#iPhone修理博多駅前
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tsun · 1 year ago
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7年愛用のiPhone7、バッテリー交換で新生活スタート
博多駅前にお住まいのご近所様が、長年の相棒iPhone7のバッテリー交換のため当店にご来店いただきました。7年間という長い期間、���わらぬ愛用を続けた末、ついにバッテリーの交換時が訪れました。最大容量が60%にまで低下しており、日常生活においても大きな不便を感じている状態でした。事実、外出時には必ずモバイルバッテリーを携帯する生活を余儀なくされていました。 iPhoneのバッテリー最大容量が80%を下回ると、使用中のバッテリーの減りが体感的にも明らかに早くなります。そんな時はバッテリーの状態をチェックし、交換を検討する目安としてiPhone7の場合、設定メニューから「バッテリー」へ進み、「バッテリーの状態と充電」を選ぶことで最大容量を確認することが可能です。 当店では、iPhone7のバッテリー交換を3000円で提供しております。修理にかかる時間はわずか15分。お客様が店内でお待ちいただい…
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jinsei-pika-pika · 5 years ago
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思いをかたちにするスタイリスト、北村道子インタビュー portraits jan 14, 2019 7:10 pm
michiko kitamura
photographer & interviewer: chikashi suzuki writer: tomoko ogawa
portraits/
北村道子さんが手がける衣裳や彼女の言葉に触れると見えてくるのは、北村道子という生きる哲学のかっこよさだ。その哲学が、服になり、仕事になり、彼女そのものを形づくっている。唯一無二の個性を持ちながら、約40年、一切の妥協をすることなく、今目の前にある人物とその人が着る服と対峙してきた。そんな彼女が、前著『衣裳術』から10年ぶりに、俳優34人、写真家6人との10年にわたるコ��ボレーションを記録した『衣裳術2』をリリースした。2000年代初頭に角田純氏がアートディレクションを手がけていた雑誌『X-Knowledge HOME』にて、北村さんを撮影したことをきっかけに出会い、以降、コラボレーションを続けるフォトグラファーの鈴木親氏を聞き手に迎え、型破りで刺激的な北村道子さんの仕事術について語ってもらった。
portraits
jan 14, 2019 7:10 pm
北村道子さんが手がける衣裳や彼女の言葉に触れると見えてくるのは、北村道子という生きる哲学のかっこよさだ。その哲学が、服になり、仕事になり、彼女そのものを形づくっている。唯一無二の個性を持ちながら、約40年、一切の妥協をすることなく、今目の前にある人物とその人が着る服と対峙してきた。そんな彼女が、前著『衣裳術』から10年ぶりに、俳優34人、写真家6人との10年にわたるコラボレーションを記録した『衣裳術2』をリリースした。2000年代初頭に角田純氏がアートディレクションを手がけていた雑誌『X-Knowledge HOME』にて、北村さんを撮影したことをきっかけに出会い、以降、コラボレーションを続けるフォトグラファーの鈴木親氏を聞き手に迎え、型破りで刺激的な北村道子さんの仕事術について語ってもらった。
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Photo by Chikashi Suzuki
鈴木親(以下、鈴木):僕が、北村道子さんという存在を初めて意識したのは、大学のときに観た映画、『幻の光』(95)なんですよね。北村さんの衣裳って、何という印象もなく普通に映画としてスーっと入ってくる。でも、もう1回観るときって、ディテールをよく見るじゃないですか。そうすると、衣裳がすごく綺麗だなと思う。変なリアルさもないんだけど、ファンタジーが入っていて。何%の嘘と何%の真実みたいなものの割合を、映画ごとに全部変えているというか。
北村道子(以下、北村):それは、いつも私が思ってる思いだよね。さすが親くん、大学で先生してるだけあるなぁ!
鈴木:映画の雰囲気に合うようにスタイリングしているから、絶対作品の邪魔はしないんです。『バットマン』(05-12)シリーズの衣裳と同じ方向性ですよね。Christopher Nolan (クリストファー・ノーラン)作品と一緒で、現実だと嘘っぽいけど完全に嘘にはならない。でも、映画の中ではちゃんと映えている。逆に、ガチガチにリアルにスタイリングをしちゃうと、たぶん映画としては全く面白くない。ノーランとかがやって「エポックメイキングだ!」と言われていたようなことを、偉ぶ��こともなく、普通にスッとやっていたというのが、北村さんなんですよ。
北村:でも、日本では叩かれているんですよ。
鈴木:『幻の光』が?
北村:そう。まず、私の関わった映画はみんな、日本の映画監督にも叩かれているんですよ。『幻の光』に関しては、誰が送ってくれたのかはわからないけど、フランスの『Figaro』をはじめ、ドイツ、イタリアのみんながメディアで取り上げてくれたんです。あまりに取り上げてくれるから評価されるようになってきて、ヴェネチア国際映画祭で賞を取って、逆輸入的に話題になったんです。当時、主役の江角マキコさんは、基本的にモデルだったじゃないですか。モデルが「自分のために何かやりたい」という雰囲気を出してくると、私、拒否感が出てくるの。だって、江角のためにやる映画というのは、おかしいじゃないですか。それまでに、10回くらい断ったんですよ。それで、引き受ける条件として、葛西薫と藤井保を突っ込んだんです。
鈴木:それで、あの本、『ESUMI』(リトルモア )ができた?
北村:そう。その二人を入れるならと、映画を受けたんですよ。衣裳合わせも自分で5トン車借りて、是枝さんと私でやったんですよ。
鈴木:是枝さんの中でも、『幻の光』は良かったですけどね。リアルさがあるんだけど、何となく違う。現実にいないけどいそうな人物という感じがすごくして。だから、正直に言うと、ストーリーというよりは、映像が綺麗だったという印象が残ってる。
北村:どの映画でも、私は孤独で独りぼっちなんです。黒澤明監督もドローイングや着色をやっていたのと同じように、洋服を作っている。それが当然だと思うのよね。自分の中でそういうものが映画だと思うじゃない。映画というものを私はミケランジェロ・アントニオーニから出発していて、女優で一番��きなのは、モニカ・ヴィッティなんです。だから、映画を観ていて、彼女は裸足で道を歩いているという表現から、シナリオがわかるじゃないですか。全部通して観たあとは、たとえば、あそこであの椅子がどうして出てくるのか、そこをもう1回観ることを何度もしていく。そういうふうに、自分で映画の洋服の表現力というものをマスターしていったんですよ。
鈴木:それが正しい見方ですよね。
北村:それから自分で衣裳をやるようになって、「監督が描いたドローイングはないの?」と聞くと、「え?」と返ってくる。しょうがないから、それを私がやっていく。役者には絵コンテがあったほうが、わかりやすいじゃないですか。それを元にみんなやっていくようになってきたの。『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』(08)もそうだった。それはもう、孤独になっていくよね。
鈴木:北村さんが人物像をほとんど作っているんだと思ったのは、『メゾン・ド・ヒミコ』(05)の裏話を聞いたとき。採用されなかった設定なんだけど、主演の柴咲コウはゲイのための老人ホームにいて、白いシャツに薄く赤い下着が透けている。それが、「女性の性の部分をグッと抑えているけど、残っているという表現だ」と言われたとき、もう台詞は要らないなと思った。その服だけで人物像が成り立つじゃないですか。ビジュアルで表現することって、ビジュアルだけで一気に全てが入ってくることがあるから、言葉も超えてしまうことってあって。
北村:それ、正解です。小津安二郎監督がやっていた、原節子の二の腕から見えるブラジャーに私は辿り着いたんですよ。あの時代にそういうふうにやっていたなぁって。そうやって脚本を読み込んでで、ドローイングしていくタイプなんですよ。だから、プロデューサー側から「こういう普通の長袖で綿のシャツでこういうのにしてくれ」と言われるようになったときに、「じゃあ、どっち側をあなたたちは取るんですか?」という話になった。私は、そこから衣裳合わせに行かなくなったの。
鈴木:(笑)。
北村:アクセサリーも同じで、全く合わないアクセサリーや時計をみんな持ってくるのよ。美術の小道具さんがダンボール箱で持ってくる。そういう儀式なんですよ。「ここから選んで」と言われるんだけど、私は「え、なぜこれを使わなきゃいけないの?」って。長年ダンボールに入ってて、カビ臭いもん。それで喧嘩になって、「私は降ります」ということになる。思いをかたちにして表現するときに、役者側の意見が強いんだったら、監督は要らないんじゃないのと思っちゃうのよ。
鈴木:それじゃ、映画にならないですもんね。
北村:そう。『幻の光』も、その衣裳に対する思いみたいなものがあるわけ。石川県・能登で育った自分の子どもの時代の冬というのは、やっぱりモノトーンで世界が見えてた。私がアイスランドに行ったときに、能登と同じだなと思った。それを作品の中にフィードバックしたの。私、監督って、もし日本の作品だったら、あらかじめ役者を想定しな��らシナリオを書いていると私は思っていたんです。ところが、私が衣裳をやるというとき、役者は誰も決まっていないんですよ。だから、想定してやってなきゃいけない。
鈴木:だいたいの当て書き、みたいな感じで進めますよね。
北村:うん。「例えばどういう人ですか? その人、私が交渉しますよ。あなたたちがしないんだったら」という話になってくるわけですよ。
鈴木:でも、以前は衣裳部の人がやるのが衣裳だったけど、北村さん以降、衣裳という考え方で映画にスタッフとして入る人たちが出てきた。伊賀(大介)くんとか三田(真一)くんとかは、北村さんのメソッドみたいなものがあったから、その後にスッと入れたんだと思う。
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Photo by Chikashi Suzuki
北村:はじまりの話をすると、私は若い頃に、ものすごい広告業界に入って、300人を前にして恥をかいたんですよ。それは、メンズウェアが何たるかを知らなかったからです。イギリスの大物の撮影で恥をかいたから、そのギャランティをいただいて、「私、1年間この国に残ります」と言って、サビルロウのリージェントストリートとボンドストリートをくまなく調べたんです。洋服について全くわかってないお姉ちゃんがイギリスに行って、ボンドストリートを歩いていくと、ここでは全部揃うんだということがまずわかったの。
鈴木:シャツ屋も靴屋も帽子屋も時計屋も全部ありますもんね。
北村:そう。とにかく、メンズをマスターすればTPOがわかる。なぜって、メンズの人たちが、女の人たちをエスコートしていくわけじゃない。
鈴木:本当にそうなんですよね。CHANELの服も、基本的にニットは男性の下着だったり、ツイードは男性のスポーツウェアだったり、男性の生活に合わせて女性はどうするかということを考えて作られていたし。
北村:そうなんですよ。勉強してから日本に帰ると、飛行機でみんなロングホースの靴下を誰も履いていないんです。みんなカジュアルな靴下を履いて、モチャモチャしてて。こんなにひどい国なんだってわかって、そういうことを良しとしている自分がいたんだと。それが日本がアマチュアリズムなんじゃない��と私が言っているところなんですよ。普通は、何も知らないことを恥ずかしいと思わなきゃいけないじゃない。私がそれだったんです。そこからですね。
鈴木:コートもチェスターやステンカラーとチェスターの間みたいなローデンコートってのがあるんだけど、そういうタイプを着ているとあの人は貴族系なんだなとわかる。日本は、そういう習慣が一切ないですもんね。
北村:そうだよね。海軍にしても、デッキシューズを履いてないじゃないですか。そういう意味で、やっぱり、衣服にステートメントがないんですよ。
鈴木:日本人だと、良くも悪くもTPOにとらわれ過ぎて、コスプレ化しちゃう人はいますよね。生活の中で着ることは普通のことなのに、儀式になっちゃってる。それに関して、北村さんの上手さが際立っていたのが、『バベル』(06)のときにカンヌのレッドカーペットで菊地凛子ちゃんに CHANEL を着せたことです。ハリウッドに行って、ハリウッド俳優に囲まれているアジア人は目立たないことが多いけど、どんだけ目立ったかっていう(笑)。でも、悪目立ちだとブーイングものじゃないですか。賛否両論がちゃんとあるように、上手く北村さんはやってるんですよ。それは、どういうふうに着せるべきかをわかっているからですよね。あの後すぐですからね、Karl Lagerfeld(カール・ラガーフェルド)が凛子ちゃんをピックアップしたの。
北村:身も心も凛子ちゃんに尽くしました。カンヌに行くときに、まず1個だけココ・シャネルのバッグを持って行ったほうがいいと。それから、Karl LagerfeldのFENDIのバッグにドレスを詰めて、2カ月分のサングラスから靴までも全部トランクに入れて渡したんですよ。そうじゃないと、ランチやディナーのときに困るから。それで、カンヌを歩くときはこの中から着なさいって。全部、返してもらってないな(笑)。
鈴木:イブニングと昼間のドレスって全然違うけれど、日本ってそういう生活習慣はないじゃない。そのTPOは守られているのにアバンギャルドっていうのが格好いいんだけど、北村さんはそれを全部やってて。例えば、カンヌで浅野(忠信)さんが着ていたスーツ、どれだけサイズが合ってるのっていうくらい合ってた。でも、それだけじゃなくて、男性は目立ち過ぎちゃいけないんだけど、ちゃんと目につく。絶対に俳優さんに恥をかかせないんだけれど、映画と一緒で、ちょっとした違和感を出す。ネクタイだったりチーフだったりで一部だけ異物感を出してるんですよね。本当に上手い。俺が言うのも何だけど(笑)。たぶん、その人の個性をきちんと見抜いてるからできる。
北村:もう、その通り!
鈴木:それって、本当にわかってる人じゃないと絶対にスタイリングできないから。単純にTPOがわかればいいってことでもなくて、本人が着ている感じにプラスアルファで違和感を出していて。普通に見たらスッとはしてるんだけど、「なんか気になる」みたいな要素を探って、ズラしているというか。でも、他が完璧だから何も言えない。凛子ちゃんも未だにずっと CHANEL のファミリーだけど、アジア人でヨーロッパのいわゆる上流階級にいきなり入れるわけがないから、最初のインパクトがたぶんあったんだと思う。
北村:私、1回彼女を映画で降板させたことがあるんです。まだ菊地百合子でやっていたとき。そしたら、当時所属していた事務所の社長が凛子ちゃんを連れて、その理由を問いただしに来たんです、渋谷の私の事務所に。ちょうどそのときに、別の用事でカメラマンの小林響が偶然いた���よ。響は関係ないんだけど、あえて第三者がいたほうがいいやって思っていてもらったの。第三者によって今まで思ってなかった言葉が出てくることがあるのよ。それで、私は凛子ちゃんに、「今に絶対違う映画がやってくるから、そのオーディションを受けたほうがいい。そのために、名前はRで発音ができたほうがいい。外国では発音しやすいから」と言ったの。ハッタリだけど(笑)。「じゃあ、凛とした凛子にしよう」って。そうしたら、彼女が「私、変えます」って言ったのよ。それで社長が、「お前いい加減すぎる。この人、嘘ばっかり言ってる女なんだから」って。
鈴木:それで、菊地凛子が誕生したと。
北村:そう。彼女、その後、本当に『バベル』(06)が決まったのよ。オーディションに行くとき、「私が女優だったら、裸で行くよ!」って言ったら、「わかった! コートの下は裸にする」って言って、本当にそうしたかどうかはわからないけど、監督が「わかった、君の役を作るから」となったらしいのよね。意味あったよね、ちょっとした嘘も博打も。響がいなかったら、凛子という名前は出てこないのよ。あいつクソみたいな男だけど、よくいてくれたよ。
鈴木:写真家としてはワールドワイドなのに(笑)。
北村:凛子ちゃんって、どんな取材でも応じるよね。飛行機に乗って自分で行くんですよ。本当に少しのスペースしか露出がなくても、「大丈夫、行く!」って行くんだって。あれは見習うべき姿勢だと思うよ、女優たち。
鈴木:それは、北村さんが教育したからですよ。
北村:私はさ、親くんから洋服を学んでるよね。
鈴木:いやいや。
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『衣装術2』(リトルモア)
北村:私の中で、渋谷の雑踏とか公園の隅っこで撮るというアイディアは全くないもん! もともと、『衣裳術2』(リトルモア )でまとめた雑誌『T.』の連載企画を持ってきたのは、親くんと門間雄介くんだったし。
鈴木:『T.』でもこの連載だけ、テンションが違いましたよね。でも、今なら特にそうだけど、雑誌を買ってもらうのに特別なコンテンツが絶対ほしいじゃない。昔から日本の雑誌で多いのは、だいたいプロモーション取材のタイミングで同じ顔の表紙がバーっと並んでて、独自のチョイスがない。アートディレクターの大橋 修さんはすごく抵抗して、独自のチョイスを作らないと意味がないって、北村さんという異物をページの中に放り込んだという(笑)。
北村:でも、二人とも先に辞めちゃって。そうしたら、大橋くんが「北村さん、俺は続けたいから、毎回カメラマンを変えていくというのはどう?」っていう話になって。
鈴木:北村さんは、「こういうふうにしよう」と強引には、自分から言わないタイプだからね。
北村:そう、言わないです。大橋くんから、「続けてほしい」と言われたときに、「ほかの記事もファッションにはならないの?」って聞いたの。映画雑誌だから、そこは変えられないということで、「じゃあこれが最終的に書籍になるんだったら、目的がある」ということで続けて、それでリトルモアに頼み込んだのよ。
鈴木:北村さんが撮影しているシリーズも面白かったです。『衣裳術2』の表紙になった写真とか。
北村:そのときは、カメラマンが誰もいなかったんですよ。タカムラダイスケと言われても、その人の写真知らないじゃない。そしたらタカムラくんが、「北村さん俺のこと知らないから、俺がアシスタントやります」って言って。それで、凛子ちゃんの旦那の染谷将太くんを最初に撮ったんですよ。この連載で、私は親くんとのゲリラ撮影を、ものすごく覚えてるんですよ。親くんとやった新井浩文くんの撮影が、私、相当ショックだったのよ。後ろに警察官が写ってるの知ってる? あれ5分後だったら、「君、何してるんだ!」って来るやつでしょう? もう笑っちゃうよね。あれは計算して撮ってるんでしょう?
