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まとめ
書き物
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23歳と10ヶ月
朝。駅行きのバスに乗ると、後部座席に幼馴染が座っていた。
お互いなんとなく視線を合わせてそれきり。
僕は前方に立ち、読みかけのエッセイを開く。
幼馴染は真っ黒で無難なスーツを羽織り、髪を平たくまとめて、大人になっていた。
彼女を見かけたのは何年振りだろう、中学を卒業して以来か。僕は少しホッとした。気にかけていたわけでもないのに。
窓の向こう。6月の空は背高く、入道雲の見習いが散らばっている。はっきりとした輪郭で、プカプカと浮いている。
幹線道路沿いの大看板はパステルに色あせて、支柱は真っ茶色に錆びている。
あと少しで、夏が来るのだ。
そう、今日は6月6号。あと少しで。
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少女たち(4)

日が昇って直ぐ、私は喫茶店に足を運んだ。
夢の景色が変わってしまった理由。
そしてもう一つ、マスターが以前話していた言葉が気にかかっていたから。
運命は最もふさわしい場所へ魂を運ぶ。
もしこの言葉が私の夢を具象しているなら、私が昨晩みたあの景色は何を意味しているのか。
そしてトンネルの先から迫りくるものがその運命と何か関係があるのか。その答え合わせをしたかった。
土曜日の午前ともあり駅前の人影はまばらだ。
マスターのお店は駅前の商店街を5分ほど、繁華街と住宅街の境目にある十字路を右に折れて直ぐだ。
目印は60年代を思わせるスクラッチタイル張りの外壁とステンドグラス、"KEY COFFEE"の外看板。
3年ほど前か。大学を卒業して間もなくこの街に移り住み、引っ越しを終えた直ぐにこのお店に出逢った。
あの日は確か彼と街の散策をしていて休憩がてら入ったのだけど、マスターがとにかく饒舌なものだから店を出て二人で大笑いしたんだった。1話すと10返ってくる、たまに鬱陶しいぐらいに親身に話を聞いてくれる。典型的な話好きなのだろうがその口調は柔らかくて居心地が良い。
結局それ以降、私の方が気に入ってしまって、週末はここに通うことにしている。
「おや。」
「おはようございます。」
「詩織さん、朝早くに珍しい。どうぞ。」
私はカウンターに腰掛け、煙草に火をつける。
「ブレンドで良いですか。」
「ええ。」
「どうですか。最近も、あの夢は見るんですか」
「丁度昨日見たんです。」
「線路の上を歩く夢ですよね。」
「それが、昨日のは少し違ったんですよ。」
「と言いますと。」
「線路を歩くことには変わりないけど、突然、景色が変わってしまったんです。
今まで見ていた夢は広い平原のような場所だっ��。それが狭い山奥に変わってしまって。とても怖かった。」
「成程。」
「ええ。怖いというか、なんて言えばいいんだろうな。それが、その山奥にはトンネルができてたんです。前の夢ではトンネルなんか無かった。そこから何かやってくるんです。でも多分、列車とか形あるものではなくて、形のないものが迫ってくる。漠然とした不安。そんな感覚に近かった気がします。あれに飲み込まれると元に戻れない気がして。」
「もしかすると、何かが変わり始めている気がしますね。」
マスターが言った。
「何か?何かってなんですか。」
「僕にはわかりません。ただね、夢っていうのは記憶を整理する役割があるんです。
自分の大切な記憶を手元に置いておく機能、シナプスといいますか。つまり詩織さん、あなたが定期的に夢で見ていた世界はあなた自身の大切なものと結びついていた。その景色が変わったということは、あなたの記憶の中で大きな変化が生まれているということです。」
「変化。」
「何か思い当たることは」
「ううん、いつも通り。特に変わった事はないし、ルーティンかしら。」
「僕が思うに例えば、そのルーティンのなかで無意識のうちに小さな変化や気付きが積み重なっていく。」
「何となくわかります。季節の境目とか。」
「そうそう。いつの間にか歳を取っていたってこと、あるでしょう。アレなんかもそうです。
無意識のうちに物質的にも精神的にも、少しずつ自分の受け入れる感覚は変化していて。ふと気づいたときに漸くその大きさに気づくわけですね。実は詩織さんのその夢も大きな変化を予知していて、もしかしたらもう、少しずつ始まっているかもしれない。」
「それって前におっしゃってた『運命』の話とも関係ありますかね。」
「ええ、もしかすると。来るべき時、そのタイミングを見定めているような。」
マスターが何かを言い掛けた時、一人の女性が喫茶店に入ってきた。
その女性はどこかで見覚えのあるショートヘアでスポーティな装い。
扉をしめると私の視線に気付いたのか、小さく微笑んだ。
「おお、いらっしゃい。おや?おふた方は知り合いで。」
「いや、知り合いというわけでは」
「いいえ。私、貴方のこと知ってるわ。マスター。カプチーノ頂戴。ハムサンドも。」
隣のカウンターに腰掛けると彼女はぶっきらぼうにマスターに告げた。
彼女は思っていた以上に小柄で、鼻が高くその横顔は端正な顔立ちだ。
胸ポケットからウィンストン・キャスター5とマットブラックのライター(おそらくブティックのそれ)を取り出し一回、軽くふかすとスツールを私の方に向け、黒い瞳を上目遣いで言った。
「ねえ、8:15発 急行新宿行き。そうでしょう?名前、なんて言うの」
「楠木です。楠木 詩織。」
「クスノギ。クスノギシオリ。良い名前ね。語感が好き。私、マコっていうの。遠藤真子。」
「マコ。」
「そう、真子。あ。マスター、灰皿もうひとつ貰える?」
「おや。真子さんも煙草吸われるんですか」
「いいから灰皿頂戴。私ね、ここにはよく来てるの。今日みたいな朝方に。貴方は?」
「私は午後が多いかな。」
「そうなの。ねえ貴方はどうして、いつも同じホームに立ってるの?」
真子は煙草を左手に、つま先から髪先まで、私を嘗め回すように眺めてそう聞く。
「あの電車に乗らないと、会社に間に合わないから。」
私はうまい言葉が思い浮かばなくて、端的に答えることにした。
「マコさんは」
「ふふ、私もそうね。さしずめ貴方と同じようなものかしら。本当はもっといろいろな理由があるんだけどね。」
「そう。」
「こういうのって言葉に置き換えると面倒じゃない?」
「そうかもね。」
「多分、似てるのよ。私たち。」
そう言って彼女は楽し気に口角を上げた。
マスターはおもむろにカウンターの隅からレコードを持ってきてそれを流す。キースジャレットのインプロヴィゼーションだ。
「そういえば真子さん。確か今週は忙しいとか」
「あー、メンドくさくなって切っちゃった。ねえ、聞いてよマスター。今回の撮影、木曜で終わる筈だったのよ。それが手違いで女優のスケジュール取れてなかったって、ふざけてない?明日からまた別案件だから今日逃したら12連勤なの。だからサボっちゃった」
「良いんですか」
