uyu-yuyuyu
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迂回路
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uyu-yuyuyu · 2 years ago
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首藤義勝がインスタライブで、その後千也茶丸名義の弾き語りライブでthe cabs「花のように」を歌っていた。
それを知った瞬間、色んな想い、良い想いも悪い想いも全部、溢れ出て来て止まらなくなったので、久しぶりに筆をとって長い文章を書こうと思った。Twitterを経由しないで済むTumblrに書き込むあたり自分の意地汚さが見て取れる。
今年の9月から10月にかけて諸々の諸々が本当にダメになってから、Twitterの元いた地点に関する一切の情報を意図的に絶っていた。筋金入りのインターネットオタクであるため流石にネット断ちなどは出来なかったが、その間はずっと別のものを見ていた。
2ヵ月のあいだ見まくっていたもののひとつにonly if you call me jonathan、すなわち元the cabs/現österreichのギタリスト高橋國光のブログがある。これより先ここに記すことはほとんどそのブログ及び彼の思考の模倣とも言って良いくらいのもので、いや模倣にしてはあまりにも低俗だし下劣極まりないし惨めだし、私は彼と違って素晴らしい音楽すら残していないただのダメ人間なのだけれど、とにかく最近の影響は全部そこから来ているので何でこんな文章書いてるんだと言われればそこに理由があるからとしか言えない。他人の10年分のブログを全通するのは初めての経験だった。一度に読むのは勿体ないし胃もたれを起こしそうになるので毎日ちまちま読んでいた。
以下、事実の記述と懺悔が続くが恐らく私以外の大半の人には何のこっちゃという困惑しか生まれない内容がほとんどである。仮にごく少数の推測が可能な人がこれを読んだとしても、あまりの支離滅裂さと自分勝手さに呆れるであろうことが簡単に予測される。しかしそれでも構わない、伝わるべき人にだけ伝わればよいし、伝わるべき人ですらここを閲覧出来る環境にあるかどうか分からないし、そもそも自己の救済のためだけに打っている節があるので、何なら伝わらなくてもよい。文から滲み出ているし容易に読み取れるであろう、私が酷くどうしようもない奴で狂っていておかしいことだけが伝達出来れば十分だ。この文章は見るに堪えないものと成ることによって果たすべきその目的を完遂する。
私がそれまで聴いた音楽を記録するだけだったアカウント、誰にも見られていなかったアカウントでいわゆる自我を出しthe cabsについて話すようになったのは、確か首藤義勝がTHE FIRST TAKEにイチャモンをつけ、炎上した日の翌々日ぐらいだった。よく印象に残っている。そのせい(あるいはおかげ?)で音楽界隈がザワつきこぞってthe cabsについて言及するのを見、前々からこっそりcabsに対する若干の屈折した愛好心と、KEYTALKに対する一方的な反抗心を抱いていた私は、ここぞとばかりに公の場に降り立ちcabsに関する過激的発言を繰り返していった。ヤケクソの波に乗っかろうという訳である。
自分が何をほざいていたかはあまり思い出したくないし思い出せもしないのだが、分かっているのは己がいかに無知な状態でcabsについて語っていたかということだけだ。どの場所においても批判をする者は批判対象について詳細に知っておかねばならないにも関わらず、彼らのことをロクに理解もしていないそして自己の発言にも覚悟の持てない状態で狂ったように発話を続けていた。内心これではいつしか破綻するだろうな、と予測してはいた。分かっているのに発言をやめることが出来なかったのはほとんどSNS取り憑かれ人間の行き過ぎた承認欲求に近い。