鈴木:一般の人は基本的に肖像権があるじゃないですか。警官は、公務員だからないんですよ。
北村:すごいよね、実際に来るんだから。
鈴木:そういうのが好きなんですよ。
北村:やっぱりね。だから目立ったところで撮影するんだ。
鈴木:そう。
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『衣装術2』(リトルモア)
鈴木:撮影時間をコンパクトにやるということは、考えてはいて。撮影って、下手に長時間やることが多いでしょう? でも、テンションってそんなに持たないじゃないですか。北村さんは瞬発力が半端ないから。持続力よりは瞬発力に北村さんのすごさがあるから、それは狭い範囲でぎゅっと終わるほうが、逆に良く出るというか。新井くんの撮影は、目黒の駅の線路を挟んで前後だけだから、実質半径300mとかの移動で終わったし。
北村:ああいう撮影をするのは、親くんだけですよ。まず皇居で撮るでしょ。渋谷は交差点で撮るじゃない。あとは御苑とかね。「こんなの平気で撮ってるの?」って思って。でも、ついていくと面白いんだよね。隅っこにいて、オロオロしてるのは私だけでさ。安藤政信くんの撮影なんて、ホームレスのいる隣に連れていくのよ。
鈴木:中央公園ですかね(笑)。
北村:あれカシミアのスーツよ?本当に場所を見つけるのが、上手いのよ。「こんなところあるの?」って感じで。
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『衣装術2』(リトルモア)
鈴木:でも真面目な話、違和感を北村さんが入れてくれるから、街中でも成立するんですよ。ただ、普通に街で撮ったら、ただのストリート・フォトになっちゃう。北村さんとの撮影だから、普通のロケーションがちょうどいいんです。一瞬普通に見えるけど、よく見ると違和感があるのは、たぶん普通の服じゃないというのが一番大きい理由だから。北村さんと『Purple』を初めてやったときに、凛子ちゃんがモデルだったんだけど、普通のスタイリストなら100%絶対ダメって言うくらいの台風が来て。だって、80万円くらいするコートだし、濡れるに決まってるし。でも、北村さんが言ったことで忘れられないのは、「全部濡れちゃえばわからない」っていう(笑)。
北村:だから、親くんの手口で嵐の中の池松壮亮くんの撮影もやったのよ。
鈴木:俺、すげぇな��思って。ラッキーと。北村さんは、乱暴に扱うけど、最高に丁寧にも扱うというか。普通だったら濡らして買取だけど、ちゃんとカシミアの質をわかっているから。
北村:あれが日本の洋服ならびちゃびちゃですよ。池松くんの撮影のときも台風が来て、じゃあTOM FORDを借りてこようかって。そしたら、大森克己さんはiPhoneで撮ってたらしいの。
鈴木:iPhoneは雨でも大丈夫なんですよ。フィルムのカメラはダメだけど。
北村:親くんは、フィルムで撮ってたじゃない!
鈴木:そう。正直に言うと、カメラは別に壊れても買い換えられるじゃない。でもこの台風は過ぎ去ったらもう撮れないから。
北村:でもね、Balenciaga、濡らした写真を『Purple』で使ってくれたんだよね。決められたルック通りじゃなかったのに。
鈴木:しかもそのときってNicolas Ghesquiere (ニコラ・ジェスキエール)がデザインを始めたばかりだったから、崩すのはダメだった。洋服の着方も全部指定で、「確実にやってくれ」と言われていて。しかも、広告は『Vogue』と『Purple』にしか打っていない時期で。
北村:そういや、『Purple』で押井守もやったじゃない。日本テレビまで行ってさ。
鈴木:押井守さんがまだアニメ好きだけの支持を受けていた頃、今みたいな存在じゃなくて。ちょうど、日本のモデルで誰か面白いのがいないかと話していて、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』(08)を観てたから、北村さんに話したら、北村さんも押井さんが大好きで。『ブレードランナー』(82)の影響を受けてはいるけど、逆にハリウッドにも影響を与えたような人だから、立場上、凛子ちゃんと同じようなものだって。海外の評価が異常に高いから、これは北村さんがやるしかないでしょうと思って。
北村:会話が止まらなかったよね、二人で。『ブレードランナー』の話になって。Ridley Scott(リドリー・スコット)のことをようやく会話できる奴がいたって感じで。
鈴木:映画のプロデューサーからは、一切ファッションの要素はない人だと聞いていて、「着るかどうかはわからないですよ」と言われていて。事前に、スタッフの書かれたシートを渡しておいたら、たぶん北村さんの名前を見て押井さんはすぐわかったんだと思う。ボサボサの髪を期待してたら、髪の毛をきれいに切って待っててくれて(笑)。北村さんの用意したライダースを「これどこの?」とか言って、着る気満々で嬉しそうにしてましたよね。
北村:その後、同じのを買いに行ったんだよね。懐かしい。
鈴木:Maison MargielaのニットにMarc Jacobsのジャケットを着せたんだけど、本人が着てる感じを残すために、今だったらおしゃれなダッドスニーカーだけど、そのときは全然だった本人のスニーカーを履かせてた。
北村:私物みたいだったよね。
鈴木:北村さんって、本当にその場に生きている人だから。例えば、通常の撮影だと、俳優さんや女優さんが初めて仕事する人だったりすると、服をいっぱい持ってくるんです。逆に、僕が「これを外して」と言っても、外させなかったりする。それだけあったら、被写体本人が選びたいとなっちゃうじゃない。親切にしたら、その後の仕事に繋がる可能性があるじゃないですか。たぶん、そこまで考えてやっている。
北村:頭いいね。
鈴木:このシューティングというよりは、次の指名とかコマーシャルとかも考えてる。ビジネスとしてやってたらそれは正論なんだけど、カメラマンからすると、目の前の撮影が上手くいけばいいだけで、もしその後に被写体に嫌われようがかまわないと僕は考えてるタイプ。北村さんは俺よりもっとハードコアで、撮影で4コーディネートを使うと言ったら、4半くらいしか持ってこない。サイズが合わなかったときとか、場所によってちょっと変えるとかくらいですよね。
北村:だって重いし。
鈴木:それは、目の前のシューティングが上手くいくことをすごく考えてるから。カメラマンからすると本当に、正直に言うと超やりやすいんです。俳優さんに服について説明するのも、カメラマンがするよりも、北村さんがこれはこうだからいいって言ってくれたら、それで通っちゃう。
北村:上げるもんね。親くんはヘアメイクのAMANOくんをいびっているだけでさ。ロケバスの中、人の悪口ばっかりだからね、私たち。
鈴木:(笑)。人って、その場に生きることっていうのが、大人になればなるほどできない。子どもは単純に言うと、その一瞬を生きてるじゃない。だから、若い頃ってすごく瑞々しさもあって、大人になればなるほどその瑞々しさに憧れる。北村さんは、みんなよりも先輩なのに誰よりもその場に生きてて、その一瞬が良ければいいという考えですよね。
北村:そう思わない?
鈴木:本来、人生ってそういうものというか、その一瞬が積み重なっていくと良くなるし、すごく先のことを心配しても本当はしょうがないんだけど、それができる人っていうのは、立場ができればできるほど少なくなってくる。でも北村さんは、映画でも全部それをやってるから。
北村:ライブなんです。
鈴木:そう、その場を生きてる。好奇心と共に。
北村:好奇心がなくなったら、やることないんじゃないの? と思ってる。
鈴木:哲学もそうだし、最近の量子力学や物理学もそうなんだけど、結局人の思いみたいなものが全部の形を変えるとなってる。人の意思が介在したときに、実際の物が動くというのが最新の物理学の考えらしいの。北村さんって、たぶん、そういう意思が明確だから。
北村:私はけっこう若いときから三木成夫を読んでるじゃない。だから、生命って、水と油という相反するものが、実は心と体、脳と体として、そこにあるってことを最初から読んでるから、何というか、波動がどうやっても上手くいかないなというときは、「水と油だからしょうがないんじゃない?」という感じだし、素数を大事にしてるから。3とか5を。4になったら、どっかで乱したくなってくるんだよね。
鈴木:哲学と物理学が、今はほぼ一緒みたいになっている。北村さんの時代は哲学を学んで、その哲学が服になってる。実際、北村さんの思いみたいなものが衣裳に入るということは物理学が証明している。その場に強い意思がちゃんと介在している、観察者という人だから���、やっぱり。
北村:本当に先生だねぇ、親くん。
鈴木:「気持ちは伝わらない」ってよく言うけど、物理学上、今の量子学では本当に伝わっているとされていて、北村さんの撮影を見ていると、たとえ他の人と同じものを持ってきたとしても、何かが違く見える。その何かっていうのは、もしかしたら強い思いなのかもというのはすごくある。
北村:親くんと『GQ』の15年周年でTOM FORDのルックを撮影して、TOM FORDから絶賛のメールが来たんですよ。
鈴木:ヒップホップの男の子で、IOくんって子なんだけど、まぁ、きっとTOM FORDは着ないでしょ。それをポコっと着せて。普通の人が来たら、演歌歌手みたいになるのを。
北村:北島三郎だよね。TOM FORD側としては、ものすごくいいカシミアの服を用意していたんですよ。でも、私は行ったときに、「これしかないの?」って言って、ヘビメタみたいなのを使っちゃったのよ。
鈴木:やっぱり、着丈とか、スラックスの裾をブーツに入れるとか、そのバランスみたいなのが絶妙に上手い。もちろんサビルロウとかの着方がわかってるからなんだけど。本人が履いてきたブーツにそのまま入れちゃって、バッと出てきたみたいな格好良さがあって。
北村:またさ、ウィンドウにベースが並んでる、みたいな楽器屋にロケに行くんだもんね。あれは、トムちゃんが「Nice!」って言ったのわかる。
鈴木:さっき話した、同じ服でも北村さんが持ってくると違く見えるというその差って、もちろん北村さんって細かく見てるところもあるんだけど、コンセプトを全部を通して綺麗に見た後に、現場はライブにする。そこがすごく上手くて。たぶん、撮影の前までは全部緻密に考えてる。その準備がハード。写真や映像って、その場の偶然性みたいなものが入らなければ、広告になっていっちゃう。その偶然性が入ることで、エディトリアルとして一番美味しいところが撮れる。コマーシャルだったら絶対決めていくけど、北村さんはそこでも無茶苦茶するっていうのはよく聞いてるから(笑)。撮ってる側からすると、そこの要素っていうのが一番強いところ。ハプニングだけを入れるのはできるし、緻密にやれと言われたらできる人はいるけど、その両方は矛盾するじゃないですか。さっきの水と油じゃないけど、矛盾するものを両方入れられる。しかも自然に。そこが、北村さんにしかできないところですよね。
北村:ありがとうございます。
鈴木:例えばファッションって、1年か2年過ぎるとすごく古く見えちゃうところがある。30年とか過ぎるとまた新しく見えるけど、10年だとしょぼく見えやすい。でも北村さんのスタイリングって、わかりやすい表現をすると、強度があるんだよね。本人に合ってるとか、写真に合ってるとか、映画に合ってるスタイリングだから、もちろん時代性はちゃんと入ってるんだけど、いつの時代に見てもよく見えるというか。だから、10年前のものを今見ても、一切古く見えない。それがすごいなあと。
北村:それ、けっこう褒めてるよね?
鈴木:褒めてますよ。例えば、Joe McKenna(ジョー・マッケナ)というスタイリストも、北村さんと同じようなメソッドでやっている。海外でもそういう人って少ない。彼は、分厚いハードカバーの本とか出すような人だから。北村さんはヨーロッパで生まれていたら、ハードカバーの本をもう5冊くらい出してると思う。
北村:一応、2冊は出してるんだけどね(笑)。
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Photo by Chikashi Suzuki
<プロフィール> 北村道子(きたむら・みちこ) 1949年、石川県生まれ。サハラ砂漠やアメリカ大陸、フランスなどを放浪ののち、30歳頃から、映画、 広告、雑誌等さまざまな媒体で衣裳を務める。映画衣裳のデビューは85年、『それから』(森田芳光監督)。07年に『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』(三池崇史監督)で第62回毎日映画コンクール技術賞を受賞した。著書に『Tribe』(朝日出版社)、『COCUE』(コキュ)、『衣裳術 2』『衣裳術《新装版》』(リトルモア)がある。2019年1月21日(月) 、東京・文化学園にて、「北村道子さんトークショウ」(17:30入場/18:00開始)を開催予定。1月10日(木)より出版社・リトルモアHPで観覧予約開始。
<書籍情報> タイトル 衣裳術2 著者 北村道子 装幀 大橋修 価格 ¥2,000 判型 A5判 /192ページ 発行日 2018年12月 出版社 リトルモア HP: www.littlemore.co.jp
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michiko kitamura
思いをかたちにするスタイリスト、北村道子インタビュー
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tokyomariegold · 3 years ago
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2022/6/4〜
6月4日 蔵前から上野へ歩いていたら、飲食店の店先に“ご自由にどうぞ”と超熟が2斤置いてあった。上野は人が多くてみんなiphoneを見ながら何となく同じ場所に留まっていたので、ポケモンGOみたいだったけれど日陰に居たかっただけみたい。でも、科博でポケモンの展示をしていたポケモンGOだったのかも。 芸大と5th floorで「新しいエコロジーとアート」を鑑賞。 川内倫子の作品が、やはりとても良くて、自分も同じモチーフを探して撮ろうとしてしまう。写真についての評論が書かれた紙が置いてあり、手にとると���生きられたニュータウン」の著者が書いていた。きらびやかなスペクタクルから解放されて、いろいろ受け入れてゆるく混ざっていこうね〜(?)、という感じだったのかな。5th floorではフルーツの音を聴いたりした。 途中の電車に、カフェゴトーのトートバックを持ったおじさんが本を読んでいた!ここは千代田線なのに! 道端の室外機にカメラを置いてセルフタイマーで撮影していたら、カメラが落ちてしまいシャッターが1/3程しか上がらない状態に。これで2台とフィルムカメラを壊してしまったので修理に出そう。 お隣さんから「◯◯さんってお酒飲みますか。」とラインがきていた。 (ちなみに“◯◯さん”の名前のところ間違っているよ。)
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6月5日 出かけようとエレベーターを呼んだら、下から上がってきたお隣さんと鉢合わせ。りんごのお酒の返信をしなくては…と気がつく(甘いのが飲めないので、頂き物のりんごのお酒いかがですか?とのことだった。)。 もやもやが生活に挟まるので、やっぱりラインを交換しない方が良かったよね。りんごは好きだけれどお酒が飲めないんです、と返信。 今日は他に2つ予定があったけれどなくなった。 大学の同級生にいつの間にか子供が産まれて、みんなで会う予定が、いつの間にかその子供に会う予定に変えられていたので、まだ気乗りできておらず延期になって少しほっとしている。 6月6日 ヴェレダのローズマリーオイルがさらっとしていて、頭皮と髪にちょうど良い。梅雨の季節に良さそう。 ゆで卵はキューピーの殻なし湯で卵しか受け付けなくなった。他��は白身が柔らかすぎるか黄身がパサパサすぎる。 6月7日 Butter Sugar Creamを聴きながら、シュガーバターの木を実の親から差し入れにもらった先輩が、とても不思議そうに「こんなのどこで買ったんだろう」と言っていた表情を思い出す。上野駅に売っているよね。 体が伸びるのはゴムゴムの実の作用ではなかったことが最近判明したんだよ!と教えてもらう。ワンピースを全く見たことがない私でも、ゴムゴムの実は知っているので、ここにきて何てことだ、と思った。
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6月8日 昨晩、ずっと読めずにいた最果タヒの新刊を読みつつ、井上さんが出演されていた昨年のお正月のラジオを聴いたら、忘れていた、世界は私の方だった〜、と少し元気になった。 一週間くらいずっとナスの煮浸しをたくさん食べたい気持ちでレシピを調べ続けている。 お昼休みに菜園に行くと、ズッキーニとナスの花が咲いていた。 帰りにスーパーへ行くと、長ナスがバラ売り1本50円。これは〜、と2本カゴに入れて、調味料を一から買おうとしたけれど、めんつゆの重さにくじけてしまい、その他(どのレシピも3〜4は調味料を使う。)は買えなかった。 久しぶりにアボカド以外の野菜を買った。 まな板もないので、ラップをキッチン台に敷く。 アク抜き中のナスが水にプカプカしていてかわいい。
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6月9日 時間ないな〜と思いながら、朝前髪を切った。 早く帰ってみりんとナスを買って煮浸しを今日も作りたいな〜と思いながら職場に居残りをした。 Aesopのハンドクリーム絞り出し選手権をしている。他の日用品(歯磨き粉やシャンプーなど)ではこんなことしたら疲れちゃうので、少しでも出なくなったら捨てているのに。
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6月10日 眼科と、受け取りたい荷物があるため3時間早く退勤。 大学生とか部活で遠征帰りのテニス部とかしかいない電車。駅前では血管年齢を測っていたり。 眼科でソフトコンタクトレンズを入れる練習をした。 前回担当してくれたお兄さんは、今日もペッパーくんみたいだった。 明日の服とcontaxのカメラのレンタルを、なんとか受け取ることができた。 みんな人の結婚式ってどんな気持ちでのぞむのでしょうか。 私は参加し終わった後の自分の感じを、いろいろ想像して、へっとりしてしまう。 届いたカメラの使い方をyoutubeで調べ、洋服をハンガーにかける。カメラは思っていたのと違ったけど、洋服はいい感じで、なんだかゆううつだった気持ちが少し上がった。けど、調子に乗ってはいけない。
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kkv-main · 8 years ago
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MAGAZINE - 2017.08.02
Letter To Red Runners
2017年夏、新体制となって初の音源をリリースし走り出したGEZAN。 同時代の仲間が彼らへの思いを綴った文章が集まりました。
2017/7/12 RELEASE
「GEZAN - Absolutely Imagination」 (7’ single + DL CODE)
⇒KiliKiliVilla OFFICIAL STORE
寄稿者
・安孫子真哉(KiliKiliVilla)
・加藤修平(NOT WONK)
・カベヤシュウト(odd eyes)
・川田晋也(CAR10/Suueat.)
