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memo999
memoが「999」までやってきた.タイトルで連番で書くことで「999」までは書こうとモチベーションをもってやってきた.それが終わってしまった.なので,別のウェブサービスにメモを移そうと思う.
もともとBloggerを使っていて,今も使っているけれど,インターフェイスが「メモ」するには向いていない感じだったので,Tumblrを使って,日々のメモを書くようにしたのであった.Tumblrのインターフェイスだからこそ気軽にかけたということも多くあった.その後,Bloggerにテキストをコピペしてさらに考察したということも多々あった.インターフェイスによって書けることが変わってくるというのが面白い経験であった.
メモは公開する場所に書くというのが,程よい緊張感でテキスト入力できるので,次はnoteにでもメモの場所を移そうと思う.連番にするかどうかは別にして,noteでメモを書いて,良いメモが書けたら,これまで通り,Bloggerでさらに考察していきたい.
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memo998
上田 良 個展「A Magpie’s Nest」を見た.写真のなかに背景でもなく,確固としたものではないけれど,どこかしらにサーフェイスを感じた.それは背景でもなくて,どこかの面でもなく,恐らくは,上田さんが言っていた「格子」をサーフェイスだと感じたのだろう.穴と線とでできる格子をひとつのサーフェイスだと感じで,その手前と奥とが別れる感じ.それは「穴」が大きな役割を演じているのであろう.依存的存在としての穴と影ということを論じたけれど,穴と影とができる依存的? 仮想的なサーフェイスが生まれている.それがグリッドとなっている.穴と線,あるいは面がないという穴の部分がサーフェイスとなる.背景でも,写真平面でも,手前のアクリルの板でもなく,どこかにサーフェイスが生まれること.「手前」と「奥」とを分ける存在としてのサーフェイスを見てしまうこと.
穴と影ということでラファエル・ローゼンダールの《Shadow Objects》を思い出した.上田さんの作品の影はどこかキワが曖昧で,そこがローゼンダールの作品とは異なった.影のキワの曖昧さが,影それ自体が存在を主張していない感じがあった.影をつくりだすモノのキワの存在の方が強調されている.だからこそ,影よりも,モノの延長としてのサーフェイスを意識したのかもしれない.
手前と奥とを生み出す基準面としてのサーフェイスを穴と影とから考えて見てもいいのかなと,ここまで書いてきて思った.「基準面としてのサーフェイス」というのは,しっかりと考えてみたい.そのサーフェイスがあることで,はじめて奥と手前とが生まれる.背景でも,写真平面でもないサーフェイス.
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memo997
「相似的な同一化」であれば,VRでも可能なのか.ゼログラビティで,ライトボックスで囲まれた環境は,物理空間とCG空間とを同一化はできないけれど,相似的な同一化を促すことはできる.このように考えると,ヒトではなく,環境の方が相似的に同一なものになったとき,ヒトはどのような行為を行うのであろうか.ヒトも環境の一部として,求められた行為を行うことになる.そのとき,行為はCG空間の求めによるものであるが,それは無重力の物理空間でヒトにそのように振舞って欲しいということに基づいて計算されたからつくられた行為であるから,物理空間から求められた行為だとも言える.物理空間とCG空間とを相似的に同一化していくライトボックス環境のなかで,双方の空間のあいだで乱反射する行為をヒトは遂行していくことになる.そして,ヒトが遂行した行為をカメラは撮影して,CG空間に当てはめる.そうして,あたかも無重力空間にいるかのような映像が生まれる.このとき撮影されているのは,ヒトに反射する光であり,表情であり,そして,呼吸である.
