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v--ish · 2 months ago
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自己抑制
 離婚後少しの間、父と二人暮らしをしていた。小学校から帰宅して、父が帰ってくる夜まで家に1人でいるのが怖くて、ゲームをしながらテレビを流していた。暫くして、父は新しい女性の話をするようになった。当時は元母から虐待されていた自覚がなく両親の復縁を望んでいたから、新しい母親が出来ることが嫌だった。そんな心のうちとは関係なく、やがて今の母親と連れ子の兄と家族になった。小学生高学年で、突然「この人が兄です」と言われても納得がいかなかった。私達はぎこちなくゲームをしたり遊んだりしながら、中学生になった。
 兄は悪いやつではない。けど、寝室で寝ていた私が夜中に自分の部屋に行ったら兄が出てきた事、寝てる時明らかに身体を触られていたと思う事、他にもいくつか嫌な記憶がある。彼は親の前では物分かりの良い穏やかな少年でいたから、そういう面があるにも関わらず親は兄をいい子として扱っていた。前述したような背景があったので、私は兄に対してきつく当たっていた。子どもながらに、そうすることでしか苛立ちを消化できなかった。兄や親は、私を気が強く心無い妹として認識していただろうし、当然親は私を叱った。兄の不穏な一面を知らない両親が兄を良い子として扱い、自分を心無い子だと思っているのが嫌だった。弱さを見せられないから、捻くれたお転婆ぐらいに思われていたと思う。簡単な話で、兄の本性を親に明かせばよかったが、そうして家族が壊れるのも、兄を愛する母が傷つくのも、兄を傷つけるのも嫌だった。天秤にかけて他者を優先させたつもりだが、振り返ってみると誰の為にもならない最悪な振る舞いだったと思う。
 母は少なからず兄を贔屓した。母親は"基本的に"血の繋がった我が子が可愛いのだと理解した。中高生の多感な時期は荒れていて、兄との扱いの差に過剰反応を示すようになった。元母に弟と明確に差別されていたから、被害妄想が強くなっていたのだと思う。極端な例だが、楽しみにしていた好物の夕食の量を明らかに自分の方が少なく用意されたことから口論に発展し、夜に数時間家出をしたこともある。不公平を感じると、愛情の傾きを感じてヒステリックになった。母と口論になると、たまに父が介入した。口論の内容によるが、父は基本的に私の主張に同調することが多く、夫婦喧嘩に発展することもあった。もしかすると父にも、元母の一件が影響していたのかもしれない。そうして夫婦喧嘩が繰り返されるうちに、本当に私が原因で喧嘩になっていることに気付いた。いつからかそれが悲しくなり、不平等を感じても我慢するようになっていった。すると両親は以前よりも仲良しになり、自己抑制が常態化していった。
 母も兄も良い人だと思う。虐待をしないし、そういう事に抵抗を持っている普通の感性の持ち主だから。しかし、正常な人とそうでない人が家族として暮らすことになると、一方の我慢が必要になる。
 新しい家族の中浮き彫りになったのは、自分の異常性だった。愛に執着し、不平等を過剰に恐れ、扱いの差を感じると愛されていないという結論に結び付けてしまう思考回路。愛を求めては愛を遠ざける行動をしていた。しかし、その矛盾に気付いて我慢して生きていると、どうしてかもっと愛や幸福が遠退いてゆ��感覚があった。もう、過剰な自己抑制をしたくない。自分の感情を無視した生き方をやめたい。そのための上手な表現も、伝え方もまだわからないけど、自分を傷つけた出来事を許したくない、その感情を見過ごしたくない。相手の境遇、言動の背景や感情も汲んだ上で、自分の感情も無視しないよう慎重な選択をして生きたい。
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v--ish · 2 months ago
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理由
