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映画『獄門島』
私はコアなミステリーファンですが、だからこそ横溝正史は好きではありません。
私はまた横溝正史/市川崑/石坂浩二のトリオで一世を風靡した角川映画も好きではありません。
実際、最近見た『病院坂の首括りの家』はひどい映画でした。
ああ、それなのにそれなのに……
『獄門島』(1977)を見てしまいました。
「どうせ駄作だろう」と馬鹿にして見て「やっぱり駄作だった」と怒ったりがっかりしたりするのはナンセンスですが、「ああ、やっぱり駄作なんだ」と思いました。
この映画の予告を今でも私は覚えています。横溝正史があの独特の棒読みで「金田一さん、私も誰が犯人だか知らないんです」と言い、市川崑が後ろ姿でタバコをふかしながら「犯人は女です。それも美しい」と言っていました。
つまり映画化に際して犯人を変えてしまったということですね。そんなのア��ですか。よくもまあ横溝がOKを出したものです。そんなことをしたら台無しじゃないですか。
しかも『獄門島』に出演する女優は、司葉子、大原麗子、太地喜和子、坂口良子の4人だけ。島の理髪店の娘役の坂口良子が犯人であるはずはないので3人に絞られます。そんなのってアリですか(なお、この4人のうち存命中なのは司葉子だけーーいちばん年上の司葉子が生きていて、他の3人が亡くなっているというのは皮肉なものです)。
『病院坂の首括りの家』と同じく『獄門島』も物語が破綻していて、「そんなアホな」、「そんなはずないだろ」ということばかりです。
あの有名な「キ違いじゃが仕方がない」というダブルミーニングもうまく活かされていない気がしました(テレビでは「キチガイ」という言葉が使えないので、ドラマ版ーー三つあるそうですーーではこのダブルミーニングが全く使えなかった/使わなかったそうです。あれが『獄門島』の唯一にして最大の「見せ場」なのに、残念なことです)。
出演者は他に佐分利信、東野英治郎、上條恒彦、松村達雄、稲葉義雄、まだ10代の浅野ゆう子。
加藤武、大滝秀治、ピーター、三木のり平、三谷昇は『病院坂の首括りの家』にも出ていましたね(映画としては『獄門島』の方が先なので「『病院坂の首括りの家』にも出ていました」というべきなのかもしれません)。
小津安二郎には小津組があり、黒澤明には黒澤組があったように、この辺りの役者は市川組なのかもしれませんが、同じシリーズに同じ役者が別の役で出演するのってどうなんでしょう。
まあ、私自身は「あ、あの役者また出てる」と妙な楽しみ方をしていましたが……
例によって〇〇と××は実は親子でしたという展開があるのも思わず笑ってしまいました。
角川映画の金田一シリーズはメディアミックスでずいぶん流行りましたし、私はその時代を直接知っているわけですが、まあ流行り物というのは『かもめのジョナサン』にせよ紅茶キノコにせよそんなもノーー後から振り返れば「どうしてあんなものが流行ったんだろう」と思うものなのでしょう。
全5作のうちまだ見ていないのはこれで『女王蜂』だけになりました。
見ないぞ。絶対に見ないぞ。
見たらまたがっかりするに決まってるんだから……
でも……見てしまいそうな自分が怖いーーそんなことを思っている今日この頃です。
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映画『愛欲のセラピー』
U-Nextでジュスティーヌ・トリエ監督の映画『愛欲のセラピー』(2019)を見ました。
なかなかいい映画じゃないですか、これ。
トリエ監督はこの後『転落の解剖学』(2023)でカンヌのパルム・ドールを取りますが、私はこっちの方が好きだな。
でもこの邦題なんとかなりませんかね。『愛欲のセラピー』ではまるでソフトポルノです。原題はSybil(シビル)で主人公の名前をそのままタイトルにしているのですが、それでは売れないと配給元が判断したんでしょうか。
同じことがアンヌ・フォンテーヌ監督、ファニー・アルダン、エマニュエル・ベアール、ジェラール・ドパルデュー出演の映画『恍惚』についても言えます。意外性のある素晴らしい映画で、原題はNathalie...(ナタリー…)なのですが、配給元は『恍惚』に変えてしまいました。おかげで(というべきでしょうか)私は貸しビデオ屋の「エロティック映画」の棚で見つけることになりました(なぜそんな棚を見ていたのかは聞かないでください)。
主人公のシビルは精神分析医として働きながら小説を書いています。映画の冒頭、彼女は小説の執筆に集中するため精神分析医を辞めようとします。多くの患者は他の分析医に任せることになりますが、女優のマルゴだけはシビルに見てもらいたいと言います。シビルは仕方なくマルゴの願いを受け入れます。
マルゴは売れっ子俳優のイゴール(だったっけ)と付き合っていて彼の子どもを妊娠しています。彼女はイゴールのコネで彼と映画で共演することになり、イタリアのどこかの島にロケに行くことになります。
イゴールとの関係をどうするべきか、子どもを堕すべきか、決断がつかないマルゴはシビルに電話をかけてロケ先まで来てくれと言います。
普通の精神分析医はそう言われても絶対に行きません。患者とは診療室でしか会わないのが分析医の鉄則のはずです。でも、シビルは行きます。行かないと物語にならないので仕方ありません。
ロケ先ではマルゴはもちろん、イゴールも女性監督(彼女はイゴールと付き合っています。イゴールは二股かけているというわけですね)もシビルを頼り、3人は何事もシビルを通して話すことになります。
「ここ笑うところですよね」と思いましたが、そうではありません。シビルはイゴールと関係を持ってしまいます(普通の精神分析医は絶対にそんなことはしませんが、まあそれは言っても仕方ありません)。さまざまな重圧に耐えられなくなったシビルはひと足さきに帰国することになり、そして……というのがメインストーリーにシビルの過去がフラッシュバックで挿入される上、シビルが書いている小説までもが物語に挿入されるので、構成は結構複雑。
私は『恍惚』と同じで、どこかでどんでん返しがあるに違いない、どこかで「現実」と「フィクション」の侵犯が起きるというメタフィクショナルな展開があるはずだと思いながら見ていたのですが、そうはならず、ただ終盤シビルが「私の人生はフィクションだ」、「だから私がどうにでもで��る」と言うだけでした。
その点は少し不満でしたが、私は好きですね。
変なタイトルに騙されず是非ご覧ください。
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映画『病院坂の首縊りの家』
Youtubeで昭和のホラー映画・特撮映画の予告編だけを集めた番組を見ました。
最も古いのは1966年の『黄金バット』でしたが、私はこれを映画館で見ています。当時私は9歳で『黄金バット』ではなく併映の『怪竜大決戦』が目当てで両親に連れて行ってもらいました。でも、『怪竜大決戦』は全く覚えていません。『黄金バット』はかすかに覚えています。不思議なものですね。
驚いたのは安部公房原作・勅使河原宏監督・仲代達也主演の『他人の顔』の予告編が入っていたことーーあれってホラー映画のくくりなんでしょうか。
その中に横溝正史原作・市川崑監督・石坂浩二主演の『病院坂の首縊りの家』の予告編がありました。
横溝・市川・石坂トリオが作った金田一耕助シリーズの映画って随分たくさんあると思っていましたが、『犬神家の一族』、『悪魔の手毬唄』、『獄門島』、『女王蜂』とこの『病院坂の首縊りの家』の5作だけで、第1作『犬神家の一族』が1976年、最後の『病院坂の首縊りの家』が1979年の映画ですから、わずか3年で5本の映画が作られたのですね。知りませんでした。
私はコアな推理小説ファンですが、だからこそ(と言うべきなのかな)横溝は『本陣殺人事件』以外ほとんど読んでいません。横溝の作品には推理もトリックもなく、あるのはただドロドロした因果(?)だけだからです。
映画も見たのは『犬神家の一族』と『悪魔の手毬唄』だけじゃないかな(中尾彬が金田一を演じた『本陣殺人事件』、渥美清が金田一を演じた『八つ墓村』は見ていますが、どちらも感心しませんでした)。
で、この『病院坂の首縊りの家』を見てどうだったですが……
全然ダメですね、これ。物語が破綻しています。
病院経営者の法眼弥生(佐久間美子)にはゆかり(桜田淳子)という娘がいて、弥生の夫の愛人・冬子(萩尾みどり)には俊雄(あおい輝彦)と小雪(桜田淳子・二役)がいて、冬子が法眼家の別宅で首吊り自殺をして、俊雄と小雪が法眼家に復讐しようとするというのはまだわかります。
しかし、俊雄が小雪と結婚しようとするというのはかなりおかしな話です。異父兄妹だから……という理由がついていますが、それでも近親相姦です。父親が違えばいいというものではありません。横溝の作品では近親相姦は珍しくありませんが、それにしても……という気がします。
また、ゆかりと小雪がそっくりだという設定も双子じゃないんですから無理があるんじゃないですか。
挙げ句の果てに○○は実は××の娘だったというのも無茶です。
これでは論理も推理もあったものではありません。
そもそも犯人が誰かは映画の文法的に半分くらい見たところでわかってしまいます。
唯一楽しめるのは配役の豪華さでしょうか。
写真館の下働きで金田一の助手を務めることになる黙太郎を演じた草刈正雄は若くてかっこいいし、刑事役の加藤武や巡査役の大滝秀治は流石の存在感。写真館の主人の清水絋治とその父親の小沢栄太郎は「渋い」の一言。
俊雄のバンド仲間のピーターは最初誰だかわかりませんでしたが、ほんの1シーンか2シーンしか登場しない役に白石加代子、三谷昇、草笛光子、三木のり平、常田富士男を拝しているのは贅沢だなと思いました。
主要人物としてはゆかりと縁談が持ち上がっている親族の男・滋だけ誰が演じているのかわかりませんでした。役者名は河原裕昌とあって、「知らないなあ」と思っていたら……なんとのちの河原さぶでした。
若くて眼鏡をかけたエリート風で嫌味な男なのですが、これが……これがチンケなオッサンを演じさせらた右に出る者がいないあの河原さぶとは!