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memo996
ゼログラビティの撮影風景で,プリビズのCGに合わせて俳優が動くのは,鏡に真似て動くのと似ているのだろうか.決められた動きをして,決めれられた光を受ける.その結果として,「リアル」な光が顔に当たる.この時,真似ているのはリアルの身体なのだろうか,それともプリビズの身体なのだろうか.計算で生まれた光に実態を与えるための,反射体としての身体.それはヴァーチャルとリアルとを文字通りつなぐ存在なのかもしれない.デジタル的存在に実態を与える言った方がいいのかもしれない.「実態」なんて言葉は使わない方がいいのだろう.計算どうりに放たれる光を受け止めるサーフェイスとしての身体.光を発するサーフェイスとしてのライトボックスと光を受け止めるサーフェイスととしての身体.二つのサーフェイスのあいだで光は反射し,その光をカメラは捉える.捉えられた光が,CGに戻される.ここで起こっていることはなんなのだろうか.
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memo995
《Body Paint》を見る体験の流れを考えてみる.
- 一部を絵具で塗りつぶされたモニタを見る - モニタのフレームのなかに絵具を見る - 通常はフレームで区切られた表面にはピクセルの光が存在する - フレームのなかの表面にピクセルの光と絵具というモノが混在する - 光とモノとのあいだで,見ている人の認識に混乱が生じる - モニタの表面から「ヒト」がニュッと出てくるように見えてしまう
畠中 ディスプレイに映し出される人体の背景をペイントで塗りつぶしてしまうエキソニモの作品《Body Paint》(2014)も,そもそもディスプレイという,そこに映っているものに没入させる機能があるものを実体化させる行為だったと思います.そうすることで,実体が,映像であるはずですが,ディスプレイの向こうからニュッと出てきてしまう.そういうメディアとオブジェクトのあいだをすり抜けて映像が立ち上がる作品で,とても秀逸な作品だったと思います.p.94 メディア・アート原論 あなたは、いったい何を探し求めているのか?,久保田晃弘・畠中実編著
さらに,Body Paintのニュッと出てきた映像の流れで《キス、または二台のモニタ》を考えてみる
- モニタの表面から「ヒト」がニュッと出てくるように見えてしまう - 2台のモニタを重ねたら,ニュッと出てている二人のヒトはキスできてしまう - 実際にはモニタが重なっているだけれども… - モニタ一面に表示された顔(フェイス)を考えて見る - モニタの表面(サーフェイス)がヒトの顔(フェイス)になる - Body Paintのように「ニュッ」と映像が実体化していると感じるのではないか? - 2台のモニタが重なって見ない部分ができることで,映像がニュッと実体化する?
《キス、または二台のモニタ》を《Body Paint》の流れで考えると,《Body Paint》でニュッと出てきてしまった実体化した映像を重ね合わせたのが,《キス、または二台のモニタ》ともいえるのではないだろうか.
しかし,フレームのなかのサーフェイスからニュッと押し出される感じで実体化された映像が,モニタを重ねわせて,グニュと再度,モニタのサーフェイスに押し返したのが《キス、または二台のモニタ》とも考えることもができる.《キス、または二台のモニタ》ではフェイスがサーフェイスを覆ってしまっているいて,それゆえにフェイスが実体化するというか,モニタのフレームを超えた存在感を持っているとも言える.けれど,サーフェイスを超えたフェイスは二つのサーフェイスを重ね合わせたときに,「キス」という行為とともにフレームに押しとどめられて,フェイスとして機能しているともいえる.でも,フレームが重ねられたときにこそ,フェイスはサーフェイスから自律した存在になっていて,だからこそ,キスが成立するともいえる.「キス」というフェイスの重ね合わせの状態において,モニタのサーフェイスとフェイスとが混在し,混乱する.