「いいのよ。後輩に頼んでおいたし、私、仕事デキるから。」
「マコさんはどんなご職業されてるんですか?」
私は尋ねた。
「私?カメラマンのアシスタント。でももう直ぐ辞めるつもり。別にアシスタントやりたくて東京来たわけじゃないし。あ、私そろそろ行かなきゃ。」
真子は食べ掛けのハムサンドを頬張ってカプチーノで流し込むと、せわしなく身支度を済ませて席を立った。
「マスターこれ今日のお会計。ご馳走様。あ。ねえ貴方。さっきどうして同じホームに立ってるのって聞いたでしょ。私はね、貴方に会いたいから。じゃあまた、反対側のホームでね。」
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少女たち(3)

久しぶりにあの夢を見た。
ターミナルから伸びた貨物列車の廃線は雑草混じりに続く。
山々の稜線ははっきりと、入道雲は背高く、夏の終わりを知らせている。
草をかき分けながら枕木の上を進む。
しかし私は違和感を感じていた。
何も感じないのだ。
いままでこの夢に抱いていた高揚感、心の晴れた自由な感覚。
そういったものがそっくりそのまま失われてしまったみたいに、私はただ無心に線路の上を歩いている。
そしてその違和感を映し出すように景色は少しずつ陰りだしていた。
足元の影が薄れ、ふと顔を上げると太陽が入道雲の隅に隠れようとしている。
「この先には行ってはいけない。」
誰かにそう言われている気がして私は立ち止まった。
「誰?」
嫌な予感がして急いで視線を正面に戻す。
すると目の前には、ついさっきとは異なる景色が広がっていた。
少し視線を逸らしたこの一瞬で。
そこは孤独な山奥だった。
廃線は川沿いをその流れにつられて大きくうねり、両岸の針葉樹林は静寂の中で圧迫感をもってそびえ立つ。
後ろを振り返るとカーブの先にレンガ積みのトンネルが見える。
その奥からは湿気た冷気が、唸るような低音で流れ出していた。
何かが近づいている。
私はただそこに立ち尽くし、その気配に全神経を集中させた。
その瞬間、木々は大きくうねり、身体は支点を失って視界が歪み始める。
気配は確実に近づいて、低音が鼓膜に潜り込み、冷気が身体の隅々にまとわりはじめる。
どうにかこの場所から逃れようと私は瞳孔を強く開いた。
目が覚めると未だ外は薄暗く、おそらく4時をまわったくらいだろうか。夢の世界に振り戻されまいと慎重に呼吸を整える。
洗面台で煙草を一本ふかし、何となく缶ビールを空け、椅子にもたれかかった。
煙草の葉先が暗闇の中で揺らめいている。
換気扇のブロアー音とか隣の部屋の暗闇とか、そういった感覚情報の節々が、あの世界と繋がっている気がして居心地悪い。
夜が明けるまではこのままでいよう。
夜が明けたら喫茶店に行って、マスターに今日の夢の話をしよう。私はそう心で繰り返した。
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少女たち(2)

それから暫くして南風が香り、朝のニュースキャスターが梅雨明けを知らせ、気だるい湿気を抱えたまま東京は夏になった。
ベランダからみた街並みはコントラストを上げ、遠く給水塔の向こうはスモッグで霞み、土臭い熱気。室外機が鈍く吠える。
至る所から色んな臭いや音が溢れて、この街は騒がしくなりそうな気配だ。
「今日さ、高校の同期と会ってくるから。夜遅くなるかもしれない」
玄関の方から声がする。
「ん、わかった。」
適当に相槌を打つ。間髪を入れずに鍵のかかる音。おそらく私の声は届いてない。
同棲を始めて二年。
彼とは大学からの付き合いで、今は家から環状八号線を少し下ったあたりのWeb広告の事務所で働いている。
ここ最近、会話の少ない生活が続いて居る。
いざ社会人になってみると想像以上に私たちの生活は退屈なものだった。
「社会人がどうの」とか「私らしい生き方がどうの」というわけでは無い。
私は今の職場に人並みには満足しているし、彼自身もそうだろう。
でもどうやら現実と向き合うとか社会生産をするとか、そういった必要最低限の「義務」の中で自分の幸せをやり繰りすることが肌に合わないみたいらしい。これは私の話。
ただそれを解決するような理由もないから、なんとなく生活を続けている。これはお互いの話。
最後に一緒に笑ったの、いつだっけ。
日差しが高い。目を窄める。
私は口にくわえたラッキーストライクを2,3回ふかして、家を出た。
毎朝決まった時間に起きて歯を磨き、決まった時間にベランダで煙草をふかし、毎朝同じホーム・乗車位置で8:15発の急行新宿行きを待つ。
朝方のスケジュールはルーティンにしてしまったほうが気が楽なのだ。
それに行動を揃えてみると小さな変化にも気が付くようになるから面白い。季節の境目を鮮明に感じるようにもなる。
風の方角が変わったりコンビニのネオンが昨日より明るく感じたり。電線の音がやけに煩く聞こえたり。早とちりした蝉が遠くで鳴いていたり。ルーティンの中の何気ない違和感が実は次の季節を告げていたりする。
そんな感じで毎日は少しずつ変わって居て、「実は同じ日なんて一日もないんだ。」なんて当たり前のことに納得してしまう。
ルーティンにして気づいたことは実はもう一つある。
変わらないものもあるということ。
毎朝、同じホーム・乗車位置。
反対側のホームで一人の女性が電車を待っているのだ。歳も概ね同じくらいで、おそらく彼女も私同様ルーティンが好きなのだろう。
2週間ほど前か、分厚い曇り空の朝だった。
一度だけ彼女と視線があったことがある。
彼女はいつも通り同じホーム・乗車位置に立ち、文庫本を読みながら髪をかきわけ、何かを思い出したように顔を向けた。
反対側のホームの接近放送が鳴り、私たちはただぼんやりと見つめ合っていた。
その間私は、なにを考えるわけでもなく。
ショートヘアでスポーティなジャケットを軽く羽織り、モノトーンな装い。
優しく膨らんだ涙袋、黒く鋭い眼差し、その視線はどこか悲しげに見える。
電車がヘッドライトを���き伸ばして入線し、その風圧で彼女の黒い髪は軽やかになびいた。
そして彼女は私に向かって誰も気づかないくらい小さく、微笑むのだった。
静かに変わりゆく日常で唯一変わらず佇むその姿に私は少しずつ興味を抱き始めていた。
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少女たち(1)

「時折決まって同じ夢を見るんです」
「と言いますと?」
「田舎の寂れた工業地帯なんですけど。ターミナルから逸れて貨物列車の廃線が伸びていて。その線路の上を歩き続けるだけの夢なんです」
「成程。随分とまた具体的ですね」
「そうなんです。あの景色だけはなぜかはっきりと思い出せるんです。」
「その線路の先には、何があるんですか?」
「それが、何処まで歩いても終点にたどり着かなくて。まるで果てまで続いているみたいなんです。それに目が覚めてしまうと、次にこの夢を見る時にはもう一度はじめから歩き直さなきゃいけなくて。でも別にそれがもどかしい訳でも苦痛な訳でもなくて。寧ろこの夢を見ているときは心の晴れた、自由な気持ちになれるんです。」
