ってるから、タラウマラでダブル出版イベントとかできたらええな」と冗談めかして言った。そして「Kと一緒にいつでも遊びにおいでな」と言ってその日はMと別れた。その後、Mの書籍のリリース日が決定したが、タラウマラ限定特典についての打ち合わせもしっかりできないままに、いよいよ出版社へのオーダーの期日が迫っていた。Mは「義兄のバイトで忙しくて」と言っていたから、退職して間もないし確かにそうだろうなと思っていた。もちろんKも年が明けてから一度も顔を出さない。SNSで別の友人の書店には頻繁に行っている様子だけは伝わってくる。そんなある日、Kがインスタグラムに投稿した内容を見て愕然とした。Mからは「週7で義兄のバイト」と聞かされていた日に彼らは旅行に行っていたのだ。思わず「またや」と無意識に言葉が口から漏れた。1年前、Kの帰国後の挨拶問題とまったく同じことが繰り返されたと感じた。僕は瞬間的に自分を見失うほどの怒りが込み上げた。そしてみんなが呆れてものも言えなくなるような醜悪な内容をSNSに投稿した。純粋に死んでほしいと思ったし、自分も死にたくなった。結果、たくさんの人が僕のもとを去った。それは仕方のないことだと��までも思っている。誰だってあんなことを書くような奴と付き合いたくない。それでも継続して僕との付き合いを続けてくれている方々、大丈夫ですか?あなた方のほうが狂っていますよ、だけど心からありがとうと思っています。自転車関連でも、Mの退職後は何人ものお客様から「あの子がおらんねやったらもうええわ」と言われたし、それまで良好な関係だった方々にいつもと同じように挨拶をしても露骨に無視されるようになったり、Mを慕っていた若者からレジ金を盗まれたりもしたけど、この1年で自分なりのやり方を確実につかんだ。何事もゼロをイチにするまでの地道な活動こそが最も大変で、イチがサンになってようやく人々に少しだけ気にかけられるようになり、サンがゴになって多くの方々に認識される。言うまでもなくKや某編集長はゴ以降にMと出会った人たちだ。そんな彼らに僕らがふたりで積み上げた期間を蔑ろにされたような気がして、自分でも愚かだとは思いつつも怒りを抑えることができなかった。でもそれはもう大丈夫。僕はいまもやるべきことを継続してやれている。何度も言うけど、いまでもサポートしてくれるみんなのおかげ。Mはどうだろう。編集長が言ったように僕が彼の足を引っ張ることになったので、どうにも本来の力を発揮していないように思う。ガヤの勝手な意見やけど、これだけは言っておきたい。Mの胸には「チェンソーマン」のデンジみたいにスターターが付いていて、それを引っ張ってやればとんでもない能力を発揮する。だからお楽しみはこれからってことですよ。
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定期的に目に入るツイートがある。病院の差額ベッド代のツイートだ。ツイートの主訴としては入院する際に大部屋が満床だった場合は病院側の都合で個室に入るから差額ベッド代が必要ないというものだ。この内容のツイートは定期的にバズる。なぜならみんな知らないと払うのだ。適切な医療を受けるために。そして後から知るのでめちゃくちゃ揉める。弁護士ドットコムにもごまんと出る。弁護士が契約書にサインしているから無理と大概回答している。だからその前にみんな魔法の呪文と思って唱えるのだ。「病院側都合の個室入院は差額ベッド代が必要ないですよね?」と今回パルプンテ感覚で唱えたら大変なことになったので備忘録として書く【経緯】2、3ヶ月前に都内で働いていたところに突然の腹痛。憩室炎が再発したなあと肌感で感じる。(1年前に初めてなった)15時ごろに気付き、繁忙期のためなんとか残業を終えて21時に帰宅。帰宅時の体温は38.5程度。腹部に差し込むような痛みを覚えつつ、以前も入院した地元の大きい病院のほうがカルテもあるしいいかなあと電話。同じ箇所が痛いこととカルテがあるのでと説明し、無事に救急にて受診。たどたどしい内科の研修医が消化器内科医に相談しつつ見てくれる。一生懸命見てくれてありがたいがルートを取る時に床まで血みどろになる。私の腕を使って精進してほしい。(私信)誤診もありつつ結果憩室炎の再発と確定。【入院時の説明】再発していること、炎症の数値が高いこと、受診時の熱が39.2まで上がっており、単身世帯で何かあるかもしれないのでと入院して絶飲食及び抗生剤を点滴していく治療と説明される。了承し、差額ベッド代がかからないように大部屋希望と研修医に伝える。研修医も了承しベット用意しますといなくなる10分後帰ってきた研修医はひとこと「病床が満床なので差額ベッドがかかります。1日15000円になりますのでお支払いの誓約書にサインしておいてください。」Twitterで見たやつだ!!!!!!!!!!熱で本当に揺れる頭の中そう思ったのをよく覚えている。そして申し訳なさそうに聞いた「あの、大部屋希望して、満床の場合は差額のベット代は必要ないとガイドラインにあるのを聞いたのですが…」研修医はため息をついて確認します。と伝えていなくなった10分後「入院必要ないので、差額ベッド代払えないなら帰ってください」??????????????????私の病状は検査のタイミングも含めたら劇的に30分で回復したらしいなるほど。すごいな。今のところ熱が高すぎるからと生理的食塩水の点滴だけなのに。ここから長くなるので対話形式私『さっきは入院が必要とおっしゃってましたが』研修医「前回の入院時よりは炎症の数値が低いので帰って大丈夫です」『なるほど。でもさっき入院が必要と言っていましたし、単身者ですし39度超えてて家帰るのも辛いので入院できるならしたいのですが。前回も相当辛かったので』「ならば差額のベット代がかかります。」『満床時のベット代はかからないのでは?』「あなたは入院してもしなくてもいいので、ベット代が払えないのであれば帰ってください。本当に絶対入院が必要な人に空けておきたいので」私もさっきまで本当に入院が必要な人だった!!!!!!!!!!!!払わないって言ったら変わった!!!!!!!!まあ変わっただろ!って攻めても仕方ないし、とにかく入院するには差額ベッド代を意地でも取るのかあ。と具合が悪すぎて若干諦める。ちょっと考えるのでまた呼びますと伝えて研修医離席。看護師さんが来てくれて体温測って40度を超えており、坐薬で解熱剤入れてくれる。前回の辛かった憩室炎のことを思い出してげんなりするけども1週間入院して10万差額だけで超えることとさ���に医療費がかかることを考えて今回は自宅療養だと覚悟を決める。この時点で深夜1時を超えており、解熱剤がきいたらタクシーで帰るしかないとさらに覚悟を決める。研修医に説明ありがとうございました。お金払えないので帰りますと伝える。研修医「仕方ないですよね!満床かもしれないので!」どっっっっち?????!!!!!!????えっ?!満床じゃないの?!と素で大きな声が出る。研修医「満床かもしれないし、満床じゃないかもしれないです!」シュレディンガーの満床?!?!?!えっ?!箱の中身はなんだろなじゃないんだよ?!私『申し訳ないのですが、満床かどうかをお調べ頂くことはできないでしょうか。』研修医「差額ベッド代の書類にサインしたら調べますよ!」ヤクザか?????????????????ここは向こうのシマ大きなことは言えないと思いつつ、私『なぜ先ほどは満床と伝えて今は満床じゃないかもなのでしょうか。刻一刻と変わるのも承知の上ですが。この時間に退院も早々ないでしょうから』(この時点で夜中2時)研修医「調べる担当が別にいるので満床ぎみなので個室に入れて!とのことです!」私ここで最後の力を振り絞る私『今も具合が悪くて40度出てて前に入院した時は人生で初めてうんこ漏らしたくらい辛い憩室炎をこれから家で誰のサポートも無い中で毎日絶飲食して点滴に通わなきゃいけないのに?そんな不透明な回答で2月の寒い中帰るの?調べてくれるくらいはできないの?』(敬語使う元気もない)研修医「できませんし、さっきから部署違うって言ってますよね?!」研修医まさかのブチギレ私もブチギレて具合悪くて泣く調べる調べないの押し問答の後に舌打ちされた瞬間に消化器内科の先生に何してる!と研修医連れていかれる結局消化器内科の先生の計らいで書かなくても病床の空きを調べてくれたし、入院できたし、大部屋だったので今でも許していない。ちなみに憩室炎は無事に治った。【結論】差額ベッド代のことを伝えたら病気の具合が入院が不要というところまで変わる可能性がある。(結局入院の必要を判断するのは医者)その場合どんなに具合が悪くても差額のベット代自体は必要になるパターンもある医療従事者に言われたらドン引きされたけどな!某市立病院の話です。
長文:【入院】差額ベッド代で大揉めした話【させろ】
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コレクションハンター - Part3
引き続きJungle Adventureのコレクションコンプリートを目指してプレイ。
で、「オミスカの宝物」を遺跡最奥から回収する以外に手に入れる方法として↑こんな感じのチャンスカードを成功させる必要がある。 チャンスカードではあるが、対応するスキルをMAXまで持ってればおおよそ成功するんでスキル習得してからSelvadorada行った方が楽っちゃ楽。
(↑セルヴァドラーダ文化のスキル訓練中の図)
チャンスカードの該当するスキルが、器用さ、フィットネス、論理、考古学、セルヴァドラーダ文化、魅力、だったか?(見落としで、まだあるかもしれないが(笑))
ただ、全部のチャンスカードで宝物が貰える訳じゃない。2、3種類のチャンスカードのみから確率で「オミスカの宝物」が出てくる感じだったはず。