無知と書いたが主には彼らのその後、österreichとKEYTALKに関することの知らなさがいちばんの問題点だった(plentyと渡独後の中村一太の個人活動については未だ勉強中であるためここでは割愛する)。私はかつてのthe cabsという物語(それだってリアルタイムで見ていた訳ではなく、人づてで聞いた情報を元に己の中に勝手に組み立てたはじまりと回帰と再生と崩壊の完璧なストーリーでしかなかったのけれど)の美しさに執着しすぎるあまり、現在の彼らについての一切を無視してさも過去だけが正当であるかのようにしがみついてばかりいた。現在地点を見ようとせずに昔だけを振り返り続けることによって遠回しに今の彼らの生を否定するという残酷な寸法だ。
only if you call me jonathanを読み始め、Soundclowdのösterreich音源を聴き、KEYTALKのメジャーデビュー以前のCDをちゃんと聴くようになってから(批判してたわりにまともに聴いてすらいなかったのだ)、己の発言がどれほど失礼極まりなく恥じるべきものであったのかを知った。私が以前に何の推敲も無く発していた言葉たちは、彼らが今まで辿ってきた道筋を真っ向から否定するようなものばかりだった。それをthe cabsへの愛に基づくだとか、自分だけはマスロックや残響や音楽について理解しているだとか、ごたごたと御託を並べて上っ面だけ見て都合の良いように解釈して喚き散らしているだけの騒音でしかなかった。
KEYTALKの楽曲に「アゲイン」という曲がある。
この曲はKEYTALKのギターボーカル寺中友将が作詞・作曲を手がけた曲で、cabsとの直接の関係は何も無い(まあこの当時の首藤が兼任をしていたという時点で関係が無くは無いのだけれど)曲なのだが、これのライブ版を観た際に、それまで抱いていたKEYTALKへの感情、あまり好ましく思っていなかったものが少し変化した。
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そもそもライブ版が収録されているDVDを購入したのは、特典映像でKEYTALKメンバーがthe cabsについて言及する場面がある(画像参照)からだったのだが、それよりもほとんど初めて観る「首藤義勝のいるKEYTALK」(「the cabsの首藤義勝」ではなく)の姿を純粋に、良いなと思えた。アゲインを曲単体で聴き返した。何度も聴き返した。現在は既にKEYTALKとしての首藤義勝、そして彼らの姿を素直に応援出来るぐらいにはなっている(MONSTER DANCEのMVはまだ観られていないけど)。
österreichもほとんど同様の手順である。私は元々The Novembers経由でcabsについて知った口なので、小林祐介がゲストボーカルに参加している「ずっととおくえ」ばかりを好んで聴いていたが、逆に言うとそれ以外に関する知識はほとんど皆無だった。であるのに、ここでも知ったような口で批評とは名ばかりの現体制österreichに対する言いがかりなどをし続けてしまっていた。彼と、かれらの進んできた今までとこれからについて、the cabsだけでなく、cinema staff、ハイスイノナサ、としてのここに至るまでの経路を見るべきだった、知るべきだった、知ろうとすらしていなかった、様々な音源を新たに聴くたびに私は心の中で謝罪し続けた。優雅なピアノの音もデモ版のGUMIの声も彼自身の声での朗読もとても新鮮に聴こえた、それは己に無知の知を自覚させるのに十分な力を持っていた。ごめんなさいごめんなさい、わたし今まであなたたちのことなんにも分かっていなかった、ごめんなさい。
「the cabsについて世界でいちばん考え、苦しんでいるのは、決しておまえなどではない。」 この考えがある時点から深く刻みつけられ、定期的に警鐘となって自己の内部に鳴り響いている。もっともは高橋國光であり、首藤義勝であり、中村一太である、その根本の考えすら抜け落ちていたことの恐ろしさ。そして今回の私みたいに好きであることによって感情が倒錯し他方面に迷惑をかけている人間は恐らく結構な数いると思うのでほんと気を付けた方が良い。
話題を変える。
個人的な見解なのだが、Twitterに生息している音楽垢は適当なようでいて実は各界隈ごとの様式美めいたものがあり、ネタツイをする人ならネタツイを極めているし、オタクならオタク活動を頑張っているし、生活が忙しい人は生活を音楽に絡めて話すのが上手いし、批判を極めている人は叩かれながらも頑張って批判をしている。私の場合はこれら全てを一手にやろうとしてしまったために混乱と無理が生じた。衆目の下での管理は性格的に困難であった。
