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ハスティン家年代記8 ラグナル4世(CK2AAR)

西暦1031年、 第7代Ravenna専制公としてRagnarr 4世が即位した。
先代Kettilmundの次男であり、当初は兄 Eduard が後継者とされていた為、Ragnarrは戦場で身を立てようと、軍人としての道を歩んだ。
第4代Ravenna専制公 Ragnarr 3世が、戦傷が元で死んで以来、Haesteinn家では専制公とその後継者は、陣頭指揮を行う事が忌避されるようになっていた。
そして代わりに次男以降の Haesteinn家の男子は専制公の代理として、戦場に立つ事が求められた。
これは単純に考えれば支配者たる Haesteinn家の当主とその後継者が、戦場に出ないのは諸侯への体裁が悪い為、せめて一族のものを出さなければというのが主な理由とされていた。
しかし、分割相続法の点からみれば、相続者は少なければ少ない方が良いと考えられ、つまるところ彼らは死ぬ事を実の父から期待され、戦場に送られていた。
Ragnarr 3世もそのようにして多くの激戦で剣を振るい、片腕を失いながらも今日まで生き延び、そして兄が死に、父が死ぬまで生き抜いた結果、 Ravenna専制公位を手に入れた。

西暦1037年、 Ragnarr 4世 に朗報が舞い込んだ。
AnconaとBenebentoの大公Valdemarが死に、Ragnarr 4世 がその遺領を相続したのだ。
これにより専制公直轄地は広大なものとなった。
この力を源泉とし、Ragnarr 4世 は諸侯の顔色を伺う事をやめ、専制君主として振る舞うようになったという。

同年、Ragnarr 4世 はArmenia専制公Lazarosと結託し、ビザンツ皇帝に帝国評議会の権限強化を要求した。

東西を代表する最大領主からのこの要求に、皇帝Zenon 2世は苦虫を噛み潰したような表情をしながら、要求を呑みこんだ。

この要求の中には諸侯間の私戦※を認める条項もあり、Ragnarr 4世は喜々として最後に残されたイタリア半島の地、Salernoへと出兵した。
※気付くとすぐ禁止されてて困る
ところが、SalernoはArmenia専制公 Lazarosの管轄地であった。
Lazarosは大慌てでConstantinopleへと駆け込むと、ビザンツ皇帝Zenon 2世に私戦禁止令の発令を促した。
Zenon 2世としてもRavenna専制公の権力拡大は当然面白いものではなく、すぐに帝国評議会にて、私戦禁止令の決議が行われた。
Ragnarr 3世はこの決議に一人で反対したが、根回しが足りず、賛成者多数となった事で、帝国評議会の決定を受けたZenon 2世は私戦禁止令を発令した。
Zenon 2世はRagnarr 4世に対し、即刻Salernoから撤兵するよう命令し、Ragnarr 4世はこれを承諾。
しかし数日後、Ragnarr 4世は帝国評議会の全ての職を辞し、Ravennaへ帰国してしまった。

西暦1038年、Ragnarr 4世は突如としてビザンツ帝国皇帝Zenon 2世に対して、Zenon 2世の退位、そして全ての帝国評議員の解任を要求。
あまりにも尊大な要求にZenon 2世は激昂し、この要求を断固として拒絶。

「ならば 力尽くで叶えるまでのこと」
Ragnarr 4世はイタリア全土で動員した2万の兵を自ら率い、Constantinopleを目指して進軍を始めた。
Ravenna反乱の報告を受けたZenon 2世もまた、ヴァラング親衛隊長Baridに 反乱鎮定を命じ、 2万を兵を預けてイタリア半島へと送り出した。

西暦1039年、両軍はイタリア半島半部Leucaの地で激突した。

戦いは熾烈を極め、陣頭指揮をとっていたRagnarr 4世自身も重傷を負ったが、近臣達から後退するよう進言されると、これを拒んだ。
「まだ片腕はついている。剣を振るえるのに何故下がる必要があるのだ」
Ragnarr 4世は、こう豪語して決して前線から下がろうとはしなかった。

Ragnarr3世の気迫に押されたのか、Ravenna軍は左翼が崩壊したものの、ついにビザンツ帝国軍中央を突破した。
帝国軍総指揮官Baridの敗走を見て、帝国軍左翼、右翼も撤退を開始した事により、Ravenna軍は追撃戦へと移行した。

Leucaの戦いは、Ravenna軍の勝利に終わった。
帝国軍は半数近くの兵を失い四散した事により、Ravenna軍を抑える力を失った。

西暦1040年、Ragnarr 4世はアドリア海を渡り、 Constantinopleへと入城すると、新たな帝国評議会を組織し、自らの傀儡となる皇帝を選出した。
このRavenna専制公による政権転覆劇に多くの人々は驚愕し、独力で皇帝を挿げ替えてしまう程の力を持つRagnarr 4世を、「西ローマの皇帝」と呼ぶものさえいたという。

西暦1045年、SalernoがRavenna専制公領として編入された。
Ragnarr 1世の皇帝退位時に失われて150年の時が経ち、Salernoは再びRavennaへと戻ってきた。

これによりイタリア半島におけるビザンツ帝国領は全てRavenna専制公の下で統一された事になる。
足元の揺ぎは、もはや一切無い。
この時、Ragnarr 4世は絶頂期に達していた。

西暦1046年、Ragnarr 4世はRavenna専制公位の相続を男系長子に限るよう相続制度を改めた。
反対する者は誰一人としておらず、親族、諸侯全てがただ、Ragnarr 4世に頭をさげていたという。


西暦1047年、この頃からRagnarr 4世は、RavennaおよびCroania、Sicilyの専制公と称するようになった。
事実、Sicilyは完全に、Croaniaは大半の地域がRagnarr 4世の統治下であり、多くの者は、今更ながらそれが公称に組み入れられただけの事。そう思っていた。
だが、これはRagnarr 4世が自らビザンツ帝国皇帝に即位する為の下準備であったという。
かつてRagnarr 1世が帝位を降りた際に、Ravenna専制公の領地は「Ravenna(イタリア中部)」のみとされ、多くの領地が専制公領から離れていった。
Ragnarr 4世はこれを防ぐ為に、自らの世襲領土がRavennaのみではない事を示し、帝位を失ったとしても支配地を維持しようとしていたという。

西暦1051年、Ragnarr 4世は死んだ。
力のみが君主を君主たらしめる事をよく理解していたRagnarr 4世は、その終生、政治問題を武力で解決してきた。
自らを犯した病魔に対しても、もっとも危険で効果的な治療法を侍医に求め、その勇敢さに心打たれた侍医は、まったくそれに応える事ができなかった。
施術後、そこには腕の無くなったRagnarr 4世の死体だけが残されていたという。
「西ローマの皇帝」とさえ呼ばれた人物の最後としては、あまりに無残なものであった。
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ハスティン家年代記7 ケティルムンド(CK2AAR)

西暦1001年、 第6代Ravenna専制公としてKettilmundが即位。
Kettilmundは先代の長男であり、フランスのPalis女公爵と結婚した為、成人後はRavennaをしばらく離れていた。
妻である女公爵が死去すると公爵位はKettilmundの長男Edwardが相続したが、 Kettilmundは 父Baldericの勧めを受けてRavennaに帰国し別の女性と再婚していた。
父Balderic 同様に経済に対する理解に優れていたが、気まぐれな性格からくる一貫性の無さを、先代からの重臣達は心配していたという。

Kettilmundが専制公に即位すると、ビザンツ皇帝はSicily軍管区をRavenna専制公管轄に転属させ、さらにはKettilmundに代理執政官の尊称を授与した。
代理執政官の尊称は、第2代Ravenna専制公Ragnarr 1世が過去に与えられていた事があるが、Ragnarr 1世は一時とはいえ皇帝位にあった人物であり、過去の功績を讃えて与えられたものであった。
それに対して、何の実績もないKettilmundが代理執政官の尊称を得られたのは、今のビザンツ皇帝に諸侯からの人気が無く、皇帝はイタリア一帯に力のあるRavenna専制公に懐柔する事で、政権の安定化を図ろうとした。
これが今回のSicily軍管区譲渡と尊称授与の理由である。
実際にKettilmundは皇帝に好意を寄せ、感謝していたという。