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memo994
今や建築における「装飾」という概念を、ポストモダニズム建築のように、単なる記号的なスタイルと捉えては、その本質をとりのがしてしまうだろう。すべての様式から等しく自由となったポストモダン以降、われわれはその概念をより拡張して思考すべきである。つまり、装飾という概念は、もはや、物の現われ、様相、いわばテクスチャーと同義に扱われるべきなのだ。
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マテリアルを問わない表層の加工技術として、プリント、コーティング(塗装)、ブラスト、磨き等も挙げておく。とりわけ、プリントという技術はおおよそすべ��の素材に適用可能であり、あらゆる素材の持つ差異を(少なくとも表面的・視覚的には)消し去り、また新たな様相を生み出しうる技術である。そこではあらゆるものがスキャンされ、コピーされ、編集されていく。その発展は、物質とは、認識とは何なのかという問題をわれわれに提起するだろう[fig.15]。また、プロジェクション(映像投影)の発展もまた、物の様相や装飾に対して、より本質的な問題を提起することになろう。 http://10plus1.jp/monthly/2018/04/issue-02.php
装飾=テクスチャ=サーフェイス=プリントという流れで考えてみてもいいかもしれない.サーフェイスへのプリントによって,バルクへの侵入が阻害される.でも,それだと,異なるものを一つのモノとして扱うことに反することになってしまう.全てはバルクに通じる.物質とは何なのかが問われていると考えるといいのかもしれない.
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memo993
VRをやっている人を外側から眺めるのと,ゼログラビティの撮影風景とを重ね合わせて考える,というようなメモを書いた.テレビでVRで遊んでいる人の映像が映っていて,その身体の動かし方が,ゼログラビティの撮影での俳優の不自由な感じというか,機械のコントロールされた身体の不自由さと似ているような感じがしたから.身体の不自由さという観点からVRを考えてみてもいいのかもしれない.VRの表現の質,インターフェイスとしての質感というのは,物理空間の身体の不自由さというか,「VR」によってあたらしく制限された身体の動きに寄るところもあるのではないかと考えてみたい.その点では,ゼログラビティは宇宙というあたらしい制限のもとでの身体を物理空間とコンピュータという制限のもとで映像化しようとしているから,最適な教材なのかもしれない.でも,求められているのは,これではない気がするけれど,認識の変化ということを考えるのであれば,この辺りから探っていくのがいい感じがする.あとは,VRではどこかサーフェスとなっているのかとか.でも,サーフェイスはバルクに至るのではなく,サーフェイスのみであるところも面白い.いや,サーフェイスが突き抜けるという制限のもとでのバルクとの関係を考えてもいいのかもしれない.サーフェイスとバルクのつながりとテクスチャとモデルに適応させることは可能なのだろうか.それは,VRを見ているのか,それとも体験しているのかでも変わってきそうな感じがある.
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memo992
グリーンバーグが問題としていた平面は,キャンバスの平面とそこに描かれたものがつくる奥行きとが問題となっていて,その手前の空間は問題となっていない.ディスプレイにおいても通常はその手前の空間は問題とならない.しかし,ディスプレイがインターフェイスの一部を構成するようになると,ディスプレイ手前の空間が重要視される.そこでの行為が問題となるからである.同時に,ディスプレイはピクセルとガラスとが互いに裏面と表面として密着するように構成されているが,ピクセルの手前に厚みのある空間が生まれているように見えるときがある.ディスプレイの表示面をピクセルという裏のサーフェイスとガラスという表のサーフェイスとの組み合わせで考えた場合,ピクセル手前であり,同時にガラスの奥の空間が問題となってくる.ディスプレイを構成する二つのサーフェイスの手前と奥行きとが一つになって「バルク」となる.さらに,同時に,インターフェイスを経由した私たちは,ディスプレイ手前の空間が意味あるものであることを知っている.ディスプレイ手前での行為が問題になるからこそ,ガラスの向こうでピクセルの手前に出現するこれらのサーフェイスとは異なる性質を持つバルクが問題になってくるのである.
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memo991
インターフェイスと��うこちら側と向こう側を接続する平面を考える必要がなかったグリーンバーグにとっては,「こちら側」しかないのであり,こちら側を示すキャンバスの表の平面に生じる奥行きを考えることが,平面を考えることであったのである.対して,インターフェイスはソフトウェアを接着剤として,こちら側に向こう側のものを引き寄せる二つの平面の重なりである.