なんで、最奥の遺跡行くまでに「手に入ったらラッキー」くらいで挑戦してた。それでも遺跡探索回数を1回でも減らせる可能性があるなら無いよりマシ。
んで、最後にあと2種類でコンプリート出来るのに出ない!ってなったから最終手段を発動。
遺跡最奥の宝箱前で一旦セーブ→箱を開ける→欲しい宝が出なかったらメインメニュー戻ってロードし直し→宝箱を開ける……ってのを繰り返したZOY!
どうやら「オミスカの宝物」の抽選は開けるまで確定されてないっぽい。(初見プレイ時は遺跡のマップロードした瞬間に宝の種類が確定されてそうって思ってたわww)
いや、しかしセーブ&ロード戦法が使えてもダブりが凄くて大変だったww 最後の1つはロード20回くらい繰り返してやっと出たわww(屑運すぎぃ!)
これ、せめて魔法のコピペ呪文が使えたらもうちょい楽なコレクションになるんだけどなぁ……ww
そんな感じで「オミスカの宝物」をコンプリート! マジで疲れたww
そんなこんなしてたら科学者キャリアもレベルMAXまで行って、ワームホールのアップグレード完了。
シグザムに来るのも何年ぶりだろうか……ww ここでしか取れないアイテムは結構あるが、そこまで重要な物でも無いから個人的に忘れがちなスポットだわww
でも、Seasons導入状態でコレクション完成させようとすると、最低3回はここに来なきゃいけない。
ここに生えてる植物3種類はいずれも種袋から出て来なかったはず……。しかも3種類とも季節がバラバラとかいう、なんの嫌がらせだよ!って言いたくなる仕様でワロタ。(ちなみに季節は春と夏と冬だZOY)
しかもさ、植物の実って自シムがその区画にずっといないとスポーンしなくない? 昔は行けば必ず実ってた気がするんだが……記憶違いか?
結局「疲れ知らず」の能力でずっとその場に平然と居られたから良いけど、普通のシムだったらキツイ気がする。(ここトイレもベンチもないよね?) 割とかなりの時間シグザムで過ごしたZOY。
(あと、私は未検証なんだが、シグザムで手に入った「MySimsトロフィー」のカプセルからは必ず「希少度:レア」の物が出てくる……らしい。これ本当だったら最初に無理してトロフィーコンプリートする必要なかったかもしれんww)
で、シグザム内で色々回収しまくって「金属」をコンプリート。
家に帰ってダブったクリスタルと金属を地質調査に送って「元素」もコンプリート。
その後、Selvadoradaに2回くらい行き直して「クリスタル」をコンプリート。(Jungle Adventureでクリスタルが追加されてたのをすっかり忘れてたww)
そんで、家に帰って来た後もシグザムに何回か足を運んで「晶洞石」をコンプリート。(手に入る場所が限定的すぎて凄い影の薄いコレクションだと個人的に思うww)
Get To Workは終わったな、って事でお次はOutdoor Retreat関係のコレクションをスタート。
季節も丁度、夏になってたからラッキーだったZOY。(ちなみに科学者キャリアは退職済み)
で、早速、特殊エリアに出発。隠者と一緒に魚釣り。(なお一匹狼ゆえ会話は一切してない模様)
DLCで追加される魚は餌が要らないから、かなり楽だww これにて「魚」コレクション、コンプリート。
何日か時間は掛ったが、「昆虫」も終了。かなり見づらい状態でスポーンするのが昆虫採集の辛い所。それでもポイントは固定で何度もリスポンするから左程運要素は薄いかなぁ。
で、Outdoor Retreatのコレクションが終わったから今度は卵でも集めるか、って事で祝日を追加。
夏にイースターイベントって、正気か?とか言われそうだが気にしてはいけない。
庭の開いてるスペースにキッチンカウンター並べて卵取ったらSimRayで変身させて、また卵を取るって感じでやってみたが、卵取れない家具に変身するパターンが多すぎて微妙……ww
素直に建築モードでカウンター設置し直した方が早かったww
そんな感じで「デコレーション・エッグ」はサクッとコンプリート。
お次はクローン装置でコンプリート済みのマジックビーンをもうワンセット作成。で、切り株に置いて水をあげて、
木に成長させて「植物シムの禁断の果実」をGET。
次はStrangerVilleに出かけて土産物屋から「謎の果実」を購入。
ヴァンパイアのForgotten Hollowにも移動して、ニンニク、ブラッドフルーツ、シグザムカトリグサの種を入手。
魔法使いが使う作物は「魔法のアーティファクト」集める時で良いかって思ったんで、ガーデニングの残りは後回しに。
先にDine Outの「エクスペリメント料理の写真」をやろうかと思い立ったから専用のコンロを設置。(そう言えばポストカードの時に「唯一運が絡まないコレクション」とか言ったが、これも運に���右されない簡単なコレクションだったわ)
しかし、食べないと作れない料理だったことをすっかり忘れてたww
しゃーない、レストランをテキトーな区画に置くか、とかやったが……すげぇ面倒臭かったww
まず席に案内するウェイターがスポーンしなくて詰んだ。 次に店を購入してスタッフ雇ってレストラン売却してから客として訪問したが、料理の注文メニューが出て来なくて詰んだ。
……いや、マジでバグだらけでワロタ。
で、結局もう一回レストランを購入してからスタッフを雇い直してオープン。
レストランのオーナーだが、ウェイターに席を案内してもらってエクスペリメント料理を注文して写真撮ったZOY。
レストランの所有者として貸し切り状態で写真撮って食いまくった結果コレクションコンプリート。ずっとオープンさせておくと「従業員を働かせすぎです!」みたいな通知が来るから何回かに分けて営業したけど……。
いや、しかし面倒臭かったww レストラン買ったり売ったり、ゲームロードし直したり……コレクション関係ない所で躓くのもこのゲームらしいわww(何年たっても変わらない物(バグ)があるんやなって……ww)
んで、レストランを売却してお次は魔法の国へ。
サクッと薬のレシピと呪文集めてRealm of Magicの願望2つ達成して最高ランクの魔法使いになったZOY。
オーバーチャージ中でも死亡しないように能力を取ったから、ここからガンガン魔法の決闘をしていく。 もはや話しかけてきた奴全員と勝負じゃ!……とかやってるともはやただの辻斬りでワロタ。
「魔法のアーティファクト」は結構ダブりが酷いイメージ。つーか、バグ?かなんかでこれだけコンプリート不可能なんだよな。 一応、コレクション完成で貰えるプレートは貰えるっちゃ貰える。けど、コレクションアイテム一覧表はチートなしでは絶対埋められないって聞いたわ。(ぶっちゃけ、初見プレイ時も埋められなかった思い出)
そんな感じで、あと少しで終り。次回へ続く。
次回へ
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書物礼賛⑦
アンナ・レンブケ/ドーパミン中毒/新潮新書2022・原著2021
「ブプレノルフィンをやめようとは絶対に思いません。私にとって電気のスイッチのようなものです。ヘロインをやらないようにしてくれるだけでなく、私の体に必要なもの、他のどこでも見つからないような何かを与えてくれるんです」。長期的に薬物を使用してきたことで、彼の快楽と苦痛のシーソーはこの先ずっと「普通」の感覚でいるためだけにオピオイドを必要とするほど壊れてしまったのだろうか? 長い期間「断つ」ようにしてもなお、ホメオスタシスを回復できないほど脳の可塑性が失われてしまうことはあるのかもしれない。
(中略)私が1990年代に医学部に通い、研修医として勤める中で教わったのは、糖尿病を持つ人が充分なインシュリンを分泌できない膵臓を持っているのと同じように、うつ病や不安神経症、注意欠陥、認知的歪み、睡眠障害などがある人は望むように働かない脳を持っているということだった。私の仕事はその説によると、足りない化学物質を何かで補って「普通に」機能できるようにすることとなる。このメッセージは製薬会社によって広く流布され、非常に広範に展開されて、医者も患者である消費者も同様にそれを信じるようになった。
(中略)何年にもわたって多くの患者を診てきて、精神科の薬を飲むと苦痛な感情からは一時的に逃れられるが、自分が感じられる感情の幅が狭くなった、特に深い嘆きや畏怖の念といった強力な感情を感じる力がなくなってしまったと言われることがあった。(中略)「オキシコンチンを使っていた時の妻は、音楽を聴くこともやめてしまいました。しかし薬から離れて今は再び音楽を楽しむようになりました。私にとってそれは自分が結婚した人が戻ってきてくれたと思えることでした」
記述はわりとマトモながら、総花的で浅く、いかにもメディアに出ている女の精神科医・大学教授の本。「制度」の側にいる人物。強欲と堕落に覆われたアメリカ、オピオイド禍と絶望死、その背景にある教育と医療制度の腐敗。それらは一朝一夕に作られたものではない。福音派もシオニストロビーもコツコツ支持基盤を固め、自分が不幸と思い、救いを求める人を増やしてきた。対症療法には意味がない。ホメオスタシス(恒常性維持)=苦痛と快楽は脳の同じ部位で処理されるため、薬物などで一方を貪ると、自律神経・免疫系・脳の報酬系が異常をきたし、快楽より苦痛が長引く、それがまさに麻薬・オピオイド禍の本質なのだが、メカニズムの多くは未解明。ロケット爆発させてる場合じゃないんだよ。
上野庸平/ルポ アフリカに進出する日本の新宗教 増補新版/ちくま文庫2024・原著2016