ところが西暦1004年、Kettilmundは母であるLongobardia公からビザンツ皇帝へ帝国評議会の権限強化を突きつけようと誘われると、これにあっさりと乗った。
後日、ビザンツ皇帝はLongobardia公から帝国諸侯連名の要望書、という名の脅迫状を受け取り、怒りに身を震えながら要望書を読んでいると、連名の中にKettilmundの名を見つけ、卒倒した。

ビザンツ皇帝は帝国諸侯の要望を受け入れ、大幅な法改正を余儀なくされた。
その中には、Kettilmundの望んでいた「諸侯の対外戦争禁止法の廃止」も含まれており、Kettilmundはほくそ笑んだ。

西暦1006年、新たなビザンツ皇帝が即位した。
今度の皇帝は小さな伯爵領の出ではあったが、英傑として知られる人物であり、Kettilmundは当初この皇帝を警戒したが、主席顧問官に任命されるとコンスタンティノープルに赴き、皇帝に忠誠を誓った。

西暦1007年、主席顧問官として帝国首都の宮廷に勤めていた Kettilmundのもとに急報が舞い込んだ。
実弟であるSardinia公Ottarrが諸侯と反乱を起こしたという。

反乱は大規模なものであり、Kettilmundは急いでRomaへと戻ると鎮圧軍を率い出兵した。
行軍中にKettilmundは考えていた。
確かに弟との仲はそれほど良いものではなかったが、弟をRavenna王国主席顧問官とし、自身の息子と弟の娘とも婚約させ、十分に配慮を重ねてきた。
「Ottalは誰かに担がれたに過ぎないのではないか」

翌年である西暦1008年、反乱軍に参加していたSicily公が死去すると、何故か和平も結ばれずに反乱は終息した。
どの史書にもこの内乱がどのように終息したのか、具体的な内容が記述されたものが無く、この後、Kettilmundが反乱に参加した諸侯を罰した様子も見受けられない事から、Kettilmundと弟Ottalの間で白紙和平が結ばれたのではないかと推測されている。
一説によれば 元々皇帝直属であったSicily公が、ビザンツ皇帝の意を受けて暗躍し、Ravenna諸侯に反乱を起こさせたというものがある。
この説によれば、反乱中にSicily公が病没してしまった為に、皇帝とのコネクションを失った反乱諸侯は、皇帝の秘密裏の後援を期待できなくなってしまった為、和平が成立したという。

西暦1009年、Grimrなるノルド人の王が、フィルキルというゲルマン信仰の指導者を意味する称号を名乗ったという。

この頃、ヨーロッパ北部からキリスト教勢力は駆逐されつつあり、ノルド人の跋扈するところとなっていた。
その中でもスウェーデン王国のGrimrは最大の勢力を誇り、いよいよこの王のもとで、ノルド人は原始社会を脱し、中世を迎えようとしていた。
この報告を受けたKettilmundに危機感は特に無く、 Ravenna総主教と雑談に興じている際に
「もし帝国が敗れれば、その時はゲルマンの神を仰ぎ、ノルドの皇帝に頭をさげれば良かろう。先祖がそうであったようにな」
という意見を述べている。
無論、強大なビザンツ帝国が蛮人の群れに過ぎないノルドに敗れる事など無いと両者は考えており、冗談として話されたものではある。

北の遠い地の話などより、Kettilmundの関心はRavenna王国の勢力拡大に注がれていた。
ビザンツ帝国主席顧問官としてKettilmundは、ビザンツ皇帝と帝国評議会に働きかけ、ついに帝国諸侯間の戦争が解禁された。

父Baldericからの悲願達成に、Kettilmundは喜びのあまりRomaに「栄光のモニュメント」なる巨大な記念碑建造を命じた。
近臣達は訝しんだが、国庫には余裕があった為、この時には大した問題にはならなかった。
後の歴史から見れば、これがKettilmundの国家を傾かせる程の浪費癖の始まりだった。

西暦1010年、ノルド人の探検家トルフィンが、ヴィンランドという地に入植しようとしたが、現地部族に敗れ失敗したという。
この話は先祖がノルド人であるRavenna王国諸侯の間で、少しばかり話題となったが、遠い地の話であり、すぐに忘れ去られた。

西暦1016年、KettilmundはLotharingia王国のGenoa公領を奪い、一族に与えRavenna王国へと編入した。
これによりプロヴァンスに勢力を持つ強大なイスラム教の勢力、ウマイヤ朝と接する事になった。
ウマイヤ朝の動員兵力は3万ほどであり、対してRavenna王国は1万5千ほどであった。
Kettilmundはウマイヤ朝に対抗する為に軍の拡張を考え、その為の財源を求めた。

西暦1017年、財務長官から新規の交易路を開拓し、その利益を軍拡と財源とする案が挙げられた。Kettilmundはこの案を大変気に入り、自ら陣頭指揮を取ることを宣言した。

遠征のための商船を購入し、

司祭達の遠征隊同行を退け、

西暦1017年3月27日、Kettilmund率いる遠征隊は出発した。

遠征隊は、バルト海沿岸のクールラントと呼ばれる地にたどり着くと、その地の大族長との交渉を開始した。
手土産として持ってきた良馬を贈ると、大族長は喜び遠征隊を夕食に招待した。

夕食会において、財務長官が手づかみで食事をしているのを見た大族長は、財務長官を睨みながら「きったねぇな…」と呟いた。
この呟きを隣で聞いたKettilmundは、すかさず「あれは彼の宗教に基づいて行っているのです。どうかご容赦ください」と大族長の空いた杯に酒を注いだ。
遠方の地とはいえ王自らの酌を受け、大族長は機嫌をよくした。
Kettilmundは財務長官の異名が「大胆なる元首」である事を思い出し、こういう大胆さかと嘆いた。

6月にはクールラント大族長との話がまとまった。交易路の開拓は成功に終わり、Kettilmundは帰国した。
この交易路はこれから30年ほど機能し続け、Romaに富みを運び続けた。

この遠征の成果によって、一時Kettilmundは経済の錬金術師と呼ばれる事もあった。父が錬金術師であった事から、Kettilmundはこの呼び名を気に入ったという。

西暦1017年7月、予定どおり交易路からの利益を財源として、軍備拡張が開始された。
Kettilmundは皇帝直轄の常備軍「ハスカール」を組織し、ハスカールの定員は2千名とされ、その全てが重歩兵で構成されていた。

ところがKettilmundは予算が余っているからと、一つの町が収まるほどの巨大な迷路を作り始めた。
完成した迷路は生け垣で作られており、行き止まりなどには豪華な彫像やワインが湧き出る泉などが置かれ、来園した貴族達を楽しませた。
だが、この迷路の造園には莫大な資金が投入され、すぐに国庫は底をついた。ついには公務員に払う給料すら不足する事態に陥り、各地で治安が悪化し始めた。

流石にまずいと思ったKettilmundは、あの手この手で財政再建に取り込んだが、健全化には長い年月を得る必要があった。
生活が悪くなった人々は、Kettilmundを悪政公と口汚く罵ったが、Ravennna王国の構造は、頂点が絶対的な支配者である専制公、次が専制公より支配地を任されているノルド人諸侯、最後に支配されるだけのイタリア人という形であった為、Kettilmundにその声は届かなかった。

西暦1020年、なんとかRavenna王国の財政が立て直った頃、Ravenna王国のSpoleto公領が、突如Lotharingia王国に編入される事態が発生した。
これはカロリング朝傍系であったSpoleto公が、 Lotharingia王位を継承した事により起こった事だが、Spoleto公領はRavenna王国の中心部にあり、Romaから Anconaへの重要な交通路であった。
これを失う事は看過できる事ではなかった為、Kettilmundはすぐに戦端を開く事を決断。

西暦1025年には、Spoleto公領を回復した。

西暦1028年、Kettilmundは分割相続により子供達の間で直轄地が分散し、専制公の権力が低下する事を危惧していた。
長子のみが全てを継承できれば解決する問題だったが、長子以外の子供や、分割相続が古来からの伝統である点から、猛反発が予想された。
Kettilmundは第一歩として、まず国内の封建法を改革し、諸侯の長子相続移行を容認した。
言葉にはしないが、同じ事を諸侯も考えている筈であり、多くの諸侯が長子相続を採用した後であれば、反発は少ないだろうと考えてたの事だった。

西暦1031年、Kettilmundは死んだ。
相続法の改定は間に合わず、多くの専制公直轄地がKettilmundの子供達の間で分割して相続された。
新たな専制公となるKettilmundの次男Ragnarrには、Roma周辺のわずかな土地が残される事になった。
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ハスティン家年代記6 バルデリック(CK2AAR)