それがこの映画の最大の魅力(!)だったかもしれません。
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映画『サマー・オブ1984』
『イノセンツ』に続いて『サマー・オブ1984』(2018)をみました。
こちらも子どもを主人公とする映画���すが、年齢的には『イノセンツ』の子どもが小学生であるのに対してこちらは「やりたい盛り」の高校生です。
主人公のテイビーは隣に住む警察官のマッキーが連続殺人の犯人ではないかと思い、3人の友人ウッディ、イーツ、ファラデーと一緒に「捜査」を始めます。
彼らの「捜査」を縦糸にして、テイビーと彼の幼馴染のニッキーとの淡い恋やウッディーやファラデーの複雑な家庭事情が描かれるというお話で、少年たちがマッキーの家の物置で殺された少年のものと思しい血のついたTシャツを見つけたのに、デイビーの両親はマッキーが連続殺人犯だとは信じてくれず、4人の少年を連れてマッキーの家へ行き事情を話して少年たちに謝罪をさせるとか、一人で留守番をしているデイビーのところへマッキーがやってきてデイビーが怯えるとか、ある意味映画の定石通りの展開が続きますが、決して退屈ではありません。
むしろ1980年代への郷愁をかき立てる青春群像映画として好感が持てる作品です(その意味では1984年当時はやっていた音楽をもっと使ってほしかったと思います)。
物語の焦点はマッキーが犯人かどうかですが……
[ここからネタバレになります。まだ映画を見ていない方はご注意を]
もちろん(?!)マッキーは犯人です。
マッキーの家に侵入したデイビー、ウッディー、ニッキーはそこで被害者たちの写真と浴槽に置かれた死体と地下室に監禁された少年を見つけ警察に駆け込みます。
デイビーは英雄となり、マッキーは指名手配され、デイビーの両親はデイビーに謝罪し、離婚直前で町を出ていくはずだったニッキーの両親は抱き合って娘の無事を喜び、ニッキーはデイビーにキスをします。
これで終わればめでたしめでたしですが、映画はまだ20分ほど残っています。
その20分で何が起こるかというとーー捜索を逃れたマッキーはデイビーとウッディーを誘拐し森に連れ込み、ウッディーを殺してデイビーに「俺はいつか戻ってくる。お前は一生怯えて暮らすがいい」と言い残して去っていくのです。
監督はこういう形で青春群像映画の定石をはずれ、数多ある他の映画との差別化を試みたのでしょうが……私は賛成できませんね。これでは台無しだと思います。
この映画をめでたしめでたしで終わらせたくないという監督の意図はわかります。少年たちは現実の重さに押し潰されなければなりません。
例えばニッキーの場合がそうです。ニッキーの両親は抱き合って娘の無事を喜んだとニッキーは言います。夫婦は離婚せずにすむのか、ニッキーは町を出ずにすむのかと思いますが、そうはなりません。ラストでは引っ越していくニッキーの姿が映ります。そこはとてもいいと思いました。
でもウッディーが殺されてしまうのはダメです。
事件は解決した。めでたしめでたし。しかし、少年たちが抱えている問題は解決されない。彼らはその問題を抱えて生きていかねばならない……というのが現実の重みじゃないですか。ウッディーが殺されるから、デイビーは彼の死を抱えて生きていかねばならないから、それが「現実の重み」なのだというのは違うと思います。
この映画はしばしば『スタンド・バイ・ミー』と比較さ��ます。確かに主人公たちの年齢は少し違いますが同じ4人組ですし、それぞれが家庭的に問題を抱えている点でも同じです。
私はロブ・ライナー監督の映画『スタンド・バイ・ミー』はどうしようもない駄作だと思いますが、原作となったスティーヴン・キングの中編小説は名作中の名作だと思っています。
あの小説が素晴らしいのは決して「美しい友情の物語」で終わっていないところです。あの小説は「友情の物語」ではなく「友情を捨てる物語」です。ロブ・ライナーはそこがわかっていないので原作をズタズタにしてしまいましたが、それはともかくキングの『スタンド・バイ・ミー』はキング自身を思わせる中年にさしかかった作家が語り手であり、彼が12歳の夏を思い出すという形で書かれています。だから物語は始終「現在」と「過去」が交錯しますし、私はそこに魅了されました。
その意味では『サマー・オブ1984』もデイビーの「その後」を示唆するものがあって良かったと/あるべきだったと思います。そうでなければ時代を1984年に設定した意味がありません。
『サマー・オブ1984』は決して駄作ではないけれど、そういう意味で不満が残る映画でした。
追記: スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』は実際はThe Body(死体)というタイトルで『恐怖の四季』(実際はThe Four Seasonsというタイトルなので「恐怖の」は余計です)という連作短編集に収められています。 この連作短編集は春夏秋冬に合わせた四つの短編を収めたもので、The Bodyは「夏」にあたります(四つの短編につながりはありません)。 ちなみに「春」にあたる「刑務所のリタ・ヘイワース」は映画『ショーシャンクの空に』(1994)の原作……というか原案になっています。
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映画『イノセンツ』
U-Nextでノルウェー映画『イノセンツ』(2021)を見ました。
『イノセンツ』(無垢なる者たち)というタイトルが示すように子どもを主人公とする映画です。
主人公はイーダとアナの姉妹ーー年齢は明示されていませんが、イーダが8歳くらい、アナが12歳くらいかな。アナは知的障碍を持っていて意思の疎通がままならない状態です。
両親と共に郊外の団地に引っ越してきた二人はベンという少年、アイシャという少女と友達になります。ベンとアイシャはどちらも超能力の持ち主で、ベンはサイコキネシス(念動力)がアイシャはテレパシーが使えます。
4人で遊ぶうち、アイシャはアナの心を読み取り、アナに言葉を離させることに成功します。
そこで終わればめでたしめでたしなのですが、もちろんそうはなりません。些細なことで腹を立てたベンが暴走し、母親を死なせるばかりか他人を操って殺人を犯させます。
アイシャはベンを止めようとしますが、ベンはアイシャの母親を操ってアイシャを殺してしまいます。それに気づいたアナはベンと対決し……という物語で、グロテスクなシーン、ショッキングなシーンは全くと言っていいほどないのですが非常によくできた映画で、SFXなぞ使わなくても、子どもが立って何かを見つめているのを映すだけでこれだけ恐ろしいシーンが作れるというのは大したものだと思います。
団地、超能力、子ども……というところから私は大友克洋の漫画『童夢』を思い出しましたが、ネット情報によればこの映画の監督は『童夢』に影響されてこの映画を作ったのだとか。
「なるほど! そうだったのか!」という気がします。
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村田沙耶香の『消滅世界』と安部公房の『方舟さくら丸』
相変わらずバイオリズムは低空飛行を続けています(私は「低空飛行」と呼んでいますが、ひょっとするとこれが「通常飛行」なのかもしれません)が、映画は3本見て、小説は2作読みました。
内訳は映画が『イノセンツ』と『サマー・オブ84』と『愛欲のセラピー』、小説が村田沙耶香の『消滅世界』と安部公房の『方舟さくら丸』です。
村田沙耶香は去年4年のゼミ生が「『コンビニ人間』のヒロインって『異邦人』のムルソーに似てませんか」と言ったので読みました。正直ムルソーとは全く違うと思いましたし、面白かったかと言われると「?」なのですが、それでも嫌いにはなれず、おいしいのかまずいのか、とりあえずもう一口食べてみないとわからないという感覚で『地球星人』を読み『消滅世界』を読んだのですが、やっぱり私には合わないように思います。