グリーンバーグの考えたキャンバスと絵具が構成するサーフェイスとディスプレイという表面にガラスと裏面にピクセルとをソフトウェアで接着したサーフェイスとを,再度,ソフトウェアで接着してあらたなサーフェイスがつくられているのではないだろうか.
ディスプレイとグリーンバーグが示したサーフェイスとを接着してみると,そこにはインターフェイスに似た構造が出来上がる.というか,インターフェイスという向こう側をこちら側に抽出する二つのサーフェイスの重なりを経由しているからこそ,グリーンバーグの平面とディスプレイとを重ねて考えてみようという気になるのだろう.ディスプレイの向こう側にはグリーンバーグの平面が広がっている.その手前には透明なガラスがあって,それは透明であるがために,ディスプレイが表面と裏面とそのあいだから成立する一つのサーフェイスであることを見えづらくしていた.しかし,近年,ディスプレイを一つのサーフェイスとして扱う作品が多くなってきているし,ディスプレイが示すサーフェイスを別の素材で表現することもできてきている.
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memo990
インターフェイスをめぐって,上のような変化が起きているのではないだろうか.インターフェイスを形成していた二つの面が,文字通り,二つのサーフェイスとして表と裏とを構成するようになり,「インターフェイス」と呼ばれていた部分が「バルク」となって,一つの「もの」の全体として機能する.「インターフェイス」の実体化といってもいいのかもしれない.しかし,そのインターフェイスは二つのサーフェイスに挟まれていて,「もの」のようになっている.私たちとの距離によってサーフェイスはバルクに抱えたインターフェイスを表出するようにもなるし,単なる二つの表と裏のサーフェイスとしても存在する.サーフェイスからつながるバルク自体がインターフェイスとなっていること.バルクはバルクであり,インターフェイスにもなる.だから,サーフェイスとが常にインターフェイスと入れ替わる可能性を示すと同時に,バルクとのつながりも示すのである.
インターフェイスという関係が,二つのサーフェイスとそのあいだのバルクというかたちで「もの」のようになること.インターフェイスの関係性を二つのサーフェイスが囲い込んでしまう.「インターフェイス」を切り出すことの意味を考えてみないといけない.インターフェイスという関係を「もの」のような状態として扱うことは可能だろうか.このように切り出したとき,インターフェイスの状態は変化するのか,そもそも,それまで向かい合っていた二つの存在の状態は変化するのであろうか.
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memo989
VRにおける呼吸を考えてみると面白いかもしれない.「重力」と並んで「呼吸」というのは物理空間で絶対的なもの,少なくておも生物にとってはしなくてはならないものであるから.そして,呼吸の動作というのは内部器官と結びついているから,その様子をテクスチャとして記録しても,それは必ず,内部器官と関係を示すことになる.テクスチャとモデルとの関連を示す動作として考えると面白い.それを,ゼログラビティの光のリフレクションとともに提示することができたらいいのではないだろうか.物理世界をシミュレートしたVRの光を受けながら生身の身体が呼吸する様子を撮影して,VRに戻して,モデルに生身の身体のテクスチャを与える.それを,さらに内と外との境界となっているヘルメットのバイザーの描写で強調してみる.
バイザー越しにみる世界は,バイザーを透過してみる世界であって,See throughはVRにとって大きな問題だと考えられる.電脳コイルのメガネ越しにみる世界とそうではない世界の差は今でも印象に残っている.これらは,全てヒトの形をしているものであるが,VRはもっと魔術的にヒトの身体のかたちを変えてしまってもいいはずである.テクスチャの変化だけではなく,モデル自体を変化させて,認識を変更していくことができるのがVR空間ではないだろうか.そして,ヒトはすでにビデオゲームのインターフェイスにおいて,ボタンと十字キーのみで身体を動かしすることをしている.それは身体の縮減である.そこで,縮減した身体を別のかたちにかえることもできるはずであり,そこでは呼吸法も変わるかもしれない.