西暦971年、 第5代Ravenna専制公としてBaldericが即位。
先代Ragnarr 3世の異母弟であり、父Ragnarr 2世の命令で生まれてすぐにSardinia公爵として同島一帯の支配者となった。
Baldericは6歳の時、異母姉を火刑に処し殺した事で、父 Ragnarr 2世の勘気に触れ、、叱責を受けた上に生涯、Sardinia島から出る事を禁じられていた。
兄であるRagnarr 3世も、父からBaldericには専制公位を渡すなと言い渡されており、この兄弟は生涯出会う事は無い筈だった。

ところがBaldericが18歳の時、専制公となったRagnarr 3世 は異母弟に会いにSardinia島を訪れた。
Ragnarr 3世 はBaldericと面会すると、Baldericを「情が薄く、傲慢で強欲である点は良きキリスト教徒とは言えないが、学識があり、特に金の動きがわかっている。良き為政者となるだろう」と評した。
Ragnarr 3世は父Ragnarr2世の遺命を破り、BaldericをRomaに招き、財務長官という要職につけた。
Baldericは終生、この兄への感謝を忘れず、兄が死んだ時には自身が専制公位を継げる事よりも、兄が死んだ事を嘆き悲しんだ。

Ravenna専制公となったBaldericは、ヘルメス教会の門を叩いた。
Baldericには昔からある望みがあり、それを叶える為に長年、個人で研究を続けていたが、それでは望みが叶う前に死が追いついてしまうと確信してしまった。
そこで、 世の賢者達が集まる ヘルメス教会の一員となる事で、あまねく彼らと交流し、より早く真理へと達する事ができると考えたのだ。

西暦972年、Baldericは即位から1年が経ったこの年、Arezzo伯Einarrの嘆願を聞き入れ、Lukaniaへと進軍を開始した。

Einarrは、初代Ravenna王Haesteinnの4男Borkvardを家祖とするLukania・ Haesteinn家の一族であった。
Einarrの父の代にビザンツ皇帝からゲルマン信仰を咎められ、Lukania公爵位を没収され、一家は離散していたが、BaldericはEinarrを呼び寄せArezzo伯として起用すると、家祖Borkvardの血脈を後世に繋げるようEinarrに言い渡した。
無論、Baldericはただの恩情でEinarrにArezzo伯位を与えたわけではない。
Einarrを正当なるLukania公爵として擁立し、現Lukania公爵であるギリシア人領主を追い出し、LukaniaをRavennaの勢力圏に取り込もうとしたのだ。

ところが、Ravenna専制公BaldericとLukania公爵の私戦を快く思わなかったビザンツ皇帝は帝国評議会の同意を得て、帝国全土に私戦禁止令を布告した。
これを受けて、Baldericは軍を引き返す事を余儀なくされた。
布告前に占領したAmalfiの地を専制公領に取り込む事はできたが、最初の目論見に比べれば、あまりに小さな成果であった。

この時のビザンツ皇帝は強大であり、その後、帝国諸侯の独自の軍事行動一切は禁じられた。
Baldericはこの禁止令の撤回を帝国評議会に働きかけたが、法は法であるので施行中は大人しく国内に注力していた。

といってもBaldericは個人的な欲望に忠実であった為、大金を投じて立派な研究室を作り上げると、

国内の政治は近臣達に任せ、研究室に籠り怪しげな実験に没頭するようになってしまった。

ある時、Baldericはヘルメス教会の賢者達を招くと、天の星々を見る為の杖を共同で作り上げた。

後世、「ヤコブの杖」と呼ばれる杖は、可動式の横木と目盛りがついており、天体の角度を測り、航海の助けとするために使われる事を目的としていた。
が、あまりに取り扱いが難しく、ヘルメス教会の学識高い人物でなければ扱う事ができなかった。
当然、Baldericの子孫達も扱う事ができず、Baldericの死後、ヤコブの杖はRomaの宝物庫で眠り続ける事になる。

Baldericは当初、性格に難はあるもの聡明な君主として見られていたが、そのうちBaldericの研究への情熱が人々の理解できない域に達した為、人々の間で「専制公は悪魔に魅入られ狂ってしまっているのでは」という噂が立つようになった。
近臣から噂の話を聞いたBaldericは「人々が余を狂っていると思うのなら、余は狂っているのであろう」と肯定してしまった為、Baldericが狂気に魅入られている事は公然たる事実と扱われるようになった。

西暦986年、カトリックの教皇よりイタリアに対する十字軍が宣言された。
この報告に流石のBaldericも研究室を出て、宮廷で重臣達を交えて詳細を確認したところ、Ravennaに対するものではなく、Italy王国のOgier王に対するものであった。

この頃、かつてカロリング諸王朝によって統治された西欧世界は、今や見る影もなく凋落していた。
イベリアからはウマイヤ朝が北上し、プロヴァンス一帯まで進出。
フランス南部はYngling氏族出身のヴァイキングTokeが侵略者として君臨。
カタリ派、ロラード派、フラティチェッリ派、ワルドー派などの異端が各地で跋扈し、異端の反乱によってバイエルン王国は崩壊。
フランス王国、ドイツ王国、ロタリンギア王国などは一定の勢力を保っていたが、その動員兵力はいずれも2千を割る有様であった。
教皇の十字軍宣言は、カトリック諸国が一致団結する事で、異端を排除し、かつての姿を取り戻す第一歩として行われたものだった。

西暦988年、ヘルメス教会においてBaldericは賢者の称号を授与された。

それまでBaldericは天体を中心に研究していたが、賢者の称号を授与されると、神秘主義に目覚めたのか、怪しげな錬金術の実験を行うようになっていった。

この年、Baldericは45歳。
統治者としてのBaldericはこの頃が全盛とされている。

西暦989年、Italy王国への十字軍が失敗。
この報告にカトリックの教皇Silvester 2世は顔面蒼白となると、その場に倒れこんだという。
カトリックの権威はもはや地に堕ち、各宗教騎士団もカタリ派への宗旨替えを宣言し出した。
勢いに乗るカタリ派の領主達は口々に「異端であるカトリック派への聖戦」を大義名分に唱え、カトリック派の領主を攻撃し始めた。
かつての立場は完全に逆転し、多数派となったカタリ教徒が異端信仰たるカトリック派を弾圧する時代となっていた。

その頃、Baldericは弟子達と共に神を降臨させる為の儀式を決行したといわれている。
神はBaldericの前に現れ、Baldericの望みを聞くと、神はBaldericにいくつかの助言を授けたという。
弟子の一人がこの儀式の様子を書物に残していた事から、後世にこの逸話が伝わる事になったが、 これが歴史的な事実かは疑問視されている。

西暦990年、Baldericはある一冊の書物を執筆を始めた。
人との交流を断ち、起きている限りはペンを手に取り、羊皮紙に己の全てをぶつけ続けた。

西暦991年、わずか1年で書き上げられたその書物は、「変性錬金術の奥義書」と命名された。

この最高の奥義書には、変性錬金術の秘術が数多く記されていた。
ただし、精巧な暗号で書かれているため、一握りの賢者しか読み解くことができなかった。
奥義書をもって、部屋を出てきたBaldericの姿は、全ての生気が抜けてしまったかのように老い衰えた姿となっており、近臣はすぐに医者を手配した。
それ以降、Baldericは 病床に伏す事になった。
ある日、医者がBaldericに聞いた。
「なぜ、そこまでしてあの書物をお書きになられたのですか?」
Baldericは答えた。
「あれが・・・余が殺した姉の遺文をまとめたものだからだ」

