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TKA4 -都営高円寺アパート4号棟-
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tka4blog · 5 years ago
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カルトを軸にした雑記(ダイゾウ)
今更大声で言うことでもないが、僕は独り言が多い。家にいる時や一人の時はなおさら多い。外出中は半ば無理やり抑え込んでいるところがあるのでちょっとした考え事程度だけど、家やTKA4に一人でいる時は自分でも出典を覚えていないフレーズや、どこで拾ってきたかわからない鼻歌をのべつまくなしに撒き散らしている。
「ごっこ遊び」
さて、こんな情勢下である。意識して自粛しているつもりはないが、たまの休みも家にこもって映画を観たりこんな雑文を書くことが多くなった。先日はふと思い立って「魔宮の伝説」を観ることにした。我が家にはある時期までテレビがなかったこともあり、メインのメディアは本かラジオか映画だった。「魔宮」は祖母の家にVHSがあったこともあり、先日の某星間戦争映画と並んで擦り切れるほど観たのにもう何年も、いやもう十何年も観ていない映画だ。 もちろん映画自��は色あせず面白かったのだが、それ以上に驚いたのがいかにこの映画が自分の人格形成に影響を与えていたか、である。思えば、まだ主観と客観の垣根が曖昧な子供時代のある期間に「ごっこ遊び」をした作品は強く内面化され、現在になっても度々表層化されてくることがあるのだろう。そして僕の場合その一例が「魔宮」だったのだ。僕の食い意地に影響を与えたであろう宴会の食事のシーンもさることながら、何よりも知らず知らずに影響を受けていたのは映画中盤、邪教タギーカルトの信者たちがカリー神に生贄を捧げる儀式のシーンだ(全く関係ない話だが、このタギー教Thuggeeから英語のサグThugが来ているとこれを書き始める数分前に知った)。僕が家に一人いる時に意味もわからず口から出てくる言葉の一つは、タギーカルトの祈りの言葉だったのだ。 並ぶ骸骨。薄暗い炎に照らされる邪神の像。鳴り響くドラム。一心不乱に謎のお祈りを唱える四つん這いの信徒たち。風呂上がりに裸のままこの邪教の信者を演じて遊んでいた子供の頃がありありとよみがえった。道理で未だにズンドコズンドコな儀式に強く惹かれるわけである。ホラー映画に多い悪魔教の儀式には居住まいを正す。大学の象徴学の授業で歴史的、政治的に正しくない映画の例として観た「アポカリプト」の生贄シーンも大好きだし、その極北が「MMFR」のウォーボーイズなのだろう。
カルトと映画と儀式
ここ数年、以前であればカルト映画とされていそうな映画が、そのカルト性も含めてメインストリームにも食い込んでいるように感じる。もちろん上述の「MMFR」もそうだし、昨年で言えば「ジョーカー」や「ミッドサマー」も内容を見てみればどちらかと言えば後年カルト映画として紹介されそうな映画だ。特に後者は(邪教かどうかは置くとして)儀式そのものを描いた映画としても興味深い。
「儀式」と言う行動については去年の夏の旅行から考えていて、TKA4のラジオの第一回目でも話している。詳しくはそちらのラジオを聞いてみてほしい(https://youtu.be/Ck22w8lnI6k)。 簡単にまとめると、ある社会集団にはコミュニティとして存続するために儀式が必要だ、ということ。具体的にはコミュニティのメンバーと同じ空間、同じ時間、そして���烈な感情を共有する社会行動だ。20世紀においては、おそらく最も顕著な大衆の儀式として映画そのものがあっただろう。同じ空間で同じコミュニティに属した人たちが同じスクリーンを観て笑ったり泣いたり怒ったりする。あるいは音楽のライブもそうだ。ラジオではポツダムのパンクライブの話を例に取った。 逆に、内面化されていない儀式は儀式として機能しない。昨年末、「魔宮の伝説」のVHSを録っておいてくれた祖母が他界した。葬式は浄土真宗に則って行われ、驚くほどアヤシイ儀式的な要素に満ちていたが、僕もおそらく家族も強い感情の動きは感じなかった。粛々と言われた通りのことをこなすだけだ。個人的には焚き火にドラムセットと骸骨だらけの祭壇でもあったほうがより深い悲しみを感じていたことだろう(そう感じるのは家族でも僕だけだと思うが。念のため) なんのことはない、カルトな儀式は何一つ特別なものではなく、儀式的働きをしているかどうかは内面化されているかどうかだけの違いしかないのだ。TKA4のイベント(?飲み会?パーティー?)も思った以上に大きい儀式だったらしく、みんなとテレビ電話で話していてもやはり何か大事なものを逃している感覚が日に日に強くなる。 そして規模ははるかに大きくても国家だってカルト。もちろんオリンピック筆頭の国家行事も内面化されていれば立派なカルト儀式。だからこそリーフェンシュタールは「オリンピア」で国家行事たるオリンピックを大衆の儀式装置たる映画に捉えたのだ。
だってカルトだもん
カルトが唱える終末が実際に来た時、最も右往左往するのは信者たちよりその終末を唱えた教団側だろう。しかしカルトを内面化した信者たちは一度内面化した信仰を捨てることは難しいと言う。マスク二枚で笑うなかれ。教団幹部が恵んで下さるものはありがたく受け取るのが信者なのだ。緊急事態宣言を金言のごとく受け取る人の心を知れ。教団側も混乱しつつもそのことだけはよく知っている。
身近な人がカルトにハマる兆候として、著しいユーモアの欠如が見られたら注意しろと言う。実は社会に実利的な意味で多大な害をなすのは、どちらかと言えば大真面目に自分の正義を信じた人ではないか。もちろん社会正義を求めることを冷笑しているのではない。怒りを感じることも、その怒りを示すことも重要だと信じている。しかし、どんな状況でも、どんなに不謹慎な状況でも、口の片端をちょっとだけ捻りあげる余裕は持っておきたい。
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tka4blog · 6 years ago
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例のあの銀河系の話(松口武志)
凄まじくお久しぶりです。松口武志です。いや、違うんですよ。今回テーマがテーマ、どこからどんな石が飛んでくるかわからない!そこらの政治的発言よりも炎上しやすそうな題材なのであくまでメンバー外からの投稿という形にさせてもらいます。いやほんとすんません、勘弁してくださいごめんなさい。
せっかくブログ作ったのに放置しっぱなしになっちゃってもったいないのでこれからはチョコチョコ色々書いていきたいと思います。実は結構書き溜めはあるんだけどやっぱり酒の勢いで書いたらすぐにアップしないとダメだね。翌日見返すと粗ばっか目についちゃってアレヤコレヤ直してる間に機を逃しちゃう。Facebookの雑文投稿とかぶることも多いと思いますがまあブログだし、肩肘張らずに酒のアテにでもしてください。って松口が言ってます。
※当然ながらネタバレ満載!なんの話かわかった時点でネタバレが嫌な人は読むのをやめて!!