「成程。あ、すいません。今珈琲入れますね。ブレンドですよね?」
「ありがとうございます。ブレンドで。こちらこそすいません、こんな閉店間際に」
「いいんですよ。詩織さんだし、ね。それに今日は珍しく忙しかった。少しくつろいでから帰ろうと思ってね」
古い八日巻の掛時計はもうすぐ8時を指すところだ。
夕方から降り始めた雨は既に止んだが、ステンドガラスに残る無数の雨粒が車のヘッドライトに合わせて踊っている。
「詩織さんは、シューゲイザー聴きますか?」
「シューゲイザーですか。」
「そう。こういう夜には、よく合うんです」
マスターはそう言って照明を下げると、カウンターの隅からCDを持ってきてそれを流す。
薄暗い店内は繁華街の光量に負け、私たちは喧騒から切り取られた。店の外の景色はいつもより鮮明に輝く。
「まるで映画を観ているみたい。」
JBLのスピーカーから流れるシューゲイザーは想像していたものよりずっとドリーミーで直線的で気だるく、深い残響に包まれている。
私は何となく、ガラス越しの街並みにその音を重ねてみた。
路面に反射する街頭の明かりや、行きかう人々の足音、雨上がり特有のコンクリートの香り。
それぞれがメロディに合わせてゆっくりと溶け合っていく。
「もう直ぐ、梅雨が明けます。」
「夏ですね。」
「そう。もうじき、夏が来ます。」
赤いペルシャ刺繍のソファにもう一度深く腰掛け、私はブレンドを一口だけすすった。
「そういえばね、詩織さん。」
「ええ。」
「さっきね、夢の話してたでしょう。僕はね、その線路の先には必ず何かがあると思うんですよ。それも運命的な何かが。」
「運命的な何か、ですか。」
「そうそう。もしかすると、もしかするとですよ。あなたにはずっと探している物があって、あなたはその答えを探すためにあの線路を歩いている。僕はそんなイメージを受けたんですよ。」
「探しているものですか。」
「勝手な思い込みですけどね。」
「いえ。似たようなことを考えていたんです。ただその『探し物』が何なのか今の私にはサッパリ見当もつかなくて。とりあえずはこのままでもいいかななんて思ったり。」
「なるようになる。ということでしょうか。」
「そういうことかもしれないです。」
「運命は最もふさわしい場所へ魂を運ぶ。僕の大好きな、シェイクスピアの言葉です。いつかきっと『探し物』に気づく時がくるでしょうし、あるいはもうその線路に乗っているかもしれない。いずれにせよ、運命は来るべくしてやって来るものです。それは未来のものかもしれないし、過去のものかもしれない。そして今現在かもしれない。その瞬間はふとした時に、自然に訪れるものです。」
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創作『倦怠』
「この電車が来たら、一緒に死んでしまおうか」
彼女は両足を揃えてそう言った。
夜も深くなった住宅街の踏切は強いコントラストで視界を赤く鮮やかに点滅させ、僕らは無言のまま立ち尽くす。
間も無くして左側から急行がけたたましいモーターを響かせて過ぎ去ると、白い蛍光灯の帯だけが残り、静寂に深い余韻が沈み込んでいくのだった。
「死ぬんじゃなかったの」
「嘘よ。全部嘘なの」
そういうと彼女は僕の手を握った。
線路沿いを5分ほど行った所にある二階建て鉄筋アパートのドアを開けると、彼女は無造作にスニーカーを脱ぎ捨て、結んだ髪をほどき、そのままロフトに上がる。
「今日はなんだか、とても疲れた。休みたいの」
「うん。ゆっくり休むといい」
「何処か遠くへ行けそうな気がする。」
「どういう意味だい?」
「この世界はとても窮屈だわ。何処にいても、何をしても、いつも心臓を握りつぶされそうな、そんな気分。貴方と居ても。」
「わかるよ」
「判って貰うことすら窮屈なの」
「このまま消えてしまいたいのかい?」
「いいえ、消えようとは思わない。私はこれからもそうあるべきだし、ただ遠くへ行ける気がする。それだけ。」
それ以上彼女は話さなかった。
僕は煙草を軽くふかして眠りに落ちる。
その夜、夢を見た。
とても変な夢だった。
いつものように林檎を獲とうと表に出たときのことだ。部屋の中から強い空白が迫ってきているのを感じる。
僕は急いで扉を閉め鍵をかけたが部屋のあらゆる隙間から空白は漏れ出し、キッチンに面した窓はミシミシと音を立て、蜘蛛の巣のようなヒビがガラスに入る。
間違いない。あれは僕を狙っている。
重心を前に走ろうとするのだが、思うように足が動かない。身体が半分宙に浮いているのだ。
あれに捕まるともう二度と元には戻れない。
なんとか線路沿いに出た時、空白は窓を破り、鋭い勢いで路上に流れ込んできた。
ふと踏切の方に目をやると、線路の上でキミは肘をついて寝転がっている。
太ももは不自然に曲がり、視線は本来みるべき場所からわずかに逸れていた。まるでルノワールの裸婦像のように。
あの踏切を渡れば逃れられるかもしれない。
そんな一瞬の安堵を捕まえた時だ。
警報機が鳴って遮断機が降りる。
カーブレールはすぐ先のヘッドライトを捕まえてその光を伸ばす。
「おい、まってくれ。違う」
僕は叫んだ
「違うんだ!僕はキミが思っている以上に、」
そう言いかけると、彼女は緩く微笑んだ。
遮断機の向こう側には赤く鮮やかな林檎が実っている。
強い警笛が脳髄に響く
「止めてくれ!」
僕は振りほどくように瞼を開いた。
まだあの夢に囚われている気がして、一生懸命に天井の蛍光灯に焦点を合わせる。
心拍数が上がっている。むせるような息苦しさ。
ロフトからは彼女の緩やかな寝息が聞こえる。
僕はその晩、39度の熱を出した。
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創作『或る朝』
「よく眠れた?」
「まあ。君は」
「夢に初恋の人が出てきて、寝れなかった」
僕らは上半身を起こしたまま同じ方向を見つめた。部屋の壁紙はヤニがこびり付いて薄茶色に煤けている。
暫く沈黙してから、シャワーを浴びたいと言う。
間接灯の照度を上げるとようやく彼女の肌白さに気付いた。
その色はただひたすら純粋で、小さな乳房を撫で下ろしながら携帯のスヌーズが鳴るまで感覚に耽ってみる。
8分後、アラームを止め彼女は浴槽に入り、僕は窓を開けた。
曇り、分厚い雲。
池袋、ホワイトアウトした街並み。
遠くから建材を打つ音が聴こえる。
漏れこんだ日差しに照らされた室内。
乱れたシーツ、ハンガーに吊るされたレトロX、化粧ポーチ、黒いライター、金のワイヤーリング。
空間のいたるところに違和感を感じて、途方もなく孤独だった。
このまま泥のように溶け去ってしまえればどんなに楽だろう。
そんなことをぼんやり考えているとシャワーの止まる音がして、僕は加えかけた煙草を箱に戻した。
「今日、何か用事は」
「バイト。17時から。」
「喫茶店でモーニングを取ろう。その後少し、散歩しよう」
「いいよ。いいけど、一度家に帰りたいの。ズボンに履き替えたくて」
「うん。それまでゆっくりしよう」
「いいよ。」
「昨日の話、面白かったよ。」
「なんだっけ。」