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memo988
グリーンバーグがキャンバスの表の平面における表面と奥行きのあいだを絶えず往還する効果を見たように,インターフェイス以後の私たちはあらゆる平面に対して,表と裏の二つのサーフェイスとそのあいだのバルクを意識してしまうように���ってきている.平面はこちら側と向こう側とのインターフェイスを切り出したサーフェイスとなっている.そして,インターフェイスとサーフェイスとのあいだを絶えず往還しているのである.
と書いたけれど,これでいいのだろうか.インターフェイスを経由したのちの平面を考えるということはいいと思う.それはこちらと向こうというの二つのものを一つのものの表と裏として捉えることになるような気がする.二つのものがバルクを両端にあり,一つのモノになっている.矛盾している感じもあるけれど,これが自然な状態になっているのが,現在の平面,つまり,二つのサーフェイスとそのあいだのバルクなのではないはないだろうか.
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memo987
自分は一体何を考えているのだろうか,という自問から始めてみる.自分が考えている単語を中心にして,作品や事象を位置づけてみること.
PUGMENTも気になっていて,IMAに載っていた林央子さんのテキスト「報の民主化が,PUGMENTを生んだ」に書かれていた写真と画像とに関する言葉が気になっているので,写経する.
「写真というものは,撮影する人の身体性を感じるもの.撮影する人に身体があることを感じられるものが写真だと思ういます.その場所に行って撮影した,重いカメラを持って行ったという行為,あるいは手軽に撮られたスナップショット写真.Instagramのイメージも,その場所に行って撮られたものという身体性を感じるものは,写真.機材の重い軽いにかかわらず,カメラや撮る人にの身体性を感じるものが,写真だととらえています.PUGMENTが服づくりの素材にするものは,画像にあたるもの.撮影する人の身体性を全く感じないスクリーンショットや,ネットにあふれる服の広告のイメージなのです.作家性のある写真ではなく,情報として扱える画像であれば,それを拡大したりきりぬく行為をすることに,ためらいを感じません.画像をさらに変換したイメージをコラージュしてして,服にして,人の身体の上に置く.それは画像に身体性を与える行為になると思います.PUGMENTは,画像から得たイメージを加工して,それを素材に服をつくり,人に着せます.着る人の身体を得た画像の服は,人に着せられたことではじめて,写真になるんだと思います」
身体性を持つ写真と身体性を持たない画像.これほど鮮やかに「写真」と「画像」とを区別したものはないのではないだろうか.
「撮影する人の身体性を全く感じないスクリーンショット」というのは,「スクリーンを透かし見る」で,赤岩さんのスクリーンショットに対する考察にも繋がりそうである.ディスプレイとの0距離のスクリーショットには身体性を感じる余地がないけれど,ディスプレイ手前に空間が広がると,そこに撮影者の身体性が生じる.となると,赤岩さんのあの「スクリーンショット」はスクリーンショットではあるが,それは「画像」ではなく「写真」という別物になっているのかもしれない.
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memo986
プリントと接着というのはある意味,同じことなのかもしれない.いや,違うけれども,何かが密着するのは同じかもしれない.では,プリントされた表面というのは「もの」のサーフェイスの上に別のテクスチャが付加された状態と考えたらいいのであろうか.平面をサーフェイスとバルクとのに分けて,サーフェイスにプリントが施されるとき,それはテクスチャとなる.バルク-サーフェイス-テクスチャということだろうか.テクスチャはバルクとは関係ない質感を示すことになるだろう.
普段,「もの」をバルクのレベルで考えることはないだろう.サーフェイスのレベルで考えて,サーフェイスを基準面としてこちら側と向こう側に主体が位置するときは,それはインターフェイスと呼ばれる.「主体」でなくても,ものとものとが接していたいたら,つまり,接着していたら,それもまたインターフェイスと呼ばれる.サーフェイスが気体と接しているときだけ,それはインターフェイスではなく,サーフェイスと呼ばれる.そこにプリントが施される.そうすると,サーフェイスはテクスチャを持つことになる.しかし,プリントのインクとサーフェイスとの関係はインターフェイスということになるだろうか.しかし,サーフェイスとプリントを1つのものと考えると,それはテクスチャと言ったほうがいいだろう.