※あくまで例の銀河系大河シリーズに構造的に突っ込んでます。細かい設定とか内容そのものに対しては(もちろん言いたいことは腐る程あるけど)踏み込んでま��ん。
例のあの星間戦争
僕とスター・ウォーズ(あ!言っちゃった!)が出会ったのは、小学校のウンヌンカンヌンという書き出しはこの銀河に星の数以上にあることだと思うのでここでは省略する。また、シークェル開始前のサーガ全体の評価もあまりにありふれたものなので詳しくは触れない。簡単に言うと「帝国の逆襲」がベスト、プリクェルは否定派(ただしダース・モールは最高)。ほらね、普通でしょ。
 好きかと言われれば大好きだし映画そのものの原初体験として大事なシリーズであることに違いはないが、いわゆる無人島の一本かと言われれば首をひねるし、何よりホンモノのファンの皆様方が怖いのであまりファンを公言できない。まあこれも普通よね。  
ディズニー・シークェル
さて、シークェルである。論争は承知の上だし僕も言いたいことはあるが、面倒なので1〜9の通し番号で話を進めると、まずは7だ。これはもうお祭り。祭りじゃ祭りじゃ!てやんでぃ細かいこたぁほっとけぃ!「ジャーーーーン!!!」が劇場で、しかもまっさらな状態で観れるんだぜ!ファンじゃなくったってあがらぃ!である。そりゃプリクェルだってそうだったんだけど、何せシークェルには終着点がない。このガキがあのダース・ベイダーになるんかい!?という時空を飛び越えた原作による原作レイプ(?なんだか◯書みたいだな…..)はないのだ。要はこの時点ではいわゆるシュレディンガーのイウォークだ。待て、イウォークが毒ガスにやられたら忍びないのでやっぱり猫にしよう。シュレディンガーの猫だ。いや猫もかわいそうだ。シュレディンガーのストームトルーパー?わかった、シュレディンガーのグンガンにしよう。これで万事解決。要はシークェルの幕開けは、素晴らしいものだった!というよりも、ひっでえところに目を瞑るにやぶさかではないノスタルジーツボ押しお祭り商法だった、ということだ。  
ところがローグ・ワン。これは素晴らしかった。綺麗にサーガを閉じてしまった。いや、映画として素晴らしいとか史上ベストと言うつもりはない。ノスタルジーを刺激しつつあれだけポップアイコンに「成り下がった」ダース・ベイダーを復活させた(いわゆる「ヌキどころ」ね)のもさることながら、キチンとはるか彼方の銀河系の神話をアップデートしてくれた、ということ。ここら辺に関しては後ほど詳しく書きます。 
というわけで8。もうローグ・ワンで僕の中のはるか彼方の宇宙戦争は綺麗に閉じていた。祭りの興奮も冷め、半ば義務感から観に行った。結論として、僕は古びたオモチャの新しい遊び方を見つけた。
はるか彼方のメタ視線
 映画自体は大したことはない。いらんシーンの連続、とってつけた新設定まみれ、ツッコミどころ満載の行動。そして何より新キャラクターたちに感情移入できない。思えば7も、あ!レイアだ!ミレニアム・ファルコンだ!ハンソロとチューバッカだああああああ!!!というお祭りであって、そういえば新キャラもいたっけ、という感じだった。これは乗れない。はいはい、頑張ってね〜大変だね〜ふ���ん。わ〜ど〜しましょ〜。
 そしてこの冷めた目線が今までのスター・ウォーズでは(キャラクターに乗れていたからこそ)そこまで意識しなかった凄まじい距離感、はるか彼方のメタ視線を与えてくれたのだ。直接的に言えば、台詞のメタ化。特にカイロ・レンとヨーダ。ちょっとルーク。つまり「いつまでも古臭いもんにこだわってんじゃねえ!新しい未来は自分で切り開くんだよ!おい、てめえに言ってんだぞこのクソファンども!!!」という声が幾ら何でも喋りすぎなオビ・ワンの霊体のごとく語りかけてきたのだ。僕の中でむくむくと意地の悪い好奇心がベスピンの雲のごとく……いや、ヨーダがダゴバの沼から引き上げるXウィングのごとく……いや……ああめんどくせえ、湧き上がった。物語内への興味はほぼない。このシリーズがどこへ向かおうとしているのか。ただそれのみ。 ところが8のチャレンジは中途半端に終わった。ルークは善悪二元論的な正義の名の下に帰ってくるし、レイは暗黒面に踏み込まない。多くのスター・ウォーズファンが8に激怒していたが、はっきり言おう。全然足りない。スター・ウォーズをわかったつもりになってんだろ?悪いね、こっからは全然新しい物語だから。何せこっちは錦の旗持ってるもんねー。くらいの姿勢でもって全銀河のファンがエンドアのジャングルでゲリラ戦を展開するレベルにやらかすべきだった。中途半端。これこそ8をもっとも端的に表す言葉だろう。 
さらに、若干先走りにはなるが3部作の2作目ならもっと強力なフックがあってしかるべきだった。そもそもレイは8の時点でどん底に落ちていない(少なくともそうは見えない)。両親云々の話?でもそのあと何のことなく戦線に復帰してるし、そこに影のようなものは(新たな要素としては)感じられない。あれだ、ハンター試験でヒソカにぶん殴られて凹みまくって悔しいけど、無性に誰かの役に立ちたいって戦線に復帰したゴンにある影は見られないってことだ。神話の英雄は一度アイデンティティが崩壊し、そこから立ち上がることによって英雄になる。アイデンティティが崩壊したところで終わるから3部作の2作目なんだし、5ではまさしくそうだったじゃん。もしスター・ウォーズが「詩的に韻を踏む(byルーカス)」ものだからって9の最大のネタバレを肯定している人がいるんなら、この韻はズレッズレですよ。ああネタバレとかめんどくせえ、つまりレイはパルパティーンの孫だった!という設定は8のラストにくるべきだったでしょう。製作陣はミーティングとかしてたの?てかキャシーは何がしたいの?これは売り上げ至上主義のディズニー的にもよろしくないんじゃないの?金を稼ぎたいなら報連相しっかりしていいもん作ったほうが手っ取り早くない???