「東京っていう曲は、住んでいる人には書けない」
「あー。そうそう。東京に憧れているから、東京っていう曲を書くの」
「俺、それ、君に言われるまで気づかなかったんだ。物凄く腑に落ちてさ。でも自分の思い描いている東京って、今もその憧れなんだよな。」
「住んでいるから書けないというか、その憧れとか乖離に気付く瞬間があるんじゃないかな。って」
そう言うと彼女はドライヤーで髪を乾かしながら、自分に言い聞かせるように小さく頷いた。
適当に身支度をして部屋の鍵を閉める。
エレベーターの中で、髪から���き鳥の匂いがするよといって笑う。
フロントに鍵を戻している間、彼女は受付のパネルを珍しそうに見つめていた。
「私、こういう所来るの初めてなんだ」
おそらく昨夜の喧騒が未だ残っているのだろう、外に出ると路地裏は不器用に静まり返っている。
僕たちは手を取り合って繁華街を彷徨った。
喫茶店がどこに在るかお互い知っているのに。当てのないふりをして。
「なんか、はじめて会った気がしないね。」
もう二ヶ月前の話だ。
その日以来、彼女に会うことはない。
別れ際に交換したラインは簡単なやりとりで途切れていて、僕はその画面を時々開いては彼女の笑い顔とか髪の匂いに胸を締め付けられる。
何故だろう。あの日の出来事は自分でも嫌気がさすほど鮮明に残っている。
あらゆる記憶が五感を伝っていく。
今��になって気付くのだ。
おそらく僕は、彼女に惚れていた。
そして、これからもう2度と出会う事がないであろうことも。
僕の思い描いている東京はまた一歩、遠くへ行ってしまったみたいだ。
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4月中旬・春燈
吉祥寺駅の改札を抜け、公園へ向かう。
ふと横を見ると初春のぬるい日差しに照らされて、はっきりとした輪郭。視線はいつものようにどこか遠くを見つめてる。
「ひと段落ついたら、車を買ってどこか遠くへ行こう」
「どうしたの、いきなり。」
「古いボルボが好きなんだ。240ワゴンがいい。エンジンをかけたら最初にWilcoを流そう。Normal American Kidsを」
「はは、いいよ別に。付き合ってあげる」
彼はやたらと話に自分の感性を織り込むのが好きだ。趣味とか。知識とか。
そしていつも、会話の節々が小奇麗にまとまっている。何かの小説から選んできたんじゃないかと思うくらい。(ジツにくだらん。)
よってその言葉の奥にはいつも何かしら意味が込められていて、私はその物語を邪魔しないように言葉を返す。
私はこの先もう二度と、「ひと段落」つくことがないことを察していた。
恐らく彼も同じだろう。
毎日、数時間先のことを考えるだけでも精いっぱい。
バイト、会社、バンド、イラストレーション。家賃、光熱費、水道代。食費は雑費に数えよう。差し引いた手持ち。
それよりも今は三日間溜まった洗濯物をどうしようとか。そんな毎日だから。
自分の生活にまつわる些細なモヤモヤはこれから一生、私の心から抜けることはないんだろうな。例え何処か遠くへ行けたとしても。
まあそれでも今は、さっきの言葉を信じておこう。
数十分後には私も同じようなことを口にしていただろうし。
だって、今日はこんなにも天気が良いのだから。
ふと横を見ると、彼は軽く微笑んで空を見上げている。
物語が少し、進んだ気がした。
「何処いこうか」
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トゥエンティーンエイジャー(5)

20〇〇年2月16日 8時15分
東京都新宿区歌舞伎町
私は少し昔の記憶と今の感情を重ね終えると、ゆっくりと瞼を開いた。カウンター越しの景色はいつの間にか満遍なく新雪が降り積もって眩しい。
半目がちに交差点を行く車の往来を眺めながら、カフェラテを口にする。窓ガラスから伝わる外気はとても冷たくて、気まぐれに街へ繰り出したことを少し後悔した。
ふと、テーブルに置いた携帯からバイブレーション。一瞬、針が胸をつく。
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どんなに振り切ろうと必死になったところで、結局心の奥で期待している自分。
苛立ちとか悔しさを通り越して、だんだん呆れてきた。画面を見ながら周りに気づかれない程度に苦笑いしてみる。
するといきなり、右後ろから話しかける声がした。
「すいません。隣、空いてますか。」
え、、私?
振り返ってみると、男性がこちらを見ている。どこかで見た気配がする。私の笑い顔が変だったのだろうか。あるいは私が何か不都合をしたのだろうか。
あまりに突然のことで、全く整理が付いていなかった。
「隣、いいですか。」
「え、あ。、、いいですけど。」
彼はカウンターにコーヒーカップを置いて、隣の席に座った。
「、、、西城さんだよね。」
「え?」
「あ、人違いだったらごめんなさい。」
「え、いや、そうですけど。」
「俺のこと覚えてる?高校の時、ベルトモリゾ展で」
「あー、倉持くん。」
ベルトモリゾ。倉持くん。思い出した。
確か高校二年生の時だ。
言われてみれば、雑っぽい髪型とか少しやつれた輪郭は昔の彼の雰囲気そのままだ。ただ余りにも記憶が曖昧で、昔の彼がどういう人物だったかは思い出せずにいた。少なくとも、久しぶりの再会に何故か喜べない自分がいる。
掘り返したくない何かが潜んでいる気がする。
「えっと、いきなりどうしたの。」
とりあえずストレートに聞いてみることにした。
それ以外にこの空気をどう埋め合わせればいいのか見当もつかない。
「ん、いや、久しぶりだなって思って。まさか此処で逢うと思わなかったよ。それもこんな日に」
「いや、それはそうなんだけど。」
「今日はどうしてここにいるの」
「どうしてって、別に意味はないんだけど」
「そうか。、、、実は俺も特に意味はないんだよね。」
突然、言葉の節々から記憶がまとめて蘇ってきた。
彼に抱いていた感情もそのまま。
この話を寄せてくる感じ、距離を詰めてくる感じ。間違いない。胸の奥で黒い霧が渦巻く。
「これから用事は?」
「、、、特にはないけど。何?」
「折角だし少し一緒に遊ばない?」
「いや、雪降ってんじゃん(笑」
「だから、」
「今日スニーカー履いてきちゃったから、あんまり歩きたくないし」
「だから、映画とかさ。」
「、、、そういう気分じゃないんだよね」
「でも特に用事ないんでしょ」
「何?遊ぶ気分じゃないって言ってるの。」
暫しの沈黙。
置き去りにしてきた記憶が時系列を辿り、
一粒一粒、胸の奥ではじけて鈍い痛みを残す。
「そっか。じゃあ、少しここで隣居てもいいかな」
「いや、別に話す話題とかないよ?」
「んー。」
「ナンパしてんの?」
「ナンパとかではないんだけど」
「。」
再び沈黙。
彼は何か話そうと口を開いてはコーヒーをすする。そんな気配を感じながら、私は輪郭を失った雪景色を眺めた。
「ごめん話すコトないみたいだし、私帰るね」
「、、そうか。」
コートを羽織って、手早く荷物をまとめた。
「あのさ。」