私は音楽のオタクであると同時にバンドマンのオタクをしている。認めると負けになりそうだったからかつては認めなかったが今は腹を括って受け入れている。アニメファンがアニメキャラクターを愛するように、漫画のファンが漫画のキャラクターに共感するように、信者が神を信仰するように、私はバンドマンを愛しているし、共感しているし、信仰している。
そうすると発生するのは音楽の善し悪しの判断というよりもバンドマン個人に対する様々入り混じった感情であって、それは私の好みに合った音像を作り上げてくれるだとか、まるで私のことを書いたみたいな歌詞を投げてくれるだとか、もはや私という認識をせずに大きく「こちら側」に向けたデカい愛をぶつけてくれるだとか、得体の知れない感謝の比率が日に日に上昇していく訳で、何ならそうしたこと以上の感情が湧き上がってくる瞬間も特定のバンドマンにおいては発生するのだった。そのひとりが高橋國光だとある時から気付いた。とすると取り扱われるべきことは罪悪感と疑問だ。私はthe cabsが好きだ、私は高橋國光が好きだ、私は高橋國光に音楽を作ってほしいと願っている。じゃあこの戯言はなんなんだ。これじゃ高橋國光の首を絞めてるのと何も変わらないじゃないか。じわじわとそうした思いが頭をもたげていく、のに発言を止めなかったあたりが典型的な狂者の思考プロセスだと思う。この世は全て無意識よりも自覚がある者の方がタチが悪い。
自覚があるのに止めどころが分からない状態で人は思いもよらない行動に出るし、また思ってもいないことを発言してしまうのを思い知った。過去であっても今この瞬間であっても私の発言することは決して信用しないで欲しいし、恐らくあなたの生活には不要なものだと思うのですべて忘れていって欲しい。抹殺して欲しい。私は未だ自分の言葉を飼い慣らせていない。私が誰かに向けた発言はその当時の私がフラフラになりながら嘔吐したものの残骸であって、猛スピードでその都度アップデートされていく思考にそぐわないものでしかない。根拠も正当性も美しさも無い。ただ焦燥と暴力性だけが無駄に備わっている。
こんな風に遠回り遠回りして書いているのは単に記憶が薄れて来ているだけでなく、当時かなり精神が混濁していて朦朧とした状態でしか生活が出来なかったからでもある。それと繰り返しになるがこれらの表現技法においても高橋國光へのリスペクトが含まれていることは否定出来ない。複雑に入り組んだ動機もしくは言い訳を何とか言語化しようとしているが恐らく上手くいっていない。文章構造がめちゃくちゃだ。それでも説明し続ける。
私は私以外の人間が私の好きなバンドマンについて言及するのが嫌だった。正確に言うと嫌であると感じるように段々なっていってしまった。自分ですら、いくら雑誌を買って彼らの写真を眺めたからって、いくらブログを読み込んで彼らの言葉を直接頭に取り入れたからといって、またいくら彼らの音楽を狂ったように再生し日々の支えにしたからといって、彼らのことを全て理解出来るはずなどないことをこれでもかってぐらい実感しているのに、自分よりも少し知らないだけのファンが何か言うこと何かを私の好きなバンドマンに感じること、それを観測することすらダメになってしまった。この意識は特定個人についての糾弾として言っているのではなく、ただ漠然とした界隈全体に対する広範囲の殺意みたいなものである。そしてそれを凌駕するほどの自己嫌悪が根底には在って深く深く根を張り続け頭に言葉に毒を送り続けている。
多分、私は私の好きなひとたちに対し本当にフラットな状態でなければ好きを継続していられなかった。他のファンと共に好きを(表立って)共有することが難しく、また音楽の好みが付随する人間関係によって左右されるのについても酷く嫌悪を感じた。ファンを知るたびに音楽が汚されていく気もした(自分からフォローしておいて何なんだという話)。勝手に見て勝手に傷ついているだけのクズに用は無いと思う自覚している自覚はしているから言述だけは続けさせてくれじゃないと内部に溜まっておかしくなりそうなんだ、全てを放棄した今ジャンルも界隈もへったくれもなく聴いている音楽はまさに何の偏在もない私だけの音楽と胸を張って言えるものばかりだが胸は相当張れたもんじゃない。