《ミュータント・スライム》はアクリル板にUVプリントされている.このとき,サーフェイスに《ミュータント・スライム》のテクスチャがプリントされたと言えるのだろうか.サーフェイス一面にプリントが施された場合は,「テクスチャ」という言葉が合っている感じがあるけれど,《ミュータント・スライム》のようなプリントが施されたとき,それはテクスチャとは異なる感じがある.しかし,《ミュータント・スライム》がプリントされることで,アクリル板ではなく,《ミュータント・スライム》の質感が前面に出てくることを考えると,それはアクリルのサーフェイスに施されたテクスチャと考えることもできるだろう.
《ミュータント・スライム》では裏面にプリントされている.アクリルが透明だから表も裏もないかもしれないが,実際にプリントされているのは裏面で表面にはまるまるサーフェイスが残っている.しかし,裏面にプリントされた《ミュータント・スライム》が表のサーフェイスに影響を与えていることは無視できない.逆にいえば,《ミュータント・スライム》は表に来ることができないでいる.ここが,山形さんの作品では重要な感じがする.私たちが表しか考えないものに裏面があることを示し続けている感じがある.表と裏とがあるということは,それは2次元ではなく,3次元の「もの」としてそこにあることを示している.平面作品などあり得ないということを山形さんの作品は示している.表と裏とは重なり合って,そのあいだを示す.それは,隙間であり,透き間であり,バルクである.
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memo985
VRと身体も考えないといけない.サーフェイスから考えることができるのであろうか.そもそも「サーフェイス」とは何なのだろうか.ものの表面.ものの表面はその他のものの部分とは異なる.だから,双方に別々の言葉,表面=サーフェイス,その内部=バルクという言葉が与えられている.しかし,私たちは,そこにある「もの」としてみる.VRの世界の方が「モデル」と「テクスチャ」で明確に分けられている感じがある.VR,もしくは,ARというのは,世界をサーフェイス/テクスチャのレベルで見ることなのかもしれない.
0から「もの」をつくるとモデルとテクスチャに分離するのは興味深いことである.このあたりのことは谷口さんの作品で一度考えたことがあるから,そこから改めて考えてみたい.そもそも,「透かし見る」という言葉は,谷口さんの作品の考察から出てきたものであった.テクスチャという「もの」の表面が「もの」自体となっている.テクスチャは硬化してモデルに接着されている.いや,隈研吾展でみた木目をプリントされたアルミの板のように,テクスチャは「もの」を他の「もの」に擬態させる.プリントという「接着」と技術によって,「もの」のサーフェイスが書き換えられる.「もの」自体というかバルクは変わらない.サーフェイスに別のテクスチャをプリント=接着することで,見え方を変えてしまう.サーフェイスにはテクスチャを付着させることができる.この点では,サーフェイスは「もの」と連続している.テクスチャは「もの」の側にないで,後から与えられるものである.となると,サーフェイスは,ノーテクスチャのモデルの一番外側の部分だということができるのかもしれない.
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memo984
山形一生さんの作品を《ミュータント・スライム》から考えてみる.押し花のようにアクリルの表面に押しつぶされたように見えるミュータント・スライムであるが,実際は,アクリル板の裏面にプリントされたものである.表面に押し潰されたと書いたけれど,イメージとしては,アクリル板のあいだに入れ込まれたチューブがミュータント・スライムになっている.
透明なアクリル板の裏面にプリントされたミュータント・スライムは表面から見られることを想定されている.ここではアクリルの板に裏と表の2つのサーフェイスとそのあいだがあることが前提となっている.私たちが画像をみるとき,ディスプレイを見るとき,画像やテキストは常にディスプレイのガラス越しに見える.ならば,アクリル板の裏側にプリントして,アクリル越しにミュータント・スライムを見るのが,私たちのディスプレイの視覚的体験に近いものになるだろう.3Dデータを与えられたミュータント・スライムには前と後ろがあり,前を向いたミュータント・スライムがアクリル板の裏のサーフェイスにプリントされている.そして,それはアクリル板の厚みに押し込められたチューブのように見えるように計算されている.