しつこく話しかけてくる。
「何?」
「後で、メッセージ送ってもいいかな。」
「あーそしたらこっちに送って。前のアカウント携帯変えて使ってないから。」
「あ、ありがとう。」
「。」
「、、、またね。」
QRコードを教えて、足早に店を出た。
冷静になって考えれば、なんで彼に新しいアカウントを教えたのかわからなかった。動揺していたのかもしれない。
雪粒は重力を持って一直線に降り注いでいた。ビニール傘に降り積もる雪をこまめに振り払って新雪の積もった歩道を歩く。コンバースは直ぐに水分を吸い込み、足元が冷たく滲んだ。
よりによってこんな日に、このタイミングで彼に会うなんて。胸の奥に渦巻く黒い霧はなかなか晴れてくれない。兎に角、言葉にならない苛立ちを抑えるので精いっぱいだった。
あの話し方、距離の近づけ方、間違いない。
彼は私の気持ちを弄んだ、最初の人なのだ。
(放棄)
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中間雑記
成人して3年が過ぎた。
周りの殆どの同期は社会人になり、婚約の噂も聞くようになった。
残念ながらそんな中、自分は未だ学生を続けている。拗らせている。
先日、飲みに行った4歳上の女性と(理由はおいて)
喧嘩をした。
「君は何か、昔の自分を見てるみたいで嫌になるね」
その日の帰り道はひたすらに惨めで、ようやくぼんやりと社会人と学生の価値観の差に気付いた気がした。
そして、そこは今の自分からすれば途方もなくかけ離れていた。
20代も折り返しに差しかかろうというのに、ちっとも前に進んでいない焦りとか。苛立ちとか。もしかしたら、このまま社会人になったとしても、あの人との差は埋まらないのかもしれない。そんな劣等感とか。
ただ一方で、自分がこうやって学生を拗らせていることで僕自身の学生生活の価値もやっと見えてきた。
学生は社会からみれば圧倒的に無知で盲目だ。
しかしどうやら、それが価値であり、武器らしい。
それをどうやって使いこなすかが今与えられている最大の試練のようだ。
おそらく僕にとって、将来大人になった自分を支えるのは無知と盲目に培った経験と価値観で、それを今のうちにどれだけ熟成できるかでこれからの人生観は決まる。
学生のうちに悩むことなんか、芯を辿ればひとつも解決することはないだろう(なんせ無知と盲目なのだから)
それでもいまは全力で悩まなければならないし、悩みつくした末に答えが出なかったとしても、いまこの場を笑って終えることができれば、おそらくそれはとても素敵なことだ。
拙文でとても恐縮だけれど、そういった学生の自分の曖昧さ、無知と盲目を忘れまいとひとつづり、形にして残そうと思っている。
数年後振り返ってみれば、気恥ずかしくなるだろうし、くだらないことを書いてる自分に失望するかもしれない。でも、そんなことはどうでもよくて。
今、この瞬間を当事者のうちに切り取ることが肝心なんだと思っている。
アオハルが18歳で山を越すように、学生は本来ティーンエイジャーの特権だ。
20代の学生は、ティーンエイジャーからあぶれた。
でも学生である以上は相変わらず無知と盲目で、ティーンエイジャーのそれとなんら変わりはない筈で。大人と子供のはざまで翻弄され続ける存在。
そういう中途半端な世代である自分を、
敢えてトゥエンティーンエイジャーと呼んでみたい。
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トゥエンティーンエイジャー(4)

20〇〇年2月16日 7時12分
東京都渋谷区笹塚
都内は初雪の予報だった。
僕は彼女の目が覚める前に静かに家を出た。
マンションの共用廊下から見下ろす四号線は、薄い膜を張ったみたいに白くぼやけている。
雪粒は未だ軽く、踊りながら足元に消えていく。僕はエレベーターを降りると傘を差さずに煙草をふかした。
街は静寂している。雪の一粒一粒が音を吸い込んでしまったみたいに。それは心の中をそのまま描き移してくれたみたいに心地よい景色だった。
今はただ一人になりたくて。
白くぼやけた街並みは孤独を知るには丁度良い。
もう限界なんだ。何も考えたくない。
ー各駅停車の到着です。終点新宿まで先に参りますー
ヘッドライトが雪煙をかきわけ、コルゲートが時々ぼんやりと光る。
僕を含め数人の乗客を乗せると電車はモーターを空転させながら都心へ向かった。
長いトンネルに入ると、けたたましいノイズとフランジ音が直ぐに煩悩を引き戻す。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね。」
昨日の言葉が脳裏にこびりついている。
おそらく僕はその言葉に対して、一つの返事しかできなかっただろう。
なるべくしてなったんだと。
でも結局あの口付けの後、僕らは無言だった。明け方、カーテンをくぐり抜けた残光に照らされる彼女の頬には涙の跡が残っていた。
たった一つの返事でさえ僕は曖昧にしてしまう。
僕のこの悪い癖は組織だろうが、恋人だろうが、自分自身だろうが、社会のあらゆる関係性の中に無意識に入り込んでいく。そうして均衡を保っていた天秤がゆっくりと、確実に傾いていく。
ここ数日の出来事はこの事実を裏付けるには充分だ。耐え切れなかった。
7時30分
東京都新宿区歌舞伎町
改札を抜けると既に雪粒は重力を持ち、一直線に降り注いでいた。反対側の百貨店の看板は解像度を失ってまるで抽象画の一部のようだ。
ふとインターン先の手持ち案件に修正が入っていたことを思い出し、リュックにノートパソコンが入っていることを確かめる。
あれ、俺今日、何も考えたくないって言ってなかったっけ。まあいいか。どちらにせよ煩悩が消えることはないんだから。
あまりにも切り替えの早い自分にあきれて口元が緩んだ。まるで悲劇のヒロインを演じているだけじゃないか。馬鹿馬鹿しい。
駅前の歩道を渡った角地にある、行きつけのコーヒーショップに入ってアメリカンを注文する。雪のせいかいつもより客足はまばらだ。僕はコンセントの使えるテーブルに腰掛けてパソコンを開く。
久しぶりに開いたメールフォームから修正原稿をダウンロードして編集画面を立ち上げる。
テンプレ��トから原稿を入れ替えるだけの作業。15分もあれば終わるだろう。メールフォームのタブを落とそうと画面の右上に顔を向けるとその視線の先、カウンターに座る女性に目が留まった。
黒髪。セミショート。
隣の椅子に寄せたロングコート、タータンチェックのマフラー。
コンバースのローカット。
視線を画面に戻し、編集作業と向き合いながらぼんやりと数年前までの記憶を反芻してみた。何処かで逢った気がする。
それも、遠くない昔、近い距離で。
彼女は頬杖をつきながら、何をするでもなく外の景色を眺めている。
駅、喫茶店、カウンター、雪。
視界に映るものをひとつひとつ丁寧に言語化して記憶の接点を探す。回想が三周目に差し掛かった時、一瞬鋭い痛みが心臓を揺さぶった。
痛みが確信に変わると僕はコーヒーカップを手に取って、反射的にカウンターへ向かった。
「すいません。隣、空いてますか。」