特にSF色の濃い『消滅世界』は、人工授精が当たり前になり、恋愛とセックス、セックスと妊娠が完全に切り離された近未来を描いた小説で、ある意味ミシェル・ウエルベックの『素粒子』(これは文句なしの名作です)の「その後」のような物語なのですが、何があろうと人間は恋愛もセックスもやめないだろうと私は思っている……というか恋愛やセックスのない世界というのは想像すらできないので、どうも乗れませんでした。
物語の中では千葉県が実験都市になっていて、そこに住む男女は毎年精子と卵子を提出し、人工授精によって子どもが生まれる、そのようにして生まれた子どもは一カ所で同じように育てられ、すべての��民は(男性も含めて)子どもたちの「お母さん」になるという設定も「?」ですし、これはユートピアかディストピアかという問いがありましたが、「そんなんディストピアに決まっとるがな」と思ってしまいました。
乗れないという意味では、安部公房の『方舟さくら丸』も同じです。主人公の「もぐら」は鉱山の跡地に住み、核戦争が起きた場合にはそこを方舟、つまり生き延びるためのシェルターにしようとしています。彼は選ばれた人間をシェルターの乗組員として迎えようと思っていますが、成り行きでデパートの屋上で怪しげな虫を売っていた「昆虫屋」と昆虫屋のためにサクラを務めていた男「サクラ」とそのパートナーの「女」の3人をシェルターに迎え入れることになります。
彼らは複雑に広がっている坑道に不審者を発見し追いかけますが逃げられてしまいます。不審者は「ほうき隊」と呼ばれる老人の集団がいて、そのリーダーは「もぐら」が憎んでいる父親で……という具合に物語は展開していくのですが、文章を読むだけでは坑道の中の様子がさっぱりわからず、どれが誰の発言なのかも非常にわかりにくいため、訳がわかりません。
公房の小説ですから訳がわからないのは承知の上ですが、こういう訳のわからなさ(「難解」なのではなく「下手」なのだと思ってしまいました)は乗れません。安部公房という名前があるから「ひょっとすると名作かもしれない」と思うだけで、もし無名の新人の作品なら「これはダメだ」と読むのをやめてしまうかもしれません。
坑道の中にはどんなものでも海へ流してしまえる便器があるのですが、一体どんな形をしているのか、なぜそんなものが坑道にあるのかさっぱりわかりません。
物語の終盤、主人公の「もぐら」はこの便器の中に足がはまって抜けなくなってしまうのですが、そこに何らかの意味を読み取るべきなのか、それとも単なるギャグなのかわかりません(ギャグだとしても笑えないと思います)。
『方舟さくら丸』というタイトルは、もし「サクラ」がシェルター=方舟の船長になったら、船名は「方舟さくら丸」になるだろうというところから来ているのですが、これも「?」です。
安部公房は好きなのですが、残念ながら私としては「はずれ」でした。
次は何を読もうかな(そう思えるだけ少しはバイオリズムが上向きになってきたのでしょうか。それならいいのですが)。
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映画『Talk to me』
相変わらず映画が見られません。
まず、『和に溺れて』からの流れでピーター・グリーンナウェイ監督の『Falls』を見ようとしました。
これはVUE(Violent Unknown Event)と呼ばれる架空の病気にかかった92人をインタビューするというフェイクドキュメンタリーで、なんと上映時間3時間超ーー決して面白くないわけではないのですが、くすぐりの連続というか、ボケだけでツッコミがないというか、そういう映画で途中で見るのをやめてしまいました。
次に見ようとしたのが『プレイス・イン・ザ・ハート』。
オウム真理教のその後を描いた『A』、『A2』や、ゴーストライター問題で散々叩かれた耳が聞こえない作曲家・佐村河内守氏のその後を描いた『FAKE』を撮った監督の森達也が、「ラストシーンが素晴らしい映画」のNo.1に選んでいたので見ようとしたのですが、私はああいう「社会派」っぽい映画は苦手なので、これも途中で断念。
私はどんなにつまらない映画でも最後まで見るという才能に恵まれた人間のはずですが、それができないというのはやはりバイオリズムが恒常的に低下している(?!)証左なのかもしれません。
その次に見ようとしたのが『Talk to me』。Youtubeの映画紹介番組で褒めていたので見たのですが、なかなかいい映画でした。
2022年製作のオーストラリア映画です。
主人公の女子高生ミアが親友ジェイドの弟ライリーを車で送っていく途中、車に轢かれたカンガルーが道路に横たわっているのを見つけるシーンで、私は「おおオーストラリアだ!」と妙に感心(?)しました。
ただ、それが何かの伏線になっているわけではなく、終盤ミアの目の前を一瞬血まみれのカンガルーが通り過ぎるだけだったのは残念でした。あのシーンは単に「これから始まるのはそういう映画です」ということと「これはオーストラリアのお話です」ということを観客に示すためだったんですかね。
ミアと親友のジェイドとライリーは友達の家で開かれたパーティで降霊術のような儀式に参加します。石膏でできた手を握ってTalk to meというと霊が現れ、I let you inというと霊が憑依するという儀式で、最初はみんな和気藹々で面白がっているのですが、ライリーが降霊を試すのを機に事態は急変します。
ミアの死んだ母親(オーバードーズで死んだのですが、自殺か事故かミアはいまだに悩んでいます)が憑依したライリーは、自分の目玉をくり抜こうとしたり、机に頭を打ちつけたりし始めるのです。
アホな若者がアホなことをして酷い目に遭うというホラー映画は山ほどありますが、ミアもジェイドもライリーも結構まともというか真面目で、その仲良しぶりには好感が持てましたし、ホラー映画の「餌枠」のアホな若者ではなく、真面目な彼らが怪異に襲われるからこそ怖いとも思いました。
主人公のミアを演じたソフィー・ワイルドという女優は、どう見ても17歳や18歳には見えないのですが、非常に魅力的で、そこもいいと思いました。
主な登場人物はミア、ジェイド、ライリー、その母親に加えて、ミアの父親と死んだ母親くらいで極めて少なく、ショックシーンもほとんどありませんが、よくできた映画です。
父親が言っていることが正しいのか、死んだ母親が言っていることが正しいのか、全くわからないという状況も怖いと思いました。
使い古されたパターンをよくここまで上手く料理できたものだと思いますし、高く評価したいと思います。
追記: 森達也が「ラストシーンが素晴らしい映画」として他に挙げているのは『卒業』、『ファニーとアレクサンドル』、『俺たちに明日はない』、『カサブランカ』、『パピヨン』、『青春の蹉跌』、『サブウエイ・パニック』、『未来世紀ブラジル』の8作です。 もちろん私は全部見ていますし、『卒業』、『俺たちに明日はない』、『カサブランカ』については異議はありません。 『サブウエイ・パニック』はラストシーンのウォルター・マッソーのあの表情ですね。映画自体は地味で、決して映画史に残る名作というわけではないのですが、遥か昔テレビの洋画劇場で見たときも、解説の淀川長治が「あそこが素晴らしい」と言っていました。 『未来世紀ブラジル』は意外性ということで選ばれたのでしょうか。 『パピヨン』は大海原に浮かぶスティーヴ・マックイーンの姿が印象的だったのでしょうが、個人的には「?」かな。 『ファニーとアレクサンドル』と『青春の蹉跌』については、どんなラストシーンだったか全く覚えていません。
私が選ぶとしたらどうなるかな。 まず思いつくのは、ベタですが、『第三の男』ですかね。 『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストシーンも素晴らしいと思いました。