日本の神道は、先進国の主要な宗教文化になったという意味で世界的に非常に稀有なアニミズム・多神教の一種である。崇教真光はそれをベースにし、キリスト教の聖書やイスラム教のコーランと同じような定まった経典「御聖言」と実益的な宗教実践「手かざし」を持つにいたった。 外来宗教であるキリスト教やイスラム教は教義がしっかり定まって「人間が生きていくための正しい教え」として非常に洗練されているが、西アフリカ伝統のアニミズム・精霊信仰にはある祖先崇拝や呪物(お守り)の考え方が存在せず、呪術的要素もさほどない。他方、西アフリカ伝統のアニミズム・精霊信仰は教義が定まっておらず、あまり洗練されていない。こうした西アフリカ人のスピリチュアルなニッチを埋めたのが神道というアニミズムをベースにし、経典を持つまでに発展し、さらにキリスト教やイスラム教を統合する万教帰一主義的価値観を持っている「真光」だったのである。
引用した崇教真光や幸福の科学・真如苑・創価学会といった日本発祥の新宗教、ラエリアンムーブメント・統一教会という日本発祥でないが日本人が布教に携わっている、それぞれいかにアフリカを攻略し、受け入れられているのかを実地にルポした労作。創価学会と日蓮正宗は当地でもいがみ合っているとか、幸福の科学は宣伝にお金をかけているが言葉・記号に頼って宗教的イメージ性が貧弱なため集客に苦戦しているとか、ウガンダ、コートジボワール、ガーナ、マリといった国々の事情と併せ興味本位にとどまらない味わい。
秋山駿/簡単な生活者の意見/講談社文芸文庫2025・原著1988
それより私は、自分の生の感覚の中で、この社会の声を読んで、こういっておこう。現在の社会は、無力な者、貧乏人、役に立たぬ者、それから不運な者には、一刻も早く人目につかぬよう隠されて死んでくれ、と、いっているのだということを。
私はふと、こんな空想に走る──。
長くもない年月のうちに、われわれの周囲で、つまりこの社会の到る処で、小さな爆発や小さな戦争が多数に生ずるであろう、と。
そうでなければ耐えきれぬほどに、この社会は、異質な存在の不合理な共存に緊張し過ぎている。つまり、矛盾の高圧下にある。早い話が、石油やトイレットペーパーを境界にして、それを入手出来ずうろうろしているこち��側と、その企業の管理者であるあちら側の人間とが、同一の内容の人間、少なくとも、同一の生の平面上に立っている人間であるとは、私には考えられない。たぶん、その心理、感情から、人間の意味ということも、良心も、それから正義の内容に到るまで、何から何まで違うであろう。
私は彼等と同一の人間の姿でありたくはない。彼等と笑い合いたくない。彼等と握手したくはない。それでは、彼等は私の敵なのか。いかにも、そうかも知れない。敵? だがしかし、彼等の姿は、私がその一人一人を心の壁に密かに記しつつ憎むためには、あまりにも遠い存在なのだ。だからやはり、私の生の感覚から、いっそう正確には、バスカルの言葉をわるくもじって、こういうべきだろう。──彼は川の向うに住んでいる、と。
著者は「うまいそば屋も喫茶店もない、本当の古本屋もない」とぼやきつつ、「敗戦時の社会の混乱こそ、私の生の原点であり、以来国家的な体制を信じていない、そうした生の感情に団地の生活意識が合う」として、ひばりが丘の団地暮しの雑感を綴る。実家とは疎遠。
1930(昭和5)年生まれで、私の父母よりわずかに上の世代。私が父母と幼稚園から小6途中まで暮らした横浜郊外の団地は、文化的にはともかく「民度」は東京幡ヶ谷より高かった。分断や混乱の気配はない。家族の最も幸せだった頃。その安心を私に与えてくれた親のことを思うと、いくら敗戦を経たからといって、著者の傍観者的な態度に違和感。自分は「あちら側」とは別ってか。いや全員一枚岩になるよう仕向ける世間という管理装置がはたらいて、軍国主義をそのまま経済高度成長に振り向け、そしていま同じ事情で国力が相対的に沈んでいる。スマホ等による時間管理の時代に、みな同じ方を向いて平均化されている日本人は生産性を発揮できない。自分は違うつもりの著者は「文壇」に居場所を得て、そうした構造問題に踏み込まずに「批評家」でいられたのでは。文章巧みでも学ぶものはない。
水木しげる厳選集 虚/ちくま文庫2024
横浜団地時代の私に最大の文化的影響を与えてくれた、管理事務所に設けられた、日曜のみ貸し出しを行う小さな図書室で出会った本たち。北川幸比古のSF絵本『宇平くんの大発明』、そして筑摩書房による大人を意識した漫画本、特に現代漫画⑤水木しげるは貸本時代の『悪魔くん』をダイジェストで収め、粗い絵柄に加え、全貌が見えないことでいよいよ神秘的であった。
その解説で鶴見俊輔は「庶民の生活思想の伝統に根ざす虚無主義。長いものには巻かれろの権力追随をねずみ男が代表し、虚無主義の権力批判・引きずりおろしを鬼太郎が代表している」と水木さんの作風を評しているが、ぜんぜん違うと思うね。
この文庫本にも入っている「錬金術」のような皮肉な話、あるいは『河童の三平』の祖父や本人まで死んでしまって決して帰ってこないことを表面的に捉えているのでは。根本には、人智を超えた自然界の生命現象への畏敬、失われた、もしくは目に見えない世界への哀惜、水木さんほど生命を重んじている作家はいないと思う。手塚治虫と対照的なその資質が最も表れているのが貸本時代の短篇「サイボーグ」。近年の衝撃的な読書体験。その再現を期待した本書には、似た系統のお話が多く、互いに印象を弱めている。現代漫画⑤は完璧だった。
橋本昇/追想の現場/鉄人社2025
大韓航空機撃墜・パリ人肉事件・成田三里塚闘争・日本赤軍・赤尾敏・梨本勝…。フランスの写真通信社sygma (現在はgetty images)の契約カメラマンとして昭和・平成の数々の事件事故現場に立ち会った著者による回想録。ほとんど忘れていたような���象が多く、右でも左でも政治的にはニュートラルな立場で扱う趣旨ということで、しみじみ懐かしい気持ちになったが、それにつけても誤字誤植の多さ。書架の良いところには置けない。
ちなみに日航機123便の事故についても現場の凄惨さが描かれているが、いわゆる「自衛隊機が誤射云々」の陰謀論が成立する余地があるとは思えない。それと「ザイム真理教」、2つの陰謀論を流布しながらも晩年まで愛されキャラとしてメディア露出を続けた森永卓郎氏に、テレビ・ラジオに触れる層の情動を刺激しつつ、主流派に影響を与えない絶妙なポジション、しかも息子にそれを譲る、体制側に都合の良いピエロという墓碑銘を贈りたい。
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木目クロスで空間にやさしさを|貼るだけでお部屋が変わる魔法
木のぬくもりが恋しくなる季節。 そんなときにおすすめなのが「木目クロス」。
壁一面を変えるだけで、ぐっと居心地のいい空間に早変わりするんです。 大がかりな工事なしで印象を変えられる、手軽で効果的な空間づくりのアイデアをご紹介します。
(参考記事はこちら→ https://realestatehousing.tokyo/?p=1263)
【木目クロスってなに?】
木目クロスとは、木の模様をプリントした壁紙のこと。 木材を使わずに、木のようなあたたかさを演出できます。
「リフォームはハードルが高い…」という方にもぴったり。 最近のプリント技術は進化していて、色味や立体感も本格的です。
【選ぶのが楽しい、豊富なデザイン】
木目とひとくちに言っても、その種類はさまざま。
明るいトーンで爽やかなホワイトウッド
落ち着きと高級感を与えるダークブラウン
古材風でカフェのような雰囲気を出せるヴィンテージ柄
色のトーンや木目の方向でも、印象は大きく変わります。 お部屋に合わせて選ぶのも楽しみのひとつです。
【貼るならココ!効果的な使い方】
木目クロスは、全面に使うよりも「一部分」へのアクセント使いが◎
テレビボードの背面
玄関の正面壁
トイレや洗面所の1面だけ
など、限られたスペースに貼ることでメリハリのある空間になります。 照明をうまく当てると、さらに雰囲気アップ!
【色と質感で仕上がりが変わる】
木目クロスの選び方で大事なのは、色味と質感。
ナチュラル色で柔らかく
グレイッシュでモダンに
深みのある色でシックに
質感は、エンボス加工があると立体的で本物っぽさが出ます。 迷ったら、家具や床材との相性も意識してみてください。
【自分で貼る?プロに頼む?】
最近は、初心者向けの「貼ってはがせる壁紙」も充実しています。 DIY感覚で楽しめるので、賃貸でもOKな商品も増えてきました。
とはいえ、広い面積やきれいな仕上がりを求めるならプロにおまかせするのが安心です。 施工例やポイントをまとめた記事もあるので、チェックしてみてください。
→ https://realestatehousing.tokyo/?p=1263
【暮らしに木のやさしさを】
木目クロスは、目で見ても手で触れても、ほっとするやさしさを持っています。 おうち時間が長くなる中で、そんな「心地よさ」を取り入れてみてはいかがでしょうか?
小さな変化でも、暮らしの満足度は大きく変わります。 気分転換にもぴったりですよ。
お部屋づくりのヒントになる記事はこちらです。
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250417_後読の日
「後読」という言葉を思いついたのは、2023年の秋に熊間で行った展示、澤あも愛紅さんの「柳はみどり、花は紅、気積をめくる」のことを思い出していたときだ。
熊間を始めてから「展示すること」についてずっともやもやしている。そんな問いの中で、建築家である自分たちがやるべきことは、作家と対話するなかでこの建築=熊間に手を入れ続ける、という発見があったのも、あもさんの展示だった。