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トゥエンティーンエイジャー(3)

20〇〇年2月15日 16時20分
東京都渋谷区笹塚
幾分かの眠気を引きづったまま流されるように目を覚ました。換気扇の音がする。鈍い低音が脳内を鈍く刺激する。
夜勤の疲れは取れたのだろうか。自分でもわからないほどに曖昧な気だるさだ。
もう4時か。
「起きた?」
「、、、来るなら連絡頂戴って言ってるじゃん」
「どうせ見ないでしょ。今日も送ったよ」
「ん、ああ。」
僕は天井を見上げ、彼女の居る場所を耳で辿りながら返事をした。
恐らくキッチンにいるのだろう。シンクにたまった食器を一枚一枚、丁寧に洗いながら。
「また事務所サボったらしいね」
「。」
「荒木さんめっちゃキレてるって。雪乃ちゃん言ってたよ」
「んー。」
「んー、じゃなくてさ、そんなこと続けてると本当に伝手無くすよ?そもそも私の紹介でしょ。あんま好き勝手やんないで貰える」
「んー。あー、もう、どいつもこいつも五月蠅えな」
彼女の手が止まった。
「何?」
「独り言だよ」
「ウルサいって言ったよね」
「寝ぼけてんだよ。」
「言ったじゃん」
「言ってねえよ」
「言った!」
「だから、言ってねえつーの!」
暫しの沈黙。換気扇の音がする。
僕はこの空白を邪魔しないよう、極力音を立てずにベッドに腰かけ、煙草に火をつける。
「あのさ、こんなこと言いたくないんだけど。キミ、私が居なきゃ何もできないじゃん。自分勝手に理由つけてまとめようとしないでくれる?」
「。」
「聞いてる?」
「どういうこと?」
「理想ばっか語って、自分一人で何かできた事って一つもないじゃん。そういうところだよ」
「あのさ、俺はさ」
「なに。また何かこじつけて自分守ろうとしてるでしょ」
「いや、待って、俺はさ」
「いい加減うんざりなんだけど。」
「あのさ待って、シホはさ、そしたらシホは、俺の何が好きなの」
「そしたらって何?」
「いや、俺の何が好きで付き合ってんの」
「は?」
「元々俺がそういう人なのは、シホがよく分かってるんじゃないの。」
彼女は僕を睨みつけるように向き合って、なにか躊躇うように視線を下げる。
「わかんない。何が好きだったのか、よくわからなくなっちゃった。」
「、、、キミは私のこと、好きなの?」
倦怠感とも付かず、走り出した糸のほころびを抑えるように、煙草を灰皿に擦り付けた。
「ごめん。ちょっと外の空気吸ってくる」
ドアノブを捻ると、肌寒い冷気が軽やかに僕を包み込む。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね。」
夕刻の住宅街は無造作に敷かれた電線の影をどこまでも引き延ばし、まるで自分が蜘蛛の巣にかかってしまったようなそんな気分だ。
蛍光灯は深い紫赤の空を割るように差し込んでくるものの、この闇を払いのけるには心細かった。
4号線の裏手路地にある公園のベンチに腰掛けてみる。
彼女の何が好きなのか、僕にはよくわからない。好きという感情すら定義できない自分もいる。もしそれを感覚的なものだというなら恐らく今までもこれから先も、運命の人なんて出逢うことがないのかもしれない。そういった諦念の上に積み重なった記憶が、運命のひとつの形なのだとしたら。それはあんまりだ。
しかしそんな煩悩も掘り下げることはなく、ぼんやりと空に消えていく。
所詮僕はこの程度だ。
ただ、これだけはハッキリと言っておきたい。どいつもこいつも自分勝手だ。勿論、自分も含め。
別に今の職場だって自分からお願いして就いたわけじゃないし、彼女に家事を手伝ってもらう気だって、毛頭ない。
こうやって誰もが、自分ですら答えの出ていない生活に土足で入り込んで来てその人なりの理屈や正解を押し付けていくことが気に食わなかった。
とはいいながら僕もまた、自分自身の言葉や行動で他人の生活を土足で汚しているに違いない。
有耶無耶な考え事が夕闇に溶けるのを見送りながら、僕は思った以上にベンチが冷え切っていることに気づいた。今夜は寒くなりそうだ。さっさと家に帰ろう。
部屋に戻ると、薄暗いフロアの奥でテレビの液晶が点滅している。
その点滅はベッドに横たわる彼女の影を鮮明に捉えていた。
『―強い冬型の気圧配置が続いています。明日は明け方から広い地域で雪が降り始め、東京23区内でも最大40㎝近い積雪となる見込みです。』
『鉄道や飛行機の影響に十分に注意してお出かけください。』
「ただいま。」
寝ている。寝ているみたい。
背を向けた彼女の後ろ姿はやけに小さく、心細く見える。
自分に言い聞かせるように呟いた。
「ごめんね。」
「、、、ん。」
彼女は振り返って僕の頬をなぞると、軽く口づけした。
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トゥエンティ―ンエイジャー(2)

「若いうちはこんな仕事やんないほうがいいよ。君いくつ?」
「23す」
「ほら若いじゃんかよ。俺なんかその2倍は軽く生きてきてるかんね」
「。」
「今のうちに社会出ておかねえとさ、どんどん周り、置いて行かれるから。まあでもほら、俺みたいに一度社会出てもこうやって警備員やってる奴とかいるけどさ」
「まあ。いいんじゃないんですか」
「兎に角、若いうちだから。やりたいことやりつくしてさ」
「あ。」
「んーどうした」
「休憩終わりますよ。」
「あーやべ。まーほら、元気出せって。な。」
「別に元気はあるんですけど」
20〇×年2月14日0時30分
東京都中央区
人影も疎らになった銀座は惨めだ。
終電を逃したクチの人々は意外に少ない。恐らくこの街で飲み明かすのだろう。行きかう人はみな着こなして、集団で去っていく。1時丁度に資材搬入用のクレーンが来て、晴海通りの2車線を埋める。時計の針は0時半を回ったところだ。厚手のコートの隙間から潜り込んできた鋭い冷気が僕の全身を探り、芯をえぐろうとする。
空を見上げるとオリオン座は既に西の遠くへ消えていた。白く固まった吐息が逃げ出して、少しためらったように消えていく。
僕は吐息が闇夜に溶け込んでいく、このグラデーションが好きだ。
まるで帰る場所を知っているみたいに自然じゃないか。
もう時期、春が来る。
2月中旬の肌寒さはまるで、僕たちの記憶にしがみつこうと必死だ。
その肌寒さで身体の隅々に潜り込んで。
でも春が来れば世界はおそらく、また、生暖かいざわめきに包まれる。
人々は、すぐに忘れてしまうだろう。
冷たくて、鋭くて、無表情な君のことを。
1時を少し回ったころにクレーンが来た。
ベンツ製の大型クレーンはコンクリートに脚をつけると、回転灯を乱反射させながらゆっくりと腕を伸ばしていく。
「なあ、お前さ、倉持って言ったっけさ」
「どうしました?」
「いやー、さっきの話だけどさ、お前ほら、何があったかしんないけどさ、あんま気にしすぎんなよ。若いうちの悩みなんて、歳とって振り返ると大したことないんだからさ」
「。」
「いやな?ほら、」
「そしたらですよ」
「んー?」