追記2: 『青春の蹉跌』は水谷豊主演の映画(市原悦子が怪演していて衝撃を受けました)だと思っていましたが、それは『青春の殺人者』で違いました。 神代辰巳監督、萩原健一、桃井かおり出演の映画なのですね。 これは見ていないと思います。 見てみようかな。でも、最後まで見られるんでしょうか。まあ、私のバイオリズム次第ですね。
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映画『数に溺れて』
U-Nextでピーター・グリーナウェイ監督の映画『数に溺れて』(1988)を見ました。
はるか昔、封切り時にパリの映画館で見た映画です。
面白かったかと聞かれると「?」ですし、そもそもどんなお話だったか覚えてすらいないのですが、なんだか気になる映画で、日本に帰ってから同じ監督が撮った『ZOO』(1985)、『コックと泥棒、その妻と愛人』(1989)、『建築家の腹』(1987)をDVDで見ました。
『プロスペローの本』(1991)は、阪神淡路大震災で亡くなった中川努さんと映画館に観に行きました。
『英国式庭園殺人事件』(1982)はDVDを借りたものの結局最後まで見ずに返してしまいました。
『ベイビー・オブ・マコン』(1993)と『レンブラントの夜警』(2007)も見たような気がしますが、全く覚えていません。
で、『数に溺れて』を37年ぶりに見てどうだったかと言うと……
なかなか面白いじゃないですか、これ。
ストーリーだけを取り出すとーーある中年女性が浮気をしている夫を風呂で溺れさせ、検死官の男を抱き込んで病死に見せかける。検死官は女に関係を迫るが、にべもなく断られる。次にその女性の娘��夫を海で溺れさせ、検死官の男を抱き込んで事故に見せかける。検死官は女に関係を迫るが、にべもなく断られる。さらにその女性の妹(最初の中年女性の娘)が新婚の夫をプールで溺れさせ、検死官の男を抱き込んで事故に見せかける。検死官は女に関係を迫るが、にべもなく断られる。最後に3人の女は検死官をボートで沖に連れ出し、そこで溺れさせるーーというメインストーリーに、サブストーリーとして検死官の息子の物語ーー数字とゲームに取り憑かれ、動物の死体を見つけてはペンキで看板を立て、花火を打ち上げている少年が、本で「割礼」のことを読み、自分に「割礼」を施そうと性器を切り取ってしまう。彼は家の前でいつも数字を言いながら縄跳びをしている女の子と親しくしていたが、その女の子が車に轢かれて死んでしまったのを悲しんで首吊り自殺をするという物語ーーを組み合わせたもので、比較的単純です。
でも……とにかく展開が不条理というか、全く先が読めないものでヘンテコな映画としか言いようがありません。夫を殺す中年女性の名前がシシーで、上の娘もシシー、下の娘もシシー、家族に3人シシーがいるだなんて、それだけでもうすでにヘンテコですし、綺麗にドレスアップした少女が家の前でひたすら数を数えながら縄跳びをしているとか、3人のシシーと検死官が被害者男性3人の遺族や友人たちと綱引きをするとかいうのもシュール���す。
そこはかとなく漂うユーモア(これが英国式ユーモアなんでしょうか)も魅力的です。
万人向けではないでしょうが、私は好きですね。
U-Nextに同じピーター・グリーナウェイ監督の『ザ・フォールズ』(1980)が上がっているので、そちらも見るつもりです。
追記: フランスではシネフィルに高く評価されているが、日本ではあまり知られていない監督っていますよね。 ピーター・グリーナウェイがそうですし、私がパリで見て惚れ込んだ『トラブル・イン・マインド』(1985、フランスでのタイトルはWanda's caféでした)を撮った監督アラン・ルドルフもそうです。 「超」がつく名作『ゴシック』(1986)を撮ったケン・ラッセルもそうかもしれません。
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映画『オカルトの森へようこそThe Movie』と『ある優しき殺人者の記録』
白石晃士監督の映画を続けて2本見ました。
『オカルトの森へようこそThe Movie』(2022)と『ある優しき殺人者の記録』(2014)です。
どちらもPOV(point of viewの略語だそうです)というのかな、白石監督がカメラを持って目の前の出来事を映すという設定のフェイクドキュメンタリーで、なかなかの名作でした。
『オカルトの森へようこそTha Movie』は白石監督演じる黒石監督とその助手の堀田真由がどこかの山奥に住む謎の女(筧美和子)に会いに行くところから始まります。
映画は三つの部分に分かれており、筧美和子の家を訪れた監督と助手が怪異に襲われる第1部、その3人に宇野祥平演じる「正義の味方」を名乗る謎の男が加わりバスに乗って逃げていく第2部、さらに超能力者のイケメンが加わり、怪しげな新興宗教の本部に乗り込む第3部からなります。
第1部と第2部、第2部と第3部では全く違う映画になっているのがミソーーふとアリ・アスター監督の『ヘレディティー/継承』(2018)や『ボーはおそれている』(2023)を思い出しました。
私が特に好きだったのは第2部ーー怪しげな人物たちが次々とバスに乗り込んでは去っていくのが凄まじいスピードで描かれていて爽快(?)でした。
また、新興宗教の本部に乗り込み信者たちを皆殺し(!)にする第3部では、園子温監督の『愛のむきだし』(2009)を思い出しました。そういえば『愛のむきだし』も最初と最後では全く違う映画になっていましたね。
新興宗教の信者たちは何かに取り憑かれていて、生贄にするため捕えられているいたいけな少女も含めて全員を殺せば、怪異は潰え、全員が生き返るという設定はご都合主義だと思いますが、まあそれも気にならないほど勢いのある映画なのでよしとします。
出演者で言うと、同じ白石晃士監督の『オカルト』(2009)で主演を務めていた宇野祥平が大活躍しているのはとても嬉しいことでした(ワタシは宇野祥平のファンなのです)。
また、筧美和子がちょっと狂った女を見事に演じていたのには感心しました(ワタシは筧美和子をナイスバディのグラビアアイドルとしか思っていなかったのです)。
非常に面白いおバカホラー(これは褒め言葉です。おバカ映画は作り手のセンスが問われるもので、面白いおバカ映画はほとんどありません)だったので、その勢いで同じ白石晃士監督の『ある優しき殺人者の記録』を見ました。
韓国で撮った映画で、韓国人の女性ジャーナリストが幼馴染で連続殺人犯の男に廃墟となったアパートに呼び出され、随行した日本人カメラマン(白石監督自身が演じています)が一部始終を撮影するという設定です。
出演者は彼ら3人に加え、後からやってくる日本人カップルだけ。場所は廃アパートの一室に限定されています。低予算丸出しといえばそうなのかもしれませんが、それがドラマの密度を上げているようで、私は好きです。
連続殺人犯は幼い頃友達を交通事故で失ったことをきっかけに精神を病み、長い間施設で暮らしていましたが、あるとき「27歳の時に27人の人間を殺せば、交通事故で死んだ友人は蘇る」という啓示を受け、これまで25人殺したと言います。
彼はこれからこのアパートに来る日本人二人を殺せば、友達も蘇り、彼が殺した27人も蘇ると言います。
そんなアホなと思いますが、実際誰も来るはずのない廃アパートに日本人のカップルが現れます。殺人犯は彼らを殺そうとしますが、二人は反撃ーーぐちゃぐちゃの展開になり、殺人犯以外はみんな死んでしまいます。
殺人犯は監督が持っていたカメラを持ってアパートの屋上に登ります。すると……
[ここからネタバレになります。未見の方はご注意を]
空から触手のようなものが現れ殺人犯を連れ去ります。