「柳は緑、花は紅 気積をめくる」Photo by Yosuke Ohtake
設営は丸2日、朝から晩までかかった。あもさんが持ち込んだ作品はキャンバスが2点と、曲げたアクリルに描かれた作品が数点。ひとまず作品を出してみて、どうしよう、と悩んでいるうちに、時間がするすると流れた。
いくつかきっかけはあった。改修する際に撤去して置いていたすりガラスの建具を使いたい、とあもさんが言っていたこと。もうひとつは、以前から試していた展示方法で、端材を杉板の隙間に挟むと自立し、かつ少したわむことから、この端材に作品を引っかけられないか、というもの。とはいえ、全体の配置計画が決まっていたわけでもなく、むしろその個性的な建具と展示方法が足がかりになった。作品を見せるより、作品の見せ方に目が入ってしまう。そこに建築家と作家、という対立ができてしまう。
そんなもやもやをかかえながら、あもさんと作品や廃材を出しては直し、置いては動かし、という仕事を繰り返した。あるとき、また廃材をこちらにおいてみようと手をかけたら、「あ」と声を出したあもさん。「今、そのままの方がいい」と。確かに、それは展示には何にも役には立ってはいないけれど、その空間の質をつくっていた。またあるとき、すりガラスの建具を元玄関に立てかけたとき、その配置がいいと言ってくれた。一番建具の存在感が薄い配置でもあったが、何より外からの光を拾って、すりガラスがぼんやりと水のような質感を映していた。建具を使いたい、ということは、この質をつかまえたい、ということなのだと気��いた。