この感情が同担拒否というおおよそバンドマンに向けるには適していないであろう言葉で一括りに出来たらどんなに気が楽だっただろうか、とふと考える時がある。他にも(ファンとしての私が勝手に考えた)私とバンドマンの関係性について安易に定義できそうな語彙が無くはないが、使ったところで何の意味も持たなそうだからここでわざわざ持ち出して使用するのは控える。
the cabsともうひとつ、話しておくべきバンドがある。
ヒトリエはcabsと同じく稀有な運命を辿ったバンドとして有名だ。私はインターネット発wowaka経由でその存在について知った。本格的に追い始めライブにも行くようになったのはごく最近だが、それでもその時々の「本命」であるバンド(これも次第に好きなひと達が増えるに従ってその意味を失ってきたのだが)の追っかけと並行して、長らく人生を共にして来、その時々で気にかけてきたバンドであった。
あの時、何だか自分の精神がおかしくなってしまっていて、好きな対象であるはずのものにやたらと過激な懐古厨みたくなっていたころ、「人の死」という誰にもどうしようも出来ないし変えることすら出来ない性質を持ったヒトリエにですら過去ばかり慈しむような発言をしてしまっていた。彼が遺したものこそが絶対的な正解であり、彼が今現在この世にいないことについてばかり嘆き、悲しむ。文字に表してみると自分がいかに視野の狭いつまらないことを仕出かしていたのかと思う。今、昔よりもずっとずっと「シノダのヒトリエ」の曲を聴くようになってから思っている。
cabsについての捻じ曲がった(そして恐らく正しくはなかった)認識に気付き、改善がなされていったきっかけは様々重なっていたのだが、ヒトリエについての意識が徐々に変容し「現在のヒトリエ」を純粋に好きになれたことも大きな転換点のひとつであった。それが己の中に生まれる過程としてはヒトリエそのものの存在だけではなく、ヒトリエのファン(ファンが無理だという話を散々しておいてここで出すのもあれだが)の目標とすべき姿勢、受け入れの態度を見たことも大きく関係している。まあ関係したからといって全てが良くなった訳ではなかったし事実そのあとにまた一悶着自分の中であって発狂寸前にまで至ってしまったのだが、その気付きが無ければぞっとするような狂気を未だ保っていただろうから少しでも正気に戻れたのは良かった。
とにかく、wowakaのことをずっと考え続けていた。the cabs、そして高橋國光のことについて考える時は常にwowakaについても想い続けていた。いつからか、wowakaではなくシノダについてずっとずっと考えるようになった。ひとしきりシノダの姿を延々思い浮かべる日々を過ごしたのち、ヒトリエと聞いてwowakaとシノダについて同程度思い浮かぶようになった頃には、今のようになっていて、私は我に返っていた。
(余談だが、実際the cabsのファンとヒトリエのファンはかなり似通ったところがあるように私は思う。大多数は「彼らの境遇込みで」愛している人がほとんどだし、そもそも彼らの音楽のテイストからみて、そうした展開や結末に打ちひしがれつつも、バッドエンド的要素が刺さるタイプの人達が恐らく愛好者の中には結構いることが何となく感じられる。それから彼らが得意としたスタイル、暴走機関車のようなテンポと物理的に命を削るような歌詞も音の好みとしては被る部分が多く、また鬱ロックという大きな括りの中ではかなり後期(ARTやsyrupをメインとした場合の話)に属することや、その後の一定の年代のボカロに影響を与えまくったことなども共通点として挙げられるのでは。)
閑話休題。
明確に謝罪をしなければいけない対象が3つある。
1つ目はあのとき私のアカウントを閲覧出来る環境にあった者たちである。私の発言がどのようにタイムラインに流されどのように個々人に受け止められたかは知る由もないが、少なくとも愉快なものでなかったことだけは簡単に予想が付く。信憑性のない妄言ばかりを特に文脈もなく毎度マシンガンのように浴びせてしまい、本当に申し訳なく思っている。ただこう思っているのは私ひとり、自意識過剰の精神に由来しているだけで、すべては杞憂なのかも知れなくて、分からない、分からないけれど、しかし分からない確認のしようがないイコール感情が存在しないということでは全然ないと思うので自責をするのに越したことはない。