・キャプテン・リョウスケ(THE GUAYS)
・ケイシオカダ(Suueat.)
・スパイダー山本(falls/PASTAFASTA)
・ハマジ(KK manga)
・林隆司(Killerpass)
・ヤブソン(SEVENTEEN AGAiN)
・山田みどり(the hatch)
※五十音順
安孫子真哉(KiliKiliVilla)
もう気絶しそうなくらい暑い夏の日。只々心を無にして仕事に励んでいるとマヒト君からAbsolutely ImaginationのMVが完成したとのメールに気づく。 すぐさま路地裏に駐車し6分間のビデオにダイヴ。もうあっという間に涙がもれた。圧倒的に躍動する4人組の物語。超バンドの夏。めっちゃカッコイイわー!すげー!しかしそんなシンプルに客観的に観れねー!色々あったもん。特にこの一年の���思えばそりゃ感慨深くもなるよ。 毎朝は同じ缶コーヒーで始まり一日は皿洗いで終わる。子供達の成長や自分の増えた白髪やシワの数でふと時の流れを知る。それとカッコイイ!や最高!のドキドキの瞬間のつみ重ねで創られるもう一つの自分だけの時間。どちらも自分にとって大切なもので、家族の笑い声はいつも愛おしく、また何かで疾走する人達は特別な力強さをくれる。音楽が好きだと思える自分はラッキーだ。心が素直に引き寄せられるような。そんな素っ裸の自分にたまには会いに行かないと多分壊れちゃう。 GEZANはそれに会わせてくれるんだ。 もう一年経ったね。真夜中マヒト君との電話で告げられたシャーク君の突如の脱退話。なんだか実感がわかない。でもバンドは続ける。でも正直これからどう出来るかは今は見えない。マヒト君はそう真摯に話してくれた。僕は、必ず良い形でまたやれる、だって間違えない信頼があるもの。なんて非常に無責任な事を言っていたと思う。でも本当に本気で思ってたんだ。続けるならば必ずまた凄いバンドの姿をみせてくれる人達だと只々信じてた。 すぐさま動き出した。メンバー募集のやり方も3人組NEVER END ROLLERSでのライヴもビデオダイアリーもあまりに伝わり過ぎる活動その全てにいちいち涙させられた。1000回絶望しても1001回立ち上がっていく。ロスカルが新ドラマーに任命された瞬間の壁パンチとイーグル君の飛びつきハグは稀代の名シーン。人間がおおいに生きている。バンドの魔力がまた始まる。 一年後の今こうやってまたGEZANとして帰ってきた。また一つイメージと想像力が勝ったね。本当に嬉しい。 どんな事があったとしても楽しい事をずっと期待していられる僕たちは心底おめでたい。まだまだ想像力で飛び越えてさせて。 しかし本当はこの文章もっと淡々と書きたかったな。GEZANの超音楽ジャンキーな生態やその鳴らす音楽的な魅力とか。でも結局彼らの事を考えて書いているとどうしてもこうなっちゃう。心の奥底にあるロマンチックなものを引きずり出す。やっぱりそういうバンドなんだろう。 安孫子真哉(KiliKiliVilla)
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加藤修平(NOT WONK)
「正直な自分とマヒトゥ・ザ・ピーポー、イーグル・タカ、カルロス・尾崎・サンタナ、石原ロスカル」 GEZANのことを考えるのに何回もAbsolutely Imaginationを聴いてみているけれども、説明をつけることができるような言葉はまるで思いつかない。 何かの説明のような音楽や詩はクソ以下だとはずっと思っているけれど、正直に言うとGEZANを聴いてもGEZANのことが全くわからない。 GEZANの音楽とマヒトゥ・ザ・ピーポー���言葉はそれを説明するつもりはサラサラ無いように感じるし、そんなことされても困るしな。ステージの上には圧倒的なものだけ乗っかっててほしいんだよな。 それでも、センサーが鈍ってない限り、透けて見えるものに大きく僕は揺さぶられてしまっているんだろうし、これからもそうなんだろうなと思う。でも正直なんかそういうのに揺さぶられちゃってる自分にムカつくんだよな。GEZANのライブを観たり、GEZANのことを考えたりすると変な気持ちになっちゃうんだよな。 キリキリヴィラの安孫子さんにGEZANについて書いてみてよーって軽く言われたけども、めちゃめちゃヘビーなテーマだよほんとに。変な気持ちになっちゃうんですよね。 元来���うなんですけど、隣の芝がいつでもキラキラに光って見えてて、それでも、んなわけねーべって無理矢理自分を鼓舞しまくって、うまく行ったりうまく行かなかったりの博打を繰り返しています。 強いものが好きだけど僕はきっと強い存在になれなかったんだろうな(書いてる現在死ぬほど気分が下がってるので後から撤回するかも)ー。 俺と関わったやつは全員ハッピーエンドにしてやるってJANUSの上でマヒトさんが言ってて、なんだそれと思った。絶対嘘じゃないと思ったし、こんなセリフ映画でも聞いたことねーと思った。マヒトさん頼りになるぜ、と思ったと同時に加藤青年は死ぬほど自分にムカついた。こんな惨めな気持ちはないなとも思った。 GEZAN一生ついていくぜってワードが頭の中によぎったのだけど死んでもそんなセリフ言いたくねー。死ぬまで張り合っていたい。 自分で思っている以上に僕は目立ちたがり屋で負けず嫌いでエゴイストなんだろうと思います。そして、そんな自分の前に現れた自分も他人も認めてしまうようなヒーローの出現に戸惑ってるのかな。自分でもあんまわかんないっす。でも消えていくヒーローなんてもう二度と現れてくれるなと強く思ってたから、わけわかんなくなってるっていうのが正直なところ。好きな女の子の好きな男がどうしようもなく自分も好きなやつだった経験ありますか?今思うとそれに近いです。 とにかくGEZANに出会ってから心はずっとぐちゃぐちゃで頭爆発しそうな感じ。俺にしかないものもあるけど俺からは何も見えないんだよな。誰も教えないでください、悩んだまま俺は踊り続けるんで~。 なんの纏まりもないけども、22歳の俺にGEZANがどのように作用しているかということが唯一の説明です。 俺は俺でしかないし、GEZANもGEZANでしかない。これがしっくり来るんだけど、これもGEZANが教えてくれたから頭に来るんだよな。俺だって!!!クソ!!!!寝る!!!悔しい!!!GEZAN好きです!!ムカつく!!かっこいいから好きだ!寝る!!!全然素直になれない! 加藤修平(NOT WONK)
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カベヤシュウト(odd eyes)
自分たちの言葉、知性、身体についてよく知っている人達。 まず最初に思いついた印象。 彼らだけのルールがあって、外からは理解する必要もなければ出来る訳がない、その不可視の方法に��って動いていて、どうすれば魅せれるか、カッコいいかについての思考、行動を一切緩めずに進んでいる。 跳ねる汗、何層も重く巻き上がる雲、吐き出された死骸、湧き上がる速さ、笑っている、怒っている、泣いている感覚。 10歳でも分かるような輝き、例えば夕日の美しさとかそういう言葉にしなければいけないけれど、陳腐だと笑い飛ばしてしまえるようなものをハッキリと真っ直ぐに歌うところが独特のサークルを生んでいる気がする。 僕がどう思ってるかを言うべきなのかを迷ってる。 まあ大体好きじゃないよ。嫌な奴等ばかりだしさ。腐ってる。人が怒ってるのを笑う奴等に飽き飽きしてる。で、マヒトは抱きしめるとかそういう言い回しも平気で使うじゃない。あれ、すごい。恥ずかしいとか超えたところにいかないといけないなって思う。 恥ずかしいことはなんてかっこいいんだろう。 恥ずかしさなんていうのは奴隷の鎖でしょ。 恥ずかしいとかおかしいとか決めることじゃないからね。他人を無闇に笑うのをやめなよ。まだそう信じよう。冷笑を吹き飛ばす清々しさに吹っ飛ばされたくて、GEZANを聞くんでしょう?どこかにいる君もあなたも。イラつくね。 カベヤシュウト(odd eyes)
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川田晋也(CAR10/Suueat.)
ゲザンっていうバンド知ってる? ってもう何年も前かもわからないくらい前にケイシから言われて、1本の動画を教えてもらった。 その動画をみたら、自分は凄まじくショックを受けたのを覚えてる。あーあこんなすげーやついるんだ日本に。敵わなすぎるオワタ\(^o^)/って思った。 それは道頓堀の橋の上だったかな?でGEZANのメンバー含めた仲間達でパフォーマンスしている動画で、とにかく桁違いのエネルギーが彼らにはあった。 ホームページからマヒト君のブログ見付けて読んでたりしたなー。 それが一方的な出会いだと思う。 それから彼等のアメリカツアーの動画にまたまたショックを受けたりしながら、GEZANというバンドのファンになっていた。 いつか仲良くなれたら良いなーって思っていたけど、絶対に相手にしてもらえないなーって自分は思っていた。 けど、あれは2014年の早稲田のライブだったかな?たまたま他の出演者を見に来ていたマヒト君が自分達のライブをみてくれた。 あのときは本当に嬉しかったなー。ライブが終わってすぐにフロアにあがってきてマヒト君は『ダイナソージュニア感じたわ!』って言ってきてくれて凄くテンションあがったのを覚えてる。 それから自分達はたった3年とは思えないくらいの関係を光のように駆け抜けて築き上げてきた。いや、これはカッコつけ過ぎたかもしれない。 けど、吉祥寺のライブハウスのトイレの中での『一生遊ぶぞ!五万回遊ぶ!』って言葉だったり、全感覚祭は確かに自分達の間のリアルだ。 思い出は他にも腐るほどあるけど、現時点で長くなりすぎてる気がするから、ちょっと書かない��ど、気付いたら自分達はとんでもなく強力な仲間になってたんじゃない?って話。 もしGEZANや自分達がつくりだしてる時間に、昔自分が感じたようにショックを受けてる人がいたら、その人とはわかりあえる気がするから、早く会ってみたいな。 GEZANと関わり始めた前後から、安孫子さん、THE GUAYS、JAPPERS、すばらしか、と自分の中で大事な何かがやっとまわり始めた気がしてる。 まだまだこっからっぽくない? そして今回も新しい音源をありがとうGEZAN。愛してるGEZAN。これからもよろしくGEZAN。 川田晋也(CAR10/Suueat.)
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キャプテン・リョウスケ(THE GUAYS)
GEZANと俺たち グアイズのスタジオ中、電話が鳴る。安孫子さんからの電話だった。 良い気持ちで音を鳴らしたスタジオだったので、いつもより少しだけ上ずった声で話す。 内容は新体制で7inchをリリースするGEZANに対するありったけ思いをぶちまけてくれとのことだった。 嬉しかった。 阿佐ヶ谷からの帰り道、自転車を漕ぎながら頭の中でGEZANのAbusolutely Imaginationが流れはじめる。初めて聞いた全感覚祭の時から大好きな曲だった。同時に沢山の彼らと過ごした今までの日々が走馬灯のように全身の血流にのって流れはじめたんだ。涙が流れそうにもなった。 こんな機会はそうそうないし、一つの友達のバンドについて、こんなにも考えたことがないので、ラブレターみたいになってしまうかもしれない。気持ち悪がらないでくれよな。 お互いのバンド同士、結成から知っていて、今までこうやって音を鳴らし続け、同じバンドでステージに立ち続けるってこと、それは何かの縁なのかもしれない。 時間にするとたった8年くらい。それでも小学校1年生から中学2年までと考えると凄まじい。それぐらい多感な時間だった。それはもちろん今も続いている。 そして、いつも全力で何をやるにも渾身のフルスイングをかます彼らにとってはフルスイングの反動は大きく、想像もつかないほど悔しいことも嬉しいこともあっただろうと思う。 昨年ドラマーのシャークが脱退。どちらが前かわからなくても進もう動こうとするGEZANの姿は、苦しいながらもメンバー自身がまだGEZANを音楽を信じているように見えた。またやるんだって、やりたいんだって。 そして、石原ロスカルが加入。ピカピカのドッカドカのビートを乗せた新体制のGEZANが勢いよく前にスタートした。本当に良かった。あの時の皆の晴れた顔と、また音楽を作っていく嬉しい悩みは本当にこちらまで元気にさせた。すごい強力なポジティブなエネルギーだ。忘れられないよ。 俺たちはこの日を本当に待っていたんだ。面倒くさいぐらいかっこいいバンドが帰ってきた。 こんなにTHE バンドというバンドはそうそういないと思うし、彼らは映画の中に生きているかのように、ドラマになってしまう。 そして、新体制で迎えた今年2017年1月8日 FEVERでのKiliKiliVillaとの約束の一枚が果たされた。新体制で作った1曲目がレコードされた。 7inchに刻まれた一本一本の傷は彼らが今まで味わった血と汗と涙がしみ込んでいると思う。そこから流れる音楽��、これからも音楽で人の心に深い深い溝を刻んでいくんだろう。まだまだ針は折れない。まだまだ、止まれない。 希望とその先の曲。 俺たちはなぜだかそんなGEZANを近くに見てきた。くされ縁なのかもしれない。でも同じ時代にこうやって音楽をやっていることは奇跡と呼んでいいはずだ。 俺たちも音楽を好きな限り、彼らとは会い続けるだろう。 本当にリリースおめでとう。そして、最高の音楽をありがとう。 行こう! キャプテン・リョウスケ(THE GUAYS)
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ケイシオカダ(Suueat.)
gezanに初めて出会ったのは確か10代の時だった。 学校を辞めて、まともに働くこともなく初めて組んだ幼馴染とのバンドを永遠にできると思っていたのにもうついて行けないと言われる少し前の頃だった。 gezanの存在は僕にとってそのへんの有名なバンドなんかよりも圧倒的に輝いていて、見つけた時は思いっきりぶん殴られた気分だった。悔しいという感情じゃなく本当に心の底からカッコいいと思ったし、ぶん殴られたことがなによりとても嬉しかった。 それから少しして僕のバンドは終わった。僕の中でなにもかも終わったような気分になってしょうがなくクソみたいな工場で朝から晩まで働いた。 まあその仕事もすぐに辞めたけど、こうやって大人になっていくんだなとしみじみ思って徐々に酒に溺れ始めたりしていた。 それくらいの時に自分の叔父が飲み屋をやらせてくれることになり、これでバンドはもう諦めて細々と少ない稼ぎでもなるべく好きなことをして暮らしていこうと腹をくくったつもりだった。 それから少ししてcar10がアルバムを出してgezanと仲良くなり出していた。それは正直とても嬉しかったけど同時に悔しかった。 僕は指を咥えて携帯の画面を眺めるしか出来なかった。僕の心のモヤモヤは次第に大きくなって、ガラガラの飲み屋街を毎日眺めるだけの日々も続き、本当にやりたいことはなんなのか考えた。 気づいたら真剣に仕事も出来なくなっていて別に全然好きじゃないミスチルがラジオから流れてきてよくわからないけど泣いた夜もあった。 そんなこともあってお店を辞めようと決意したんだけど、お店を辞めた週には曲を作り始めていた。それをすぐさまサウンドクラウドにあげた。 椎名さんの家で3分で作ったような曲だったのに川田は褒めてくれて何もない僕をまたバンドに誘ってくれた。めちゃくちゃ嬉しかった。 そんなこんなでsuueat.を結成して少し経った頃gezanが初めて足利にライブしに来た。 それは僕が見にいった人生のベストライブだった。僕はまた思いっきりぶん殴られた気分になった。 確かそれを僕はgezanのメンバーに伝えたら、こうやって遊んでればまた必ず会えるぜ的なことを言われた。それを信じていたらいつのまにか一緒に遊んだりしていた。 そして今年はgezanが僕の町に来る。 今年は絶対最高な夏になるんだ! ケイシオカダ(Suueat.)