「姉は天才と謳われ、父からその頭脳を愛されていた。
私は物心がつく頃には、この姉に嫉妬のような感情をもつようになっていた。
誰も彼もが姉を褒め、父からの手紙にも姉のことばかり書かれていて、余の事は少しも書かれていなかった。
だから、聖務長から姉の異端審問の話が出た時は、憎い姉を苛めてやるつもりで許可を出した。
そうしたらどうだ。姉の部屋から怪しげな物がいくつも出てくるではないか。
今、思えばあれば錬金術の研究に使う道具であったとわかるが、異端審問官達は悪魔崇拝の道具と判断した。
父の介入を受ける前に、あっさりと教会は姉を火刑に処し、余は唖然としながらそれを見ている事しかできなかった。
姉の死を聞いた父はすぐに来てくれたが、私の事など見向きもせずに、黒い炭となった姉を抱えて泣いていた。
次に私の顔を見た父の顔は、今でも恐怖のあまり思い出す事ができない。
父は何事か私を叱責した後、私がSardinia島から出る事を禁じて去っていった。
それから父を慕う気持ちは、恨みへと変わり、当時6歳の愚かな子供に政(まつりごと)を任せていたのは、一体誰なんだと憤るようになった。
年を重ねた私は、ある時、姉が異端審問に掛けられた際に押収された物品を見てみようと思い、そこで遺文の数々を読む事になった。
大半の暗号が解読できず、多くの遺文は読む事が出来なかったが、子供でもわかるような簡単な暗号の遺文もあった。
その遺文は子供向けの物語が書かれていた。島にやってきた幼い王子が、島民を導き立派な国を築く話でな。 良き為政者とはどういうものかという事を暗に知る事ができる作りになっていた。
読み終わった時、文の最後には「我が弟Baldericへ」とサインされている事に気が付いた。
余は、その時ようやく自身の罪の深さを理解した。
それからは色々なもの熱心に学ぶようになった。いつかあの遺文の全てを解き明かし書に纏め、姉の知識を後世に引き継く事で、姉への贖罪としたいと思ったからだ。
そのうち、父が死に、兄が専制公となった。
兄は、わざわざ私に会いにSardinia公領を訪れると、兄弟としての世間話だけしていき帰っていった。姉の死については一切触れないでいてくれたのだ。
兄は武人だったので、こういった事には無関心だっただけかもしれないが、それが余にはありがたかった。
その後、兄は余を財務長官としてRomaに召し出し、父の遺命に逆らってまで余を必要としてくれた兄の為に、余も私心を捨てて兄に仕えた。
その兄も、死ぬべきでない戦いで死んでしまった。
兄の後を継ぎ、専制公となった余は国を治めながら、姉の遺文を解読するのは不可能だと思い、ヘルメス協会の門を叩いた。
多くの賢者と意見を交わし、多くの弟子を育て、彼らの協力を得て姉の遺文を解き明かし、実験や試作を繰り返していった。
そうして、姉が残した錬金術の神髄を、あの奥義書として編纂する事ができた。
これで私の贖罪は終わった。あとは、いつ死が訪れようがどうでも良いことだ。」
医者はBaldericの懺悔ともいうべき告白を聞きながら思った。
「(予想以上に重い話でビビるわ・・・)」

西暦992年、初代Ravenna王Haesteinnがビザンツ帝国に臣従してより、100年の時が流れていた。

西暦994年、Baldericがヘルメス協会の筆頭となる。
Baldericは今や世界最高の賢者と言われる程の名声を得ていたが、 望みを叶えてしまったBaldericには意欲が無く、 弟子達の多くも独り立ちしていた為、Baldericが会員に何かを指導するという事はなかったという。

西暦1000���、平和な時代が続き、優れた君主とそれを支える官僚組織によってRavennnaは繁栄していた。衣食住に困る者は無く、Romaではキリストの世が1000年続いた祝祭に参加する人で溢れていた。
人々は幸せであった。

西暦1001年、Baldericは死んだ。
彼の物語は罪を犯した事に始まり、その罪を償なった事で終わりを迎えた。
そして次代の専制公、Kettilmundの物語が始まろうとしていた。
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ハスティン家年代記5 ラグナル3世(CK2AAR)

西暦952年、 第4代Ravenna専制公としてRagnarr 3世が即位。
先代Ragnarr 2世の長男であり、即位時の年齢は32歳であった。

Ragnarr 3世は、ビザンツ皇帝の親衛隊に勤め、その武勇を遺憾なく振るった経歴を持ち、Romaに帰還したこの新たな主君を侮る者は誰一人いなかった。
Ragnarr 3世 による治世は安定したものであり、表立った問題らしい問題はなかったという。
ただ、内側は問題なくとも外側は嫌悪するほど騒がしい有様だった。

この頃、Ravenna王国が属するビザンツ帝国は内乱が相次ぎ混迷を深めていた。
Ragunarr 3世の治世中、ビザンツ皇帝は4度も 挿げ替えられ、諸侯と皇帝は評議会の権限拡大・縮小を巡って激しく争った。

Ragunarr 3世は皇帝の陣にいる事もあれば、反乱軍の陣にいることもあったし、あるいは争う二者をRomaから眺めている事もあった。
Ragunarr 3世 は確かに数々の戦場で暴れられたが、その戦場はいずれも帝国内であり、昨日は主君と仰ぎ盾で守った人物を、今日は暴君と罵り剣を向けねばならなかった。
「嫌な時代だ」
Ragunarr 3世 は正義の在りかが、すっかりわからなくなってしまった。

そんな中、イタリアで勇躍する人物がいた。
Ferrara公Kettilである。
KettIlは悪名など気にもせず、国境紛争を口実に次々と隣国を征服していき、Ragnarr 3世よりModena公爵、Tuscany公爵を賜った。
これでKettilは4つの公爵位を持つに至り、 Ragnarr 3世はその大身を讃え、Kettilが”大公”とと称する事を許したという。

西暦967年、Ravenna王国のある州で、人々が 崩れ落ちるまで踊り狂うという珍事があった。 Ragnarr 3世はこれを凶兆とみるべきか吉兆とみるべきか悩んだという。
Ragnarr 3世は跡継ぎとなる男子が産まれておらず、子供は4人全員が女子でああり、次の5人目の子供こそ男子であって欲しいと願っていた。
どう考えても凶兆だったが、なんとか吉兆という事にできないか Ragnarr 3世は親しい廷臣に相談したが、吉兆はなんとかするものではないと諭されると、それもそうだと諦めた。

西暦971年、 Ragnarr 3世 は、Gaeraの地に侵入したヴァイキングPorbrandr討伐の為に出陣した。
Porbrandrの軍は千数百ほどの小勢であり、陣頭指揮をとっていた Ragnarr 3世は これを蹴散らし、さっさとRomaへの帰路についた。
その帰路で Ragnarr 3世は「慈善公の息子が浮気で作った男子は、果たして跡継ぎとなり得るのか」などと真剣に考えていた。
この時、Ravenna軍は林道を進んでおり、一人の兵士が暗闇の中に、何か光るものを見つけた。
その時には既に遅かった。

西暦971年、 Ragunarr 3世は死んだ。
敗走したと思われていたヴァイキング、Porbrandrは一矢報いる為に逃げ散った兵を集めると、Ravenna軍のRomaへの帰路となるこの林道に兵を忍ばせていたのだ。
ヴァイキング達は、Ravenna軍の隊列が薄く伸び切ったところで、Ragunarr 3世のいる中央に向かって突撃を敢行した。
本陣奇襲の急報を聞いた救援部隊が到着した頃には、戦闘は終了しており、辺りにはヴァイキングと近衛部隊の死体が散乱していた。
そこには、矢が首に刺さり絶命しているRagunarr 3世の姿もあった。
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ハスティン家年代記4 ラグナル2世 後編(CK2AAR)

西暦918年、内乱を鎮圧し確固たる地位を築きあげたRagnarr 2世は、念願の聖地エルサレムへの巡礼を果たした。
父祖でさえ聖地への巡礼を行った事は無く、Ragunarr 2世は 聖地の名所を巡っている間中、興奮した様子で近臣達に「この教会はこのような成り立ちで~」、「嘆きの壁とは~」などとウンチクを語り続けた。
近臣達も苦笑し続けた。

巡礼を果たしたRagnarr 2世は良きキリスト教徒であろうと、益々自己啓発に励むようになった。
「嘘をつき他人を騙す事のなんと浅ましいことか」
「欲望におぼれて度を越すことがないよう、つつしみをもって生きよう」

西暦920年、フランス王国のPepinという少年が、聖地エルサレムの奪還のために十字軍を結成したという噂話をRagnarr 2世は耳にした。
この話を最初、Ragunarr 2世は自身の耳に入るまでに話に尾ひれがついたのだろうと信じてはいなかった。

ところが西暦921年、彼ら「少年十字軍」は実際にRomaに訪れ、指導者である少年Pepinは「良きキリスト教徒Ragunarr」にこの十字軍への支援を依頼してきたのである。
Ragunarr 2世は自身の目で見るに及び、眼前に広がる光景はきっと神の御業によるものに違いないと、ほとんど全ての廷臣が反対したにも関わらず、少年十字軍への支援を表明した。