2つ目はあのとき私と連絡を取り続けていてくれた人である。最初に断言しておくが、あなたには一切何の非も持ち合わせていない。すべての出来事は私の精神の脆弱さと愚かさに起因していて、事態がああなってしまったことの責任は100パーセント私の方にある。長々と書いてきたように当時の私は音楽との向き合い方、バンドマンとの向き合い方、Twitterとの向き合い方、そしてthe cabsとヒトリエとの向き合い方について飽きもせずに延々と考え逡巡し若干いやかなりおかしくなりつつ現実での様々なことも相まって精神が極限状態にあったせいで、すべてを手放さなければならない判断に至った。あの状況で「誰かから再度連絡が来るかもしれない」という場面に固定され、そうした意識に常時苛まれているのは本当に本当に申し訳ないのだが日常生活に支障が出るレベルの緊張を感じざるを得なかった(例え自分のことを捨てずに見つけ出して手を差し伸べてくれた人であっても)。音楽とか、人間とか、居場所とか、言葉とか、愛とか、捌かなければいけない概念が多く発生しすぎていて、アホな私の小さい頭のキャパではとてもじゃないが持続出来なかった。そもそも人間との会話自体がその時はダメだった。気付かずによく分からない言葉ばかりを無責任にしかも面と向かってつらつらと語ってしまった。ぜんぶ、全部忘れてください、それらはすべてそこにいない私が打った言葉です。しかしあなたが万が一その言葉を大切にしてくれているのであれば、それは疑いようのない私の言葉ですので、煮るなり焼くなり罵倒するなり好きにしてください。ほんと自分から話しかけておいて何様って感じですね。ごめんなさい。
3つ目はもう間違いようがなくバンドマン本人たちそのものである。何度謝っても悔い足りないから今後一生をかけて償っていこうと思う。私が得たものはすべてあなたたちの血となれ肉となれ、そして余剰の分だけ廻りまわって惨めな私を救っておくれと思う。書き出すとキリが無いからここの項目はこれで止めておく。
墓標のようにSpotifyのプレイリストを作って乱立させている。自分だけのセトリ自分だけの最強の音楽デッキを(誰に聞かせるでも無いのに)いくつものテーマに沿って構築している。そればかりでなく自分の好きなひとたちが言及していた音楽についても全てまとめて出来るだけ把握しようとしている。高橋國光がブログで言っていた曲、シノダナオキがブログで言っていた曲、辻友貴がブログで言っていた曲(そういえば好きな音楽について深く知るにはその音楽家のルーツを探るのがいちばん手っ取り早い、みたいなことを��っていたのもシネマ辻だったように思われる)などを片っ端からプレイリストに入れている。そうするといかに彼らが単にロック/オルタナだけでなく多彩な音楽から影響を受け楽曲を制作していたのかが良く分かる。狭い区分に変に拘泥してあらゆることに対しシャットアウト気味だった自分の音楽遍歴を彼らの豊潤なそれと比較すると一気に恥ずかしくなった。
思えば私の中のいっときの鬱ロック以外全員殺すモードが本当の意味で解除された瞬間は、シノダのブログ中にあった、「curved edgeはBLACKPINKのDDU-DU DDU-DUに衝撃を受けて作られた」という一文を見た時だったかもしれない。その瞬間、あ、そうなんだ、アイドル、シノダ、アイドルしかもK-POP聴くんだ、という新鮮な驚きが身体中を即座に駆け回った。そして今までの自分のいわゆる偏見のような意識がいやに馬鹿らしく感じられた。結局はそんなもんで、「そんなもん」というけれど実はそれこそが蔑ろにしがちだけれどすごく価値のあるものであって、むしろ否定する方がアホでしかないことをこの時叩きつけられた。実際本来、この世には好きな音楽と嫌いな音楽と好きな人間と嫌いな人間しか存在しないのだな、ということを完全に明白に理解しそして自責した。その感覚が今の意識に繋がっている(この記述はFC会員限定ブログの中にあるのでソースが知りたければヒトリエFCに入ってほしい)。
また、全てが円滑に作動するために最も必要であることは「何についても私が言及しないこと」であるのに気付いた。何をどう弁明しようが墓穴を掘ってしまうことに変わりはない、沈黙は金、私が言葉を発しなければ彼らが傷付くこともないし、私以外のファンが不快な思いをすることも無いいちばん簡単で手っ取り早いことだったのに何故気付けなかったのだろう。私は正直になると同時に私の一切を封印することに決めた。開示と封じ込めの両立は一見矛盾するように思われるがある要素を成り立たせるために別のある要素を捨てるのだと考えればそれはごくごく自然な働きなのではないか。