気がつくと殺人犯は時空を超えて昔の交通事故現場にいます。彼は幼い友達を助け、代わりに自分が車に轢かれます。
時は映って現在ーー盛場の道路にカメラが落ちてきます。殺人犯が持っていたカメラです。3人の男女がそのカメラを拾い覗き込みます。一人は殺人犯だった男、もう一人はジャーナリストだった女、もう一人は交通事故で死んだはずの女です。
つまり……殺人犯の言った通り、交通事故で死んだ友達も彼が殺した27人も蘇ったということです。
うーん、ちょっとご都合主義的に過ぎる気はしますが、まあそれもアリっちゃあアリかな。
というか、『オカルトの森にようこそThe Movie』の設定ってここから来たものなんだと、妙に納得したワタシです。
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劇団ふぉるむの『ステインドグラス』
神戸の新開地アート広場(旧名KAVC)で劇団ふぉるむの芝居『ステインドグラス』を見てきました。
真砂綾さんが出演する芝居です。
真砂さんは以前イカロスの森で『美味礼讃』だったかな、中年の女性3人がひと月に一度集まって贅を尽くしたご馳走を食べるという芝居を見た際に知り合った方です。
この芝居はホンモノの料理を舞台で食べるというもので、さらにそれと同じ料理を近隣のレストランで食べられるという趣向でした。
私は鴨のオレンジソースに惹かれ、終演後劇場でもらった地図を見ながらそれが食べられるお好み焼きと鉄板焼きの店を探していました。
ところが方向音痴の悲しさで、さっぱり場所がわかりません。
そのとき「先ほどの劇場におられた方ですよね。何かお探しですか」と声をかけられました。私がわけを言うと「ではご案内しましょう」とのこと。ありがたいことです。
店の前まで来るとその人物は「私もご一緒させてもらっていいですか?」と言います。もちろん断る理由はありません。一緒に鴨のオレンジソースを食べ、エスニック風焼きそばを食べ、手作りジンジャーエール(そういうものがあったのです)を飲みました。
そうやって知り合ったのが真砂綾さんであり、それを機に真砂さんが所属する劇団ふぉるむの芝居を見に行くようになりました。
見に行くのは今回で4回目かな。
いつもは西宮のフレンテホールで公園があるのですが、今回はなぜかKAVC(今は新開地アート広場というようですが、私はKAVCという方が馴染みがあります。それに室内なのに「広場」��呼ぶのは私はどうも違和感があります)。「なぜ?」と思いましたが、わけを聞くと「くじにはずれた」とのこと。なるほど。
演目は空の驛舎の中村ケンシが書いた『ステインドグラス』。
「社会派」の芝居と聞いたので「うーん」と思っていました(私は「社会派」の芝居は嫌いなのです。以前ある演劇関係���会合で「芝居というのはやっぱり社会に切り込んでいかないとダメですよね」と言われて、「こいつとは話ができない」と思った覚えがあります)が、必ずしも私が思っていたような芝居ではありませんでした。
舞台は大阪の養護学校。朝方に地震があり休校になったので、学校に集まった教員たちは結構手持ち無沙汰でいます。彼らの会話から前年に5年生の男の子が校門の前で工事用の車両に轢かれて亡くなったことがわかってきます。
教員たちはみなその事故のことを引きずっているのですが、私はそれに少し疑問を持ちました。目の前の校門で一人の生徒が死んだことはもちろん衝撃的ですが、担任でもない教員がそれをいつまでも引きずるものでしょうか。
出てくる教員たちがみんな信じられないくらい善人だというのも気になりました。国語の教員はどうやら事故のとき何かがあったようで、それがずっと心の傷になっているようです。一体何があったのかがミステリーとして観客の関心を引くのですが、謎解きを聞くとーーその教員は危機的な状況になるとパニックを起こしてしまうたちで、事故の日も怖くて現場に近づくことができなかったことが心の傷になっているとのこと。
うーん、わからないではないですが、ちょっと「誠実」すぎませんか。ちょっと善い人すぎませんか。
まあ、そういう人が一人いても構いませんが、みんながみんなそういう人だというのは、ちょっと作りすぎに思えますし、絵空事に思えてしまいます。
ラスト近くに学校に建設会社の職員(事故を起こした建設会社とは別の会社です)がやってきて、事故が起こった校門の前に歩道橋を作るという話をするのも、私には予定調和というのかな、やっぱり作りすぎで無理やり物語をハッピーな方向に向けているように思えました(市民の陳情が市議会を動かし予算がついたとのことですが、そんな決定があればいの一番に学校に連絡があるはずです。教員たちが知らないはずがないのですが、芝居の都合上教員たちは「建設会社の人間が来るって?」、「何しに来るんだ?」と言い合っていました)。
まあ、やりたいことはわからないではないですし、私自身決して不愉快だったわけではありません。実際、非常に不愉快で椅子を投げて帰りたくなる芝居もありますから、それに比べればはるかにいいと思います。
でも……こういう芝居が「いい芝居」なんですかね。「こういう芝居こそがいい芝居だ」、「そうでない芝居はダメだ」、「芝居は社会に切り込んでいくものだ」という人が結構演劇界には多く、賞を取るのもマスコミで取り上げられるのもそういう芝居が多いように思いますが、私はどうもそれには賛成はできません。
私が研究しているアルベール・カミュは政治に「参加」した作家ですが、そういう「社会に切り込んでいく」芝居は書きませんでしたし、その点ではジャン=ポール・サルトルも同じです。芝居で描くべきは、人間の愚かさ、悲しさであり、そこから垣間見える美しさであって、「社会に切り込んでいく」ことなんて二の次、三の次だと私は確信しています。
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「と」の力
サイモンとガーファンクルの「ボクサー」やコブクロの「願いの詩」のことを書いたので、あと少し歌の話をします。
私の著書『晴れた日には『異邦人』を読もうーーアルベール・カミュと「やさしい無関心」』は2010年に世界思想社から出版されました。カミュの死後50年を記念した(カミュは1960年1月4日にルールマランからパリに帰る途中、自動車事故で死亡しました)つもりですが、この本が出るまでには随分苦労しました。
私はコネとかツテとかいうものを一切持っていなかったので、適当な出版社の連絡先を調べて電話をかけるところから始めました。フツーの大学教授はそんなことはしませんし、多くの出版社は編集部の連絡先を公開していないのでそれだけで一苦労です。
関西学院大学文学部教授という肩書きがあったからか、門前払いされることはなく、梗概を送るところまでは行きましたが、そこからが大変ーーいつ返事が来るかわからないので毎日ドキドキした挙句、「残念ですが……」という返事が来るということが何度か繰り返されると、次第に心が壊れていきます。
私は自転車に乗って大学から帰る際(当時は自転車で通勤していたのです。若かったんですね)ずっと中島みゆきの「夜を往け」ーー「追いつけないスピードで走り去るワゴンの窓に/憧れもチャンスも乗っていたような気がした/あれ以来眠れない、何かに急かされて/走らずにいられない行方もしれず」ーーとチャゲ&アスカの「太陽と埃の中で」ーー「追いかけて/追いかけても/掴めないものばかりさ」ーーを口ずさんでいました。
二曲に共通するものは……わかりますよね。
そんなとき、何かの用事で妻が運転する車で出かけました。カーステレオでは妻の趣味でコブクロの曲がかかっていました。「桜」です。
その曲を聞くとはなしに聴いているうち、気がつくと涙が出ていました。
「人は皆心の岸辺に/手放したくない花がある/それは逞しい花じゃなく/儚く揺れる一輪花/花びらの数と同じだけ/生きていく強さを感じる/嵐吹く風に打たれても/明けない夜はないはずと」の部分に涙したのだろうと思います。