「そしたら仮にです、僕が社会的生産性で絶対に他人を超えることができない理由があるとします。かといって自分の信じているものが、今ある選択肢のどれを選んだとしても叶うことのない現実だとしたら、どうでしょう」
「んー、何言ってるかわかんねえよ」
「わかんないように言ってますから。若いうちしか悩めない悩みもあるんです。僕の人生は僕が決めるんで、あんまり詮索しないでください。」
自分の言葉に嫌気がさすことはわかってた。
でも見知らぬ年配に八つ当たりしたからとか、子供っぽいからとか、若さゆえの悩みの軽さとか重さとか、そういうことではない。
一番嫌いなのは、考えているようで考えてない。悩んでいるようで悩んでいない。
そんな自分自身だった。
8時24分 東京都渋谷区笹塚
―午後11時02分、一件です―
『もしもし。倉持クン、荒木です。何度メールも送ったんだけどさ、この前の歌謡音楽祭のリーフレットのデザイン案、明日の打ち合わせで固める予定だったけど進捗どうなってる?あとね、フューチャーヘルスのテンプレート。修正入ったので。メールに添付しておいたのでお願いね。忙しいと思うけど、電話確認次第連絡ください』
受話器を置いて煙草に灯をつける。
蛍光灯をつける気にはならず、煙を手繰り寄せては突き放した。
いつも夜勤明けに襲ってくる非健康的な疲労感と眠気は、今日は何故か感じられなかった。
「、、、もしもし。倉持ですけど。」
『あ、お疲れ。着信聞いた?』
「、、、今日なんですけど、先日から体調が悪くて。治らないのでお休みさせてもらいます。」
『え、どういうこと?音楽祭の案件固めるって言ったよね?』
「いや、そうなんですけど、ちょっと体調が悪いので。」
『えーそしたら、完成してるファイルだけ送ってくれない?今日はもう来なくていいから。』
「すいません、原稿もちょっと」
『は?どういうこと?』
「いや、先日から体調が悪くて。手をつけようにも」
『手をつけようにもじゃないよ!!!』
「。」
『大分前から連絡してたよね。それを今になって出来てないですって?』
『、、、君、最近おかしいよ。俺もこういうこと言いたくないんだけど、進捗遅れるのは君一人の責任じゃなくて事務所の責任になるんだからね。それはわかってるよね』
「。」
『学生だからといって許されることじゃないよ。、、、まあ俺も学生の頃は遊び散らかしてたし、言える義理じゃないんだけどさ。』
「いや、」
『とりあえず今回の案件は別のコに引き継いでもらうから、倉持君はゆっくり休んで。』
「、、、ありがとうございます。」
『あ、あとさ。』
『うちのインターン希望してる学生さんって君以外にも沢山いるからね。倉持くんさ、どうしてうちで働きたいと思ったのかもう一度考え直したほうがいいんじゃないの。
その時は相談に乗るからさ。』
「。」
電話が切れてから何を考えるわけでもなく、ただひたすら部屋のどこか一点を凝視した。そうしないと、心の奥でつなぎとめていたものがほどけてしまう気がして。
事務所は悪くない。親切にフォローしてくれるし、仕事も無理がない程度に割り当ててくれている。
荒木さんも悪くない。インターン当初から仕事の合間を縫って学生の面倒を見て、忙しい時期でも親身に話を聞いてくれる。悪いのは自分だってわかってる。
でも、認めたくなかった。誰かのせいにしたかった。
限界まで来ていたんだ。そう信じるほかない。
僕がデザインを続けているのは自分の表現のためで、誰かのためでもない。
でも自分の決断力の弱さとか攻めきれなさを考えると、一度自分が搾取される側に移れば、もう二度と抜け出せない気がしていた。
「自分の信じているものが、今ある選択肢のどれを選んだとしても叶うことのない現実だとしたら」
お前らのせいだ。
警備の仕事を続けているのも、デザインから目を背けるためだ。
僕が案件に手を付けることができないのも、自分自身に嫌気がさすのも、全部。
お前らのせいで、表現をそぎ落としてしまったんだ。
そう言い聞かせながら、荒木さんが言い残した優しさは、更に僕を傷つけた。
「俺も学生の頃は遊び散らかしてたし、言える義理じゃないんだけどさ。」
「ゆっくり休んで。」
「その時は相談に乗るからさ。」
そんなこと言われたら、僕は救われないじゃないか。
不健全な安心感は正直で、
重く垂れる瞳に流れるように眠った。
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トゥエンティーンエイジャー(1)

20〇〇年2月16日 7時12分
東京都新宿区歌舞伎町
都内は初雪の予報だった。
急行電車が都心に近付くにつれ霧雨は粉��に変わって、街は薄い膜を張ったみたいに白くぼやけている。改札を抜けると新宿は静寂していた。雪の一粒一粒が音を吸い込んでしまったみたいに。
タータンチェックのマフラーにまとわりついた雪粒を軽く払う。足元を見つめて少し不安になる。
今日、コンバース履いて来なきゃよかったかも。
駅前の歩道を渡った角地のコーヒーショップに入ってカフェラテを注文する。
実は今日、私のスケジュールは空白だった。
この肌寒さを感じながら一人で過ごすにはあまりにも窮屈だから街に出た。
カウンターから交差点を眺めるとぼんやりとしたネオンの塊、色彩のない傘の連なり。
どうやら未だ眠気をひきづっているみたい。
ラテに口付けながらラインを開いてみる。
あの人の既読は一昨日から付かない。今週忙しいっていってた気がするし。まだ朝も早いしな。疲れて寝てるんだろう。もう二年も一緒にやってるし、それくらいは許容範囲か。
そんなうまい妄想をして頬杖ついて、ため息ひとすじ。
そんな訳ないじゃんか。
悪い妄想は大抵当たるんだ。
だから今は少しでも平然を装ってたい。
休まなきゃ。自分を守らなきゃ。
雪の密度が濃くなって、交差点がフェードアウトしていく。私は白く消えていく視界に耐えきれなくなって、目を閉じた。
別れられない。
散々酷いことをされた筈なのに、鮮やかな記憶の節々がまとわりついて逃れられない。付き合って間もなかった頃の君の笑顔とか言葉のニュアンスが、胸の裏側に染み付いている。
いつからかズレた心は復元不可能で、
1cm離れたら、その1cmを
1m離れたら、その1mの距離を背負ったまま
私たちは付き合わなければならなかった。
それでも「あの頃」は自分のどの記憶よりも満たされていたからどうにか関係を戻そうと必死になって、夜も眠れなくて。
でも考えれば考えるほど自分の悪いところばかり浮かび上がってくる。だらしない自分、甘えてしまう自分、執着する自分、君に受け入れられない自分。
そうやって空回りしている間に、あの人は最初の浮気をした。
付き合って8ヶ月、5月の頭のことだ。
その日も今日と同じ霧雨で(もちろん雪には変わらず)生ぬるい気配が季節の境目を有耶無耶にしていた。いつも通り家に泊まって、軽く戯言。
「好き」
「うん。」
予定調和な1日だけど心地よい、何の意味もない夜だった。
午前3時。違和感を感じて目が覚めた。
なんとなく空気がブレている。ぼんやりと目が闇に慣れるまで蛍光灯を眺めていると、スマホのバイブレーションが鳴った。私の携帯ではない。少し躊躇ったけど一瞬鋭い魔が差して、手探りで取ってみる。