Ravenna王国の支援を受ける事で、少年十字軍は歩みを止める事無く、前進を続けた。

実際のところ、少年Pepinに統率者としての力は無く、Ragunarr2世の命令を受けて派遣されたRavenna王国の廷臣や、教会の騎士団から参加している大人達がPepinの妄言になんとか帳尻合わせを行い、必死で十字軍が瓦解しないよう支えていた。

そして西暦924年、ついに少年十字軍はアンティオキアにたどり着き、アッバース朝への聖戦を宣言した。
少年十字軍の総勢は7万という膨大なものであり、対するアッバース朝の動員兵力は4万ほどであり、勝利は疑いようがなかった。

Ragunarr 2世は少年十字軍の成功を確信し、自らも聖地エルサレムへ乗り込むべく遠征軍を組織。

集まった兵達を前にRagunarr 2世は「私は教会の敵を撲滅することに身命を捧げている。大罪のどれひとつとして犯したことはなく、危険を前にしてひるむこともない。」と宣言し、Ravenna軍8千に進軍の号令を発した。

Ragunarr 2世はまず手始めに海路の安全を確保すべく、アッバース朝の領土であったクレタ島を攻撃した。
島は1年ほどで陥落したが、これが致命的な判断ミスとなった。
この間に少年十字軍は7つの軍勢に分かれて、アンティオキアから南下していたが、これをアッバース朝は3万の纏まった軍で各個撃破していき、少年十字軍の兵力差による優位はわずか1年で失われた。

この報告を受け、Ragunarr 2世率いるRavenna軍は、急いで少年十字軍との合流を目指したが、合流地であったTiberiasの地には既にアッバース朝の軍勢2万が待ち伏せていた。
Ravenna軍は善戦したが8千対2万の兵力差は覆せず、Ragunarr 2世が片足を失う重傷を負った事で、ついに敗走した。

西暦927年、ビザンツ帝国領アナトリアに撤退していたRavenna軍の陣地にて、意識を取り戻したRagnarr2世は、そこで少年十字軍が壊滅したとの報告を受けた。
アッバース朝は捕虜とした少年十字軍の大人の兵士は全て処刑し、子供達は全て奴隷として売り払ったという。
その中にはSpoleto公Holmgerの跡継ぎであり、Ragnarr 2世の従弟であったAlfiもいた。
未だ内乱を起こした罪により獄中であったHolmgerは、この報告を受けると心労のあまり、そのまま獄死してしまった。
Ragnarr 2世はこの失敗を生涯悔やみ続けたという。

西暦930年、Ferrara公Vagnが亡くなり、Ferrara公位を継いだのは、またしてもゲルマンを信仰する Kettilであった。父と同じく改宗に頑として応じなかった。
Ragnarr 2世はエルサレムの遠征に失敗した事で、以前ほど強権を振るう事はなくなっており、それゆえに頭を悩ませていた。
そこにKettilがVeneziaを占領したという報が舞い込んだ。
Ragnarr 2世は考えた。
「Kettilは今、Veneziaの支配権を私が認めないと考え、 気をもんでいる筈だ。」
「では、これを余が認めた上で、さらに好意を見せればどうなるだろうか?」
Ragnarr 2世は徹底的にKettilを厚遇し、懐柔する事を決めた。

西暦932年、Ragnarr 2世はRomaにKettilを招き、 諸侯の前で KettilのVenezia征服を激賞すると、Venice公爵の創設と、初代Venice公にKettilを任命する事を宣言した。
さらにKettilを宮廷の要職である侍従長にも任命し、自らに何かあった際にはKettilを摂政とし国政を任せる事も約束した。
この、あまりの名誉にKettilはRagnarr2世に跪き、改めてRagunarr 2世への忠誠を誓うと共に、その証として東方正教への改宗を誓った。

思惑どおりのKettilの態度に、気をよくしたRagnarr 2世は後日、Kettilの長男Vagnと自身の三女Bodilとを婚約させ、Ferrara公家との連帯を強めた。
これ以降、Ferrara公KettilはRagnarr 2世の忠実な与党の一人となった。

同年、Ragunarr2世はさらなる中央集権化を果たす。
これに対し、骨抜きとなっているFerrara公は意を唱える事はなく、Spoleto公とRagusa共和国元首は顔をしかめてはいたものの、圧倒的な力の差に何も言う事はなかった。

その後、Amalfi共和国からNeapolis伯領を奪取し、

ダルマティアの反乱軍との戦闘で、片目を失ない、

庭趣味に目覚めたりして、月日は流れた。

西暦941年、50歳となったRagunarr 2世は今世での名声のみならず、死後の名声について考え始めていた。
かつては偉大な父祖と己を比べては劣等感に苛まれていたが、今振り返ってみれば、それが父祖とは違う形で他者に誇れる自身を見出そうとした切っ掛けでもあった。
己もまた、父祖と同じように子孫達の模範となりたい。
Ragunarr 2世は、そう思ったのだ。

Ragunarr 2世は自身の考えをRavenna総主教に相談すると、Ravenna総主教はエルサレムの十字軍失敗が汚点となっているので、どこか適当な異教徒を滅ぼす必要があるとRagunarr 2世に告げた。
そうすればRavenna総主教が、その功績をもってビザンツ皇帝やコンスタンティノープル総主教に工作を試みるという事で、Ragunarr 2世は適当な異教徒に見当をつけた。
ちょうどこの頃、キリスト教徒の王国があったSardinia島が、ノルド人Baldrによって征服の憂き目にあっており、絶好の標的と考えられた。

Ragunarr2世は Sardinia島を異教徒から奪還すべく、1万の兵をSardinia島に送り込んだ。
Sardinia島の支配者Baldrは、8千の兵で迎撃を試みたが軽歩兵主体のBaldr軍は 重歩兵主体のRavenna軍に一蹴されると、 Corsica島へと逃げ込んだが同地でRavenna軍に殲滅された。

Ragunarr 2世は征服したSardinia島を生まれたばかりの次男Balderikを公爵とし、 Balderikの補佐役として廷臣2人をSardinia島北部の伯爵に任命した。
これを受けて、Ravenna総主教は約束どおり コンスタンティノープルへの工作を開始した。
尚、後のことになるがBalderikは6歳の時に、補佐役の廷臣に嫁いでいた異母姉を何が気に入らなかったのか火刑に処し殺している。この近親殺しにRagunarr 2世は驚愕し、長男のRagunarr(後のRagunarr 3世)にBalderikにだけは専制公位を渡すなと忠告した。


西暦946年、Ferrara公Kettilはノルド人やイスラム勢力によって弱体化していたAquitaine王国に攻め入り、故地であるブルターニュ回復をRagunarr 2世に求めた。
Ragunarr 2世は、統治し辛い遠方の地の征服に気乗りしなかったが、 Kettilには 国政運営でいくつも貸しがあり、仕方なくKettilを大将としてRavenna軍を出征させた。
Retzの地についたRavenna軍は、 Aquitaine軍が現れなかった為、一戦も交えずにこの戦争は終結する事になった。

西暦948年、ついにその時は来た。
Ragunarr2世は、コンスタンティノープルの宮廷に招かれると、ビザンツ皇帝Diogenesの子息の洗礼に伴い、その子息の代父となる名誉を与えられた。

そして、洗礼式が終わるとビザンツ皇帝はRagnarr 2世の事績を帝国諸侯に示すと、その栄誉を讃えRagunarr 2世に「慈善公」の尊称を授けた。
「賢明にして慈悲深きRavennaの統治者Ragunarrは、主の嘆きを聞き入れ、キリスト教徒の窮状を幾度も救い、正義を世に示した。公平と美徳への献身によって、死後間違いなく主の側にRagunarrの姿がある事だろう。 ここにビザンツ皇帝の名において、Ragunarrの輝かしい歴史を讃え、Ragunarrに”慈善公”の尊称を授与する」

これ以降、 慈善公Ragunarrは美徳の模範者として知られ、 慈善公 Ragnarrの子孫たちは彼の栄誉を享受していく事になる。

この絶頂期にRagunarrは最後の仕事として、法改正を行った。
この法改正により整えられた官僚組織は、広大な専制公直轄地を円滑に統治する力となり、直轄地からもたらされる税や兵は、専制公家の強みとして機能した。