でもなぜそこで私は泣いたのかーー後から考えてわかりました。
「明けない夜はないはずと」の「と」が心に沁みたのです。
一見この部分は「ないはずだ」や「ないはずさ」でもいいように見えます。でも「だ」や「さ」と「と」では全く意味が違います。
「だ」や「さ」だと「明けない夜はない」というのは語り手(歌詞ですから「語り手」とは言わないのでしょうが、言わんとすることはわかってもらえると思います)の言葉になります。
しかし、「と」だとその言葉は花の言葉ーー嵐吹く風に打たれている花が考えていることになります。
つまり、花は「明けない夜はない」というのが本当かどうかわからないまま、それでも自分にそう言い聞かせて風に耐えているのです。
切なくないですか。私は多分その切なさと自分を重ね涙したのだと思います。
私は最近音楽は聞かないと書きましたが、ふとそんなことを思い出してコブクロや中島みゆきやチャゲ&アスカを聞くことがあります。そうすると昔の気持ちが蘇りまた涙します。
歳をとったということなのかもしれませんが、人間というのはそううものだという気もします。
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心に残るショートショート
私の心に残っているショートショートをあと2編紹介します。
一つは「証言」という作品ーーリング禍で死んだ無名の黒人ボクサーの物語で、対戦相手やレフリーや興行主から始まってリングのコーナーポストや道路の電柱までが彼の死について証言するという設定です。
主人公のことをよく言う証言者は一人もいません。興行主は悪びれもせず「気分が悪いならタクシーで帰ればよかったんだ」と言い放ちますし、主人公が倒れ込み寄りかかった道路の電柱は「あいつなんだか「神様、神様」って呟いてました。汚いし臭いんで私は押しのけてやりました」と言います。
でも最後の���言者だけは違います。
最後の証言者は神です。神は「どうやらまた私の息子の一人が来たようだな」と証言します。
はい、それだけの物語です。それだけなんですが……泣きませんか。私はいつもそこで号泣します。「これを読んで泣かない奴は人間じゃねえ」と言うと流石にまずいかもしれませんが、そんなふうにさえ思います。
もう一つ心に残っているショートショートは「遺言」という作品で、大富豪の老人が死んで遺言状が開かれるというものーーその遺言状がそのまま作品になっているという設定です。
関係する人々は老人が莫大な財産を誰にどう分配するか興味津々なのでしょうが、富豪の老人はまず「私の財産なぞつまらぬものだから、君たちの好きに分けるがいい」と書いています。
後に続くのは「恋人たちには初夏の草原を遺そう」、「老人には秋の暖かな日差しを遺そう」といった文章です。
たったそれだけのものなのですが……泣きませんか。私は泣きましたし今思い出しても泣きそうです。
コブクロの「願いの詩」という曲の最後に「拭いきれない悲しみの雨に傘を/尖った心に柔らかな毛布を/冷たい壁には君の絵を/無名のランナーに声援の追い風を/群れにはぐれた羊にママの居場所を/愛する人には疑いなき祈りを」という歌詞があります。これはもちろんそういう人にそういうものを与えたいという「ぼく」の「願い」を語っているわけですが、「遺言」と通じるものがあるような気がします。
だから(いや「だから」というわけではないか)、私はコブクロの「願いの詩」が好きですし、上に挙げた歌詞の部分で泣いてしまいます。
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サイモンとガーファンクルの「ボクサー」とショートショート「帰郷」
私は音楽はあまり聞きませんが、昔はよく聞いていました。
私が一番よく音楽を聴いていたのは中学生の頃ーー1970年代の初めでしょうか。だから聞くとなるとどうしてもその頃の音楽になります。例えばサイモンとガーファンクルがそうです。
サイモンとガーファンクルの曲で私が好きなのは断然「ボクサー」と「アメリカ」。なぜか「サウンド・オブ・サイレンス」や「明日にかける橋」はあまり好きではありません。
今日も今日とて(?)「ボクサー」を聞きました。「ボクサー」は田舎からNYに出てきた少年を歌ったもので、都会に出てきたものの金も住むところも友達もいない少年をひとりでリングに立ちひたすらパンチを受けるボクサーに喩えて、彼の「帰りたい、帰れない」気持ちを描いています。
私はいつも he cried out in his anger and his shame : "I am leaving. I am leaving." But he still remains.(彼は怒りと恥辱の中で「俺はもう行ってしまおう、行ってしまおう」と叫ぶ。しかし彼はまだそこに残っている」というところで泣いてしまうのですが、今日はそこでふと昔読んだ「帰郷」というショートショートを思い出しました。
原題は多分 Coming home だったと思いますが、若い頃犯罪をおかして刑務所に入っていた男が久しぶりに故郷の街に帰ってくる話です。
彼はその街で散々悪い事をしてきたので家族やかつての友人・知人が彼を受け入れてくれるかどうかはわかりません。家に帰る前に彼は雑貨屋に寄って買い物をします。
昔、子どもの頃よく来ていた雑貨屋でそこで万引きをしたこともありますが、それでも店主は彼にいつもつけで商品を売ってくれていました。
店に入ると店主はいまだに健在です。でも主人公のことを覚えていないのでしょう、何も言いません。「そうだよな。誰も俺のことなんか覚えちゃいない」と主人公は思います。
店主は主人公が差し出した商品を黙って受け取り袋に入れます。
そして……
店主は相変わらず黙ったままノートを取り出し、金額をそこに書き込みます。つまり、昔と同じく主人公につけで売ろうとしているのです。
「そうか。俺はやっと故郷に帰ってきたんだ」と主人公が思うところで物語は終わります。
いい物語でしょ。「なんだそれは」と思う人もいるかもしれませんが、私はこの話がたまらなく好きです。
私には「帰りたい」と思いながらいつまでも都会というリングに立ち続け殴られ続ける少年を描いた「ボクサー」と、この物語が裏表の関係に見えます。
他にもう一つ心に残る……というより一生忘れないだろうと思うショートショートがあるのですが、それについてはまた別の機会に書くことにします。
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映画『悲しみよこんにちは』と『帰らざる河』
来る7月21日(月曜・祝日)、私は奈良の志賀直哉旧居で「『悲しみよこんにちは』を読むーーフランソワーズ・サガンとその時代」と題する講演をします。
そのために映画『悲しみよこんにちは』(1958)も見ておこうとAmazon Primeで大枚五百円を払って見ることにしました。
見る機会はいくらでもあっただろうに今まで見ていなかったのです。
監督はオットー・プレミンジャー。出演者はジーン・セバーグ、デヴィッド・ニーヴン、デボラ・カー、ミレーヌ・ドモンジョ。
一般に文学作品の映画化はがっかりさせられることが多いのですが、これはなかなかいい映画だと思いました。
ストーリーはほぼ原作通りで、ジーン・セバーグ演じる17歳の少女セシルのひと夏の出来事を描いた映画ですが、セシルの「現在」を白黒で、夏の思い出つまり「過去」をカラーで描いているのは、ある意味映画の常套手段かとも思いますが、いい効果を生んでいたと思います。
そのあとオットー・プレミンジャー監督つながりで『帰らざる河』(1954)もAmazon Primeで見ました(幸いなことにこちらは無料でした)。
大昔、おそらく中学生の頃、テレビの洋画劇場で見た映画です。
結構好きな映画のはずなのですが、記憶というのは恐ろしいものですねーー白黒映画だと思っていましたが実際はカラー、主演はグレゴリー・ペックだと思い込んでいましたがロバート・ミッチャムでした。