ここではアクリル板が厚みを持つことが前提となっている.表と裏の2つのサーフェイスとそのあいだのバルクによって構成された厚みが前提とされている.ミュータント.スライムは実際にはバルクに入り込めず,裏のサーフェイスにプリントされている.サーフェイスとバルクとは連続的な変化で1つの物質を形成しているが,そこには確かな違いがある.そして,ディスプレイを見るという体験は,常にガラスの裏側に画像やテキストを見ることになっている.
赤岩さんのスクリーンショットではディスプレイの手前の空間を問題にしたが,山形さんの作品ではディスプレイの奥の空間が問題なっている.ガラスという表のサーフェイスの奥に広がる空間=バルクのその先にあるサーフェイスとが問題となる.そして,《Untitled(bird)》《Untitled(stingray)》では,そのバルクからこちらに向かってくる鳥が手前のガラスのサーフェイスに衝突し,エイに与えられる水は,ガラスのサーフェイスの裏側から注がれる.そこでは手前の空間はないことになっているが,ガラスのサーフェイスの奥のバルクの存在が強調される.その奥のピクセルの最深部とでも言える裏面のサーフェイスと,鳥とエイとが活動するバルクがあり,鳥が激突し,エイに与えられる水が生じる手前のサーフェイスがある.山形は《Untitled(bird)》《Untitled(stingray)》で,ディスプレイというモノの厚みに生じる2つのサーフェイスとそのバルクがつくりだす厚みをCG映像で切り出す.サーフェイスとバルクとのちがいから鳥はどうしてもこちら側に来ることができず,エイに与えられる水もまた,こちら側から向こう側に行くのではなく,ガラスのサーフェイスを透過するかのように,その裏側からバルクへと注がれて,背面のサーフェイスと一体化するかのように活動しているエイへと至る.
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memo983
モノを「サーフェイス-バルク-サーフェイス」で考えてみると,サーフェイスの部分にソフトウェアが接着されたということになるだろうか.サーフェイスにソフトウェが接着されてインターフェイスになって,サーフェイス-バルク-サーフェイスというフレームが,インターフェイスに一括りにされて,向こう側の主体とのやりとりをする場になった.ソフトウェアによってハードウェア=サーフェイス-バルク-サーフェイスが無効化されたのかもしれない.サーフェイスがインターフェイスになったときに,モノにどのような変化が起きたのか.サーフェイスにソフトウェアが接着されて,インターフェイスになり,インターフェイスは「サーフェイス-バルク-サーフェイス」を包み込んだ.
そして,現在,モノを包み込んだインターフェイスを引き離す動きがある.そうすると再び「サーフェイス-バルク-サーフェイス」が現れるが,それはインターフェイスを経由した「サーフェイス-バルク-サーフェイス」であって,インターフェイスだけが別の平面に移植された「サーフェイス-バルク-サーフェイス」になっている.他者とのコミュニケーションを引き離されながらも,それは別のインターフェイスを介して,機能する.exUIはどこか奇妙な感じがする.
exUIに行く前に,「サーフェイス-バルク-サーフェイス」を包み込んだインターフェイス=ソフトウェアのことを考える必要があるし,その状態でインターフェイスを「サーフェイス-バルク-サーフェイス」として考えてみる必要がある.インターフェイスをこちらと向こうとの界面ではなく,インターフェイスを構成しているのは文字通りの一枚の限りなく薄いサーフェイス���あり,それは,その薄さ出会っても「サーフェイス-バルク-サーフェイス」という,表と裏をその間を持つモノとして考える必要がある.それは,モノを「サーフェイス-バルク-サーフェイス」と分解して考えることであり,インターフェイスというソフトウェアと「サーフェイス-バルク-サーフェイス」との接着の仕方を考えることにつながってくると思われる.
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