西暦949年、Ragunarr 2世の長男Ragunarrがヴァラング親衛隊になるべくRomaを去っていった。
その後ろ姿を見送るRagunarr 2世は、父もNamsborgを去る際は、今のRagunarrのような後ろ姿だったのだろうかと、 微笑を浮かべながら若き父の姿を思い浮かべていた。

西暦950年、Ragunarr 2世は病を患い、病床から起き上がる事が困難となった。
Ragunarr 2世は、Ferrara公Kettilを呼びだすと、予ねての約束どおりに摂政として国政を任せた。
その後、Ragunarr 2世 の病状が悪化すると、王妃は事前に用意していた遺言に追加があるかRagunarr 2世に尋ねた。

Ragunarr2世は考えた。
Ravenna の国教は今や統一され、 外敵はおらず、 国内も良く治まっている。
跡継ぎも成人しており、皇帝や教会との仲も親密である。
考えがまとまったRagunarr2世は王妃に、こう答える事にした。
「特にない」

西暦952年、Ragunarr 2世は死んだ。
かつて若く凡庸だった男は、こうして数々の栄誉に包まれながら世を去った。
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ハスティン家年代記3 ラグナル2世 前編(CK2AAR)

西暦904年、 第三代Ravenna専制公としてRagnarr 2世が即位。
先代Ragnarr 1世の長男であり、即位時の年齢は13歳と未だ子供であった。

Ragnarrが成人していなかった事から、母であるWeslikanが摂政となり、
Ravennaの有力者をRomaに招集し、摂政評議会が組織された。
Weslikanは長年、戦場に立ち続けた夫の留守を預かっていた実績に加え、
「天女」と渾名される程の美貌から、諸侯も好意的な態度をとっていた。

Ragnarr 2世の即位式が滞り無く終えられ、一息ついたところで、摂政評議会では先代の仇であるRagusa共和国のレクターStaneへの報復について議論された。
宮中において、先代を暗殺したのはSatneの手の者であった事は既に判明していたが、Ravenna諸侯の中で動員兵力第二位という大物を感情的に処分する事も出来ず、今の今まで誰もこの話題を口にする事さえされなかった。
ところが評議会の場において、Ragnarr 2世が低く小さな声ではあったものの、「父の仇が、いつまでも処分されずに生きているのはどういう事だ」と不満を表明した。
摂政であるWeslikanは、この声を聞こえなかった事にする事も出来たが、母でもある Weslikanは、Satneを処分する事ができない理由をRagunarrがキチンと知り、その上で自身の考えを持つ事を望み、この動議を受け入れた。

評議会における議論の末、主な意見は以下となった。
【処分に賛成】
・Ragnarr 1世亡き後もRavennaは盤石である事を世に示す為に、Staneを処分するべき。
・法的にも道義的にも主君殺しは許容できるものではない。
【処分に反対】
・暗殺後もStaneは何か要求してくる事も無く、税も払ってきている。放っておいた方が実利がある。
・Staneは出頭に応じず、かといって秘密裏に捕縛する事もできない。内乱となれば最悪、皇帝から統治能力を疑われ、我々が処分を受けるかもしれない。
・Staneの処分を強行し、内乱となったとしてもStaneは63歳と高齢で、終結までに生きているかわからない。死んでしまえばRagusaは共和制であるから、勝利してもRagusaの新元首は、先代個人の罪と切り捨てるだろう。
議論の最後に、 摂政WeslikanはRagunarrに意見を求めたが、Ragunarrは低く小さな声で 「よきに計らえ」と言うと退室してしまった。
母であるWeslikanは、我が子のこの態度に失望し、摂政としてStaneの処分見送りを議決した。
そして、その3年後にStaneは死に、Ragusa共和国の新元首はStaneの罪を明かし、StaneのBennesa家を処分したとの報告書をRagnarrに提出してきた。
Ragunarrはこれを読み、冷笑しながら「そうか」とだけ呟いたという。

西暦906年、Ragnarr 2世が16歳となり成人した事で親政を開始した。
その姿を見届ける事なく、母であり摂政であったWeslikanは既に亡くなっていた。
Weslikanは 良き王となるようRagunarrを教育しようとしていたが、結果、Ragunarrは内気な上に、自身に都合が悪い事には嘘をつく人物になっていた。唯一、父譲りで軍事に対する興味がある点のみが救いだった。
当時の記録では Ravennaの諸侯は、この凡庸なRagunarr 2世への期待は低く、Spoleto公Holmger(Ragnarr 2世の叔父)に期待していたとされる。

西暦907年、Ragunarr 2世は人との関わりは避ける傾向にあったが、一人で何かを行う事は好み、特に礼拝堂で過ごす祈りの時間が好きだった。
誰も彼もがRagnarrに先代の姿を見ようとし、そして勝手に失望していった。
Ragnarrはそんな人々にこそ失望し、自らの理解者を神に求めた。
やがて、より深い学識を求めたRagnarrは、聖バシレイオス教団という東方正教の結社に加わり、求道者の道を歩み始めた。

西暦911年、ビザンツ皇帝の縁者であるGregoriaがRagnarr2世に嫁いだ。
Gregoriaは高貴な血を誇る傲慢な性格ではあったが、壊滅的な社交性という点でRagnarrと共通点があり、仲睦まじいという事は無いが夜を共にする程度には仲が普通だったという。

同年9月、Ragnarr 2世の叔父であったFerrara公Leonが死んだ。
Ferrara公位を継いだのは同じく叔父であるVagnであったが、Vagnはゲルマンへの信仰を公にしている異教徒であった事が問題視された。
Ravennaではビザンツ帝国に倣って東方正教が国教であったからだ。
しかしながら、初代Ravenna王Haesteinnと共にイタリアを侵略し、入植してきたノルド人諸侯では公には東方正教を信仰していたが、ゲルマン信仰の風習などを隠れて行っている家は多くあった。
イタリア人諸侯でも未だにカトリックを信仰しており、つまるところRavennaでは宗教統制は極めて緩いものだったのだ。
だが、厳密にはRavennaの法律では異教の信仰は認められておらず、Ravenna専制公であるRagnarr 2世は、Vagnが東方正教へ改宗しない限りは、VagnのFerrara公位を認めない事を宣言した。

Ragnarr 2世の宣言にVagnは激怒し、自身のFerrara公位継承は正当なものであり、戦わずに屈する事は無いとRagnarr 2世への反逆を叫び挙兵した。
Vagnにとって改宗は自身の支持基盤放棄を意味し、受け入れられるものではなかったのだ。
というのもVagnはかつて、父 Haesteinnのイタリア遠征時にNamsborg王位を譲られていた。
Haesteinn がビザンツ帝国に帰順する際に東方正教への改宗を臣下に求めた際、これを良しとしないゲルマン信仰のノルド人達はNamsborgへと戻り、Vagnは彼らを受け入れていった。
その後、Namsborg王国はフランス王国に滅ぼされ、Vagnは 兄であるRagnarr 1世を頼りRavennaへと亡命したが、Ragnarrはこの弟を国を守れず生き恥を晒す敗者と考え、冷遇した。
Vagnにとって苦渋の時代が続いたが、その時代のVagnを支えたのはNamsborgから共に亡命してきたゲルマンを信仰するノルド人達だった。
Vagnは彼らの信仰を守る為に、今一度剣を取る道を選んだのだ。

西暦913年、Vagn率いる反乱軍はRagnarr2世相手に善戦を続けていた。
これにRagunarr 2世は事態の打開をRavenna総主教と相談し、ゲルマン信仰を公の信仰としなければ、その風俗習慣は許容されるという意味にとれる宣言をRavenna総主教より布告させた。
これによりVagn率いる反乱軍の一部が和解の可能性を考えてしまい、タカ派とハト派で争いが生じた。Vagnは和解の道などありえないとハト派を攻撃したが、これによりハト派の兵士が離脱し、兵力減退を招いてしまう。

Ragunarr 2世はこの機を逃さずFerraraへ兵を進め、Riminiの地でVagn率いる反乱軍主力を撃破。
これ以降、反乱軍は各地の拠点で籠城を試みるものの、西暦916年にVagnの根拠地であるFerraraが陥落し、終戦となった。


