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Les-Essais
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随想と読書記録のあいだ(文章(とくに構成)がへたなので書きっぱなしです)
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transformability · 3 years ago
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こんな言い訳ならしないほうがいい
「「クィア」という言葉がとても多様で共通の認識がないため、それを考える一つの試みとして本書を制作したいという思い」とか言われても、あなたたちが単に真面目に調べてないだけだろうとしか思えない。
雑な認識で歴史を上書きしたら、有意義な再検討になんてなりません。人が生存のために作ってメンテナンスしてきた言葉の泥棒と言われても仕方ないでしょう。
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transformability · 3 years ago
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「バランス感覚」のひと
テレビの選挙特番をだらだらと流していると、とくに何の専門性のない「どちらにも寄らない」こと(だけ)に長けたコメントをする有名人が目につく。
選挙報道のありかたとして「中立」は最重要の規範なのはわかるのだけれども、「バランス」の取り方が難しい生番組に使われるような有名人は、そうした「バランス感覚」を買われてワイドショーなどのコメンテーターになっていくのだろう。
そしてその結果、マスメディアでは「右でも左でもない」、つまりマジョリティに聞こえの良い、社会的マイノリティ軽視の物言いだけが発信され積み重ねられていく。
そういう「バランス感覚」に長けた「コメンテーター」として仕事をするような人は、おそらく、周到に「右見て左見て」をしたうえで「自分の意見」を決める力、つまり社会的マジョリティに届くように(結果的に「逆張り」して驚かせて見せるにせよ)発信機をチューニングする能力(だけ)を突出して高めていくことになるはずだと思う。
自分の立場から右を見て左を見たときに、「両端」の「極論」に見えるものの「あいだ」をとれば「良識的」になるとは限らないのだけれど。
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transformability · 3 years ago
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「政治」と「宗教」
政教分離原則のもとで、「私的」領域への公権力による介入や「社会」からの批判が制限されたときに、しばしば「過激な」(世俗的に正当化されにくい思想を有する)政治運動の側が「宗教」の外面をとって(宗教と融合して)自分たちの政治信条を批判からディフェンスするという手が使えるようになる(そして、「政党」組織が極端な(しばしば保守的)思想を備えていった場合に、動員のために「カルト」的な宗教を利用できるようにもなる)という面がある。
他方で、「宗教」の側がネットワークを社会の側に張り巡らせる手段として、「政治」の権威や人的な資源を(教義のなかに思想を取り込む余地を作りながら)動員する、ということにもなる。
「政治」運動が宗教を必要とし、「宗教」組織が「政治」を必要とする、ということの一端はそのようなことなのだろうと思う。
「カルト」という言葉のひとつの機能は、「私的な」自由として不可侵とされる「信仰」を「社会問題」として取り上げること(たいがいの場合には周囲に多大な損害が生じるゆえの「脱会」問題などが契機になるように思う)であり、それゆえある「宗教」組織を「カルト」と呼ぶことは「社会の敵」(パブリック・エネミー?)として名指すことと(しばしば)かなり近くなる。
誰にとってのどんな問題ゆえに「カルト」と呼ばれるのか、ということに注視しなければ「カルト」という名指しが権力の濫用も呼び込んでしまう恐れもあるのは、おそらくこの点にある。
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transformability · 3 years ago
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許し/許されてきた数多の「暴力」について
「許されざる暴力」の象徴として特定の暴力が扱われることで、どれほどの有形無形の暴力を(が)これまで実質的に「許し」(「許され」)てきてしまったのかが露わになる。
「暴力を許さない/暴力は許されない」という言葉は、基本的には「いつも」「そのたびごとに」言っていなければ意味がない。
そうでなければ、圧倒的に強い力を持つことで耳目を集める特定の人への特定の暴力の際に(だけ)「暴力は許されない」と言ったとしても、その圧倒的な力の非対称性のもとに行われる多くの暴力を看過し「許して」きたのであるのならば、「特定の人への暴力は許されない」、ともすると「弱い者への暴力なら仕方ない」と言っているのと変わらないことになる。
政治家に対する暴力だけが「言論の自由」や政治的主張の「自由」を阻害するのではない。政治家だけが政治をしているわけではないのだから。ふだん「民主主義」などろくに貫徹されたこともないのに、怠惰の果てに振り回される「暴力ではなく民主主義」、挙句の果てに「私たちにできるのは選挙での投票」などというのは何なのか。そこで言われる「私たち」とは誰なのか、「暴力」とは何か。「民主主義」を「投票」とイコールにしていないか。
何が言論の「封殺」や「弾圧」になるかは、暴力を行使する者と行使される者との力の差に依存し、それゆえにけっして銃撃のような「物理的な」暴力だけが言論の「封殺」や「弾圧」をもたらすわけではない。
銃弾によって命を奪われることで実質的にはじめて言論「封殺」される人もいれば、(無関心な人からは「些細な」)言葉によって「封殺」される人もいる。
暴力に真に反対するのならば、「暴力」の範囲を矮小化するのに反対することで、真の意味で暴力を批判しなくてはいけない。
暴力による言論封殺・弾圧を真の意味で倫理的に正当化されざるものに(つまり暴力を真の意味で倫理的に「不当な」こととして行われるものに)「し続ける」こと、それが何よりも難しいと思う。