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スパイダー山本(falls/PASTAFASTA)
僕は当時とあるリハーサルスタジオで働いていた。 その当時の店舗のシステムとしては、当日の最後のバンド練習が終わったらその時間が閉店時間になる、といったもので。 僕の家からそのスタジオは三駅程なので、電車で��かう事が多かった。なので当日に深夜の予約が入ると終電を逃す事も多く、自分としては漫画喫茶で漫画を読むのも好きなので、「漫画喫茶に行く口実が出来る!」とテンションも上がっていたのだが、その時は同棲していた彼女からの怒りの連絡も来るので、当日閉店時間が伸びる事には、喜びと同時に多少の胃の痛みも付き纏っていた。 6年程前だろうか。 その日も同じ様に遅番で出勤すると、早番の先輩から当日入会のお客さんの予約が入り、閉店時間が伸びた旨を聞く。時間は深夜の12:30~早朝の4:30。 「終わった。また今日もキレられる。」 そう思い、悲しみに暮れたまま深夜まで働いた。 「そろそろそのお客さんも来るかな??」 時間も深夜12:15くらいになり、空き缶や吸い殻なども割と落ちていたので、一度店頭の清掃をしようと店の外に出てみたところだった。 遠くから異形の雰囲気を醸し出している4人が、猛スピードの自転車4台でこちらの方向に向かって来るのが見えた。 「こいつらだったら嫌だな」 そう思って清掃を切り上げ、一度店の中に戻ってみた。 来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな と頭の中で呪文を唱えてみたものの、その呪文は全くもって効果が無かった様で、 「おはようございまーーーーす!!!」 と勢い良く、背の���いロングヘアーの元気の良い少年が、お店の入り口のドアを開けた。 やっぱあいつらだった。終わった。完全に終わった。なんでそんなに元気なんだ。こんな時間になんなんだ。今日は最低だ。心の底からそう思った。 そのスタジオは最初にお会計をするシステムなのだが、領収証の有無ももちろん聞かなくてはいけない。 そして渡す領収証の宛名を聞いたところ、こんな回答が返ってきた。 「下山で。」 これが僕と彼らの出会い。言うなれば個人的には最悪の出会いだった。 だがその出会いからの印象は、早々に消え失せる事に。 その出会いから数ヶ月も経ってないくらいの頃、仕事中聞きたいBGMのアイディアもその日は底をつき、何か無いかな~と空き時間にiphoneでTwitterを見ていたところ、リツイートでJOJO広重さんのツイートが僕のタイムラインまで回ってきた。 youtubeのURLが貼ってあった事と、文章から読み取るに、それがGEZANのMVである事が見てとれた。その文章は非常に印象的な内容の文章で、こんなMV見たら若い人達はバンドをやりたくなるだろうといった内容の文章だったと思う。 そこまで言われてしまうと、いくらこいつらなんなんだ!と思っている奴らだったとしても、観てみよう。とならざるを得ない。また、JOJO広重さんにそこまでの事を言わせている内容、というところでも非常に気になり、ツイートを発見以降すぐに再生したのを覚えている。 それが「八月のメフィストと」のMVだった。 正直に言えば、最初はなるほどな~くらいで頭をぶん殴られる様な衝��では無かったが、尋常ではない中毒性があり、気付けば何度も何度もyoutubeで再生していた。そして気付けばGEZANの事が僕は大好きになっていた。 そのMVを見て以降は、逆にGEZANの予約が入っている事が嬉しくなっていた。 喋ってみればものすごく気さくな良い奴らだし、スタジオで何かを流してみれば「これは誰なんですか」と的中率ほぼ100%の確率で話しかけてくれ、そこから色々な音楽の話ができる事も最高に楽しかった。(休憩の時にロビーでかかってる音楽超大事。) そしてなによりも、あんなに良い曲達を今この時代にプレイしている奴らがこんなに近くにもいるって事はなんて嬉しい事なんだ、と心からそう思っていた。 そこからはもう彼らと仲良くなるうえでの壁は何も無くなり、(というか壁などは僕が勝手に作っていただけだとも思う。)彼らが作り出す楽曲達を心待ちにし、そして発表される度に感動をもらっていた。 今や九州で同じご飯を食べ、同じ所で寝て、そして同じ所でライブを出来るまでに仲良くなった。 イーグル・タカの 「おはようございまーーーーす!!!」 からの出だしの印象からは想像もつかない出来事だと思う。 こんな出会いが20代後半にあり、30を越えてから共にツアーをするなんて考えられない。だから音楽辞められないし、バンドってやっぱり最高やな、って思う。キャプテン。 以前、ご本人は覚えていらっしゃるか分からないのですが、安孫子さんとfeverのドリンクカウンターでお話しさせて頂いた時、「音楽シーンの様なものが変わるなら今しかない。今を逃せばまた10年以上遅れる。」という意見をおっしゃっていて、自分はそれを聞いて「ホント確かにそうだな~。」とただただ思いました。 今本当に群雄割拠の時代だと自分も思っており、ここ最近で、かつてこんなにぼこぼこぼこぼこバンドが出現する事なんてあったか!?と非常に思います。 それと同時に何かを変えるのなら、それはきっと、もう本当に大きな動きが全体で必要で、良いバンドが出てくるだけでは何も変わらないレベルになっているとも思います。 そんな中で、身の回りでは悩みながらも大きな事をしているのが僕にとってはGEZANであり、間違いなく群雄割拠の中でも先頭集団にいる動き方をしていると思っています。 言うまでもないかもしれませんが、これからの動きも絶対に注目ですし、間違いなく面白い事をやってのけてくれるだろうと信じています。 あの安孫子さんとの話から考えて、10年なんてきっとあっという間に経つ。 何も変えられないか、何かを変えられるのかどうかはもちろん自分達次第であり、僕らも攻めていこうと思っています。その僕の中で、色々ある中でもひたすら突っ走ってくれている「GEZAN」というバンドは、出会った頃から、今もこれからも、そして今後音楽をしていくうえでの、自分の原動力だなあと思うのです。 どうぞこれからもよろしく。マヒトくん、イーグル、カルロス、ロスカル。 シャークもまたね。 あの時僕が働いている時に、スタジオを予約してくれてありがとう。 スパイダー山本(falls/PASTAFASTA)
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ハマジ(KK manga)
今まで自分が観たGEZANのライブの中で強烈に印象に残ってるライブが3つある。 ・2010年4��� 難波ベアーズ 平日ガラガラのベアーズ、この日下山を初めて観た。とにかく瞬間に対する殺気と集中力がハンパ無くて、キレ過ぎでマヒトくんのギターが折れて(わざと叩き折ったとかじゃなく)一曲で終わった。「これは!なんか始まってる」と思って興奮した。 ライブ後マヒトくんが「電池無くした」みたいな事言ってステージの隅の奥で探してて「そんなとこには無いだろ」とはたから見てて思った記憶がある。この時はまだGEZANメンバーとは一言も話したことない。マヒトくんは上靴を履いていた。てかこの頃の下山のライブ衣装 P-FUNKチャンプロードて感じで格好良かったな。タカくんの丈の短いド派手な服、なにあれ、また着ないかな。 ・2013年8月 十三ファンダンゴ 踊ってばかりの国とのツアー グアイズも出てた。GEZANが東京行って一年ぐらい?の時期。かなりイケイケでMCで「サクッと世の中変えます」みたいな事を曇り無くスパーンと言ってて無敵感を纏ってた。いちいち発言が跳躍していた。生意気だなとか思ってた人もいたかもだけど、生意気なぐらいでいいと思う。陰気な感じが無ければ。チマチマした嫉み、羨望で毎回ケッとか思ってたら国が滅びますよ。 2017年も踊ってばかりとのツアーで8月ファンダンゴある。絶対観に行く。 ・2015年11月 全感覚祭 2日目トリ、いろんな物を背負って文句無しのライブしてた。GEZAN大好き!みたいな人以外の心も掴んでた気がしてグッときた。初めてこれならスタジアムみたいな所でやってもいけるんじゃないかなと思ったライブ。 3つとか言ったけど2011年9月 旧心斎橋クアトロのベアリズムコンピのレコ発の時も印象残ってる。6分入りの客、ゴタゴタの時の二極に分かれた空気、最後山本精一さんが挨拶した後叩きつけたマイク、ドラマがあってなかなか無い感じの日だった。 関係無いけど旧心斎橋クアトロの立地結構好きだったな、地下より高層階にあるライブハウス、クラブの方がなんか上がる気がする。 GEZANはずっとなんか仕掛けてるし、これだけの熱量とスピードでやり続けてるバンド今他にないからそれだけでもチェックする理由に十分なるんじゃないでしょうか?友達だから言ってるわけじゃなく。ただの正論デカい声で言ってるだけでは知り得ない感覚は確実にある。 これ書いてる途中に思ったけど、今本当に才能があってイケてる人ほど中高生にも響く表現をした方がいい気がしてきたな。その方が全体がおもしろくなる気がする。どうでしょうか??? まとめ方が分からないんで、これも途中で思い付いたけど入れるとこなかった一節 「GEZANはずっと走り続けている、走り続けてるからマヒトくんは、痩せている」 ハマジ(KK manga)
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林隆司(Killerpass)
2日酔いで気怠い仕事の休憩中。 携帯を開くと1通のメールが入っていた。 「クズでクソなバンドばっか集���たイベントをやるから、出てもらえないか?」 こんな様な内容だったと思う。 今や夏の風物詩的イベント、セミファイナルジャンキーのオファーメールだった。 これが僕とマヒトくんとのファースト・コンタクトである。 …正直、ふざけるなと思った。 確かに散々下手糞(×3万回)と言われ、生ゴミだかなんだかわからないライブをひたすら繰り返してきていたけど、そこら辺のローカルな大仏より温厚ですねと定評のこの仏の林をもってしても。 メールをみた 瞬間、血圧がグググンと250を裕に超えて、全身がゆでダコか!!と思う程真っ赤になった感覚を忘れない。 多少話しを盛ったが、なんて失礼なやつなんだと本気で憤慨した。 百歩譲って知っている人なら分かるが、クズとかクソとか知らない人に送るメールなのか? あるいはマヒトくんがあらゆる現代のサイバーテクニックを駆使して私がドMという事を99%確定させ、毎晩寝る前僕の事を想い妄想を100万回繰り返し、クズでクソなライブシーンやココイチで過剰に福神漬けを入れる事、お風呂は41℃等の事実まで見透かしてしまい、もはや林よりも林を知る男、それこそがマヒトゥー・ザ・ハヤシピーポー。とまで言われる位の男になってしまっていたならば話は別だが。 も しあの時その状態だったらこの場を借りて釈明する。 すまない。 マヒトゥーサイドはさておき、その時点で僕はGEZANの事を正直ほぼ何も知らなかった。龍宮ナイトのわかめさんと仲の良いバンド位の認識しか無くて、音も聴いた事が無く大阪出身だったので、関西ゼロ世代的なひねくれているバンドといったパブリック・イメージをぼんやり描いていた程度だった。 こういう無礼をパンクとかって思ってる痛いやつらなんだな、まあ今後交わる事も無いだろうし自分が折れとけばいいや。 そう思い怒りを覚えた旨を伝え、その後数件メールをやり取りし、単純にスケジュールが合わなかったのでライブも出られずこの件は終了した。 史上最悪なライブオファー第一位として輝かしく自分の心に君臨していた為GEZAN並びにマヒトゥー殿を忘れる事は無かったが、正直笑い話になりかけていた半年後位に、MILKのヘルプメンバーとして下北沢でライブした時の事だ。 「俺マヒトっす」 長髪の真っ赤な男が私の前に立ちはだかった。 いきなりの事でびっくりして目を合わす事が、出来なかった(普段から出来ない)。 その後オファーの件の謝罪、クズやクソは共通言語だと思っていた旨等を紳士に伝えてくれた。 びっくりした。 正直、GEZANの様な知名度のあるバンドからしたら、僕らなんかメール通りクズで鼻くそ位の存在にしか思ってないんだろうなと思っていたのでわざわざ 半年前の���マクロ程のちっちゃな石つぶての様な出来事へ、かつ僕みたいなうんこを顔に塗りたくった様なしょうもないやつに謝罪なんて。 その時に、僕は思った。 「まあまあ、エエ奴なんちゃうん?」 それでも特に関わりはないかなと思っていたというかそれ以降普通に関わる事なく、人生が交差する事なく、お互いの人生を歩んでいた。 けれどその1年後位にMEAN JEANS,GUAYSとの「胸ジンツアー」の名古屋場所、松尾芭蕉に誘ってくれて出演した。(ちなみにこの時のオファーはマヒトくんでは無くカルロスさんだった。非常にキッチリとした気持ちのいいオファーで、心の割と浅いとこに潜むワル林が揚げ足を取る事は不可能だった…) 僕はこの時に初めてGEZANを目撃した。 ライブがはじまって序盤でまず、素直に驚いた。 僕の勝手なイメージであったごちゃっとしててひねくれた様な難解な音像では無く、複雑で重たさはあるけれど決して難しくなりすぎず、ギターリフの気持ちを良さを生かしたグルーヴィーなロックンロールに痺れた。 そしてど真ん中にある唄。それはあまりにもキャッチ―だった。 おいおいこんなの、聞いてないよ。まるで大学生が彼女にサプライズで誕生日をお祝いされてる気分だよ。 微妙過ぎる例えはさておき、ライブが進むにつれそういった音楽微妙に詳しいと思ってるやつあるあるの、あんまり的を得てない評論以上に、ある所に集中している事に気付く。 それは、マヒトくんの「目」だった。 それがどこを見ているのか。お客さんなのか、特定の誰かなのか、音の向こう側なのか、未来なのか、はたまた自分自身なのか。 おぼろげでいてどこか寂しそうだけれど、物凄く力強い。 そんな目をして常に一点を見つめ唄うマヒトくんに釘付けだった。 その後前ドラムの方の脱退ツアー、NEVER END ROLLERSとして出演したKiliKiliVilla新年会、Fallin'downツアーとGEZANをみたが、毎回毎回バンドとしての強度をガンガン更新していて、そのチームとしてのたくましさに圧倒されるし、音源ではBlue Hourというガチアンセムに涙腺が緩んだ。 あんな最悪な印象だったバンドなのに、今じゃ一挙手一投足をイチイチ追ってしまう位目が離せない存在になってしまった。差別は心の中から創られるなんて唄ってる自分を恥じるよ。まあそういうのを少しづつ無くしていけたらと思って唄っているんだけど。 そんな自分の事はウルトラどうでもいいですが、こうやってGEZANに触れてきて、なんとなく分かった事があるよ。 僕の勘違いでも構わない。 マヒトくんの目はきっと「今」の一点をひたすらみつめて、もがいてるんだな。 だからあんなに美しいんだ。 きっとこういう人が、何かを変えるんだろう。 何かが明確な何、なんてのは 分かんないけど、とにかく何かなんだ。 すっかり���を虜にしてしまったGEZANの、「今」から紡いでいくイマ���ネーションの続きを、同じ時代に生きて観られる事を幸せに思います。 何かが変わる瞬間の証人に、僕もなるよ。 クズでクソなマヒトくんへ 林隆司(Killerpass)
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ヤブソン(SEVENTEEN AGAiN)
思い返してみると、安孫子さんに「藪くんとマヒト君はすごい似てるよなぁー」っと言われてからもう2年位経った気がする。 えっ、似てる?っと、当時の俺も、きっと同じ事を言われていたとしたらマヒトくんも、そして私とマヒトくん双方を知ってる人は誰もが思うだろうなぁ、っと思った。 それから幾らか時間が経って、SEVENTEEN AGAiNもGEZANも同じ様な経験を経て、同じ日に新しい音源を発売した。 absolutely imaginationの歌詞を初めて聴いた時、とても嬉しい気持ちになった。 どこの歌詞を切り取っても、自分自身と重ねてしまうし、少数の脅威という言葉が歌詞の中にある事ももちろんで、全てが今の自分にとって本当に特別な曲だった。 でも、この曲を聴いて何より嬉しかったことは、マヒトくんがどんな人に向かって歌っているのかが、とても鮮明に映し出されている事だった。 きっと、うまれくるべきコたちに、と、俺はしってる全員ロンリー、は勘違いだとしてそんなに遠くない親戚の様な言葉な気がした。 見ている、見据えている景色も、服装も、髪型も、使っている言葉もどれも違うけど、それだけできっと充分だよなぁ。って思う。 でも単純に。リンダリンダの向こう見に行きたいなぁ、GEZANと。 ヤブソン(SEVENTEEN AGAiN)
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山田みどり(the hatch)
GEZANは最高のバンド🙌 きっとこれを読む人の十中八九がそのことを理解した上でkilikilivillaのwebサイトにご機嫌な顔で トランスミッションしてきていると思うし、きっと音楽的なことは僕よりも語彙力のある人が別のページで書いてくれると思うので臆面もなく自分の思い出話でも書いちゃいます。 GEZANと初めて会ったのは確か、4年前の冬頃札幌に初めて彼らが来たとき自分がバンドをやり始めて一年ほど経った頃で、その年の夏にたまたま買ったマヒトゥ・ザ・ピーポー の「沈黙の次に美しい日々」を摩擦で金玉が弾け飛ぶくらい聴いていたので、ゴリゴリのゴリクソにファンでした(爆汗) ライブを見に行き、その後話せたのが嬉しくてそのまま勝手に打ち上げに乱入、なんか音楽の話をあーだこーだ話して、ちんちん出して雪山に突っ込んでさよならした。 たったそれだけだったのに、それから数ヶ月してマヒトからKKmangaのレコ発に出ないかと連絡がきた。 しかも ”お前がやってるバンドで、いい感じのやつで出てよ”って。 見たこともないバンドを企画に呼んじゃうんだから全然意味わかんなかったけど、すごく嬉しくて、興奮のあまり摩擦で弾けそうになった金玉を必死に押さえ込み、片手でウィンドミルをキメ、ギリギリの体制でOKの返事をした。 まあ結果としてハッチの初遠征は、トラウマ級のクソダサいライブをやらかしてしまい、ライブ後にマヒトから「今日は5000の勝ちだな。でも絶対やめんなよ、つづけろ」的な叱責をくらってやめるわけねーだろと、すごくイラっとした。というかなんか言い返した気もする、、 だけどそれからしばらくして、案外ハッチの解散を悩むことがあって、その度にマヒトの言葉と、栗山千明張りのあの鋭い眼光が頭をよぎりなんだか悔しくて続けてるうち、気がつけば結構やりたいことをやれているので何が起きるか続けないとわからないものよね。 まあそんな感じでよくよく思い返せば、東京遠征半分以上がGEZANに呼んでもらっている 彼らが企画するライブは毎回好きなものだけを集めて混沌とした会場に素直さと愛を感じさせてくれ、いつも感心してしまう。 きっとただ何がカッコよくて何がカッコわるいかってことに正直に行動してるだけなんだろうけど、いざ当事者になれば案外邪魔になるものが多くて思うようにいかないし、何よりとても勇気がいることだからこそそれを悠々とやってしまうGEZANという存在は本当に眩しくてかっこいい。 今でもなんで話しただけで呼んでくれて、ダサいライブした後も懲りずに呼んでくれたのかは不思議でたまらない。 でもそのおかげで今のハッチがあり、今の大切な沢山の友達がいて、これから起きるであろう楽しい出来事があるのは間違いないよね。 きっとこれは自分だけの話だけじゃなくて、ただのお友達バンドから受けるものとは違う、もっとを核心を突くようなビッグでラヴいものをGEZANからもらっているバンドが、彼らが意図してなくてもそう感じてる人が沢山いるのだと思う。 そんなことを勝手に思って勝手に感銘を受けちゃったりして金玉が弾け飛びそうな午前3時、BGMはWarrantのHeaven。 つまり何が言いたいかというと GEZANは最高のバンド🙌 山田みどり(the hatch)
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7 notes · View notes
raccoondogsteakettle27 · 8 years ago
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carrying space #02 レポート
carrying space #02レポート
  carrying space #02
http://raccoondogsteakettle27.tumblr.com/post/164882775542/carrying-space-02#164882775542
  1.