それにロバート・ミッチャムとその息子とマリリン・モンローの3人が筏で川を下る経緯なぞ完全に忘れていて、「ああ、そうだった」と忘れていた思い出を辿るような妙な感慨を抱きながら見ていました。
改めて思いましたが、よくできた映画です。
父親がある人物を後ろから撃って刑務所に行っていたと聞かされショックを受けていた子どもが、父親の命を守るためにある人物を後ろから撃つというあの展開は今見ても素晴らしいと思いますし、バーのステージで「帰らざる河」を歌ったマリリン・モンローをロバート・ミッチャムが何も言わず抱き抱え、何を言われても返事をしないけれど、モンローを馬車に乗せて「どこへ行くの?」と尋ねられたときにHome(家へ)とだけ答えるのは「粋」ですし、馬車に乗ったモンローがそれまで後生大事に持ち歩いていた赤いハイヒールを地面に投げ捨てるのも「粋」だと思います。
インディアン(あえてここではネイティブ・アメリカンとは書きません)はワルモノとして扱われているし、子どもが銃を扱うしということで、現在の価値観からすると受け入れ難い部分もあるのかもしれません。私が「粋」だと思ったあのラストだって、「��をモノ扱いしている」、「マッチョイズムだ」と言えなくはありませんが、でも私は好きですね。
この勢いで今度はデボラ・カーが出演した『王様と私』でも見てみようかな。
追記: どうでもいい話ですが、ロバート・ミッチャムが街のレストランを訪れた際、レストランの親父が「うちはなんでもあるよ。フォワグラ以外は」と言うのですが、その時フォワグラ(foie gras)のことを「フォイグラス」と言っていました。 英語だとそう言うんでしょうか。よくわかりません。
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最近見た芝居と映画
「おひさしぶりね/あなたに会うなんて」というと昔懐かし梓みちよみたいですが……と前にも書いたような気がしますが、ここに書き込むのも久しぶりです。
せっかく習慣になっていたものを中断するのは残念と言えば残念んですが、ブログなんて絶対書かねばならないものでもなく、ましてやこのブログなぞ誰も読まないので、まあ気の向いた時だけ書けばいいという気もします。
その意味では芝居も同じで(芝居はありがたいことにそれなりに見に来てくださるお客様がおいでなので、その意味では同じではありませんが)現在開店休業中ですが、こちらもまあ気が向いたら再開しよと思っています。
とりあえずは最近数ヶ月に見た芝居と映画のタイトルだけでも書いておきます。
芝居は…… えーっと、何を見たかな。
ピッコロ劇団オフシアターの『ダウト』と、文学座の『肝っ玉おっかあとその子どもたち』(ブレヒト作)と、演劇学校での恩師辰さんこと島守辰明さん作・演出の『新天地へ』の3本を見ました。
映画は……えーっと岡本喜八監督・仲代達也主演ののおバカコメディー『殺人狂時代』を見て、大学の人文演習(基礎ゼミのようなもの)で学生が発表するということでディズニーの『リメンバー・ミー』と『アナと雪の女王』を見て、Amazon Primeに上がっていた短編映画『点』、『ひびき』、『追憶ダンス』、『ナニカの断片』、『煩頭(ぼんず)』、『終末のイブ』、『トゥルボウ』を見て、7月に奈良の志賀直哉旧居で講演のテーマに取り上げるフランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』の映画化(オットー・プレミンジャー監督、ジーン・セバーグ、デヴィッド・ニーヴン、デボラ・カー出演)を見て、その勢いで同じオットー・プレミンジャー監督の『ローラ殺人事件』を見ました。
こうして並べると結構見ているようですが、3ヶ月でこれなので以前のペースに比べればむしろ非常に少ないというべきでしょう。多い時はひと月に30本くらい見ていましたから。
芝居だって映画だって、見なければならないものではないのですが、それだけバイオリズムというかエラン・ヴィタルが低空を彷徨っているということなのでしょう。
歳なのかな……
認めたくないけれど、そうなのかもしれません。
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映画『チタン』
U-Nextで映画『Titane/チタン』(2021)を見ました。
フランス映画だし、カンヌでパルム・ドールをとった映画だし、もっと早くに見ても良かった映画なのですが、見るには心の準備がいる気がしてようやく見たものですが、予想通りキモチワルイ系の映画でした。
頭にチタンを埋め込まれた女性が自動車しか愛せなくなる映画だと私は勝手に思い込んでいましたが、全く違います。
次の展開が全く読めない映画で、私はずっと「何? いま何が起きているの?」、「ワタシは一体何を見せられているのか?」と思いながら見ていました。
ヒロインのアレクシアは幼い頃交通事故に遭い頭にチタンを埋め込まれます。
大人になった彼女はモーターショーでコンパニオンのようなことをしています。ショーの後、車までつけてきたファンの男に絡まれた彼女は男と熱烈にキスをしながら髪につけていたかんざしを男の首に突き刺して殺します(フランスにもかんざしってあるんですかね。ジャポニスムというやつでしょうか)。
シャワーで返り血を洗い流していると扉を激しく叩く音がします。なんだろうと扉を開けてみるとそこには一台の自動車が置かれています。
そこでアレクシアはその自動車とセックスをします。
どうやってするのかは聞かないでください。アレクシアは全裸でシートに座って足を開き、車はライトをつけたままギシギシ、ガタガタ動きます。それでセックスしたことになるんでしょうか。いささか疑問は残りますが、まあそういう設定です。
このセックスが原因でアレクシアは妊娠してしまいます。
その後アレクシアはモーターショーで一緒にコンパニオンをしていた女性といい仲になります。レズビアンというわけですね(シャワーを浴びていた際、アレクシアの髪が隣りにいた女性の乳首のピアスに引っかかって取れなくなったというのが二人が知り合ったきっかけです。なんという出会いだ!)。
アレクシアは相手の女性の家へ行き、居間のソファで彼女といちゃつきますが、やはり突然かんざしで相手を刺し殺します(アレクシアは連続殺人の犯人で、それ以前にも何人も殺しているという設定です)。
悲鳴を聞いて出てきた男性の同居人も口に椅子の足を突っ込んで殺します(なんという殺し方だ!)。
するとそれを見ていた女性の同居人が悲鳴をあげてトイレに逃げ込みます。追いかけるアレクシアーーすると巨漢の黒人男性(彼も同居人なのでしょう)が出てきて「トイレに行くの? 俺も行きたいんだけど」と言います。
「一体この家には何人住んでるんだ」とツッコミを入れたくなるシーンですが、まさにそのタイミングでアレクシアは男に「この家には何人いるの?」と言います。我々観客の心の内を代弁してくれているわけですね。
名シーンですね(もちろん皮肉で言っています)。
アレクシアはその男性を殺害し、トイレに閉じこもっていた女性も殺そうとしますが、間一髪女性は逃げ延びます。
そこからちょっと訳がわからないシーンになります。アレクシアは倉庫のようなところに入り布のようなものに火をつけます。火は一気に燃え上がり家を焼きます。
アレクシアがある部屋のドアを開けるとそこには中年の男がいます。アレクシアはすぐにドアを閉めて外から鍵をかけます。
えーっと、何が起きているんですか? さっぱりわかりません。
後からWikipediaで見ると、アレクシアは証拠隠滅のために自宅で衣服を燃やそうとするが火が大きすぎて家が燃えてしまう、彼女は自分の両親を部屋に閉じ込めて家もろとも焼き殺すと書いてあります。
なるほどそういうことだったのか……って、わかるかそんなもん!