Ragnarr 2世は反逆の罪で、VagnからBeneventの伯爵領を没収すると、あとの罪は全て許した。
Vagnは諸侯の前でRavenna総主教より洗礼を受け、東方正教へと改宗した事で、ようやくFerrara公位を継承する事が出来たが、支持基盤であるゲルマンを信仰するノルド人達の信頼を失った。
VagnのFerrara統治は、異邦人としてノルド人を嫌うカトリック教徒のイタリア人、ハト派として弾圧を受けた東方正教教徒のノルド人、そして改宗によって信頼を失ったゲルマン信仰のノルド人達の調整の上で行われていく事になるだろう。

西暦917年、Ravenna王国の重鎮であるSpoleto公Holmgerが、イタリア人諸侯と結託し反乱を起こした。
Ragunarr 2世はこの動きにまったく気付いていなかった為、思わず「Spoletoではなく、Ferraraの叔父ではないか?」と使者に聞き返してしまったという。
彼らは、先年のVagnの乱に刺激されたのだ。
すなわち、Spoleto公Holmgerは、王権の強化に伴う中央集権化を危ぶみ、イタリア人諸侯は今まで放置されてきたカトリック信仰への迫害を危惧したのだ。
彼らは利害が一致すると、Spoletoの地で兵を挙げ、Romaの宮廷に対して圧力を掛けた。
彼らは連名でRagunarr 2世に対して専制公の権限縮小と、専制公の輔弼機関として評議会を組織し、そこに諸侯を議員として参加させるよう要求した。
Ragunarr2世は要求の書状を読み終わると、いくらか動揺した様子ながら、反乱軍使者に拒否の旨を伝えた。

かくしてRavenna王国初の内乱「Holmgerの乱」が幕を挙げた。
Holmger率いる反乱軍は、6千の大軍をもってRomaへの進軍を開始。
対するRagunarr 2世は4千の兵を率いて、Romaから南下するとGaeta伯領を包囲し始めた。
反乱軍がRomaを包囲している間に、まず南部を平定し、さらに兵力を集める事を目論んでの事だった。

ところが反乱軍はRomaを無視し、Ragunarr 2世の王党派主力のいる Gaetaの地へと向かってきた。
この危機にRagnarr 2世は慌てて、Amalfi共和国との契約が終了し、帰国の途につこうとしていたLombardia傭兵団を雇い入れると、自軍右翼に編入。
Gaeta城の包囲を解くと、Teanoの地に移動し、そこに決戦の陣を敷いた。

西暦917年6月17日、世に言う「Teanoの戦い」が始まった。
両軍の兵力差は互角であった事から、先に動いた方が負けとばかりに両軍はしばらく弓矢の応酬を繰り返し続けた。

同年6月29日、開戦から既に10日以上に渡り、弓矢の応酬が続けられていた。
HolmgerもRagnarr 2世も、決め手に掛ける状態で博打を打つ事を恐れ、戦いは小康状態に陥っていた。
そんな時、王党派の右翼に展開していた Lombardia傭兵団の団長Gianは、ふと思い立った。
「敵は明日も矢合わせが続くと思っているだろうから、朝っぱらから突っ込めば勝てるのでは?」

翌6月30日、大当たりであった。
Lombardia傭兵団の突撃に、反乱軍右翼はまったく対応できずに押し込まれ、あっという間に敗走した。
この様子を見た王党派左翼も突撃を開始し、遅れて中央のRagnarr 2世の本軍も前進し、全軍が白兵戦へと移行した。
この勢いに反乱軍左翼はHolmgerの許可無く撤退を始め、ここに勝負は決した。

Holmgerの反乱軍中央は最後まで頑強な抵抗を続けていたが、衆寡敵せず。
Ragnarr 2世は、撤退する反乱軍を追撃し続け、Urbinoで壊滅させた。

西暦918年、Spoleto公Holmgerが捕縛された事により「Holmgerの乱」は終結した。
Holmgerは、Spoleto公位は保ったものの、 Gaeta伯領を没収され、牢獄から出る事も許されなかった。
他のイタリア人の反乱諸侯は全領土の没収が言い渡され、さらに厳しい処分となった。

乱後、Ravenna北部にあったイタリア人諸侯という政治勢力は完全に消滅した。
さらにノルド人諸侯筆頭であったSpoleto公の粛清により、もう誰もRagunarr 2世を侮る事は無くなった。
巨大化した直轄地を背景に、Ragnarr 2世は主席顧問官Oysteinnに王権強化の為の法律改正を命じた。
これに弱体化していた諸侯は異論を唱える事は無かった。

こうして、凡庸なRagunarr 2世の王権は確立したのである。
つづく。
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ハスティン家年代記2 ラグナル1世(CK2AAR)

西暦896年、初代Ravenna王Haesteinnが崩御。
新たに王となったのは Haesteinn の長男Ragnarrであった。
即位前のRagnarr は、父によく似て武勇に秀でた半面、父とは反りが合わず、19歳の時には故郷を去った。
ビザンツ帝国のヴァラング親衛隊に身を置くと、ビザンツ皇帝と共にハザール族やアラビア帝国との戦いに身を投じ、数々の武勲を立てていった。
父が老い、自身も大人になった事からヴァラング親衛隊の職は辞し、帰国。
その3年後に王位を継ぐに至った。
王位を継いだRagnarrは、主君であるビザンツ皇帝に遠慮し、
自らをRavenna”専制公”Ragnarrと称し、王とは名乗る事は無かった。

即位���、Ragnarrはビザンツ皇帝との関係を強化する事が、国の安定に繋がると考えていた。
Ragnarrはビザンツ皇帝に働きかけ、自身の長男Ragnarrと、皇帝の長女との婚約を結ぶことに成功。
引き換えにRagnarrはビザンツ帝国元帥に任命され、帝国評議会において、
皇帝の政権運営に協力する事を誓ったという。

西暦897年、ビザンツ帝国とハザール族との間において、Chersonを巡る戦争が始まると、ビザンツ皇帝の下で Ragnarrも従軍した。
この戦争でRagnarrは戦場で敵の大将であるハザール族カガンTabarを見つけると、これに決闘を挑み…

見事、これに勝利を収める。
カガンTabarの首を刎ねたRagnarrは、その首を親愛なる皇帝に捧げた。
皇帝は首を眺めながら満面の笑みを浮かべ、この戦争の勝利を確信したという。

だが、皇帝の予想に反して、戦争が終わる事は無かった。
ハザール族はすぐに新しいカガンの下で諸部族を糾合し、戦争を継続したのだ。
いくたびもの戦場でRagnarrは戦い、命の危機に陥る事もあったが、
Ragnarrは常に奮戦し、その勇敢さを諸将に示した。

西暦899年、Ragnarrは帝国軍を率い、Crimeaの地でハザール族のハンBalgiciの軍と戦い、そこで敵に取り囲まれてしまった。
取り囲む敵の中に、敵の大将Balqiciの姿を見つけると、
RagunarrはBalqiciを挑発し、一騎打ちを申し込んだ。
「そちらが勝てば、一騎打ちでカガンの仇を討った英雄として語り継がれよう。こちらが勝ったらこの地から軍を引かせてもらおう。如何か?」
Balqiciはこれを受けた。

Ragnarrは激戦の末に、Balqiciを打ち倒した。
ハザール族の兵士たちは大将を討ち取られたにも関わらず、 Ragnarr を称賛し、勇者達の戦いを汚すまいと、撤退していく帝国軍を追う事は無かった。

西暦900年、ローマ教皇Hadrianus2世によって十字軍の時代が宣言された。

これを受けて、各地でカトリック派の宗教騎士団が創設され、異教徒追放と聖地奪還が声高に叫ばれた。

西暦902年4月、ビザンツ帝国に激震が走る。
ビザンツ皇帝Nikareteがハザール族との戦いに敗れ、戦死したのである。
そして更に驚愕すべきなのは、

諸侯の推戴を受け、新たな皇帝に即位したのはRagnarrであった。
未だハザール族との戦争が終わらず、帝国は強い戦争指導者を求めていた。
それ故、ハザール族との戦いで数々の武功をあげていたRagnarrが脚光を浴びる事となったと言われている。
だが、Ragnarrはビザンツ帝国をどこに導いていくかという構想を持っておらず、また興味もなかった。

ビザンツ皇帝に即位したRagnarrはハザール族との白紙和平を結んだ。
戦争はすでに5年目に突入し、得るものより失ったものの方が多くなっていた。
これを早期に清算し、これからは内に力を注ごうとRagnarrは考えていた。
しかし、Ragnarrを勝利をもたらす者として期待していた諸侯は、この和平に大いに失望した。