んで、完結編
 というわけですでに触れまくっているが9。もう出オチというにもあんまりなズッコケ。マジで隣で観てた人に聞いてほしいけど、比喩ではなく文字通り映画館でズッコケた。人間って本当に漫画みたいにズッコケるんだなあ….。もうこの時点(=映画開始1分)でそもそもミディクロリアンの説得力並みに少なかった僕の真面目に観る気はダース・ベイダーとパルパティーンがチークダンスをする可能性並みに落ちた。あれ、ロボット・チキンとかだとやりかねないな。トーントーンがカンティーナ酒場でショットをあおるくらいに……いや、帝国軍最精鋭のAT-STがイウォークにやられるくらいに……いや、それはあったな……..ああめんどくせえ、ジャージャービンクスがタイマンでヨーダ倒すくらいに消え失せた(グンガン2回目。ありがとうグンガン、ここにきて存在価値が)。これは僕の大して多くもない映画鑑賞史上でも最速かもしれない。何せ「勘のいい人なら!」どころではない展開の読め具合(映画開始1分)。なんなら9の最大のネタバレ、レイはパルパティーンの血縁者ってのも(孫とまではわかんなくても)完全に読める。 そしてこの瞬間(=映画開始1分)、シークェル3部作を一言で表す言葉が見つかった。すなわち「墓暴き」だ。シークェル3部作はあらゆるレイヤーにおいて墓暴きだったんだ。
 スター・ウォーズの新シリーズを始めようとしたのも墓暴き。ダース・ベイダーのマスクを掘り返してきたのも墓暴き。ジェダイの聖地もシスの星もパルパティーンが蘇る(厳密にはクローンらしいですよへーへーへー)のも死んだハン・ソロが幻影として帰ってくるのも(全く関係ないですがあのシーン、シーンの意味や文脈とは全く関係なくあのハリソン・フォードが!あのハン・ソロが!めちゃくちゃ真面目にいい演技しとる!と泣きました)ルーク以下ジェダイ御一行様がスーフォーと一体となって復活するのも僕たちがノスタルジーゾンビに取り囲まれて身動きできなくなるのもCGなどの技術を駆使して死んだ役者、何よりキャリー・フィッシャーを「延命」させるのも(これはローグ・ワン含む)全て墓暴き。死者を静かに寝かせてやらない墓暴き。そう考えるとパルパティーンが復活したのも悪い意味で必然と言えるでしょう。
クリシェもなんなら墓暴き
 とまあそんな具合に観ていったんだけど、やっぱJJは「クリシェで映画を作る職人」なのね。7の時はお祭り熱に当てられてオマージュだなんだ自分を誤魔化してたけどここにきてはっきりした。特にセットアップが終わった9にはなーーーーーーんにも驚きがない。いや、正確に言えば枝葉末節のうざったい目配せ的驚きばかりが目立って、幹や太い枝、要はプロット自体はクリシェに始終してひねりが何もない。驚きがあればいい映画と言う気はないし(お前だぞシャ◯ラン)、クリシェ自体が悪いわけではない。ちなみにこのクリシェ問題は僕がガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシーに乗り切れなかった最大の理由でもあるが、それは僕がこの映画の乗り方を間違えたのが大きい。あるいはジャンル映画とか、それこそメタホラー、メタコメディーのクリシェは大好き。でもこれ、スター・ウォーズだよ?I am your fatherのスター・ウォーズだよ?スレイブ・レイアの格好でホスうろつくようなもんよ?フィールド、間違えてない?いや、40年前なら乗れたかもしれないけどさ。明らかにアップデート不足。映像云々とかアクション云々ではないよ。つまり、物語のアップデートよ。  
神話的アップデート
そしてこの物語のアップデートこそが、9が翻ってシークェル全作を駄作たらしめるに至ってしまった最大の要因だと思う。怒りのデス・ロード。2049。ジョーカー。そして(皮肉ではあるけど)ローグ・ワン。これらを現代の傑作せしめる要因をまとめると、  
「自分という人間を決めるのは出自でも血縁でもない。どう生き、どう死ぬかだ。よく生きろ。そして、よく死ね」 
ということではないかと僕は思うのだ。つまり、神話的な意味で英雄が英雄になるために必要とされていることが、「自分は王の子だと気づく」というものから「自分は王のごとく生きる(そして死ぬ)と決意する」ことへとアップデートされている(より正確には重心がシフトしている、なんだけどまあややこしいんでアップデートでいきます)んではないかということじゃ。ちなみにアップデート前の例としてはもちろんなんとアナキンの息子だった!ルークがいるし、何より一番わかりやすいのはハリー・ポッターだと思うぞい。ちょっと話はずれるけど指輪物語のアラゴルンが前者、フロド筆頭のホビットたちが後者じゃな。 
今回の9ではまあ出自血縁を否定し自ら「正義」を選ぶ、って具合にしてるつもりなのかもしれないけど、せっかく8で「出自とか関係ねー!なんならオリジナルもファンも関係ねー!おめーらうるせーんだよクソオタクどもが!この21世紀に血縁的な正当性なんて、なんなら大上段に構えられる正義なんてあるかーーい!」っていうあえて言えば現代的なフレを(十分ではなかったにせよ)示したのに、結局「持てる者」、っていうか「最初っから持ってた者」の物語になっちゃった。これはもう物語そのもの、神話の構文そのものに対する墓暴きでしょう。キャスリーン・墓暴き・ケネディでよくね?クリシェもある意味墓暴きみたいなもんだしさ。