冒頭にも書いたように首藤義勝がcabs時代の曲を歌っていた。本当に何気なく、しかし何の譜面も見ずに(歌詞もメロディも染み付いているということなのだろう)。あの音よりも少し成熟した声で、爆撃機のようなドラムと刺すような叫び声の無い状態で。彼が何を想ってその選択に至ったのかは分からない。前日に偉大なバンドマンが亡くなったり、彼のバンドメンバーがファンに心無い言葉を向けられたりしていたので、それらについての感傷的なものも影響しているのかも知れない。しかしそうであっても、そうでなかったとしても、彼の中に「救いようのないクズのため」という諦念や絶望(と、その救済)に似た概念、ひどく美しく感じられる空間がちゃんと存在していたこと、それを今この瞬間に示してくれたこと、それをみた瞬間に言いようのない嬉しさがどっと湧いて出て来、あ、許すよ、と思った。
言うまでもなく脈々と語り続けられている言葉、「再生の風景は、それを許すよ」。その許しはどこから何からの偉そうな目線などでは決してなく、バンドマンが私達ファンを許すこと、ファンがバンドマンを許すこと、神様がすべてを許すこと、など、あらゆる許しを包括している。その許しの伝達手段としての空気の振動、音楽という形式が彼らの選択した表現として成り立ち、ファンを救済している。これは本当に勝手な自分の思い込みでしかないのだけれど、首藤義勝が炎上したことによって始まった私の失敗は、首藤義勝の受容によって一旦の終焉を迎えた気がした。私はインスタライブの後に再生の風景を繰り返し聴いて泣きながら、ただただ、赦して、そして、許してあげるから赦してほしい、と考えていた。
首藤義勝のこともそうだが、思えば高橋國光の音楽を愛したあまりに高橋國光ばりの失踪をネットで遂げるのもどうかと思った。親は子に似るっていうけどまさか本当に似るとは思わなかったなと酩酊した意識の中で薄ら笑いをしたりしていた。
ひとつ勘違いしないでほしいのは(これは自分に言っている)、私はthe cabsへの想いを断ち切っただとか、某アーティストが言っていたように「cab卒」をしただとか(キタニタツヤ紅白出演おめでとう)、そういうことでは決してない。所詮「拒絶的な過激派」から「受容的な過激派」に移行しただけに過ぎず、かつて取り出してばかりいた刃物は未だ心の中に常備してある。しかしもう刃先をちらちらと見せびらかすことは止めた。行動として痛いし、物理的にも痛いし、良いことがほとんど無いからだ。それを成長と見るか尖りが失われたと見るかは人それぞれだが、少なくとも私にとっては善に向かう大きな一歩であるように感じている。
本当にだらだらと流れるがままに論旨も構成も無視したまま打ってきたが、以上が私の韜晦と自己嫌悪、及びそれに関連する数多の蛇足めいた脇道にそれまくった反吐の出るような思考の流れを何とかして文字に表したものの見づらい一覧だ。相変わらず躁鬱とオタク的感情と評論と意味不明な発狂の混ざった訳の分からない物体と化していてお前マジで何も変わってねぇのなって感じなのだが、もうどうしようもなく私はこういう文章しか書けないのだろうし、いくら見栄を張ったところでこれが私なのだから私なんだと思った(トートロジー)。気持ちが悪いものを見せてしまって申し訳ない。見て分かる通りこういう奴は最初から表に出るべきではなかったのだ。絶対。今までだって幾度となくそう感じて来た。なのに今回も上記のような結果になったのだから私は私のことが一番信用できない。今後も懲りずに何かしたら嘲笑って欲しい。