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transformability · 3 years ago
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生存のために
状況に対してとてもクリティカルで、重要なスピーチ。多くの人に見て(聞いて)もらいたいです。
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transformability · 3 years ago
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誰が「世代」の代表者(サンプル)なのか
単に組織(やより広い社会)なりなんなりで権力(や影響力)の点で上位を占めている高齢者が保守的になる(なぜなら自分は殺されずに死んでいけるから)ということなら、「脳の劣化という事実」が問題になるような一般的な話ではないでしょう(不必要な「変数」なら、著者のかたはエイブリズムとエイジズムが重なり合うところに自分から突っ込んでいっていることになる)。
こういう世代間の利害対立を想定するタイプの議論、自分が目にすることのできる「安閑とした」「優雅な」年長者のイメージを一般化してしまうことで世代内格差(下の世代にも再生産される)に無関心になる話にも近いように見える。
自分にとって(立場や階層が)近い人を(無自覚にであれ)サンプルにして世代を論じるのはいずれにせよ危険だと思いますね。
「上の」世代内の格差だけでなく、「自分たち」の世代内の格差も覆い隠しかねないようにも思う。
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transformability · 3 years ago
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重要な問題提起になる可能性を感じる連載をみつけた。
問題はすくなくとも2つ(の水準で)ある気もする。
「コミュニケーション(自己開示や信頼関係の構築などの高い負荷がかかるものをふくむ)をしなければいけないのか、いけないならその状況をどう評価すべきか」と、「(コミュニケーションが不可避なら)コミュニケーションの回路(手段)を多様化することでマイノリティが負いやすい負担を下げることができるのではないか」との、2つの水準で考えられるのではないか。
後者については、著者の方が書かれているように、たとえば口頭よりも文字のほうが適切にコミュニケートできるというような個人の特徴・特性に応じた選択肢があってよいのでは、というようなことを想定している。
楽しみに次回を待ちたい。
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transformability · 3 years ago
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責任意識を希釈してくれるお祓い師(?)としての文化系「インフルエンサー」
「納税する子」を増やさねばならないなどと のたまっても議論の場から退場されることもない社会で「キャンセルカルチャー」を危惧するなど1000年は早い。
この社会の「評論家/批評家」や「売れてる」学者などの、いわば文化系「インフルエンサー」たちが「キャンセルカルチャー」と言い出す光景を見るにつけ、そういう人たちの議論の(ゴシップじみた)是非にかまける(「~さんはさすがに言い過ぎだけど、…」、「~氏は悪意があったわけじゃないのに…」など)ことで自分たちの差別意識に向き合うことを避けている人が相当な数いるのでは、と疑っている。
本来むきあってしかるべき、自分の差別意識(に対する罪悪感)や責任意識を消し去ってくれる「お祓い」の儀式のごとく。
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transformability · 3 years ago
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自称「アーティスト」たち
どの党を支持するかという話の前に、業界のメジャーを形成している人たちが、自分たちの現在や将来についてどういう考えを持っているのかが全く見えない(たぶん「ない」のだろう)のに心底うんざりする。
生稲氏や今井氏が元「アイドル」だったことを考えると、とりあえず目先のカネを持ってきてくれる人なら誰でもいい(利用する)という場当たり的な依頼心と、誰がお前ら(生稲氏や今井氏)をここまで押し上げたと思っているのかという他人の足許を見る権威主義とが表裏であるとも思わせるニュース。
たとえば、コロナ初期に「政治的プロパガンダはお休みに」とか言っていた大御所職人ミュージシャン(作品には敬意を持っていただけに心底がっかりした)が、業界の将来を裾野から考える活動を何かしたのだろうか。
自分は死なないから困らない(そしてそれは正当な「実力」の結果だと思っている)という条件下で、窮状を訴える他人を単に金をせびるだけのエゴイストに見てしまうような発想が「職人芸」の基盤なんだとしたら、そうした大御所の経歴も2曲入りのシングルレコード/CDが1枚1000円で売れるようなマスメディアありきのタイアップ産業が成り立っていた時代の産物でもあって、特段いばるようなことではないのを忘れているのだろう。
そして実のところ、世の中に不可欠ではないささやかな「娯楽」だからと謙遜しているようでいて、自分の表現が街中から流れているという発信力とその力が何に支えられてきたかとを軽視しているなら、それはただのマニア稼業であって「アーティスト」と呼べるのだろうか。
とりあえず、音楽に携わる人たちをどう呼ぼうと(自称しようと)なにがしかの声を社会に発信できる(してしまう)立場として、自分たちの現在や将来についてすら自分たちで考えて作っていこうという気がないなら、ただただ無責任としか言いようがない。
こういう「権力にすり寄る」だけの態度がよくないのは、(その「逆」として「反権力」のスタンスをとしても)けっきょく「権力に対してどういう態度をとるべきか、誰がどっち側か」ばかりが焦点になりやすく(自分たちの将来を構想するときに権力からある程度の距離をとれるのは必須であるとはいえ)、構想についての議論が積みあがらずに進んでしまうことにもあるとは、付け加えておきたい。
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