かくて膝をつきし英雄(松口)は再び立ち上がりぬ
 さて、僕は特に注目作とか思い入れがある作品はトレイラーも含めてあらゆる情報をなるべく遮断した上で1回目の観賞を迎えたい派なんだけど、観終わったら今度はあらゆる情報を掘り尽くしてしゃぶり尽くしたい派なのね。そんなわけで今回もネットに溢れる銀河中のクソオタk……ファンの皆さんの考察や小ネタ集を漁ってたんだけど、最大の収穫がありました。それは「スター・ウォーズはスカイウォーカーサーガやなかったんや!パルパティーンサーガだったんやでえ!」というの。まさしくこれ。これですよ。こうなるってぇと俄然プリクェルから観直したくなってくるぞ!今度はパルパティーン側にベッタリで!パルパティーンの伏龍鳳雛!栄光と挫折!そして復活!しかし最後は世代の壁に敗れる……老皇帝は死なず、ただ去るのみ………やべえ!めっちゃ楽しそう!そうかなるほど!これはそういう映画だったのか。さすがスター・ウォーズ、さすがルーカス、さすがディズニー、この世代間の温度差や断絶まで計算した上で40年も続けてきたのか!よーし、こうなったらマラソンじゃマラソン、スター・ウォーズ改めパルパティーン物語マラソンじゃああああああ!!!!!
 終。いやほんとすんません。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
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tka4blog · 7 years ago
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TJ個展「リバース/Reverse」11月23日〜29日 (ダイゾウ)
クラウドファンディングがついに終了しました。支援してくださった皆さん、本当にありがとうございます!目標金額は達成できなかったけど、入った分はちゃんとファンドされるので有効活用させていただきます。達成金額やリターンについては近日中に報告します。毎度後手にまわり申し訳ありませんがもう少々お待ちください。
個展!
さて、オープニングの狂騒も落ち着きいよいよ平常運転が始まったTKA4では早くも第二弾の個展が予定されている。11月23日〜29日、アーティストのTJによる「リバース/Reverse」である。
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【アーティストによる展示内容】 一年半ほど前から制作を始め、2018年4月に初個展 メタリックな絵の具で塗り固められた金属板のようなキャンバスに飛び交う、蛍光色のカラフルな画材 抽象的なようでいてどこか具体的なイメージを喚起する画面構成、デジタルイメージを思わせる鮮やかさを持ちながら画材が盛り上がった極めて具体的な物質感 絵の具が落ちた際に作る偶然の美しさに驚きそれを紡ぐことは、"瞬間を慈しむこと"であり"過ぎ去った一瞬を永遠のものにしようとする"行為である
今回、TKA4初の試みとしてアーティストへのインタビューを通して(いや、雑談か。録音もしていないのでメモと記憶を頼りに書いてます)アーティストや作品そのものといったミクロな切り口と、個展会場であるTKA4という場所、あるいは個展そのものの意義などのマクロな切り口を重ね、繋げ、撚り合わせてみたいと思う。まあ初の試みって言ってもオープンから間もないし誰かの個展自体二回目だから大体何をやっても「初の試み」になるんだけどさ。そういえば前回のブログにも「初の試みとしてフルセットのバンドライブ!」とか書いてたわ。
インタビュー(?)の経緯とタイトル
さる10月27日、TJが個展の打ち合わせも兼ねてTKA4に遊びに来てくれた。初めは日程、予算、セッティングなどの事務的な内容が主だったが、ビールの空き缶と煙草の吸い殻が増えるに従って徐々にコンセプトに関する雑談へと話題は移っていった。 コンセプトを練る上では、もちろん個人差はあるとは思うが大枠を決めてから要素で埋めていく演繹タイプと、集まった要素を並べてから枠を作っていく帰納タイプがあるように思う。今回の個展に関しては比較的前者のスタイルであったらしい。TJは雑談の中で、今回のタイトルには「リバース/Reverse」を考えている、と話した。しかし具体的なコンセプトらしいものはまだはっきりとはしていないらしく、この漠然としたタイトルを出発点にさらに掘り下げるべく僕たちはビールと煙草を追加した。
ミクロ(TJ個人の制作活動)