「柳は緑、花は紅 気積をめくる」Photo by Yosuke Ohtake
そうやって端材や建具をひっぱり出したり、壁をめくったりしているうちに、熊間の空間のかたちがどんどん変わっていく。杉板の隙間に挟んだ廃材は、重力によってたわんでいる。エントランスのポリカーボネートの庇もまた。先ほど「あ」と声を出したあの廃材は、ずっと前からそこにあったかのように、壁に立てかけられていた。そして、アクリルの作品は、その空間のかたちを拾い上げているようにも見える。

「柳は緑、花は紅 気積をめくる」Photo by Yosuke Ohtake
そんな仮説をあもさんと会話して、配置の方針が何となく決まった。空間のもつボリュームがかたちづくる、モノや作品の居場所を探す。そのかたちに留まっている、という配置をどう見つけるか。それを繰り返していくうちに、かたちの由来がどちらが先なのかわからなくなってくる。何となく分かってきたことは、ここで展示することは、その情報量の多い空間のなかで溺れてしまうことなく見出した形式を計画によって読み替え、新たな意味を発見し、また文脈を紡いでいく運動のある切断面であるということだ。結果的に作品と建物のあいだに、どこまでもつづく何かを感じることができる展示となった。
そして、設営の2日はとても幸せな時間だったのだが、空間を通して対話することで、"誤読"であるだろうけど、あもさんの頭の中に浮かんでいる霧のようなものを経験することができた。その霧は、自分の頭に漂うものと、同じ色調であったことを、写真を見るたびに思い返している。