  9/21
  成田で刺身を食べ、ビールを飲んだ。87番ゲートで、ロシア人男性に話しかけられた。ぼくはロシア語を話せないので、英語でのやりとりを試みた。すると、彼の表情は徐々に曇っていった。中年でスキンヘッド、背たけはロシア人の平均身長からしたら、あまり高くはない。澄みきったスカイブルーの瞳をしている。彼は仕事で日本に来ていたと言う。茨城に滞在していたようだ。これから母国に帰るとのこと。15:40の便で、ウラジオストクへ飛んだ。飛行機の造りは荒くみえ、ところどころ汚れが目立っていた。
  ウラジオストク国際空港。ATMで現金がおろせなかった。出立前に少し調べたところ、ATMでのキャッシングが、最も低いレートで現金を手に入れることができるらしい。だから、事前に換金しなかった。ATMから現金が引きおろせないのが、時間帯の問題なのか、カード自体の問題なのかは、わからない。空港の換金所も閉まってしまい、もう使うことができない。マニラでは遅くまで換金することができた。当然だが場所によって運営形態は異なるのだろう。
どうしようもない。朝まで待たなければならない。「サハリン島」を読み、メモを書くことにする。それで時間をやり過ごすしかない。明日、ユジノサハリンスクに到着したら、カード会社に問い合わせてみることにする。それでだめなら、まず手持ちの4000円を換金し、次の手を打つべきだろう。まったく、やってしまった。こんなことなら、多少レートがあがったとしても、成田で現金をおろし、換金しておくべきだった。ぼくがATM操作にあたふたしていると、ロシア人男性が英語で操作方法を教えてくれた。実践してみたけれども、だめだった。
  ロシア美女の美しさ。けして触れてはならない存在のように思えてならない。
  空港にたむろする様々な民族が、世界の狭さを表している。
  飛行機の窓から外をみると、下の方に雲がみえた。その雲と地上の、どちらがどちらかわからず曖昧蒙古としている。遠くをみると地上と空が溶けている。
  9/22
  サハリン、ユジノサハリンスク空港。日本よりは気温が低いが、思ったほどではない。空港近辺には英語表記が全くなく、茫然としていた。困っていた。ATMもなく、換金所もない。しばらくうろうろしていると、バスの停留所らしきところがみえた。バスの運転手に駅まで行きたいと英語で伝えたが、通じない。もうひとつのバスの運転手もだめだった。立ち尽くしていた。途方に暮れていた。すると、後ろから英語で声をかけられた。現地のロシア人青年だった。最初タクシーの運転手かと疑ったが、どうやら違うらしい。マニラでの苦い経験を思い出した。いくつかのことを話し、何に困っているかを伝える。彼は、ひとまずバスで市内へ向かおう、とぼくの分の運賃も払って、バスに乗せてくれた。
  バスの窓の外には閑静な住宅が並んでいる。建物は洋風なつくりだが、赤、青、緑、黄などの原色に近い色合いで塗装され、ミニマルな構造。ロシア構成主義を思わせる。
彼の名前はセルゲイで、大学で英語の講師をしている。自分の大学の同僚に日本語を話せるひとがいるから、と電話をかけてくれた。電話のむこうは、日本語が堪能な、現地人女性だった。ぼくは彼女に日本語で要件を伝え、電話を彼にかわる。彼はぼくの要件を彼女から聞き、電話を切った。
  メインストリート、レーニン通りも、建物に統一感があり、色彩がカラフルだった。ミニマルで、統一感のある空間は嫌いではないが、街全体にその光景が繰り返されると、やや重たい印象をもってしまう。銀行にいったが、キャッシングできなかった。限度額を超えているのだろうか。その後、いくつかのアプローチを試みてみたはものの、状況はうんともすんともいわない。君は疲れているようにみえる、とセルゲイはぼくを気遣い、タバコを吸わせ、水を買い与えてくれた。朝食もごちそうになった。駅前のファストフード店に入った。店ではロシアの最近の音楽がかかり、ハンバ��ガーがそろっていた。ロシア少女が、音楽にからだを揺らし、注文の対応をする。そばかすに、はにかんだ表情が素敵だった。窓辺の席にすわる。セルゲイはロシアの最近のポップミュージックが好きではないらしかった。窓越しの空には異様な数の燕が飛び交っていた。
ホステルに向かった。住所は把握していたものの、建物の外見は知らなかった。所在地付近に着いたが、これといってホステルらしき建物は見当たらない。セルゲイは一緒にホステルを探してくれた。周囲で工事をしている男性や、通りがかった人たちに場所をたずねたところ、ホステルは、立ち並ぶ巨大ぼろアパートのうちのひとつのなかにあるらしかった。
  工事中のぼろアパートの玄関には、パスワード入力式のセキュリティがかかっていた。セルゲイはインターフォンでおそらく管理人であろう人物に連絡をとり、パスワードを入力する。ロックが解除され、中に入った。階段は歪み、高さはまちまちで、��きどきつまずきそうになる。何度か違う階の部屋をノックしてしまったが、そのたびに部屋の住民にホステルの場所を聞き、なんとか3階のホステルらしき部屋の前にたどり着いた。
ノックをするとドアは開き、隙間からこわもてのロシア人男性が怪訝な表情をのぞかせた。彼はホステルのスタッフで、ホステルはここで間違いないようだった。中に入ると、セルゲイがスタッフに事情を伝えはじめる。おそらく、ぼくに現金がないこと、このホステルに予約してあることなどを伝え、ひとまず荷物をおかせてくれないか、と頼んでくれたのだろう。このホステルの宿泊代は一週間で約7000円と安いが、カードで支払うことはできない。セルゲイとこわもてのスタッフの交渉中、ぼくは申し訳なさそうな、困ったような、けれども予約はしてあるのだから冷静な、といった微妙な顔を演出し、じっと二人のやりとりをみていた。なるべく疑われないような態度を示す必要があると感じ、それを模索していた。最初首を横に振っていたスタッフだったが、セルゲイが何度も頼んでくれたからか、交渉がまとまったようだった。セルゲイが言うに、今夜は泊めるが、明日までに宿代を払ってくれ、とのことだった。セルゲイは、心配だから、お金を手に入れることができたら連絡するように、また何か困ったことがあったら連絡してくれ、と言って去っていった。こわもてのスタッフは、人差し指でぼくをこまねき、ホステルの中を案内した。
  カードについて調べたところ、海外でのキャッシング手続きをしていなかったため、キャッシングできなかったことがわかったし、そのため何度カードを出し入れしてもキャッシングできなかったことがわかった。キャッシングするための手続きは審査のために最低でも約一週間かかるわけだが、一週間後には旅程の終盤なので、キャッシングできるようになった時には、キャッシングする必要がなくなっている。そして今キャッシングできなければ、その時までここに滞在することはできない。ということは今キャッシングできなければ意味がないということだ。つまり、今回キャッシングで現金を得ることはないということだ。
  日本とは時差が2時間ある。まだ感覚が合わない。今日、ある日本料理屋にいった。観光客むけの内装とメニュー。その店の日本人オーナー��話しをすることができた。オーナーのM氏と少し会話し、アルバイトで一週間雇ってくれないか、と頼んでみた。キャッシングできない以上、なんとか現金をつくる必要があった。せっかくだし、ロシアの仕事を体験してみてもよいだろう、というやけっぱちな思惑もあった。けれども、それはだめだと言われた。ロシアでは人を雇うのに、いくつもの書類と審査が必要なのだ。ましてやMさんはユジノサハリンスクの市民として、ある重要な役割を担っていた。もし、その審査なしに人を雇ったことが行政にばれたら、まずいことになる。彼はぼくみたいな形でアルバイトをしたいという人は初めてだと言った。また彼は、ぼくのとんちんかんな懇願に、いかにロシアが知られていないか、と言った。
  Mさんは、札幌で育ち、ホテルを二つ経営している父のあとを継いでいた。たまたま旅行でソ連にいくことになった彼は、ハバロフスクで当時のソ連人が日本人墓地を綺麗に保ち、礼儀正しく振る舞う姿を目にし、そのことを印象的に覚えていた。その時にまたソ連に来たいと思ったようだ。1983年くらいのこと。
数年後、彼は稚内からフェリーでサハリンの港町コルサコフにむかった。コルサコフのとあるパーティで、当時のKGBの大物と出会い、サハリンのホテルの経営をもちかけられるが、適当にあしらう。しかし、その後、KGB職員のはからいで、何度もサハリンにくることになり、結局その年の正月はサハリンで過ごすことになった。そのままホテル経営の一端を任されるようになったが、ソ連崩壊と同時に、当時のクセのある女オーナーにクビを切られ、路頭に迷う。契約書類を巧妙に偽造され、借金を負うことになった。タクシー運転手などをして食いつないでいたところ、ホテル経営時代の仲間からの支援を受け、今の店をはじめることになった。けれども、当初はただ次から次へと金をつぎ込むだけで、店は火の車だった。数年前やっとのことで軌道にのった。近年の子供のワクチンの支援や音楽などの文化活動の功績が認められ、現在は、市民としてある重要な立場を担っている。
ロシアでは、一年契約で、職の管理が徹底している。労働手帳があり、そこに経歴が記載される。だからアルバイトでも簡単に雇うことができない。もし行政に黙ってアルバイトをしたとしても、ぼくが入ることによって誰かの仕事なくなる。仕事を奪われたそのひとは、きっと行政に報告するだろう、とのこと。ロシアで、急にアルバイトを雇うことは難しいと言う。
労働手帳は、辞める理由も明記しなければならないため、従業員の経営者への態度は、丁寧なものにならざるをえないようだ。失敗しても頭をさげ、クビにならないように謝る。退社の際には、円満に退社した旨を手帳に書くようにお願いする。そのために、金を出すこともあるそうだ。
サハリン人は大陸人より、日本人に敬意を払う、それは歴史を同じ場所で重ねてきた者同士の、あるいは外交のたまものである、と彼は言う。
���は最後に、領事館に問い合わせてみるべきだ、とアドバイスをくれた。また本当に困ったら、日曜日にこの店に訪ねるように、と言った。
  9/23
  海外送金会社を頼ることにした。両親にそのことを連絡し、ウェスタンユニオンの手続きをしてほしい旨をメールで伝え、お願いした。午前中、母から連絡が来なかったので、ホステルで待機することにした。12時すぎにホステルのスタッフにもう一度現状を説明し、月曜日まで支払いを待ってくれるように頼んだ。主に、Google翻訳を使って会話した。彼は、大柄の無愛想な30代中ごろで、無骨で頑強な印象をぼくに与えた。元軍人にもみえなくない。
結局のところ、銀行で換金した現金から今日までの宿泊代を払い、残金は、800ルーブル。空腹が耐え難かったので、街にでて、食事をとることにした。しかしガイドブックを忘れたため、いこうとしていたロシア料理屋にいくことができなかった。仕方がないので、駅まで歩き、昨日のファストフード店に入り、ハンバーガーのセットを注文した。支払いはクレジットカード。キャッシングはできないけれど、カード払いはまだ可能だった。
その後、チェーホフ記念文学館、サハリン州立美術館にむかった。入場料はとても安いので今の残金でも入ることができる。もちろん、のちの送金をあてにしていた。
チェーホフ記念文学館、表記がロシア語しかなく、文章を読むことができなかった。しかし、当時のチェーホフの様子、また流刑地時代の囚人の生活の一部は、蝋人形を用いた展示、写真などでうかがうことができた。実際使用された手枷や、生活用具などもおかれていた。
チェーホフ記念文学館とチェーホフ記念ドラマ劇場の周りは、美しい公園になっていて、チェーホフ作品に登場する人物たちの銅像がある。「犬を連れた奥さん」のアンナも。彼女の写真を撮った。
サハリン州立美術館は、日本統治時代の北海道拓殖銀行豊原支店を利用した、新古典主義的な建造物だった。一階で展示されていた現代作家の作品は、水彩の風景画と、花を用いたインスタレーション。二階にあがると、中世のイコン、1900年前後の移動派の絵画が展示されていた。
  移動派
ロシア初の独立芸術家団体。アレクサンドル2世治下の1870年に設立。63年にペテルブルグ美術アカデミーから追放されたI・クラムスコイら14人の学生が芸術家協同組合を結成。チェルヌイシェフスキーの社会主義思想の影響下で農奴制や資本主義を告発する作品を制作した。70年にモスクワとペテルブルグの進歩的芸術家が集まり移動派美術展協会を設立、ロシア美術の成果を国内各地で知らせる目的で71年11月にペテルブルグ美術アカデミーで展覧会を開催、1923年までにペテルブルグ、モスクワなどの諸都市で計48回の移動展を開催した。同時代の主要な画家の多くが参加した移動派は批判的リアリズムと呼ばれる写実主義の手法でロシアの民衆の歴史、風景、民俗学的題材を描き、批評家スターソフらの支持、庇護を受けた。1880年代に最大の評価を得て20世紀初めまでにロシアの主要美術学校の教職の大半を占めるに到り、1932年以降はソヴィエト社会主義リアリズムの先駆として権威化された。主要な作家としてクラムスコイの他にI・レーピン、V・スリコフ、V・ヴァスネツォフ、I・シーシキン、V・ペロフ、N・ゲー、V・マコフスキー、I・レヴィタン、V・セロフら。モスクワの実業家パーヴェル・トレチャコフは移動派の作品蒐集や移動派作家への著名文化人の肖像画発注を通じて支援を行ない、ロシアの歴史的絵画のコレクションと合わせてトレチャコフ美術館を創設した。日本では、近年、Bunkamuraザ・ミュージアムが国立トレチャコフ美術館の所蔵作品を集めた「忘れえぬロシア-リアリズムから印象主義へ」(2009)、「レーピン展」(2012)で移動派の活動の一端を紹介した。
(松本晴子 artscape)
  街を歩くと、いたるところで、工事をしている。サハリンの資源開発プロジェクトも進む中、経済的な発展も見越した整備なのだろう。特に目立つのが道路工事と、アパートメント、ビルディングなどの補修工事で、場所、地域にもよるかもしれないが、前者の現場で働くのは、アジア系、中国人、朝鮮人、パキスタン人など、あるいはその子孫たちが目立っているように思えた。ショッピングモール近くの露天商も同様。民族によって、職種がわかれてしまっている、ということも考えられるが、まだ判断するには情報量が少なすぎる。後者の現場では、ロシア人のいるところもあったし、前者においても必ずしもくっきりと人種によって分かれているわけではないかもしれない。
多くのロシア人は「汚いこと」はしたがらない、そんなことをMさんが言っていたことを思い出した。
王子製紙の工場跡地をみた。古びたマッチョな建物が広域にわたってそびえている。都市の碁盤目状の中心部は、古いアパートが立ち並び、各所に、日本統治時代の建造物が未だのこっている。場所によっては危ない雰囲気がある。大きな通りの周辺は綺麗に整備されている。おそらく早めに手をつけたのだろう。目立つところは、きれいに、というわけだ。一軒家や大きな住宅は、郊外や山沿いに並んでいるのをみた。そちらにいってみてもよいかもしれない。
  9/24
  昨夜、ホステルに泊まっているロシア人男性の一人に話しかけられた。コミュニケーションをとりたいようだった。英語は通じない。iPhoneのGoogle翻訳を使うことを提案するが、それには頼りたくない、というニュアンスのジェスチャーをした。なんとかコミュニケーションをとろうとする彼をみかねて、紙とペンを取り出し、漢字、平仮名、片仮名、ローマ字、キリル文字で、自己紹介をしあった。斜視気味の女の子も途中で会話に参加し、部屋の他の客ともあいさつをかわした。昨日からいる二人の日本人学生のうちの一人はモスクワ大学に留学経験があり、ロシア語が多少できたので、通訳をしてもらった。TシャツにはWの頭文字、早稲田大学の学生だろうか。ロシア人男性にタバコをもらい、一緒にのまないか、と誘われたが、お金がない事情を話し、断って、そのまま寝ることにした。