まずはミクロな観点、TJの作品制作そのものにスポットを当ててみよう。本人の語るところによると、美大を卒業してからずっと絵は描いていなかったという。それが再び制作をするようになったきっかけは、ある別れだった。 同居人との別れ。部屋の広さは倍になり、その密度は半分になる。よくある話と言えば、よくある話。別れは物理的にも精神的にもスキマを生み出す。そのスキマを埋める方法は人それぞれだろうが、TJの場合は制作だった。まずは壁のスキマを埋めるようにして、彼が絵を描き「始めた」のが今から一年半ほど前。壁のスキマを埋める作業は、同時に精神の空白も埋めていく。こうして制作を続けた彼は、今から半年ほど前、2018年4月に本人初となる個展「I have it」を新宿で開催するまでに至る。 一生命体として、我々人間は生誕から死、という時の急流の中に身を置いている。この急流の中で我々がコントロールできるのは、流される自らの姿勢程度しかない。その点から見ると、彼の初個展は過去にあった別れを常に意識した極めて「後ろ向き」なものであったそうだ。「後ろを志向した」と言い換えてもいい。ここでは「後方志向」という表現をでっち上げておこう。別れの傷を癒す、別れによって生まれたスキマを埋める。その行為はいつしか「前を志向した」行為へと転換する。流される方向が変わるわけではない。流される姿勢が変わる。方向転換。逆転。後ろから前へ。過去から未来へ。生誕から別れ、「前方志向」への転換を経て、それでもなお避けられない究極の「後方志向」、死へ。TJの個人的な物語における「後方志向」から「前方志向」への「リバース/Reverse」地点こそが今回の個展になるのだ。
マクロ(TKA4という場所)
次に、空間的な意味からマクロの視点を獲得してみよう。個展会場となるTKA4は、その基本理念にスクウォッティングを置いている。スクウォット(squat、動詞)とは、すでに廃墟になった建物を(主に違法に)占拠し、自分たちの空間に回収してしまうことだ。主にヨーロッパで盛んに行われており、パンクス、アーティスト、アナキストなどのコミュニティーと親和性が高い。 TKA4の所属するビル、都営高円寺アパート4号棟は厳密な意味において完全な廃墟ではない。一人だけとはいえ居住者もいるし、うちも含めて三店舗がいまだに営業中だ。規模を考えれば破格ではあるが家賃も納めている。しかし建物を見れば一目瞭然なように、あとは取り壊しを待つだけの廃墟といった風貌である(実際2020年の東京オリンピック後に取り壊しが決まっている)。 建造され、放棄され、取り壊される。この流れは、言うまでもなく生誕、別れ、死、と言う人間の個人的な物語と重なり合う。そして、建物の放棄という「後方志向」的状況を、自分たちの空間への回収という「前方志向」的行為へと「リバース/Reverse」することこそがスクウォッティングなのである。 そもそも建物とは経済活動の一環として建造されることがほとんどだ。もはや教条主義的に繰り返してきてはいるが、現代社会においては利用価値、金銭的価値があらゆる事物の価値そのものを規定する。都市のデッドスペースたる廃墟ほど現代社会にとって無駄なものはない。対してスクウォッティングは放棄されることにより都市に生まれていたスキマを埋め、金銭的な価値以外の価値をその空間に付加する。まるで、別れにより生まれたスキマを制作という行為で埋めるように。まるで、壁にできたスキマを腹の足しにもならない絵で埋めるように。
もう一つの仕掛け
さて、以上がざっくりと概念的な今回の個展の概要になるが、レシピを読んだだけでは料理の味はわからないように個展に直接足を運ばなければTJ個人の、そして彼の作り出す空間そのものの「リバース/Reverse」を感じることはできない。概要とはいってもあくまで雑談からひねり出したダイゾウの私見に過ぎないし、実際ここでは彼の作品の内容そのものについては触れていない。なので、TJから提案された一つの重要な、そして極めて視覚的な仕掛けもここでは触れないことにしよう。それが「リバース/Reverse」という縦糸に絡まった時どのような織物が生まれるのか。それは直接会場に足を運んで確かめていただきたい。
………..わかったわかった、じゃあ少しだけヒント!前回のイベント「Gluttony -貪食-」で描かれた壁画��その仕掛けのために全て塗りつぶされる。11月17日に行われるパーティー「Look Who’s Back “行きて帰りし物語”」が壁画を見る最後のチャンスになるだろう。芸術の秋はまだまだ続く!ぜひ、二週連続で!TKA4に遊びに来てください。
※「Look Who’s Back “行きて帰りし物語”」についてはこちらのリンクから! https://www.facebook.com/events/557860014661943/
ダイゾウ
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tka4blog · 7 years ago
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Gluttony -貪食- (ダイゾウ)
10月の13日、14日に行われたTKA4の壁画イベント「Gluttony -貪食-」。真っ先に結論を言ってしまうと、大成功のうちに幕を閉じました!!!
宣伝期間が短く前回のブログの通り家賃云々でワタワタしていたにも関わらず(二人の小学生以下の子供を含む)本当に大勢の方に来場していただき、TKA4の壁はさながら上質なAcid Tripのごとく美しく汚れた。遊びに遊び倒していってくれたみなさん、どうもありがとうございます!