Photo by Yosuke Ohtake
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来歴も、つくるものも全く違う。だけど、自分のつくりたい世界を、違う領域で、異なるメディアによって表象している人がいる。ただしそれは、必ずしも同じ世界ではない。フィクション、そう、フィクション。
自分にとって作品を買うということは、パラレルに存在するものを近くに置いておきたい、という気持ちが強いのだな、ということが、前の投稿で自転車を乗りながら考えていたことだ。ならば、そうであるならば。その作品から逆算的に、もう一度建築を設計することができたら、フィクションを空間として、建築はつくることができるんじゃないか。という「後読」
ただし、それはやっぱり「誤読」だ。つくった本人とは全く違う意味で、意図にそぐわないものかもしれない。だけどそれは、テキストに書くこととは全く違った形で、過去を振り返りつつ、つくることで前に進むということにつながるのであれば、取りこぼしまうことをできるだけ拾い上げ、次の"つくること"につなげたい。
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それって、自分自身のプロジェクトにおいても、再表象できるんじゃないか。僕はひとりで設計をしているので、自分で立てたプロジェクトとその世界は、自分自身が主体になってしまう。だけど、そのフィクション-パラレルに存在する世界は、自分は他者として存在しているはずだ。
そんなことを思いついて、週一で来てもらっているアルバイトに姉の家を「後読」してもらっている。僕が読んでいるリファレンス、昨年のヨーロッパに行った写真、これまで考えてことを伝える (← 仕事してもらいながら、横からぼそぼそと話しかけて邪魔している)。今、それが「姉の家」としたこのかたちになっているけれど、もしかしたら、それは別の論理でできたものかも知れない、ということを、さまざまな方法でつくり、確かめる。
ここでは、その「後読」の記録も残しておきたいと思う。
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壁だけを抽出した模型。さまざまな音がつくる環境に対して、一筆書きのようなかたちが空間の粗密をつくる。それは向かいにある空き地との距離感-奥行きと浅さから導き出されたものでもある。その流れを水糸やラインテープでバイトがドローイングしたことをきっかけに、次の日、壁に水糸で天井から吊り下げた。鴨居に片隅を着地させ、水糸は模型に建てられたピンを経由して、マステのラインに引っかかる。ギリギリのかたちで、ひとまずそこに留まった。
やっぱり思い出したのは、あもさんの展示だ。環境と敷地のかたちから大筋が決まっているかたちは、今、この部屋の重力においてかたちが留まっている。いや、そんなふうにこの建築は、敷地にまつわるさまざまな環境をとどめているのではないだろうか。
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そんなことを、次の週にアルバイトにまた話をした。週一日のこの時間がいま、純粋につくることについて考える時間になっている。仕事なんだけど、休んでいる感じ。そこに価値がある。どんどんモノが増えていく。読みものが積み上がっていく感じ、そう、積読的な。後で読むことは、振り返りながら進んでいくことなのだと。
準備した時点でアーカイブではないから、つくりつづけたらいい、と大竹さんに言われてとても勇気づけられた。この後読を、プロジェクトが終わるまではひとまず、続けたいと思っている。
#音楽家の家 #浦田友博 #建築の浦田 #uratatomohiro #建築と庭のあいだ
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TEDにて
スチュワート・ファイアスタイン:無知の追及について
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
さて、真の科学的研究とはどういうものでしょうか?
理路整然とした科学的手法というよりは、むしろ実際、最先端の現場では暗闇で無為の時間を過ごして、その範囲の中で黒猫を探索することに近い。というのは細胞分子神経科学者のスチュワート・ファイアスタインのジョークです。
ファイアスタインは、この機知に溢れる講演で、サイエ��スの核心が実践される様子に触れていきます。
さらに、彼は、私たちは、認識できないような知らないものごとを、あるいは「高品質高純度の無知」を実験や事実で解明された既知のものごとと同じくらいの未知の領域を切り開く開拓者として評価すべきであると提言しています。
こんな古い諺があります「暗い部屋で黒猫を探すのは、とても難しい。特に、猫が居ないならなおさらだ」
科学とその仕組みを説明するのに適した諺です。暗い部屋の中で、動いて何かにぶつかれば、ぶつかったものの形やそれが何かを解き明かそうと試みます。どこかに猫がいるらしいという報告もあるが、信頼できるのやらできないのやらというありさまです。
一般に考えられている科学とは違っていますね。科学は普通こう説明されます。整然とした仕組みによって世界を理解したり、事実やデータを得るものであり、ルールに基づいたものである。
科学者はいわゆる科学的手法を用いるもの。14世代にわたって適用されている科学的手法とは、一連の規則によってデータから揺るぎない冷厳な事実を得るものだ。それは事実ではないと申し上げたいのです。
確かに科学的手法はあります。しかし、ある程度は有効。これが実情です。
<科学的手法、あるいは無為の時間>
そして、こう続きます。
<科学的手法、あるいは無為の時間を暗闇で過ごす>
ならば、私が信じている科学の追及と人々の認識とでは、何が違うのでしょうか?
この違いについての初めて思い当たったのは、コロンビア大学で役職を2つ兼務した時でした。私は、教授であり、同時に、神経科学の研究室を率いています。脳の働きについて研究しています。匂いの研究を通して取り組んでいます。
つまり、嗅覚についてです。研究室においては、それは大きな喜びであり魅了させられる仕事です。院生や博士研究員と一緒に嗅覚の働きや脳の働きを理解するために、面白い実験を考え出すのは刺激的で率直に言ってわくわくする仕事です。
一方、同時に、学部生に大教室の講座で脳について教えることも私の職務です。脳は大きな題材であり、準備には時間がかかります。大変やりがいがありますし、とても興味深いものでもあります。しかし、わくわくするものではないと言わざるを得ません。
その違いは何でしょうか?私が教えた、またいまだに教えているその講座は、細胞分子神経科学と言います。その1、です。25コマの講義で様々な事実をたくさん含み、講義ではこの分厚い本を使います「神経科学の基礎」という本で3人の有名な神経科学者の著書です。
この本は1414ページあり、ずっしりと重くて7ポンド半もあります。違った言い方で表現すると標準的な人間の脳2つ分の重さです。
この講座の終わる頃に私は思い到りました。生徒達は、脳について知るべきことは知り尽くすべきだと受け止めたかもしれません。それは明らかに真実ではありません。またこんなふうに考えているようなのです。科学者は、データを集め、事実を集めて、こんな分厚い本に仕立てるものだ。
実情は、違っています。私が会議に出て会議の一日が終わった後でバーで集まってビールを飲んでいる時に、同業者とは「知っていること」の話は決してしません。私達は「知らないこと」について語ります。
未だ残っているすべきことについて語り、実験室で何をすることが重要なのかについて語るのです。マリ・キュリー夫人が、いみじくもこう述べています「人々は、成されたことは語らない。残された成すべきことのみを語る」これは、彼女が兄に宛てた手紙にありました。二つ目の学士号を取得した際にと付け加えておきましょう。
ちなみに、このキュリー夫人の写真が気に入っています。なぜなら、彼女の背後の光。これは写真効果ではないと確信しているからです。本物(放射能)なのです。確かに、彼女の論文は、今現在もフランス国立図書館の地下にある鉛で覆われたコンクリート部屋の中に収められ研究者としてこれらのノートを閲覧したい場合は、完全放射能防護服を着用しないといけません。結構怖いことではあります。
ともかく、これこそが、私達の講座が見失っていたもの。研究者としての社会との交流で見失っていたものだと思います。解くべき課題の残りは何か。これこそがわくわくし面白いことなのです。
この、言うなれば「無知」これこそが欠けていました。
そこで私は思いました。何か卓越したことについて講義するなら「無知」について教えるべきかもしれない。そこで「無知」についての講義を始めてみるととても興味深いものでした。是非ウェブサイトをご覧ください。あらゆる情報がウェブで広く公開されています。
そして私にとって、とても興味深い時間でもありました。他の科学者に会い彼等が知らないことについて話してもらうのです。
さて、この「無知」という言葉をもちろん意図して少し挑発的に使っています。なぜならば、「無知」には、悪い意味合いも多く、そういうことを意図してはいないからです。
つまり、愚かさだとか、未熟ゆえに事実や根拠やデータに無関心だとか、ということではありません。
無知な人は、明らかに未啓発で注意不足。知識も不足しています。それとは別の「無知」の話です。
この「無知」には、悪い意味あいは薄く。人類全体の知識の不足として認識されるものです。
知っているべきなのに欠けている知識やまだ知るに至らない知識や予測もできない知識です。その「無知」をうまく言い表しているのは、多分、マクスウェルの言葉でしょう。彼はニュートンとアインシュタインの間。最も偉大な物理学者で。こう言いました。
「無知が十分に認識されることは、あらゆる科学的な進歩の前奏曲である」素晴らしい考えだと思います。徹底的に自覚された「無知」 今日はそんな「無知」の話をします。
現代では、Google、Wikipediaがある中、大量の知識は必要ですが、絶対ではありません。
まず、先に片づけたいのは「事実」について、どう考えるかということ。確かに 驚くべき速度で科学知識は積み上がっています。私達は、皆、事実を積み上げたものが科学だと感じています。
これは科学知識の蓄積モデルと呼ばれ、難攻不落で手に負えないように思われます。全てを知ることなどできません。確かに、驚異的な速度で科学文献は膨れ上がっています。
さて、どうすればいいのでしょう?しかし、科学において多くの知識が重要なのではありません。しかし、多くの知識は、そこからより多くの無知に到達するのに役立ちます。
カントも新たな知識は、新たな疑問が産まれ、伝播、拡大していく危険な傾向があると説いているそうです。
偉大な量子物理学者であり、哲学者ともいうべきシュレーディンガーが指摘したことですが、期限を定めず「無知」を受け入れなければならないのです。
この 「無知」を受け入れる。ということをいかに行うか?習得するべきです。これは少し難しいことです。簡単なことではありません。
手始めに、2013年時の現実を見ましょう。Google、Wikipediaの時代に、大学はとにかくビジネスモデルを変えねばなりません。事実を売っても時間が経ていくにつれ生きていけなくなってきます。
マウスのクリック一つで手に入るのです。これらあらゆる情報源を隠すことは無駄なことです。忍耐強くパズルのピースを組み立てて、何らかの大きな体系を解き明かすという教育システムの改善も重要です。
そこまで考えますと、更に、もう少し考えることになります。科学についてよく用いられるモデルを検討して、見方を改めていただこうと思います。最も一般的な誤解は、科学者とは、忍耐強くパズルのピースを組み立てて何らかの大きな体系を解き明かすというもの。
これは明らかに違います。まずパズルですが、製造者は何らかの解があると保証しています。私達にそんな保証は全くないのです。そもそも製造者も良くわからないという人も多いです。パズルのモデルは当てはまりません。
その次に一般的なモデルは、科学者は玉ねぎをむくようにして物事の解明に励んでいるというものです。一枚一枚玉ねぎを剥いていくと何か核となる真実に至るというモデルです。科学はそういうものでもありません。
また、氷��もよくあるアイデアです。ほんの一部しか見えていない氷山の下に大部分は隠れているのです。しかし、これらのモデルは全て事実の膨大なかたまりであってもやがては制覇できるという考え方です。
氷山を削っていけば、理解が進みます。最近だと待っているだけでも溶けてしまいます。でもいずれは氷山全体を終えられるのです。ですよね?管理していけるという考え。これも違うと思います。
私の考えでは、科学の実際は、魔法の井戸のようなモデルであってどれだけバケツですくいだしてもつねに水が残っているのです。私がとりわけ好きなのは、結果や様々な面で池の波紋に例えたものです。
知識をどこまでも広がる池の波紋であると考えますと、私達の「無知」すなわち知識の限界が、知識とともに大きくなっていくという大事なことに気づきます。
ですので、知識が「無知」を生むのです。
バーナード・ショーの言葉が、大変うまい表現だと思います。アインシュタインの功績を称える晩餐で乾杯のあいさつとしてアインシュタインをたたえる言葉の中で彼は述べました「科学は、答え以上に多くの疑問をつくりだす」
愉快な話です。彼はまさに正しいと思います。さらに、仕事も安泰です。
実は、哲学者のイマヌエル・カントが、すでにこのことを言っていました。100年以上前に疑問の伝搬。すなわち、全ての回答は更に疑問を引き起こすと気付いていました。私はこの「疑問の伝播」という言葉が好きなのですが、この疑問が伝播するという考え方が大好きなのです。
私達が選びたいモデルは「無知」から始まり、事実を集めて知識を得ていくのではありません。実際、むしろ逆方向なのです。私達は、この知識というものを何に使うのでしょうか?私達は集めた事実を何に使うのでしょうか?
より良い「無知」を生みだすために使います。いうなれば、高品質の「無知」を得るためです。なぜなら「無知」には低品質から高品質まであり、一様ではありません。
科学者は、いつもこのことを議論しています。ときには雑談として、ときには研究予算申請として、いずれにしても議論の的となっているもの。
それが「無知」です。私達が知らない何かなのです。そこから良い疑問が生じます。
では、疑問はいかに生ずるのでしょう?グラフをお見せしましょう。様々な科学部門の懇親会で目にするポスターみたいなものです。このグラフが示す関係は、あなたが知っていることと、どの程度それを知っているかを表します。
何を知っているか?「皆無」から「すべて」まで幅がありどこまで知っているかも「わずか」から「沢山」まで幅があります。ではプロットしていきましょう。