 本当の地獄はその後の人生にある。他者に共感されない苦しみ、孤独感、不安障害、PTSD、そういったものを隠して普通の人に扮し同じ世界を生きることは難しい。苦しむ度、忘れる事のない憎しみを抱き続けている。普通の人と変わらない様で在ることそのものが終わりなき努力であり消耗。普通になりきれないばかりかこちら側の人の輪にも入れず、未だどこにも居場所をつくれずにいる。心身ともに健康、元気な人、違和感のある評価を貰う度にそれが凄く嫌だった。心が開けないからそんな風にしか見せられない、だから人と関わるのが負担、けれどそんな私も孤独は辛い。本当に平気だと思えていたら良かった。他人に弱さを恥じなさいなどと言える立場にはない。境遇を理由に身勝手に振る舞えることも、同情され行いを許されることも、全部が妬ましい。
 「あの人も可哀想な人だから許してあげて」 勇気を出して、虐待のトラウマが未だに辛いと声にした高校生の私に祖母が返した言葉だった。私に虐待した母親もまた、幼少期虐待を受けて育った可哀想な人だと言った。許させることで、苦しみから解放したかったのだと思う。でも、一緒になって怒ってほしかった、私に酷いことをしたあいつを許さないって言ってほしかった。祖母のことは好きだ、悪意がないことはわかっている。わかっているけど、許さないといってよ。ただそれだけでよかったのに。平気なふりをして笑っていたって、これまで一度たりとも報われなかった。家族は私が今も苦しんでいることを知らないし、見せることもできない。だから結局、私の味方は私しかいない。もし、誰かが代わりに怒ってくれていたら、「許さない」と言ってくれていたら、許せていたのかもしれない。それが叶わなかったから、私だけは私のために許さないでいたいと思った。でも疲れてしまうから、いつかやめたい。
 滅茶苦茶にされた人生で最後まで自分の幸せのために、認められるために足掻いていたい。例え報われなかったとしても諦めたくない。日々、働きながら自己実現のため過ごしている。いつからこんなことをしているだろう。私が特別なことを成さず、ありのままであることは許されていない。辛くても絶えた、1人で背負って我慢した、境遇を理由にせずまっとうに生きた。諦めてしまえば、何一つ報われることなく不��なまま人生を閉ざすことになる。こんなに頑張ったのに誰にも認められずに終わるなんて、そんなバッドエンドに比べたら日々の孤独も苦しみもマシに思えてしまう。だから、諦められない。
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v--ish · 3 months ago
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境遇と人格形成
 他人と住む世界が違うという感覚。小学校の給食の時間、前の子が嘔吐した。虐待経験を経て嘔吐恐怖症を発症していた私は反射的に机を離してしまった。具合が悪くなり冷や汗がつたう。その時、当時大好きだった先生が「先生、そういうの嫌いだな」と言った。先生とみんなのあの目が忘れられない。同じ班の3人はティッシュを渡したり背中をさする中、自分は1人机を離していた。心無い子として教室に存在した。他人との隔たりをはっきりと感じた瞬間だった。それからも、誰も自分と同じじゃなかった。たとえば、嘔吐恐怖を抱えていると口に食べ物を入れる行為に強い不安やパニックが伴う。これは会食恐怖症として知られている。どうして給食が食べられないのか、話したって共感を得られない他人相手には説明が出来ず「お腹が空かない」と嘘をついていた。誰も自分と同じ経験をしていない、誰とも悩みが重ならない、誰とも苦しみを共有できなかった。此方から見たあなた達の世界は眩しく、水と油のように交われない。こちら側の人なんてきっと沢山いるはずなのに、一人として出会えなかった。
 母が「虐待をされるお前に原因がある。父と喧嘩になるのはお前のせいだ」と言った。両親に仲良くしてほしかったから、ネガティブな感情を殺して明るく振る舞うようになった。一度そう振舞うと元々どうしていたかわからなくなり、親の離婚後もそうあり続けた。そのまま人格形成され、大人になった今でもネガティブな感情を上手に見せられない。