そしてああもうこんなに罪の意識を抱いても困ったことに浅ましいことに失礼で無様なことに私はまだまだ全然バンドマンのことが好きで好きで堪らないのだった。the cabsが好きだ。ヒトリエが好きだ。楽器を持って私の手の決して届かない場所にずっと立っていてほしかった。どんなに暗い歌詞を歌っていてもきらきらと輝いていてほしかった。私がはじめてバンドマンをバンドマンだと認識したとき、かみさまだと思ったその時から、彼らを愛したいと思った、いまも思っている、かみさまだから触れたくもないし、かみさまだから他人に触れられたくもないし、かみさまだから永遠に向こう側であって欲しいと強く願っているし、私(こちら側)の救済は何かを隔てた上でやってほしかった、音楽の介在が必須だった、直接来ないことが条件であった、しかしかみさまも本当はひとりの人間でしかないこと、実はかみさまも酷くこちらに近い存在であること、そしてそう自覚したうえで彼らは振る舞っていてくれていること、それも同時にひどく嬉しくて悲しくて辛くて愛しくてずっと好きでどうのしようもないのだった。くるっている
果たしてここまで読んだ人がいるのだろうか。もう見てもらえば分かる通り狂っているのだ。本当に嫌なことにおかしさだけは継続している。一生治癒しないもの。枷。元来の性質がこういう感じだからしょ���がないと割り切ってはいるけど果たして一体いつになったら私は他人に迷惑をかけない人間になれるのだろうか。
最後に頼んでおくがこの文章は極限までパーソナルな性格を帯びており、ほとんど日記に近い様相を呈しているので、一部・全体問わずどこかに拡散もしくは引用言及するようなことはどうか控えて頂きたい。この文章によってあなたの心と記憶が間借りされた占有されたもしくは傷を付けられたなどがあったら深く謝罪したい。一刻も早くもっと綺麗なものを見てこんなもの忘れよう。
そう言うだけの資格が自分に無いことぐらい分かっているけれど、私はいまものすごくösterreichのライブに行きたいと思っている。ヒトリエのライブにも、そして、KEYTALKのライブにも、ぜひ。まだ観たことのない様々なバンドマンの姿を観たいと思っている。バンドマンはかみさまで、ライブハウスは教会のようなものだとまで言うのは流石にやり過ぎだろうか。でも祈りに集う観客は全員知らない他人であればあるほど良いと思っている。私とバンドマンのあいだに音楽以外が立つな、私と音楽のあいだにバンドマン以外が立つな。
勢いのままに書いてきたので見返すと我ながら訳の分からなさに吐き気がしてくるが、それでも彼(ら)がそうするなら、私も書かねばならないと思った。そして書いた。言った。満足だ。正直こんな言葉じゃまだまだ全然私の内部で何が起こっているのか、私にとって音楽とは何なのか、などを十分には解説出来ていないのだけど、今やれるべきことはやった。あとは時が流れるのを待つだけ。私の罪が霧散して楽になれる日が来るのを願うだけ。祈るだけ。ステージに向かって祈りを捧げるだけ。
さようなら さようなら もうここに何かを書くことはないでしょう 私はただのファンでいたかった��いたいとだけ思っている 希求するぜんぶをあなたに わたしのすべてよ綺麗な音に晒されて死ね そしていつか 僕はいつか 君はいつか 僕らはいつか あいしている
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uyu-yuyuyu · 2 years ago
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Twitter、もうTwitterという名前じゃないが、とにかく難しい。好きだ。嫌いだ。見るのも嫌だ。書くのも嫌だ。でも好きだ。いっつも相反している。アカウントを変えても、拡張機能を入れても、何しても心のざわめきは収まらなかった。Twitterは他人の呟きが怖いというよりも、他人の呟きに感化された自分が何をしでかすのか分からないのがいちばん怖い。
少しログアウトします。いつ帰ってくるかは未定です。 tumblrは続けるかもしれないし続けないかもしれません。
コメントやメッセージはどこに送られても返せそうにないです。 自分勝手でごめんなさい。汚い人間でごめんなさい。沢山迷惑かけてごめんなさい。でもほんとうにありがとう。
また逢う日があればまた逢う日まで。
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uyu-yuyuyu · 2 years ago
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0516ノベンバリエのあれこれ
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・何が起きた?