※壁の様子は以下のアルバムから見ることができます。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.2169028653385052&type=1&l=8e8e227348
「Gluttony -貪食-」としての大成功
さて、ただ大成功!やったやった、楽しかった!で終わるのもアレなので、少し「どういう意味で大成功だったのか」、について書きたいと思う。まず初めに、そして最も重要なのが、タイトルに込めた意図が完全に回収されたイベントだった、という点がある。
TKA4ではすでにオープニングパーティーで壁を解放し、一度個展のために白く塗りつぶした上で個展のために壁画を描いてもらった。今回の壁画もおそらく11月中旬には次の個展のために塗りつぶす。そして12月にはまた壁画イベントを企画している。比較的早いスパンで塗り替えが行われているわけだ。つまり、マンネリ化という危機がすぐそこの曲がり角で待ち構えていることになる。ただ「なんでも描いていいよ〜」という同じようなイベントをやっているだけではみんな飽きてしまうし、何より僕がつまらない。何かしらの制限、縛りを設けて差別化するのがセオリーだろうが、しかしできるだけ個々人の自由な発想を阻害したくはない........。
そこで今回、緩やかかつ抽象的な方向性は示した上で、どう解釈するかは個々人に任せる、という形を取ることにした。季節はちょうど秋。天高く馬肥ゆ秋。食欲の秋、そして芸術の秋。食欲と芸術。秋という季節が持つこの二つの(あえて言うなら)極めて本能的な要素を練り合わせ、メンバーからの発案もあり「Gluttony -貪食-」というタイトルをでっち上げた。
「Gluttony -貪食-」は聖書に記述される「七つの大罪」のうちの一つだ。暴飲暴食を戒めたもの、と一般には理解されている。別に僕個人は宗教、中でも啓典宗教を強く否定するものではないが、芸術とは常に社会道徳規範への叛逆であり、究極的な意味での(死をその内に孕んだ)生の肯定であるべきだ、とも考えている。だとすれば、(歴史的に見れば以前ほどではないにせよ)社会道徳規範に大きな影響を与えた聖書の戒めを逆手に取るのはまあセオリー中のセオリーと言えるだろう。(とか言って、本当は”Se7en”が大好きなだけだけど。関係ないけど”Fight Club”はもっと好き)
では、その「Gluttony -貪食-」をいかに壁画パーティーに絡めるか?先述の通り、イベント直前のTKA4の壁は前回の個展のために白く塗りつぶされ、個展のための壁画が一部描かれていた(この個展も素晴らしかったので後日ちゃんと書きます!)。つまり、完全に真っ白な状態ではなかった。そこで、すでにある壁画、誰かが描いた壁画を踏まえた上で、お互いに噛みつき、食いつき、貪り合う、というコンセプトをタイトルに込めたのだ。オープニングパーティーでの壁画は、多少の重なり合いはあったが基本的に住み分けがなされていた。今は、これで一つの絵!と区切ることすら困難なカオスが壁一面に展開されている。ちょっと具体的にどんな進み方だったのか見てみよう。
一日目
①個展から残っていた壁画の隙間を主にマジックと墨汁で埋める。
②個展の壁画を離れ、ほぼ壁一面が埋まる。
③広さに限界が来たところで今度は密度が増していく。
二日目
④前日が全体的にモノトーンだったため、絵の具やクレヨンで色をつける。
⑤もはや元の線は気にせず絵の具を壁にぶちまける。
と言った具合。見事に噛みつき合う、貪り合うという「地獄絵図」が展開された。しかも他人が描いたものを悪意を持って塗りつぶす、描き変えると言ったことは皆無で、そこには確実にお互いに対するリスペクトがあった。誰もが自分の本能的な欲求に従って「食欲」を満たしているにも関わらず、いがみ合いや他者に対するネガティブな行動はない。これこそ全知全能の神に対する「Gluttony -貪食-」の勝利であった、と言えるだろう(いや、言っちゃダメか。他意はないです。下手くそな文学的表現と思ってくださいまし)。
........いけね、書きすぎた!以下、若干駆け足で。
「誰もがアーティスト」であった、という大成功
さて、例え参加者がお互いを愛を込めて咀嚼し合っていたとしても、普段からそういうことをやっているアーティスト同士だからできたんじゃないの?という見方もある。アーティスト・コンプレックスを抱えた(=あらゆる意味での芸術は大好きだけどそのセンスも才能も勤勉性もない)僕自身、「誰もがみんなアーティスト」という手垢でテッカテカになった陳腐な言葉にすがりつきつつもそれを内面化するにはいたっていなかった。ところが当日、最初から絵を描くつもりで来てくれたアーティストたち以外の来場者にも(半ば無理強いして)ペンを渡すと、みるみるうちに他の誰にも思いつけないような表現が生まれるのである。それも上記のコンセプトにのっとって。本人たちにどの程度自覚があったのかはわからないが、彼らは立派な表現者、アーティストであった。
もちろんアートの定義には様々あるし、そもそも文脈を踏まえていない表現は表現という呼称にすら値しない、という意見もある。自己認識が最も重要、という意見を取り入れるなら今回の参加者も全員が自らをアーティストだ、と認識していたかどうかはわからない。しかし結局のところ、参加者が自分の脳みその中にあるものをぶちまけるのって楽しい!と思ってくれていたならそれで正解だし、そこから徐々に文脈やら自己認識やらへと進んでくれれば最高だと思う。
「身内ノリを脱しつつある」という意味での大成功
前回のブログにも書いたが、少なくとも僕がTKA4に求めているのは輪郭が曖昧な場所たることである。かといって公共の店舗みたいにお互いが没交渉な場所もご免だ。理想を言えば、初めて出会った同士が意気投合して何か新しい遊びが生まれる、ここでなければ生まれなかったような関係性が生まれていく、そんな場所であってほしい。かつて公園で遊んでいる近所の知らない子供といつの間にか一緒に遊び始めていたように。そのために極力ウチとソト、身内と他人というような分離壁は築かないようにしているつもりだ(それでもまだまだ不十分だけど)。