 境遇は人格形成に大きな影響を及ぼす。それを考慮しても、哀れな境遇を背景に犯罪へと走ったり、子どもへ虐待を繰り返したなら終わりだ。どんな境遇だったとしても、そのせいでどれほど苦しかったとしても、他人を傷つけていい理由にはならない。事実この境遇の上で他人を傷つけず真っ当に生きている私に、「それは理解のない正論だ」などとは反論させない。お前達は自分の弱さを恥じなさい。
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v--ish · 3 months ago
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>弟
 弟とはいえ同学年で、数か月違いのきょうだいだった。彼について覚えていることはそう多くない。
・父の出張中は殆ど飲まず食わずで玄関に追いやられていた。玄関から続く廊下の直線上にはリビングがあり、弟はそこで美味しそうにご飯を食べて、楽しそうにゲームをして、笑いながら母親と話していた。羨望の眼差しで彼を見ていた。
・母に殴られ鼻血が出た際、洗面所で喉に溜まった血を吐いた。それを見た弟に、「NARUTOの真似?かっこつけすぎ!」と揶揄われた。
・椅子の高さは調整済みで、勝手にレバーをあげて高くすると暴力を振るわれた。(私のみ) ある日、私は誤って椅子の高さをあげてしまった。当時は体重が軽くて1人で下げることができず、パニックになっていた。そんな時、弟が一緒に乗って体重をかけてくれた。彼は私よりも体重が軽かった。結局帰ってきた母親にバレて、暴力を受けた。(私のみ)
・離婚後暫くは、引っ越した弟と元母の家に遊びに行っていた。ゼルダの伝説やドラゴンクエスト、他にも色んなゲームを一緒にやった。そんな日々はしばらく続いたのち、当然のように終わりがやってきた。
ーー
 当時、父は私と弟の両方を愛して母は弟だけを愛していたから、不公平に感じていたのを覚えている。父は弟を愛さなくて良いのに、そうしたら公平なのに、そんな風に思っていた。離婚後父は、「弟が可哀想だ。弟とは離れたくなかった」と、漏らしていた。 弟は中学に上がると、周りから煙たがられる存在となった。不良と絡み、制服を着崩した。私の友達から、「あいつは最近調子に乗ってない?〇〇、嫌いなんだよね」と弟の悪口を聞かされた。彼のことが心配だった。友達には勿論、元弟だとは言わなかった。何も言えなかった。
 君がずっと羨ましかった。けど、後になって考えるとわからなくなった。君は、私が虐待を受けている時、私のことで両親が喧嘩している時、何を思っていたの?自分だけ愛されて、きょうだいが虐げられて、何を感じていたの?「よかった、自分じゃなくて」そんな風に思う子なんかじゃなかった。 小柄で、素直な子だった。笑顔でピースをする彼の顔を覚えている。違う、笑顔しか思い出せない。もしかして、君も場を和ませようとしていたのだろうか。君視点ではどんな物語になっていたのだろう。 君はどうすることもできなかった、君は何も悪くなかった、君も幸せなんかじゃなかった。元気でいてください。
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v--ish · 3 months ago
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>虐待
 浮気した生みの親と父が離婚した後、沖縄から来た新しい母と連れ子の弟が家族になる。新しい母は血の繋がった弟を溺愛し私に虐待を繰り返した。
成績 頑張って良い点数をとった結果怒られていた。弟よりも成績が良いと、母はヒステリックになった。血のつながった弟よりも、私の方が良い成績を取ることが気に食わなかったそう。
玄関前廊下 家での定位置。学校から帰り、ランドセルを背負ったままそこに立つ。父が帰る前に居間に案内され、何事もないかのようにテレビを見て過ごす。父が帰らない日はそこで夜を明かす。
対照的な存在 精神的苦痛となったのは、優遇される弟の存在だった。私が粗末にされている間、彼は母にとても可愛がられていた。