フェイスブックメッセンジャーを使って、日本にいるプロジェクトメンバーとやりとりをした。友人の近況を知ることができる。それだけで少し安心する。また、現地のひとのちょっとした優しさが、言葉の通じない場所に一人でいるぼくのこころを温めてくれる。街の穏やかな雰囲気とぼくを助けてくれるひとのあたたかさが相まって、卑屈なぼくの性格の一部をやわらげてくれる。明日、両親から送金される予定だから、安心しているということもある。手続きがうまくいけばの話しだから、完全に安心しきってはいないのだけど、かすかな希望が気慰みにはなる。
今日は、街の南へむかう。
  これから、食事をとって、サハリン州立博物館にむかう。それから日本人墓地へむかう。再び、駅前のファストフード店で食事をとって、そのまま、日本人墓地へむかった。具体的な墓らしきものはなかった。そこには、戦争関連のモニュメントと公園があった。休日だからか、子供と家族が遊んでいる。幼い子供は銃の玩具を鳩に向けていた。そこは日本人墓地ではなかった。
公園近くの道路沿いに、1立方メートルくらいの石のキューブが二つあった。そこには日本語で文字が刻まれている。
  ―――かつてお住まいの方々に敬���を込めて
―――気ままに吹く風があなたに挨拶をしています
  結局、日本人墓地はみつからず、ユジノサハリンスク市街を外回りにサハリン州立郷土博物館にむかった。日本統治時代の樺太庁博物館の建物をそのまま利用している。まるで城のようないでたちをしている。展示物の一部も引き継がれているようだ。そこにはやはりロシア語のみだが、サハリンの歴史について、記録とともに展示されていた。
  ホステルに戻り、1日ぶりのシャワーを浴びて、iPhoneでサハリンについてのネット情報をみていた。
  いささか古い話に戻る。ロシアとの間に交わされた条約の一つに下田条約 (1855年)がある。この条約では、ロシアとの国境に関して、 択捉(以南は日本側)ウルップ(以北はロシア側)の間に国境線を制定し、樺太(サハリン) に関してはこれまでと同様、両国の間に分割しないで混住すると規定されている。つまりサハリンをロシア領でもなく日本領でもない両国の混在地域とした。当時のサハリンは政治犯や刑事犯などの流刑地だった。ロシアの文豪、チェーホフの「サハリン島」は、彼が30才の時、すなわち1890年にサハリンへ 赴いて書いた記録で、当時の様子がよく描かれたルポルタージュである。その後、日露戦争の結果、ポーツマス条約(1905年)が締結されて、樺太 は北緯50度線をもって国境として、以北をロシア、以南を日本が領有することになった。この頃、樺太には先住民が住んでいたことも言及しておかなければならない。ニヴフ、エヴェンク、アイヌ、そしてオロッコの諸民族である。樺太には膨大な石炭をはじめとする地下資源や森林が存在する。日本は この資源を求めて南樺太(北緯50度以南)への入植(移民)策を推し進めた。 『樺太沿革・行政史』(社団法人 全国樺太連盟編・昭和53年6月15日発行) によると、豊原(現ユジノサハリンスク)に樺太庁が置かれたのは1907年3月のことであり、それまでの軍政が解かれた。1907年の人口はわずか12,361 人だったのに対して、1941年末には406,557人と急激な人口増をみた。これは 日本政府の積極的な植民政策が、資源開発、開拓政策とともに押しすめられた結果であろう。また軍政が解かれたとは言え、樺太は日本にとって対米、 対露(対ソ)軍事作戦上、重要な位置を占めていたので、千島とともに、陸 海軍の基地が設けられた。
(写真展と語り合い サハリン残留朝鮮人の軌跡 片山通夫 フォトジャーナリスト)
  日本統治時代の旧豊原、現在のユジノサハリンスクは札幌をモデルにしているため、碁盤の目状の都市構造をしている。サハリンは、国際法的に所属未定の地、という解釈もあるようだ。ここで過去起こった出来事は複雑で、大まかにさえ把握するのが難しい。しっかりと勉強したい気持ちもあるが、今のぼくにとって重要なのは、この土地が誰のものでもないような、言わば「どこでもない場所」の気配をもっていることだ。それは、いわゆるグローバリゼーションによる均一的な場所性、などとはいささか異なると思う。ところどころに日本的な姿をとどめ、他民族が混在しているこの土地、行政はロシアだが、一部の住民の意識はもっとゆるやかなものだろう。逆に制度によって人々の意識を無自覚に政治的なかたいものにしている可能性もある。今ここには多くのアジア系の人たちいるが、そういったひとへの偏見差別もあるだろう。無意識的な人種の優劣意識がある感じがする。現地に住むひとで複雑な環境にいるひとも多いのではないだろうか。
このレポートがどんなものになるかはわからないが、きっとぼくの関心を掘り下げる意味で重要なものになるに違いない。今はふらふらしていればいい。
明日、送金手続きはうまくいくだろうか。少し不安だ。もし無理だったら、領事館にいくことにする。助けを求めることにする。
  ここでは、屋外で酒をのんではならない。信号は歩行者も車両もきちっと守る。横断歩道でひとが待っている、すると、必ずといっていいほど、車は止まる。そして、歩行者を優先的に渡らせる。歩行者は申し訳なさそうに、素早く横断する。どの店の外見も閉鎖性を感じさせる。外からではロシア語を読めないかぎり、何があるのかわからない。あるいは、窓からちらっとだけ、商品がみえるようになっていたりする。マジックミラーの店が多い。中から外は見えるが、外から中はみえないのだ。ガラス張りの開放的な建築が一軒もない。気候も関係しているのだろうか。以前あった建物を利用しているからだろうか。そしてあまりにも多い、巨大アパート、マンションとその廃墟、そして工事の量から、この場所の興廃、また展望が見え隠れする。ユーラシアの田舎街には違いない。サハリンには子供が多く、また政策で支援されているという。子供たちは、街のいたるところにある公園で、天使のように舞っている。大通り沿いのアパートメント群の一階には小型のスーパーが設置されている印象がある。日本で言うコンビニエンスストアの役割を果たしているのだろう。ショッピングモールも多い。買い物はそこでおこなわれるのだろう。場所の機能がきっちりわかれている印象がある。風俗街はないし、バー(café barはあるのだが)はあまり見当たらない。規制されているのだろうか。グラフィティはこじんまりしている。目を盗むのが大変なのだろうか。保守的な雰囲気は感じる。
  ホステルのドミトリー、若いロシア男性のパソコンから戦争映画の音、そして戦争ゲームの音が聞こえる。“Be our flag!!”
  近所に野良犬の家族がいる。雑種だがシェパードの血が入っているらしい。外見は似ているが妙に小柄で足が短い。
  9/26
  昨日は両親からウェスタンユニオンを利用して送金される予定だったので、朝からそわそわしていた。後に借りた分を両親に返金することを考えるとさらにそわそわした。ともかく日本時間1時すぎまで待たなければならない。けれども、時差は2時間あり、こちらでは3時すぎ、送金にかかる時間を考えると今日中に資金が得られるかわからない。午前中は部屋で時間をつぶし、午後再び駅前のファストフード店へいった。それからガイドブックを確認し、日本人墓地を目指して歩いた。大通りを40分ほど南に歩くと、墓地らしき場所があった。
空は徐々に暗くなり、南から濃い雲が流れてきていた。空気が湿気を含みはじめ、雨が降る気配が感じられた。森に囲まれているからか、墓の周りはほとんど整備されておらず、草や花が鬱蒼と茂っている。ところどころに、献花がされている。ぼやっと眺めただけでは、生えている草花と献花の区別がつかない。それくらい墓地と自然は混ざり合っている。
ウェスタンユニオンの手続きまでにはホステルに戻らなければならない。ほどほどに時間をみながら墓地を歩く。入口付近はロシア人の墓が並んでいた。戦争で亡くなった方も多くいるだろう。墓石には写真を利用し遺影が刻まれていた。遺影には軍服をまとった男性の姿が数多く見受けられる。
花を持った二人の中年女性がやってきて、すれ違った。彼女たちと交差する時間が、異様に長く感じられた。もちろん、それはぼくだけが感じたものだろう。かつての出来事のことを考えると、どうにも心が落ち着かなかった。彼女らの行く墓の下には、日本人に殺されたロシア人が眠っているかもしれない。
日本人墓地にたどりつく前に引き返すことにした。時間が迫っていたし、雨が降りそうだった。案の定、墓地をでて数分後、激しい雷雨が降りだした。ぼくはパーカのフードをかぶり、近くのバス停の屋根の下にかけ込んだ。
雨はすぐに弱まった。少しおさまったのを見計らってホステルにむかって歩いた。通り雨のようだった。
  ホステルに戻り、両親とやりとりし、送金の手続きが済んだ、という連絡を受けた。ぼくは謝罪とお礼のメールを送り、近くのウェスタンユニオン取り扱いのバンクへ急いだ。その日じゅうにホステルのスタッフに料金を支払う約束をしていたから、少し焦っていた。彼が次の日以降まで待ってくれるとはかぎらない。銀行は市内のいたるところにある。とても多い印象がある。
建物に入り、二階にあがると廊下に部屋が並び、奥に人が待っている。そちらが窓口らしい。受付番号を発券するマシーンの画面は、全てロシア語で表記され、英語には切り替わらない。操作方法をたずねようと、待合席に座っている男性に話しかけたが、うまく伝わらない。仕方がないから、適当な部屋をノックし、銀行の職員に英語で事情を説明し、助けを求めた。すらっとした若い綺麗な女性が他の従業員と目をあわせ、やれやれといった感じで席を立ち、発券を手伝ってくれた。順番が来て、受付に行き、管理番号を伝え、パスポートを渡す。しばらく確認をしてくれていたが、また明日来てくれ、とのこと。なるほど、まだ送金が完了してないらしい。ぼくは一度ホステルに戻り、ウェスタンユニオンに電話で送金状況を確認した。すると、どうやら送金は完了しているらしい。おそらくバンクの担当者が確認してから今の間に、送金が完了したのだろう。バンクの営業は18時までだった。時計をみると17時前、やや急いでバンクに戻った。再び受付を例の女性に頼むと、また明日来てくれ、と断られる。ぼくは、ウェスタンユニオンに電話で確認したところ、送金が完了しているらしい云々、を英語で伝えたが、伝わっていない。ぼくがなんの理由もなしに来たと思われたのかもしれないし、対応が面倒だったのかもしれない。言葉が扱えない、あるいは片言、というのは多くの場合、人を愚かに見せるには充分な条件なのかもしれない。交渉をするのは無駄だとわり切り、他の銀行にいった方が早いと判断した。Wi-Fiを携帯していなかったので、一度ホステルに引き返し、インターネットを使用する必要があった。次に近いウェスタンユニオンを取り扱うバンクを、マップで調べなければならない。ホステルの玄関でiPhoneをWi-Fiに接続、マップでバンクの所在地を確認し、足早に歩いた。
しかし、そこにバンクはなかった。
もうホステルに戻る時間はない。ぼくは目ぼしいバンクを片端から訪ね、ウェスタンユニオンを扱っているか聞くことにした。大きな店舗を二軒ほどまわったが、いずれも取り扱っていなかった。
最後の望みに通りを曲がると、ウェスタンユニオンの表示のあるバンクがあった。18時前だった。時間がなかった。中に入り、手続きを試みた。まだ窓口は開いているようだった。
ウェスタンユニオンを担当している女性とは、片言の英語とGoogle翻訳を利用して、やりとりをした。彼女は例によってロシア美人で、ぶっきらぼうなところもあったが、割り合い朗らかにコミュニケーションをとってくれた。けれども、作業は手間がかかるようだし、退勤時間も迫っていたからか、何度も���め息をつく様子だった。途中、彼女は、何度かiPhoneで電話をかけた。迎えの車の運転手、だろうか。薬指に指輪をはめている。この街の接客はあらゆるところでぶっきらぼうでよい。好感を覚える。少なくとも客に媚びていない。あるいはもちろん客によって態度を変えているかもしれないのだけれど。彼女の作業が完了し、いくつかの用紙にサインをすると、お金を受け取る窓口を指示され、その方向へむかうが、窓口がわからない。けれども、待合席に座っている、グレーのスーツを着たダンディな中年男性が、ゆったりと足を組みながら、指を用いたジェスチャーで入るべき部屋を教えてくれた。この旅は、ひとに助けられることで、かろうじて成り立っている。感謝しなければならない。
部屋の中に入ると、大きなレンズと太い黒縁フレームのメガネをかけた浅黒い肌のアジア系女性がガラス窓越しに座っていた。口紅の明るいピンクが妙に目立っている。書類を渡すと、彼女は、お金を出すように、と言う。ぼくが換金しようとしていると誤解しているらしい。しかしぼくはお金を受け取りにきたのであって、換金をしにきたのではない。どうやらウェスタンユニオン他の旨が書類上で伝わってないらしい。英語で説明しようとしたが、伝わらない。彼女はしまいに、マニー!マニー!と怒鳴りはじめてしまった。先ほどの女性が部屋に入り、事情を説明した。書類は彼女に返され、再び手続きをしなおすことになった。そしてまたアジア系の女性と対面する。今度は無事に現金を手に入れることができた。ぼくは彼女にスパスィーバ!と言うと、意気揚々と部屋をでてホステルにむかった。
現金がないという、あのヒリヒリした不安感をもつことはもうない。そういった状況に満足し、安心している反面、心のどこかに残念な気持ちがあった。
ホステルに戻り、例の大柄のスタッフに宿泊代を支払った。これまでの彼��印象からは考えがたい柔らかな対応をしてくれた。多少ぼくを信用してくれたようだ。共通言語としての貨幣、言語を均一化する手段としての貨幣、そこに言葉はいらない。
しかし、あのバンクの東洋風の女性は、もしかしたら在留朝鮮人の子孫ではないだろうか。あるいは、二ヴフやアイヌの血が入っていることも考えられる。
日本統治時代、強制労働のために半島から連れてこられた人、その子孫が今なおサハリンで生活している。彼らの多くは先祖の言葉を失いロシア語を使っている。そして「ロシア人」だ。けれども、彼女らのアイデンティティの一部が、「日本人に強制労働させられていた朝鮮人の子孫」である可能性も否定できないだろう。この土地のロシア人を含め、日本、日本人によい印象を持っていないひとがいることも確かだ。銀行の帰りがけ、すれ違った若い男性に、遠くから唾を吐き捨てられるような場面もあった。もちろん、その理由はわからない。けれども、彼女、彼らの苛立ちや怒りを咎める気にはならない。個人的な怒りやストレスは社会的、政治的な問題と不可分だから、出来事を完全に個人に還元して安易に判断することは、ぼくには難しい。例えそれをぼくにぶつけたところで、どうにもならないことは確かだけれども、ぼくにはその行為に反論することができない。とはいえ、またその責任をぼくだけが負うべきだとも思えない。それはかえって傲慢だ。しかし、責任を完全に個人に還元することができないとしたら、罪とはどのようにありえるだろうか。あるいは罰とは。
  バーでウォッカをのんだ。
  今日は、南の港街、コルサコフにむかう。
  9/29
  27日夕方、ふと思い立ち、アレクサンドロスフク・サハリンスキーにむかうことにした。流刑移民が暮らしていたサハリンかつての中心地であり、チェーホフが調査のために3カ月滞在していた場所。今回の旅でいかなければ後悔すると思い、準備をし、ユジノサハリンスク駅に向かった。駅でチケットを買い、22:30発の寝台列車に乗る。一日に二つしかない、果ての街、ノグリスク行き。
寝台列車に乗るのは初めてだった。車両内はイメージ通りだった。列車の進行方向に対して左側に乗客室が並び、右側は通路になっていて、赤い絨毯が敷かれている。ぼくは客室に入り、窓がわに座った。六畳くらいの客室には二段ベッドが二つあり、真ん中にはテーブルが置かれていた。窓の外の暗闇を眺めながら、ぼーっと考えごとをしていると、体格のよい老婆が部屋に入ってきた。彼女は当然だがロシア語であいさつをする。ぼくは片言のロシア語であいさつを返し、お互いの行先を英語で話した。彼女もティモフスクで下車し、アレクサンドロスフク・サハリンスキーにバスでむかうらしい。その後、30代中盤くらいの大きなタトゥーの入った男が、気温とは不釣り合いの薄着で入室してくるなり、すぐに寝床の準備をはじめた。毛布やシーツを手際よく三人分に振りわける。手慣れている様子だった。彼はぼくに「お前は上で寝てくれ」というようなことを言っていたと思う。「俺は準備をしたんだから、下の方でいいよな?」という暗黙の了解要請も含まれていたように思う。ぼくは一度部屋をでて、彼の寝仕度が済むのを待ち、横になったのを確認して、ひっそり踏み台に足をかけ、上のベッドにのぼった。ベッドにごろんと寝転がると、天井が近く、こじんまりしているが、不快な感じではない。むしろこのくらい狭い方が落ち着く気がする。寝心地は悪くなさそうだった。けれども、昼寝をしてしまったので、あまり眠れそうにもなかった。ティモフスクまでは約9時間ある。ガイドブックをみたり、iPhoneのマップで現在地を確かめたりして、考えごとをした。