おそらくイベントのコンセプトが大きな役割を担っていたと思うが、今回のイベントは今まででも比較的分離壁が低いイベントだった。すぐ隣で全く知らない人が自分とキャンバスを共有しているのだ。そこに交流が生まれないはずがない。どの程度まで深い関係性が築けていたかまではわからないが、少なくとも今後に繋がる出会いがあったことは強調していいと思う。そう考えると、「身内ノリを脱しつつある」という表現は正確ではない。より正しくは「身内の幅が際限なく広がりつつある」といったところだろう。少なくとも初めて来た人、フラッと入った人が疎外感に浸る暇もないような場所にしなければいけないし、その一歩は踏み出していると思う。
課題と今後の予定
当然だがいくら大成功と偉そうに胸を張ったところで完全無欠なイベントだった訳ではない。課題は山積みだ。細かいものまでリストアップするとキリがないが、いくつかあげてみよう。
まず何よりも準備の拙さ。企画を立ち上げるのも遅ければ声をかけたり宣伝するのも遅かった。あの遅さに関わらず駆けつけてくれたみなさんには本当に頭が上がらない。また、その声かけ、宣伝に関しては(言ったそばからだが)身内を基本とするものになってしまった。イベント自体は上記のように比較的身内ノリの少ないものであったと思うが、イベント告知が身内ノリになってしまっていては世話がない。イベントが身内ノリを脱しつつあったのもTKA4側がどうこうというよりは来場者のみなさんによるところが大きい。こちらがどのような環境を作るか、という点に関してはまだまだ改善の余地が地平線のかなたにまで広がってい���だろう。用意した画材が少なかった、生ビールが売れ残ってしまった、など課題リストは長大なものになっているが、また次の機会に譲りつつ今後の予定をざっくり書いておく。
とりあえず次回のパーティーは11/17(土)、「帰って来た男/Look who’s back」パーティー(仮題)。ついに9年の歳月を超えて、あの男が帰ってくる。TKA4初の試みとしてフルセットのバンドライブも計画している。近いうちにイベント告知をするので続報を待ってほしい。11/23〜は個展の予約が入っている。これもとんでもない内容で、おそらく今の壁画も全て塗りつぶされる。それも驚くような色に。個展について詳しくはまだ言えないが、その関係で12月にはまた壁画イベントをやることになるだろう。今度のコンセプトはどうしよう?七つの大罪を網羅していくのか(個人的には「Lust」がいいなあ)?それとも今回の「特殊な事情」に合わせるのか?こちらも期待して待っていてほしい。
クラウドファンディングも残すところ1週間と少し。初期費用や家賃といった金の話も含めて頭が痛い今日この頃だが(前回のブログ参照)、こんな面白い場所を潰すわけにはいかない。まだまだ首のすわらないTKA4だが、今後とも優しく厳しく見守っていただけるとありがたい。
ダイゾウ
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tka4blog · 7 years ago
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家賃発生とTKA4のあり方 (ダイゾウ)
8月にオープンして以来個展やら撮影やらイベントやらデモの打ち上げやらでいい感じに回り始めたTKA4。クラウドファンディングも立ち上げ、オープニング期間もそろそろ終わりいよいよ平常運転開始!........と思っていた矢先、ついに来てしまった。そう、家賃の催促!ついでに敷金礼金まで一気に来た!その額、なんと45万円!!!無理無理無理無理!
っていうか気づけよ
そう、そうなんだよ。遅かれ早かれ家賃が発生することはとっくに知っていた。色々後回しにしていたツケが回って来ただけなんだ。格安とは言えタダで借りている物件じゃあないし、ただでさえ物価の高い東京でも最も高いのは「場所代」だし。しかしとりあえずは内装をなんとかすること、イベントや個展企画への対応や計画、レンタル規格を設定したりすること(それから酒飲んで映画を観ること)にかまけていて、というかあえてかまけることで不愉快な金の話を押し込めていた.......。
「フリースペース」という言葉と金
当初僕たちはTKA4を「フリースペース」である、と称していた。これがどうも一部で誤解の元にもなっていたらしい。すなわち、ここはタダの場所、無料空間と思われていた節があるのだ。この場合僕たちが「フリー」という言葉に運搬させようとしていたのは、「何をしてもいい!」「何もしなくてもいい!」「使い方はあなた次第!」という意味だ。無料、のフリーではなく、自由、のフリー。んでもって、現代社会で自由ほど金がかかるものはない。
もちろんこんな利益度外視のスペースをやろうって連中だから運営メンバーの中に金にうるさいヤツはいない。どちらかっていうと金なんかなくてもなんとかしようぜ!スピリットに溢れている集団だ。「TKA4宣言!」にも書いてある通り、何もかもが金銭的価値、利用価値でしか計られない現代社会への叛逆の試みがTKA4なのだから。なので遊びに来てくれる人に料理や酒を振る舞うし、パーティーやイベントでも入場費やチケット制にはせず、極力来場者各々の自由意志によるカンパで成り立たせようとしている。個展、イベントをやりたいとなったら(スペース費を払っているアーティストとの兼ね合い上)それなりに頂戴するが、それだって他に比べれば格安だ。利益は出さず、場所の維持さえできればいい。これは大前提だ。もし万が一黒字が出たら設備投資に回そう、くらいな感じ。
しかし、現実は思っていたよりもはるかに厳しい。なんとか回る、どころか帳簿は血で塗られたかのごとく真っ赤に染まる。メンバー個人が立て替えた未清算のレシートはうず高く積み上げられ、請求書に踊る黒インクで事務机はさながらアナルコ・コミュニズムの黒赤旗のごとし、である。この黒が黒字の黒だったらどんなによいか!
一体ここは誰の場所よ?