・対バンイベントって……バンド同士で対決し合うもので……2バンドがかりで客をボコボコにするものでは……なくない……?
・私がTHE NOVEMBERS観て最初に打ち込んだ言葉→「髪がふわふわしすぎている」
・小林祐介って宗教?
・ヒトリエ、THE NOVEMBERS呼んでくれてありがとう!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ほんとに!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
・ノベンバ、歌う美術館だった 今日美術館行ってないのに展覧会観終わったみたいな気分 一人一人の造形が奇跡的 麗しすぎて訳が分からないし高松さんはサラッサラッサラッサラで松本さんはフワッフワッフワッフワ
・なのにヒトリエではシノダさんが開始3曲ほどでもう既に汗だくのベッションベッションベッションになっていてシャンプーされた猫のようで良かった しかもシャンプーされた猫の癖にクソかっこよかった
・小林祐介マジで片足をお立ち台に乗せてこっち煽ったりとか想像よりもふわふわな髪を優雅に掻きあげたりとか明らかに二児の父がしてよくない仕草してた こんな二児の父がいてたまるか あと歌上手すぎてバグ?って思った
・THE NOVEMBERSの皆さん方、明らかに私よりも髪のキューティクルがしっかりしてらっしゃる。38歳成人男性に髪のサラサラ度で負ける人生って何?
・松本さんの髪がふわふわすぎてたまに顔全体に髪がかかるので最早松本さんがギターを弾いているのかふわふわした何かがギターを弾いているのか分からなかった
・そういえばwowakaね いたよ いました あそこにいた なんかたまに楽しそうにシノダに降りて来てた
・なんかねーーーーwowakaのいないヒトリエ観に行ったらますますwowaka(のボカロと、wowakaのいたヒトリエ)のこと好きになっちゃうよ ってちょっと不安になってたんだけど
・やっぱり生で観るドラム─ベース─ギターの正三角形はどこにも壊れる余地なんてなくて でも常にステージの真ん中はずーっと1人分の空間が確保されてて 曲始まりに不可解で異様で耳障りなのに心地良い電子音が入ると なんでかなぁ wowakaいるなーって思えたんよね
・ノベンバに限らずリエと対バンするひと達みなリエの歩んできた道に対して優しい言葉をくださる わたしはそれがすきだよ
・ノベンバ教えてくれてありがとうヒトリエ、ヒトリエを作ってくれてありがとうwowaka、wowakaは……俺どこ経由で知ったんだ……?wowakaを創ってくれてありがとう、世界(そこに行き着くんか?)
・ヒトリエイガラシのベース、一般的なバンドにおける「音を支える役目としてのベース」などでは全然無く、"ベースギター"としてどこまでもシノダのギターと対局をなしてぐいぐい場を引っ張っていた すごかった
・リエのファンはファーマシー猫を透明パックに監禁しておりノベンバのファンは想像よりもデカい「ともだち」をカバンに引き連れていた
・てかシノダの頭の振り具合微妙にケンゴマツモト入ってなかった?恐らく舞台上手に頭ブン回しギター奏法の残り香があったに違いない。
・ノベンバのシャウトが身構えた割には「……あれ?平気かも!心地良い音のデカさ!」になったのもつかの間、ヒトリエとかいう奴らにハイゲインとかいう曲でバカデケェ音鳴らされてビビった 最大音量で食らえ!(物理)
・ヒトリエに関する喩えってつい全部ネコチャンに結び付けちゃうんだけど、あの訳の分からないシノダさんのギターソロはさながら病院に行きたくないネコチャンを追いかけようとしてしっちゃかめっちゃかになってる飼い主だった。
・シノダさんがマイクスタンドに腕かけながらけだるそうに歌うのも、小林さんがガラ悪そうに腕突き上げて歌うのも、全部全部好き。大好き。は?大好きなんだが……
・は?マジで今日の公演「オルタナティブロックをやってるバンドマン」の様子を死ぬほど浴びることが出来たな……うれしい……
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