  朝がきて、支度をし、廊下にでる。窓の外を眺める。薄明かりのなか、森が遠く山のむこうまで広がっている。人が一切踏み込まない土地なのだろう。そこでは動物や植物が生態系をなし、営んでいる。先日博物館でみた剥製の動物たちが、人の目のとどかないところで、実際に生きている。そう考えるとなんだかわくわくした。昔、スキーにいったときに、リフトの下をながめ、雪に動物の足跡がついていないか、あるいはあわよくば足跡の主の姿が現れないか、こっそり探していたことを思い出した。あの静かな興奮にどことなく似ている。
しばらくすると、窓の外に小道が現れ、また道具がおかれ、トレッキングコースのようになっているところが見えはじめた。駅に近づくにつれ、徐々に人の手のはいった様相は高まり、廃墟、小屋、そして街のなかに入った。ぼくは森への夢想をやめ、次に行動すべきことを考えはじめていた。
寝台列車を降り、バスを探す。すぐにアレクサンドロスフク・サハリンスキーゆきの503番バスがみつかった。運転手に運賃をわたし、奥に座る。前の方の席は混んでいたが、後ろはすいていた。平日だったからよかったものの、土日だったら予約せずに座るのは難しかったかもしれない。一日一本のそのバスを逃したら、アレクサンドロスフク・サハリンスキーへは、タクシーでいくことになる。それは高くつきそうだし、避けたかった。最悪ヒッチハイクという手もあるが、ロシア語を話せない以上、なるべく安定した手段に頼りたかった。
  バスの運転は荒く、道の状態もひどかった。ほとんど常にがたがたはやまず、ときたま飛び跳ねるほどの振動をともなった。山道は、舗装されておらず、砂利を蛇行しながらすすんだ。そのあいだ初期微動でもおきているかのように揺れ続け、はね続けた。ちょっとした遊園地の絶叫系アトラクションのようだし、揺れに弱いひとは、嘔吐は必至だろう。足元をみると清掃用のモップとバケツがあった。ぼくはあまりの現実離れした揺れの激しさに何度か笑ってしまったものの、幸い気持ち悪くはならなかった。後ろの席のほうが揺れやすい、ということもあったのか、前の方に固まっているひとたちは、慣れた様子で乗りこなしていた。乗客が固まることで振動が抑えられ、安定した座席を獲得することができるのだろうか、そういったことも、あの住民たちの固まり様とは関係があるのだろうか、あるいは暖房のない車内の寒さをしのぐために。
後方の座席にいるのは、やさぐれた少年と、入れ墨が入り、この寒さなのにはだけた格好をしている男、そして僕だけだ。
  北原白秋のやや楽観的すぎる紀行文「フレップ・トリップ」にもサハリンの道路と車の描写があったが、あまり状況は変わっているとは思えない。
  バスは一時間と少し走ると、アレクサンドロスフク・サハリンスキーの街中にはいった。ユジノサハリンスクと同様、原色の塗装がほどこされたぼろアパートがならぶ。ところどころにシベリア式の木造住居がある。最後の乗客と一緒にバスを降りた。
雪は降っていないものの、いつ降ってもおかしくない寒さだと感じた。ぼくは自分の服装がこの土地に合っていないことをすぐにさとった。わからされた、と言った方が近いかもしれない。シャツとパーカの上にダウンジャケットといった服装は、この土地の海風にとってなんのことはなく、容易に体温を奪うことのできる布きれにすぎなかった。街を歩き、iPhoneのマップを頼りに海にむかうことにした。久しぶりに海がみたかった。歩いていれば寒さも気にならないだろうと考えた。そういえば、横浜でちらっと眺めたのをのぞけば、今年は一度も海をみていない。古いシベリア様式の小屋。そこにも人は住んでいるようだ。野良犬の多さ、シベリア式住宅の飼い犬からは吠えられたが、野良犬は人懐っこく、立ち止まるとこちらによって来る。サハリンの街の動物は人間への恐怖心が薄いのだろうか。残念ながら海外保険にも入っておらず、ワクチンも打っていなかったので、彼らと遊ぶことはあきらめていた。また餌をあたえるのもこの土地の方針が定かではなかったので控えた。海の方へ階段をのぼり、くだる。いくつかの海沿いの街と同じ��、この場所には坂が多い。街の中心地は丘の上にある。そこから5分くらい歩くと、工事中の公園に痩せこけたチェーホフ像が立っていた。その公園の前には、チェーホフがたびたび訪れたという元囚人Lの家があった。今ではチェーホフや囚人に関する資料が展示されている博物館になっている。近くのスーパーで菓子パンとチーズを買って朝食をとった。例によって店員はぶっきらぼうだった。先ほどの元囚人L宅の博物館に入るつもりだったが、まだオープンするまでは時間があった。海まで歩くことにした。
浜辺沿いの小丘にのぼる。海がみえ、例の三兄弟の奇岩が遠くにある。あれが三兄弟の岩、チェーホフの「サハリン島」に記述されている奇岩。そして、この土地に流刑者とチェーホフはいた。浜辺には、おそらく囚人たちが労働していたであろう廃居となった施設や作業場が未だならんでいた。座礁し、赤茶色に錆びついた船が、河口の方に点々としている。まるで世界の終わりの光景をみているようだった。ここにはぼくしかおらず、他のひとはいない。この世から去ってしまったみたいだ。あるいはぼくは亡霊なのだろうか。海から冷たい秋の風が吹きすさんでくる。
博物館がそろそろ開いているころだった。博物館に戻ることにした。インターフォンを押すとなかから女性スタッフが顔をだした。中に入り、やりとりをする。ロシア語を話せないからか、東洋人だからか、こういった若者が一人で来るのが珍しいからか、彼女は終始くぐもった顔をする。しばらくなかを見学し、外のトイレを借り、戻ると、博物館の入口が閉まっていた。スタッフはどこかに行ってしまったようだ。トイレが目的だと思われたのかもしれない。
仕方がないので、また海の方を歩いてみることにした。海辺をずっと河口の方へ歩く、あるいは、三兄弟の奇岩、座礁船の方へ。正面、南から強い風、フードをかぶり、頭の防寒をする。砂がふきつける。ゴォーという風の音が、強弱をつけて鳴っている。呼吸、衣服の擦れる音、足が砂をはむ音、足元を流れる砂の音、そして風によって運ばれる波の音が重なっていく。砂浜は貝殻が散乱し、ウォッカの空き瓶がカラカラ揺れている。夏は海水浴におとずれる人もいるというその砂浜につづく廃墟をながめる。目視できないが、海の向こうにはユーラシア大陸があり、ロシア本国がある。流刑者は、海のむこうの本国への郷愁にうちひしがれていたことだろう。チェーホフは、そう記述していた。
また、世界の果てへ来てしまったという観念が頭をよぎる。ユーラシアの最果ての島へ来てしまったという観念。アジアでもユーラシアでもない、どこでもない場所。無、虚無、無常。こういった言葉しか頭にうかばないし、またそういった言葉に相応しい場所なのだった。流刑地として栄えた場所は、今はもう捨てられたも同然の廃墟と化している。ここはゼロにほどなく近い場所。微かに廃墟のみによって、過去を読み取ることができる場所。絶望の地。
しかしふと気がつくと、絶望とともに希望も感じている自分がいた。何もない、ということの希望。空白がある、可能性がある、ということの希望。未来があるということそれ自体の光。
  ここにも兵士が配置され、子供と戯れ、デートしている。
  帰りがけ、街中のショップでジャケットコートを買った。アレクサンドロスフク・サハリンスキーでは縫製業も営まれている。バスを待つまで寒さに耐えきれそうになかった。ジャケットはブランドを装いながらも有名ブランドではなかったし、糸の処理が甘かった。タグには、Ice leopardという表記がされている。薄手にもかかわらず暖かかった。
  ティモフスク行きのバス停までの道を、地元の子供たちに教えてもらった。スパスィーバ。
  9/30
  昨日はホルムストクへいった。日本統治時代、真岡と呼ばれたその場所は、第二次世界大戦後の8日間、日本軍とソ連軍のあいだで激しい戦闘のあった場所だ。そこもまた、サハリンの他のいくつかの街と同じように、今もまだ、あるいは今だからこそ、日本の面影がちらちらと垣間見える。
博物館へいき、戦争に関連した展示をみてから、街へでる。すると、世界が変わった。駅前に並ぶ花屋は、死者への献花。トンネルの戦闘グラフィティは歴史画。
けれども、その変容は一時的なものにすぎなかった。今ここに生きてるひとたちがいる。
  ここのバスも例によって運転が粗かった。道路脇の崖はコンクリートで固められていない。おそらく頻繁に崖崩れがあるはずだ。そして、高速道路がないかわりに、公道を100キロ以上の時速で、駆け抜けるバスは、いつ事故を起こしてもおかしくない。ガードレールはお粗末。先日のフライトでも感じたが、この場所の乗り物には危険がつきまとう。けれども、彼らはおかまいなしだ。死んだら死んだでそこまでさ、とでも言わんばかりだ。だから飛行機が着陸すると���手をする、のだろうか、それは偶然着陸したに過ぎないことを知っている、からだろうか。おそろしいが、素敵なことでもある。ぼくは自分のことをそこそこテキトーな人間だと思っていたが、そのぼくでさえもこの場所のあり方にいささかおどおどしてしまう。ぼくはそこまで偶然性にゆだねることができない。
  空港へのバスを街のひとに何度も尋ね、なんとか乗ることができた。危うく、フライトを逃すところだった。逆方面のバスに乗ってしまったのだった。しかし出会ったひとたちのおかげでなんとか間に合った。結局、セルゲイとは会えなかった。
そして今ハバロスクにいる。土産も買った。帰って味噌汁と米が食べたいと思う。
  10/1
  ハバロフスク。久しぶりに空港で寝た。よく眠れたと思う。防寒をしっかりすることが重要らしい。
  枠組みの目的性が強いとやはりやる気がでない。適当に無目的性、無意味性を担保していないとどうにもやる気にならない。
  ホステルに泊まる人達はほぼ男性であり、ぼくの印象では、彼らの朝は遅い、9時過ぎまで寝ている。
  店員の女性の冷たく、あしらうような態度が最高だ。例えそれがロシア語ができない人へのうんざりしたもの、差別的なものだとしても、悪い気はしない。正直でいること、そのままでいること自体は悪いことではない。問題は別にある。店員が客にへこへこするのは間違っている。しょうがなくやってんだ、という感じがよい。
  ユジノサハリンスクのあるホテルの地下レストランで一緒に踊った中年の夫婦、エレーナとセルゲイは、結婚記念日のようだった。彼女たちはコースを注文し、コニャックのボトルを入れ、店に照明と音楽を要求する。音楽が鳴り、店内がカラフルな光で彩られると、彼女たちは踊り始める。ぼくは隣の席で、トラウトを食べビールをのみながら、その様子をながめていた。夫側に写真を頼まれたので、何枚かシャッターをきった。すると、彼はぼくの空いたグラスにコニャックをそそぎ、こっちの席に来いと言う。遠慮したのだが、せっかくなので同席した。名前を名乗り、握手をし、踊った。写真をとり、食事をともにし、コニャックを飲み干した。ぼくもかなり酔っていた。レストランにくるまでに、すでに何件かまわってウォッカをあおり、足がもたついていた。セルゲイは、お前に娘を紹介するよ、という感じで、電話をかけはじめた。しかし、電話はつながらなかった。せっかくロシア美人と知り合う機会だったというのに。
エレーナは泣きだした。なぜだかわからないが、急に泣きはじめた。それをセルゲイが慰める。彼が花を準備していなかったから、内心怒っていたのか、それとも嬉し泣きか。いや、そうは見えない。悲しいできごとを思い出したのだろうか、ぼくにはわからない。
エレーナにエスコートされ、踊った。彼女はぼくの腕を自身の腰にまわし、まっすぐ目を見て、という仕草をする。体が密着し、豊満な肉体が紫色のドレス越しに感ぜられる。アルコールと甘ったるい体臭、柑橘系の香水の混ざった匂いがした。ぼくも酔っていたから、普段なら恥ずかしい場面にもかかわらず、目を見つめ、体を寄せた。今となっては彼女の瞳の色さえ覚えていない。スカイブルーに近い色だった気もする。
また席につき、食事をともにし、夫婦と抱擁し、キスをする。そして彼女たちは嵐のように会計をすませ、部屋に去っていった。ぼくは、しばらく茫然と座っていたが、ふと我に返り、会計をすませ、ふらふらホステルに戻った。
帰りがけスーパーに寄り、塩味のポテトチップスとスモークされたハムとチーズ、レタスなどがはさまれたサンドウィッチを買った。踊ったからだろうか、小腹がすいていた。ホステルのベッドに座って、ぼろぼろと食べ屑を落とし、水をのみ、眠った。
  ポケットの中で、スペースがしわくちゃだ。ところどころねじれて、壁の外と内が入れかわり、箱と呼ぶには変形しすぎている。ま、いいか。
  「サハリン島」を再び読みはじめた。以前読んでいたときにはピンとこなかった情景も、現地にいったことで、煌々と見えてくる。三兄弟の奇岩、元囚人L氏の家、シベリア式の木造住宅、農地、強い風、うつり変わりやすい天気、錆びついた座礁船、壊れた桟橋、砂に埋もれたトロッコの線路、全てが残っていた。百年以上のものがあんなにもそのままになっているなんて、信じがたかった。チェーホフのみた風景とぼくのみた風景が、差異と距離をたもちながら、部分的に重なる。
  なお、よく言われたり書かれたりしていることではあるが、ギリヤーク人の間では、家長という存在も別段、尊敬を払われてはいない。父親の方も、自分が子供より年上だとは思っていないし、子供の方でも、格別、父親を敬おうとはせず、好き放題��暮らしをしている。年よりの母親も、家の中で特に未成年の娘より権力を持っているわけではない。息子が生みの母親を殴って、家から追い出しても、別に誰ひとり口を出す者もないのはよく見かけたところだ、とバシニャークは書いている。男性の家族はすべて同等なのである。だからもし読者が、ギリヤーク人にウォートカでも振舞おうとするなら、最年少者にまで飲ませなければいけない。
(チェーホフ「サハリン島」)
  コルサコフの名物になっている店、ペンギン・バー。入口前の敷地の左右に、可愛らしい表情のペンギンの像が立っている。それとは対照的に、むすっとした女性店員に注文し(まるで戦闘直前のサラ・コナーのよう)、ニシンの塩漬け、ボルシチなどを食べ、地ビールをいくつか飲んだ。天気雨が降りはじめた。
  コルサコフの博物館を探し、道行くひとに場所を訪ねて歩いていた。小さなスーパーに入ると、アジア系の男性が片言の日本語で話しかけてくる。日本統治時代の残留朝鮮人の二世の方だろうか。彼らは家族との別離をよぎなくされた。場所を教えてもらい、礼をいって、博物館へむかった。
  サハリンの多くの場所はロシア化されているけれども、そこには、まだ微かに、しかもなかば可視的な形で、これまでそこに暮らしてきたひとたちの要素が香っている。それがサハリンを曖昧な、「どこでもない場所」として、醸している。それは存在しているのではない。「存在」という言葉では「かたすぎる」。風のように流れ、匂いのように漂っている。それはグローバリゼーションにおける「どこでもない場所」とは明確に異なる。その場所「固有」の「どこでもない場所」性。
  あの道路のがたがたは、時間どおりにそこに到着しなければならない、という制約からの、自然との戯れや出来事の偶然性の波にのったちょっとした逃走。
  あの土地の雀はひとに近づきすぎている。足元まで近寄っても気にもしない。考えられない距離まで近づいてくる。関係が良好とさえ思えるくらいに。
  アレクサンドロスフク・サハリンスキーのレーニン広場のベンチに、少女が二人、鳩と戯れていた。その情景が、天使のイメージと結びついた。
  2.