学生はここです。知識は少ないが、興味の幅は広く、ほぼ何にでも興味を持ちます。修士の学生は、少し教育が進んで知識は少し深まり、しかし、その幅が狭まります。そして、博士号を取ると驚異的に深く知るものの知っている対象は無きに等しいのです。
一番心配なのは、傾いた線の延長線上です。なぜならば、ゼロから更に下がれば、当然マイナスの領域です。私などは、残念ながらこの位置にいます。
重要なことは、これはすべて変えられるということです。この見方は、x軸のラベルを変えるだけでがらりと変わります。どれほど多く知っているかではなく「何について聞くことができるか」と言いかえられます。科学者は多くを知っている必要がありますが、それら多くを知っていなければならない。
その目的は、多く知っていたり、マニアになることではありません。多くの物事を知ることの目的は、多くの疑問が生み出せるようにすることです。考え抜かれた興味深い疑問を問うことができるようにです。
それこそが本当の研究だからです。
幾つかこういった疑問の簡単な例をご紹介しましょう。神経科学者として、いかに神経科学の問いに至るのでしょうか?なぜならば、必ずしも簡単ではないのです。
例えば、脳は���をするのか?と考えてみましょう。脳の働きで、私達は動き回ります。私達は二本の足で歩きます。わかりやすいですね。なにしろ、生後10ケ月以上になれば、ほぼ誰でも二本の足で歩きますよね?それほど興味深くなりませんね。
それでは、もう少し難しい材料を選びましょうか。たとえば視覚系などどうでしょうか?これがそうです。視覚系です。私達は視覚系が大好きです。素敵なことがたくさんできます。事実、一万二千人以上もの神経科学者が、視覚系を研究しています。
網膜から視覚野まで視覚系の理解だけにとどまらない試みで同時に、一般的原則として脳が、どう働くのかを理解しようとしています。しかし、ここに問題があります。私達の技術はかなり優秀で視覚系が行うことを再現することができます。
テレビや映画があります。アニメや写真があります。パターン認識やさまざまなものがあります。時には私達の視覚系とは違った機能の場合もありますが、私達の視覚系と同じようにはたらく技術がうまくできています。しかしながら、百年あまりのロボット工学がありながら未だ二本の足で歩くロボットは見当たりません。
ロボットが二本足で歩行しないのは、簡単にできることではないからです。百年研究しても数歩以上歩けるロボットはなかなかできないのです。斜面を登らせようとすると倒れてしまいます。向きを変えても倒れます。
難問なのです。
では、脳にとって最も難しいことは何でしょうか?何を研究すべきでしょうか?二本足歩行か運動系かもしれません。
私の研究所からの例をご紹介しましょう。とりわけ鼻につく疑問です。私達は嗅覚を研究していますからね。図に5つの分子を示します。化学の記号の一種です。これらはただの単純な分子ですが、これらの分子を顔についている二つの小さな穴から嗅ぐとはっきりとバラを感じるのです。
実際のバラがあれば、これらの分子を伴います。でもバラがなくても分子を覚えているのです。分子は、どうやって知覚されるのでしょうか?どのような過程で可能になるのか?他の例です。単純な分子が2つあります。別の化学の記号を使っています。こちらのほうが分かりやすいでしょうか。
灰色の丸が炭素原子で白いのは、水素原子で赤いのは酸素原子です。二つの分子の違いは、炭素原子が1つとそこに付いた小さな水素原子2つだけです。このうち一方は、酢酸アセテートではっきりした梨の匂いですが、酢酸ヘキシルのほうはまぎれなくバナナです。
ここに、2つの興味深い疑問があると私には思えるのです。第一に、いかにしてこんな簡単で小さな分子が、脳にもたらす知覚は、はっきりと梨やバナナだとわかるのでしょうか?
2つ目は、一体、どうやって炭素原子ひとつだけが違っている分子を区別しているのでしょうか?これはまったく驚異です。地球上で最も優れた化学物質検出器に違いありません。そのようなこと考えたことありませんよね?ありますか?
私が好きな引用があります。そこから「無知」と疑問の話に戻りましょう。引用を好むのは死者たちも会話の仲間にできるからです。そしてまた、この会話は、相当長く続いているということも重要だと思います。
さて偉大な量子物理学者であり、哲学者ともいうべきシュレーディンガーが指摘したことですが、期限を定めず「無知」を受け入れなければならないのです。
この、「無知」を受け入れるということをいかに行うか習得するべきです。これは少し難しいことです。簡単なことではありません。結局は教育システムの問題でしょう。では「無知」と教育についてお話ししましょう。なぜならそこで勝負すべきと思うからです。
手始めに、現実を見ましょう。グーグルとウィキペディアの時代に大学やたぶん中等学校もとにかくビジネスモデルを変えねばなりません。事実を売っても、生きていけません。マウスのクリック一つで手に入るのです。これらあらゆる情報源を隠すことは無駄なのです。
どうすべきでしょう?
生徒たちに境界線を体験させ、限界の外側のもの事実の外にあるもの。事実の届かない先を考えさせるべきです。
それにはどうするのでしょうか?
やはり、問題の一つはテストでしょう。とても効率的な現在の教育システムは、よくない面で効率的なのです。二年生では、女の子も男の子も子供たち全員が、科学に興味を持っています。分解するのが好きです。好奇心のかたまりです。調査するのも好きです。科学博物館にも行きます。何でも遊びにします。
二年生はこうです。彼等は興味を持っているのです。しかし、高校の2年や3年では、科学に対して何か興味を持っている人はわずかで10パーセント以下で、まして生涯の仕事として科学を志すものなどいません。私達には素晴らしく効率的なシステムによって皆の頭から科学についての興味を消し去っているのです。
これが私達が望んでいることでしょうか?同業者である教師の言葉だと思うのですが、これを「拒食症方式の教育」と呼んでいます。イメージできますね。一方で、膨大な事実を喉から詰め込み、他方で、それを試験で吐き出すのです。
知識は肉にも血にもならずに帰されるのです。こんなことを続けてはいけません。どうしましょうか?
遺伝子学者が拠っているこんな原則をお話します。スクリーニングすれば常に求めたものが得られる。これは、警告としての言葉です。スクリーニングすれば常に求めたものが得られるのです。何をスクリーニングするか。それは試験の方法の一部でもあります。
確かに、試験と評価の話は良く聞きますが、試験については注意深く考えねばなりません。これは評価なのか、選別なのか、選別してはじこうとしていないか、何かを切り捨ようとしていないか、評価は別の話です。
最近の教育誌などでは、評価の話が溢れていますが、本来、評価とはフィードバックと試行錯誤の機会を意味します。このようなフィードバックについては、長い時間をかけて取り組むべきなのです。それは選別とは違います。
苦言を呈しますが、人々が評価について語るとき、生徒を評価するとき、先生を評価するとき、学校を評価するとき、課程を評価するとき、実は、選別について話しているのです。それは良いことではありません。スクリーニングすれば求めたものが得られるからです。
私達が今いま直面している現在のことです。今必要な試験とは「Xとは何か?」というものです。その答が「知りません。誰も知らないからです。」とか。
「問いは何ですか?」となれば、一層良いでしょう。または「調べてみます。誰かに聞いてみて、電話してみて、解明してみます」こういうふるまいを望むなら、そうなるよう評価するべきです。
そして、もしかしたら飛び級のク��スには「これが解答です、次の問は?」でもいいでしょう。これこそが特に好きなやつです。
イェイツの引用で終わりにしたいと思います「教育はバケツを満たすことではない。火をともすことなのだ」ですから、ともにマッチを持っていきましょう。
ありがとうございました。
カントとは、16世紀のドイツの哲学者。
イマヌエル・カントのことです。「純粋理性批判」でも上記のことがより詳しく論じられています。
人間は何をどこまで知ることができるのか?ということをデカルトやスピノザが提唱した大陸の合理論とイギリスのロックとヒュームが提唱した経験論の欠陥を認識、洞察しつつも経験からの独立した認識能力への批判を融合して。
すなわち、純粋理性能力の意味と限界を統合した書籍です。
超越論的制約である空間と時間を通じて、人間が認識して理解できるものの限界はどういうことなのか?という認識論を説明しています。
シュレーディンガーとは、シュレーディンガー方程式を構築した物理学者。
シュレーディンガー方程式とは、1926年にオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが量子力学の理論の整合性をとるために波動力学という体系を提唱した際の基礎方程式として提案された。
当時は、波動性と粒子性の問題が持ち上がっていて、実験事実を丁寧に方程式の形式にまとめあげた物理学の巨人のひとりです。
なので、一般式なシュレーディンガー方程式は、ディラック方程式から場の量子論まで量子力学全般で使う事ができます。基礎方程式といわれるゆえんです。
アインシュタインの光電効果仮説(1905年)。アインシュタイン・ドブロイの関係式や量子からマクロ世界のニュートン力学に拡張する過程で、古典力学での方程式は量子力学から導出されるとも言われる(プランク定数をゼロに近似したとき)
ボーアの量子条件やハイゼンベルクの不確定性原理でも整合性がとれています。
(個人的なアイデア)
老子の道教の徳(テー)とアリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が似ていることから・・・
どちらの起源が先か?調べるととても面白い仮説が出てきた。
中国の道教は紀元前750年位。古代ギリシャ末期のアリストテレスは紀元前350年位。
共に多神教。この時代の情報の伝達速度を考えるとシルクロードで相互的に交流して伝わった可能性も高い。
プラスサムな概念だから。道(タオ)が先で、アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が変化して
老子の道教の徳(テー)となり、神仏習合みたい道徳になった?アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)は具体的だが、道徳経ではあいまい。
当時は、西洋と東洋の最先端を統合?古代中国では、老子は仙人とも言われていたし、始皇帝もこの頃の激動の時代。
どうなのか?
バラモン教に対して創始した仏教もブッダにより誕生し、アリストテレスの時代に近い年代であることは偶然の一致だろうか?
ニコマコス倫理学に似ている仏教最高レベルの奥義が「中道」ということ。チベット経由で中国にも伝わります。そして、日本にも。
その後、古代ギリシャは300年後、多神教の古代エジプト文明を滅ぼしてローマ帝国になっています。キリスト教も誕生。
その後、国教へ。一神教が広まり紀元後が始まります。
真実はわからないが、そんな仮説がインスピレーションとして出てきた。
仏教最高レベルの奥義が「中道」と言葉で言うのは簡単だけど、体得して実践するのは至難の業。
ピータードラッカーも言っている。
それを可能にする方法を段階を踏んで導いた最初の人が釈迦です。
初心者向けとして、アビダンマや八正道がそれに当たります。具体的な方法を体系化しています。
極端な見解にとらわれない(顚倒夢想:てんとうむそう)よう人が心の苦しみから逃れるには、八つの道を守れば良い。
正しい見かた、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい判断。そして、正しい考えかたである。
ところで「正しい」とは、何をもってそう言うのだろうか?
ここでは、アリストテレス(サンデルの正義)の定義ではありません。
この場合の定義は、ブッダの説いている「中道」が「正しい」という意味です。両極端にとらわれない正しい立場(中道)が悟りへと導く唯一の道なのです。
悟りから始まり、この世は、様々な概念が重なり合うため、概念の機微や均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!
最初は大変だが、ドラゴンボールに登場するスーパーサイヤ人みたいに、これを大変なレベルじゃなくなるくらいに習慣化することがコツです。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。
現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
続きは、後ほど。倫理は強制ではなく一定のプロトコルに基づく自由権なので
アリストテレスのニコマコス倫理学には、快楽的生活、社会的生活、真理を追求する生活がある。
思考の知的な徳は、形式知の根本?
もう一つ、性格の徳は、暗黙知の根本?
アリストテレスのいう定義である悪徳の反対は、有徳。有徳に転換する努力が必要。
悪徳に似た概念として、仏教でも、具体的に邪道四つと定義されている。
テーラワーダ仏教に似ている。顚倒夢想(てんとうむそう)になるため悪行為を段階的に最小限する努力が善行為。
こうすることで「パワーか?フォースか?」の書籍でいうパワーが人類全体で平等に底上げされる。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイトの方)という前提です
そして、ブッダの説いている「中道」は、「パワーか?フォースか?」の書籍でいう「意識のマップ」内の「中立」レベルに当たるかもしれない。
アビダンマとは異なる領域なので、うつ病、ADHD、自律神経失調症、発達障害などは、精神科医や心療内科へどうぞ。
もう少し、テーラワーダ仏教で教え伝えられている経験則を初心者向けから二、三歩、歩みを進めると「預流道心」と言われる悟りの最初の心が生まれる瞬間があります。
自力で到達するのは危険なので、お寺のお坊さんに詳しくは聞いてください。
自分の解釈では、ここに到達する感覚としては、量子力学の本質である「場の量子論」を本当に理解した瞬間が一番近い感覚です。しかし、検証できないので本当に到達したかわかりません。
テーラワーダ仏教のアビダンマでは、「預流道心」に到達すると自然と悟りの道に自動的に回帰できるようになるそうです。次に、七回生まれ変わるまでに完全に悟りの流れに乗れる。
前世で「預流道心」に到達してると子供の頃から、桁の違う天才になりやすい傾向が発現してくるそうです。
そして、六道輪廻するのは、人間界か天界のみだそうです(一神教では、天国に近い領域に似ている)他にいくつか特徴がありますが、ここまでにします。
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北川民次展