 -性同一性障害 納得できる理由が必要だった。弟と比べ何がダメなのか考え、おんなのこだからかと思うようになった。女として成長する体に泣きながら抵抗したり、学校で男子として振る舞ったり、男子になりきりすぎた挙句仲良い女友達に恋愛感情を抱くという初恋をした。離婚後、性同一性障害は薄れていった。
暴力 1番シンプルに恐怖を与える手段。小さなことで怒られては当たり前のように暴力を受けていた。
浴槽 母は日々、何かで怒っていた。暴力をふるい謝罪を要求し、謝罪の言葉を間違えればタバコを置いて、浴室で泣く私の頭を掴んで冷水が張った浴槽に沈めた。鼻に水が入り苦しくなる、母はまたキッチンに戻りタバコを吸う。間違えないように謝罪の言葉をひねりだす。気に食わないと、また母はタバコを置き、以降繰り返し。
下着のまま外に出される マンションの一階に住んでいた為人通りはあったが、誰も通報しなかった。
持ち物を外に捨てられる 庭に私物を捨てられた。庭の土の上に、机の上の物や引き出しの中の物全部が散らばった。戻すのが面倒だった。
嘔吐物を食べさせられる 具合が悪く、母に朝ごはんを残していいか尋ねたら全部食べろと言われた。もどしてしまった後、「食べたくないから食べ物の上にもどしたんでしょ」と言われそれごと食べさせられた。学校に行くと、遅刻したことを咎められ、1日中具合が悪くトイレで何度ももどした。
飴 母は虐待を終えた後、優しくした。時には暖かい飲み物を出して「ごめんね、お父さんには言わないでね」と言い、優しくされた私は「お母さんはなんて優しいんだろう」と涙していた。父が気付くのが遅れた原因である。子どもは案外、虐待されているという認識を持てなかったりする。私もただ、自分が悪い子で困った子で、だから母を怒らせてしまっていると純粋にそう認識していた。
夫婦喧嘩 虐待発覚後、両親は時に流血を伴う激しい喧嘩をするようになる。私のために血を流した父に泣きながら駆け寄ると、「お母さんの方に行ってあげなさい」と言われた。母は私を施設に入れると主張し、夫婦仲はさらに悪化した。夫婦喧嘩が毎日のように起こる日々が続く中、母は私に「私たちの仲が悪くなったのはお前のせいだ」と言った。それから私は明るくふるまうようになった。両親に仲良くしてほしい、ただその一心で虐待問題はもうなくなったと思わせたかった。
-省略-
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v--ish · 7 months ago
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 1番古い記憶から書いていくと、必然的に生みの母親の話になる。彼女に関する記憶は全部で3つある。
・人生の1番古い記憶は、今や顔も覚えていない生みの親とその浮気相手と行ったディズニーランドの記憶だ。詳細なことは何も覚えていない、楽しかったのかどうかすら。ただ一つ覚えているのは、幼いながらに「誰だろう」と感じたことだけ。
・浮気相手の家の外で1人で待っていた事を覚えている。寒かった。こちらも物心つく前の事だったためか、その時の感情を含め詳細な記憶がない。
・彼女に関する最後の記憶は、お父さんと喧嘩している光景だった。幼いながらに、何故そうなっているのかなんとなく理解できた。寝室で、お父さんは私に「もうお母さんとは、離れなければならない」と涙ながらに言った。私は「はなれられて、よかったね」と、そう言った。涙するお父さんと慰める自分、その光景を覚えている。離婚時の母親に関する記憶はない。なんにもない。最後どうやって別れたか、言葉を交わしたのか、なんにも覚えていない。普通、母親と離れる娘が「よかったね」なんて父親を慰めるだろうか。詳細な記憶こそないものの、上記2つの記憶も含め相応の理由があったことは想像に容易い。
 恨んでなんかいない、元気にしているといいなと思っている。例えば、私の他にも子を成して血の繋がったきょうだいがどこかに存在しているかもなんて、浪漫があると思う。声も姿も顔も性格も思い出も何も覚えていない人に抱く感情なんて、たとえ生みの親であってもこの程度のものらしい。
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