  言語の問題。英語で話しかけると、何人かのロシア人は不機嫌な表情をする。なぜだろうか。特に傲慢な態度はとっていないつもりだった。
ぼくは、自分がロシア語を多少なりとも学んでおかなかったことを恥じたし、この土地でロシア語を話そうとしないことは失礼に値すると感じた。もしかしたら、彼女たちは、「敬意を払わない」ということに対しての苛立ちを感じていたのかもしれない。ここはあくまでロシアであって、他の国ではない。あるいは、英語はアメリカを想起させるのだろうか。そもそもおそらくこれは場所によって言語の文脈が変わる、ということだろう。この「場所」では英語は使われていない。それはあるひとにとっては、単に意味不明な言語としてあるのかもしれないし、あるひとにとってはアメリカを想起させるものかもしれない。何にしろ、ここでは英語は異物としての印象を禁じえない。そして言語は、領土化と関係していること。その土地で使われていない言語で話すということの「政治性」。つまり日本語でも同じ印象を与えたかもしれない。言語が通じないということの圧倒的な壁による諦め。「わたしとあなたは違うのだ」ということの証明でしかないただの雑音。けれども、違うからこそ、そこで生まれうる別種のやりとりがあると考えることができると思うのだが。しかし確かに、互いの言語が通じない、伝えたいのに伝えられない。受け取りたいのに、何も受け取ることができない宙づりの関係は、何か曖昧な不安をともなうものだ。だから多くの場合、あまり長い時間その空間に身を置くことができないし、特に何か目的をもったやりとり、例えば、買い物をする時や、事務的で一般的な速度を求められる手続きの時は、どこかお互いの精神に負担をもたらすことになる。目的を遂行するための効率性が、ディスコミュニケーションによって低下するからだ。
けれども、これがただコミュニケーションをとるため、という無目的性が強いものになるとどうだろうか。そのぎこちないやりとり、すれ違いを楽しむ可能性も生まれるかもしれない。互いの差異を差異のまま楽しむことができるかもしれない。
  安易に共通言語を形成することに違和感がある。それは相手を「わかったつもり」になってしまうことにつながるからだ。人がひとをわかることはありえない。それが前提されていないやり取りには疑問を覚える。例え、科学技術によって感覚と感覚が共有可能となったとしても、その感覚を判断するメタ認識は、異なるはずだし、そのメタ認識自体さえ共有できたとしても、その一連の「感覚-判断」の単位自体は、個々の文脈によって異なるはずだ。だから、もし感覚を「共有」できたとしても、その感覚は感覚の模造にすぎず、完全に「わかる」ことはない。そのことと、「わかりたい」という欲望は関係しているが、別のことだ。けして知ることができないからこそ、できるだけ知りたいと思うことは不思議なことではない。けれども、その欲望は傲慢な態度にも結びつく。「わかる」ということが「所有」と関係した事象、概念だからだろう。では、どのようにその欲望の対象、また欲望自身と付き合えばよいのか、ただそこには、対面する、という方法のみがあるように思う。けして分かり合えない二者は別々のままに、けして同化することなく、ただ対面している、というだけの状態。その対面の仕方こそが問題なのだろう。諸々の対面方法の間には無限のグラデーションがある。けれども「わかる」ことはない、各々が孤独のままであることに変わりはない。
共通言語は、時間と関係している。コミュニケーションの効率性に共通言語は関係している。共通言語を持ちたいという欲望は、時間の有限性に関係している。あるいは「わかること」の証明に共通言語は利用される。その共通言語は習慣になり、信仰になる。だから、そこから取りこぼすものが、見えなくなってしまう。もちろん、その構造にのった上で、交換できるものはあるのだけれど、それはあくまで活用するものだし、その効用に限界があるのは、あきらかだ。時間をかけて、継続的、断続的で、多様な方法のやりとりが、交わされること、試みられることが望ましいと思うのだが。例えば、意味から剥がれ落ちた言語の音を楽しむだけ、ということもできる。
もちろん、「わかること」がないとしても共通言語を用いたコミュニケーションを取る必要はある。それは、生きていかなければならないからだ。例え、それが欺瞞的で、無駄口で、多弁的なものだとしても、同じテーブルにつく、ということ自体が重要なものになるだろう。それは気持ち悪さを抱えたものだ。異物を内に抱えたまま、なお異物と対面していなければならないから。けれども、そもそも完全に真っ白な人間などいないことを思えば、薄汚い欺瞞的なテーブルにつく、というのも少しは気楽になる。そういったネガティヴな要素も人間の一面ということだろう。それを否定することはできない。むしろ時には愛おしくもある。
  そういった思弁とは別に、ただいるだけで楽しいね、とかはあるじゃん。
  その土地で多くの人が扱う一般言語があるとして、それとは異なる言語を発し、それを土地の人が聞くということ。それは、発声による空気の振動が、空疎な「意味」として、受け手に解釈され、その意味を吟味し終えるまで、空間を領土化する、ということになるのではないか。その意味は受け手の身体の中で反復し、領土化するのではないか。おそらくそれは往々にして不快なものだろう。そしてその不快感は、馴染みのない異物を身体になかば強制的に送り込まれる不快感、嫌悪なのではないだろうか。けれども、その「送り込まれている」という印象の要因は、「受け手側にも」ある。例えば、全く知らない言語を自分が所属している共同体内で、不意に現されるときに、その現れたモノにたいし、寛容に振る舞う、という可能性もあるのではないだろうか。そのやりとりの最中に、領土化/防衛という概念の当てはまる事象が、現れていない場合もあるのではないか。ただ「わからない」ということだけが「わかっている」宙づりの状態は、領土化/防衛という観念から逃れている状態、と言えないだろうか。
ぼくが無邪気にサハリンで現地住民に英語や日本語で話しかけるとき、おそらく大きく分けてその二パターンの出来事がおきている。
  全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
(旧約聖書 創世記)
  定住という観念について微細な視点をもっているべきではないだろうか。そこにとどまり続けているという思い込みについて考えるべきなのだろう。それは旅をすることでようやくわかることでもある。つまり移住と定住は「同じ」であるということ。意識的に無問題にすること、差異を前提に「在り方」として並列化させること。そう考えることで、領土化の作用を逃れることができるのではないだろうか。いつも仮の地点にしかいないということ。場所は揺れ動き続けているということ。
  この地域の人たちの、自然���偶然性に対する寛容さともいうべき、運命への譲渡についてどう考えるべきだろうか。こじんまりした家をたて、質素な暮らしをする。そして長年住んだ家が朽ちたら、補修などせずに、別の場所に移る。また新しい場所を家にする。壊れるなら壊れてもかまわない。いつか壊れるのだから、しっかり家を建てる必要もない。最低限の条件がそろっていればそれでいい。道路端の崖だって、やろうと思えば技術で制御できるのにやらない。田舎だからそんな技術がない?それとも、自然に対してのある種の諦めがある?
  準備をしないこと、失敗について。ぼくはこの旅で(も)多くの失敗をした。ぐだぐだである。そのほとんどはぼくの準備不足が原因だった。けれども、周囲の助けのおかげでなんとかなった。もちろんそれは迷惑をかけることでもある。そのことについて。例えば、ぼくがしっかり準備し、ミスをせず、スマートに事を運んでいたなら、数々の出会いはなかった。人の温かみも、自分のちっぽけさも再び、確認することができなかっただろう。けれども、そういった単純な旅の失敗弁護とは別に、ミスをせず、スマートに事を運ぶ、という観念が、それを実践できたことさえも、周囲の環境に要因があることを覆い隠してしまうものではないだろうか。あるいは「自己」という単一的な幻にのみ「成果」を還元してしまう誤った観念と結びつきやすくしてしまうのではないか。責任を引き受けるというのは、未来におこる出来事の要因を自己に一部、あるいは全面的に限定、収束する考え方だとも言える。
遠回りをして、眺める景色、また街の違った風景をみることができるということは、特に悪いことではない。むしろ良い機会にもなる。安全な道をいく、準備をしていく、というのはそういった偶然的な機会を自覚的にせよ無自覚的にせよ排除することだともいえる。もしあの時、空港行きのバスを教えてくれたあの人を信用せずにタクシーに乗っていたら、どうだっただろうか、それはそれでまた違った景色がみえただろうか。マニラのように高い金を要求されただろうか。それもそれでいいだろう。けれども、ぼくが街のひとが教えてくれた63番バスを信用し、助けてもらったということが決定的に重要だ。これでフライトに遅れるなら、それはそれでいいと思えたこと。もちろん、計画通り進める楽しさとやりがいもある。責任を一時的に引き受け、計画をし、準備をすることは、仕事や生活のなかでは必要なことだ。つまり、どちらでもいいということ。その時の周囲の流れのなかで、勘にしたがって判断していくしかない、という状態に身を置くこと。空間を滑る、ということ。旅や散歩、移動にかぎらず、時をすごすというのは、ぼくにとってそういった偶然性と戯れる遊びのようなところがある。小さいころのスキーのように。
  raccoon dogs teakettle ディレクター 森尻 尊
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tsun · 1 year ago
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博多駅前でのiPhone SE2画面修理、雨の日の救世主
博多駅前に職場があるお客様が、通勤中にiPhone SE2を誤って落とし、画面がバキバキになってしまったという緊急事態が発生しました。その日は雨が降っており、傘をさしながらの操作中に手が滑り、不慮のアクシデントに見舞われてしまったのです。幸いなことに、職場の同僚が当店を推薦してくれたことから、お昼休憩を利用してご来店いただきました。 当店は、博多駅前という便利な立地に加え、お客様の目の前で基本的な修理を行うことで、安心と信頼を提供しています。このたびのiPhone…
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tsun · 1 year ago
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博多駅前の職場にお勤めのお客様、iPhone 8画面バキバキ復活!
博多駅前でお仕事をされているお客様が、iPhone 8の画面を割ってしまって、半年前にバッテリー交換を行ったまたまたご依頼をいただきました。お昼の休憩にお預けしていただき、お仕事終わりの夕方修理が完了し、お客様が受け取りに来られました。 お客様は画面保護フィルムを貼っていましたが、落下の衝撃が強すぎて画面自体がバキバキに。 ただし、当店での修理により、iPhone 8は再び綺麗な状態に戻り、お客様は安心してご使用いただけますなりました。 iPhoneの画面割れは見た目だけでなく、操作性や安全性にも考慮するため、早めの修理が重要です。 iPhone の故障や不具合でお困りの際は、お気軽にお問い合わせください。直接のご来店も大歓迎です。私ども、お客様の大切なスマートフォンを迅速かつ丁寧に修理し、安心してご使用いただけるように努めてまいります。
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tsun · 1 year ago
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博多駅前のお客様、iPhone SE2再起動問題を修理
博多駅前でお仕事をされているお客様が、お昼休みを利用してiPhone SE2の修理のため当店にご来店されました。お客様からの報告によると、iPhoneが再起動を繰り返すという問題が発生していました。 点検の結果、ドックコネクターの故障が原因であることが判明しました。また、お客様はバッテリーの減りが早くなっているとも感じておられたため、ドックコネクターの修理と合わせてバッテリーの交換も一緒に行うことになりました。 これらの修理により、iPhone…
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tsun · 2 years ago
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博多駅前のお客様、iPhone SE2のバッテリー交換でトラブル解消!福岡市内最安値でのサービス
博多駅前にお住まいのお客様が、iPhone SE2の再起動や電源落ちの問題で当店にご来店されました。ネットでの当店の高評価をご覧になり、ご来店いただきました。 当店でiPhone SE2を点検したところ、バッテリーの劣化が原因であることが判明しました。バッテリーの最大容量は72%まで下がっていました。バッテリー交換後、再起動や電源落ちの問題は解消され、お客様は安心されました。また、当店のバッテリー修理価格はSE2で4000円と、福岡市内でもトップクラスの安さです。このリーズナブルな価格設定に、お客様は大変喜んでいただきました。
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tsun · 2 years ago
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博多駅前でiPhone SE2の画面とバッテリーを即日修理!お客様の信頼と安心を当店が実現
博多駅前でお勤めのお客様が、iPhone SE2を落としてしまいタッチ操作ができなくなるトラブルに見舞われ、当店にご来店いただきました。数ある修理店の中から、当店が多くのお客様から高い評価を受けていることをお聞きし、ご来店の決め手となったそうです。 当店の特徴は、お客様の目の前で修理を行うこと。これにより、お客様に安心して修理をお任せいただけます。今回、画面交換を行うと同時にバッテリーの減りが早いということで、バッテリー交換もご希望されました。当店では、同じiPhoneでの同時作業を行う場合、1000円引きのサービスを提供しており、このお得な特典ををご利用いただきました。 わずか30分で修理は完了し、お客様は再び安心してiPhoneをお使いいただけるようになりました。当店を選んでいただき、ありがとうございました。
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tsun · 4 years ago
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iPhoneXの画面割れ。 中古購入のiPhoneXはだいたいLCD画面。【液晶割れ】
どうも、博多区の住吉通り沿いにあるiPhone修理のiatQ博多店です。 暑いですね、エアコンの効いた施設や店に入ると涼しくて快適って思うと もう夏になったんだなぁと思いましたね。 夏バテ注意と熱中症が怖い時期になりました。 特に室内での熱中症が多いので水分補給はしっかりしましょう。 今回は祇園町でお仕事をしているお客様からのご依頼でした。 iPhoneXの画面割れと映像異常。 今回のiPhoneXは数ヶ月前にお客様が購入した中古購入のiPhoneXでした。 純正の画面でしたらiPhoneXの画面は有機ELパネルですが 今回のiPhoneXは互換パネルが最初から搭載されていたので おそらく修理経験ありのiPhoneXだったのでしょう。 修理開始 お客様と世間話を行いつつ、iPhoneXの修理を開始すると…… 内部に少々異常を発見、お客様は今回が初めて修理することになった との事なので、…
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tsun · 4 years ago
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iPhone8の画面交換を2件連続で、1件目は液晶漏れ、2件目はゴーストタッチで勝手に動く。
おはようございます、iPhone修理のiatQ博多です 今回は先日対応したiPhone8の画面交換の修理報告です。 iPhone8の画面修理 まず画面割れっていろんな症状ありますよね。 軽い画面割れからバキバキのヒドイ画面割れまで そして映像に異常発生したり液晶割れ等 他にはタッチ不良やゴーストタッチなど 1件目は液晶漏れ状態 住吉神社へ参りしたあとにiPhoneを落とし 住吉にあるiPhone修理屋の当店の事をを覚えてもらえていて 今回、ご来店していただけました iPhoneの状態は、落下の衝撃によって画面と液晶割れによって 黒い滲みのようなものが発生していた状態のiPhone8でした。 お客様と軽く世間話をしながら画面交換を行い 交換作業は20分ほどで終了、お客様と動作確認を行い修理完了。 2件目はゴーストタッチ状態 近所の博多駅前で飲食店で勤務しているお客様でした。 iPhone…
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tsun · 4 years ago
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路面凍結で転倒注意、歩きスマホ、ダメ、絶対。
どうも博多区住吉でiPhone修理のiatQ博多店です。 寒いですね、1月7日の雪で、昨夜と今朝は路面凍結で足元がとても滑りました。 昨夜の帰宅時に、原付きでトロトロと西鉄バスの後ろをゆっくりゆっくり付いていきましたが 風の強さでやはり何度かはタイヤが横滑りしてました。 停車時や発進時にも何度か少しスリップしてたので 今朝はおとなしく西鉄バスに乗って出勤してきました。 西鉄バスも、一部運行見合わせがあったのか今朝は博多方面へ行くバスが なかなか来ず、やっと乗れたバスもiatQ博多店までは行けない便でした。 なので、バス停の分岐点の六本松からはバスは諦めて地下鉄七隈線で六本松駅から渡辺通駅まで 行き、あとは徒歩で出勤です。 途中で郵便局に寄ったり、ポケモンGOをチマチマプレイしながら 悠々と出勤してきましたが、皆さまは大丈夫でしたか? 前置きが長かったですがココからがiPhone記事ですね…
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tsun · 3 years ago
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iPhone7Plus 画面割れ交換【博多駅前から】
今日も福岡は暑いですね、熱中症警戒アラートが日常的に出ているきがします。 水分補給と屋内外で気温室温気をつけて一日をお過ごしください。 今回はお昼休み中の時間を利用したお客様のご来店 昼食後のご来店で残り時間は少ないとのことで多少お急ぎで修理を行いました。 iPhone7Plusの画面割れ 画面割れ、Filmを貼っていてもバキバキに割れていましたが 操作は可能な状態でした。 プライベート用のiPhoneとのことでしたが 割れた状態で使うのは、良くない状態なので画面修理を、とのことでご来店。 iPhone7Plusの画面修理代は税込8,000円 修理の作業時間はおよそ20分ほどでした。 博多駅前のオフィスで営業事務さんで お店から急げば徒歩10分以内の場所らしいので 今後もご贔屓くださいませ。 今回は画面修理とガラスフィルムも貼り付けて 合計8,000円+1,000円の合わせて9,000…
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tsun · 3 years ago
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iPhone8 画面割れ修理【博多駅前勤務 昼休み】
最近はバッテリー交換が多いですが 画面割れの修理依頼も増えていますね。 新品も中古も価格が高騰しがちなので 修理っていう方向で検討している方が増えている気がしますね。 今回はiPhone8の画面交換です 博多駅前で働いているお客様でお昼休みの時間を利用してご来店です。 iPhone 8…
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tsun · 3 years ago
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iPhone7Plusの画面割れ修理、ついでにバッテリー交換【博多駅南から】
8月ですね、iPhone修理のiatQ博多店は真夏の猛暑に負けずに頑張っていきます。 福岡の博多エリアでは、夏休みを満喫している若者を中心に バス停や駅前で見かける事が増えましたね。 うらやましい。 外出先でiPhoneにトラブルが有りましたら当店までご来店ください^^ さて今回は先日対応した、iPhone7Plusの画面割れ修理のレポートです。 iPhone7Plusの画面とバッテリー交換 博多駅南エリアにお住まいのお客様のご来店 夏休みに入ったらしくしばらく実家に帰る前に修理しとこうと来店でした。 状態はガラス割れ状態でタッチ操作は問題なく使える状態ですが 気になっていたので綺麗にするために修理とのこと。 そして画面を修理するならついでに最近、減りの速さが気になってきたバッテリーも一緒に交換することに。 画面交換 画面はガラスフィルムごと落として割れたのがわかる割れ方ですね。 画面…
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