画面の向こうに知らない女が居た。
「ねえ。」
「起きてる?」
何度か肩をゆすったけど、寝ている。寝ているみたい。
翌朝、彼は息をするように嘘をついた。
「研究室の友達でさ、前から遊ぼうって約束してたんだ。」
バカ言わないで。そんな友達があんな時間にライン送ってくるわけないじゃん。「私も会いたい」だなんて。
部屋の鍵をテーブルに叩きつけて家を出た。
外は昨日の天気をこじらせた曇天で、私は呼吸を整えながら、複雑に絡まった感情を一つずつ吐き出した。
怒り。苛立ち。それより、やるせなさと悔しさと、妬みと哀しさ、自分ではどうしようもできなかった惨めさ。
男は安心感を得た時に浮気するんだって。
誰かが言ってた。あんなに苦しんで、考えたのに。あの人は安心してたんだ。
私の力じゃ、何もできないや。
少し線路沿いを歩いてみたけど、足を前に出す度に身体がしぼんでいく気がして。フランジ音に紛れて五月雨を拭った。
萎縮した身体は五感を研ぎ澄ましていく。
霧雨のノイズ、細かい波紋の広がり。ヘッドライトを吸い込む壁面の艶やかさや、静かに溶ける土の臭い。まるでその時間だけが真実みたいに、自然に身体に染み込む。
五感が心の空虚を満たした時、もうひとりの私のようなものが現れて耳打ちした。
「今なら間に合うよ」
「信じておけば楽なのに」
「あの人が悪いんじゃない。私のせいだ」
彼女は私よりもずっと伸び伸びしていて、ずっと私らしかった。
ふと空を見上げると、建物の連なりが心を閉ざそうとしている。雨の音と早春が残していった肌寒さに負けて、 私は家に戻った。
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5月上旬・夕刻
『5月上旬・夕刻』
18時、新橋駅烏森口で待ち合わせをした。
デーティングアプリで知り合った子だ。
大学の教授室に寄ってきたとかなんとかで、15分遅れてくるという。
特にどうということもなく、とりあえず一服する。
喫煙所では団塊がひたすらに煙を浴びていた。無言。
新橋の喫煙所はとりわけ異空間だ。
張り詰めた空気に残る余白を山手線のフランジが埋めていく。
彼らは何を考えているのだろう。
斜に構えた人間観察を続けながら、自分はといえばリクスー。
今日の三次面接は、暖簾に腕押し。
あー、惨めだ。
子供と大人の狭間に立っている閉塞感、プチ反抗期ってやつ。
15分後、時間ピッタリにやってきたその子は思った以上に小柄だった。
かわいい。
「とりあえず、気に入ってる居酒屋があるんだけど、最初はそこでいい?」
「いいよーーー」
居酒屋のカウンターに並んでお通しを待って生を頼む。
彼女は外語大で3?4ヶ国語?習ってるらしい。へえ。
「俺も大学で中国語習ってたんだよ」って言えば、間髪入れずに中国語で煽り返してくる。あー、ダメだこれ。
「私、大学つまんなーい。日本つまんなーい。」
生ビールのつまみに彼女の愚痴を聞く。
「君将来なにやりたいの?」
「え、わかんなーい。でも空港で働きたいかも」
俺だって将来なんもわかってないし、何をやりたいかも決まってないさ。
それに、自分でも今の就活が「名ばかりの人生設計」だってわかってるから、彼女の言葉の節々に苛立ちが募る。
こういうテキトーに生きてるヤツらに限って、案外堅実にキャリア固めて、ちょうど良い男と付き合って、幸せに暮らすんだよ。
そんなニヒルに浸った直後だった。
話の空気が変わったのが。
「私、物心つく前に両親が離婚しちゃって、お母さん一人で育ててもらったんだよね」
「お父さんは大企業の重役で、お母さんはCA。世界中に彼氏作ってたんだって。
一人でって言ったけど、いつも私は一人きりだったんだ。今の大学も、自分の意思で決めたわけじゃないの」
何も返せなかった。
適当にあしらえる自分であればよかったけど、未だ僕には早すぎた。
それからの会話は全てが曖昧で断片的で、時間だけが無駄にすぎていった。
帰り際、彼女は「今度うち泊まりに来ていいよ。君なら変なことしないよね」って口残して消えていった。(それから何度か飲みに行くのだけれども、数ヶ月で解けてしまう)
少し人混みに紛れて、一人きりの喫煙所で一服した。
もう、無言のサラリーマンはいなかった。
なんとなく昔の人の声が聞きたくなって、電話する。
「え、なに?」
「あー、いいよ、そういうの。よくあることだから」
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2月上旬・曇り
『2月上旬・曇��』
遮光カーテンのせいで僕たちの夜明けは遅かった。
冷たい外気が窓の隙間を伝って漏れ込んでくるけど、その鋭さは昼だろうが夜だろうが変わらない。
おそらく、そのせいなのだろう。
布団のシワをたぐり寄せながらもう一度だけキスを交わすと、彼女は上半身を起こしてタバコに火をつけた。
煙が部屋のなかをゆっくりと渦巻くのを、僕は天井を見上げ眺めていた。
「なー。、、、電気代の支払い何日までだっけ」
「知らないよ。キミの家でしょ」
そうなんだけど、思い出せないモノは思い出せないからな。
請求書みればいいだけなのに。
もう少しこうしていたかったけど、なんだかモ��カシくなって歯を磨くことにする。
邪魔にならないように反対側から布団を抜け出して洗面台に向かった。
歯ブラシ3本、歯磨き粉ひとつ。
あー、洗面台のカビも落とさなきゃ
ふと振り返ると、彼女は未だタバコをふかしている。
ヒートテック一枚羽織って、曲線が薄闇にハッキリ残っている。君ってそんなに艶めかしかったか
なんだかやっぱり、思い出せないや。
君とどうやって会話してたんだろうか
そもそも僕のこと、「キミ」って呼んでたっけ。
吐き出すつもりだった何かを心に残して、
蛇口を締めた。
そのままテキトーに身支度をして、テキトーに上着を羽織って、玄関前でテキトーにキスをして、ドアを開ける。
吹き込んで来る冷気は部屋の中から感じ取っていたから、直ぐに慣れてしまった。
「今からバイト?」
「そ。」
「何時まで」
「23時」
「頑張って」
「頑張るほどでもないし」
「そうなの?」
「そうじゃないの?」
「まー、そうかもしれないね」
2月某日・曇り空
分厚い雲の連なり
電柱がいつもより大きく見える。
鈍い影を落とす。
何を話せばいいのかわからない。
普通でいいのに、その普通が出てこない。
「改札まで送るよ」
「いいのに」
「いや、送る」
「ありがと。」
あ、そこは受けてくれるのか
改札前で軽く微笑むと、そのまま彼女は行ってしまった
結局最後まで、彼女が本音を話すことはなかったな。
帰り道、自分の記憶の隅々から抜け落ちてしまった欠片を探した。
タンスをひっくり返して、綺麗に畳んだ衣類をかき回すような、そんな気分だった。
それが僕の「本当の」悪い癖だと気付くのはもう少し先の話である。
家のドアを開けると、電気代の請求書。
請求予定金額3750円
早収期限日2月15日
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