郡山市立美術館で「生誕130年記念 北川民次展 メキシコから日本へ」を見る。若くして渡米、さらにメキシコへ渡り、日本への帰国後は東京や愛知・瀬戸を拠点に活動を続けた画家の回顧展である。個々の作品は必ずしも時系列ではなくテーマ別に並べられている。
第1章は「民衆へのまなざし」。画業最初期の作品《やしの木のある風景》。すでに北川らしいタッチが見てとれるようである。

《トラルパム霊園のお祭り》。メキシコ時代の代表作。

《ランチェロの唄》。二科展に出品された作品。古代ローマ時代の文学作品『黄金のろば』(ロバになった主人公がさまざまな経験をする物語)が参照されている。

《家族写真》。北川とその妻子が描かれている。戦争中、東京から瀬戸へ疎開した頃の作品。

第2章は「壁画と社会」。メキシコといえば壁画。北川がメキシコで過ごしたのは、メキシコ革命後の社会でディエゴ・リベラなどが壁画を盛んに描いていた時代だった。
《タスコの祭》。二科展出品作。キャプションによれば、「生木綿布を継ぎ合わせ、陶磁器用の粉末顔料を利用し、メキシコで学んだ卵黄テンペラの技法で制作された」。かなり気合いの入った大作である。

《大地》。壁画を意識して描かれたらしい作品。

女性の二の腕のあたりにラテン語で「NOLI ME TANGERE」(私に触れるな)と描き込まれている。ロバもいる。

第3章「幻想と象徴」では、北川がメキシコに住んでいた当時の世界的な美術潮流シュルレアリスムにも目を配っている。
《メキシコ・イスタシワトル(ねむれる美女)》。イスタシワトルは火山の名。ナワトル語で「白い女」という意味とのこと。山の稜線の凸凹が横たわった女性に見える。

《メキシコ静物》。二科展出品作。たしかにシュールさを感じる。

《かまど》。台所のではなく陶磁器を焼く窯。

《百鬼夜行》。北川はしばしばバッタを描き込んでいた。1匹ではしがない存在でも数多く集まれば農作物に甚大な被害を与えられるほどのパワーがあるという点を好んでいたらしい。


第4章「都市と機械文明」では、都市化、工業化する社会を見つめた作品が取り上げられている。
《赤い家とサボテン》。ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロの住居兼アトリエで、赤いほうをリベラが、青のほうをカーロが使っていた。

《落合風景》。東京都内。

《瀬戸十景》。瀬戸市から依頼を受けて絵葉書用の原画として制作された作品だが、結局瀬戸市はこれを採用しなかった由。瀬戸の労働者を称えるような作品群なので、自治体PR向きでないことはまあ否定できない……。

《瀬戸のまちかど》、《赤いオイルタンク》。どちらも瀬戸の風景で、陶磁器生産現場にも工業化の波が広がっていったことがわかる。


第5章「美術教育と絵本の仕事」では、画家の教育者としての側面と絵本作家としての側面に目を向けている。この章は4つのパートにわかれている。
まずは「前衛運動と版画」、次いで「メキシコ野外美術学校」。撮影不可資料が多かったのでここに載せられる写真はあまりないのだが、北川のメキシコ時代に関わる人々やその活動(芸術運動や雑誌など)が紹介されていた。
《本を読む労働者》、《ロバ》。この2点は、野外美術学校派の画家が創刊した雑誌に掲載された作品。


このあとは場所を日本に移し、「戦時中の絵本制作」のパートになる。
絵本『マハフノツボ』原画。(マハフノツボ=魔法の壺)


絵本『うさぎのみみはなぜながい』原画。メキシコ民話をもとにしたおはなしで、とてもおもしろいので個人的におすすめ。

第5章最後のパートは「新しい児童美術の実験」。北川は、子どもたちが上手に絵を描けるようになるためではなく、自由な精神をつちかえるような美術教育を実践しようとした。必ずしもうまくはいかなかったようだが、貴重な取り組みだったであろうことは想像に難くない。
《夏の宿題》。とにかく管理教育に大反対だったようである。

最後に「エピローグ 再びメキシコへ」と題し、メキシコ再訪後の作品が並べられていた。
《メキシコ市場の一隅》。

《ハラッパ市の街外れ》2点。


瀬戸市民会館のために制作した壁画の原画。

《TOMATO》。名古屋の旧カゴメビルのために制作した壁画の原画。

上の壁画に関連する北川のインタビュー記事を、企画展受付で借りて読めるようになっていた。その内容がなかなかおもしろく、たとえば尾形光琳の作品やその受容者を大いに批判していたり(あれは有閑階級の芸術だし、それを楽しむのは資本主義に屈服した精神だ、云々)、日本人は荒っぽいものが嫌いでデリケートでないと芸術的価値を認めないから壁画の仕事では多少妥協したと吐露していたりして、読みごたえがあった。
《バッタと自我像》。先に触れたようにバッタに思い入れのあった北川が描いた、最後の自画像と思しき作品だそう。タイトルが「自画像」でなく「自我像」なのもポイントか?

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