と、とりあえず怒ってみましたが、これはそういう映画です。
で、どれくらい時間が経ったのかわかりませんが、アレクシアは指名手配されています。説明は一切ありませんが、おそらく仕留め損ねた女性が警察に証言したのでしょうね。
似顔絵が出回っているのでアレクシアは駅の洗面所で髪を切り、胸にガムテープを巻いて男装します。さらに顔を変えるため自分で顔を殴りますが、当然ながらうまく行きません。そこで彼女は洗面台の角に思い切り鼻をぶつけて人相を変えます。
痛い! 私はグロテスクなシーンは平気ですが、こういうシーンは見ていて辛いものがあります。
それから場面変わって、いつの間にかアレクシアは警察に保護されています。一人の男が彼女をみて「あれは私の息子だ」と言います。
え? 息子? まあ男装しているのでそう思うのかな。
男の名前はヴァンサン、若い者から「隊長」と呼ばれていて、「え? 何者?」と思いましたが、消防隊の隊長のようで十数年前に息子が行方不明になっていたようです。
アレクシアは正体がバレるのを恐れてか一言も口を聞きませんが、ヴァンサンは息子と信じて自宅に迎え入れ、消防隊に入れます。
ヴァンサンは毎夜お尻に怪しげな注射を打っています。麻薬か、それともインシュリンかわかりませんが、後でその姿を見たアレクシアに「病気?」と尋ねられて「老いだ」と答えたところを見るとステロイドか何かなのでしょう。
アレクシアはヴァンサンと不思議なダンスを踊った後(なぜ踊るのかさっぱりわかりません)、ヴァンサンから鍵を受け取り家を出て行きます。彼女は長距離バス(なのだろうと思います)に乗ります。すると数人の不良少年たちが乗り込んできてアレクシアの隣に座った黒人女性にちょっかいを出し始めます。
バスが出発します。なぜかアレクシアはバス停に残っています。バスを降りたということでしょうね。でも……なぜ降りたんでしょう。
彼女はヴァンサンの家に戻ります(え? なぜ?)。ヴァンサンはその夜注射を普段より多く打ったせいで床に倒れています。アレクシアはヴァンサンを抱きしめ「パパ」と言います(え? なぜ?)。
ここまで見て私はヴァンサンは死んだのだと思っていました。でもそうではありません。翌朝になると元気になっています。気を失っていただけのようです。
ヴァンサンはアレクシアを伴ってある家に向かいます。その家の息子(47歳!)が部屋に閉じこもって出てこないがどうも様子がおかしいという通報を受けたからです(消防隊って火事だけじゃなくてそういう場合にも出動するんですかね)。
47歳の息子は部屋で倒れています。ヴァンサンは救命措置を行いますが、それをみて男の母親は気絶してしまいます。
ヴァンサンはアレクシアに人工呼吸をするよう命じますが、彼女はやり方がわかりません。ヴァンサンは「マカレナのリズムに合わせて胸を押せ。ワンフレーズ終わったら鼻を摘んで口から息を吹き込め」と言って「ダッダダダッダダダーダ、ウー、マカレナ」と歌い出します。
先ほど紹介した「この家には何人いるの?」というシーンと並んでこの映画最大の名シーンですね(あ、これもちろん皮肉で言っています)。
ある日、ヴァンサンの別れた妻がやってきます。ヴァンサンは失踪した息子が帰ってきたと言いますが、妻はもちろん信じません。アレクシアが部屋で裸になっているのを見て、彼女は「ヴァンサンはあなたが息子だと信じてる。彼のことをお願い」と言います。
ヴァンサン自身もその後アレクシアの裸を見てしまいます。それでも彼は「お前が誰であろうと、お前は私の息子だ」と言います。
辛い現実より心地よい幻想に生きたいということですね。テーマとしてはありがち……いや、よくある……いや、あっていいものですし、掘り下げ方によってはいくらでも面白くなるものですが、これはないよなあ。この形では乗れません。
そうこうするうちにアレクシアのお腹はどんどん大きくなっていきます。子どもが産まれそうになるとアレクシアはヴァンサンに助けを求めます。
ヴァンサンはなんとか赤ん坊を取り上げますが、アレクシアは死んでしまいます(死んだのだと思いますが確信はありません。何しろ私はヴァンサンが死んだと思っていましたから)。
ヴァンサンが赤ん坊を抱き上げると、赤ん坊の背中には金属製の背骨が浮き出ているというところで Fin(おしまい)。
うーん、なんじゃこれは。
この映画は批評家から高い評価を受けているとのことですが、一体どこがいいんでしょう。
ストーリーは破綻しているし映像も全く綺麗ではありません。ヌードシーンは山ほどあるけれど全くセクシーではなく、頭を剃り上げたアレクシアがヴァギナや乳首から黒い液体を垂れ流すシーンなぞは嫌悪感を催させます。
ヴァンサンとアレクシアの擬似的な親子関係、二人の絆の深まりがポイントなのかもしれませんが、私は乗れないな。
私にとってこの映画はただキモチワルイだけのどうしようもない映画です。
残念。
追記: そう言えば、今にも子どもが産まれそうなアレクシアがヴァンサンに助けを求める直前、ヴァンサンはひとりベッドに横たわり透明の液体(灯油かなにかでしょうか)を口に含み、それを自分のシャツに吐き出して火をつけ、慌てて消します。
これって一体何のシーンなんでしょう。ヴァンサンは自殺しようとしたってことですか。
全く訳がわかりません。
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映画『アンテベラム』
U-Nextで映画『アンテベラム』(2020)を見ました。
この映画は一切予備知識なく見るべき映画です。未見の方はご注意ください。
私は極力予備知識なしに見ようと思いましたが、見る直前にU-Nextの作品情報でストーリー紹介を見てしまいました。あれは明らかに失敗でした。
ストーリー紹介には「博士号を持つ社会学者で人気作家でもあるヴェロニカは、夫と娘と共に幸せな家庭を築いていた。ある日、講演会に招かれた彼女は、力強いスピーチで拍手喝采を浴びる。しかしその後、ヴェロニカの輝きに満ちた日常は突然崩壊し、悪夢へと反転する」とあります。
ところが映画はアメリカ南部のプランテーションでの奴隷たちの悲惨な生活から始まります。
「あれ? どういうこと?」、「これって主人公が見ている夢なのかな。それとも劇中劇?」と思ってみていましたが、なんとこのシークエンス40分近く続きます。
40分経ってようやく携帯電話の音が鳴り、それまでプランテーションで奴隷として働いていた女性が豪華なベッドで目覚めます。
女性の名前はヴェロニカーー金持ちで「意識高い系」のインテリで黒人差別・女性差別を糾弾する活動家ですが、そのなんというかな……非常に嫌味ったらしい人物で1ミリも好感が持てません。
ストーリー紹介にあった通りヴェロニカは講演を行い拍手喝采を受けたあと、友人女性二人と一緒に着飾って高級レストランへ行くのですが、キッチンに近い悪い席に案内されると、「こんな席はいや。こっちにするわ」と言って勝手に席を代わり、店の人間に見せつけるように一番高い(のだと思います)シャンパンを注文します。
嫌味ったらしいたらありゃしない。
そのあと友人二人と別れてタクシーに乗ったヴェロニカは謎の人物に誘拐されてしまいます。
ーーとここまでが第二部。物語は再び冒頭のプランテーションに戻ります。
プランテーションでは白人のご主人様が携帯電話で誰かと話をしています。
「え? これって南北戦争時代の話じゃなかったの?」って誰でも思いますよね。
そうなんです。プランテーションの物語は昔の話ではなく現代の話ーータクシーの中で襲われ誘拐されたヴェロニカはこのプランテーションに連れてこられ奴隷として扱われているのです。
ナイト・シャマランのある映画にあった設定ですね。私は最初の40分を見ているうちにそうじゃないかなと思っていたので、衝撃は全く受けませんでした。
ヴェロニカは仲間の男性と一緒に脱走を試み、白人のご主人様を殺して携帯電話を奪い警察に連絡します(その際、仲間の男性は殺されてしまいます。ヴェロニカは彼に「教授」と呼びかけます。奴隷扱いされていたこの男性もインテリだったというわけですね)。
ヴェロニカはさらにご主人様に仕えていた男たちやご主人様の奥様も殺し、馬に乗って逃げていきます。ある門を越えるとそこには「アンテベラム、南北戦争再現公園」(だっけ?)と書いてあります。
門の外には警察が来ていてオ・シ・マ・イ。
ご主人様だった白人は上院議員で白人至上主義者だった、彼は巨大な公園を使って白人が黒人を奴隷にして支配する理想のプランテーションを作り上げ街から黒人を拉致していたというオチですね。
やりたいことはわかりますが、このオチは容易に予想できるものだったし、善悪二元論というのかな、白人=悪という図式が目立ちすぎて私は乗れませんでした。
それに何より主人公に1ミリも共感できないのが最大の問題ではないかと思います。
もうちょっと好感の持てる人物にできなかったんでしょうか。
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