前回のブログにも書いたが、この文章の文責はダイゾウ個人にあり、ダイゾウの意見がそのままTKA4の意見ではない。メンバーには僕の意見と全く異なる意見を持っている人もいるだろう。その上でだけど、僕としてはTKA4は可能な限り輪郭の曖昧な場所であってほしいと願っている。社会運動系の場所しかり、アートスペースしかり、一つのコミュニティーができると途端にそれは硬直化への一途をたどる。中心、外縁、余所者。よく来たね!ああ来たんだ。誰だあいつ。しかも、その位置決定のファクターは実に曖昧だ。コミュニティーへの貢献度が最も一般的だろうが、その貢献度で最も一般的なのは金になってしまう場合が多い。これでは「TKA4宣言!」で否定されたはずの現代社会そのものになってしまう(せめてめっちゃ皿洗いしてくれる!、とかならまだしも)。
もちろんカンパを出してくれるのはとてもありがたいし、より多くカンパを出してくれた人に対し個人的にはより特別な感情(変な意味ではない。念のため)を抱くことも多い。しかしまた同時に、「今月は金がない!ごめん!」となけなしの小銭をカンパ箱に投げ入れてくれる人もまた同じようにありがたく思うのだ。少なくとも両者の間に待遇、態度などあらゆる意味で差はつけたくない。さらに言うなら、カンパをびた一文出さない人に対しても無差別な振る舞いをするべきなのだ、ということも理解している。金がないからTKA4行けない、なんて状況はあってほしくない。逆に、これだけ金を払ったんだから他の人よりいい待遇をしろ、というのもお断りだ。
僕たちは一応TKA4の運営メンバーということになっている。輪郭のはっきりしたコミュニティーとして言うなら中心だ。しかしTKA4の主体は「遊び家」たちであるべきである。運営メンバーは遊び家たちのサポートや利害調整のために存在するのだ(もちろん運営メンバー自身も遊び家としてTKA4の主体である)。TKA4は決して代議制民主主義国家の縮小図としてのコミュニティーではなく、時に自己矛盾する自由意志を持った個人の拡大図としてのコミュニティーであるべきだと思う。
結局、大事なのは何さ?
つまるところ、TKA4はお店でもなく会員制サロンでもなく、路地裏のちっこい公園のような場所である、ということが言いたいのだ。誰が来てもいいし、何をしてもいい。来る人全員が主体!だからこそ、消費者根性といった類のものは入り込む隙間がない空間であってほしい。お店とお客、ではなく、来る人全員が仲間である場所。ではそんな場所のために何が必要か?
まず一つには対話が必要不可欠だ。こんなアイディアがあるんだけどやれないかな!こんな企画あるんだけど乗らない?実家からみかんが届いたから持ってく!今月厳しいから食費浮かすために夕飯食いに行っていい?このコーヒー美味しいけどどこの豆?個展やりたいけど支払いはお年玉出てからでもいいかな。面白そうなホラー映画あるけど一人で観るのは怖い!今日ちょっと泊めさせて!なんでも相談してほしい。なんでも話してほしい。逆にこちらもなんでも相談する。なんでも話す。企画も持ち込んでほしいし、こちらから振ったりもする。
そして二つ目、より重要なのが一つ目を可能にする人間関係だ。場所との関係と言ってもいいかもしれない。すなわち、コミュニティーの一員としてお互いを尊重する意識。これは運営メンバーだろうがフラッと入ってみたイベント参加者だろうが変わらない。提供者意識と消費者意識ではなく、全員が主体であるという意識。主体として他の主体に接する。主体同士が関係を築き、対話することで場所を作っていく。自分も含めて、改めて意識していきたい。
長々と書いて来たが、結局何が言いたいのか。というわけで結論。
家賃やべえ!!!!みんな助けて!!!!!!
ダイゾウ
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tka4blog · 7 years ago
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TKA4ブログ始動! (ダイゾウ)
どうもこんにちは!TKA4お料理担当のダイゾウです。遅ればせながらTKA4の活動報告や個人的な雑記を不定期かつ不真面目に綴るブログを始動させました!今回は初投稿ということで、ざっくりだらだらとこのページの読み方を解説します。
※タイトルと文責について
ブログのタイトルです。内容をサクッとまとめています。重要なのはタイトルの後ろ、カッコの中の名前です。TKA4は意見も思想も(比較的近しい��は言え)異なる人間が集まって運営しています。だから僕の意見が他のメンバーの意見と食い違うことも多々あると思います。なので、このブログに書いてあることがTKA4の総意と取られてしまうと厄介なことになります。あくまでカッコ内の人物の私見が書いてある、ということでどうぞ悪しからず。さらに言えば、同じイベントや同じ事柄について全く考えの違う複数の記事が書かれる可能性もあります。と書いているこの記事もあくまでダイゾウの私見なんですが。ああややこしい!
※ブログの具体的な内容
内容はそれこそ色々ありますが、大きく分けて下記のごとくです。
①イベント等の報告
これからある、あるいは既にあったイベントや個展、パーティーなどの宣伝、報告です。こんなイベントがある!こんなパーティーがあった!こんな感じでめっちゃ楽しかった!来なかったやつざまあみろ!やーいやーい!といった内容になっています。もちろん、大失敗だった!来なくて正解!二度とやるかこんなの!という記事の可能性もあります。
②私見
アート、社会、事件、事物に対する極めて個人的な考えです。実現するかどうかもわからないイベントのアイディア、ありとあらゆる(主にアート関係の)ニュースに対するツッコミや意思表明、ただ好きな映画について一方的に語る、陰謀論的思いつき、といった具合です。ある意味一番「ブログ」っぽいかもしれません。ただ漠然と考えるのも楽しいけど、それを文章にするのも楽しい!さらにそれにフィードバックがあれば最高!繰り返しになりますが、あくまでTKA4の意見ではなく一メンバー個人の意見です。
③その他雑記
日記だったりレシピだったり映画の感想だったり。②と似ていますが②よりもずっと軽い内容です。こんなおっさんがフラッと入ってきた!こんな道具を導入した!こんな料理を作った!雨漏りした!という感じで、Twitter以上ちゃんとしたブログ未満なこともダラダラ書いていきます。毎日が楽しい!ハプニングだらけ!非日常がもはや日常に!そんなTKA4の日々を自慢する記事です。
もちろん毎回の記事が綺麗に上のどれかに当てはまるとは限りません。クロスオーバー的な記事もあると思います(というか大体の記事はそうなると思います)。結局のところTKA4に来ると何かと楽しい思いができるぜ!と言いたいがためのブログです。
といったところで今回はこのへんで。パソコンとにらめっこしているとせっかくいれたコーヒーが冷めてしまう!
今後ともどうぞよろしく!
Fuck&Peace!
ダイゾウ
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