西暦902年8月、 諸侯は徒党を組み、コンスタンティノープルに詰めかけるとRagnarrの退位を要求。

Ragnarrは内乱でさらに帝国が疲弊する事を嫌い、諸侯の要求を飲み退位した。
在位わずか4か月の皇帝であった。

その後、新しく皇帝となったIoulianaは、自身より声望が高いRagnarrを嫌って、諸侯へRagnarrの事を中傷し、その名声を貶めようとした。
これに呆れ果てたRagnarrは、退位時にあてがわれた帝国元帥の職を辞し、Ravenna王国へ帰国。
新帝 IoulianaはRagnarrに何度か復職を求めたが、Ragnarrが帝都に戻る事は二度となかった。

Ravenna王国へと帰国したRagnarrには、かつての覇気は見られなくなっていた。
廷臣たちはこれを政争に敗れた事による傷心と考え、Ragnarrの復権を画策し始めたが、Ragnarrはこれを制し、こう語ったという。
「戦場から戻っても、家に居ることを未だに実感できずにいる。
体はここにあるが、心はあの草原の地に居続けているのだ。
時々、私は死んでいて、これはすべて悪い夢なのだ、と考えてしまう。
呼吸ができなくなることすらある始末だ。」
Ragnarrにとっては、コンスタンティノープルもローマも自身の居場所ではなかった。
若き頃より歴代皇帝たちと共に戦ったあの東方の戦場こそが、
Ragnarr の居場所であり、そして人生であった。
西暦904年、Ravenna専制公Ragnarr1世は死んだ。
それも、暗殺者の手によって窒息死させられるという形で。
かつては戦場において、どんな刃にも倒れなかった勇者が、
どれだけの兵をもってしても倒せなかった英雄が、こうして死んだのである。
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ハスティン家年代記1 剛勇王ハスティン(CK2AAR)

西暦867年、ヴァイキングの時代。
9世紀半ばまでには北欧の略奪者にして征服者、通称ヴァイキングがロシアとブリテン諸島に自らの領国を作り、黒海から地中海に至るまで略奪と通商を行うことで、ヨーロッパの地図に確固たる足跡を残し始めていた。
シャルルマーニュの子孫たるカロリング朝の統治者たちはフランス、ドイツ、イタリアに強大な領国を有していたが、後ウマイヤ朝の元、スペインでは イスラム教が確固として根付こうとしていた。
ビザンツ皇帝はイスラム帝国とブルガリアの圧力の増大に苦しんでいるが未だ健在である。
群雄割拠の草原地帯の西ではマジャール族がカルパチア盆地の制服を虎視眈々と狙っている。

そんな中、あるヴァイキングの一派がブルターニュの地に上陸した。
族長の名は「Haesteinn」といい、 彼は1700人の兵を率い、
現地のブルトン人を打ち破った。
Haesteinnは 征服した地を「Namsborg」と名付け、
この地を根拠地と定めると、ブルターニュ全土の征服に乗り出した。

支配地のブルトン人を兵力に組み入れたHaesteinnは
3000もの大軍を率い、隣郡のVannesへ進軍を開始。

Vannes のブルトン人領主は、この大軍を前に一戦も交える事なく逃散。
西暦868年にVannesは Haesteinnの物となった。

Haesteinn は続いてブルターニュ公爵領へと兵を向けた。
ブルターニュ公爵領はこの頃、内乱状態に陥っており、散髪的には侵略者への反抗を試みられたものの、 Haesteinn は大軍を分散させず、これを確固撃破していった。

西暦869年、 Haesteinn は ブルターニュ公爵と和平を結び、
Penthievre、Rennesの両郡の割譲を受ける。

同年、Haesteinnは「ノルド人およびブルトン人の支配者たるNamsborgの国王」を自称し、自身の支配地に対して布告。
この布告を見て、誰もが Haesteinn はこのままブルターニュの地に根を下ろすのだろうと予想していた。
しかし、家臣達の予想に反して Haesteinnはこの地から去るつもりでいた。

ブルターニュ唯一の隣接地は、大国フランスであり、
この地での勢力拡大はこれ以上見込みが無い事が見えていた。
下手をすればフランスから異教である事を理由に侵攻を受け、すべてを失うかもしれない。
ブリテン島の大異教軍との合流も考えられたが、既にキリスト教勢力の激しい抵抗により、大異教軍の主力であった「骨無しIvar」、「白シャツhalfdan」の勢力は疲弊し、頼みにならない有様であった。
悩んだ末に Haesteinnが導き出した答えは

イタリアである。

西暦877年、 Haesteinn は 8年の歳月を掛けて、各地の略奪行で集めた財宝を全て売り払い、これを財源として総兵力2万の大遠征軍を組織した。
第二次大異教軍ともいうべき大侵略劇が
今、始まろうとしていた。

そして終わった。
西暦879年、ローマへの奇襲上陸から始まったヴァイキングによるイタリア侵略劇は、2年目の冬に Haesteinn とイタリア王が和平を結び、終わりを告げた。
イタリア王国はイタリア中央部を失い、またカトリックの総本山たるローマ教皇庁もローマから強制退去の 憂き目にあう。
この際、Haesteinn は退去していく教皇が見えなくなるまで、高笑いし続けていたという逸話が残っている。

同年、Romaguna王国が成立。
「イタリア半島中央部を支配してからこの方、長きに渡って教皇庁は自らをローマ帝国の正当なる後継者だと主張してきた。しかしつい先日、Romagna国王Haesteinnはその地域を征服し、自らをその主だと宣言した。教皇は自らの敗北と教会への侮辱に怒り狂っているが、教皇庁の旧領の領主たちの殆どは国王Haesteinnの支配を受け入れた。」

Romagna王国が成立後も Haesteinnの征服欲は止まる事は無かった。
今度はイタリア南部への遠征が度々行われ、Beneventoの地を征服した際にはこれを記念して、西暦887年にルーン石碑が建立された。
この頃、Haesteinnは自分の死後について深く思い悩むようになっており、このルーン石碑も、未来の子孫達を思い建立したと言われている。
「己がいる間、キリスト教勢力は彼を恐れRomagnaに手を出す事は無いだろ う。だが、四方全てが敵に囲まれたこの地で、我が子、我が孫、我が子孫達はいずれは彼らに駆逐されてしまうのではないか?」
「いっそカトリックへ改宗してしまおうかとも思う事さえあったが、その為にはローマ教皇庁と和解する為に、ローマを返還しなければならなかった。 しかし、英雄達と共に戦って得たローマを手放す事が、己にはどうしても出来なかった。」
最終的にHaesteinnは キリスト教勢力との和解により、四面楚歌を回避する事を望むようになっていたが、ローマ教皇庁との和解に必要なローマを返還する気が起きず、葛藤していた。

そんな時、 Haesteinn の長子Ragnarrが帰国した。
Ragnarr は若くしてビザンツ帝国に渡り、皇帝の親衛隊を務めてきていた。
Haesteinn はこの自慢の長子から、たくさんの土産話を聞くと、それまでのしかめっ面が嘘のように笑顔となり、上機嫌となった。
Ragnarr がどの話が役に立ちそうかと Haesteinn に尋ねたところ、
「王の王たる皇帝の話と、真のキリスト教の話がよかった」
と Haesteinn は答えた。

「貞操なる頓智のある人Haesteinnへ。貴君の英知と慈悲は伝説となっている。貴君を我が臣下に迎えましょう。これより先は私を主君とし、我が庇護を存分に受けるがよろしい。」

西暦891年、Romagna王 Haesteinnはビザンツ皇帝へ臣従を申し入れ、これに対して皇帝は Haesteinnの東方正教への改宗を条件に受諾。

Haesteinn は一度王冠をビザンツ皇帝に譲り、皇帝より王冠を下賜される形で再度王冠を被ると、 古のラヴェンナ総督府に倣って自らの王国をRavennaと改め、Ravenna王を名乗った。
これで Haesteinnの悩みは解決した。
キリスト教である��方正教に改宗した事で、異教を理由に宣戦される事はなく、当然ローマ教皇庁にローマを返還する必要も無いのである。
おまけにビザンツ帝国の庇護下で、ぬくぬくと国内の統治に力を入れる事ができる。
元親衛隊という事もあり、後継者のRagnarrは皇帝とも上手くやっていくだろう。
Haesteinn は大いに安堵した 。

そうして Haesteinn は死んだ。
西暦894年9月19日のことだった。
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